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2008年6月19日 農商務省農事試験場畿内支場

『新校本全集』第十六巻(下)年譜篇p.108 「関西における賢治」について調べているうちに、また『【新】校本全集』年譜篇の記載で、一つ気になることが出てきました。

 1916年(大正5年)の、盛岡高等農林学校の修学旅行における「3月25日」の行程について、『【新】校本全集』年譜篇には、右のように書いてあります。
 賢治たち一行が、奈良を後にして「大阪へ向かう途中、奈良県立試験場畿内支場を参観。」となっていますが、この「畿内支場」というのは、「奈良県立試験場」の支場ではなくて、正式名称としては「農商務省農事試験場」、すなわち国立の試験場の、「支場」だったのです。

 国立の農事試験場の歴史を見てみると、1886年(明治19年)に、「農務局仮試験場」が設置され、これが1893年(明治26年)に農商務省農事試験場になります。これは東京・西ヶ原にあった施設で、賢治の恩師である関豊太郎博士も一時在職していたところですね。
 この農事試験場(本場)に対して、全国各地に6ヵ所の「支場」を設けることは、すでに1892年(明治25年)に予算が通過していて、大阪、宮城、石川、広島、徳島、熊本の6支場が設置されました。1896年(明治29年)には、それぞれの支場が改称されて、上記はそれぞれ畿内支場、東奥支場、北陸支場、山陽支場、四国支場、九州支場となり、さらに東海支場、陸羽支場、山陰支場の3ヵ所も増設されました。(徳島県立農業試験場八十年史より)

 この、農商務省農事試験場「畿内支場」が当時の農業界でその名を馳せていたのは、何と言ってもイネの人工的品種改良における、画期的な業績によってでした。
 「育種史」というページの1904年(明治37年)の欄には、

 農事試験場畿内支場で、イネおよびムギ類の品種改良に着手.イネは加藤茂苞が担当.
 農事試験場畿内支場で全国から水稲品種を集めた結果、その数約3,500品種となる.
 加藤茂苞がイネの人工交配に成功

と書いてあり、この加藤茂苞(かとう・しげもと)氏は、荘内日報社の「郷土の先人・先覚」のページでも、「我が国品種改良の父」として紹介されています。

 上の『【新】校本全集』年譜篇の記載は、盛岡高等農林学校の「校友会報」に掲載された「農学科第二学年修学旅行記」の、森川修一郎による以下の記述をもとにしていると思われます。(『【新】校本全集』第十四巻校異篇p.21)

途中畿内支場を参観した。時期が悪かつた為、幾多の稲の品種栽培試験の有様を見る事が出来なかつかのは、実に残念であつたが、同場に於ける米麦試験の結果は、其日をして十分価値あらしめた事と思ふ。其上場長より懇ろなる御講話を承つた事は、吾々一同深く感謝に堪へぬ次第である。其講話の大体は支場の設立は明治二十六年なるも、三十七年より其迄の方針を変じて専ら品種の事、殊に米麦の品種に付き研究を始めた事、・・・(後略)

 すなわち、明治37年(1904年)に、加藤茂苞が本格的にイネの人工交配を始めたことは、畿内支場そのものの「方針を変じ」、支場として全力を投入したもとでの研究であったことがわかります。
 そして、すでにこの当時の「畿内支場」とは、日本におけるイネの品種改良のメッカとなっていました。遠く盛岡高等農林学校の学生にとっても、その名前は尊崇の対象であったことが、上の「修学旅行記」の雰囲気からも感じられます。

 さて、この時の体験は、賢治にも何らかの印象を残したでしょうし、じつは後年になって賢治自らが地元農家に推奨していた「陸羽132号」は、後に加藤茂苞が「陸羽支場」場長であった時に、指導して作り出された品種だったのです。
 あるいは、この「畿内支場」のあった大阪府南河内郡柏原村は、この5年後に賢治が父とともに聖徳太子廟のある叡福寺を訪ねようとして、汽車を乗り過ごしてしまった因縁の場所にもなるのですが、それらの話は、また別の機会にいたしましょう。

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項

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 稲塚権次郎は、富山県立農学校の大正3年(1914)の卒業生です。恥ずかしいこと [続きを読む]

トラックバック時刻: 2009年6月28日 18:35



コメント



 身辺がばたばたしていてごぶさたしています。
 昨日訪れたもと富山県立農学校(→福野農学校→福野高校)本館の巖浄閣で、賢治とめぐり逢いました。この「巖浄閣」という明治期の農学校跡の建築物を訪れることで賢治の農学校体験に少し近づけるかなという思いもあったのですが、なんとここで「陸羽132号」に、賢治に、出会って心あたたかく帰宅しました。

 今は種苗法で「育成者権」も法定されていますが、当時はそうした発想もうすかったのか、加藤茂苞場陸羽支場長のもと共同研究という形で育成されたこの「陸羽132号」については、net上でもさまざまな(混乱した)情報が整理されずに述べられています。そうしたことは措くとして、賢治と陸羽132号の育成に関わった稲塚は、岩手県でも微妙な位置関係で農業に向かい合っていました。稲塚が陸羽支場から1926(大15)、転勤を命じられたのが「岩手県農事試験場」だったからです。折をみて、少しそんなことも拙ブログで書いてみようと思っています。ご報告まで。

投稿者 かぐら川 : 2009年6月28日 18:32

 かぐら川様、コメントをありがとうございます。

 私も「陸羽132号」については、ネット上で情報を集めた程度でしたので、この記事も心もとないかぎりです。(^^;

 いずれの日かの、陸羽132号や稲塚権次郎のことに関するかぐら川様のブログ記事を、楽しみにしています。
 それにしても、「巖浄閣」で賢治の面影に出会って「心あたたかく」帰られたこと、本当によかったですね。

