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2010年4月22日 縁結びの賢治

 賢治の末妹クニの長男である宮沢淳郎さんが書かれた本『伯父は賢治』(八重岳書房)に、次のような一節があります(p.77-78)。

 宮沢賢治にまつわるエピソードのひとつとして、筆者の父・主計(かずえ)から聞いた話を書いておきたい。父は旧姓を刈谷といい、明治三十六年六月二十三日に、岩手県下閉伊郡茂市村蟇目で生まれた。昭和五十五年八月十日、花巻市で死亡している。
 彼は地元の小学校を卒業したあと二度東京で苦学生活を送り、大正十二年の関東大震災を新宿で体験した。同十三年八月に下閉伊郡書記に任じられ、十五年七月から岩手県属となった。そのときの上司が、賢治の『春と修羅』の中にある詩「小岩井農場」の、パート三に出てくる“羽田県属”(羽田正)だったのである。
 父の記憶によれば、昭和二年三月ごろ、賢治が盛岡市の岩手県庁にやって来た。そして羽田氏の紹介で、賢治と初対面のあいさつを交わしたようである。翌月主計とその妹カウが賢治に誘われ、盛岡劇場で観劇した。また同じ昭和二年のたぶん五月に、賢治が羽田氏と主計をこんどは花巻に招待してくれたので、ふたりは羅須地人協会に出向いた。
 よもやま話を終え、いざ退出という段になって、賢治が花巻駅まで送ると言い出した。当時のことであるから、もちろん徒歩である。途中、豊沢町にさしかかると、「ここが私の実家です。ちょっと入ってみましょう」と、いかにも自然な口調であった。そこでふたりは何気なく立ち寄り、家族と雑談した。その間、若い女性が入れかわり立ちかわり顔を出しては、茶菓やくだものをすすめる。主計は、ずいぶん女の人の多い家だと思った。
 しばらく時間を過ごし、こんどこそ帰るつもりで豊沢町の家を出た。恐縮なことに、また賢治がついてくる。そして主計に、「さっきお目にかけた妹クニの、婿になってくれませんか」と切り出した。
 主計は寝耳に水の話なので、驚いてしまった。そもそも、先ほど入れかわり立ちかわり現れた数人の女性のうち、いったいだれが賢治の妹クニなのか、皆目見当がつかなかったのである。すっかり困りはてた主計は一計を案じ、「結婚というか、婿になるというのは、私にとっては重大問題で、よく家族と相談した上でないと何ともお答えできません。つきましては妹さんのお写真を、羽田さんか私のところにお送りいただけないでしょうか」と頼んで、その場を切り抜けた。

 あまりに急な話に最初は戸惑った刈屋主計氏でしたが、結局はクニとの婿養子縁組が成立して、昭和三年四月十一日に結婚式を挙げ、以後は豊沢町の宮沢家に同居することになります。なお、正式に婚姻届を出したのは、同年九月五日とのことです。
 この結婚の経過について、宮沢淳郎氏は次のような印象を述べています(p.79)。

 両親の結婚に賢治が大きく関与していたことは、筆者に複雑な感慨をもたらす。賢治は、家を捨てて羅須地人協会に全力を投入する以上、自分の代わりに家業を支える男手を補っておきたいと考えたのであろう。主計はその期待にこたえ、義兄清六がはじめていた宮沢商店(建築材料・自動車部品販売業)の営業に力を貸した。
 それにしても、賢治のせっかちさかげんや天真らんまんぶりには、あきれるほかない。妹に婿をとらせるときのせっかちさは、ほとんど強引といってもよいほどである。

 確かに、この経過をたどるだけでも、縁談をまとめようとする賢治の「せっかちさ」「強引さ」は印象的です。その背景には、淳郎氏も推測するように、「自分の代わりに家業を支える男手を補っておきたい」という思いも、一つの要因としてはあったのでしょう。

 しかし、賢治が強引に人の結婚話を推し進めたのは、実はこの時だけではないのです。
 やはり昭和2年(1927年)の3月ですから、賢治が刈屋主計氏に初めて出会ったのと同じ頃のことです。賢治と藤原嘉藤治の間で、「来日中のロシアのオペラを見に、東京へ行こう」という話が出て、二人で停車場まで来てみたものの、それぞれの所持金を調べてみると、東京までの旅費には足りませんでした。そこでオペラ観劇は諦めて、かわりに「残念会をしよう」ということになり、二人でレストランに入りました。ここからは、森荘已池『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)より、座談会における藤原嘉藤治自身の回顧談です(p.65)。

