← 前の記事へ | メインページへ | 次の記事へ →

2008年3月20日 障害者の権利に関する条約・前文

 2006年12月13日に国連総会において採択され、日本政府も昨年9月28日に(やっと百何番目かの国として)署名した「障害者の権利に関する条約」は、「障害」という概念のパラダイムを転換し、社会の側の責務も明らかにした点で、画期的な内容を持つものでした。
 日本の署名において用いられた「外務省による仮訳文」というのもありますが、これは逐語的で正確そうには見えるものの、迂遠で読みにくいのが難点です。私としては、最もその本質をつかみとってわかりやすいと思うのは、八尋光秀弁護士による、「武器としての要約」と名づけられた抄訳です。

 その条約の「前文」は、力強く次のように始まります(八尋訳)。

すべて人間の固有の尊厳、平等、権利をすべからく保障することが、世界の自由、正義、平和の基盤をなす。

 この次には、「世界はそれを理解し合意した。」という文が続きますが、世界が真にこのことを理解し合意した暁には、すべての戦争や人権抑圧はなくなると言えるほど、これはラディカルな宣言です。
 さて、この前文冒頭の一文を読むと、何となく連想するのが、「農民芸術概論綱要」における、宮澤賢治の次の有名な言葉です。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

 「世界」のあり方と「個人」のあり方とが、密接不可分であるという認識において、この二つの言葉は共通しているわけですが、障害者権利条約の方は、「個人」→「世界」という方向に矢印が向かっているのに対して、賢治の方は、「世界」→「個人」という順序を強調しており、一見するとその向かう方向は「正反対」であるようにも思えます。

 しかし実際には、この二つの言葉は正反対のことを言っているのではないでしょう。障害者権利条約の求めるように「すべて人間の固有の尊厳、平等、権利をすべからく保障する」ようなことは、「個人」のレベルでは現実的に無理で、そのためには「社会」を全体として変えていく必要があります。一方、賢治が言うように「世界がぜんたい幸福に」なる際にも、その時はすでに、すべての「個人」も何らかの変化を遂げつつあるでしょう。
 すなわち、いずれにしても個人と世界が不可分な関係のもとに、両方ともに変化をする必要があるということを、どちらの言葉も述べているのです。

 ただ、しいて賢治の言葉の方に違ったニュアンスが見出されるとすれば、賢治が言っている方の「個人」とは、世界人類すべての「個人」を指しているのではなく、「菩薩行」を為している人=自ら悟りをひらく能力があるにもかかわらずこの世に留まって、すべての衆生を彼岸に導く人・・・のことを言っているのかと思われる点です。たとえば、「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」(『春と修羅』補遺)という作品において、「いちばん強い人たちは願ひによって堕ち/次いで人人と一諸に飛騰します」と書かれているような、「いちばん強い人」などのことかと思います。
 そして賢治自身も、自分の実践活動を「菩薩行」と呼ぶことはありませんでしたが、自分の個人としての幸福は、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは」、あり得ないと考えていたのでしょう。それが、上のような言葉に表現されたのだと思います。

 いずれにしても、「個人」と「世界」という両極端を媒介しつつ、それをともに変革していこうとするのは、容易なことではありません。障害者権利条約の方は、国連という組織から各国の政府へ影響を与えることによって、そしてそれぞれの国の政治を通してその実現を図ろうとし、賢治の方は、仏教とりわけ法華経にそのような力があると信じ、自らの身を投じました。
 この二つのうちで、どちらが実効性のある方法と思いますかと訊かれたら、現代の日本人の大半は、国連を通した活動の方、と答えるでしょう。しかし、国連のもとでも止むことのない多くの戦争や人権蹂躙のことを思うと、しばしば我々はどうしようもない無力感にとらわれることもあります。

