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<title>宮澤賢治の詩の世界 ( mental sketches hyperlinked )</title>
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<modified>2012-05-02T15:12:40Z</modified>
<tagline>宮沢賢治の作品について考察したり、ゆかりの場所を旅したり、さまざまな情報を紹介したり…。</tagline>
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<title>明日から三陸</title>
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<modified>2012-05-02T15:12:40Z</modified>
<issued>2012-05-02T14:41:39Z</issued>
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<summary type="text/plain">     　ゴールデンウィーク後半を利用して、明日から北三陸地方に行ってきます。...</summary>
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<dc:subject>0200travel</dc:subject>
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<![CDATA[<p>
    　ゴールデンウィーク後半を利用して、明日から北三陸地方に行ってきます。<br />
    　昨年12月に、「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2011/12/1_45.htm" target="_blank">三陸の賢治詩碑の現況(1)</a>」および「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2011/12/2_50.htm" target="_blank">三陸の賢治詩碑の現況(2)</a>」という報告をしましたが、その続編にあたる部分を、またこの目で見てくるためです。偶然にも3日前には、「<a title="" href="http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/news/news201204.htm#29" target="_blank">賢治の事務所</a>」の加倉井さんが、「敗れし少年の歌へる」詩碑まで行かれたばかり。
</p>
<p>
    　向こうでは、この詩碑ができて間もない頃に普代村でお世話になった方々や、震災後に支援活動を通じてご縁ができた如法寺（ここは「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/170_d.htm" target="_blank">〔地蔵堂の五本の巨杉が〕</a>」に出てくる鈴木卓苗氏の養子先）の住職さんともお会いできる予定で、感無量です。<br />
    　ブログ記事としてのアップはまだ先になるかと思いますが、<a title="" href="https://twitter.com/#!/ihatov_cc" target="_blank">ツイッター</a>ではリアルタイムでご報告するつもりです。
</p>
<p>
    <img title="「敗れし少年の歌へる」詩碑" border="0" hspace="0" alt="「敗れし少年の歌へる」詩碑（普代村）" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120502.jpg" width="430" height="345" />
</p>]]>

</content>
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<title>ネネムからブドリへ</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/04/post_758.htm" />
<modified>2012-04-30T15:23:25Z</modified>
<issued>2012-04-30T07:49:14Z</issued>
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<summary type="text/plain">     　賢治が1922年（大正11年）頃に書いたと推定されている「ペンネンネ...</summary>
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<dc:subject>0100work</dc:subject>
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<![CDATA[<p>
    　賢治が1922年（大正11年）頃に書いたと推定されている「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」は、いったん草稿が成立した後にまた手入れが行われ、一部は晩年の「グスコーブドリの伝記」の草稿へと生まれ変わっていきます。物語の全体像としては対極的なまでに異なるこの二つの作品ですが、設定や細かいエピソードは共通していて、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」は、「グスコーブドリの伝記」の、最も古い形の先駆形と言えます。<br />
    　形式の上では、そのとおりです。たしかにこの二つの作品は、お話の「容れ物」としてはつながっているのですが、ただその中身においては、あまりにも正反対にかけ離れた内容なものですから、いったい作者はどういう思いで前者を後者へと「発展」させたのかという疑問は、私にはどうしても深くつきまとっていました。<br />
    　物語の奥底において、この二つをつなぐものは、いったい何なのでしょうか？
</p>
<p>
    　「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の最後の場面で、得意の絶頂にあったネネムが犯してしまったのは、「出現罪」でした。<br />
    　「出現罪」というのは、「ばけもの世界」に棲んでいるばけものが、故なくして「向ふ側」＝人間世界に姿を現してしまうという罪のことで、ばけもの世界裁判長となったネネムは、ザシキワラシやウウウウエイの出現罪を裁き、最後は自分も足を滑らして、自らこの罪を犯してしまうという羽目に陥ります。<br />
    　なぜ、ばけものの「出現」は罪なのか？ これについて見田宗介氏は、次のように書いています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　ザシキワラシは、日本国岩手県のある家の八畳間に風を入れたくてたたみの掃除をしていたために、その家の子どもを気絶させてしまう。ウウウウエイはアフリカ、コンゴの林中で、月夜の晩の土地人の舞踏があまり面白いので、ついつりこまれて踊り出て一群を恐怖散乱せしめるのである。ザシキワラシのしたことは行為としては<strong>善行</strong>である。ウウウウエイの行為もいわば<strong>天心</strong>のふるまいである。<strong>善行や天心がなぜ罪になるか</strong>。それはかれらの存在じたいが、その異形性ゆえにひとびとに恐怖を与えてしまうからである。<br />
        　出現罪とは、<strong>行為の罪</strong>でなく<strong>存在の罪</strong>である。心やさしいバケモノたちは、自分たちがまちがって<strong>存在</strong>してしまうことのないように、人間たちのしらないところで自分たちを裁いているのである。（『宮沢賢治』p.139）
    </p>
</blockquote>
<p>
    　荒唐無稽でユーモラスな「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の底には、ばけものが背負わされているこのような「存在の罪」の悲しみがあるわけです。そして賢治はこの種の悲しみを、さまざまな作品において主題化しています。「よだかの星」も、「銀河鉄道の夜」で女の子が語る蠍のエピソードも、これを直接的に扱っています。
</p>
<p>
    　さて、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」では、出現罪を犯してしまったネネムは、「あゝ僕は辞職しよう。それからあしたから百日、ばけもの大学校の掃除をしよう。ああ、何もかにもおしまひだ。」と言って泣き、物語は終わりました。
</p>
<p align="center">
    <img title="「グスコーブドリの伝記」挿画" alt="「グスコーブドリの伝記」挿画" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120429.jpg" border="0" height="422" width="300" /><br />
    <span class="small">棟方志功による「グスコーブドリの伝記」挿画（『新校本全集』第十二巻）</span>
</p>
<p>
    　一方、グスコーブドリの出発点も、ネネムと同じような天真爛漫さでした。物語の冒頭、輝かしい子ども時代を謳歌するブドリとネリは、無邪気に動物や植物たちと交流し、鳥たちとも挨拶を交わします。ブドリが学校へ行くようになると、二人は「森ぢゆうの樹の幹に」その名前を書いて歩いたり、「カツコウドリ、トホルベカラズ」と書いたり、まるで森の裁判官のように、万能感に身をひたしつつ毎日遊んでいたのです。<br />
    　しかし、その幼年期の黄金時代は、飢饉によって不意に打ち切られました。家族4人では食べていけないことが明らかになった時、二人の両親は子供たちに食糧を残すために、自ら森の中に姿を消してしまいます。これは「出現」と対極にある「消失」ですが、子供たちを助けるために両親がとったこの行為は、その後のブドリの運命を規定しました。<br />
    　すなわち、ブドリにとってみれば、自分がこの世に生きているというそのことが、両親を死に追いやったわけなのです。彼は、「存在の罪」を背負ったのです。
</p>
<p>
    　「グスコーブドリの伝記」の最後で、ブドリが自らの死とともにイーハトーブの農民を冷害から救った行為は、物語の始まりで両親が自分のために命を絶ったことと、ちょうど対になっています。彼のこの行為によって、「このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといつしよに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのです。」
</p>
<p>
    　すなわち、自らの「存在の罪」に直面した時、ネネムは「何もかにもおしまひだ」と泣くしかありませんでしたが、これに対してブドリは、彼なりに「落とし前」をつけたわけです。<br />
    　二つの対照的な物語をつなぐ線があるとすれば、こういうところかな、などと考えます。
</p>
<p>
    　何も、人間は存在しているだけで罪を負うなどということはありえないと、ふつうは思われています。しかしそれでも、宮澤賢治という人は、自分自身に対してある種そのような「存在の罪」を感じつつ生きていたのではないかと、私には思える時があります。
</p>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>辺見庸『瓦礫の中から言葉を』</title>
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<modified>2012-04-26T12:54:21Z</modified>
<issued>2012-04-15T12:35:10Z</issued>
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<created>2012-04-15T12:35:10Z</created>
<summary type="text/plain">     　北上川中流の町・花巻で生まれ育ち、中学校はより上流に位置する県都盛岡...</summary>
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<name>hamagaki</name>
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<dc:subject>0700miscellaneous</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　北上川中流の町・花巻で生まれ育ち、中学校はより上流に位置する県都盛岡へと進学した宮澤賢治は、その中学の修学旅行において、北上川を蒸気船で下ることになりました。そして、河口の町・石巻で、生まれて初めて海を見たのです。今からちょうど100年前、1912年（明治45年）のことでした。<br />
    　北上川とともに育った賢治が、その川が海に出会う地点で、やはり自らも海に出会ったのは、何かの運命が導くところだったようにも思われます。「花巻」と「石巻」という、対になったような名前の町。
</p>
<p>
    　ところでこの初対面において、海に対する賢治の第一印象というのはどうだったのでしょうか。当時の作品から推測すると、それは海の雄大さや美しさに「感激」したり「喜び」を感じたりというようなものではなかったようなのです。15歳の賢治が修学旅行の折りに詠んだ下記の短歌を読むと、彼は海に対して、何か不気味さや不吉さを覚えたように見えます。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        まぼろしとうつつとわかずなみがしら<br />
        きほひ寄せ来るわだつみを見き
    </p>
</blockquote>
<p>
    　あるいは、この短歌を晩年になって改作した下の文語詩には、より詳しく描写されています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        <img title="「われらひとしく丘に立ち」詩碑" alt="「われらひとしく丘に立ち」詩碑" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120410a.jpg" align="right" border="0" height="176" width="200" />われらひとしく丘に立ち<br />
        青ぐろくしてぶちうてる<br />
        あやしきもののひろがりを<br />
        東はてなくのぞみけり<br />
        そは巨いなる鹽の水<br />
        海とはおのもさとれども<br />
        傳へてききしそのものと<br />
        あまりにたがふここちして<br />
        ただうつつなるうすれ日に<br />
        そのわだつみの潮騒の<br />
        うろこの國の波がしら<br />
        きほひ寄するをのぞみゐたりき
    </p>
</blockquote>
<p>
    　賢治にとって初めて見る海は、幻か現実か疑うような「あやしきもの」で、こちらへ向かって迫るように「きほひ寄せ来る」様子だったのです。</p>
<p>
    　この時に賢治たちが海を望んだ場所、すなわち「われらひとしく丘に立ち」の「丘」とは、石巻市の中心部から少し海よりにある、「日和山」と呼ばれる小山でした。<br />
    　その昔お城もあったこの山の上には、その後「日和山公園」という公園が造成され、1988年に賢治の上記の文語詩を刻んだ上写真のような<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/053.html" target="_blank">詩碑</a>も建てられたので、私は2000年の夏にここを訪ねてみました。下は、その時の写真です。
</p>
<p>
    <img title="日和山公園から北上川河口を望む（2000）" alt="日和山公園から北上川河口を望む（2000）" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120408a.jpg" border="0" height="287" hspace="0" width="430" />
</p>
<p>
    　北上川の河口にかかる日和大橋と、その向こうの太平洋が見えています。この日は晴れていたので、海は「青ぐろくしてぶちうてる」という感じではありません。しかしこれが、賢治が初めて海を見た時の眺望です。
</p>
<p>
    　その後私は昨年の11月に、医療支援のために石巻に行く機会がありました。11年ぶりに日和山公園から南を望むと、その風景は下のようになっていました。
</p>
<p>
    <img title="日和山公園から" alt="日和山公園から北上川河口を望む（2011）" src="http://www.ihatov.cc/images/20111201g.jpg" border="0" height="323" hspace="0" width="430" />
</p>
<p>
    　ここで私は、先の震災の直後にこの日和山公園に避難してきたたくさんの人々が、このアングルから眺めたであろう映像を、想像せずにはいられませんでした。<br />
    　太平洋から「きほひ寄せ来る」ようにせり上がってきた「巨いなる鹽の水」は、おそらく「青ぐろくしてぶちうてる」色をして、眼下に広がる町並みを飲み込んでいったでしょう。人々は、足元の山麓まで押し寄せる津波を、まるで「まぼろしとうつつとわかず」という心地で、茫然と見るしかなかったのではないでしょうか。<br />
    　賢治がこの場所から初めて海を見た時に感じた不気味さや不吉さは、99年後に現実となる上のような光景を、幻視したものではなかったか・・・。そんな思いに私はとらわれたのでした。<br />
    　もちろんそんなことはありえないとわかっていながら、震災を境に私は、賢治による上の短歌と文語詩を、この地を襲った津波と切り離して読むことができなくなってしまったのです。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　作家・詩人の辺見庸氏は、上写真のように茶色の荒野が広がる、石巻市南浜町の出身です。先日私は、辺見氏の『瓦礫の中から言葉を<span class="small">　わたしの&lt;死者&gt;へ</span>』という本を読みました。
</p>
<table class="g-tools_table">
    <tbody>
        <tr>
            <td valign="top">
                <span class="g-tools_img"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140883634/ihatovcc-22/ref=nosim/" target="_blank"><img alt="瓦礫の中から言葉を―わたしの＜死者＞へ (ＮＨＫ出版新書　363)" src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51kZjmxyECL._SL160_.jpg" /></a></span>
            </td>
            <td valign="top">
                <span class="g-tools_body"><a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%93%A6%E7%A4%AB%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A8%80%E8%91%89%E3%82%92%E2%80%95%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%AE%EF%BC%9C%E6%AD%BB%E8%80%85%EF%BC%9E%E3%81%B8-%EF%BC%AE%EF%BC%A8%EF%BC%AB%E5%87%BA%E7%89%88%E6%96%B0%E6%9B%B8-363-%E8%BE%BA%E8%A6%8B-%E5%BA%B8/dp/4140883634%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dihatovcc-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4140883634" target="_blank">瓦礫の中から言葉を―わたしの＜死者＞へ (ＮＨＫ出版新書　363)</a><img style="BORDER-BOTTOM: medium none; BORDER-LEFT: medium none; BORDER-TOP: medium none; BORDER-RIGHT: medium none" alt="" src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=ihatovcc-22&amp;l=ur2&amp;o=9" height="1" width="1" /><br />
                辺見 庸<br />
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            </td>
        </tr>
    </tbody>
</table><br />
<br />
<p>
    　故郷・石巻について、辺見庸氏は書いています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　わたしが育った石巻および三陸の沿岸都市は、つねに、気配、兆しというものを孕んでいた。わたしは太平洋沿いの海岸近くに住んでいて、いつも潮騒と海鳴りを聞きながら、なにかの気配を感じていた。耳の底にはいまでも、遠雷のような低い響きがあります。海のうねりが磯でくだけるときに空気とこすれ、空気をまきこんで発する音が海鳴りですが、それは台風や津波などがくる前兆とされていました。<br />
        　気配、兆しとは、これから、いつか正確にはわからないけれども、今後にやってくるもの、襲ってくることの見えないさきがけです。その気配、兆しというのは、いったいなにかということをずっと考えながら育ってきたのです。なにかがやってくる。なにかというのはよいことではないらしい。よからぬこと、それも途方もないことがやってくるとからだの奥で感じて育ちました。（p.46）
    </p>
</blockquote>
<p>
    　辺見氏が言うような「気配・兆し」を、私は賢治が石巻で詠んだ短歌やそれをもとにした文語詩に対して、感じるようになってしまったのです。それは、私個人が石巻で感じたことの、勝手な思い入れに違いありませんが。
</p>
<p>
    　この辺見氏の本は、訥々とした重厚な口調で、震災後の日本にあふれる厖大なまやかしの「言葉」を、厳しく斥けます。<br />
    　震災の後、この被災地出身の作家・詩人に対しては、いろいろな新聞記者がコメントを求めに来ました。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　3.11後、わたしはいくつかの新聞のインタビューを受けました。「日本はどうなると思うか」「日本はどのように再生すべきか」といった質問をよくされました。生来ひねくれ者のわたしは、記者の言葉からして鬆のたったダイコンやゴボウみたいに感じて不愉快になり、「この際いっそ滅びてみてもよいのではないか」「べつに再生しなくてもかまわないのではないか」などとまぜかえしました。<br />
        　すると若い記者らは一瞬あきれ顔になって、聞こえなかったふりをするか、または「本気か」と問うてきたりするので、反射的に「本気だ」と答えたのですが、わたしのそうした応答は、案の定、新聞に一行も載ってはいないのでした。（p.142）
    </p>
</blockquote>
<p>
    　本書では、上の言葉に見るほどに、故郷に深い傷を負った作家が、オーウェルの『一九八四年』、原民喜の『夏の花』、石原吉郎のいくつかの文章、ブレヒトの『亡命者の対話』、折口信夫の詩「砂けぶり」、川端康成の「空に動く灯」、串田孫一との対談、堀田善衛の『方丈記私記』などを参照しながら、大震災によって壊されてしまった「既成の観念、言葉、文法」を超える表現を、探求していきます。
</p>
<p>
    　辺見氏は、入れかわり訪れる上述のような若い記者たちに絶望しながらも、本書の最後で出会った37歳の記者との間には、不思議な心の通い合いを見出します。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　堀田善衛のどこが好きなのかわたしは問うてみました。少し間をおいてから、記者はポツリと言いました。<br />
        「なんだか、救われるから……」<br />
        「たとえば？」とわたしはさらに問いました。記者は『広場の孤独』のことや『方丈記私記』のことを話してくれました。これまであまりそのことを他人に話したりしていないようで、思いが整理されておらず、なんだか不得要領でした。ですから、あらかた忘れてしまいましたが、「『人間存在というものの根源的な無責任さ』という言葉に救われました」と彼がぼそっと語ったことは、こちらが反射的にすこしたじろいだので、かえってしっかり記憶しています。（p.172）
    </p>
</blockquote>
<p>
    　『方丈記私記』は、私も偶然ながら石巻に行った時に携行して読んでいました。それで、鴨長明が体験した平安末期の地震、飢饉、大火、疫病と、堀田善衛が体験した東京大空襲とが、たしかに私にとっても、震災後の状況と重なり合ったのです。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　さて、辺見庸氏の『瓦礫の中から言葉を』という本には、各章の終わりに辺見氏自身の詩が引用され載せられていて、印象的です。ただ、その最終章だけは、別の詩人の作品抜粋が掲げられて、本文は閉じられます。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　別れぎわにあの青年（引用者注：上記の記者）は最後の質問をしました。「3.11後に読んだ文でいちばんよかったものはなんですか」。わたしは宮澤賢治の「眼にて云ふ」（「疾中」所収）という詩にとても感動した、と迷わず答えました。何十年も前に読んだことがあるけれども、大震災後に読んだら、どういうわけか眼が洗われるように風景が見えてきたのです。わたしは末期の視界を思いました。逝く者の視界にこそ、本物の言葉がありました。<br />
