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2008年3月30日 初代フィンランド公使ラムステット氏

 19世紀末から20世紀にかけてのフィンランド独立に向けた民族の熱気は、今でもシベリウスの交響詩「フィンランディア」を聴けば、歴史の彼方から甦ってくるような感じがします。様々な独立運動が行われては、ロシアによって弾圧されることが繰り返されたということですが、ロシアの2月革命によってその帝政が倒れた1917年12月、ついにフィンランド議会は独立を宣言します。
 その後まだフィンランド内部では、ソヴィエト連邦参加をめぐる内線、王国から共和国への変遷がありましたが、1919年1月の第一次大戦パリ講和会議において、「フィンランド共和国」として欧州各国に認知され、日本政府も、1919年5月にフィンランドを事実上「国家承認」し、同年9月には外交関係が樹立されました。

 これを受けて、フィンランド政府は日本に代理大使を駐在させることを検討しはじめます。国ができて日も浅く、まだ職業的外交官もいなかった時期に、フィンランドが東洋のはずれの小国に関心を示した最大の理由は、「日本の地政学的位置が、ソ連東部における展開を見守る観測所としてふさわしいと考えられた」ためだったということです(フィンランド大使館:フィンランド・日本外交関係の歴史より)。フィンランドにとって、ソ連とはそれほど厄介で巨大な隣人だったので、その反対側にも「観測所」を置きたかったということなのでしょう。

初代フィンランド公使ラムステット そこで、フィンランドのホルスティ外相が、駐日公使となるよう直接口説いたのが、当時ヘルシンキ大学の言語学教授だった、グスターフ・ラムステット氏でした(右写真:フィンランド大使館HPより)。
 ラムステット氏は、大きな決断をもってこの依頼を受け入れ、1920年2月に、初代フィンランド公使として、東京に着任します。ソ連領内の陸路が使えなかったため、彼はマルセイユから「伊予丸」に乗って日本に向かいましたが、乗船前にロンドンで購入した書籍と日本人乗客の協力によって、東京に着いた時にはすでに流暢な日本語が喋れるようになっていたということです(さすが言語学者!)。

 ラムステット公使は1929年まで日本に駐在し、公務のかたわら、その専門の言語学の講義も、東京帝国大学などで何度か行っています。その講義を聴いて影響を受けた日本人学者としては、柳田国男、金田一京助、新村出などの名前も挙げられています。
 そして、われらが宮澤賢治も、ラムステット氏の講演を直に聴き、その上なんと彼に自著まで贈呈していたのです。

 それは、賢治が高村光太郎とも会ったと推定されている1926年(大正15年)12月の上京中のことでした。『【新】校本全集』年譜篇の、同年12月12日の項には、次にように書かれています。

一二月一二日(日) 午後、神田のYMCAタイピスト学校で知りあったシーナという印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出席する。フィンランド公使で言語学者のラムステットの日本語講演があり、その後公使に農村問題、とくにことばの問題について意見をきき、エスペラントで著述をするのが一番だといわれる。この人に自分の本を贈るためにもう一度公使館へ訪ねたい、ついては土蔵から童話と詩の本各四冊ずつ贈ってほしい旨を父へ依頼する(書簡221)。

 この年譜記事の根拠は、最後にも記されている父あて書簡[221]にあり、書簡本文は次にようになっています。

今日は午后からタイピスト学校で友達になったシーナといふ印度人の招介で東京国際倶楽部の集会に出て見ました。あらゆる人種やその混血児が集って話したり音楽をやったり汎太平洋会のフォード氏が幻燈で講演したり実にわだかまりない愉快な会でした。殊に私は少し倶楽部の性質を見くびってこちらで買った木綿の仕事着を着て行ったのでしたが行って見ると室もみな上等の敷物がありみんな礼装をしてゐましたので初めは少々面くらひましたが退くにも退かれず仕方なく憶面もなくやってゐましたら、そのうちフヰンランド公使が日本語で講演しました。それが尽く物質文明を排して新しい農民の文化を建てるといふ風の話で耳の痛くないのは私一人、講演が済んでしまふと公使はひとりあきらめたやうに椅子に掛けてしまひみんなはしばらく水をさされたといふ風でしたが、この人は名高い博言博士で十箇国の言語を自由に話す人なので私は実に天の助けを得たつもり、早速出掛けて行って農村の問題特にも方言を如何にするかの問題など尋ねましたら、向ふも椅子から立っていろいろ話して呉れました。やっぱり著述はエスペラントによるのが一番だとも云ひました。私はこの日本語をわかる外人に本を贈りもう一度公使館に訪ねて行かうと思ひます。どうか土蔵から童話と詩の本各四冊ずつ小包でお送りを願ひます。(後略)

 そして、この最後に書かれた賢治の希望は実現していたようで、後年フィンランドのラムステット旧蔵書の中に、『春と修羅』『注文の多い料理店』が発見されたというのです(佐藤泰平「フィンランド初代駐日公使・ラムステットに賢治が贈った初版本」, 宮沢賢治研究Annual Vol.2, 1992)。
 なんとこの2冊は、はるばるユーラシア大陸の彼方、フィンランドまで渡っていたわけですね。

 ラムステット公使と賢治のエピソードは、フィンランド大使館のサイトの、「初代駐日フィンランド公使 G.J.ラムステットの知的外交」というページにも、次のように記載されています。

1926年12月、ラムステットは東京国際クラブで農業についての講演を行った。講演の最後に彼は「農業技術の近代化によって伝統的日本の栽培方法は時代遅れのものとなる」と不用意な発言をしてしまった。これを快く思わなかった聴衆は、講演者に話し掛けることなく会場を去った。唯一人その場に残ったのは、花巻農学校職員の宮沢賢治(1896〜1933)であった。彼はこの日本語を話す外国人に興味を持った。宮沢は、自らの文学作品の中で好んで方言を使用したので、2人はすぐに方言という共通の話題を見出した。

 上記の文章を書いたのは、カウコ・ライティネン氏という元フィンランド大使館報道参事官で、ページの下方に参考文献として挙げられているのは、ラムステット自身の著作をはじめフィンランド側の資料だけです。ただ、「彼はこの日本語を話す外国人に興味を持った」という一文は、賢治の書簡中の「私はこの日本語をわかる外人に本を贈りもう一度公使館に訪ねて行かうと思ひます」という部分に酷似していますので、ライティネン氏がこの文章の執筆にあたり賢治の書簡も参照した可能性はありますが、他の記載内容には、かなりの相違点があります。
 つまり、ライティネン氏の文章は、日本側の資料からある程度は独立して書かれているようであり、そうなるとフィンランド側の情報源をさかのぼれば、最終的にはラムステッド氏自身の記録や記憶がもとになっている可能性もありえます。
 ということであれば、双方の内容を比較してみることにも、それなりの意義があるのではないでしょうか。

