2015年1月27日 I AM KENJI

I AM KENJI

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2015年1月26日 三陸旅程後半に関する疑問いくつか

 今からちょうど90年前、1925年(大正14年)の1月に、賢治は一人で真冬の三陸地方を旅行しているのですが、この旅行はその目的も具体的な日程も不明で、いろいろと謎に包まれているものです。
 この旅行に関して、『新校本全集』の「年譜篇」に掲載されいている大まかな日程の推測は、以下のようなものです。

〔一月〕
五日 夜陸中種市から久慈へ向う。
六日 暁穹に百の岬が明ける。この夜安家(下安家と推定)に
   宿泊。
七日 下安家より普代を経て羅賀へ出、ここより発動機船に乗り
   夜宮古港着、宿泊したか夜〇時発三陸汽船にのりかえ釜石
   に向かったか(あるいは「函館航路」の他の臨機寄港地を用
   いたか)。
八日 宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着。天神町の
   叔父宮沢磯吉家に宿泊。
九日 釜石を出発。仙人峠より釜石湾を見る。仙人峠一二時三五
   分発ならば花巻着午後四時三〇分、三時五五分発ならば夜
   七時四五分着。
以上はあくまでも推測で、詩の内容・日付やノートだけでは確定は困難である。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇p.286-287より)

 また、木村東吉氏は、『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』(渓水社)において、上記『新校本全集』年譜篇における推測をおおむね踏襲しながらも、7日の発動機船乗船地を、羅賀ではなく、下安家、堀内、大田名部のいずれかであったと推定しておられます。
 この木村氏の推定については、当サイトの「旅程幻想詩群」というページで、ご紹介しています。

 発動機船乗船地に関しては、普代村の堀内港から乗船したとの説に基づき、2004年にこの堀内地区に「敗れし少年の歌へる」詩碑が建立されるなど、今も諸説がありますが、本日取り上げてみたいのは、翌1月8日の、宮古から釜石に向かったと思われる行程についてです。
 発動機船に乗ったのがいずれの港であったにせよ、いったん宮古港に入港したことは、「発動機船 三(下書稿(一))」に、「船は宮古の港にはいる」との一節が出てくることから明らかです。
 しかし、宮古から先の賢治の足どりは、非常にあやふやなものになります。

 1月9日付けの「」に、「釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド/……そこでは叔父のこどもらが/みなすくすくと育ってゐた……」とあることから、1月8日の夜に賢治が、釜石の叔父宮澤磯吉宅に泊まったことは、確実と言ってよいと思われます。では、宮古から釜石まで、賢治はどうやって来たのでしょうか。
 ここで、1月8日付けの二つの作品、「発動機船〔断片〕」と、「旅程幻想」を参照しなければなりません。

 まず「発動機船〔断片〕」は、本文4行しかない書きかけの断片ですが、その内容から、作者は船に乗っていると考えられます。「月夜の海」という言葉が出てくることから、時刻は夜と思われますが、しかしこれが1月8日午後の夜だとすると、この晩は釜石の叔父宅に宿泊しているという先ほどの推定との関係で、やや困難が生じます。
 この日の夕方、暗くなってから釜石に向かう船に乗っていて、その後船を降りて叔父宅に行ったと考えることも無理ではありませんが、「Ke!sanサイト」で調べた1925年1月8日の釜石における月の出は15時6分、日の入りは16時44分で、この作品がスケッチされたのが、例えば18時頃だとしても、月の高度はまだ低く、「月夜の海」と言えるほどの情景になるかどうかは疑問です。
 そこで、この「発動機船〔断片〕」に描かれた「月夜の海」は、1月8日の未明の情景だと考えると、より辻褄が合うのです。上記『新校本全集』の年譜における、「宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着」という推測も、これと関連していると考えることができます。

三陸汽船時刻表 ちなみに、この「宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着」というのは、当時の「三陸汽船」の運航ダイヤです。
 賢治がこの三陸旅行において「三陸汽船」を利用した可能性については、最初に奥田弘氏が「宮沢賢治研究周辺資料〔十一〕」(1989)において指摘し(蒼丘書林『宮沢賢治研究資料探索』所収)、その後木村東吉氏が「旅の果てに見るものは―《春と修羅 第二集》三陸旅行詩群考―」(1994)において、運航時刻も調査されたものです。
 右の複写は、賢治の旅行の1年半前ですが、1923年(大正12年)7月号の『公認汽車汽船旅行案内』を、新人物往来社が1998年に復刻刊行したものです。
 2段目の「復航」欄の該当部分を抜き出すと、以下のとおりです。

宮古発 後 一二、〇〇
山田〃 前  三、四〇
大槌〃     七、三〇
釜石〃   一一、二〇

 この運航時刻に基づいて、『新校本全集』では「午前一一時二〇分釜石着」と推測したのでしょうが、しかしここで賢治が宮古から釜石まで三陸汽船に乗船したのだとしたら、やはり1月8日付けの「旅程幻想」の記述との間に、齟齬が生じてしまいます。
 すなわち、「旅程幻想」においては、「海に沿ふ/いくつもの峠を越えたり/萓の野原を通ったりして/ひとりここまで来たのだけれども…」とありますが、釜石港で下船した場合には、釜石の中心部にある叔父の家に行くまでの間で、こんなにいくつも峠を越えたりすることはありえないのです。
 そこで、木村東吉氏は『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』において、賢治が三陸汽船を降りたのは山田港か大槌港のいずれかであり、そこから釜石までは徒歩で行ったと推測されました。
 こう考えれば、作品の日付および内容と、当時の時刻表を、ひとまず一致させることができます。
 しかしここで、どうしても次の疑問がわいてきます。

【疑問1】 賢治の目的地は釜石だったのに、なぜ釜石まで乗船せずに山田なり大槌なりで、途中下船してしまったのか?

ということです。
 山田から釜石までは30km、大槌から釜石なら15kmの道のりで、健脚の賢治ならばもちろん歩けないことはありませんが、寒風吹きすさぶ真冬の三陸海岸で、もしも歩かずにすむならばそれに越したことはないでしょう。
 この問題に対して木村東吉氏は、「なぜ釜石まで乗船しなかったのか現在からすれば不審だが、ボロ船で当時利用者の不満も高かった三陸汽船だったし、船荷の都合なども考えられる」と、記しておられます。

 この点に関しては何とも言えませんが、もしも賢治が何かこのあたりに用事があったとすれば、途中下船する明確な理由となります。個人的に少し気になるのは、賢治が1919年に東京から父に出した「書簡137」において、鉱物を扱う事業を始めたいと訴える中で、例として挙げられている鉱石が、「九戸郡の琥珀、貴蛇紋石 大槌の薔薇輝石」となってることです。
 ここに登場する九戸郡も大槌も、この三陸旅行において徒歩で移動したと推測されている箇所に、ちょうど一致するのです。

 憶測はさておき、賢治が1月8日未明に宮古から山田または大槌まで「三陸汽船」に乗船したとすれば、この船上における描写が、同日の日付を持った「発動機船〔断片〕」だということになります。1925年1月8日の月の入りは午前4時3分ですから、深夜0時に宮古を出港して間もない頃であれば、まだ「月夜の海」であり、木村氏の調査によれば、この日の午前1時-4時の宮古地方の天候は快晴でした。月は海上に、晴れ渡って浮かんでいたことでしょう。

 しかしここで、また一つ疑問がわいてきます。

【疑問2】 「汽船」に乗ったのに、なぜ作品タイトルは「発動機船」なのか?

ということです。
 当然ながら、「汽船」とは、蒸気機関により推進力を得る船であり、「発動機船」とは、「発動機」すなわち内燃機関により推進力を得る船です。賢治が北三陸から宮古まで乗った船は、比較的小規模な「発動機船」だったのでしょうが、「三陸汽船」はもちろん「汽船」です。
 この疑問の答えとしては、三通りの可能性がありえるでしょう。

 一つ目は、賢治がこの時に乗ったのは、「三陸汽船」ではなくて前日のような「発動機船」だった、という可能性。この場合、奥田弘氏から木村東吉氏に至る「三陸汽船説」は間違いだったということになってしまいますし、時刻の推定も不可能になります。
 この推測の難点は、当時は小規模な貨物輸送や旅客輸送を行っていたと思われる発動機船が、日中ではなくこんな真夜中の夜半から未明にかけて、はたして運航していたのかどうか、という問題です。ちょっと心もとない感じがします。

 二つ目は、賢治が「汽船」と「発動機船」の違いを意識せず、実際この時に乗ったのは汽船だったのに、北三陸で「発動機船」に乗ったという意識につられてか、ここでもタイトルを「発動機船」としてしまったという可能性。このように「作者が間違えた」と仮定するのは、考察としてあまりすっきりはしませんが、しかしこういう可能性も否定はできないでしょう。

 三つ目は、やはりこれも作者のミスを仮定してしまいますが、「発動機船〔断片〕」の「1月8日」との日付が間違いで、この断片は実は前日1月7日の発動機船による船旅を描いたものだったという可能性。これもすっきりとはしませんが、これは実は後で述べる、「発動機船 第二」と「発動機船〔断片〕」との関係にも関わってくる問題をはらんでおり、きちんと考えておく必要はある仮説です。

 どれが正しいかについては何とも言えませんが、個人的には、上の二つ目の「実際は汽船に乗ったのに発動機船と書いてしまった」という可能性が、どうも棄てきれません。
 その理由の一つは、「発動機船〔断片〕」の本文4行目に、「船は真鍮のラッパを吹いて」と書いてあるところです。

 この「発動機船〔断片〕」のテキストは、「発動機船 第二」とかなり共通している部分が多いのですが、ここに出てくる「ラッパ」も、その共通する道具立ての一つです。
 ただ、ここが大きな違いかもしれないのですが、「発動機船 第二」においては、「船長は一人の手下を従へて/手を腰にあて/たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く」とあり、ラッパを吹くのは「船長」です。
 これに対して、「発動機船〔断片〕」では、「船は真鍮のラッパを吹いて」となっていて、ラッパを吹く主体は、「船」なのです。

 さてここで、人間ではなくて「船がラッパを吹く」というのは、このラッパが「汽笛」だからではないでしょうか。
 「汽笛」というのは、蒸気船において、動力に用いる蒸気のあまりを配管で引いてきて、これを必要な時にラッパに通し、大きな音を発生させるものですから、吹いている主体は「船」そのものです。
 一方、動力源が発動機である場合には、蒸気機関のように高圧の気体を取り出すということはできませんので、船から信号を送るためには、人間がラッパを吹くなどの手段が必要となります。

