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2015年5月10日 小都のはづれなる小き駅

 『新校本全集』の「補遺詩篇II」に、「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」という仮題で収録されているテキストがあります。
 これは、賢治が東北砕石工場技師時代に、懸命の営業活動のあいまに手帳に書きつけていたもので、「文語体による心象スケッチ」という趣きなのですが、私はこれを読むといつも、胸が熱くなるような思いがします。

朝は北海道の拓植博覧会へ送るとて
標本あまたたづさえ来り
それが硬度のセメントに均しく
色彩宇内に冠たりなど
或はこれがひろがりは
大連蠣殻の移入を防遏すべき点
殊に審査を乞ふなどと
やゝ心にもなきこと書きて
県庁を立ち出でたりけるに
ときに小都を囲みたる
山山に雲低くして
木々泣かまほしき藍なりけるを
出でて次々米搗ける
門低き家また門広く乱れたる
家々を
次より次とわたり来り
おのもにまことのことばもて
或はことばやゝ低く
或は闘ふさまなして
二十二軒を経めぐりて
夕暮小都のはづれなる
小き駅にたどり来れば
駅前の井戸に人あまた集り
黒き煙わづかに吐けるポムプあり
余りに大なる屈たう性は
むしろ脆弱といふべきこと
禾本の数に異らずなど
こゝろあまりに傷みたれば
口うちそゝぎいこはんと
外の面にいづればいつしか
ポムプことこととうごきゐて
児らいぶかしきさまに眉をひそめみる
「この水よく呑むべしや」と戯るゝに
〈通〉のはんてん着たる
肩はゞ広きをのこ立ちありて
「何か苦しからんいざ召たまへ」とて
蛇管の口をとりてこれを揚げるに
水いと烈しく噴きて児ら逃げ去る
すなはち笑みて掬はんとするに
時に水すなはちやめり
をのこ
「こは惜しきことかな
いま少し早く来り給はゞ」
といと之を惜むさまなり
われすなはち
とみに疲れ癒え
全身洗へるこゝちして立ち
雲たち迷ふ青黒き山をば望み見たり
そは諸仏菩薩といはれしもの
つねにあらたなるかたちして
うごきはたらけばなり

 蛇足かとは思いますが、拙い口語訳を付けておきます。

朝には、北海道の拓殖博覧会へ送るために
たくさんの標本を携えて来て、
「これはセメントと同じくらい硬くて、
色彩は天下随一だ」とか、
また「これが普及すれば
大連からの蛎殻の移入を阻止できるという点に
特に留意して、審査をお願いしたい」などと、
あんまり心にもないことを書いて
県庁から出てきたところ・・・
その時、この小都を囲んでいる
山々に雲は低くかかり
木々は泣きたくなるような藍色だったが・・・
また出かけて順々に、精米を行っている
門の低い家や、また門は広く乱れた
家々を、
次から次へと訪問し
自分の顔に正直な言葉でもって
ある所では低姿勢な言い方で
ある所ではけんか腰で
二十二軒をめぐりめぐって・・・
夕暮れに、小都のはずれにある
小さな駅にたどり着いたところ、
駅前の井戸に人がたくさん集まっていて
黒い煙の少し出ているポンプがあった。
「あんまり屈撓性が大きいのは
むしろ脆弱というべきであって
それは多くのイネ科植物と同じことだ」などと自分を省みては
あまりに心が傷んだので、
口をすすいで休憩しようと思い
駅の外に出たら、いつしか
ポンプはコトコト動いていて
子供たちがそのおかしな様子を眉をひそめて見ていた。
「この水は飲めるのかい?」と私が軽い調子できいたら
〈通〉の印の袢纏を着た
肩幅の広いあんちゃんが現れて
「さあ遠慮なくお飲み下さい」と言って
ホースの口を持ち上げたところ
水が烈しく噴き出したので、子供たちは逃げ去った。
そこで私は笑って、手で水をすくおうとしたら
まさにその時、水は止まってしまった。
あんちゃんは、
「これは残念だなあ、
もう少し早く来られてたら・・・orz」
と、とても悔しそうな様子だった。
私はすぐさま
すっかり疲れも癒えて
全身を洗われたような気持ちでそこに立ち
雲が立ち迷う青黒い山を望み見ていた・・・。
それは、諸仏菩薩と呼ばれてきたものが
常に新しい形をして
動き働いているという、まさにその存在を感じたからだ。

