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川村湊『温泉文学論』

 年末に出た、『温泉文学論』(川村湊著)という本を読みました。

 温泉文学論 (新潮新書 243)  温泉文学論 (新潮新書 243)
 川村 湊

 新潮社 2007-12
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 「温泉文学」などというジャンルがあるのか、などと難しいことは考えずに頁を開いていくと、各章ごとに、「尾崎紅葉『金色夜叉』…熱海(静岡)」、「川端康成『雪国』…越後湯沢(新潟)」などと、作家とその作品の題材となった温泉が取り上げられています。そしてその中の「第四章」が、「宮澤賢治『銀河鉄道の夜』…花巻(岩手)」になっているのです。

 と言ってもこの章では、童話「銀河鉄道の夜」について述べられているのではなくて、章全体の叙述形式が、あの「午后の授業」の教室において、先生がジョバンニやカンパネルラなどの生徒たちに授業をしている語り口になっている、という趣向です。
 内容は、大正時代の花巻において、鉄道や温泉・遊園地が建設されるに至った状況を簡潔にまとめた後、この「花巻温泉」と宮澤賢治の因縁が紹介されます。賢治の作品としては、「〔こぶしの咲き〕」(「詩ノート」)、「〔歳は世紀に曾って見ぬ〕」(「文語詩未定稿」)、「悪意」(「春と修羅 第三集」)、「〔ちぢれてすがすがしい雲の朝〕」(「詩ノート」)などの作品を紹介・引用して、賢治が花巻温泉に対して抱いていた複雑な心理が解き明かされていきます。
 そして、最後では賢治の思想や行動に関しても、著者なりの総括と時代への位置づけがなされています。

 この著者の作品では、以前に『異郷の昭和文学―「満州」と近代日本―』(岩波新書)という本を、興味深く読んだことがありました。
 今回の本は、それよりもっと気楽に読めて、各章の末尾には、【本】とか【湯】とか【汽車】とか、その作品が掲載されている書籍や当該温泉の説明、温泉へのアクセスなどを紹介するコラムも付いています。著者はこの本を書くにあたって、「取りあげる温泉に必ず一度は行く」というルールを作って執筆したそうで、そういう臨場感も漂ってきます。
 本書のカバー見返しに書かれているコピーによれば、「本をたずさえ、汽車を乗り継ぎ、名湯に首までつかりながら、文豪たちの創作の源泉をさぐる異色の紀行評論」となります。

 それこそ、温泉旅行の鞄の中に入れておいて、汽車の中ででも読むのにちょうどいい感じの本ではないでしょうか。

1912年修学旅行の平泉

 賢治は、1912年の5月27日から29日、盛岡中学の修学旅行で、松島~仙台~平泉を訪ねました。下の写真は、賢治が後年になって、文語詩創作のために「自分史」をメモしていた、「「文語詩篇」ノート」の一部です。

「文語詩篇」ノートp.7

 上の内容を活字化すると、下のとおりです。

四月   中学四年

五月 仙台修学旅行
伯母ヲ訪フ。松原、濤ノ音、曇リ日
                 磯ノ香
伯母ト磯ヲ歩ム。夕刻、風。落チタル海藻
          岩ハ洪積
中尊寺、偽ヲ云フ僧 義経像 青キ鐘

 上二段は、旅行中に許可を得て、一人で病気療養中の伯母平賀ヤギを見舞った時の情景を記していて、三段目は、旅の三日目に当たる5月29日に、平泉の中尊寺を訪ねたことに関する記録のようです。

 この時の中尊寺を題材として詠んだ短歌に、次の二首があります。

8 中尊寺
  青葉に曇る夕暮の
  そらふるはして青き鐘鳴る。

9 桃青の
  夏草の碑はみな月の
  青き反射のなかにねむりき。

 「桃青」は松尾芭蕉の俳号の一つで、「夏草の碑」とは、「夏草や兵どもが夢の跡」という有名な句の「句碑」のことと思われます。この句は、中尊寺からほど近い「高館」において、源義経が自刃したことを偲んで、芭蕉が詠んだものです。

 一方、同じ時の体験にもとづいた文語詩として、「中尊寺〔二〕」があります。

  中尊寺〔二〕

白きそらいと近くして
みねの方鐘さらに鳴り
青葉もて埋もる堂の
ひそけくも暮れにまぢかし

僧ひとり縁にうちゐて
ふくれたるうなじめぐらし
義経の彩ある像を
ゆびさしてそらごとを云ふ

こちらの作品は、「「文語詩稿」ノート」にある「偽ヲ云フ僧 義経像」という部分に関係がありそうですね。


 さて、私は先日の旅行の際に、これらの作品に描かれている場所を、実際に訪ねてみました。
中尊寺鐘楼 まず、最もわかりやすいのは、「短歌8」などに「青き鐘鳴る」として登場する「鐘」で、これは中尊寺の参道である「月見坂」をほぼ登りきったところにある、「鐘楼」(右写真)の鐘と考えられます。
 説明板に書かれた「由緒」には、次のように記されています。

 「当初は二階造りの鐘楼であったが、建武四年(1339)の火災で焼失。梵鐘は康永二年(1343)の鋳造。銘に中尊寺の創建や建武の火災のことなどを伝え貴重である。
撞座(つきざ)の摩耗はなはだしく、今ではこの鐘を撞くことはほとんどない。
  鐘身 高さ113.2cm
  口径86cm
  基本振動123サイクル
  全音持続50秒」

中尊寺本堂梵鐘 あと、中尊寺にある「鐘」としては、本堂の横にも立派な梵鐘があります(右写真)。この鐘は1975年に作られたもので、これ以後は「除夜の鐘」も含めて、こちらの新しい鐘が使用されているのです。
 しかし、賢治が訪れた1912年には、当然ながら上の古い方の鐘が、まだ現役で使用されていたわけです。

