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《願以此功徳 普及於一切》

1.「青森挽歌 三」の位置

 新校本全集で「『春と修羅』補遺」に分類されている「青森挽歌 三」は、『春と修羅』に収録されている「青森挽歌」の、先駆形と考えられる草稿です。このテキストが書かれているのは、「丸善特製 二」というやや変則的な原稿用紙で、一般の原稿用紙が「20字×10行×2」という400字詰めであるのに対して、これは「25字×12行×2」という600字詰めになっているのです。
 実は、『春と修羅』の「詩集印刷用原稿」は、全てがこの「丸善特製 二」の原稿用紙なのですが、その意義について、『校本全集』第二巻校異篇p.11には、次のように書かれています。

本文の書かれ方について特記すべきは、用紙の25字×12行という字詰めが、初版本本文の活字の組み方と合致していることで、原稿用紙の右半・左半が、それぞれ、そのまま初版本の各一頁に相当するように書かれ、紙を二つに折って重ねて綴じれば、詩集の雛形になる仕組みになっている。

 すなわち、賢治はこの「丸善特製 二」原稿用紙に、『春と修羅』の最終段階のテキストを記入して、それによって「詩集の雛形」をイメージしたのです。
 つまり、賢治が『春と修羅』関係の詩の草稿用紙として、この「丸善特製 二」原稿用紙を使用している場合は、それは推敲過程の中でもかなり最後の方の段階に位置していることを意味するわけであり、「青森挽歌 三」という草稿は、そのような段階のテキストだと考えられるのです。(この原稿用紙のことについては、以前の記事「「丸善特製 二」原稿用紙」もご参照下さい。)

 さて、前置きが長くなりましたが、その「青森挽歌 三」の冒頭は、次のように始まります。

   青森挽歌 三

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。
それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき
或ひは青ぞらで溶け残るとき
必ず起る現象です。

 冒頭の「仮睡硅酸」という特徴的な造語は、「青森挽歌」においては中ほどの112行目に出てくるのに対して、5行目の「それはおもては軟玉と銀のモナド」から14行目の「巻積雲にはいるとき」までは、ほとんどそのまま「青森挽歌」の213行目から222行目と同内容です。
 比較のために、下にその「青森挽歌」の213行目から222行目を掲げてみます。

おもては軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいつぱいだ
巻積雲のはらわたまで
月のあかりはしみわたり
それはあやしい蛍光板になつて
いよいよあやしい苹果の匂を発散し
なめらかにつめたい窓硝子さへ越えてくる
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき・・・・・・

 これを上の「青森挽歌 三」の5行目以降と比べていただくと、ほとんど一致することがわかると思います。
 さらに、『新校本全集』第二巻校異篇を見ると、「青森挽歌」の「詩集印刷用原稿」には、上の箇所に続いて、「あるひは青ぞらで溶け残るとき/かならず起る現象です」という字句が書かれていたのが、印刷する前に墨で削除されていますが、これは「青森挽歌 三」の15~16行目ともほぼ一致するもので、両者の相似はいっそう深まります。
 また同じ校異篇によれば、「青森挽歌」の上に引用した箇所の直前、すなわち213行目の前には、もともと「三行アキ」の空白が挿入されていたということです。印刷された『春と修羅』にはこの「行アキ」はなく、212行目と213行目は切れ目なくつながっているのですが、印刷前の賢治の考えでは、212行目と213行目の間には、形式上の大きな「切れ目」があったのだろうと推測されます。

 さて、ここでまず私が考えてみたいのは、次のような事柄です。
 「青森挽歌 三」が残っているということは、もともとは「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」も存在したのだろうと推測されますし、またひょっとしたら「青森挽歌 四」やそれ以降が存在していた可能性も、否定できません。
 このような、「青森挽歌 一」・・・「青森挽歌 n」が、その後さらに推敲されるうちに、漢数字による区分が消失し、最終的に単一の「青森挽歌」になったと想定できると思いますが、そのもともとの「青森挽歌 一」・・・「青森挽歌 n」というのは、いったいどんな構成だったのでしょうか。

 最初に考えておきたいのは、「青森挽歌 n」というのが、いくつまで存在したのだろうかということですが、「青森挽歌 三」の最後の部分を見ると、次のように終わっています。