 したがって、賢治が「発動機船〔断片〕」における「船は真鍮のラッパを吹いて」という言葉を、その文字通りの意味で書いたのだとすれば、このラッパは「汽笛」だったということになり、ならばその船は「汽船」であった、という結論になります。
 この場合、タイトルの「発動機船」は誤りで、賢治が乗っていたのはやはり「三陸汽船」だったと考えるべきでしょう。
 これは、何かの確定的な証拠になるというほどの事柄ではありませんが、一つの解釈としてはあり得るでしょうし、「三陸汽船説」に味方する小さな材料と言えるかもしれません。

 さて、上にも少し触れたように、「発動機船〔断片〕」と「発動機船 第二」のテキストの間には、かなりの重なり合った部分があります。
 すでに挙げた「ラッパ」もその一つですが、それ以外に、前者の1行目の「水底の岩層も見え」は、後者の18行目の「青じろい岩層も見えれば」に対応し、前者2行目の「藻の群落も手にとるやうな」は、後者19行目の「まっ黒な藻の群落も手にとるばかり」に、前者3行目の「月夜の海」は、後者9行目「月のあかり」に対応します。
 これほどまでに、二つのテキストの素材が共通しているのですから、これらが密接に関連していると考えるのはある意味当然で、このため『新校本全集』では、「発動機船〔断片〕」の発展形が「発動機船 第二」であると位置づけられています。すなわち、前者が「改作」されて後者になったのであり、もとになる作者の体験は、同一だったと判断しているわけです。

 しかしそのように考えると、新たな問題が発生してきます。
 一つには、上にも述べたように、両者の「ラッパ」は一見共通していても、一方は「船が」吹き、他方は「船長が」吹いているわけで、船自体も「汽船」と「発動機船」という違いがあるかもしれないのです。
 またもう一つ、これよりさらに厄介なことになるのは、「発動機船 第二」の前身が「発動機船〔断片〕」であるのなら、「発動機船〔断片〕」で描かれていた情景は、時間的には「発動機船 一」と「発動機船 三」との間に位置するはずです。賢治の詩作品では、「小岩井農場」や「種山ヶ原(下書稿(一))」などに、漢数字によるパートが記されていますが、数字は時間経過の順に並べられており、この場合も、現実の時間経過は、「発動機船 一」、「発動機船 第二」、「発動機船 三」、という順番だったと考えるのが当然でしょう。
 しかしそうであれば、「発動機船 三」は宮古港に入る前の情景を描いており、1月7日夜のことであるのはほぼ確実なのに、これでは「発動機船〔断片〕」に記されている「1月8日」という日付と順序が逆になってしまうのです。
 そこで、『新校本全集』のように、「発動機船 第二」は「発動機船〔断片〕」の発展形であると考えるためには、後者に記されている「1月8日」の日付は作者の誤記であり、実際は「1月7日」のことだったと考える必要が出てくるのです。
 これは、上で【疑問2】の答えとして考えた、「三つ目の可能性」に対応します。
 これは、可能性として否定はできないのですが、こう考えるとすれば、1月8日に賢治が船に乗ったと考える必然性はなくなります。
 もちろん、それでも三陸汽船に乗ったと考えることも、可能なのですが・・・。

 いずれにしても、賢治が誤記をしたと仮定せざるをえないこの説に対しては、疑問を抱く人があっても無理はないでしょう。

【疑問3】 「発動機船〔断片〕」は、「発動機船 第二」の発展形なのか?

 これを「発展形である」と考える『新校本全集』の立場に対して、木村東吉氏は、取材の場所も異なる別作品と考え、次のように述べておられます。

 なお、『新・校本全集』では、「発動機船 第二」を『第二集』の「発動機船」〔断片〕の発展形とみなしたためか、「第二集補遺」に収めている。しかし、作品中で真鍮のラッパを吹いている点では共通していても、創作日付を信ずるなら『第二集』の断片稿は宮古から乗船した後の旅に取材しているはずで、羅賀を想定させる「発動機船 第二」とは、取材の場所も異なる。その順序も『第二集』の「発動機船」は『口語詩稿』の「発動機船 三」の後に位置するはずのものである。(『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』p.206)

 「発動機船 第二」が「羅賀を想定させる」かどうかという点に関しては、私としては判断を保留しますが、やはり私も木村氏のように、「発動機船〔断片〕」の日付を尊重したいという気持ちはあります。
 ただしその場合、この二つのテキストがここまで似通っていることを、どう説明するかという問題は発生します。

 さてさて、以上だけでもたくさんの疑問で混乱してしまいそうなのに、最後にもう一つ、疑問を挙げておきます。

【疑問4】 「旅程幻想」の舞台はどこなのか?

 1月8日の日付を持つ「旅程幻想」という作品に漂う、孤独感、寂寥感、不安感は何とも印象的で、私にとっては忘れられない作品の一つです。賢治はいったいどこの河原でこのような休息をとったのだろうと、これまであてもなく思ってみたりもしましたが、自分では何の手がかりも見つけられませんでした。
 実はこれについて、大槌町において考えておられる方がいらっしゃるようですので、一度お話をお聴きしたいものだと思っているところです。

『公認汽車汽船旅行案内』附録図
『公認汽車汽船旅行案内』大正十二年七月号より

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2015年1月 4日 イチョウの長い旅と一瞬の別れ

 ピーター・クレイン著『イチョウ 奇跡の二億年史』(河出書房新社)という本を読みました。著者は、植物の系統・進化史を専門とするイギリス人生物学者で、昨年の国際生物学賞も受賞された方です。

イチョウ 奇跡の2億年史: 生き残った最古の樹木の物語 イチョウ 奇跡の2億年史: 生き残った最古の樹木の物語
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 実にこの本を読むまで私は、いつも当たり前のように眺めているあのイチョウの木が、地球上でこれほど数奇な運命をたどってきたのだとは、思いもよりませんでした。
 イチョウは、現生の樹木の中でも最も古い形質を持ち、2億年も昔から各大陸で繁栄を続けていたということですが、白亜紀末からは徐々に減少を続け、人類が地球上に登場する頃には、わずかに中国の山間部に残るだけになっていたということです。しかし、人間がその種子を食用にし、また宗教的にも尊んだことから、まずは中国各地に、その後は朝鮮半島および日本へと、分布を広げていきました。
 そして江戸時代に、日本の出島に居留していたオランダ人がこの美しい樹木に興味を持ったことから、この木は海を渡ってヨーロッパで人気を博し、その後は瞬く間に世界各地に広がっていったのです。
 これまでに人類は、たくさんの生物種を絶滅に追いやってきたことでしょうが、図らずもその逆に、絶滅から救うことになった種もあったのだというわけです。

 その波乱の歴史の一コマにおいては、日本が多少の貢献をしているというのも、嬉しいところです。イチョウの英独仏語'ginkgo'は、江戸時代の日本で「銀杏」を「ギンキョウ」とも読んでいたのを、出島に来ていたドイツ人医師ケンペルが、'y'音を'g'で表すという北ドイツ式の表記法によって伝えたことに由来するということです。
 また近代日本となって以降にも、賢治の生年である1896年(明治29年)には、小石川植物園の平瀬作五郎が世界で初めて、イチョウの受精の際に繊毛で泳ぐ精子を観察することに成功しました。この仕事は欧米の研究者を驚嘆させるとともに、「日本人科学者の名が国際舞台にのぼる最初の研究成果」になったということです。

 2億年もにわたりこの地球上で長く生きのびて、「生きた化石」とも呼ばれる生物が、地質学的には「ほんの一瞬」とも言えるわずか1000年ほどの間に、ヒトを介して東アジアに広まり、また300年ほどで全地球に分布するようになったというその壮大な時間の対照が、何とも不思議な感動を誘います。

 そしてこの本によれば、イチョウがその生存を「一瞬」に賭けているのは、このような歴史の偶然性においてだけではなくて、実は毎年のことなのです。
 雌雄異株、すなわち雄木と雌木が別株であるイチョウの生殖は、先に触れた泳ぐ精子の存在にとどまらず、全てが非常に精妙に行われます。
 暖かい春の数日間に、雄木の短枝には「花粉錐」が形成されて伸長し、その先に付いた「花粉袋」が裂けると、2-3日のうちに1本あたり1兆個もの花粉が飛び散ります。途方もない数の花粉ですが、どこか離れたところの雌木にたどり着いて受精を成し遂げるためには、それくらいが必要なのです。

 花粉が風に乗って漂っているまさにそのとき、(雌木の)若い胚珠はその先端に珠孔液という液体をつけてきらきらと輝く。この液体は空中を漂う花粉を捕らえるためのもので、ここで捕らえられた粒子を何であれ内部にとりこむ。珠孔液は花粉粒を胚珠に引きこむまで、一日に何度も吸収と再生をくり返す。
 自ら動いて伴侶さがしができない植物にとって、受粉は生殖における最もリスキーな部分だ。中でもイチョウのような雌雄異株の植物の場合、雌木と雄木で珠孔液と花粉の産生をぴったり同じタイミングに合わせなければならない。これを同期させられるかどうかですべてが決まる。受粉に成功した花粉粒の中で精子細胞が育ち、それが数か月後に胚珠の中にある卵に受精させると胚ができ、それが育つと種子になる。しかし、タイミングが少しでもずれれば成果はゼロだ。種子はできず、次世代の子孫を残せない。雄木と雌木の絶妙の同期作業が自然淘汰によって調整し尽くされてきたことは想像に難くない。(『イチョウ 奇跡の2億年史』p.82)

 このように、いっせいに花粉が舞い散り、風に乗ってすぐさま胚珠に取りこまれるという見事な斉一性は、秋のその落葉においても、際立っています。
 イチョウがその黄金色の葉を、晩秋のある日いっせいに落としてしまうことについて、アメリカの桂冠詩人ハワード・ネメロフは次のような詩を書きました。(同書p.55)

   合意

十一月下旬のたった一日の
まだ凍えるほど寒くない夜に
イチョウの木々はいっせいに葉を落とす
雨でも風でもなく、時だけに合わせるように
きょう、芝の上に散乱する黄金の葉は
きのうは枝の上ではためく光の扇であったのに

星からどんな合図が来るのだろう
木は何をもって決断を下すのだろう
葉を襲い、葉を落とせという合図に
反抗すべきか降伏すべきかという決断を
だが、それが定めなら、免れることなどできようか
時が教えてくれることを知って何になる
さ、いまだ、と星が命じてくれるなら

