2016年12月 4日 賢治と現代日本の死生観

 以前に「千の風になって」という記事において、賢治がトシとの死別の苦悩から救われていったのは、1924年7月頃になって、「死んだトシの存在を身近に感じられる」という心境に至ったことによるのではないか、ということを書いてみました。
 この記事では、当時の賢治が到達した心境が、現代日本の死生観にも共通するものがあるという例として、ひと頃流行した「千の風になって」という歌の歌詞や、哲学者の森岡正博氏が東日本大震災後に書いた「私たちと生き続けていくいのち」という文章を引用しました。森岡氏の文章の一部を再び引用させていただくと、「死者」についての氏の考えは、下の部分に最も象徴されています。

 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。

 この中で、死者が「私たちの外側にもリアルに生き続ける」というところが、何より特徴的で印象的です。「死者が生き続ける」という表現が、単なる「比喩」ではないということを明らかにするために、わざわざ「リアルに」という言葉が用いられていますが、同じような事柄を、死者の側から歌っているのが、「千の風になって」だったわけです。

 最近、さまざまな形でこのような死生観――死者がこの世で私たちと一緒にいるという意識――に触れることが多いように感じるのですが、とりわけ現代の葬送儀礼の変化に、それは典型的に表れていると思います。

 日本では、江戸時代に幕府によって「檀家制度」が整えられて以来、葬式はそれぞれの「家」が所属する「檀那寺」が執り行い、遺骨は定まった墓地に埋葬するという方式が、昭和の時代までほぼ一貫していました。しかし最近になって、そのような枠組みにとらわれないさまざまな形の葬儀や遺骨の扱いが、行われるようになっています。

 たとえば、「手元供養」という方法は、遺骨(遺灰)の一部または全部を墓に納骨せずに遺族が手元にとどめ置いて、亡き人を偲ぶよすがにするというもので、納骨容器に入れて自宅の居間や仏間に安置するという方法もあれば、遺骨を入れたペンダントや、遺骨の一部を七宝焼きのように焼成したアクセサリーを身につけるというものもあります。たとえば「おこつ供養舎」という会社の「手元供養品」というページを見ていただくと、さまざまな種類の「遺骨アクセサリー」が掲載されています。
 いずれも、故人を「遠くに葬り去る」ということに抵抗感があったり、「いつも故人と身近にいたい」という気持ちが強い場合に、その思いを具現化する方法として行われているようです。
 こうすれば、折々に「墓参」をする時だけではなく、年中つねに「手元」で故人を感じていられるというわけですね。

 あるいは、最近は遺骨を墓地に埋葬せずに粉砕して散布する「散骨」という方法も、かなり一般的に行われるようになっています。海に撒く「海洋散骨」というのもあれば、ロケットに乗せて宇宙空間に打ち上げるという「宇宙葬」というものまであって、「小さなお葬式」という会社の「海洋散骨」のページでは、全国各地の海域に散骨するプランが提供されていますし、「銀河ステージ」という会社のサイトを見ると、「宇宙飛行プラン」「人工衛星プラン」「月旅行プラン」「宇宙探険プラン」などという各プランと、その料金も書かれています。

 ところで一見すると、遺骨をつねに見える身近な場所に置く「手元供養」と、遺骨を広大な場所に散布してしまってどこに行ったかわからなくする「散骨」とでは、全く正反対の方向を目ざしているように思えますが、実はこの二つが心の奥底ではつながり合っていることが、「千の風になって」の歌詞に表れています。

  千の風になって
              新井満(訳詩)
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

 歌詞の一番は、死んだ人はお墓にはおらず、「大きな空を吹きわたって」いるということを言っていて、これはまさに「散骨」のイメージですが、二番になると、そのように空間全体に行き渡っているからこそ、雪や、鳥や、星になって、「いつも生者のすぐ傍らに」いることができるのだ、ということが歌われています。
 「特定のどこにもいない」からこそ、「どこにでもいる」のです。

 これはちょうど賢治が、「トシの行方」を必死になって探しても何も得られず、結局「薤露青」において、「どこへ行ってしまったかわからない」ということを受け容れるとともに、トシの「声」をあちこちから聞くことができるようになったことと対応しているようで、興味深いところです。

 「手元供養」「散骨」「千の風になって」に表れている現代日本の死生観は、死後はまた六道のいずれかの世界において輪廻転生を繰り返していくという伝統的な仏教のそれとは、大きく異なっています。まあ、現代日本で仏教色が薄れているのは無理もないところかと思いますが、しかし、仏教を篤く信仰していたはずの賢治が、亡きトシに対して抱いていたであろうイメージが、仏教ではなくこの現代日本の死生観に近いというのは、とても不思議なことです。
 それはいったい何故なのだろうと考えたりしていましたが、その理由として最近一つ思うのは、どちらも「彼岸における故人の生」について、あまり考えようとしないところが共通しているのではないか、ということです。

 まず現代日本では、今も葬式の大半は「仏式」で行われており、故人が亡くなってまもない頃には、「今ごろはあの世でお父さんに会って思い出話をしてるかな」などと、「あの世」について話題にすることもあります。
 しかし、本当に「地獄」や「極楽浄土」や「天界」などというものがあって、人間が死んだらそのどこかで新たな生を送るのだと心から信じている人は、今やごく少数になっているのが現状でしょう。多くの現代人が「死後」について抱いているイメージとしては、せいぜい「安らかに眠っている」というくらいで、「彼岸」や「あの世」の存在と、そこで死者が送っている「生」を、具体的に思い描いている人は、はたしてどれくらいいるでしょうか。

 そもそも、仏教にかぎらずキリスト教でもイスラム教でも、その他ほとんどの宗教では、生きているうちに良いことをした人は死後に「天国」のような素晴らしい場所に行ける一方、悪いことをした人は「地獄」のようなひどい場所で苦しい目に遭う、という教えがあります。このような教えが果たしている役割の一つは、「だから悪いことはせず、良いことをしましょう」と、生きている人に倫理を説くということがあるでしょう。そして、良いことをしていると自覚している人にとっては、この教えは「死の恐怖」を軽減してくれる効用もあります。
 それに加えてもう一つ、宗教がこのように死後の世界を想定することの効用としては、「遺された人の悲しみを和らげる」ということもあるように思います。大切な人を亡くしてしまって、遺族や親しかった人たちは悲しくて仕方がないけれども、故人はきっと天国に行って新たに安らかな生を送っているに違いないと信じることができれば、遺された人としては、「それならば自分は辛くてもこの人の死を受け容れよう」と思うことができるわけです。「別世界における死者の幸福」という救いによって、喪失の苦しみを緩和するのです。
 ところが、前述のように現代日本では、たとえ遺族であっても、「故人があの世で幸福に暮らしている」ということを、昔ほどには実感をもって信じることができなくなっているでしょう。このため、昔の人のように「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の悲しみに耐えるということができません。
 そこで現代人はその代わりに、「別世界」ではなく「この世界」に死者がとどまって、自分たちと一緒にいると想定することによって、死別の寂しさを乗り越えようとしているのではないでしょうか。

