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2007年12月 9日 五輪塔と追善供養

 北京五輪の野球日本代表チーム「星野ジャパン」の熱戦の興奮が、まだ冷めやらぬ今日この頃ですが、「オリンピック」を初めて「五輪」と訳した(?)のは、1936年のベルリン・オリンピックの際に読売新聞記者だった、川本信正氏という人だそうです。

 川本氏は1936年のベルリン・オリンピックで水泳の前畑秀子らが活躍したとき、読売新聞社の担当記者だった。整理部記者から「ベースボールを野球とした伝で、記事の見出しに使える短い訳語はないものか」と持ちかけられ、以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著「五輪書」を思い出し、とっさに「五輪」とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた。(「朝日新聞」1996.6.18)

 ですから、「北京五輪」という言葉は他の漢字文化圏では通用せず、地元中国では、「北京奥(会)」などと表記されているようですね。


 というのは、今日の本題とはまったく関係のない話でした。
 賢治の作品「五輪峠」(『春と修羅 第二集』)には、古い「五輪の塔」との感動的な出会いが描かれています。

がらんと暗いみぞれのそらの右側に
松が幾本生えてゐる
藪が陰気にこもってゐる
なかにしょんぼり立つものは
まさしく古い五輪の塔だ
苔に蒸された花崗岩(みかげ)の古い五輪の塔だ

 この五輪の塔は、現在も五輪峠に行けば見ることができます。峠道を登りきったあたりの斜面に、側碑とともに立っています。側碑を見てみると、これが建てられたのは「文化十二年」(=1815年)で、戒名が「仙塚看永信士」という人の追善供養が目的だったようです。

五輪峠の五輪塔


 さて一方、現在は花巻の身照寺にある宮澤賢治のお墓も、五輪塔の形をしています。向かって右が宮澤家代々のお墓、左が、賢治のお墓です。

宮澤家の墓および賢治の墓

 このように、賢治のお墓が「五輪塔」として建てられたいきさつについて、賢治研究家の故小倉豊文さんは、次のように書いておられました(小倉豊文「二つのブラックボックス」,北辰堂『宮沢賢治の宗教世界』所収)。
 まず当初は、賢治のお墓は独立しておらず、浄土真宗安浄寺にある宮澤家代々のお墓に、納骨されていたということです。

 私は政次郎翁に安浄寺の宮沢家の墓地に案内されたことがある。そこで賢治の遺骨が一基の先祖代々の墓石の下に納められていると知り、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」といった言葉をきいた時は、父の「えらさ」に頭がさがり、さらには浄土真宗の「倶会一処」の信仰に感じ入ったのであった。(上掲書p.258)

 しかしその後・・・。

 ところが昭和二十五〜六年頃だったと思う。訪れた私に、翁は「賢治の墓を作ろうと思いますが……」と話しかけて来た。私はその十年ほど前に前述した「別に墓を作らぬ」といった、翁の言葉を思い出したが、既に眼と足が不自由になっていた喜寿の老翁に対して前言に違うと詰問する勇気が出ず、もし作るなら墓碑銘を刻んだ普通の墓ではなく、二十回忌記念の供養塔として、賢治が好んでいたらしい五輪峠にもちなんで、無銘の五輪塔にしたらよかろうという意味を述べ、もしそうするなら設計図の適当なものを送ると約したのである。そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。鎌倉時代が石造美術の黄金期であり、五輪塔はこの時代の代表的造形でもあったからである。
 ところが数年後に訪問すると、その五輪塔が完成したとのこと。清六氏に案内されると、そこは安浄寺ではなく、前述した南部日実上人の縁で出来た身延山系法華の説教所が寺になった、賢治の勤めていた花巻農学校の後身の花巻農業高等学校近くの身照寺の墓地であった。前に見た安浄寺の墓地にあった宮沢家の代々墓に隣接して、私が送った設計図通りの五輪石塔が建っており、石塔は無銘だったが、その背後に高い大きな木柱が建てられ、それには「宮沢賢治之墓」という文字が見られたのである。私は内心唖然としたまましばらく無言でいると、清六氏は昭和二十七年に父も含めて宮沢家は日蓮宗に改宗し、五輪塔建立と共に宮沢家の安浄寺の墓を移した次第を物語ってくれた。私も関与していた筑摩書房版第一回の賢治の全集の最後の第十一巻の出たのが昭和三十二年二月二十七日であったが、建塔・移墓はそのころであったとのこと。政次郎翁が八十四歳で永眠したのは、同じ年の三月一日である。
 従って私は、政次郎翁の真宗から法華宗に転じた信仰の由来をきく機会を永久に失った。だから翁の宗教信仰は、賢治のそれと共に永遠のブラック・ボックスなのである。(上掲書p.261-262)

