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2006年11月 2日 双子の碑〜賢治と金田一家の人々(1)〜國士篇

 「双子の星」ならぬ「双子の碑」というお題ですが、まずは下の二つの石碑をご覧下さい。

双子の碑

 左側は、昔の花巻農学校跡=現在の「ぎんどろ公園」にある、賢治の「早春」詩碑、右側は、花巻温泉敷地内にある「金田一國士頌」碑です。後者の碑面に刻まれているのは、高村光太郎による下記の詩です。

  金田一國士頌
歳月人を洗ひ
人ほろびざるは大なるかな
人事茫々
たゞ遠く後人に貽(のこ)すところのもの
その人を語る
開鑿の雄
今は亡き彼を懐ふこと多時

 さて、上の二つの碑石をぱっと見ていただくと、何となくその形が似ているではありませんか。子細に見ると、上辺の片方の角は鋭角にとんがっていて、反対側の角は凹型にえぐれているところなど、この二つの石の形は、ちょうど鏡に映したように左右対称になっています。
 それもそのはずで、実はこの二つの石碑は、一つの岩を半分に切ったそれぞれの片割れでできているんですね。
 つまり、「一卵性双生児」の石碑というわけです。

 これらの碑が「双子」として生まれた経緯について、今日は少し調べてみました・・・。


金田一國士 金田一國士(1883-1940,右写真)は、盛岡銀行頭取として大正から昭和初期にかけての岩手県財界を牛耳り、「風雲児」とか「天才的事業家」とも言われて、一世を風靡した人物です。岳父の金田一勝定の存命中は、勝定が一代で興した鉄道・電気・金融関連の事業を助け、1920年に勝定が死去すると、翌年に岩手軽便鉄道株式会社・盛岡電気工業会社など35の会社の社長に就任し、この年のうちに盛岡電気工業会社は花巻電気会社を吸収合併するなど、積極的な拡大策に打って出ます。
 これが、「岩手軽便鉄道の始点である花巻に、さらに新たな電気鉄道を敷設して、一大レジャーランドを創る」という計画のスタートでした。
 間髪を入れず國士は、台温泉の東に造成する新遊園地の設計を長岡安平に依頼し、設計図ができあがるやただちに建設にかかって、1923年に引湯施設と浴場、旅館(花盛館)を完成させ、ついに1925年には花巻温泉電気鉄道が開通しました。種々の遊興施設と交通路をセットに出現した新歓楽地「花巻温泉」は、1927年に東京日日新聞・大阪毎日新聞が全国から募集した「日本新八景」において、見事に第一位を獲得するまでに至ります。
 これらに対して賢治は、巨費を投じた開発に対して複雑な感情を抱きながらも、1924年に農学校寄宿生とともに大通り並木に桜の苗木を植え、1927年には元教え子の冨手一に請われて、「南斜花壇」の設計と植え付けも行っています。

 このような事業の成功によって、一時は「金田一閥ならずば人ならず」とまで囁かれたほどの権勢を誇った金田一國士でしたが、その絶頂において運命は突然急転回しました。1927年の「金融恐慌」の余波もおさまらぬ中、1931年に青森の銀行で起こった取り付け騒ぎが飛び火して、岩手県内の盛岡銀行、岩手銀行、第九十銀行はドミノ式に支払い停止・閉鎖に追い込まれます。
 大蔵省や日本勧業銀行からの支援も得られずに、巨大な金田一財閥が一挙に破綻した背景には、金田一家とつながりの深かった岩手出身の原敬(政友会)と、その政敵である憲政会の安達謙蔵内務大臣の確執があったという説もありますが、この後グループ総帥の金田一國士は、背任・業務上横領で起訴され、懲役二年の判決を受けます。
 これはホリエモンどころの騒ぎではなくて、当時の岩手県では驚天動地の大事件だったことでしょう。賢治の森佐一あて1933年3月の書簡[467]には、次のような一節があります。

易昨夜叔父が来て今日金田一さんの予審の証人に呼ばれたとのことで、何かに談して行きました。花巻では大正五年にちやうど今度の小さいやうなものがあり、すっかり同じ情景をこれで二度見ます。易の[右図→]といふ原理面白く思ひます。

 『新校本全集』の書簡集の注釈によれば、ここで賢治が「金田一さん」と呼んでいるのは、國士の弟の金田一光らしいですが、晩年の賢治は、目の前で権力者たちが没落していく様子を見て、人間の運命というものに対して何かの感慨を持ったのでしょう。

