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2006年2月16日 とらよとすればその手から…

 『春と修羅』所収の「習作」は、おもしろい形をした作品ですね。テキストの途中から罫線が引いてあって、賢治の独り言のような言葉が進行していくのと並行して、線の上には、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という当時の流行り歌の歌詞が並べられています。
 賢治の「心象スケッチ」のテキストにおいては、しばしば種々の括弧を用いたり「字下げ」をしたりして、様々なレベルからの「声」が表現されていますが、これはまさに朗読と一緒に歌謡曲のSPレコードを流しているような、多声音楽的(ポリフォニック)な響きです。

 この「とらよとすれば・・・」という歌は、北原白秋作詞、中山晋平作曲による「恋の鳥」という歌の一部で、1919年の元日から東京の有楽座で上演された歌劇「カルメン」の劇中歌として、松井須磨子によって歌われました。
 『新宮澤賢治語彙辞典』において指摘されているように、正しくはこの歌の歌詞は、第一連では「捕へて見ればその手から…」、第三連では「捕らよとすれば飛んで行き…」であり(下記参照)、賢治はこれらを混同しておぼえていたようです。

 実際の歌がどんなものだったのだろうと、私は昔から気になっていたのですが、これが入っている『小沢昭一が選んだ恋し懐かしはやり唄 四』(COLUMBIA COCJ-30749)というCDを、つい先日買ってみました。
 ほんとうは、その演奏をここにアップしたいところなのですが、そのままでは著作権に触れてしまいますので、耳コピーをもとに歌声合成ソフト‘VOCALOID’に歌わせてみたのが下記のMP3です。とりあえず「習作」のテキストと関わる、一番と三番だけを演奏しました。どうぞお聴きください。

「恋の鳥」(MP3: 1.63MB)

一、
  捕へて見ればその手から
  小鳥は空へ飛んでゆく
  泣いても泣いても泣ききれぬ
  可愛いい可愛い恋の鳥
二、
  たづねさがせばよう見えず
  氣にもかけねばすぐ見えて
  夜も日も知らず、氣儘鳥
  來たり往んだり風の鳥
三、
  捕らよとすれば飛んで行き
  逃げよとすれば飛びすがり
  好いた惚れたと追つかける
  翼 火の鳥、恋の鳥
四、
  若しも翼を擦り寄せて
  離しやせぬぞとなつたなら
  それこそ、あぶない魔法鳥
  恋ひしおそろし、恋の鳥


 いかがでしょうか。

 私は、賢治のテキストからなんとなくこれは長調の歌かと思っていたのですが、切々とした短調のメロディーですね。

 じつは松井須磨子によるこの「カルメン」公演は、悲劇的としか言いようがない幕切れを迎えます。「芸術座」の主宰者であり彼女と愛人関係にあった島村抱月が、前年の1918年(大正7年)11月5日に「スペイン風邪」で急死芸術倶楽部した後を追い、松井須磨子はちょうど2ヵ月後の1919年1月5日、公演の最中に自殺を遂げてしまったのです。抱月と須磨子の不倫の恋は、格好の「ワイドショー・ネタ」として当時の論争の的でしたが、まさにドラマチックなその結末に、世間も騒然となったということです(右写真は、2人の死の舞台となった「芸術倶楽部」)。
 松井須磨子の死によって「芸術座」は解散し、しかしまもなくカルメン公演は、「新芸術座」によって引き継がれました。こちらのページの下半分からは、新芸術座の中山歌子による「酒場の歌」「煙草のめのめの歌」を聴くことができます。演奏は1919年5月とのことですから、貴重な録音ですね。


 さて、賢治にとっての1918年暮れから1919年初めというと、母親とともに妹トシの看病のために、ちょうど東京に滞在していた頃でした。

 島村抱月の命を奪った「スペイン風邪」とは、ご存じのようにインフルエンザのことですが、このウイルスは1918年から1919年にかけて、人類史上空前の世界的大流行(パンデミック)をきたしました。
 ちょうど現在も世界各地で危惧されているのと同じように、鳥の体内で自然に突然変異したインフルエンザウイルスは人間に対する高病原性を獲得して、第一次世界大戦の兵士の移動とともに、地球規模の拡散をしてしまうのです。西部戦線から始まった大規模感染は、まずスペインを席捲したことからこの名が付き、その後全世界で感染者は6億人、死者は3000万~4000万人とも言われました。日本でも、この冬に約150万人が感染し、15万人が死亡したとのことです。

