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2012年10月21日 墜落恐怖と恐怖突入

 前回は、童話「双子の星」の中で、チュンセ童子とポウセ童子が天上から海へ墜落する場面について触れましたが、賢治の初期の童話には、これ以外にも「落ちる」というテーマが、繰り返し出てきます。
 天沢退二郎氏は、ちくま文庫版『宮沢賢治全集』の「蜘蛛となめくぢと狸」の解説で、次のように述べておられます。

 この作品(「蜘蛛となめくぢと狸」)には同じく最初期の「貝の火」「双子の星」と共通して≪落ちる≫あるいは≪堕ちる≫ということへの危機感ないし強迫観念がつよくうち出されているが、前二者がいずれもごく無邪気(イノセント)な存在が暴力や誘惑によって引きずり落されるのに対し、ここではいずれも極めつきの悪党がその所業の赴くままに地獄へ堕ちてゆく。

 すなわち、「蜘蛛となめくぢと狸」では、ある時点まで自分の力を謳歌した3人がいずれも自業自得の死を迎え、「貝の火」では、宝珠をもらって得意になった兎の子が堕落し、「双子の星」では前述のように、天上から海へ落ちた星が「ひとで」と化して失意に暮れます。これ以外でも、やはり初期作品の「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の主人公ネネムも、出世の絶頂において足を踏み外してその地位を失いましたし、さらに言えば「ツェねずみ」などのねずみシリーズや「カイロ団長」なども、驕れる者の破滅を描いている点では、モチーフに共通性があります。「雁の童子」も、罪によって天から落ちてきました。
 このように同型のテーマが繰り返し登場する様子に、天沢氏は「≪落ちる≫あるいは≪堕ちる≫ということへの危機感ないし強迫観念」を見てとったわけですが、ここで「危機感ないし強迫観念」を抱いているのは、もちろん作者自身ということになります。
 確かに、これほどまでに共通したパターンが存在するとなると、これは何か当時の作者が持っていた心理的な要因を反映しているのではないかと、考えたくもなります。はたして、初期童話を書いた1921年(大正10年)〜1922年(大正11年)までの賢治の内面に、そのような要素はあったのでしょうか。

 この頃までの賢治の実生活を見てみると、まず目につくのは、盛岡高等農林学校時代の抜群の優等生ぶりと、卒業後の悶々とした日々の対照です。
 賢治は盛岡高等農林学校に首席で入学して、その秋から級長に任命され、第二学年・第三学年ともに特待生として授業料を免除されています。さらに第三学年では、「旗手」にも任命されました。すなわち、教官からも同級生からも、最高の評価を受け続けた学生時代だったのです。
 ところが卒業後は、いったん研究生になったものの家業を理由に辞し、それからは店の手伝いをしながら苦悩の日々を送ります。1919年(大正8年)に保阪嘉内にあてた手紙には、その頃の心理を反映した自虐的な言葉が連ねられています。

 私は実はならずもの、ごろつき さぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長、ごまのはひの兄弟分、前科無数犯、弱むしのいくぢなし、ずるもの わるもの 偽善会々長 です。(書簡152a)

 私の父はちかごろ毎日申します。「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんか折角ひねくりまわすとは不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは不見識の骨頂。きさまはとうとう人生の第一義を忘れて邪道にふみ入ったな。」(書簡154)

 すなわち、最高の栄誉に浴し続けた学生時代から、1年あまりでほとんど真っ逆さまに「墜落」し、父親から「邪道にふみ入ったな」と罵倒される状態にまで陥ったのです。実際にこのような目まぐるしい経験をすると、≪落ちる≫あるいは≪堕ちる≫ということの恐怖が心に刻み込まれるのも、無理もないかもしれません。
 思えば、賢治は盛岡中学時代にも、途中までは成績優秀だったのに、上級校へ進学させてもらえないことが明らかになると勉学の意欲を失い、成績は落第ぎりぎりまで落ちたのでした。この時は操行評価までもが、乙から丙に下がっています。
 つまり賢治は、ジェットコースターのように≪落ちる≫という体験を、少なくとも二度は重ねていたのです。

