← 前の記事へ | メインページへ | 次の記事へ →

2008年4月 6日 電信柱から高架線へ

 現代の私たちも、道端に立っていて送電線を支えている棒のことを、なにげなく「電信柱」と呼んでいますが、これは言葉の本来の意味からすると、正確ではないようです。
 もともとこの名前が指しているは、「電信」の「柱」というわけですから、電力を供給する送電線の柱ではなくて、あのモールス信号の「電信」を伝えるための線を支える柱のことだったのです。

 日本における電信事業の全国への普及は、電灯の出現や家庭配電の開始よりもはるかに早く、東京―横浜間に電信線東海名所改正道中記・程ヶ谷が敷設されて電信事業が開始されたのは1869年(明治2年)のことで、この時に東京の築地運上所(税関)から横浜裁判所まで、約32kmの間に立てられた電柱593本が、日本最初の「電信柱」だったことになります。そして、早くも1878年(明治11年)には、国内の電信設備がほぼ完了しました。すなわち、この時までに、「電信柱」が全国の主要幹線道には立ち並んだわけですね。(参考:「電信・電話の歴史年表」)
 右の明治初期の浮世絵(三代目・広重「東海名所改正道中記・程ヶ谷」)には、並木の松に直接電信線を取り付けてある様子が描かれており、古いものと新しいものが不思議な形で共存しています。

 一方、電灯事業に関しては、東京・銀座の街路に初めてアーク灯がともされて連日市民が見物に訪れたというのが1882年(明治15年)、東京で一般家庭への配電が始まったのが1887年(明治20年)、そして1912年(大正元年)には東京市内のほぼ全域に電灯が行きわたり、1927年(昭和2年)の段階で、全国の電灯普及率は87%に達したということです。(参考:電気事業連合会「電気の歴史」)

 正しい言葉の用法としては、電力会社が送電・配電を目的に設置するのは「電力柱」と言い、何らかの通信目的の導線(現在は「電信線」はありませんが、電話線やケーブルテレビやネット用の光ケーブルなど)を中継するのが「電信柱」で、両者を合わせて「電柱」と呼ぶ、ということのようです。
 しかし、上で見たように、「電信柱」の方がはるかに早く全国に行き渡り、人々はすでにこの呼称の方に慣れ親しんでいたために、その後「電力柱」が普及してきても、区別せずにどちらも「電信柱」と呼び続けたわけです。

月夜のでんしんばしら(賢治自筆画) 賢治が創作活動をしていた大正〜昭和初期とは、群雄割拠していた電力会社たちが、全国で競争を繰り広げつつ、津々浦々に電灯の普及を推し進めていた時代でした。この当時にも、すでに純粋な「電信柱」というのはほとんどなかったでしょうが、賢治も大方の人々と同じように「電柱」に対してこの呼称を用い、その作品には「でんしんばしら」が重要なキャラクターとして登場します。
 童話「月夜のでんしんばしら」はもちろんのこと、「冬のスケッチ」に出てくる、「瀬川橋と朝日橋との間のどてで/このあけがた、/ちぎれるばかりに叫んでゐた/電信ばしら」、「空明と傷痍」に出てくる「電信ばしらのオルゴール」・・・。
 そして、やはり最も印象深いのは、

よりそひて
あかきうで木をつらねたる
夏草山の
でんしんばしら。 (歌稿〔B〕 578)

という若き日の短歌と、それに呼応するように「銀河鉄道の夜」の終わり近くに現れる、「何とも云へずさびしい気がしてぼんやりそっちを見てゐましたら向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立ってゐました。」という一節です。


 と、いう具合に、「でんしんばしら愛好者」の賢治だったと思うのですが、1928年(昭和3年)に大島行きの前に東京に立ち寄った際には、ちょっとこれまでとは違った送電線と、その支柱を目にします。
 1928年6月10日の日付のある「高架線」(「東京」)という作品には、それなりにいろいろ人生経験を積んだ賢治の、東京に対する従来の単純な憧れではない複雑な思い(都市文明への危惧や、地方から都会へのエンパワーメントや、深い人類愛など)が込められているようで、不完全な草稿段階にはありますが、私としては大好きな作品の一つです。
 その題名になっている「高架線」とは、言葉の意味としては「高架になっている鉄道線路」のこととも、「高架になっている電線」のこととも解釈できますが、作品の内容からは、後者と考えられます。
 賢治はこの時、普通の電線よりももっと高いところに架かり、木製の電信柱などではない「鉄の塔」によって中継されている送電線を見たのだと思われます。そして、次のように書きます。

かゞやく青き氷窒素のかなたより
天女の陥ちてきたりしに
そのかげらふの底あたり
鉄のやぐらの林あり
そは天上の樹のごとく
白く熟れたる碍子群あり
天女来りて摘みたるに
そは修羅のぐみ
黄いろに澱む硫黄にて
嘆きの声は風に充ちしと