 翻って、宮澤賢治の場合も、トシの死後しばらくはその喪失の苦しみに打ちひしがれ、サハリンまで旅行をしたこともありましたが、その途上の「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という考えに思い到ます。そしてこれ以後は、トシが天界に往生するように祈ったり、トシの次生における幸福を願ったりすることを、自らに禁じてしまったのです。この思想は、「〔手紙 四〕」のテーマとして引き継がれ、「銀河鉄道の夜」の底にも流れています。
 すなわち、ここで賢治もまた、「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の苦しみを和らげるということができなくなったわけです。そして、このために彼もまた、「別世界」ではなく「この世界」にトシの存在を感じることによって、最終的には救われていったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治としては、何もそのように意図したわけではなかったのでしょうが。

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2016年11月20日 こんにゃく座「想稿・銀河鉄道の夜」再演

 昨夜帰宅したら、「こんにゃく座」から公演の案内が届いていました。こんど来年の2月〜3月に、2010年に初演された「想稿・銀河鉄道の夜」が、新演出で再演されるということで、前回は見られなかった私としては、とても楽しみです。

こんにゃく座「想稿・銀河鉄道の夜」

 公演予定は下記のとおりで、嬉しいことに京都でもやっていただけます。

2月3日(金)・4日(土)・5日(日) 世田谷パブリックシアター
3月9日(木) 京都府立文化芸術会館
3月11日(土) 広島市東区民文化センター・ホール
3月18日(土)・19日(日) 長野市芸術館 アクトスペース
3月22日(水) 名古屋市芸術創造センター

 チケット予約方法等は、こんにゃく座の「公演情報」のページを、ご参照下さい。

 

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2016年10月25日 札幌時計台で賢治の詩とグランドハープ

 札幌市の熊谷ユリヤさんからお知らせをいただきました。もう明後日に迫っているのですが、10月27日(木)に、札幌の時計台ホールで、「宮沢賢治の詩の世界・朗読とグランドハーブ」と題した催しが開かれます。
 「生誕120周年に 宮沢賢治の詩の世界をグランドハープの調べと時計台の鐘の音にのせて」とのことです。(下チラシは、クリックすると拡大表示されます。)

2016/10/27宮沢賢治の詩の世界・朗読とグランドハーブ

 出演は、日・英朗読とトーク、弾き語りが熊谷ユリヤさん、朗読とトークが斉藤征義さん、ハープ演奏が鈴木貴奈さんです。
 日時は、10月27日(木)19:00―20:30(会場18:30)、場所は、札幌時計台ホール(札幌市中央区北1西2 札幌市時計台2階)です。
 入場料は、一般が1000円、中高校生が500円で、収益は全額「みちのく未来基金-震災遺児に進学の夢を!」に寄付されるということです。

 取り上げる作品は、「序」「雨ニモマケズ」「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」「冬と銀河ステーション」「春と修羅」「屈折率」「小岩井農場 パート九」「種山ヶ原」「有明」「札幌市」「オホーツク挽歌」「噴火湾(ノクターン)」ほかということで、私も近くならばぜひ聴きにうかがいたいところですが、あいにくかないません。
 お近くの方は、秋の一夜にいかがでしょうか。札幌の、あの「時計台」でやる、というのが素敵ですね。

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2016年10月23日 春日神社の赤い鳥居

 つい先日の記事では、『春と修羅 第二集』の「人首町(下書稿(一))」で賢治が目にした「赤い鳥居」のある、奥州市江刺区の久須師神社をご紹介しました(下写真)。
「人首町」詩碑と久須師神社の鳥居

 今回取り上げるのは、『春と修羅 第三集』の「」です。下記がその全文です。

七四〇
  秋
               一九二六、九、二三、

江釣子森の脚から半里
荒さんで甘い乱積雲の風の底
稔った稲や赤い萓穂の波のなか
そこに鍋倉上組合の
けらを装った年よりたちが
けさあつまって待ってゐる

恐れた歳のとりいれ近く
わたりの鳥はつぎつぎ渡り
野ばらの藪のガラスの実から
風が刻んだりんだうの花
  ・・・・・・里道は白く一すじわたる・・・・・・
やがて幾重の林のはてに
赤い鳥居や昴(スバル)の塚や
おのおのの田の熟した稲に
異る百の因子を数へ
われわれは今日一日をめぐる

青じろいそばの花から
蜂が終りの蜜を運べば
まるめろの香とめぐるい風に
江釣子森の脚から半里
雨つぶ落ちる萓野の岸で
上鍋倉の年よりたちが
けさ集って待ってゐる

 この日おそらく賢治は、「鍋倉上組合」の農家の人々への農事指導のために、当時の湯口村上鍋倉地区にやって来たものと思われます。
 乱積雲が暗くかかり風も吹き、あいにく雨模様のようですが、稲穂は稔ってとり入れも間近のようです。「恐れた歳」とあるように、一時は収穫が危ぶまれたのかと思われますが、何とか無事に乗り切って、この日を迎えられたようです。
 最初の連と最後の連が、ともに「年よりたちが/けさ集まって待ってゐる」で締められているところは、「皆が自分を待ってくれている」ということに対して賢治が感じている、気持ちの張り合いや喜びがにじみ出ているようにも思えます。
 いろいろと苦労も多かった羅須地人協会時代の賢治ですが、こういう充実感も味わいながら、各地を奔走していた一コマなのでしょう。

 さて、この作品の13行目に、「赤い鳥居」が出てきますが、これはその位置からすると、鍋倉地区にある「春日神社」の鳥居と考えられるところです。

 赤く囲んである区域が鍋倉地区で、その中心に、昔は「村社」だった春日神社があります。「江釣子森の脚から半里」とありますが、春日神社から江釣子森山の麓までは2km弱で、この意味でもぴったりなのです。

