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2005年11月 6日 《ヘッケル博士!》への呼びかけに関する私見

 長大な「青森挽歌」のおよそ中ほど、「ヘッケル博士」が登場するところの前後を抜粋します。

わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちいさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた
   《ヘツケル博士!
    わたくしがそのありがたい証明の
    任にあたつてもよろしうございます》
 仮睡硅酸の雲のなかから
凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……
 (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)
たしかにあのときはうなづいたのだ

 ここで賢治は、トシの臨終のまさにその瞬間のことを思い出しているわけですね。そしてその最中に、問題の《ヘッケル博士!・・・》が唐突に現れます。
 テキストのこの部分について、秋枝美保氏は『宮沢賢治 北方への志向』(朝文社)の中で、次のように整理しておられます。

 この箇所の《 》内の言葉の解釈については、すでに、藤原定、小野隆祥、龍佳花、大塚常樹、萩原昌好、鈴木健司ら多くの言及があり、解釈の揺れが甚だしい。それは、妹を失ったことによる賢治の信仰の揺れがどこにあったかという、『春と修羅』第一集中、最も重要な問題と関わっており、それが、非常に難しい問題であるからだと思われる。その解釈は、大きく二つの立場に別れている。詩人自身が、ヘッケル博士と同じ霊魂死滅説をとっているとみるか、または、その反対の霊魂不滅説をとっていると見るかの二つの立場である。

 ここで示された「霊魂死滅説か霊魂不滅説か」という分類軸は、秋枝氏も含め、上に挙げられた研究者の、この箇所の解釈の問題意識を反映したものです。
 すなわちこれらの方々の多くは、「そのありがたい証明」とはいったい「何の」証明なのかという問題に関して、それは「(ヘッケルの主張した)霊魂死滅説の証明」である、と考えておられるのです。

 これに対して私は、この箇所における「そのありがたい証明」とは、ヘッケルの唱えた「反復説」の証明のことではないか、と思うのです。
 私がそう考える理由は、大まかに言えば次の二つです。

 まず賢治の側から見れば、そもそもこの「青森挽歌」という作品において賢治が悩んでいるのは、「トシの魂が死滅したのか不滅なのか」という点に関してではないからです。
 仏教を深く信じていた賢治は、死んだトシの魂がどこかに輪廻転生しているのは当然の前提とした上で、はたしてその転生先が「畜生」なのか(140行〜148行)、「天」なのか(154行〜177行)、「地獄」なのか(178行〜191行)、ということを心配しています。そして、たとえ望むように通信がかなわなくても、賢治はトシの魂が死滅したなどとは考えもせず、相互の通信を阻むもの(「タンタジールの扉」など)のせいなのかと思いをめぐらせました。
 「青森挽歌」における賢治の葛藤は、トシが死後どこに転生したのかという問題、そしてそのような事柄にとらわれている自分自身は、結局は肉親の情への執着から抜け出せていないのではないか、という問題にあります。ここには、賢治がことさらヘッケルに託して「霊魂死滅説」を取り上げるべき文脈は見出せません。

 またヘッケルの側から見れば、彼の学説にはたしかに「霊魂不滅」を認めないという主張も含まれますが、逆に、「霊魂死滅」を直接的に主張しているわけでもありません。「不滅」を否定しながら単純な「死滅」でもないというのはわかりにくいですが、これは彼が唱えた「一元論哲学」の独特なところです(「エルンスト・ヘッケル博士とその業績(2)」参照)。
 その主張するところによれば、すべての「存在」はその一側面として、存在の性質によって異なる様々な段階の「精神性」を備えているというのです。個人的な魂が死後も存続するという考えは明確に否定しますが、一方で無機物にも、「精神的(霊的)」な側面があると考えます。したがってヘッケルの説によれば、人間が死んでも、その構成物質がそれぞれ帯びている「精神性」は存続することになり、他の一般の霊魂死滅説とは、やや異なったものです。
 ヘッケルの説はこのようなややこしいものですから、もし賢治が「霊魂死滅説」の代表的論客をここで登場させたかったのなら、適任者はもっと他にたくさんあったでしょう。いきなり「ヘッケル博士!わたくしがそのありがたい証明の・・・」と言われた時、「その」と指示された内容が「霊魂死滅説」であると解釈するのは、ヘッケルの学問体系全体から見ると、非常に偏った解釈であると私には思えます。
 もしもこれが、ヘッケルの「反復説」や哲学的「一元論」だったなら、当時のドイツにおいても日本においても、これらは彼の代表的学説として知られていた事柄ですので、「そのありがたい証明」として言及されるのも、より自然に感じられるところなのです。

