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阿耨達池の水

 今日も蒸し暑く湿度は上昇したのに、雨は落ちない一日でした。梅雨にもかかわらず降水が少なく、これから水不足が気になる夏です。
 来月早々には、「四国の水がめ」早明浦ダムも貯水率ゼロになってしまうとのことで、先が心配ですが、今日は季節柄ちょっと涼しい話題を。

 賢治の詩で、いまの日本とは正反対に、大気は涼しく透明に澄みわたり、過冷却の水を満々とたたえた湖が描かれているのが、「阿耨達池幻想曲」(「口語詩稿」)です。
 その後半だけ、引用してみます。

赤い花咲く苔の氈
もう薄明がぢき黄昏に入り交られる
その赤ぐろく濁った原の南のはてに
白くひかってゐるものは
阿耨達、四海に注ぐ四つの河の源の水
  ……水ではないぞ 曹達か何かの結晶だぞ
     悦んでゐて欺されたとき悔むなよ……
まっ白な石英の砂
音なく湛えるほんたうの水
もうわたくしは阿耨達池の白い渚に立ってゐる
砂がきしきし鳴ってゐる
わたくしはその一つまみをとって
そらの微光にしらべてみやう
すきとほる複六方錐
人の世界の石英安山岩(デサイト)か
流紋岩(リパライト)から来たやうである
わたくしは水際に下りて
水にふるえる手をひたす
  ……こいつは過冷却の水だ
     氷相当官なのだ……
いまわたくしのてのひらは
魚のやうに燐光を出し
波には赤い条がきらめく

 この詩は「インドラの網」の関連作品とされていますが、「銀河鉄道の夜」における銀河の岸辺の情景をも連想させる描写ですね。「阿耨達池(あのくだっち)」は、「無熱池」「無熱悩池」とも訳され、チベット高原の伝説の湖ですが、現実の「マナサロワール湖」に比定されています。
 このマナサロワール湖は、賢治が読んでいたスヴェン・ヘディン著『トランス・ヒマラヤ』では「最も聖なる湖」と、河口慧海著『西蔵旅行記』では「清浄霊妙の湖」と記された、ヒンドゥー教や仏教の聖なる巡礼地でもあります。

 下の絵は、スヴェン・ヘディンの1906年~1908年の調査における100年前の「カイラス山とマナサロワール湖」の水彩画、さらにその下は、Google Map による現代の衛星写真です。2つならんだ湖の右の方の丸いのが「マナサロワール湖」、左が「ラカス・タル湖」で、「K」印のピンが付いているのが、「聖なる山」の「カイラス山」です。

スヴェン・ヘディン画「カイラス山とマナサロワール湖」

 詩「三月」(「口語詩稿」)において描かれた石鳥谷における肥料相談のフォロー・アップとして、賢治はその年の夏に石鳥谷方面の農家をまわって、さらに稲作の指導をしたようです。
 肥料相談の企画をした菊池信一あての、1928年7月3日付けの手紙(書簡[239])では、「それで約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして来年の見当をつけるだけのことにしやうと思ひます」とその予告をしていますし、菊池の「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」には、「暑い日盛りを幾度となくそれらの稲田を見廻られた」と記録されています。

 そしてこの時の、石鳥谷地区の稲田の見廻りにおける一コマを描いた作品が、「」(「口語詩稿」)であるようです。田んぼを見た後で、農家の縁側に腰をおろして、お茶を出されて一休み、という情景です。この作品の舞台が石鳥谷のあたりとわかるのは、後半の方に「松林寺の地蔵堂も/こゝから遠くないものだから」とあるからで、「松林寺の地蔵堂」というのは下の地図のように石鳥谷の西の方にあるのです。

 上図で、「A」は「肥料相談所跡」、「B」は昨年にできた「三月」詩碑、そして「C」が松林寺の地蔵堂です。
 この「夏」という作品でもそうですが、賢治はかわいい童子の姿から地蔵菩薩を連想することがしばしばあったようで、「市日」(『文語詩稿一百篇』)でも「地蔵菩薩のすがたして、/栗を食(た)うぶる童(わらはべ)と、…」と書いたり、「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」(「春と修羅 第二集」)では、妹(シゲ)の幼な子を創作劇に登場させて、地蔵菩薩の発心の物語を上演することまで空想しています。
 作品「夏」の冒頭には、「もうどの稲も、分蘖もすみ」と書かれていますが、「分蘖」というのは稲が成長とともに株分かれしていくことで、たまたま Web 上で見つけた「水稲分蘖の発生機構に関する一知見」という論文を参照すると、東北地方で稲の分蘖は7月下旬までに終わり、8月には株数はむしろ減少傾向となるようです。すなわち、この作品が書かれたのは、1928年7月下旬から8月初めあたりであることが推測されます。