 ところが、現在の春日神社の鳥居は、下の写真のように御影石でできていて、まったく赤くはないのです。

現在の春日神社

 これはなぜなんだろう・・・、と以前から疑問に思っていたところ、3年前にもご紹介した岡部さんとメールのやり取りをしている中で、たまたま「昔は春日神社の鳥居は赤かった」という話が出たものですから、これはぜひ地元の方にお話しをうかがいたい!と思っていたのです。
 そうしたところ、先日岡部さんから連絡があり、体育の日の連休に童話村のライトアップを見に行くので、春日神社の件もどうですか?とのお誘いがあったのです。私は喜び勇んで、10月9日に日帰りで花巻に行ってまいりました。

 昼前に花巻空港に着くと、岡部さん親子のお出迎えを受け、「春日流鹿踊保存協議会」会長の藤井智利さんのお宅にお邪魔しました。
 藤井さんのお宅では、奥様の素晴らしい手料理をご馳走していただいた後、藤井さんからは春日神社で毎年鹿踊りを奉納してこられたお話しをうかがいました。それによると、今は上写真のように一つの鳥居だけが立つ春日神社ですが、以前は三つの鳥居が重なるように立てられていて、そのうちの一つが赤かったのだということです。三つも重ねて鳥居があった理由は、もともとは神社の前の参道に、「一の鳥居」「二の鳥居」・・・という風に離れて立っていたのですが、道路の拡張のために撤去することになり、神社の入口にまとめて移設されたのだということです。

 この日は、花巻市教育委員会文化財課の酒井宗孝さんも藤井さん宅にいらっしゃっていて、酒井さんからは春日神社の歴史について、教えていただきました。
「萬福寺跡」碑 それによると、昔からこの地には「万福寺」という真言宗の大きな寺院があったのだそうですが、鎌倉時代初期の建久年間に、源頼朝から「稗貫郡主」として任ぜられた藤原為重が、その寺院内に鎮守社として春日明神を祀ったのが始まりということのようです。右の写真は、春日神社の裏の林の中にある、「萬福寺跡」という石碑です。
 稗貫氏の最初の居城は、やはりこの近くの小瀬川城だったということで、今は花巻の西郊外になっていますが、当時はこのあたりが「稗貫の中心地」だった、ということになるわけですね。

 その後、藤井さん、酒井さん、岡部さんとともに、実際に春日神社の見学に行きました。
 すると、神社の脇には花巻市が設置した「宮沢賢治ゆかりの地」の説明板が立てられていて、ここに上記の「」の抜粋が記されるとともに、「この詩に登場する「赤い鳥居」は、春日神社の鳥居といわれていますが、平成15(2003)年の地震で倒れ、現在は石の鳥居になりました」と書かれているのでした。

賢治ゆかりの地「春日神社」

 というわけで、私が知りたかったことは、この最近できた説明板にすでに書かれていたわけです。しかしそれでも、藤井さんに案内していただいて春日神社に来た甲斐がありました。藤井さんは、神社を現在管理しておられる高橋力さんに声をかけて下さって、高橋さんのご厚意により神社の拝殿の鍵を開けて参拝させていただくとともに、2003年5月26日の「宮城県沖地震」の際の春日神社の被災写真を見せていただくことができたのです。

 今回、高橋力さんのご許可を得て、地震直後に高橋さんが撮影された写真の一部を、ご紹介させていただきます。

春日神社2003年5月(1)

春日神社2003年5月(2)

春日神社2003年5月(3)

春日神社2003年5月(4)

 ご覧のように、鳥居、灯籠、玉垣などが痛々しく倒壊し、胸に迫るものがあります。この2003年の宮城県沖地震は、宮城県気仙沼市沖を震源として5月26日18時24分に発生したM7.1の地震で、花巻市の震度は5弱だったということです。
 この地震による死者はなかったということですが、震源からかなり離れた岩手県内陸部でも上のような状況で、もしも石造りの鳥居や灯籠の近くに人がいたら、と考えると背筋が寒くなります。神社の復興も、大変なことだったろうと拝察します。

 一番上の写真を見ると、三重になっていたと言われる鳥居の、最も外側にあったのが石の鳥居で、これは上部の「笠木」「島木」と呼ばれる部分が落下して、地面の上で割れていますが、二本の「柱」とそれを貫く「貫」の部分は残っています。
 二番目にあったのが木造の「赤い鳥居」のようで、ご覧のように全壊しています。
 三番目、すなわち最も内側にあった鳥居は、詳しくはわかりませんが、上から二枚目の写真で、左半分に横になって倒れている丸い柱が、おそらく三番目の鳥居のものではないでしょうか。石の鳥居のようです。

 さて、この倒壊した「赤い鳥居」が、はたして賢治が目にしたものだったかどうか、「」が書かれてから77年も経っているわけですから、確実なところはわかりません。
 しかし、この鳥居が最初からここにあったものではなく、参道から移設されたものだったことを考えると、少なくともこの神社入口に移設した後で老朽化したとしても、わざわざ同じ場所に建て替えるということはなかっただろうと思われます。上の地震の後にも、三つの鳥居を再建せず一つだけにしたように、老朽化して撤去しなければならなくなったら、ただ単に撤去しただけだろうと推測されます。
 となると、2003年まで「赤い鳥居」が残っていたということは、これは賢治が直接見て、「」に描いたものだった可能性は高いのではないかと、私としては考えます。
 ただし、立てられていた場所は、上のように神社の入口ではなくて、おそらく田んぼの中の参道で、「稔った稲や赤い萓穂の波のなか」だったのではないかと想像しますが・・・。

【謝辞】
 今回の春日神社見学にあたりご厚意を賜りました、藤井智利さん、高橋力さん、酒井宗孝さん、そして岡部和保さんに、心より感謝申し上げます。

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2016年10月16日 賢治はいつトシは死んだと判断したか

 「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という有名な三部作は、この世のトシの「最後の朝」の情景を描いたものであり、もちろんまだこの時点では、トシは生きています。そして、この三作の次の作品である「風林」は、トシの死から半年あまりも経った後の出来事を記しています。
 それでは、トシが臨終を迎えるまさにその場面の状況はどこに描かれているのかというと、それは「青森挽歌」の中に、賢治の回想として記録されているのです。
 「青森挽歌」の前半のクライマックスにあたる本文の86行目から139行目で、私が以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事において、<III トシの死の状況の具体的回想>と呼んでいた部分です。
 下に、その部分だけ抜粋して再掲します。

