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2006年3月27日 入沢康夫『アルボラーダ』

 Amazon から、入沢康夫さんの詩集『アルボラーダ』が届きました。

 刊行されたのは昨年の9月だったのですが、先日この詩集は、「その年に刊行された詩集・歌集・句集の中からそれぞれ最も優れたもの」として「第21回 詩歌文学館賞」を受賞したのです。同賞は、北上市にある「日本現代詩歌文学館」が制定しているもので、私も以前、花巻を訪ねたついでに、この文学館には行ってみたことがありました。

 入沢康夫さんが、フランス文学研究、賢治研究、賢治全集の校訂・編集において達成してこられた業績については、ここであらためて触れるまでもありませんが、同時に(というよりも、これこそが天職でいらっしゃるのでしょうが)、現代日本を代表する詩人として、時代の最先端で新たな境地を切り開きつづけておられる様には、つねづね凄みさえ感じています。

 『アルボラーダ』に収められた作品はじつに多彩なもので、それらについて正面からコメントできるような力を、私は持ち合わせていません。ただ一方で、私は以前から入沢さんの詩集を開くたびに、各々の詩そのものの鑑賞に加えて、そこかしこに「賢治の影」をさがすという、もう一つのひそかな楽しみも持っていました。
 それは、一方的な邪道の読み方ではあるでしょう。創造物としての「詩」と、現実の賢治研究者としての入沢さんとを、勝手に結びつけるべきではないですね。しかし、全篇に「校本全集」編集作業の余燼が燻るような『かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩』(1978)ではもちろんのこと、最近では『唄 ―遠い冬の』(1997)に収められた「準平原の雨」や「かつて座亜謙什と名乗つた人への最後のエスキス」、また『遐い宴楽 とほいうたげ』(2002)に収められた「燃焼」などを読む時、私は一介の賢治愛好家として、また別の感動も味わっていたのです。

 こんどの『アルボラーダ』では、「哀唱自傷歌」という作品に、萩原朔太郎、草野心平とともに賢治の「像」が登場するのに加え、さらに何と、「擬川柳・笹長根(三十七句)」「続・笹長根(擬川柳十句)」という連作は、すべて賢治の童話や詩の作品世界を、まるで掌に乗るような形で鮮やかに切り取った「擬川柳」が、全部で47句も並べられているという代物です。
 私は、これらを口誦しては声を上げて笑い、また胸に熱いものを感じながら黙読しました。

 で、そのような私は、その中の一部だけでもこの場所に引用させていただくという誘惑に、どうしても打ち勝つことができません。作者様、どうかお許しください。
 下記は、「擬川柳・笹長根」の最後の二句です。これ以外の句をご覧になりたい方は、下にある本の画像をクリックすれば、Amazon の該当ページに飛んで、直接注文ができます。



 

     晩年
たびたび病んで 夢はポラ野をかけめぐる        九捨


     照明
電球はなくとも 光 世に満つる               複霊





入沢康夫『アルボラーダ』   アルボラーダ
  入沢 康夫

  書肆山田 2005-09

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2006年3月26日 旧校本全集版歌曲「ポランの広場」アップ

 昨日今日と花巻では、賢治学会春季セミナー「宮沢賢治と温泉」が開かれているところですね。賢治も温泉も好きな私としては、参加できずに残念です。
 一方、当サイトでは、「歌曲の部屋」に「ポランの広場 (旧校本全集版)」をアップしました。

 現在も人気の根強いこの曲が、『【新】校本全集』において、題名が「〔つめくさの花の 咲く晩に〕」に変わっただけでなく、そのメロディーにも大幅な変更がなされたことについては、以前に「『【新】校本全集』における歌曲の校訂について」という記事で述べました。
 今回は、私なりの思い入れを持って、旧版の方の楽譜にもとづいた演奏データを作成してみました。例によって歌声は VOCALOID で、伴奏の方は「アコーディオンと鉄琴だけ」という単純なものです。

 同時に、podcast でも同じデータを MP3 で公開しました。下記からは、直接 MP3 がお聴きいただけます。

「ポランの広場 (旧校本全集版)」(MP3: 1.89MB)

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 written by hamagaki

2006年3月23日 「銀河鉄道の夜」の日本名登場人物

 『未だ見ぬ親』において五来素川氏が行ったように、外国を舞台とした物語を日本の人名・地名に置き換え翻案することの目的は、読者として想定される子供たちが、自分の生きている世界と作品世界を重ね合わせて、よりスムーズに主人公に感情移入できるようにすることにあると言えるでしょう。
 ここでかりにこのことを、作品の「同世界化」と呼んでおくことにします。

 これに対して、宮澤賢治の童話においてことさら目立つのは、「岩手」をわざわざ「イーハトーブ」と呼んだり、登場人物も「レオーノキュースト」や「ファゼーロ」であったり、はては「ペンネンネンネンネン・ネネム」などという奇天烈なものであったり、程度の差はあれとにかく作品世界を、現実の世界とはどこか「異質」なものとして構築しようとする、作者の意志です。
 前者に対比してこのことを、作品の「異世界化」と呼んでおくことにします。

