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2019年9月16日 存在否定から全称肯定へ

 先日以来、「「〈みちづれ〉希求」の挫折と苦悩」とか「「〈みちづれ〉希求」の昇華」などという記事を書いていましたが、それらで私が言いたかったことの要点は、「賢治には「〈みちづれ〉希求」というような独特の強い感情があって、ある時期まで己の〈みちづれ〉として求めた人に次々と去られ、喪失感や孤独感に苦しんだが、ある時期からは個人を〈みちづれ〉として求めることはやめて、代わりに全ての衆生を〈みちづれ〉として道を求めていこうと考えるに至った」というようなことでした。
 一方、以前から私は「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」とか、当ブログのいくつかの記事において、「賢治はある時期までトシの喪失を受容できず苦悩していたが、ある時期以降は『トシがいつも近くにいる』という感覚を抱くようになり、苦しみを乗り越えていったのではないか」ということを考えていました。

 最近、この二つの「乗り越えの論理」は、構造的にとても似ていると思うようになり、また同じ論理構造は賢治のいくつかの作品にも認められ、さらには大層な話ですが大乗仏教というものが誕生した際の思想転換にも通じるものがあると感じましたので、本日はそのことについて、書いてみたいと思います。


1.「〈みちづれ〉希求」の昇華と「トシ喪失」の受容の論理

 先にも述べましたが、まず「〈みちづれ〉希求」をめぐる賢治の認識の経時的な変化は、次のように要約しなおすことができます。

(1) 私はある人を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く
(これは、ある時期までの賢治が、保阪嘉内やトシや堀籠文之進に対して、抱いていた感情です。それは「小岩井農場」においては、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」と表現されました。)

(2) 誰も私の〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行ってくれる人はいない
(賢治の(1)の思いにもかかわらず、保阪嘉内は故郷へ帰り、トシは彼を置いて早逝し、堀籠文之進は彼と一緒には歩めないと言明しました。結局賢治の「〈みちづれ〉希求」は、誰もかなえてくれなかったのです。)

(3) 私は全ての衆生を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く
(しかしここで賢治は、誰か一人だけと一緒に行くのではなく、「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」(「小岩井農場」)という方向に転換することで、危機を乗り越えようと決意しました。)

 次に、上の論理の骨組みを見えやすくするために、これを記号論理学的に表現してみます。
 「私は衆生xを〈みちづれ〉として、どこまでも一緒に行く」という命題を、A(x)という命題関数で表すとすると、上記(1)は、

(1) ∃xA(x)

と表現できます。ここで記号「∃」は、「存在量化子」と言い、「少なくとも一つ存在する」という状態を表します。上の記号列は全体として、「或る衆生xについてA(x)である」、すなわち「私は或る衆生を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く」ということを表しています。
 また上記(2)は、

(2) ¬∃xA(x)

と表現できます。ここで記号「¬」は否定を表し、「¬∃」とつなげると、「少なくとも一つ存在する」が否定されるので、「一つも存在しない」となります。記号列全体としては、「どの衆生xについてもA(x)ではない」、すなわち「私はどの衆生とも〈みちづれ〉として一緒に行くことはない」ということを表しています。
 さらに、上記(3)を記号化すると、

(3) ∀xA(x)

となります。記号「∀」は、「全称量化子」と言い、「全てが○○である」という事態を表します。全体としては、「全ての衆生xについてA(x)である」、すなわち「私は全ての衆生を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く」ということを表しています。

 すなわち、「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華の過程は、論理記号を用いると、

(1) ∃xA(x)
(2) ¬∃xA(x)
(3) ∀xA(x)

という三つのステップとして、表すことができるのです。


 次に、トシが亡くなる前後の賢治のトシに対する認識は、次のように要約することができます。

(1) トシは或る場所にいる(トシ生前の状態)
(2) トシはどこにもいない(トシの死による不在)
(3) トシはどこにでもいる(トシの遍在)

 そして、これを記号論理学的に表現するため、「トシが場所xにいる」という命題をB(x)とするならば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xB(x) (或る場所xにトシはいる)
(2) ¬∃xB(x) (どの場所xにもトシはいない)
(3) ∀xB(x) (全ての場所xにトシはいる)