<III トシの死の状況の具体的回想>

 ところで今回、私がちょっと興味深いと感じ、考えてみたいのは、97行目・98行目の、次の言葉です。

それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう

 さてここで、「幻視」「幻聴」という言葉が使われているのは、いったいどういう意味なのでしょうか。

 「幻視」という語の一般的な意味は、「実際にはないものが、あたかもあるように見えること」、「幻聴」の意味は、「実際には音がしていないのに、聞こえるように感じること」です。(いずれも三省堂『大辞林』より)
 したがって、「青森挽歌」の上記の時点で、もしトシがまだかろうじて生きていて、周囲の様子がかすかにでも見えたり、聞こえたりしていたのであれば、それらは「実際にあるもの」の知覚ですから、「幻視」でも「幻聴」でもありません。どんなに弱々しいものであったとしても、それは正常な視覚や聴覚の残存です。
 そして、もしもこの時点でトシが既に死んでいたのであれば、幻視・幻聴であろうと、正常な視覚・聴覚であろうと、もはや不可能なはずです。一般常識としては、死んだ人に周囲の事物が見えたり聞こえたりすることないと考えられていますが、仮にそういうことがあったとすれば、それは一種の超自然的現象であって、普通はそれを「幻視」「幻聴」とは呼びません。

 というわけで、「それはまだおれたちの世界の幻視をみ/おれたちのせかいの幻聴をきいたらう」という言葉は、いったいどういう意味なのだろうかということが問題になるわけですが、私としてはこれは、「幻視」「幻聴」という言葉に、賢治が独自に込めた意味をもとにして理解すべきところだと考えます。

 私の想定するその「賢治独自の意味」とは、「幻視」「幻聴」とは、「異空間」の現象が見えたり聞こえたりすることだ、というものです。
 上に見たように、辞書的な意味では、これらは「実在しない事物の知覚」ということになるのですが、賢治にとっては、幻視・幻聴の対象は、ただ単に「実在しない」のではなく、「私たちのこの世界には実在しないが、異世界(異空間)には実在する」ことになるのです。

 実際のところ、生前の賢治が「異世界」「異空間」の実在を信じ、この世界とは異なる世界の出来事を見たり聞いたりした(と自分で思っていた)というエピソードは、しばしば紹介されています。
 賢治が、「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」(下書稿(二))の草稿裏に書き残し、「思索メモ1」と呼ばれているものがあります。下に掲げたのは、『新校本全集』第十三巻の(下)に掲載されている、そのメモの写しです。

「思索メモ1」

 この中の、「一、」の部分を書き出すと、次のようになっています。

                             異構成―異単元
                                      \
一、異空間の実在  天と餓鬼、  分子―原子―電子―真空
    感覚幻想及夢と実在、

 ここには、「実在」する「異空間」の例として、「天と餓鬼」が挙げられており、「幻想及夢と実在」という部分は、われわれの世界へのこれらの「異空間」の存在の顕れは、「幻想」や「夢」という形をとる、という意味かと思われます。

 賢治における「天」の世界の顕れとして、すぐに連想するのは、「小岩井農場」パート九の、次の箇所です。

 (天の微光にさだめなく
  うかべる石をわがふめば
  おゝユリア しづくはいとど降りまさり
  カシオペーアはめぐり行く)
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
・・・・・・はさつき横へ外れた
あのから松の列のとこから横へ外れた
  《幻想が向ふから迫つてくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  《あんまりひどい幻想だ》

 ここで賢治は、ユリア、ペムペルと呼ぶ二人の童子の姿を見ますが、その少し後では「どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は」と触れられ、あるいはパート四には「緊那羅のこどもら」という言葉も見えることから、賢治はこの童子たちを「天」の存在と考えていたと推測されます。そして、自分がこのような異界の者を見ることについては、「幻想」と表現しています。

 また、賢治にとっての「餓鬼」の世界の顕れとしては、白藤慈秀著『こぼれ話 宮沢賢治』(杜陵書院)の、「餓鬼との出合い」という章に、賢治が同僚教師の白藤氏に語った、次のような言葉が記されています。

 田圃の畦道の一隅に大きな石塊が置かれてあるので不思議に思いました。畦の一隅に何故このような石が一つだけ置かれてあるかと疑い、この石には何んの文字も刻まれていないからその理由はわからない、何んの理由なしに自然に石塊一つだけある筈はない。これには何かの目じるしに置かれたに相違ないと考えた。その昔、この辺一帯が野原であったころ人畜類を埋葬したときの目じるしに置いたものに相違ない。また石の代りに松や杉を植えてある場所もある。こういうことを考えながらこの石塊の前に立って経を読み、跪座して瞑想にふけると、その石塊の下から微かな呻き声が聞えてくるのです。この声は仏教でいう餓鬼の声である。なお耳を澄ましていると、次第に凄じい声に変ってきました。それは食物の争奪の叫びごえであったと語った。

 この賢治の話に対して、白藤慈秀氏は、「「ガキ」の世界というのは私どもの感覚によって、とらえられる世界でありますか」と、至極まっとうな、少し皮肉も混ざったような質問を返していますが、賢治は「それはできます」と答えたということです。

 このように、賢治は「異界」の声を聴くことがしばしばあったようですが、自分がそのような体験をすることを、自ら「幻聴」と呼んでいて、それはたとえば「比叡(幻聴)」とか「鬼言(幻聴)」などという作品名にもなっています。

 以上のような状況を図にしてみると、下のようになります。

賢治にとっての「幻視」「幻聴」

 賢治や私たちが住んでいるこの世界と、「天界」や「餓鬼界」など仏教でいう「十界」の他の世界との間には、通常は越えられない「壁」があり、その壁が上図では黒く分厚い境界で示されています。この「壁」のために、私たちはその向こうの出来事について、通常は何も知ることはできません。
 しかし賢治は、時折その壁の向こう側の事物を見たり聞いたりする(と感じる)ことがあり、彼はこのような自らの知覚体験のことを、「幻視」「幻聴」と呼んでいたのです。

 それでは、この賢治の用語法を、「それはまだおれたちの世界の幻視をみ/おれたちのせかいの幻聴をきいたらう」という「青森挽歌」の表現に当てはめてみると、どうなるでしょうか。
 トシが、この時点で「幻視」あるいは「幻聴」を体験しているとすれば、これらの知覚は賢治的な意味では、上記のような「異世界」を隔てる「壁」を越えて、もたらされていることになります。つまり、既にこの時トシは、「おれたちの世界」からすると通常は越えられない「壁」の向こう側に、行ってしまっているのです。

