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2017年8月27日 Tearful eye

 賢治は『春と修羅 第二集』に、1925年4月2日の日付を持つ4つの作品を残しています。これらについては、以前に「岩根橋発電所詩群」というページにまとめたのですが、簡単に言えばこの日に賢治は、夕方から岩手軽便鉄道に乗って岩根橋の発電所方面に行き、夜遅くにそこから徒歩で、花巻まで帰ってきたのだと思われます。岩根橋から花巻までは約20kmありますから、いくら賢治でも夜が更けてから一人でこれだけの道のりを歩くというのは、なかなかのものです。
 なぜ賢治がこの日、岩根橋方面に行ったのかその理由はわかっていませんが、木村東吉氏は『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』(渓水社)において、次のように書いておられます(p.233)。

 詩人がなぜこの日、わざわざ夜の発電所を訪ねたのかは不明だが、当時の作者の生活や五〇六〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕を参照すれば、あるいは和讃の会のようなものを兼ねた農事講習会などがあって、その後で、見学に立ち寄ったのであろうか。岩根橋から花巻までの約二〇キロの夜の釜石街道を歩いて帰ったことは、五一一〔はつれて軋る手袋と〕下書稿(三)に、「三郎沼の岸からかけて/夜なかの巨きな苹果の樹」とあることで窺われる。三郎沼は花巻の東の郊外、街道筋にある大きな農業用水池の名称である。

 ちなみに、賢治の時代に岩根橋にあった発電所の跡地は、今は全く廃墟になっていて、私は2007年3月の雪の日に訪ねてみたことがあります。下がその時の写真の1枚で、発電所の土台のみが遺蹟のように残っており、「岩根橋發電所記念碑 大正七年十一月書」と書かれた石碑だけが往時を偲ばせてくれました。賢治がここで書いた「発電所」から発展した、「〔雪と飛白岩の峯の脚〕」も、とても面白い作品ですね。

岩根橋発電所跡

 さて、1925年4月2日に賢治が軽便鉄道に乗り込むところに戻ると、この日の4連作の1作目「〔硫黄いろした天球を〕」は、まさに軽便花巻駅から東に向かって列車が発車しようとするところです。木村東吉氏の調査によれば、当時の岩手軽便鉄道下りの最終列車は、花巻を5時50分発、岩根橋には7時10分着だそうです。
 ところでこの作品の「下書稿(二)」には、次のような箇所があります。

(前略)
肥料倉庫の亜鉛の屋根を
鳥が矢形にひるがへる

   ……風と羽とのそのほのじろいラヴバイト ……
最后に湿った真鍮を
二きれ投げて日は紺青の山に落ち
おもちゃのやうな小さな汽車は
わづかなあおいけむりを吐いて
その一一の峡谷の
つましい妻をかんがへてゐる
幾人かの教師や技手を乗せて
東の青い古生山地に出発する
(後略)

 ここに出てくる「ラヴバイト」というのは、"love-bite"すなわち「キスマーク」のことで、鳥が風と戯れる様子を、愛の交歓のように見立てているわけです。また、仕事を終えて軽便鉄道の乗客となっている「幾人かの教師や技手」は、それぞれの家で待つ「つましい妻をかんがへている」のではないかと賢治は想像をしているわけで、先の「ラヴバイト」ともども、何か賢治の心中には、男女の愛情のイメージが潜在しているように感じられます。
 ただ、この「ラヴバイト」にしても「つましい妻」にしても、下書稿(三)になると作者によって削られて、シンプルな形になってしまいます。このような推敲の方向性には、賢治の「禁欲性」が影響しているようにも思うのですが、しかし本日私が取り上げてみたいのは、この日の連作の最後を飾る、「〔はつれて軋る手袋と〕」です。
 ここには、賢治のそんな「禁欲」の意志にもかかわらずどうしてもあふれ出してしまう心情が、綴られているように私は思うのです。