 かくして一挙に敢行されるイチョウの落葉の鮮やかさから、私はさらに宮澤賢治の童話「いてふの実」も連想しました。
 賢治初期のこの短篇は、東の空に「優しい桔梗の花びらのやうにあやしい底光り」が現れてから、「突然光の束が黄金の矢のやうに一度に飛んで来る」までの、夜明けの短時間を描いたお話です。イチョウの雌木に生まれた千の種子たちは、母なる木とお互いの別れを惜しみつつ、しかし時が来ればやはりいっせいに、未知の世界へと旅立つのです。

 突然光の束が黄金の矢のやうに一度に飛んで来ました。子供らはまるで飛びあがる位輝やきました。
 北から氷のやうに冷たい透きとほった風がゴーッと吹いて来ました。
「さよなら、おっかさん。」「さよなら、おっかさん。」 子供らはみんな一度に雨のやうに枝から飛び下りました。(「いてふの実」)

 いったいイチョウの木が、何をもって種子を落とす「決断を下す」のか、果たしてネメロフが想像したような「星からの合図」によるのかわかりませんが、賢治の童話に出てくる若い種子たちも、それを「定め」として巣立っていくのです。

 この本は、一つの生物種の2億年の歴史が、上のような命がけの一瞬の積み重ねによって形作られていることを、教えてくれました。
 イチョウに関する生物学、古生物学の知見、イチョウをめぐる古今東西の文化や人間との関わり、そして地球における生物多様性の意味についても、包括的に記された一冊です。

Ginkgo Biloba

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2014年12月30日 9月に比叡山でお話ししたこと(2)

 前回に続き、この9月の賢治忌法要の時にお話しさせていただいた内容です。3.(5)の内容は、以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」として掲載した記事と、一部重複します。

3. 解離という視点

(1) 柴山雅俊著『解離性障害』
 今日はここに、1冊の本を持って来ました。柴山雅俊さんという精神科医が書かれた『解離性障害』という新書本で、タイトルの「解離性障害」という、現代において注目されている一群の精神疾患について、一般向けに解説したものです。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書) 解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)
柴山 雅俊

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 この解離性障害という病気は、昔から知られてはいましたが、従来は比較的珍しいものとされ、精神科の医者をやっていても実際にその患者さんにめぐり会うのは、一生に1人か2人と言われていました。それが、近年になって驚くほどその数が増加して、いろいろと話題に上るようになっています。

 その「解離性障害」というのはどんな病気かということですが、いきなり全体像をご説明しようとすると、ちょっとぼやけてしまってイメージが湧きにくいかと思いますので、まずその最も代表的で極端な状態を挙げてみましょう。
 『ジキル博士とハイド氏』という小説がありますが、この物語の題材となっている「多重人格」という状態がそれです。このような状態においては、一人の人間の中に全く異なった別々の人格が形成されて、それが時によって勝手に出てきて行動をしてしまう、という現象が起こります。いったいなぜこんなことになるのでしょうか。

 誰しも、心の中に相反する要素を抱えているということはあるものです。たとえば、「勉強をしよう」という気持ちと「遊びたい」という気持ちが葛藤するというのはごく普通のことですが、たとえ相反する気持ちでも、心の中で相互にきちんと繋がっているおかげで、どちらにしようかと人は「悩む」ことができるのです。
 ここでもしも、この二つの要素が、心の中のバリヤーで完全に切り離されて繋がりを失ってしまうと、「とにかく勉強するくそ真面目な人格」と、「遊んでばかりの放縦な人格」とに分裂してしまうことになります。そして、各々の人格が時によって勝手に現れるだけで、意識的に悩んだりコントロールしたりすることが、できなくなるのです。
 このような状態が「多重人格」であり、そのメカニズムを説明する「解離」という言葉は、心の中の要素が、相互にバリヤーで「切り離されている」という事態から由来しています。

 20世紀の終わり頃からまずアメリカで、次いで日本でも、それまでは精神科の医者が一生に1人か2人見る程度と言われていた多重人格の患者さんが、かなりの数で医療機関を訪れるようになりました。そのように増えた原因は、社会環境の変化などにあるとも言われていますが、解離性障害が注目を集めるに従い、その背景にある「解離という心理現象」が、より詳細に研究されるようになったことにもよります。
 以前は、「多重人格」や「健忘」(いわゆる記憶喪失)などに限定して用いられていた「解離」という概念が、より広い意味で使われるようになってきたのです。そのような変化が、「解離性障害」という疾患群の裾野を大きく広げ、従来ならば解離として取り扱われてこなかった病状も、解離性障害として分類されるようになりました。

 ここにお持ちした柴山雅俊氏の『解離性障害』という本でも、どちらかというとその幅広い「裾野」の方が詳しく紹介されているのですが、ところで私が今日この本をここに持って来た理由を申し上げますと、実はこの本の第四章は、まる一章を割いて、宮沢賢治の作品や心性について、解離性障害との関連から分析を行っているからなのです。
 以下、まずは柴山雅俊氏の本に従って、賢治の作品に現れている「解離」的な現象を見てみましょう。

(2) 賢治作品に見る解離症状
 柴山雅俊氏もきっと宮沢賢治がお好きなんだと思いますが、この本で柴山氏は、賢治の作品において描写されている特異な現象をいくつも取り上げ、これが「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」という4種類の解離症状に相当すると述べておられます。

図22
(図22)

 まず、「離人症」の例として挙げられているのは、すでに前半部で「自己の消滅」の例として(図14)で挙げたと同じ、「ぼんやりと脳もからだも/うす白く/消え行くことの近くあるらし」や、保阪嘉内あて書簡の「われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。…」という一節です。
 このように、自分自身の存在が現実ではないように思えたり、「自分がここにいる」という実感が失われたりすることを、医学的には「離人症」と呼びます。この離人症も、解離という現象の一種です。

 次の「体外離脱体験」というのは、自分の魂が体から外に出てしまうという感覚のことで、柴山氏は「インドラの網」という童話の、「そのとき私は大へんひどく疲れてゐてたしか風と草穂との底に倒れてゐたのだとおもひます。その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずゐぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやってゐました。」という一節を挙げておられます。自分の体から抜け出した「私」が、その抜け殻の体に挨拶しているというわけですね。
 あるいは、(図18)で引用した書簡の、「ある日の午后私は椅子によりました。ふと心が高い方へ行きました。」というところも、典型的な体外離脱でしょう。

 三番目の「表象幻視」というのは、心の中に存在するイメージ(表象)が、まるで現実の存在のように、目の前にありありと見えるという現象です。詩「小岩井農場」には、「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる/ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り/またほのぼのとかゞやいてわらふ/みんなすあしのこどもらだ」という箇所があります。農場を歩いている賢治には、後ろを歩いている素足の子供たちの姿が見えたのです。
 また、『春と修羅 第二集』の「塚と風」という作品には、「髪を逆立てた印度の力士ふうのものが/口をゆがめ眼をいからせて/一生けんめいとられた腕をもぎはなし/東に走って行かうとする/その肩や胸には赤い斑点がある」という一節があって、この時の賢治には、「体に赤い斑点のあるインドの力士」などという摩訶不思議な存在も見えたようです。

 最後の「気配過敏症状」というのは、誰もいないところにまるで人がいるような「気配」を強く感じてしまうことで、若い頃の短歌の「うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり」や、「ブリキ鑵がはらだゝしげにわれをにらむつめたき冬の夕暮れのこと」などという作品に表れています。背後の湖やブリキ缶などという無生物に睨まれているという「気配」を、賢治はこの時ありありと感じたのです。

(3) 解離という心理機制
 このように、「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」という症状を並べてみると、一見何のつながりもないように思えます。また、これらは最初に解離の典型像として挙げた「多重人格」とも全く異なっていますから、これらをまとめて「解離症状」と呼ぶと申し上げても、ちょっと理解しにくいかもしれません。
 そこで、これらを束ねている「解離」という心的現象の概念について、ここで簡単にご説明をしておきます。

 人間の「精神」というのは、その複雑で巨大な全貌はまだとても解明されてはいませんが、それでも一人の人間の「精神」は、何らかの「まとまり」を持って働いているということは言えるでしょう。
 今、皆さんの目には、この会場の照明や、スクリーンに映ったスライドや、前の人の背中や、いろいろな物が見え、耳には私の声や、エアコンの音や、隣の椅子のきしみや、様々な音が聞こえ、またさっき頂いた昼食の満腹感や、軽い眠気や、椅子の座面や背もたれの感覚など、たくさんの刺激を感じておられるでしょう。
 これらは、四方八方や自分の内側から、てんでばらばらにやってきて、相互に無関係なものも無数にありますが、皆さんの各人にとっては、「私の」感覚として一束にまとめられています。

 このように「知覚」された内容は、皆さんの中で大まかにいったん「統合」されているわけです。同じように、頭の中で考える様々な内容も、「私の」考えとしてやはり「統合」され、あと、「記憶」や「意志」や「感情」なども同様です。また人間の「意識」というものを、これらの要素が様々に活動する舞台であると考えれば、私の「意識」というものもまた、「私」のもとに「統合」されています。

 人間の精神活動というのは、このように何らかの仕方で「統合」され、一定の組織だった働き方をすることによって、うまく機能しているのだと言えますが、時にこの「統合」の機能が低下し、各々の働きが「ばらけて」しまうことがありえます。このような「精神機能の統合性が低下した状態」のことを、広い意味で「解離」と呼ぶのです。

 解離によって引き起こされる病的な症状の中で、臨床的によく遭遇するのは、「健忘」と言って、本来ならば憶えているはずの事柄が思い出せなくなる現象です。
 例えば、物凄く恐ろしい目に遭ったという体験などは、普通ならば忘れるはずはありませんが、その際にあまりの恐怖や衝撃を受けた場合には、出来事の一部あるいは全部を思い出せなくなるということがあります。これは、本来ならば「私の記憶」として脳の中に統合され保存されている情報の中で、その出来事の記憶だけが一種のバリヤーによって隔離されてしまい、「私の意識」がその領域にアクセスできなくなっていることが原因です。その記憶だけが、他から「切り離されている」という意味で、「解離」の一種なのです。

 最初に例に挙げた「多重人格」というのは、これよりさらに大がかりな解離です。この場合は、「記憶」だけでなく「意識」や「知覚」や「思考」や「感情」や「意志」までも、通常言われる「人格」全体が、バリヤーによっていくつかに切り離されてしまうために、それぞれが別個の人間であるかのように行動を始めてしまうのです。