 すなわち、ここで賢治が「幻視」「幻聴」という言葉を使ったということは、取りも直さずこの時点で賢治が、「トシは死んだ」と認識していたことを示しているのです。
 これを図示すると、下のようになります。

トシにとっての「幻視」「幻聴」

 ここでは、最初に掲げた図における「賢治の体験」としての幻視・幻聴とは、矢印が反対向きになっていますが、しかしいずれも一つの世界から別の世界へと、越えられないはずの壁の向こうへ知覚が「越境」していることをもって、賢治はこれを「幻視」「幻聴」と呼ぶのです。

 では、どの時点で賢治はトシが死んだと判断したのか、本文をさかのぼって見れば、91行目の「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり」という箇所をもって、賢治はトシの臨終と認識したと考えておくのが妥当でしょう。

 ところで、以前に「あいつは二へんうなづくやうに息をした」という記事に書いたように、現在から振り返ってみると、上の時点ではまだトシは亡くなっていなかったと思われます。この後に、賢治が「万象同帰のそのいみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」のに対してあたかも応えるように、トシは「二へんうなづくやうに息をした」という動きを見せましたが、これは医学的には「下顎呼吸」という、終末期に出現する特殊な呼吸だったと考えられるのです。
 そのような事情もあったものですから、これまで私は、賢治がトシの耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」り、それに応えるようにトシが「うなづいた」と見たりしたのは、トシの臨終をおおむね認めながらも、「ひょっとしたら今はまだ生きているかもしれない」という一縷の望みを託しながら、そのような行動や観察をしたのかもしれないとも思い、この時点における賢治の真意を図りかねていました。
 しかし、上のように考えてみると、この97行目・98行目で既に賢治は、「トシは死んだ」
とはっきり認めていたということになります。

 となると、その明確な認識にもかかわらず賢治が、あえて「ちからいつぱい」叫び、それに対してトシが「うなづいた」と自分に言い聞かせていたのは、一般的な言葉でいえば、彼は一種の「奇跡」を信じようとしていたということになります。
 その奇跡の
「証明」のために、《ヘッケル博士》までもが召喚されたのは、このような前提において理解すべきことかと、あらためて思う次第です。

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2016年10月 2日 「人首町」詩碑

 今年3月にできた「人首町」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。

「人首町」詩碑

 賢治はこの人首町を、少なくとも1917年9月3日-4日と1924年3月24日-25日の2回、訪れています。前者は、盛岡高等農林学校3年の時に江刺郡地質調査として、後者は、花巻農学校教師時代の春休みに五輪峠を越えて水沢の緯度観測所へ行く小旅行の途中でした。
 このたび地元の有志の方が、1924日3月25日の日付を持った「人首町」(『春と修羅 第二集』)という作品を詩碑として建立し、同じ日付の今年3月25日に、除幕式を上げられたのです。

 「人首(ひとかべ)」という不思議な名前は、アテルイと坂上田村麻呂が戦った時代に、アテルイ(悪路王)の甥?(息子?)の人首丸が、ここで討ち死にしたという伝承に基づいています。
 その後この場所は、岩手県内陸部の水沢から種山ヶ原を経て三陸沿岸部の大船渡市盛町を結ぶ「盛街道」の宿場町として、さらにこの街道から五輪峠を越えて遠野に至る「五輪街道」が分岐する地点として、昭和初期までは交通量も多く、賑わいを見せていたということです。賢治も、「人首町」(下書稿(二)初期形)に、「広田湾から十八里/水沢へ七里の道が…」と書いています。

 1917年に賢治が来た際には、8月28日付けで岩谷堂町から保阪嘉内に手紙を出し(書簡37)、8月31日には田茂山から(書簡38)、9月2日には伊出から(書簡39)、9月3日にはここ人首から(書簡40)、それぞれ嘉内にあてて投函しています。人首における郵便局の消印が、9月3日午後3時〜6時であることから、賢治はこの日はここ人首に宿泊したと推測され、その宿は明治時代から現在も続く老舗旅館である「菊慶旅館」だっただろうと、考えられています。
 この地質調査旅行に一緒に行った佐々木(工藤)又治あてに、賢治が後に出した書簡54には、「人首ノ御医者サン」という言葉も出てくることから、「賢治街道を歩く会|宮沢賢治と人首」というサイトの「菊慶旅館」の項目においては、この日に賢治らが人首に宿泊したのは、同行者の誰かが体調を崩し、この地で診察を受ける必要が出てきたからではないかという推測が記されており、興味深いところです。
 当時、人首町には医師は一人しかおらず、その唯一の医療機関だった「角南医院」の跡地には、「賢治街道を歩く会」が、下のような説明板を立ててくれています。

角南医院跡

 ここがおそらく、「人首ノ御医者サン」のいた場所だったわけですね。
 それにしてもこの場所にかぎらず、ここ人首町の賢治ゆかりの地には、「賢治街道を歩く会」が丁寧な解説のついた説明板を数多く立てて下さっているので、ありがたく心強いかぎりです。

 次に、1924年に賢治が来た際には、3月24日付けで「五輪峠」や「丘陵地を過ぎる」が書かれ、3月25日付けで早朝の情景を描いた「人首町」が書かれているところから、24日の夜は人首で宿泊したと推測され、さらに作品中で描かれている風景が、「菊慶旅館」からの眺めとして無理なく解釈できることから、この時も泊った宿もこの「菊慶旅館」だったのだろうと推測されているのです。

菊慶旅館

 上の写真が、現在も旅館として営業を続けている「菊慶旅館」です。今もどこかに、歴史を感じさせる雰囲気が漂います。
 一方、下の写真は、賢治が1回目に宿泊したと同じ1917年に、岩手県知事一行が来館した時の記念写真です(「賢治街道を歩く会」による説明板より)。

菊慶旅館(1917年)

 賢治が宿泊したと推測されている旅館が、現在もそのまま旅館として営業を続けている例としては、私の知るかぎりここ以外では京都の「西富家」(「京都における賢治の宿(2)」参照)が残っているだけであり、賢治ファンにとっては貴重な場所と言えます。

