2008年4月27日 若き日の最澄(1)
先週、滋賀県側の坂本から比叡山を越えてみましたが、その際に起点としたJR「比叡山坂本」駅の前には、「若き日の最澄」と題された銅像が建っていました(右写真)。
この像は、785年(延暦4年)、19歳の最澄が比叡山に登って山林修行を始めた頃の姿をかたどったものとされています。
山に入った最澄は、小さな草庵を結び、その毎日は、
松下巌上に、蝉声と梵音の響き(読経の声)を争ひ、石室草堂に、蛍火と斜陰の光を競へり。
というものだったと、『叡山大師伝』は書いています。
そして、その3年後の788年(延暦7年)、最澄が比叡山中に「中堂」を建てるにあたって詠んだという歌が、『新古今和歌集』の「巻第二十 釈教歌」に、収録されています。
比叡山中堂建立の時 伝教大師
阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)とは、梵語で「無上の真実なる完全な悟り」の意味で、<無上正等覚><無上正真道><無上正遍知>などと漢訳されるということです(『岩波仏教辞典』)。
若き最澄は堂を建てるにあたり、無上の仏たちに比叡山への加護を祈ったということでしょう。
ところで、この最澄の歌を見るとどうしても連想してしまうのが、賢治が父との旅行において比叡山根本中堂に参拝した時に詠んだ、次の歌です。(なお、下の表記で「正遍知」の「遍」は、原文では「ぎょうにんべん(彳)」に「扁」です。)
比叡
※ 根本中堂
ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ。 (775)
上記の二つの歌が似ているのは、比叡山根本中堂という舞台設定もさることながら、どちらも上の句では漢語調の特殊な仏教用語を連ねて「仏(たち)」に呼びかけ、下の句ではその仏(たち)に対して、「・・・たまへ」という形で、願いを述べているという構造にあります。また、「阿耨多羅三藐三菩提」の漢訳が「無上正遍知」であることも、関連を示唆するような気がします。
私が思うには、賢治は『新古今和歌集』に載っている最澄の上記の歌を知っていて、比叡山において「大師」への思いをはせながら大師自身の歌を下敷きにしつつ、「ねがはくは・・・」の歌を詠んだのではないでしょうか。
ちなみに、上記の最澄の歌は、当時から「本歌取り」される傾向があったようで、「小倉百人一首」にも入っている僧慈円の
おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣に墨染めの袖
という歌などが、その典型です。ここで、「わが立つ杣」とは、一般的な杣山のことではなくて、他ならぬ比叡山のことなのです。
ところで、賢治の歌にある「大師のみ旨」とは、最澄が比叡山入山にあたって書いた「願文(がんもん)」のことを指していると言われていますが、その「願文」の最後の部分は、下のようになっています。
伏して願はくば、解脱の味、独り飲まず、安楽の果(このみ)、独り証せず、法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん。若しこの願力に依りて、六根相似の位に至り、若し五神通を得ん時は、必ず自度を取らず、正位を証せず、一切に著せざらん。
願はくば、必ず今生の無作無縁の四弘誓願に引導せられて、周く法界に旋らし、遍く六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就して、未来際を尽すまで、恒に仏事を作さんことを。
賢治ならば、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べたと同じような、衆生済度に懸ける最澄の決意が述べられています。そして、ここに出てくる「伏して願はくば・・・」「願はくば・・・」という言葉も、賢治の「根本中堂」の短歌が、「ねがはくは・・・」から始まっていることに、影響しているのではないかと思います。
さて、賢治が作品中で「若き日の最澄」に言及した例としては、「牛」(『春と修羅 第二集』)の先駆形「海鳴り」の中の、「伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき・・・」という一節がありますが、これについてはまた、稿をあらためて考えてみたいと思います。
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2008年4月24日 布袋「館」
『【新】校本全集』第十六巻(下)年譜篇(2001)のp.222では、右のように賢治たち父子が比叡山から降りて宿泊した旅館の名を「布袋屋」としています。しかし以前に書いたように、「三条小橋商店街」の方のお話では、三条小橋の近くにあった旅館は、「布袋屋」でなく「布袋館」だったということです。
し
ばらく前に国会図書館に行った時に、当時の旅館の名前を収録した書籍によって、これを確認してみました。
まず、奈良の「対山楼」の時にも参照した、1913年(大正2年)発行の『帝國旅館全集』という本があります(左写真)。
これは賢治父子の旅行の8年前に出た本ということになります。もちろん、旅行時点とすべての旅館が同じとはかぎりませんが、そのp.89は、下の図のようになっています。