 現在は、身照寺の「賢治の墓」の背後には、「宮沢賢治之墓」という木柱は建っていませんが、後ろにある数本の卒塔婆には、いずれも「真金院三不日賢居士」という賢治の法号が書かれています。
 五輪峠にある五輪塔と、この賢治のお墓の五輪塔を比べると、かなり形が違っていて、賢治のお墓の方が端正な感じがしますが、小倉豊文氏によればこれは鎌倉時代の五輪塔を模しているというわけですね。
 ただ、小倉氏の記述の中で一つだけわからないのは、政次郎氏から「賢治の墓」について相談を受けたのは「昭和二十五〜六年」とあり、その後に、天沼俊一博士から「鎌倉時代の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した」とされていますが、天沼俊一氏は、すでに1947年(昭和22年)に亡くなっているはずなのです(Wikipedia-「天沼俊一」参照)。実際に「賢治の墓」について相談が行われたのは、上の記述よりもう少し前のことだったのでしょうか。


 それから最後に、小倉豊文氏自身のお墓について。小倉氏のお墓は、千葉県東金市にあって、そのお墓の横には、賢治の歌碑「病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり/みのりに棄てばうれしからまし」が建てられています(下写真)。小倉氏ご自身の遺骨は、この歌碑の下に納められているのではなくて、その隣の小倉家代々の墓で眠っておられるのですが、二つの石標が並んでいる様子は、宮沢家の場合と似ています。
 小倉豊文氏が亡くなられたのは賢治生誕百年の1996年でしたが、この歌碑が建立されたのは1955年8月6日、広島に原爆が落とされたちょうど10年目の日でした。歌碑は、亡き奥様の「十回忌記念供養塔」だったのでしょう。
 じつは小倉氏の奥様・文代夫人は、広島で被爆して亡くなられたのでした。当時、小倉氏は奥様の葬儀として、文代夫人が生前愛してやまなかった賢治の詩を唱えつつ野辺送りをするという、「賢治葬」を行ったのだそうです(小倉豊文『絶後の記録』)。
 まさに、「賢治葬」にふさわしい追善供養碑です。

小倉家墓地内歌碑

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項

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コメント



賢治のご両親が、法華経に改宗して、お墓も、宮沢家から、離れているように、聞いていたのですが、この写真からすると、宮沢家はみな改宗されたということなのでしょうか。

伊藤チヱさんは、よく、書かれ、評され、高瀬露さんは、少しかわいそうに思います。
しかし、伊藤さんのことを、こんなに、詳しく、読んだことがなかったので、ありがとうございます。

雅子さまが、賢治の雨ニモ負ケズの手帳を、皇太子さまと、にこやかに、ご覧になられているのを、テレビで拝見したことを、思い出していましたので、感無量です。

いつも、きれいな写真入りで、ありがとうございます。

投稿者 雲 : 2007年12月11日 00:24

 雲さま、コメントをありがとうございます。

 「宮沢家」という呼び方でどの範囲までを含めるかということが問題ですが、少なくとも、賢治のご両親と清六さんは、日蓮宗に改宗されたということです。花巻には、宮沢家の「本家」など多くの「宮沢家」があると思いますから、政次郎氏の系列が、宗教的な意味では他の宮沢家から「離れ」たことになるのかもしれません。

 ただし、生前の賢治が所属していた「国柱会」は、田中智学という元日蓮宗僧侶が、従来の日蓮宗に飽き足らず、還俗して創始した「法華系の新興宗教」でしたから、狭義の日蓮宗とは似て非なるものです。