 詩碑が建てられているのは、街道から少し南西に入ったところにある「壇ヶ丘」の上の、「久須師神社」です。賢治が「人首町(下書稿(一))」で、「……丘には杉の杜もあれば/赤い小さな鳥居もある……」と描いた「赤い鳥居」が、他ならぬこの神社の鳥居であるという縁から、ここに建てられました。
 盛街道からは、細い路地を通して鳥居は下のように見えます。「菊慶旅館」は、ここよりもっと右手の方に位置するのですが、やはり「杉の杜」とともに賢治の目に入ったのでしょう。

久須師神社

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2016年9月25日 大槌町の「暁穹への嫉妬」詩碑

 去る9月19日、岩手県大槌町において「暁穹への嫉妬」詩碑の除幕式が行われましたので、参加してきました。
 私はこの除幕式において、賢治の詩「暁穹への嫉妬」を朗読するという大役を仰せつかってしまって冷や汗をかきましたが、このたび新たにできた詩碑は、下写真のような立派なものです。昨年のイーハトーブ賞奨励賞を受賞された佐々木格さんが会長を務める「大槌宮沢賢治研究会」が企画立案し、募金を集めて建立されました。

「暁穹への嫉妬」詩碑

 2011年3月11日の東日本大震災によって、岩手県上閉伊郡大槌町は、死者854人、行方不明者423人という、深刻な人的被害を受けました。
 震災前の大槌町の人口15,277人(2010年国勢調査)に占める、この死者+行方不明者の割合は、実に8.36%にも上り、老若男女あわせた全町民の12人に1人が、犠牲になられたことになります。ちなみに、この8.36%という数字は、宮城県女川町の8.68%に次いで、全国で二番目に高いものです。(データは「東日本大震災における死者・行方不明者数及びその率」より)
 さらに大槌町では、町の幹部が庁舎で災害対策本部を立ち上げようとしているまさにその時に津波に襲われ、懸命の避難も及ばず、当時の町長をはじめ課長クラスの職員のほとんどが一挙に犠牲になってしまうという惨事も起こりました。このため、被災後しばらくは町の行政機能がほとんど麻痺してしまうという事態にも見舞われました。

 そのような大槌町で、様々な方が復興に力を尽くしておられる中、犠牲者の遺族の方々のために「風の電話」という場所を設置・運営してこられた佐々木格さんは、2015年2月に「大槌宮沢賢治研究会」を立ち上げ、宮沢賢治に関する勉強会や講演会を行うとともに、大槌町に宮沢賢治の詩碑を建てるという目標を掲げて、募金や企画・交渉などの活動を行ってこられました。
 その「賢治詩碑建立」という目標が、まず最初に具体化したのが、この「暁穹への嫉妬」詩碑です。

 詩碑は、人の背丈ほどもあろうかという大きな立派な石の表面に、直接そのまま「暁穹への嫉妬」の冒頭4行が刻まれているものです。石そのものの自然な形を生かした雄大な風格があり、すぐ後ろに広がる太平洋の景観と、見事に均衡を保っています。

 そしてこの詩碑の手前に置かれた副碑が、佐々木格さんはじめ大槌宮沢賢治研究会の方々のこの詩碑にかける思いを、如実に物語ってくれています。

「暁穹への嫉妬」副碑

2011年3月11日 東日本大震災で大槌町は壊滅的
被害にみまわれ多くの貴い命を失った 生き残った私たち
は亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたち
に どう生きるかを示す責任がある 私たちは宮沢賢治の
「利他の精神」がその道しるべになると考える ここに大槌
と関わりの深い「暁穹への嫉妬」を建立し顕彰する

 先に述べたように、大槌町は、震災でまさに「壊滅的被害」を受けました。そのような大変な災難を、何とか生き延びた方々におかれては、「生きている・命がある」というだけでも、もうそれだけでかけがえのない価値があるとも思いますが、しかし上の副碑はそれにとどまらず、「生き残った私たち」の「責任」について、問い直します。
 すなわち生存者には、「亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたちに どう生きるかを示す責任がある」というのです。
 そしてそのために、宮沢賢治の精神が「道しるべ」になる可能性が、示唆されています。

 あの震災の後、全国の各地で「〔雨ニモマケズ〕」をはじめ、たくさんの宮沢賢治作品が読まれました。賢治の言葉が、被災地を勇気づけ、慰め、励ます様子が、あちこちで見られました。
 そして今回、この大槌町の詩碑において、こんどは被災地の中から、宮沢賢治という存在をあらためて見直そうという企図が、宣言されているのだと思います。
 これこそが、「大槌宮沢賢治研究会」が、宮沢賢治にかける思いなのでしょう。

 さらに副碑の天面には、左半分に「暁穹への嫉妬」の全文が書かれるとともに、右側には佐々木格さんが地元大槌町で採取した「薔薇輝石」が、綺麗に磨かれて嵌め込まれています。
 ここ大槌町は、昔から薔薇輝石の産地として知られており、若かりし賢治も1919年2月に父親あての「書簡137」において、東京で宝石加工業を始めたいという希望を申し出た際に、取り扱う鉱石の候補として次のような例を挙げています。

たとへば花輪の鉄石英、秋田諸鉱山の孔雀石、九戸郡の琥珀、貴蛇紋岩、大槌の薔薇輝石、等

 この「暁穹への嫉妬」という詩は、大槌町とともに岩手県内の薔薇輝石の産地として名高い野田村あたりを賢治が歩いている時にスケッチされたものと考えられており、大槌が作品舞台というわけではありませんが、上のような「薔薇輝石」を介した縁によって、このたび大槌町に建立されたというわけです。

 佐々木格さんたちは、この詩碑に大槌町にとっての精神的なモニュメントとしての意味を込めるだけでなく、町の内外の人の交流を生むきっかけとならないかとも、期待をしておられるということです。
 三陸海岸には、1925年1月の宮沢賢治の旅程に沿って、今やいくつもの賢治詩碑が立ち並んでいます。

普代村堀内:「敗れし少年の歌へる」詩碑

普代村黒崎:「発動機船 一」詩碑

田野畑村平井賀:「発動機船 一」詩碑

田野畑村島越:「発動機船 第二」詩碑

田野畑村和野:「発動機船 三」詩碑

宮古市浄土ヶ浜:「寂光のはま」歌碑

釜石市仙人峠:「峠」詩碑

 そして今回この系列の終わり近く、釜石の「峠」詩碑の前に、「暁穹への嫉妬」詩碑が加わったわけです。さらに今後、大槌宮沢賢治研究会では、大槌町が作品舞台と推定される詩「旅程幻想」の詩碑も建立することを、計画しておられるのだそうです。
 そして、上のような三陸沿岸の賢治詩碑を持つ市町村どうしが交流を深め、協力して一つの観光ルートとし、全国から賢治の足跡をたどる詩碑めぐりをする人々に、訪れてもらえるようにしようという構想もあるということです。
 まだ津波の爪痕が残る三陸地方に、宮沢賢治との縁によって新たな展開を生み出そうという企画です。