芭蕉句碑「五月雨の降のこしてや光堂」  次は、「短歌9」に出てくる「桃青の夏草の碑」です。
 じつは中尊寺にも、金色堂の傍らに芭蕉の句碑はあるのですが(右写真)、碑になっているのは、「五月雨の降のこしてや光堂」という句で、「夏草や…」ではないんですね。
 そこで、中尊寺近辺で「夏草や…」の句が刻まれている碑を調べると、1.5kmほど南の「毛越寺」に三つ、および1kmほど南東の「高館」に一つありました。

 このうち、「高館」にある句碑は、毛越寺芭蕉英訳句碑1989年の「奥の細道300年 平泉芭蕉祭」の際に建立されたものですから、賢治が目にした可能性はありません。また、「毛越寺」にある三つのうち一つは、「夏草や…」の句を新渡戸稲造が英訳したものを刻んだ、珍しい英文碑ですが(右写真)、建立されたのは1967年で、これも賢治は見ていません。

 ということで、結局賢治が目にした可能性のある「夏草や…」の句碑としては、毛越寺にある下の二つということになります。

毛越寺芭蕉句碑「夏草や兵どもが夢の跡」

 ちょうど二つが並んで立っていますが、左側のものが芭蕉真筆の句碑で、最初は「高館」に置かれていたものを、1769年にこの毛越寺境内に移したもの、右側の碑は、平泉出身の俳人素鳥が、1806年に立てたものです。
 賢治も、この二つの碑を一緒に見たのでしょう。

 さて最後は、「「文語詩稿」ノート」にある「偽ヲ云フ僧 義経像」、あるいは「中尊寺〔二〕」の、「僧ひとり縁にうちゐて/ふくれたるうなじめぐらし/義経の彩ある像を/ゆびさしてそらごとを云ふ」です。
 これらから推測されるのは、僧の守る「堂」があって、その中に「彩色された義経の像」があったという状況です。ところで「義経の像」といっても、「画像」なのか立体的な「像」なのか、これだけからは何とも言えません。中尊寺伝源義経公肖像

 そこで、まず「画像」の方から考えてみると、中尊寺に所蔵されている源義経の肖像画としては、「伝源義経公肖像」(右写真)という絵と、「源義経公東下り絵巻」があります。
 これらはいずれも「彩ある像」ですが、どちらも古い貴重な文化財的絵画ですから、僧一人がいるような小さな堂において、一般の中学生に自由に見せていたとは、ちょっと考えられません。したがって、賢治が目にしたのは、何らかの立体像だったのではないかと思われます。

 ということで、中尊寺やその近辺にある源義経の彫像について調べると、それは二つあって、一つは、義経が最期を遂げたという高館の「義経堂」にある、源義経像です(下写真)。

高館義経堂・義経像

 そしてもう一つは、中尊寺の「弁慶堂」にある、弁慶と義経の並んだ像です(下写真)。

中尊寺弁慶堂・弁慶義経像

 この二つの像も、いずれも「彩ある像」で、この様子だけからは、賢治が見たのがどちらだったかを判断することはできません。
 しかし、「中尊寺〔二〕(下書稿(一)」を見ると、「義経の経笈を守る」という一節があり、賢治が見た義経像と一緒に、「義経の経笈」が保存されていたということがわかります。
弁慶堂由緒 一方、「弁慶堂」の「由緒」(右写真)を見ると、終わりから3行目に「安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある」と書いてあり、(その真贋はともかく)義経が背負っていたという「笈」が、宝物とし陳列してあることがわかります。

 すなわち、賢治が見た「義経の彩ある像」とは、写真では下の方の、中尊寺弁慶堂にある義経像だったのではないかと推測されるのです。そして、「青葉もて埋もる堂」とは、「弁慶堂」のことだったと思われます。

 地図に記入してみると、(A)は中尊寺鐘楼、(B)は中尊寺弁慶堂、(C)は毛越寺芭蕉句碑です。

 賢治たち修学旅行の一行は、中尊寺だけではなくて、毛越寺も訪ねていたわけですね。
 『【新】校本全集』年譜篇によると、この日の帰途において、一同は汽車に乗り遅れそうになって駆け足で停車場へ急ぎ、夜11時25分に盛岡駅に着いたということです。この列車は臨時列車だったということで、平泉駅発の時刻は「補遺伝記資料篇」を参照してもわかりませんが、別の列車は平泉から盛岡まで2時間51分かかっていることからすると、夜8時半頃に平泉駅を発車したのではないかと思われます。
 毛越寺は、中尊寺から平泉駅に向かう途中にありますが、上の列車時刻からすると、一行は午後8時頃まで毛越寺にいたのではないでしょうか。5月末の、日の長い季節とはいえ、この時間にはあたりはかなり暗くなっていたでしょう。

 その暗さを思えば、「夏草の碑はみな月の/青き反射のなかにねむりき。」という情景描写が理解できる気がします。

源五沼のサイクルホール

 「風の又三郎」の初期形「風野又三郎」に、次のような箇所があります。

 竜巻はねえ、ずゐぶん凄いよ。海のには僕はいったことはないんだけれど、小さいのを沼でやったことがあるよ。丁度お前達の方のご維新前ね、日詰の近くに源五沼といふ沼があったんだ。そのすぐ隣りの草はらで、僕等は五人でサイクルホールをやった。ぐるぐるひどくまはってゐたら、まるで木も折れるくらゐ烈しくなってしまった。丁度雨も降るばかりのところだった。一人の僕の友だちがね、沼を通る時、たうたう機みで水を掬っちゃったんだ。さあ僕等はもう黒雲の中に突き入ってまはって馳けたねえ、水が丁度漏斗の尻のやうになって来るんだ。下から見たら本当にこはかったらう。
 『ああ竜だ、竜だ。』みんなは叫んだよ。実際下から見たら、さっきの水はぎらぎら白く光って黒雲の中にはいって、竜のしっぽのやうに見えたかも知れない。その時友だちがまはるのをやめたもんだから、水はざあっと一ぺんに日詰の町に落ちかかったんだ。その時は僕はもうまはるのをやめて、少し下に降りて見ていたがね、さっきの水の中にいた鮒やなまずが、ばらばらと往来や屋根に降ってゐたんだ。みんなは外へ出て恭恭しく僕等の方を拝んだり、降って来た魚を押し戴いてゐたよ。僕等は竜ぢゃないんだけれども拝まれるとやっぱりうれしいからね、友だち同志にこにこしながらゆっくりゆっくり北の方へ走って行ったんだ。まったくサイクルホールは面白いよ。