 そこで、レストラン精養軒に入ったのです。花巻には珍しい洋食を食べさせるレストランです。私たちの席に出てきた女給をみて、私が何気なく、「この人は、ぼくの好きなタイプの女性だ」といいました。そしたら宮沢さんが、「好きなら結婚しろ、ここでハッキリ返事しろ」というのですね。そのころ、私はひどい問題にぶっかっていました。といいますのは、私の教え子の一人に、とても頭のよい子がおりました。二年生なんですが四年生の幾何や代数がスラスラとけるのです。その生徒の前の先生が、東京からやってきて、「藤原と、その女生徒が怪しい関係にある」と、県庁の学務部に手紙で投書したのです。問題にも何にもならない問題で、その中傷の痛手から、私は苦しみ悩んでおりました。私が臨んでいるそういう立場なども考えて、とっさのことに、宮沢さんがいい出したことなのです。私は人生の転機、大きな曲り角というのは、こういうものなんだと思い、「えがべ、もろうべ(よい、結婚しよう)」と返事しました。宮沢さんは、たちまちのうちに、間もない日曜日に、弘前の彼女の家までいってくれました。話は、とんとんまとまってしまいました。当時県立高等女学校の先生が、女給と結婚するというのは大問題で、町中は寄ると触ると話し合っていたのだそうです。彼女は、女学校も中途で退学し、気の毒な家庭の事情などもあったのですが、まアともかく、宮沢さんが仲人なので、うまく行ったことです。

 というわけで、この時も、親友を思う賢治の熱い気持ちもあったとは言え、それにしてもレストランで初対面の店員との結婚を即座に決断せよと迫るとは、やはりせっかちで強引と言わざるをえません。
 ちなみに、上の刈屋主計と賢治の初対面は、昭和2年3月に岩手県庁においてでしたが、この時すでに農学校を退職していた賢治には、公務として県庁の教育担当部署の羽田氏に面会する必要は、なくなっていたはずです。一方、藤原嘉藤治を中傷する手紙が「県庁の学務部」に投書されていたという記述を見ると、この3月に賢治が羽田氏に会いに県庁に行った理由は、この旧知の県視学に、藤原の件についての善処を頼みに行ったのかもしれない、とも想像されます。

 さらにもう一つ。ちょうどこの同月の作品、1927年3月21日の日付を持つ「〔野原はわくわく白い偏光〕」(「詩ノート」)という作品では、賢治は道ですれちがった知り合いの若者に、「そこでそろそろ/お嫁さんをもらったらどうだ」と声をかけています。たまたまこの若者はすでに結婚していたので、それ以上の話にはなりませんでしたが、この1927年3月というのはいったい何なのでしょうか。彼の一連の動きを見ると、この頃の賢治は、とにかく人を結婚させたい衝動に駆られていたようにさえ思えてきます。

 けれどももう少し調べてみると、実は賢治はこの時期だけでなく、いつもなぜかしきりに人を結婚させたがる習性があったみたいなんですね。
 上にも引用した森荘已池『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)の座談会の中から。賢治の農学校における同僚だった白藤慈秀の言葉で、やはり同僚だった奥寺五郎氏について(p.56)。

 奥寺五郎さんは士族で家柄はよく、宗青寺裏のリンゴ畠の中に住んでいました。養蚕の先生です。お母さんといっしょに住んでいて、奥寺さんが病気にならないとき、宮沢さんが細君の世話をしようとしました。その細君の候補者の家では、迷信深かったのか、方角が悪いとか、箸を倒して見たらダメだったといって、まとまらなかったと宮沢さんが笑って話していました。

 同じく座談会において、やはり農学校の同僚だった堀籠文之進の発言(p.106)。

 宮沢さんにも、ときどき失敗があって思い出しても思わず微笑が出ます。どういう話のはずみからだったんでしょうか。わたしにお嫁さんを世話するといい出しました。宮沢さんといくらか親戚くさいような関係の家の娘さんだということでした。わたしはまだ早いと思って、ことわりつづけておりました。あとで、そのわたしに貰えといった娘さんが、腹が大きくなったとかで宮沢さんは、すっかりあわてて「ヤァヤァすまないことをするところだった」とわびていました。そののち、わたしの結婚のときは、式から披露宴まで、ぜんぶ宮沢さんにやってもらいました。