最下段の、右から11番目に、「布袋館」の名前が見えます。住所は、「三條小橋東入ル」です。
次にもう一つ、上の本より少し後に出た『全国旅館名簿』という本がありました(左写真)。
「全國同盟旅館協會」というところの編纂で、こちらは賢治父子の旅行の5年後に出ています。
この本の京都市下京区の一部をコピーしたのが、下の図です。
右から10番目に、「布袋館」が載っています。住所は、やはり「三條小橋東」となっています。
ということで、2つの資料が一致しているので、やはり旅館の名前は「布袋館」が正しかったのだろうと思います。
『【新】校本全集』年譜篇において「布袋屋」とされているのは、政次郎氏の記憶をもとにした記載かと推測しますが、「対山楼」にかぎらず旅館の名前というものは、微妙な記憶違いをしやすいものなのでしょうか。
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2008年4月20日 坂本〜比叡山〜三条
1921年(大正10年)4月、家出中の賢治と花巻から出てきた政次郎の父子は、関西旅行を行いました。その第三日の昼すぎに、二人は湖南汽船を坂本港で降りて、ここから歩いて比叡山を越え、夜になって京都の旅館にたどり着きます。賢治24歳、政次郎もまだ47歳とはいえ、かなりの強行軍です。
今日はこの行程を、たどってみることにしました。
上の写真は、JR湖西線の「比叡山坂本」駅です。まずは、ここから琵琶湖岸方面を目ざします。
まっすぐ湖岸に出て、少し南に行ったところ、現在はマリーナ施設になっているあたりに、昔の「坂本港」があったということです(下写真)。
昔の坂本港の写真は、「琵琶湖河川事務所」のサイトに掲載されていました(下写真=国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所提供)。
湖南汽船内で昼食をとった父子は、上の桟橋に降り立って、坂本の街並みを抜け、比叡山を目ざしたわけです。
坂本港から、比叡山の登り口までは約2.4kmです。この間には、日吉大社の参道に沿って、昔この地に住んでいた「穴太衆」と呼ばれる人々による、独特の石積みが見られます(下写真右側)。
この道の突き当たり近くに、比叡山への登り口があります。延暦寺の「表参道」の入口として、両側に常夜燈が置かれた厳かな石段が、その起点です。
賢治たち父子も、
ここから比叡山に登り始めたわけですね。延暦寺の根本中堂までは、約3kmということです。
ただ、今日の私はちょっと楽をさせていただいて、登り口からちょっと西にある、右写真の建物を通って行きます。
これは、坂本側から比叡山に登る、「坂本ケーブル」の坂本駅です。坂本ケーブルとは、全長2025mもある日本最長のケーブルカー路線で、もちろん賢治たち父子が登山をした時にはまだ存在しませんでしたが、意外にもその6年後の1927年には、もう開業していました。上の「ケーブル坂本駅」の建物は、その1927年以来のもので、国の登録有形文化財にも登録されているそうです。
駅の内部も、下写真のようにレトロな感じでいい雰囲気です。
ケーブルカーに揺られて11分、終点の「延暦寺駅」に着きました。やはりレトロな駅舎から出ると、琵琶湖が眼下に広がります。
ケーブルの延暦寺駅から歩いて10分足らずで、延暦寺の本堂にあたる「根本中堂」です(下写真)。
根本中堂の脇には、賢治の歌碑があります。麓からは2週間遅れで、今まさに満開の桜が、花を添えてくれていました。
根本中堂
ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ。(775)
下写真は、やはり賢治たち父子が参拝した「大講堂」です。
いつくしき五色の幡につゝまれて大講堂ぞことにわびしき。(777)
写真のように、今日も大講堂には「五色の幡」がはためいていました。
で、次は根本中堂や大講堂のある「東塔」から西の方に30分ほど歩き、「比叡山
頂」まで行きました。そしてここから、賢治たち父子にならって、歩いて比叡山を下ることにします。京都方面へ降りるロープウェーの駅近くには、右のような道しるべが出ていました。下山路は約5km、修学院の方に出ます。
山道は、ところどころ険しい箇所もありましたが、おおむねしっかりと踏み固められた道で、歴史も感じさせてくれるような雰囲気でした。その昔、延暦寺の意に沿わぬ事が都であると、僧兵たちが日吉大社の神輿を担いで山を駆け下り、「強訴」を行ったと言われていますが、その際に武装した僧たちが走ったのが、まさにこの道だったわけです。
途中、左写真のような「千種忠顕卿水飲対陣之跡」と書かれた石碑が立っていました。
千種忠顕という人は、鎌倉時代末期から建武中興時代にかけて、後醍醐天皇に仕えていた公家出身の武将で、後醍醐天皇の隠岐脱出を助けたりもしたそうですが、足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分かつと、天皇側の軍を率いてこの比叡山において尊氏の弟・足利直義と戦って敗れ、戦死したということです。
偶然のことですが、この石碑が建てられたのは、1921年(大正10年)5月ということで、賢治たち父子がここを通った1ヵ月後のことです。賢治たちも、ひょっとして碑の基礎工事などを目にしたでしょうか。