日詰と五郎沼 「日詰の近く」に「源五沼」という名前の沼は実在はしませんが、これは日詰駅の南にある「五郎沼」をモデルにしているのだろうと思われます。

 五郎沼と「竜巻」との関連は、賢治の作品では「産業組合青年会(草稿的紙葉群)」の最後に、「こゝはたしか五郎沼の岸だ わたくしはこの黒いどてをのぼり/むかし竜巻がその銀の尾をうねらしたといふその沼の夜の水を見やうと思ふ」として出てきます。
 また、上記作品の文語詩改作形である「水部の線」には、「竜や棲みしと伝へたる/このこもりぬの辺を来れば・・・」とあって、ここでは「竜巻」でなくて「竜」が棲んでいたとされているんですね。

 実際に、五郎沼に関連してそのような伝説が存在していたのかということに興味を引かれますが、これについて栗原敦さんは、このあたりの地元の「お菊の水」という話を紹介しておられます(『宮沢賢治 透明な軌道の上から』,新宿書房)。
 それは、「紫波郡片寄のマタギ十兵衛に殺された五郎沼の主の大蛇が、十兵衛のもとに娘となって生まれて来るが、21の年に正体が現われ大暴風雨を起こして飛び去っていった」というものだそうです(「花巻(3)~日詰」も参照)。

 「お菊の水」の悲劇は、童話「風野又三郎」では、子供らしい悪戯の冒険譚として、生まれ変わっているわけですね。

文語詩「隅田川」の舞台

 連休前とあって、なかなか更新の方に手がまわらず申しわけありません。

 ところで先日、東京の西ヶ原へ行った際に、近くの隅田川を見に行ってみると、あにはからんや、「隅田川」という作品に出てくるような「泥洲」や「芦」など、これっぽっちもない場所だったという話については、「西ヶ原など」という記事に書きました。
 賢治が関豊太郎博士を農事試験場または自宅に訪ねて、そこから一緒に隅田川へ行ったのなら、西ヶ原から近い場所だったろうなどという憶測は、机上の空論にすぎなかったわけですね。さらに、この西ヶ原のあたりを流れている川は、現在はもちろん「隅田川」と呼ばれていますが、大正時代にはこれは隅田川ではなかったようで、その意味でもこれは空しい論でした。


 秩父の山あいから流れてきた荒川は、現在の地図では埼玉県と東京都の県境近くにある「岩淵水門」で荒川と隅田川に分かれ、二川とも都内を南に流れて、東京湾に注ぎます。現在の河川法において「隅田川」とは、この岩淵水門から河口までの、23.5kmの流れのことです。
 一方、岩淵水門より下流で現在「荒川」と呼ばれている川は、1930年(昭和5年)に「荒川放水路」として、人工的に掘削された水路でした。そしてそれ以前は、岩淵水門から下流は、現在の隅田川の水路の方が実は「荒川」だったのです。

 そうなると、いったい「隅田川」はどこにあったんだ、ということになりますが、この「隅田川」という名前は、法律的には「荒川」であった河川の一部に対する「通称」だったのだそうです。通称ですからその正確な範囲は特定しづらい面はありますが、おおむね千住大橋より上流は「千住川」、千住大橋から両国橋までの間が「隅田川」、両国橋から下流は「大川」と呼ばれていた、というのが昭和5年「荒川放水路」完成までの実態のようです。
 すると、西ヶ原のあたりを流れている現在の「隅田川」は、大正時代には正式には「荒川」、通称では「千住川」だったということになってしまうわけですね。

 で、ここで問題は、大正時代に「隅田川」と呼ばれていた範囲において、賢治の文語詩にあるように人が踊れるような「泥洲」があったり、「芦」が生えたりしていた場所は、はたして実際にあったのだろうか、ということです。

 現在の隅田川で、千住大橋から両国橋の間には、そのような場所は残念ながらないようです。これはもちろん川岸に沿って歩いてみれば確認できることですが、現代では Google Earth の衛星写真によって、鳥瞰してみることもできます。
 下の写真は、言問橋や隅田公園のあたりの画像です。(クリックすると、より大きな画像が開きます。)

言問橋・隅田公園

 このようにして、隅田川に沿ってずっと上空から調べても、現在は「泥洲」や「芦原」はどこにもないのです。

 もちろん現代の隅田川にそれらが存在しないからと言って、大正時代の隅田川にもなかったとは言えません。正確には、昔の写真などをたくさん集めて調べてみるしかないでしょう。
 しかし、荒川放水路が開削される以前は、隅田川(当時の「荒川」)の水量は、現在よりも多かったはずですから、隅田川の川幅が変わっていないとすれば、水深は今よりも深かっただろうと推測されます。やはり「泥洲」や「芦原」は、存在しなかったのではないでしょうか。

 すなわち、賢治が文語詩「隅田川」に書いた花見の場所は、実際には当時の隅田川ではなかったのではないかと思われるのです。
 宮沢俊司氏が、『宮沢賢治文語詩の森 第二集』所収の「隅田川」評釈において、この作品の舞台を隅田川べりではなく、当時造成中の荒川放水路脇の「荒川堤」ではないかとの説を提唱しておられるのも、このような状況からして有力な考え方であると、あらためて思います。


 それから最後に、もしこの作品が隅田川ではない場所での出来事を描いているのだとすると、なぜ賢治はこれに「隅田川」という題名を付けたのだろうか、という疑問が残ります。
 一つの可能性としては、賢治が晩年になって若い頃の短歌を文語詩に改作した際、これは隅田川での出来事であったかのように何となく「勘違い」をしていたのではないか、ということが考えられます。東京の川べりの花見の記憶が、つい「桜の名所」を連想させてしまったのかもしれません。
 一方、もしもこの場所が隅田川ではなかったことを賢治が知っていて、それでもわざと作品を「隅田川」と名付けたとすればどうでしょうか。その場合は、替え歌「隅田川」のページにちょっと書いたように、賢治はこの詩を滝廉太郎の「花」のパロディーとして書いてみた、というような仮説も出てくるわけですが、でもこれは現実には賢治の「勘違い」なんでしょうね。