 ところで、この「暁穹への嫉妬」詩碑のすぐ後ろは、「浪板海岸」という東へ開けた雄大な海ですから、ここは美しい「暁穹」を望むのに絶好のスポットでもあります。
 詩碑が立つ「三陸花ホテルはまぎく」は、震災前は「浪板観光ホテル」として営業し、「日本のホテルの中で最も海に近いホテルの一つ」とも言われていました。津波が襲ってきた時、宿泊客は全員が避難して無事でしたが、ホテルの社長や若女将を含む職員6名は、自らの避難よりも宿泊客の確認を優先して最後まで館内に残っていた結果、大津波に呑まれて行方不明になられたということです。
 その後ホテルは懸命の復旧を行い、震災から2年後の2013年8月に、名前も「三陸花ホテルはまぎく」と変えて、新たなスタートを切りました。「はまぎく」の花言葉、「逆境に立ち向かう」という思いも込めての改名だったということです。
 私もこのホテルには何度か宿泊いたしましたが、美しく清潔に改装された館内、まさに絶景と言うべきオーシャンビューの客室、「海望風呂」、三陸の海の幸を集めた美味しい料理など、素晴らしいひとときを堪能させていただきました。
 三陸地方では、特にお勧めの宿の一つだと思います。

 下の写真は、2016年5月にホテルの客室から見た「暁穹」です。

浪板海岸の夜明け

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2016年9月15日 埼玉県小鹿野町の新歌碑

 去る9月4日は、賢治が盛岡高等農林学校の地質学研修旅行で埼玉県小鹿野町を訪ねてから、ちょうど100周年にあたる日でしたが、これを記念して同町では、「宮沢賢治 小鹿野町来訪100年・生誕120周年記念祭」が行われました。

小鹿野町来訪100年記念祭

 この催しの「一幕」(上写真)では、埼玉大学名誉教授の萩原昌好さんや、宮沢和樹さんの講演、山梨県韮崎町の「アザリア記念会」の皆さんのステージなど、多彩で楽しい演目があり、会場一杯に詰めかけた町民の皆さんも盛り上がっておられました。
 私は、この催しに参加するかたがた、小鹿野町に今年7月に建立された新たな歌碑を、見学してきました。

「霧晴れぬ」歌碑

 上写真が、小鹿野町の中心部から国道299号線を西に9kmほど山奥に入ったところにある「古鷹神社」に、このたび立てられた歌碑です。

霧晴れぬ
分れて乗れる
三台の
ガタ馬車は行く
山岨のみち

 今回これを、当サイトの「石碑の部屋」に、「霧晴れぬ」歌碑としてアップしました。

 それにしても、小鹿野町というのは人口が1万2000人ほどの町ですが、これで町内の宮沢賢治の詩碑・歌碑は、実に4基めということになります。
 ちなみに、全国の市町村ごとの賢治詩碑・歌碑の数を見てみると、花巻市の47基は別格として、2位の盛岡市の15基、3位の滝沢市の8基に続いて、「一市町村内にある賢治詩碑・歌碑の数」としては、全国4位ということになりました。岩手から遠く離れた埼玉県の小さな町が、ここで堂々と単独第4位に入るというのは、この町の熱意の表れと言えるかもしれません。

 この歌碑は、直接的には「宮沢賢治小鹿野来訪100年」を記念して建立されたものですが、もう一つ、2011年の「田嶋保日記」(「嶋」の字は正しくは「」の左に「鳥」)の発見を記念する意味も、間接的にはあったようです。
 この日記は、小鹿野町の中心部で江戸時代から旅館を営んできた「本陣寿旅館」の店主が、明治から昭和に至る46年間にわたって付けていたもので、毎日の宿泊客の動静や、当時の世相などが記されています。そしてこの中の、大正5年9月4日のページに、「盛岡高等農林学校教授関豊太郎神野幾馬両氏ト生徒二十三人来宿ス」との記載があり、それまでは萩原昌好さんの研究によっても「賢治たち一行は本陣寿旅館に泊まったのではないか」として「推定」の段階にとどまってきた事柄が、晴れて「確定」されたのです。
 下写真が、その「田嶋保日記」の該当ページです。

田嶋保日記

 そして、同じページにはさらに、「午前中来館、三田川村源沢ニ向ハレ夜、帰宿セラル」との記載もあり、賢治たち一行は午前中にいったん宿に荷物を置いて身軽になった後、「三田川村源沢」に行き、夜に帰宿したということも判明しました。この「源沢(みなもとざわ)」は、現在は「皆本沢」という漢字があてられていますが、旅館のある小鹿野町の中心部からは、9kmほど西の山奥に入ったあたりの沢で、一行がこの場所に行ったということは、今回の発見によって初めて明らかになった事実でした。
 宮澤賢治の生涯については、これまでに数多くの研究者が様々な角度から資料を収集して分析しており、死後すでに80年以上が経過した今となっては、彼の伝記的事実を新たに追加するような「一次史料」が発見されるというのは、本当に珍しいことになっていますが、その「発見」が、つい最近なされたわけです。
 小鹿野町におけるこの画期的な出来事を記念するという意味もこめて、新たに賢治訪問が明らかになった「皆本沢」にほど近い「古鷹神社」の境内に、今回の歌碑が建てられたのでした。

 それにしても、「田嶋保日記」の上の2ページを見るだけでも、このご主人の「おもてなし」の心は、本当にひしひしと伝わってきます。
 すなわち、一行が到着する午後、主人は「盛岡高等農林学校御定宿ノ看板ヲ掲」げた上で、「原町箱屋辺迄ムカヒニユク」とあり、また翌5日の出発の前には、「三峯山宮沢到氏ニ宛テ封書ヲ生徒ナル塩井義郎氏ニ託シツカワス、便宜ヲハカルヤウノ手紙ナリ」と、一行のその晩の宿泊先に便宜を図るよう願う手紙を書いて持たせています。さらに、翌々日の宿泊先に対しても、「魚惣ヘモ書面中ニパン代金弐円入金シテ馬車要吉ニタノミツカワス、生徒一行ノ石モ送レリ」という配慮をしているのです。別の宿屋に泊まっている際の「パン代金弐円」まで、この旅館主人が負担して手紙の中にしのばせるなんて、信じられないような手厚い気配りですね。
 これら諸々の配慮をした上で、主人は9月5日朝、「盛岡高等農林学校関先生神野先生及生徒二十三人ヲ送リテ落合橋向フ迄至リテカヘル」のです。