 というようなわけで、うまくいった場合もいかなかった場合もあるようですが、生前の賢治は、周囲の人の「縁結び」にことさら熱心だったようなのです。
 その一つの理由は、自分の周りの人々に幸せになってほしいという、賢治らしい願いにあったのでしょう。ただ、こんなにせっかちに強引に縁談を進めてばかりいると、それで結婚させられた二人は、果たして本当に幸せになれるのだろうかと、ちょっと心配にもなってきます。まるで当人たちの気持ちは二の次のようで、油断するとお互いほとんど相手を知らないままに、話が進んでしまいそうなのです。

 となると、このように結婚を進めたがる賢治の内側には、また別の動因も働いていたのではないか?とも考えてみたくなります。しかし、私にはよくわかりません。

◇          ◇

 ただ、私としてはこれにちょっと似た現象を連想するので、最後に少しだけご紹介します。
 「神経性食欲不振症」、世間では「拒食症」とも言われる病気があります。この病気では、多くは何らかの精神的な要因が関与して、食事を摂ることを拒否してしまう状態になるのですが、この病気の患者さんは、自分自身はほとんど食べないことと対照的に、家族に対しては、できるだけ多くの物を食べるよう求める(場合によっては強制する)ことがしばしばあるのです。特に母親が対象となることが多く、娘の要求を断り切れずに無理をして食べているうちに、数ヵ月で体重が10kg以上増えてしまうというお母さんもあります。
 このような不思議な患者さんの心理については、まだ明らかになっていない部分も多いのですが、一つの説では、「自分自身に食べることを禁止している代わりに、家族(母親)に食べさせることで、『代理充足』をしようとしているのだ」と言われたりもします。相手に自分の中の一部を写し出し(投影)、その相手をコントロールすることによって、実は自分自身の無意識の欲求を満たそうとしているわけで、「投影性同一視」の一種とも解釈できます。

 賢治のケースがこれと似ていると感じられるのは・・・。賢治は、自分自身には結婚を禁じていました。これは、かなり若い時から決めていたことのようで、終生貫かれました。しかし、賢治にも異性に寄せる恋愛感情が存在していたことは、いくつかの作品からも読みとれます。
 そこで賢治は、結婚できない自分の代わりに、「周囲の人を結婚させる」ことによって、無意識のうちに何らかの「代理充足」を求めていたのではないか・・・。
 などということを、ふと空想してみたりすることがあるのです。

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項

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コメント



とても楽しく読ませていただきました。
賢治さんの直情的な面がよく出ていると感じられるお話ですね。

『代理充足』か、なるほど。。。他人を自分の潜在的欲望を満たす道具として使うということですか。『投影性同一視』というのもあるんですね。病気じゃなくても自分の言った事をちっともやらない子供なんか見てるとイライラしてしまいますからね。他人は自分じゃないと知りながらそれでも自分の一部のように支配しようとする。なんか自分にも覚えがあるような。(笑)

ぼくとしては賢治の信仰とどうしても結びつけたくなってしまいます。
異性への愛を厳しく否定していたのは彼一人の生き方にそれが障害になると思っていたからなので、人が結婚して子供を産み育てるという自然な(というよりある意味理想的な?)営みまで否定していたとは思えないんです。

「りんごと後光」でしたっけ?自分たちの子を見守る夫婦の温かく決然とした会話があるのは。「この子がまことの道に進むならわたしたちは寂しいけれど喜んで送り出そう」みたいな、、、(うろ覚えですみません)

そうか、
ここまで書いて気づきました。賢治は自分がその両親の元に生まれ育ったことを否定しなかった、自分を肯定していたということか、と。だって「われ質屋に生まれたがゆえにこの幸せを得たり」とか書いてますよね。苦境にいる人々と連帯したいと願っていた彼にとって自己の順環境が疎ましかったんだろうな、とそんなことを思っていると、彼はその部分で自己否定しているようにも思えていたので。