 ちなみに、この年の8月10日頃に、賢治は結核に倒れて長い病床に就いてしまいます。その直前のエピソードだったわけですね。


 ところで、全集においてこの「三月」や「」が分類されている「口語詩稿」というカテゴリーは、「詩稿用紙に書かれているが、作品番号もスケッチ日付も伴っていない口語詩」のグループで、その意味では雑多な作品の集合なのですが、この「三月」や「夏」がそうであるように、1927年の後半から1928年の夏頃までの間に書かれたと思われる口語詩が、中にはかなり含まれているようです。

 「春と修羅 第三集」は、1927年8月20日の日付を持つ「〔何をやっても間に合はない〕」(作品番号一〇九〇)から、作品番号を失った「台地」(1928.4.12)、「停留所にてスヰトンを喫す」(1928.7.20)、「穂孕期」(1928.7.24)という最後の三作まで大きく日が飛んでいます。また「詩ノート」も、1927年9月16日の「藤根禁酒会へ贈る」をもって最後になってしまいます。
 しかし、この間の空白に見える1927年後半から1928年夏まで、賢治の詩作エネルギーが衰えていたわけではないことは、「三原三部」や「東京」詩群とともに、この「口語詩稿」の諸作品が示してくれていると思います。ちなみに「口語詩稿」には、「肥料相談」をテーマとした作品だけを見ても、「三月」に加えて「火祭」や「〔湯本の方の人たちも〕」などがあります。

 思えば、1927年の秋以降は、羅須地人協会としての目立った活動は何も行われなくなり、協会活動には必須の備品であったはずの謄写版印刷器も、1928年2月の普通選挙を前に、賢治は労農党支部に寄付してしまいました。
 青年を対象とした「私塾」的「組合」の創設という当初の目標には行き詰まりを感じた賢治は、1928年以降は、広く一般の農民を対象とした「肥料設計相談」という活動によって、農業の進歩に貢献しようという方向へと、自らの活動の舵を切っていったような感があります。

 そして偶然のことですが、その時期は、個々の作品が「日付」や「作品番号」を失っていった頃に相当します。

詩「三月」の執筆年について

 先日、石鳥谷で撮影してきた「三月」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。またこの詩碑を、「花巻・賢治詩碑マップ」にも追加しました。

 ところで、この「三月」という作品に関しては、賢治の元教え子の菊池信一による「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」という回想記(草野心平編『宮澤賢治追悼』,1934に所収)に、昭和3年(1928年)3月15日から一週間および3月30日に、賢治が石鳥谷の「塚の根肥料相談所」で肥料相談を行ったという詳細な記載があることから、1928年3月の出来事と考えられてきました。堀尾青史『宮澤賢治年譜』でも、『【新】校本宮澤賢治全集』年譜篇においても、そう記載されています。

 これに対して、伊藤光弥氏は、この肥料相談が昭和3年(1928年)に行われたというのは菊池信一の勘違いであって、実際には昭和2年(1927年)3月のことだったのではないかという説を提唱しておられます(洋々社『イーハトーブの植物学』、および「「三月」の詩の解釈」:洋々社『宮沢賢治』第17号所収、など)。
 伊藤氏が、昭和2年説の根拠として挙げられているのは、次のような事柄です。

  1. 菊池信一は上記の回想の中で、肥料相談の年を「羅須地人協会の生まれた翌年の昭和三年」と書いているが、羅須地人協会の発足は大正15年(1926年)なので、その翌年は昭和2年(1927年)になる
  2. 菊池は「その年は恐ろしく天候不順で」、賢治が「暑い日盛りを幾度となくそれらの稲田を見廻られた」と書いているが、昭和2年(1927年)は他の作品から読みとれるように冷害の年であり、また昭和3年(1928年)の賢治は6月に東京・大島に行った後、8月10日頃に病気で倒れているから、これらの記述は昭和2年(1927年)の方に合致する
  3. 〔あすこの田はねえ〕」という作品は1927年の日付だが、その内容は、菊池の回想記の内容と重ね合わせることができる
  4. 菊池の回想記には、肥料相談の会場に、肥料と水稲の関係図が十数枚貼られていたとあるが、これらの図は昭和2年3月頃に羅須地人協会の講義で使われていたものと思われる