 もちろん賢治の作品にも、「一郎」や「嘉助」や「三郎」が、典型的な東北地方の山村において日々をともにするというような、一見「同世界」を描いたものも数多くあります。しかしそれらも実はどこかに、妖しい「異界」を内包しているのです。最初は何の変哲もない現実世界であるかのように読者に思わせておくことで、異界が突然顔をのぞかせた時の効果を、高めようとしているのかと思われるほどです。

 このような「同世界化」と「異世界化」という機制は、いわば逆の方向を向いたベクトルですが、それぞれに固有の意味はあって、作家が意識するにせよしないにせよ、種々の作品において種々の形で作用していると考えてみることができます。

 前述のように、賢治の作品にはどちらかというと「異世界化」の方向性が目立つように思われて、同時代の中でもその傾向は顕著だったのではないかと、私はばくぜんと感じるのですが、文学史的にはどんなものでしょうか。
 小川未明や坪田譲治や新美南吉などの童話と比べてもそのように感じられますし、また鈴木三重吉が菊池武雄から賢治の童話原稿を見せられた時、「こんな童話はロシアへでも持っていくんだなあ」と言ったという逸話も、この意味で示唆的に思われます。


 さて、ここまでは一種の前置きで、ここからが今回書こうと思ったことなのですが、「銀河鉄道の夜」において途中から乗車してくる、女の子とその弟、家庭教師、という登場人物についての一つの感想です。

ますむらひろし版「銀河鉄道の夜」 「銀河鉄道の夜」という作品も、上に述べたような意味において、「異世界化」が顕著なものの一つです。「ジョバンニ」「カムパネルラ」「ザネリ」のように、主要な登場人物はイタリア名ですし、ジョバンニの家には「紫いろのケールやアスパラガス」が植えてあったり、姉が「トマトで何かこしらえ」たり、町のお祭りの名は「ケンタウル祭」だったり、賢治はすみずみまで周到に西洋的な雰囲気を張りめぐらせています。
 ますむらひろしさんが、この作品の登場人物を猫に置き換えて成功したのも、すでにこのように原作に強く働いていた「異世界化」という方向性があり、それに適確に沿うものだったからだと言えるでしょう。すなわち、「猫世界化」というのも、「異世界化」の一種だったわけですね(笑)。しかしこれが、同時代の他の作家の童話だったら、かくも絶妙の効果を上げることはなかったでしょう。

 で、ここで不思議なのは、このような物語の「異世界」の只中に、船とともに沈没して死んだ人として現れる3人のうち2人が、「かほる」「タダシ」という日本人名だったということです。さらに彼らの会話からは、2人の姉の名も「きくよねえさん」であることが示されます。
 私は以前から、ここで日本人が登場してくることに、奇妙な違和感を覚えていました。彼らは明らかにタイタニック号を連想させる船に乗っていたわけですし、小さな男の子は寝る前に夜空を見て「ツヰンクル、ツヰンクル、リトル、スター」を歌っていたといいます。またみんな敬虔なクリスチャンのようですし、とにかく名前以外はすべて「西洋的」なのです。こういう設定の人物を出すならば、西洋人の名前であった方が、ずっと自然なのではないでしょうか。
 逆にもしもこれが、「日本人らしい日本人」を登場させたのであれば、それはそれで理解できます。その場合には、作品の大枠が「異世界」である中、ここに一部分だけ日本人読者にとっての「同世界」を作ろうとしたのだと解釈することも可能になります。しかし、人物の属性が上記のように西洋的なものである以上、作者がこのような「局所的同世界化」を試みたと見ることもできません。
 では、ここで賢治が彼らを日本名にしたことには、いったいどのような意図があったのでしょうか。

 などということが心の底にあったところ、私が先日、五来素川訳『未だ見ぬ親』を読んでいてあらためて感じたのは、このような人物の「名前」と「設定」の間のズレによる違和感というのは、やや強引な「日本的翻案」による「同世界化」を施した当時の翻訳物には、すべてに付きまとっていたのだ、ということです。
 『未だ見ぬ親』では、「関谷新田のお文どん」が、「山羊の乳で作ったバタ」を使って「ソップ」を調理していましたし、「巴里の在所大野村の植木屋、青木作兵衛」は、温室の中できれいな花を栽培していました。ここには、なじみ深いはずのものと、異国的なものが混じり合ったような、奇妙な感覚が伴っています。それをどのように言い表したらよいか迷うのですが、たとえばやや大げさかもしれませんが、この宇宙とよく似ているが、少しだけズレているような「別の宇宙」に連れてこられたような感覚、とでも言いましょうか。

 日本的翻案を苦労して行った五来素川などの訳者たちは、もちろん意図的にこのような違和感を調合し加えたのではありません。なんとかして、異国的な雰囲気をできるだけ減らそうと努力し、それでも残ってしまう部分と、日本的な部分との間の偶然の相互作用から、このような感覚が生まれたのです。
 これに対して、賢治は銀河鉄道の乗客の一部を日本人名にすることで、自分が子供の頃に触れた翻案もの物語が持っていた独特の雰囲気へのオマージュとして、意図的にこのような「ズレ」の感じを作りだしたのではないかと、私は今回思ったのです。