「太洋を見はらす巨きな家の中で
仰向けになって寝てゐたら
もしもしもしもしって云って
しきりに巡査が起してゐるんだ。」
その皺くちゃな寛い白服
ゆふべ一晩そんなあなたの電燈の下で
こしかけてやって来た高等学校の先生
青森へ着いたら
苹果をたべると云ふんですか。
海が藍テンに光ってゐる
いまごろまっ赤な苹果はありません。
爽やかな苹果青のその苹果なら
それはもうきっとできてるでせう。

 これを見ると、車窓からは「海」が見えているようですが、花巻発青森行き東北本線で、海が見えるのは陸奥湾しかありませんので、列車はかなり青森に近づいていることがわかります。また、「ゆふべ一晩」という言葉も、時刻がもう朝という言える時間帯になっていることを想像させますし、「青森へ着いたら/苹果をたべると云ふんですか」という言葉も、何となく列車が終点の青森駅に近づいているような雰囲気を漂わせます。
 すなわち、「青森挽歌 三」は、青森駅の手前近くで終わっているわけです。
 ここで推敲後の「青森挽歌」も、青森駅の手前で終わっていると推測されることと考え合わせると、「青森挽歌 三」の後に、「青森挽歌 四」やそれ以降が存在したとは考えにくく、この段階の草稿は、「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」「青森挽歌 三」という、三部構成になっていたのではないかと推測されます。

 となると、「青森挽歌 三」は、「青森挽歌」の「213行目から最後まで」という部分に相当すると、考えることができます。前述のように、もともと「青森挽歌」の印刷用原稿では、213行目の手前に「三行アキ」の空白があったということから、ここに形式的な切れ目があったと思われるからです。
 それでは、「青森挽歌 一」と「青森挽歌 二」は、「青森挽歌」ではそれぞれどの部分に対応するのでしょうか。

 これは、「青森挽歌」の212行目以前の部分を、意味内容の上で二つに区切るとすれば、どこで分けるべきか、という問題に置き換えることができるでしょうが、それの区切りは具体的には、どこに当たるでしょうか。
 以前に、「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事を書いたことがありますが、その時は「青森挽歌」の全体を、次の7つの部分に分けてみました。

I 現実世界からの導入・トシの死について考えることへの躊躇
II 死の認識の困難性
III トシの死の状況の具体的回想
IV 転生の可能性(鳥・天・地獄)
V トシの行方に執着することへの自戒
VI 車窓風景の展望と魔の声
VII 個別救済祈願の禁止

 具体的な区分については、元の記事をご参照いただくとして、今回論じている「青森挽歌 三」は、「青森挽歌」の213行目以降に相当するわけですから、上では VI と VII にあたります。
 そして、I から V までの部分を二つに分けるとすれば、II と III の間で区切るのが妥当だと考えます。I と II は、広い意味で作品全体の導入部にあたる箇所であり、ここで賢治は、トシの死について考えることを躊躇したり、死そのものをとらえることの困難性について記しています。「ギルちゃん」や「ナーガラ」が出てくる部分にも、幼い者が「死」という現実をうまく理解できない様子が、童話的に表現されています。
 これに対して、III・IV・V の部分で、賢治はトシの死の状況を具体的に回想することを通して、その死後の行方について、執拗なまでに考察を展開しています。そもそもこれこそが、「青森挽歌」の中心的な主題でした。

 すなわち、「青森挽歌」の先駆形として、「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」「青森挽歌 三」が存在したとすれば、大まかには「青森挽歌」の1~85行目が「青森挽歌 一」に、86~212行目が「青森挽歌 二」に、213行目~252行目が「青森挽歌 三」に、それぞれ相当すると考えられるのではないでしょうか。

2.「青森挽歌 三」の内容

 「青森挽歌」の213行目以降の主な内容は、トシの行方について考え疲れた賢治が車窓の月を眺めていると、トシの死相について揶揄する「魔」のような存在の声が聴こえ、さらには最後に、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示がもたらされる、というものでした。
 これに対して、「青森挽歌 三」の主な内容となっているのは、「トシの似姿」を見る話です。

