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2007年8月30日 「八方山」アップ

 「経埋ムベキ山。」のコーナーに、先日登ってきた「八方山」をアップしました。このコーナーの更新は、じつに久しぶりです。

八方山とその案内板

written by hamagaki : カテゴリー「サイト更新

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コメント



 「経埋ムベキ山」というと、これらの山々をつなぐと「白鳥座」の十字になるという畑山博さんの幻想的な大事な話を思い出しました。今一つ、動機に関する一つの説も少し長くなりますが紹介しておきます。
 賢治に埋経の思いを駆り立てさせたのが、国柱会の雑誌『毒鼓』の記事だったという龍門寺さんの指摘です。これはあまり読まれていない本かと思いますので、引用しておきます。
(龍門寺文蔵『「雨ニモマケズ」の根本思想――宮沢賢治の法華経日蓮思想』/大蔵出版/1991.8)

 “筆者は、賢治がこのような埋経思想を抱く動機なり、発想法を得たのは天業民報社発行の『毒鼓』昭和六年十二月号ではないかと考える。同号は十二月一日発行であるが、当時の月刊誌は通常より一カ月早く送本されているだろうから、『雨ニモマケズ手帳』を書いているときと年時的に合致する。
 『毒鼓』十二月号には「阿寒山頂埋経建碑式」の様子が写真入りで報道されており、国柱会釧路支局が昭和六年十月十一日に阿寒山頂に「南無妙法蓮華経」の埋経碑を建立したことを報じている。この記事に賢治が感銘を受け、鉱物採集などで歩いた岩手の山々や、友人保坂嘉内と誓願した山、詩作のために登った山などに埋経すべく手帳に記したのではなかろうか。”

 「埋経思想を抱く動機なり、発想法」は、この『毒鼓』によらずとも賢治には以前からあったと考えるべきだと思うのですが、この記事に触発されて埋経の思いを具体化させた可能性はあるのかなと思います。


投稿者 かぐら川 : 2007年9月 2日 01:36

 かぐら川様、こんばんは。お返事が遅くなって申しわけありません。

 龍門寺文蔵氏の『「雨ニモマケズ」の根本思想』は、たまたま私も買って持っていました。
 昭和6年(1931年)の、国柱会による「阿寒山頂埋経建碑式」に関しては、確かに龍門寺氏の指摘のとおり、賢治が「経埋ムベキ山」を構想したであろう時期と近接しており、『毒鼓』の記事が賢治への刺激となった可能性は、十分にありえるのでしょうね。

 しかしそれにしても、国柱会としてはどういう理由で、「阿寒山」(写真からすると「雌阿寒岳」のようです)を埋経の地として選んだのか、ということに、私としては興味を引かれます。


 あと、本題からはそれてしまいますが、この『「雨ニモマケズ」の根本思想』という本の中で私がとりわけ感銘を受けたのは、賢治の「絶筆短歌」のうちの一首である

病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり
      みのりに棄てばうれしからまし

は、「日蓮遺文」の「佐渡御勘気鈔」の中の、

いたずらにくちん身を、法華経の御故に捨まいらせん事、あに石に金(こがね)をかふるにあらずや。

という一文を背景にしているのであろう、という洞察です。
 さすがに日蓮の教学に詳しい専門家の方は凄いなあ、と感じました。

投稿者 hamagaki : 2007年9月 4日 23:58


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