← 前の記事へ | メインページへ | 次の記事へ →

2006年5月22日 林光作曲「高原」アップ

 「歌曲の部屋~後世作曲家篇~」の林光氏のページに、同氏作曲による「高原」(混声合唱版)の演奏ファイルをアップしました。

 歌詞は、『春と修羅 〔第一集〕』に収められているあの有名な方言詩「高原」で、林光氏はまず1977年に「プレイ3」と題した作品の一章としてこの詩に旋律を付け、後にこれを「改作」して、混声四部合唱の編成にしました。それが、今回の曲です。
 作曲者自らこの版のことを、ルネサンス時代に流行した合唱曲形式である「マドリガル様式」と呼んでいるように、賢治の牧歌的な詩が、無伴奏で多声的に歌い絡められます。

 ソプラノとアルトは Meiko、テナーとバスは Kaito の声で、パートごとに声質も少し変えて作成し、SONAR でコーラス効果やリバーブ効果を付けました。

 下記からは、直接 MP3 版を聴けるようにしておきます。

「高原」(MP3: 1.57MB)

海だべがど、おら、おもたれば
やつぱり光る山だたぢやい
ホウ
髪毛(かみけ) 風吹けば
鹿(しし)踊りだぢやい

written by hamagaki : カテゴリー「サイト更新

トラックバック


トラックバックリスト:


» 「高原」でMeiko,Kaito大活躍 from 管理人日記
お気に入りサイト、「宮沢賢治の詩の世界」で無伴奏合唱「高原」が聞けるようになってます。http://www.ihatov.cc/blog/archives... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年5月29日 23:42



コメント



 いつもすばらしい曲をありがとうございます。
 友人が花巻の言葉で初めて聞かせてくれた賢治詩が「高原」でした。せいせいするような、少しだけ滑稽感のある響きでした。
 草稿が「叫び」ですから、疾風に向かって詠じる仕方もあることでしょう。
 一鷲明怜さんのような怒涛にも聞こえ、この林光さんのように澄明にも聞こえ、「高原」は「初夏と修羅」といったような感じです。

投稿者 つめくさ : 2006年5月23日 09:14

 つめくさ様、お聴きいただいてありがとうございました。

 私の技術の未熟さもあり、また機械演奏の限界もあり、林光さんの音楽のすばらしさの何分の1も表現できていませんが、一般になかなか実演を耳にできる機会もないものですから、「こんな曲もあります」ということでお出ししました。

 こういった音楽の競演を生で楽しめるような、「賢治音楽祭」というようなものもあればよいのに、と思ったりします。

 今後とも、よろしくお願いします。

投稿者 hamagaki : 2006年5月23日 20:27

すばらしい合唱曲ですね。
言葉とメロディ、ハーモニーが
一つの世界を創りだしています。この世界に
私の入り込みたいと思いました。
 思わず、何回もきいてしましました。
 昔、高田三郎氏のアカペラの混声合唱組曲「心象スケッチ」(「水汲み」「森」「(さっきは陽が)」「(風がおもてで呼んでゐる)」)に感動していたことを思い出しました。
 この作品もこの詩に書いてある風景を追体験している
気にするような音楽の力を感じました。
 「水汲み」の「向ふ岸には 蒼い衣のヨハネが下りて」のところは、高田氏の音楽の力でより説得力を感じ、何回も夢中になって歌った事を思いだします。
 「高原」も一度歌ってみたいですね。

投稿者 toyoda : 2006年5月24日 20:41

 toyoda 様、こんばんは。

 コメントを拝見して、以前に林風舎で購入した、高田三郎の「心象スケッチ」の入ったCDを出してきて、聴いてみました。ご指摘の、「向こう岸には、蒼い衣のヨハネがおりて…」の箇所は、やはり胸にじーんときますね。お教えいただいて、ありがとうございます。
 このCDの解説書には、高田三郎氏自身による自作への注釈が掲載されていて、すでに toyoda 様はご存じの内容かもしれませんが、私にとってとても興味深かったので、以下に引用させていただきます。


   ぎっしり生えたち萱の芽だ
   紅くひかって 仲間同士に影をおとし
   上をあるけば距離のしれない敷物のように
   うるうるひろがるち萱の芽だ

と始められるこの詩は、

   ……水を汲んで砂へかけて……

とつづく、各節の終わりにリフレインのように出てくるこのことばは、農耕労働のひとつ、同じ動作の無限ともいえる繰り返し。眼は川辺を、川面、いろいろなものを見るが、体は、手は、同じ動作の繰り返し。そしてとうとう疲れ切った賢治は、敷物のようなち萱の芽の上に腰をおろし、遠くの雲を眺めるのではないだろうか。
 第三節には、

   向こう岸には、蒼い衣のヨハネがおりて
   すぎなの胞子(たね)をあつめている と、

 「十二使徒の中でひとりだけ若く、十字架の下にもいて、年をとってから福音書を書いた、イエスがもっとも愛しておられた弟子」。賢治は、向こう岸へ下りてきた少年を見て、このヨハネを連想したのであろうか。
[ 引用終わり ]

 すなわち、高田三郎氏はこの「ヨハネ」を、農作業の手伝いをしている「少年」のことと考えて、作曲をされたわけですね。曲のこの部分に特にあふれている「やさしい愛情」のようなものが、理解できるような気がします。
 私自身はこれまでここの「ヨハネ」というのは「神々しいような様子に見えた農夫」くらいに思っていましたので、「少年」とする解釈が、新鮮でした。自らもクリスチャンであり、「ヨハネによる福音」という作品もある高田三郎氏ならでは、という感じがしました。

 そして考えてみれば、「ヨハネ」のイタリア語名が、「ジョヴァンニ」ですね・・・。


投稿者 hamagaki : 2006年5月26日 00:25


コメントしてください




保存しますか?

(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)



← 前の記事へ | メインページへ | 次の記事へ →