2008年2月28日 「聚楽の二階」の賢治と光太郎(1)
先日来、「公衆食堂(須田町)」について記事を書いていた時期に、「賢治の事務所」の加倉井さんが、賢治と高村光太郎が生涯に一度だけ面会して、「鍋をつついた」とされる店の存在について、疑問を提起しておられました(2月16日付の「緑いろの通信」参照)。
1926年12月に、賢治と光太郎と詩人の手塚武が3人で、上野駅近くの「聚楽の二階」で食事をしたという記載が旧『校本全集』にはあったのですが、この「聚楽」というのは、実は先日から話題にしていた「須田町食堂」の、系列店にあたるのです。
まず、『【新】校本全集』の年譜篇における、この問題に関わる「注」を、下記に引用します(読みやすくするため、途中に改行を入れました)。
*71 校本全集年譜では
「一二月一八日(土)または二〇日(月) 本郷区駒込千駄木林町一五五番地に高村光太郎を訪う。先客に「銅鑼」の同人手塚武がいた。手塚は第八号に「新しい盗人」というエッセイを発表しているので、賢治も名前は知っていた。手塚の記憶によると、高村光太郎はふだんとちっとも変わらぬ態度で、賢治にいつごろ出てきたか、何を勉強しているか、岩手ではどのような生活をしているかを問い、賢治はエスペラントを習っている、音楽の勉強もしたいといったり、何か弟さんに気がねをしているような言葉の節があったという。
夕方になり、一緒にめしを喰おうと高村光太郎がさそいだし、三人は林町の家を出て坂を下り、池の端から上野駅近くまで歩き、当時はまだ小さかった聚楽の二階の一部屋でいっぱいやりながら鍋をつついた。一時間半ぐらい話しあったという、賢治はマント、高村光太郎はインバネスであったか、と手塚は言う。(後略)」
と記述していた。この記述内容は、校本全集年譜編纂時に堀尾青史のもとに手塚からもたらされたという。ただし、具体的根拠が再確認できない。
手塚自身『宮沢賢治追悼』(昭和九年一月二八日、次郎社)に収録された「宮沢賢治君の霊に」の中で、「僕の東京住まい中、たつた一度出て来た宮沢君と、余りに突然だつたので、僕はその機会を失した。今にして非常に残念に思ふ。高村さんだけは逢つた。」と記している。
つまり手塚武氏は、昭和9年には、「自分は賢治には会えなかった」という意味のことを書き、その後校本全集編纂時には、上記のようにかなり具体的な面会の記述を、堀尾青史氏に提供しているわけです。
堀尾氏にもたらされたという情報には、実際に面会したとしか思えないような具体的で臨場感あふれる描写があるのに、この矛盾は本当に不思議です。
この「謎」に関連して、上記のページで加倉井さんは、次のように指摘しておられます。
須田町食堂の創始者加藤清二郎が株式会社「聚楽」を設立したのが、1934(昭和9)年のことです。とすれば、上記の出来事があったとされる1926(昭和2)年12月には「聚楽」が存在していなかったことになります。
また、「当時はまだ小さかった」というのも少々疑問で、須田町食堂の流れにある聚楽の店舗(現ヨドバシカメラ近く)の方は小さなものでした。この店は数年前に撤退してしまい、現在はガード下に2店舗(ファミリーレストランと居酒屋)が営業されています。上野公園の下にある「聚楽台」は大型の店舗ですが1959(昭和34)年の開店です。
この面会は実際にあったのでしょうか。
歴史学などにおける「史料批判」の原則から言えば、史料Aと史料Bの間に矛盾があって、いずれかの正誤を判断するための第三の史料も存在しない場合、事件から時間的・空間的に近い史料の方が、また間接情報よりも直接情報の方が、信頼性が高いと見なすのが一般的です。その観点からは、校本全集編纂の1970年代よりも昭和9年の言説の方が、また堀尾青史氏を介した話よりも手塚氏が直接執筆した文章の方が、信頼性が高いと期待されることになります。
とりあえずこの原則に従って、手塚武氏が『宮沢賢治追悼』に執筆した内容の方を採用すれば、「手塚氏と賢治は面会しなかったが、高村光太郎と賢治は、東京において面会した」と、推測してみることができます。実際、『【新】校本全集』年譜篇も、この12月に賢治と光太郎の二人は会ったと〔推定〕しています。
ただここで、上記で信頼性が劣ると判断した「校本全集編纂時に手塚氏から堀尾氏にもたらされた情報」に関しても、その中に一片の真実も含まれていないなどと断定することはできません。長い年月がたつうちに、手塚氏の記憶に錯誤が生じたとしても、その中の一部には、事実が含まれている可能性があります。
例えば、「エスペラントを習っている、音楽の勉強もしたい」という賢治が語ったとされる言葉は、実際に他の伝記的資料と対照しても、まさに賢治の1926年の上京時の行動にぴたりと一致していますが、手塚氏は当時のこのような賢治の活動内容を、いったいどうやって知ったのでしょうか。
手塚氏が、それまでに賢治の伝記などを読んでいて、賢治の東京における行動についてある程度知識を持っていた可能性は、十分にあります。しかしそれでも、賢治の上京は全部で9回もありますから、その中で、唯一自分が面会できた可能性のあった1926年上京時の活動内容だけを、無意識のうちに伝記から適確に抽出して記憶の錯誤の中に潜り込ませていたというのは、ちょっと考えにくいことです。
そこで考えられる一つの推測として、高村光太郎が、賢治との面会時の様子や話した内容を、後から手塚氏に話していたのではないか、ということが想定されます。
高村光太郎と手塚武氏の関係は、手塚氏の創刊した詩誌に光太郎が作品を載せるほどの間柄で、同じ東京に在住していたわけですから、会う機会は十分にあったはずですし、もしも賢治と光太郎の面会後に手塚氏が光太郎に会えば、その面会時のことが話題に上るのも、自然なことです。(ちなみに、賢治は『銅鑼』に計11作品もの詩を掲載していますが、「面会」直前の1926年12月1日発行の「九号」は、編集者・草野心平、発行者・手塚武となっていて、賢治はこの号に「永訣の朝」を載せています。)
ですから、「エスペラントを習っている、音楽の勉強もしたい」という賢治の「言葉」は、賢治が実際に1926年に光太郎に語り、それを後で手塚氏が光太郎から聴いて、手塚氏の記憶の底に沈んでいた内容だったのではないかというのが、私としては最も自然な仮説に思えるのです。
そこでさらにもう一歩進めて、「上野駅近く」の「聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついた」という陳述に関しては、どうでしょうか。
これも、賢治と光太郎の二人が実際に食事に行ったエピソードととして、光太郎が手塚氏に語ったことなのでしょうか。それともこの部分は、例えば手塚氏が、光太郎ともう一人は賢治ではない誰か別の人と一緒に、「聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついた」際の記憶が、誤って紛れ込んでいるのでしょうか。
これについては、何ともわからないとしか言いようがありません。正直言うと、この部分に関しては、後者の可能性が結構あるのではないかと、私も思います。1926年の時点では、「聚楽」という店はまだ存在していなかったのではないかという、加倉井さんによる上記の指摘もあります。
