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2014年5月18日 何をやっても間に合はない

 もう少し前のことですが、現代美術家で「きのこライター」でもある @H_Fukumoto さんが、「賢治にはきのこ栽培に関する詩もある」というツイート(下記)をしておられたので、その詩とはどれのことですか、とお尋ねしました。

 すると @H_Fukumoto さんは、『春と修羅 第三集』の「〔何をやっても間に合はない〕」だと、即座に教えて下さいました。
 作品本文を確認してみましょう。下記が、その全文です。

一〇九〇
               一九二七、八、二〇、

何をやっても間に合はない
そのありふれた仲間のひとり
雑誌を読んで兎を飼って
巣箱もみんなじぶんでこさえ
木小屋ののきに二十ちかくもならべれば
その眼がみんなうるんで赤く
こっちの手からさゝげも喰へば
めじろみたいに啼きもする
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
カタログを見てしるしをつけて
グラヂオラスを郵便でとり
めうがばたけと椿のまへに
名札をつけて植え込めば
大きな花がぎらぎら咲いて
年寄りたちは勿体ながり
通りかゝりのみんなもほめる
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
マッシュルームの胞子を買って
納屋をすっかり片付けて
小麦の藁で堆肥もつくり
寒暖計もぶらさげて
毎日水をそゝいでゐれば
まもなく白いシャムピニオンは
次から次と顔を出す
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
べっかうゴムの長靴もはき
オリーヴいろの縮みのシャツも買って着る
頬もあかるく髪もちゞれてうつくしく
そのかはりには
何をやっても間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
その(約五字空白)仲間のひとり

 私はあまり意識していなかったのですが、確かにここには、マッシュルームの栽培法が具体的に記されていますね。まず胞子を買って、納屋で小麦藁の堆肥にその胞子を播き、寒暖計で温度管理をしながら毎日水を注いでやれば、「まもなく白いシャムピニオンは/次から次と顔を出す」というわけです。これは栽培方法に関して、まさに簡にして要を得た記載です。
 @H_Fukumoto さんによれば、現代ならばマッシュルームの栽培は、「木やおがくずに菌糸を巡らせ済みのものを使うことが多い」とのことで、ここに書かれているように胞子から播くという方法を目にして、「時代を感じた」ということでした。

 そして次に @H_Fukumoto さんは、当時まだ日本で初めて栽培に成功してから間もないマッシュルームが、どのようにして岩手で栽培されるようになったのかということに、思いを馳せられます。

 上記ツイートに見るように、日本で初めてマッシュルーム栽培を行ったのは、森本彦三郎という人だったんですね。「千葉菌類談話会」による「千葉菌類談話会通信No.10」の記事を見ると、森本氏がアメリカでマッシュルーム栽培に成功したのは1912年ということで、上で指摘されているとおり、1927年に賢治が「〔何をやっても間に合はない〕」を書いた時点から15年前になります。さらにこの記事によれば、森本氏が日本で初めてマッシュルーム栽培を行ったのは、1921年(大正10年)に帰国して京都に農場を開いてからということですから、賢治の詩までは、あと6年しかありません。
 これは確かに、6年間の内にいったいどうやって東北岩手まで栽培法が広まったんだろうという疑問が起こります。いろいろ興味が湧いてきたので、調べてみることにしました。

 (なお、明治期にシイタケの人工栽培に成功した田中長嶺という人が、1891年に「新宿御苑での欧州産マッシュルームの栽培を手がけ、大きな成果を上げました」との記載が、愛知県西尾市による紹介ページにあります。これは、上記の森本彦三郎氏の栽培よりも前のことですが、この時点ではまだマッシュルーム栽培を実用化・普及させるまでには至らなかった、ということかと思います。)

 あれこれネットで調べつつ、例によって「国会図書館近代デジタルライブラリー」でマッシュルームの栽培について記した古い本を検索してみると、この当時のものもいくつか見つかりました。
  1927年以前に刊行されていた本としては、下の二つがありました。

