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 ご存じのように、賢治の口語詩の大半には、作者によって「日付」が記入されています。全集の分類上、『春と修羅』「春と修羅 第二集」「春と修羅 第三集」に収められている口語詩には、(「白菜畑」「野の師父」という2つの例外を除き)全てに日付が記されており、作品数において、日付のない口語詩(「口語詩稿」「補遺詩篇I」などに分類)を、はるかに上回っています。
 口語詩以外の他の種類の作品においては、日付はここまで律儀には記されていませんが、それでも童話集『注文の多い料理店』に収められている9作品には全て「年月日」が付けられており、また「初期短篇綴」と称されている10作品には、(おそらく取材時と一次稿成立時の)二種類の「年月」が記入されています。

 なぜ賢治が、これほど小まめに自作品に日付を入れていたのかということが、まずは疑問として湧いてきますが、このことについて天沢退二郎氏は『宮澤賢治イーハトーブ学辞典』の「日付の問題2 [賢治的オブセッションとして]」という項目で、次のように述べておられます。

〔様々な口語詩を例示して「日付問題」の複雑さを論じた後〕
 以上、これらの事例から賢治詩における「日付」のオブセッションの、多元的なありようを垣間見ることができよう。
 そして、『第三集』の最終形態あたりから、賢治詩草稿から日付が消えはじめる(とりわけこの時期に多作される文語詩稿において)。このことは、すでに詩紙発表形で日付が除かれていたことと相まって、賢治詩が、不特定多数の読者へ開かれるにつれて、「日付」のオブセッションから解放されていったように思われる。

 つまり天沢氏は、賢治が自作に日付を記したことを、一種の「オブセッション」(=強迫行為)として、すなわち彼の「こだわり」や「とらわれ」として、解釈しておられるようです。となると、この日付には別に合理的な目的や意味があったわけではなく、賢治としては「なぜかそうしないと気がすまない」というような性癖として、自作に日付を記入していたのだということになります。

 たしかに、作品に日付が入っていても、一般の読者にとっては特に鑑賞の仕方が変わるわけではありませんし、また賢治自身も、その日付を後で何かに活用したような形跡はなく、これ自体には、具体的な「目的」や「意味」は見当たりません。『春と修羅』および『注文の多い料理店』の刊本において、作品が全て例外なく日付順に並べられているということには注目すべきと思いますが、しかし単に配列を決めるという目的のためだけであれば、作品に「年月日」まで書いておかなくても、原稿の順序さえ定めておけばよいはずです。
 したがって、この日付記入に特に深い意味はなく、それは単なる賢治の「習癖」だったのだろうという天沢氏の考えは、これはこれで十分に説得力のあるものです。

 ただ私としては、それでも一つ気になることが残ります。
 それは、天沢氏も書いておられるように、賢治は後半生の文語詩においては、もう全く日付は記入しなくなるのですが、しかしその一方、文語詩創作のために題材を整理する目的で作成した「「文語詩篇」ノート」という覚書は、それまでの自分の生涯を振り返る形で、「年」と「月」を明示する一定のフォーマットに則って記されており、ここで形は変えながらも、やはり賢治の「時間」へのこだわりが見てとれるのです。

「文語詩篇」ノートより

 上の画像は、『新校本全集』第13巻(下)から引用した「「文語詩篇」ノート」の見開きの一例ですが、右ページの右上に「1918」と書いてあるのが西暦の年号で、その左の「23」という数字は、この年の賢治の数え年齢です。その下に、「一月」「二月」…と「月」が書かれ、「三月」のところに「高農卒業」、「四月」には「地質調査」と、主要な出来事が記されています。
 左のページは、賢治がこのノートを逆向きに使っているため1918年ではなく1917年後半の記事なのですが、「八月」の欄に「瓜喰みくる子/母はすゝきの穂を集めたり」などと書かれてから×印が付けられています。この八月の記載内容は、文語詩「」そのものであり、ここに記した題材を文語詩として作品化し終わった印に、賢治は「×」を付けたのかと思われます。つまり、彼が文語詩「」として作品化した内容は、1917年8月に彼が実際に見た情景だったのだろうと考えられます。
 「「文語詩篇」ノート」の全ページは、このように1年を2ページにまとめた編年体で、賢治の人生上の出来事が順番に並べられており、彼はこれを「台帳」として、文語詩を創作していったのだと思われます。