 「健忘」や「多重人格」などの解離症状は、このように心の中に一種のバリヤーができてしまうことが特徴で、これを「区画化」と言います。
 これに対して、「区画化」を伴わない解離症状もあって、それが先に挙げた「離人症」とか「体外離脱体験」など、宮沢賢治に特徴的に見出されたものです。

 例えば「離人症」においては、人が通常ならば自分自身にぴったりと身に付けて感じている「現実的な存在感」が、まるで自分から離れてしまったかのように感じられます。賢治の、「ぼんやりと脳もからだも/うす白く/消え行くことの近くあるらし」という描写は、まさに私たち精神科医が診察室で耳にする言葉そのもので、たとえば「脳が無くなった」と表現する患者さんがあったり、「自分は、感じることも考えることも、何かしたいと思うこともなくなった」と言う人もあります。それでもご本人はこのように正しい言葉でしゃべれているわけですから、認知症の場合のように、本当に考えられなくなっているわけではありません。
 通常ならば、自分の存在感や、知覚、思考、感情、意志などが、「私」という自我のもとに統合されているはずのところ、その統合性が低下して、自分のものでないような感覚になってしまっているのです。

 このような感覚は、多くの人にとってはぴんと来ないかもしれませんし、「現実的な存在感とやらが薄れても、それで何か困るの?」と思われるかもしれません。しかしこれは、その本人にとっては非常に苦痛の大きな症状で、苦しさに耐えかねて自殺を考える人さえあるほどなのです。きっと賢治も、「…消え行くことの近くあるらし」の短歌を作った際には、相当の苦しさを抱えていたのではないかと思います。

 次に、「体外離脱体験」というのも、通常は自分の「身体」としっかり統合されているはずの「自己」の意識が、その身体との間の紐帯がほどけてしまって、ふらふらと離れてしまうと言うべき現象です。やはり精神機能の「統合」が低下しているという意味で、「解離症状」の一つなのです。

 そして、これらの「区画化」を伴わない解離現象は、自分の「意識」が何か通常の状態から変化してしまったという感覚を伴うため、まとめて「意識変容」あるいは「変性意識状態」と呼ばれることもあります。一般に知られているその例としては、夢のような恍惚とした意識となる「トランス状態」とか、シャーマンやイタコに見られる「憑依現象」なども、これに含まれます。

 宮沢賢治が描写している様々な特異体験は、こうやって見ると解離症状の中でも「意識変容」と呼ばれるものが主体です。前半で詳しく取り上げた「自我境界が薄い」という特徴も、あらためて解離という視点から見れば、意識変容の表れであると考えることができます。
 すなわち、「自他の区別」とは、「自分のことは自分と感じ、自分でないものは自分でないと感じる」という、まるで同語反復のような当たり前の感覚に基づいていて、これは一般の人にとっては、「それ以外にあり得ない」ほど自明の事柄です。しかし、人はどうやって「自己」と「非自己」を分けているのかと言うと、それは先述のように、赤ん坊が生後6ヵ月の間に身に付けた「自我境界」という心理的なメカニズムのおかげなのです。
 自我境界の内側から来る知覚をまとめて、「自己」の標識のもとに束ねている統合機能が、何らかの理由によって低下すると、たとえば種山ヶ原における賢治のように、この大地や空や雲も含めて「ぜんたいがわたくしなのだ」と感じることともなるのです。

図23
(図23)

(4) 解離性幻聴の特徴
 賢治の作品に描かれた特異な体験を、いくつか精神医学的な視点から見てきましたが、あと「幻聴」という現象を取り上げて、この項目を終わりたいと思います。
 「幻聴」というのは、実際に物理的には何の音もしていないのに、声や音が聴こえるという体験で、賢治の作品にはこれがしばしば登場します。「比叡(幻聴)」とか「鬼言(幻聴)」というように、タイトルに「幻聴」という言葉の入った詩もありますし、友人の森佐一から雑誌掲載のための作品を求められた際には、「スケッチ二篇お送りいたします…幻聴や何かの入らないすなほなものを撰びました」と書いており、賢治自身もその体験を「幻聴」と自覚していたことは明らかです。

 精神医学の領域で、「幻聴」という症状が最も典型的に現れるのは、統合失調症という疾患です。このため、賢治が統合失調症に罹患していたのではないかという説を出した精神科医も過去にはありましたが、現在ではそのように考えている人はいないようです。
 賢治の作品に登場する幻聴を詳しく検討してみると、それは統合失調症において現れる幻聴とは、特徴が異なっています。上にも触れたように、賢治は自分の体験している幻聴が現実の声ではなく「幻聴である」と認識していましたが、統合失調症の場合は、本人はそれが自分だけに聴こえている幻聴とはわからず、本当に誰かがしゃべっているのだと信じてしまいます。また、統合失調症の幻聴の内容は、その人を迫害するような内容が大半で、それが種々の被害妄想に発展するのが一般的ですが、賢治においてはそのようなことはありませんでした。さらに、統合失調症の幻聴においては、本人にとって思いもよらなかった未知で意外な事柄が聴こえることがよくありますが、賢治の場合は彼自身の思考や表象と連続した内容でした。

 では、賢治が体験した幻聴を医学的にはどう理解したらよいかというと、上に挙げたような特徴は、いずれも解離性障害の人にしばしば認められる「解離性幻聴」と呼ばれるタイプの幻聴に、ぴったりと当てはまるものなのです。
 そこで以下では、解離というメカニズムによって、どのようにして幻聴という体験が起こるかということを、その現象の詳細な描写を含む「青森挽歌」という作品を題材に、考えてみましょう。

図24

(5) 「青森挽歌」における幻聴と複数の主体
 「青森挽歌」という詩は、賢治が最愛の妹トシを亡くした翌年に、トシの魂の行方を求める思いを胸に、サハリンまで一人で旅をした時の作品です。賢治の心には、妹の死をめぐって様々な思いや声が去来するのですが、賢治はその詳細を、実に緻密な手法で書き記しています。ここで、その方法の一端を見てみましょう。

 賢治が「青森挽歌」で用いた表記上の工夫の一つは、詩のテキストを構成する「地の文」の合間に、「一重括弧( )」および「二重括弧《 》」で括られた字句を挿入するという方法です。
 この記法の意味としては、「地の文」が作者の「顕在意識」を表し、「一重括弧」と「二重括弧」は、より深いところの「潜在意識」から由来する言葉を表していると、考えることができます。
 そのように考えられる理由は、「青森挽歌」で用いられているもう一つの表記上の工夫に関連しています。この作品では、テキストが書き出される位置が様々に「字下げ(インデント)」をされているのですが、この「字下げ」の深さが、顕在意識から潜在意識に至る「意識の奥深さ」に対応していると考えられるのです。これについて、具体的に見てみましょう。

 「字下げ」が最初に現れるのは、テキストの3行目「(乾いたでんしんばしらの列が…」からの一重括弧に括られた4行で、ここは頭から4字下げられています。その後もこれと同じく、「一重括弧」で「4字下げ」された字句が、10行目の「八月の…」および17行目からの「その大学の…」と、2ヵ所続きます。
 ところが、29行目の「(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)」は、それまでよりも1字浅くなって、「3字下げ」になっています。また、その後37行目からの「(考へださなければならないことを…」と46行目からの「(おゝ おまへ せはしいみちづれよ…」も、やはり「3字下げ」です。
 そして、60行目からの「(草や沼やです…」や、80行目の「《耳ごうど鳴ってさっぱり聞げなくなったんちゃい」に至っては、「2字下げ」になっています。すなわち、冒頭からこの箇所まで、「字下げ」はだんだんと少なくなってきているのです。この特徴的な文字配置には、どういう意味があるのでしょうか。

 私の考えでは、この「字下げの減少」の意味は、31行目〜32行目の「こんなさびしい幻想から/わたくしははやく浮かびあがらなければならない」という言葉によって示されていると思います。
 すなわち、ここで作者は、考えが意識の奥深いところに幻想的に沈み込んでしまっている状態から抜け出そうとして、自らを「浮かびあが」らせようと努めているわけですが、実際にこれに伴って自分の想念が、意識の表層部へと徐々に浮上してきている様子を、「4字下げ」→「3字下げ」→「2字下げ」という形で、ここに書き表しているのだと思うのです。
 つまり、字下げの深さは、意識の深さに対応していると考えられるのです。

 次に、「一重括弧( )」と「二重括弧《 》」の意味について考えてみましょう。既に述べたように、これらはいずれも作者の奥深い「潜在意識」から湧き上がってきている言葉だと思われます。そして、その口調や意味内容がかなり異なっていることから、両者は潜在意識の中でも別々の「場所」から発せられているのだろうと推測されます。
 それでは、一重括弧と二重括弧は、単にその「場所の違い」を表しているだけなのでしょうか。

 「青森挽歌」において、一重括弧の言葉を発している意識の「場所」に関する一つの情報は、37行目〜39行目の箇所から読みとれます。
 すなわち、ここでは「(考へださなければならないことを/わたくしはいたみやつかれから/なるべくおもひださうとしない)」と述べられていて、この言葉を発している主体は、自ら「わたくし」と名乗っているのです。この「わたくし」は、作品の「地の文」を構成している作者の「顕在意識」と同一の主体でもあり、この両者が心の中で位置する場所は、いずれも自我が「わたくし」として認識する場所、すなわち前半でご紹介した言葉で表せば「自我境界の内側」であると言えます。

 この状態を卑近な例に置き換えると、例えば顕在意識で「昼ご飯は何を食べようか」と思った時に、「ラーメンにしよう」「いやカレーの方がいい」とか、潜在意識からいろんな意見が出てくるということがあるでしょう。
 これらは、心の中のいろんな所から勝手に発せられますから、自分という一人の人間の気持ちでありながら、互いに相反するものもあるでしょうが、たとえラーメンであろうとカレーであろうと、それは「わたくし」の気持ちであることに違いはありません。その気持ちが「自分の中から」出てきていることが、自分でわからなくなるということはないのです。

 「青森挽歌」における一重括弧の言葉も、地の文より奥深い潜在的な意識の表現ではあるでしょうが、その主体は、「わたくし」なのです。そしてこの潜在意識は、心の中で「自己」として感じられる領域である、「自我境界の内側」に位置しているのです。