 まず賢治には、同じ車両で眠っている乗客の一人が、まるでトシのように見えます。

その右側の中ごろの席
青ざめたあけ方の孔雀のはね
やはらかな草いろの夢をくわらすのは
とし子、おまへのやうに見える。

 次には、父親が出張中に、「まるっきり同じわらす」を見た話です。

「まるっきり肖たものもあるもんだ、
法隆寺の停車場で
すれちがふ汽車の中に
まるっきり同じわらすさ。」
父がいつかの朝さう云ってゐた。

 花巻から遠く古都奈良の、「すれちがふ汽車」の中に子供時代の娘を見るというのは、父親にとって何という切ない体験でしょう。いくら手を伸ばしても届かないという現実が、象徴されているかのようです。

 そして三つめには、トシが亡くなった翌月に、賢治自身がトシの似姿を見た体験が回想されます。

そして私だってさうだ
あいつが死んだ次の十二月に
酵母のやうなこまかな雪
はげしいはげしい吹雪の中を
私は学校から坂を走って降りて来た。
まっ白になった柳沢洋服店のガラスの前
その藍いろの夕方の雪のけむりの中で
黒いマントの女の人に遭った。
帽巾に目はかくれ
白い顎ときれいな歯
私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。
( それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)
私は危なく叫んだのだ。
(何だ、うな、死んだなんて
いゝ位のごと云って
今ごろ此処ら歩てるな。)
又たしかに私はさう叫んだにちがひない。
たゞあんな烈しい吹雪の中だから
その声は風にとられ
私は風の中に分散してかけた。

 ここには、まだトシが死んだと信じ切れない賢治の、悲痛な思いが刻まれています。

 さてこのような、ふと故人の似姿を見て、たとえ一瞬だけにせよ、本当に「あの人」だと思ってしまうという現象は、その人のことをまだ現実世界の中に、無意識のうちに「探しつづけている」からこそ、起こるものです。
 この賢治のサハリンへの旅行は全体として、死んだ人を無意識のうちに探そうとしてしまう「探索行動」として理解することができると、以前から私は思っているのですが(「「探索行動」としてのサハリン行」参照)、ここにも「探索」の一端が、顔をのぞかせているわけです。

 ところで、最初に引用した「同じ車両の乗客」が、「やはらかな草いろの夢をくわらす」と書いてある言葉の意味が、ちょっとわかりません。「夢をくわらす」というのは、いったいどういうことでしょうか。
 「くわらす」という言葉は、『精選版 日本国語大辞典』にも載っていませんし、もちろん「喰らわす」では、意味が通りません。
「夢をくゆらす」 私がちょっと思うのは、これは「くゆらす」のことなのではないか、ということです。「くゆらす」を辞書で引くと、「(煙や匂いなどを)立ちのぼらせる」とあり、「夢をくゆらす」というのも、右図のような感じで、比喩として理解できなくはありません。
 また、ひらがなの「ゆ」と「わ」というのは、書き方によっては形が似ています。

 まあ、これについては確かなところはわかりませんが、賢治はしきりに苹果のことを考えながら、汽車は青森駅に近づいて行きます。

3.《願以此功徳 普及於一切》

 以上のように、「青森挽歌 三」と、「青森挽歌」の213行目以降の内容は、大きく異なるわけですが、何と言っても「青森挽歌」の終結部には、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示が現れるのに、「青森挽歌 三」にはそういった話が全く出てこないところが、最も大きな違いです。この啓示が、後には賢治の亡妹トシに対する態度を大きく規定することになることを思うと、この相違点は重大です。

 では、「青森挽歌 三」の方には、この《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》に類した発想が全く含まれていなかったのかというと、その最終形を見るかぎりではそのようなものは見当たりませんが、推敲過程を見ると、注目すべき箇所があります。
 すなわち、『新校本全集』第二巻校異篇p.199には、「青森挽歌 三」の本文6行目の次に、当初は《 願此功徳 普及於一切》という字句が「三字下ゲ」で書かれていたのが、その後削除されたということが、記されています。
 つまり、当初は「青森挽歌 三」の冒頭部は、次のようになっていたのです。

   青森挽歌 三

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。
それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
   《 願以此功徳 普及於一切》
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。