 まず、当日の聴衆が、ラムステット氏の講演の内容に共感を示さなかったらしいことは、双方の資料とも述べているところです。賢治の書簡では、「耳の痛くないのは私一人、講演が済んでしまふと公使はひとりあきらめたやうに椅子に掛けてしまひみんなはしばらく水をさされたといふ風でしたが…」とあり、ライティネン氏の文章では「彼は(中略)不用意な発言をしてしまった。これを快く思わなかった聴衆は、講演者に話し掛けることなく会場を去った」と記されています。
 また、賢治の肩書きは、ライティネン氏の文章では「花巻農学校職員」となっていますが、実際には賢治は1926年3月末で花巻農学校を退職しており、ここは事実と違っています。その由来は、ライティネン氏が賢治の経歴を調べる際に少し間違ったか、ラムステット公使が当日に賢治の自己紹介の時制を聞き違えたか、というところかもしれません。
 双方の記述で、実質的に最も相違が大きいのは、ラムステット公使の講演内容そのものに関する部分です。賢治は、「それが尽く物質文明を排して新しい農民の文化を建てるといふ風の話で…」と書いているのに対し、ライティネン氏は、「農業技術の近代化によって伝統的日本の栽培方法は時代遅れのものとなる」と書いており、この話が聴衆の不評を買ったという「結果」のみでは一致しているものの、言っている内容は、ほとんど正反対のことであるのが不思議です。「物質文明を排す」という反近代主義的主張と、「農業技術の近代化が重要」という観点は、どうしても相容れないでしょう。

 これに関して私は、ライティネン氏が参考文献にも挙げていた、グスタフ・ラムステット著『フィンランド初代公使滞日見聞録』(日本フィンランド協会, 1987)という本を図書館で読んでみましたが、残念ながら宮澤賢治との会話に触れた箇所は、ありませんでした。しかし、著書から読みとれるラムステット氏の基本的な考え方は、当時の一般的なヨーロッパ知識人のそれであり、「物質文明を排す」というような思想は、どこにも見受けられませんでした。
 したがって、講演内容が上記二つのうちのいずれかであったとすれば、私としては、ライティネン氏が書いている「農業技術の近代化によって伝統的日本の栽培方法は時代遅れのものとなる」という方に、信憑性を感じます。ラムステット氏の講演がこのような趣旨であったとすれば、その「日本の農業技術の近代化が必要である」ということに関しては、農学者としての賢治もまさに同意見だったでしょうし、現実にそれを実践しようとしたのが、賢治の生涯の大きな一側面であったわけです。

 そもそも、生前の賢治自身も、「物質文明を排す」ということまで主張していたわけではありませんから、別にラムステット氏の講演内容を、我田引水的に曲解したとも思えません。ただ、「物質文明を排して新しい農民の文化を建てる」という一節の後半、すなわち「新しい農民の文化を建てる」という点は、「農民芸術概論」などに現れているように、賢治が最も強く夢見たことでした。
 「都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」(「農民芸術概論綱要」)という言葉にも見られるように、賢治には、「都市」―「農村」という対立軸においてものを考える傾向はあったようですから、ラムステット氏の講演の聴衆の中で、自分だけが農村で「百姓」を経験している者、他はみんな都会の人々、という意識はあり、「耳の痛くないのは私一人」という点を誇張して、父親あての手紙に書いてみたという面もあったのかもしれません。

 学者としてのラムステット氏の思想には、ローカルな・土着的なものを尊重しようという方向と、普遍性を追求しようとする方向の、二つの面がありました。前者は、柳田国男の民俗学や方言研究、金田一京助のアイヌ語研究にも影響を与えましたし、後者は、ラムステット氏自身がエスペランティストであったところに、最も典型的に表れています。賢治との会話でも、「方言」の話と「エスペラント」の話という、180度逆の話が同時に出ているのが、象徴的です。
 そして、賢治自身の作品も、まさに土着的・民俗的な要素と、宇宙的・普遍的な要素が混在しているのが特徴で、この二人は、そういう意味でも深い親和性を持っていたのではないかと思います。
 さらに大きく見れば、ヨーロッパの東端のフィンランドも、アジアの東端の日本も、それぞれの中心ではなく周縁にあり、そのような「文化の中心」ではない場所を発想の起点とするからこそ、土着性と普遍性という二つの要素に、ことさら意識的となるのかもしれません。


 これは、遠く離れた二つの国の、まったく異なった経歴を持つ二人の、ほんとうに偶然の出会いだったと思います。できればラムステット氏の、『春と修羅』や『注文の多い料理店』に対する感想を、聴いてみたかったところです。

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2008年3月24日 湖南航路

 1921年(大正10年)4月の賢治・政次郎の関西旅行において、二人が乗船した「湖南汽船」の航路を、Google Map の衛星写真上に表示してみました。琵琶湖の南端部にあたります。

 (1)ー(9)の数字が付いている水色のマーカーは、現時点で確認できた昭和初期の停泊港、(駅)印は、二人が東海道線を降りた大津駅(当時)、(石)印は、『【新】校本全集』年譜篇に、二人が乗船したと書かれている「石場浜」です。
 先日の記事で書いたように、もしも「石場港」が当時この航路で使われていなかったとすれば、二人は(6)「膳所港」か、(5)「紺屋関港」のいずれかから乗船したと思われます。
 そしていずれにせよ、(1)「坂本港」で下船して山手に向かって歩き、比叡山の登山にかかったわけです。

(1)坂本; (2)唐崎; (3)三井寺; (4)浜大津; (5)紺屋関; (6)膳所; (7)瀬田; (8)石山寺; (9)南郷; (石)石場浜; (駅)当時の大津駅(現在の膳所駅)

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2008年3月23日 膳所駅〜膳所港〜石場浜〜紺屋関

 先日、「「石場浜乗船」のこと」でも触れましたが、1913年(大正2年)6月から1921年(大正10年)7月の間の7年間だけ、東海道線の「大津駅」とは、現在の「膳所駅」のことでした(Wikipedia「大津駅」参照)。

 ということで、下の写真が、今日のお昼頃の「JR膳所駅」です。

JR膳所駅

 現在、JR東海道本線で「膳所」は「大津」の一つ東の駅ですが、「大津」の周辺は官庁やオフィス街という雰囲気なのに対して、この「膳所」のあたりは、若い人も多いショッピング街です。

 1921年(大正10年)4月、賢治と政次郎の父子は当時の「大津駅」、すなわちこの駅に降り立ち、「石場浜」から湖南汽船に乗船したとされています。先日の記事では、石場港が当時の湖南航路の停泊港ではなかった可能性について触れ、もしも賢治父子が石場港から乗ったのでなければ、「膳所港」か「紺屋関港」が考えられると述べました。
 今日の午後、私は膳所駅で降りて、上記のあたりの琵琶湖岸を歩いてみました。

