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2006年1月 9日 花巻(3)〜日詰

 今日は、青空も広がっています。ホテルの1階の「マグノリア」と名づけられた小さなレストランで朝食をとって、2晩泊まった宿をあとにしました。結局、ネット環境は快適でしたが、グランシェールに比べると眺めや部屋の造りでは一歩譲ります。賢治詩碑からは、より近い場所でした。

 駅で荷物をコインロッカーに入れると、9時23分花巻発の下り普通列車に乗り、3つめの駅である「日詰」で降りました。
 この日詰の駅は、本来の日詰の町並みからはかなり南はずれに位置していますが、これは1890年に東北線が盛岡まで開通した時、町の人々は「近くに駅ができると汽車の火の粉で火事になる」と駅舎建設に強く反対し、当時の隣村の赤石地区に追いやってしまったのだということです。おかげで、今日の最初の目的地である「五郎沼」に行くのには好都合になっています。

 日詰駅から雪道を数百mほど南に歩いたあたりで、時折「ガーガー」という水鳥系の鳴き声が聞こ五郎沼1えはじめました。薬師神社の前を通りすぎると、目の前には一面凍結して、雪の積もった五郎沼が現れました。その広い雪原には、白鳥と鴨がたくさん鳴きかわしています。この五郎沼は、冬は白鳥の飛来地になるのです。
 鳥たちは人によく慣れていて、私たちが岸辺に向かっていくと、白鳥も鴨も自分から近寄ってきます。しかし何もえさをくれないとわかると、また離れていきます。

 今日、まずこの五郎沼に来てみた理由は、『春と修羅 第二集』所収の「産業組合青年会」の元となった「草稿的紙葉群」と呼ばれる下書きの終わりの方に、「こゝはたしか五郎沼の岸だ」などの記述があり、この夜に賢治が一人でこの沼へやってきたと思われるからです。
五郎沼2 「このまっ黒な松の並木を/はてなくひとりたどって来た」とか「くっきりうかぶ松の脚」という字句も出てきますが、実際に沼の西岸には、松の並木があり(右写真)、賢治はこの沼の西側の道を歩いたのかと推測されます。
 「むかし竜巻がその銀の尾をうねらしたといふその沼・・・」という部分もありますが、これについては栗原敦さんが調査をされ、「お菊の水」という地元の伝承があって、「紫波郡片寄のマタギ十兵衛に殺された五郎沼の主の大蛇が、十兵衛のもとに娘となって生まれて来るが、21の年に正体が現われ大暴風雨を起こして飛び去っていく、という話を記載しておられます(『宮沢賢治 透明な軌道の上から』)。この「草稿的紙葉群」からは、後に文語詩「水部の線」も生まれていますが、ここでも「竜や棲みしと伝へたる/このこもりぬ」として出てきます。「こもりぬ」という言葉から想像していたよりは、周囲の開けた沼でした。

二羽の白鳥 ところで、「草稿的紙葉群」と「水部の線」に共通するのは、一種の「恋心」のような作者の思いです。とりわけ「水部の線」においては、「きみがおもかげ うかべんと・・・」と、「きみ」という二人称まで出てきます。またその推敲の途中では、題名が「おもかげと北上川」とされた段階もあります。
 はたしてこの「おもかげ」の「きみ」とは、誰か具体的な人を指しているのでしょうか。この夜、賢治の心にあったのは、いったいどんな記憶だったのでしょうか。

 ここで私がどうしても気になるのは、この五郎沼は日詰の町の近くにある、ということです。日詰というのは、昨日も少し触れたように、賢治の初恋の人が生まれ育った町ではないかと推測されている場所なのです。

 次は、志賀理和気神社その日詰の町に向かうことにします。五郎沼をあとにして、国道4号線を北に向かって歩き、途中ではこの地方で由緒正しい「最北の延喜式・式内社」である「志賀理和気神社」(右写真)にも立ち寄りました。
 結局、沼から都合3kmほど歩くと、「日詰商店街」に入りました。「銭形平次」の作者である野村胡堂の出身地ということで、町のあちこちに「銭形平次のふるさと」というコピーが掲げられています。商店街の人々は、やっと晴れ間がのぞいたことに安堵するかのように、道路の雪かきに精を出しています。