ただ、私としては、宮澤賢治と高村光太郎の二人が、「いっぱいやりながら鍋をつついている」情景が、何とも理屈抜きに魅力的に思えてしまうのです。そこで、ひょっとしてこのようなことが実際にありえた可能性は本当にないのか、どうしても考えてみたくなったのです。
というわけで、私は今日、『聚楽50年のあゆみ』(1974)という本を閲覧しに、龍谷大学の図書館まで行ってきました。
すでに長くなってしまいましたので、その結果については、次回またご報告したいと思います。

『聚楽50年のあゆみ』より
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2008年2月24日 高山秀三著『宮澤賢治 童話のオイディプス』
忙しくて、なかなか記事を更新できずにいましたが、そんな中でも、サイトの外観に少し手を加えたりしていました。
宮沢賢治学会イーハトーブセンターからは、この5月17-18日に行われるセミナー「巨きなりんごのなかをかける 「青森挽歌」と「函館港春夜光景」への旅」の案内が届き、非常に魅力的な企画でぜひ行ってみたいのですが、スケジュール的に難しそうで、つらいところです。
ところで賢治関係で最近出た本として、下のような本を読んでみました。
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「オイディプス」というのは、ギリシャ悲劇「オイディプス王」のことで、それと知らずに「父を殺して母と結婚する」という行為をおこなったことから、フロイトがこれにちなんで「エディプス・コンプレックス」という概念の名前の由来としました。
すなわち、この『宮澤賢治 童話のオイディプス』という本は、エディプス・コンプレックスなどを中心とした精神分析的な視点で、賢治の童話を解釈しようとしたものと言えます。宮澤賢治の父子関係というのは、独特なところがありますから、こういう論点そのものには興味を引かれるところです。
ところが本書はその冒頭において、童話「よだかの星」を根拠としつつ、賢治自身がその執筆当時、「醜貌恐怖」という神経症(=自分の容貌が異常に醜い思いこんで、悩み苦しむ状態)に罹患していたと推定します。いったいどうしてそんなことが言えるのかと思いますが、著者の論理は、次のようなものです(本書p.21-22)。
話を容貌の美醜という点に戻そう。『よだかの星』という童話が物語る醜さへのこだわり、異形の者であるという意識は、誇張を含んではいるだろうが宮澤賢治その人のものであったと考えられる。賢治については自然に没入して行く浮世離れした詩人、あるいは世のため人のために生きることに生涯を捧げた聖人で、まるっきり容貌のことなど意に介さない偉い人であると見なす向きもあるかもしれないが、実際には人並み以上に外見にこだわっていたことをうかがわせる証言が少なくない。たしかに生涯を通じてほとんどいつも坊主頭であったことはおしゃれとまるで無縁なイメージにつながるし、四六時中鏡を見て己の容貌をためつすがめつしていたという類の逸話も存在しない。服装もたいていは古ぼけた洋服にゴム靴といった地味ないでたちだった。ところがその一見かまわない服装のなかに賢治は独自の美学を忍ばせていた。つまり、それらはよれよれであっても実は大変清潔にしてあったし、そのなかにたとえばネクタイのとびきり上等なものをつけることで、全体が引き立つように工夫していた。
賢治の服飾美学とはすなわち、「破れもなく垢もあまりつかぬもので、きちっと身につくもの」であればそれでよく、「そして何か一つ、上等なものをちょっと身につけさえすれば、それでぴしっと引き立つ」という類のものだった(佐藤隆房『新版宮沢賢治』)。つまり賢治は決して気障にならない、おしゃれの極意(?)を知る人だったのである。また、その言葉も教師をしていたころは、「礼節ある青年紳士のように、きれいで、りっぱで、田舎ナマリの少しもない、東京人のように、すっきりと、はきはきした言葉使い」(森荘已池『宮沢賢治の肖像』)だったという。『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』などにはしゃれた西洋趣味がちりばめられているが、そのダンディズムは作者の外見をもさりげなく飾っていたのである。こうした外見へのこだわりは、負の方向に反転すれば自分の表層の醜い部分への過剰なこだわりとなる。『よだかの星』が物語る、妄想レベルといってよい強度のこだわりは、賢治の容貌への固執が少なくともこの童話を書いた時期(二十代半ばと推定される)において神経症の域に達していたことを示すものといっていいだろう。
「示すものといっていいだろう」と言われても、話についていけず当惑してしまいますが、結局この箇所で著者が根拠として挙げている証言は、「賢治は、普段の服装から受ける印象よりも、意外におしゃれな側面も持っていたらしい」ということを示しているだけです。これらからは、著者が問題にするほど賢治が服装に対して「人並み以上のこだわり」を持っていたとは私には感じられないのですが、たとえかりに彼が服装に強いこだわりを持っていたとしても、それは別に、「自分の容貌が異常に醜いと思いこんで悩む病的状態」に陥っていたと推定する根拠にはなりえません。教師時代の言葉づかいが洗練されていたことも、同様です。
まともな根拠もなく、人を病気と決めつけてしまうのは、いったいどういう魂胆があってのことだろうと不思議でたまりませんが、その背景には、「病跡学」というものの影響があるのかもしれません。
「病跡学(pathography)」とは、「芸術家や著名人の言動、作品、周囲の人の証言などをもとに、その人が精神医学的に何らかの病的傾向がなかったかということを検討し、それを通じてその人に関する理解を深めようとすること」、とでも定義できるでしょうか。賢治に関してこの分野では、福島章著『宮沢賢治 芸術と病理』(1970)という著作があり、賢治が「躁うつ病」の傾向を持っていたと結論づけて、これはそれなりに説得力があり、賢治の生涯を考える上で一つの視点を提供してくれました。しかし、同じ著者の本でも、後の『不思議の国の宮沢賢治』(1996)になると、内容的にあまり面白くありませんでした。
近年、一見「病跡学」のような体裁をとりながら、論拠が薄弱な一方的な決めつけであったり中身が空疎だったりする論考を目にすることがあり、私としてはこれを「似而非病跡学」と呼びたいと思いますが、押野武志著『童貞としての宮沢賢治』(2003)も、先行的に賢治を「対人恐怖・醜形恐怖」あるいは「摂食障害」と論じて、その一翼を担うものであったと思います。
今回の『宮澤賢治 童話のオイディプス』も、まさに「似而非病跡学」的な側面を持った賢治論と言えるでしょう。
以下に、本書の典型的な表現を抜粋してみます。皆さんなら、どのようにお感じでしょうか。
まず、「どんぐりと山猫」について。
型にはまったものであるが、あえて精神分析風の解釈をすれば、とがり具合や大きさや長さを競って大騒ぎするどんぐりたちは屹立するファルスであり、陣羽織を着てしゃっちょこばった山猫はそれらを去勢しようとして容易になしえない父であるだろう。どんぐりたちの争いは一郎の権力意志がイメージされ外在化されたものとも理解できる。一郎は悟りすましたように借り物の思想を語って、実は自分の権力意志を表象化したものであるどんぐりたちの争いを他人事として裁いた。裁判好きの一郎は他人事を裁くのは大好きだが、自分のなかにある生臭い欲望には鈍感なのである。(p.80)
