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2007年4月19日 横浜開港資料館

 賢治が、「横浜植木株式会社」の注文販売を利用していたという話は、「賢治の愛したバラ(4)」に引用させていただいた佐藤昭三氏(花巻ばら会名誉会長)の文章「◇宮沢賢治とばら◇」によって、私は知りました。それによると、

花巻病院の院長の佐藤隆房先生が昭和4年頃、花巻の桜町に新居を移したときに、そのお祝にと横浜の輸入商「植木」から取り寄せて賢治自らの手で庭に植えたという由緒あるばらがあります。

 ということです。
 そして、この時に賢治が取り寄せたバラの中に、後に「賢治のバラ」として有名になる「グルス・アン・テプリッツ(和名「日光」)」が含まれていたというところまでは、いろいろな方にご教示いただいて、私にもわかってきました(「賢治が愛したバラ(5)」「賢治が愛したバラ(6)」参照)。

 ところで生前の賢治は、全国のいろいろな会社に注文して、花や野菜の種子、球根、苗などを購入していたようですが、「横浜植木」の名前は、これまで私自身あまり目にしていなかったので、ちょっと全集をひもといて調べてみました。すると、『【新】校本全集』の第十三巻(下)の「本文篇」17ページ、「「MEMO FLORA」ノート」のA17頁にある、「横浜ガーデン」および「横ガーデン」という賢治自身による書きつけが、目に止まりました。
 このページは、他にも花の購入先と思われる会社名が並んでおり、注文数や価格と思われる数字も書き込まれているところから、「横浜ガーデン」というのも、花の購入先なのではないかと推測されます。そして、前述の「横浜植木株式会社」の英名は、「ヨコハマ・ガーデニング・アソシエーション」であったことから、賢治は「横浜植木」のことを「横浜ガーデン」と略記したのではないか、とも思われました。

 まあそれはさておき、「横浜植木」という会社は、賢治の時代からずっと現在も営業しつづけておられるので、賢治がバラを注文したかもしれないのなら、ひょっとしてその当時の記録などが残っていないとも言えません。そこで先日私は、「横浜植木」の「花卉貿易部」というところに、ぶしつけながらメールをお送りして、「もしかして、宮沢賢治の注文書など残っていませんか?」とお訊きしてみたのです。
 すぐさま、ご親切に返信されてきたメールは、以下のとおりでした。

お尋ねの件、当社から野菜の種子をお買い求めになった納品書は残っているようですがバラについては調べて見ませんと解りかねます。
古いカタログ、資料等全て横浜開港資料館に寄贈しまして当社では管理をしておりませんが一度関係者に聞いて再度ご返事をさせて頂きます。
上、取り急ぎご返事迄。

 「えっ! 野菜の種子の(賢治への)納品書は残っているの?!」と一瞬驚きましたが、現在は資料は会社にはなく、「横浜開港資料館」という所に寄贈したということでしたので、実は私は本日、横浜港の桟橋にもほど近いその「横浜開港資料館」に行ってみたのです。

横浜開港資料館

 「横浜開港資料館」は、1931年(昭和6年)に建てられた、もと英国総領事館の建物を使用しており、とてもお洒落で落ち着いた雰囲気です(上写真)。この建物の裏にある「新館」の地下に、資料室や閲覧室があって、そこで私はスタッフの方々にたいへん便宜をはかっていただいて、「横浜植木株式会社」から寄贈された資料を見せていただくことができました。(本当にお世話になり、ありがとうございました。)

 で、結論から言うと、ここには宮沢賢治のものも含め、「注文書」や「納品書」といった類のものは所蔵されておらず、主な資料は、横浜植木株式会社の決算書とか重役会議議事録とか社内報とかいったものでした。まあ、100年以上の歴史がある会社で、すべての顧客の一々の注文書類など保存していたらきりがないでしょうから、これは当然かもしれません。
 ただ、当時の「注文用カタログ」はちゃんと残されていて、これに関しては、わざわざ行ってみた甲斐があったというものでした。

 「横浜植木」では、国内用と海外用に「園藝要覧(GARDEN GUIDE)」というカタログを毎年発行していて、お客はこれをもとに注文するようになっていました。賢治が「(ばらを十五本植えた/そのばらが芽を出さない)」(「〔こんやは暖かなので〕」 )、あるいは「ばらの苗が来て居ります。」(書簡[227])と1927年3月に書いた前年、すなわち1926年のカタログの表紙およびその中で「薔薇」を載せたページは、以下のようなものでした。

『園藝要覧1926』表紙

『園藝要覧1926』バラ1

『園藝要覧1926』バラ2

 ちょっと見にくいですが、上のページに赤線を引いたところに、「グラス、アン、テリツツ」(Gruss an Teplitz)が載っていて、説明には「鮮紅大輪」とあります。値段は、どのバラも、「一本四十銭、十本三円五十銭」ということです。

 というわけで、何も断定することはできないのですが、賢治が「横浜植木株式会社」に「グルス・アン・テプリッツ」の苗を注文して、佐藤隆房氏に贈呈した可能性がありうるということは、言えるわけです。