 そして伊藤光弥氏は、菊池信一が「翌四年には先生一身上の都合にて、それに僕の入営により(肥料相談は)實現し得なかった」と書いているところの「先生一身上の都合」とは、昭和3年(1928年)3月15日に政府が全国一斉に行った無産政党の取り調べや検挙に伴い、賢治が警察の聴取を受けたということではなかったかと、推測しておられます。
 この伊藤氏の推測は、賢治と労農党の関係を考える上でも大変に興味深いものではありますが、私としては、この肥料相談が昭和2年(1927年)3月に行われたとする説には、無理があると思います。


 その理由の一つは、昭和2年(1927年)3月16日の日付を持つ、賢治から菊池信一宛ての書簡[227]です。この葉書の全文は、「ばらの苗が来て居ります。廿日なればみんなも集ってゐませう。お知らせまで。」という簡単なものですが、もしも昭和2年3月15日から一週間、賢治と菊池信一が肥料相談所で毎日顔を合わせていたのなら、16日にこのような「お知らせ」の葉書を出す必要はないはずです。
 伊藤光弥氏はこの葉書に関して、「肥料相談を終えて花巻に戻ると薔薇の苗が届いており、このことを早速、菊池に伝えたかったのではないかと思われます」と述べておられます。しかし、いくら「早速、伝えたかった」としても、葉書を出すより翌朝に直接会った時に話す方が早いでしょう。
 さらに、この葉書は、3月20日なら羅須地人協会に「みんなも集ってゐませう」と言って菊池も来ないかと誘っているわけですが、これももし賢治と菊池信一が、石鳥谷の肥料相談に出ているのなら、おかしなことです。賢治が、自分が不在の協会へ、菊池は肥料相談の世話を抜け出して行くようにと勧めるというのは、ありえないでしょう。


 あともう一つの理由は、1927年3月15日から21日頃までの日付を持つ賢治の作品の中に、明らかに作者が日中に花巻にいたと読みとれるものが、いくつも存在することです。
 3月19日の日付のある「運転手」(「詩ノート」)は、「瀬川の岸にもうやってきた」という一節から、花巻電鉄の花巻温泉線に乗っている情景と思われますし、同じ日付の「〔ひるすぎになってから〕」(詩ノート)には、「鳥ヶ森」という花巻南西にある山の名前が出てきて、「ノスタルジア農学校」とは、1年前に退職した花巻農学校のことでしょう。また、3月16日の「〔たんぼの中の稲かぶが八列ばかり〕」は、下根子桜近辺の農民どうしの共同労役のことを描いているように思われますし、同じ日付の「〔土も掘るだらう〕」(「春と修羅 第三集」)では、近所の農民たちから言われる疎外的な言葉を、「いまもきゝ」と書いています。
 これら花巻での出来事の描写は、賢治が「3月15日から一週間、朝8時から午後4時まで」、石鳥谷で肥料相談を行っていたとしたら不可能なはずです。


 伊藤光弥氏が挙げられた上の4つの根拠に関しては、まず1.の「羅須地人協会の生まれた翌年の昭和三年」という陳述に関しては、いずれにせよこの言葉は自己矛盾を孕んでおり、「翌年」という部分が間違いであるか、「昭和三年」が間違いであるか、可能性は二つのうちどちらかであるにすぎません。したがって、これだけでは、「翌年」が正しく「昭和三年」が誤りと断定する理由にはなりません。
 2.の天候不順に関しては、昭和3年(1928年)も、「七、八月旱魃四十日以上に及んだ」(『【新】校本全集』第十六巻「年譜篇」p.379)とあることから、やはり天候は不順であったようです。それに、昭和2年(1927年)は冷害であったのに対し、昭和3年は旱害だったので、「暑い日盛りを幾度となくそれらの稲田を見廻られた」という描写にはむしろ合致するようにも思われます。賢治は昭和3年も、6月に大島から帰ってから8月に倒れるまで、忙しく花巻周辺の村々の田をまわっていたことは多数の記録や作品に記載されています。
 また、3.4.の内容は、肥料相談が昭和3年に行われたことを否定する根拠にはならないと思います。


 というわけで、私は石鳥谷の「肥料相談」が昭和3年(1928年)に行われたと100%断定するほどの根拠はありませんが、少なくとも、昭和2年3月15日から一週間にわたって行われたとする伊藤光弥氏の説には、賛成しかねるのです。
 ただそれにしても、「翌四年には先生一身上の都合によって」肥料相談が行えなかったという「一身上の都合」が、無産政党弾圧の一環としての警察聴取だったという伊藤氏の仮説は、大きな歴史との繋がりを暗示するようで、一定の魅力を感じるのも事実です。従来どおりの「昭和3年説」なら、「一身上の都合」とは賢治の病気だったという、新味のないことになってしまいます。
 しかし、おそらくこれが、実態だったのではないでしょうか。