 途中、膳所駅から琵琶湖岸に出たあたりにある「におの浜観光桟橋」では、観光遊覧船「ミシガン」が、ちょうど出航するところでした。

におの浜観光桟橋の「ミシガン」

 この「ミシガン」を運航する「琵琶湖汽船株式会社」は、賢治の当時の「湖南汽船会社」の後身であり、「ミシガン・クルーズ」は琵琶湖の南部を周遊するものですから、賢治父子が乗船した湖南汽船の「湖南航路」の、現代版みたいなものとも言えます。

 そしてここから、20分ほど南東の方向に歩くと、「膳所港」に着きました。

膳所港

 現在の膳所港は漁港になっており、「ビワバス」釣りの拠点の一つのようです。左端に見える橋は「近江大橋」で、対岸の草津市との間をつないでいます。

 この後、琵琶湖岸をまた歩いて西の方に戻っていきました。2kmあまり行くと、「琵琶湖ホール」の西側が、「石場浜」です。
 ここは今は公園になっていますが、その一角には、江戸時代から石場⇔矢橋(やばせ)間を往復する「矢橋の渡し」の目印となっていた、石造りの見事な「常夜燈」が残されています(下写真)。湖岸は、現在は港としては使われていません。

石場常夜燈

 上の写真で右端の方の山が、賢治父子がこの日の午後に歩いて越える、比叡山ですね。

 石場浜からさらに500mほど西に歩くと、当時の「紺屋関港」のあった場所です。ここは当時、湖南汽船会社のメイン・ポート=「大津港」でもありました。現在は、滋賀県警水上警察や消防など、公的な船が停泊しています。

旧紺屋関港

 賢治たち父子は、膳所港、石場浜、紺屋関港のいずれかの港から、湖南汽船に乗船したのだろうと思いますが、当時の航路については、何か資料があればもう少し調べてみたいところです。


 この後、大津駅へ帰る途中に少し寄り道をして、「旧逢坂山トンネル」の跡を見てみました。東海道線および大津駅が現在の位置になるのは、賢治父子の旅行直後の1921年(大正10年)8月1日からで、それまでの東海道線は、下写真の古いトンネルを抜けて、京都の南の方に出ていました。

旧逢坂山トンネル跡

 この旅行の時の賢治父子は、大津駅で降りて比叡山を越えて京都へ行き、大阪〜奈良から関西線を経由して東京へ帰ったようですから、上のトンネルは通っていません。
 賢治が1916年(大正5年)の、盛岡高等農林学校修学旅行において京都に来た時には、3月23日早朝に、ここを抜けたはずです。

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2008年3月20日 障害者の権利に関する条約・前文

 2006年12月13日に国連総会において採択され、日本政府も昨年9月28日に(やっと百何番目かの国として)署名した「障害者の権利に関する条約」は、「障害」という概念のパラダイムを転換し、社会の側の責務も明らかにした点で、画期的な内容を持つものでした。
 日本の署名において用いられた「外務省による仮訳文」というのもありますが、これは逐語的で正確そうには見えるものの、迂遠で読みにくいのが難点です。私としては、最もその本質をつかみとってわかりやすいと思うのは、八尋光秀弁護士による、「武器としての要約」と名づけられた抄訳です。

 その条約の「前文」は、力強く次のように始まります(八尋訳)。

すべて人間の固有の尊厳、平等、権利をすべからく保障することが、世界の自由、正義、平和の基盤をなす。

 この次には、「世界はそれを理解し合意した。」という文が続きますが、世界が真にこのことを理解し合意した暁には、すべての戦争や人権抑圧はなくなると言えるほど、これはラディカルな宣言です。
 さて、この前文冒頭の一文を読むと、何となく連想するのが、「農民芸術概論綱要」における、宮澤賢治の次の有名な言葉です。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

 「世界」のあり方と「個人」のあり方とが、密接不可分であるという認識において、この二つの言葉は共通しているわけですが、障害者権利条約の方は、「個人」→「世界」という方向に矢印が向かっているのに対して、賢治の方は、「世界」→「個人」という順序を強調しており、一見するとその向かう方向は「正反対」であるようにも思えます。

 しかし実際には、この二つの言葉は正反対のことを言っているのではないでしょう。障害者権利条約の求めるように「すべて人間の固有の尊厳、平等、権利をすべからく保障する」ようなことは、「個人」のレベルでは現実的に無理で、そのためには「社会」を全体として変えていく必要があります。一方、賢治が言うように「世界がぜんたい幸福に」なる際にも、その時はすでに、すべての「個人」も何らかの変化を遂げつつあるでしょう。
 すなわち、いずれにしても個人と世界が不可分な関係のもとに、両方ともに変化をする必要があるということを、どちらの言葉も述べているのです。

 ただ、しいて賢治の言葉の方に違ったニュアンスが見出されるとすれば、賢治が言っている方の「個人」とは、世界人類すべての「個人」を指しているのではなく、「菩薩行」を為している人=自ら悟りをひらく能力があるにもかかわらずこの世に留まって、すべての衆生を彼岸に導く人・・・のことを言っているのかと思われる点です。たとえば、「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」(『春と修羅』補遺)という作品において、「いちばん強い人たちは願ひによって堕ち/次いで人人と一諸に飛騰します」と書かれているような、「いちばん強い人」などのことかと思います。
 そして賢治自身も、自分の実践活動を「菩薩行」と呼ぶことはありませんでしたが、自分の個人としての幸福は、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは」、あり得ないと考えていたのでしょう。それが、上のような言葉に表現されたのだと思います。

 いずれにしても、「個人」と「世界」という両極端を媒介しつつ、それをともに変革していこうとするのは、容易なことではありません。障害者権利条約の方は、国連という組織から各国の政府へ影響を与えることによって、そしてそれぞれの国の政治を通してその実現を図ろうとし、賢治の方は、仏教とりわけ法華経にそのような力があると信じ、自らの身を投じました。
 この二つのうちで、どちらが実効性のある方法と思いますかと訊かれたら、現代の日本人の大半は、国連を通した活動の方、と答えるでしょう。しかし、国連のもとでも止むことのない多くの戦争や人権蹂躙のことを思うと、しばしば我々はどうしようもない無力感にとらわれることもあります。

 しかし、賢治もおそらく無力感にさいなまれながら生きた人でした。ある時期からの彼は、「多くの侮辱や窮乏の/それらを噛んで歌ふ」(「告別」/『春と修羅 第二集』)ようにして、数々の詩や物語を紡ぎ出していったのです。そのような中でも、類い稀な彼の想像力は、「世界」と「個人」、「宇宙」と「微塵」というようなスケールの両極端を同時にとらえきって、「銀河を包む透明な意志」を構想しました。