 しかし、賢治もおそらく無力感にさいなまれながら生きた人でした。ある時期からの彼は、「多くの侮辱や窮乏の/それらを噛んで歌ふ」(「告別」/『春と修羅 第二集』)ようにして、数々の詩や物語を紡ぎ出していったのです。そのような中でも、類い稀な彼の想像力は、「世界」と「個人」、「宇宙」と「微塵」というようなスケールの両極端を同時にとらえきって、「銀河を包む透明な意志」を構想しました。

 「グローバル化」が進み、インターネットを介すれば「個人」が直接に「世界」のあらゆる情報に繋がることも可能になった現代、国連条約の前文において「個人」と「世界」が対置されるのも当然と言えば当然ですが、似たような視点を80年も前に持っていた宮澤賢治という人は、やはりただ者ではなかったと、あらためて思います。


すべて人間の固有の尊厳、平等、権利をすべからく保障することが、世界の自由、正義、平和の基盤をなす。世界はそれを理解し合意した。・・・

 

written by hamagaki : カテゴリー「雑記

トラックバック




コメント



難しいことは、理解できなくて、わかりませんでした。

自分個人は、幸せになってはいけないのだと、思い込んだことが、ありました。
しかし、世界平和のために、頑張っても、きりがなくて、しんどくなりました。

ある日、わたしは、自分の幸せを、分けて、その人も幸せになれば、自分だけでもないし、自分もそれほど、しんどくないのではないか、と思いました。

「いらない」とおっしゃる方もいて、わたしも、部屋を片付けても、終わらない、いるものいらないものの仕分けの日々が、おとづれました。

平凡な幸せというものか。

障害のあるお友だちたちは、わたしより、内臓が丈夫で、障害の他は、とても、元気です。
でも、お互い、幸せのわけあいっこができるので、うれしいです。
昨日、メールが来た所です。

お薬さえも、飲んだことがないのに、幸せも感じることもない方もいらっしゃいますね。
差別逆差別は、終わらないいじめのようです。

優しさの輪廻へ、行きたいものです。

HAMAGAKIさん、どうも、ありがとうございます。

投稿者 雲 : 2008年3月21日 15:57

hamagakiさん、こんばんは。

「すべて人間の固有の尊厳、平等、権利をすべからく保障することが、世界の自由、正義、平和の基盤をなす。」

……とてもきこえのいい文言ですね。異論はありません。

どこかで線引きをして捉えなければならないことを承知していますが、しかし「平等・権利・自由・正義・世界・…、個人」など、ひとつひとつの言葉を考えていくと、私には何が何だか分からなくなります。

それは、ひとりひとり立つ位置が異なり、その位置や見方によって、それらの言葉の持つ意味が大きく違ってくるだろうと感じるからです。

hamagakiさんは「世界が真にこのことを理解し合意した暁には、すべての戦争や人権抑圧はなくなると言えるほど、これはラディカルな宣言」と仰っていますが、私はhamagakiさんの意見に付け加えて、「国」という概念がなくなるのではないか、パスポート無しで何処へでも行けて、暮せて…などと考え始めるのです。


「平等」は、どんな状態になったらみんなが「平等」になったと言えるのか、思想や宗教、文化、言語が異なる者どうしが互いに「自由」だと思える瞬間はどんなときか?「正義」は分かち合えるのだろうか…などと考えこんでしまいます。

同じ日本という国に暮らしていながらも、人それぞれ考え方は少しずつ違うでしょうし、そういった意味では「個人の集合体→世界」とも捉えることができる一方で、「個人の中に世界がある」とも言えなくはないようにも感じます。


個人的には、ひとりひとりのちょっとした「欲」や「優越感(色分け…)」などが、上の文言の実現を阻んでいるように感じます。

違う考えを持つ人をそのまんま「自分とは考え方が違っている人」としてどこまで受け止められるか、というのもポイントになるように思います。曖昧なものを曖昧なまま受け止める、(喧嘩の仲裁とかでよく言う「まぁまぁ……、」ってな感じでしょうか…。)