花巻(3)~日詰

 今日は、青空も広がっています。ホテルの1階の「マグノリア」と名づけられた小さなレストランで朝食をとって、2晩泊まった宿をあとにしました。結局、ネット環境は快適でしたが、グランシェールに比べると眺めや部屋の造りでは一歩譲ります。賢治詩碑からは、より近い場所でした。

 駅で荷物をコインロッカーに入れると、9時23分花巻発の下り普通列車に乗り、3つめの駅である「日詰」で降りました。
 この日詰の駅は、本来の日詰の町並みからはかなり南はずれに位置していますが、これは1890年に東北線が盛岡まで開通した時、町の人々は「近くに駅ができると汽車の火の粉で火事になる」と駅舎建設に強く反対し、当時の隣村の赤石地区に追いやってしまったのだということです。おかげで、今日の最初の目的地である「五郎沼」に行くのには好都合になっています。

 日詰駅から雪道を数百mほど南に歩いたあたりで、時折「ガーガー」という水鳥系の鳴き声が聞こ五郎沼1えはじめました。薬師神社の前を通りすぎると、目の前には一面凍結して、雪の積もった五郎沼が現れました。その広い雪原には、白鳥と鴨がたくさん鳴きかわしています。この五郎沼は、冬は白鳥の飛来地になるのです。
 鳥たちは人によく慣れていて、私たちが岸辺に向かっていくと、白鳥も鴨も自分から近寄ってきます。しかし何もえさをくれないとわかると、また離れていきます。

 今日、まずこの五郎沼に来てみた理由は、「春と修羅 第二集」所収の「産業組合青年会」の元となった「草稿的紙葉群」と呼ばれる下書きの終わりの方に、「こゝはたしか五郎沼の岸だ」などの記述があり、この夜に賢治が一人でこの沼へやってきたと思われるからです。
五郎沼2 「このまっ黒な松の並木を/はてなくひとりたどって来た」とか「くっきりうかぶ松の脚」という字句も出てきますが、実際に沼の西岸には、松の並木があり(右写真)、賢治はこの沼の西側の道を歩いたのかと推測されます。
 「むかし竜巻がその銀の尾をうねらしたといふその沼・・・」という部分もありますが、これについては栗原敦さんが調査をされ、「お菊の水」という地元の伝承があって、「紫波郡片寄のマタギ十兵衛に殺された五郎沼の主の大蛇が、十兵衛のもとに娘となって生まれて来るが、21の年に正体が現われ大暴風雨を起こして飛び去っていく、という話を記載しておられます(『宮沢賢治 透明な軌道の上から』)。この「草稿的紙葉群」からは、後に文語詩「水部の線」も生まれていますが、ここでも「竜や棲みしと伝へたる/このこもりぬ」として出てきます。「こもりぬ」という言葉から想像していたよりは、周囲の開けた沼でした。

二羽の白鳥 ところで、「草稿的紙葉群」と「水部の線」に共通するのは、一種の「恋心」のような作者の思いです。とりわけ「水部の線」においては、「きみがおもかげ うかべんと・・・」と、「きみ」という二人称まで出てきます。またその推敲の途中では、題名が「おもかげと北上川」とされた段階もあります。
 はたしてこの「おもかげ」の「きみ」とは、誰か具体的な人を指しているのでしょうか。この夜、賢治の心にあったのは、いったいどんな記憶だったのでしょうか。

 ここで私がどうしても気になるのは、この五郎沼は日詰の町の近くにある、ということです。日詰というのは、昨日も少し触れたように、賢治の初恋の人が生まれ育った町ではないかと推測されている場所なのです。

 次は、志賀理和気神社その日詰の町に向かうことにします。五郎沼をあとにして、国道4号線を北に向かって歩き、途中ではこの地方で由緒正しい「最北の延喜式・式内社」である「志賀理和気神社」(右写真)にも立ち寄りました。
 結局、沼から都合3kmほど歩くと、「日詰商店街」に入りました。「銭形平次」の作者である野村胡堂の出身地ということで、町のあちこちに「銭形平次のふるさと」というコピーが掲げられています。商店街の人々は、やっと晴れ間がのぞいたことに安堵するかのように、道路の雪かきに精を出しています。

 もちろん、日詰出身の高橋ミネさんという看護婦が、賢治の初恋の相手であったという確証はまだ見つかっていないのですが、賢治がある時期この町の「城山」を眺めつづけていたことを思うと、やはり私もこの町を見てみたくなったのです。
 小川達雄氏の『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』によれば、「ミネは明治29年に日詰町の仲町、以前中央バスの営業所があった所の八百屋『高福』に生まれています」とのことです。「以前中央バスの営業所があった所」というのが私にはどこかわかりませんが、検索でたまたまヒットしたこちらのページを見ると、現在の店舗名がわかりました。あと、商店街の地図で確認すると、なんとか行けそうです。

八百屋「高福」があった場所 さて、商店街に入って歩いて行くと、店はネットで見つけた地図のとおりに並んでいます。500mほど進んだあたり、右写真の2軒のお店の場所が、以前のバス営業所、そしてその昔に八百屋「高福」があったところです。ここで、賢治の初恋の人が生まれ育ったのかもしれないのです。
 まあ、ここに行って見てみたからどうなるというものでもないのですが、でも確かめることができると、なんとなくホッとしました。はたして賢治自身は、ここに来てみたことはあったのでしょうか。

 「産業組合青年会」という作品は、賢治が五郎沼の近く、すなわち日詰のあたりの青年会か何かに出席して、何らかの講演をした際の出来事がもとになっていると推測されます。「今日のひるまごりごり鉄筆で引いた/北上川の水部の線」という一節からは、講演のために自分でこの地域の地質図か何かを作成していたのかとも思われます。
 会合そのものは、賢治にとってかなり耳の痛い言葉も出るものだったことが作品から感じとれますが、その終了後に、賢治は不思議な高揚感を感じつつ、一人で五郎沼の近辺を歩いたのでしょう。