 ご覧のように、この記号列は、「〈みちづれ〉希求」の昇華過程と同一であり、論理構造が全く同じ形であることがわかります。


2.「めくらぶだうと虹」と「ひのきとひなげし」の論理

 ところで気をつけて見てみると、上記のような論理構造の同型性は、賢治のいくつかの童話作品にも認められます。
 まず、童話「めくらぶだうと虹」において、めくらぶどうは虹のことを最高に誉め讃え、「あなたが、もし、もっと立派におなりになる為なら、私なんか、百ぺんでも死にます」と言います。
 しかし、虹はそんなめくらぶどうをたしなめ、「本たうはどんなものでも変はらないものはないのです」と言い、全ての存在は無常であることを説明します。
 ところがまた虹は、「けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらはれるときは、すべてのおとろえるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです」と言い、全ての生命は無常でありつつも、かぎりなく尊いのだと言います。
 この論旨の骨格は、次のように表現できます。

(1) 或るいのち(虹のような存在)は、かぎりなく尊い
(2) どんないのちにも、かぎりがある
(3) 全てのいのちは、かぎりない

 ここでまた、「いのちxはかぎりない」という命題をC(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xC(x)
(2) ¬∃xC(x)
(3) ∀xC(x)

 これも、「〈みちづれ〉希求」の昇華および「トシ喪失」の受容の過程における論理構造と、同型です。


 次に、童話「ひのきとひなげし」を見てみます。このお話に出てくるたくさんのひなげしの中で、「テクラ」という一本は、その美しさにおいて自他ともに認める「スター」でしたが、実はどのひなげしも、もっと美しくなって「スター」になりたいと、強く望んでいました。
 そこに悪魔がやって来て、ひなげしが作る阿片と引き換えに、彼女たちに美容術の薬を服用させるという約束をしたのですが、まさにその契約が果たされようとした瞬間に、ひのきが悪魔を追い払いました。
 ひなげしたちは、邪魔をしたひのきに怒りますが、ひのきは「もう一足でおまへたちみんな頭をばりばり食はれるとこだった」と説明するとともに、「ありがたいもんでスターになりたいなりたいと云ってゐるおまへたちがそのままそっくりスターでな、おまけにオールスターキャストだといふことになってある」と言い聞かせます。
 この展開の要旨は、次のようになります。

(1) 或るひなげし(テクラ)はスターである
(2) どのひなげしもスターでない(けし坊主の根絶)
(3) 全てのひなげしはスターである(オールスター)

 ここで、(2)の「どのひなげしもスターではない」という段階は、「みんな頭をばりばり食はれる」という事態のことで、これは実際にはひのきの機転によってかろうじて避けられましたが、ほとんど現実化していたことから、ここに挙げています。
 ここでまた、「ひなげしxはスターである」という命題をD(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xD(x)
(2) ¬∃xD(x)
(3) ∀xD(x)

 これもまた、今までに見た例と全く同型です。


3.大乗仏教の思想革命

 紀元前5世紀頃に生きて悟りを開いた釈迦が、80歳で入滅すると、弟子たちは釈迦の教えを継承し実践する教団を形成しました。そして100年以上の歳月が経過するうちに、教えの解釈の違いをめぐって教団は20もの部派に分かれ、「部派仏教」と呼ばれる時代となります。さらに、釈迦入滅から500年ほどが経過した西暦紀元前後の頃、いくつかの部派が伝承する経典群に、ほぼ時を同じくして大きな変化が現れてきます。
 この変化が、後に「大乗仏教」として新たな仏教運動へと発展していくのですが、そこに見られる思想の転換には、いくつかの特徴がありました。ここでは、特にそのうちの二つを取り上げてみます。

 一つは、釈迦や部派仏教の教えでは、悟りに至るためには出家をして、煩悩を滅尽するための教学や修行に励むことが必須の条件とされ、またそれを真面目に実践したとしても、悟りに到達できるのは一部の者だけであるとされていました。しかし、これが大乗仏教になると、「出家者であろうと在家者であろうと、全ての者は悟りに至ることができる」と考えられるようになったのです。
 この画期的な思想は、最初期の大乗仏典である「般若経」系の経典には、「全ての人は過去世において、既に仏と出会って悟りを目ざすとの誓いを立て(誓願)、悟りへの到達を仏から保証されている(授記)」という形で盛り込まれていますし、「法華経」においては、この経こそが全ての衆生を成仏へと導く「一仏乗」であると説かれ、浄土系の宗派では、阿弥陀如来の力によって皆が浄土へ行ける(そして必ず成仏できる)と信じられ、「涅槃経」では「一切衆生悉有仏性」という言葉や「如来蔵」の思想に集約されています。
 部派仏教の中から、このような新たな大乗的思想が生まれてくる時期は、仏教にとっては苦難の時代でもあり、たとえば紀元前180年頃のインドには仏教を弾圧する王が現れたり、ガンダーラ地方には異民族が流入して混乱が起こったりして、出家教団の基盤も脅かされていたということです。このような情勢も反映してか、仏教内部では「釈迦入滅後500年で、正しい教えが滅びる」(=「正法滅尽(法滅)」)という危機的思想も、広がっていました