場所によっては、「神輿を担いだ僧兵たちがどうやって通ったのだろう」と思わせるような狭い切り通しもあったり(右写真)、先日までの雨でドロドロにぬかるんだところもあったりしましたが、午後5時前には、何とか京都市左京区修学院の比叡山登り口(=「雲母坂(きららざか)」)に降り立つことができました。
「雲母坂」というのは、比叡山の京都側の地質に花崗岩が多いことから、その中に含まれる雲母が、このあたりの坂道にキラキラと見られていたことによるそうです。
『【新】校本全集』年譜篇には、賢治たち父子は、「暮れかかる山道を約八キロ、白川の里に降り、・・・」と書かれていますが、京都市の北東部を白川と呼ばれる小川が流れ、「北白川」などの地名があるのも、比叡山の方から花崗岩質の砂が流れてくるので、このあたりの河床が白く見えることに由来しています。
さて、山道は音羽川という流れのほとりに出て、下の橋は、音羽川に架かった「きらら橋」です。
ここから、少し市街地の方へ歩くと、曼殊院(下写真)や詩仙堂など、少しマイナーですが静かな観光名所もあります。
一乗寺のあたりから、比叡山を振り返って見ました。
そして最後は、父子がこの晩泊まった宿、「布袋館」のあった場所です。
「布袋館」のことについては、以前に「京都における賢治の宿(1)」に、少し詳しく書きました。
それにしても、比叡登山にケーブルカーを使うという大きな楽をさせてもらったにもかかわらず、帰ってくると結構疲れましたよ。
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2008年4月17日 文語詩稿五十篇評釈 十
甲南女子大学の信時哲郎さんが、この10年にわたって積み上げてこられたお仕事、「宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈」が、ついにこのたび完結しました。その最新稿は、Web 上において「宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 十」で、読むことができます。信時哲郎さん、お知らせもいただきまして、ほんとうにありがとうございました。
今回とりあげられた作品は、「〔玉蜀黍を播きやめ環にならべ〕」、「〔うからもて台地の雪に〕」、「〔残丘(モナドノック)の雪の上に〕」、「民間薬」、「〔吹雪かゞやくなかにして〕」の5篇です。これによって、賢治の文語詩の「第一集」というべき『文語詩稿 五十篇』が、すべて信時さんの評釈によって、読めるようになりました。じつに何という力強い「道案内」が完成したことでしょうか。(以前の評釈は、信時さんの「近代文学ページ」の「論文」のリンクから、読むことができます。)
ご存じのように賢治の文語詩というのは、難解なものはとことん難解です。それを信時さんは慣れた手さばきで「順番に」俎板に載せ、まずは先行研究を能う限り踏まえ、またそこに信時さん独自の視点からの分析を加え、さらに時には実地調査も行って、背景の事情をつぶさに明らかにして行かれます。
賢治の文語詩は、「定稿」の段階ではほんの小さな宝石のような形に凝縮されていますが、これらの「研究的」評釈の助けによって、私たちはその宝石の内部をのぞき込むことができ、するとその中には「貝の火」のように美しい光が彩をなして、一つの「世界」が広がっているのを見ることができるのです。
Web 上で、このようなすぐれた評釈が無料で読めるというのも幸せなことですが、完結を期して、この『五十篇』の評釈集がぜひ単行本として刊行されることを、一賢治ファンとしては心から願うところです。
そして、信時さんへのもう一つの(私の勝手な)期待は、次には『文語詩稿 一百篇』(実際には101篇)の「評釈」が、また Web 上にて着々と公開されていくこと、です。
時々、神戸の方角を伏して拝みながら、じっくりとお待ち申しあげたいと思います。
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2008年4月13日 1928年の日付入り詩作品
以前に、「『春と修羅』第一集ー第三集の各作品の長さ」というエントリにおいて、それぞれの『集』に収録(分類)されている詩作品の字数を比較してみたことがありました。その結果は、作品字数の中間値(メディアン)で見れば、『第二集』の作品が一番長くて、次が『第一集』(=『春と修羅』)、そして一つ一つの作品が最も短いのは、『第三集』ということになりました。
『第三集』においては、『第二集』までのように、野山を歩きまわって自由に空想にひたるという創作スタイルは見られなくなり、農作業の合間に書き付けたというような作品が多くなっていますから、おのずと各作品が短くなる傾向もあったのかと、この時は思っていました。
ただ、当然のことですが、『第三集』に分類されている69篇の作品は、決して同じような性格を持った均質なものではありません。上に述べたような「農作業の合間に書き付けたような」作品もありますが、いろいろと別の状況をスケッチしたものもありますし、それに何よりも、作品が書かれた(発想された)日付に関して、『第三集』には一つの特徴がありました。