 作品の中の「きみがおもかげ」という言葉は、賢治が過去において出会い、その後は長らく会っていない人物を想像させます。そしてその人への思いの表現の仕方は、やはり恋心と解釈せざるをえません。
 そうなると私としては、岩手病院における「初恋」のことがどうしても思い浮かぶのです。この日、たまたま講演に呼ばれて日詰の近くまで来たことが、賢治のはるか昔の記憶を呼び覚ましたのではないでしょうか。そして、あらためてかの人の「おもかげ」を浮かべ追憶にひたろうとして、一人で沼までやってきたのではないでしょうか。
 また逆に、作品中にこのような表現が唐突に出てくることが、賢治の恋が五郎沼の近辺と何か関連があることを示唆しているとも言え、「日詰出身の高橋ミネ」説の間接的な補強になるのではないか・・・、などと思ったりもします。
 思えば、岩手病院に入院した「初恋」が1914年ですから、この作品の1924年まで、ちょうど10年がたっていたわけです。

 あれこれ勝手な空想の翼は広がりますが、謎を秘めた日詰商店街を後にすると、今度は「紫波中央」駅まで歩いて、JRに乗って花巻に戻りました。
 昼食は、不動大橋を南に渡ったところの「HAIKARA-YA」というレストランでとりました。ここは、ピザ焼きの専用の窯を備えているというのがセールスポイントの一つで、そのピザ(ゴルゴンゾーラやモッツァレラなどの載ったフロマッジオ)と、オムライスを食べました。さすがにピザは秀逸でした。

 その後、HAIKARA-YA から賢治詩碑まで歩いて、いちめん雪の広場と変わった羅須地人協会跡を歩きました。
 空港ロビーでは、高校サッカー決勝を中継しています。途中まで見て、16時25分に飛び立ちました。

雪の向こうに立つ賢治詩碑

お正月に読んだ本(4)

「宮沢賢治研究 文語詩稿・叙説」 このお正月に読んだ本の中で、最も圧巻だったのは、島田隆輔著『宮沢賢治研究 文語詩稿・叙説』(朝文社)でした。
 帯のコピーによれば、「賢治作品のなか、二百数十篇に及ぶ文語詩に光を当て、まとめた著者十二年にわたる文語詩研究の書。校本宮澤賢治全集、新校本宮澤賢治全集の成果や賢治自身の直筆原稿などを綿密に辿り精査し、読み拓いた一書。」とのこと。まさに、そのとおりの労作です。

 部分的には、特定の作品・作品群を扱った「各論」的な論考も含まれていますが、全体の骨格をなしているのは、賢治の文語詩の全草稿に関して、用紙、筆記用具、紙面に記入された「了」や「写」などの記号などを手がかりにして、それらがいかにして成立していったかを綿密に跡づけていく、「総論」的な研究です。
 そこでは、書簡や他の作品と関連づけながら、厖大で複雑な草稿を時系列的に整理していくことで、下表のような5つの「層」が抽出されます。(下の表は、本書のものを横書きに変えて引用したもの。実際には、II と III の間の横罫線は点線に、III と IV の間の横罫線は太い実線になっています。)

 I プレ稿段階 丸善などの用紙に鉛筆起稿。符号なし
 II 初期稿[前]段階 26系・無罫・24系用紙上に鉛筆で起稿。ほとんどの稿に「了」印付与
 III 初期稿[後]段階 無罫・22系用紙上にインクで起稿。ほとんどの稿に「了」印付与
 IV 再編稿段階 22系・既使用用紙上展開。中に鉛筆や赤・藍・青インクの「写」印付与
 V 定稿(集) 定稿用紙に藍インクで清書。

 著者によるその調査の手際は、賢治がこのような場合にしばしば喩えたように、「地質学」的な作業も連想させます。また、このようにして作品の時間的推移の「形式」を分析することで、それぞれの段階において作者が何を考え、どのような構想のもとに推敲を進めていったかという、「内容」までが浮き彫りになってくるという有り様は、本当に見事なものです。

 そして、上の表のようなおおまかな見取り図を骨格として、「第一章 初期論」「第二章 再編論」「第三章 <写稿>論」「第四章 ウル定稿本文考」という順で、個別の作品の分析が進められ、本書の論が肉付けされていきます。第四章に至って、賢治が構想したと著者の推定する、内容別の「詩篇」区分試案が示されます。
 「附章」では、賢治の『文語詩篇ノート』の段階的な成立過程も分析されています。私などは、最初にまず『文語詩篇ノート』が完成してから、それをもとに文語詩の草稿が作られていった、などとばくぜんと思っていた感じですが、文語詩の起稿・推敲のプロセスと、『文語詩篇ノート』の成立との間には、動的な相互作用が想定されるわけですね。

 さて、巻末の「後語」において著者は、「本書は、宮沢賢治/文語詩稿の草稿段階を中心に、その成立過程に関する試論を提案するもの、いつか構想論にたどりつくための、私にとって、これはひとつの助走である。」と記しています。
 書名のとおり、この大著(534ページ)でも、まだ「叙説」にすぎないのでしょう。しかしその「本論」が現れた暁には、『春と修羅』に関して入沢康夫さんがなされたお仕事(「詩集『春と修羅』の成立」)や、また「春と修羅 第二集」に関して杉浦静さんがなされたお仕事(「宮沢賢治 明滅する春と修羅」)に相当する業績を、こんどは厖大な「文語詩」の領野に関して達成してくれることになるのではないかと、今から期待されるところです。

 ちょっと気は早いですが、今年の何らかの賞の有力な候補となることは間違いのない本だろうと思います。

 「歌曲の部屋 ~後世作曲家篇~」に、「敗れし少年の歌へる」を追加しました。もちろん当サイト管理人は作曲家ではありませんので、このコーナーに拙作を入れるとはおこがましいかぎりですが、他に収める場所がないので、とりあえずここに置いておきます。内容としては、「敗れし少年の歌へる」の VOCALOID 版や、PDF 形式の楽譜を載せています。
 あと、普代村コンサートに関する岩手日報の記事が Web 上でも公開されていますね。

