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2011年12月23日 CDブック発売とイベント

 イベントのお知らせをいただきました。

 12月26日に左右社から刊行されるCDブック『春の先の春へ 震災への鎮魂歌 古川日出男、宮澤賢治「春と修羅」をよむ』の出版記念イベントとして、12月24日に東京で「古川日出男+管啓次郎、「春と修羅」「銀河鉄道」をよむ」が行われるということです。

古川日出男+管啓次郎、
「春と修羅」「銀河鉄道」をよむ

2011年12月24日 (土) 12:00 open 13:00 start
場所: SARAVAH 東京
〒150-0046
東京都渋谷区松濤1丁目29-1 渋谷クロスロードビル B1
TEL/FAX 03-6427-8886
contact@saravah.jp

Adv. 3000円(+1drink order)
Door. 3500円(+1drink order)
ペアチケット:4,000円(+2drink order)

 以下は、イベントの紹介文。

 本イベントは12月26日発売予定のCDブック『春の先の春へ 震災への鎮魂歌/古川日出男、宮澤賢治「春と修羅」を読む』(左右社)の刊行記念イベントです。自然のプロセスや時の流れをそのままに体現する「川」を大きなモチーフとして、第1部では今回のCD収録作品を中心に幾人かの現代詩人たちの作品の朗読と歌を、第2部では朗読・音楽劇として再構成された『銀河鉄道の夜』をお届けします。
 企画・出演は古川日出男(小説家)、管啓次郎(詩人)、小島ケイタニーラブ(音楽家)。
 クリスマス・イヴに改めて3月11日以後の日々を思い返し、また必ずやってくる次の春への希望の芽生えを探す。希有の光が生じるにちがいないそんな機会に、ぜひ立ち会ってください。

 それから、このたび発売されるCDブック。

春の先の春へ 震災への鎮魂歌/古川日出男、宮澤賢治「春と修羅」をよむ (宮澤賢治ブックス01)(CDブック) 春の先の春へ 震災への鎮魂歌/古川日出男、宮澤賢治「春と修羅」をよむ (宮澤賢治ブックス01)(CDブック)
宮沢賢治 古川日出男

左右社 2011-12-26
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 いつもは、自分がまだ読んでいない本のことなどは載せていないのですが、「震災への鎮魂」というコンセプトなので、関連イベントともにご紹介させていただきました。

written by hamagaki
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2011年12月18日 正午の太陽微塵

アレニウス 19世紀終わりから今世紀初頭にかけて活躍した、アレニウスというスウェーデンの化学者がいました。(右写真はウィキメディア・コモンズより)
 その業績は、物理学・化学・天文学・免疫化学など多岐にわたり、「物理化学 physical chemistry」という領域の創始者の一人でもあります。今で言うこの「物理化学」という分野のことを、大正初期に東北帝国大学教授であった片山正夫博士は、邦語で「化学本論」と呼ぶことにしてその主著のタイトルともしましたから、同書を座右に置いた宮澤賢治にとっては、アレニウスは自然科学におけるヒーローの一人だったのではないかと思います。

 そのアレニウスの著書の邦訳が出たアレニウス『宇宙発展論』ら、賢治もきっと読んだに違いないと推測したくなりますが、賢治が盛岡高等農林学校に入学する前年の1914年(大正3年)に出版された『宇宙発展論』(一戸直蔵訳)は、まさにそのような一冊です。(右写真は国会図書館・近代デジタルライブラリーより)
 この本には、空気中の放電によって窒素化合物が生成し、それが雨によって降下することで植物を肥やすという記述(p.196-197)や、空気中の炭酸ガスが増加すると温暖化が起こり、作物の収穫の増加につながるとの記述(p.85)があり、これらはいずれも「グスコーブドリの伝記」における未来科学的なアイディアと一致するものです。この二点は、『新宮澤賢治語彙辞典』も「アレニウス」の項目で指摘しているところで、さらに同辞典は「太陽系」の項目において、「賢治がこの本を読んだ可能性は非常に高いと言える」と述べています。
 例えば、下に同書p.85の炭酸ガスによる温暖化に関する記述の部分を引用してみます。火山の爆発は被害も起こすけれども、大気中の炭酸ガスの増加は特に寒冷地において「一層良好なる気候」と「豊饒なる収穫」を与えうると述べています。