 ということで、文語詩においてはその原稿に「日付」は記入されなくなったとは言え、ここでもやはり一つ一つの作品を時間軸の上に位置づけようとする賢治の意図は、明らかに存在するのです。
 「「文語詩篇」ノート」が「年/月」に従った配列になっている理由として、賢治にとってその方が自分の半生の出来事を回想しやすかったからだということも考えられなくはありませんが、しかし創作の題材をストックしておくだけならば、ここまで厳密に時間を特定しなくても、思い出した事柄を順不同に書き溜めていってもよいはずです。

 つまり、私が思うのはこういうことです。
 賢治が、口語詩の一つ一つに「日付」を記入した背景にも、文語詩創作のための「「文語詩篇」ノート」を規則的な編年体で構成した背景にも、一貫して流れ続けているのは、賢治が自らの作品を「時間」という軸にしっかりと結び付けておこうとする意思だったのではないでしょうか。

 しかしそれでは、作品をそのように時間軸に結び付けることの意味や目的は、いったい何だったのでしょうか。

 私はそれは、賢治が考えていた「四次の芸術」という構想と、関係があるのではないかと思います。
 すなわち賢治は、「農民芸術概論綱要」の終わりの方の「農民芸術の綜合」という項目で、次のように述べています。

……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……

巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす

 また、童話「マリヴロンと少女」では、これをもう少し具体的な形で、芸術家マリヴロンに次のように語らせています。

「…正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向ふの青いそらのなかを、一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでせうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじやうにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。」

 例に挙げられている「鳥の飛翔」ということについては、以前に「鳥とは青い紐である」という記事において、シャビ・ボウという写真家による画像とともに考えてみましたが、人間においては、生きているうちに三次元の空間において行った全ての活動に、その生涯における時間という第四の軸を加えて得られた、総計「四次元」の構造体こそが、「あらゆる人々のいちばん高い芸術」なのだというのです。

 このような考えに立ってみれば、賢治がその生涯において三次元空間の中で経験したこと、行動したことは、口語詩あるいは文語詩という形で、様々に修飾を受けながらも記録されているわけですが、この「記録」とそれが成された「時間」を正しく結び付けておけば、そこに「巨きな第四次元の芸術」が姿を現すということになります。

 つまり、賢治は自らの人生の記録とも言える口語詩や文語詩に、日付やノートによって時間の軸を紐付けすることで、ひそかに自分自身の「四次芸術」を作り上げておいたということなのではないでしょうか。

舎監排斥事件と「手紙 四」

 下写真は、賢治の「「文語詩篇」ノート」から、1913年1月の頁です。

「文語詩篇」ノート/寄宿舎舎監排斥

 「18」は賢治の数えの年齢で、年号「1913」の下には、次のように書かれています。

 一月  寄宿舎舎監排斥     橋本英之助  Pã

 かの文学士などさは苛めそ。
 家には新妻もありて心よりわれらの戯れごとを
                   心より憂へたり。
  なれらつどひて石投ぐる そはなんぢには戯なれども
  われには死ぞと云ひしとき 口うちつぐみ青ざめて
                         異様の面をなせしならずや。

 杉崎鹿次郎。 同。

 これは、賢治が盛岡中学4年の1月、生徒たちが寄宿舎舎監の排斥運動を起こし、学校側はその処分として、4年・5年の寄宿生全員に退寮を命じたという事件に触れたものです。これによって賢治も処分を受け、以後は清養院という曹洞宗のお寺に下宿することになりました。
 この舎監排斥運動においては、賢治もかなりの役割は果たしていたようで、詳細は不明のようですが、『【新】校本全集』年譜篇も、「指揮をとった黒幕参謀は賢治」という説を紹介しています。

 その関わりの程度はともかく、賢治にとってこの事件の記憶がどのようなものであったかは、後年に書いたこの「「文語詩篇」ノート」の記載から、うかがい知ることができます。
 すなわち、生徒から何らかの排斥的な仕打ちを受けた舎監の一人は、生徒たちの「戯れごと」を「心より憂へ」て、「なれらつどひて石投ぐる そはなんぢには戯なれどもわれには死ぞ」と言ったというのです。これは教師と生徒との関係とも思えないほど切実な言葉ですが、その時「口うちつぐみ青ざめて異様の面」をなしたのは、賢治自身だったのでしょうか。
 「年譜篇」にも、この「文学士の言葉は賢治の胸を衝いたようである」と付記されています。