『【新】校本全集』において、『春と修羅 第三集』として分類されているのは、(1)主として専用の細罫詩稿用紙に書かれた口語詩のうち、(2)作品番号と日付が記されていて、(3)その日付が、賢治によるメモ「春と修羅 第三集/自昭和元年四月/至 三年七月」の期間に該当するもの、という原則に従っています(全集第四巻「凡例」より)。
ただ、上の「期間」・・・西暦に書き直すと「1926年4月〜1928年7月」の間、作品はコンスタントに書かれていたわけではなくて、特に終わりの方、1927年8月20日の「〔何をやっても間に合はない〕」から、次に来る1928年4月12日の「台地」までの間には、8ヵ月ものブランクが空いているのです。(さらに、この「台地」、1928年7月20日の「停留所にてスヰトンを喫す」、7月24日の「穂孕期」という「最後の三作品」には、「作品番号」が付けられていないという、他作品と違った特徴もあります。)
つまり、1927年までの作品と、1928年の作品との間には、ちょっとした「断絶」があるわけですね。
さらに、この1928年という年には、「日付は記入されているが作品番号は付けられていない」という作品が、上の「最後の三作品」の他にも、かなりあるのです。それは、伊豆大島に渡った時の「三原三部」3作(「三原 第一部」、「三原 第二部」、「三原 第三部」)と、大島行きの前後の東京滞在中に書いた作品(「東京」所収の「浮世絵展覧会印象」や「高架線」など)です。「補遺詩篇 I 」に分類されている、「装景家と助手との対話」(1928年6月1日付け)も、ここに含めることが可能です。
そして、上記のようにやはり「日付はあるが作品番号のない」『春と修羅 第三集』の最後の三つの作品も、便宜的にこの一群と一緒に並べてみることができるでしょう。(「口語詩稿」などの中にも、「三月」や「〔澱った光の澱の底〕」のように、内容から明らかに1928年に書かれたと推定できるものもありますが、日付は作品に記入されていないので、ここではこれらは除いておきます。)
そうしてこういった一群の作品を別立てにしてみると、以前に比較した「各作品の長さ(字数)」というのがどうなるのか、というのが今日のテーマです。前回作成してみたグラフから、『春と修羅 第三集』の最後の三作品を除き、新たに「1928年の日付入り作品」というグループを作って棒グラフを書き換えてみると、下のようになりました。
グラフの棒の高さ=添付数字は、その『集』に属する作品の字数の「中間値」を表しています。下に、「n=69」などと書いてあるのは、作品数です。
一目瞭然のごとく、右端の「1928年の日付入り作品」という群は、それ以前の群よりも格段に作品が長い傾向がある、ということがわかります。もちろん、それまでの各集にも、個々に長大な作品はありましたが、1928年のものは総体として長い傾向がある、あるいは逆に言えば、短い作品があまりない、ということが統計的に表れています。サンプル数が少ないので、あまり断定的な言い方はできませんが、それでも2倍以上の違いというのは無視できないと思います。
この所見は、大島や東京における作品を読んでいると、賢治がやけに「饒舌」であるような印象を受けるということの、別の角度からの表現と言えるでしょう。実際、賢治は大島に行くにあたり、かなり気分が高揚していたようですし、その高揚の持続は、花巻帰着直後の作品と思われる「〔澱った光の澱の底〕」からもうかがえます。
しかし、7月下旬の二作品、「停留所にてスヰトンを喫す」、「穂孕期」に至ると、疲労の蓄積と体調の悪化からか、賢治の気持ちはやや下降線に入っているようです。そして、作品の内容もそれまでより感傷的になっていて、これがまた、独特の雰囲気を醸し出しています。
太陽のように輝いていた「賢治の口語詩」が、ついに日暮れを迎えているという感慨を覚えざるをえない、切ない二作品です。
時系列で見ると、羅須地人協会における「青年団」的活動が挫折した後、「肥料相談」「肥料設計」に重点を移すことで農民の役に立とうとした賢治でしたが、1927年8月20日の豪雨で、自分が肥料設計をした田の稲が次々と倒れ(「〔もうはたらくな〕」)、雨の中を農家を訪ね歩き(「〔二時がこんなに暗いのは〕」)、賢治は「〔何をやっても間に合はない〕」と、絶望感にとらわれてしまったように思われます。そして、この「意気消沈」が、その後の8ヶ月間の(日付入り)作品のブランクになって表れたのではないかと、私は思います。
そのブランクの後、翌年4月に久しぶりの日付入り作品が登場し、6月から7月にかけてはそれまでの「意気消沈」の反動でもあるかのように、やや高揚した調子の、長めの作品群が現れるというのが、上に見たところです。
かつて福島章氏は、賢治には「躁うつ」の傾向があったと分析しておられましたが(『宮沢賢治 芸術と病理』, 1970)、作品の時系列推移を見ていても、彼に「気分の波」がありそうなことは、私などでも感じるところです。上記の、1927年8月下旬に始まった「意気消沈」から、1928年春から夏の「気分高揚」へ、というのがその一つの典型例だと思います。
あと一つの例としては、『春と修羅』において、1922年11月27日のトシの死の後、6ヵ月あまりのブランクがありましたが、1923年6月3日付の「風林」で作品が再開すると、6月4日の「白い鳥」、そして8月の「オホーツク挽歌」詩群まで、かなり長い作品群が続くところがあります。「風林」から、8月11日の「噴火湾(ノクターン)」までの7作品で、最長の作品は「青森挽歌」の3852字ですが、7作品の字数の中間値は、824です。