『儲かる食用蕈の栽培法』    『莫大の利益ある茸類の栽培法』

 左の『儲かる食用蕈の栽培法』は1922年刊行、右の『莫大の利益ある茸類の栽培法』は1925年刊行ですから、いずれも「〔何をやっても間に合はない〕」より前のものです。そして、どちらの本にも当時の帝国図書館の「蔵書印」(前者には大正11年8月1日付、後者には大正14年10月21日付)が押されています。
 ということは、これらの本は賢治が1926年(大正15年)12月に上京して帝国図書館に通った時に、もしもその気になれば閲覧することが可能だったものです。そして内容的にも、どちらの本においても賢治作品と同じように、マッシュルームを胞子から育てる方法が説明されています。

 つまり、賢治が上京時にこういった本を帝国図書館で閲覧して、マッシュルームの栽培方法を新知識として吸収し、花巻に戻ってそれを農家の人々に伝えたということも、理論的には可能なわけです。しかしここで、これらの本の性格も含めてその内容をもう少し吟味してみると、それはちょっと違うのではないかという感じがしてきました。

 これらの本のタイトルは、『儲かる食用蕈の栽培法』『莫大の利益ある茸類の栽培法』というものであり、その性格は新たな知識や技術を客観的に記述した専門書ではなくて、「何か儲かる事業をやってみたい」と思っている一般農家の人々をターゲットにして、かなり戦略的に出版されたものだと言えます。
 内容を見ても、マッシュルーム栽培が他の仕事の片手間にもできる簡単なものであることを強調しつつ、また欧米ではマッシュルームが非常に多く食べられていて、もし今後日本でもこの食材が普及すれば、少ない労力で相当な利益が得られることが期待されるということを、重点的に宣伝しています。
 1922年や1925年の時点で、このように一般向けの「実利的」な本が出ているということは、このような情報は何も賢治が東京で調べてこなくても、1927年に岩手県の一般農家に普及していたとして、別に不思議はないのではないでしょうか。
 現に作品においては、マッシュルームの前に登場する「兎」に関しては「雑誌を読んで」と、また「グラヂオラス」に関しては「カタログを見て」と、直接の情報源が記されています。

 そう思って、「マッシュルーム + 栽培」というキーワードで国会図書館所蔵の当時の「雑誌」を検索してみると、『農業世界』の1926年1月号、1927年の5月号、8月号、9月号、11月号、1928年の11月号、『婦人之友』の1929年9月号などがヒットします。
 中でも1927年には、年に4号もの『農業世界』誌において、マッシュルーム栽培が取り上げられているわけで、その記事名を順に挙げてみると、「孵化室利用 マツシユルームの作り方」「趣味實用のマツシュルーム栽培法(一)」「趣味實用 マツシュルーム栽培法(二)」「マツシユルームの栽培日誌」という具合です。
 考えてみれば、この1927年とはまさに、「〔何をやっても間に合はない〕」が書かれた年であり、ひょっとしてこの年には全国の農家の間で、何か「マッシュルーム栽培ブーム」というようなものがあったのだろうか、という感じさえしてきます。

 ここでそのうちの一冊、『農業世界』1927年5月号の「目次」を見てみると、それは以下のようなものでした。

『農業世界』22巻6号
  時の流れと農村文化 / 佐藤昌介/18
  農村圖書館の經營 / 坪谷善四郎/20
  自作農創定維持に就て(三) / ?永孝一/23
  現代史上の農民天下(二) / 淺田江村/26
  小農と共同經營 / 草間耕生/31
  青年論壇 / 愛讀者/35
  草苺の繁殖法と定植 //39
  花束の拵へ方 / 宮川紫外/40
  飼育簡易な兎の柵飼法 / 田中正實/44
  牝豚去勢法の研究 / 北村健之助/47
  養蠶撒土箱飼の實際 / 三宅康/51
  果樹病蟲害豫防驅除上の注意 / 本條正直/55
  稻作の改良法と増收法 //60
  芽挿繁殖 皐月苗の作り方 / 宮川紫外/77
  孵化室利用 マツシユルームの作り方 / 坪根吾市/80
  家兎の屠殺から製革までの方法(一) / 山崎光美/84
  趣味副業『カナリヤ』の飼ひ方 / 中村八郎/91
  圖解説明『おもと』栽培一覽(附表) / 大山毅 /
  野鼠の驅除法に就て / 岩山新二/111
  高級園藝の實地經營者へ / 長田傳/117
  食用蛙とその飼ひ方(一) / 森谷吉五郎/121
  日本の温室臺灣を訪ふ(二) / 高園校旅行班/131
  山下博士の養豚法 / 田中鯉二/136
  肥料常識 我輩は過燐酸石灰である / 山川尚農/138
  田園文學の提唱を讀みて / 笠松芙蓉/140
  農業上から觀た 偉人熊澤蕃山 / 今村猛雄/143
  納税常識 どんな場合に相續税がかゝるか / 福田喜代松/148
  土洗ひの日(村を訪ねて) / 山中省二/156
  鐘は響く(田園美談) / 野本守人/160
  本誌廣告料金の改正に就て //110
  農業世界代理部の開設に就て //110
  農業世界代理部々報 //176