「虔十公園林」について。文中に出てくる「グレゴール」は、カフカ『変身』の主人公の名前ですね。
『虔十公園林』にも、オイディプス的なテーマは非常にねじれたかたちで内在している。従順きわまりない虔十は、父を殺すオイディプスとはまったく対極の存在である。母との関係にも近親姦的な癒着はなく、むしろ十分に愛されなかった印象がつよい。しかも、グレゴールやホモイの物語とは違って、虔十の物語は明らかに天に祝福された結末で終わっている。しかし、虔十は父と対立する息子の忌まわしい宿命ゆえに、あらかじめ知的障害者として、つまり絶対的弱者であるがゆえに父に逆らうことを封じられた存在として、生まれついているのだと考えることができる。グレゴールは、父権簒奪への「罰」として毒虫に変身するが、虔十は父権を脅かす息子であること自体の罪ゆえに、あらかじめ一切の牙を抜かれて誕生したのである。(p.272-273)
このように「精神分析風」に解釈することで、作品や作者に対する理解がより深まるのならば、それはそれで有意義な営みであると思うのですが、私にはあまりそうなっているとは思えません。
賢治と父親の関係というのは、奥深く興味のそそられるテーマであるだけに、こんな不自然なアプローチでなく、普通の理屈で論じていただければよかったのに、と思いました。
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2008年2月14日 「公衆食堂(須田町)」について(2)
前回の記事では、「公衆食堂」とはどういうものだったのかということについて、少し整理をしてみました。これを念頭に置きつつ、前々回の記事につづいて、「公衆食堂(須田町)」という作品の舞台について考えてみます。
公衆食堂(須田町)
あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり
わざわざ題名に(須田町)と書いてあるのですから、この食堂が、大正末期から東京各地に多数の支店を出して賑わった「須田町食堂」ではないかと推測するのも、一つの当然の考え方でしょう。
しかし、私としては、これは「須田町食堂」ではなくて、上野(下谷坂本町)に当時あった「公衆食堂」における情景なのではないかと、思うのです。そう考える理由について、以下に書きます。
1.作品の書かれた時期
この「公衆食堂(須田町)」という作品は、前回も述べたように、「「東京」ノート」の「一九二一年一月より八月に至るうち」という見出しの付いた部分に記されています。「一九二一年一月より八月」と言えば、ちょうど賢治が家出をして東京で国柱会の活動やガリ版切りの仕事をしながら、一方で初期の童話を書いていた時期にあたります。
ノート上でこの作品の前後には、「雲ひくく桜は青き夢の列/汝は酔ひしれて泥洲にをどり」という、関豊太郎博士との花見(1921年4月頃)の情景を題材としたと思われる短歌や、「われはダルゲを名乗れるものは/つめたく最后のわかれをかはし・・・」という、保阪嘉内との別れ(1921年7月頃)に関連したと思われる断章など、いずれもこの家出上京中の出来事が反映したテキストが並んでいます。したがって、これらに挟まれて存在する「公衆食堂(須田町)」も、やはりこの頃の体験に由来していると考えるのが、まずは自然だと思います。
ただ、「「東京」ノート」そのものは、1930年(昭和5年)頃に書かれたと推定されているものです(『【新】校本全集』第十三巻校異篇p.33)。それ以前の何らかの草稿をもとにして、東京における作品群をこの時期にまとめて記入したと思われますが、1921年から1930年までにかなりの時間経過はありますから、その間の上京、すなわち、1923年、1926年、1928年の賢治の東京における体験が、「「東京」ノート」のこの箇所に挿入されたという可能性も、完全には否定できません。
しかし、文語体で短い断章を連ねていく作品スタイルは、やはり1921年頃に書かれたと推定される「冬のスケッチ」にも類似しており、1923年〜1928年頃の賢治の詩作品とは、明らかに異なるものです。
すなわち、やはり「公衆食堂(須田町)」は、1921年(大正10年)の上京中の体験にもとづいているのだろうと、私としては推測します。
そこで、「須田町食堂」の方の歴史を振り返ると、実はこの大正10年には、まだ「須田町食堂」は開業していなかったのです。下の画像は、現代の「須田町食堂」のパンフレットから抜粋したものですが、ここに書いてあるように、最初にこの食堂が創業したのは、大正13年(1924年)のことでした。
したがって、もしも「公衆食堂(須田町)」という作品が、1921年(大正10年)の上京中の体験にもとづいていたとすれば、その舞台は「須田町食堂」ではありえなかったことになります。
一方、前回「大正期東京市の「公衆食堂」」という記事で見たように、1921年(大正10年)には、すでにいくつかの「公衆食堂」が東京市内に開設されて、かなり繁盛していました。まず、1920年(大正9年)4月に、公衆食堂第一号としてオープンした「神楽坂公衆食堂」と、さらに同年中にできた「上野公衆食堂」が存在し、「当時非常に好評を博し利用者は多」かったことが記録されています。これらに続いて、「大正10年度(1921年度)」の開設とされているのが、日本橋、神田橋、本所の各食堂ですが、これらのうちにも、賢治のいた8月までに営業を始めていたものがあった可能性もあります(『外食券食堂事業の調査』より)。
すなわち、「公衆食堂」であれば、十分に作品の舞台となりうるのです。
2.食堂の雰囲気・等級
さて、作品「公衆食堂(須田町)」における食事風景の描写からまず浮かび上がるのは、慌ただしく黙々と、「むさぼり」「飯を食む」ことにのみ集中している人々の姿です。そこには「都市の孤独」が感じられると前々回に述べましたが、それとともに、「われら」という一人称の視点や、「警め合」うという人間関係から、どこかにそこはかとない「仲間意識」のようなものも潜在しているように思える、とも書きました。
このような、知らない客同士の「仲間意識」、あるいは食堂の「おばちゃん」や「おっちゃん」との間に醸し出される一種の「疑似家族意識」というものは、一昔前まで、いわゆる「大衆食堂」においては体験することのできるものでした。
次の文は、遠藤哲夫ほか著『大衆食堂の研究』(三一書房)という本の中にあった、昭和30年代の「大衆食堂」に関する記述です。
食堂の家族がいて、黒い学生服を着た男、汗をたっぷりかいた印半纏の男、油のにおいがする作業服の男、白い開襟シャツの会社員、東京育ちのやつも上京したてのやつも、いろいろな欲望をかかえて、みーんな一緒にめしをくった。
この描写は、まさに賢治の「公衆食堂(須田町)」において、「飯を食むわれら」の面々と想定しても、ぴったりくるものです。「上京したてのやつ=賢治」の姿まで、入っているではありませんか。私が、「仲間意識」と呼んだものを、遠藤氏はもっと端的に、「食堂の家族」と名づけたわけです。