 「青森挽歌」の213行目以降では、「魔」の嘲笑的な言葉も、例の重要な啓示も、《二重括弧》で括られて記されていましたが、「青森挽歌 三」の最終本文には、二重括弧は使われていませんでした。しかし実は、この《願以此功徳 普及於一切》に、用いられていたのです。
 この言葉は、いったいどういう意味なのでしょうか。

 調べてみると、「願以此功徳 普及於一切」とは、法華経の「化城喩品第七」に出てくる「偈」の一節で、その前後とともに引用すると、次のようになっています。

我等諸宮殿 蒙光故厳飾
今以奉世尊 唯垂哀納受
願以此功徳 普及於一切
我等與衆生 皆共成佛道

(書き下し)
われ等の諸の宮殿は、光を蒙るが故に厳に飾られたり。
今、もって世尊に奉る 唯、哀を垂れて納受したまえ。
願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし
われ等と衆生と 皆、共に仏道を成ぜん。
            (岩波文庫『法華経』中巻p.52)

 これは、「五百万億の諸々の梵天王」が、世尊を讃えて荘厳な宮殿を献上し、その功徳をあまねく一切に及ぼすことによって、我ら梵天王と衆生がともに成仏できるようにと、願う場面です。

 その中の一節が、なぜトシの死を思う「青森挽歌 三」に登場するのか、ということが問題ですが、実はこの「願以此功徳 普及於一切/我等與衆生 皆共成佛道」という言葉は、日蓮宗に限らずさまざまな宗派で「法要」を行う際に、その最後に唱えられ、「回向文」と呼ばれるものなのです。
 下の動画は、真言宗の在家用仏前勤行次第だということですが、クリックしていただければ、「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、われ等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」との言葉を聞くことができます。

 一般に「法要」というのは、故人の縁者たちが集まって、故人の冥福のために、お経を上げ、仏を礼拝し、お布施をする等の、仏教的な善行を成すことです。このような行為そのものを実施するのは生きている人々ですが、それによって得られる「功徳」を、自分たちだけでなく死者にも振り向ける(回向する)ことによって、故人の次生での幸福を、助けようとしているわけです。
 そしてさらに、自分たちの縁者だけでなく全ての生き物の救済を目ざすのが大乗仏教ですから、その法要による功徳も自分たちだけに限定せず、広く回向して「普く一切に及ぼし」、「われ等と衆生と 皆、共に仏道を成ぜん」ために唱えるのが、この回向文なのです。

 ここにおいて、この回向文の趣旨と、賢治のトシに対する思いや行動とのつながりが、明らかになってきます。
 すなわち、賢治が青森へ向かう夜行列車の中で、トシのことをずっと考えつづけたのは「法要」ではありませんが、しかし賢治はこの時トシの次生における幸せを心から願い、きっと「南無妙法蓮華経」の題目も、何度となく唱えたことでしょう。その功徳によって、賢治はトシの冥福を祈ったわけです。
 しかし、大乗仏教を信仰する賢治としては、トシのことばかりを祈ることでこれを済ますわけにはいきません。あるいは賢治には、ここまで自分が延々とトシという一人の肉親のことばかり考えつづけてきたことに対して、何らかの後ろめたさがあったのかもしれません。
 ともかくも賢治にとっては、自らが青森に向かう列車の中でトシに向けた功徳を、あらためて「全ての衆生」に回向するために、《願以此功徳 普及於一切》という祈りが、ここにどうしても必要だったのです。

 つまり、トシに限らず「すべてのいきもののほんたうの幸福」を願うという目的において、「青森挽歌 三」におけるこの《願以此功徳 普及於一切》は、「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉と、まさにつながっているものなのです。
 しかしその内容を見ると、前者では「トシのことを祈った上でそれを衆生に回向する」という形になっているのに対し、後者においては「けつしてひとりをいのつてはいけない」として、そもそも「一人を祈る」こと自体が禁止されているという点において、大きな違いがあります。

 「青森挽歌 三」にいったん書かれていた《願以此功徳 普及於一切》という一節が、その推敲過程において消去されてしまった理由はわかりませんが、想像するに、賢治が本当はトシのことを強く祈りながら、最後に取って付けたように《願以此功徳 普及於一切》の一節を追加することで、自分は全ての衆生のことを思っているのだと正当化するというやり方を、「偽善的」と感じて許せなくなったのではないかと思ったりもします。

