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2012年6月 7日 身熱の日々

 1926年(大正15年)春に農学校教師を辞めて、下根子桜の羅須地人協会で独居し農耕生活を始めてから、賢治は何度か体調を崩して発熱する時期があったようです。

 その一つは、1926年(大正15年)11月上旬で、この時は11月4日付けの「七四四 病院」(「詩ノート」)という作品も残しているところから、『新校本全集』年譜では、「四日以後数日間入院したと推察」と記しています。実際、11月15日付けで、その一つ後の作品番号を有している「七四五 〔霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ〕」(「詩ノート」)には、次のように書かれています。

  七四五
                     一九二六、一一、一五、
霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ
   影を落す影を落す
   エンタシスある氷の柱
そしてその向ふの滑らかな水は
おれの病気の間の幾つもの夜と昼とを
よくもあんなに光ってながれつゞけてゐたものだ
   砂つちと光の雨
けれどもおれはまだこの畑地に到着してから
一つの音をも聞いてゐない

 11月4日から15日の間に賢治が入院したという証拠はないのですが、4日に熱があって病院へ行ったこと、その後に「おれの病気の間の幾つもの夜と昼」があってこの間に作品は書いておらず、15日には久しぶりに畑に出てみたということ、少なくともはこれらの事柄は、二つの作品から読みとれます。

 またもう一つの時期は、1927年(昭和2年)6月中旬です。「詩ノート」には、6月13日付けで、次のテキストが記されています。

  一〇七五
                    六、一三
わたくしは今日死ぬのであるか
東にうかんだ黒と白との積雲製の冠を
わたくしはとっていゝのであるか

 この「わたくしは今日死ぬのであるか」という字句だけでは、病気になっていたと決めつけることはできませんが、さらに「詩ノート」には同じ日付で、次のテキストも記されています。

  一〇七六
   囈語
                   一九二七、六、一三、
罪はいま疾にかはり
わたくしはたよりなく
河谷のそらにねむってゐる

せめてもせめても
この身熱に
今年の青い槍の葉よ活着(つ)け
この湿気から
雨ようまれて
ひでりのつちをうるおほせ

 「囈語」とは、「うわごと」という意味ですね。一行目の「疾」は、下書稿(二)では「やまひ」と読ませており、さらに出てくる「身熱」という言葉を併せて考えると、賢治はこの6月13日に発熱してうなされながら、「わたくしは今日死ぬのであるか」とまで感じたのだろうと推測されます。

 「〔わたくしは今日死ぬのであるか〕」の方に出てくる「積雲製の冠」とは、おそらく実際に積雲が、冠のような形をして見えたのかと思います。そしてその雲の冠を「戴く」という空想からは、2ヵ月ほど前に「春の雲に関するあいまいなる議論」において、黒雲に対する「うらがなしくもなつかしいおもひ」を歌い、「あれこそ恋愛そのもなのだ」と言った、賢治の雲を恋い慕う気持ちがうかがわれます。
 ちなみに、さらにその2年ほど後には、「疾中」所収の「〔その恐ろしい黒雲が〕」において、やはり熱にうなされている賢治は、「雨雲と婚する」などと言った自分自身を責め、後悔しています。

その恐ろしい黒雲が
またわたくしをとらうと来れば
わたくしは切なく熱くひとりもだえる
北上の河谷を覆ふ
あの雨雲と婚すると云ひ
森と野原をこもごも載せた
その洪積の台地を恋ふと
なかばは戯れに人にも寄せ
なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ
青い山河をさながらに
じぶんじしんと考へた
あゝそのことは私を責める

 まだ1927年6月の賢治にとっては、上のような心境は知る由もありません。
 「一〇七六 囈語」においては、自分は「そらにねむっている」と感じていますが、自分の好きな雲の一つにでもなってしまったような心地なのでしょう。
 しかしこの作品において何よりも目を引くのは、病床に死を意識する一方で、自分の身の熱が「青い槍の葉(=稲)」の活着のために役立たないか、また汗による湿気から雨が生まれて「ひでりのつちをうるおほせ」られないかと、必死に願っているところです。
 このイメージこそ、この時期から徐々に自分の無力さを悟ることになる賢治が、それでも農業を救わなければと念じつつ、おのれに背負わせていくことになるものです。それは、「グスコーブドリの伝記」においては、人工的に雨を降らせたり火山の爆発で冷害を食い止めるという発想の契機となり、「〔雨ニモマケズ〕」においては、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」という一節に形象化しました。
 そして最後に絶筆短歌においては、