 しかし、二重括弧で括られたの言葉の様相は、これとは大きく異なっています。本文48行目に、「《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》」として、この作品で初めて二重括弧の表現が登場しますが、これに続いてすぐ49行目では、一重括弧の言葉が「いきなりそんな悪い叫びを/投げつけるのはいったいたれだ」と応答します。
 ここで明らかになっているのは、一重括弧の主体には、二重括弧の主体が「いったいたれ」なのか、わかっていないという事実です。一重括弧の主体にとっては、「《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》」という言葉は、「叫び」のように、「いきなり」「投げつけ」られるかのように出現したのです。
 すなわち、これは一重括弧の意識にとってはどこか知らない「外部」から到来した言葉として体験されており、精神医学的に言えば、これこそが「幻聴」と言うべき現象です。その言葉を発したであろう主体は、「自己」と感じられる領域の内部には存在しません。つまり、「自我境界」の外側からやって来たのです。

 これを、図を用いて説明してみましょう。下の(図25)で、顕在意識において「今日のお昼ご飯は何にしよう」と考えた時に、たとえば潜在意識Aは「ラーメンがいい」と言い、Bは「カレーが食べたい」と言うなど、潜在意識の方から浮かび上がってくる言葉があります。

図25
(図25)

 このように、自分の中で交わされる言葉のことを「内言」と言いますが、右図で「潜在意識A」と「潜在意識B」は、それぞれが「顕在意識」との間で内言をやり取りしているわけです。
 ここで重要な特徴は、ラーメンを推す意見もカレーを推す意見も、どちらも「自分の気持ち」であり、それらの言葉はあくまで「自分の内側から」やって来ていると、顕在意識は感じているところです。すなわち、潜在意識AもBも、「自我境界」の内側に位置しているのです。

 次に、「青森挽歌」のテキストの構造を見てみましょう。

図26
(図26)

 まずここでは、「地の文」が作者の顕在意識を表していると考えられます。また作者は「一重括弧」で括られた言葉を受け取りますが、この言葉を発する主体も、作者である「わたくし」の一部であり、これは顕在意識からは「内言」として、ラーメンの例と同じように体験されていることになります。すなわち、どちらの意識も「自我境界」の内側に位置しています。

 一方、「二重括弧」で括られた言葉は、「一重括弧」の潜在意識にとっては、誰がどこから発したものなのかわかりませんでした。すなわち、この言葉を発した潜在意識は、「自我境界」の外側に位置しているのです。

 そしてこれこそが、「解離性幻聴」という現象が起こるメカニズムなのです。
 一般に、解離性幻聴が最も顕著に現れるのは、「多重人格」の人においてです。この場合は、Aという人格が表に出ている時に、Bという別人格が裏の方で言葉を発すると、A人格にとってそれはまるで外部から誰かがしゃべっているように、「幻聴」として体験されます。
 他人から見たら、一人の人間の心の中で起こっている現象でも、Aという人格の自我境界の外部で起こっている言語活動は、Aとしてはまるで「外界」の現実の声を耳で聴いたように感じられるのです。

 賢治の場合は、多重人格のように心の中に明確な「区画化」が生じているわけではありませんが、前述のようにもともと自我境界が薄く曖昧で、自我感情の上下に伴いその境界線は大きくなったり小さくなったり(時に消滅したり)することがあったと推測されます。
 「青森挽歌」がスケッチされた夜汽車において、賢治は眠気も感じていたでしょうし、昼間の作業の疲労もあったようですし、亡くなった妹のことを思うと気持ちも憂鬱になったでしょう。これらが相まって、自我感情が低下し、自我境界も収縮したために、自己の精神活動の多くの部分が、自我境界の外に取り残される状態になったと推測されます。
 そうなると、その自我環境の外の部分で考えられたことは、顕在意識にとってはまるで自分の外界から聴こえてきた声のように、幻聴として体験されることになったのだと考えられます。

 前半で、「非自己」の海に浮かぶ「自己」の島、という断面図によってご説明したように、多くの人はもともと自我境界が明確であるために、自我感情が上下しても自我境界の範囲はそれほど変化しません。従って、一般の人が「幻聴」の体験をするのは稀なことです。例外的に、普通の人でも眠りに入る間際などには、たとえば自分の名前が呼ばれるような「声」が聴こえる体験をすることがあり、これは「入眠時幻覚」と呼ばれます。覚醒レベルが低下して、平素の自我境界がごく一時的に曖昧になってしまう際に起こる現象です。
 しかし賢治は、普段から自我境界が曖昧であったために、何かふとした要因によって自我境界が収縮すると、幻聴を体験することがあったのだろうと思います。それが、様々な形で作品に書きとめられたのでしょう。

4.賢治の解離傾性の高さ

(1) 正常解離と病的解離
 以上、賢治の作品に記載されている特異な体験は、「解離」という心的機制によって包括的に理解できるということを、ご説明しました。前半で詳しく述べた「自我境界の薄さ」という特徴も、解離という現象として理解できることですし、それ以外にも柴山雅俊氏が挙げておられる「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」などは、現在の解離性障害の人にもしばしば見られる現象です。さらにまた多くの賢治の作品に記されている「幻聴」も、解離性幻聴としてよく理解できることを、「青森挽歌」を題材として見てみました。

 それでは、賢治は「解離性障害」という精神の病気に罹患していたのかというと、そういうわけではありません。前述したように、解離という現象には、精神内部に「区画化」を伴うものと、「区画化」を伴わず「意識変容」と呼ばれるものと、大きく分けて二種類があり、前者は病的な状態において認められるのですが、後者は健常者にもしばしば出現するのです。前者は「病的解離」、後者は「正常解離」と呼ばれることもあります。
 たとえば、意識変容の一種である「トランス状態」や「憑依状態」は、古今東西において宗教と密接に関連しており、そのような状態は宗教的に意味のある体験と見なされることはあっても、医学的治療の対象となることはまずありません。

 賢治の作品等に記載されている解離現象も、いずれも種々の「意識変容」の体験であり、「正常解離」として健常者にもよく起こるものです。賢治の作品や伝記的事項を見るかぎり、それ以外に明らかに病的な所見は認められず、結局これらの体験は、あくまで健常人に出現した解離現象だったと言えます。
 ただ、この種の体験は一般人にも認められるとは言え、本日も賢治の多数の作品から引用したように、彼がこれほど目まぐるしい体験を日常的にしばしばしていたとなると、やはりこれは稀有なことと言えます。

 医学的に正常範囲の解離現象であっても、それを頻繁に体験しやすい人から、ほとんど体験しない人に至るまで、かなり広い個人差があることが、わかっています。そして、解離現象を体験しやすい人のことを、「解離傾性が高い」と言います。
 この用語を使えば、「賢治は解離傾性が人並み外れて高い人だったのではないか」ということが推測されるわけですが、次にはこれについて考えてみたいと思います。

 現在ならば、解離傾性の高さを測定するための心理テストなども開発されているのですが、今となっては賢治にそういうテストを受けてもらうこともできません。
 しかしここで、賢治をめぐるある一つのエピソードが、この問題に対して興味深い示唆を与えてくれています。

(2) 「静座法」と催眠現象
 賢治は、盛岡中学の生徒だった16歳の時に、寄宿舎の近くで「霊磁療法院」なるものを開いている佐々木電眼という人に「静座法」を習うという体験をしています。この時、電眼氏の指導のもとに「静座」を行うと、「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態になったという旨を、父親に手紙で報告をしています。
 さらに賢治は、この「静座法」あるいは佐々木電眼という先生によほど心酔したのか、次の休みには電眼氏をわざわざ盛岡から花巻の自宅に連れてきて、父親と妹にも静座法を受けさせます。すると、「トシは見る間に催眠状態になったが、父親はいつまで経っても平気で笑っていた」ということです(宮沢清六『兄のトランク』)。

 さて、名前からしても何とも怪しげな電眼氏ですが、彼が賢治に指導した「静座法」とは、いったいどんなものだったのでしょうか。
 いろいろと当時の資料を調べてみると、賢治が行った「静座法」とは、1904年(明治37年)に岡田虎二郎という人が創始した、「岡田式静座法」だったと思われます。
 そのように推測される理由の一つは、この岡田式静座法は、全盛期には会員2万人を擁し、東京の百数十ヵ所で「静座会」が開かれるほどに隆盛を極めていたということにあります。
 さらにもう一つ、より興味深い特徴として、この岡田式静座法を行っている人は、座っているうちにしばしば「勝手に身体が動く」という状態に至ったと記されているからです。これは、賢治が記している「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態に相当すると思われるのです。

図27

 この現象について、当時の岡田式静座法の解説書である『岡田式静坐三年』(岸本能武太)という本には、次のように書かれています。

此の身體の動揺には、色々種類がある。手を動かす人もあれば、頭を動かす人もある。肩を動かす人もあれば、腰を動かす人もある。頭の運動にも、或は前後に或は左右に、種々の運動がある。手の運動にも、その通りで、縦に振るものもあれば、横に振るものもあるが、握り合せた儘の兩の手で、下腹をポンポンと打つのが、最も普通の形である。或は端座の儘で、にじり廻る人もあれば、ピョンピョンと飛び廻る人もある。懸け聲を懸けて叫ぶ人もあれば、又妙な聲を出して唸る人もある。其れも三十分なり一時間の間、同じ運動を反復する人もあれば、運動を種々様々に變更する人もある。忽ち静かに、忽ち騒がしく、いまは石地蔵の如く、次には夜叉の如く、千態萬状の動揺を演ずるは、是れ實に静坐會の實況である。

 岸本氏はこのような「静座会」の様子について、「多くの人々が頭を振つたり手を動かしたり、色々様々に身體を動揺して居るのを見ると、如何にも狐つきの寄り合ひの如く、氣違ひの集會の如く思はれる」とも述べていて、これはさぞかし壮観だったろうと思われます。

 これらの「動揺」現象について、岸本氏は『岡田式静坐法の新研究』という本の中で、「自分が意志の力で、勝手に身體を動揺させるのではなく、意志に關係なくして、身體が自然に振動する」こと、また「岡田式に於ける身體の動揺は無意志ではあるが、無意識では無い」ということを記しています。
 このような特徴を持った現象が、医学的にどう解釈されるかと言いますと、これは自己催眠現象の一種である「部分自動症」という状態の一種だったのだろうと推測されます。他に「部分自動症」の例としては、ペンを持ったら自分の意志と関係なく勝手に文字を書いてしまうという「自動筆記」という現象(宗教的な文脈では「お筆先」「神がかり」とも呼ばれる)や、昔子供たちの間で流行った「コックリさん」という遊びも、これに相当します。