9.11のテロはそこに住む人だけでなく、少なくとも私から見ても悪夢のような出来事ですし、出会ったことがないであろうあのビルにいた人々、飛行機の乗客の尊いたくさんの命が一瞬のうちに奪われる瞬間を目の当たりにして、戦争を経験していない世代である私にとって、とてもインパクト(悪い意味で…です)のある出来事でした。

それでも、今、アメリカが起こしている行動を理解することはできません。

しかし、これも私の立ち位置から見た感想でしかなく、あのテロで命を奪われた家族にとっては、今のアメリカの動向は支持して然るべきなのかもしれませんし、もっと言うなら飛行機を操縦してビルに突っ込んだ実行犯だって、自分の思想からしてみれば、「これこそ正義」だったかもしれないのです。


話は飛びますが、クジラを食す文化を持つ日本が諸外国からみれば異様に映っても、日本に暮らす立場からみれば、それに難色を示されることが不思議に思えたりするものです。(日本国内でも「納豆」が食べることができる、できない…なんてことで意見が割れたりしますよね…。)


それでは、私が考える「欲」や「優越感」が個々の中からなくなれば、「平等」になるのか…と言えば、それも怪しい気がします。それらが思考からなくなるということは競争社会でなくなるということ(私なんかは「競争」がなくなるのは大歓迎ですが)ではないかと思うのですが、そうしたら人間は恐らく「上手にさぼる、ずるをする」のではないかと思うのです。常に働き続ける人とそうでない人とが現れて「平等」は崩れてしまうのではないか…と考えるのです。

……他の人を「信用」することも大切かもしれませんね。(^^;)


「線引き」をあえてせずに考えていきますと、果たしてどんな世界になれば冒頭の文言が実現されたことになるのでしょうか?

これまで人間が築き上げてきた工業や産業…あらゆるものを捨てて、「自然」にかえることでしょうか?

それとも国境もなく、例えば、もっと文明を発達させて、言語や思想、文化が違っても分かり合える装置を開発したり、街中の「標識(サイン)」をあらゆる人が理解できるようにすべての言語で記すことなのでしょうか?

…幼稚な発想なのは百も承知ですが、そんなことを考えて、時には深刻になり、また時には「ふっ」と笑ってしまったりします。

ただ、どんな立場であれ、「人が人の命を奪ってはならない」ということだけでも共通認識であってほしいと願います。


「インターネット」は世界と瞬時に繋がることができる便利さがある反面、獲得する情報が偏ってしまうことに懸念を抱きます。この便利な機能が悪用されず、健全に運用され続ける(今もどうか怪しいですが)ことを祈ります。

…と考えると「信用」と同時に「疑うこと」も必要になりそうですね。(^^;)(^^;)


そんなこんなで、私の頭の中は混沌としています。

……しかし、例え幼稚な発想でも「立ち止まって(時には振り返って)、考えてみる」ことは大切だと思います。

投稿者 megumi : 2008年3月23日 23:05

 雲 様、megumi 様、意味深い貴重な書き込みをありがとうございます。お二人のおかげで、私もあらためていろいろ考えてみることができました。

 冒頭に掲げた文章は、これだけを読むと、たしかにあまりにも抽象的で、「ひとつひとつの言葉を考えていくと、何が何だか分からなくなります」ね。「とてもきこえのいい文言」で、ほとんど非現実的な感じさえしてしまう点においても、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」に、匹敵していると思います。

 たとえば「平等」という概念は、megumi 様ご指摘のように非常に多面的なものだと思いますが、この文章に関して言えば、これは「条約」という国際的な法律の一種みたいなものですから、法律的な用語(「法の下での平等」や「機会の平等」など)と思って読むべきなのかと思ったりします。AさんとBさんの生活条件を、すべて実質的に同じにしようということまで言っているのではないのでしょう。
 ただこれは、「障害者の権利」に関する条約ですから、障害者がいわゆる「健常者」と同じように社会の中で生きられるよう保障すること、そのような「平等」に、力点が置かれているのかもしれません。