 ところで、私は昨日たまたま賢治とは関係ない本を読んでいた時、この「なれらつどひて石投ぐる そはなんぢには戯なれどもわれには死ぞ」という言葉は、もとはあるイソップの寓話に由来していることを知りました。
 それは「少年たちと蛙」という題名の寓話で、Charles Stikeney による英語版では、‘The Boys and the Frogs’として、こちらで読むことができます。日本語への抄訳は、こちらのページに「52.少年たちと蛙たち」として収められています(いずれも、「イソップ」の世界 The World of Aesop より)。

 Charles Stikeney 版からちょっと訳してみると、下のような感じです。

     少年たちと蛙

 池のそばで遊んでいた少年たちが、水中にたくさんの蛙が泳いでいるのを見つけました。
 一人の子が、「蛙に石を当てられるか、やってみよう」と言い、みんなで石を投げはじめました。
 何匹かの蛙に石が当たって、とうとう一匹の蛙が水から頭を出して言いました。「みんな、どうかやめて下さい。私たちに石を投げるのは、あなたたちにしたらたいそう面白いことかもしれませんが、私たちにとっては、死なのです。私たちは、あなたたちに何も悪いことはしていないのに、ああ、あなたたちは私たちの家族を、もう三匹も殺しました。」

 盛岡中学の悪童たちの被害にあった舎監は、このイソップの寓話の一節を引用して、生徒たちに自覚を促そうとしたのでしょう。そしてそれは、少なくとも賢治の心には、とても痛切に響いたのだと思います。

 ところで、このように訴えて賢治に印象を与えた「文学士」とは、いったい誰だったのだろうか、ということが気になります。
 『【新】校本全集』の「補遺・伝記資料篇」に収められている「岩手県立盛岡中学校学校行事」と、「年譜篇」をもとにリストアップすると、この当時に寄宿舎の「舎監」をしていた教師は、千田宮治(国語・漢文)、服部品吉(国語・漢文)、杉崎鹿次郎(英語)、矢口恵之助(博物)、そして「舎監補助」に、津田清三(英語)の5人が、少なくともいたようです(括弧内は担当科目)。
 「文学士」ということで、「博物」担当教諭の矢口恵之助氏をまず除外すると、あとは「国語・漢文」と「英語」の教官が残りますが、上のようにイソップの寓話を引用しているところからは、「国語・漢文」ではなくて、「英語」の先生なのではないかという気がします。この寓話は、数あるイソップのお話の中では、さほど有名なものではなく、しかし英語の教材としてならば、当時の教師と生徒の間で共有されていた可能性があると思われるからです。
 「英語」担当だとすると、候補は杉崎鹿次郎・津田清三の2人に絞られて、杉崎鹿次郎教諭は、ノートの下段で「杉崎鹿次郎。同。」として登場することからすれば、上段の「かの文学士」とは、津田清三教諭のことだったのではないかと、とりあえず私は推測してみます。
 津田清三教諭は、舎監ではなく「舎監補助」ですが、生徒はそんな肩書など区別せずに悪戯を働いたでしょうし、津田氏はこの前年の1912年10月3日に盛岡中学に着任したばかりで、さらに12月21日に舎監補助に任命されたという「新入り」でしたから、生徒たちの格好の標的にされた可能性はあります。また「家には新妻もありて」というところも、この文学士が若かったことを推測させます。

 ところで下の写真は、1913年頃に寮の仲間たちとともに撮った写真で、賢治は後列の左から二人目です。これは、中央の人物が「寮旗」を持っていること、皆が胸に花を飾っていることから、退寮処分を受けた面々が、寮との別れに際して撮った「記念写真」かと推測されている一枚です。
 まあ、「青春の一コマ」ですね。

退寮記念写真?