        　青年はメモをとりながら「読んだことがない……」とつぶやきました。いまごろはきっともう読んだことでしょう。そして、わたしとはちがう風景を想い描いて心をおどらせたのではないでしょうか。<br />
        　その詩の最後の十行はこうです。
    </p>
    <blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
        <p>
            血がでてゐるにかゝはらず<br />
            こんなにのんきで苦しくないのは<br />
            魂魄なかばからだをはなれたのですかな<br />
            たゞどうも血のために<br />
            それを云へないのがひどいです<br />
            あなたの方からみたら<br />
            ずいぶんさんたんたるけしきでせうが<br />
            わたくしから見えるのは<br />
            やっぱりきれいな青ぞらと<br />
            すきとほった風ばかりです。
        </p>
    </blockquote>
</blockquote>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>賢治の27歳</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/04/27.htm" />
<modified>2012-04-01T13:29:06Z</modified>
<issued>2012-04-01T13:29:06Z</issued>
<id>tag:www.ihatov.cc,2012://2.1107</id>
<created>2012-04-01T13:29:06Z</created>
<summary type="text/plain">     　こんど5月20日（日）には、わが盟友の竹崎利信さんが「きいて・みて宮...</summary>
<author>
<name>hamagaki</name>
<url>http://www.ihatov.cc/</url>
<email>webmaster@ihatov.cc</email>
</author>
<dc:subject>0100work</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　こんど5月20日（日）には、わが盟友の竹崎利信さんが「<a title="" href="http://www.ac.auone-net.jp/~mopoct/page044.html" target="_blank">きいて・みて宮沢賢治 第九回</a>」で「グスコーブドリの伝記」をかたられますし、7月7日からは、ますむらひろしさんのキャラクター原案による映画「<a title="" href="http://wwws.warnerbros.co.jp/budori/" target="_blank">グスコーブドリの伝記</a>」が公開されるとあって、なんとなく身辺が急にブドリづいた感じになっている今日この頃です。<br />
    　「ありうべかりし賢治の自伝」（中村稔）とも言われるこの作品ですが、映画のコピーになっている「僕の名はブドリ。未来を照らす光になる。」というのは、ちょっと格好良すぎるのではないでしょうか。賢治が理想としたのは、「ホメラレモセズ／クニモサレズ」という形の生き方だったのですから・・・。
</p>
<p align="center">
    <a title="" href="http://wwws.warnerbros.co.jp/budori/" target="_blank"><img title="映画「グスコーブドリの伝記」" border="0" alt="映画「グスコーブドリの伝記」" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120401a.jpg" width="350" height="496" /></a><br />
    <span class="small">映画「グスコーブドリの伝記」ティザーポスター</span>
</p>
<p>
    　ところでこのお話の最後、ブドリが自らの死と引きかえに火山を爆発させ、イーハトーブを冷害から救うという結末に関しては、これまでもさまざまな議論がありました。人工的に噴火を起こすほどの技術がありながら、なぜ遠隔操作ができないのかというところは不思議ですし、賢治自身がそうであったのと同様に、ブドリの行動からは何か死に急いでいるような印象を受けてしまいます。<br />
    　また、近年＜宮沢賢治＞という存在は、「自然との共生」とか「エコロジー」のシンボルのように奉られてきたのに、「科学技術によって人間に都合のよいように自然を改変する」というこの物語の壮大な企図は、そういう思想とは相容れないはずのものです。
</p>
<p>
    　このあたりのことに関して、高木仁三郎氏は次のように述べています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　私はあまり宗教的な観点というものがわからない人間ですので、そういう面から言うのではありませんが、この作品のこの結末は決して悲劇的ではないと思うんです。それは自己犠牲という文脈とも、またちょっと違うんではないかと思います。<br />
        　私が言っているのは、エコロジーという観点からものを見た場合の話です。実際にこの作品の一番最後のところは、
    </p>
    <blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
        <p>
            　そしてちやうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした。
        </p>
    </blockquote>
    <p>
        　といって、終わっている。これは単にメデタシ、メデタシではなくて、むしろ、ブドリの試みというのが、また新しいブドリやネリに伝わって行くという、エコロジーの言葉でいえば、一種の循環ということを示しているのです。一つの死が次の生につながって行くという、仏教的にいえば輪廻ということになるのでしょうか。<br />
        　ここは、仏教的な輪廻ということではなく、エコロジーの循環という文脈の中で読みたいのです。しかし、両者は同じところに行きつくかもしれません。先ほどの言葉でいうと放射性廃棄物というのは一つの一方的な死でしかありません。原子炉の核燃料が死んだ成れの果てです。これは新しい生へは繋がりません。そうではなくて、一つの死が新しい生に連がるような在り方、これが共に生きるということです。共に生きるというのは、いまの世代同士が共に生きると同時に、これから生まれて来る世代と共に生きるということでもあります。さらに死者と共に生きるということも含んでいなければならないのです。（高木仁三郎『宮澤賢治をめぐる冒険』）
    </p>
</blockquote>
<p>
    　これは、チェルノブイリ原発事故の翌年の1987年に、宮沢賢治記念館で行われた講演をもとにした文章です。<br />
    　高木仁三郎氏が大腸癌で亡くなったのが、ある時期までずっと放射性物質を扱う研究を行っておられたことと関係があるのかどうか誰にもわかりませんが、その後に志を継ぐ人は、数多く出てきています。また、晩年に創設した「高木学校」については、「命を次の世代につなげてゆく」場と述べておられます（「市民科学者として生きる」）。<br />
    　ただ、ブドリの死をそのような命の「循環」として前向きに肯定するところについては、まだ私は自分の気持ちを整理できずにいます。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　さて、ブドリがそのようにして死んだのは、27歳の時だったということが、作中には明記されています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　そしてちやうどブドリが二十七の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るやうな模様でした。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　それにしても、この「ちやうどブドリが二十七」とは、いったいどういうことでしょうか。これが「ちょうど二十」とか「ちょうど三十」だったら、話はわかります。しかし「二十七」というのは、一般的には「ちやうど」と呼ぶような切りのいい数字ではありません。
</p>
<p>
    　これは、何かこの「二十七」という年齢に意味があるのではないかと思って、賢治の年譜を調べてみました。<br />
    　1896年生まれの賢治が、数え年で二十七歳になったのは、1922年（大正11年）のことです。賢治の人生でこの年に何があったかというと、11月27日に妹のトシが亡くなったのです。
</p>
<p>
    　ブドリにもネリという仲のよい妹がいましたが、飢饉で離ればなれになった後、また再会しています。ネリは牧場主の息子と結婚して、可愛らしい男の子も生まれ、幸せに暮らしていました。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　冬に仕事がひまになると、ネリはその子にすつかりこどもの百姓のやうなかたちをさせて、主人といつしよに、ブドリの家に訪ねて来て、泊つて行つたりするのでした。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　そしてそのようなある日に、ブドリは火山を爆発させに行って、死んでしまうのです。
</p>
<p>
    　つまり、賢治の実人生では、27歳の時に妹が死んで兄が残りましたが、この「ありうべかりし賢治の自伝」においては、兄が死んで妹が残るという、もう一つのパターンが描かれたのです。<br />
    　ネリは、この結末をどう受けとめたでしょうか。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　というようなことをふと思ったので今回の記事を書いたのですが、すでにずっと以前に、同じことを書いている人があったことに、ついさっき気づきました。<br />
    　たなか・たつひこ氏は、昭和34年発行の『四次元』という雑誌に掲載された「二十七歳考―グスコーブドリの死と賢治」という論文において、「賢治は妹トシの死に際して無力だった自己を悔恨し、もしもう一度生き直せるならトシの幸せのために命を捨ててもかまわないと考え、妹を含めたぜんたいの人々の幸福のために死ぬブドリを描いた」と指摘しておられたのです。「二十七」という年齢の意味については、私も同感です。
</p>
<p>
    　「グスコーブドリの伝記」に関して大塚常樹氏は、「賢治とトシの離別をこのテクストに深読みすべきではないだろう」（學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』）と述べておられ、もちろん作品の主要なテーマは、初めの方に触れたような科学技術のあり方や捨身という行為にあるのでしょうが、やはり妹の影も無視することはできないのではないかと、私としては思う次第です。
</p>
<table class="g-tools_table">
    <tbody>
        <tr>
            <td valign="top">
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            </td>
        </tr>
    </tbody>
</table><br />
<br />]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>宮澤賢治の世界感覚について</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/03/post_756.htm" />
<modified>2012-03-19T18:38:49Z</modified>
<issued>2012-03-18T14:48:50Z</issued>
<id>tag:www.ihatov.cc,2012://2.1106</id>
<created>2012-03-18T14:48:50Z</created>
<summary type="text/plain">     　3月4日の「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」の際に、竹崎利...</summary>
<author>
<name>hamagaki</name>
<url>http://www.ihatov.cc/</url>
<email>webmaster@ihatov.cc</email>
</author>
<dc:subject>0150biography</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　3月4日の「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」の際に、竹崎利信さんによる「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」と、「なめとこ山の熊」の間のつなぎとして、20分ほどお話をさせていただきました。<br />
    　当日は時間的制約のために説明が足りなかった部分を若干補って、本日ここに当日のスライドとともに、その内容を掲載いたします。
</p>
<p align="center">
    <img title="「宮沢賢治の世界感覚」1" alt="「宮沢賢治の世界感覚」1" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120311b.jpg" border="0" height="262" hspace="0" width="350" />
</p>
<p>
    <strong><br />
    １．「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」に出てきた賢治作品</strong>
</p>
<p>
    　まだ「感動醒めやらぬ」という感じですが、竹崎利信さんの素晴らしい舞台でしたね。私も台本やDVDなどでは見せていただいていたのですが、実演ではやっぱり圧倒されました。<br />
    　これは、「私」と「宮澤賢治」との間で繰り広げられるダイナミックな劇であるとともに、賢治ファンにとっては、様々な賢治作品のカタログのように楽しむこともできる作品です。<br />
    　さっき出てきた作品（および書簡）を順にリストアップしてみると、下のようになります。
</p>
<p align="center">
    <img title="「宮沢賢治の世界感覚」2" alt="「宮沢賢治の世界感覚」2" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120311c.jpg" border="0" height="262" width="350" />
</p>
<p>
    　有名な作品もあれば、さほど有名ではないけれどもいかにも「賢治らしい」ものもあります。竹崎さんが賢治に注ぐ視線が、感じられるようです。
</p>
<p>
    　今日は、ここから出発して、後の第三部の「なめとこ山の熊」につながるお話がしたいと思っておりまして、そしてその中では、ちょうど1週間後に丸一年という節目を迎える東日本大震災のことにも触れる予定です。話のテーマとするのは、「宮沢賢治という人は、この世界を、どんな風に感じていたんだろうか」ということです。<br />
    　賢治は、まだSF小説もなかった大正時代に、「鉄道列車が宇宙空間を駆ける」などというような驚くべきイマジネーションを働かせていた人です。とても常人にその感覚を追体験することは難しいでしょうが、私なりの見方でその特徴を一つ挙げるとすれば、自己と他者、自己と世界などの間の「一体感」を、彼は他の人よりも強く、おそらく生得的に体験してしまう人だったのではないか、ということがあります。
</p>
<p>
    <strong><br />
    ２．外界＝内界ということ</strong>
</p>
<p>
    　竹崎さんが「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」において引用された賢治のテキストの中から、まず『注文の多い料理店』の「序」を見てみます。ご存じのように、これは賢治が生前に刊行した唯一の童話集ですが、その冒頭で彼は自分がそれらのお話を書いた「方法」について、説明しています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        （前略）<br />
        　これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。<br />
        　ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。<br />
        　ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。<br />
        （後略）
    </p>
</blockquote>
<p>
    　ここで宮沢賢治が言っているのは、彼はこれらの物語を書斎の中で想像力を働かせて「創り出した」のではなくて、「林や野はらや鉄道線路やら」の屋外で、虹や月あかりから「もらつてきた」ということです。<br />
    　童話の内容には、かなり非現実的な、空想的なこともたくさん含まれていますが、彼はそれを能動的に「考え出した」のではなくて、「どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまで」だと主張しています。ここでは、「そのとほり」という言葉が最も特徴的だと思います。<br />
    　彼にとってはこれらのお話は、ふと向こうから「現われた」ようなもので、その訪れは、まるで受動的な体験であったかのように説明されています。<br />
    　屋外で、感じとったことを「そのとほり書いた」というのですから、これは絵を描く際に、外の景色を「写生」するということに似ていますよね。
</p>
<p>
    <br />　それでは次に、竹崎さんが引用された作品リストから、今度は『春と修羅』の「序」を見てみます。これも彼が生前唯一刊行した詩集で、やはりその序文においては、自分がそれらの作品を書いた方法について述べています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        （前略）<br />
        これらは二十二箇月の<br />
        過去とかんずる方角から<br />
        紙と鑛質インクをつらね<br />
        （すべてわたくしと明滅し<br />
        　みんなが同時に感ずるもの）<br />
        ここまでたもちつゞけられた<br />
        かげとひかりのひとくさりづつ<br />
        そのとほりの心象スケッチです
    </p>
    <p>
        これらについて人や銀河や修羅や海膽は<br />
        宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら<br />
        それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが<br />
        それらも畢竟こゝろのひとつの風物です<br />
        たゞたしかに記録されたこれらのけしきは<br />
        記録されたそのとほりのこのけしきで<br />
        それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで<br />
        ある程度まではみんなに共通いたします<br />
        （すべてがわたくしの中のみんなであるやうに<br />
        　みんなのおのおののなかのすべてですから）<br />
        （後略）
    </p>
</blockquote>
<p>
    　さて、ここにも「そのとほりの心象スケッチ」という言葉が出てきます。やはり、「創り出した」とか「考え出した」のではなくて、「ありのままに書いた」ということを、彼は強調しています。「スケッチ」という言葉も、先ほど絵画に喩えて申し上げた「写生」ということに通じますね。<br />
    　しかしここで賢治は、「<strong>心象</strong>スケッチ」と言っています。「心象」とは、「心の中で生起する現象」というような意味でしょうから、「外界」ではなく「内界」が、その描写の対象になっていることになります。そうすると、先ほどの『注文の多い料理店』の「序」において、彼がその作品を外界から、「虹や月あかりからもらつて」くると述べていたのとは、方法論がまるで正反対のようにも思えます。
</p>
<p>
    　しかし、その前後もあわせてもう一度読んでみると、その答えが浮かび上がってきます。<br />
    　上で賢治が、「すべてわたくしと明滅し／みんなが同時に感ずるもの」という言葉で何を言おうとしているのか考えると、「みんなが同時に感ずる」というのですから、これは賢治ただ一人の「心の中で起こっている現象」にとどまらず、実は人々が共通に体験する出来事だというわけです。<br />
    　「人々が共通に体験する」現象とは、ふつうに考えれば、これは個人の「内界」にあるのではなくて、みんなに見える「外界」に位置する事柄のはずです。<br />
    　それでは、なぜ賢治がそういった「外界の現象」のことを、「心象」などと呼んだのでしょうか。その理由は、少し後の方に書かれているように、彼は「それらも畢竟こゝろの風物」だと見なしていたからです。<br />
    　つまり、「外界＝内界」であると賢治は感じていたのです。
</p>
<p>
    　人間の内界（心の中）には、五感によって知覚された外界の現象が再現されているわけでしょうから、この意味では、内界には外界と同じものが存在するとも言えます。<br />
    　しかしふつう私たちは、外界と内界とは別物としてとらえます。その理由の一つは、内界には個人的に考えたり想像しただけの事柄や、様々な個人的感情があふれているのに、これらは外界に存在しているわけではないからです。<br />
    　それなのに、なぜ賢治は「外界＝内界」ととらえるのでしょうか。
</p>
<p>
    　その理由こそが、賢治独特の世界感覚に由来するところだと私は思います。彼にとっては、自分の心の「内界」と、自分の外に広がる「外界」との境界線が、他の多くの人感じているよりも、あいまいなものだったのではないかと、私は想像するのです。<br />
    　たとえば人が、そこにいるはずのない人の姿を目の前に見たり、しゃべるはずのない物の声を聴いたりしたとします。このような現象を「科学的」に解釈すれば、それは「幻覚」と呼ばれる体験であって、実際にはその人の「内界」に属する出来事が、あたかも「外界」で起こっているかのように誤って感じられたものだということになります。<br />
    　賢治は実際にしばしば幻覚を体験していたようで、その描写は『春と修羅』に収録されている詩にもたくさん出てきます。そして賢治自身、科学者としての眼からは、それらを幻覚体験として自覚していた様子が見てとれます。<br />
    　しかし一方、そのような（幻覚）体験をしている本人の率直な感覚からすると、いるはずのない人の姿も、しゃべるはずのない物の声も、本人の「内から」ではなくて「外から」やって来ていると感じられるのです。冷静な判断に従えばそんなことはありえないと思う反面、それでも実際に「外界」の現象として、ありありと体験されるのです。<br />
    　この体験感覚を素直に敷衍していけば、「外界と内界の区別というのは、相対的なものにすぎない」とか、あるいは「本当は両者は一体となった現象である」という考えに行き着きます。古今東西に、そのように考える哲学もたくさんあります。<br />
    　賢治にとっては、科学的な見方とは別に、このような世界観も「詩的真実」だったのだろうと、私は思います。
</p>
<p>
    　つまり賢治は、「外界＝内界」ととらえる独特の感覚があったようで、そのような立場からすると、外の風景を「写生」することと、心象を「スケッチ」することとは、結局は同じ営みだということになります。すなわち、『注文の多い料理店』の「序」と『春と修羅』の「序」で述べていることは、対極的なようでいて、実は同じだったわけです。
</p>
<p>
    <strong><br />
    ３．＜わたくし＞＝＜世界＞ということ</strong>
</p>
<p>
    　以上のような、「外界＝内界」という彼独特の感覚を、ちょっと図にしてみました。
</p>
<p>
    　まず、＜わたくし＞と＜世界＞との関係としては、ふつうは誰しも下図のように感じるでしょう。<br />
    　ここでは、＜世界＞の中に、一つの個体としての＜わたくし＞が含まれています。
</p>
<p align="center">
    <img title="＜わたくし＞＝＜世界＞1" alt="＜わたくし＞＝＜世界＞1" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120318a.jpg" border="0" height="262" width="350" />
</p>
<p>
    　その＜世界＞の中で賢治は、「虹や月あかり」からお話を「もらつて」きます。それらの現象は、賢治にとっては「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」ことなのですが、その外的な実在感があまりにも強い（あるやうでしかたない）ため、彼にとってはこれは「外界」の出来事なのか、「内界」の出来事なのか、区別はあいまいになってしまいます。
</p>
<p align="center">
    <img title="＜わたくし＞＝＜世界＞という感覚2" alt="＜わたくし＞＝＜世界＞という感覚2" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120318c.jpg" border="0" height="262" width="350" />
</p>
<p>
    　自分と、自分以外の存在（他者）との間の境界線、すなわち「自我境界」が、希薄になってくるのです。<br />
    　そして、いつしか＜わたくし＞と＜世界＞が、一つに溶け合っているような感覚にも至ります。
</p>