 日本人名を使いつつも、「同世界化」という方向性とは逆に、「異界」の中に、さらに入れ子状にもう一つの「異界」を構築した、とでも言いましょうか。あるいは、「異界」から「こちら側」に出てきたと思ったら、やはり「別の異界」にいた、という「クラインの壺」のような空間を作った、と言いましょうか・・・。

 上に述べた「日本名であることの疑問」への、とりあえずの答えとして、そのようなことを考えてみたのです。

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 written by hamagaki

2006年3月21日 『未だ見ぬ親』

 今日は、万博公園にある「大阪府立国際児童文学館」へ行って、エクトル・マロ作/五来素川訳『未だ見ぬ親』(東文館,1903)という本を見てきました。その後、『家なき子』という訳題の方で有名になるお話ですね。
 宮澤賢治が小学校3年の時(1905)に担任教師だった八木英三教諭は、教室にこの本を持ってきて子供たちに読み聞かせ、賢治はとりわけこれを好んだということです。後年になって、賢治は八木教諭に会った時、次のように語ったそうです(堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』)。

私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです。その時分先生は「太一」のお話や、「海に塩のあるわけ」などいろいろのお話をしてくだすったじゃありませんか。その時私はただ蕩然として夢の世界に遊んでいました。いま書くのもみんなその夢の世界を再現しているだけです。

 この「太一」の話というのが、実は上記の『未だ見ぬ親』のことでした。『家なき子』といえば主人公は「レミ少年」だったはずですが、訳者の五来素川氏は、『未だ見ぬ親』表紙登場人物の名前や地名などを、日本風に置き換えて訳しているのです。
 「太一」が8才まで育った「シャヴァノン村」は「関谷新田」となり、育ての母は「関谷新田のお文どん」として紹介されるのがまずユーモラスです。
 太一が売られた旅回り一座の「ヴィタリス親方」は「嵐一斎老人」、犬の「カピ」は「白妙丸」、他の2匹は「黒鉄丸」、「小玉嬢」…などと、おもしろい名前を挙げていくときりがありませんが、一方で、国は「佛蘭西」、都は「巴里」であって、舞台そのものを日本に移し替えたわけではないのです。
 太一が倒れていたところを助けてくれた親切な男は、「巴里の在所大野村の植木屋、青木作兵衛と云ふ人」だったことになっていますが、たとえばこういうところに、江戸時代の戯作文学のような香りと、異国情緒も混じったような、独特の雰囲気が醸し出されています。


 さて、この『未だ見ぬ親』を読んで、一つ印象に残ったのは、「山羊が逃げる」というエピソードでした。なにがしかの金を稼げるようになった太一は、育ての母に山羊を贈ろうと考え、市場で山羊を買いますが、相棒の萬吉が近くで喇叭を吹いたのに驚いて、山羊は逃げ出してしまいます。二人はあわてて追いかけますが、山羊を捕まえてくれた人々に家畜泥棒と間違われて、警察に拘留されてしまうのです。
 また、嵐老人が死ぬ間際に、「むかし泊まった競馬場に行ってみる」と言って、太一とシロとともに向かいますが、競馬場には入れず、近くの道端で親方は亡くなってしまうという場面もありました。
 「山羊」にしても「競馬場」にしても、花巻で育った賢治にとっては、まだ見たこともない物だったでしょう。五来素川氏は、読者に馴染みが薄いであろう山羊という動物について、本文中に次のような解説を挿入しています。

 諸君は善く知らないであらうが、佛蘭西邊の百姓が山羊を売ると言ふのは餘程の事である、一體山羊といふ獣は大層柔和しくて、利巧で、乳のたんと出る極調法な動物故、佛蘭西邊の田舎では、諸君位の小いさな児が、二本の角へ打綱を掛けて、路の側や、畑の畔で、草を食はして居るが、能く其の児の云ふことを聞くし、又夕方にでもなると、乳を搾つて、ソップを造るバタにしたり、馬鈴薯を浸して食べたりするから、如何に家内が大勢でも、山羊が一疋ありさへすれば、田舎の百姓の家にしては、先づ食物に不自由は無い


 ところで、レオーノキューストやファゼーロなどといった人物が登場する「ポラーノの広場」には、太一や萬吉や白妙丸が活躍する『未だ見ぬ親』の物語世界とは対照的な、ひんやりとした異国の風を感じますが、舞台装置には共通している部分もあるわけです。
 「風の又三郎」には、「馬が逃げる」場面がありました。しかし、「ポラーノの広場」ならば、逃げる家畜は馬でも牛でもなく、やはり山羊が似つかわしいのでしょう。その山羊が飼われていたのは、レオーノキューストが一人で住んでいる「競馬場」の番小屋でした。
 初めの方に引用したように、賢治が、子供の頃に聞いた話の「夢の世界」を、後の作品に「再現している」と言っていたことが思い起こされます。


 下の画像は、この本に「口絵」として入っていたものです。名前は「太一」でも、姿はやはり金髪の少年ですね。傍らの美しい女性は、旅の途中で出会った「春日夫人」、最後には太一の実の母親と判明する面影です。
 賢治も、おそらく子供時代にこの絵を見て、心を躍らせたのでしょう。