と気づくとまた長々とw。次からはもっと簡潔かつ有意味にコメントします(つもりです)のでお許しください\(^o^)/

投稿者 ガハク : 2010年4月23日 15:50

賢治は学生時代に喀血し、長生き出来ないことを自覚したと何かで読んだ記憶があります。
それが自らが結婚に踏み出せない理由の一つだったとか。

その厳しい決断を代理充足していたという捉え方はとても興味深いと思います。

彼の作品自体も、ある種の投影と考えられますね。

投稿者 游氣 : 2010年4月24日 00:36

盛岡高等農林の同人誌「アザリア」の仲間だった河本義行から保阪嘉内あての書簡(大正7年7月9日付)には、賢治が「私のいのちもあと15年はあるまい」と語ったことが記されています。これはこの直前に医師から心臓が悪いと告げられ肋膜炎と診断されたことと深い関係があると思いますが、この辺りから賢治は、ある覚悟みたいなものを持ったのではないかと私も考えました。
http://ringosing.exblog.jp/12783613
その後もガハクさんの仰るように宗教的な考えや、諸々の心情が結びついて、「自分は誰とも一緒にはいかない」という考えに至ったのではないかと・・・思っています。
だから自分は結婚できないけど、人には幸せになって欲しい、と思っていたのでしょう。裏を返せば、本当はとても寂しかったのでは・・・と思っていますが・・・。

投稿者 signaless : 2010年4月24日 08:44

 ガハク様、游氣様、signaless 様、コメントをありがとうございます。

 やはり賢治は、宗教的な理由、健康上の理由から、すでに人生の早い時期に、自分は結婚しないことを決めていたということなのでしょうね。
 上の二つの理由に加えて、森荘已池『宮沢賢治の肖像』p.176に書かれている次のような賢治の言葉も、気になります。けっこう有名な話ですが、賢治にとってはこういう動機もあったのは事実なのでしょう。

 「禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。」
 「何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。」

 いずれにしても、賢治が結婚しなかったのは「個人的」な考えによるもので、周囲の人々には、結婚して幸せな人生を送ってほしいという願いを持っていたのでしょうね。だから、結婚の世話もしたかったのでしょう。
 ただ、ちょっと例外的に感じられるのは、signaless 様ご指摘の、「但し今後の繋累は断じて作らざる決心に御座候」ということを、保阪嘉内に書き送っているところです。私も、signaless 様と同じく、ここに言う「繋累」とは、「妻子」のことだと考えます。保阪嘉内に対して唐突にこういうことを書いたのは、彼だけは自分と同道を歩んでほしい(ジョバンニとカンパネルラのように)という願いがあったのかもしれないと思ったりします。
 そしてそれが果たされないとわかった時、ますます賢治は孤独な道を選んだのかとも思ったりします。

 賢治の非婚には、上記のようないくつかの理由があったにせよ、その本当の心の底は、どうだったのでしょうか。「私は一人一人について特別な愛というようなものは持ちませんし持ちたくもありません」(書簡252a)などと書く時の彼の心情を思う時、ちょっと胸が切なくなるのも事実です。

 それから、「氷と後光」(でしたね!)がこの文脈に位置づけられるとは、ガハク様のご指摘で初めて意識しました。ありがとうございます。本当に美しく哀しいお話で、信仰心のない私のような者でも、じーんと来ます。
 ここでその最後の部分を、ちょっと引用してみますね。

 「この子供が大きくなってね、それからまっすぐに立ちあがってあらゆる生物のために、無上菩提を求めるなら、そのときは本当にその光がこの子に来るのだよ。それは私たちには何だかちょっとかなしいやうにも思はれるけれども、もちろんさう祈らなければならないのだ。」
 若いお母さんはだまって下を向いてゐました。
 こどもは苹果を投げるやうにしてバアと云ひました。すっかりひるまになったのです。

 ここに予期されているのは、親と子の宿命的な「別れ」であり、それは「雁の童子」などにも現れているテーマかと思います。
 賢治に当てはめてみれば、両親の恩に最大限の感謝をしながらも、より大きな何かのために、親のもとを去らねばならないかもしれない、という気負いのようにも思います。
 家出をして東京へ行った時にも、これはどこかに感じられていたものかもしれません。

投稿者 hamagaki : 2010年4月25日 15:10


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