<p align="center">
    <img title="＜わたくし＞＝＜世界＞という感覚3" alt="＜わたくし＞＝＜世界＞という感覚3" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120318d.jpg" border="0" height="262" hspace="0" width="350" />
</p>
<p>
    　こうなってしまうと、もはや＜世界＞の中に＜わたくし＞がその一部分として所属しているのか、あるいは逆に、＜わたくし＞の中に＜世界＞があるのか、その区別も無意味になってきます。
</p>
<p align="center">
    <img title="＜わたくし＞＝＜世界＞という感覚" alt="＜わたくし＞＝＜世界＞という感覚4" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120318e.jpg" border="0" height="262" hspace="0" width="350" />
</p>
<p>
    　そして右は、＜わたくし＞が、＜世界＞を包含している状況です。『春と修羅』の「序」において、世界におけるさまざまな現象のことを、「それらも畢竟こゝろのひとつの風物です」と述べた賢治の感じ方は、これに相当するものでしょう。ここでは世界は、わたくしの心における現象（＝心象）なのです。
</p>
<p>
    　そして、＜わたくし＞が＜世界＞を包含しているのであれば、単に＜わたくし＞だけでなく、世界における他の存在も、それぞれが＜世界＞を包含しているはずだということになります。<br />
    　『春と修羅』の「序」には、「人や銀河や修羅や海膽」が出てきますが、それぞれの中にも＜世界＞があるでしょう。
</p>
<p align="center">
    <img title="＜わたくし＞＝＜世界＞という感覚4" alt="＜わたくし＞＝＜世界＞という感覚5" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120318f.jpg" border="0" height="262" hspace="0" width="350" />
</p>
<p>
    　そして、上の『春と修羅』の「序」に出てきた、（すべてがわたくしの中のみんなであるやうに／みんなのおのおののなかのすべてですから）という有名だけど何かわけのわからないフレーズの意味することは、まさにこういう有り様のことなのだろうと思います。<br />
    　「＜わたくし＞の中のみんな」は、それぞれがまた＜世界＞を孕み、その中にはさらに「みんな」が含まれているという、無限の入れ子構造が存在するわけです。そしてすべては、究極のところで「一体」であるというのです。
</p>
<p>
    <br />
    <strong>４．作品に見る「自己」と「世界」の一体化</strong>
</p>
<p>
    　このように、外界と内界が実は一つのものであるとか、世界そのものとその中に含まれる（と感じられている）存在が複雑な入れ子構造になっているとかいうことは、実は昔から仏教の教学で説かれていた事柄でもあります。<br />
    　たとえば「華厳経」には、帝釈天の宮殿には無数の宝珠の付いた巨大な網が掛けられていて、それぞれの宝珠の表面には、それ以外のすべての宝珠が映っている、そして映された個々の宝珠の表面には、またすべての宝珠が映っているという、無限に映し映される関係が描かれています。これは、賢治の作品「インドラの網」にも登場します。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　「ごらん、そら、インドラの網を。」<br />
        　私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　これはまさに、先ほどの（すべてがわたくしの中のみんなであるやうに／みんなのおのおののなかのすべてですから）という感覚に通じるものです。<br />
    　しかしそれでは、これまで述べたような、「外界＝内界」とか、＜わたくし＞＝＜世界＞という認識は、賢治が仏教を勉強することによって、後天的に身に付けたものなのでしょうか。私はこれに関しては、この世界観は彼がもともと生得的に持っていた感覚であって、仏教はそれをさらに裏付けしたかもしれないけれども、その本質は、賢治が仏教の理論に出会う以前から、彼の身に備わっていたものだと思うのです。
</p>
<p>
    　それが、理屈を越えた生得的な感覚に根ざしているだろうということは、彼の作品から見てとることができます。
</p>
<p align="center">
    <img title="作品に見る「自己」と「世界」の一体化" alt="作品に見る「自己」と「世界」の一体化" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120318g.jpg" border="0" height="262" width="350" />
</p>
<p>
    　最初に挙げたのは、『春と修羅 第二集』に収められている<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/182_1.htm" target="_blank">「種山ヶ原」という作品の初期形</a>の一節です。ここで賢治は、大好きな「種山ヶ原」という高原を散策しながら、まさに恍惚とした忘我の境地に至ります。そして、美しい高原の「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と謳うのです。<br />
    　これこそ、＜わたくし＞＝＜世界＞という理屈抜きの実感の、いかにも賢治らしい詩的表現だと思います。
</p>
<p>
    　二番目の「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という言葉は、ともに活動しようとする仲間の青年たちに向けた、一種のスローガンとして「農民芸術概論綱要」に記されているものです。しかし、賢治はこれによって、いったい何を訴えたかったのでしょうか。<br />
    　もちろん彼はここで、現実に自分の身体を「微塵」に粉砕せよと言っているわけではありません。これも賢治独特の「自他一体」の世界観をもとに、「さあみんな、私と一緒に、自らと宇宙全体とを一体化させよう」と呼びかけている言葉なのだと思います。「微塵となりて…ちらばらう」とは、上の「種山ヶ原」下書稿において、「わたくしは水や風やそれらの核の一部分で／それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と記されていることと、結局は同じことを言っているのでしょう。
</p>
<p>
    　さて、その次の「グスコンブドリの伝記」は、有名な「グスコーブドリの伝記」の初期形ですが、ここで主人公のブドリは、比喩的な意味ではなしに、文字どおり自らを「青ぞらのごみ＝宇宙の微塵」にしようとします。ブドリの行為に対する評価はさまざまにありえますが、最近<a title="" href="https://twitter.com/#%21/k_ghk/status/178887761321918465" target="_blank">ツイッターで</a>において、これは「世界への愛」の表現だろうという指摘をいただきました。<br />
    　これはまさにそのとおりだと、私も思います。種山ヶ原において、賢治はその自然への愛ゆえに、自分と高原が一体であると感じたわけですし、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という言葉で表現されているのも、「宇宙に対する愛」にほかなりません。
</p>
<p>
    　最後に挙げた、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのも有名で、これはいかにも「宮澤賢治らしい」言葉として、しばしば引用されるものです。個人的な幸福など追求せずに、ひたすら「みんなのほんたうのさいはひ」のために身を削るような努力を続けた、彼の高邁な理想を表している言葉として解釈するのが一般的です。<br />
    　ただ私が思うには、賢治にとってはこの言葉の真意は、何も倫理や道徳から考えて導き出したものではなくて、＜わたくし＞と＜世界＞が一体のものであるところから、自然に素朴に湧いてきたものではないでしょうか。「一体」である以上、＜世界＞と区別して＜わたくし＞だけの幸福というのは存在しえず、賢治のような人にとって幸福というものは、＜世界がぜんたい＞ともにそうであるほかには存在しえないのだと思います。
</p>
<p>
    　以上、＜わたくし＞と＜世界＞が一体となった賢治の感覚を、いくつかの作品から垣間見ました。次にそのような特性を、彼の生涯における他のエピソードから、見直してみます。
</p>
<p>
    <br />
    <strong>５．賢治の生来的な「共振性」の高さ</strong>
</p>
<p>
    　先ほどの竹崎さんの「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」の中に、「怪我した友達の、血と泥にまみれた指を『いたかべ、いたかべ』と、夢中で吸っていたあの人」が登場しましたが、これは賢治が小学2年の頃の逸話です。友達の指から血が出ているのを見た賢治は、思わず駆け寄って、「痛いだろ、痛いだろ」と言いつつ流れる血を吸ってやったのだそうです。
</p>
<p align="center">
    <img title="賢治の生来的な「共振性」の高さ" alt="賢治の生来的な「共振性」の高さ" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120318h.jpg" border="0" height="262" width="350" />
</p>
<p>
    　これも、頭で考えてからの行動というよりも、思わずとっさに出たような感じで、彼の生来的な特性を表す例の一つだと思います。「他人の痛み」をまるでそのまま「自分の痛み」として感じてしまうところは、大人になってからの賢治にもしばしば見受けられます。先に、「自己と他者の間の境界線があいまいである」ということを彼の特徴として挙げましたが、これもそのような傾向の表れと言えます。
</p>
<p>
    　次に出てくる、「霊磁式静坐法」という何やら怪しげなものは、今で言う催眠術の一種だったのでしょう。「佐々木電眼」というこれまた怪しげな名前の人物が、中学校の近くに施術院を構えて実演をしていたようですが、何を思ったか賢治がそこへ行って「静坐法」の指導を受けてみたところ、「40分にして全身の筋肉の自動的活動を来し・・・」と父に書き送っています。<br />
    　すっかり電眼氏に心酔した賢治は、その後何ヵ月も彼のもとへ通い、冬休みには花巻の自宅まで連れてきて家族にも「静坐法」を受けさせました。しかし冷静な現実家の父は、電眼氏が長時間にわたり汗を流して術をかけようとしても、平気で笑っているだけだったので、「遂に電眼はあきらめて、雑煮餅を十数杯平らげて、山猫博士のように退散したのであった」と宮澤清六氏は書いています（「十一月三日の手紙」）。<br />
    　ちょっと微笑ましい、思春期の賢治の逸話です。
</p>
<p>
    　最後の「幻覚体験」のことはすでに上にも触れましたが、これも彼の学生時代からいろいろエピソードはありますし、作品にも数多く描かれています。精神医学的に見ると、たとえば「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_1/052_d.htm" target="_blank">青森挽歌</a>」で、《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》などという声が聴こえてきて、半分は幻聴とわかりながらもその相手と「対話」をしてしまう場面など、まさに「解離性幻覚」と呼ばれる体験の記録そのもののようで、こういう経験がない人が想像して書いているとは思えません。これは文字どおり「そのとほりの心象スケッチ」だと思います。
</p>
<p>
    　さて、直接は関係のなさそうな三つのエピソードを並べましたが、この三種類の体験は、実際に強く関連していることが、医学的な観察からわかっています。<br />
    　誰しも、大切な人の痛みであればまるで自分の痛みのように感じることがあるでしょうし、時と場合によっては催眠にかかることもあるでしょう。また、入眠時や出眠時には、人の気配がしたり声が聴こえたように感じたり、幻覚に似た体験をすることもあります。すなわち、共感性や催眠の感受性や幻覚体験の可能性は、誰でも少しは持っている傾向なのです。ただ、それが人によって、低い人から高い人まで、個人差があるのです。<br />
    　そして、この三つの傾向は互いに「相関している」＝つまりこのうち一つの傾向が高い人は、あとの二つもだいたい高くなっていることが統計的に確認されています。<br />
    　その傾向を単純化して言えば、「自己と他者の間の境界が薄く、周囲からの影響に敏感で、自分の心における『表象』と外的な『知覚』の区別もあいまいになりやすい」ということになります。このような傾向が強い人ほど、遠くの人の苦しみもまるで自分の苦しみのように体験してしまい、人からの暗示に影響されやすく、他の人が感じられないものを感じてしまうのです。<br />
    　私は、宮澤賢治という人の作品や生涯の逸話は、彼がそのような傾向性の非常に高い人だったことを示していると考えます。
</p>
<p>
    <br />
    <strong>５．東日本大震災と賢治作品</strong>
</p>
<p>
    　昨年の震災を契機に、宮澤賢治の作品がふたたび注目を集めるようになりました。「雨ニモマケズ」は、国内外のさまざまな場所で朗読されています。<br />
    　その理由の一端は、彼が東北岩手の出身だったことにあり、また彼の生年と没年にやはり三陸地方を記録的な大津波が襲っていたという偶然にもよっているでしょう。しかし私は、彼の作品が震災後の状況で人々の拠りどころとなっているのは、このような外的な要因によるだけでなく、彼の作品やその人となりの、特徴的な性質によるのではないかと考えています。
</p>
<p>
    　それは、これまで述べてきたように、宮澤賢治という人が、自己と他者、あるいは自己と世界の間に境界線を引かず、一体のものとしてとらえ、それを作品にしていたからだと思うのです。
</p>
<p>
    　ふだん私たちは、ある程度は他人にも共感しつつ生き、また自然との一体感を体験することもあります。<br />
    　しかし、文明というものは、人間が自らを自然と区別し、人間の生活空間を自分たちに都合よく整備していくことから始まりました。雨風や寒さから暮らしを守るために、屋根や壁で外界から仕切られた「家」というものを作り、集落を海や川の水から守るために、堤防を築いてきたのです。<br />
    　あるいは、近代的な個人は、しっかりとした自我を確立し、周囲の雰囲気や感情に流されずに自分の頭で考えて判断するべきものとされています。また、現代の生活においては、個人のプライバシーは互いに尊重しなければならず、人と人、家と家の間には、一定の心理的距離を保たなければなりません。
</p>
<p>
    　しかし、先の東日本大震災とそれに伴う大津波は、このようにして人間が築いてきたさまざまな「境界」を、一挙に破壊してしまったのです。<br />
    　「家」は崩れて屋外と屋内の境はなくなり、津波は防潮堤を突破して、海と町の区別も消滅してしまいました。<br />
    　家も財産も流されてしまった人々は、お金持ちだった人もそうでなかった人も、一緒に大きな避難所に集まって、一体となった生活を始めました。<br />
    　さらに付け加えるならば、原子力発電所の事故によって、放射能を外界から隔離するための原子炉格納容器も損傷し、放射性物質にとっての「内」と「外」の区別までもが、一部で失われました。
</p>
<p>
    　ここに図らずも現出した世界は、あたかも宮澤賢治の感性がとらえたもののように、すべての人々や、人間と自然が、混然と溶け合い一体となっている状況だったのです。<br />
    　それは、直接被災した人々にとってそうであっただけでなく、私のように離れた土地からテレビなどの映像でそれを体験した人にとっても、ある程度まではそうでした。3月11日の夕方から、すべてのチャンネルがCMもはさまずに延々と流し続けた映像は、日本中のほとんどの人によって同時的に共有されていたでしょう。そこには、被災地と遠隔地の間の境さえ越えさせる、目に見えない力が働いていました。そして、たとえふだんは自分や家族の生活で精一杯という人でも、見知らぬ被災者が大切な人を喪って嘆き悲しむ様子を見ると、思わず我が事のように胸が痛み、心が大きく揺れ動くのを感じたのではないでしょうか。
</p>
<p>
    　恥ずかしながら私は3月11日の夜に茫然とテレビを見つつ、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と賢治が言った心境は、まさにこういうものだったのかと思い至りました。自分が何事もなく暖かい部屋の中でテレビを見ていることが、現地の人々に対してまるで申し訳ないように感じ、被害に遭った方々全員が救われないかぎりは、自分の心も救われないというような、一方的な思いを禁じ得ませんでした。
</p>
<p>
    　おそらくこれに似た感覚は、少なくとも震災後の数日間、日本中かなりの人が体験したことだったのではないでしょうか。そしてこのような苦しい感覚こそ、賢治のような人はふだんからいつも味わっているものだったのだと思います。大震災は多くの人に、「賢治的」に世界を体験させたのです。<br />
    　そしてこれが、大震災を契機に賢治の作品が多くの人の共感を集めた、本当の理由なのだと私は思います。人々は知らず知らずに、彼のさまざまな作品の中に、自分を今とらえている感覚の表現を見てとったのではないでしょうか。
</p>
<p>
    　これが、今日ここで私がお話したかったことのポイントです。
</p>
<p align="center">
    <img title="東日本大震災と賢治作品" alt="東日本大震災と賢治作品" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120318i.jpg" border="0" height="262" width="350" />
</p>
<p>
    <br />
    <strong>６．「なめとこ山の熊」の生命観</strong>
</p>
<p>
    　さて、これからの第三部では、竹崎利信さんと友枝良平さんが「かたり」と揚琴の音楽によって、賢治の「なめとこ山の熊」を上演して下さいます。<br />
    　この「なめとこ山の熊」というお話は、生き物の「命」というものについて、賢治がその思いを表現した作品とも言えます。震災の後、あらためて命の尊さを身にしみて感じている私たちに、それは何かを教えてくれるかもしれません。<br />
    　また、ふだんは自然の力をコントロールして生活しているつもりになっている私たちに、地震と津波の力は、人間は自然の中のちっぽけな一部にすぎないことを思い起こさせてくれました。このお話に出てくる猟師の小十郎はまさにそのように自然の一部として熊と対等に生きています。そして対等に死にます。中ほどに出てくる「荒物屋の旦那」は、熊にも出会わない安全な（と思っている）場所でぬくぬくと暮らしていて、自然に対して思い上がっている平素の人間を象徴しているようにも思えたりします。
</p>
<p align="center">
    <img title="「なめとこ山の熊」の生命観" alt="「なめとこ山の熊」の生命観" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120318j.jpg" border="0" height="262" width="350" />
</p>
<p>
    　ここでも、賢治が描く世界の根底にあるのは、これまで述べてきたような、人間と自然とが「一体である」という、彼らしい感覚です。<br />
    　多くの人は、人間の命と熊の命を比べると、無条件に前者の方が優先されるべきだと考えるでしょう。それは常識的なことです。賢治ももちろん一方ではそういう認識を持ちながらも、熊にも人にも同等に感情移入してしまう彼の感覚は、通常の「人間中心主義」の世界観に飽き足りませんでした。<br />
    　そこで描き出されたのが、熊と人間とがお互いの命への畏敬を抱きつつ、ともに生き、ともに死ぬという世界です。<br />
    　それは、「人間的」な視点から見れば、「自然の過酷さ」を表現しているようにも思えます。また同時にこのお話は、高い山の頂で月に照らされている氷のように、その厳しさゆえの美しさも備えていると感じられます。
</p>
<p>
    　それでは、私の話はここまでです。休憩をはさんで、第三部の「なめとこ山の熊」をどうかお楽しみ下さい。
</p>
<p align="center">
    <img title="霧に隠れた「なめとこ山」" alt="霧に隠れた「なめとこ山」" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120318k.jpg" border="0" height="262" width="350" />
</p>
<p>
    　ちなみに上の写真は、今回のチラシにも使ったものですが、私が数年前に花巻の西の山奥の、「なめとこ山」が見える場所に行った時に撮ってきたものです。賢治が、「なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしてゐる」と描写したように、山の姿は霧の向こうにうっすらと隠れています。
</p>
<p>
    　ご静聴ありがとうございました。
</p>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」終了</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/03/3in_1.htm" />
<modified>2012-03-11T13:58:14Z</modified>
<issued>2012-03-11T13:58:14Z</issued>
<id>tag:www.ihatov.cc,2012://2.1105</id>
<created>2012-03-11T13:58:14Z</created>
<summary type="text/plain">     　震災から1年が経ちました。     　ご報告が遅くなってしまいました...</summary>
<author>
<name>hamagaki</name>
<url>http://www.ihatov.cc/</url>
<email>webmaster@ihatov.cc</email>
</author>
<dc:subject>0500event</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　震災から1年が経ちました。<br />
    　ご報告が遅くなってしまいましたが、1週間前の3月4日に、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」が無事終了しました。<br />
    　当日この催しにご参加いただいた方は、91名でした。会場の京都府庁旧本館正庁には、出演者や裏方も含めて定員100名を1名たりともオーバーしてはいけないとの定めがあり、当日に直接会場にお越しいただいても、お断りするしかないという事態にもなってしまいました。ご迷惑をおかけした皆様には、心よりお詫び申し上げます。
</p>
<p>
    　当日のプログラムは、下記でした。
</p>
<p style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    １．<strong>私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄　</strong>構成・出演： 竹崎利信<br />
    <span class="small">２． 宮沢賢治 ー人と思想（その１）ー　　　　　 小講演： 浜垣誠司</span><br />
    ３．<strong>なめとこ山の熊</strong>　　　　　　　　　　　　かたり：竹崎利信　音楽：友枝良平
</p>
<p>
    　竹崎利信さんの「演技」と「かたり」は、ここで言葉でご説明することもできないほど、感動的なものでした。「なめとこ山の熊」では、友枝良平さんの奏でる天上的な揚琴の音ともあいまって、ラストではまさに
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        ・・・まるで氷の玉のやうな月がそらにかかってゐた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。すばるや参の星が緑や橙にちらちらして呼吸をするやうに見えた。
    </p>
</blockquote>
<p>
    という情景に吸い込まれるようでした。
</p>
<p align="center">
    <img title="「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」から「なめとこ山の熊」" border="0" alt="「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」から「なめとこ山の熊」" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120311a.jpg" width="350" height="263" />
</p>
<p>
    　この日の竹崎さんの公演は、またネット上で何らかの形で直接聴けるようになることを期待しつつ、ここではブログを二つ紹介させていただきます。<br />
    　一つは竹崎さんご自身によるもの、もう一つは当日はるばる愛知県からお越しいただいた、signaless さんによるものです。
</p>
<div style="MARGIN-LEFT: 2em">
    <ul>
        <li>
            <a title="" href="http://moon.ap.teacup.com/mopoct/293.html" target="_blank">「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」</a>
        </li>
        <li>
            <a title="" href="http://ringotu-shin.blog.so-net.ne.jp/2012-03-05" target="_blank">『第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都』に行ってきた！</a>
        </li>
    </ul>
</div>
<p align="left">