 吾等は、地中に貯蔵せる石炭が現今将来に対する何等の念慮なくして漫りに徒消せられつつありとの怨言を耳にすること屡々なり。且つ吾人は火山爆裂によりて蒙むる恐るべき生命財産の破壊によりて震駭せしめらるること屡々なり。されど吾人はここも、他の有らゆる場合に於て然るが如く、善は常に不善と随伴せらるるものなりてふ諺によれて自ら慰めざる可らず。大気中に於ける炭酸瓦斯の割合が増加するに従ひ、其結果として吾人は一層気温分布の平等なる一層良好なる気候(特に寒冷なる地方に於て)の時代を楽しみ得べきなり。而して其時代に至れば地面は現今に於けるよりも遙かに豊饒なる収穫を与ふべく、かくて急速に拡散しつつある人類の生活に資する所多大なるものあるべきなり。

 私も、「賢治がこの本を読んだ可能性は非常に高い」という『新宮澤賢治語彙辞典』の考えに、賛成です。

◇          ◇

 現在はこの『宇宙発展論』は、インターネットを通して国会図書館の「近代デジタルライブラリー」でいつでも読めるようになっているので、今日も私はパラパラと眺めていました。
 すると、賢治の作品に出てくる表現を連想させる記述が上記の他にもいくつか見られたのですが、とりわけ印象的だったのは、同書p.181の、次の記述でした。

蓋し太陽微塵の大部分は正午頃に落下するを以て極光の大部分も亦正午後数時間最も夥しく起るべきことは、恰かも一日中の最高温度に於けると同じかるべき理なり。

 これは、極光(オーロラ)の発生原理を物理学的に説明しようとしている箇所で、「太陽微塵」というのは、太陽から地球に放射されている非常に微小な粒子、現代の用語で言えばプラズマ状態にある「太陽風」のことです。
 それにしても、「太陽微塵の大部分は正午頃に落下する」という言葉は、あの感動的な一節をまさに彷彿とさせるではありませんか!

    春と修羅
            (mental sketch modified)

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
・・・

 例えば「第四梯形」には、「ななめに琥珀の陽も射して・・・」とあるように、賢治は作品中でしばしば太陽の光を「琥珀」に喩えていますから、「正午に太陽微塵が落下する」というのを賢治風に言いかえれば、まさに「正午に琥珀のかけらがそそぐ」にもなろうというものです。

 というわけで、やはり私は、賢治がアレニウス著『宇宙発展論』の邦訳をを読んでいた可能性は高いと思うのです。

20111218c.jpg
アレニウス『宇宙発展論』(一戸直蔵訳,大倉書店)p.181


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2011年12月 8日 三陸の賢治詩碑の現況(2)

 11月下旬に訪ねた、三陸地方南部の賢治の詩碑・歌碑報告の続きです。まず、碑の場所を示す地図を、再掲しておきます。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 今回は、気仙沼市唐桑の (3)「雨ニモマケズ」詩碑 と、陸前高田市の (4)「農民芸術概論綱要」碑 についてご報告します。


 「雨ニモマケズ」詩碑

 気仙沼市も、今回の津波で大きな被害を受けた町でした。3月11日の深夜には、気仙沼の市街が火災で燃える様子を自衛隊のヘリコプターが撮影した映像がテレビでずっと流され、茫然と見続けた記憶があります。
 私は9月23日にも気仙沼を訪ねたことがありますが(「気仙沼の彼岸」参照)、今回は2ヵ月ぶりの再訪でした。

 11月25日に石巻の医療支援を終えた後は新幹線で移動して一関に泊まり、朝早くにJR大船渡線に乗って、気仙沼駅には8時40分に着きました。
 ここから、持参した折りたたみ自転車を使って、沿岸部や鹿折地区をまわりました。港のあたりは、9月に来た時には地盤沈下した道路が冠水して自動車での走行も困難でしたが、今回はやはり石巻と同じように、数十cm底上げした真っさらな舗装がなされていました。
 JR鹿折唐桑駅の前には、9月の時にも見た「第十八共徳丸」が鎮座しています。前回と違って、今回は真新しい道の傍らに。

