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2011年12月 8日 三陸の賢治詩碑の現況(2)

 11月下旬に訪ねた、三陸地方南部の賢治の詩碑・歌碑報告の続きです。まず、碑の場所を示す地図を、再掲しておきます。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 今回は、気仙沼市唐桑の (3)「雨ニモマケズ」詩碑 と、陸前高田市の (4)「農民芸術概論綱要」碑 についてご報告します。


 「雨ニモマケズ」詩碑

 気仙沼市も、今回の津波で大きな被害を受けた町でした。3月11日の深夜には、気仙沼の市街が火災で燃える様子を自衛隊のヘリコプターが撮影した映像がテレビでずっと流され、茫然と見続けた記憶があります。
 私は9月23日にも気仙沼を訪ねたことがありますが(「気仙沼の彼岸」参照)、今回は2ヵ月ぶりの再訪でした。

 11月25日に石巻の医療支援を終えた後は新幹線で移動して一関に泊まり、朝早くにJR大船渡線に乗って、気仙沼駅には8時40分に着きました。
 ここから、持参した折りたたみ自転車を使って、沿岸部や鹿折地区をまわりました。港のあたりは、9月に来た時には地盤沈下した道路が冠水して自動車での走行も困難でしたが、今回はやはり石巻と同じように、数十cm底上げした真っさらな舗装がなされていました。
 JR鹿折唐桑駅の前には、9月の時にも見た「第十八共徳丸」が鎮座しています。前回と違って、今回は真新しい道の傍らに。

第十八共徳丸

 市街東部の鹿折川の川べりには、昭和8年3月の「昭和三陸大津波」を記念した石碑が建てられていたのですが、悲しいことに今回の津波で倒されていました。

大震嘯災概碑

 倒れる前のこの日の姿は、「日本の川と災害」の当該ページにあります。現在上になっているのは裏面ですが、表面には、「大震嘯災記念/大地震それ来るぞ大津浪」と刻まれていたようです。

 鹿折川を渡り、その向こうに見えている山を越えると、リアス式の次の湾に面した「舞根」という集落があります。ここも、全てが流されていました。

気仙沼市舞根

 その次の、「浦」という集落。案内標識のゆがみが、津波の到達した高さを教えてくれます。

気仙沼市舞根

 ここから、唐桑半島の付け根のもう一山を越えると、「宿(シュク)」という集落です。余談ですが、柳田国男が明治三陸大津波から25年後に三陸地方を旅した折りに書いた「二十五箇年後」という文章(『雪国の春』所収)は、この「唐桑浜の宿という部落」の話です。
 この地区の、「熊野神社」という神社の裏山に、「雨ニモマケズ」詩碑が建っています。

「雨ニモマケズ」詩碑

 この碑は、小さな山の中腹あたりにあって、津波の被害はありませんでした。しばし荷物を下ろして、「雨ニモマケズ」のテキストに向かい合い、一ノ関駅で買ってきたおにぎりで昼食。

 この碑のある場所から少し登ると、広田湾が見えます。左下に見えている石板が、詩碑の背面です。

「雨ニモマケズ」詩碑と広田湾

 それにしてもこの場所は、一人静かに「雨ニモマケズ」に向かい合ったり、海を眺めたりできる、素晴らしい「穴場」です。また来たいものです。

「雨ニモマケズ」詩碑

 腹ごしらえと十分な休憩をすると、詩碑にさよならを言って、次の目的地を目ざしました。

 また自転車に乗って、今度は北の方に向かいます。地図で見るとほぼ海岸線を走っていても、リアス式海岸に沿った道路というのは、集落の境ごとに存在する小さな峠と、海面の高さの間のアップダウンを幾度も繰り返すことになり、自転車にとっては結構ハード。
 岩手県交通の、一関から大船渡までを1日2往復するバスの時刻を調べてあったので、「堂角」から「陸前高田市役所前」まで、自転車をたたんでバスを利用・・・。