    　義援金も含めた会計報告は、あらためて記事にいたします。また、当日私がお話した、賢治の感性と震災直後の私たちというようなことも、整理して記事にしたいと思い、今書いているところです。
</p>
<p align="left">
    　もうしばらくお待ち下さい。
</p>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>秋入学と春入学〜鈴木東民と賢治〜</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/02/post_755.htm" />
<modified>2012-02-26T16:11:24Z</modified>
<issued>2012-02-26T13:09:06Z</issued>
<id>tag:www.ihatov.cc,2012://2.1104</id>
<created>2012-02-26T13:09:06Z</created>
<summary type="text/plain">     　去る1月20日に東京大学は、今後5年前後で現在の春入学から秋入学に全...</summary>
<author>
<name>hamagaki</name>
<url>http://www.ihatov.cc/</url>
<email>webmaster@ihatov.cc</email>
</author>
<dc:subject>0150biography</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　去る1月20日に東京大学は、今後5年前後で現在の春入学から秋入学に全面移行<img title="東京大学「入学時期のあり方に関する懇談会・中間まとめ」より" border="0" hspace="5" alt="東京大学「入学時期のあり方に関する懇談会・中間まとめ」より" align="right" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120226a.gif" width="250" height="343" />することを目ざすと発表しました。右は、同大学「入学時期のあり方に関する懇談会・中間まとめ」による、秋入学のイメージ図です。<br />　改革の目的として「中間まとめ」には、(1)国際標準となっている秋季入学に合わせることで、学生・教員の国際流動性を高めること、(2)高校卒業から大学入学までのいわゆる「ギャップターム」を利用して、学生に多様な体験を積ませること、などが挙げられています。<br />
    　これには他大学も歩調を合わせるように検討を始めているということですから、もしも実現すれば、「サクラサク」「サクラチル」とかいう言葉でも人々の季節感覚に染みついた大学入学という行事が、大きく変わるわけですね。
</p>
<p>
    　ところで、日本の大学が現在のような春入学になったのは、明治の最初からではなくて、当初は欧米に合わせて秋入学だったところ、大正時代に春入学に変えられたという歴史があったようです。<br />
    　以下は、「<a title="" href="http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/qanational/20120131-OYT8T00652.htm" target="_blank">読売新聞 COME ON ギモン</a>」からの引用です。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　1877年（明治10年）、東京開成学校と東京医学校が合併して帝国大学、現在の東京大学ができます。当時は文明開化と欧化一直線の時代。帝大の学年の始まりも欧米流の秋、9月10日（〜翌年7月15日）でした。<br />
        　それが今の春入学に転換したのは1921年（大正10年）。主に、初等・中等教育の学校とそれを支える師範学校の学事暦に合わせるためでした。<br />
        　そもそも小中学校、師範学校も最初から春入学だったわけではなく、4月入学に統一されたのは明治時代中頃。1886年の高等師範学校に始まり、尋常師範（89年）、全国の小学校（92年）、中学・高等女学校（1900年）の順に春入学が定着します。<br />
        　そのうちの師範学校が春入学に転じたのは主に次の理由からでした。(1)炎熱7月の学年末試験は不合理、(2)行政の会計年度に学事暦が一致しないのは不便、(3)徴兵（20歳）の届けが4月に早められたため、高年齢入学者が徴兵免除の特典を得るには4月入学が必要――。<br />
        　大学と旧制高校は明治期こそ秋入学を継続していましたが、大正になり、政府が理由の(1)と(2)を盾に春入学を迫ると1919年、まず旧制高校が、続いて20年に大学も受け入れました。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　ということで、帝国大学が現在の春入学に改められたのは、1921年（大正10年）からだったということですが、この「1921年（大正10年）」というのは、賢治ファンにとっては特に気になる年の一つですよね。<br />
    　この年の1月、彼は家出をして東京へ行き、ガリ版切りのアルバイトをしながら国柱会の布教活動に従事しつつ、狭い下宿で厖大な童話の創作にいそしんだのです。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　1921年1月23日の午後、店番をしていた賢治は棚から背中に日蓮の「御書」が落ちてきたことに啓示を受けたかのように家を飛び出し、列車に乗って翌朝には上野駅に着きました。<br />
    　彼はすぐに国柱会を訪ねて、そこに寄宿させてもらうつもりだったようですが、「東京に親戚でもあればそこに落ちつくように」と言われて会館を後にします。住居と生活費の確保に迫られた賢治は、東大赤門前の「文信社」という「小さな出版所」にガリ版切りのアルバイト口<img title="文信社「生理学総論」" border="0" hspace="5" alt="文信社「生理学総論」" align="right" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120226b.jpg" width="180" height="284" />を見つけて、その近くに下宿を確保しました。「出版所」と言っても一般向けに出すのではなくて、真面目な東大生から有償で講義ノートを借り、それをガリ版刷りにして、ちゃんとした講義ノートを持っていない（不真面目な）東大生向けに売る、という事業だったようです。巧みな商売と言えばそのとおりで、主人は「利害打算の帝国主義者」だと賢治は書いています（書簡185）。その出版物の実例の一つは、以前に「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2005/06/post_287.htm" target="_blank">「文信社」発行の講義録</a>」という記事にアップしました（右図）。<br />
    　個人的に思い返してみれば、30年ほど前には京都にも同様のことをしている業者はあって、当時はもう「ガリ版」ではなくて「コピー」でしたが、試験前になると大学前に屋台が出て、優等生のノートをいくつも並べて売っていました。「文信社」の例を見ると古くから続いていた商売のようですが、ネットに自分のノートを公開している学生もある昨今では、こういう業者はもうなくなってしまったのでしょうか。
</p>
<p>
    　閑話休題。この「文信社」時代に賢治は、同じ岩手出身で東京帝大経済学部の学生となる、鈴木東民という人物に出会います。鈴木は1895年生まれで賢治より1歳年長ですが、母の実家が花巻にあったということで、二人は急速に親しくなりました。鈴木東民が書き残している当時の賢治の様子は、第三者による記録が少ないこの時期の賢治に関する、貴重な証言です。<br />
    　以下は、鈴木東民「筆耕の頃の賢治」（草野心平編『宮澤賢治研究』筑摩書房）からの引用です。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　宮澤賢治と識つたのは、1920年の初冬の頃であつた。そのころ東大の赤門前に、「文信社」という謄寫屋があつた。そこの仕事場でわたしたちは識り合つたのである。「文信社」は大學の講義を謄寫して學生に賣つていた。アルバイト學生だつたわたしはそこへノオトを貸して一冊につき月八圓、ガリ版で切つた謄寫の原稿の校正をして、四ペエジにつき八銭の報酬をうけていた。賢治の仕事はガリ版で謄寫の原稿を切ることであつた。かれはきれいな字を書いたから、報酬は上の部であつたろうと思うが、それでも一ペエジ二〇銭ぐらいのものだつたろう。この仕事を専門の職業としている人でも、一日に一〇ペエジ切るのは容易でないといわれていた。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　「1920年の初冬」とありますが、これを「1920年12月より始まる冬」と解すれば、賢治が1921年1月に上京して文信社に勤めはじめたという事実経過と一致します。鈴木東民の回想は続きます。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　賢治もわたしもこの仕事場では新米であつた。かれはわたしよりさきに上京していたのかもしれないが、ここのアルバイトをするようになつたのは、わたしとほとんど同時だつたのではないかと思う。わたしはこの年の夏に仙臺の二高（旧制）を卒業し、十月に上京して「文信社」のアルバイトにありついたのであつた。休憩時間にここの主人の居間兼事務所の八畳でお茶を飲んでいたときに、何かの話からかれが花巻の生れで土地で知られた旧家の宮澤家の息子さんであることをわたしは知つた。そんなことからわたしたちは急に親しくなつたのであつた。そのころわたしの母は宮澤家のすぐ近所に、同じ町内に住んでいた。
    </p>
</blockquote>
<p>　鈴木は、アルバイトを始めたのは賢治とほとんど同時だったのではないかと書いていますが、彼が10月に上京してすぐ開始したとすれば、3ヵ月は差があったわけです。しかし、「着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やらたくさんの苦学生、辯にならうとする男やら大低は立派な過激派ばかり」（書簡185）が集まっている中では、新入りが来てもすぐにはわからなかったのかもしれません。</p><p>　さてここで、鈴木東民が東京帝大に入学したのは、正確にはいつだったのだろうという疑問が生じます。<br />
    <img title="鎌田慧『反骨 鈴木東民の生涯』（講談社文庫）" border="0" hspace="5" alt="鎌田慧『反骨 鈴木東民の生涯』（講談社文庫）" align="right" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120226e.jpg" width="150" height="208" />　上の文章には、「この年（＝1920年）の夏に仙臺の二高（旧制）を卒業し」とあり、また鎌田慧による評伝『反骨 鈴木東民の生涯』（講談社文庫）巻末の年譜にも、1920年の項に「二高卒業」とありますから、この年に旧制第二高等学校を卒業したのは、かなり確度が高いでしょう。<br />
    　一方、東大入学については、鎌田慧著『反骨』の年譜には、1920年の項に「二高卒業」に引き続き、「東京帝国大学経済学部入学」と書かれています。これを素直に解釈すれば、1920年の秋に入学したことになります。<br />
    　しかし、上の「筆耕の頃の賢治」の記述を見ると、「この年の夏に仙臺の二高（旧制）を卒業し、十月に上京して「文信社」のアルバイトにありついた」とあります。秋入学なら、新学期は9月から始まりますから、「十月に上京」というのでは間に合いません。さらに、「二高卒業」のことは書いてあるのに、「十月に上京」の前に「東大入学」のことが書いてないのは、やや不自然です。<br />
    　ということで、鈴木東民が東大に入学したのは、1920年秋ではなくて、1921年春だったのではないか、という可能性も考えられるわけです。
</p>
<p>
    　この時期は、前述のようにちょうど帝国大学が秋入学から春入学に移行する年に重なっていたためにややこしいのですが、念のためこの前後の東大の学年暦について、確認しておきます。<br />
    　東京帝国大学の1920年（大正9年）の「学年」は、9月から始まりました。下図は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」から、『東京帝國大學一覧 從大正八年 至大正九年』の「第一章 學年暦」のページです。
</p>
<p>
    <img title="『東京帝国大学一覧 從大正八年 至大正九年』" border="0" alt="『東京帝国大学一覧 從大正八年 至大正九年』" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120226c.jpg" width="430" height="691" />
</p>
<p>
    　大正9年までは、9月11日が「學年始ル」とされていました。<br />
    　次に、同じく「近代デジタルライブラリー」から、『東京帝國大學要覧 從大正十年 至大正十一年』の「第一章 學年暦」です。
</p>
<p>
    <img title="『東京帝国大学要覧 從大正十年 至大正十一年』" border="0" alt="『東京帝国大学要覧 從大正十年 至大正十一年』" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120226d.jpg" width="430" height="652" />
</p>
<p>
    　大正10年からは、4月1日が「學年始ル」となっています。<br />
    　となると、大正9年9月に入学した学生は、いつから「大学2年」になったのだろうという疑問がまた湧いてきますが、これは大正10年4月からだったようです。つまり、この年の「大学1年」は半年余りしかなかったわけですね。例えば、大正9年9月に東京帝国大学に入学した川端康成の第一学年は実質7ヵ月だった旨が、「<a title="" href="http://www.tokyo-kurenaidan.com/" target="_blank">東京紅團</a>」の「<a title="" href="http://www.tokyo-kurenaidan.com/kawabata-tokyo2.htm" target="_blank">川端康成散歩 東京帝大時代を歩く</a>」に紹介されています。
</p>
<p>
    　鈴木東民の話に戻ると、大正9年夏に第二高等学校を卒業した鈴木にとっては、川端康成と同じく大正9年9月に東大に入学することもできたわけです。ただしこれは、「十月に上京」という本人の回想に照らし合わせると若干の難点があることは、すでに触れました。<br />
    　あらためて、鈴木東民が入学したのは、大正9年9月か大正10年4月か、どちらだったのか。<br />
    <img title="鈴木東民年譜より" border="0" hspace="5" alt="鈴木東民年譜より" align="right" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120226f.jpg" width="200" height="507" />　これをさらに考えるために、彼の卒業年を調べてみると、前述の鎌田慧著『反骨 鈴木東民の生涯』の年譜（右図）には、1923年（大正12年）の項に、「東京帝国大学卒業。大阪朝日新聞入社。」と書かれています。すると、当時の帝国大学は修業年限3年でしたから、1921年（大正10年）4月に入学したのであれば、卒業は1924年（大正13年）春となってしまい、この記述とは合いません。一方、1920年（大正9年）9月に入学しておれば、実質的な在学期間は2年半ですが、1923年春に卒業となり、この年に就職したという鎌田慧氏の右年譜と一致します。
</p>
<p>
    　しかしまたこの説にも難点があって、鎌田氏の評伝本文にも記されていることですが、1923年（大正12年）9月1日に起こった関東大震災の際に、鈴木東民は東京で被災しているのです。『反骨』によれば、「そのころ、東民は麻布のある家の居候になっていた。大手商社の上海支店長の留守宅で、子どもの教育をみたりの用心棒兼用だった。」とありますから、彼は一時的に東京に来ていたのではなく、東京で生活していたのです。これは、「1923年に大阪朝日新聞に就職した」という記述とは合致しません。<br />
    　さらに『反骨』には、震災直後に鈴木東民が、東大の恩師である吉野作造の研究室に行ったことも記されています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　東民はこのとき、大阪朝日新聞への入社がきまっていた。それで恩師の吉野作造に挨拶するため東大へむかい、吉野の研究室の書籍を毛布に包んでなんどかはこびだした、とセイはきかされている。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　「セイ」というのは東民の妹ですが、9月の時点で「就職内定」していたのであれば、卒業は翌1924年（大正13年）3月で、大阪朝日新聞入社は4月だと考えるのが自然です。吉野作造の研究者の方による「<a title="" href="http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/1923-9c5d.html" target="_blank">Essais d'hermeneutique</a>」というブログにも、1923年9月1日に吉野は午前10時に出勤し、大阪朝日新聞に就職が内定していた<b>学生の</b>鈴木東民の紹介状を河上肇あてに書いていた、とあります。この記載は、吉野作造の「吉野日記」に依っているのではないかと推測しますが、機会があれば確認してみたいと思っています。<br />
    　このように、鈴木東民が関東大震災の時点で学生だったとすれば、その大学卒業・就職が1923年だったというのはもちろんありえないことで、実はそれは1924年春のことだったのではないでしょうか。すなわち、この頃の鈴木の経歴は、下記のようになものだったのではないかと、私は考えるのです。
<br />　鎌田慧氏による年譜のズレは、ちょうど秋入学から春入学へという変化の年に重なったために、生じたものではないでしょうか。</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        1920年 7月　　第二高等学校卒業<br />
        　 　　　 10月　　上京　「文信社」でアルバイト開始<br />
        1921年 1月？ 賢治と知り合う<br />
        　 　 　　&nbsp; 4月　　東京帝国大学入学<br />
        1923年 9月　　関東大震災に遭う<br />
        1924年 3月　　東京帝国大学卒業<br />
        　 　 　　&nbsp; 4月　　大阪朝日新聞入社
    </p>
</blockquote>
<p>
    　となると、鈴木東民は、夏に旧制高校を卒業してから翌年春に大学に入学するまでの約半年の自由時間の間に、賢治と出会ったわけです。それは、たまたま学制変革の年に当たったために現われた、一種のモラトリアムでした。彼はこの間に上京して、文信社で出版校正に携わりましたが、それは、在学中から「帝国大学新聞」に所属し、卒業後は大阪朝日新聞に就職してジャーナリストの道を歩んだ鈴木東民の、出発点とも言える仕事だったかもしれません。<br />
    　現在、東大が打ち出している秋入学計画では、春に高校を卒業して秋に大学に入学するまでの猶予期間を「ギャップターム」と呼び、これを利用して学生に「質の高い多様な体験を積ませる」と謳っています。東民と賢治の出会いも、お互いにとってそのような貴重な体験だったのではないでしょうか。
</p>
<p style="text-align: center;">◇　　　　　　　　　　◇
</p><p>
    　鈴木東民は「筆耕の頃の賢治」において、さらにその後の賢治との関わりについても記しています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　その翌年の夏休みが終つてわたしが上京したときは、もうかれは東京にいなかつたのではないかと思う。かれの姿を「文信社」の仕事場に見ることはなかつた。それから数年経つてわたしが大阪朝日新聞の記者として、京都支局につとめていたとき、萬朝報という新聞の文藝欄で、かれの最初の詩集、「春と修羅」の批評を讀んだ。評者は放浪の詩人、辻潤であつたが、日本の詩壇にかつてその例を見ない傑作だといつて絶讃していた。わたしはうれしくてたまらなかつた。賢治は風呂敷の中味を童話だといつていたが、詩も一緒に入れてあつたのかもしれない。いずれにせよかれの腰のものが世の脚光を浴びるときが來たのだと、わたしは思つた。手をふるわせながらわたしはお祝いの手紙をかいた。すると折り返して豪華本の「春と修羅」をかれは送つてよこした。その二年後にわたしはヨオロッパに渡り、十年経つて帰國したときには、宮澤賢治はもはやこの世の人ではなかつた。しかし若い日の自信にみちた彼の壮語は現實となつていた。<br />
        　1921年の夏休みに、母のもとに帰つたわたしは、宮澤家に招待されて御馳走になつたことがある。學生のくせにお酒まで遠慮なしに頂戴した。その時のお給仕役がかれで、無器用な手つきでお銚子などを運んで來たものである。もちろんかれは一滴も酒は飲まなかつた。若いときのこととはいえ、今その時のことを回想して、わたしは自分の無作法さに汗の流れる思いがする。それは貧乏ぐらしをしていたわたしたち母子によせてくれたかれの好意であつた。わたしにとつて終生忘れることのできない思い出である。<br />
        　文信社の仕事場でも、かれはわたしの健康を気遣い、アルバイトはほどほどにしてくがよいといつて、しばしば注意してくれた。しかしわたしの校正の仕事よりも、鐵筆で油紙に一字一字刻むかれの労苦の方が、比較にならぬほど辛いものであつたろう。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　この後の鈴木東民は、ドイツに渡ってヒトラー批判を展開したり、戦後は読売争議の先頭に立ったり、釜石市長に当選して「橋上市場」の建設を実現する一方、環境への配慮から新日鉄釜石の公害問題を追及した結果、四選ならず落選するなど、文字どおり「反骨」の生涯を貫きました。
</p>
<p>
    　もしも賢治が長生きしていたら、二人の間にどんな交友が続いただろうと、想像します。
</p>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>イーハトーブの経塚</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/02/post_754.htm" />
<modified>2012-02-19T04:03:09Z</modified>
<issued>2012-02-12T14:46:24Z</issued>
<id>tag:www.ihatov.cc,2012://2.1103</id>
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<summary type="text/plain">     　この2月5日まで「江戸東京博物館」で開かれていた「平清盛展」では、清...</summary>
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<dc:subject>0150biography</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　この2月5日まで「江戸東京博物館」で開かれていた「<a title="" href="http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/special/2011/01/index.html" target="_blank">平清盛展</a>」では、清盛が厳島神社に奉納した「平家納経」が展示されていました。当時の美術工芸の粋を尽くしたというこの経典ですが、しかし考えてみると、「法華経30巻＋阿弥陀経1巻＋般若心経1巻」という仏教の経典を、「寺」ではなくて「神社」に納めるというのは、現代の宗教感覚からはどうしても奇妙に思えてしまいます。<br />
    　今の時代ならば、たとえどんなに立派に拵えたお経であれ、神社に持って行って納めさせてくれと言っても、受け付けてもらえないでしょう。「厳島神社の平家納経」という取り合わせは、近世以前には日本古来の「神」と外国伝来の「仏」が渾然一体となって信仰されていた「神仏習合」という宗教形態があったからこそ、可能になったものなのです。
</p>
<p>
    　ということで、この国宝は、明治維新の前と後で日本人の信仰の有り様が大きく変化したことを如実に感じさせてくれている事例の一つです。「神社とお経」という組み合わせに居心地の悪さを感じてしまうのは、「神仏分離」に慣れてしまった私たちの感覚のせいであって、何も平清盛が宗教に無知だったからではありません。明治維新とともに猖獗を極めた「神道原理主義」が、それまでの日本の信仰のあり方を変えてしまったのです。<br />　しかし今でも時には、過酷な弾圧でいったん潰えたはずのこういう伝統的な神仏観が、その後も深いところでは生きつづけているのだな、ということを感じる現象に遭遇することがあります。</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　たとえば、宮澤賢治が晩年の病床で考えた、「経埋ムベキ山」という空想企画です。実はこの発想も、平家納経と似たようなところがあると言えます。<br />
    　法華経を地中に保存し、仏の教えが滅ぶ「法滅」の世に備えるという考え自体は、すべからく仏教的なものですが、興味深いのは、その経典を「山」に埋めようという発想です。そもそも日本における「埋経」の第一号と考えられる、藤原道長による金峯山への埋経（1007年）からして、古代から続く山岳信仰の霊所に「法華経」を奉納したというものでした。その背景には、仏教以外の日本土着の信仰との習合が見られるわけです。<br />
    　そして、賢治が「経埋ムベキ山」を選定するにあたっても、それぞれの「山」に根ざしている民俗信仰というものを、かなり意識していたふしがあるのです。
</p>
<p>
    　以前に「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/mount/index.html" target="_blank">経埋ムベキ山。</a>」というページにも書いたことですが、賢治がこれらの32の山を選ぶにあたっては、その山が多くの人の認める「名山」であることや、自分の個人的な好みに加えて、その地の「宗教的由緒」も重視したようです。<br />