そして、ここが大事なところなのですが、このような「連帯感」は、上品にとりすましたレストランなんかには決して生まれるものではなくて、貧しい中で必死に飯を食う「仲間」だからこそ、共有されるものだと思うのです。
つまり、「公衆食堂(須田町)」の舞台となった食堂は、そのような「大衆食堂」的な場所だったはずです。
さて一方、「須田町食堂」の方はどうだったのでしょうか。こちらも、決して高級な店ではなく、コストパフォーマンスの良さで当時の客を引きつけたのだそうですが、上に掲載したパンフレットの一節には、「華やかな大正文化を彩る文豪や文化人、さらには政治家、芸人、力士など各界の著名人にも愛され親しまれたと云います」と書かれています。もしもこれが事実なら、「大衆食堂」とは少しランクが違ってきてしまいます。
ただ、上のパンフレットは店側が宣伝のために作ったものなので、多少は華やかな面を誇張して表現している可能性もないとは言えません。
そこで、より同時代に近い客観的な資料として、昭和8年に刊行された、白木正光編『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社)という本を見てみます。現代のグルメ本のはしりのようなものですが、これは、当時かなり評判を呼んでベストセラーになったものだそうです。
この本の中に、「須田町食堂」の上野駅地下支店の説明と、レポート記事が掲載されている箇所があるのです。当時、すでに「須田町食堂」は東京市内に何軒もの支店をチェーン展開して急成長していましたが、この上野駅地下支店は、その中でも大規模な店舗だったようです。店の雰囲気も、支店の中ではかなり上等な方なのでしょう。
◇須田町食堂 ― 驛の地下室に明治製菓喫茶部と並んでありますが、場内も廣く、大衆向と云ひ條、装飾設備も立派なもので、驛食堂として実に模範的食堂です。
―― ◇ ――
S 「これはまつたく立派だ、例の須田町食堂の先入観で尻込む人があるかも知れんが、こゝなら誰が來ても恥かしくないね」
N 「同感、この天井のあかり取りなど、まがひものだが、全部ステインド硝子ですよ、それに女給さんが松坂屋の食堂に輪をかけた丁寧さも特筆に値ひします」
H 「早速お茶の熱いのと取替へて呉れるなど訓練も満点」
こゝの朝定食(二十銭)を試食すべく早朝に動員されて些か不機嫌だつた食べ歩き同人達も、第一印象の好感にすつかり氣をよくする。やがて誂えた定食が運ばれる。献立、揚げと葱の味噌汁。焼海苔。白菜。大根、馬鈴薯に小間切肉のごつた煮。それに香の物。御飯も一人一人櫃に這入つて茶碗が添へてある。
N 「註文してから恰度十一分かゝりましたが、定食としては少し時間を食ひ過ぎますね、氣ぜはしい驛食堂であり、それにお定まりの定食で見たところ特別時間のかゝる献立でもないのに、これはもつと短縮の工夫がほしい」
S 「献立は二十銭にしてはよいな、焼海苔にわさびを添えたのもなんでもないやうで氣がきいて居る、味噌汁も普通の甘辛味噌を使ってゐるが味は悪くない、但しごつた煮はから過ぎて一寸いたゞきかねる」
H 「牛鍋、よせ鍋共に(卅銭)ホウその上に湯豆腐(十銭)がありますよ、すべての卓に電熱装置があるし、全く豪勢なものですね」
上の状況が、すべての「須田町食堂」に共通というわけではないのかもしれません。しかし、総体として私が感じるのは、これは現代に移し変えてみると、「大衆食堂」というよりも「ファミリーレストラン」に近い存在だったのではないか、ということです。上に紹介されている須田町食堂においては、価格が安いこともセールスポイントの一つではありますが、それに加えて、「小綺麗さ」や「サービスの良さ」なども大きな売りにしているところが、まさに「ファミレス的」です。チェーン展開していたところも、また似ています。
で、「公衆食堂(須田町)」という作品に戻ると、この作品に見られるような「大衆食堂的猥雑さ」や「仲間意識」は、現代のファミリーレストランに行っても感じられないのと同様に、当時の「須田町食堂」にも、なかったのではないかと思うのです。
3.題名についてどう考えるか
というわけで、「須田町食堂説」に否定的な見解を述べてきましたが、それでは、「公衆食堂(須田町)」という題名については、どう考えたらよいのでしょう。
ここでまず確認しなければならないのは、当時、須田町に「公衆食堂」は存在しませんでしたから、題名における「公衆食堂」という部分と「須田町」という部分は、どうしても両立しないということです。論理的に考えると、(1)「公衆食堂」が正しくて「須田町」が誤りか、(2)「公衆食堂」が誤りで「須田町」が正しいか、(3)両方とも誤りであるか、3つのうちのいずれかであるということになります。
最初の(1)が、私の考えに相当しますす。
(2)については、その中の有力な可能性が「須田町食堂説」でしたが、それが考えにくいことは上に述べました。「須田町食堂以外の、須田町内の別の食堂」という可能性もありますが、これについては資料がありません。少なくとも、当時の須田町内に、ある程度有名な「大衆食堂的」な店があったという証拠は見つけられませんでした。
(3)に至っては、ほとんど題名としては無意味だったということになってしまいますが、強いてこの線で「公衆食堂」ではない「大衆食堂的」店舗を挙げれば、大正6年に芝区新幸町に開業した「平民食堂」と、大正9年に神田にできた「昌平橋簡易食堂」があります(『大東京綜覧』、『外食券食堂事業の調査』)。後者は、須田町からも近いということで多少の関心は引かれるところです。また、賢治の下宿や勤め先の文信社から近いところとしては、当時やはり安い洋食屋として人気を博していた、「本郷バー」という店があります。大正5〜6年頃に創業して、ライスカレーが5銭、カツが7〜8銭という安値が評判を呼んで、勤人、学生、車夫、小僧さんなども多く利用していたということですから、賢治も東京滞在中に訪れた可能性は考えられます。しかしいずれにしても、「公衆食堂(須田町)」が、実は「昌平橋簡易食堂」あるいは「本郷バー」のことだったというのでは、あまりにも名前に関連がなさすぎます。
結局、私としては(1)を採用して、賢治がある夕方に食事をしてこの作品の舞台となったのは、「須田町」ではないけれども、どこかの「公衆食堂」だったのではないかと考えます。
「公衆食堂」という言葉の方を重視するのは、大正10年にはまだ各地の開設が始まって間もなかったものの、「当時非常に好評を博し利用者は多」かったという話題性、「公衆食堂」という新たなネーミングが与えたであろう印象などを考えると、実際に賢治が「公衆食堂」で食事をして、それを正しく題名に記録した可能性が高いと考えるからです。
この場合、残念ながら(須田町)の方は誤りと考えざるをえません。なぜ(須田町)という言葉が書かれたのかはわかりませんが、たとえば、その後の賢治の上京(1926年、1928年)において、今度は賢治は「須田町食堂」の新たな繁盛ぶりについて耳にしていて、その記憶が、1930年(昭和5年)頃に「「東京」ノート」に作品を記入する際に、混入してしまったのかとも思ったりします。ことに、1926年12月の上京時には、須田町からも遠くない神田錦町の上州屋に1ヵ月近く滞在して、いろいろと活動を行っていますから、この間に実際に「須田町食堂」を訪れた可能性もないとは言えません。