 1行目にある「北海道の拓殖博覧会」というのは、1931年(昭和6年)7月12日から8月20日まで、札幌の中島公園を会場に開かれた博覧会で、北海道拓殖博覧会全景全国各地の物産の展示やアトラクションなどが行われ、入場者は65万人という盛況だったということです。(右写真は「扶桑文庫」より)
 賢治がこの時、「あまたの標本」を県庁に持ち込んだのは、この博覧会における岩手県の陳列ブースに、東北砕石工場の製品を並べさせてくれという陳情のためだったのでしょう。
 ここで「色彩宇内に冠たり」と言っている方の製品は、白や淡灰色の石灰岩抹ではなくて、工場で最近製造を始めた「赤間砕石」とか「紫砕石」を用いた、建築材料だったのではないかと思われます。一方、「大連蠣殻」というのは、家畜にカルシウムを与えるための飼料として中国の大連から輸入される蛎殻粉末のことで、賢治と鈴木東蔵は、石灰岩抹を同目的の家畜飼料としても各地に売り込もうと、活動していました。
 これらの製品について、県庁のお役人に説明したり書類に記入したりした後で、「やゝ心にもなきこと書きて…」と自嘲している賢治ですが、有能なセールスマンであるためには、こういう方便も避けては通れない道なのでしょう。
 一仕事を終えて県庁の建物を出ると、目に入った木々の色は、「泣かまほしき藍」でした。

 さて、ゆっくりする暇もなく、次は工場製の石灰岩抹を、米を精米する際の「搗粉」として売り込むために、精米業者のところを一軒一軒まわります。
 今度は、賢治自身その効用を科学的にも説明できるので、セールストークは「心にもなきこと」ではなく、「まことのことば」です。相手の出方を見ながら、ある店では「ことばやゝ低く」、ある店では「闘ふさまなして」、賢治の営業活動は多彩です。
 そして、まわった店の数は、全部で22軒でした。

 下の表は、賢治が足で廻って作成し、1931年7月3日付で鈴木東蔵に送った盛岡市内の精米業者29軒のリストです。個々の業者について、搗粉の月間使用量、その仕入先、摘要が記入されています。もちろん、この作品に描かれた戸別訪問の成果も、ここには組み入れられているはずです。

盛岡市内の精米業者
(『新校本全集』第15巻より切り貼り)

 賢治の汗の結晶とも言うべき一覧表ですが、このような一日の仕事を終えて、賢治は街はずれの小さな駅にたどり着きました。駅前の広場には井戸があって、その汲み上げポンプは調子が悪いのか、黒い煙が出ています。

 さてここで賢治は、今日一日の自分の仕事を振り返って、「余りに大なる屈たう性は/むしろ脆弱といふべきこと/禾本の数に異らず」と、嘆じています。
 「屈撓性」というのは、何かの力が加わったら曲がってたわみ、また力が除かれたら元に戻る、「しなやかさ」のことです。イネなどの植物では、茎が硬いと強い風などでポキンと折れてしまうので、茎にある程度の屈撓性がある方が、災害に強いのです。しかし、あまりにしなやかすぎても、穂の自重によって「頭を垂れすぎて」日陰になるので、これもまたよくありません。
 この日の賢治は、朝は県庁へ行って、博覧会への出品のためにお役人との交渉にあたり、大げさなアピールをしたり、外国製品による侵略を防ぐためなどという理屈をこねてみたり、「やゝ心にもなきこと」を弄しました。
 次の精米業者訪問においては、ある所では低姿勢で相手のご機嫌をとり、ある所では一戦を交える覚悟で臨むなど、セールスマンのお手本にもなるような、変幻自在の交渉人を演じています。
 上記の7月3日付書簡365に書かれている、ある店での様子が面白いので、下に一部を引用してみます。

当工場製品ハ白色ノ方モ三春産ノモノニ著シク色彩劣ルトイフ。然レドモ成分ノ点ニ於テ如何トイフニ成分ノ如キ購買者誰カ之ヲ知ラントイフ。コノオヤジ米相場ナドヲナシ頭ニヌレ手拭ヲノセ甚頑固ナリ。(中略)折衝二時間遂ニ当工場製品ニ対シ何等ノ同情ヲ得ズシテ去ル。