 ところで、昨夜の遅くに当サイトの総アクセス数が30万を越えたようです。開設からちょうど6年が経ちましたが、このような形のサイトになるとは、当初は想定していませんでした。
 これまでご覧いただいた方々、Web を通して出会った方々に、感謝申し上げます。

普代村へ(3)

 昨夜は、コンサート終了後ひきつづき同じ場所で行われた打ち上げ会で、「コーラスライオット風」と「北声会」の皆さんとともに、歌ったりして楽しい時間を過ごしました。妻と一緒に来ていた私は、会の終わりに花束までいただき、宿まで車で送って下さった金子さんに、「結婚式みたい」と冷やかされました。
 部屋で荷物を下ろしてからも、岩手日報の記者の方から取材の電話があったりしましたが、夜は比較的早く眠ることができました。

国民宿舎「くろさき荘」より 今朝は、窓から幻想的な海の景色を見た後、朝食をとって、あたりをしばらく散歩しました。
 「北緯40度のシンボル塔」や、黒埼灯台、アンモ浦展望台などを見て、チェックアウトをするとまずお隣の野田村にある「マリンローズパーク野田玉川」に向かいます。

 「マリンローズ」というのは、野田玉川鉱山から産出するバラ輝石に対して、鉱山権を取得した地元の会社が名づけた商品名です。
 賢治の時代にはこのような名前はありませんでしたが、「敗れし少年の歌へる」の四連めに「よきロダイトのさまなして・・・」として登場する「ロダイト」とは、このバラ輝石の学名「ロードナイト(Rhodonite)」のことと思われます。文語詩への改作前の「暁穹への嫉妬」においては、「あけがたのそら」が「薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて・・・」と描写されていますし、地質学者賢治としては、この鉱石がこの地区の特産であることを、当然知っていたはずだからです。
 上写真のように今朝の空も薄い赤みを帯びて神秘的で、これをバラ輝石に喩えたくなる賢治の気持ちはよくわかります。
 「マリンローズパーク」では、今回の「敗れし少年の歌へる」の記念にと、小さなバラ輝石の付いた指輪を妻に買い、いろいろと思い出の詰まった三陸を後にしました。

マルカンデパート「ソフトクリーム」 久慈から二戸まではJRバス、二戸から花巻までは新幹線と在来線で戻ってくると、マルカンデパートの6階展望食堂でソフトクリームを食べました。このソフトクリームは、花巻在住の人にとっては名物の一つのようですが、クリームがあまりにも高く盛られているためにそのままかぶりついて食べることは困難で、割り箸で食べていくのが通例になっています。左の写真で、下のコーンの部分はもちろん普通の大きさですが、これとクリーム部分のボリュームを比べてみて下さい。これが「大盛り」でも何でもなくて、140円で「ソフトクリーム」の食券を買えば運ばれてくるのです。
 食べてみると、たんに大きいだけでなくて味もなかなかよく、甘さはやや控えめですので、食後に二人で食べるにはちょうどよい感じでした。

 あと賢治詩碑とイギリス海岸にちょっと立ち寄り、午後7時に花巻空港を飛び立つと、8時半に伊丹に、10時前に京都に着きました。途中、少し「万両」に寄ってから家に帰りました。

普代村へ(2)

 羽田空港から搭乗するのは、朝7時50分発の青森県三沢空港行きの便です。6時に起きて、急いで仕度をして、6時半にホテルを出れば間に合うはず・・・だったのですが、出発ロビーに行ってみると、連休初日とあってあたりはものすごい混雑です。すべての自動チェックイン機や手荷物検査窓口に、長蛇の列ができています。
 まだ列の中にいるうちに、「7時50分の便の方はおられませんか」と呼び出され、別の窓口で手続きをしてもらうと、入場検査のあと搭乗口まではかなりの距離を走り、どうにか間に合いました。

 ところが、こんどは飛行機が定時になっても離陸しないのです。「搭乗可能人数よりも予約人数が多い(?!)」ためだそうで、「次の12時55分の便へ変更していただいた方には、現金1万円かマイレージ7,500を進呈いたします」と機内では何度もアナウンスが流れますが、時間はどんどん経っていきます。
 具体的にどうなったのかはわかりませんが、けっきょく離陸予定時刻から30分も過ぎた頃、「予約された方全員がお乗りになりました」とアナウンスがあり、飛行機が動き始めたのは40分遅れでした。
 この時点で、三沢空港から乗り継ぐ予定にしていたJR八戸線の列車には、間に合わないことがはっきりしてしまいました。

 機内では、今日のコンサートには大幅に遅刻してしまうことも覚悟していましたが、無事に着陸もしてくれましたので、まだ一応あきらめずにチャレンジはしてみることにしました。三沢空港からタクシーに乗り、途中で当初の計画に追いつくことができないか、行けるところまで行ってみます。
 国道45号線を走り、タクシーが八戸に着いたのも、やはり乗り継ぐ予定の列車が発車した後でした。しかし、差はかなり縮まっています。そしてその後の運転手さんのおかげもあって、なんとか久慈駅に12時前に着くことができ、ここを12時14分発という三陸鉄道の予定列車に、どうにか乗り込むことができたのです。
 これで当初の計画どおり、私たちは12時55分に普代駅に降り立つことができました。

 1月に来た時には二戸から久慈までバスに乗りましたが、今回八戸から海岸沿いに南下してきたところは、80年前の賢治のルートと共通です。賢治は花巻を夜に発ち、八戸線で種市に朝6時5分に到着すると、ここから徒歩で下安家まで南下したとも言われていますが、木村東吉氏は、当時八戸から久慈まで運行していた「乗合自動車」に、途中から便乗した可能性も指摘しています(『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』)。当時の乗合自動車の八戸から久慈までの所要時間は3時間30分だったということですが、今日のタクシーでは約1時間でした。