1923年6月から8月までの賢治も、深い悲しみにとらわれてはいましたが、亡き妹との「交信」の可能性を信じて、夜通し甲板に立ってサハリンを目ざすなど、かなり高揚した精神状態にはあったと思います。
福島章氏の意見のとおり、このように「意気消沈」から「高揚」へというのが、賢治の生涯に何度か見られたパターンだったということは、たしかに言えると思います。
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2008年4月 7日 「奥州宇宙遊学館」オープンへ
2005年12月に「「水沢緯度観測所」保存へ」という記事でご紹介したように、宮澤賢治にもゆかりのある国立天文台水沢観測所旧本館は、一時は老朽化や維持困難のために取り壊しが決まっていましたが、由緒ある建物を惜しむ多くの人々の声が市当局を動かし、一転して保存の方針が決まった、という経緯がありました。
このたび、その保存された「旧水沢緯度観測所」が、「奥州宇宙遊学館」という名前で今月21日から一般向けにオープンすることになったということです。
このような活動は、いったんは話題性を集めて盛り上がったとしても、その後の予算確保や施設内容の企画立案など、実現へ向けた地道な作業は本当に大変なものだっただろうと推察しますが、「旧緯度観測所の保存・活用を考える会」や、「NPO法人イーハトーブ宇宙実践センター」などのご努力に、心から敬意を表したいと思います。
新聞記事に、「全国の賢治ファンの後押しもあった」と書いていただいているのも、嬉しいことですね。
開館は午前9時から午後5時まで、火曜日が休館で、入館料は大人200円、高校生以下100円ということです。来月の連休に行ってみたい所が、また一つ増えてしまいました。
ご参考までに、賢治がこの建物を1924年3月25日に訪ねた時の作品草稿は、『春と修羅 第二集』の「晴天恣意(水沢緯度観測所にて)」(下書稿(二))です。
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2008年4月 6日 電信柱から高架線へ
現代の私たちも、道端に立っていて送電線を支えている棒のことを、なにげなく「電信柱」と呼んでいますが、これは言葉の本来の意味からすると、正確ではないようです。
もともとこの名前が指しているは、「電信」の「柱」というわけですから、電力を供給する送電線の柱ではなくて、あのモールス信号の「電信」を伝えるための線を支える柱のことだったのです。
日本における電信事業の全国への普及は、電灯の出現や家庭配電の開始よりもはるかに早く、東京―横浜間に電信線
が敷設されて電信事業が開始されたのは1869年(明治2年)のことで、この時に東京の築地運上所(税関)から横浜裁判所まで、約32kmの間に立てられた電柱593本が、日本最初の「電信柱」だったことになります。そして、早くも1878年(明治11年)には、国内の電信設備がほぼ完了しました。すなわち、この時までに、「電信柱」が全国の主要幹線道には立ち並んだわけですね。(参考:「電信・電話の歴史年表」)
右の明治初期の浮世絵(三代目・広重「東海名所改正道中記・程ヶ谷」)には、並木の松に直接電信線を取り付けてある様子が描かれており、古いものと新しいものが不思議な形で共存しています。
一方、電灯事業に関しては、東京・銀座の街路に初めてアーク灯がともされて連日市民が見物に訪れたというのが1882年(明治15年)、東京で一般家庭への配電が始まったのが1887年(明治20年)、そして1912年(大正元年)には東京市内のほぼ全域に電灯が行きわたり、1927年(昭和2年)の段階で、全国の電灯普及率は87%に達したということです。(参考:電気事業連合会「電気の歴史」)
正しい言葉の用法としては、電力会社が送電・配電を目的に設置するのは「電力柱」と言い、何らかの通信目的の導線(現在は「電信線」はありませんが、電話線やケーブルテレビやネット用の光ケーブルなど)を中継するのが「電信柱」で、両者を合わせて「電柱」と呼ぶ、ということのようです。
しかし、上で見たように、「電信柱」の方がはるかに早く全国に行き渡り、人々はすでにこの呼称の方に慣れ親しんでいたために、その後「電力柱」が普及してきても、区別せずにどちらも「電信柱」と呼び続けたわけです。
賢治が創作活動をしていた大正〜昭和初期とは、群雄割拠していた電力会社たちが、全国で競争を繰り広げつつ、津々浦々に電灯の普及を推し進めていた時代でした。この当時にも、すでに純粋な「電信柱」というのはほとんどなかったでしょうが、賢治も大方の人々と同じように「電柱」に対してこの呼称を用い、その作品には「でんしんばしら」が重要なキャラクターとして登場します。
童話「月夜のでんしんばしら」はもちろんのこと、「冬のスケッチ」に出てくる、「瀬川橋と朝日橋との間のどてで/このあけがた、/ちぎれるばかりに叫んでゐた/電信ばしら」、「空明と傷痍」に出てくる「電信ばしらのオルゴール」・・・。
そして、やはり最も印象深いのは、
よりそひて
