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2008年6月15日 「中外日報社」のあった場所

 故あって、「関西における宮沢賢治」について、また調べてみています。

『【新】校本全集』年譜篇より 1921年(大正10年)4月の、賢治と政次郎の父子による関西旅行において、その第四日目の行程は、『【新】校本全集』年譜篇(p.222-223)によれば右記のように始まりました。
 「朝旅館を出て」というのは、前日に比叡山を越えた後、日も暮れてから投宿した三条小橋近くの「布袋館」です。旅館を発った二人は、右記のような目的を持って大阪の「叡福寺」に参詣する計画で、その行き方を尋ねるために、まず「中外日報社」に立ち寄ったというのです。
 「中外日報」は、1897年に創刊された宗教専門紙で、宗教的な好学心の旺盛な政次郎氏にとっては以前からの愛読紙だったということですが、現在もその「総本社」は、京都駅の南にあります。

 で、この朝に賢治と政次郎の二人は、「七条大橋東詰下ル中外日報社を訪ね」たということですので、私は当時に中外日報社があった正確な場所が知りたく思い、先日、メールで中外日報社に問い合わせをしてみました。
 すぐに親切なお返事をいただいたのですが、その内容は、ちょっと意外なものでした。
 以下に、その返信の主要部分を引用させていただきます。

> 中外日報社は大正15年9月に、東山の妙法院前から
> 東区一橋宮ノ内町7番地へ移転しています。
> 妙法院前の社屋は、現在の妙法院の前(道を挟んで向かい側)
> に位置していたようです。
>
> お問い合わせの「七条大橋東詰下ル」は、どうも一橋宮ノ内町
> (川端七条)のあたりのように思われます。
> 年譜の記述は大正10年となっていますから、その当時は
> 妙法院前に社屋があったと思われますが、あるいは後年、場所について
> 取り違えて記録したことも考えられます。
> それはさておき、一橋宮ノ内町の旧社屋跡には、
> 現在、佛眼鍼灸理療学校の校舎が建っています。

 つまり、賢治父子が中外日報社を訪ねた1921年(大正10年)の時点では、社屋は年譜に記載されている「七条大橋東詰下ル」ではなくて「妙法院前」にあり、その後、1926年(大正15年)に社屋が移転した先が、「七条大橋東詰下ル」だったというのです。
 これを地図に表示すると、下のようになります。

 マーカー(1)を付けてあるのが、賢治父子が訪ねた当時に中外日報社があったはずの「妙法院前」です。マーカー(2)は、1926年(大正15年)の移転後の社屋の位置(現在の佛眼鍼灸理療学校)です。
 「七条大橋東詰下ル」という表現は、京都風の位置指示方法ですが、「七条大橋」(上図では、七条通=113黄色の東西の通りが、鴨川を渡る橋)の、東詰=(上図では、「本町6丁目」と書いてある「本町」の字のあたり)から、「下ル=南に進んだ場所」、という意味です。
 すなわち、中外日報社からの返信メールのとおり、1926年の移転後の社屋の位置に、該当しているようです。

 「年譜」の記載と現実との間に、このような食い違いが起こってしまった理由としては、「年譜」のこの箇所の記載はおそらく賢治の死後に父政次郎氏が研究者(堀尾青史氏?)に語った内容にもとづいているのでしょうから、その際の政次郎氏の勘違いにあったのではないかと、私は推測します。
 旅行から少なくとも十数年が経って、政次郎氏が昔語りをした時点では、中外日報社の社屋はすでに「七条大橋東詰下ル」に位置していたわけですから、政次郎氏としては途中で移転したなどとは意識せずに、「中外日報社といえば七条大橋東詰下ル」という、その時点での理解にもとづいて話をされたのだろうと、私は思います。

 さて、このあたりの事情についてちょっと興味深く感じられるのは、佐藤隆房著『宮沢賢治』(冨山房)における、やはりこの関西旅行に関する記述です。
 同書では、下記のように書かれています(p.68)。