4.では、どこの公衆食堂か
最後に、賢治がこの作品の舞台としたのが、1921年(大正10年)当時あった「公衆食堂」のいずれかだったとすると、その中のどこだったのか、ということが残された問題です。
時はまだ関東大震災前で、上にも述べたように、すでに「神楽坂」と「上野」には、前年から開業している公衆食堂があり、また大正10年度(1921年度)のうちには、「日本橋」、「神田橋」、「本所」の3ヵ所も営業を始めます。
A: 賢治の下宿; B: 文信社; C: 国柱会本部; D: 帝国図書館
1: 神楽坂公衆食堂; 2: 上野公衆食堂; 3: 日本橋公衆食堂; 4: 神田橋公衆食堂; 5: 本所公衆食堂
上の地図で、緑色の(A)、(B)、(C)、(D)が、賢治が1921年の上京中に、最も足繁く動いたであろう活動拠点です。
赤い(1)、(2)、(3)、(4)、(5)が公衆食堂の位置ですが、(1)の神楽坂と(2)の上野は、1920年のうちに開業していたのがわかっている店舗です。(3)、(4)、(5)は、1921年度中には開業しましたが、賢治が東京にいた8月までに、どれが確実に営業開始していたかということはわかりません。
さて、この地図で見ると、公衆食堂のうちでは、(2)の「上野公衆食堂」が、何と言っても賢治の生活圏に最も近接して存在していたことがわかります。おそらく賢治の典型的生活としては、朝に下宿(A)を出て、午前中(4時間?)文信社(B)においてガリ版切りの仕事をし、そして昼から国柱会本部(C)へ行って、種々の奉仕活動をしていたと思われます。上野公衆食堂(2)があった下谷坂本町は、上野鶯谷にある国柱会で午後の活動を終えて、下宿へ帰る前に夕食をとるとすれば、格好の位置になります。
(1)の「神楽坂公衆食堂」も、下宿から3km余りで、時々食事に行くのは十分可能です。また(4)の「神田橋公衆食堂」はやや遠くなりますが、問題の「須田町」には最も近い場所にあります。(3)の日本橋公衆食堂や(5)の本所公衆食堂は、平素の生活圏の中とは言えないでしょうが、日本橋には、東京滞在中なにかと世話になった、小林六太郎氏の家がありました。
結局、賢治の日常の動線に最も沿っていて、作品のように夕方に訪れる可能性が高かったのは、(2)上野公衆食堂ということになり、この店舗が、「公衆食堂(須田町)」の作品舞台として、まず候補に挙げられるのではないかというのが、現時点での私の考えです。
長々と書いてきた割には、もう一つぱっとしない結論ですが、作品が1921年の体験であること、場所が「公衆食堂」であること、という2つの仮定から出発すると、こういうことになりました。
written by hamagaki
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2008年2月10日 大正期東京市の「公衆食堂」
作品「公衆食堂(須田町)」の題名になっている「公衆食堂」という言葉は、現在は使われていません。よく似た言葉で、今も使われる「大衆食堂」という呼称があって、これらはだいたい同じような意味なのかと当初私は思っていたのですが、調べてみると、これが実は違っているようなのです。
遠藤哲夫ほか著『大衆食堂の研究』(三一書房)という本によれば、「大衆食堂」という言葉が一般に使われるようになったのは、昭和初期以降と推定されています。当時からこの「大衆食堂」という言葉が意味していたのは、民間の経営で比較的低廉な食事を供する食堂のことで、現在使われているのと同義です。
これに対して「公衆食堂」とは、1918年(大正7年)に全国的に発生した「米騒動」を受け、東京市が1919年(大正9年)に神楽坂に開設した市営の食堂を第一号として、その後東京の各地に設置された、庶民のための公営の食堂のことなのです。最盛期には16ヵ所ほどになったそうですが、あくまでこれは「官」が実施する救貧的な公益事業であり、民間の食堂のように営利を目的とするものではありませんでした。(そう言えば「公衆便所」とか「公衆電話」も、「官」が「民」のために設置したものだったことを、思い出します。)
東京都民生局が1949年(昭和24年)にまとめた「外食券食堂事業の調査」というガリ版刷りの報告書があって、その中の「公益食堂の意義および歴史的役割」という項に、下のような記述があります。なお、ここでは民間設立のものを含めて、「公益食堂」という呼称が用いられていますが、大正時代から昭和初期における一般的呼称は、前述のように「公衆食堂」でした。
公益食堂は庶民の食生活難を排除し、社会不安を緩和するところにその意義を見出す事が出来るのであつて、即ち本都に於ける公益食堂設立の嚆矢は、大正六年一月に社会政策事業団によつて芝区新幸町に設立された平民食堂であるが、当時既に物価は暴騰の一途をたどり、殊に著しい米価の騰貴(註、大正六年一月の16円37銭が年末には23円86銭、七年末には40円59銭)のため庶民生活は極度に困窮し、その設立は誠に時宜を得たものであつたが、遂に大正七年八月富山県滑川町の漁夫の主婦50人による米価廉売懇願運動を契機として、全国的に米騒動が惹起して、政府は急遽その対策として米廉売所、公益市場、公益食堂等の施設の設置に努力し、かくて公益食堂は米騒動を直接の動機として国家的背景のもとに全国都市に続々発生した。
しかし東京府、東京市直接の設立はこれに遅れ、大正九年四月に牛込区神楽坂に市の施設として、この種の食堂を開始したのが最初であり、引続き同年中に上野食堂が開設され、この設立目的として一般公衆に対し低廉にして栄養に富む食事を供給することを表示したので、当時非常に好評を博し利用者は多く、その成績は極めて良好であつた。次いで大正十年度に入ると三菱合資会社より25万円の寄附があつたので市内五ヶ所に食堂増設の計画を樹て、日本橋、神田橋、本所の各食堂は次々と事業を開始し、三味線堀食堂も又建築落成し事業開始準備中のところ偶々大正十二年九月の大震火災に遭遇して、神楽坂食堂を除いて全部消失したのであるが、この災害によつて市民生活は徹底的な被害を被り、ここに益々食堂の必要が叫ばれるに至り、取敢えず府は東京府社会事業協会に委託して、日暮里、寺島、大島の臨時宿泊所に簡易食堂を併設せしめ、市も又震災善後会の寄附金15万円で市内に10ヶ所の仮設食堂を設けた。しかしその後震災地の復興と共に区劃整理その他の関係から仮設食堂は漸次閉鎖され、大正十五年末には九段、両国、上野、神楽坂の4ヶ所のみが残されたのであるが一方では内務省交附金25万円を得て5ヶ所の増設計画が持たれ、この結果として眞砂町、猿江、大塚、丸の内が事業を開始した。又これとは別に、首都復興事業として50万円の予算で大正十三年度より五ヶ年計画により、三味線堀、神田、柳島、九段、相生町(緑町)、上野、新宿茅場町、田町、深川、の計10ヶ所が開設された。これら食堂を設立順に示すと第1表の通りである。
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これは、第二次大戦後になってからの歴史的な回顧ではありますが、米騒動や関東大震災に影響されながら、東京の「公衆食堂」ができていく過程が整理して記述されているので、あえて長文を引用しました。