 「グローバル化」が進み、インターネットを介すれば「個人」が直接に「世界」のあらゆる情報に繋がることも可能になった現代、国連条約の前文において「個人」と「世界」が対置されるのも当然と言えば当然ですが、似たような視点を80年も前に持っていた宮澤賢治という人は、やはりただ者ではなかったと、あらためて思います。


すべて人間の固有の尊厳、平等、権利をすべからく保障することが、世界の自由、正義、平和の基盤をなす。世界はそれを理解し合意した。・・・

 

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 written by hamagaki

2008年3月16日 「石場浜乗船」のこと

『【新】校本全集』年譜篇p.222より 1921年(大正10年)に賢治が家出上京していた間の4月上旬、父政次郎氏は賢治を誘って、二人で伊勢〜比叡山〜奈良をめぐる関西旅行を行いました。右のテキストは、『【新】校本全集』年譜篇p.222に記載されている、その「第三日」の初めの部分をコピーしたものです。

 ここに書かれている旅行中の事実経過は、政次郎氏が後年、おそらく賢治の没後に語った内容にもとづいているのだと思いますが、本日検討してみたいのは、この中の「大津駅下車。琵琶湖岸石場浜から湖南汽船にのり・・・」という部分です。
 当時の賢治父子の足どりをたどってみようと調べているうちに、この時期の「湖南汽船」が、大津の「石場」の港に発着していたのかどうか、不確かな感じがしてきたのです。


 歴史的にみると、石場港は、琵琶湖の舟運において重要な役割を果たしてきた港でした。
 「急がば回れ」という諺がありますが、その由来は、

もののふの矢橋の船は速けれど
         急がば回れ瀬田の長橋

という、室町時代の連歌師・柴屋軒宗長の歌から来ているのだそうです(「語源由来辞典」参照)。
 東海道を旅する際には、大津宿石場港から草津の矢橋を結ぶ「矢橋の渡し」を利用する方が距離的に近く、たいていの場合は速いのだけれど、舟というものは天候に左右されて危ないので、大きく南を回って「瀬田の長橋(=瀬田の唐橋)」を渡る方が安全確実である、ということを、この歌は意味しているのだそうです。
 また、「近江八景」の一つである「矢橋の帰帆」も、この石場港と矢橋港を往き交う帆舟を、比叡山と夕空を背景に眺めたものでした。

 ということで、江戸時代から明治初期までは、大津のメイン・ポートとして栄えた石場港だったのですが、どうも明治後期以降は、次第に他の港にその座を譲って、衰退していったようです。
 私が最初に「石場浜から湖南汽船にのり・・・」という記述に疑問を持ったのは、明治末期の大津市の様子を示す、下の図を見た時でした。

初期の東海道線
(『琵琶湖汽船100年史』より)

 そもそもこの図は、明治末期までの国鉄大津駅は東海道本線の上にはなくて、スイッチバックの支線上の駅だったことを示すものですが、大津駅の湖岸には、「太湖汽船乗り場」があって、紺屋関駅の湖岸には、「湖南汽船乗り場」があるのに、石場駅の湖岸には、何もないのです。

 同じような状況は、古い資料においても確認できます。下の図は、1895年(明治28年)に京都で「第4回内国勧業博覧会」が開かれた際に、滋賀県にも観光客を誘致しようと作られた「近江案内略記」という観光地図の一部です。

近江案内略記(1895)
(『新修大津市史 第五巻』より)

 ちょっと見にくいですが、ここでも、「大津ステーション」の左方には「太湖汽船會社」があって、湖岸には船の絵と錨の印があり、右方には「湖南汽船會社」があって、やはり湖岸には船の絵と錨の印があるのに、右端の「石場」の湖岸には、大きな木が一本描かれているだけです。
 すでに明治時代後半の石場浜は、港としての機能はあまり果たしていなかったのではないかと、心配になってきます。

湖南汽船会社・湖南航路の切符(昭和初期) ところで、賢治たち父子が大津から坂本まで乗船した、湖南汽船の定期航路運航が始まったのは、1894年(明治27年)のことでした。以下に、『新修大津市史』の記述を引用します。

 翌明治二十七年、湖南汽船は湖南の探勝を目的に、大津―石山、大津―坂本間の定期航路運航をもって、湖上遊覧船営業に乗り出したのである。湖南汽船の定期航路の開始は、琵琶湖遊覧汽船の始まりにあたるが、遊覧船の営業は、営業収益の下降的傾向にあった湖南汽船の歯止めとなり、以後順調な営業の発展をみていったのである。一方、太湖汽船も湖南汽船と相前後して遊覧船航路を開拓し、明治二十八年以降は収入・利益とも明治二十二年以前の状態に復すことができた。(中略)
 遊覧汽船客誘致が成功してか、湖南汽船は明治三十六年以降収入・利益とも順調な発展をみた。なかでも第一次大戦後の好景気は湖上遊覧時代を出現させ、大正九年(1920)には京阪電気鉄道株式会社と提携して船車連帯運輸による「八景めぐり」を開始し、同十五年には同社の融資も得て遊覧船明治丸・大正丸・平安丸の鋼鉄船を建造し、さらに同年には南郷遊覧をさらに発展させるため、宇治川ラインの遊覧船就航を計画、モーターボート夕照号、秋月号の進水をみたのである。(強調は引用者)

 琵琶湖の水上運送は、湖岸に東海道線が全通するなど陸上交通の発達によって、明治中頃に一時的な打撃を受けますが、ここで単なる貨客運送から遊覧・観光に重点を移すことによって、また勢いを盛り返していったというわけです。
 賢治父子が琵琶湖で汽船に乗った1921年(大正10年)とは、まさに上述の「湖上遊覧時代」にあたり、2人が汽船の上で食事をとったのも、そんな時代の観光旅行の一コマだったわけですね。

 それから、右の方にずらっと並べた写真は、『琵琶湖汽船100年史』という本に掲載されていた、「湖南汽船会社」の、「湖南航路」の切符です。
 これらは、昭和初期のものということで、賢治たちの旅行の時のものと同一とは限りませんが、切符に記載されている港を、北から順に並べてみると、下のようになります。

  • 坂本
  • 唐崎
  • 三井寺
  • 浜大津
  • 紺屋関
  • 膳所
  • 瀬田
  • 石山寺
  • 南郷

 琵琶湖南部の観光地が並んでいますね。もちろん、これらの切符がすべての区間を網羅しているとはかぎりませんから、ここに「石場」が出ていないからといって、これも、湖南航路の寄港地に「石場」が含まれていなかったという証拠になるわけではありません。
 しかし、上の二つの図や、この12枚の切符から浮かび上がる状況を合わせると、明治後期以降には「石場」という港があまり使われていなかったのではないか、そして湖南航路の停泊港になっていなかったのではないか、という危惧を生じさせます。