 こんな「頑固オヤジ」を相手に2時間も粘り強く交渉して、何の成果も出なかったら、さぞ疲れもひどかったろうと思いますが、それでも賢治はくじけずに、店をまわり続けたのです。
 圧力を受けても折れず、場面によって巧みにスタンスを変えて対応する――これは本当に素晴らしい「屈撓性」 だと思いますが、でも賢治はそのような自分のやり方にも疑問を感じ、心を傷めているようです。
 こんなにまでして、いったい俺は何をやっているんだろうか・・・。

 思えば、賢治が東北砕石工場の技師を引き受けたのは、工場で製造する石灰肥料を広く岩手県の農地に行き届かせることができれば、酸性土壌を改良して農作物の収量を増やし、貧しい農家の暮らしを少しでも豊かにするのに貢献できるのではないかと、考えたためでした。この目的での石灰肥料の使用は、盛岡高等農林学校の恩師であった関豊太郎教授も主張していたところであり、嘱託を引き受けるべきか否かについては、わざわざ関博士に書面で伺いを立てたほどでした(1931年2月25日付書簡301)。
 ですから、「石灰肥料の普及」という仕事は、賢治自身にとって、元々の自分の学問的専攻と、農民救済という理想が合致するという意味において、並々ならぬ意気込みをもって開始したことだったのです。

 しかし、現実の工場の運営というのは、そんな理想の追求だけの作業ではありませんでした。
 肥料というのは、農作物を植える前の時期に使用するものですから、春にはかなり需要があるものの、それを過ぎると売り上げは大幅に落ちてしまいます。しかし工場は一年中稼働させなければなりませんから、その運転資金を捻出するためには、他の季節にも売れる製品の開発が必要となります。
 そのために、工場長鈴木東蔵と賢治がまず考えたのは、石灰岩抹を精米のための「搗粉」として売り込むことでした、玄米を白米にするためには、「米を搗く」という作業により、米粒どうしの摩擦によって、「糠」の部分を削ぎ落とします。この際に、あらかじめ玄米に「搗粉」を配合しておくと、これが一種の研磨剤となって、精米の効率が高められるのです。この目的のために、賢治は科学的所見も盛り込んだ「精白に搗粉を用ふることの可否に就て」という販売促進パンフレットも自ら執筆して、営業活動に用いていきます。
 「精米」というのは、たいてい農家自身がやるよりも米販売店が行うので、「搗粉を販売する」という仕事は、農家に何かの恩恵をもたらすわけではありません。となると、「農民救済」という賢治の理想からは離れてしまうようにも思えますが、まあこれも農家が作った米に関わることですし、良質の米が安く消費者に届けられるのは、農家にとっても間接的にはよいことかもしれません。
 ですから、ここまではまだ、賢治も自分を納得させることができた可能性はあります。

 しかし、次に工場が「建築材料」の製造販売にも取り組むことになった時、これはもう賢治の当初の理想とは、関係のないものになってしまいました。
 石灰岩抹を搗粉として販売するという活動によっても、まだ東北砕石工場の経営状態は、十分に安定したものとはなりませんでした。そこで鈴木東蔵と賢治は、工場の周辺の山で採取できる「赤間石」や「紫雲石」などという色彩の綺麗な鉱石を砕いて固めて、壁材などの建築材料として売り出すという事業に乗り出したのです。
 ここに至って、「農民救済」という最初の目標とのつながりは、完全に途切れます。もちろん、人は自らの理想のためだけに仕事をするわけではなく、工場で働く労働者の給料をきちんと払うのも、非常に大切なことです。それに、綺麗な色の石を貼り合わせたりして「壁材料見本」を作る作業は、子供の頃に「石コ賢さん」と呼ばれた鉱物好きの賢治にとって、きっと楽しいことだったのではないかとも思います。