第十八共徳丸

 市街東部の鹿折川の川べりには、昭和8年3月の「昭和三陸大津波」を記念した石碑が建てられていたのですが、悲しいことに今回の津波で倒されていました。

大震嘯災概碑

 倒れる前のこの日の姿は、「日本の川と災害」の当該ページにあります。現在上になっているのは裏面ですが、表面には、「大震嘯災記念/大地震それ来るぞ大津浪」と刻まれていたようです。

 鹿折川を渡り、その向こうに見えている山を越えると、リアス式の次の湾に面した「舞根」という集落があります。ここも、全てが流されていました。

気仙沼市舞根

 その次の、「浦」という集落。案内標識のゆがみが、津波の到達した高さを教えてくれます。

気仙沼市舞根

 ここから、唐桑半島の付け根のもう一山を越えると、「宿(シュク)」という集落です。余談ですが、柳田国男が明治三陸大津波から25年後に三陸地方を旅した折りに書いた「二十五箇年後」という文章(『雪国の春』所収)は、この「唐桑浜の宿という部落」の話です。
 この地区の、「熊野神社」という神社の裏山に、「雨ニモマケズ」詩碑が建っています。

「雨ニモマケズ」詩碑

 この碑は、小さな山の中腹あたりにあって、津波の被害はありませんでした。しばし荷物を下ろして、「雨ニモマケズ」のテキストに向かい合い、一ノ関駅で買ってきたおにぎりで昼食。

 この碑のある場所から少し登ると、広田湾が見えます。左下に見えている石板が、詩碑の背面です。

「雨ニモマケズ」詩碑と広田湾

 それにしてもこの場所は、一人静かに「雨ニモマケズ」に向かい合ったり、海を眺めたりできる、素晴らしい「穴場」です。また来たいものです。

「雨ニモマケズ」詩碑

 腹ごしらえと十分な休憩をすると、詩碑にさよならを言って、次の目的地を目ざしました。

 また自転車に乗って、今度は北の方に向かいます。地図で見るとほぼ海岸線を走っていても、リアス式海岸に沿った道路というのは、集落の境ごとに存在する小さな峠と、海面の高さの間のアップダウンを幾度も繰り返すことになり、自転車にとっては結構ハード。
 岩手県交通の、一関から大船渡までを1日2往復するバスの時刻を調べてあったので、「堂角」から「陸前高田市役所前」まで、自転車をたたんでバスを利用・・・。


 「農民芸術概論綱要」碑

 そこからもいくつもの峠を越えて、バスは陸前高田市内に入りました。しかしそこで私は車窓からの景色を見て、「自分はここに来てもよかったのだろうか」という思いに一瞬とらわれてしまいました。それでも、バスはどんどん進みます。
 「陸前高田市役所前」で降りるつもりにしていたのですが、私の目算が浅はかで、元の市役所の建物は3階天井までもが津波で破壊されたわけですから、臨時のバス停があるのは、その2kmほど山手にプレハブで建てられた「市役所仮設庁舎」の前でした。

 持っていた2万5千分の1の地図は当てにならず、およその方角を頼りに山を下り、元の市街地のあたりに出てきました。
 この道をずっと西に行けば、高田高校です。

陸前高田市街地

 そして高田高校。

高田高校

 この校庭に、賢治の「農民芸術概論綱要」碑があったのです。下の写真は、2000年8月7日に撮影したものです。

「農民芸術概論綱要」碑(高田高校)

 この碑は、東北砕石工場の鈴木東蔵氏の長男・鈴木實氏が高田高校の校長だった昭和47年に建てられました。その「建立趣意書」には、次のように書かれていたということです。

 宮沢賢治御令弟清六氏より、賢治の喜ぶように使って欲しいと金十五万円余の御寄付を高田高校に頂きましたので、この使途につき有志相集い協議いたしましたところ生徒達への教訓のため詩碑建設が最善ではないかと考えました。
 碑文は丁度一昨年高田高校創立四十周年記念の折、谷川徹三氏が御講演後、「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と農民芸術概論の一節を色紙に御揮毫なさいましたので、それを銅板に鋳直して石に彫むことにいたしました。