 この号の巻頭言を書いているのが、花巻出身で北海道帝国大学の初代総長を務めている佐藤昌介であるというのも、これは何かの縁ですね。賢治はこの3年前に花巻農学校の修学旅行を引率して札幌を訪れ、佐藤昌介総長に面会しています。
 さらに一覧を見ると、44ページに「飼育簡易な兎の柵飼法」が、80ページに「孵化室利用 マツシユルームの作り方」が、84ページに「家兎の屠殺から製革までの方法(一) 」が掲載されていて、「〔何をやっても間に合はない〕」に登場する「兎」と「マッシュルーム」とが、ここに一緒に顔を揃えているのも、単に偶然と思えない組み合わせです。
 そもそも賢治の作品においても、「雑誌を読んで兎を飼って…」と書かれていましたし、この号の発行時期は「〔何をやっても間に合はない〕」の3ヵ月前と時期的にも近く、花巻の大先輩たる佐藤昌介博士の文章も掲載されているとなると、作品に出てくる農家の主は、何らかの縁でこの『農業世界』5月号を読んでいたのではないか…という気さえしてきます。

 ところで、この『農業世界』という雑誌は、明治32年から昭和43年まで刊行された農業関係のメジャーな月刊誌だったのですが、この号の充実した目次の中で、「稲作」あるいは「米」について扱った記事としては、60ページの「稻作の改良法と増收法」ただ一つだけというのは、何か不思議な感じです。私ども一般人というのは、何はともあれ稲作こそが農業の中心であり、農家にとっても主要な関心事なのではないかと思い込んでいる部分があります。
 ところが、この目次に登場する作物や動物といえば、「草苺」「花束」「兎」「豚」「養蠶(蚕)」「果樹」「皐月」「マッシュルーム」「カナリヤ」「おもと」「高級園芸」「食用蛙」・・・であって、これらは軒並みいわゆる農家の「副業」に関する記事ではありませんか。
 これはいったいどういうことなんだろう、当時の農業に何か起こっていたのだろうかと思って、今度はこの頃の農業情勢について、調べてみました。

『農村振興に関する一考察』 大正時代の農村の窮状がどのようなものであったか、たとえば貴族院議員で理化学研究所の第三代所長であった大河内正敏氏が、1924年(大正13年)に刊行した『農村振興に関する一考察』においては、その状況は次のように記されています。

 中産階級の農家に到りては勿論更に悲惨のものであつて、不幸にして段々産を失ひつゝあるものと見るが至當である。即ち自作農の多くは其生活を支ふるに由なく、一部の所有地を賣つて僅かに當面の急に具へ、自作兼小作農となり遂に自己所有の耕地全部を失ひ盡して、純然たる小作となり終るのである。政府が必死となつて自作農の奨励を計画しつゝある一方に、自作農は反つて小作農に落ちて行くのである。例へば内務省の統計によれば明治四十三年には全国農家の総戸数の三割三分四厘が自作農であつたものが、大正六年には、三割一分六厘に減少し、其反対に自作兼小作と小作農とが増へて居る。

 つまり、自作農が経済的に困窮して、どんどん小作農へと転落していく状況にあったのです。
『農村副業講座』 また、1926年(大正15年)刊行の『農村副業講座』の「発刊の趣旨」は、こう書き出されています。