 さて、「かの文学士」の詮索には限界もあるのでこの辺でやめておきますが、それよりも私がここでぜひとも注目しておきたいのは、「男の子が(残酷さの自覚なしに)蛙を石で傷つける」という、イソップ寓話のモチーフです。
 これは、賢治が妹トシの死後、おそらくサハリン旅行から帰って作成・配布した「〔手紙 四〕」という文章に、まさにつながっています。

 幼い妹ポーセを十一月に病気で亡くした少年チユンセは嘆き悲しみ、翌春には学校もやめて、働いていました。

チユンセはキヤベヂの床をつくつてゐました。そしたら土の中から一ぴきのうすい緑いろの小さな蛙が、よろよろと這つて出て来ました。
「かへるなんざ、潰れちまへ。」 チユンセは大きな稜石でいきなりそれを叩きました。
 それからひるすぎ、枯れ草の中でチユンセがとろとろやすんでゐましたら、いつかチユンセはぼおつと黄いろな野原のやうなところを歩いて行くやうにおもひました。すると向ふにポーセがしもやけのある小さな手で眼をこすりながら立つてゐてぼんやりチユンセに云ひました。
「兄さんなぜあたいの青いおべべ裂いたの。」 チユンセはびつくりしてはね起きて、一生けん命そこらをさがしたり考へたりしてみましたがなんにもわからないのです。・・・

 もちろん、「〔手紙 四〕」の中心的テーマは、妹トシの死でした。しかし、その話の中にことさら、無邪気な残酷さをもって「蛙を石で叩く」というエピソードが登場する背景には、寓話「少年たちと蛙」の記憶が、賢治にあったからなのではないかと、私には思えるのです。
 「なれらつどひて石投ぐる そはなんぢには戯なれどもわれには死ぞ」という言葉とともに、賢治の胸中には昔の舎監排斥事件をめぐって、心に刺さったトゲのような罪責感が残っていたのではないでしょうか。そしてそれがここの箇所で、トシを救ってやれなかった悔恨に混ぜ入れられているような、そんな感じが私はします。

過渡期の風習

 賢治が晩年に記した「「文語詩篇」ノート」の、1924年(大正13年)の頁に、下のような部分があります。

「文語詩篇」ノートp.29

 「三月」と書いて、その横に「過渡期の風習」と書き、X印で消してあります。この「過渡期の風習」というのは、いったい何のことだろうと思って、「春と修羅 第二集」の1924年3月の作品を、順に見てみました。
 この月には、「五輪峠詩群」の諸作品、「塩水撰・浸種」、「痘瘡」、「早春独白」が書かれていますが、私としてはこの中で、「塩水撰・浸種」という作品に描かれている事柄を、賢治は「過渡期の風習」と呼んだのではないかと思うのです。

 「塩水撰・浸種」の冒頭は、「陸羽一三二号」の種籾を塩水撰した後に、水に浸ける作業から始まります。

塩水選が済んでもういちど水を張る
陸羽一三二号
これを最后に水を切れば
穎果の尖が赤褐色で
うるうるとして水にぬれ
一つぶづつが苔か何かの花のやう
かすかにりんごのにほひもする
笊に顔を寄せて見れば
もう水も切れ俵にうつす
日ざしのなかの一三二号

 その繊細な描写からは、賢治自身がこの作業を、大切に、種籾を愛おしむように行っている様子が、目に浮かぶようです。

 作品ではこの後、おそらく花巻農学校から眺めた郊外の早春の情景が、見事にスケッチされます。青ぞらは広がり、まだ冷たい氷も少々残ってはいるものの、「乾田の雪はたいてい消えて」、春があちらこちらで萌えはじめています。この作品の「下書稿(一)」や、「下書稿(二)」の第一形態は、はじめ「村道」と題されていましたが、それらの段階では、このような景色の生き生きとした描写が中心になっていました。

 そして、作品の最後は、次のように締めくくられます。

今日を彼岸の了りの日
雪消の水に種籾をひたし
玉麩を買って羹をつくる
こゝらの古い風習である

 すなわち、彼岸の終わりの日には雪消の水で「浸種」を行い、「玉麩を買って羮をつくる」というのが、花巻近辺の「古い風習」だというのです。
 「下書稿(一)」の最後に、「大きな作のトランプ札の/まづ一枚が/今日おだやかにめくられる」とあったように、いま作者の目の前では、まさに季節が移り変わろうとしています。そしてそのような不思議な瞬間も、昔から人々の「暮らし」の習慣の中には、ちゃんと織り込まれてきたのだということを、作者はここであらためて感じています。


