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2016年9月25日 大槌町の「暁穹への嫉妬」詩碑

 去る9月19日、岩手県大槌町において「暁穹への嫉妬」詩碑の除幕式が行われましたので、参加してきました。
 私はこの除幕式において、賢治の詩「暁穹への嫉妬」を朗読するという大役を仰せつかってしまって冷や汗をかきましたが、このたび新たにできた詩碑は、下写真のような立派なものです。昨年のイーハトーブ賞奨励賞を受賞された佐々木格さんが会長を務める「大槌宮沢賢治研究会」が企画立案し、募金を集めて建立されました。

「暁穹への嫉妬」詩碑

 2011年3月11日の東日本大震災によって、岩手県上閉伊郡大槌町は、死者854人、行方不明者423人という、深刻な人的被害を受けました。
 震災前の大槌町の人口15,277人(2010年国勢調査)に占める、この死者+行方不明者の割合は、実に8.36%にも上り、老若男女あわせた全町民の12人に1人が、犠牲になられたことになります。ちなみに、この8.36%という数字は、宮城県女川町の8.68%に次いで、全国で二番目に高いものです。(データは「東日本大震災における死者・行方不明者数及びその率」より)
 さらに大槌町では、町の幹部が庁舎で災害対策本部を立ち上げようとしているまさにその時に津波に襲われ、懸命の避難も及ばず、当時の町長をはじめ課長クラスの職員のほとんどが一挙に犠牲になってしまうという惨事も起こりました。このため、被災後しばらくは町の行政機能がほとんど麻痺してしまうという事態にも見舞われました。

 そのような大槌町で、様々な方が復興に力を尽くしておられる中、犠牲者の遺族の方々のために「風の電話」という場所を設置・運営してこられた佐々木格さんは、2015年2月に「大槌宮沢賢治研究会」を立ち上げ、宮沢賢治に関する勉強会や講演会を行うとともに、大槌町に宮沢賢治の詩碑を建てるという目標を掲げて、募金や企画・交渉などの活動を行ってこられました。
 その「賢治詩碑建立」という目標が、まず最初に具体化したのが、この「暁穹への嫉妬」詩碑です。

 詩碑は、人の背丈ほどもあろうかという大きな立派な石の表面に、直接そのまま「暁穹への嫉妬」の冒頭4行が刻まれているものです。石そのものの自然な形を生かした雄大な風格があり、すぐ後ろに広がる太平洋の景観と、見事に均衡を保っています。

 そしてこの詩碑の手前に置かれた副碑が、佐々木格さんはじめ大槌宮沢賢治研究会の方々のこの詩碑にかける思いを、如実に物語ってくれています。

「暁穹への嫉妬」副碑

2011年3月11日 東日本大震災で大槌町は壊滅的
被害にみまわれ多くの貴い命を失った 生き残った私たち
は亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたち
に どう生きるかを示す責任がある 私たちは宮沢賢治の
「利他の精神」がその道しるべになると考える ここに大槌
と関わりの深い「暁穹への嫉妬」を建立し顕彰する

 先に述べたように、大槌町は、震災でまさに「壊滅的被害」を受けました。そのような大変な災難を、何とか生き延びた方々におかれては、「生きている・命がある」というだけでも、もうそれだけでかけがえのない価値があるとも思いますが、しかし上の副碑はそれにとどまらず、「生き残った私たち」の「責任」について、問い直します。
 すなわち生存者には、「亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたちに どう生きるかを示す責任がある」というのです。
 そしてそのために、宮沢賢治の精神が「道しるべ」になる可能性が、示唆されています。

 あの震災の後、全国の各地で「〔雨ニモマケズ〕」をはじめ、たくさんの宮沢賢治作品が読まれました。賢治の言葉が、被災地を勇気づけ、慰め、励ます様子が、あちこちで見られました。
 そして今回、この大槌町の詩碑において、こんどは被災地の中から、宮沢賢治という存在をあらためて見直そうという企図が、宣言されているのだと思います。
 これこそが、「大槌宮沢賢治研究会」が、宮沢賢治にかける思いなのでしょう。