 「農民芸術概論綱要」碑

 そこからもいくつもの峠を越えて、バスは陸前高田市内に入りました。しかしそこで私は車窓からの景色を見て、「自分はここに来てもよかったのだろうか」という思いに一瞬とらわれてしまいました。それでも、バスはどんどん進みます。
 「陸前高田市役所前」で降りるつもりにしていたのですが、私の目算が浅はかで、元の市役所の建物は3階天井までもが津波で破壊されたわけですから、臨時のバス停があるのは、その2kmほど山手にプレハブで建てられた「市役所仮設庁舎」の前でした。

 持っていた2万5千分の1の地図は当てにならず、およその方角を頼りに山を下り、元の市街地のあたりに出てきました。
 この道をずっと西に行けば、高田高校です。

陸前高田市街地

 そして高田高校。

高田高校

 この校庭に、賢治の「農民芸術概論綱要」碑があったのです。下の写真は、2000年8月7日に撮影したものです。

「農民芸術概論綱要」碑(高田高校)

 この碑は、東北砕石工場の鈴木東蔵氏の長男・鈴木實氏が高田高校の校長だった昭和47年に建てられました。その「建立趣意書」には、次のように書かれていたということです。

 宮沢賢治御令弟清六氏より、賢治の喜ぶように使って欲しいと金十五万円余の御寄付を高田高校に頂きましたので、この使途につき有志相集い協議いたしましたところ生徒達への教訓のため詩碑建設が最善ではないかと考えました。
 碑文は丁度一昨年高田高校創立四十周年記念の折、谷川徹三氏が御講演後、「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と農民芸術概論の一節を色紙に御揮毫なさいましたので、それを銅板に鋳直して石に彫むことにいたしました。

 そして、除幕式では森荘已池氏が講演を行ったということです。

 さて、高田高校にたどり着くと、何とかして上の場所とおぼしきあたりを探そうとしたのですが、瓦礫や土砂も多く、碑を見つけることはどうしてもできませんでした。

高田高校

高田高校

捜索終了

 ということで、「捜索終了」。

陸前高田市街

 自転車で西に向かい、気仙川を越え、また気仙沼市との境あたりにある「ホテル三陽」という宿に泊まりました。

 今回、11月下旬に訪れた南三陸の賢治詩碑は、前回と今回ご報告した4つです。
 残りの北三陸の詩碑も、来年の5月頃までには訪ねたいと思っています。

written by hamagaki : カテゴリー「賢治紀行

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コメント



こんにちは。陸前高田方面を取材してくれてありがとうございます。それにしても一日違いでした。私は11月27日、やはり一関から大船渡線に乗り、朝8時40分に気仙沼駅に着いたのです。

気仙沼駅には第1中学の友人で画家の鷺悦太郎君が迎えに来ていて、彼の車に乗り陸前高田へ向かいました。ですから第十八共徳丸が鎮座しているようすも見ました。かなり衰弱しているという一本松に立ち寄り、付近を歩きました。一本松の周辺には十数人が集まっていて、中にはタクシーを乗り付けてきた人もいました。かつて海水浴客でにぎわった海岸はすっかり変貌していました。一本松を守ったユースホステルの建物も損壊は激しく、かつてキャンプした場所もこのあたりだったのですが、その面影はありませんでした。それから取材して日帰りで帰りました。

投稿者 佐藤竜一 : 2011年12月 9日 10:17

佐藤竜一さま、こんばんは。

まさに一日違いの同じ列車で気仙沼に出て、陸前高田に向かったのですね。不思議な偶然です。
私は9月に花巻で佐藤さんにお聞きした高田高校のお話を胸に、現地へ向かいました。
校庭に今も残されている様々な道具、物品を目のあたりにして、何とかこの高校に「復活」してほしいという思いを、また新たにしました。
その時は、「農民芸術概論綱要」碑も一緒に・・・。