 病にかかった國士は、晩年になってからも再び岩手の地を踏むことはなく、1940年2月に、東京の自宅で近親者に看とられて息を引きとりました。


 さて、花巻温泉にある「金田一國士頌」碑の話に戻ります。
 結局いろいろあったにしても、金田一國士という風雲児は地元岩手では、「開発の雄」として讃えられ、尊敬を受けつづけていた面はあったようです。
 時代はその後、戦争一色に塗りつぶされていきましたが、終戦を迎え、戦後の混乱も一段落した1950年、旧花巻農学校の一角に賢治の「早春」という詩の碑が建立されました。

 ちょうどこの年が、金田一國士の没後十周年にあたり、また彼が心血を注いだ岩手軽便鉄道が国鉄釜石線として全通する年でもあったため、花巻温泉では、その温泉の創設者である金田一國士を顕彰する碑を建てようという計画が持ち上がりました。その碑文は、当時まだ花巻に疎開していた高村光太郎に書いてもらおうという素晴らしい案が出されましたが、大詩人に対して唐突な依頼をしようにも、会社として適当なコネがありません。
 そこで担当者は、光太郎の疎開の世話をした宮澤政次郎氏に相談して、何とか仲立ちをしてもらおうとしました。しかし、政次郎氏の答えは、次のようなものでした。

 高村先生と深くお付き合いしている私もまだ、一字も書いていただいたことはない。あなたのお願いはとても無理でしょう。しかし、こう言ってみるのもいいことかもしれませんね。あの芭蕉も藤原氏を知らないのに、「夏草や兵どもが夢の跡」の名句を詠みました。先生も岩手県に来られた思い出に、後世に残るものを作って下さい、と頼んでみなさい。

 花巻温泉に勤める瀬川政雄という社員が、政次郎翁の上のような言葉を胸にして、初対面の光太郎を高村山荘に訪ねたのは1950年6月、ひたすら畳に額をこすりつけて「お願い」をしたところ、黙って耳を傾けていた光太郎は、意外にも快諾してくれたのだそうです(『花巻温泉物語』(熊谷印刷出版部))。

 それから急いで碑の製作準備が始められ、高村光太郎も出席して「金田一國士頌」碑の除幕式が行われたのは、釜石線開通式の2日前にあたる、1950年10月8日でした。
 その碑石として、賢治の詩碑の片割れが用いられた理由については、上の本にもあまり書かれていません。しかし私が思うには、6月に建立を決定して10月の完成に間に合わせるためには、新しい碑石を一から探して選んでいるだけの時間的余裕がなかったので、たまたま数ヵ月前に建立された賢治詩碑の残りの石材に目を付け、あえてそれを利用させてもらったということなのではないかと推測しているのですが、どんなものでしょうか。

 下の写真は、この碑の除幕式の時のものです。前列中央左よりに座っている和服の年輩女性が、國士未亡人の金田一リウと思われます。その左隣は、高村光太郎ですね。

「金田一國士頌」除幕式

 今月の25日・26日には、賢治学会の冬季セミナー「宮沢賢治と温泉 II」が開かれますが、もしも花巻温泉に行かれたら、旧松雲閣からさらに少し奥に行った左手、「収蔵館」という土蔵の横に、この碑は立っていますから、どうぞご覧下さい。


written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項」「賢治情報

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コメント



 はじめまして。数日前から、にわかに音韻学のことを習っているものです。その関係で、金田一國士大人という方を初めて知りました。
 
 宮沢賢治大人に関しては、法華経のことで漠然とした知識は持っておりました。

 高村光太郎大人が戦後隠棲していたことはどこかで読んで知ってはいたのですが、場所は知りませんでした。

 今回、花巻という土地にその3方がまつわることを知りました。 啓蒙して頂いたことにお礼申し上げます。

追記: 現在の和歌山県打田町在の「羊の宮神社」ですが、本貫は雫石の某神社であると知人が古文書の記述を根拠に言っておりましたのを思い出しました。同地は、佐藤義清の荘園地、と聞いております。同地では、文化は西から東へと信じるものが多く、同知人の指摘は意外なものと受け取られていたようです。 突然、思い出しまして、知る限りのことを記してみました。

投稿者 あり 【有谷謙橘】 : 2011年7月28日 13:55

あり【有谷謙橘】さま、こんばんは。書き込みをありがとうございます。

音韻学方面からここに来られたということは、金田一京助博士を通してなのですね。
金田一京助氏は、ここで取り上げた金田一國士氏の妻のリウさんの従弟ということになるかと思います。