あかきうで木をつらねたる
夏草山の
でんしんばしら。 (歌稿〔B〕 578)
という若き日の短歌と、それに呼応するように「銀河鉄道の夜」の終わり近くに現れる、「何とも云へずさびしい気がしてぼんやりそっちを見てゐましたら向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立ってゐました。」という一節です。
と、いう具合に、「でんしんばしら愛好者」の賢治だったと思うのですが、1928年(昭和3年)に大島行きの前に東京に立ち寄った際には、ちょっとこれまでとは違った送電線と、その支柱を目にします。
1928年6月10日の日付のある「高架線」(「東京」)という作品には、それなりにいろいろ人生経験を積んだ賢治の、東京に対する従来の単純な憧れではない複雑な思い(都市文明への危惧や、地方から都会へのエンパワーメントや、深い人類愛など)が込められているようで、不完全な草稿段階にはありますが、私としては大好きな作品の一つです。
その題名になっている「高架線」とは、言葉の意味としては「高架になっている鉄道線路」のこととも、「高架になっている電線」のこととも解釈できますが、作品の内容からは、後者と考えられます。
賢治はこの時、普通の電線よりももっと高いところに架かり、木製の電信柱などではない「鉄の塔」によって中継されている送電線を見たのだと思われます。そして、次のように書きます。
かゞやく青き氷窒素のかなたより
天女の陥ちてきたりしに
そのかげらふの底あたり
鉄のやぐらの林あり
そは天上の樹のごとく
白く熟れたる碍子群あり
天女来りて摘みたるに
そは修羅のぐみ
黄いろに澱む硫黄にて
嘆きの声は風に充ちしと
「鉄のやぐらの林」とは、「碍子群」を伴っていることから、現代にもあるような高圧送電線を中継する鉄塔のことを指していると思われます。そしてその「碍子」は、「修羅のぐみ」と呼ばれ、「人間界」よりも下に位置する「阿修羅界」の産物とされています。
さらに、その少し後の箇所では、
緑青ドームさらに張るとも
いやしき鉄の触手ゆるとも
はては天末うす赤むとも
このつかれたる都のまひる
いざうましめずよみがへらせよ
と書かれていて、ここに出てくる「いやしき鉄の触手」というのも、送電鉄塔のことでしょう。「いやしき」という形容も、先に「修羅」と表現したことと呼応しています。
すなわち、「でんしんばしら」に対してはあれほど親しみをこめて謳っていた賢治も、この新たな参入者たる「送電鉄塔」には、何か不吉なものを感じ、嫌忌しているようなのです。
作品「高架線」の内容からは、これは東京の市街地に立っていた送電鉄塔だったと思われますが、鉄塔を要するような高圧送電が行われるようになってきたのも、じつは当時の一つの時代の流れでした。
そもそも東京に電灯が普及した当初は、その電気は、東京市内に設けられた火力発電所から210V程度で配電されていました。しかし、次第に大量に安価な電力を供給する必要が高まった結果、1907年(明治40年)に東京電灯会社は、山梨県の駒橋水力発電所から東京へ、送電電圧5万5000Vで、75kmという遠距離の送電を開始しました。これが、日本における特別高圧遠距離送電の始まりということです。ただ、「東京電灯(電燈)・電気の歴史」というページの写真を見ると、この時の市街地における送電には、まだ「鉄塔」は使われていなかったようです(中ほどの、「駒橋から早稲田変電所への送電線」参照)。
それでは、賢治が「高架線」を書いた1928年6月までに、東京の市街地に入り込んでいた高圧送電鉄塔はどのくらいあったのか、「送電鉄塔見聞録」というすごいサイトで調べてみると、1912年(明治45年)にできた八ッ沢線(淀橋変電所まで)、1913年(大正2年)にできた酒匂川線(駒沢変電所まで)、1913年(大正2年)にできた谷村線(新宿戸塚変電所=現在の目白変電所)まで、1914年(大正3年)にできた猪苗代旧幹線(田端変電所まで)、1924年(大正13年)にできた上越幹線(亀戸変電所まで)、1925年(大正15年)にできた南葛線(小松川変電所まで)、1928年(昭和3年)10月部分開通の東京内輪線(一部には1925年建設の鉄塔もあり)、などがあるようです。
上記のリンクページでは、その当時に建造されて現在まで残っている鉄塔の写真まで見られて、とても興味深いです。80年以上の時を越えて、意外に現在も目にする送電鉄塔と同じような感じですね。
これらのうちで、賢治が見ていたのはどの送電線の鉄塔だったのかということが気になりますが、はっきりとしたことは不明です。作品中に出てくる「地球儀または/大きな正金銀行風の/金の Ball」というのが同定できれば、作品の舞台がおおむね判明するでしょうが、現時点で私にはわかりません。また、「きらゝかに海の青く湛ゆるを」という一節が、作者の目に直接海が見えていたことを表しているのだとしたら、その鉄塔は、海に近い亀戸変電所や小松川変電所に向かう、上越幹線や南葛線のものだったかもしれません。
あと、この作品で「謎」なのは、エスペラントの単語を用いて書かれた、次の3行です。
^Si ne estas belaner nin !
Li ne estas Glander min !
Mi ne estas Slander min !