「石鳥谷肥料相談所跡」説明板

石鳥谷「三月」詩碑

 朝起きてテレビをつけると、岩手県知事選が今日公示されたと言っていました。以前に普代村でお会いした増田知事は今期で引退とのことで、新人5人が立候補と伝えています。岩手県だけでなくて、今日は東京都をはじめ全国で「13都道県」の知事選の告示日なんですね。

 朝食をすませると、花巻駅から東北本線に乗って石鳥谷に向かいました。ここに、昨年できた詩碑を見に行くためです。
 石鳥谷駅で列車を降りると、まず駅「石鳥谷肥料相談所跡」前の通りを東に向かって、旧奥州街道に突き当たったところで南に曲がります。100mほど進んだ道の東側に、右のような看板が出ていました。
 「石鳥谷肥料相談所跡」と書いてあって、その昔に賢治がここで、巡回の肥料相談所を開設したことを説明してくれています。その当時には、相談所となった家屋の向側には奥州街道時代の「一里塚」が残っていて、それにちなんで「塚の根肥料相談所」と呼ばれていたそうです。

 詩「三月」はその時の模様を書いた作品で、賢治は3月15日から延べ8日間、午前8時~午後4時の間、「肥料相談」に応じました。まず賢治が肥料について講演をした後に、参加者個人別の相談・肥料設計を行うという内容だったそうです。
 「三月」の中には「並木の松」という言葉が出てきますが、南部藩時代に植えられた松並木が、当時はまだ街道沿いに残っていたのです旧道沿いの松ね。ところでちょうどこの場所の向かいあたりに、立派な松の木が一本ありましたが(左写真)、これは当時の名残なのでしょうか。
 たしか奥州街道沿いの松の保存の是非をめぐっては、賢治も農学校時代にディベート大会をやったという逸話が残っています。花巻で残っているのは、詩碑にも近い南城小学校のあたりだけだったように思います。
 また、上写真の左側には警察の派出所が見えますが、伊藤光弥氏によれば(『宮沢賢治』17号)、「三月」の最後の方に出てくる「火の見櫓」は、当時はこのあたりにあったのではないかということです。

 さて、実際に作品の舞台となったのは、旧街道沿いのこの場所なのですが、このたび「三月」の詩碑が建てられたのは、「なるべく多くの人に見てもらえるように」と、現在の国道4号線沿いの「道の駅」の方なのです。
 ここからまた1.5kmほど歩いて、国道にある「道の駅」に行くと、下写真のような見事な黒御影石でできた「三月」詩碑が建っていました。

「三月」詩碑

 碑面で、テキストのバックに薄い線で刻まれているのは、旧「石鳥谷町」の形です。
 昨年の大合併によって、稗貫郡石鳥谷町は「花巻市」の一部となり、行政区画としての石鳥谷町というものは消滅してしまったわけなのですが、その輪郭はここにしっかりと刻まれて残されているわけですね。この碑を作られた「石鳥谷賢治の会」の方々の、郷土に対する愛も感じられる碑です。

 詩碑を写真に収めると、また歩いて石鳥谷駅に戻り、お昼前に花巻に着いたのですが、花巻はあいにくの雨でした。今日の残りの時間は、レンタサイクルであちこちまわってみようと思っていたので、大幅な予定変更です。
 しかし雨にもまけず傘をさして、市街地に残る花巻電鉄・鉛温泉線の跡を歩いてみたり、「東公園」というのはどのあたりにあったのだろうかと散策してみたり、それなりに時間をすごしました。結局は3時間ほど歩いていたのですが、昨日の「雪中行軍」の影響か、時間とともに太もものあたりの筋肉痛を自覚します。

「竹駒」中華そば 昼食は、ちょうど近くまで来たので、一度食べてみたかった上町の「竹駒」の中華そばにしました。ここは、かまどに薪をくべてラーメンを作ることで有名で、スープはあくまですっきりと澄み、ご覧のように具はいたってシンプルですが、「丁寧に調理された一品の料理」をいただいた感じです。

 ということで、ひとまず飛行機の時間になったので、16時40分の便で花巻を後にしました。「Kenji Review」の渡辺宏さんのブログによると、渡辺さんは明日から花巻に来られるとのこと、ちょうど入れ違いになってしまいました。

ハチミツとクローバー

 この夏に劇場公開されていた映画「ハチミツとクローバー」のオープニング・タイトルには、次のような詩句が映し出されていました。

草原をつくるにはクローバーとミツバチがいる。
                           ――エミリ・ディキンスン

 美術大学生たちの青春を描いたこの作品は、羽海野チカによる同名コミックの映画化でしたが、原作「ハチミツとクローバー」(略称:「ハチクロ」)の題名の由来は、実は上記の詩ではなくて、作者がタイトルを決めようとした時に、スピッツの「ハチミツ」とスガシカオの「クローバー」という2枚のアルバムが並んで置かれていたから、というのが真相だそうです。

 それはともかく、「ハチクロ」のスクリーンに映し出された魅力的な言葉は、19世紀アメリカの詩人、エミリ・ディキンスンの詩の一節で、全文は下記のとおりです。

To make a prairie it takes a clover and one bee,―
One clover, and a bee,
And revery.
The revery alone will do
If bees are few.