 そういうわけで私は、「青森挽歌」のこの箇所で、賢治はヘッケルの「反復説」のことを持ち出しているのだと思うのです。
 「反復説」とは、ここに最近しつこく書いているように、「個体発生は系統発生を反復する」という生物学的仮説のことですが、これは賢治にとっては、「輪廻転生説の科学化」のように感じられていたのではないかと、私は思っています。

 仏教においては、衆生は「解脱」をしない限り、地獄―餓鬼―畜生―修羅―人―天、という「六道」に生まれ変わり続けるとされています。一方、反復説によれば、すべての生き物は誕生の際に、進化的により古い原始的な段階を順に経過した後、成体に達すると考えられます。人間も始めは卵から、魚や爬虫類の状態を連続的に経て、最後に人間になるというのです。ここでは、「畜生」と「人」の生命が直接つながっていることになります。
 また当時は、現生人類に至る前段階に、攻撃的な「野蛮人」的段階が想定されていましたから、これは「修羅」に相当すると考えることもできますし、ヘッケルが「未来の人類」として構想した理想的な「高等文化民族」は、現在の人間から見れば、超越的な「天」に相当する段階と言えなくもありません。
 すなわち、ヘッケルの「反復説」は、生き物がまるで「畜生→修羅→人→天」のように変態をとげるということを、科学の名のもとに主張したわけです。

 この問題に関連して、「小岩井農場」の中には、賢治が生物学と輪廻転生説をどう関係づけていたかということを、示唆してくれるような一節があります。終わり近くの次の部分です。

すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといつても
それがほんたうならしかたない

 初めの2行は、進化論的・個体発生的な生物の連鎖系列のことを指していると思われます。そして、次の「この命題は可逆的にも正しく」という箇所が、賢治にとっては重要なところです。
 すなわち、ほんらい生物学的には、種は自然選択によって適者生存の方向へ変化(=進化)し、個体は発生過程で未熟な段階から成熟した段階へと変化(=発生)していくのですが、賢治はその変化に「逆方向」もありうる、と言っているのです。上位の段階から下位の段階へ、「堕ちる」こともあるのだと考えているわけです。
 これは、生物学的には「退化」という概念を連想させますが、実際には「退化」は「進化」の逆方向の現象ではなく、「進化の一側面」と言えるものです。しかし見かけ上は、生物が進化によって獲得したものを失って原始的な状態に戻るように感じられる例もあり、これは「輪廻転生」において、「人」から「畜生」に堕ちることもあるという仏教的な生命観と似た印象もあります。

 仏教の輪廻転生説と生物学を結びつけて、それで何かの「証明」になるなどと考えるのは、現在から見るとちょっと変な感じですが、賢治は、将来は宗教が科学的に証明される可能性があると、半分は本気で考えていた面もあったようなのです。
 「銀河鉄道の夜 初期形三」においては、ブルカニロ博士がジョバンニに宗教的対立の現状について示した後、「もしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる」と、ジョバンニに説いて聞かせます。やはりここでブルカニロ博士は、そして作者は、宗教と科学の統一を理想としていたように思えます。
 ちなみに、ジョバンニはこの物語の最後で尊敬をこめて「博士」に呼びかけますが、その場面は、どこかヘッケル博士への呼びかけも連想させます。