この中の、‘belaner’、‘Glander’、‘Slander’という語(?)は、エスペラントには該当する単語がありませんし、だいたい語尾がエスペラントの規則にも反しています。作者がいったい何を言おうとしているのか不明なのですが、この箇所について野島安太郎氏は『宮沢賢治とエスペラント』(リベーロイ社, 1996)において、これを「岩手軽便鉄道の一月」(『春と修羅 第二集』)との関連においてとらえることを提唱しておられます。同作品には、「くるみの木 ジュグランダー」や「かはやはぎ サリックスランダー」などが出てきましたが、「ジュグランダーとサリックスランダーなどの頭を切り取ったのが、Glander であり Slander である」というのが、野島氏の考えです。私も、この着目に賛成です。
作品のその少し前の箇所には「サリックスバビロニカ」が出てきますし、2回繰り返される「プラタヌス グリーン ランターン」というのは、街路樹のプラタナスが付けている緑いろの実(右写真)のことを指していると思われます。「岩手軽便鉄道の一月」で言えば、まさに「鏡を吊し」に相当する形で、「提灯を吊し」ているわけですね。(ちなみにプラタナスの和名は、「鈴懸けの木」です。)
さらに、「岩手軽便鉄道の一月」には、「グランド電柱 フサランダー」が出てきましたが、「高架線」において、その電柱の巨大化した新顔として登場したのが、高圧送電鉄塔であったわけです。
つまり、この二つの作品は、木々や電柱(鉄塔)が登場する点において共通しており、作者の心の中でも連想が働いていたのではないかと思うのです。しかしそれでも、上の「エスペラント風」の部分が何を言いたいのかは、釈然としません。木々や鉄塔が、故郷花巻のものとは異なっている、ということなのでしょうか。
ところで、賢治は農学校教師時代に、奥州街道沿いに江戸時代から残る松並木を県当局が公会堂建設のために伐採してしまうという話が出た際、校内のディベート大会において、伐採反対の側に立って活躍したことがありました。教え子の柳原昌悦は、討論中に賢治から手渡されたメモの中に、「先生の考え方の中に広重の東海道五十三次の松並木を連想した」と述べていて(宮沢賢治学会・花巻市民の会『賢治のイーハトーブ花巻』)、これは冒頭に掲載した三代目広重の浮世絵(=松並木の電信柱化現象!)につなげて考えると、ちょっと示唆的です。
賢治は、文化遺産としての「街道並木」や、その進化形と言えなくもない街道沿いの「電信柱」には愛着を抱いていたものの、「タキスのそら」を無骨に区切る高架線や、無機的にそびえ立つ「鉄のやぐら」には、何か禍々しいものを感じてしまったのではないでしょうか。
作品「高架線」の前半部は、大都会の猥雑さが、まるで清濁併せ呑むようなスタンスで描写され、それはそれで活き活きとして魅力的です。「ひかりかゞやく青ぞらのした/労農党は解散される」という、この年の4月10日の出来事も織り込まれていますが、労農党シンパであった賢治にとっては、さらりと書かれていながら心の痛む想起だったでしょう。
そのような背景を持ちながらも作者は、
一千九百二十八年では
みんながこんな不況のなかにありながら
大へん元気に見えるのは
これはあるひはごく古くから戒められた
東洋風の倫理から
解き放たれたためでないかと思はれまする
と、東京の人々の「元気」を認めるのですが、それに続いて、
ところがどうも
その結末がひどいのです
と、「結末」を予言するかのように語ります。
その「結末」とは、
この大都市のあらゆるものは
炭素の微粒こまかき木綿と毛の繊維
ロームの破片
熱く苦しき炭酸ガスや
ひるのいきれの層をば超えて
かのきららけき氷窒素のあたりヘ向けて
その手をのばし
その手をのばし
というように、大気汚染に苦しむ人を連想させるものであったり、先に引用した、「陥ちてきた天女」の悲しい話であったり、
きらゝかに海の青く湛ゆるを
練瓦の家の屋根やぶれ
青き??気も風景ももる
などと、何らかの荒廃を暗示するものであったりします。
そして、作品の終結部は、これらの「都市の疲弊」に対して、「地方」からのエネルギーを注ぎ入れる様子を描くかのような、韻文の「歌」になっていきます。それは、「都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」(「農民芸術概論綱要」)という従来の姿勢よりも、さらに積極的に、都市に「癒やし」を与えようとしているかに思えます。
私は、作品を読んでいてこの部分に至るたびに、「未来派」のような喧噪の音楽の底の方から、静かに聖歌のごとき合唱の歌声が浮かび上がってくる感じを覚えます。
いまこのつかれし都に充てる
液のさまなす気を騰げて
岬と湾の青き波より
檜葉亘れる稲の沼より
はるけき巌と木々のひまより
あらたに澄める??気を送り
まどろみ熱き子らの頬より
汗にしみたるシャツのたもとに
またものうくも街路樹を見る
うるみて弱き瞳と頬を
いとさわやかにもよみがへらせよ
緑青ドームさらに張るとも
いやしき鉄の触手ゆるとも
はては天末うす赤むとも
このつかれたる都のまひる
いざうましめずよみがへらせよそのうるはしくわかやぐ胸を
水銀をもて充てたるゆゑに
たゞしきひとみの前には耐えず
かなしきさまなるひとにも吹けよ
そして、合唱の歌声は、さらに安らかに転調して、作品は終わります。
あゝひとおのおのわざをもなせど
つみひとになくわれらにあらん
あまねきちからに地をうるほをし
なべてのなやみをとはにも抜かん
まことのねがひにたゝずやわれらいかにやひとびとねたみとそねみ