草原をつくるには クローバーと蜜蜂がいる
クローバーが一つ 蜜蜂が一匹
そして夢もいる―
もし蜜蜂がいないなら
夢だけでもいい
                        (中島完 訳)


クローバー(しろつめくさ) で、これを読むと私は、どうしても「ポラーノの広場」や、賢治が夢みていた「草原」 ―北上の原野を開拓したいちめんの野原― を連想してしまうんですね。
 クローバーは、もちろん「つめくさのあかり」の灯る草ですし、ポラーノの広場に集う人々を連想させる「産業組合青年会(下書稿(二))」の書き込みには、次のように「蜜蜂」が出てきます。

ここらのやがてのあかるいけしき
落葉松や銀ドロや、果樹と蜜蜂、小鳥の巣箱
部落部落の小組合が
ハムを酵母を紡ぎをつくり
その聯合のあるものが、
山地の稜をひととこ砕き
石灰抹の幾千車を
酸えた野原に撒いたりする

 そしてこれは、北海道を旅した「修学旅行復命書」の中の、次の一節とも呼応しています。

北海道石灰会社石灰岩抹を販るあり。これ酸性土壌地改良唯一の物なり。米国之を用うる既に年あり。内地未だ之を製せず。早く北上山地の一角を砕き来りて我が荒涼たる洪積不良土に施与し草地に自らなるクローバーとチモシイとの波を作り耕地に油々漸々たる禾穀を成ぜん。

 さらに、羅須地人協会時代の作品と思われる「〔しばらくだった〕」(「口語詩稿」)には、次のような一節もあります。

あゝはやく雨がふって
あたりまへになって
またいろいろ、
果樹だの蜜蜂だの、
計画をたてられるやうになればいゝなあ


 つまり、賢治はずっと心の中で、北上の原野をクローバーの草原に変え、蜜蜂を飼うことを思い描いていたのではないかと思うのです。「米国之を用うる既に年あり」との言葉のように、これらが実際に新大陸の開拓において、広大なアメリカの原野に拡がっていったことを、賢治は知っていました。

 賢治の場合、まさに「夢だけで」、それを実現したのが、「ポラーノの広場」という場所だったわけですね。
             ・・・The revery alone will do !


 ところで、そのアメリカの片田舎で生涯独身をつらぬいたエミリ・ディキンスンは、生前には雑誌に数篇の詩を発表しただけでした。55歳で亡くなる際に、妹に遺言を残して、「自分の残した手紙と詩は、暖炉で燃やすように」と頼んだのだそうです。しかし妹のラヴィニアは、彼女の遺品の中から1800篇もの詩稿を整理して、世に出していきました。
 賢治の方は、父親には「この原稿はわたくしの迷いの跡ですから適当に処分してください」と言い、弟には「おれの原稿はみんなおまえにやるからもしどこかの本屋で出したいといってきたら、どんな小さな本屋でもいいから出版させてくれ、こなければかまわないでくれ」と言い遺していたところが、少しだけ違っています。

 現在ではアメリカ最高の詩人とも云われるエミリ・ディキンスンの全作品は、「バートルビー文庫」で公開されています。

その南の三日月形の村(2)

 「住居」(「春と修羅 第二集」)という作品を読むと、賢治が教師退職後の住み処として、一時は「三日月形の村」という謎の場所を考えていたように思えることについて、以前に書きました
 今度は、『【新】校本全集第16巻(下)補遺・資料篇』に掲載されている地図で、村の形をご覧ください。

岩手県市町村図

 前回書いたように、花巻の南方では、稗貫郡太田村と、和賀郡笹間村が、「三日月」の形をしているように見えます。笹間村にしても太田村にしても、あるいはその北の湯口村にしても、このあたりの行政区画が並んで似たような湾曲した形をしているのは、宇南川、瀬川、豊沢川などこの辺の川が、奥羽山脈の山間部では東南方向に流れ、平野部に出るとカーブして東方向に流れるというパターンをとっているからかもしれません。