 それでは、もしも賢治父子が乗船したのが「石場港」ではなかったとしたら、それはどこだったのでしょうか。
 それを考えるためには、当時の「大津駅」の場所を再確認する必要があります。

 最初に掲げた図においては、明治末の「大津駅」は、琵琶湖岸(現在の京阪浜大津駅の場所)にありました。しかし、賢治父子が旅行した1921年(大正10年)には、またこの時と状況が変わっていたのです。
 1913年(大正2年)に、大津電車軌道(現在の京阪電車石山坂本線の前身)が旅客営業を開始すると、上の図で「大津線」と書かれている支線は旅客営業を廃止して貨物線にされてしまい、上記の「馬場駅」が、新たに「大津駅」と改称されたのです。
 つまり、1921年に賢治父子が下車した「大津駅」は、上の図の「馬場駅」(現在のJR膳所駅)だったわけです。

 となると、上にまとめた「湖南航路」の停泊港のうちで、その「大津駅」から最も近いのは、「膳所港」ということになります。その場所は現在の近江大橋の西のたもとのあたりで、当時の大津駅からは、道のりにして1.3kmほどになります。
 次に近い港は、湖南汽船本社の傍で、湖南航路の中心でもある「紺屋関港」です。ここは、当時の大津駅から1.8kmの距離です。
 どちらの港だったかは断定できませんが、距離的に近いこと、また政次郎氏が「石場浜」と勘違いした要因として、当時の大津の繁華街からは少し南東にはずれた港だったという意識があったかもしれないことから、「膳所港」だったのかもしれないと、私は思います。
 1921年当時における、湖南航路の停泊港をはっきりと示してくれる資料があれば、事情は明確になったはずなのですが、そのような資料が見つけられなかったので、今回は間接的な資料による「推測」にとどまりました。


 ところで、本題からは少しそれますが、冒頭に引用した図が示していたように、ある時期までの国鉄大津駅は、現在の位置ではなくて、今は京阪電車の浜大津駅がある場所にあり、馬場駅からスイッチバックで入るようになっていました。これは、(旧)逢坂山トンネルの滋賀県側出口はかなり高い位置にあって、湖岸の高さにある大津駅から直接列車が向かうことができなかったためだったということですが、さらに前述のように大正初期に、「大津駅」の名称はそれまでの「馬場駅」に移動させられて(=2代目「大津駅」)、表面上は、スイッチバックなどという非効率なことをしなくてよくなります。
 しかし一方、当時の東海道線は、京都側においても、トンネル工事の事情でいったん「稲荷」(現在は奈良線)の駅まで南下してから、滋賀県側に抜けるというまわり道をしていました。こちらの非効率を改善するために、京都駅から真っ直ぐ東に抜けるルートで「新逢坂山トンネル」が掘削され、滋賀県側の東海道線のルートはそれまでより北側を走るように変更されて、大津駅もまたまた滋賀県庁の南西に移動し(3代目「大津駅」)、新たな東海道線が営業を開始したのが、1921年(大正10年)8月1日のことでした。そしてそれまでの大津駅(2代目)は「馬場駅」に名称が戻されるとともに、旅客営業はいったん廃止されます。

 すなわち、賢治たち父子が訪れた1921年4月、大津駅(2代目)と旧東海道線は、くしくも廃止寸前の時期にあたっていたというわけなのです。

明治末と現在の東海道線
赤色は現在の東海道線

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 written by hamagaki

2008年3月 9日 追悼・力丸光雄先生

 宮沢賢治学会イーハトーブセンターの元代表理事でもあった力丸光雄氏が、先月に突然亡くなられてから、もう1ヵ月が経ちました。
 私自身は、残念ながら氏の謦咳に接する機会は持てなかったのですが、以前から発表されていた賢治に関する多数の論文や随想によって、力丸氏のお考えには何となくずっと親しんでいたような気持ちになっていました。
 直接お会いしたこともないのに、勝手に印象を決めつけるのも失礼な話ですが、力丸氏に関する私のイメージをあえて言わせていただくと、真摯な化学研究者の側面と、教育者の側面と、あともう一つは表現するのが難しいのですが、人間の最奥にある不可視な世界?にも繋がろうとする側面・・・などが、一体となった不思議な人・・・というような感じです。と書くと、私の思い込みかもしれませんが、どこか賢治にも通ずるところがありますね。

 まず力丸氏は、天然物有機化学を専門とする科学者で、岩手医科大学教授を務められた一方、宮澤賢治研究家としてイーハトーブセンター設立発起人の一人でもあり、前述のように代表理事も務められました。
 また、力丸氏はその一方で、文化人類学的な観点から「仮面」というものに強く関心を持たれ、数十年にわたって日本や世界の仮面を収集してこられた「仮面研究家」でもあり、「日本仮面研究会」の会長もされました。1998年に岩手医科大学を定年で退かれてからは、「北上市立鬼の館」の館長に就任して、その厖大な「仮面」コレクションを、館に寄贈しておられたということです。
 私は3年前に、「鬼剣舞」のお囃子のことを調べたくて、この「鬼の館」に行ってみたことがありました。館内のホールで、何気なく剣舞のビデオが流れていると、親子連れで休日を過ごしに来たというような小さな子供が、音楽に合わせて上手に舞を踊っているのが印象的でした。「さすが鬼剣舞の里!」と思ったものです。

北上市立鬼の館

 今回、その「北上市立鬼の館」において、特別収蔵資料展「力丸館長追悼展」が、2月24日から4月6日まで開かれているということです。


 一方、力丸氏の文章で私の心に残っているものとしては、『宮沢賢治6』(洋々社)の巻頭に掲載されていた、「χへの手紙」・・・「いささか賢治の世界に深入りしすぎ、「専門」の立場からという姿勢がいつかくずれてしまったようです。最近は、インド哲学やC.G.ユングを勉強しながら賢治を読んでいるわけですが、今さらのように己れの無力を感じます。」・・・という立場からの、賢治をめぐる随想がありました。
 あるいは、天沢退二郎編『宮沢賢治ハンドブック』(新書館)における、「岩手公園」や「盛岡」という項目に関する、情緒あふれる叙述も、魅力的でした。盛岡で長く生活され、街を深く愛しながら、それでも常に旅人のように客観的な眼でこの街を眺めておられたのかと思わせます。