 次の日の朝も早く宿を立ち、三十三間堂の近くにあった中外日報社を訪ねて行きました。それは聖徳太子の磯長の廟に行く道順をたずねるためでした。

 こちらの記述では、「中外日報社」の場所を、「三十三間堂の近く」と表現しています。三十三間堂とは、上の地図では「三十三間堂前」の信号の南西に広がる縦長の緑の敷地で、マーカー(1)も、マーカー(2)も、どちらも「三十三間堂の近く」と言うことはできますが、大きな違いは、旅館のあった三条小橋(図で、北北西の方向)から(1)の場所に行くためには三十三間堂の前を通りますが、(2)へ行くのなら、三十三間堂の前は通らない、ということです。
 賢治父子が旅館から中外日報社へ行った道筋としては、市電を利用して、「木屋町三条」→「七条東洞院」(木屋町線)、さらに「七条烏丸」→「東山七条」(七条線)と乗り継ぐという経路が考えられます。そして、市電を降りる東山七条の電停から中外日報社(1)までは、200mほどです。さらに、東山七条の手前の電停が「博物館三十三間堂前」でしたから、中外日報社が「三十三間堂の近く」にあることが、意識されやすい状況にあったのだろうと思います。

 すなわち、政次郎氏が堀尾青史氏(?)に語った際には、「七条大橋東詰下ルの中外日報社」と、後からの知識も思わず混ぜて語ってしまったようですが、佐藤隆房氏に語った際には、中外日報社に行く途中で、近くに三十三間堂があったという、旅行当時の記憶を呼び起こしながら話をしたということかと思います。


 下の写真は、東大路をはさんで妙法院の向かい側、賢治父子が訪ねた時に「中外日報社」があったとされる場所です。現在は旅館の敷地の一部になっています。

1926年移転まで中外日報社があった場所

 下の写真は、1926年(大正15年)9月に移転した後の中外日報社があった場所(=七条大橋東詰下ル)です。

1926年移転後の中外日報社があった場所

 そして下は、現在の「中外日報京都総本社」です。

中外日報京都総本社

中外日報京都総本社看板

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項」「賢治紀行

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コメント



 『【新】校本全集』年譜では、道をたずねるため中外日報に立ち寄り玄関で立ち話をしたように書かれていますが、hamagakiさんもお持ちだとおっしゃっていた龍門寺文蔵『「雨ニモマケズ」の根本思想――宮沢賢治の法華経日蓮思想』/大蔵出版/1991.8)には、中外日報社訪問の折、同紙主筆三浦参玄洞と賢治親子が面会したことが書かれていますね。このときのことを参玄洞氏がどこかに書かれているのでしょうか、“二十五歳の賢治は紺カスリの羽織ハカマ姿で初対面の挨拶をした。”(同書7P)と記されています。
 なお、壺中の天地さんが「三浦参玄洞さんと私」を書かれた佐藤勝治さんのことを、近々お書きになられるそうです。

投稿者 かぐら川 : 2008年6月16日 01:49

 かぐら川様、こんばんは。

 龍門寺文蔵氏の著書を見てみますと、たしかに冒頭に、賢治父子が中外日報社で主筆三浦参玄洞氏と面会したことが書かれていますね。そもそも、この本全体が、「中外日報」に掲載された賢治論から成っていたのですね。

 政次郎氏は三浦参玄洞氏のことをよく知っていて、後に小倉豊文氏と三浦氏の思い出について語り合ったことが、小倉豊文著『宮沢賢治聲聞縁覚録』に書かれていました。
 この関西旅行中、政次郎氏が叡福寺への経路について「中外日報社で尋ねてみよう」と思い立ったのも、すでに三浦氏と面識があったからなのか、と考えてみると納得がいく感じがします。

 「壺中の天地」さんの文章も楽しみです。

投稿者 hamagaki : 2008年6月17日 02:19

メールが送信できなし、一部、画面が消えて、苦労しております。
やっと、直ったと思ったのですが、やはり、地図が表示されませんでした。

投稿者 雲 : 2008年6月23日 14:22


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