 いずれにしても、賢治は最終的に「青森挽歌」において、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という容赦のない制約を自らに課すことによって、厳しい未知の領域へと、大きな一歩を踏み出したのです。

 しかし、この「青森挽歌 三」が、「丸善特製 二」というかなり最終段階に近い草稿用紙に書かれたものであり、そこにいったんは上記のような意味合いの《願以此功徳 普及於一切》という言葉があったということの深い意味は、あらためて心に留めておく必要があるかと思います。
 私はこれまで何となく、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な思想を賢治が抱くに至ったのは、サハリン旅行中のことだったようにばくぜんと思っていたのですが、それは大きな間違いでした。
 実際に彼がこういう考えを持つようになったのは、おそらく旅行から帰ってからも苦悩をつづけた後のことで、彼が詩集『春と修羅』のために清書を開始してからもかなり経った時期のことだったということを、きちんと押さえておく必要があると感じました。

「展勝地」という断片

 「【新】校本全集」の「補遺詩篇 I 」に、「展勝地」という口語詩の断片が収められています。先日ここに書いた「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」と同様に、この作品も「丸善特製 二」原稿用紙に、「青っぽいインクで」、「きれいに」書かれている、「清書稿」です。
 用紙の裏面には、童話「毒もみの好きな署長さん」の草稿が書かれているところも同じですが、「〔大きな・・・〕」が頭を欠いて終わりの6行だけが残存しているのと対照的に、こちらは題名を含めて初めの方だけが残されて、途中で切れてしまっています。

北上展勝地 内容を見てみると、まず題名の「展勝地」というのは、現在は北上市立公園として北上川東岸に広がる、桜の名所のことですね(右写真)。ここは、青森の弘前城、秋田の角館とともに、「みちのく三大桜名所」と並び称されているそうです。こちらのページからは、展勝地公園のライブ映像を、Webカメラで見ることもできますので、お試しください。
 本文では、「落葉松」が「青い」というのですから、季節は春からせいぜい初秋までの間と思われます。しかし「そらはいよいよ白くつめたく」という描写は、夏の盛りという雰囲気でもありません。
 全体を通読すると、これは賢治が農学校の教師として、生徒を引率して「展勝地」の公園まで、遠足か何かで来た時の様子なのではないかと思われます。
 残されたテキスト中、最も重要な手がかりになるのは、15行目の「桜羽場君、」という呼びかけです。このちょっと珍しい名字は、花巻農学校三回生名簿の中に、「桜羽場 寛」として見つけられます。

 桜羽場寛は、1922年4月に花巻農学校に入学して、1924年3月に卒業した生徒でした。つまり、1921年12月に着任した賢治にとっては、初めて新入生として迎えた学年ということになります。
 桜羽場君は、これ以外の賢治作品にもけっこう登場していて、まず短篇「台川」では、「桜羽場が又凝灰岩を拾ったな。頬がまっ赤で髪も赭いその小さな子供。」として描かれています。また、「春と修羅 第二集」の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕(下書稿(二献呈桜羽場)」には、「かしこくむら気な桜場寛の生れた家だ」という一節があります。後者でわかるように、彼は、地蔵堂で名高い「延命寺」という寺の息子だったのです(「巨杉」詩碑参照)。
 さらに、桜羽場が卒業してまもない1924年の5月には、前月に刊行した『春と修羅』を、賢治は署名入りで贈呈しています(右写真)。
 このような様子を見ると、賢治はこの桜羽場寛という小柄で利発な生徒を、かなり可愛がっていたのだろうということが推測されます。

 さて、ここからが本論なのですが、この「展勝地」という断片も、「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」が『春と修羅』の時期に属しながら結局は詩集に収められなかったと推測されるように、やはりいったんは詩集用に清書されながら、最終的には割愛された作品の断片なのではないでしょうか。
 その一つの根拠は、やはりこれも「丸善特製 二」原稿用紙に「青っぽいインクで」「きれいに」書かれているという原稿の状態が、『春と修羅』の清書稿と同じであること、それからもう一つの根拠は、桜羽場寛が在学した期間が、『春と修羅』の時期と一致しているということです。