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項

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コメント



大きな収穫でらしたのですね。
すばらしい資料をありがとうございます。
さすがに、聞いたことのない名前のバラもかなりあります。
くっきりと「グルス・アン・テプリッツ」の名前があるのが 嬉しくなって
しまいます。

投稿者 Anonymous : 2007年4月19日 23:43

すみません 投稿者の名前が Anonymousになってしまいましたが
上のコメントを書いたのは佐香です。

投稿者 佐香 厚子 : 2007年4月19日 23:47

 佐香 厚子さま、コメントをありがとうございます。

 賢治の注文書や納品書が発見できればいちばんよかったのですが、「カタログ」だけでも、当時のガーデニングの事情を知る上では参考になるだろうと思って、仰せのとおり「収穫」と考えることにしています。
 それでも、「グラス・アン・テリツツ」とやや心もとないカタカナ表記ではありますが、カタログに記されたこの花の名前が目に入ってきた時には、私も心が躍りました。1926年前後の何年かのカタログも調べてみましたが、どの年にも必ずこの品種は収録されていて、当時においては人気のある重要なバラだったのだな、という印象でした。

 ところで、カタログには佐香さまでさえお聞きになったことのないバラの名前があるというのは、やはり時代とともに品種も移り変わっていってしまうという現実を表しているのですね。
 「グルス・アン・テプリッツ」もまさにそうなりかけていたところを、たまたま賢治との縁があったことによって、再び日本において広く知られるバラになったというのは、不思議な巡り合わせだったなと感じました。

投稿者 hamagaki : 2007年4月21日 00:02

資料館へ行かれたのですね。わたしの方はまだしばらく先のことになりそうです。上の画像以外にも薔薇のカタログがあるのでしょうか。あれば並べたとき何かがわかるかもしれません。賢治とは直接関係ないことになるかもしれませんが。
名前を見ていて、賢治の時代に今のわたしどもにとって馴染みの品種がこのようにあれこれと入っていたのかと、正直驚きました。
手元の賢治資料集をまだ読みかけですが、彼が薔薇をどのように植え付け、どのように栽培したかについては、今のところ明確な或いは詳細なことは得られないような気がしています。
そこで今後は彼の教師時代や協会時代のことにも注意しながら、主な関心を彼の詩作品や言動へ向けようと思っています。心情の表出からわたしなりに感じることがあるかもしれません。
先ほど「口語詩と文語詩」の項を拝読しました。これほど綿密に、またグラフ化してもらい、彼は幸せ者です。羨ましいとは思いませんが、詩人にとって自分の死後にも作品が愛されたり研究されることは心から喜べることでしょう。
まだ彼の作品のごく一部しか接していなくて、本格的にはこれからです。しかし、わたしも自分の生涯の最後に完成したい詩語とは、古の文語体に近い感覚をした「歌」になろうという気が以前からしています。もちろん実際にはいずれの時代の文体とも異なったものとなるはずです。ただ詩語の錬磨、あるいは言の葉への昇華にはすさまじいまでの努力と、直感的な晴れ上がりの中を一気に魂が昇る能力――その二つが欠かせぬことと思います。「詩稿補遺」に見たいくつかの作品に、彼の詩における言の葉の真実を感じました。詩心の輪郭は、その人の皮膚のようなものです。皮膚から離れた語は空疎なものとなってしまいます。
中也もまた、賢治のような言葉の皮膚の強さを持っていました。
ただ彼らを模倣したような詩は、自分の言葉ではないだけに何にもならないでしょう。
そんな見方を持ちつつ、Hamagakiさんのこのサイトの内容にもそのような皮膚の強さを感じさせてもらったのが初訪問の際の印象でした。どんなお役に立てるのか見当もつかないけれど、少なくとも将来の自分の詩歌を腑や足の裏で創るときの大きな刺激になってもらえるとして。

ところで、いずれわたしのサイトの薔薇栽培の講座で「流れの薔薇」について詳しく記す予定です。そのときに「日光」と賢治との関連についての現状をしっていただくために、こちらのURLをRose World URLへ加えてもよいでしょうか? 許可をいただければ――今すぐにということではありませんが――掲載させてもらいます。特に「賢治が愛したバラ」のページを。
また、サイト内にあるメールボタンも遠慮なくクリックしてご意見等をお送りください。わたしの方もそのようにさせてもらうときがあるかもしれません。これからの永いおつきあいを考えながら。

投稿者 ナポレオン : 2007年6月 2日 22:36

 ナポレオン様、コメントをありがとうございます。

 「横浜植木」が発行している「園芸要覧」というカタログは、毎年2〜3冊の割合で出ていて、それが100年以上の歴史にわたっているわけですから、全部合わせると厖大な数になるでしょうね。私はとてもその全貌を見てきたわけではなくて、賢治がバラを注文した可能性のある年の前後を調べてきただけですが、もしバラの専門家の方がご覧になったら、きっと日本におけるバラ栽培の歴史について、いろいろ興味深いことがわかるのではないかと思います。
 「横浜開港資料館」でこれらの資料を閲覧される時には、あらかじめ電話をして申し込みをしておかれるのがよいと思います。閲覧させていただくための専門の担当者の方が、いつも館におられるとはかぎらないからです。電話番号は、045-201-2100 です。

