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2009年7月 2日 『病床の賢治』

 今年の3月に出版された、『病床の賢治―看護婦の語る宮澤賢治』(舷燈社)という本を読みました。

病床の賢治―看護婦の語る宮澤賢治 病床の賢治―看護婦の語る宮澤賢治
大八木 敦彦

舷燈社 2009-06
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 本の帯には、「生前の宮澤賢治を知る最後の生き証人―賢治の看護をしたTさんに聞く」とあります。「最後」かどうなのか私にはわかりませんが、賢治没後76年という今になって、このように新たな直接的証言が初めて世に出るというのは、画期的なことでしょう。
 同じく今年の3月には、『新校本全集』別巻によって新たな賢治の詩の草稿も出版されましたが、こういうことが続くこともあるんですね。

 詩人でもある著者が、たまたま親戚にあたるこの「生き証人」の存在を知る場面は、「はじめに」の冒頭部分に、次のように書かれています。

 二年前の夏の終わり、久方ぶりに家を訪ねてきた親類の女性と談笑していた時のことだ。彼女がふと、自分の伯母は若い頃に宮澤賢治に会ったことがあるらしいというので、私は非常に驚き、詳しい説明を求めずにはいられなかった。彼女の話では、伯母は以前、花巻に住んで看護婦をしており、宮澤賢治が胸を患って実家で療養していた折りに、賢治の看護を頼まれたそうなのである。その伯母のTさんは、九十八歳のご高齢ながら、お元気に過ごしておられるということだった。それで私は、ぜひにもお会いして、お話を伺いたいと申し出た。

 当時20歳のTさんが賢治の看護をしたのは、1928年(昭和3年)12月から1929年(昭和4年)の2月あたりまでのようで、作品で言えば「疾中」の諸作品が書かれた病臥期にあたります。
 1928年の6月に賢治は東京、大島を訪ね、花巻に戻ってきてからも農事講演等のため精力的に近郊を廻りますが、8月10日頃から熱発して、下根子における独居生活を中止し実家に戻ります。花巻病院の佐藤長松医師の診断では「両側肺浸潤」、すなわち結核性の広範な肺炎を起こしている状態でした。この時の病状は40日ほどでいったん小康状態になり、賢治は9月23日の沢里武治あて[書簡243]で、「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。」と書きます。
 しかし12月から病状は再び急性増悪し、以後2〜3ヵ月にわたって賢治は死線を彷徨うほどの状態となりました。「疾中」には、彼自身も死を覚悟しているような作品が、いくつもあります。
 この急性増悪(シュープ)について、『新校本全集』年譜篇には次のように記されています。

十二月 寒さが急に来た晩、防寒の設備が悪かったため風邪をひき、突然高熱を発し、急性肺炎となる。入院するかどうかが問題になったが、母がうらないを見てもらい、家から出すのはよくないというので自宅療養をつづける。主計・クニの申入れで、夫婦が新婚生活をしていた二階の部屋と入れ替る。

 ここには風邪から急性肺炎とだけ書いてありますが、もちろん本質的には肺結核の再燃と重篤化でした。
 Tさんともう一人の看護婦が、宮澤家の依頼で賢治の看護に付くのは、まさにこの時期だったわけです。

 ところで、本書において著者によるTさんの実質的なインタビューの部分は13ページほどで、内容としても何か画期的な新事実が明らかになったというわけではありません。謙虚で、いつも周囲の人々に優しい賢治像、私たちがおおむねすでに思い描いている彼の人となりが、あらためて語られているところが大半です。
 それでも、生身の賢治に触れた人が、直接に語る彼の姿、「寝たままでメモを取るように何か書いていた」という様子や、賢治が療養していた実家の「離れ」の間取りなど、読んでいると当時の情景が目に浮かんでくるようで、私のような賢治好きにとってはやっぱり新発見の宝物のように感じられる文章です。