 最後に、「どんな立場であれ、「人が人の命を奪ってはならない」ということだけでも共通認識であってほしいと願う」ことにおいては、私も全く同感です。
 ですから、私は死刑は廃止すべきと思っていますし、尊厳死にも反対です。

投稿者 hamagaki : 2008年3月24日 00:10

すごい議論展開に、ついていけてませんが、お返事ありがとうございます。

おばや、母の介護にたずさわり、ご高齢の方と、接する機会も増えました。

すると、お子さんのいらっしゃらない方にもお会いします。
尊厳死協会という名を初めて知りました。

自分が必要な情報を、必要なだけ自分で、選択できるという事が、喜びでもあり、大事かなと、思います。

情報は偏ってます。
偏っているということに、気づかず、過ごしてる方の方が、多いです。

インターネットを利用するようになり、便利さと、怖さを知らざるを得ませんでした。

良いことにだけ、頭を使うというのは、たいへん、疲れることですが、悪いと気がつけば、あやまるのが、とても、大切に思っています。

言いたくないことは、言わなくても良いと思います。
黙っててもいいから、首を振るとか、笑ってごまかすとか、何気に相手に伝えることは、必要だろうと考えます。
そうでないと、無視されてるのかな、と、感じることも出てくると、思います。

今は、養護学級とは言わないそうですが、小学校にありました。

しかし、入学時に、親に選択権があったそうなので、普通学級だけに、通学している子どもも多くいました。

養護学級と行き来している子どももあり、自由でした。

それなりに、問題はありましたが、運動会も話し合いで、点数がなかったので、競争しない運動会になりました。
後で、正しくないという意見が出て、頭の中が混乱したのを覚えています。

今も、その名残りが残っているようです。

投稿者 雲 : 2008年3月24日 11:49

はじめて参りました。このようなサイトを知り驚きと喜びを覚えました。僕も宮沢賢治さんが好きで、ときに星めぐりのうたを口ずさみます。彼は宇宙から身近な作品を組み立てた日本ではじめての作家ではないかと。宇宙からというのは、私たちが住んでいるこの町や国を、地球の外はもちろん、太陽系も銀河系もこえたところから、近づきつつ感じながら反映し投影するというような。そうやってたどり着いた自分が今の自分をどう受け止めるか、という軸と芯を持ったはじめての文学作家だと。そう感じながら、作品を読んだりしてきました。これからもちょくちょく立ち寄らさせていただきます。よろしく。

投稿者 光坊 : 2008年4月 5日 20:45

 光坊さま、ご訪問ありがとうございます。お返事が遅くなって、申しわけありませんでした。

 宮沢賢治という人が、「宇宙からの視点」というようなものを持っていたというのは、本当にご指摘のとおりだと思います。
 あまりにも具体的ですが、大正三年(19歳)頃の短歌に、

         なつかしき
         地球はいづこ
         いまははや
         ふせど仰げとありかもわかず。(159)

         そらに居て
         みどりのほのほかなしむと
         地球のひとのしるやしらずや。(160)

などの作品もありました。

 今後とも、よろしくお願い申し上げます。

投稿者 hamagaki : 2008年4月13日 18:30

知りませんでした。ありがとうございます。

投稿者 光坊 : 2008年4月16日 14:03

わたしも、知りませんでした。
ありがとうございます。

お久しぶりです。
すごい、議論展開になってたんですね。
わたしには、結局、よう、わかりません。

人の命を奪う前に、理性で抑えられたりができると、良いと、わたしは、思います。

真剣に、耳を傾けてくださる方がいて、話ができて、「そんなんしたら、あかんでえ」と、言ってもらえて、「そうですね」と、素直に、言えたら、楽になって、事件も、未然に、防げるいうこともあるような気が、わたしには、します。

ニュースや新聞記事を、見てると、わたしは、しんどくなります。

みなさま、どうも、ありがとうございました。

投稿者 雲 : 2008年4月21日 11:00


コメントしてください




保存しますか?

(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)



← 前の記事へ | メインページへ | 次の記事へ →