 『春と修羅』に収められている作品が書かれたのは、1922年1月から1923年12月まで、「春と修羅 第二集」が始まるのは、1924年2月の「空明と傷痍」からでした。
 一方、「展勝地」が書かれたのは、上記の事実から桜羽場寛が在学中、すなわち1922年4月から1924年3月までの間のことと推定され、これはほとんどが上記『春と修羅』の期間に相当します。1924年の2月と3月だけは「春と修羅 第二集」と重なりますが、この時期は落葉松が「青い」というには、まだ少し早いですね。
 そうすると、やはりこの作品は『春と修羅』の時期のものと考えるのが自然だと思います。

 また前述のように、「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」の用紙と同じく、この作品の原稿用紙の裏面にも、童話「毒もみの好きな村長さん」が書かれています。このことは、賢治がこの童話の草稿を書きつけようとした時に、これら二作品の用紙が一緒に保存されていた可能性を強く示唆します。もしも前者が『春と修羅』に収録を検討されたことがあったのなら、後者も同じような立場だったことがあるのではないでしょうか。

 このようなことは、おそらく研究者の方々にとっては周知のことなのだろうと思うのですが、たまたま「牧馬地方の春の歌」を見るために全集第五巻を繙いている時に気づいたので、とりあえず自らの覚え書きのために記しておきます。
 ちなみに、展勝地公園が開園したのは1921年5月、すなわち賢治たちが遠足に行ったであろう頃は、まだ誕生してから1~2年という時期だったことになりますね。

展勝地周辺案内図
展勝地周辺案内図(北上市ホームページより)

西洋料理店のような?

 「【新】校本全集」第五巻の「補遺詩篇 I 」に、「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」という断片が収められています。ご覧いただいたらわかるように、作品の頭の部分はどこかへ行ってしまって、終わりの6行だけがかろうじて残っているという状態のものです。
 現存しているのがこのような姿であるために、残念ながら「作品として鑑賞する」にはちょっと苦しい感があります。いきなり冒頭から「大きな西洋料理店のやうに思はれる」と切り出されても、いったい何がそう思われるのか、見当もつきません。

 しかし、それに続けて、「朱金」「樺太の鮭の尻尾」「砒素鏡」と来ると、これは最近もどこかで見たことのある言葉ではありませんか。
 そう、「文語詩未定稿」に収められている「宗谷〔二〕」という文語詩と、同じような情景を描いているようなのです。

 先日もこの欄で書いたように、「宗谷〔二〕」に描かれているのは、「オホーツク挽歌」の旅行の帰路、サハリンの大泊港から北海道の稚内港に向かう船上で、ちょうど日の出を迎える直前直後の情景でした。
 一方、この「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」においても、「樺太の鮭の尻尾の南端」が同じく「藍いろ」に見えています。「鮭の尻尾」とは、地図を見ていただいたらわかりますが、樺太の南端というのは亜庭湾を囲むように東西の半島が突きだしていて、ちょうど大きな魚の尾ひれのような形をしているので、よくこう喩えられます。また、「朱金」は朝日の光の色と思われますから、結局これは「宗谷〔二〕」と同じ場所と時間におけるスケッチと言えるのではないでしょうか。

 そうするとこれは、「宗谷〔二〕」という文語詩に改作される前身であるところの、口語詩の断片なのではないでしょうか。

 この作品の書かれている原稿用紙の状況は、さらにその推測に肯定的です。「【新】校本全集」第五巻校異篇を参照すると、この断片は昨日も紹介した「丸善特製 二」原稿用紙の上に、「青っぽいインクで」、「きれいに」書かれています。この用紙種類、インク、字体の組み合わせは、賢治の詩の草稿の中では、『春と修羅』の「清書後手入稿」と「詩集印刷用原稿」に見られるものに一致します。
 すなわち、現在「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」と呼びならわされている作品は、いったんは作者によって『春と修羅』に収録することも検討され清書されながら、結局は収録されなかった作品の一部だったのではないでしょうか。「【新】校本全集」の分類方法で言いかえれば、ちょうど「旭川」や「宗谷挽歌」のように、「『春と修羅』補遺」の位置にあったものなのではないでしょうか。
 もしそうならば、これは草稿段階では、8月7日昼間の「鈴谷平原」と、8月11日未明の「噴火湾(ノクターン)」の間に位置していたはずですね。