病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり
   みのりに棄てばうれしからまし

と詠われたのです。

 羅須地人協会時代において、さらにもう一つ発熱した時の作品を挙げるならば、それは1928年(昭和3年)7月20日の、「停留所にてスヰトンを喫す」です。

わざわざここまで追ひかけて
せっかく君がもって来てくれた
帆立貝入りのスイトンではあるが
どうもぼくにはかなりな熱があるらしく
この玻璃製の停留所も
なんだか雲のなかのやう
そこでやっぱり雲でもたべてゐるやうなのだ

 教え子のところへ農業指導に行った帰りか何かなのでしょうが、「かなりの熱」を出してしまいます。これまで奔走を続けてきた賢治は、まさに倒れそうになりつつ、作品の最後の部分で、自分の運命を予感しています。

あとは電車が来る間
しづかにこゝへ倒れやう
ぼくたちの
何人も何人もの先輩がみんなしたやうに
しづかにこゝへ倒れて待たう

 自らを、「何人も何人もの先輩」に続く者の一人として、意識しているのです。

 「停留所にてスヰトンを喫す」の後は、直接農業に携わっていた時期の最後の輝きとも言える作品「穂孕期」が4日後にあって、8月に入るとついに病状が決定的に悪化して、羅須地人協会時代は終わります。

 ところで細菌の感染症には、ペストとかコレラとか赤痢のように、細菌が強い毒素を持つために、感染が一定以上進行すると短期間で致死的にもなるが、治る時はさっと治ってしまうという「短期決戦型」の病気と、細菌の毒性は強くないけれどもなかなか体内から駆逐できないために、長年にわたって進行して時に命を奪う「持久戦型」の病気があります。
 結核は、持久戦型の感染症の代表で、肺や腸などさまざまな場所に居着いた結核菌を、体の免疫機能は何とかしてやっつけようとして、長い戦いが続けられます。有効な抗生物質のなかった時代には、栄養を付けたり、気候のよい療養所に入ったりして、何とか体の抵抗力を強めた結果、結核菌に対して勝利を収められることもありましたが、それが叶わなかった場合には、最終的には肺炎などによって死に至ることも多かったのです。

 賢治は、若い頃に結核の初感染を経験していたと推測されますが、親元で生活しつつ教師をしていた間は健康で、徹夜で山歩きをするほどの体力もありました。親から離れて、羅須地人協会を始めてからは、「自炊」とは名ばかりで「ジャガイモだけ」とか「菊芋だけ」などという偏った食生活を続け、無理な農作業による体力の消耗もあって、体内に静かに潜んでいた結核菌が、再び活動を再開してしまったのだと思われます。
 この2年あまりの間に、少なくとも上に挙げた3回の病勢悪化があり、結核菌はそのたびごとに賢治の肺の中で、次第に支配領域を広げて行ったわけです。

 賢治の生涯のこのあたりをたどるといつも、「こんな無茶をせず、きちんとした食生活をしていたら・・・」と、思わずにはいられません。しかし、それもまた「賢治らしい」ことで、結局誰が止めても聞かなかったのでしょう。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項

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コメント



肺炎が進行性の病気なことを知っていた賢治は身体に無理な生活が病気にも良くないとは知っていたでしょうから覚悟の上だったのかもしれませんね。
少し熱が出たりするとすぐに「死」を思うのもトシの事があったからだけではなくまた感傷的ヒロイックな気持ちからでもなく実際にその危機意識が常にあったからなんでしょうか。
センチメンタルな気持ちを持った事を後悔したり自身の熱や汗が人々の為に役立つように願ったりするのは晩年の賢治の思いそのものだったんですね。
それにしても僕も賢治の傍にいればどうしたって休むように無理強いしたくなっただろうと思う事がよくありました。実際周囲の人の中にはそうしようとした人もきっといたのではないでしょうか。
でも誰の言う事も聞かなかったに違いないだろう、なんかすごく残念で仕方ありませんが確かに正にそこにまた宮澤賢治という人がいるんだろうと思うしかありません。