『未だ見ぬ親』口絵

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2006年3月18日 耳ごうど鳴って…

 賢治の妹トシの最期の日の状態について、ちょっと思いついただけの無粋な話です。

 「青森挽歌」の中ほどに、賢治がトシの亡くなる間際のことをもう一度想起してみる場面がありますが、それは下記のように始まります。

 《耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい》
さう甘へるやうに言つてから
たしかにあいつはじぶんのまはりの
眼にははつきりみえてゐる
なつかしいひとたちの声をきかなかつた
・・・・

 ここでトシは、耳が突然「ごう」と鳴って、その直後から何も聴こえなくなってしまったということを訴えています。言葉はきちんとしゃべれており、聴力は失われたにしても、意識はまだはっきりしていることがうかがわれます。また、「眼にははつきりみえてゐる…」という表現から、視覚にも問題はない様子であったことがわかります。おそらく、ちゃんと周囲の人の動きを目で追ったり、言葉で反応したりしたのでしょう。

 この箇所について、渡部芳紀さんは「評釈『青森挽歌』」において、「としの言葉。死期が近づき、感覚が次第に失われ、耳も聞こえなくなってきた状態を訴えている言葉の回想。」と解説しておられます。
 しかし上に見たように、この時点ではトシは聴覚のみに障害をきたしていたと推測されるわけですから、「感覚が次第に失われ、耳も聞こえなくなってきた状態」と表現するのは、やや不正確でしょう。聴覚に関しては「次第に」ではなく突然に失われたようで、他の感覚はまだ失われていないと思われます。


 それでは、まだ意識も清明で他の感覚も保たれている状態で、聴覚のみが急に失われたとすれば、その原因としてはどのようなものがあるでしょうか。
 私が可能性として考えるのは、この時までにすでにトシの身体には「肺結核」や「腸結核」だけでなく「中耳結核」も進行していて、ここで耳が「ごう」と鳴ったというのは、結核結節による鼓膜の穿孔か、または中耳内での出血が起こったのではないか、ということです。

 中耳結核というのは、結核菌が肺から喀痰に混じって咽頭部へ、そして耳管を伝わって鼓膜の奥の「中耳」へと感染して起こる病変で、最近のように薬物療法が発達してからは非常に稀になりましたが、昔は肺結核の患者にかなりの割合で見られたということです。
 一般に中耳結核では、病変の拡大とともに徐々に難聴も進行しますが、ここでトシの耳がごうと鳴って「突然に」聴覚が失われたとすれば、前述のように、結核結節のために脆弱となっていた鼓膜が咳などの衝撃によって穿孔したか、あるいは中耳内で出血が起こったか、などの機序が考えられるのです。
 ただし、穿孔や出血は両耳で「同時に」起こる確率は低いですから、実際には、片方の耳はすでに高度の難聴になっていた上に、まだ聴力の保たれていた方の耳の聴力がこうして突然失われたので、この時点で急に「さつぱり聞けなぐ」なってしまったのではないかと考えられます。

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2006年3月15日 「黎明行進歌」のこだま

 先月に「黎明行進歌」の男声 VOCALOID 版を podcast して、iTunes Music Store にも登録していましたが、ふと気がつくと、これを海の向こうでも聴いていただいている方がいるようです。吉本ばなな氏のファンの方とお見受けしますが、賢治のこともかなりご存じのようですね。
 そのトップページを見ると、この歌をブログの「第一代主題曲」と位置づけていただいたようで、日本の賢治ファンとしても嬉しいかぎりです。

 ・・・ところで、「部落格」という繁体中国語を自動翻訳にかけると、「部落の格」などと訳されて出てくるのですが、前後関係から推測するに、これは「ブログ」のことなのでしょう。

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2006年3月14日 賢治関連のサスペンスドラマ?

 番組紹介の中に「宮沢賢治」というキーワードが含まれていたためか、うちのHDDレコーダーは、日テレで今晩放送された「妻の秘密・夫の不貞・姑の見栄」という2時間ドラマを、自動的に録画してくれていました。
 題名だけ見ると、どこが宮沢賢治やねん、という感じですが、よくサスペンスもので新聞のTV番組欄に付けられている長い「副題」のようなもの(?)は、次のとおり。

涙のホームサスペンス―盛岡発12時28分やまびこ56号空白の80分の謎―宮沢賢治の童話に隠された愛の悲劇…女心が鬼の心に変わった!」・・((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

 で、実際に番組を見てみると、なかなか「賢治の童話」が出てこなくてハラハラさせられたのですが、結局は「なめとこ山の熊」でした。

大空滝 池内淳子演ずる継母が、なかなか自分になついてくれない義理の娘(浅野温子の子供時代)に、絵本の「なめとこ山の熊」を読んでやることを通じて、はじめて「おかあさん」と呼んでもらえたという伏線があって、その後ある事情のために池内淳子が自殺を決意した時、「なめとこ山の熊」の絵本に出てきた「大空滝」を思い出して、その滝の前へ行って死のうとする、というのが一つの山場でした。