 ということで、賢治が静座中に呈した「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態は、このような自己催眠現象だったと推測されるのですが、これは他の人が静座を行った場合の反応と比べると、どうだったのでしょうか。
 荒井倉三郎という医学士が1917年(大正6年)に著わした『實験 岡田式静坐法』という本には、「親しく岡田氏の指導を受けて、熱心に静坐を行つて居る人々の中にも、身體動揺の現象は、二三日にして起つた人もあれば、既に三年餘も熱心に行つて居ても些しも起らない人もある」ということが記されています。すなわち、「身体動揺」が早く起こる人の例として、「二三日」という期間が挙げられているわけです。
 となると、賢治が静座の指導を受けた初日に、「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態になったというのは、一般的に言って相当早い部類の属するのではないかと推測されます。

 すなわち、この「静座法」のエピソードから、「賢治は催眠感受性がかなり高い人だった」ということが推測されるわけです。

(3) 解離傾性の高さとその表れ
 一方、これまでの様々な実験によって、「催眠感受性と解離傾性は強い相関がある」ということがわかっています。つまり、催眠術にかかりやすい人というのは、解離現象も起こしやすいというわけです。
 これを前節の推定と併せると、賢治は、解離傾性もかなり高かっただろうということが、間接的に導かれます。

 となると、これは先ほどまで賢治の作品や人となりを見ながら考えてきたことと、一つにつながったわけです。
 彼に特有の表現を生んだ「自我境界」の薄さや、「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」「幻聴」などの所見は、医学的に言えば、彼が「解離現象を起こしやすい人だった」ということから来ている考えることができます。

 このことを足場にさらに連想を広げてみると、賢治は何かに感動すると目の前にいる人のことも忘れて「ホッホー!」などと叫んで走り出すということがしばしばあったということですが、こういう風に何かに心を奪われると他のことが眼中になくなり「心ここにあらず」という状態になることを、心理学的には「没入absorption」と言います。解離傾性の高い人は、この「没入」状態になりやすい傾向もあることがわかっています。
 また、自然に自分の中でどんどん空想を膨らませていて、気がつくとお話の世界に浸りきっている、というような状態になりやすい人のことを、「空想傾性fantasy pronenessが高い」と表現しますが、解離傾性はこの空想傾性の高さとも、相関していると言われています。賢治の作品世界の、あのファンタジーの豊かさを思うと、これも彼が生来の特性として、持っていた傾向だったのでしょう。

 「解離の起こしやすさ」という特徴は、賢治の人となりとして伝えられている様々な特徴とも、関連している可能性があるのです。

5.統合し制御する精神と解離し浸透する精神
 以上、宮沢賢治という人の心性の特徴について、精神医学的な視点も交えつつ、あれこれ考えてみました。
 賢治が、時に自己と世界が渾然と一体化するような恍惚を体験したり、また別の時には自己が消滅するような感覚を持ったり、また幻聴や幻視をはじめ様々な特異体験をしたり、ふと何かに没入してしまったり、ファンタジーの広大な翼を持つ人であったりしたということは、「解離」という人間の心性の一つの傾向が、様々な方向性において表れたものとして、理解することができるのではないかと思います。

 あと最後に、このように賢治において典型的に示されているような「解離」という人間の心性が、現代社会の中ではどのような意味合いを持っているのかということについて、考えておきます。

 「解離傾性の高さ」と関連した上記のような特徴は、周囲に対する感受性の強さや、環境から容易に感化されそれと一体化する傾向と、関連しています。
 しかしこれは、人間が能動的であろうとして、そのために「自己」というものを一貫して変わらず保ち、自己に合わせて環境を操作しようとするならば、そのめざす方向性とは、反対を指向するものです。

 話の冒頭で、「人間という生き物は、世界の中に様々な垣根や境目を作りながら生きている」ということを申し上げましたが、個人や組織を守り、周囲の影響に流されずに何かを達成するためには、自らのアイデンティティを保つための「境界線」を、しっかりと維持している必要があります。そして有能な個人や組織たるものとしては、環境からの入力情報を可能な限り集めて処理し、その状況における最適解を求め、その結果をやはり統制のとれた手段で出力することが、すべからく求められます。
 ここで、このようなタイプの適応戦略のことを、「統合し制御する精神」と呼ぶことにしてみましょう。

 19世紀から20世紀にかけて人間は、科学技術という統合的アプローチを用いて、自らを取り巻く環境を制御することに邁進し、輝かしい成果を収めました。日本では、明治維新以来「富国強兵」というスローガンのもとに国の力は集中され、第二次大戦後は「高度経済成長」がその目標に取って代わりました。
 このような精神が支配的である状況下では、「臨機応変」であるよりも、一貫して「ブレない」ことが評価され、自由奔放に行動するよりも、秩序だった動きの方が善しとされます。

 一方で、たとえば先の大震災の直後のような状況では、物や情報を流通させるための既存のラインは切断されてしまいますから、組織的あるいは統合的な活動は、麻痺してしまいます。各避難所に個別に送られてきた物資を、公平性の確保のためにいったん中央に集めてから再配分するなどというやり方は愚の骨頂ですし、何をするにも一々中央の指示などを待っていては埒が開きません。中央が事態を制御するのではなく、全ての末端において、個々に柔軟に臨機応変に、対処していくしかありません。
 ここでは、統合されているよりもバラバラである方が効率的であり、物や情報は中心部へではなく周縁部へと向かって行くことが求められます。
 このようなタイプの適応戦略のことを、「解離し浸透する精神」と呼ぶことにしましょう。

 「統合し制御する精神」と、「解離し浸透する精神」。
 相当わかりにくい呼び方で恐縮ですが、その趣旨は、一般に人間の精神活動の方向性として、このように互いに反対を指す二つのベクトルがあるのではないか、ということです。
 この二方向の精神は、どちらが正しいとかどちらが優れているとかいうものではありません。人間やその組織が動いている時、これらは互いに補い合って、「車の両輪」のように機能しているとも言えるでしょう。

 ただこれら二つは、相補的な関係にあるとしても、ある時代や状況においては、一方どちらかが優勢になるということはありえます。先に述べたように、「富国強兵」とか「高度経済成長」というような局面では、「統合し制御する」という指向性が重視されただろうと思います。
 一方、大災害後のような非常時には、「解離し浸透する精神」の方が価値を持つのではないかということを述べました。そう言えば、あの大震災の後に、全国的に宮沢賢治の作品や生き方が注目を集めるという現象がありましたが、これは単に賢治が東北の出身だったからというだけではなく、何か彼の人となりが、震災後の人々の共感を集めるところがあったからではないでしょうか。
 震災によって、私たちが平常時に依拠している考えや行動の基準が崩れたかに見えた時、人々は無意識のうちに、今回お話ししたような賢治独特の心性に、何か貴重な示唆を感じとったのではないでしょうか。

 下の(図28)には、「統合し制御する」という方向性と、「解離し浸透する」という方向性の、それぞれに関連すると思われる属性を、思いつくままに挙げてみました。

図28

 左側に並んでいるのは、概ね平常時における人間の生産的・建設的な活動に関係しているような属性です。左側のように、確固とした目的を持ち、周囲に流されず継続的に力を蓄え、その力によって周囲の環界をコントロールし変えていく人は、たいていの社会において評価されるでしょう。

 しかしこれとは逆に、自分が世界に対して何かを「成す」よりも、世界の豊かな恵みを「享受する」ことを喜び、環界を変えるより自らが変わることを尊び、己を開いて全ての存在を平等に受け容れる、という生き方もありえます。それは、物質的な「モノ」を生み出すわけではないかもしれませんが、これはまた目には見えない価値に満たされた「生」だと思います。
 そして、そのような方向性を代表する先達が、私にとっては賢治なのです。

 宮沢賢治という人は、生活の実用的な側面においては、あまり何かをきちんと達成したわけではありませんでした。長男として質屋の家業を継ぐよう親から求められながら、自分には才能がないと言って逃げてしまい、学校の教師も4年で辞職、百姓として働きながら農民との文化共同体を作ろうとした企画も、2年で頓挫しました。石灰肥料の技師兼セールスマンという最後の仕事も、数ヶ月しか続きませんでした。
 人並み外れた知性に恵まれながらも、それを一つの目標に集中するということはせず、「ブレない生き方かどうか」で評価するならば、落第点を付けざるをえないような人生でした。

 けれども私たちは、宮沢賢治という人は、そのような尺度で測れる存在ではないということを、知っています。彼が生きた方向性は、当時や現代の社会における支配的な価値観とは、対極的とも言えるものでした。
 そのために彼は様々な苦難に直面したわけですが、逆に社会の方が困難にぶつかっている局面においては、賢治が残した足跡や作品は、私たちに深い示唆を与えてくれるのではないでしょうか。宮沢賢治という人は、科学を学び、それを生かして世の中を変えようと模索した人でもありましたが、その人間性の奥底には、そのような近現代の価値観とは対極的な、別の重要な方向性を胚胎していたのだということを、私はあらためて強く感じています。

 賢治のそのような側面について、言葉で適確に表現するのはなかなか難しく、今日も何とか説明をしてみようと試みたのですが、やはりまだ力が及ばなかったようです。
 本当にわかりにくい話になってしまいましたが、長時間ご清聴をありがとうございました。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
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2014年12月14日 9月に比叡山でお話ししたこと(1)

 この9月に比叡山延暦寺で行われた賢治忌法要が行われた後、記念講演としてお話をさせていただいた内容を、ここに掲載しておきます。この話は、8月に東京の宮沢賢治研究会で発表させていただいたものと、概ね同じです。
 ちょっと長いので、今回はその前半部です。

0.はじめに

 今日は宮沢賢治さんの命日ですが、賢治さんゆかりの比叡山延暦寺において、この貴重な機会にお話をする機会を与えていただき、大変光栄に存じます。

 私は、普段は精神科の医者をしておりまして、全然宮沢賢治と関係ないことを仕事にしています。ただ、賢治の作品が子供の頃からとても好きでしたので、昔から彼の作品をあれこれ読んだり、また賢治ゆかりの地を訪ね歩いたりしていました。
 これらの趣味的な活動は、仕事とは関係なくやっていたのですが、一方で賢治という人について、彼は普段どんなことを考えていたんだろう、どういう思いでこの作品を書いたんだろう、とかいろいろ考えていくうちに、どうしても自然に精神科医という立場、職業的な視点からも考えてしまうところがありました。今日は、そういう中から出てきたお話をさせていただこうと思います。