 ちょっと長いですが、まずその全文を下記に引用します。

  五一一
               一九二五、四、二

   ……はつれて軋る手袋と
      盲ひ凍えた月の鉛……
県道(みち)のよごれた凍み雪が
西につゞいて氷河に見え
畳んでくらい丘丘を
春のキメラがしづかに翔ける
   ……眼に象って
      かなしいその眼に象って……
北で一つの松山が
重く澱んだ夜なかの雲に
肩から上をどんより消され
黒い地平の遠くでは
何か玻璃器を軋らすやうに
鳥がたくさん啼いてゐる
   ……眼に象って
      泪をたゝえた眼に象って……
丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる
ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて
笹がすこうしさやぐきり
たとへばねむたい空気の沼だ
かういふひそかな空気の沼を
板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ
   ……眼に象って
      かなしいあの眼に象って……
あらゆる好意や戒めを
それが安易であるばかりに
ことさら嘲けり払ったあと
ここには乱れる憤りと
病ひに移化する困憊ばかり
   ……鳥が林の裾の方でも鳴いてゐる……
   ……霰か氷雨を含むらしい
      黒く珂質の雲の下
      三郎沼の岸からかけて
      夜なかの巨きな林檎の樹に
      しきりに鳴きかふ磁製の鳥だ……
       (わたくしのつくった蝗を見てください)
       (なるほどそれは
        ロッキー蝗といふふうですね
        チョークでへりを隈どった
        黒の模様がおもしろい
        それは一疋だけ見本ですね)
おゝ月の座の雲の銀
巨きな喪服のやうにも見える

 ここで賢治は、前述のように20kmに及ぶ夜道を一人歩きながら、あたりの情景を眺め、鳥の声を聴きつつ、何かをずっと思いめぐらしているようです。その描写はかなり謎めいていますが、30行目からの「あらゆる好意や戒めを/それが安易であるばかりに/ことさら嘲けり払ったあと/ここには乱れる憤りと/病ひに移化する困憊ばかり」という箇所から感じられるのは、深く重たい「悔恨」とでも言えるような感情です。
 文字どおりに解釈すると、賢治は人から多くの「好意や戒め」をもらったようですが、それを何か「安易」なものとして、「嘲けり払っ」てしまったようです。そしてその結果、今は「憤り」と「困憊」ばかりが残っているというのです。
 では、賢治はいったい何を嘲り払ってしまい、そのため今になって何を悔やんでいるのでしょうか。この箇所から前にさかのぼって見てみると、21行目から27行目にかけて、次のように記されています。

かういふひそかな空気の沼を
板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ

 「板やわづかの漆喰から/正方体にこしらえあげて…」というのは、素朴な日本家屋のことなのでしょう。そして賢治は、そのような家の中で、「ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする」というような「やさしいこと」を、今思えば不覚にも「卑し」んでしまっていたと、後悔しているのだと思われます。
 さて、ここに描かれているように、素朴な家で、「ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする」という情景が何を表しているかと考えてみると、その様子が象徴するのは、言わば「静かでつつましい結婚生活」というものでしょう。
 すなわち、前回「ありえたかもしれない結婚」という記事に書いたように、賢治はここでも、もしかしたら自分が送ったかもしれない結婚生活について、秘かに想像しているのではないかと思われるのです。彼は、もしも自分がそんな風に二人で幸せに生きることを「卑し」んだり「嘲り払った」りさえしていなければ、今頃は上に描いたような境遇にあったのかもしれないと、ここであらためて心を痛めつつ思いをめぐらしているのではないでしょうか。

 そうだとすれば次の問題は、賢治はいったいどのような人との「結婚生活」のことを仮想しているのかということになりますが、ここで注目すべきは、この日に賢治が歩いた行程です。
 賢治が歩いたと推測される道を、Googleマップで表示すると、下のようになります。

 青色の点で表示されているのが、現在の「釜石街道」、すなわち国道283号線を通る経路です。最初に引用した木村東吉氏の考察にも、「岩根橋から花巻までの約二〇キロの夜の釜石街道を歩いて帰った」として出てきます。
 そしてここで重要なことは、賢治がこの晩「釜石街道」を歩いたとすれば、彼は土沢の町を通り抜けたことになり、この土沢には、澤口たまみさんが『宮澤賢治 愛のうた』(もりおか文庫)において一時は賢治の恋人だったと推定した、大畠ヤスが嫁いだ家があったのです。