    　「雨ニモマケズ手帳」に書き付けられた「経埋ムベキ山」のリストの最初の方の山々において、それは特に顕著です。旧天王山、胡四王山、観音山、飯豊森、物見崎という花巻近郊の小山は、それぞれ山として格別に立派だとか美しいというわけではありませんが、いずれも山頂には小さな祠があって、昔から附近の人々の土着的信仰を集めてきた場所なのです。<br />
    　今も、旧天王山には高木岡神社、胡四王山には胡四王神社（賢治の時代には矢沢神社）、観音山には岩根神社、物見崎には金毘羅権現が、それぞれ鎮座しています。飯豊森には現在は寺や神社はありませんが、頂きには古い観音堂が、山腹には「山神」の祠が建っています。<br />
    　賢治は、これらの山にいる神々の力を頼りに、法華経の安全な保護を委ねるという思いのもとで、埋経を構想したのだと言えます。
</p>
<p>
    　つまり、敬虔な仏教徒である賢治は、何より法華経を至高の経典として信仰するとともに、同時に土着の神も敬いつつ、その力をその頼みにしたわけで、これはまさに「神仏習合」にほかなりません。<br />
    <img title="旧天王山の「法華経一字一石塔」" border="0" hspace="5" alt="旧天王山の「法華経一字一石塔」" align="right" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120212a.jpg" width="250" height="190" />　ちなみに、上に挙げた山のうちで、旧天王山と観音山には、すでに昔から「一字一石塔」なるものが建てられています（右上写真が旧天王山、右下写真が観音山のもの）。<br />
    　この「一字一石塔」とは、江戸時代以降に盛んになった埋経の方法の一つで、小さな石の一つ一つに<img title="観音山の「一字一石経塚」" border="0" hspace="5" alt="観音山の「一字一石経塚」" align="right" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120212b.jpg" width="250" height="189" />法華経などのお経の文字を書き、それらの何万という数の石を土中に埋めるというものです。右の石碑の下には、そのような石が埋まっているはずなのです。<br />
    　賢治もおそらく、この二つの山がそのような由緒を持っていることは知っていたでしょうし、自分が埋経をするとすれば、そのような先達の信仰に連なるという思いも当然あったでしょう。
</p>
<p>
    　晩年の賢治が、手帳に記した32の山。これは、今はやりの言葉にすれば、彼が選定した「岩手のパワー・スポット」であると言うこともできるでしょう。山そのものの威厳や感応力や、そこに鎮座する神の霊験があらたかな場所を、自らの経験と思い入れによってリストアップしたわけです。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　この「経埋ムベキ山」にかぎらず晩年の賢治は、「法華経至上主義」だった若い頃とは少し変わって、いろいろな土着信仰も尊重する態度を示しています。<br />
    　同じ「雨ニモマケズ手帳」には、色鉛筆を使って「庚申碑」を書いている下写真のようなページもあります。庚申信仰というのは、中国の道教に由来しその後日本で様々な土着信仰とも習合していったものです。本来は仏教とは別物ですが、「経埋ムベキ山」が書かれている少し後には、下のように色鉛筆まで使って丁寧に、「七庚申 五庚申 五庚申」と書かれています。
</p>
<p align="right">
    <img title="「雨ニモマケズ手帳」より庚申碑" border="0" alt="「雨ニモマケズ手帳」より庚申碑" src="http://www.ihatov.cc/photo/koshin.jpg" width="430" height="355" /><br />
    <span class="small">（『新校本宮澤賢治全集』第十三巻（下）より）</span>
</p>
<p>
    　またその「庚申」の上の方には、「巌鷲山」「湯殿山・月山・羽黒山」「早池峰山」という修験道の山岳信仰の山々の名前を記した石碑のようなものも鉛筆で描かれていて、これもまた神仏習合的です。<br />
    　彼の若い頃の原理主義的な姿勢も、農民とともに日々を送り、その暮らしに根づいた素朴な信仰の重みを知っていくにつれて、変化を遂げていったということでしょうか。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　たしかに、法華経だけを一途に信奉していた頃の賢治は、他宗を厳しく否定することもしばしばでした。しかし、後にたとえば「銀河鉄道の夜」においては、キリスト教徒を登場させて彼らの信仰も否定せず、さらにジョバンニの「ほんたうのたった一人の神さま」という言葉や、ブルカニロ博士の「お互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」という話を読むと、あたかも彼は宗教の違いを超越した何かを構想していたのだろうかという印象さえ受けます。仏教とキリスト教を「習合させようとした」とまで言うと言いすぎでしょうが・・・。
</p>
<p>
    　さらに、ブルカニロ博士は、「ほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる」とも言い、これは諸宗教だけではなくて、科学と宗教までも「習合」させようとする、壮大な企図だと言えなくもありません。<br />
    　賢治がもっと生きていたら、さらにどんな風に考えを進めていったのだろうかと思います。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　ところで、私はしばらく前に、日本人が行ってきた埋経という行為について、とても印象的な言葉を読みました。それ以後、賢治の「経埋ムベキ山」を考える時に、いつも私はこれを意識するようになっています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　埋納の経文は埋納者自身の象徴である。これを地下に埋めるのは埋納者自身の死葬であり、埋納の場所は埋納者自身の墓所の象徴である。「経塚」なる名称は近世の造語であるということであるが、よくその本質を表現していると思う。<br />
        　　　　　　　　　　　　　　　　　　（藪田嘉一郎『経塚の起源』綜芸舎）
    </p>
</blockquote>
<p>
    　賢治が経典を埋めることを考えた動機は、もちろん法華経を後世の人々に届けたいと思ったからでしょう。しかし、上の引用文のような視点から見ると、これは自らの死期の近さを知った賢治が、かつて馳せめぐったイーハトーブの様々な場所を、自らの「終の棲家」とするために選び出したのではないだろうか、と考えてみることもできるわけです。<br />
    　「かがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という言葉のように、自分自身を32ヵ所に散華して、愛する故郷と一体になろうとしたのではないか、という気さえしてくるのです。
</p>
<p align="right">
    <img title="「経埋ムベキ山」一覧（小倉豊文）" border="0" alt="「経埋ムベキ山」一覧（小倉豊文）" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120212c.jpg" width="430" height="602" /><br />
    <span class="small">「経埋ムベキ山」の一覧（小倉豊文『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』より）</span>
</p>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」案内</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/01/3in.htm" />
<modified>2012-02-12T15:08:57Z</modified>
<issued>2012-01-15T14:25:45Z</issued>
<id>tag:www.ihatov.cc,2012://2.1102</id>
<created>2012-01-15T14:25:45Z</created>
<summary type="text/plain">     　寒い日々が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。     　...</summary>
<author>
<name>hamagaki</name>
<url>http://www.ihatov.cc/</url>
<email>webmaster@ihatov.cc</email>
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<dc:subject>0500event</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　寒い日々が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
</p>
<p>
    　さて、また下記のとおり、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」を開催いたします。震災1周年の、ちょうど1週間前にあたります。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        <span class="small">東日本大震災復興支援企画</span><br />
        <strong>第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都</strong>
    </p>
    <p>
        日時： 2012年3月4日（日）　午後2時開演（午後1時半会場）<br />
        場所： <a title="" href="http://www.pref.kyoto.jp/qhonkan/" target="_blank">京都府庁旧本館正庁</a><br />
        内容：<br />
        　　1. 「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」　構成・出演 竹崎利信<br />
        　　2. 「宮沢賢治 〜人と思想（その１）〜」　小講演 浜垣誠司<br />
        　　3. 「なめとこ山の熊」　かたり 竹崎利信 &amp; 音楽 友枝良平
    </p>
    <p>
        参加費：2000円（義援金とします）<br />
        参加のお申し込みは 075-256-3759（<a title="" href="http://567.gr.jp/" target="_blank">アートステージ５６７</a>）まで（12時-18時、月曜休）
    </p>
</blockquote>
<p>
    　そして、下がチラシです。クリックすると別窓で拡大表示されます。
</p>
<p>
    <a title="" href="http://www.ihatov.cc/img/3rd_ihatov_project_f.jpg" target="_blank"><img title="「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表" alt="「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/flyer1s.jpg" border="0" height="608" width="430" /></a>
</p>
<p>
    <a title="" href="http://www.ihatov.cc/img/3rd_ihatov_project_b.jpg" target="_blank"><img title="「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏" alt="「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/flyer2s.jpg" border="0" height="608" width="430" /></a>
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　プログラムの最初の「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」は、賢治の生涯や作品を題材としたいわゆる「一人芝居」で、竹崎利信さんが構成し、演じられます。賢治の作品の引用が散りばめられていて、賢治好きにとってはまるで名作カタログのようにも楽しめますが、はたして「わたし」が「あの人」を追い求める旅の行方は、いったいどうなるのでしょうか・・・？<br />
    　当日のプログラムのメイン・イベントは、竹崎さんによる「なめとこ山の熊」の「かたり」と、友枝良平さんの揚琴演奏のコラボレーションです。これはお二人のとっておきのレパートリーで、私は今から想像するだけでも涙がこぼれそうになります。<br />
    　私のお話は、「幻想旅行記」で浮かび上がる賢治の「人となり」と、「なめとこ山の熊」のバックボーンとなっている彼の生命観とを、つなげるような橋渡しになれば、と思っています。
</p>
<p>
    　今回、会場として使用する「京都府庁旧本館」は、明治37年に竣工され今は国の重要文化財となっている建物です。「正庁」というのはその中でもいちばん立派な部屋で、公式行事や公賓の接遇などに使われていました。大正4年の大正天皇即位の礼および昭和3年の昭和天皇即位の礼の際には、内閣全体が天皇に帯同し京都に来ていたので、この部屋で閣議が行われたということです。<br />
    　前回の「法然院本堂」もそうでしたが、この会場も、中に入ってその空間を体験していただくだけでも、価値のあるところだと思います。
</p>
<p>
    <img title="京都府庁旧本館正庁" alt="京都府庁旧本館正庁" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120115a.jpg" border="0" height="323" width="430" />
</p>
<p>
    　上の写真は、先月に下見に行った時のものです。シャンデリアや大きな窓とカーテンから私がちょっと連想したのは、賢治が通っていた盛岡高等農林学校の「<a title="" href="http://news7a1.atm.iwate-u.ac.jp/edu/siryoukan/list/koudou/koudou_01.html" target="_blank">講堂</a>」でした。ちなみに、盛岡高等農林学校の本館は大正元年の竣工で、やはり重要文化財に指定されています。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　チラシに使用させていただいた絵（木版画）は、前回に続いて鈴木広美画伯の作品です。<br />
    　本来は「なめとこ山の熊」とは全く無関係な作品なのですが、私はこれを見て、小十郎が死んでしまった後で、いつも一緒に猟に出ていたあの犬が、小十郎のことを思いつつ夜空の星を眺めているところに思えてしようがありませんでした。あるいは、視線の先には、熊たちが環になって小十郎の遺体を囲んでいる情景があるのかもしれない、などとも思えました。<br />
    　それで無理をお願いして、チラシに使わせていただいた次第です。この場を借りて、鈴木広美さんに感謝申し上げます。
</p>
<p>
    　ついでにご紹介すると、版画のバックの山並みは、私が2004年に実際になめとこ山の周辺で撮ってきた写真をもとにしています。（下写真でなめとこ山は、中央やや右寄りに霧で隠れてうっすらとだけ見えます。）
</p>
<p>
    <img title="なめとこ山のあたり" alt="なめとこ山のあたり" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120115b.jpg" border="0" height="195" width="430" />
</p>
<p>
    　テキストの区切りに置かれている小さな白い花は、熊の母子が印象的な会話をかわしていた「ひきざくら」（＝こぶし、マグノリア）です。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　参加ご希望の方は、<a href="mailto:webmaster@ihatov.cc" target="_blank">当サイト管理人あてにメール</a>をいただくか、上にも記しましたように&nbsp; 075-256-3759（アートステージ５６７：12時-18時、月曜休）まで、お電話を下さい。<br />
    　早春の京都で、お待ちしています。
</p>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>雲と風の日</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/01/post_753.htm" />
<modified>2012-01-10T10:01:08Z</modified>
<issued>2012-01-09T13:57:58Z</issued>
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<created>2012-01-09T13:57:58Z</created>
<summary type="text/plain">     　前回、「あのくしゃくしゃの数字」という記事に書いたように、「晴天恣意...</summary>
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<name>hamagaki</name>
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<dc:subject>0100work</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　前回、「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/01/post_752.htm" target="_blank">あのくしゃくしゃの数字</a>」という記事に書いたように、「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_d.htm" target="_blank">晴天恣意</a>」（『春と修羅 第二集』）という作品は、賢治が水沢の緯度観測所に出かけて、その年の気候や作況について予測するために、三陸沖の海水温などの最新のデータを調査し分析する作業を行う中での一コマだったのだろうと、私は思っています。<br />
    　ちょっと長い作品ですが、まずここに引用しておきます。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        一九<br />
        　　晴天恣意<br />
        　　　　　　　　　　　　　　　一九二四、三、二五、
    </p>
    <p>
        つめたくうららかな蒼穹のはて<br />
        五輪峠の上のあたりに<br />
        白く巨きな仏頂体が立ちますと<br />
        数字につかれたわたくしの眼は<br />
        ひとたびそれを異の空間の<br />
        高貴な塔とも愕ろきますが<br />
        畢竟あれは水と空気の散乱系<br />
        冬には稀な高くまばゆい積雲です<br />
        とは云へそれは再考すれば<br />
        やはり同じい大塔婆<br />
        いたゞき八千尺にも充ちる<br />
        光厳浄の構成です<br />
        あの天末の青らむま下<br />
        きらゝに氷と雪とを鎧ひ<br />
        樹や石塚の数をもち<br />
        石灰、粘板、砂岩の層と、<br />
        花崗斑糲、蛇紋の諸岩、<br />
        堅く結んだ準平原は、<br />
        まこと地輪の外ならず、<br />
        水風輪は云はずもあれ、<br />
        白くまばゆい光と熱、<br />
        電、磁、その他の勢力は<br />
        アレニウスをば俟たずして<br />
        たれか火輪をうたがはん<br />
        もし空輪を云ふべくば<br />
        これら総じて真空の<br />
        その顕現を超えませぬ<br />
        斯くてひとたびこの構成は<br />
        五輪の塔と称すべく<br />
        秘奥は更に二義あって<br />
        いまはその名もはゞかるべき<br />
        高貴の塔でありますので<br />
        もしも誰かゞその樹を伐り<br />
        あるひは塚をはたけにひらき<br />
        乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと<br />
        かういふ青く無風の日なか<br />
        見掛けはしづかに盛りあげられた<br />
        あの玉髄の八雲のなかに<br />
        夢幻に人は連れ行かれ<br />
        見えない数個の手によって<br />
        かゞやくそらにまっさかさまにつるされて<br />
        槍でづぶづぶ刺されたり<br />
        頭や胸を圧し潰されて<br />
        醒めてははげしい病気になると<br />
        さうひとびとはいまも信じて恐れます<br />
        さてそのことはとにかくに<br />
        雲量計の横線を<br />
        ひるの十四の星も截り<br />
        アンドロメダの連星も<br />
        しづかに過ぎるとおもはれる<br />
        そんなにもうるほひかゞやく<br />
        碧瑠璃の天でありますので<br />
        いまやわたくしのまなこも冴え<br />
        ふたゝび陰気な扉を排して<br />
        あのくしゃくしゃの数字の前に<br />
        かゞみ込まうとしますのです
    </p>
</blockquote>
<p>
    　集中して行っていた作業に一段落を付け、ちょっとひと息ついて、心地よい疲労感とともに空の雲を眺め、空想の翼を広げる・・・。そんな賢治の様子は、2年前の「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_1/014_d.htm" target="_blank">雲の信号</a>」（『春と修羅』）という作品の時と、ちょうど同じです。もっともこの時は、陰気な室内で数字を相手にするのではなくて、農学校で農具の手入れか何かをしていたようですが。
</p>
<p>
    　ところでどちらの作品にも、雲の下にある「山」が、初めの方に少しだけ登場します。「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_d.htm" target="_blank">雲の信号</a>」では、4〜6行目に「山はぼんやり／岩頸だつて岩鐘だつて／みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」と描写されています。岩頸や岩鐘というのは、農学校から西の方向に連なる、奥羽山系の山々のことでしょう。<br />
    　一方、「晴天恣意」の方には山の固有名詞が入っていて、まず「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_1.htm" target="_blank">下書稿(一)</a>」では2行目に「原体山の右肩あたりに」と書かれますが、それが「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_1a.htm" target="_blank">下書稿(一)手入れ形</a>」では「種山ヶ原の右肩あたり」に変えられ、さらに「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_d.htm" target="_blank">下書稿(二)手入れ形</a>」では、「五輪峠の上あたりに」となります。<br />
    　原体山も種山ヶ原も五輪峠も、水沢から見れば東北東の方角にあたり、雲が位置する方向を表すという意味では、山が変わっても大した違いは起こらないのですが、なぜ賢治はこんなに細かく山の名前にこだわったのか、ちょっと不思議なところです。<br />
    　ただ、この山々のある方向、すなわち賢治が見ていた雲が浮かんでいた方角が、水沢から見るとちょうど遠野の方角にあたることには、作品の着想の上で意味があるかもしれません。詩の中ほどでは雲に関連して、『遠野物語』を彷彿とさせるような、かなり恐ろしい伝承が語られるのです。<br />
    　下の地図で、赤の(M)は水沢緯度観測所、水色の(1)は原体山、(2)は種山ヶ原、(3)は五輪峠の位置を示しています。正式名称が「原体山」という山は今は見あたらないのですが、現在<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/048.html" target="_blank">「原体剣舞連」詩碑</a>が建っている「経塚森」がそれではないかととりあえず推測し、その場所にマーカー(1)を立てています。いずれにせよ、緯度観測所からこれらの山に向けて引いた線をさらに延ばしていくと、遠野に至ることがおわかりいただけるでしょう。
</p>
<p>
    <iframe src="http://www.ihatov.cc/blog/20120109map.html" frameborder="0" height="400" scrolling="no" width="430"></iframe>
</p>
<p align="center">