 それから私のサイトのURLを、貴サイトの「Rose World URL」に掲載していただけるとのこと、もちろん有り難く了承させていただきます。素晴らしいサイトからリンクしていただけて光栄です。


 「詩語の錬磨、あるいは言の葉への昇華にはすさまじいまでの努力と、直感的な晴れ上がりの中を一気に魂が昇る能力――その二つが欠かせぬことと思います」とのお言葉、まさに賢治の生涯を連想しました。
 ナポレオン様が「自分の生涯の最後に完成したい詩語」というのも、非常に興味深く感じます。

 こちらこそ、これからも末永くよろしくお願い申し上げます。

投稿者 hamagaki : 2007年6月 3日 23:42

資料館への連絡電話番号をありがとうございました。アドバイスのように事前に担当者と話をするようにしましょう。助かりました。
このカタログは、これ以外にも別の種類の発行物があったことを示すようなものではなさそうですね。そして取り扱い植物全般についてのもののようですので、今日の薔薇苗販売業者が必ずと言ってよいほど巻末に付けている「育て方」の記載も見られないかもしれません。あれば当時の薔薇栽培の技術や習慣の一端がわかるかもしれないのですが。いずれにしても今度自分の目で確認します。おっしゃるように、年と共に輸入品種名の変遷がわかれば当時どんな薔薇が購入者に好まれ、国内へ広まっていったかがわかる手がかりとなるでしょう。それはそれで楽しみです。
かつての輸入業者さんたちより、むしろ賢治の時代よりも後に少しずつ増えてきた取次店や販売店の皆さんの間で、今に至る「和名」の混乱が起きていたはずです。『青いバラ』にも記されているように、当時の権利保護の観点・価値観には、日本の近代化の過程で世界のことがよく知られていなかった背景があったと考えられますから。たとえばある薔薇のブログでわたしも議論に加わったことのある、「邪宗門」とはどの薔薇のことなのかがわからなくなっていることなどです。あるいは、一つの輸入品種にいくつもの和名が各地で付けられていたり。名前の一人歩きですね。
もちろん、横浜植木に入る以前の時点で洋名自体が不完全であったり(「スーブニール・ド・ラ・マルメゾン」です)、発音のまちがいがあったり(「ポール・ネイロン」「ダッチェス・オブ・ウエリントン」「メイドンズ・ブラッシュ」です)、あるいは日本国内で原名どうしが混乱したり混同されたことも――いずれも昭和になってからですが――あります。
そういった点でこの時代どうだったかということと、つる種のグルス・アン・テプリッツが賢治の時代に入っていたかどうかもわかるかもしれません。おかげさまで横浜へは楽しみに行くことができそうです。

また、URLのご快諾をありがとうございました。今の予定では数ヶ月先のことになりますが、掲載したときにはあらためてお知らせします。

これは余談ですが、日本語には歴史的に見て二つの側面があったと思います。一つはこの島での原住民的な「語の音」に後から文字が当てられたこと、もう一つは外来語が仏教や交易、民族間での交流によって伝来し、その文字の文化と共に日本語となって定着した面です。
わたしは、現在に至るまで日本語には双方の血が流れつづけていると見ています。後者が前者を決して排斥してはいない。……そう思って日本の詩語を読み、見つめているとそれぞれの語が命を持って見えるのです。
そしてそれは、薔薇の品種名の表記の仕方にすら現れている二面性と思えるのです。「グルス」がその語感の最も日本語的な音感を示しています。ところが原語(ハンガリー語)の正確な発音は「グルース」ですし、賢治の時代にこの挨拶という意味の、流通品種名としてのオーストリア語を「グラス」と発音するのを好んだとしても少しも不思議ではない。つまり彼の時代の語感の一つだった。そう考えられるし、日光という和名がいつ付いたかということや、鈴木氏との絡みにより愛好家の間で普通に知られるようになるまではどうだったのかを、この伝統ある企業がヒントを伝えてくれるかもしれません。
また今後はこちらのサイトで賢治と日蓮宗との関係などについても、語音の観点から拝読させてもらうつもりです。わたし自身は宗徒とは言えませんが、わが家が日蓮宗門家ですからなおさらに。

投稿者 ナポレオン : 2007年6月 5日 22:39

 ナポレオン様、コメントをありがとうございます。

 「横浜植木」のカタログには、巻末にも「育て方」というような記載はなかったように思います。したがって、残念ながら栽培法の歴史をこの資料から見ることはできないでしょうが、とりあえず各時代で扱われている「品種名」と、その「値段」の変遷の記録ですね。

 また、「グラス」についてのご示唆もありがとうございました。日本語とは、歴史的にもほんとうに重層的な言葉であることを感じます。

投稿者 hamagaki : 2007年6月 7日 23:24


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