投稿者 ガハク : 2012年6月 8日 01:08

ガハクさん、書き込みありがとうございます。

自分が結核であることを知りつつ、妹がたどった経過も思い浮かべ、そして「わたくしは今日死ぬのであるか」と、さすがの賢治も時に狼狽しつつ、しかしそれでもあくまで同じ生活を続けたのは、やはり彼は「確信犯」だったのかと、あらためて思います。
いや、お言葉のように「覚悟」と言うべきでしょうかね・・・。生と死との間の何かを追求しようとしていたのかもしれません。
「詩は裸身にて理論の至り得ぬ堺を探り来る そのこと決死のわざなり」とも書いていました。

この後の「疾中」詩篇の時期には、もろに病気の真っ只中で、まさに生死の境を詩に詠んでいくわけですが、上に挙げたのは、『春と修羅 第三集』の時期にある、その萌芽でした。

それにしてもこの人は、いったい何なんでしょうね・・・。

投稿者 hamagaki : 2012年6月 9日 02:05

耕生(kulturisto)です。

大変遅いコメントになってしまい、申し訳ありませんが、一言、二言、述べさせて下さい。

宮沢賢治の病には「精神的なもの」と「身体的なもの」とのふたつがありますが、どうもゴッチャにして扱われているような気がします。

どうやら、昭和3年(1928年、羅須地人協会活動の開始された年)の11月4日頃に、賢治は何か重要な精神的ショックを受けたのではないかと思うのです。そのショックの心象的現象を賢治は「七四四 病院」という詩ノートに書き付けています。

詩全文は、hamagakiさんのサイト内検索で読むことが出来ます。

しかし、行ったり来たりでややこしいので、ついでに全文をコピーさせていただきます。さらに、ついでに言っておきますと、この詩らしきもの?に異稿はありません。

七四四  病院   一九二六、一一、四、

  途中の空気はつめたく明るい水でした
  熱があると魚のやうに活溌で
  そして大へん新鮮ですな
  終りの一つのカクタスがまばゆく燃えて
  居りました
  市街も橋もじつに光って明瞭で
  逢ふ人はみなアイスランドヘ移住した
  蜂雀といふ風の衣裳をつけて居りました
  あんな正確な輪廓は顕微鏡分析(ミクロス
  コープアナリーゼ)の晶形にも
  恐らくなからうかと思ふのであります


こんな詩です。
何を意味しているのか、このままでは、さっぱりわかりません。

さらに奇妙な事には、次の745番が「[霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ]」になり、重複しますが、下記のような心身の異常を示すようになります。

  七四五
            一九二六、一一、一五、

 霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ
    影を落す影を落す
    エンタシスある氷の柱
 そしてその向ふの滑らかな水は
 おれの病気の間の幾つもの夜と昼とを
 よくもあんなに光ってながれつゞけてゐたものだ
    砂つちと光の雨
 けれどもおれはまだこの畑地に到着してから
 一つの音をも聞いてゐない

この詩(心象スケッチ)の中の

「おれの病気の間の幾つもの夜と昼とを」

これを、hamagakiさんは実際の病気と捉え、「どこかの病院に入院したのではないか?」と推定されているわけですが、これを、心の異常、あるいは心理的ショックととらえてみるのも一興ではないでしょうか?

そう考えると、前掲の「病院」の日付が大変重要になってきます。1928年11月4日です。

どいうわけか、ほとんどの年表で無視されているのですが、この頃に、ある重要な出来事が賢治の周辺で起きています。

文字通り、「賢治とその周辺」(川原仁左衛門編著、1972年刊)という著書には、アザリア同人である小菅健吉がこの年、米国から帰国し、母校である盛岡高等農林へ報告後、羅須地人協会活動中の賢治に会いに花巻に来ていることが記されています。

その日付けは小菅健吉本人の手では、「11月上旬」とだけしか記述されていませんが、11月4日だったのではないでしょうか。

8年ぶりに会った同い年で同級生、同専攻(農芸化学)の小菅健吉と賢治はどんな会話を交わしたのでしょう。健吉の記述によると、

「帰る際、一席をもうけてくれ、友人の工藤を呼び三人で呑んで、唄ってと云いたいところ、呑めず、唄えず(音痴)たゞ昔語りに花をさかせたのだった。」

とあります。小菅健吉の人となりを類推することの出来る飾り気のない簡潔な文章です。

その時の会話がどんなものであったのかを知る資料は何ひとつ残されていません。
以下は私の推定に過ぎません。

いろいろの説(特に元日本女子大大学院院生の深見美希氏の論文)によって、この頃健吉は大乗仏教の唯識、簡単に言ってしまうと「空」の境地を目指していたということがわかります。