 そして、除幕式では森荘已池氏が講演を行ったということです。

 さて、高田高校にたどり着くと、何とかして上の場所とおぼしきあたりを探そうとしたのですが、瓦礫や土砂も多く、碑を見つけることはどうしてもできませんでした。

高田高校

高田高校

捜索終了

 ということで、「捜索終了」。

陸前高田市街

 自転車で西に向かい、気仙川を越え、また気仙沼市との境あたりにある「ホテル三陽」という宿に泊まりました。

 今回、11月下旬に訪れた南三陸の賢治詩碑は、前回と今回ご報告した4つです。
 残りの北三陸の詩碑も、来年の5月頃までには訪ねたいと思っています。

written by hamagaki
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2011年12月 1日 三陸の賢治詩碑の現況(1)

 下の地図のように、三陸海岸沿いにはかなり多くの賢治の詩碑や歌碑が建てられています(建てられていました)。その中には、「津波ニモマケズ 宮沢賢治の詩碑 耐えた」という東京新聞の記事のような感動的な報道によって、その消息を知ることができたものもありますが、他の碑がどうなっているのか、あまり情報はありませんでした。
 未曾有の津波被害を受けた地域の賢治詩碑は、今どのような状況にあるのか・・・。石碑フリークの私としては、このことが以前から心に引っかかっていたのです。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 私は去る11月24日25日に、宮城県石巻市の医療支援に行っていたのですが、その前後に個人的に時間をとって、津波を受けた三陸地方の賢治詩碑の状態を、一部見てきました。
 今回は、塩竃と石巻の詩碑、上の地図では(1)および(2)の碑のご報告です。


 「ポラーノの広場」碑

 昨年3月に、宮城県塩竃市港町の岸壁沿いに「シオーモの小径」という散策路が作られました。塩竃は、日本三景・松島観光の拠点でもあり、明治以来たくさんの文人が訪れて作品に詠みこんでいますが、ここはそれら数多の文学碑を美しく配列した、情緒あふれるスポットでした。正岡子規、北原白秋、若山牧水、与謝野晶子、斎藤茂吉、田山花袋など綺羅星のような石碑群の中の一つとして、賢治の「ポラーノの広場」の一節を刻んだ碑も建てられました。
 私は、昨年3月この一角が整備されて間もない頃に、ここを訪ねてみたことがあり、その時の様子は「シオーモの小径」というブログ記事にも書きました。当時の「シオーモの小径」の入口は、下の写真のようでした。

「シオーモの小径」2010年3月21日

 この散策路が「シオーモの小径」と名付けられたのは、もちろん賢治の「ポラーノの広場」において、塩竃をモデルにした街がエスペラント風の「シオーモ」という名前を冠されて登場することに基づいています。この道の名付け親とも言える賢治の碑は、他の誰にも負けぬ意匠と工夫を凝らされた、見事なものでした。 その姿は、「ポラーノの広場」碑のページでご覧いただくことができます。

 そして、今回11月23日に訪ねた「シオーモの小径」の入口は、下のようになっていました。

「シオーモの小径」2011年11月23日

 地震によって、地盤が大きく沈下してしまったために、歩道が波打っています。左の石垣の外側には、以前は岸壁があったのですが、これも地盤沈下によって海面下になってしまっていました。

 そして、賢治の「ポラーノの広場」碑は、下のようになっていました。

「ポラーノの広場」碑

 後ろから見ると下のようになっていて、根元に通されている太さ2cmほどの鉄芯が、津波の圧力によってぐにゃりと曲がってしまっているのがわかります。

「ポラーノの広場」碑の根元

  しかし、「小径」に並ぶ碑には完全に倒れてしまったものもいくつか見られる中で、約40°の角度を保ちしっかりと立つ姿は、何かとてもけなげに思えたりもしました。また、碑の周囲に散乱している敷石は、初代・塩釜駅に敷かれていたもので、賢治の同級生たちもおそらく踏みしめていたものです。

