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2011年2月27日 底にきたなくしろく澱むもの

ガリレオ『星界の報告』初版表紙 前回の記事「ガリレオの筒眼鏡」では、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で観察し、『星界の報告』(右写真)という小冊子において公表した天文学的発見、すなわち月の表面は完全な球体ではなく地球と同じような凹凸があること、および銀河の正体が無数の小さな星の集合であることを、賢治がそれぞれ「月天子」、「銀河鉄道の夜」という作品のモチーフとして生かしていることを書きました。
 その時点で私は、賢治が『星界の報告』における二つのトピックをそれぞれ重要なモチーフとした作品を書いていることは、単なる偶然と考えていました。これらの発見は、科学史的にも非常に有名なもので、何もガリレオの著書を直接読んでいなくても、どんな天文学書にも書いてあることだからです。

 しかし、その後また『星界の報告』を読んでいると、賢治はひょっとしてこのガリレオの著書を、何らかの形で読んでいたのではないか、と思う箇所がありました。

 ガリレオは月面を望遠鏡で詳しく観察し、そこには地球と同じような山や谷が存在するのを見ます。月が満ちるとともに明るい部分が増えていく際には、ちょうど地球上で夜明けに高い山の頂がまず朝日に照らされ、次第に低い部分も明るくなるのと同様に、月の明部と暗部の境目では、月面における「山」がまず点状に明るくなり、だんだんと「平地」も明るくなるのを認めました。
 また、月の欠けて暗くなっている部分がうっすらと見えることがある現象に関して、これは地球からの光が月の暗部を照らしているのではないかとの説を提唱しました(地球照)。

 このような観察の結果ガリレオは、地球も月と同じように、太陽光線を反射することによって光っているはずだと考えます(以下、岩波文庫版『星界の報告』より引用)。

とりわけ、地球は運動と光とを欠如しているという理由で、星の回転から除外しなければならないと主張する人びとがいる。こういう人びとには、そのなかで(引用者注:計画中の著書『天文対話』の中で)、太陽光線の地球による反射を、多くの推論と実験とにもとづいて、きわめて有効に証明しよう。そして、地球が遊星であり、輝きにおいて月を凌駕していること、世界の底によどんでいる汚い滓ではないことを示そう。

 地球は光を放ち、そして(ここではまだ明言していないものの)動いているのだから、「世界の底によどんでいる汚い滓ではない」と言うのです。
 この表現は、新しい世界観に対する誇りに満ちていますが、私はこの箇所を読んで、賢治の詩「岩手山」を連想しました。

  岩手山

そらの散乱反射のなかに
古ぼけて黒くえぐるもの
ひかりの微塵系列の底に
きたなくしろく澱むもの

 ガリレオが地球のことを、「世界の底によどんでいる汚い滓ではない」と言うのに対して、賢治は岩手山のことを、「ひかりの微塵系列の底にきたなくしろく澱むもの」と言っているわけです。

 もちろん、表現が似ているからと言って賢治が『星界の報告』を読んでいたという証拠にはなりません。しかし逆に、もしもこの両者が偶然に似ているのだったら、それはそれで興味深く感じます。
 時間と空間を越えて、ガリレオと賢治が、くしくも共通する視点や語法を持っていたということになるからです。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について

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コメント



通常、山は

 そらの散乱反射のなかに
 古ぼけて黒くえぐるもの

と、見上げるものですが、

 ひかりの微塵系列の底に
 きたなくしろく澱むもの

と空から見下ろす視線は不思議です。

このように身体が巨大化して鳥瞰するヴィジョンは宗教家の記述などに見られます。
賢治は望遠鏡を持たなくてもこうした自在な視点を持つことができたのでしょうか。
仮にこれが解離性と呼ばれる傾向であったとしても興味深いものです。

投稿者 mishimahiroshi : 2011年3月13日 00:54

 mishimahiroshi さま、コメントありがとうございます。そちらでは、お変わりありませんでしょうか。

 この「岩手山」という詩は、視点が普通の裏返しのようになっていますよね。
 前半2行では、「山」を実体(図)として、「空」を背景(地)として見るという一般的な把握を逆転し、「そらの散乱反射」が実体で、山はそれを「えぐるもの」として、すなわちまるで「空の欠けている部分」として認識しているかのようです。
 まるで「ルビンの壺」のような、「図と地の逆転」です。

 また後半2行では、ご指摘のように山を「下→上」でなく、「上→下」という方向で見ています。これは賢治がしばしば他の作品でも、地表のことを「気圏の底」と表現していたのと同じ視点ですね。

 このような、いわば逆転した対象認識とともに、「岩手山」の意味づけも、「古ぼけて」「きたなく」という形容に表れているように、否定的な印象が濃厚です。
 賢治が深く愛したはずの岩手山に対して、意味づけも「逆転」してしまっています。

 このような独特な認識が、たった4行の表現に凝縮され定着されているところも、この作品の持つ測りしれない「重み」になっています。

 本当に、賢治の「自在な視点」を感じる作品ですよね。

投稿者 hamagaki : 2011年3月13日 17:50


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