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2012年5月28日 三陸の賢治詩碑の現況(4)

 連休に訪ねてきた三陸北部の賢治詩碑の様子の報告、今回はその後半部です。
 まず下に、三陸海岸北部の田野畑村、普代村の周辺を、これまでよりも拡大して表示します。


(マーカーをクリックすると、碑の写真と説明ページへのリンクが表示されます)

 マーカーの(6)は、先にご報告した、田野畑村島越駅前の「発動機船 第二」詩碑です。今回取り上げるのは、「田野畑村・発動機船三部作詩碑」の残り二つである、(7)「発動機船 一」詩碑と(8)「発動機船 三」詩碑、それに普代村堀内地区の、(9)「敗れし少年の歌へる」詩碑です。


 「発動機船 一」詩碑

 賢治の「発動機船」三部作は、1925年(大正14年)1月の三陸行の際の体験に由来しています。
 この旅行で賢治は、三陸北端の種市で列車を降りて、そこから徒歩あるいは乗合自動車で海岸を南下し、まず下安家で宿泊したようです。そして次は、下安家・堀内・太田名部・羅賀のいずれかの港から発動機船に乗船し、宮古を経て、山田・大槌あたりで下船したと推測されています(「旅程幻想詩群」参照)。
 このうち「発動機船 一」は、乗船した日の夕方頃の情景で、船荷の積み卸し作業をしている娘たちの生き生きとした様子を描いています。

うつくしい素足に
長い裳裾をひるがへし
この一月のまっ最中
つめたい瑯カンの浪を踏み
冴え冴えとしてわらひながら
こもごも白い割木をしょって
発動機船の甲板につむ
頬のあかるいむすめたち
  ……あの恐ろしいひでりのために
     みのらなかった高原は
     いま一抹のけむりのやうに
     この人たちのうしろにかゝる……

 「あの恐ろしいひでり」とは、前年1924年(大正13年)に岩手県地方を襲った旱害のことを指しています。そのような逆境にもかかわらず、「冴え冴えとしてわらひながら」厳しい作業をする娘たちの姿に、賢治もまた救われているようです。
 内陸の花巻で暮らし、ふだんは農村や農民を見ていた賢治としては珍しく、ここでは漁業に携わる人々が描かれています。「働く娘たちの讃歌」とも言えるこの作品は、「「曠原淑女」の漁業版」とでも言いたくなります。

 その作品舞台にも近い平井賀漁港の傍らに、この「発動機船 一」の詩碑を建立したのは、田野畑浜漁業協同組合長を務め、平井賀で「本家旅館」の経営もしていた、故・畠山栄一氏でした。下の写真は、2000年に私が現地を訪ねた時のものです。

「発動機船 一」詩碑(2000)

 釜石産の南部黒御影石でできた碑身がみごとですが、碑面に写りこんでいる、在りし日の平井賀の家々をご覧下さい。
 津波の後には下写真のように、高台にあった家を残して、この集落の中心部には何もなくなってしまいました。

田野畑村平井賀(2012)

 そして、「発動機船 一」詩碑があったのは、下の写真の岩の上あたりでした。もとは、ここには盛り土がされて松の木が何本か茂っていたのですが、津波によって松の木もろとも土が剥がされ、このような状態になっています。

田野畑村平井賀(2012)

 ここにあった「発動機船 一」詩碑も、津波の後はしばらく行方不明になっていました。そうしたところ昨年6月下旬に、瓦礫の撤去作業をしていた業者の方が、かなり砂浜側に離れた場所で、失われた碑身を発見したのです。
 碑を立てた畠山栄一氏は、すでに昨年1月に亡くなっておられましたが、奥様が継いでいる旅館の庭に、とりあえず碑は運び込まれました。そのいきさつは、昨年7月の「河北新報」の記事に掲載されています。

 私は、5月4日にこの平井賀を訪れて、畠山さんの「本家旅館」(下写真)に宿泊させていただきました。

本家旅館

 そして旅館の庭の片隅には、詩碑がまだ所在なさそうに置かれていました。

「発動機船 一」詩碑(2012)

 これが発見されてからしばらく経って、畠山さんがまた元の場所に碑を設置し直そうとしたところ、村役場から連絡があり、津波の記念碑か何かを作る際に使わせてもらうかもしれないとのことで、待ったがかかっているのだそうです。
 この「本家旅館」は、詩人の三好達治や作家の吉村昭もよく泊まりに来ていたという由緒ある宿で、その名物料理は「どんこ汁」です。

どんこ汁

 直径20cmくらいのお椀に、「どんこ」一尾が丸ごと入って出てきました。身はゼラチン質が多くてぷるぷるした感じ、だしも濃厚でほんとにおいしかったです。
 ちなみに、三陸地方の「どんこ料理」としては、以前に大船渡の居酒屋でいただいた「肝焼き」もよかったですよ。どんこの肝は、アンコウにも比べられるほど見事ですが、この肝をあらかじめ取り出し、つぶして味噌と和えたものを、また口からお腹に詰め込んで、丸ごと焼いた料理です。