 この「ポラーノの広場」碑文に引用されている部分の少し前では、三陸海岸のことは「イーハトーヴォ海岸」と呼ばれていて、レオーノキューストがその海岸地方を旅した時の喜びは、次のように描かれていました。

 海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれ ました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞり をたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。

 ここには、賢治が三陸地方を旅した時の経験、そこで触れあった「海岸の人たち」の心根も、反映しているのかもしれません。


 「われらひとしく丘に立ち」詩碑

 石巻市の日和山は、この町の歴史的中心に位置する山です。延喜式の式内社として由緒ある「鹿島御児神社」が平安時代から鎮座し、鎌倉時代には石巻城が築かれました。「日和山」という名称は、海運の盛んなこの町において、海に近いその頂きが船の運航に重要な天候を観察するスポットであったことによります。
 Wikipedia には、

日和山から日和大橋越しに見る旧北上川河口と太平洋、また、旧北上川の中洲であり、内海五郎兵衛が私財を投じて東内海橋と西内海橋を架けた「中瀬」(なかぜ)の見える風景は、そのまま石巻の成り立ちと市民のアイデンティティを示すものである。

との記述もあります。また春には、桜の名所としてたくさんの市民が訪れます。
 日和山とは、石巻においてそういう場所なのです。

 15歳の賢治は、盛岡中学の修学旅行において、この山から生まれて初めて海を見るという体験をしました。
 この折りに賢治が詠んだ短歌に、

まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。

があり、これを後年になって文語詩化した「〔われらひとしく丘に立ち〕」のテキストを刻んだ詩碑が、この日和山公園に建てられたわけです。

 私が前回この日和山公園に来たのは、2000年の8月6日でした。11年ぶりに訪れた公園は、以前よりも立派に整備されていました。そして、さすがに海抜56mほどの丘の上だけあって、津波の被害は皆無でした。
 下写真が、今回の「われらひとしく丘に立ち」詩碑です。

「われらひとしく丘に立ち」詩碑

 この日和山には、他にもいろいろな石碑があるのですが、下写真は、「チリ地震津波碑」です。

チリ地震津波碑

 碑面には、次のような言葉が刻まれています。

     チリ地震津波碑

ほら こんなに
まるで慈母のように穏やかな海も
ひと度荒れ狂うと
恐ろしい残忍な形相となる
海難・ 津波・ 海難と
こゝ 三陸一帯に
無常な海の惨禍が絶えることがない
(後略)

 さて、上記 Wikipedia にあったように、日和山からの眺望は石巻市民にとってアイデンティティの一部ともなっているということですが、先の大津波においては、ここからの景観は凄絶なものでした。
 下の動画は、市民の方が日和山から南の方角を撮影したものです。

 結局、この山より南の市街地は、すべてが津波で流されてしまったのです・・・。

 ところで、上の動画のような情景を見ていると、

まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。

という賢治の短歌が、まるで悪い夢になって襲ってきたかのような錯覚にとらわれそうになります。これは果たして「まぼろし」か「うつゝ」か、誰しも我が目を疑う景色であり、波頭は非常な勢いで寄せて来ます。
 そのような海(わだつみ)が、3月11日に確かに出現しました。

 今、賢治の詩碑の横から南を見ると、下のような景色が広がっています。

日和山から南を望む

 震災から8ヵ月後ともなると、津波に流された跡も瓦礫は撤去されて、茶色い地面が広がっています。まるで埋め立て地のように見えますが、震災前はここはすべて住宅地だったのです。中央あたりに残っている比較的大きな白いビルは石巻市立病院で、しっかりと立っているように見えますが、1階は津波に打ち抜かれています。

 日和山から下へ降りると、家の土台も撤去された曠野に、真新しいアスファルトの道が通っていました。地盤が沈下しているので、道路は数十cm以上の盛り土をして底上げされています。奥に見える建物は、門脇小学校です。

門脇町

 日曜日のお昼頃、市民の方々は日和山の展望台から、かつて街並みのあった場所を、静かに眺めておられました。

日和山展望台から

【この項つづく・・・】

written by hamagaki
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