次に、同時代における記録として、東京市社会局が1925年(大正14年)に刊行した、「東京市設社会事業一覧」という文書を見てみます。
右が、その「事業要覧」という項目の中の「公衆食堂」の部分で、大正14年4月1日現在の状況ということです。先に引用した「外食券食堂事業の調査」で述べられた歴史的流れに位置づけると、これは関東大震災後に10ヶ所の「仮設公衆食堂」が設けられた後、徐々にその整理が進んでいた時期に当たりますね。
この時点で、正式の「公衆食堂」としては、震災を生き延びた「神楽坂公衆食堂」があり、あとは、神田、日本橋、両国、本所、三味線堀、深川、丸ノ内、九段、上野の9ヵ所に、「假設公衆食堂」があります。
最下段に、各店共通の至ってシンプルなメニューとその値段が示されていて興味深いですが、「定食」が朝は10銭、昼と夜は15銭、「うどん」が種物は15銭、普通が10銭、「牛乳1合」が7銭、「パン(ジャムバタ付半斤)」が8銭、コーヒーが5銭、となっています。
1921年(大正10年)、賢治が家出上京中に母イチあてに出した手紙(書簡193)に、「食事も十二三銭出せば、実に立派なものです」との記述がありますが、だいたいそのレベルに相当する価格です。
別のページに掲載されているこれらの食堂の利用者数を見ると、最も繁盛していたのは「丸ノ内假設公衆食堂」で、大正13年4月から大正14年3月における一日平均の朝定食の販売数が1048食、昼定食は1442食、夜定食が1146食で、これはまさに驚くべき数字です。いったいどれほど大規模な食堂だったのだろうと思いますが、上に掲げた「外食券食堂事業の調査」の「第1表」を見ると、丸ノ内食堂の座席数は202で、お昼には7回転以上していたことになります。これが「平均」の数値というのがすごいですね。
公衆食堂の利用者数ランキングは、これに次いで、「神楽坂公衆食堂」、「上野假設公衆食堂」という順になっていますが、これらの店でも、やはり一日平均一食あたり数百食から千食以上が出ています。
あともう一つ同時代的な記録として、東京市会議員の中村舜二という人が1925年(大正14年)に刊行した、『大東京綜覧』という本の、「公衆食堂と其利用者」という項の一部を引用しておきます。
學生勞働者は云ふに及ばず、所謂洋服細民や獨身生活者、その他一般庶民階級に非常に歓迎せられて居るのが、近時の所謂公衆食堂である。
歐米諸國では、簡易軽便本位の公衆的食堂は、公共的にも營利的にも夙に發達して居るが、日本では未だ創設時代とも云ふべき新しき試みの一つである。大正六七年の交と記憶するが、彼の社會事業家の加治時次郎氏が、一食拾銭の平民食堂を新橋に開設したのが、聊もこの事業の皮切りである。その後神田慈善協會の経營に係る昌平橋簡易食堂が同じく一食拾銭を標榜し、純乎たる非營利の社会事業として、大正九年十一月から開業し、大に人氣を集めたのに刺激され、東京市の社會局が大正十年五月に、先づ下谷區坂本町に開設したのを手始めに、段々と數を増して最近に至つて居る。
この文章に続いて、「東京市設公衆食堂入場者数並發賣金額表」というものも掲載されていて、それによれば「大正13年中」の11ヵ所の公衆食堂の延べ入場者の合計は、何と1186万0774人となっています。当時の東京市の人口は約220万人でしたから、この数字の大きさがおわかりいただけるでしょう。また、一人一食平均の単価は、12銭ということでした。
なお、上の文章では、市営の公衆食堂としては、「東京市の社會局が大正十年五月に、先づ下谷區坂本町に開設したのを手始めに」と書かれていますが、これは最初に掲げた「外食券食堂事業の調査」によれば二番目に開設された、「上野食堂」のことではないかと思われます。
いずれにしても、これらの資料からわかるのは、市営の「公衆食堂」という存在が、いかに大正時代後半の東京市民、とりわけ「一般庶民階級」に、爆発的に浸透したかということです。
大正10年、12年、15年、昭和3年に上京している賢治のことですから、そのような東京の状況は当然よく知っていたはずで、作品題名に「公衆食堂」とあれば、この東京市営食堂のことを指していたと考えるのが、最も自然です。
しかしここで、その題名には、「公衆食堂(須田町)」とあるのが問題です。今回挙げたどの文書を見ても、「公衆食堂」が須田町に存在した、という記録はないのです・・・。
[ つづく ]
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2008年2月 8日 「公衆食堂(須田町)」について(1)
「「東京」ノート」に記されていた、「公衆食堂(須田町)」と題された作品があります。「一九二一年一月より八月に至るうち」という見出し(?)のもとに、◎印で区切られた断章のようなものが多数並んで記されている中の一つですが、これには題名が付けられているので、いちおう独立した一つの詩作品と見なしてよいものでしょう。
下記が、その全文です。
公衆食堂(須田町)
あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり
人生には、いろいろな「食事の風景」というものがありえます。よく、「食事は人とのコミュニケーションの象徴である」と言われ、ホームドラマで食事場面がしばしば登場するのも、それが人間関係における何かを表現する、格好の舞台設定となるからでしょう。
で、賢治を含むこの「公衆食堂」での食事風景から感じられるのは、まず何より「都会の孤独」です。時刻は日も暮れてきた夕刻、客は仕事や学校を終えた労働者や学生なのでしょう。みんな慌ただしく黙々と飯を食っている様子を、賢治は「いともかなしく」と描写します。
しかしその孤独の一方で、2行目に「われら」という一人称複数の視点が出てきます。おそらく賢治は知人と一緒に食事に来たわけではなく一人なのだと思いますが、この「われら」とは、偶々この朝に、食堂で一緒に「飯を食む」ことになった者全体を指すのでしょう。また最後の行で、周囲から飛んだ「警しめ」の言葉とは、「気をつけろ!」とか「もっと落ち着いて食え!」などだったのかもしれませんが、一見すると殺伐とした食事風景ながら、ドジを踏んだ者を「罵る」のではなく「警しめ合」うというところにも、この食堂に会した他人同士の間に通じている、何かの「仲間意識」のようなものを私は感じるのです。
つまり、この場末の食堂にあるのは、群衆の中の孤独であるとともに、その都会で懸命に日々を生きつつ今夕たまたま一緒に飯を食っている者同士の、そこはかとない「連帯感」でもあるのです。
「「東京」ノート」に記されている見出しの日付(「一九二一年一月より八月」)からすると、これは賢治が家出上京していた頃の情景かと思われます。田舎から独り東京へ出て来た賢治は、このように急ぎ食事をとっては家に帰る日常において、「本当に都会で一人暮らしをしている」ということを、心から実感したのではないかと思います。
ところで、この作品の舞台となった「食堂」がいったいどこだったのかということが、どうしても気になるところです。作品の題名には、賢治がわざわざ(須田町)と記入していることから、これは大正末期から東京でチェーン展開を行っていた、「須田町食堂」ではないかという説があります。