 さて、これらの「古い風習」に対するものとして、冒頭に登場する「陸羽一三二号の塩水撰」は、まさに「新しい試み」にあたります。
 陸羽一三二号は、賢治がとりわけ推奨した稲の品種として有名ですが、秋田県大曲の農事試験場陸羽支場においてこの品種が育成されたのは、この作品が書かれたわずか3年前の、1921年のことでした。冷害や病虫害に強く、反当収穫高も多いことから、東北地方の農業の専門家にとって、当時これは新たな期待の星とも言うべき稲だったのです。
 それから、「塩水撰」というのも、実は意外に新しい方法だったんですね。これは福岡勧業試験場長をしていた横井時敬という人が考案し、1891年(明治24年)に『重要作物塩水撰種法』という著書で、発表しています。
 童話「或る農学生の日誌」には、「一千九百二十六年三月二十〔一字分空白〕日」の項に、主人公の農学生が塩水撰をやるところが出てきます。この箇所を読むと、当時の一般の農家では、まだ塩水撰を行う習慣はなかったようなのです。「みんなも(塩水撰が)ほんたうにいゝといふことが判るやうになったら、ぼくは同じ塩水で長根ぜんたいのをやるやうにしよう。」と出てきます。

 ということで、「古いもの」と「新しいもの」とが、農作業や人々の生活の中に共存している様子を、賢治はこの日まさに実感して、これを「過渡期の風習」と呼んだのではないかと、私は思うのです。ちょうどこの作品に描かれたように、冬から春に季節が移る時期には、過渡的に「冬」と「春」が目の前で共存しているように。


 最後に、「彼岸の了りの日」に、「玉麩を買って羮をつくる」という風習について、少し調べてみました。
 花巻や岩手に関しては、はっきりしたことはわからなかったのですが、宮城県地方の郷土料理の「おくずかけ」というのが、これと同じルーツの料理なのではないかと思われました。こちらのページでは、宮城県岩沼市におけるその調理例を写真で見ることができます(またこちらは学校給食(仙台のお彼岸料理)として、こちらでは詳しいレシピも見られます)。
 当時の花巻の農家で作られるとすれば、ここまでたくさんの野菜を入れたかどうかはわかりませんが、いずれにしてもこれは彼岸や盆に精進料理として作られる汁物で、必ず「麩」も入っていますし、葛または片栗粉でとろみをつけるところは、「羮(あつもの)」と呼ぶにふさわしい感じです。
 ところで、ある情報誌の「麩」特集号の3ページめを見ると、全国でいちばん麩の消費量が多い地域は、何と東北地方で、その東北の「麩」消費量を月別のグラフで見ると、最高がお盆のある8月で、次が春の彼岸の3月なんですね。

 花巻あたりでは、今も「彼岸の了りの日」には、「玉麩を買って羮をつくる」という習慣は残っているのでしょうか。それとも、賢治の時代の「過渡期の風習」として、今はすたれてしまっているのでしょうか。

お正月に読んだ本(4)

「宮沢賢治研究 文語詩稿・叙説」 このお正月に読んだ本の中で、最も圧巻だったのは、島田隆輔著『宮沢賢治研究 文語詩稿・叙説』(朝文社)でした。
 帯のコピーによれば、「賢治作品のなか、二百数十篇に及ぶ文語詩に光を当て、まとめた著者十二年にわたる文語詩研究の書。校本宮澤賢治全集、新校本宮澤賢治全集の成果や賢治自身の直筆原稿などを綿密に辿り精査し、読み拓いた一書。」とのこと。まさに、そのとおりの労作です。

 部分的には、特定の作品・作品群を扱った「各論」的な論考も含まれていますが、全体の骨格をなしているのは、賢治の文語詩の全草稿に関して、用紙、筆記用具、紙面に記入された「了」や「写」などの記号などを手がかりにして、それらがいかにして成立していったかを綿密に跡づけていく、「総論」的な研究です。
 そこでは、書簡や他の作品と関連づけながら、厖大で複雑な草稿を時系列的に整理していくことで、下表のような5つの「層」が抽出されます。(下の表は、本書のものを横書きに変えて引用したもの。実際には、II と III の間の横罫線は点線に、III と IV の間の横罫線は太い実線になっています。)

 I プレ稿段階 丸善などの用紙に鉛筆起稿。符号なし
 II 初期稿[前]段階 26系・無罫・24系用紙上に鉛筆で起稿。ほとんどの稿に「了」印付与
 III 初期稿[後]段階 無罫・22系用紙上にインクで起稿。ほとんどの稿に「了」印付与
 IV 再編稿段階 22系・既使用用紙上展開。中に鉛筆や赤・藍・青インクの「写」印付与
 V 定稿(集) 定稿用紙に藍インクで清書。