 ちょうどこのような時期に、高熱と肺炎症状を発症したトシは、当初は医師からチフスの疑いと言われていましたが、年が明けて1月4日付けの賢治の書簡[103]では、「悪性のインフルエンザ」と診断された旨が報告されています。
 後から振り返れば、この時のトシの病状は、当初から結核性の肺炎だったと言わざるをえないのですが、上記のような世界的状況からすると、当時の日本における感染症学の第一人者であった二木謙三博士でも、インフルエンザと誤診してしまったのは無理からぬことかもしれません。

 3月にまで及んだ賢治のこの東京滞在中に、彼が実地に「カルメン」を見る機会があったのかどうかはわかりませんが、松井須磨子の自殺などをめぐるセンセーショナルなニュースは、きっとまぢかに体験して強い印象を受けたのではないでしょうか。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について

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コメント



 初めて花巻に行ってきました。
 とにかくイーハトーブ館への生き方は
行き当たりばったりで、花巻の方に親切に
していただきました。
 イーハトーブ館にある佐藤成氏がかいた
「『応援歌』バルコク、バララゲ考」の記事を
手に入れる事が目的でした。
 
 習作についての指摘は、中村節也氏が「賢治歌曲のルーツ」で指摘され、興味深く私も読んだことを覚えています。
 氏はバックグランドミュージックとして捉えられて
いますね。佐藤泰平氏もそのように捉え、 例えば、『春と修羅 第二集』の朝焼けの美しさを歌った「東の雲ははやくも蜜のいろに燃え」を、Abendlied(夕べの歌)のレコードをかけながら、朗読しています。
 言葉が展開する時、音や光、色、空気、においなど
様々な要素が同時に絡まってきたと思います。
 それは、冬の花巻の景色を見て、歩いて思いました。
重い荷物を持って(滝沢村出身の知り合いから着る物沢山持って行きなさいと注意され、そのとおり着る物を沢山入った思いバックとノートパソコン用バックの二つを抱え)花巻のどこかわからないバス停でかさを持たないままボーとたっているときの空気の味や空気の重さを
味わいイーハトーブ館までの車の中から見た景色、花巻駅周辺を今度はロッカーに荷物を預けましたが、雪の中を歩いて(当時とは全然違う景色だろうと思いますが
賢治が110年前は生まれ、育ったところですから)、
賢治がいたところを体で感じればもっと
彼の詩を味わえるなと思いました。

 また、機会を見つけて行くつもりです。
 

投稿者 toyoda : 2006年2月18日 02:08

 toyodaさま、お帰りなさい。

 雪の花巻の景色、その「空気の味や空気の重さ」が伝わってくるような文章をお寄せいただき、ありがとうございます。
 今回のご旅行が、toyodaさまにとって有意義なものであったことを、心からおよろこび申し上げます。

 私も、今年は5月(連休)・8月(お盆)・9月(賢治祭)あたりのいずれかに、またなんとかして花巻に行きたいと思っています。
 今後とも、よろしくお願い申し上げます。

投稿者 hamagaki : 2006年2月19日 16:08

はじめまして。私も、このブログを拝見して、イーハトーブへ一人旅に出かけたものです。イーハトーブの風の虜になりました。「敗れし少年の歌へる」美しいですね。私の好きな画家 松本竣介も宮澤賢治を尊敬していたことを最近知りました。
 乖離の世界に流れるイーハトーブの風に思う存分に吹かれていたいと思います。
ありがとうございます。

投稿者 ゆふ : 2006年2月20日 07:59

 ゆふ様、はじめまして。コメントをいただきありがとうございます。

 ゆふ様の一人旅は、いかがだったでしょうか。私の記録が、少しでも旅のお役に立ちましたら光栄です。
 私がはじめて花巻を訪ねた際の印象は、今も時々思い出すのですが、夕方に新花巻駅に着いて、タクシーで北上川の橋にさしかかった時、ああこれでついに自分はイーハトーブにやってきたんだと、胸に迫るものがありました。前を見ると、江釣子森山のユーモラスに盛り上がった姿がありました。

 どうか今後とも、よろしくお願い申し上げます。

投稿者 hamagaki : 2006年2月20日 22:49


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