 「賢治童話」が小道具とされた意味あいはさておき、その場面では、私も一昨年に賢治学会春季セミナーでなめとこ山を訪ね、大空滝を遠望した時の景色が再現されて、しばし懐かしい思いにひたれました。

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2006年3月13日 「文語詩稿 五十篇」評釈七

 神戸の信時哲郎さんから、「近代文学ページ」の「文語詩稿 五十篇」評釈を更新したと、ご連絡をいただきました。今回はその「」として、「著者」「〔ほのあかり秋のあぎとは〕」「〔毘沙門の堂は古びて〕」「雪の宿」「〔川しろじろとまじはりて〕」という5つの作品について詳細な解説が付され、これで50篇のうち35篇までの評釈が、サイト上で読めるようになりました。

 私のような素人が、難解な賢治の文語詩を曲がりなりにも鑑賞できるのは、このような専門家の方々のお仕事があってのことで、その困難な峰々をお一人で着々と踏査して行かれる姿は、麓から仰ぎ見ても頼もしいかぎりです。

 たいへんな作業と思いますが、「五十篇」「一百篇」の完成を、楽しみにお待ち申し上げています。

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2006年3月12日 修羅のなみだはつちにふる

 昨夜は職場の同僚の人たちと奈良・東大寺の「お水取り」を見て、今日はあいにくの雨でしたが、五重塔も濡れてかすむ中、興福寺の「阿修羅像」を見てきました。

 日本に数ある仏像の中でも、この像はとくに人気の高いものでしょうね。それにしてもなんという切実な表情をしていることかと思います。真正面から向かい合うと、眉間にはひときわ力が入り、はたして何かを強く訴えているのか、あるいは求めているのか、いずれにしても迫ってくる情動がひしひしと感じられます。
 もとは仏教にとって「異教の神」であったことから、善と悪の両義性をかかえさせられ、六道の世界では「人」よりも下に置かれ、「怒り」や「攻撃性」の化身として皆から責められてきた‘asura’でした。

 像の身長はだいたい1.5mくらい、まるで少年のような顔立ちと肢体が特徴的ですが、奈良・天平時代というはるか古に、作者はいったいどんな思いをこめてこのような姿を造形したのかと思います。
 これが作られたとされる734年は、『万葉集』の時代絵巻では後期にさしかかったあたり、山部赤人や大伴旅人が活躍し、大伴家持はまだ十代だったはずですね。

阿修羅像

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2006年3月10日 雨ニモマケズタイピング

 くどくどしたお話がつづいてしまいましたので、ちょっと気分転換にタイプ練習などいかがですか。
 「雨ニモマケズタイピング」という Web ゲームがありました(ネコゲームス より)。 ・・・いえ、なにも吹きっさらしのところでタイピングする、というわけではありません(笑)。

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2006年3月 9日 文語詩定稿の形式について(3)

 賢治の文語詩定稿における詩句配置形が、親鸞の「和讃」の引用形のそれと関わっているのではないかなどという変な話のつづきに、あと少しだけお付き合いください。

 『文語詩稿 五十篇』『文語詩稿 一百篇』の定稿では、ほとんどは1行に「七・五」または「五・七」の句を縦に2つ配置しています。しかし、ごく少数だけですが、1行に3つの句を並べている作品もあります。「〔林の中の柴小屋に〕」、「山躑躅」、「氷上」がそれです。
 これらはすべて、[七+五]×3で1行になっていますから、詩としては1行が非常に長いものです。近代以降の詩では、このような形式のものを私は他にあまり見たことがないのですが、初期の「和讃」の中には、先日引用した「極楽国弥陀和讃」や、「栴檀瑞像和讃」というもののように、1行が[七+五]×3となっているものが散見されます。
 もっとも、これらを賢治が見知っていたかどうかはわかりませんが。


 あと、「双四聯」という言葉の意味するところについて、です。
 先日の記事でも触れたように、賢治はある文語詩草稿用紙の裏に、下記のような「メモ」を残していました。

    文語詩双四聯に関する考察
一、概説文語詩定型詩、双四聯、沿革、今様、藤村、夜雨、白秋、
二、双四聯に於る起承転結
三、格律、単句構成法、
四、韻脚、

 ここに出てくる「双四聯」という言葉は、文語詩の形式の名称のようですが、この聞き慣れない語の出典については、これまでの研究でもまだわかっていません。栗原敦さんは、その著書『宮沢賢治 透明な軌道の上から』(新宿書房)において、「宮沢賢治独自の造語であろうか、という判断に傾いている」と記しておられます。
 また、この「双四聯」が具体的にどのような形式を指しているのかということについても、現在のところ定説はありません。
 ただ、私が目にしたかぎりでは、これまでに下記のような示唆がなされています。

栗原案 まず、栗原敦さんは上掲書において、次のように述べておられます。

宮沢賢治の「双四聯」という用語は、あるいは(中略)、彼の「文語詩」に最も典型的な、句で前後つのにまとめられて連結されている型式を称するものとして造り出されたのかもしれない。