 で、この「三日月形の村」というのがどこの村のことだったのかという問題ですが、ここで「住居」の「下書稿(二)」を見ると、冒頭部分には、「たくさんの青い泉と、/林の中に廃屋を持つ、/その南の三日月形の村では・・・」と書かれています。つまり、この三日月形の村には、「たくさんの泉」があるようなのです。
 ちなみに「林の中」というのは、「屋敷林」によって囲まれ、このあたりで「居久根(イグネ)」または「牆林(ヤグネ)」と呼ばれる住宅区域でしょうね。

 ということで、泉のことを気にしつつ旧・太田村のあたりを現代の地図で見てみると、なぜか下のように、「泉屋敷」「泉畑」という地名が目に飛びこんできます。緑色に塗られた部分は屋敷林によって囲まれた区画で、その一つである「泉屋敷」という呼称は、この居久根に昔は泉が湧き出ていたのではないかと想像させます。開けた場所にある「泉畑」も同様です。

旧・太田村地区

 清水寺の「慈眼水」また、「慈眼水」看板上図の左端の方には「清水寺」が見えますが、このお寺のルーツも、もともとこの場所に湧き水があって、それが地元で信仰を集めていたことに由来します。この水は、眼の病に対して霊験あらたかであるとして、「慈眼水」と呼ばれて現在も祠の中に祀られています(右写真)。

 寺伝によれば、坂上田村麻呂がこのあたりで蝦夷と戦った際、敵が投げた木片が田村麻呂の目に当たって傷ついたが、この湧き水で洗ったらたちまち平癒したことから、「慈眼水」と名づけられたということになっています。
 この辺の旧跡の多くに見られるように、坂上田村麻呂との由縁は後代の附会と思われますが、「清水寺」という名称そのものは、この湧き水への古くからの信仰に由来するのでしょう。
 いずれにしても、この由緒ある「水」は、たしかに旧太田村にある「たくさんの泉」の、一つであると言ってよいでしょう。

 20060504d[1].jpgもう一つ、旧太田村の「由緒ある水」として、より新しい時代のものもあります。上の地図よりもずっと西に進んだところ、山地が迫る一角の「高村山荘」の裏にある、「智恵子抄泉」です(右写真)。
 高村山荘は、高村光太郎が宮澤政次郎氏宅に疎開した後、さらに昭和20年から7年間を暮らした小さな庵です。ここで生活していた間、おそらく光太郎はこの泉から水を汲んでいたのでしょうし、毎年5月15日に行われる「高村祭」の時には、この泉の水が献茶に用いられます。
 「智恵子抄泉」という名前は、光太郎自身の命名ではありませんが、いつの間にか人々にそう呼ばれるようになったということです。右の写真にあるように、現在はその名を示す小さな碑も建てられています。

 現代の花巻市の観光スポットの一つとなっている「高村山荘」「高村記念館」の裏手にあって、この泉は訪れる人も少なくひっそりとしていますが、これもやはり旧太田村にある「たくさんの泉」のなかの一つに数えられます。

 さらにあと一つ、上の地図で「太田」という地名が書いてあるすぐ右に「」の印がありますが、これは花巻市立太田小学校です。そして、その校歌の三番の歌詞は、「きよらかな水が きよらかな水が/太田のあすをよんでいる・・・」と始まるのです。
 これも、旧太田村と湧き水とのゆかりを象徴するものに思えます。


 というようなわけで、私としては当時の「太田村」が、賢治の言う「その南の三日月形の村」なのではないかと思うのです。それは、上のような話によって「立証」できるというような事柄ではありませんが、形や場所や「たくさんの泉」の存在など、状況証拠の集積が、何となくそう思わせるのです。

 1925年9月、翌春に農学校を退職するとすでに心に決めていた賢治は、ひそかに太田村を訪れて、そこにある廃屋の一つを自分の住居として借りられないか、村人と交渉してみたのではないでしょうか。そしておそらく賢治は老人から冷たく断られ、結局は下根子にあった宮澤家別宅に移り住んで、「羅須地人協会」を始めることになったのです。
 それにしても、もしも賢治が太田村に家を借りられて「採種屋」を開いていたら、その後の活動や創作は、どんなものになっていたでしょうね。想像してみるのは愉快です。



 ところで、羅須地人協会時代の作品と推測される「境内」(=「〔みんな食事もすんだらしく〕」下書稿(一))は、上にも触れた太田村の清水寺が、作品舞台となっていると思われます。
 この作品の中で賢治は、「学校前の荒物店」(太田小学校前?)の老人から、冷たい皮肉を言われました。このエピソードはよほど賢治の印象に残ったのか、後に童話「グスコーブドリの伝記」における次の挿話に用いられます。