 「本家旅館」は、まだ本格的な営業再開にはあと一歩というところだそうですが、私が詩碑を見るために京都からやって来たと言うと、お女将さんもとても喜んで下さいました。

 下の写真は、旅館の部屋から港の方を眺めたところです。手前の車の後ろにある黒い直方体が現在の詩碑、赤い矢印のあたりが、もともと詩碑の設置されていた場所です。旅館は高台にあったので津波被害は免れましたが、白壁の外側の空き地には、もとは全部民家が並んでいたのです。

平井賀漁港

 翌朝、お女将さんにお礼を言って宿を後にすると、田野畑駅まで歩きました。

 「発動機船 三」詩碑

 「発動機船 三」詩碑は、三陸鉄道の田野畑駅前にあります。この「発動機船 三」という作品は、賢治が乗った発動機船が、夜半にまさに宮古港に入ろうとしている情景を描いています。

あゝ冴えわたる星座や水や
また寒冷な陸風や
もう測候所の信号燈や
町のうしろの低い丘丘も見えてきた

という「町」が、宮古だったわけです。

 詩碑のある田野畑駅は、高台にあったおかげで津波被害は免れました。しかし線路は各所で寸断され、昨年3月末に久慈―陸中野田間、小本―宮古間の運転が再開されてからも、このあたりの復旧にはまだ1年あまりの時間を要しました。
 そして本年4月1日に、陸中野田―田野畑間の営業運転が再開されたことは、地元の人々を大きく力づけ、全国の鉄道ファンをも喜ばせました。
 先に島越駅の愛称「カルボナード島越」についてご紹介した際、田野畑駅の愛称は「カンパネルラ田野畑」であると記しましたが、今回の運行再開に合わせ、この駅はあらためて「キット、ずっとカンパネルラ田野畑駅」と名づけられて、駅舎に「サクラアート」の装飾がほどこされました(「三陸鉄道 キット、ずっとプロジェクト」参照)。

キット、ずっとカンパネルラ田野畑

 以前に訪れた時は、古風に落ちついた駅舎だったのですが、こんなに可愛く華やかになっています。ところどころ、花びらが薄くなっているところには、facebook で世界中から寄せられたという‘応援メッセージ’が書き込まれています。

キット、ずっとカンパネルラ田野畑駅

 「キット、ずっと」という名称は、この企画のスポンサーが KitKat® だからですが、「銀河鉄道の夜」でジョバンニがカムパネルラに向かって、「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう」と呼びかけ、しかし二人が結局死別したことを思うと、何か切ないような気持ちにもなります。

 詩碑は、この駅舎の向かって左側に建てられています。

「発動機船 三」詩碑

 アートではない本物の桜も、ちょうど咲いていました。こちらの碑の上辺には、発動機船をかたどったブロンズ像も健在です。

 「敗れし少年の歌へる」詩碑

 1925年(大正14年)の三陸旅行中の作品に「暁穹への嫉妬」がありますが、これを晩年に文語詩化したのが、「敗れし少年の歌へる」です。夜明けの海岸を歩きながら、薄明の空に惑星(土星)が消えていく様子を眺め、まるでその星に対して恋心のような気持ちを覚えるところから、賢治の中ではほのかな「嫉妬」にもなったようです。文語詩「敗れし少年の歌へる」となると、「敗れし少年」ですから、今度はこれは失恋の歌という設定になるのでしょうか。

 賢治が発動機船に乗船したのは、田野畑村の羅賀港だったという説がこれまでは有力でしたが、2000年に木村東吉氏が『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』において、「地理及び船便の状況からして安家、堀内、大田名部のいずれかから乗った可能性が高い」との見解を発表してから、堀内・太田名部両港の地元の普代村では、この問題について関心が高まりました。
 そして、普代村在住の郷土史家・金子功氏は、当時このあたりで就航していた船の状況を調査した結果、賢治は普代村の堀内港から、「濱善丸」という船に乗って南へ向かったという説を出したのです。そのような盛り上がりもあって、2004年10月に堀内港に、「敗れし少年の歌へる」詩碑が建てられました。

 私は、2005年1月にこの詩碑を訪ねた際に、上記の金子さん直々に碑まで案内していただく光栄に浴しました。そしてその夜は、賢治が泊まったと言われている「小野旅館」に泊まり、地元の合唱団の森田さんたちとおしゃべりをしていたのですが、そのうちに話が大きくなって、この詩に曲を付けることになってしまったのです。結局それが、女声二部合唱曲「敗れし少年の歌へる」の誕生につながったという経過がありました。

 今回5月3日に、また金子さんと森田さんはご親切にも私を出迎えて下さって、雨の中でしたが一緒に海辺の詩碑まで行くことができました。

「敗れし少年の歌へる」詩碑

 碑面に写りこんでいる傘は、お二人のものですね。幸いにして、この詩碑にも津波の被害はありませんでしたが、「まついそ公園」として整備されていた碑の周辺の建物は、すべて流失していました。