 この作品が散佚せずに残った理由は、その用紙の裏面に、童話「毒もみの好きな署長さん」が書かれていたために、童話草稿として保存されていたことによるようです。作者はこれを、詩草稿としては残す必要はないと判断していたものの、たまたま童話を書くための紙として利用したのでしょう。
 さもなければ失われたであろうところに生まれた一つの偶然が、まだ謎の部分の多い「オホーツク挽歌」の旅の帰路を、少しだけ垣間見せてくれているように思います。

 さて、上記のように推測してみた上で、「大きな西洋料理店のやうに思はれる」という冒頭行に戻ります。
 この日、賢治が大泊から乗船したのは、8月2日にサハリンに渡ったのと同じ「対馬丸」でした。この船の写真は、「戦時下に喪われた日本の商船」というサイトの、対馬丸のページに掲載されています。
 また対馬丸の内部の様子については、当時いっしょに稚泊航路に就航していた同型の「壱岐丸」について、「天翔艦隊」というサイトの「最北の鉄道連絡船」というページに、次のような説明があります。

 船内配置は英国の渡峡船に準じているが、室内装飾には日本趣味を取り入れ、日本人好みのものとしていた。
 ブリッジの真下にあたる上甲板の前部室を一等客社交室(サロン)兼出入り口広間(エントランス・ホール)とし、その下のメインデッキには一等食堂がある。両者の間は楕円形の吹き抜けと階段で結ばれており、天井には色ガラスの天窓(スカイライト)が設けられた。天窓の模様には山陽鉄道の社章が模されおり、これは晩年に至るまでそのまま残されていた。談話室の左右及び前方には、壁に沿って長いソファーが取り付けられ、その後方には一等船室が2室、また食堂の左右両舷にも一等船室が2室ずつ設けられている。

 すなわち、「大きな西洋料理店のやうに思はれる」というのは、上記のような連絡船の食堂なりサロンなり広間なり、何らかの船の設備の様子のことだったのではないでしょうか。そう考えると、ちょっと胸のつかえがとれる気がします。


 ところで、『春と修羅』およびその「補遺」以外で、「丸善特製 二」原稿用紙に書かれている詩作品は非常に稀なのですが、最近話題にした「牧馬地方の春の歌」もその数少ない一つでした。
 近いうちに、これら以外の詩作品も取り上げてみたいと思います。

「丸善特製 二」原稿用紙

「丸善特製 二」 賢治は、『春と修羅』の出版準備をしていた1923年後半頃に、その原稿の清書のために「丸善特製 二」という原稿用紙を一括購入したと推測されています(右写真)。これは普通の原稿用紙よりも少し大きいB4版で、字数も400字詰めではなく「25字×24行の600字詰め」という、やや変わったものでした。
 詩集における文字配置をシミュレートするために、この原稿用紙を二つ折りにすると、『春と修羅』刊行本の1ページの字数・行数そのままになるという形になっています。
 当サイトの「『春と修羅』関連草稿一覧」という表において、「清書後手入稿」の大半と、「詩集印刷用原稿」のすべてのテキストは、この「丸善特製 二」原稿用紙に書かれていました。

 またこの用紙は、「銀河鉄道の夜」の初期の草稿においても、かなり大量に使われています。丸善のサイトでも、この辺のことについては少し触れられています。

2005 MARUZEN II さて、この「丸善のII号原稿用紙」というのは、実は今でも売られているんですね。
 現在のものは右写真のようなスタイルになっていて、紙の左下にあるロゴが、賢治の時代とは違うものになっています。しかし、様式は昔と同じ、「25字×24行の600字詰め」で、きっと、この形をずっと愛用している人もおられるのでしょう。

 私は、ふだんは文字を原稿用紙に書くということはまったくなくなってしまいましたが、丸善の文房具売り場で賢治が使っていた用紙を見つけて、思わず50枚綴りの冊子を買ってきてしまいました。

 明日は、この原稿用紙に関連した話題を書いてみようかと思います。