 これを図示すれば、右図のようになります。『文語詩稿 五十篇』の「上流」という作品を例にとってあります。
 この考え方では、作品全体を前半の2行と後半の2行に分けて「双」ととらえ(ピンクの楕円)、各々の内部に、「七・五」ずつの(一)~(四)を下位分節するわけです。

 一方、歌人の岡井隆さんは、著書『文語詩人 宮沢賢治』(筑摩書房)において、次のように書いておられます。

「双四聯」の中身は、わたしにはわからないが、実作から察すると、中国詩の五言律詩や七言律詩が、「二句を一聯とした四聯から成る」というのに、よく似ている。「上流」でいえば、一行が一聯に相当する。<秋立つけふをくちなはの、>と<沼面はるかに泳ぎ居て、>が、一つの≪双≫を成すととれば、その≪双≫句を四つつらねた「双四聯」という命名も、考えられなくはない。

岡井案 これを図示すれば、右のようになります。まず一行のうちの、上の「七・五」と下の「七・五」を「双」としてとらえ、これが(一)から(四)まで、「四聯」ならんでいると考えるのです。

 ただしお二人とも、これらを自説として「主張」するというスタンスではなく、あくまで一つ考え方として示唆するにとどめておられます。


 さて、この二つの解釈のうち、実際に賢治はどちらの意味で「双四聯」という言葉を使っていたのでしょうか。

 岡井隆さんが述べておられるとおり、漢詩における「聯」という語の原義から考えると、下図の解釈の方がもっともらしく思えます。
 「律詩」というのも、この例と同じく全体で八行ありますが、一行目と二行目を合わせて「第一聯」、三行目と四行目を合わせて「第二聯」と言うのです。

 しかし、先日からここに書いているように、賢治の文語詩定型を、「短和讃」、すなわち [七+五]×4 が、いくつか連ねられた形として理解するとすれば、また見方は変わってきます。
 この「上流」という作品は、いわば「短和讃」を2首連ねたものですから、全体を何らかの形で分節するとすれば、まず上方の図のように、前半と後半の2つの部分に分けるのが、妥当に思われるのです。ここで、ピンクの楕円で囲まれた単位が、「短和讃」=「今様」の1首にあたるわけです。

 というわけで、私自身はやや、上方の図の「栗原案」の方に傾いているところです。ただ命名法に関しては、「句で前後つの」と解釈するよりも、「聯」を「つらなり」という一般的な意味にとって、「四つの聯なりが双つ」と読む方が自然かな、と思ったりもしています。

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2006年3月 6日 日詰の思い出

 賢治の初恋の人かという説のある日詰の高橋ミネさんの実家跡を、この1月に私が訪ねてみたというブログの記事を見て、ミネさんの親族の方から、メールをいただきました。

 お話からすると、その方はミネさんの「曾甥孫」のお嫁さんにあたる、ということです。と言ってもわかりにくいですが、要は、その方のご主人の曾祖父が、高橋ミネさんの異母兄にあたるということです。
 屋号「高福」と呼ばれた高橋家は、戦前はとても繁昌していたそうですが、戦後は農地改革などもあり、現在はそのお店のあった土地も売却されています。
 以前そのお姑さんが、「宮澤賢治の初恋の人の事を調べてる先生が訪ねてきたけれど、昔を知る人は皆亡くなってるしね・・・」とおっしゃっていたということでした。「先生」とは、誰だったのでしょうか。


さくらばな
日詰の駅のさくらばな
風に高鳴り
こゝろみだれぬ。    [473]

 上の短歌は「歌稿〔B〕」の「大正六年四月」という章に収められています。岩手病院入院の3年後ですね。当時、賢治は盛岡高等農林学校の3年ですが、何かの理由で日詰の駅にやって来たことは確かです。日詰へ来ると「こゝろみだれぬ」というのは、やはり「初恋の人=高橋ミネ」説の、ごく小さな傍証の一つではないでしょうか。

 下の写真は、昭和49~50年頃に撮影された日詰駅の旧駅舎です。これは明治23年に建てられたということで、賢治が降り立ったのも同じこの建物だったわけですね。

旧日詰駅

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2006年3月 3日 文語詩定稿の形式について(2)

 「和讃」とは、平安時代中期に成立した仏教歌謡の一種です。和歌の音律とも共通した「七・五」からなる句を連ねていくという形式をとり、内容的には、仏や菩薩の功徳、仏の教えの尊さとありがたさ、祖師高僧等の行跡などを、誉め讃える歌になっています。

 それまで日本では、漢訳の経典を通して仏教を理解し受容するのが当然とされていましたが、この時代に、「和讃」という誰にでも理解でき口誦しやすい形式の歌が成立したことによって、日本人は初めて自分たちの言葉で、深い信仰について直接に語り合うことができるようになったわけです。ここにおいて仏教は、貴賤道俗を越えて広がるための重要な手段を得たわけで、それは潜在的に鎌倉時代の新仏教の出現にも連なる意義を持っていたと言えるでしょう。
 こちらに、現存する最古の和讃の一つと言われている千観の「極楽国弥陀和讃」をアップしておきます。[七・五]の句が3つ縦に並んで1行を成し、その23行で構成されています。だいたいにおいて初期の和讃(古和讃)は、このように長文であったようです。