それから、「羊の宮神社」についてご教示をいただき、ありがとうございました。少し調べてみると、この「羊」をめぐっては日本古代史の不思議な謎が隠されていそうな感じですね。

投稿者 hamagaki : 2011年7月30日 01:25

はじめまして。いつも読ませていただいております。
金田一国士について、最近ふと思いついたことがあるのですが、それは『氷河鼠の毛皮』に登場する金持ち「イーハトヴのタイチ」は、金田一国士がモデルなのではないかということです。

太市という名ならhamagakiさんもお書きのように『家なき子』の翻案でレミが太一の名で登場したのを賢治は小学生時代に聞いていたり、「日輪と太市」でも赤いズボンを穿いているわけですが、これらと「タイチ」はキャラクターが全く異なるので、別の起源があるのではないかと考えました。

これは単に「金ダイチ」と「タイチ」の語呂が似ているという程度の思いつきですが、この作品は岩手毎日新聞に掲載されているのも気になります。ご存じと思いますが、岩手毎日新聞は金田一財閥のライバル中村治兵衛(省三)・岩手銀行の系列で、当時は盛んに金田一を攻撃していました。
(小川功「機関銀行と機関新聞」
http://www.biwako.shiga-u.ac.jp/eml/Ronso/326/326ogawa.PDF
をご参照ください)

そういう新聞に悪役「イーハトヴのタイチ」が出たわけです。
この作品は「イーハトヴ」の地名が最初に登場した作品で、地名の説明はありませんから、読者のほとんどは何だかわからなかったでしょうが、中には「岩手の金田一」だと判じた人もいるのではないか、などと想像しました。

それとも私の語呂合わせは考えすぎで、そんな人はいなかったのか。
しかし花巻経済界が金田一グループの傘下に入りつつある中で、賢治がもし狙って「タイチ」を出したとすると、大丈夫だったのか、などとも思ったりします。
なお『氷河鼠の毛皮』がシベリア出兵の寓意だとする木佐敬久氏の論文は読みましたが、それに異を唱えるわけではありません。ただタイチのキャラクターについては同論文でも追究されていないようだったので、隙間を埋める思いつきです。

長々とすみません。自分のHPがないので、つい他人様のサイトでクダを巻くような感じになってしまいました。

投稿者 KATSUDA : 2012年4月16日 17:40

KATSUDA さま、書き込みありがとうございます。
いや、すばらしいですね。「イーハトヴのタイチ」←「岩手の金田一」というわけですね。
時代としても合いますし、ご指摘のとおり「岩手毎日新聞」に掲載されたというのも、まさに対立関係の構図に一致しているのが面白いです。

また、「金田一」→「田一」という名前生成法は、「宮沢賢治」→「座亜謙什」というパターンに似たものも感じました。語頭を取り除いているわけで、これは語尾を変えたり除いたりするよりは、ぱっと見ただけではわかりにくく暗号化してくれるものだと思います。

しかし賢治が意図的にこういう風刺をしたのならば、それは相当に過激なものですし、当時の賢治が社会をどう見ていたかということを示唆してくれる、興味深い所見ですね。

今回は心躍るお話を、ありがとうございました。
またいろいろとご教示下さい。

投稿者 hamagaki : 2012年4月17日 01:39

面白がっていただき、うれしく思います。

「(…)君、君、おいなぜ返事せんか。無礼なやつだ君は我輩を知らんか。わしはね岩手の金田一だよ。岩手の金田一を知らんか。こんな汽車へ乗るんじゃなかったな。わしの持船で出かけたらだまって殿さまで通るんだ。ひとりで出掛けて黒狐を九百疋とって見せるなんて下らないかけをしたもんさ」
 こんな馬鹿げた大きな子供の酔どれをもう誰も相手にしませんでした。

こう直すと、かなりキツイですねw
もっとも最後にタイチがさほどの被害も受けずに放免されるのは賢治らしい配慮といえると思います。この終わり方が甘いという評価もあるでしょうが、モデルが金田一だと考えれば理解できます。

伊藤雅子さんの説では『どんぐりと山猫』の金田一郎は、金田一国士の旧名の金田一二郎から来ているとのことです。
http://ameblo.jp/my1122my/entry-11103978750.html

この説については詳しく存じませんが、キャラクターはそれほど一致しないようにも思います。
最後に塩鮭の頭でなく黄金のどんぐりを選ぶところが、栴檀は双葉より芳しということかも?

投稿者 KATSUDA : 2012年4月17日 17:35


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