まついそ公園

 碑の背面に記された、「賢治 濱善丸で南へ」という文字も鮮やかに残っています。金子さんの説では、ちょうどこの場所から賢治は発動機船に乗って、沖へ出て行ったということです。

くろさきワイン その夜は、普代村の北山崎海岸にある村営の「くろさき荘」という国民宿舎で、森田さんや「てぼかい合唱団」の皆さん6名と一緒に、夕食をとりました。冒頭の地図では普代駅の東方、「黒崎」という海岸にあります。
 ここでは三陸の海の幸とともに、普代村産の山ぶどうで作った「くろさきワイン」をいただきました。アルコール度数はやや低めですが、濃厚でジューシーな味わいで、女性の方に飲みやすいとの評判です。
 さて、この時に聞いたお話では、普代村の「てぼかい合唱団」は、今年の9月2日(日)に花巻市文化会館で行われる「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌全国大会2012」に出演する予定だそうで、この際に「敗れし少年の歌へる」を歌っていただけるということでした。
 となると、その日は日曜なので、私もぜひ聴きにうかがいたいと申し上げたのですが、そのうちにまた2005年1月のように、見る見る話が大きくなってしまって・・・(笑)。

 外は大雨でしたが、「くろさき荘」の食堂は、遅くまで明るくにぎやかでした。そしてこの夜の宴は、久しぶりにみんな一緒に、「敗れし少年の歌へる」を合唱して終わったのです。

◇          ◇

 以上、昨年の11月と今年の5月に、三陸沿岸において見てきた賢治詩碑のレポートは、ひとまずこれで終わりです。各地に突然に押しかけたりしてしまいましたが、お世話になった皆様には、心より御礼申し上げます。

 ところで、賢治の童話「ポラーノの広場」には、レオーノキューストがイーハトーヴォ海岸地方(すなわち、三陸海岸地方!)に出張するところがあります。

 その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり、そしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら、二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下給の官吏でも大へん珍らしがって、どこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとすると、みんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいて、いろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでいゝと思ひました。けれどもファゼーロ、あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいてゐるうつくしいロザーロ、そう考えて見るといまわたくしの眼のまへで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを、踊ったりうたったりしてゐる娘たちや若者たち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなのために、とひとりでこころに誓いました。

 賢治が、ふと「もうこれで死んでもいい」と感じるほど、海岸地方の自然や人々には、心を打たれたことがあったのでしょう。また、このような身に余るような歓待の体験は、三陸において私も何度か覚えがあります。

 そして、私も三陸の人々や自然のことを思い出すたびに、「さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ」と、自分も小さくこころに誓う気持ちになるのです。

【関連記事】
三陸の賢治詩碑の現況(1)
三陸の賢治詩碑の現況(2)
三陸の賢治詩碑の現況(3)

written by hamagaki : カテゴリー「賢治紀行

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コメント



三陸の景色だけじゃなく、人の熱情までもレポートされているのに感激いたしました。
大きなお椀の中の魚が海の豊かさを、ワインのビンに陸のにぎわいを見せられました。この震災にもかかわらず人情に触れられる良い旅をなさったのですね。

記事をまとめられるのが遅くなってしまった一因となった展覧会に遠くからお越しいただきありがとうございました。

投稿者 kyoちゃん : 2012年5月29日 01:13

三陸沖wの楽しい旅行記をありがとうございました。
レオーノキューストの独白はこういう意味だったんですね。
僕も再生と人々の幸福を信じて生きていこうと思います。
みんなで合唱しましょうw
どこまでもどこまでも僕たち一緒に行かうねえ!

投稿者 ガハク : 2012年5月29日 15:06

kyo さま & ガハク さま

玉島では、素晴らしいひとときをありがとうございました。
私たちにとっても、思い出に残る体験でした。

上に引用したように、賢治は「ポラーノの広場」の中で、レオーノキューストの筆を借りて「イーハトーヴォ海岸地方」の人々の親切や人情について記していますが、これは現代の三陸にも、脈々と受け継がれていると思います。
5月3日から4日にかけて、私はその朝に東京から普代村に帰省して来たばかりの方に、詩碑やその他のスポットを、それぞれ数時間かけて車で案内していただき、本当に身に余るほどの恩を受けました。
また、宿泊の際には上にも記したように、ワインの差し入れをいただいた上に、地元の方々と一緒に合唱をしたり楽しい宴を持つこともできました。
これらは、まさに「沖の岩礁へ渡ろうとすると、みんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓をそろえて漕いでくれました」「夜にはわたくしの泊った宿の前でかがりをたいて、いろいろな踊りを見せたりしてくれました」という歓待そのものです。

ですから、私は「ポラーノの広場」のこの箇所が、本当に身にしみます。


震災の後の1年余、思えばいろいろな人と出会いましたが、自分にとってはそれまでの人間関係の持ち方から、何かの変化が起こりました。

先日の玉島での会見も夢のようで、まさにそのかけがえのない一コマでしたね。

投稿者 hamagaki : 2012年5月30日 00:00


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