 もちろん、日詰出身の高橋ミネさんという看護婦が、賢治の初恋の相手であったという確証はまだ見つかっていないのですが、賢治がある時期この町の「城山」を眺めつづけていたことを思うと、やはり私もこの町を見てみたくなったのです。
 小川達雄氏の『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』によれば、「ミネは明治29年に日詰町の仲町、以前中央バスの営業所があった所の八百屋『高福』に生まれています」とのことです。「以前中央バスの営業所があった所」というのが私にはどこかわかりませんが、検索でたまたまヒットしたこちらのページを見ると、現在の店舗名がわかりました。あと、商店街の地図で確認すると、なんとか行けそうです。

八百屋「高福」があった場所 さて、商店街に入って歩いて行くと、店はネットで見つけた地図のとおりに並んでいます。500mほど進んだあたり、右写真の2軒のお店の場所が、以前のバス営業所、そしてその昔に八百屋「高福」があったところです。ここで、賢治の初恋の人が生まれ育ったのかもしれないのです。
 まあ、ここに行って見てみたからどうなるというものでもないのですが、でも確かめることができると、なんとなくホッとしました。はたして賢治自身は、ここに来てみたことはあったのでしょうか。

 「産業組合青年会」という作品は、賢治が五郎沼の近く、すなわち日詰のあたりの青年会か何かに出席して、何らかの講演をした際の出来事がもとになっていると推測されます。「今日のひるまごりごり鉄筆で引いた/北上川の水部の線」という一節からは、講演のために自分でこの地域の地質図か何かを作成していたのかとも思われます。
 会合そのものは、賢治にとってかなり耳の痛い言葉も出るものだったことが作品から感じとれますが、その終了後に、賢治は不思議な高揚感を感じつつ、一人で五郎沼の近辺を歩いたのでしょう。

 作品の中の「きみがおもかげ」という言葉は、賢治が過去において出会い、その後は長らく会っていない人物を想像させます。そしてその人への思いの表現の仕方は、やはり恋心と解釈せざるをえません。
 そうなると私としては、岩手病院における「初恋」のことがどうしても思い浮かぶのです。この日、たまたま講演に呼ばれて日詰の近くまで来たことが、賢治のはるか昔の記憶を呼び覚ましたのではないでしょうか。そして、あらためてかの人の「おもかげ」を浮かべ追憶にひたろうとして、一人で沼までやってきたのではないでしょうか。
 また逆に、作品中にこのような表現が唐突に出てくることが、賢治の恋が五郎沼の近辺と何か関連があることを示唆しているとも言え、「日詰出身の高橋ミネ」説の間接的な補強になるのではないか・・・、などと思ったりもします。
 思えば、岩手病院に入院した「初恋」が1914年ですから、この作品の1924年まで、ちょうど10年がたっていたわけです。

 あれこれ勝手な空想の翼は広がりますが、謎を秘めた日詰商店街を後にすると、今度は「紫波中央」駅まで歩いて、JRに乗って花巻に戻りました。
 昼食は、不動大橋を南に渡ったところの「HAIKARA-YA」というレストランでとりました。ここは、ピザ焼きの専用の窯を備えているというのがセールスポイントの一つで、そのピザ(ゴルゴンゾーラやモッツァレラなどの載ったフロマッジオ)と、オムライスを食べました。さすがにピザは秀逸でした。

 その後、HAIKARA-YA から賢治詩碑まで歩いて、いちめん雪の広場と変わった羅須地人協会跡を歩きました。
 空港ロビーでは、高校サッカー決勝を中継しています。途中まで見て、16時25分に飛び立ちました。

雪の向こうに立つ賢治詩碑

written by hamagaki : カテゴリー「賢治紀行



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