 大畠ヤスの嫁ぎ先については、去る4月30日にNHKで放送された「宮沢賢治 はるかな愛〜“春と修羅”より〜」でもその家屋の現在の様子が映し出されて、賢治ファンの間ではちょっとした話題になりました。その家は、ちょうど国道283号線沿いで、現在の消防署東和分署の近くにありました。
 もし賢治がこの晩、「現在の釜石街道」=国道283号線を歩いたとすれば、彼はヤスが住んでいた家のまさに目の前を通ったことになるのですが、当時の釜石街道はまだ旧道が使われていましたので、実際には彼女の嫁ぎ先から、少し北側を通過したのかと思われます。
 しかしそれでも賢治は、ヤスが住んでいた町を、夜中に一人歩いたのです。

 ただ、澤口さんが「宮澤賢治センター通信第17号」に書いておられるように、ヤスは1924年5月にアメリカに渡ったということですから、賢治が前を通った1925年4月の時点では、彼女は土沢の家にはもういなかったことになります。
 しかし、賢治が土沢という町からヤスのことを連想することがあったのではないかということについては、すでに澤口さんが同じく「宮澤賢治センター通信第17号」で、『春と修羅』の「冬と銀河ステーション」に関して指摘しておられます。この作品には、土沢の市日のにぎやかな描写に交じって、(はんの木とまばゆい雲のアルコホル/あすこにやどりぎの黄金のゴールが/さめざめとしてひかつてもいい)という記述が出てきますが、これは「やどりぎの下で愛を誓い合った恋人は幸せになれる」という西洋の言い伝えに基づいており、土沢に住んでいたヤスと関係があるのではないかというのが、澤口さんのお考えです。
 ちなみに、澤口さんから最近お聞きしたところでは、ヤスは1923年の4月から10月の間のいずれかの時期に、土沢在住の医師と結婚したと推測されるとのことで、そうすると「冬と銀河ステーション」が書かれた1923年12月の時点では、ヤスは土沢で暮らしていたことになります。この時点で、土沢とヤスの住まいがすでに賢治の意識の中で結びついておれば、たとえ彼女がアメリカに去ってから後でも、その家のすぐ近くを通るとなると、賢治が彼女のことを考えるのも当然と言えます。
 思えば、賢治がこの日の夕方に軽便鉄道に乗って、岩根橋に向けて出発した際には、「ラヴバイト」とか「つましい妻」など、男女の愛について何となく考えていたのでした。この時すでに彼は、その夜の帰り道には昔の恋人が住んでいた家の近くを通るということを、意識していたのかもしれません。

 さて、もしもこのように「〔はつれて軋る手袋と〕」という作品が、賢治がヤスに対して感じていた悔恨の思いに関わっているのだとしたら、作品中に何度も現れる、「……眼に象って/かなしいその眼に象って……」、「……眼に象って/泪をたゝえた眼に象って……」、「……眼に象って/かなしいあの眼に象って……」という印象的なリフレインは、賢治との別れに際して、悲しみに沈み、涙をたたえた、大畠ヤスの「眼」の記憶なのではないでしょうか。
 賢治がヤスとどういう別れ方をしたのかはわかりませんが、澤口さんが推測しておられるように彼女が最後まで賢治のことを思い続けていたのであれば、その別れの場面における彼女の表情は、賢治の記憶に強く刻み込まれていたはずです。そして彼女の眼には、涙がたたえられていたと考えるのが自然でしょう。

 また、作品の終わりの方の、

       (わたくしのつくった蝗を見てください)
       (なるほどそれは
        ロッキー蝗といふふうですね
        チョークでへりを隈どった
        黒の模様がおもしろい
        それは一疋だけ見本ですね)

という箇所は、月に照らされた夜の雲の形を、イナゴに見立てているのかと思われますが、この仮想上の会話は、何かまるでヤスと賢治がむつまじく話しているようさえ、私には思えてきます。
 「ロッキー蝗」というのは、下書稿(一)から下書稿(三)までにおいては「Rocky Mountain locust」と英名で記されていますが、これはその昔にアメリカで大量発生しては深刻な農業被害をもたらしたというバッタで、1902年に絶滅したとされている種です。このような専門的な名称が出てくるのは、賢治の農学の知識に基づいているのでしょうが、ここで他ならぬ「アメリカ」の生物が唐突に現れるのも、この時ヤスはアメリカ在住だったことと、何か関連づけたくなってしまいます。