 セールスマンとして、相手に応じて様々なスタンスで交渉にあたり、また工場経営を補佐しながら、柔軟な発想で製品開発や事業展開を行っていく・・・。それは実際、「大なる屈撓性」がなければできないことだと思います。
 しかし時に、仕事でくたくたに疲れ果てた時なんかには、「俺はいったい何の因果で搗粉や建材のセールスなんかやっているんだろう」と、ふと自問することもあったのではないかと思うのです。「余りに大なる屈たう性は/むしろ脆弱といふべきこと/禾本の数に異らず」という自嘲と、この時の心の傷みには、そのような背景があったのではないかというのが、私の感想です。
 ただ、こういう一言にも、専門用語も交えた農業的な比喩が巧みに用いられているところは、いかにも賢治らしいですね。

 さて、もう夕暮れになり、以上のように疲れて心も傷んだ賢治は、「小都のはづれなる/小き駅」にたどり着きます。この駅前で起こった小さなエピソードが、賢治の疲れと心の傷みをすがすがしく癒してくれたというのが、この珠玉のような文語詩の結末です。
 この結末は、賢治だけでなく、読む者をも浄化してくれるような感じです。

 ここでは、袢纏を着て登場する「をのこ」が重要な役割を果たしてくれるのですが、彼の袢纏には特徴的な印が付いていました。この記事では、パソコンの表記上〈通〉と記していますが、実際の賢治の草稿では、下写真の右上端ように、丸の中に「通」の字が書かれています。

「孔雀印手帳」59-60頁
(『新校本全集』第13巻より)

 「丸に通」と言うと、おなじみの「日通」こと「日本通運株式会社」のマークですよね。ではこの若者も日通の作業員なのかと思って、日本通運の社史を調べてみると、下のようになっていました。(日本通運株式会社の沿革・歴史より)

1872年(明治5年)  陸運元会社を設立
1875年(明治8年)  内国通運会社に改称
1928年(昭和3年)  国際通運株式会社として発足
1937年(昭和12年) 国策会社として日本通運株式会社を創設
1950年(昭和25年) 日通株を上場、民間会社として再出発

 つまり、「日本通運」という会社は、1937年に創設されたもので、賢治が東北砕石工場に勤めていた1931年にはまだできておらず、当時は「国際通運株式会社」だったのです。
 となると、この若者の素性は不明かと諦めかけていたのですが、当時の「国際通運株式会社」について調べてみると、その社章というのは下のものでした。

国際通運株式会社社章
(『国際通運株式会社史』より)

 この中心にあるのは、私たちも見慣れた「丸に通」のマークで、ただ両側にEの字が配されているところだけが違っています。「国際通運」の社章の中心部分が、その後身の「日通」にも引き継がれていたというわけですね。実は上の社章は、さらにその前身の「内国通運」時代の社章を受け継いだもので、1875年(明治8年)における内国通運会社の社章制定の趣旨には、「光輝燦然たる日章中に、「通」の一字を白く表はし、其の左右に Express の頭字なる E の字を配し、以て運送の迅速なる日本帝国の通運業者なりとの意を寓したるものにして…」と説明されています(『国際通運株式会社史』より)。
 そしてさらに、この当時に「丸に通」の印の付いた「はんてん」というのがあったのだろうかと、あれこれ調べているうちに、何とネットオークションで、その画像を見つけることができました。

 「国際通運」袢纏
(「mixiオークション」より)

 おそらく、賢治に水を飲ませようとしてくれた好青年は、この袢纏を着ていたのでしょう。
 彼は、疲れ果てて口をすすぎたかった賢治に、親切にもホースを取り上げて水を勧めてくれて、そしてその水が寸前で止まってしまった時には、まるで賢治の気持ちを代弁するかのように、素直に悔しがってくれました。
 その率直で大らかな感情表現は、お役人や米屋の頑固オヤジを相手に、神経をすり減らす折衝を一日中続けてきた賢治にとっては、とても新鮮に感じられたのです。そして賢治は、まるで全身が洗い清められたような気持ちになって、夕暮れの雲が立ち迷う盛岡郊外の青黒い山を、眺めました。
 そしてこの時、賢治はひそかに、「諸仏菩薩」の働きさえも感じていたのです。

 ということで、「丸通のはんてん」も見つけられたところで、最後にこのエピソードの舞台となった、「小都のはづれなる小き駅」についてです。
 この心温まる出来事が、いったいどこであったのかというのは気になるところですが、この詩の内容に対応した書簡が残されているおかげで、幸いこれははっきりと確定できます。
 1931年(昭和6年)6月18日付の書簡362の1および362の2を、下に掲載します(『新校本全集』第15巻より)。