 著者によるその調査の手際は、賢治がこのような場合にしばしば喩えたように、「地質学」的な作業も連想させます。また、このようにして作品の時間的推移の「形式」を分析することで、それぞれの段階において作者が何を考え、どのような構想のもとに推敲を進めていったかという、「内容」までが浮き彫りになってくるという有り様は、本当に見事なものです。

 そして、上の表のようなおおまかな見取り図を骨格として、「第一章 初期論」「第二章 再編論」「第三章 <写稿>論」「第四章 ウル定稿本文考」という順で、個別の作品の分析が進められ、本書の論が肉付けされていきます。第四章に至って、賢治が構想したと著者の推定する、内容別の「詩篇」区分試案が示されます。
 「附章」では、賢治の『文語詩篇ノート』の段階的な成立過程も分析されています。私などは、最初にまず『文語詩篇ノート』が完成してから、それをもとに文語詩の草稿が作られていった、などとばくぜんと思っていた感じですが、文語詩の起稿・推敲のプロセスと、『文語詩篇ノート』の成立との間には、動的な相互作用が想定されるわけですね。

 さて、巻末の「後語」において著者は、「本書は、宮沢賢治/文語詩稿の草稿段階を中心に、その成立過程に関する試論を提案するもの、いつか構想論にたどりつくための、私にとって、これはひとつの助走である。」と記しています。
 書名のとおり、この大著(534ページ)でも、まだ「叙説」にすぎないのでしょう。しかしその「本論」が現れた暁には、『春と修羅』に関して入沢康夫さんがなされたお仕事(「詩集『春と修羅』の成立」)や、また「春と修羅 第二集」に関して杉浦静さんがなされたお仕事(「宮沢賢治 明滅する春と修羅」)に相当する業績を、こんどは厖大な「文語詩」の領野に関して達成してくれることになるのではないかと、今から期待されるところです。

 ちょっと気は早いですが、今年の何らかの賞の有力な候補となることは間違いのない本だろうと思います。

『隣に居た天才―盛岡中学生宮沢賢治』 小川達雄著『隣に居た天才―盛岡中学生宮沢賢治』(河出書房新社)という本を読みました。小川さんは、昨年にやはり『盛岡中学生 宮沢賢治』という本を出版して、「宮沢賢治賞奨励賞」を受賞されました。これは、またその続編といった趣です。

 前著と同様、盛岡中学校に在学中を中心としたの賢治の日々が詳細にたどられますが、今回は前回以上に当時の短歌に密着しつつ、それを「『文語詩篇』ノート」「「東京」ノート」と丁寧に照合しながら、著者独自の関係者の取材もあわせて、興味深い指摘がなされていきます。

 第一章から第九章まで、それぞれの中心的な題材として取り上げられている短歌は、下記の通りです。

第一章 「藍いろに点などうちし鉛筆を銀茂よわれはなどほしからん」
第二章 「公園の円き岩べに蛭石をわれらひろへばぼんやりぬくし」
第三章 「のろぎ山のろぎをとりに行かずやとまたもその子にさそはれにけり」
第四章 「鬼越の山の麓の谷川に瑪瑙のかけらひろひ来りぬ」
第五章 「冬となりて梢みな黝む丘の辺に夕陽をあびて白き家建てり」
第六章 「家三むね波だちどよむかれ蘆のなかにひそみぬうす陽のはざま」
第七章 「志和の城の麦熟すらし/その黄いろ/きみ居るそらの/こなたに明し」
第八章 「いなびかりまたむらさきにひらめけばわが白百合は思ひきり咲けり」
第九章 「そのおきな/をとりをそなへ/草明き/北上ぎしにひとりすわれり」

 そして第十章は、「法華経開眼」と題して、高等農林入学前後の法華経との出会いを描いています。

 上に取り上げられた歌の多くは、中学生の日常の何気ない出来事を描いたようで、これまで文学的にはあまり注目されなかったものと思いますが、小川氏はこれらの歌と様々な材料をもとに、賢治の身辺の様子を活き活きと再現して見せてくれます。この本を読んでいると、小川氏が岩手公園に見つけた「円き岩」、のろぎ(滑石)を採取した南昌山、瑪瑙を拾った鬼越山など、賢治や友人たちが行動していた場所へ、いっさんに飛んで行きたくなってしまいます。
 なかでも、いちばん憧れをかきたてるのは、賢治が初恋をした看護婦のふるさととされている、日詰町とその城山(第七章)ですね。