 また、このような体験をより強く意識させる上では、父親との関係も影響したかもしれません。
 若い頃の賢治は、母や妹弟たちとおかしな話をして笑い転げていても、部屋に父が入ってくると即座に笑いをやめて、居住まいを正したというエピソードがあります。甘えを許さない厳しい父親の存在は、子供の心に強い畏怖と自戒の念を育み、それが上のような実生活上の体験を、より深く心に刻みつける作用を果たした可能性があります。
 書簡154のように、賢治は実際に父に厳しく叱責されたのでしょうが、彼はこういう場合に後ろを向いて舌を出してやり過ごせるような息子ではありませんでした。父の絶大な権威によって断罪された彼は、それを真正面から受けとめ、≪落ちる≫ことの恐ろしさを、骨身に沁みて味わったのではないでしょうか。

 「貝の火」の中で、ある晩ホモイは「高い高い錐のやうな山の頂上に片足で立ってゐる」夢を見ますが、これこそまさにこの「墜落恐怖」というものを、如実に表しているイメージだと思います。賢治自身が、こういう夢を見たことはなかったでしょうか。

◇          ◇

 以上はあくまで一つの推測にすぎませんが、本来こういった詮索よりも興味深いのは、この「墜落恐怖」という観念が、後々の賢治の人生においてはどうなっていったのかということです。
 その後の賢治の作品を見ると、この種のモチーフが頻繁に顔を出すのはある時期までのことで、いつしかそんな題材は姿を消していきます。
 賢治の中でこのテーマは、その後どうなっていったのでしょうか。もしも賢治がこの強迫観念から脱け出すことに成功したのなら、それはいかにしてだったのでしょうか。
 それを示してくれているように私が思うのは、1922年(大正11年)5月21日にスケッチされた作品、「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」(「春と修羅 補遺」)です。

 この詩に描かれているのは、天上から≪堕ちる≫天人たちであり、天人は「水素よりもっと透明な悲しみの叫び」を上げながら、冷たく苦い鹹水の湖に堕ちて行きます。そして彼らは・・・。

そこに堕ちた人たちはみな叫びます
わたくしがこの湖に堕ちたのだらうか
堕ちたといふことがあるのかと。
全くさうです、誰がはじめから信じませう。
それでもたうたう信ずるのです。
そして一さうかなしくなるのです。

 天人でありながら、このように信じられないほどつらい目に遭ってしまうわけで、この作品もこの箇所までは、「墜落恐怖」をモチーフにしていると言えます。
 ところが、この作品の最後の部分は、これまでの「墜落恐怖」的作品とは、違った展開を見せます。

こんなことを今あなたに云ったのは
あなたが堕ちないためにでなく
堕ちるために又泳ぎ切るためにです。
誰でもみんな見るのですし また
いちばん強い人たちは願ひによって堕ち
次いで人人と一諸に飛騰しますから。

 すなわち、これまでの他の作品は、≪堕ちる≫ことを戒めるというスタンスに立っていたのに対して、ここでは「あなたが堕ちないためにでなく/堕ちるため」に云うのだとしているのです。そしてさらには、「いちばん強い人たちは願ひによって堕ち」るのだと述べています。
 この「あなた」とは、結局は賢治自身なのでしょう。

 さて、ここに出てくる、「願ひによって堕ちる/いちばん強い人たち」とは、仏教的な悟りの世界から人間界に下りてきて、衆生救済に努める存在=「菩薩」のことです。賢治はここで、菩薩行を讃えています。
 しかし同時にこれは、「墜落恐怖」というテーマとの関連で見れば、「墜落の恐怖から逃れる究極の方法は、安全な場所へと逃げ続けることではなく、逆に自分から墜落することである」ということを、身をもって示してくれているのです。
 落ちないための努力をいくら続けたとしても、人は完璧な安寧には永久に至ることはなく、常に不安を抱え続けなければなりません。しかし逆に、自ら進んで落ちてしまえば、そのような不安からは一挙に解放されるのです。これは、受動と能動とを逆転させるという意味において、まさにコペルニクス的な転回です。