投稿者 hamagaki : 2007年12月12日 23:56

お返事ありがとうございます。

むっちゃ、ややこしいんですね。

国柱会も、そうなんだと思いますが、新興宗教のお方でも、「違います」と、おっしゃる方が多いので、助かります。

賢治の会の方で、出会った程度で、わたしの周りには、国柱会の方がいらっしゃらなかったので、本を読むだけでは、ファンタジックな世界になってしまいます。

投稿者 雲 : 2007年12月13日 22:27

「従って私は、政次郎翁の真宗から法華宗に転じた信仰の由来をきく機会を永久に失った。だから翁の宗教信仰は、賢治のそれと共に永遠のブラック・ボックスなのである」
とありますが、賢治の死後、父政治郎が法華経に改宗した理由として、私が読んだ本に書いてあったので、もしかしたら知っていらっしゃるかもしれませんが、引用したいと思います。

 賢治が死ぬ前、南無妙法蓮華経と唱えてくだされば、私はいつでも出て来ますと言い残したからなんです。政治郎さんは、親子関係を断ちたくない、賢治よ、お前が法華経で成仏するなら私もそれで一緒に行こうということで改宗したのでした。
(田口 昭典『宮沢賢治入門 宮沢賢治と法華経について』でくのぼう出版 p154)

投稿者 千尋 : 2007年12月14日 23:42

 千尋さま、コメントありがとうございました。せっかくいただいたコメントが、なぜかスパムフィルタに引っかかっていて、しばらく表示されない状態になっていました。たいへん失礼をいたしました。

 さて、田口昭典氏の著書を確認してみると、引用していただいたのは、農学校時代の同僚・白藤慈秀氏による回想ですね。「賢治が死ぬ前、南無妙法蓮華経と唱えて下されば私はいつでも出て来ますと言い残したからなんです」という箇所は、賢治が実際の死のちょうど2年前の1931年9月21日に、出張中の東京で倒れた時に両親あてに書いた手紙(書簡393)で、「どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。」と書いていたことを指しているように思います。
 ここで、「どうかご信仰といふのではなくても」とわざわざ賢治が譲歩しているのは、この時点では彼は、両親に法華経への信仰を無理に求めようとはしていなかったということなのでしょう。賢治も、若い頃よりは控えめになったものだなあと思います。

 ただ私としては、白藤慈秀氏の言うほど父親の改宗は単純なものだったのだろうか、という疑問を感じてしまうのです。
 上記の賢治の「遺言的」な手紙は、現実に投函されることはなく、賢治の死後に例の革トランクのポケットから「雨ニモマケズ手帳」とともに発見され、初めて父親も含めて他人の目に触れたものです。もしも政次郎氏がこの文章を読んで心を動かされ改宗を決断したのなら、それはもっと早い時期になされていたはずではないかと、私は思うのです。
 現実の政次郎氏は、賢治の遺骨を浄土真宗安浄寺の宮澤家代々の墓に納め、上の記事中で小倉豊文氏が書かれているように、賢治の死後かなり歳月がたってからも、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」と、厳しく話しておられたわけです。
 ですから、政次郎氏の心の変化というのは、もっと後になってから(例えば戦後になって?)起こったのだろうと思われ、そこの部分というのは、やはり「謎」のように感じられるのです。

 しかし、政次郎氏が、「親子の絆」をとても大切にされる方であったろうことは、他のいろいろなエピソードを読むにつけ、私もまさにおっしゃるとおりと思います。
 ということで、このたびは貴重なご指摘をありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

投稿者 hamagaki : 2007年12月18日 02:39

「南妙法蓮華経」と、唱えることなら、わたしにも、できそうと、さっそく、唱えさせていただきました。

自分の時には、わからなくても、客観的に、見ると、親だから、賢治を思う気持ちは、常に変わらないと、思います。

表現や形が、変わっているので、当事者は、いろいろ反発や誤解をするのでしょうが。

行きすぎに、注意したいですね。
痛ましい事件が、多いので。

投稿者 雲 : 2007年12月19日 00:28


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