当時、「須田町食堂」を経営していた「聚楽」という会社は、実は現在もホテルやレストランを多数経営している大会社ですが、ちょうど最近になって、懐古的にまた「須田町食堂」という名前をリバイバルさせて、秋葉原に店舗を出しているところです。
上の写真は、私が以前ちょっとしたついでに、その新版「須田町食堂」に行ってみた時のものです。入口に出てきておられるウェイトレスさんがメイドの格好をしているのは、「ここが秋葉原だから」ではなくて(笑)、単にレトロ調の雰囲気を出すためでしょう。
この時に私が食べたのは、右の「須田町プレート」というメニューでした。チキンライスに、ポークソテー、小さいグラタン、ズッキーニや茄子の南欧風の炒め物、サラダ、カップスープが付いたものです。
これは「大人のお子様ランチ」というコンセプトのようで、味はまずまずでしたが、1800円という値段は、立地条件にもよるのでしょうか。お店は、「秋葉原UDX」という、駅からすぐ近くの近未来的な雰囲気のビルに入っていたのです。
ただ、いろいろ考えてみると、賢治の「公衆食堂(須田町)」の舞台となったのは、この食堂の前身の「旧・須田町食堂」ではなかっただろうと、私は思うのです。
そのあたりについて、また次回に書いてみたいと思います。
鍵になるのは、「公衆食堂」とはいったい何なのか、ということです。
[ つづく ]
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2008年2月 5日 来年9月の連休
来年の「秋分の日」が正式に発表されて、来年9月には「4連休」が出現することになりましたね。
これは賢治ファンにとっては、たとえば20日のうちに花巻入りをしておいて、21日の午前には花巻農業高校の「賢治先生を偲ぶ会」、夕方には「賢治祭」、22日には「宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式」や賢治学会総会、懇親会に出てさらに花巻の夜を謳歌し、23日には研究発表会も参観するなど、賢治忌関連行事をフルコースで楽しむことができてしまいます。
ということで、間違ってもこの頃に風邪など引いてしまわないように、そろそろ体調を整えておかなければ。
ところで、Googleマップの衛星写真が先月のうちに更新されて、花巻のあたりもけっこう高精細度でみることができるようになっています。賢治祭の舞台も、空からかなりはっきり見えるようになりました。
この図をマウスでドラッグして、まず東の方の北上川に出て、それからずっと北の方へ行くと、「イギリス海岸」も見られます。さらに北に行って、空港の隣の花巻農業高校がわかったら、元「羅須地人協会」の建物の屋根まで見えますよ。
written by hamagaki
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2008年2月 3日 西崎専一著『ジョバンニの耳』
西崎専一著『ジョバンニの耳 宮沢賢治の音楽世界』という本を読みました。
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著者は、音楽美学やサウンドスケープ論を専門とする大学の先生で、その学問的立場から、宮澤賢治その人や作品について、考察したものです。
内容は、次のような章立てになっています。
プロローグ
かっこう鳥と「星めぐりの歌」
ジョバンニの耳
ゴーシュの音楽美学
賢治の蓄音機への旅
エピローグ
それぞれの章は、独立した論考になっていますが、著者みずから「あとがき」において、「本書は序奏とコーダ(終結部)が四つのパート(楽章)をはさむ、さらに序奏と最初の楽章に全体を導くモチーフが仕込まれているという、まるでロマン派の交響曲のような構成となりました」と述べているように、一冊の本全体としての構造にも工夫がこらされています。
著者の言うところの本書の「全体を導くモチーフ」とは、「プロローグ」から引用すれば、
賢治にとって音楽はまさに、「灰色の労働を燃やす」芸術的エネルギーの源だったのです。
という認識です。
この基本的なモチーフが、「ジョバンニの耳」の章においては、「銀河鉄道の夜」の分析を通して、「銀河鉄道」という賢治独特の仕掛けが、いかに音楽的な装置であるのかということを明らかにすることによって、また「ゴーシュの音楽美学」の章においては、一人の下手な「職業音楽家」が、ほんとうに「音楽する」ということに目覚めていく過程をたどることによって、浮き彫りにされていくのです。
まず最初の「かっこう鳥と「星めぐりの歌」」の章では、「「文語詩篇」ノート」の、「岩手山ニ独リ登山ス 夕暮、かくこう鳥、空線、風、すゞらん、柏林、」というメモや、「かくこうのまねしてひとり行きたれば、人は恐れて道を避けたり。」という短歌(312)や、文語詩「丘」の「かくこうはめぐりてどよみ」を引用しつつ、若き日の賢治にとって、かっこうの鳴き声は、特別な感傷を誘うものだったらしいと推測します。このあたりには、「サウンドスケープ論」の考え方も取り入れられているのでしょう。
また、生涯の最初期と最晩期の作品である「双子の星」と「銀河鉄道の夜」に、「星めぐりの歌」が登場することを紹介し、この歌の特徴であるような「はっきりとしたリズム」が、賢治の音楽的な好みを表しているのだろうと推測します。
後の「ゴーシュの音楽美学」の章においては、ゴーシュがかっこうと出会う第二夜が、ゴーシュの音楽的成長において最も重要であったと著者は考え、また「ジョバンニの耳」の章においては、「星めぐりの歌」がジョバンニにとって幻想世界と現実世界を結ぶ役割を果たしていると著者は考えておられますので、この第一章は、それらの章への伏線の役目を担っています。
先に紹介した著者の比喩によれば、「交響曲」の第一楽章に相当するはずのこの章ですが、実体としてはごく短く、古典的なソナタ形式ならば、ちょうど2つの主題が示される「呈示部」のような感じです。しかし「ロマン派の交響曲」であれば、こういう第一楽章もありえるのでしょう。
次章「ジョバンニの耳」は、本全体の題名にもされています。その結論をひとことで言えば、「銀河鉄道そのものが、音楽である。」ということになるでしょうか。
この一文だけを見ても何のことかわかりにくいでしょうが、実際に本書を読んでみると、わかったような気持ちになるから不思議です。ここでは、「そしてそのころなら汽車は新世界交響楽のやうに鳴りました。」という作品中の記述と、そもそも銀河鉄道とは死者の乗り物であり、いかなる文化においても死者の葬送には音楽が付随している、という著者の指摘のみ引用しておきます。
この章の考察でユニークなのは、あの悪名高い(?)岩波文庫版の「銀河鉄道の夜」の最後の部分を、作品分析の出発点にしているところです。私も、久しぶりにこの部分を読みましたが、やっぱりこれはいいものですね。この部分の草稿は紛失したと考えられており、現在は他の版で読むことはできないので、ちょっと長いですが、ここに引用しておきます(表記は文圃堂版全集による)。
けれどもまたその中にジョバンニの目には涙が一杯になって来ました。