 宮沢賢治という人は、一方では本当に努力の人、刻苦勉励の人だったと思います。亡くなる2-3日前にも、農家の人が肥料について相談に来た時に、すでに重篤な病状であったにもかかわらず、また家族が止めたにもかかわらず、長時間その人の相談に乗って、それが死期を早めてしまったのではないか、という話もあります。そういう風に、自分の命さえ省みずに「人の役に立とう」という仕事をした人ですね。とことん自分の力を振りしぼって、多方面の活動に邁進しました。
 しかしその一方で宮沢賢治という人は、ありきたりの言葉ですが、まさに「天才的な感性」を持った人でもありました。どうしてこんな風な言葉が書けるんだろう、どうしてこんな角度から世界を見ることができるんだろうとか、不思議なところが一杯あります。今まで他の人が全く使わなかったような言葉で世界を描写しつつ、またそれが「言われてみれば確かにそうだなあ」という感じの表現でもあって、このあたりになると単なる「努力の人」という範疇を超えて、まあ本当に常人離れした感性としか言いようがない部分が、どうしてもあるように思います。
 賢治ももちろん、私たちと同じように悩み、苦しみつつ生きた人ですが、このように他の人とちょっと違う形で世界が見えたり、物事を感じたりしていた部分もあるのではないか。いろいろな作品を読んでいると、私としてはどうしてもそういう感じがするのです。
 そういう部分について、今日は少し精神科医としての立場もまじえて、考えてみたいと思います。

1. 震災の夜に思ったこと

(1) 「世界ぜんたい幸福にならないうちは…」の本当の意味
 あの震災の夜のことから、話を始めさせていただきます。
 皆さんもいろんなところで3年半前の震災を体験されたと思いますが、私は京都におりました。このスライド(図1)は、震災の夜にNHKテレビで放送されていた映像です。

スライド1
(図1)

 3月11日の20時12分と書いてありますね。自衛隊のヘリコプターから、気仙沼市のあたりを撮影したもので、気仙沼市一帯が、このように津波に襲われ火事が起こって、炎に包まれています。私は震災の夜に、この映像を、まさに茫然として見ていました。
 「いったい何でこんなことが起こるんだろう」という以外に何の言葉も出ず、途方もない衝撃を受けていました。そして、いろんな思いが心の中で渦巻きました。
 一つは、これだけのことが東北地方で起こっているのに、今、自分は安全な場所でテレビを見ている。自分はここでこんな風に傍観していていいんだろうか、という気持ちにとらわれました。今まさに、たくさんの人が、これだけ大変な目に遭っているのに、自分だけがぬくぬくと暖かい部屋にいて許されるんだろうかなど、何か自分が被災者の人々に対して限りなく申しわけないような、一種の「罪悪感」が湧きました。
 それからもう一つは、自分に何かできることがあれば現地に行きたい、でも行くこともできない、今行っても大した役に立つこともできないという、自分に対する空しさを感じました。これだけのことが起こっているのに、自分には何もできないという、底知れない「無力感」です。

 こういう気持ちに渦のようにとらわれながら、私は茫然とテレビを見ていたのですが、この時ふと私の心には、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、浮かびました。これは賢治の「農民芸術概論綱要」という草稿の中にある言葉なんですが、なぜかこれが浮かぶとともに、私はこの言葉の本当の意味が、この時初めてわかったような気がしました。
 この言葉は、宮沢賢治が書き遺したものの中でも有名なもので、いろんなところでしばしば引用されます。これはとても賢治らしく、美しく崇高な言葉ですが、ただそれまで私にとっては、あまりにも自己犠牲的に思えて、ちょっと「しんどい」感じもしていました。
 この言葉は、「全体が幸せにならないうちは、自分個人が幸せになってはいけない、自分はならないんだ」と言っているように聞こえますし、あるいは「個の幸福」よりも「全体の幸福」が優先すると解釈すれば、「全体主義」を思わせるところもあります。ですから以前の私にとっては、これはとても立派ではあるけれども、一方で息苦しくも感じたのです。もしもこれを皆でスローガンのように奉じるとしたら、かなり抵抗感もありました。

 それが、たまたまこの震災の夜にテレビを見ている時に、この言葉の本当の実感というか、今までは分かっていなかったその意味が、ありありと自分に立ちのぼってくるように感じたのです。
 私のその時の感覚を言葉にすると、「この全ての被災地の、全ての被災者にに安寧が訪れないかぎりは、私自身の安寧もあり得ない」、というような感じでした。今思えば何とも力み返ったような考えですが、実際この晩には、そんな感じがしていたのです。そしてこれが、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉への連想に、つながりました。

 そこではたと気づいたのは、宮沢賢治という人は、まさに今の自分のような気持ちを終生にわたって抱えつつ、生きた人だったのではないかということでした。つまり、私のような凡人は、大震災の夜という非常事態に置かれて、そこで初めて普段と違う感覚で、自分と世界との間のこのような特別な関係を感じとり、それはまた時間とともに薄れていってしまうのですが、実は賢治という人は、普段からいつもずっとこういう感覚で、生き続けていたのではないでしょうか。

 そう考えれば、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉の意味するところが、私のような者にも具体的に実感できると思いました。

(2) 震災によって現出した「一体性」

 ではなぜ私は、ほかならぬ震災の夜に、こういう「宮沢賢治的」な仕方で、この「自分と世界との特別な関係」を、感じとることができたのでしょうか。
 私の考えるところでは、この賢治的な感覚が私に現れた原因は、震災や津波という莫大な自然の力が、人間が普段この世界に張りめぐらしている「境界線」というものを、一気に取り払ってしまったからだと思います。

 人間という生き物は、この世界の中に様々な垣根を、あるいは境目を作って生活しています。例えば、野原の中では雨も風もあり、寒かったり暑かったりしますから、人は「家」というものを建てて、屋根や床や壁で外界との間に境界を作り、自分たちが暮らしやすい環境を作って生活をします。しかし今回の震災では、そういう家々が地震で崩れ、津波で流されてしまったために、人は境界のない大自然の中に、いったん裸で投げ出されてしまいました。
 また人間は、海辺や川岸には、海や川の水を防ぐための「堤防」を築いて、人間の生活空間を守ってきました。しかし、これも津波によって押し流されてしまい、海と陸との境界が消滅してしまいました。
 さらに原子炉の圧力容器や格納容器というのは、生物にとって有害な放射能が周囲に漏れ出さないように本来は作られているものですが、これも震災と津波によって破壊され、原子炉の内部と外部の境界が一部で失われたために、今も続く深刻で悲惨な事態が起こりました。

 以上は、物理的な境界線に起こった出来事です。しかし問題は、物理的なものだけにとどまりません。
 震災や津波から避難してきた人々は、かなりの期間にわたって体育館などに設けられた「避難所」で生活することを余儀なくされました。そこでは、普通の住宅にあるようなプライバシーは保てず、全ての人々が分け隔てなく一体となって生活するしかありません。ここでも、普段の社会生活にある「境目」が、消滅したのです。
 また私が、被災地から遠く離れた場所で、見知らぬ人々に対して、「被災した全ての人々に安寧が訪れないかぎり、私自身の安寧もあり得ない」というようなことを思ったりしたのも、普段は物理的な距離や縁の薄さに隔てられている東北地方との間の「境界線」が、いったん心理的には消滅してしまったことによるのでしょう。
 震災と津波が、人間が普段設けている様々な「境界線」を一時的に消滅させてしまったというのは、こういうことです。

 人間が、物理的に自分の生活空間を守るためだけでなく、「プライバシー」という形で自分と他人の領域を分けて暮らしたり、ある程度までは「他人のことは他人のこと」として気にしないようにして生活しているのは、各々の心の安定のためでもあります。「この世の全ての人のことを、我がことのように考えましょう」というのは、建前としてはその通りですが、あまり他人の心配ばかりしていたのでは自分の身が持たないので、普段はみんな自分と他人との間には、一定の線を引いて暮らしています。
 そのような境界線が、震災によって一時的に失われると、人々は非日常的な「一体性」を獲得します。被災地から離れた場所でも、普段は仕事に追われている人が休みをとって被災地にボランティアに行ったり、これまで寄付などしたことない人が義援金を寄せたり、そのような姿が、全国のあちこちで見られました。普段から、事件や事故で人が亡くなったというニュースは数限りなく報道されていても、大震災はそれらとは違い、多くの日本人にとって「他人事」ではなかったのです。「これは皆で何とかしなければならない」という思いが、少なくともある時期までは、日本全体で共有されていたと思います。

 そして、私が先に「賢治的な感覚」と呼んだものの正体が、まさにこれなのだと思います。この感覚の中では、世界は様々な境界によって区切られてはいません。「個を超えた、世界との一体感」があります。
 一般人が、震災のような特別な非日常的状況において獲得するこの感性を、宮沢賢治という人は、いったい何の因果か、いつも常に身にまとい続けていたのではないかと、私は思うのです。その感覚のやむにやまれぬ表現が、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉だったのでしょうし、賢治の他の作品を見ても、彼が常々こういう風に感じていたということが、いろいろな形で表れています。

スライド4
(図2)

(3) 賢治作品に見る「個を超えた一体性」

 先に引用した「農民芸術概論綱領」の中には、「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」という言葉もあります。人間やいろいろな生き物が、別個にばらばらに存在しているのではなくて、一つの生き物になっていくということで、これも「個を超えた一体性」を表していると思います。

 あるいは、「小岩井農場」という詩は、賢治が広大な小岩井農場を訪ねて歩いている時の心象を描写したものですが、その中に、「ちいさな自分を劃ることのできない/この不可思議な大きな心象宙宇のなかで・・・」という一節があります。この宇宙全体に比べて、自分なんて小さなものですが、その宇宙における「自分」という存在は、他からそれだけを区切って取り出せるものではない、と言うのです。この小さな自分は、たとえちっぽけでも孤立しているわけではなくて、実は大宇宙と一体であるということが、「小岩井農場」のこの箇所で描かれていると思います。

 そして私が考えるには、これが大事なところなのですが、賢治にとってはこのような言葉で描かれている事態は、詩的修辞や想像力の産物ではなくて、本当に自分の実体験として、理屈抜きに感じていたことなのだと思うのです。
 賢治は自分の作品のことを「詩」と呼ばれるのを好まず、自ら「心象スケッチ」と呼んで、「ありのままをその通りに書いた」ということをあちこちで述べていますが、上のような感覚こそが、賢治にとって「ありのまま」だったのだと思います。