 また、強迫観念の克服という観点から見ると、これは神経症に対する「森田療法」という治療において、恐怖の対象から逃げるのでなく、逆に自ら対象に向かっていくチャレンジ=「恐怖突入」によって乗り越えよ、と奨めることに似ています。例えば森田正馬が、人前に出ると顔が赤くなるのではないかという不安にとらわれてしまっている赤面恐怖の人に対して、「奮励一番、電車に乗りて、自分の張り裂けるやうな赤面を衆人の前に曝すべし」と言っているようなことです。
 あるいはこれは、「行動療法」の文脈では、「曝露療法(Exposure)」に相当するものです。

 もちろん私は、賢治が「墜落恐怖」から脱出するという目的のために、「菩薩行」を目ざそうとした、などと主張するつもりは毛頭ありません。賢治の実践活動は、幼少期からの仏教信仰に根ざし、他者に対する深い共感と利他精神に由来するものでしょう。その思想や行動には、それとして一貫した流れがあります。
 ただ、苦悩の青年期を送っていた彼が、仏教を究めようとする過程において、「願ひによって堕ちる」という逆説的行動の可能性を知った時、それは彼にとって生きる導きとなるとともに、その心の奥底にずっと引っかかっていた「墜落恐怖」という強迫観念を昇華する役割をも果たしたという、不思議なめぐり合わせがあったと思うのです。
 このような新たな転回=展開が起こるちょうど節目に位置しているのが、一つのテクストの中に受動的に落ちる者と能動的に落ちる者の双方の要素を併せ持つ、「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」という作品なのではないかと、私は思います。

 さて最後に、こういう風に考えてきて私が感ずることの一つは、宮澤賢治がこの作品を書いた1922年5月21日という日は、彼にとって何と中身の濃い一日だったのか、ということです。この同じ日曜日に彼は、はるばる小岩井農場まで行ってあの長詩「小岩井農場」を書き、ここでも当時悩んでいた対人的葛藤について、それを超克するような飛躍をしようとしたのです。
 あともう一つ私が感じるのは、「墜落恐怖」の強迫から、「願ひによって堕ちる」という方向へと転回したことによって、賢治の人生には新たな眺望が開けたでしょうが、その一方で、ここからまた賢治の晩年まで続く「自己犠牲」という主題への没頭が、始まってしまったのではないか・・・ということです。

菩薩像
菩薩像(賢治画)

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項

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コメント



落ちる(堕ちる)恐怖を賢治が持ったというのは考えた事がありませんでした。ちょうど賢治の書簡集のその所を偶然にも読んでたんです。
あの手紙の過剰な?自虐性は相手の嘉内が県の代表として大会に出るのに比べ自分は家の手伝いとして悶々としている日々との落差感情から来るのかなあ等と考えてました。
父親の罵倒も賢治の書いている言葉どおりのそこまで痛烈なものとは思えないのですがここにも自虐性の激しさが。
その因を成してるのが「堕ちてしまった」という恐怖感だというのは納得です。
それから自ら堕ちて衆生と共に再び回帰する逆転の発想。親鸞であれば還相のような思想転換が「悟り」の境地にではなく単なる「自己犠牲」になっていったとすれば哀しいですね。思想の弱さでしょうか。賢治特有の強い共痛感覚性またはその時代特有の暗さ閉塞感から来るものなのでしょうか。

投稿者 ガハク : 2012年10月22日 22:07

後半はいい加減な事を書いてしまいました。ごめんなさい。
とにかく天才が時と場所を得るには色々な条件が必要なのだろうかという思いがします。
トシの死や自らの病気。その中に「落ちた=堕ちた」という挫折感。堕ちて行くという恐怖もあったのかと。

投稿者 ガハク : 2012年10月22日 22:38

ガハクさん、書き込みをありがとうございます。

はい、私もこの「願ひによって堕ちる」という考えから、親鸞の云う「還相」を連想しました。
しかし、賢治がこれについて語っている様子というのは、親鸞に比べると何か悲壮で息が詰まりそうになるんですね。
賢治自身が負った深い傷や、時代の要因もあるかもしれませんが、やっぱり彼は自分に厳しすぎると思います。
でもそれがまた、読む人の心を痛いほどに刺す、稀有な作品の要素となっているのでしょうが・・・。

それにしても、私は仕事柄か、ちょっと今回のようにいろいろ詮索しようとしすぎてしまう悪い癖があるようです。
お付き合い下さいまして、感謝申し上げます。

投稿者 hamagaki : 2012年10月23日 00:18


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