 ところがある日、ブドリがタチナという火山へ行つた帰り、とりいれの済んでがらんとした沼ばたけの中の小さな村を通りかゝりました。ちやうどひるごろなので、パンを買はうと思つて、一軒の雑貨や菓子を売つてゐる店へ寄つて、
「パンはありませんか。」とききました。すると、そこには三人のはだしの人たちが、眼をまつ赤にして酒を呑んで居りましたが、一人が立ち上がって、
「パンはあるが、どうも食はれないパンでな。石盤だもな。」とをかしなことを云ひますと、みんなは面白さうにどつと笑ひました。

 ただ、「境内」という作品に登場する「ぢいさん」は、「朝から酒をのんでゐた」とは書かれていますが、人数は一人であり、眼についての描写や「はだし」という記述はありません。
 一方、「住居」の方は、「ひるもはだしで酒を呑み/眼をうるませたとしよりたち」と結ばれていて、日中から酒を呑んでいた人は複数であり、「はだしで」「眼をうるませ」ていたところは、「グスコーブドリの伝記」の記述に合致します。
 すなわち、「グスコーブドリの伝記」の上記挿話は、賢治がどちらも太田村において体験した、つらい思いの残る二つのエピソード(「住居」+「境内」)を、混ぜ合わせて形づくられたものではないかと思うのです。

 賢治が羅須地人協会時代に、周囲の農民から感じた疎外感―それは「境内」では、「そのまっくらな巨きなもの」と呼ばれ、また「〔同心町の夜あけがた〕」では、「われわれ学校を出て来たもの/われわれ町に育ったもの/われわれ月給をとったことのあるもの/それ全体への疑ひ」と解釈されましたが、実は彼が月給とりをやめて「一人の百姓」になろうとする半年も前から、たとえば「教師あがりの採種屋など/置いてやりたくない・・・」という言葉によって、すでに先取りして感じていたものだったわけです。
 

発動機船の乗船地

 一昨日イーハトーブセンターから送られてきた会報第32号には、「八戸・賢治を語る会」特集の一項目として、同会の事務局長である中川真平さんが、戦前に三陸海岸の「運搬船」の船員をしていた小袖丑松さんという方にインタビューした記事が載っていました。
 この「運搬船」は、陸路交通の困難な三陸地方において、戦後の初期までは物資輸送の要として機能していたというもの三陸海岸の「運搬船」で、賢治が1925年の三陸旅行の際に乗船して、「発動機船 一」「発動機船 第二」「発動機船 三」「発動機船[断片]」などの作品で描いた船と推測されています。「運搬船」と言っても、海産物や薪などの物資だけでなく、乗客も乗せたということですね。
 この記事には、昔の「運搬船」の写真も掲載してくださっていて(右写真)、賢治は当時こんな船に乗ったんだなあ、とまた私の感慨を新たにしてくれました。

 さて、そのインタビュー記事のなかで注目されるのは、次のようなやりとりです。

――航海の様子を聞きたいのですが、陸中海岸の村々から荷を積んだ船は、南の宮古に向かう場合、北から順々に南下していったものですか?
小袖 えーや、そっただもんでなくて、荷でも人でも積むものがあれば、北さでも南さでも、どごさでも飛んでぐんだぁ。
――では、たとえば田野畑村の羅賀にいた船がそこで人を乗せて、一旦北に向かって普代村のネダリ浜で荷を積み、再び南の宮古に向かうこともありえますか?
小袖 あるも、あるも、荷さぇあれば何処さでも走ったんだ。

 中川さんがわざわざこのような質問をされているのは、「賢治はこの三陸旅行においてどこの港から発動機船に乗船したのか」という問題を意識してのことです。

 賢治の乗船地については、従来は「発動機船 三」にある「羅賀で乗ったその外套を遁がすなよ」という一節が賢治自身のことを指していると解釈して、羅賀から乗船したという説が有力でした。『【新】校本全集』の「年譜」においても、「次のような推理もできる」と慎重な姿勢ながら、羅賀乗船説のみが掲載されています。
 しかしこれに対して、木村東吉氏は大著『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』において、「発動機船 一」で描かれている情景は、羅賀より北の「ネダリ浜」と呼ばれる場所のことであると考証し、また「発動機船 第二」に描かれている章魚の樽の積み込みこそが羅賀港での出来事であると推定し、賢治の乗船地は羅賀より北で宿泊地の下安家より南の港、すなわち安家、堀内、大田名部のいずれかであるとの説を提唱されました (このあたりの詳細については「旅程幻想詩群」のページを参照)。