しかも、アザリアでの健吉の号は「流水山人」あるいは「流るる子」であることを考え合わせると、健吉がアメリカ帰りとは言え、大乗仏教の唯識思想あるいは空観(色即是空 空即是色の境地)に近づいていた、あるいはそれを理想にしていたことは想像に難くありません。

そこで思うことは、賢治が、この時期に妙法蓮華経信仰に、どの程度はまっていたかということです。おそらくは、まだ抜けきっていないどころか、夜の太鼓打ち寒行や強引な折伏のような過激な行動は潜めてはいたものの、大正年間末(新校本宮澤賢治全集第14巻校異編220―223頁、宮澤恒治談)に書いたとされる「法華建立勧進文」を読むとわかるように、かなり一途な法華信者の性格を残しています。

とすると、この時、賢治と健吉との間で、活発な宗教論争があったと推定することは容易です。以下、かなりフランクな論争があったとするのは私の想像です(もしかすると妄想?かもしれませんが)。


「お前の言う法華信仰というのは何なのだ。少し狂信的過ぎじゃないか」(小菅健吉)

「いや、そんなことはない。法華経こそが大乗仏教の唯一根本の教典だ。他のお経はすべて、その準備のための方便に過ぎない。それは法華経自体にも書いてある。ほら、方便品だ」(宮沢賢治)

「法華経だけが正しいという証拠があるのか。あるのなら見せてみろ!」

(賢治は口惜しいながら沈黙するしかない)

「なあ、宮沢、仏教はもっと広いぞ。結摩経も般若経も阿弥陀経だって、みんな、お釈迦様がお教えになったことなんだ。法華経だけが特別素晴らしいというのは、中国の天台知ギが唱えたことなんだ。それ位わからなくてどうする。お前はどうかしてるんだよ」

(賢治、絶句)

以上、私の推定の会話劇でした。


この時の論争は相当、強烈な影響を賢治に与えたようです。なぜなら、その後、11月15日の「七四五[霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ]」を除き、賢治は詩作を二ヶ月以上にわたって停止しているからです。詩作を停止するというのは妹トシの死以来のことです。宗教について、また仏教について根本から問い直す、深い精神的思考の時が、翌年2月まで、静かに流れたのではないでしょうか。

翌年(昭和4年、1929年)の2月12日になってやっと、「1001 汽車」という詩が全く新しい番号と共に登場します。そして、その後、詩は少しずつゆとりやユーモアすらをも感じさせるものに再生して行きますが、悲痛な叫びのような「停留所でスヰトンを喫す」(作品番号がないが、順番で行くと1092)が終り(昭和3年(1928年)4月12日)になっています。

穂孕期(おそらく作品番号1093)が1928年7月24日に作られ、賢治の羅須地人協会活動も、賢治の身体も終演・終焉を迎えようとします。

賢治のことを初めから完璧な仏教徒と思う必要はないと思います。彼も普通の凡人と同じで、試行錯誤しながら完全な仏教徒をめざしていったのではないでしょうか。

しかし、「小菅健吉という人はなんと立派な人だったのか」と、今、改めて思わずにはおられません。
帰国後、土壌微生物学の研究の徒としての道は、残念ながら、例の帝国大学卒業者ではないため
に、かなわなかったようです。

この人は賢治をやさしく見つめる保護者のような友人という印象を受けます。賢治が没後、あっという間に国民的英雄になっていくのを、彼は農業教育者としての地味な長い道を定年退職で静かに終え、その後、生まれ故郷の氏家町(現さくら市)に帰り、得意の英語教育に携わって80才まで長生きし、ほぼ天寿を全うして、懐かしい友人達の元へと旅立っていきます。

賢治という人は確かに天才だったかもしれません。
と同時に、いい友人に恵まれた人でもありました。

以下、アザリア同人の4人の没年を回顧的にふり返ってみます
(―小菅健吉・宮沢賢治・保阪嘉内・河本義行―「アザリア」の仲間達、さくら市ミュージアム―荒井寛方記念館刊、2012年を参照)。