 「鉄のやぐらの林」とは、「碍子群」を伴っていることから、現代にもあるような高圧送電線を中継する鉄塔のことを指していると思われます。そしてその「碍子」は、「修羅のぐみ」と呼ばれ、「人間界」よりも下に位置する「阿修羅界」の産物とされています。
 さらに、その少し後の箇所では、

緑青ドームさらに張るとも
いやしき鉄の触手ゆるとも
はては天末うす赤むとも
このつかれたる都のまひる
いざうましめずよみがへらせよ

と書かれていて、ここに出てくる「いやしき鉄の触手」というのも、送電鉄塔のことでしょう。「いやしき」という形容も、先に「修羅」と表現したことと呼応しています。

 すなわち、「でんしんばしら」に対してはあれほど親しみをこめて謳っていた賢治も、この新たな参入者たる「送電鉄塔」には、何か不吉なものを感じ、嫌忌しているようなのです。

 作品「高架線」の内容からは、これは東京の市街地に立っていた送電鉄塔だったと思われますが、鉄塔を要するような高圧送電が行われるようになってきたのも、じつは当時の一つの時代の流れでした。
 そもそも東京に電灯が普及した当初は、その電気は、東京市内に設けられた火力発電所から210V程度で配電されていました。しかし、次第に大量に安価な電力を供給する必要が高まった結果、1907年(明治40年)に東京電灯会社は、山梨県の駒橋水力発電所から東京へ、送電電圧5万5000Vで、75kmという遠距離の送電を開始しました。これが、日本における特別高圧遠距離送電の始まりということです。ただ、「東京電灯(電燈)・電気の歴史」というページの写真を見ると、この時の市街地における送電には、まだ「鉄塔」は使われていなかったようです(中ほどの、「駒橋から早稲田変電所への送電線」参照)。

 それでは、賢治が「高架線」を書いた1928年6月までに、東京の市街地に入り込んでいた高圧送電鉄塔はどのくらいあったのか、「送電鉄塔見聞録」というすごいサイトで調べてみると、1912年(明治45年)にできた八ッ沢線(淀橋変電所まで)、1913年(大正2年)にできた酒匂川線(駒沢変電所まで)、1913年(大正2年)にできた谷村線(新宿戸塚変電所=現在の目白変電所)まで、1914年(大正3年)にできた猪苗代旧幹線(田端変電所まで)、1924年(大正13年)にできた上越幹線(亀戸変電所まで)、1925年(大正15年)にできた南葛線(小松川変電所まで)、1928年(昭和3年)10月部分開通の東京内輪線(一部には1925年建設の鉄塔もあり)、などがあるようです。
 上記のリンクページでは、その当時に建造されて現在まで残っている鉄塔の写真まで見られて、とても興味深いです。80年以上の時を越えて、意外に現在も目にする送電鉄塔と同じような感じですね。
 これらのうちで、賢治が見ていたのはどの送電線の鉄塔だったのかということが気になりますが、はっきりとしたことは不明です。作品中に出てくる「地球儀または/大きな正金銀行風の/金の Ball」というのが同定できれば、作品の舞台がおおむね判明するでしょうが、現時点で私にはわかりません。また、「きらゝかに海の青く湛ゆるを」という一節が、作者の目に直接海が見えていたことを表しているのだとしたら、その鉄塔は、海に近い亀戸変電所や小松川変電所に向かう、上越幹線や南葛線のものだったかもしれません。


 あと、この作品で「謎」なのは、エスペラントの単語を用いて書かれた、次の3行です。

^Si ne estas belaner nin !
Li ne estas Glander min !
Mi ne estas Slander min !

 この中の、‘belaner’、‘Glander’、‘Slander’という語(?)は、エスペラントには該当する単語がありませんし、だいたい語尾がエスペラントの規則にも反しています。作者がいったい何を言おうとしているのか不明なのですが、この箇所について野島安太郎氏は『宮沢賢治とエスペラント』(リベーロイ社, 1996)において、これを「岩手軽便鉄道の一月」(『春と修羅 第二集』)との関連においてとらえることを提唱しておられます。同作品には、「くるみの木 ジュグランダー」や「かはやはぎ サリックスランダー」などが出てきましたが、「ジュグランダーとサリックスランダーなどの頭を切り取ったのが、Glander であり Slander である」というのが、野島氏の考えです。私も、この着目に賛成です。
プラタナスの実 作品のその少し前の箇所には「サリックスバビロニカ」が出てきますし、2回繰り返される「プラタヌス グリーン ランターン」というのは、街路樹のプラタナスが付けている緑いろの実(右写真)のことを指していると思われます。「岩手軽便鉄道の一月」で言えば、まさに「鏡を吊し」に相当する形で、「提灯を吊し」ているわけですね。(ちなみにプラタナスの和名は、「鈴懸けの木」です。)
 さらに、「岩手軽便鉄道の一月」には、「グランド電柱 フサランダー」が出てきましたが、「高架線」において、その電柱の巨大化した新顔として登場したのが、高圧送電鉄塔であったわけです。
 つまり、この二つの作品は、木々や電柱(鉄塔)が登場する点において共通しており、作者の心の中でも連想が働いていたのではないかと思うのです。しかしそれでも、上の「エスペラント風」の部分が何を言いたいのかは、釈然としません。木々や鉄塔が、故郷花巻のものとは異なっている、ということなのでしょうか。