「一本松」のところまでは時間がなくて行けなかったのですが、気仙大橋を渡って宿へ向かっている途中、遠くから望むことができました。

投稿者 hamagaki : 2011年12月10日 01:11

新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

年末に陸前高田に行ってきました。今回は高田高校に出かけましたが、浜垣さんがおっしゃるとおり賢治の詩碑は見つけられませんでした。「高田高校の諸君 きみたちは 甲子園に一イニングの貸しがある」などと記された阿久悠作詩「コールドゲーム」の詩碑は残っていましたが。

高田高校の裏が高台になっているのですが、そちらの方に新しい校舎を建設するという案が示されたようです。ただ、まだ実現するかはわかりません。市街地の形成さえ、まだ着手されていず、自営業者は仮設店舗での営業を開始しています。前途は多難です。

投稿者 佐藤竜一 : 2012年1月 5日 09:26

佐藤竜一さま、書き込みをありがとうございます。

高田高校の再建案が出ているとは、うれしいかぎりです。
しかし復興への道のりのたいへんさは、私も現地にうかがった時に痛感しました。微力ながら何か自分にもできることはないかと思っています。

高田高校の賢治碑は、やはり佐藤さんの目によっても見つかりませんでしたか・・・。
でも、流されてしまった可能性よりは、何かの下に埋もれている可能性の方が高いでしょうから、いつかかならず見つかって、新たに再建される高田高校において、復活のシンボルになってほしいと願っています。

投稿者 hamagaki : 2012年1月 8日 21:38

浜垣誠司さま

コメントありがとうございます。実は東京で編集者をしている弟に頼まれて、原稿を書いているのです。陸前高田を元気にする本をということなのですが、現実はなかなかそうではなく。かといって陸前高田が忘れさられるのもいやなので、何とかまとめるつもりですが。結構難しい作業です。

宣伝めくのですが、先月は現代書館から、『それぞれの戊辰戦争』という本を出しました。坂本龍馬や西郷隆盛などを礼賛する内容ではなく、東北の視点から幕末維新史をとらえ直そうという試みです。

福島の人々がいま、全国にちりぢりになっていますが、その状況は140余前と似通っています。賢治とは離れますが、東北について本書で知ってもらえたらとてもうれしいです。

投稿者 佐藤竜一 : 2012年1月11日 15:51

『それぞれの戊辰戦争』、とても興味が湧いたので、さっそく Amazon で注文しました。
それにしても、戊辰戦争によっても会津の人々がちりぢりにならざるをえなかったとは、初めて知りました。まさに「ディアスポラ」ですね。
全く異なった原因によってですが、今また福島でその悲劇が繰り返されている・・・。この本をこの時期に出版された意味を、噛みしめざるをえません。

「陸前高田を元気にする本」も、心よりお待ちしています。

投稿者 hamagaki : 2012年1月12日 22:58

どうもありがとうございます。いたずらに被害妄想に陥ることは避けたいのですが、戊辰戦争に敗れたために東北は開発が遅れることになり、貧しい状態が続きました。

「白河以北一山百文」といわれさげすまれたまさにその近くに、福島の原子力発電所が建設されました。貧しさ故に原子力発電の誘致に手を染めてしまったことは今思えば、取り返しのつかないことなのですが、それも私には会津藩が戊辰戦争に敗れたことにより引き起こされた負の遺産のように思えるのです。

投稿者 佐藤竜一 : 2012年1月13日 08:56

最近のネット通販は便利になったもので、昨日の深夜に注文した『それぞれの戊辰戦争』が、本日仕事から帰宅したらもう届いていました。

まず「プロローグ」と「あとがき」を読み、全体にざっと目を通してみました。高校の教科書ではほんの短い記述しかなかった「戊辰戦争」が、こんなに多角的に、それも教科書で暗黙の前提となっていた明治政府の視点とは別の角度から詳しく物語られていることに、驚きました。

「あとがき」で触れておられた小林虎三郎のエピソードを読んで、あらためて佐藤さんが高田高校の再興にかけておられる情熱の意味が理解できました。

素晴らしい本を、ありがとうございました。

投稿者 hamagaki : 2012年1月14日 01:39


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