街燈や飾り窓や色々のあかりがぼんやりと夢のやうに見えるだけになって、いったいじぶんがどこを走ってゐるのか、どこへ行くのかすらわからなくなって走り続けました。
そしていつかひとりでにさっきの牧場のうしろを通って、また丘の頂に来て天気輪の柱や天の川をうるんだ目でぼんやり見つめながら座ってしまひました。
汽車の音が遠くからきこえて来て、だんだん高くなりまた低くなって行きました。
その音をきいてゐるうちに、汽車と同じ調子のセロのやうな声でだれかゞ歌ってゐるやうな気持ちがしてきました。
それはなつかしい星めぐりの歌を、くりかへしくりかへし歌ってゐるにちがひありませんでした。
ジョバンニはそれにうっとりきゝ入ってをりました。
入沢康夫監修・解説による『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のすべて』では、この箇所について、次のように説明されています。
筑摩書房昭和四十二年版全集では、第79葉〜第83葉の内容を作品末尾に移すにあたって、右の「けれども」〜「きゝ入ってをりました。」の文を本文から削除し、その代わりに「後記」の中で、「なお、昭和三十一年版では、この部分の後に、さらに次の文章がつづいているが、これは作者によって抹消されている個所なので、本巻では削除した。」と述べて、掲出している。この内容を持つ草稿は現存していないが、宮沢清六氏の記憶によれば、全体が削除の大きな×印を付されたものであった由。用紙や使用インクについては、いっさい不明であり、どういう種類の草稿なのかも判定できない。
本書の著者の西崎専一氏は、「その草稿の紛失は結果として、「銀河鉄道」の車内やそれが走行する銀河空間に響いていた、豊かな音響的、音楽的イメージを読み解く鍵を奪い、また「星めぐりの歌」によって処女作「双子の星」と晩年の「銀河鉄道の夜」を結んでいるもの、いわば賢治の物語創作を支えた音楽的音響的イメージのひとつが「銀河鉄道」の世界から奪われることにもなってしまうという結果を招きます。」と残念がっておられます。そして、「その(=宮沢清六氏の)記憶がほぼ絶対視され、賢治自身が削除を意図したものであったという推測がまるで確かなものであるかのような扱いを受けて「銀河鉄道の夜」の世界から完全に排除されてしまった」ことに不満を表明しておられます。
しかしいずれにせよ、今回の西崎氏の論考によって、「銀河鉄道の夜」の音響的・音楽的(あるいはサウンドスケープ的)側面について、新たに鮮やかな光が照射されたことは、確かだと思います。
次の章「ゴーシュの音楽美学」は、「セロ弾きのゴーシュ」という作品について、音楽美学的に、考察したものです。「音楽美学」というと、哲学的な難しい議論を連想してしまいますが、要はこれは、「音楽は、なぜ・どのように、人間を感動させうるのか」ということを考える学問なのですから、音楽することが苦しみにさえなっていたゴーシュが、動物たちとの出会いを通じて、いかにして人を感動させるような音楽を奏でられるようになったのか、という問題にアプローチする上で、格好の足場を提供してくれるということなのでしょう。そして著者は最後に、「「セロ弾きのゴーシュ」は、音楽美学のためのかけがえのないテキストであり続ける」とまで述べます。
賢治は、「農民芸術概論綱要」の中で、「職業芸術家は一度亡びねばならぬ」と述べましたが、著者は、「セロ弾きのゴーシュ」とは、ゴーシュという「職業音楽家」が「一度亡び」、また再生する物語であると指摘します。
この章が本全体の中で最も長く、文章の読みごたえもありました。
「第四楽章」に相当する「賢治の蓄音機への旅」は、理論的な前二章とは雰囲気が変わって、賢治が愛用した(?)蓄音機を訪ね、さまざまな関係者からの聴き取りを行うフィールドワークの報告です。ただここでも、関係者の「証言」に依拠することの多い「賢治研究」のあり方について、著者としての考え方が詳しく述べられているのが特徴です。
農学校時代の賢治の教え子で羅須地人協会創立当時からのメンバーだった故・伊藤清氏は、昭和2年に結婚した際、お祝いとして賢治から蓄音機を贈られことを生前語っておられたとのことです。その蓄音機が、現在も伊藤家にあるということで、著者が訪ねて、対面を果たしてきます。
伊藤清氏の子息の孝氏の認識では、その贈られた蓄音機は賢治が使用していたものではなくて、お祝いのための新品だったということでしたが、著者の考察の結論は、これは羅須地人協会時代に、二階に置かれていた(小型の方の)蓄音機で、さらにその前は、賢治が農学校にしばしば持っ
て行き、宿直室や職員室で生徒やその他の人々にレコードを聴かせた蓄音機だったであろうということです。
右の写真が、その伊藤家の蓄音機です(本書より引用)。卓上型のもので、いわゆる「ラッパ」はありません。木製のキャビネット部分には、「IWATEPHON」および「盛岡村定販売」と書かれたプレートが付いていて、「盛岡村定」とは、現在も盛岡市材木町で営業している「村定楽器店」です。
ところでちょっと本書からは離れますが、斎藤宗次郎著『二荊自叙伝』の大正13年8月24日の項には、「郊外なる農学校に立ち寄り宮沢賢治先生の篤き好意により職員室に於て蓄音機によれる大家の傑作を聴いた」との記述があり、下のような挿絵が添えられています。机の上にあるのが「蓄音機」のようで、この絵からは詳しいことはわかりませんが、卓上型で「ラッパ」は付いておらず、やはり伊藤家に保存されていたものと形は似ていますね。
それから最後に、著者は本書の「あとがき」において、『【新】校本宮澤賢治全集』における賢治の歌曲の扱いについて、次のように書いておられます。
個々の研究者個人の解釈や見解表明はともかく、賢治に由来する原資料の提示が目標とされたはずの『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)でも、「第六巻の歌曲の部」では、賢治自身が歌曲の楽譜を遺しているわけではないので、記憶に基づく採譜(?)といった極めて不安定な資料が「原資料」として扱われることになり、そこに編纂者による恣意的な改編やさらに後の時代のいっそう不確かな記憶に頼った変更が加えられたものが、その必然性の説明もなく資料として提示されることになり、その杜撰さのために賢治がその歌曲に託した音楽的イメージとそれに関わる活動の実態はますます捉えにくくなるといった現象を呈しています。
音楽学者としての立場からの意見なのでしょうが、かなり辛口ですね。私自身も、この問題については自分なりに思うところはあって、以前に「「【新】校本全集」における歌曲の校訂について」というエントリを書いてみたことがありますが、では実際にどうすればよいかとなると、なかなか難しい問題です・・・。
ともあれ、このような率直な表明も含めて、本書はとても魅力的な本でした。賢治とその音楽に関心のある方には、ぜひご一読をお薦めします。
ご参考までに、西崎専一氏はご自身で Webサイトを作成しておられて、それは「みみをすます」というサイトです。
written by hamagaki
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