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2007年7月15日 1916年修学旅行の京都(1)

京都駅前

 上は、現在のJR京都駅の改札を出たところです。原廣司氏の設計による超モダンな駅ビルが出現してちょうど10年がたちましたが、京都に住む者にとっても、やっとこれに慣れてきた感じです。

 一方、1916年3月23日の早朝に、賢治たち盛岡高等農林学校の修学旅行生は、京都駅に降り立ちました。下記は、「校友会報」第三十一号「農学科第二学年修学旅行記」の、原勝成による記録より。

 三月二十三日曇 〔京都附近〕  原 勝 成
午前四時九分京都七条駅に着いた、駅前の奉祝門は独り御大典当時の賑さを語つてゐる。

 「御大典」というのは、大正天皇の「即位礼」+「大嘗祭」のことで、1915年(大正4年)11月に、京都で行われました。賢治たちが京都を訪れたのは、それから4ヵ月後のことで、各所にそのなごりが残っていたわけです。
 駅前にあった「奉祝門」というのは、「京都北山アーカイブズ」の、「鹵簿進御予習(京都駅前)」という写真で見ることができますが、それにしてもこれは巨大な「門」ですね。こんなのがだだっ広い駅前の広場に立っていたら、盛岡から来た修学旅行生も、さぞ圧倒されたでしょう。

 駅を後にした賢治たち一行は、まず東本願寺と西本願寺を訪れます。東本願寺までが0.7km、さらにそこから西本願寺までが0.9kmで、いずれも徒歩ですね。

 下は、今日の東本願寺。「御影堂」が覆いをかけられて修復工事中です。

東本願寺

 それから下は、西本願寺。こちらも左の方で、やはり「御影堂」の修復工事をしています。

西本願寺

 さらに一行は、西本願寺から「桂橋畔の万甚楼」まで行って、朝食をとりました。
 「桂橋」というのは、桂橋八条通(旧山陰街道)が桂川をまたぐ橋で、1983年に鉄筋コンクリートの近代橋に架け替えられてから、現在の正式名称は「桂大橋」となっているのですが、石造りの親柱には、今も右のように「桂橋」と刻まれています。西本願寺から桂橋まではおよそ3.7kmで、この間も徒歩の移動だったのでしょう。「万甚楼」というのが具体的にどこにあったのかは、ちょっとわかりませんでした。
 桂橋を西に渡った北側には、美しい「桂離宮」があるのですが、賢治たちはここには立ち寄らずに、「府立農林学校」を目ざします。

 京都府立農林学校の校舎はこの当時、葛野郡桂村にあり、「京都府立農林専門学校(旧制)」(Wikipedia)によれば、「阪急桂駅北約200mの地点、京都本線と嵐山線の分岐付近」にあったということですから、下の写真のあたりということになります。今は、まったく面影もありません。

阪急桂駅北200m

 次いで一行が訪ねた「京都府立農事試験場」も、府立農林学校に隣接してあったということです。

 ところで、先日の記事「山しなのたけのこばた」に書いたように、この後一行は「竹林地」へ行って筍栽培の見学をしていますが、そのはっきりした場所はわかりません。しかし、桂村からさほど遠くない洛西地区のどこかの竹林だったのではないかというのが、今のところの私の推測です。
 一行は「竹林地」で筍栽培に関する熱心な説明を受け、お土産として筍を各自二本ずつもらい、続いて「嵐山」に向かいました。洛西地区から嵐山までは、4〜5kmくらいはあるのですが、当時はこのあたりに公共交通機関もなく、徒歩で向かったでしょう。

 嵐山の名所「渡月橋」の下を流れる川は、「桂橋」が架かっている同じ桂川の上流にあたりますが、このあたりでは「大堰川」と名前を変えています。昨日の台風4号が降らせた雨の影響で、流れは速く濁っていました。

嵐山

 さて、ここ嵐山からは、一行は「電車にて金閣寺へ行つた」と、原勝成の記録にも書いてあります。
 1916年当時、京都市内あるいは近郊を走っていた電車としては、下記のものがありました。その時点での開通区間も、付記しています。

京都市電
・今出川線: 千本今出川〜烏丸今出川
・丸太町線: 千本丸太町〜熊野神社前
・四条線: 四条大宮〜祇園
・七条線: 七条大宮〜七条河原町
・東山線: 熊野神社前〜東山七条
・烏丸線: 烏丸今出川〜烏丸塩小路
・千本線: 千本今出川〜四条大宮
・大宮線: 四条大宮〜七条大宮

京都電鉄
・稲荷線: 勧進橋〜稲荷
・伏見線: 京都駅前〜中書島
・堀川線: 北野〜京都駅前

嵐山電車軌道
・嵐山〜四条大宮

京阪電鉄
・京阪本線: 大阪天満橋〜京都五条
・宇治線: 中書島〜宇治

 で、これらのいずれかを利用して、嵐山から金閣寺へ行くとなると、まず「嵐山電車」で「四条大宮」まで行き、そこで市電千本線に乗り換えて、終点の「千本今出川」から歩く(徒歩1.9km)、あるいは千本線の途中の「千本中立売」で京都電鉄堀川線に乗り換え、終点の「北野」から歩く(徒歩1.6km)という二つののいずれかと考えられます。乗り換えの手間と、徒歩の距離にさほど違いがないことを考えれば、前者だったかもしれません。
 いずれにしても、一行はまず嵐山駅から電車に乗ったでしょう(下写真は、京福電鉄嵐山駅)。
嵐山駅

 ここから電車に乗金閣寺ると、現在なら20分足らずで市街地の「四条大宮」に着きます。そこから市電に乗り換えて北に向かい、降りてからさらにしばらく歩くと、金閣寺(正式には「鹿苑寺」)の入り口が見えてきたはずです。
 ここで金閣と庭園を見学した後、一行はやっと帰途につきます。

 金閣寺から1.2kmほど南に歩くと、「衣笠村役場」です。この役場は、当時の「平野小学校」の校地内にあって、この小学校は現在は「京都市立衣笠小学校」になっています。
 「京都府立農林学校・衣笠村役場」の記事に載せた写真を参考にすると、だいたい下写真で右手の校舎のあたりに、「衣笠村役場」はあったと思われます。

衣笠小学校

 当時は、学校の東側にあるこの門が正門でしたが、現在は北側が正門になり、こちらは通用門になっているようです。
北野天満宮 村役場で、村長から直々に衣笠村の農業状態について説明を聞くと、一行は最後に、右写真の北野神社(北野天満宮)に参拝して、「電車に乗して旅館なる西富家に向つた」ということです。


 「西富家」という旅館は、当時の旅館一覧を調べると、住所は「富小路六角下」と書いてあります。北野神社からここまで「電車」で行くとすれば、すぐ前にある「北野」駅から京都電鉄堀川線に乗り、「四条西洞院」で市電四条線に乗り換え、「四条高倉」で下車して、あと500mほど歩く、というルートになると思います。

 下の写真は、当時「西富家」があった場所に、今も「要庵 西富家」として営業を続けておられる旅館です。昔より、敷地面積は小さくなっているかもしれませんが、現在は修学旅行生が泊まるなんて考えられないような、一流の旅館です。(「要庵 西富家」のサイトをご覧いただくと、雰囲気がわかると思います。)
 ちょうど祇園祭の期間なので、玄関に幕がかけられています。

要庵 西富家

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項」「賢治紀行

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