自然休養村管理センター入口 コンサート会場の「自然休養村管理センター」に着くと、1月の詩碑見学の際にお世話になった金子功さんが声をかけて下さいました。館内では合唱団がまだ最後のリハーサル中でしたが、代表の森田さんや事務局の金子さんも出てこられてご挨拶をかわし、こちらは三脚を立ててビデオカメラや録音のセッティングです。
 2時を少しまわった頃、増田岩手県知事夫妻も到着されて、コンサートが開演しました。

 今日、第17回の定期演奏会を迎える「コーラスライオット風」は、北三陸の3つの村にある、「コール・わさらび」(野田村)、「てぼかい合唱団」(普代村)、「しゃくなげ合唱団」(田野畑村)という3つの地元合唱団が、ことあるごとに合体して結成する合唱集団です。「ライオット(riot)」とは、英語で「一揆」のことで、江戸時代末期にこの地を中心に起こされた「三閉伊一揆」にちなんでいます。(三閉伊一揆については、田野畑村の公式サイトに絵入りの解説ページが、「歴史と人」というサイトに社会背景に注目した分析があります。)
 「コーラスライオット」=「合唱一揆」とは不思議な名前ですが、きっとこの命名には、「日本近世史上で唯一、勝利の証文を勝ち取った」と言われる三閉伊一揆に表れた民衆の力への深い共感、あるいは地方の文化に新たな「風」を吹き込みたいという団員の熱意が込められているのだろうと思います。私がお会いした合唱団のメンバーは、みんな「田舎の合唱団です」と謙遜しながらも、活動にかける思いの強さに関しては感動的でした。

 コンサートの構成は、まず「ステージ I 」で「コーラスライオット風」が秋にちなんだ3曲、それから「ステージ II 」では、盛岡から賛助出演の混声合唱団「北声会」による黒人霊歌、そして「ステージ III 」でふたたび「コーラスライオット風」による童謡3曲と「敗れし少年の歌へる」の披露、最後にエンディングで「コーラスライオット風」と「北声会」の合同合唱、というものです。
 会場は3つの村から詰めかけた人々で満員で、歌の合間には村長さんや知事の挨拶も入ります。知事のお言葉によると、この普代あたりの地区は、広い岩手県の中でも、盛岡からやって来るのにおそらく最も長時間を要する場所だということで、その昔「陸の孤島」と呼ばれたことも、あながち比喩ではありません。しかし、知事が公務の合間を縫って夫妻でコンサートに顔を出し、地元の人々と気軽におしゃべりをしている姿には、都会にはないような人々のつながりを感じました。

 さて、「敗れし少年の歌へる」のコーナーでは、金子さんから詩碑建立1周年にあたってのご挨拶の後、私にまで挨拶のマイクがまわってきました。今年の1月に普代にやってきた時の、金子さんや森田さんとの予想もしない「出会い」について、話をさせていただきました。
 私のような音楽の素人が、賢治の詩に曲を付けるなど誠に分不相応でおそれ多いことですが、賢治自身も音楽の才能や技術はともかく、自ら一人のアマチュア音楽家として歌曲を作ったりして楽しんでいたこと、落ちこぼれ音楽家のゴーシュが、やはり不思議な「出会い」を通して最後は音楽的達成をなしとげることなど、ちょっと弁解じみた話も付け加えました。

 挨拶が終わると、団員による詩の朗読に続いてピアノの前奏が始まり、ついに「敗れし少年の歌へる」が歌われました。その時になったらどんな気持ちがするだろうと、これまであれこれと考えていましたが、ゆったりとしたテンポで、しっかりと感情をこめて、合唱団の皆さんは歌って下さいました。
 終わったら拍手の中で、お辞儀をする指揮者や団員の方々とともに、私も立ってお辞儀をしていました。

コーラスライオット風

 文語詩「敗れし少年の歌へる」に曲を付けるにあたって迷ったことの一つは、三連めに出てくる「夜はあやしき積雲の/なかより生れてかの星ぞ」という部分で、「生れて」は「うまれて」と読むのか、「あれて」と読むのか、ということでした。

小沢俊郎『薄明穹を行く』より 当初私は、とりたてて考えることもなく「うまれて」と読んでいたのですが、小沢俊郎著『薄明穹を行く 賢治詩私読』(學藝書林,1976)のなかで、小沢氏が意識的に「あれて」とルビを振っておられるのを見て(右写真)、はたとその可能性に目を開かれました。
 現代の送り仮名の基準では、「うまれ」は「生まれ」と表記することになっていますが、賢治は「うまれ」と読ませる場合にも常に「生れ」と書いていますので(ex.「億の巨匠が並んで生れ」、「そしてその二月あの子はあすこで生れました」・・・)、送り仮名からこの二つのどちらの読ませ方を意図したのか、区別することはできません。

 そこで、意味としてはどちらの読み方が適切なのかということを考えるために、大野晋他編『岩波古語辞典』を参照すると、それぞれ次のように書かれていました。

あ・れ【生れ】《下二》 神や人が形をなして(忽然と)出現して、存在する。
うま・れ【生れ】《下二》 (1)誕生する。(2)鳥が卵からかえる。

 この語義を見ると、「星が雲の中から現れて・・・」という状況の描写としては、やはり小沢さんの読みのとおり、「あれて」の方がぴったりときます。
 また、音数的にも、「ナカヨリアレテ・カノホシゾ」で「七・五」となりますから、こちらの方が語調もよいですね。

 ということで、けっきょく歌の歌詞としては、「♪なかより、あれて~」として曲を付けることにしました、というご報告です。

 昨日につづいて、「札幌市」は賢治のいつの体験だったのか、という話から始めます。

 賢治の生涯の中から、彼が札幌市内の広場ですごした可能性のある日を選び出してみると、石本裕之さんの挙げておられる(2)修学旅行引率中の1924年5月20日火曜日午後、(3)その翌日1924年5月21日水曜日の午前、という二日のほかに、あと1923年8月の「オホーツク挽歌」行の復路途中、という可能性も否定できないというところまで、昨日は書きました。
 これも検討に加えたくなる理由は、上の(2)(3)は、基本的には生徒を連れており、スケジュール的にもかなり厳しいので、どうしても他の可能性も考えておきたいのです。