    &nbsp;◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　ところでこの「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_d.htm" target="_blank">晴天恣意</a>」の草稿については、「星のおじさん」こと草下英明氏が、「『晴天恣意』への疑問」（『宮澤賢治と星』所収）という文章において、疑問を呈しておられます。<br />
    　草下氏がこの「晴天恣意」という作品に親しんでこられたのは、十字屋版全集に掲載されていた形（今で言う「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_1a.htm" target="_blank">下書稿(一)手入れ形</a>」）だったところ、第二次筑摩書房版全集では一転して「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_d.htm" target="_blank">下書稿(二)手入れ形</a>」が本文に採用されたので、違和感を禁じ得ないというのです。<br />
    　草下氏は書きます。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        ・・・にもかかわらず、私はこの改訂に賛成する気にはなれないのである。<br />
        　私が問題にするのは、三十行目の「雲量計の横線をひるの十四の星も截り」という部分である。雲量計とは、文字通り解釈すれば、雲の分量を計る測定器、温度計や湿度計、風速計などと同じ気象観測用の器具のように聞える。しかし、私が調べた範囲では、もちろん気象庁へも問合わせた結果、雲の量を計数的に計る装置――つまり雲量計と呼ばれる器具は公式には存在しないのである。（中略）<br />
        　私は、これに気が付くと、さっそく宮澤清六さんに手紙を書き、この改訂には疑問がある旨を申上げたところ、すぐ次の御返事をいただいた。返事の内容は次のようなものである。（昭和四十三年三月）<br />
        　賢治の『春と修羅』第二、三、四集の詩稿には、定稿のあるもの、第一稿だけのもの、第一稿から第四稿まであるものと、まちまちである。『晴天恣意』には、死の直前清書された定稿はなく、第一稿と第二稿だけがあるだけで、十字屋版全集では編集の時の考えで第一稿が採用された。筑摩版の時には、編集担当の方と再研究検討の上、内容はどうあろうともこの詩は第二稿（賢治自身がのちに手を入れて直したもの）をとろうという方針であった。（中略）<br />
        　ここで私共は、いささか困ってしまうのである。この詩には、全く定稿がないのだから、十字屋版にのった第一稿は、賢治の意志によって第二稿の如くに改変され、更に推敲をかさねて、もっと訂正されるべき途上にある作品と見なければならない。「雲量計云々」はおそらく賢治の思い違い、誤記又は訂正不十分の個所であるのだろう。問題は、今後どのように形を変えるか分らない、しかも、もうどうにも変りようもない状態の詩を、私たちは首をひねって読まなければならないということである。ここに賢治の作品を鑑賞する、非常な困難性があるのだ。或はまた、大げさに言えば賢治全集の成立そのものにかかわる重大問題を蔵しているともいえるのだ。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　「賢治全集の成立そのものにかかわる」問題意識は、その後『校本全集』の登場によって一つの発展的な解決を見ることになりますが、この作品に関してはたしかに、「天頂儀の蜘蛛線を／ひるの十四の星も截り」という表現の方に、捨てがたい魅力があります。緯度観測所ならではの「天頂儀」という特殊な装置を小道具として、昼の天頂を静かに人知れず星が移動し、蜘蛛の糸でできた幽かな線を横切っていく・・・。そのイメージには、幻想的な雰囲気も漂います。<br />
    　これに比べると「雲量計の横線」というのは、ちょっと具体的な想像もつきにくく、詩的表現として一歩譲る感じがしてしまいます。
</p>
<p>
    　ところが、草下英明氏はその後、上記の文章の「補註」において、この「雲量計」に関する須川力氏の論考を紹介しつつ、自分が上の文を書いた時点の認識について、「赤面せざるを得ない」と率直な筆致で思いを綴っておられます。<br />
    　須川力氏は、水沢緯度観測所の技官を務めておられた方で、「宮澤賢治と天文学」という文章の中で、自らの経験をもとに「雲量計」の正体を明らかにしてくれました。<br />
    　以下は、草下英明氏の文章からの孫引きです。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　すなわち「雲量計の横線は一寸意味不明だが、恐らく当所構内のピラス子午儀室と変電室との間の芝地に、以前櫛形測雲計が立って居た。その櫛の横線を指したものが想像される」とある。私（＝草下氏：引用者注）は早速、須川氏に問合わせて櫛形測雲計という器具について伺ってみたところ、須川氏が緯度観測所に着任した当時（昭和十八年）はすでにこの器具は撤去されていたが、要するに柱の先にテレビのアンテナの様な縦棒と横に何本かの線を組合わせたものが取付けてあり、下からそれを見上げて、雲量を眼視する際の眼視範囲や方向の目安にするだけの器具であるという。つまり雲量を直接測定する計器ではない。しかし賢治は、恐らく「これで雲の量をしらべるのだ」と言われて、雲量計と速断したのではないかということだ。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　すなわち、「雲量計」は正しい名称ではなくて、本当は「櫛形測雲計」と言うらしいのです。しかしそう言われてもまだよくわかりませんので、これがいったいどんな器具だったのか、ちょっと調べてみました。<br />
    　'<a title="" href="http://www.salemclock.com/" target="_blank">Salem Clock Shop</a>'というオレゴン州の<img title="櫛形測雲計" alt="櫛形測雲計" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/comb_nephoscope.jpg" border="0" height="237" hspace="5" width="180" align="right" />時計店のサイトに、'<a title="" href="http://www.salemclock.com/weather/comb.htm" target="_blank">Comb Nephoscope</a>'（櫛形測雲計）の図と説明がありましたので、右に図を引用します。<br />
    　名前のとおり、櫛の形をしていますね。この櫛の「背」の部分の長さは2.5-3mほどあって、観測者は下から櫛の歯の間を通して雲を目視し、支柱を回転させて雲が動いて行く方向と櫛の背の棒が平行になるようにします。これによって、雲の動きの方向が同定できます。<br />
    　そしてさらに、櫛の歯に相当する横棒の間を雲が通過する時間を測定することによって、雲が動いていく速さがわかります。そして雲の高度がわかれば、実際の雲の速度を計算することもできるわけです。<br />
    　わざわざこんな道具で雲が動く方向や速度を調べる目的は、それによって高層の風の向きと強さがわかるわけで、これは気象学的には役に立つデータのようです。<br />
    　つまり、この器具で「櫛の歯」にあたる棒が、賢治の言う「雲量計の横線」なのでしょう。実際、この横線は空の雲が通過していくのを観測するための目安ですから、雲のかわりに「ひるの十四の星」が横切っていくさまを想像するというのは、器具本来の趣旨からも見ても妥当なことです。<br />
    　ただ、これは雲の「量」を計るわけではありませんから、「雲量計」という呼び方は正しくなかったというわけですね。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    <img title="緯度観測所五十周年記念切手" alt="緯度観測所創立五十周年記念切手" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120109a.jpg" border="0" height="185" hspace="5" width="154" align="right" />　さて、右の切手は、緯度観測所創立五十周年を記念して1949年に発行された切手で、描かれている立派な器械が「天頂儀」です。それにしても、草下英明氏が心から残念がっておられたように、この詩のモチーフとして用いるならば、やはり「天頂儀の蜘蛛線」の方が、より魅力的に感じます。なのに、賢治が推敲によってこれを「雲量計の横線」に変えてしまったのは、いったいなぜだったのでしょうか。<br />
    　私なりに推測するその理由は、「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_d.htm" target="_blank">晴天恣意</a>」という作品全体を貫くテーマが「雲」なので、小道具もそれに合わせて星ではなく「雲量計」を採ったということなのではないかというものです。何ともありきたりの理屈で恐縮ですが・・・。
</p>
<p>
    　というのは、最初に見たように作品の冒頭部分でも、雲の下の山の名を「原体山」→「種山ヶ原」→「五輪峠」という風に推敲過程で変えていましたが、これもやはり作品内容との関係によるのだろうと思うのです。<br />
    　上の地図を見ていただいたらわかるとおり、3つの中で最初の「原体山」だけは平野の人里から近くに位置しています。これは「里山」のような小山ですが、作品の中ほどで「古生山地の峯や尾根／盆地やすべての谷々には／おのおのにみな由緒ある樹や石塚があり／めいめいに何か鬼神が棲むと伝へられ・・・」というような箇所との対応では、北上山地のもっと奥深い場所の方が似つかわしいので、まず「原体山」から「種山ヶ原」に改められたのではないでしょうか。<br />
    　さらに、「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_d.htm" target="_blank">下書稿(二)手入れ形</a>」においては、雲とは結局「地水火風空」の五つの要素が合わさったものであり言わば空中の巨大な五輪塔に他ならないという認識が示されたことにもとづいて、これを地上の五輪塔と対比させるために、「五輪峠」こそがふさわしい山として選ばれたのではないでしょうか。<br />
    　後年の推敲によって、最初にスケッチされた時のモチーフは徐々に姿を変えていってしまいますが、内容はより深く思索的になり、全体の統一感というのも増していったように感じます。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　この「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_d.htm" target="_blank">晴天恣意</a>」を読むと、早春の澄み切った青空をバックに、白い巨きな雲が鮮やかにそびえ立っている様子が目に浮かんでくるような気がします。たまたま作品中には「雲量計」も出てくることですので、実際にこの日の水沢の気象条件がどんな具合であったのかということを、調べてみました。<br />
    　下図は、前回も引用した「中央氣象臺月報 全國氣象表」から、大正13年3月の水沢の気象記録です。 （クリックすると別窓で拡大表示されます。）
</p>
<p>
    <a title="" href="http://www.ihatov.cc/images/20120104b.jpg" target="_blank"><img title="「中央氣象臺月報　全國氣象表」（大正13年3月水沢）" alt="「中央氣象臺月報　全國氣象表」（大正13年3月水沢）" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120104a.jpg" border="0" height="612" width="430" /></a>
</p>
<p>
    　ところがこれを見ると、ちょっと意外なことに気が付きます。「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_d.htm" target="_blank">晴天恣意</a>」が書かれた1924年（大正13年）3月25日、場所も賢治がいたのと完全に同じ水沢緯度観測所で観測された気象なのですが、この日は単純に「晴天」とは言いにくいような、かなり雲の多い日だったのです。<br />
    　上表の下段に「雲量」の欄がありますが、この表で3月25日のところを見ると、それぞれ2時、6時、10時、14時、18時、22時の雲の量のは、順にそれぞれ、3、7、9、10、4、2、です。これは、全天が雲に覆われた状態を「10」として、その比率を表す数字ですから、例えば午前10時および午後2時の時点では、それぞれ全天の「10分の9」と「10分の10」にわたって雲が広がっていたわけです。つまり、気象学上の定義によれば、「曇り」だったんですね。<br />
    　一方で、さらにその右の欄の「日照時数」を見ると、3月25日は10.2時間もあります。全体的な雲の多さにもかかわらず、日の出から日の入りまでの約12時間のうち、太陽は大部分は雲の隙間から顔を覗かせていたわけです。ちなみに、この年の3月のうちで日照時間が10時間を超えていたのは、あと3月18日の「10.38時間」しかありませんから、この時期のこの地方としては、明るい日差しに恵まれた一日だったと言えます。賢治がタイトルにことさら「晴天」と付けたのも、このあたりに理由があるのでしょう。
</p>
<p>
    　この日の天候についてさらに特徴的な点を挙げると、上段の「風ノ方向及速度」によれば、午前10時に北風が風速12.2m/s、午後2時にやはり北風が9.5m/sで、かなり風の吹き荒れる日だったということです。「<a title="" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%8A%9B#.E3.83.93.E3.83.A5.E3.83.BC.E3.83.95.E3.82.A9.E3.83.BC.E3.83.88.E9.A2.A8.E5.8A.9B.E9.9A.8E.E7.B4.9A" target="_blank">ビューフォート風力階級</a>」によれば、風速10.8〜13.8m/sの範囲は「雄風」と呼ばれ、「木の大枝が揺れ、傘がさしにくくなる、電線が唸る」という状況だそうです。下段右端の「記事」の欄には、この日には<img title="" alt="" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120109b.gif" border="0" height="15" hspace="5" width="70" />という記号が記入されており、「烟霧」「霜」とともに「暴風」があったということですから、瞬間的にはもっと強い風も吹いたのでしょう。
</p>
<p>
    　賢治が水沢緯度観測所で強い風を体験していたとなると、これはひょっとして「風の又三郎」のイメージの中にも少しはまぎれ込んでいるのではないかと、ふと考えてみたくもなりますね。<br />
    　下記は、「風野又三郎」の中から、九月五日に「水沢の臨時緯度観測所」の話が出る直前のところで、又三郎が上海の気象台の上空を飛んだ時の様子です。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出てゐた。<br />
        『こいつはもう本たうの暴風ですね、』 又あの子供の助手が尤らしい顔つきで腕を拱いてさう云ってゐるだらう。博士はやっぱり鼻であしらふといった風で<br />
        『だって木が根こぎにならんぢゃないか。』と云ふんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして<br />
        『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ。』と云ふんだ。その時僕はもうあとを見なかった。なぜってその日のレコードは八米だからね。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　賢治が水沢緯度観測所を訪ねた日は、又三郎が「どの木もみんなぐらぐら」にさせたレコードの「八米」をも上まわる、風の日でもあったのでした。
</p>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>あのくしゃくしゃの数字</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/01/post_752.htm" />
<modified>2012-01-07T15:21:26Z</modified>
<issued>2012-01-04T14:37:23Z</issued>
<id>tag:www.ihatov.cc,2012://2.1100</id>
<created>2012-01-04T14:37:23Z</created>
<summary type="text/plain">     　1924年（大正13年）3月24日、賢治は雪の降る五輪峠を歩いて越え...</summary>
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<name>hamagaki</name>
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<email>webmaster@ihatov.cc</email>
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<dc:subject>0100work</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　1924年（大正13年）3月24日、賢治は雪の降る五輪峠を歩いて越え、人首（ひとかべ）という集落で一泊して、翌25日は水沢にある緯度観測所を訪ねたようです。この間の様子は、「 <a href="http://www.ihatov.cc/haru_2/081_d.htm" target="_blank">〔湧水を呑まうとして〕</a> 」、「<a href="http://www.ihatov.cc/haru_2/082_d.htm" target="_blank">五輪峠</a>」、「<a href="http://www.ihatov.cc/haru_2/083_d.htm" target="_blank">丘陵地を過ぎる</a>」、「<a href="http://www.ihatov.cc/haru_2/084_d.htm" target="_blank">人首町</a>」、「<a href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_d.htm" target="_blank">晴天恣意</a>」という連作に描かれています（「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/series/gorin.html" target="_blank">五輪峠詩群</a>」参照）。<br />
    　「<a href="http://www.ihatov.cc/haru_2/082_d.htm" target="_blank">五輪峠</a>」には、「何べんも何べんも降った雪を・・・」という一節が出てきますが、国会図書館近代デジタルライブラリーから、「中央氣象臺月報 全國氣象表」（下図）というのを調べてみると、この年の3月に入ってから24日までの期間のうち、水沢で雪が降らなかったのは7日間だけで、あとは「何べんも何べんも」雪が降りつづく日々だったことがわかります。（下図はクリックすると、別窓で拡大表示されます。）
</p>
<p>
    <a title="" href="http://www.ihatov.cc/images/20120104b.jpg" target="_blank"><img title="「中央氣象臺月報　全國氣象表」（大正13年3月水沢）" alt="「中央氣象臺月報　全國氣象表」（大正13年3月水沢）" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120104a.jpg" border="0" height="612" width="430" /></a>
</p>
<p>
    　それにしても、賢治はこの日、何のためにわざわざ雪の峠越えをして水沢までやって来たのでしょうか。その目的は明示されてはいませんが、「水沢緯度観測所にて」と副題のある<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/085_2.htm" target="_blank">「晴天恣意」の下書稿</a>には、最初の方に「数字につかれたわたくしの眼は・・・」と書かれていますし、最後は次のように終わります。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        そんなにもうるほひかゞやく<br />
        碧瑠璃の天でありますので<br />
        いまやわたくしのまなこも冴え<br />
        ふたゝび陰気な扉を排して<br />
        あのくしゃくしゃの数字の前に<br />
        かゞみ込まうとするのです
    </p>
</blockquote>
<p>
    　つまり、彼はこの観測所にある何らかの「くしゃくしゃの数字」＝数値データを調べるために、ここを訪れたのではないかと思われます。
</p>
<p>
    　水沢緯度観測所というとまず何よりも、当時世界で6ヵ所だけ設置されていたという国際的な緯度観測の最先端施設です。またここは、「土神ときつね」に「水沢の天文台」として登場するように、高性能の天体望遠鏡を有する天文観測所でもありました。<br />
    　緯度観測所の機能としてはこの二つが有名ですから、賢治がここに何かを調査しに来たとすれば、まず思い浮かぶのは、こういった領域のデータを見に来たのではないかということです。<br />
    　しかし、この頃の賢治は農学校に勤めており、もとより地球物理学にも天文学にも関心は高かったでしょうが、それらを調査するとすれば自分の専門外の「趣味」に属することになります。もちろん趣味も多彩な賢治でしたが、私が想像するのは、この時彼は農作物とりわけ米の作況を予想するために、気象や海水温のデータを調べようとやって来たのではないか、ということです。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　賢治の恩師である盛岡高等農林学校の関豊太郎教授は、1907年（明治40年）に「東北の凶冷と沿岸潮流との関係に就きて」（『官報』明治40年4月15日−16日）という論文を発表しています。この研究の意義については、1966年に小沢行雄氏が、「<a title="" href="http://dil.bosai.go.jp/publication/old_nied/houkoku/06/06_04.pdf" target="_blank">低海水温の内陸気温に及ぼす影響について</a>」（防災科学技術総合研究報告 第6号 1966年3月）という論文の冒頭で、次のように高く評価しています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　東北地方・北海道地方など北日本の冷害凶作が夏期の著しい低温によってもたらされることは明らかである。ところでこの夏期低温を誘致する原因については、古く明治40年代から調査研究が進められ、三陸北海道沖の海水温の低さが注目されてきた。すなわち関は岩手県の広田湾及び宮古湾の沿岸水温から明治38年の凶冷の原因を考察し、寒潮面上を吹送してくる北東風又は東風は冷涼で陸地の温度を低下させること、一方太平洋上の温暖な海面からくる風は海岸付近の寒流上の冷気にふれて細霧を生じ雨をもたらすと説き、冷害年における海水温の異常を詳述した。この論文は冷害と海水温とを結びつけた考察の端緒であり、ここに指摘されている冷害年には沿岸海水温が異常に低くなるという事実は今日においても変更の余地はない。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　1915年から1920年まで関教授のもとで学んだ賢治は、この関教授の業績について当然勉強し、その後も冷害について考える際には、「三陸北海道沖の海水温」を意識していたはずです。また実際、この水沢緯度観測所訪問の前年である1923年に書いた「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_1/078_d.htm" target="_blank">宗谷挽歌</a>」には、
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        （根室の海温と金華山沖の海温<br />
        &nbsp;大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。）
    </p>
</blockquote>
<p>
    という一節が出てきます。場所は根室と金華山沖、すなわちまさしく「三陸北海道沖」に該当しており、少なくとも賢治はこの水沢訪問の前年には、「三陸北海道沖の海水温」をしっかりと頭に入れていたわけです。<br />
    　やはり国会図書館近代デジタルライブラリーで、「農商務統計表」から岩手県の米の収量を調べると、平年は702,480石に対して、大正2年（1913年）は461,405石で、平年を100とした作況指数は66と、極端な凶作でした。賢治が「大正二年の曲線と大へんよく似てゐます」と気にしているのは、この年も凶作にならないかと心配なのでしょう。
</p>
<p>
    　この頃まで、彼はこういった気象データを水沢緯度観測所で調査していたのだろうと私は思うのですが、ちょうどこの年の7月末以降は、彼は「盛岡測候所」で調べるとともに、所長の福井規矩三氏に教えを請うようになったようです。<br />
    　後に福井規矩三氏からの口述筆記で作成された「測候所と宮澤君」という文章には、この頃の状況は次のように書かれています（日本図書センター『宮沢賢治研究資料集成 第2巻』より）。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　大正十三年は岩手県はひどい旱害であつたが、その年の七月末頃、あの君に始めてお目にかかつた。土用の入りの日じやつたが、別に紹介状もなしにやつて来られた。服装は背広で、それから屡々お目にかかつたが、いつも洋服であつたやうに思ふ。ごく質素な方で、身の廻りののことなどは頭になかつた方と思ふ。そのときも帰つてからていねいな手紙をくだされたが、なくしてしまつた。大正十三年の旱天は、岩手県では近ごろではなかつた旱害の記録で、以前は何時でも水が余つてゐたので、水不足で作付が出来ないといふことはなかつた。大正七年にもちよいとした小規模な旱天があつたが、大正十三年のは、とてもとてもきつかつた。雨が不足で一般に植付が困難であつたが、ことに胆沢郡永岡附近が水廻りが悪かつた。花巻方面はさほどでもなかつたが、後も雨が不足で作物が困難になつてきをつた。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　この年の旱害は、賢治が4月の時点で予想して、「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_2/090_d.htm" target="_blank">測候所</a>」という作品に「・・・・・・凶作がたうたう来たな・・・・・・」と書いているものでしょう。今回取り上げている3月25日の水沢緯度観測所訪問から10日あまりで再び「測候所」に赴いているとは、よほど凶作が気になっていたのだろうと思われます。<br />