 今や全く農村は疲弊困憊の極に達してゐる、青年男女は争ふて都會へ、都會へと集中して田園に残りて田畑を耕す者は、老人か子供、又は頭のなき馬鹿扱を受くる青年男女のみ、僅に残る相続者の農業を営むものは非常なる結婚難に襲はれ、昔日は農村男女は二十歳前後にて早婚といはれる迄に婚姻は容易なりしも現在は如何、さなきだに虚栄心の強き女は百姓はしたくない、農家の嫁は眞平だ、たとえ九尺二間の裏店に住む男でも都會の人でさえあれば喜んで行く、かくして農村の處女は農村青年の純潔なる手より逃れて、虚偽多き都會の男の胸に抱かれて行くのである。
 確乎たる信念を以つて、農村に働ける青年も三十近くなつても家庭を作る能はず、悶々として日を送りやがては我れも都會へとて農村を捨ててあこがれの都へと進んで行く状態である。
 嗚呼、農村をこのまゝに放任せんか、其の極遂に破滅あるのみ、農村の興廢は国家の興隆に關する重大問題なり。

 上の文章を読むと、「さなきだに虚栄心の強き女は…」とか「かくして農村の處女は農村青年の純潔なる手より逃れて、虚偽多き都會の男の胸に抱かれて行く…」というところなど、あまりに描写が具体的すぎて、ひょっとしてここには何だか著者の個人的な思い入れが込められているのではないかと感じられるほどですが、いずれにせよ、大正期の農村は、非常な窮状にあったのです。

 このような農村の危機に対して、当時の政府は、農家の「副業」を奨励して収入を得させることで、何とか打開を図ろうとします。
 上の『農村副業講座』によれば、それは次のように説明されています。

 近時農村に對し副業を奨励せらるゝことが盛んとなり、政府は大正十四年度に於て農村振興の経費として三十四萬円を此の方面に仕向け農林省に於ても農務局に副業課を再興して、専ら副業の奨励に當らしむることとなつて來た。

 すなわち政府は、1925年(大正14年)に「副業奨励金交付ニ關スル規則」を公布し、農家が副業を興すために様々な形で奨励金を交付することとし、例えば「副業ニ關スル参考品並副業用種苗及器具機械ノ購入及配付」に際しても、産業組合あるいは法人は、国から奨励金を受け取ることができるようになったのです。
 このような政策誘導によって、農家の副業となるような物を扱う業界に、かなりのお金が流れ込んでくることになったのは、想像に難くありません。
 ここでご紹介した『農村副業講座』という本からして、下のように養蜂業者や球根販売業者の広告が入っていて、何かよい副業はないかと探している農家や関係者に、誘いをかけています。

 養蜂広告   球根広告

 そして、この本の目次を見ると、コンニャク、輸出向け生姜、球根花卉、テッポウユリ、除虫菊、養鯉など21種もの副業が並べられているのですが、その冒頭を飾っているのが「シャンピニオンの栽培」、13番目に登場するのが「養兎の副業経営法」なのです。
 また、「有利有望なる球根花卉栽培法に付いて」の章を見ると、栽培を推奨する花の種類については、次のように書かれています。

 農家の副業として栽培し易く且つ蕃殖率の強く然も世人の嗜好に適し需要多大にして目下我が國の園藝界に最も多く取引せらるゝもの左の如し。
 チユリツプ、ヒヤシンス、アネモネ、ナーツシサス、クロツカス、イキシヤ、花百合、グラジオラス、アイリス、フリージヤ、斑入カラ、アマリリス、スバラキシス、ダリヤ、リウゴンシス、水仙、シクラメン等。
 以上の中最も多く取引せらるゝものはダーリヤ、チユリツプ、グラジオラスを第一とす。(強調は引用者)

 すなわち、この頃に「グラジオラス」は、農家の副業として有望とされる球根花卉の、三大品種の一つだったわけです。

 これでやっと、賢治の「〔何をやっても間に合はない〕」に登場する、兎、グラヂオラス、マッシュルームの三者が、出揃いました。
 すなわち、賢治がこの詩を書いた当時において、この三つの品目は、生活の苦しい農家が少しでも収入を増やそうと取り組んでいた副業の、典型的な対象だったわけです。賢治が言うところの「ありふれた仲間」は、何とか暮らしを楽にできないかという望みを託し、これら農村副業の典型的事業に、手を出してみたというわけです。