 この「田嶋保日記」は、去る9月4日の小鹿野町のイベントでも、実物が展示されていましたが、毎年はるばる盛岡からやってくる学生たちを、遠く離れた小鹿野町で、旅館主人が精一杯歓迎しようとしていた様子が、ここにはしっかりと記録されていました。
 現代の小鹿野町の方々が、賢治来訪100年を記念して大きなイベントを行い、また町内に4基もの歌碑・詩碑を建立しておられるというのも、実は100年前の田嶋保氏の「志」を継いでおられるのだなあと、しみじみ思った次第です。

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2016年9月 8日 論文版「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」

 一昨日に花巻から送られてきた、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの会誌『宮沢賢治研究Annual Vol.26』(2016)に、拙稿「宮沢賢治のグリーフ・ワーク ―トシの死と心の遍歴―」を、掲載していただきました。

「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」

 昨年11月の「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」で、竹崎利信さんの「かたり」とともにお話ししたこと、それから今年の5月に岩手県大槌町の講演会でお話しさせていただいたことを、論文の形にまとめてみたものです。

 これはそもそも、文学の「研究論文」として書いたというものではなく、上記のような成り立ちの経緯が示すように、東日本大震災の復興を支援するための催しの場で、あるいは被災地の方々に直接語りかける場で、宮沢賢治という人の、一つの等身大の「像」を描いてみようとしたものでした。「あの宮沢賢治も、死別の悲しみを抱えて尋常ではない苦悩を体験し、そしていつしかその悲しみを引き受けて、また歩いて行った人だった」ということを、跡づけてみようとしたものです。
 そのような事情もあってこの論文は、賢治の作品テキストを批判的に検討してみたり、「創作」のダイナミズムに分け入ったりするというようなものではなく、賢治が書いた言葉を、言わば作者の「生の声」として、受けとっていくものでした。

 ですから、巻末の「編集後記」において編集者の方が、この論文について「作品と作家の距離が密接であるため、一見、かなり素朴な作家論と映ることも否めません」と、評しておられるのは、まさにご指摘のとおりと思います。これはただ素朴に、ナイーブに、作品のままに作家を浮き彫りにしようとしたものにすぎません。
 しかしこの「編集後記」の上記の箇所の少し後で、「そして、その意図のもと、私たちは、賢治のいわば同伴者となり、愛する人の「不在」から「遍在」を受け入れるに至る、彼の「グリーフ・ワーク」を疑似体験することになります」と評していただいた言葉は、今回の論文を投稿させていただいた私にとって、とても嬉しい贈り物でした。
 「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」でも、大槌町の講演会でも、何とかして皆さんと一緒に賢治の同伴者となって、彼の心の旅を一緒に体験してみたいということが、微力ながら私が目ざそうとしたことだったからです。

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2016年8月28日 地方セミナーin神戸「宮沢賢治と音楽」

 昨日8月27日は、宮澤賢治の誕生日でした。今年が「賢治生誕120周年」にあたるということで、今年に入ってからこれまでにも全国のあちこちで記念の催しが行われてきましたが、まさにこの週末、それらのイベントはピークを迎えています。
 地元花巻では、宮沢賢治学会イーハトーブセンター主催の「第4回国際研究大会―イーハトーブは今どこにあるのか」(8月27日-29日)、宮沢賢治記念館では手帳実物を展示する「雨ニモマケズ」展(8月20日-28日)、宮沢賢治童話村では「イーハトーブ・フェスティバル」(8月26日-28日)や「童話村の森ライトアップ」(8月20日-28日)などが開かれています。
 これ以外にも、賢治の母校でもある盛岡市の岩手大学では「リバイバル賢治」(8月29日-9月20日)があり、また丹波篠山でも8月27日には「宮沢賢治生誕120年の催し」が行われました。9月に入ると、埼玉県小鹿野町で「宮沢賢治 小鹿野町来訪100年・生誕120周年記念祭」(9月4日)や、岩手県一関市の「石と賢治のミュージアム」で「防災一人語り ・ 宮沢賢治生誕120年記念公演」もあり、まさに「目白押し」という感じですが、これら沢山のイベントの、おそらく今年最後を飾ることになるのが、12月23日に宮沢賢治学会・地方セミナーとして神戸で開かれる、「宮沢賢治と音楽」という催しです。

「宮沢賢治と音楽」チラシ表

「宮沢賢治と音楽」チラシ裏

 内容は、賢治の音楽に関する研究の第一人者である佐藤泰平さんによる講演や、ピアノ演奏、そして「西日本一」と言われる甲南女子大学のパイプオルガンの演奏もあるという多彩なものですが、当日は私も佐藤さんの「前座」として、「宮沢賢治の歌曲をめぐって」と題してお話しをさせていただくことになりました。佐藤泰平さんと同じステージに立てるとは、それだけでも光栄な感じがしています。
 このイベントは、甲南女子大学の公開講座として、12月8日、15日、24日に行われる講演会やクリスマスチャリティコンサートの一環に位置づけられており、申し込みは甲南女子大学のサイトのこちらのページから行えるようになっています。

 まだだいぶ先のイベントですが、今日はその時に使うことも考えて、賢治の「角礫行進歌」の演奏ファイルを作り直してみました。これは、グノーのオペラ「ファウスト」の中の「兵士の合唱」のメロディーを賢治が替え歌にしたものなのですが、今回は原曲のオーケストレーションを、ほぼ忠実に再現してみました。

角礫行進歌(MP3: 1.86MB)

氷霧(ひょうむ)はそらに(とざ)し、
落葉松(ラーチ)(くろ)くすがれ、
稜礫(りょうれき)の あれつちを、
やぶりてわれらはきたりぬ

(てん)のひかりは()りも()ず、
 (てん)のひかりは(そゝ)()ず、
 (てん)のひかりは()しも()ず。
 タララララ タララララ タラララ 

かけすの(うた)途絶(とだ)え、
腐植質(フームス)はかたく(こご)ゆ、
角礫(かくれき)のかどごとに、
はがねは火花(ひばな)をあげ()し。

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