 Web 上で見られる力丸氏に関するページとしては、2005年の岩手公園碑前祭に関する盛岡タイムスの記事が、力丸氏による「碑前随想」も入っていて、興味深いです。

 あと、帽子関連のニュースを集めた下記のページの下の方(岩手日報2000年7月24日ニュースより)の記事も、面白いですね。

 下記の文章は、力丸氏が「風土工学デザイン研究所」というところのシンポジウムで発言されたことの要旨のようで、賢治とは直接関係ないですが、「東北」や「鬼」に関する力丸氏の考えの本質に触れられるような感じです。


 締めくくりに、力丸光雄氏が宮澤賢治に関して書かれたほぼ最後に近い文章の一つと思われるのが、東北電力の広報誌「白い国の詩」(2008冬号)に収録されている、「もう一つの宮沢賢治論 賢治のサイエンス・コズモス」です。その Web 版は、下記から読むことができます。

 力丸氏自身も科学者でありながら、賢治が既存の科学を超えた次元の<科学>を求めたところに、力丸氏も共感しておられるように感じます。そしてそれこそが、力丸氏をして普通の科学者や大学教授におさまらない、広汎な活動をさせたものだったのでしょう。
 なお、この文章は全部で3ページありますが、2ページめの左側に掲載されている「五輪塔」や「五輪峠からの眺め」の写真は、実は私が提供させていただいたものだったのです(「五輪峠」詩碑参照)。
 たしか去年の終わり頃に、広報誌の編集者の方から写真使用の依頼があり、「力丸先生の文章を飾れるなら!」と喜んで元の写真をお送りしたのですが、それから数ヵ月で、こういう形でブログに書きこむことになるとは、思いもよりませんでした。

 謹んで、力丸光雄様のご冥福をお祈りします。

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2008年3月 6日 光太郎・食堂など補遺

 先日、「「聚楽の二階」の賢治と光太郎(2)」を書いた後に、入沢康夫氏の「賢治の光太郎訪問」(『賢治研究』80号, 1999)を、遅ればせながら読むことができました。本来ならばこれは、この問題について何か書こうとするなら真っ先に読んでおかねばならない基本文献だったはずですが、その内容も知らずに考察のまねごとをするなど、私の無茶もいいところでした。

 で、その入沢氏の「賢治の光太郎訪問」によれば、『〔旧〕校本全集』年譜に引用されていた手塚証言……賢治と光太郎と手塚武が、光太郎宅で会った後、上野まで歩いて「いっぱいやりながら鍋をつついた」という話……は、「校本全集編纂刊行が進行している最中に、手塚氏から天沢退二郎氏へ、そして堀尾氏へという経路で、書信によってもたらされたもの」で、「堀尾氏が、それまでの「玄関先での立ち話」説とはあまりに違う証言内容に驚き、手塚氏によくよく念を押したところ、手塚氏から「この記憶に絶対間違いはない」との確言があり、年譜に採用されることになった」という由来のものだったそうです。
 しかし、その手塚氏自身がはるか以前に「宮澤賢治君の霊に」と題した追悼文の中で、「僕はその機会を失した。今にして非常に残念に思ふ。高村さんだけが逢つた。後で草野君と高村さんを訪ねた時、いろいろ君の話をきき・・・」と書いていることをあらためて再発見し報告したのが、入沢氏のこの「賢治の光太郎訪問」でした。入沢氏はこの論考の最後を、

 このことに気付いてからの私の気持は、「後年の手塚武の記憶には、誰か別な人との会食の記憶が(賢治について後日得た知識も加わって)混入したのではないか」とするほうに強く傾いている。関係者がひとりも生存しない今、決定的な答は出ないのかもしれないけれども。

と結んでおられます。
 すなわち、「別人混同説」を、はっきりと一つの可能性として打ち出したのは、この入沢論文が嚆矢であったようで、その priority は、ここで再確認しておきたいと思います。私の記事は、そんなことも知らずに書いた不躾なものでしたが、意図せずその説の末席を汚していたわけです。


 あともう一つ、それより以前に書いていた「公衆食堂(須田町)」という作品の舞台をめぐっては、「賢治の事務所」の加倉井さんが、「緑いろの通信」3月3日号でふたたび取りあげていただいています。その考察において加倉井さんは、作品舞台の有力な可能性として、「昌平橋簡易食堂」を挙げて下さいました。たしかに、「須田町」からの距離としては非常に近い場所に位置しており、気になるところです。

 ここで、記事へのコメントでいただいた説も含め、もう一度、候補地を整理してみます。

 
公衆食堂◯
公衆食堂X



(存在しない)
神田青物市場内の民間食堂



上野公衆食堂
神田橋公衆食堂
昌平橋簡易食堂


 上記で、「神田青物市場」というのは、関東大震災の頃まで、神田須田町一丁目、神田多町二丁目付近一帯に発展していた東京最大の青果市場で、町の中に市場があるというよりも、「市場の中に町がある」という状況だったそうです。現在も、須田町1丁目10番地には「神田青果市場発祥之地」という石碑が立っているそうです。
 そのような神田市場の中には、市場に集うたくさんの人々を当て込んだ安い食堂がいくつもあったということを、塩見さんがコメントでお知らせ下さいました。これはまさに、「須田町の食堂」ということになります。

 下段左の「上野公衆食堂」は、当時の賢治の生活から、最も訪れた可能性が高いと私が推測した公衆食堂、「神田橋公衆食堂」は、1921年の時点で最も須田町に近かったと考えられる公衆食堂です(直線距離700m)。

 今回、加倉井さんが推挙していただいたのが下段右の「昌平橋簡易食堂」で、何と言ってもこの店は、旧須田町交差点まで直線距離ならば220mほどという、「須田町への近さ」が注目点です。中村舜二著『大東京綜覧』(1925)でもわざわざ一項を立てて紹介されていますが、これは、中村舜二氏自身が東京市議時代に、この店の開設に関与したことにもよるでしょう。

 私としては、題名の「公衆食堂」という言葉を文字通り受けとるか、現在の「大衆食堂」に相当するような一般的意味で用いたと考えるか(当時そのような用法があったかはわかりませんが)、というところが一つの分かれ目かと思うのですが、いずれの店とも決めがたい状況です。

 加倉井さんがおっしゃるように、「結局のところ諸説さまざまです。」

昭和4年頃の須田町界隈
昭和4年頃の須田町界隈。左上の方に「堂食町田須」の看板が見える。
(『聚楽50年のあゆみ』より)

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2008年3月 2日 「聚楽の二階」の賢治と光太郎(2)

 賢治と高村光太郎の二人が「いっぱいやりながら鍋をつついている」情景というのが、いかにも魅力的に思えて、その可能性を考えてみようと書き始めたのが、前回の記事でした。
 ところが、その前回記事をアップした後に、ある方がご親切にも、「賢治と光太郎」に関連する資料をメールで送って下さいました。その内容を拝見すると、「賢治と光太郎が会食をした」という可能性は、 残念ながらちょっとありえないようなのです。
 ということで、私の当初の思惑とは少し違った方向へ行くことになりますが、まずその送っていただいた資料というのを、ご紹介します。