 さて、話を「青森挽歌」に戻します。作品のこの部分で賢治は、「かんがへださなければならないことは/どうしてもかんがへださなければならない」として、つらさをこらえ、トシの臨終の場面の回想を始めます。この最中、彼女の最期の様子を生々しく思い出すうちに、賢治は何としてもトシともう一度話をしたいという衝動が抑えきれなくなり、その思いが、「ヘッケル博士」への呼びかけに象徴されたのではないでしょうか。
 もしも賢治が他の世界に転生したトシとの交信に成功して、彼女の現在の状況を知ることができれば、それは「輪廻転生説の証明」になります。そして、上に考察したような理屈に立てば、それはまた同時に、賢治が仏教的に拡大解釈した、「ヘッケルの反復説の証明」にもなるわけです。
 このように、賢治がこの時トシとの交信をあらためて強く願ったこと、そしてそれは間接的にヘッケルの反復説を裏付けるとの連想も同時に働いたこと、これが、《わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という箇所にこめられた意味なのではないかと、私は思うのです。

 ただここでもう一つ、このヘッケルへの呼びかけは、誰が・どこから発しているのか、という問題が残ります。この点に関しても、これまでの研究者の意見が分かれているところです。
 この「青森挽歌」という作品においては、「地」の文が作者による語りを、( )内の言葉は作者の心の中の独り言を、《 》内の言葉は作者の「外から」聴こえてきた声を、それぞれ表すという構造になっています。ヘッケル博士への呼びかけは《 》で括られていますし、次の行に「仮睡硅酸の雲のなかから/凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は…」と書かれているところからも、やはり賢治はこれをどこか外部から聴こえてきた声として感じとった、というのがテキストの示しているところです。

 私は、上に書いたように、この言葉は賢治の心の中の潜在的な願望であり声であろうと思いますが、ここであたかも外から聴こえたように描写されているのは、これがこの時作者にとっては「幻聴」として体験されたからだと考えます。そもそも幻聴というものは、実際には自分の心の中で起こっている言語的精神活動が、何らかの理由で外部に定位されて体験されたものにほかなりません。
 賢治にとって切なる願いでありながら、「凍らすようなあんな卑怯な叫び声」と否定的に形容されているのは、その4行後に「けがれたねがひ」と書かれているのと同じ理由のためでしょう。賢治は、自分がトシとの通信を願っていることを、肉親の情への過度の執着であり仏教の教えに反していると考え、罪悪感も持っていたために、このように「卑怯」「けがれた」として描写しているのだと思われます。
 非常に強く湧き上がる感情を、このように罪悪感などで無理に抑圧しようとした時、その感情はあたかも自分のものではないかのように、自己から切り離されて体験されることがあります。ある場合には、本人にはそれが外部から由来しているように感じられ、「幻聴」として体験されることになります。


 以上、「ヘッケル博士」問題について私の思うところを書いてみました。
 一方、「ありがたい証明」の内容を、「霊魂死滅説」であれ「反復説」であれヘッケルの学説の中には求めず、別の事柄とする考え方もありえます。鈴木健司氏は、『宮沢賢治という現象』(蒼丘書林)において、これは「トシが天界往生したと」ということの証明を意味していると解釈しておられます。
 どの考えが正しいと断定する根拠はなかなかないでしょうが、私としては、「わたくしがそのありがたい証明の任にあたつてもよろしうございます」と呼びかける言葉は、まるでヘッケルの弟子なり信奉者が言っているようなニュアンスに聞こえるので、証明の内容はヘッケルの学説と関係しているのではないかと思ったのです。

 いずれにしてもこの部分は、「青森挽歌」の中心をなしている賢治の葛藤のぎりぎりの切実な表現であり、読む者にも刃を突きつけてくるような感じがします。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について

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