 以上のような、「悟りの可能性」に関する仏教内の考え方の変遷を、要約すると下記になります。

(1) ある者は悟りに至れる(初期仏教・部派仏教)
(2) 誰も悟りに至れない(正法滅尽)
(3) 誰でも悟りに至れる(大乗仏教)

 またここで、「衆生xは悟りに至れる」という命題をE(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xE(x)
(2) ¬∃xE(x)
(3) ∀xE(x)

 上記も、先に1.2.で見た論理構造と、同型になっています。


 さらにもう一つ、大乗仏教全体に共通する特徴として、「生身の人間としての釈迦は80歳で入滅したが、実は真理を体現する存在としての仏陀は、永遠の過去から未来にわたって、常にこの世に存在し続けている」という考えがあり、このような普遍的で永劫の存在としての仏の身体のことを、「法身(ほっしん)」と呼びます。
 この「法身」という思想も、大乗仏教の最古層の「般若経」系の経典から見られるものですが、「法華経」においては「如来寿量品」で「久遠実成」として説かれ、浄土系の宗派では「法性法身」と言われます。密教においては、永遠不滅の真理を体現しつつ宇宙に遍満する「大日如来」として、非常に高い普遍性が付与されています。
 このような、様々な形での「仏」の存在についての考えを整理すると、下記になります。

(1) 仏はここにいる(釈迦在世中)
(2) 仏はどこにもいない(釈迦入滅)
(3) 仏は常に宇宙に遍満している(法身仏)

 またここで、「仏は場所xにいる」という命題をF(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xF(x)
(2) ¬∃xF(x)
(3) ∀xF(x)

 これもまた、上の全ての論理構造と同型になっているのです。


4.論理の同型性の意味

 上記のような、論理に共通する筋書きをあらためて抜き出すと、「(1)とても大切な何かを求め、あるいは守っていたところ、(2)それが失われてしまい、『もう○○はない!』という危機に陥るが、(3)ここで大逆転が行われ、『実は全ては○○である!』という認識の転換によって克服される」、という構造になっています。
 すなわち、その大切なものの「存在否定」がもたらす危機において、単にその存在を取り戻して復旧させようとするにとどまらず、むしろ一挙に全てを獲得する「全称肯定」に至るというのが特徴で、いわば「禍を転じて福と為す」というような型になっています。

 ということで、ちょっと不思議な同型性が認められるというのが本日の記事の趣旨なのですが、ここで問題は、賢治の人生や作品に、こういう風に大乗仏教の根幹と共通するような論理の同型性が認められることに、何か意味があるのか、ということです。
 私もよくわからないのですが、賢治がこういうことを具体的に意識しながら己の生き方や創作について考えていたとは、想定しにくいように思います。ただ、大乗仏教を深く学んでいた彼にとって、このような思想の「型」が知らず知らずに血肉となっていて、何かの折りに無意識のうちににじみ出てくるということは、あったのではないかと思います。

 上の六つの例のうちでも、とりわけトシの喪失を受容する過程で「トシの遍在」を意識するようになるところと、大乗仏教で宇宙に遍満する仏の身体としての「法身仏」という概念が出現するところには、特に強い類似性が感じられます。これについては、以前に「上原專祿の死者論―常在此不滅」という記事で紹介したように、上原專祿が「法華経」の「自我偈」を毎日読誦するうちに、仏の久遠実成を述べる「常在此不滅」という一節から、釈尊常在よりも先に亡き妻の「常在」を実感するようになったと書いていたことが、あらためて思い出されます。
 私は従来は、「トシ追悼過程における他界観の変遷」や「賢治の他界観の変遷図」という記事に書いたように、賢治の中の「非仏教的」な要素が、トシ喪失の受容において大きな役割を果たしたのではないかと考えてきたのですが、同時に上記のような仏教的な思想も奥底では働いていたのかもしれないと、思うようになったところです。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項

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