 一方、歌謡の世界においては、平安時代の末期になると「今様」という形式が大流行します。当時、「今様」収集に精魂を傾けていた後白河法皇が、その成果を『梁塵秘抄』にまとめてくれたおかげで現代の私たちもその一端に触れることができます。
 その最も有名な歌の一つ、

 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の聲きけば、我が身さへこそ(ゆる)がるれ。(三五九)

のように、『梁塵秘抄』に収められた歌の大半は、[七+五]×4という形式をとっており、この音律は、後に「今様形式」とも呼ばれるようにもなります。

 さて、平安中期に誕生した「和讃」は、このような「今様形式」の影響も受けつつ、鎌倉時代に親鸞という巨人の登場によって、新たな展開を見せました。武石彰夫氏は、その著書『和讃 仏教のポエジー』(法蔵館)において、平安中期における和讃の最初の誕生を「第一次生成」、親鸞による革新を「第二次生成」と呼び、親鸞が作った和讃の特徴について、次のように述べておられます。

平安中期につくり出された古和讃の浄土讃歌が長和讃であるのに対し、四句一章独立した短和讃としてそれぞれ独立性を保ちながら連続していくという手法は、非連続の連続性とも考えられる。もちろん、この形式が『梁塵秘抄』法文歌の形式を受けていることは当然ではあるが、新しい詩型の創造を試みた点に、わが国の仏教歌謡史上、画期的な意味を持つものである。

 なお、「長和讃」とは[七+五]が何句も多数連ねられたもの、「短和讃」とは、先に「今様形式」と呼んだ[七+五]×4という形のものです。

「浄土和讃」第一首 親鸞が書き残した和讃は、『三帖和讃』と総称される「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末浄土和讃」を中心として、500首以上にのぼっています。
 ということで、実際に親鸞の和讃を見てみると、その元来の詩句の配置形態は、すべて[七+五]を1行ずつ分けて書き、1行目だけ1字上げて書き出される、というものです(右図)。
 親鸞のすべての和讃は、同様の形で表記されているのですが、しかしこれでは期待に反して、賢治の文語詩定稿の詩句配置とは、まったく異なっていますね。前回の記事で、私が勝手に「マトリックス型」と呼んだ彼の文語詩定稿の形式は、[七+五]が2つ縦に並べられて1行となり、それが2行で1組、さらにそれが2組あるいは数組並べられる、というものでした。

 その後、いろいろ調べてみてわかったのは、「マトリックス型」の形式で和讃の詩句が記されるのは、そのテキストを「注釈書」などにおいて引用する際の形であるということでした。
 以下に、明治時代に刊行された親鸞の和讃の注釈書において、和讃が引用されている箇所を例示してみます。リンク先は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」です。

 ここでは、ほとんどの引用は短和讃の「1首ずつ」ですので、[七+五]を縦に2つ並べたものが横に2行、本文の間に並んでいます。しかし、武石彰夫氏が上に述べておられるように、この1首ずつが、「それぞれ独立性を保ちながら連続していく」のが親鸞の和讃の特徴ですから、たとえば4首をまとめて引用すれば、前回の記事で例示したように、2行ずつが組になりつつ総計8行の詩句になるわけです。

 賢治の『文語詩稿 五十篇』および『文語詩稿 一百篇』に収められている作品の多くは、賢治の言う「双四聯」、すなわち「縦に2句×4行」で、上の表現にならえば短和讃が2首並んだ形です。次に、「〔月のほのほをかたむけて〕」のように8行(短和讃4首分)のもの、「〔翔けりゆく冬のフエノール〕」のように2行だけ(短和讃1首分)のものがあり、珍しい形としては、「〔たそがれ思量惑くして〕」のように6行(短和讃3首分)のもの、「〔沃度ノニホヒフルヒ来ス〕」のように16行(短和讃8首分)もあるものもあります。

 賢治は、ある詩稿用紙の裏に「文語詩双四聯に関する考察」と題したメモを残していて、その中には、「一、概説 文語定型詩、双四聯、沿革、今様、藤村、夜雨、白秋、」という一節があります。すなわち、文語詩の形式を考えるにあたって彼が「今様」を一つの参考にしたのは確実と思われますから、その型が、[七+五]×4という「今様形式」を基本単位としているのは、いわば当然のことと言えます。これだけならば、何も和讃の形式などを持ち出してくる必要はありません。
 私が、ここでことさら親鸞の和讃にこだわってみたのは、「今様」だけでは、賢治の文語詩の形式の成り立ちを理解するのに、不十分のように感じるからです。
 一つには、少なくとも『梁塵秘抄』に収められた「今様」は、すべてが[七+五]×4だけで完結していて、そこには賢治の文語詩のように、その2首分・3首分・4首分・8首分などが連ねられた形のものはありません。
 もう一つは、『梁塵秘抄』においては、[七+五]×4がすべて縦に1行に記されていて、賢治の文語詩定稿のような「マトリックス型」の配置は見られません。
 これに対して、「親鸞和讃の引用形」においては、上記の二点がちゃんと満たされているのです。

 賢治が、子供の頃から開いて見ていた父親の蔵書の中には、必ずや親鸞の和讃の注釈書があったはずです。そこで彼が目にしていた独特の詩句配置型が、最晩年になって、文語詩の形式の中にふたたび浮かび上がってきたのではないか・・・、そんなことを私は思うのです。

[この項まだつづく・・・?]