362の1 〔六月〕十八日 鈴木東蔵あて 葉書
  《表》 東磐井郡 陸中松川駅前 鈴木藤三様
      十八日午后 仙北町駅ニテ 宮沢賢治

今朝商工課に参り北海道へ出品打合致し候処場処至って狭隘に付 二尺に一尺三寸の建築材料の原品及製品の額面一枚及標本瓶高さ一尺位のものへ肥料搗粉三乃至五種位とせられたしとの事外に広告は何枚にても頒布を引受くべく卅日迄に県庁へ持参あとは県にて運送との事に候。就て御手数乍ら別葉の分至急御調製御送附奉願候


362の2
 〔六月十八日〕 鈴木東蔵あて 葉書
  《表》 東磐井郡 陸中松川駅前 鈴木藤三様
      仙北町駅ニテ 宮沢賢治

続き、
 一、白き石にて製したる搗粉一ポンド
 二、仝  肥料二粍以下一ポンド
 三、仝  仝  一粍以下一ポンド
 (四、赤間は花巻に有之)
 五、紫石にて製したるもの粗細二種位 各三ポンドづつ
 六、青石にて仝上  各三ポンドづつ
尚豊川商会、吉万商会(肥料屋の分家)を歩き吉万より赤間二斗入り十俵或は五俵の注文を得候

 最初に記されている、「今朝商工課に参り北海道へ出品打合致し候処…」という箇所が、今回の「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」の冒頭にまさに一致しているところから、この二通のはがきが、この日の賢治からの業務連絡だったことがわかります。
 そして、表に記されている「仙北町駅ニテ 宮沢賢治」という部分が、この詩の舞台は「仙北町駅」だったことを示しています。

 「仙北町」は、東北本線で盛岡から一つ南にある駅です。

 藩政時代から仙北町の界隈には、盛岡の南の田園地帯で収穫された米を扱う問屋が多く集まっていたということで、その後もこのあたりには米屋が軒を並べていたので、賢治が訪問した精米業者もたくさんあったわけです。賢治が作成した上掲の精米業者のリストでも、「仙北町」「仙北組町」には9軒の名前が見られます。
 さらにここは、米のみならず他の農作物も、北上川の舟運に載せるための中継基地になっていましたから、昭和初期の仙北町も、物流においては重要な地点だったのです。つまり、「丸通」の袢纏を着た業者がいて当然の駅だったというわけですね。

 先日の連休に私は、この「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」の舞台となった場所が見てみたくて、仙北町駅に行ってきました。

仙北町駅

 こんな感じの、木造の小さな駅です。

仙北町駅

 現在は賢治が使った「井戸」はありませんが、上の写真の右端には、水飲み場があります。そして、そのちょっと左手前には、丸くセメントで覆われた箇所があるので、「これはひょっとして、昔の井戸の痕跡?」と一瞬思ったのですが、大きさからしてそうではなさそうです。

 駅の内部は、こんな感じ。

仙北町駅内部

仙北町駅内部

 こういうとてもレトロな感じがいいですね。

仙北町駅跨線橋

 木造の跨線橋のこういう雰囲気も、少し前まではごく普通に見られましたが、最近ではめっきり減ってしまいました。

仙北町駅ホーム

 きれいな花も植えられています。

 と言った感じで、小さいながらもレトロ感の漂う、素敵な雰囲気の駅なのですが、それもそのはずで、駅の正面には下の横断幕が…。

仙北町駅開業100周年横断幕

 ちょうど今年2015年は、1915年(大正4年)にこの仙北町駅が開業してから、100周年にあたるのです。
 駅長さんに、この駅舎も100年前のままなんですか?とお尋ねしたところ、あちこち改修したところはあるにせよ、基本的には開業当時のままだということでした。

 というわけで、この駅舎そのものも、賢治が「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」に書いた心温まる経験をした時と、同じままなのです!!

 盛岡から仙北町まで、東北本線の普通列車で、初乗り運賃の140円です。
 駅開業100周年の記念すべき今年、賢治の「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」を胸に、この「小都のはずれなる小き駅」を訪ねてみるというのはいかがでしょうか?

written by hamagaki : カテゴリー「作品について

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