 まず、前回は『【新】校本全集』に引用されている部分だけを載せた、手塚武の「宮澤賢治君の霊に」より。

(前略)
「生きてさへ居りあね。また逢ふこともあるさ」
 僕もさう言つて一度君と別れたかつた。改築されない前の、あの東北風の暗影を持つた上野駅の改札口で――。
 僕の東京住ひ中、たつた一度出て来た宮澤君と、余り突然だつたので、僕はその機会を失した。今にして非常に残念に思ふ。高村さんだけが逢った。後で草野君と高村さんを訪ねた時、いろいろ君の話をきき、その時、今向き合つてゐる高村さんに、君の風貌が大へん似通つてゐるやうに感じた、ことを記憶してゐる。君の持つあの真摯、素撲な生活精神は、その人に対つて、いよいよ信頼を高められたと言ふ。君の高潔無比な人格に接し得なかつたのは誠に遺憾の極みであつた。
(後略)

 「上野駅」が出てくるのは、手塚武が栃木県の出身で、やはり東北本線に乗って上京する身だったからでしょうか。
 次に、草野心平の「光太郎と賢治」より。

(前略)
 そのように光太郎に対しての賢治の関心は大きかったが、生前賢治を直接に知ることのなかった私は、その手紙以外は賢治の高村観をきくことは出来なかった。また一方東京の私たちも賢治に就いては雑誌の同人としてまたその作品の読者としての立場から噂していた程度のものであった。
 「草野君も文通だけでまだ会ったことのない宮沢賢治氏のことなど絶えず語り合った。宮沢賢治氏がある夏に一寸高村さんを訪問してすぐまた花巻に帰った話を高村さんから草野君がきいてすぐ私に話してくれた。私は、牧場と幅の広い肩とごつい手と製図とセロと『春と修羅』をいろんな風に結び合わせた。」(土方定一「銅鑼とその時代へのひとつの回想」宮沢賢治追悼より)
 その賢治の光太郎訪問も、恰度高村さんが出掛けるときだったので玄関での立話だけだった由で、だから高村さん自身も賢治に就いて知っているのはその作品のみといっていい程度だった。けれどもその作品に就いてなら私たちは、高村さんもひつくるめて、熱情を以て語りあった。
(後略)

 さらに、草野心平「宮沢賢治全集由来」より。

 二十六年前の九月二十二日に、私はぶらりと駒込林町の高村さんのアトリエを訪ねた。
 「宮沢さんが亡くなつたですよ。今日デンポウがあつて……」
 多分そのような言葉で私は賢治の他界を知つた。文通でしか知りあつていないお互いなのでその死を悲しむというよりは、賢治の文学創作もこれで遮断されたのか、という実感の方が強かつたのをおぼろげながら憶えている。高村さんも大体は同じような感懐ではなかつたかと思う。高村さんは賢治と一回会つてはいるにしろ、それはアトリエの玄関での僅かのたち話にすぎなかつたし、賢治の家庭のことなど私たちは皆目知らなかつたので、話題は恐らくは賢治の芸術に限られていたことだつたろう。
(後略)

 前回の記事では、「手塚武は賢治に直接は会わなかったが、後で高村光太郎から、光太郎が賢治と会った時の話を聴いたのではないか」と推測しましたが、「宮澤賢治君の霊に」という文章自体に、実はそのことは書いてあったわけです(「後で草野君と高村さんを訪ねた時、いろいろ君の話をきき、・・・」)。
 また、草野心平が「光太郎と賢治」の中に引用している土方定一という人は、やはり詩誌『銅鑼』の同人だったということですが、その文章でもやはり、高村光太郎と賢治の面会の話を、草野心平が光太郎から聴いたということが書かれていて、手塚武の記述と矛盾しません。ただこの話の中で気になるのが、「宮沢賢治氏がある夏に一寸高村さんを訪問して・・・」と書かれている「夏」という季節です。訪問は12月だったはずですが、この話は高村光太郎→草野心平→土方定一という「又聞きの又聞き」でしたから、このくらいの間違いは起こりえるのかもしれません。

 あと一つ気になることは、『【新】校本全集』年譜篇の1926年の項には、「一二月の滞京中に本郷区駒込千駄木林町一五五番地に高村光太郎を訪問したと推定。」と記されていますが、草野心平「宮沢賢治全集由来」には、「高村さんは賢治と一回会つてはいるにしろ、それはアトリエの玄関での僅かなたち話にすぎなかった」と書かれていることです。
 「千駄木林町一五五番地」は、高村光太郎が8歳から住んでいた「実家」で、彼は30歳になる1912年に、千駄木林町二五番地に「アトリエ」を構え、1913年12月に智恵子と結婚した後、少なくとも1914年からはこのアトリエの方で智恵子と一緒に生活をしていたということです(参考:「高村光太郎略年譜」「光太郎・智恵子の略年譜」「花巻市 高村山荘・高村記念館」)。
 したがって、「アトリエの玄関」の方で賢治と会ったのならば、『【新】校本全集』に書かれている番地とは違うことになります。しかし、上記の草野心平の回想も細部まで信頼性が高いとは断定できず、『【新】校本全集』の方には、また別の根拠となる資料があるのかもしれません。

 いずれにしても、草野心平が高村光太郎から聴いたと伝えているように、賢治と光太郎の面会が「玄関での立ち話」だけだったのなら、「いっぱいやりながら鍋をつついた」ということはありえず、二人のこの素敵な情景は、幻と消えてしまうことになります。
 前回の記事で私は、手塚武が光太郎から賢治との面会の話を聴いたと推測した上で、

 これ(=いっぱいやりながら鍋)も、賢治と光太郎の二人が実際に食事に行ったエピソードととして、光太郎が手塚氏に語ったことなのでしょうか。それともこの部分は、例えば手塚氏が、光太郎ともう一人は賢治ではない誰か別の人と一緒に、「聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついた」際の記憶が、誤って紛れ込んでいるのでしょうか。