 ところで、賢治は農学校教師時代に、奥州街道沿いに江戸時代から残る松並木を県当局が公会堂建設のために伐採してしまうという話が出た際、校内のディベート大会において、伐採反対の側に立って活躍したことがありました。教え子の柳原昌悦は、討論中に賢治から手渡されたメモの中に、「先生の考え方の中に広重の東海道五十三次の松並木を連想した」と述べていて(宮沢賢治学会・花巻市民の会『賢治のイーハトーブ花巻』)、これは冒頭に掲載した三代目広重の浮世絵(=松並木の電信柱化現象!)につなげて考えると、ちょっと示唆的です。
 賢治は、文化遺産としての「街道並木」や、その進化形と言えなくもない街道沿いの「電信柱」には愛着を抱いていたものの、「タキスのそら」を無骨に区切る高架線や、無機的にそびえ立つ「鉄のやぐら」には、何か禍々しいものを感じてしまったのではないでしょうか。


 作品「高架線」の前半部は、大都会の猥雑さが、まるで清濁併せ呑むようなスタンスで描写され、それはそれで活き活きとして魅力的です。「ひかりかゞやく青ぞらのした/労農党は解散される」という、この年の4月10日の出来事も織り込まれていますが、労農党シンパであった賢治にとっては、さらりと書かれていながら心の痛む想起だったでしょう。
 そのような背景を持ちながらも作者は、

一千九百二十八年では
みんながこんな不況のなかにありながら
大へん元気に見えるのは
これはあるひはごく古くから戒められた
東洋風の倫理から
解き放たれたためでないかと思はれまする

と、東京の人々の「元気」を認めるのですが、それに続いて、

ところがどうも
その結末がひどいのです

と、「結末」を予言するかのように語ります。
 その「結末」とは、

この大都市のあらゆるものは
炭素の微粒こまかき木綿と毛の繊維
ロームの破片
熱く苦しき炭酸ガスや
ひるのいきれの層をば超えて
かのきららけき氷窒素のあたりヘ向けて
その手をのばし
その手をのばし

というように、大気汚染に苦しむ人を連想させるものであったり、先に引用した、「陥ちてきた天女」の悲しい話であったり、

きらゝかに海の青く湛ゆるを
練瓦の家の屋根やぶれ
青き??気も風景ももる

などと、何らかの荒廃を暗示するものであったりします。


 そして、作品の終結部は、これらの「都市の疲弊」に対して、「地方」からのエネルギーを注ぎ入れる様子を描くかのような、韻文の「歌」になっていきます。それは、「都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」(「農民芸術概論綱要」)という従来の姿勢よりも、さらに積極的に、都市に「癒やし」を与えようとしているかに思えます。
 私は、作品を読んでいてこの部分に至るたびに、「未来派」のような喧噪の音楽の底の方から、静かに聖歌のごとき合唱の歌声が浮かび上がってくる感じを覚えます。

いまこのつかれし都に充てる
液のさまなす気を騰げて
岬と湾の青き波より
檜葉亘れる稲の沼より
はるけき巌と木々のひまより
あらたに澄める??気を送り
まどろみ熱き子らの頬より
汗にしみたるシャツのたもとに
またものうくも街路樹を見る
うるみて弱き瞳と頬を
いとさわやかにもよみがへらせよ
緑青ドームさらに張るとも
いやしき鉄の触手ゆるとも
はては天末うす赤むとも
このつかれたる都のまひる
いざうましめずよみがへらせよ

そのうるはしくわかやぐ胸を
水銀をもて充てたるゆゑに
たゞしきひとみの前には耐えず
かなしきさまなるひとにも吹けよ

 そして、合唱の歌声は、さらに安らかに転調して、作品は終わります。

あゝひとおのおのわざをもなせど
つみひとになくわれらにあらん
あまねきちからに地をうるほをし
なべてのなやみをとはにも抜かん
まことのねがひにたゝずやわれら

いかにやひとびとねたみとそねみ
たがひのすべなききほひとうれひ
みだれてすゑたるひかりのなかに
すゑたるししむらもとむるちから
なべてのちからのかたちをかへて
とはなるくるしみ抜かんとせずや
見ずや扉もよそほひなせば
おもひをこめたるうでにもまさり
いくたびしづかに丶丶丶を丶丶丶
いとしとやかにもとざされたるを

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項

トラックバック




コメント




コメントしてください




保存しますか?

(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)



← 前の記事へ | メインページへ | 次の記事へ →