1933年(昭和8年)7月18日 河本義行、溺れた生徒
             を助けようとして水死。

  同年     9月21日  宮沢賢治、絶筆短歌2首を

                残し結核で死す。


1936年(昭和12年)2月8日 保阪嘉内、胃ガン
                 悪化のため死す。
                 遺言「人は皆、こうして
                 自然に帰っていくのだ」

 ―この間に第二次世界大戦がある―

1977年(昭和52年)5月30日 小菅健吉死す
                 (ほぼ天寿を全う)。


「巨星墜つ」という表現がふさわしい4人の生涯でした。

合掌

投稿者 耕生(kulturisto) : 2013年1月28日 16:08

耕生さま、面白い考察をありがとうございます。

ただ、1926年11月の「病気」が精神的な病であったと推測する根拠が、小菅健吉との想像上の「宗教論争」だけであるというのでは、説得力に欠けると思います。
あるいは、1926年11月から1927年2月まで、作品上の日付に空白があるということも根拠とされているのかもしれませんが、日付の空白であれば、たとえば1927年9月から1928年4月までの方が長いですし、(第二集と第三集の間の)1926年1月から5月というのもあります。これらの時期においても、間が空いていることを根拠にして「この時の賢治が精神的な病気にかかっていた」と推論することには、無理があるでしょう。

また、宗教論争をして精神的にショックを受けたとしても、それは普通は「病気」とは言いません。
賢治が1926年11月に病院へ行ったらしいことは、「七四四 病院」という作品から推測されますが、当時において今で言う「精神科」に相当する診療科がある病院は、いくつかの大学病院と、「東京府立松沢病院」くらいだったと思います。
かりに精神的なショックを受けて落ち込んだり悩んだりしている人がいたとして、現代でもそれで即座に病院に行く人は限られた一部でしょうが、当時の人々にはなおさら「病院を受診する」という発想は生まれなかったと思います。

「七四四 病院」によれば賢治は熱があったようですから、やはり身体的な病気と考えるのが自然と思います。

投稿者 hamagaki : 2013年1月29日 01:10

ごていねいな解説ありがとうございます。
また専門家の立場からの個人的アドバイスもありがとうございました。

賢治が作詩していない時期があったとは私も不勉強でよく知りませんでした。確かにおっしゃるように、花巻農学校時代と羅須地人協会初期の時代の2回ありますね。

しかし、これは逆に躁の時代だと考えられないでしょうか。現代で言うと双極性気分障害?の賢治は、躁の時はうつの時とは逆にやることがたくさんあり過ぎ、じっくり作詩をしている暇がないのです。これは私の経験からもよくわかります。寝る間を惜しんで何かに没頭しているということになります。

なんでもかんでも躁うつ病に引きつけて推定するのは我田引水のような気がしないでもないのですが、そう考えると、今までよくわからなかったことがぴたりとつかめるから不思議です。たぶん、私の推定は間違っていないと独断しています。

今、論文としてまとめようとしています。退会したとばかり思っていた某学会にまだ籍が残っていたことが判明しましたので、急遽、学術論文にしようと思っています。はじめは短報程度でいいかなと思っていたのですが、原稿用紙の数が規定数を軽く超えてしまいそうなので(上記のコメントだけでも規定数を超えているようです)、正式の学術論文にしようと思っています。

2、3日で終わらせると豪語したい所ですが、そちらのアドバイスにしたがって、ゆっくりと推敲し、2月中の完成を目指しています。日本文学関係の足の引っ張り合い的論議は苦手なので、すっきりと自然科学系の学術雑誌への投稿です(どうでもいいことですが、これでひとつ研究業績も増えます)。その後で、イーハトーブ通信などでゆっくりとご紹介したいと思っています

自然系学術雑誌の場合、当然、査読が入りますが、さて、どなたが担当されるか、興味深いものがあります。最近は査読者の指定もできるようなので、身内で固めようかなと、不埒なことも考えています。

最近、夜更かしが続いていますので、今夜は眠剤をのんで、ゆっくり寝ます。

私も「確信犯」のひとりかもしれませんが、還暦を超えてくると、地位とか名誉などは、ある意味、どうでもよくなってきます。それを若いうちにやってのける賢治は確かに「ただ者ではない」ですね(笑)。

それでは、お休みなさい。

耕生(kulturisto)=遊心(ludisto )でした。

投稿者 耕生 : 2013年1月30日 01:11


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