 これ以外にも、考えていくときりがありません。この作品の下書稿(二)は、その一部を作者が切り抜いて下書稿(三)に転用したために、断片しか残っていないものなのですが、その中には「どうだいきみの指環の…」とか「そしたら指環を…」などという言葉が登場しているところも、気になってきてしまいます。澤口さんは『宮澤賢治 愛のうた』において、童話「シグナルとシグナレス」は賢治とヤスの恋をモチーフにしているのではないかと述べておられますが、上の「指輪」をめぐる会話からは、シグナルがシグナレスに贈った「約婚指輪」(=環状星雲)のことも、連想してしまいます。

 ということで、「……眼に象って/かなしいその眼に象って……」というリフレインは、大畠ヤスの悲しい眼の思い出なのではないかというのが、私の(少し願望もこめた)推測です。ところで、「泪をたゝえた眼」というとふと心に浮かぶのは、賢治が「Memo Flora」と表記したノートに描いていた、「Tearful eye」と題した花壇の設計図です。

Tearful eye
『新校本宮澤賢治全集』第十三巻本文篇p.25より

 この「Memo Flora」ノートの花壇設計図を賢治が書い時期について、伊藤光弥氏は『イーハトーブの植物学』(洋々社)において、大正15年(1926年)4月から翌年までの間ではないかと推測しておられます。また、伊藤氏は「Tearful eye」という発想の由来について、「外山牧場などで見た子馬の目からヒントを得たのかもしれない(同書p.146)」と推測し、「ゆがみうつり/馬のひとみにうるむかも/五月の丘にひらくる戸口」などの短歌を引用しておられます。
 ただ、馬の眼というのは一般的には、上図のような紡錘形よりもっと円い形で、「白眼」の部分がかなり少なくほとんどが「黒眼」になっていますから、賢治の「Tearful eye」の形とはちょっと違うのではないかと私は思います。
 上の設計図の眼の形は、私にはやはり人間の眼に見えますし、「泪をたゝえた眼」を直訳すれば「Tearful eye」なのですから、これは「〔はつれて軋る手袋と〕」のリフレインに由来しているのではないかと、私としては思うところです。

 すなわち賢治は、ヤスとの別れとともに忘れられない彼女の「泪をたゝえた眼に象って」、その思い出のために、花壇を作ろうと考えたのではないかと、私は思うのです。
 「Tearful eye」の設計図が書かれたのが、1926年4月から1927年の間だとすると、これは1927年4月にヤスがアメリカで亡くなったということを、賢治が何らの形で知ったことが契機となったのかもしれないとも、想像します。

「涙ぐむ眼」花壇(北海道むかわ町穂別)
「涙ぐむ眼」花壇(北海道むかわ町穂別)

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項

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コメント



突然のコメントすみません。
小学校教員をしているものです。

記事とは離れるのですが,宮澤賢治の星めぐりの歌をさがしていてこのプログにたどり着きました。

宮澤賢治の原曲の明るい雰囲気に加藤学さんの曲が近いと感じているのですが,どうしても楽譜を見つけることが出来ません。
こちらの歌曲の部屋で紹介されているので,楽譜の入手方法などご存知であれば,紹介していただけないでしょうか。

投稿者 梅田 : 2017年9月 3日 07:37

梅田さま、こんにちは。
加藤学編曲の「星めぐりの歌」は、私は知人から加藤氏の手書きの楽譜のコピーをいただいて、所蔵しております。
もしもご入り用なら、PDFファイル等にしてお送りすることも可能です。
ご希望でしたら、左欄外の「管理人宛てメール」から私にメールを入れていただきましたら、返信にてお送りいたします。

投稿者 hamagaki : 2017年9月 3日 16:04

メールを送らせていただきましたが,Undelivered Mail Returned to Senderとの反応が…。
届いていますでしょうか?
もし,届いていなければ,直接このページにアドレスを書かせていただきますがどうでしょう?

投稿者 梅田 : 2017年9月 3日 16:57


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