 さらに副碑の天面には、左半分に「暁穹への嫉妬」の全文が書かれるとともに、右側には佐々木格さんが地元大槌町で採取した「薔薇輝石」が、綺麗に磨かれて嵌め込まれています。
 ここ大槌町は、昔から薔薇輝石の産地として知られており、若かりし賢治も1919年2月に父親あての「書簡137」において、東京で宝石加工業を始めたいという希望を申し出た際に、取り扱う鉱石の候補として次のような例を挙げています。

たとへば花輪の鉄石英、秋田諸鉱山の孔雀石、九戸郡の琥珀、貴蛇紋岩、大槌の薔薇輝石、等

 この「暁穹への嫉妬」という詩は、大槌町とともに岩手県内の薔薇輝石の産地として名高い野田村あたりを賢治が歩いている時にスケッチされたものと考えられており、大槌が作品舞台というわけではありませんが、上のような「薔薇輝石」を介した縁によって、このたび大槌町に建立されたというわけです。

 佐々木格さんたちは、この詩碑に大槌町にとっての精神的なモニュメントとしての意味を込めるだけでなく、町の内外の人の交流を生むきっかけとならないかとも、期待をしておられるということです。
 三陸海岸には、1925年1月の宮沢賢治の旅程に沿って、今やいくつもの賢治詩碑が立ち並んでいます。

普代村堀内:「敗れし少年の歌へる」詩碑

普代村黒崎:「発動機船 一」詩碑

田野畑村平井賀:「発動機船 一」詩碑

田野畑村島越:「発動機船 第二」詩碑

田野畑村和野:「発動機船 三」詩碑

宮古市浄土ヶ浜:「寂光のはま」歌碑

釜石市仙人峠:「峠」詩碑

 そして今回この系列の終わり近く、釜石の「峠」詩碑の前に、「暁穹への嫉妬」詩碑が加わったわけです。さらに今後、大槌宮沢賢治研究会では、大槌町が作品舞台と推定される詩「旅程幻想」の詩碑も建立することを、計画しておられるのだそうです。
 そして、上のような三陸沿岸の賢治詩碑を持つ市町村どうしが交流を深め、協力して一つの観光ルートとし、全国から賢治の足跡をたどる詩碑めぐりをする人々に、訪れてもらえるようにしようという構想もあるということです。
 まだ津波の爪痕が残る三陸地方に、宮沢賢治との縁によって新たな展開を生み出そうという企画です。

 ところで、この「暁穹への嫉妬」詩碑のすぐ後ろは、「浪板海岸」という東へ開けた雄大な海ですから、ここは美しい「暁穹」を望むのに絶好のスポットでもあります。
 詩碑が立つ「三陸花ホテルはまぎく」は、震災前は「浪板観光ホテル」として営業し、「日本のホテルの中で最も海に近いホテルの一つ」とも言われていました。津波が襲ってきた時、宿泊客は全員が避難して無事でしたが、ホテルの社長や若女将を含む職員6名は、自らの避難よりも宿泊客の確認を優先して最後まで館内に残っていた結果、大津波に呑まれて行方不明になられたということです。
 その後ホテルは懸命の復旧を行い、震災から2年後の2013年8月に、名前も「三陸花ホテルはまぎく」と変えて、新たなスタートを切りました。「はまぎく」の花言葉、「逆境に立ち向かう」という思いも込めての改名だったということです。
 私もこのホテルには何度か宿泊いたしましたが、美しく清潔に改装された館内、まさに絶景と言うべきオーシャンビューの客室、「海望風呂」、三陸の海の幸を集めた美味しい料理など、素晴らしいひとときを堪能させていただきました。
 三陸地方では、特にお勧めの宿の一つだと思います。

 下の写真は、2016年5月にホテルの客室から見た「暁穹」です。

浪板海岸の夜明け

written by hamagaki
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