投稿者 hamagaki : 2009年6月29日 00:19

耕生(kulturisto)です。

陸羽132号に関するコメント興味深く拝見しました。

陸羽132号に関しては、私も以前から強い関心を持っており、先年、所属する日本土壌肥料学会(2006年、秋田県立大)で「宮澤賢治の詩「稲作挿話」に関する土壌肥料学的考察」というタイトルで研究発表?も行いました。特に、当時の国家プロジェクトとして育成され、東北地方の推奨品種に指定されたばかりの陸羽132号(ここから農林1号や22号、後のコシヒカリやササニシキなどの大品種が生まれます)と賢治との関係について私ながらに調べたものです。

私の調べた範囲では陸羽132号の育種に携わったのは次の二人になっています。

「寺尾博(開始当時27才、後の農技研所長、参議院議員)および仁部富之助(開始当時28才、鳥のファーブル)によってわずか2粒の種子から品種確立 」

かぐら川さんの述べておられる稲塚権次郎は小麦の品種である農林1号の育種者であったと記憶しているのですが、私の記憶違いでしょうか。ちなみに私の記憶はインターネットから得た情報ではありません。

私は数年前に陸羽132号を自分で栽培してみようと思い、農水省の北陸農業試験場(現(独)中央農業研究センター北陸支場)から種子数粒を取り寄せ、大切に育てました。今では数十kgのモミ種子を所有しており、今年も職場の実験農場に田植えし、その稲の豊かな緑の葉が今、風に吹かれています。今年収穫する陸羽132号のお米は、石川・宮沢賢治を読む会の賢治祭(9月21日、金沢イーハ陶房)で、恒例の玄米のおにぎりとして霊前に供えられる予定です(もちろんその後で、おいしくいただきます)。

稲の栽培はバケツ苗などでも結構楽しめます。うまく行くと1粒の種子から1株の稲が育ち、収穫すると茶碗一杯分のご飯を食することができます。お味の方はコシヒカリなどに比較すると粘りけなどがやや劣るかもしれませんが、自分で栽培したお米を新米で食べたら、おそらく世界一の味になるはずです!

来年、陸羽132号を栽培してみたいと思われる方には種子を無料でお分けしますので、hamagakiさんまで送り先をご連絡下さい。hamagakiさん、大変お手数ですが、私まで仲介していただけませんか?

なお、私は以前、自宅の近くの田んぼ1枚(約100坪)を借りて、有機農業で米作りに挑戦しました、自称第3種兼業農家の自給農業です。レンゲとアイガモ農法で、100坪の田んぼから無肥料でも約150kgのお米が獲れます。150kgというのは昔の1石です。石という単位は、成人一人が1年間に食べるお米の量のことですが、今の日本人の米消費量は70kgを切っていますから、1石150kgのお米は大人二人分ということになります。子ども達が家を離れ、夫婦二人だけの我が家では立派に自給できます。第3種兼業農家の稲作りは10年ほど継続しましたが、事情により今は止めています。今はもっぱら野菜と豆類中心に約100平米の家庭菜園が中心です。

話がつい脱線してしまいました。
農業の話はまた別の機会に。

投稿者 耕生 : 2009年6月29日 10:32

 hamagakiさん、耕生さん、有り難うございます。
 恥ずかしいことばかりですが、稲塚権次郎の評伝があることを知りませんでした。千田篤さんの『世界の食糧危機を救った男――稲塚権次郎の生涯』(家の光協会/1996)です。この本は、そもそもが稲塚→ボーローグ(ノーベル平和賞)とつながった《小麦農林1号》の育成者・稲塚を追おうとした著者の探訪の書です。が、岩手県立農事試験所での小麦の育成の鍵が、さかのぼる陸羽支場時代の水稲育成にあることに気づいた筆者はその時代も丹念にフォローし、稲塚が《「陸羽132号」完成の陰の人》とも呼ばれた所以も探っています。
 絶版ですが、稲塚の岩手農試時代(大正15〜昭和13)の歩みは、賢治の晩年を知るにも多くの傍証を与えてくれる本です(「宮沢賢治」の章も立てられています。)
 というわけでまた、千田さんの本を片手に、のんびりもたもたと、稲塚権次郎の跡も追ってみたいと思っています。
 以上、とりあえずのメモです。

投稿者 かぐら川 : 2009年6月30日 00:17

>耕生様

 「陸羽132号」栽培の経緯、非常に興味深く拝読させていただきました。本当に、自分で丹精こめて育てた稲を収穫した新米の味は、素晴らしいものでしょうね。
 私などには、そういった地に足のついた経験もありませんし、また日当たりの不十分なマンションのベランダでは実行できそうもなく、残念です。

 しかし、このコメント欄が「陸羽132号」を育ててみたいという方に役立つのでしたら、私としましては喜んで仲介をさせていただきますので、もしも耕生さんの「陸羽132号」の種子をご希望の方がいらっしゃいましたら、どうぞ当サイトの「管理人あてメール」にご連絡を下さい!


>かぐら川様

 お忙しい中、ありがとうございます。
 稲塚権次郎の評伝の中に「宮沢賢治」の章もあるとは、興味津々ですね。
 またその内容について、貴ブログでお教えいただければ幸いです。ゆっくりとお待ち申し上げております。


 お二人にお教えいただきながらやっと自覚するようになったのですが、私自身、賢治のアカデミックな意味での専門は農業であると昔から知りながら、これまで本当の意味で、農業という角度からちゃんと賢治を見られていなかったと感じます。

 まだまだ、奥が深いものですね。

投稿者 hamagaki : 2009年6月30日 22:44


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