 しかし賢治は、作品の中でこれらを一つ一つ具体的に描写しては、そのどれに対しても、「さうしてそれも間に合はない」「何をやっても間に合はない」と、絶望的な答を出します。
 賢治の目に映っていた農村の状況は、いったいどんなものだったのでしょうか。

 その現実は、賢治自身の作品や、その他の様々な資料によって推し量ることができるでしょうが、とくに「農家副業」という分野の実情について、その一端を垣間見せてくれると思われる資料が目に付きました。
 1930年(昭和5年)11月29日付「大阪朝日新聞」の論説の一部を、下に引用してみます。

儲からぬ農家副業  (財界六感)

農村疲弊の対策として、盛んに副業が奨励されたものだ。そして今度の米繭の暴落に際會しても、他の副業収入によつてその苦痛を緩和し得たものがないではない。
                    ◇
しかし全國的にこれを通視すれば、當局の熱心なる奨励指導に拘らず、副業に失敗して却って苦しんでゐるものゝ方が遙かに多い。これは要するに、その指導奨励なるものが技術的方面にのみ限られ、副業品の販路すなわち市場関係の研究に缺くるところがあつたからである。
                    ◇
何々が有利だとなると、吾れも吾れもと同じ副業に手を伸ばす、そして當局者は、たゞ統計報告書において、その産額の殖えたことを無上の誇りとし、その製品が賣れやうと賣れまいと殆ど風馬牛の感がある。だから無謀な販賣競争が始まり、結局共倒れとなつて、注ぎ込んだ金の回収すら出來ずに借金の上塗りをするのが落ちである。
                    ◇
大體において、副業品の價格は、商人殊に仲買人の言ひなり次第だといつてよい。従つて仲買人の口銭なるものは、常に農民の肥料代、原料代、手間賃等を侵蝕することによつて高められてゐる。生産費を割つた副業の永續せぬのは当然すぎるほどの当然ではないか。
                    ◇
しかしそれといふのも、元を質せば、農家の資力が薄弱で、仲買人の付け値に對し、頑張り通し得ないことゝ、さらに農民が市場の情勢に盲目で、副業を有利に傾向づけるポイントを摘み得ないことゝが、その主因をなしてゐる。だからドゞの詰りは、矢張り農民自身が財的にも智的にもその地位を高めることに成功するより外に途はなく、さもなくば副業が却つて農家の重荷であるという状態から、容易に脱することは出來まいと思はれる。
                    ◇
共同販賣や共同調査等の組織が漸次改善されつゝあるとはいふものゝ、全体を通じて見れば、まだ遺憾の点が夥しくある。殊に資力に薄い農民が、蔬菜類や果實類を市街地に売歩いてゐるのをよく見受けるが、彼等は、帰りがけには必ず賣れ残りを殆ど只同様に捨賣りするのが例である。そのために、その次ぎからは、その捨賣値でなければ売れず、自ら好んで墓穴を掘るの愚を敢てしてゐる。
(以下略)

 厳しく悲観的な指摘ですが、実際にはこれが、政府の副業奨励策の結果だったのかもしれません。最後の部分などは、羅須地人協会時代の賢治が、球根花卉をリヤカーに積んで町へ売りに行き、売れ残った花を無料で配っていたというエピソードも、連想させます。
 賢治自身、何とかして農民の暮らしを改善しようといろいろ考えたでしょうし、自らも試行錯誤を行いました。そして、「ポラーノの広場」の終章では、ファゼーロたちの産業組合が、ハムや皮製品や醋酸やオートミール製造などの副業経営において、成功している様子が描かれています。

 しかし現実の賢治が、近所の農家が懸命に兎やグラジオラスやマッシュルームを育てている様子を見た上で、結局その口から漏れた言葉が「何をやっても間に合はない」だったとすれば、それはとても辛いことです。
 賢治もさぞ、辛かったことでしょう。

大阪朝日新聞1930年11月29日「財界六感」
「大阪朝日新聞」1930年11月29日「財界六感」

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項

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