たがひのすべなききほひとうれひ
みだれてすゑたるひかりのなかに
すゑたるししむらもとむるちから
なべてのちからのかたちをかへて
とはなるくるしみ抜かんとせずや
見ずや扉もよそほひなせば
おもひをこめたるうでにもまさり
いくたびしづかに丶丶丶を丶丶丶
いとしとやかにもとざされたるを
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2008年4月 3日 賢治セミナーを待つ函館
5月17日(土)〜18日(日)に、八戸―青森―函館を舞台に行われる「宮沢賢治地方セミナー08・函館・・・「青森挽歌」と「函館港春夜光景」への旅」の準備を伝える記事が、「北海道新聞」の道南版に載っていました。
「賢治ファン全国から結集」とは、すごい雰囲気ですね。地元の実行委員会の皆さんが、鋭意準備を進めておられるようで、こういう記事を見ると、本当にどうしても行きたくなってきます。
何と言っても、「夜の函館散策」が魅力ですが、私はどうしても土曜日はだめなので、行けるとしても日曜日の午前中のプログラムだけになってしまいます。天沢退二郎氏と栗原敦氏の講演だけでも、函館まで聴きに行くかどうか・・・・、
迷っているところです。
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2008年4月 1日 宮澤賢治氏の新たな草稿発見か
【ハーナムキヤ発-4月1日】 イーハトーブ県ハーナムキヤ町出身の宮澤賢治氏は、「いっぷう変わった農学校の先生」として当地では有名な存在だったが、一方で童話や詩も書いていたことは、案外知られていない。
このたび、地元ハーナムキヤ署の「毒もみのすきな署長さん」は、2年ぶりに記者会見を行い、宮澤氏が生前書き遺していたと思われる草稿が、最近新たに発見されたことを明らかにした。
この草稿は、同町にある「猫の第六事務所」で職員が年度末の片付けをしていたところ、昔「かま猫」氏が使っていたという机の引き出しの奥から見つかったもの。古びた原稿用紙の冒頭には「銀座鉄道の夜」と記されており、これが題名ではないかと推測されている。
内容は、宮澤氏独特の筆蹟で、複雑な推敲や原稿一部の切り貼りが行われており、正確な復元のためには、例によってA沢氏やI沢氏など専門家による作業を待つ必要があるという。
ただ、会見において同署長は「個人的な見解」と断りながらも、「生前の宮澤氏は東京
にたくさんの思い出と憧れを残しており、この物語は、彼が亡くなった後に、地下鉄銀座線(右写真)に乗って、その思い出の地を訪ねるという設定になっているのではないか」と述べた。
銀座線は、1927年(昭和2年)に日本最初の地下鉄として開業した路線であるが、車内からその暗い車窓は、昼間でも「みんな水族館の窓」のように見えることから、宮澤氏にはある懐かしい夜汽車の旅を想起させたので、とくに題名に「夜」という言葉を用いたのではないかという。
実際、東京地下鉄銀座線(浅草〜渋谷)の各駅には、宮澤氏に思い出深いと推測される場所が、下記のように「きら星のごとく」点在していると、同署長は指摘している。しかし、識者の見解の大勢は、詳細は今後の研究に委ねるしかないだろうというものであり、それにしても署長さんは毒もみで死刑になったはずなのに、今頃何を言っているのか、と訝しがる声も一部からは聴かれた。
- 浅草駅
浅草の
木馬に乗りて
哂ひつゝ
夜汽車を待てどこゝろまぎれず。(歌稿〔B〕 275) - 上野駅
※ 上野
東京よ
これは九月の青りんご
かなしと見つゝ汽車にのぼれり。(歌稿〔B〕 349)
「上野に着いてすぐ国柱会へ行きました。」(関徳弥あて書簡[185])
「私は毎日朝七時半乃至八時に病院に参り模様を聞き書信上げ候後上野の図書館にて三時頃迄書籍の検索読書等を致し…」(宮澤政次郎あて書簡[117]) - 万世橋仮停留場(1930-1931)
甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな。(保阪嘉内あて書簡[19]) - 神田駅
※ 神田
この坂は霧のなかより
おほいなる
舌のごとくにあらはれにけり。(歌稿〔B〕 346)
「博物館にはいゝ加減に褪色した哥麿の三枚続旧ニコライ堂の錆びた屋根青白い電車の火花神田の濠には霧の親類の荷船きれいななりをした支那の学生 東京は飛んで行きたい様です。」(保阪嘉内あて書簡[153])
「神田の夜」(「東京」) - 日本橋駅
日本橋この雲のいろ雲のいろ家々の上にかゝるさびしさ。(保阪嘉内あて書簡[19])
(また、日本橋には宮澤氏が上京中に何かと世話になった小林六太郎氏宅があった。) - 京橋駅
そらしろく
この東京のひとむれに
まじりてひとり京橋に行く。(歌稿〔B〕 274) - 銀座駅
「一般に見送りして行く者の方が見送られる人よりもつらい様でございます。あれから私は銀座を晩くまで歩きました。…」(高橋秀松あて書簡[20]) - 新橋駅
(1928年6月、上京中に新橋演舞場を訪れたと推定されている。) - 渋谷駅
「九時出発九段に集合、電車で渋谷分場(注:農事試験場渋谷分場)参観。本場は本校の先輩のよく行かれる処、実科が隣だけに気持ちが善い。先輩の桑嶋、高橋の二兄が隈なく案内の労をとられる。…」(盛岡高等農林学校農学科第二年修学旅行記:同級生長谷川迪の文章より)

東京メトロ銀座線
written by hamagaki
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