    　盛岡測候所が開所したのは前年の1923年（大正12年）9月のことで、これを受けて翌大正13年7月以降の賢治は、気象データをここで入手するようになったことは福井氏の話によってわかりました。ではそれまではどこで調査をしていたのかとなると、やはり前述のように水沢緯度観測所だと思われます。<br />
    　盛岡測候所ができるまでは、岩手県内にはあとは三陸海岸沿いに宮古測候所があっただけですが、花巻から北上山地を越えて宮古まで行くというのは、非常に大変なことです。測候所機能も備えていた水沢緯度観測所に行っていたと考えるのが、自然でしょう。
</p>
<p>
    　ちなみに、金華山沖の海水温については、水沢観測所のお隣の測候所である宮城県石巻測候所が、1916年（大正5年）以降「金華山漁場ノ海水温」として発表しています（下図）。私としては、賢治が上の「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_1/078_d.htm" target="_blank">宗谷挽歌</a>」で触れたデータの由来は、この冊子のシリーズだろうと思うのです。（下図は国会図書館近代デジタルライブラリーより、「金華山漁場ノ海水温 第1号」（宮城県石巻測候所,1919）のp.19。クリックすると別窓で拡大表示されます。）
</p>
<p>
    <a title="" href="http://www.ihatov.cc/images/20120104d.jpg" target="_blank"><img title="『金華山漁場沖ノ海水温』より" alt="『金華山漁場沖ノ海水温』より" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120104e.jpg" border="0" height="533" width="430" /></a>
</p>
<p>
    　当時、水沢緯度観測所がこの冊子を所蔵していたという証拠はつかめていません。しかし、設立2年後の1888年（明治21年）以降、測候所として毎日6回の気象観測を継続し、全国に設置された測候所の一つとしての役割も果たしていた水沢緯度観測所としては、「お隣の測候所」の刊行物も、当然保有していただろうと考えます。
</p>
<p>
    　すなわち、賢治が1924年3月25日に水沢緯度観測所において「かゞみ込」んでいた「くしゃくしゃの数字」とは、上記のように延々と何枚も続く、このような表のデータだったのだろうと思います。<br />
    　「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_1/078_d.htm" target="_blank">宗谷挽歌</a>」では、「（海温の）曲線」と記されていますが、この冊子にはグラフは掲載されておらず、数字が上のような表になっているだけです。賢治は、自分でこの表からデータをピックアップして、グラフにする作業もしていたのではないかと、私は思うのです。
</p>
<p>
    <img title="奥州宇宙遊学館（旧水沢緯度観測所）" alt="奥州宇宙遊学館（旧水沢緯度観測所）" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20120104f.jpg" border="0" height="315" width="430" /><br />
    奥州宇宙遊学館（旧水沢緯度観測所）
</p>
<table>
    <tbody><tr>
        <td align="right" nowrap="nowrap"></td>
        <td nowrap="nowrap"></td>
    </tr>
</tbody></table>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>CDブック発売とイベント</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2011/12/cd_2.htm" />
<modified>2011-12-23T03:11:11Z</modified>
<issued>2011-12-23T03:11:11Z</issued>
<id>tag:www.ihatov.cc,2011://2.1099</id>
<created>2011-12-23T03:11:11Z</created>
<summary type="text/plain">     　イベントのお知らせをいただきました。     　12月26日に左右社...</summary>
<author>
<name>hamagaki</name>
<url>http://www.ihatov.cc/</url>
<email>webmaster@ihatov.cc</email>
</author>
<dc:subject>0500event</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　イベントのお知らせをいただきました。
</p>
<p>
    　12月26日に左右社から刊行されるCDブック『春の先の春へ　震災への鎮魂歌 古川日出男、宮澤賢治「春と修羅」をよむ』の出版記念イベントとして、12月24日に東京で「古川日出男＋管啓次郎、「春と修羅」「銀河鉄道」をよむ」が行われるということです。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        <strong><a title="" href="http://www.saravah.jp/tokyo/schedule/log/20111224.php" target="_blank">古川日出男＋管啓次郎、<br />
        「春と修羅」「銀河鉄道」をよむ</a></strong>
    </p>
    <p>
        2011年12月24日 (土) 12:00 open 13:00 start<br />
        場所： <a title="" href="http://www.saravah.jp/tokyo/" target="_blank">SARAVAH 東京</a><br />
        〒150-0046<br />
        東京都渋谷区松濤1丁目29-1 渋谷クロスロードビル B1<br />
        TEL/FAX 03-6427-8886<br />
        <a href="mailto:contact@saravah.jp">contact@saravah.jp</a>
    </p>
    <p>
        Adv. 3000円（+1drink order）<br />
        Door. 3500円（+1drink order）<br />
        ペアチケット：4,000円（＋2drink order）
    </p>
</blockquote>
<p>
    　以下は、イベントの紹介文。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　本イベントは１２月26日発売予定のCDブック『春の先の春へ　震災への鎮魂歌／古川日出男、宮澤賢治「春と修羅」を読む』（左<wbr />右社）の刊行記念イベントです。自然のプロセスや時の流れをその<wbr />ままに体現する「川」を大きなモチーフとして、第１部では今回の<wbr />CD収録作品を中心に幾人かの現代詩人たちの作品の朗読と歌を、<wbr />第２部では朗読・音楽劇として再構成された『銀河鉄道の夜』<wbr />をお届けします。<br />
        　企画・出演は古川日出男（小説家）、管啓次郎（詩人）、小島ケイ<wbr />タニーラブ（音楽家）。<br />
        　クリスマス・イヴに改めて３月１１日以後<wbr />の日々を思い返し、また必ずやってくる次の春への希望の芽生えを<wbr />探す。希有の光が生じるにちがいないそんな機会に、ぜひ立ち会っ<wbr />てください。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　それから、このたび発売されるCDブック。
</p>
<table class="g-tools_table">
    <tbody>
        <tr>
            <td valign="top">
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            </td>
            <td valign="top">
                <span class="g-tools_body"><a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%98%A5%E3%81%AE%E5%85%88%E3%81%AE%E6%98%A5%E3%81%B8-%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%8E%AE%E9%AD%82%E6%AD%8C-%E5%8F%A4%E5%B7%9D%E6%97%A5%E5%87%BA%E7%94%B7%E3%80%81%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E8%B3%A2%E6%B2%BB%E3%80%8C%E6%98%A5%E3%81%A8%E4%BF%AE%E7%BE%85%E3%80%8D%E3%82%92%E3%82%88%E3%82%80-%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E8%B3%A2%E6%B2%BB%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B901-CD%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4903500705%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dihatovcc-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4903500705" target="_blank">春の先の春へ 震災への鎮魂歌/古川日出男、宮澤賢治「春と修羅」をよむ (宮澤賢治ブックス01)(CDブック)</a><img style="BORDER-BOTTOM: medium none; BORDER-LEFT: medium none; BORDER-TOP: medium none; BORDER-RIGHT: medium none" alt="" src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=ihatovcc-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" /><br />
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            </td>
        </tr>
    </tbody>
</table><br />
<br />
<p>
    　いつもは、自分がまだ読んでいない本のことなどは載せていないのですが、「震災への鎮魂」というコンセプトなので、関連イベントともにご紹介させていただきました。
</p>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>正午の太陽微塵</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2011/12/post_751.htm" />
<modified>2012-01-04T09:54:03Z</modified>
<issued>2011-12-18T14:34:23Z</issued>
<id>tag:www.ihatov.cc,2011://2.1098</id>
<created>2011-12-18T14:34:23Z</created>
<summary type="text/plain">     　19世紀終わりから今世紀初頭にかけて活躍した、アレニウスというスウェ...</summary>
<author>
<name>hamagaki</name>
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</author>
<dc:subject>0100work</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    <img title="アレニウス" alt="アレニウス" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111218b.jpg" align="right" border="0" height="188" hspace="5" width="150" />　19世紀終わりから今世紀初頭にかけて活躍した、アレニウスというスウェーデンの化学者がいました。（右写真は<a title="" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Arrhenius2.jpg" target="_blank">ウィキメディア・コモンズ</a>より）<br />
    　その業績は、物理学・化学・天文学・免疫化学など多岐にわたり、「物理化学 physical chemistry」という領域の創始者の一人でもあります。今で言うこの「物理化学」という分野のことを、大正初期に東北帝国大学教授であった片山正夫博士は、邦語で「化学本論」と呼ぶことにしてその主著のタイトルともしましたから、同書を座右に置いた宮澤賢治にとっては、アレニウスは自然科学におけるヒーローの一人だったのではないかと思います。
</p>
<p>
    　そのアレニウスの著書の邦訳が出た<img title="アレニウス『宇宙発展論』" alt="アレニウス『宇宙発展論』" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111218a.jpg" align="right" border="0" height="320" hspace="5" width="200" />ら、賢治もきっと読んだに違いないと推測したくなりますが、賢治が盛岡高等農林学校に入学する前年の1914年（大正3年）に出版された『宇宙発展論』（一戸直蔵訳）は、まさにそのような一冊です。（右写真は国会図書館・近代デジタルライブラリーより）<br />
    　この本には、空気中の放電によって窒素化合物が生成し、それが雨によって降下することで植物を肥やすという記述（p.196-197）や、空気中の炭酸ガスが増加すると温暖化が起こり、作物の収穫の増加につながるとの記述（p.85）があり、これらはいずれも「グスコーブドリの伝記」における未来科学的なアイディアと一致するものです。この二点は、『新宮澤賢治語彙辞典』も「アレニウス」の項目で指摘しているところで、さらに同辞典は「太陽系」の項目において、「賢治がこの本を読んだ可能性は非常に高いと言える」と述べています。<br />
    　例えば、下に同書p.85の炭酸ガスによる温暖化に関する記述の部分を引用してみます。火山の爆発は被害も起こすけれども、大気中の炭酸ガスの増加は特に寒冷地において「一層良好なる気候」と「豊饒なる収穫」を与えうると述べています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　吾等は、地中に貯蔵せる石炭が現今将来に対する何等の念慮なくして漫りに徒消せられつつありとの怨言を耳にすること屡々なり。且つ吾人は火山爆裂によりて蒙むる恐るべき生命財産の破壊によりて震駭せしめらるること屡々なり。されど吾人はここも、他の有らゆる場合に於て然るが如く、善は常に不善と随伴せらるるものなりてふ諺によれて自ら慰めざる可らず。大気中に於ける炭酸瓦斯の割合が増加するに従ひ、其結果として吾人は一層気温分布の平等なる一層良好なる気候（特に寒冷なる地方に於て）の時代を楽しみ得べきなり。而して其時代に至れば地面は現今に於けるよりも遙かに豊饒なる収穫を与ふべく、かくて急速に拡散しつつある人類の生活に資する所多大なるものあるべきなり。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　私も、「賢治がこの本を読んだ可能性は非常に高い」という『新宮澤賢治語彙辞典』の考えに、賛成です。
</p>
<p align="center">
    ◇　　　　　　　　　　◇
</p>
<p>
    　現在はこの『宇宙発展論』は、インターネットを通して国会図書館の「近代デジタルライブラリー」でいつでも読めるようになっているので、今日も私はパラパラと眺めていました。<br />
    　すると、賢治の作品に出てくる表現を連想させる記述が上記の他にもいくつか見られたのですが、とりわけ印象的だったのは、同書p.181の、次の記述でした。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        蓋し太陽微塵の大部分は正午頃に落下するを以て極光の大部分も亦正午後数時間最も夥しく起るべきことは、恰かも一日中の最高温度に於けると同じかるべき理なり。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　これは、極光（オーロラ）の発生原理を物理学的に説明しようとしている箇所で、「太陽微塵」というのは、太陽から地球に放射されている非常に微小な粒子、現代の用語で言えばプラズマ状態にある「太陽風」のことです。<br />
    　それにしても、「<strong>太陽微塵の大部分は正午頃に落下する</strong>」という言葉は、あの感動的な一節をまさに彷彿とさせるではありませんか！
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　　　　<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_1/009_d.htm" target="_blank">春と修羅</a><br />
        　　　　　　　　　　　　(mental sketch modified)<br />
        <br />
        心象のはいいろはがねから<br />
        あけびのつるはくもにからまり<br />
        のばらのやぶや腐植の湿地<br />
        いちめんのいちめんの諂曲模様<br />
        （正午の管楽よりもしげく<br />
        　琥珀のかけらがそそぐとき）<br />
        ・・・
    </p>
</blockquote>
<p>
    　例えば「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/haru_1/063_d.htm" target="_blank">第四梯形</a>」には、「ななめに琥珀の陽も射して・・・」とあるように、賢治は作品中でしばしば太陽の光を「琥珀」に喩えていますから、「正午に太陽微塵が落下する」というのを賢治風に言いかえれば、まさに「正午に琥珀のかけらがそそぐ」にもなろうというものです。
</p>
<p>
    　というわけで、やはり私は、賢治がアレニウス著『宇宙発展論』の邦訳をを読んでいた可能性は高いと思うのです。</p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="20111218c.jpg" src="http://www.ihatov.cc/images/20111218c.jpg" class="mt-image-none" style="" height="689" width="430" /></span><br />アレニウス『宇宙発展論』（一戸直蔵訳，大倉書店）p.181<p>
</p><div><br /></div>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>三陸の賢治詩碑の現況(2)</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2011/12/2_50.htm" />
<modified>2011-12-11T16:46:00Z</modified>
<issued>2011-12-08T14:39:27Z</issued>
<id>tag:www.ihatov.cc,2011://2.1097</id>
<created>2011-12-08T14:39:27Z</created>
<summary type="text/plain">     　11月下旬に訪ねた、三陸地方南部の賢治の詩碑・歌碑報告の続きです。ま...</summary>
<author>
<name>hamagaki</name>
<url>http://www.ihatov.cc/</url>
<email>webmaster@ihatov.cc</email>
</author>
<dc:subject>0200travel</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　11月下旬に訪ねた、三陸地方南部の賢治の詩碑・歌碑報告の続きです。まず、碑の場所を示す地図を、再掲しておきます。
</p>
<p>
    <iframe src="http://www.ihatov.cc/blog/sanriku_monuments.html" frameborder="0" height="1000" scrolling="no" width="430"></iframe><br />
    <span class="small">（地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます）</span>
</p>
<p>
    　今回は、気仙沼市唐桑の (3)<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/102.html" target="_blank">「雨ニモマケズ」詩碑</a> と、陸前高田市の (4)<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/052.html" target="_blank">「農民芸術概論綱要」碑</a> についてご報告します。
</p>
<p>
    <br />
    <img title="" alt="" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/marker3.png" align="left" border="0" height="34" width="20" />&nbsp;<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/102.html" target="_blank">「雨ニモマケズ」詩碑</a>
</p>
<p>
    　気仙沼市も、今回の津波で大きな被害を受けた町でした。3月11日の深夜には、気仙沼の市街が火災で燃える様子を自衛隊のヘリコプターが撮影した映像がテレビでずっと流され、茫然と見続けた記憶があります。<br />
    　私は9月23日にも気仙沼を訪ねたことがありますが（「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2011/09/post_747.htm" target="_blank">気仙沼の彼岸</a>」参照）、今回は2ヵ月ぶりの再訪でした。
</p>
<p>
    　11月25日に石巻の医療支援を終えた後は新幹線で移動して一関に泊まり、朝早くにJR大船渡線に乗って、気仙沼駅には8時40分に着きました。<br />
    　ここから、持参した折りたたみ自転車を使って、沿岸部や鹿折地区をまわりました。港のあたりは、9月に来た時には地盤沈下した道路が冠水して自動車での走行も困難でしたが、今回はやはり石巻と同じように、数十cm底上げした真っさらな舗装がなされていました。<br />
    　JR鹿折唐桑駅の前には、9月の時にも見た「第十八共徳丸」が鎮座しています。前回と違って、今回は真新しい道の傍らに。
</p>
<p>
    <img title="第十八共徳丸" alt="第十八共徳丸" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208a_1.jpg" border="0" height="376" width="430" />
</p>
<p>
    　市街東部の鹿折川の川べりには、昭和8年3月の「昭和三陸大津波」を記念した石碑が建てられていたのですが、悲しいことに今回の津波で倒されていました。
</p>
<p>
    <img title="大震嘯災概碑" alt="大震嘯災概碑" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208b.jpg" border="0" height="495" width="430" />
</p>
<p>
    　倒れる前のこの日の姿は、<a title="" href="http://www.kasen.net/pref/04miyagi/shishio/ishi1.htm" target="_blank">「日本の川と災害」の当該ページ</a>にあります。現在上になっているのは裏面ですが、表面には、「大震嘯災記念／大地震それ来るぞ大津浪」と刻まれていたようです。
</p>
<p>
    　鹿折川を渡り、その向こうに見えている山を越えると、リアス式の次の湾に面した「舞根」という集落があります。ここも、全てが流されていました。
</p>
<p>
    <img title="気仙沼市舞根" alt="気仙沼市舞根" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208c.jpg" border="0" height="323" width="430" />
</p>
<p>
    　その次の、「浦」という集落。案内標識のゆがみが、津波の到達した高さを教えてくれます。
</p>
<p>