 しかし実は、「オホーツク挽歌」行の復路というのは、まだその具体的日程がほとんど明らかにされていないのでした。
 1923年8月7日の日付を持つ「鈴谷平原」に、「こんやはもう標本をいつぱい持って/わたくしは宗谷海峡をわたる」という一節があることから、賢治は8月7日夜21時に樺太の大泊港発の稚泊連絡船に乗り、8月8日朝5時に稚内港に着いたとする説が、かなり有力です。そして、8月11日の日付の「噴火湾(ノクターン)」が夜明け頃の描写であることから、この日の朝6時27分に函館桟橋に着く函館本線下り急行二列車に乗っていたと推定されています。
 この二つの「時」と「場所」は、それなりの確度をもって押さえておくことができるかもしれませんが、その二点の間の賢治の足跡は、まったく不明です。したがって、8月9日と10日のいずれか、または両方を、札幌ですごすことは理屈の上では可能です。ただその証拠は、まだ何一つありませんが。

 一方、上記で宗谷海峡を渡った日程に関しては、「7日夜大泊港発の便は強風のために欠航になり、賢治が乗船したのは隔日運航の次の便である9日夜だった」とする説もあります(松岡義和氏ら)。もしも賢治が、9日夜に大泊港を発っていると、10日朝5時に稚内港到着、そしてこれに連絡して稚内駅を午前7時25分に出発する上り列車が、実はそれから23時間かけて函館桟橋に向かう上記の「急行二列車」なのです。そしてこの列車はそのまま、11日未明に噴火湾を通過します。
 このように、連絡船と列車がきれいに一本につながるところも、「9日乗船説」のもっともらしさの一つなのです。
 ただし、その場合の帰結の一つとして、「オホーツク挽歌行の復路途中で、作品「札幌市」の体験があった」という可能性は、消滅します。賢治が稚内から函館まで一本の列車で向かったとすれば、もちろん札幌で下車している暇などないからです。

 これに対して、萩原昌好さんは『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』において「7日乗船説」を採り、その根拠の一つとして、1923年8月9日付けの「樺太日日新聞」記事(下写真)を引用しておられます。これによれば、賢治が大泊港から連絡船に乗ろうとしていた8月7日に、ちょうど貴族院議員16名の視察団が大泊で歓待を受け、「此宴終って後一行は同夜出帆の連絡船に搭乗帰途につきたる」と書かれているのです。
 すなわち、貴族院議員一行が7日夜に稚泊連絡船で大泊から稚内に渡ったというのですから、この夜の便は欠航せずに運航していたはずだ、というわけです。記事の最後の部分が切れてしまって、文章の最後まで読めないことだけがちょっと気になりますが、この論にはそれなりの説得力がありますね。

1923年8月9日「樺太日日新聞」

 さて、長くなってしまいましたが、ここからがやっと今日のブログで私が書きたかったことです。
 賢治の文語詩に、「宗谷〔二〕」というのがあります。現在、宗谷岬にその一部が詩碑としても建てられている作品です。

 この「宗谷〔二〕」の舞台は宗谷海峡の連絡船のデッキであり、賢治が宗谷海峡を渡ったのは「オホーツク挽歌」の旅における往復だけですから、やはりこの時の体験がもとになっていると考えられます。
 それが、サハリンに渡る往路(稚内→大泊)のことだったのか、北海道に戻る復路(大泊→稚内)のことだったのかを考えてみると、「はだれに暗く緑する/宗谷岬のたゞずみと/北はま蒼にうち睡る/サガレン島の東尾や」という一節で、宗谷岬が「緑」に、サガレン島が「蒼」に見えていることから、船の位置は、サハリンよりも宗谷岬の方に近いところにあると推測できます。そして、作品中の時刻が日の出直前、すなわちすでに連絡船の目的地到着が近い時間であるということをあわせて考えれば、これは大泊を夜に発ち稚内に翌朝着く上り便、賢治にとって「復路」だったことがわかります。

 この作品の眼目は、「髪を正しくくしけづり/セルの袴のひだ垂れて/古き国士のおもかげに/日の出を待てる紳士」という登場人物にあります。賢治はこの紳士の立派な装束と立ち居振る舞いに注目し、日の出に対する反応を観察していますが、確かに印象的な様子だったのでしょう。
 ここで上掲の新聞記事を見て私が思ったのは、賢治がサハリンの大泊から稚内に帰る時に「貴族院議員一行」が同船していたのだとすると、この「紳士」は、乗客の貴族院議員の一人だったのではないだろうか、ということです。
 きっと非常に物々しい団体だったことと思いますが、賢治は彼らが貴族院議員だということをはたして知っていたのでしょうか。わざわざ「国士」という言葉を使っているのは、実際のその身分を知らなかったのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 ということで、今日はちょっと石本裕之さんの『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』から離れてしまいました。同書「あとがき」の、「今これを読んでくださっている皆さんも、ぜひ想像をふくらませてみてください」という一文に、甘えてしまった結果です。

 次回はまた、石本さんの著書に戻りたいと思います。

 1ヵ月ぶりの歌曲の新規アップロードですが、ただしこれは賢治オリジナルの歌ではありません。
 彼の文語詩「隅田川」 というのが、私の頭のなかではどうしてもあの滝廉太郎による名曲「花」のメロディーで流れてしょうがないので、思い切って 「歌曲の部屋 ~別室~」に、 この替え歌の一種を「滝廉太郎「隅田川」 」として載せてみました。

関豊太郎博士 しかし、舞台設定の共通性といい、旋律と詩の適合性といい、 一方でまたその情景の極端な対照に漂うアイロニーといい、これはこれで面白いと思いませんか?

 この妙なお花見が、1921年4月の出来事であり、そこに登場する「踊る酔っ払い」が、盛岡高等農林学校元教授の関豊太郎博士 (右写真)だというのは、ほぼ定説と言ってもよいようですが、その具体的な場所と参加者に関しては、異説もあるようです。