 実際の内容はこの本をお読みいただくこととして、私がとくに興味を引かれたのは、1929年(昭和4年)2月?にTさんが付き添い看護を終えて宮澤家を辞する際に、賢治はTさんに『春と修羅』を贈呈したこと、さらにこの時に賢治は一緒に作品3篇分の原稿を贈ったと妹の岩田シゲさんの記憶があり、清六氏は1943年(昭和18年)にTさんに手紙を書いて、「原稿は未発表のものかもしれないのでお借りできないか」と尋ねたといういきさつです。
 Tさんは、『春と修羅』は確かに受け取っていたものの、作品原稿をもらった記憶はないし、もちろん手もとにもなく、どうしようもなかったということです。

 真相がどうだったのかはわかりませんが、ちょっとドキドキするような一件ですね。「S博士に」という詩がそうであったように、賢治が世話になった人に関連した作品原稿を贈るということは実際にあったわけですから、将来またどこかから未発表作品が発見されるという可能性も、皆無ではないわけですね。

 あと、Tさんのインタビューもさることながら、この本のもう一つの魅力は、著者の大八木氏による、「『疾中』の時代」と題された評伝的な簡潔な論文です。年譜的記事の少ないこの時代の賢治の作品、彼の人生にとってのその意味などを考察して、Tさんのお話の背景を、とてもわかりやすく整理してくれています。

 これは薄い本ではありますが、装本は美しく、値段も700円と比較的安く、賢治ファンとしてはぜひ手もとに置いておきたくなるような一冊だと思います。

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項」「賢治関連本

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コメント



 農学校退職後の賢治を私は勝手に「昭和の賢治」と名づけているのですが、大八木さんの本も「昭和の賢治」を語る本ですね。さっそく注文しすることにしました。
 先日、ご紹介した稲塚権次郎さんも「昭和の賢治」の横にいた同時代人の岩手の農業実践人でしたから、生前賢治のことを聞いておけば「農の人・賢治」について多くのしかも得がたいことがらを語ってくれたのではないかととても惜しい気がします。
 nnenemuさんが、権次郎に寄せて陸羽支場の先輩で野鳥研究者でもあった仁部富之助のことをコメントしてくださいました。それにしても賢治は無尽蔵の話題の人ですね。

投稿者 かぐら川 : 2009年7月 3日 02:20

 「昭和の賢治」…。おもしろい見方ですね。

 確かに、賢治が農学校を退職するのは1926年(大正15年=昭和元年)で、ここで賢治の生涯の大きな変化がありました。
 「大正ロマン」とか「大正デモクラシー」とか言われて、比較的自由に教育や芸術に携われた時代から、「昭和」となると、何となく遠くから軍靴が響いてくるような雰囲気に変わっていったような印象も、私などは抱いてしまいます。

 ところで、大正から昭和に改元されたのは1926年12月25日で、この時に賢治はちょうど、東京に出て来ていたようですね。(12月23日付けで神田区錦町の「上州屋」から父あてに出した書簡[224]に、「二十九日の晩にこちらを発って帰って参ります」とあります。)
 「崩御」とか「践祚」とか「改元」とか、首都の物々しい雰囲気を、賢治はどう感じていたのだろうと思います。

 また細かく見ると、羅須地人協会にも、まだ大正時代だった時期と、昭和に改元されてからの時期があるわけですが、自由だった初期の活動に比べると、上記の上京から花巻に帰って1ヵ月ほどの、1927年(昭和2年)1月31日の『岩手日報』に協会の活動を紹介する記事が載ったことから、賢治は「(社会主義的活動との)誤解を招いてはいけない」と判断し、オーケストラを解散し、集会も不定期にしたということです。
 さらにこの年の3月には、賢治は花巻警察署長の事情聴取も受けたということで、やはり着々と時代は変化しつつあったのかと感じます。

 というようなわけで、「昭和の賢治」の活動には、私はどうしてもある種の悲壮感を覚えてしまいます。

投稿者 hamagaki : 2009年7月13日 01:33


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