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2005年10月23日 トップページ書き換え

 菊花賞のディープインパクトはさすがでしたが、タイガースはいいところなしですね。あさってから、聖地・甲子園の力に期待したいと思います。

 この数日間は、トップページのソースの書き換えに費やしていました。見かけはほとんど変わっていませんが(上の賢治の立つ場所が左端になったくらい)、これまで左のメニューをフレームで表示していたのを、いくつかの理由で取りやめて、スタイルシートのブロックによる構成にしました。

 あとは、先日 つめくさ さんが「草木国土悉皆成仏」へのコメントを下さったことを契機に、「青森挽歌」を読んだり、ここで登場する「ヘッケル博士」をめぐって、大塚常樹著『宮沢賢治 心象の宇宙論』や鈴木健司著『宮沢賢治という現象』を読んだりしていました。
 結局やはり、《ヘッケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》というところで、「そのありがたい証明」というのが具体的に何を指しているのか、ということが大きな問題です。大塚氏や鈴木氏の論には教えられるところが多いのですが、それでも何か最終的には、もうひとつしっくりきません。

written by hamagaki : カテゴリー「サイト更新

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 競馬はやりませんが、ディープインパクトにはその名の通りの走りを見せつけられました。

「青森挽歌」の
 あいつはこんなさびしい停車場を
 たつたひとりで通つていつたらうか
 どこへ行くともわからないその方向を
 どの種類の世界にはいるともそれないそのみちを
 たつたひとりでさびしくあるい行つたらうか
  (草や沼やです
   一本の木もです)
における発想と、
「津軽海峡」(一九二三、八、一、)の
 どこかちがった処へ行ったおまへが
 どんなに私にかなしいか。
 「あれは鯨と同じです。けだものです。
における発想とは類似しており、両者が一つの文脈にあると思っていました。

 妹トシの道行きを案じる時に、それを遮るようにして、「草や/一本の木」や「けだもの」のイメージが突然降って湧いてくる瞬間は、「(白い)鳥」を見てそれがトシだと直観した瞬間と、共通するように感じます。

 「草や/一本の木」や「けだもの」の唐突な現れは、輪廻転生や「個体発生は系統発生を繰り返す」や進化論やらが混じり合って沸騰し、突然に吹き出したものでしょうか。それは結局、「みんなむかしからのきやうだい」という言葉になって落ち着くような気がします。

 《ヘッケル博士!・・・》は、たぶん「個体発生は系統発生を繰り返す」という命題を押し出してくるでしょうし、付け足して言うと、「万象同帰のそのいみじい生物の名」に関する見田宗介氏の説は、とても興味深いと思います。

投稿者 つめくさ : 2005年10月24日 09:47

 つめくさ様、詳細で懇切なコメントをありがとうございました。

 おかげさまで、先日のつづきで、(草や沼やです/一本の木もです)という「青森挽歌」の一節に関する つめくさ 様のお考えを、しっかりと理解することができました。
 たしかに、「青森挽歌」におけるこの前後の文脈と、「津軽海峡」におけるご指摘の箇所の文脈は、同型になっていますね。ご慧眼に感服です。
 賢治がトシの行方を思う時、さまざまな生き物=衆生の有り様を同時に連想せずにはいられなかった様子が、まさしく表れていると思います。

 また、「津軽海峡」における「あれは鯨と同じです。けだものです。」という言葉は、「銀河鉄道の夜 初期形二」における女の子とカンパネルラとの会話と同じですが、これはひょっとして、在りし日に賢治とトシとの間でかわされた実際の会話を反映しているのではないかという気が、以前からしていました。そうならば、(草や沼やです/一本の木もです)という会話調の言葉も、何か賢治の記憶の中に、思い出とともに残っていたものだったのではないか、ということもふと考えました。

 さらに、ご指摘の見田宗介著『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』も、久しぶりに本棚の奥から取り出してみました。20年も前に一度読んで、とても感銘は受けた記憶はあるのですが、その具体的な内容は忘れてしまっていたのです。
 「万象同帰のそのいみじい生物の名」に関する見田氏の説、たしかに独創的ですね。まさに命が消えようとしているトシの枕元で、「モネラ!」と叫んだのではないかというわけです。
 私としては、見田氏が「これまで読んでいた」という説のように、賢治はトシの臨終の際に、如来や菩薩の名前を「ちからいつぱい叫んだ」のだろうと、平凡に考えていました。この時、叫ばれた名前は、たとえば次のようなものだったのではないかと思います。「雨ニモマケズ」の末尾にも記されている、略式の十界曼荼羅です。

    南無無邊行菩薩
   南無上行菩薩
  南無多寶如來
 南無妙法蓮華経
  南無釋迦牟尼佛
   南無浄行菩薩
    南無安立行菩薩

 ここで、如来や菩薩のことをことさら「生物の名」と表現したのは、やはり 仏―菩薩―縁覚―声聞―天―人―修羅―畜生―餓鬼―地獄 という生命的存在の系列(十界)を、進化論などの観点から生物学的に理解しようとした、当時の賢治の姿勢を反映していたのではないかと思っていました。

 さて、つめくさ様のコメントのおかげで、まだいろいろと考えさせられたことはありますが、またおいおいと整理して書いてみたいと思います。
 このたびはご教示ありがとうございました。

投稿者 hamagaki : 2005年10月25日 01:22


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