    <img title="気仙沼市舞根" alt="気仙沼市舞根" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208d.jpg" border="0" height="323" width="430" />
</p>
<p>
    　ここから、唐桑半島の付け根のもう一山を越えると、「宿（シュク）」という集落です。余談ですが、柳田国男が明治三陸大津波から25年後に三陸地方を旅した折りに書いた「二十五箇年後」という文章（『雪国の春』所収）は、この「唐桑浜の宿という部落」の話です。<br />　この地区の、「熊野神社」という神社の裏山に、<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/102.html" target="_blank">「雨ニモマケズ」詩碑</a>が建っています。
</p>
<p>
    <img title="「雨ニモマケズ」詩碑" alt="「雨ニモマケズ」詩碑" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208e.jpg" border="0" height="573" width="430" />
</p>
<p>
    　この碑は、小さな山の中腹あたりにあって、津波の被害はありませんでした。しばし荷物を下ろして、「雨ニモマケズ」のテキストに向かい合い、一ノ関駅で買ってきたおにぎりで昼食。
</p>
<p>
    　この碑のある場所から少し登ると、広田湾が見えます。左下に見えている石板が、詩碑の背面です。
</p>
<p>
    <img title="「雨ニモマケズ」詩碑と広田湾" alt="「雨ニモマケズ」詩碑と広田湾" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208f.jpg" border="0" height="573" width="430" />
</p>
<p>
    　それにしてもこの場所は、一人静かに「雨ニモマケズ」に向かい合ったり、海を眺めたりできる、素晴らしい「穴場」です。また来たいものです。
</p>
<p>
    <img title="「雨ニモマケズ」詩碑" alt="「雨ニモマケズ」詩碑" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208g.jpg" border="0" height="323" width="430" />
</p>
<p>
    　腹ごしらえと十分な休憩をすると、詩碑にさよならを言って、次の目的地を目ざしました。
</p>
<p>
    　また自転車に乗って、今度は北の方に向かいます。地図で見るとほぼ海岸線を走っていても、リアス式海岸に沿った道路というのは、集落の境ごとに存在する小さな峠と、海面の高さの間のアップダウンを幾度も繰り返すことになり、自転車にとっては結構ハード。<br />
    　岩手県交通の、一関から大船渡までを1日2往復するバスの時刻を調べてあったので、「堂角」から「陸前高田市役所前」まで、自転車をたたんでバスを利用・・・。
</p>
<p>
    <br />
    <img title="" alt="" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/marker4.png" align="left" border="0" height="34" width="20" />&nbsp;<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/052.html" target="_blank">「農民芸術概論綱要」碑</a>
</p>
<p>
    　そこからもいくつもの峠を越えて、バスは陸前高田市内に入りました。しかしそこで私は車窓からの景色を見て、「自分はここに来てもよかったのだろうか」という思いに一瞬とらわれてしまいました。それでも、バスはどんどん進みます。<br />
    　「陸前高田市役所前」で降りるつもりにしていたのですが、私の目算が浅はかで、元の市役所の建物は3階天井までもが津波で破壊されたわけですから、臨時のバス停があるのは、その2kmほど山手にプレハブで建てられた「市役所仮設庁舎」の前でした。
</p>
<p>
    　持っていた2万5千分の1の地図は当てにならず、およその方角を頼りに山を下り、元の市街地のあたりに出てきました。<br />
    　この道をずっと西に行けば、高田高校です。
</p>
<p>
    <img title="陸前高田市街地" alt="陸前高田市街地" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208h.jpg" border="0" height="323" width="430" />
</p>
<p>
    　そして高田高校。
</p>
<p>
    <img title="高田高校" alt="高田高校" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208j.jpg" border="0" height="323" width="430" />
</p>
<p>
    　この校庭に、賢治の<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/052.html" target="_blank">「農民芸術概論綱要」碑</a>があったのです。下の写真は、2000年8月7日に撮影したものです。
</p>
<p>
    <img title="「農民芸術概論綱要」碑（高田高校）" alt="「農民芸術概論綱要」碑（高田高校）" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208k.jpg" border="0" height="287" width="430" />
</p>
<p>
    　この碑は、東北砕石工場の鈴木東蔵氏の長男・鈴木實氏が高田高校の校長だった昭和47年に建てられました。その「建立趣意書」には、次のように書かれていたということです。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　宮沢賢治御令弟清六氏より、賢治の喜ぶように使って欲しいと金十五万円余の御寄付を高田高校に頂きましたので、この使途につき有志相集い協議いたしましたところ生徒達への教訓のため詩碑建設が最善ではないかと考えました。<br />
        　碑文は丁度一昨年高田高校創立四十周年記念の折、谷川徹三氏が御講演後、「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と農民芸術概論の一節を色紙に御記号なさいましたので、それを銅板に鋳直して石に彫むことにいたしました。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　そして、除幕式では森荘已池氏が講演を行ったということです。
</p>
<p>
    　さて、高田高校にたどり着くと、何とかして上の場所とおぼしきあたりを探そうとしたのですが、瓦礫や土砂も多く、碑を見つけることはどうしてもできませんでした。
</p>
<p>
    <img title="高田高校" alt="高田高校" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208l.jpg" border="0" height="323" width="430" />
</p>
<p>
    <img title="高田高校" alt="高田高校" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208m.jpg" border="0" height="323" width="430" />
</p>
<p>
    <img title="捜索終了" alt="捜索終了" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208n.jpg" border="0" height="547" width="430" />
</p>
<p>
    　ということで、「捜索終了」。
</p>
<p>
    <img title="陸前高田市街" alt="陸前高田市街" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111208i.jpg" border="0" height="323" width="430" />
</p>
<p>
    　自転車で西に向かい、気仙川を越え、また気仙沼市との境あたりにある「<a title="" href="https://twitter.com/#%21/hotel_sanyo" target="_blank">ホテル三陽</a>」という宿に泊まりました。
</p>
<p>
    　今回、11月下旬に訪れた南三陸の賢治詩碑は、前回と今回ご報告した4つです。<br />
    　残りの北三陸の詩碑も、来年の5月頃までには訪ねたいと思っています。
</p>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>三陸の賢治詩碑の現況(1)</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2011/12/1_45.htm" />
<modified>2011-12-10T15:07:48Z</modified>
<issued>2011-12-01T14:45:25Z</issued>
<id>tag:www.ihatov.cc,2011://2.1096</id>
<created>2011-12-01T14:45:25Z</created>
<summary type="text/plain">     　下の地図のように、三陸海岸沿いにはかなり多くの賢治の詩碑や歌碑が建て...</summary>
<author>
<name>hamagaki</name>
<url>http://www.ihatov.cc/</url>
<email>webmaster@ihatov.cc</email>
</author>
<dc:subject>0200travel</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.ihatov.cc/">
<![CDATA[<p>
    　下の地図のように、三陸海岸沿いにはかなり多くの賢治の詩碑や歌碑が建てられています（建てられていました）。その中には、「<a title="" href="http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/tohokujisin/list/CK2011062202100008.html" target="_blank">津波ニモマケズ 宮沢賢治の詩碑 耐えた</a>」という東京新聞の記事のような感動的な報道によって、その消息を知ることができたものもありますが、他の碑がどうなっているのか、あまり情報はありませんでした。<br />
    　未曾有の津波被害を受けた地域の賢治詩碑は、今どのような状況にあるのか・・・。石碑フリークの私としては、このことが以前から心に引っかかっていたのです。
</p>
<p>
    <iframe src="http://www.ihatov.cc/blog/sanriku_monuments.html" frameborder="0" height="1000" scrolling="no" width="430"></iframe><br />
    <span class="small">（地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます）</span>
</p>
<p>
    　私は去る11月<a title="" href="https://twitter.com/#%21/ihatov_cc/status/139675843604647936" target="_blank">25日</a>と<a title="" href="https://twitter.com/#%21/ihatov_cc/status/140060526771306496" target="_blank">26日</a>に、宮城県石巻市の医療支援に行っていたのですが、その前後に個人的に時間をとって、津波を受けた三陸地方の賢治詩碑の状態を、一部見てきました。<br />
    　今回は、塩竃と石巻の詩碑、上の地図では(1)および(2)の碑のご報告です。
</p>
<p>
    <strong><br />
    <img title="" alt="" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/marker1.png" align="left" border="0" height="34" width="20" />&nbsp;<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/127.html" target="_blank">「ポラーノの広場」碑</a></strong>
</p>
<p>
    　昨年3月に、宮城県塩竃市港町の岸壁沿いに「シオーモの小径」という散策路が作られました。塩竃は、日本三景・松島観光の拠点でもあり、明治以来たくさんの文人が訪れて作品に詠みこんでいますが、ここはそれら数多の文学碑を美しく配列した、情緒あふれるスポットでした。正岡子規、北原白秋、若山牧水、与謝野晶子、斎藤茂吉、田山花袋など綺羅星のような石碑群の中の一つとして、賢治の「ポラーノの広場」の一節を刻んだ碑も建てられました。<br />
    　私は、昨年3月この一角が整備されて間もない頃に、ここを訪ねてみたことがあり、その時の様子は「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/blog/archives/2010/03/post_692.htm" target="_blank">シオーモの小径</a>」というブログ記事にも書きました。当時の「シオーモの小径」の入口は、下の写真のようでした。
</p>
<p>
    <img title="「シオーモの小径」2010年3月21日" alt="「シオーモの小径」2010年3月21日" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111201a.jpg" border="0" height="287" width="430" />
</p>
<p>
    　この散策路が「シオーモの小径」と名付けられたのは、もちろん賢治の「ポラーノの広場」において、塩竃をモデルにした街がエスペラント風の「シオーモ」という名前を冠されて登場することに基づいています。この道の名付け親とも言える賢治の碑は、他の誰にも負けぬ意匠と工夫を凝らされた、見事なものでした。 その姿は、<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/127.html" target="_blank">「ポラーノの広場」碑</a>のページでご覧いただくことができます。
</p>
<p>
    　そして、今回11月23日に訪ねた「シオーモの小径」の入口は、下のようになっていました。
</p>
<p>
    <img title="「シオーモの小径」2011年11月23日" alt="「シオーモの小径」2011年11月23日" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111201b_1.jpg" border="0" height="645" width="430" />
</p>
<p>
    　地震によって、地盤が大きく沈下してしまったために、歩道が波打っています。左の石垣の外側には、以前は岸壁があったのですが、これも地盤沈下によって海面下になってしまっていました。
</p>
<p>
    　そして、賢治の<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/127.html" target="_blank">「ポラーノの広場」碑</a>は、下のようになっていました。
</p>
<p>
    <img title="「ポラーノの広場」碑" alt="「ポラーノの広場」碑" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111201c.jpg" border="0" height="580" width="430" />
</p>
<p>
    　後ろから見ると下のようになっていて、根元に通されている太さ2cmほどの鉄芯が、津波の圧力によってぐにゃりと曲がってしまっているのがわかります。
</p>
<p>
    <img title="「ポラーノの広場」碑の根元" alt="「ポラーノの広場」碑の根元" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111201d.jpg" border="0" height="423" width="430" />
</p>
<p>
    &nbsp; しかし、「小径」に並ぶ碑には完全に倒れてしまったものもいくつか見られる中で、約40°の角度を保ちしっかりと立つ姿は、何かとてもけなげに思えたりもしました。また、碑の周囲に散乱している敷石は、初代・塩釜駅に敷かれていたもので、賢治の同級生たちもおそらく踏みしめていたものです。
</p>
<p>
    　この<a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/127.html" target="_blank">「ポラーノの広場」碑</a>文に引用されている部分の少し前では、三陸海岸のことは「イーハトーヴォ海岸」と呼ばれていて、レオーノキューストがその海岸地方を旅した時の喜びは、次のように描かれていました。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれ ました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞり をたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。
    </p>
</blockquote>
<p>
    　ここには、賢治が三陸地方を旅した時の経験、そこで触れあった「海岸の人たち」の心根も、反映しているのかもしれません。
</p>
<p>
    <br />
    <img title="" alt="" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/marker2.png" align="left" border="0" height="34" width="20" />&nbsp;<strong><a title="" href="http://www.ihatov.cc/monument/053.html" target="_blank">「われらひとしく丘に立ち」詩碑</a></strong>
</p>
<p>
    　石巻市の日和山は、この町の歴史的中心に位置する山です。延喜式の式内社として由緒ある「鹿島御児神社」が平安時代から鎮座し、鎌倉時代には石巻城が築かれました。「日和山」という名称は、海運の盛んなこの町において、海に近いその頂きが船の運航に重要な天候を観察するスポットであったことによります。<br />
    　<a title="" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%92%8C%E5%B1%B1_%28%E7%9F%B3%E5%B7%BB%E5%B8%82%29" target="_blank">Wikipedia</a> には、
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        日和山から日和大橋越しに見る旧北上川河口と太平洋、また、旧北上川の中洲であり、内海五郎兵衛が私財を投じて東内海橋と西内海橋を架けた｢中瀬｣（なかぜ）の見える風景は、そのまま石巻の成り立ちと市民のアイデンティティを示すものである。
    </p>
</blockquote>
<p>
    との記述もあります。また春には、桜の名所としてたくさんの市民が訪れます。<br />
    　日和山とは、石巻においてそういう場所なのです。
</p>
<p>
    　15歳の賢治は、盛岡中学の修学旅行において、この山から生まれて初めて海を見るという体験をしました。<br />
    　この折りに賢治が詠んだ短歌に、
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        まぼろしとうつゝとわかずなみがしら<br />
        きほひ寄せ来るわだつみを見き。
    </p>
</blockquote>
<p>
    があり、これを後年になって文語詩化した「<a title="" href="http://www.ihatov.cc/bn_mi/783_d.htm" target="_blank">〔われらひとしく丘に立ち〕</a>」のテキストを刻んだ詩碑が、この日和山公園に建てられたわけです。
</p>
<p>
    　私が前回この日和山公園に来たのは、2000年の8月6日でした。11年ぶりに訪れた公園は、以前よりも立派に整備されていました。そして、さすがに海抜56mほどの丘の上だけあって、津波の被害は皆無でした。<br />
    　下写真が、今回の「われらひとしく丘に立ち」詩碑です。
</p>
<p>
    <img title="「われらひとしく丘に立ち」詩碑" alt="「われらひとしく丘に立ち」詩碑" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111201e_1.jpg" border="0" height="420" width="430" />
</p>
<p>
    　この日和山には、他にもいろいろな石碑があるのですが、下写真は、「チリ地震津波碑」です。
</p>
<p>
    <img title="チリ地震津波碑" alt="チリ地震津波碑" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111201f.jpg" border="0" height="316" width="430" />
</p>
<p>
    　碑面には、次のような言葉が刻まれています。
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        　　　　　チリ地震津波碑
    </p>
    <p>
        ほら　こんなに<br />
        まるで慈母のように穏やかな海も<br />
        ひと度荒れ狂うと<br />
        恐ろしい残忍な形相となる<br />
        海難・　津波・　海難と<br />
        こゝ　三陸一帯に<br />
        無常な海の惨禍が絶えることがない<br />
        （後略）
    </p>
</blockquote>
<p>
    　さて、上記 <a title="" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%92%8C%E5%B1%B1_%28%E7%9F%B3%E5%B7%BB%E5%B8%82%29" target="_blank">Wikipedia</a>&nbsp;にあったように、日和山からの眺望は石巻市民にとってアイデンティティの一部ともなっているということですが、先の大津波においては、ここからの景観は凄絶なものでした。<br />
    　下の動画は、市民の方が日和山から南の方角を撮影したものです。
</p>
<p align="center">
    <iframe src="http://www.youtube.com/embed/RLgP3nmpaRc?rel=0" allowfullscreen="" frameborder="0" height="315" width="420"></iframe>
</p>
<p>
    　結局、この山より南の市街地は、すべてが津波で流されてしまったのです・・・。</p><p>　ところで、上の動画のような情景を見ていると、
</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
    <p>
        まぼろしとうつゝとわかずなみがしら<br />
        きほひ寄せ来るわだつみを見き。
    </p>
</blockquote>
<p>
    という賢治の短歌が、まるで悪い夢になって襲ってきたかのような錯覚にとらわれそうになります。これは果たして「まぼろし」か「うつゝ」か、誰しも我が目を疑う景色であり、波頭は非常な勢いで寄せて来ます。<br />
    　そのような海（わだつみ）が、3月11日に確かに出現しました。
</p>
<p>
    　今、賢治の詩碑の横から南を見ると、下のような景色が広がっています。
</p>
<p>
    <img title="日和山から南を望む" alt="日和山から南を望む" src="http://www.ihatov.cc/images/20111201g.jpg" border="0" height="323" width="430" />
</p>
<p>
    　震災から8ヵ月後ともなると、津波に流された跡も瓦礫は撤去されて、茶色い地面が広がっています。まるで埋め立て地のように見えますが、震災前はここはすべて住宅地だったのです。中央あたりに残っている比較的大きな白いビルは石巻市立病院で、しっかりと立っているように見えますが、1階は津波に打ち抜かれています。</p>
<p>　日和山から下へ降りると、家の土台も撤去された曠野に、真新しいアスファルトの道が通っていました。地盤が沈下しているので、道路は数十cm以上の盛り土をして底上げされています。奥に見える建物は、門脇小学校です。</p>
<p>
<img title="門脇町" alt="門脇町" src="http://www.ihatov.cc/images/20111201i.jpg" border="0" height="323" width="430" />
</p>
<p>
    　日曜日のお昼頃、市民の方々は日和山の展望台から、かつて街並みのあった場所を、静かに眺めておられました。
</p>
<p>
    <img title="日和山展望台から" alt="日和山展望台から" src="http://www.ihatov.cc/bw_uploads/20111201h.jpg" border="0" height="287" width="430" />
</p>
<p>
    【この項つづく・・・】
</p>]]>

</content>
</entry>

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