 今回の中川真平さんによる元船員さんへのインタビュー結果は、「木村東吉氏の示した論拠によっても、必ずしも羅賀乗船説は否定はできない」ということを示してくれたわけです。
 これをもとに中川さんは、次のように推定しておられます。

賢治を乗せた運搬船は昼頃に羅賀の港を出て一旦北に向かい、普代村のネダリ浜で若い女性たちの運んできた割木を積み、今度は再度、羅賀に南下し、羅賀の漁師たちが昼の間に採った章魚を夜の早い時間に買い取り、南の宮古に向かったものであろう。

 羅賀乗船説を貫いた立場からの推理ですが、はたして皆さんのお考えはいかがでしょうか。

 私としては、今回の貴重な情報を知った上でも、賢治の乗船地を羅賀とすることには、それでもやや無理を感じてしまうのです。羅賀より北から乗ったとする方が、より自然に思えるのです。

 その理由の一つは、羅賀から一度出港し、北へ行ってまた羅賀に戻って荷を積んで南へ向かう、という航路の効率性の問題です。本来ならば、最初から荷を羅賀で積み込んでおけば、また羅賀で再び停船させたりせずに、ネダリ浜から真っ直ぐ南へ航行できたはずですが、なぜこのようなことをしたのでしょうか。
 一つ考えられるのは、中川さんもそれとなく書いておられるように、最初に羅賀を出港した時点では、積み荷と推測される章魚の樽の準備が間に合わなかったので、このような行程をとった、という可能性です。しかし、羅賀とネダリ浜は直線距離で約8km、発動機船の速度を木村東吉氏のように6ノット(時速11km)とすれば片道せいぜい1時間あまりですから、二度目に羅賀に寄港した時に暗くなっていたこと(発動機船 第二)からして、最初の羅賀出港は、お昼をかなりまわってからだったのではないかと思われます。そうであれば、それくらいの時間に章魚の樽詰めが間に合わなかったというのは、ちょっと不思議です。

 結局このように非効率的な航路を想定してまで、羅賀乗船説を支持する人がいる理由は、「発動機船 三」の「羅賀から乗ったその外套を遁がすなよ」という一節が、賢治のことを指しているとする解釈の一点に尽きるわけですが、はたしてこれは本当に賢治のことなのでしょうか。この点に関する疑問が、私を羅賀乗船説に傾きにくくしているもう一つの理由です。
 「発動機船 三」の「下書稿(一)第一形態」を見ると、この箇所は当初「代りにひゞく船底の声/(羅賀で乗った/あの外套を遁がすなよ/海盛楼をおごらすからな)」となっていました。「海盛楼」というのは何かわかりませんが(先日国会図書館で見た『全国旅館名簿』でも宮古の項にはありませんでした)、その名と「おごらす」という言葉から推測するに、宮古にある料理屋か何かなのでしょう。すると、これは発動機船の船員たちが「陸(おか)」に上がってからの相談をしているところと推測され、船が着いたら「羅賀で乗った外套の男」をつかまえておき、その人物から海盛楼で料理をおごらせよう、という算段なのだと思われます。
 しかし船員たちは、通りすがりの旅行客にすぎない賢治に対して、こんなことをさせようというのでしょうか。見知らぬ人に飲食代を強要するというのは、どう見ても「たかり行為」ですね。船員たちがそんな犯罪謀議をしていたと考えるよりは、この「外套」を着た男は、船員にとって何らかの知人であったと考える方が、ここは自然なのではないでしょうか。
 したがって「外套の男」の解釈としては、木村東吉氏のように、「「発動機船 第二」に「うしろの部下はいつか二人になってゐる」とある人物などを指すと考えた方が妥当であろう」という説の方がもっともらしく思えます。(ただ、「発動機船 第二」の描写には、この時に人間が乗船したと思えるような記述は見られません。)


 結局、賢治がどこから発動機船に乗ったのか、という謎は闇の中にあるままだと思いますが、今回の「会報」を読んでいると、昨年に訪ねた「ネダリ浜」の美しい情景がまたまぶたに浮かぶようでした。

 じつは私は、一昨年に「なめとこ山」を訪ねた「賢治学会春季セミナー」の折に、中川真平さんにはじめてお会いして、こちらの方から声をおかけして、この「羅賀から乗った・・・」の箇所の解釈についてご教示をお願いしたことがあったのです。今回、中川さんがわざわざ発動機船の元船員さんを探し出し、貴重な情報をもたらしていただいたご努力に感謝して、ここに最大限の敬意を表させていただきたいと思います。