と書いていましたが、残念ながら後者の推測の方が正しかったようです。


 というわけで、「「聚楽の二階」の賢治と光太郎」という、記事タイトルどおりの情景は存在しなかったというのがとりあえずの結論なのですが、あと一つ、気になる「可能性」があります。
 手塚武の「宮澤賢治君の霊に」によれば、高村光太郎、草野心平、手塚武という3人で、賢治と光太郎の面会について語り合ったということであり、そして光太郎から賢治についての話を聴いているうちに、「光太郎の風貌と賢治の風貌が似通っているように感じた」ということですが、これらの記述から、私は一つの空想をしました。
 手塚氏が、校本全集編纂時に堀尾青史氏に対して、「光太郎と賢治と自分の3人で鍋をつついた」という、おそらく誤った記憶を語った要因として、前回私は、「手塚氏が、光太郎ともう一人は賢治ではない誰か別の人と一緒に、「聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついた」際の記憶が、誤って紛れ込んでいるのでしょうか」と書きました。このように「別の記憶が紛れ込んだ」のだとすれば、「高村光太郎、草野心平とともに賢治について語り合い、なおかつ光太郎の風貌を賢治に重ね合わせて見ていた」、この時の記憶こそが、後から手塚氏の頭の中で、錯誤を生む発端になったのではないかと、私はふと思ったのです。
 実際には、高村光太郎と宮澤賢治の風貌は、似ているとは言いがたいですが、賢治に直接会ったことのない手塚氏にとっては、後年も賢治のことを考える時には、光太郎の風貌が付きまとっていた可能性があります。もしも、光太郎と誰かと一緒に「いっぱいやりながら鍋をつつき」、さらにそこで賢治の話をしていた記憶があれば、それが何十年も経つうちに、(光太郎の顔をした)賢治その人と一緒に鍋をつついたという記憶に変容してしまうということも、ありえなくはないと思うのです。

 すなわち、私の仮説は、1926年12月の光太郎と賢治の「立ち話」程度の面会からしばらくして、手塚武と草野心平が高村光太郎宅を訪ね、そこで面会時の賢治に関する話を聴き、そして、「夕方になり、一緒にめしを喰おうと高村光太郎がさそいだし、三人は林町の家を出て坂を下り、池の端から上野駅近くまで歩き、当時まだ小さかった聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついた。一時間半くらい話しあった」のではないか、というものです。

 そこであらためて、「聚楽」という店について検討する必要が出てきます。前回も述べましたが、2月16日付の「緑いろの通信」において加倉井さんが指摘しておられるように、「須田町食堂」の経営者が「株式会社聚楽」を設立するのは1934年のことで、1926年12月やその少し後には、まだ「聚楽」という店は存在していなかった可能性があるのです。
 現在の聚楽グループは、「レストランじゅらく」や「酒亭じゅらく」というような形式の店も展開していますが、いちおう確かめておかなければならないのは、「株式会社聚楽」設立前にも、「須田町食堂」とは別に、このような名前で店を出してはいなかったかということです。これについて、現在の「株式会社聚楽」の「レストラン事業部」というところへ電話をかけてお訊きしてみましたが、「わかりません」とのお返事でした。
 そこで、「聚楽」の社史をまとめた『聚楽50年のあゆみ』(1974)という本を、図書館で閲覧してみました。年表の最初の部分を引用すると、下記のようになっています。

<じゅらく>のおい立ち

 ここには、昭和9年(1934年)10月16日に、「食堂デパート新宿聚楽開店」との記載がありますが、それまでに店舗の名前として「聚楽」は登場しません。
 さらに、下記のように本文の中でも、「聚楽」という名称が初めて使われたのが、「新宿聚楽」であったことが確認できます。

大衆味覚の殿堂

 さらに、手塚武や高村光太郎が訪ねたはずの上野の地に「京成聚楽」が開店したのは、それより2年後の、1936年(昭和11年)のことです。
 すなわち、1926年12月やその少し後には、やはり「聚楽」という食事店は存在していなかったのです。

 ということで、この話は終わりになるかと思ったのですが、最後にちょっと下の写真をご覧下さい。

各地の須田町食堂

 これは、大正末期から昭和初期に東京の各所に開店した「須田町食堂」の支店で、上段左が京橋営業所、右が銀座営業所、下段左が水天宮営業所、右が小伝馬町営業所です。これらの写真を見て、何かお気づきの点はないでしょうか。
 面白いことに、どの店の前にも、「なべ料理」と書かれた看板が、立てかけられているのです。すなわち、須田町食堂は「簡易洋食」を掲げて登場したチェーン食堂ではありましたが、他方で「なべ料理」も、売り物にしていたらしいのです。

 そこで、もう一度社史の年表を参照すると、須田町食堂の「上野第一営業所」が開店したのは1925年8月10日、「上野第二営業所」が開店したのは1928年5月20日ですから、「1926年12月かその少し後に、上野に須田町食堂を訪ねた」とすれば、「上野第一営業所」だったことになるでしょう。
須田町食堂・上野第一営業所 次に、「上野第一営業所」の写真を見てみると、右のとおりです。
 建物の向かって左端で、白衣を着た3人の後ろに、かろうじて「なべ」の文字が読みとれます。すなわち、この上野第一営業所でも、鍋料理は出していたわけですね。
 建物は三階建てのようですが、二階部分にはしゃれた窓が並んでいて、客席になっていたと思われます。

 つまり、私が推測するのは、手塚武が「当時まだ小さかった聚楽の二階の一部屋でいっぱいやりながら鍋をつついた」と表現したのは、「須田町食堂」の二階で、鍋をつついたということだったのではないか、ということです。
 店の名前は「須田町食堂」であるのに、手塚氏が「聚楽」と表現したと解釈するには、若干の飛躍がありますし、この須田町食堂の上野第一営業所そのものが発展して、後の「京成聚楽」や戦後の「聚楽台」になったわけでもありませんから、「当時はまだ小さかった」という言い方も、正確ではありません。
 ただ、須田町食堂の上野第一営業所があったのは「上野公園前」であり、その後、公園内に「食堂デパート・京成聚楽」ができて、さらにそこから西郷隆盛の銅像をはさむようにして、1959年に大規模な「聚楽台」がオープンしたわけですから、一般人にとっては、同一経営者によって上野公園にどんどん大きな店舗が作られていったという印象が持たれたとしても、不思議はないでしょう。
 堀尾青史氏が話を聴いた時点でおそらく70歳前後にもなっていたと思われる手塚武氏がそのように感じていて、はるか昔の須田町食堂・上野公園前店のことを、「当時まだ小さかった聚楽」と呼んだということも、ありえるのではないかと思うのです。

 高村光太郎が友人を食事に誘うのに、駒込千駄木林町から池之端を通って上野まで、わざわざ3kmも歩いて出かけたのはなぜだったのかは、わかりません。須田町食堂の「なべ料理」には、それだけの「お値打ち感」があったのでしょうか。
 それはともかく、上野公園には、光太郎の父である高村光雲の代表作の一つ、あの有名な「西郷隆盛像」が1898年から立っているのも、何かの縁かもしれません。池之端から上野駅の方へ3人が歩いたとすれば、きっとこの像も彼らの目に入ったことでしょう。

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