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2006年3月 1日 文語詩定稿の形式について(1)

 余命あと1ヵ月となった1933年8月、病床の賢治は『文語詩稿 五十篇』と『文語詩稿 一百篇』の清書を終えました。彼は出来上がった原稿を大事にそれぞれのケースに収め、「なっても駄目でも、これがあるもや」と家族に言い、ケースの表書きには、生涯でただ1度だけ、「定稿」という言葉を書き込みました。
 この2束の「定稿」に対する彼の思い入れの在り処に関しては、これまでも研究者によってさまざまに論じられていますが、素人の私などが見てまず外形的に最も目立つ特徴は、ほとんどの作品テキストに共通している、独特の行配置です。

下書稿(三) それは、たとえば先月にここで言及した「〔水と濃きなだれの風や〕」という作品を例にとれば、右のようなものです。
 定稿の直前の「下書稿(三)」では、ふつうのごく一般的な「詩」と同じく、各行は右から左へ、順々に並べられていきます。

 これに対して「定稿」では、内容にはさほど大きな変更はないのですが、行の配列の仕方に、大胆な改変がなされます。下書稿において横に並べられて定稿いた1行目と2行目は縦に並べられ、3行目と4行目以下も同様です。(右図)
 この時、もとの偶数行目は、上の詩句から「一定間隔を置いて」書かれるのではなく、すべて「頭を揃えて同じ高さから」書き出されています。
 さらに、行と行の間隔に関しても、通常の割り付けとは意識的に区別するかのように、大きな詩稿用紙の一面全体を使って、ゆったりと配置されます。

 言ってみれば、下書稿において詩句はただ横方向に、一次元的に配列されるだけだったのに対して、定稿においては、それは縦と横と2つの方向性を持って、二次元的に展開されるのです。その配置の仕方は、たとえば数学の「行列(マトリックス)」を連想させます。

 ここにおいて彼の「詩」は、形態的な面においても、より「構造性を高めた」と言えると思います。五・七または七・五の音数律を持った各構成要素は、単純に横に並べられるのではなく、平面上の縦・横に、ある規則性を持って配置されるようになったのです。
 たとえば鉱物が結晶化する時、全体の硬度を増すとともに原子の配列は立方体や正八面体など幾何学的な構造をおのずから形づくるように、賢治の文語詩も「定稿」となった時、その内容の比類なき密度とともに、形式においても独特の均整のとれた「型」を獲得したのです。


 つねづね私は、賢治の文語詩定稿に見られるこのような「マトリックス型」の詩句配置の由来は、いったいどこにあるのだろうかと、気になっていました。彼が遺した厖大な草稿群を見ても、このような構造は最後の夏の『文語詩稿 五十篇』『文語詩稿 一百篇』において、ほぼ突然に現れます。彼自身がそれまでに試行錯誤を重ね、徐々に形成してきたという様子ではないのです。
 すなわち、この「型」は賢治が一人で考え出したというよりも、何らかの下敷きになる原型がすでに存在していて、彼は最後の夏に思い立ってそれを定稿の清書に「採用」したのではないかと、私は感じたりもしていたのです。

 その原型の候補として、近代以降の韻文の中では、1882年(明治15年)に刊行された『新体詩抄』のテキストが、まず目につきます。
 たとえば、『新体詩抄 初編』の最後に収められている「春夏秋冬」という詩は、賢治の文語詩定稿と同じように、一つの行が前半と後半の2つの節に分かれていて、後半の節は同じ高さから頭を揃えて記され、3行ずつが一まとまりをなすという「構造」になっています。こちらからは、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」に収められたその画像が見られますので、ご参照ください。
 また、よく似た詩句配置は、大正時代の中勘助の詩の一部にも見られます。しかしいずれにしても、賢治のように2行ずつが組になった定型とは、なかなか一致するものではありません。


 そんな折にたまたま私は、瓜生津隆真著『龍樹―空の論理と菩薩の道』(大法輪閣)という本をぼんやりと眺めていて、下のようなテキストを目にしました。

瓜生津隆真『龍樹』

 上に引用されている8行の詩句は、親鸞が書いた『高僧和讃』の一部です。それは、「七+五」×2(上下)が1行をなし、それが2行で1組、さらにそれが4組並んでいる、という構成です。これはちょうど、『文語詩稿 五十篇』ならば、「〔月のほのほをかたむけて〕」、「流氷(ザエ)」 、「雪の宿」、「〔川しろじろとまじはりて〕」などの作品と、まったく同じ形になっているではありませんか。
 そして、親鸞の書物ならば、父が浄土真宗の篤信家であった賢治の家にはほとんど全てが所蔵されており、彼もきっと物心ついた頃から目にしていたはずなのです。

[次回につづく・・・]

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