 結局、冒頭でご紹介した、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉の趣旨は、「個人の幸福よりも全体の幸福が先にあるべきだ」とか、「全体の幸福が実現されるまで個人は幸福になるべきではない」というような「べき論=当為」ではなくて、賢治にとってはまさに「あり得ない」という、不可避の「事実」だったのだと思います。「そうあるべき」とか「理想論」とか「信念」として言っているのではなくて、「望むと望まざるとにかかわらず、世界とはこのようなものだ」という、彼にとっての事実をありのままに述べたにすぎないと思うのです。
 喩えて言えば、人間の体というのは文字通り「一体」ですから、体全体は病気なのに、その中の一本の指だけが幸福であるということはあり得ません。体が全体として健康で平穏であって、初めて一本の指も、安寧でいられます。これと同じ意味で世界は一体のものであるというのが、賢治の基本的な認識だったのだと思います。

 先ほどの賢治忌法要において、延暦寺の横山照泰師の法話をお聞きしましたが、その際に「自他不二」という言葉をお教えいただきました。その意味は、「自己と他者は二つではない、一つである」ということでしたが、これはまさに今ここで申し上げているように、「自己と他者は別個にではなく、一体となって存在している」という宮沢賢治の感覚を、図らずも表現してくれている言葉だと思います。

2.賢治の心性と作品の特異さ

(1) 自己と世界の一体感の由来=自我境界の薄さ

 ということで、宮沢賢治には独特の「自己と世界の一体感」があったのだろうということを申し上げましたが、ではこの「一体感」というのは、いったいどういう性質のものなのでしょうか。私自身、精神科の医師という立場からも、これは関心を引かれる問題でした。

 この「自己と世界の一体化」とは、自分と他者との間の境目が薄らぎ、自分と他者、あるいは自分と世界とが、一体となり融合しているということですが、これと同じ感覚のことを、ロマン・ロランというフランスの文学者は、「大洋感情」という言葉で呼びました。
 ロマン・ロランは、「宗教の本質は何か」という問題について、精神分析学の創始者であるフロイトとの間で書簡を交わして議論をしたことがあるのですが、これはその往復書簡の中に出てくる言葉です。
 ロランよれば「大洋感情」とは、広い海のように「限界がない感覚」だということです。たとえば、自分が海に浮かんでいて、自分と海との間の境目がいつしか溶けてしまい、どこまでが自分でどこからが海という区別もなくなり、自分が広大な海そのもの(あるいは世界全体)に一体化している感覚、と言ってもよいでしょう。ロランはまたこれを、「永遠なるものの感覚」とも表現し、これが全ての宗教の根源にあると考えました。

 これに対してフロイトは、より即物的な自然科学的な立場からこの「大洋感情」を分析し、この感覚は、乳幼児期のまだ自他が未分化な段階への「退行」であると考えました。
 これについてちょっとご説明すると、生まれたばかりの赤ん坊というのは、「自分」と「他人」とを区別する認識を、まだ持っていないのです。まだ目の見えない赤ちゃんは、お腹が空いたら泣いて、すると口のあたりにおっぱいが現れるので、それを口に含んで吸ったら満たされる、ということを日々繰り返していますが、ここに現れるおっぱいというのは母親のもので「自分の一部ではない」とか、この口や自分の泣き声は「自分のものだ」とか、そういう区別はまだできないのです。そのうちに、一般に生後6ヵ月くらいになると、自分が自由に動かせる手足は「自分の一部だ」という感覚を持つようになり、一方で自分の自由にならないおっぱいや、その他のいろいろな外的存在は「自分ではない」ものだと認識するようになります。「自他の区別」ができるようになるのです。

 精神分析学の言葉ではこのことを、自己と他者との間に「自我境界」が形成されていく、と言います。文字通り、自分とそれ以外の存在との間に存在する見えない「境界」のことです。赤ん坊は、成長とともに徐々に「自我境界」を獲得していき、間もなく自分と他人の区別を間違えるなどということはなくなります。
 しかし一方で、大人になってからも時に幼少期の感覚が甦って、まるでその頃の段階に戻ったかのように感じたり振る舞ったりすることがあり、これを「退行」と言います。フロイトは、「大洋感情」を体験している大人は、まだ「自我境界」が形成されず自他が未分化だった乳幼児期へと一時的に「退行」して、自分と自分以外の存在が区別されず一体となっていた、太古の感覚を体験しているのだと考えました。

スライド6
(図3)

 大人においても「自我境界」が曖昧になってしまうような例として、フロイト自身が挙げているのは、恋人同士のような特別に親密な関係です。もちろん恋人のそれぞれも、各自が別の人格であるという自覚はありますから、自我境界が完全に消滅しているわけではありませんが、相手の喜びを自分の喜びと感じ、自分と相手の思いを重ね合わせようとするうちに、どこまでが自分でどこからが相手なのか、自他が渾然一体となる感覚が生まれるのです。ここでは、自我境界が薄くなってしまっています。
 母親と赤ん坊という関係においても、同じようにお互いがお互いの一部であるかのように感じつつ、生きている面があります。これは、子供が小さな赤ん坊である間は正常なことですが、子供が成長してからもこのような関係が続いてしまうと、その自立を阻害することもあります。
 また、大型のトラックなどを運転している時に、人間は気持ちが大きくなるということが言われます。この場合は、運転者の「自我」が自動車の大きさまで拡大しているということなのかもしれませんね。

スライド7
(図4)

 ということで、自己と世界とが一体化しやすかった宮沢賢治という人は、この言葉を用いて表現すれば、「自我境界が薄い人」という風に言うことができます。

(2) 自己の拡大・消滅

 さて、宮沢賢治という人が、普通の人よりも自我境界が薄かったとして、ではそれは彼の世界観に対して、どんな影響をもたらしたのでしょうか。

 「自我境界」というのは、「自己」とその外界との間を隔てている境界面というわけですから、それが「薄い」ということは、「自己と外界との区別が薄い」、ということになります。

スライド8
(図5)

 上のスライドのように表せば、「自己」というのは、この世界に浮かぶ一つの「島」のような存在です。周りを取り囲んでいるのは、自分ではない存在=「非自己」ですから、「自己」というのは、「非自己」という海に浮かんでいる島のようなものだとも言えます。
 上の(図5)では、「自己」と「非自己」との間には実線の境界線があり、両者は赤色と白色ではっきりと区別されています。これに対して下の(図6)では、自己を囲む線が点線になって「稀薄化」しており、その色としても、「自己」と「非自己」との差は、薄くなっています。

図6
(図6)

 次に、この「島」のように「非自己」の海に浮かぶ「自己」を垂直面で切ったと想定して、その断面図を考えてみます。
 下の(図7)が、その断面図です。

図7
(図7)

 これは一種のグラフのようなものと思っていただいたらよいのですが、横軸は、この「世界」の空間的広がりを表しています。縦軸は、右端に小さく書いてあるように、「自我感情の強度」というものを表しています。この「自我感情」という言葉について、少しご説明をしておきます。

 「自我感情」とは、「自我エネルギー」と呼ばれることもありますが、これもフロイトの言葉で、個人が、自分の「自我」に対して供給しているエネルギーのことです。
 と言っても何のことかわかりにくいと思いますが、人間は誰しも自分自身のことを「自分という存在」として自覚し、守り、支え、動かしています。そして、その活動を支えている動力として、何らかの「心的なエネルギー」が働いていると想定してみることができるでしょう。
 もちろん、これは外部から物理的に測定できるようなエネルギーではなくて、一種の比喩的な想定ですが、たとえば「自尊心」というのは、そのエネルギーのわかりやすい表現の一つです。自尊心を感じている時、人は自分で自分に対して、ある種のエネルギーを供給しているのです。このように明白な形だけではなくて、基本的には自分という存在が、この机や椅子や外界とは異なって、自分にとって唯一無二の「自己」として浮き出して感じられるのは、自分という存在に対して特別なエネルギーが供給され、自己としての特性を帯びているからなのです。

 一般に人間の活発さというものが、気分や体調によって高くなったり低くなったりするのと同じく、自我感情も、時により増大したり減少したりします。自我感情が高揚した時には、自分に力がみなぎり、自信にあふれて何でもできそうに感じたりもしますが、逆に自我感情が低下した時には、自分が取るに足りないちっぽけな存在に思えたりします。
 石川啄木の短歌に、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買い来て/妻としたしむ」というものがありますが、これなどは「自我感情の低下」の様子を表現している好例だと思います。もっともこの時の啄木は、妻だけは自分を支えてくれるだろうと思える程度には、まだしも自我感情が保たれていいたことが救いだったわけで、かりにそれがもっと低下しておれば、「妻からも軽蔑される」と感じたかもしれません。
 同じ頃の啄木には、「おほどかの心来れり/あるくにも/腹に力のたまるがごとし」とか、「腕拱みて/このごろ思ふ/大いなる敵目の前に躍り出でよと」という短歌もありますが、こちらの方はかなり自我感情が高揚した時のものでしょう。

 このような「自我感情」というものをグラフにしてみると、(図7)のように、この世界の中で「自己」が存在している箇所では、「これは私である」という自我感情がぐっと高まり、自己から離れると、すぐに低下する、という形になります。
 スライドの中央あたりの赤い水平線を境に、上が「自己」、下が「非自己」と書いてありますが、これが「島」にとっての「海面」のレベルを表しています。海面上に出ている部分が、その十分に強い自我感情によって「自己」と感じられる場所であり、水面下に没しているのは「非自己」です。
 そしてこれは全体として、非常に急峻な岩礁が、海面上に突き出ているような断面図になっています。この急峻さは、「自己」と「非自己」の間には自我感情の大きな落差が存在しているという一般的な事実に対応しているもので、言い換えればこれは、「自我境界が明確である」ということを意味しています。これが、自我境界の明確な、一般成人の「自己」の存在様式です。

 さて、このような「自己」において、「自我感情」が高まるとどのようなことが起こるでしょうか。それを表してみたのが、下の(図8)です。

図8
(図8)

 ここでは「島」が全体として地殻上昇して、より高く海面上に突き出ています。自己の内では高揚感や能力感がかなり高まっているわけですが、(図5-6)のようにこの「島」を上から眺めると、それが海面において占める面積は、さほど大きく変わってはいません。この図では、岩礁の根元の方が太くなっているために、少しだけ面積は大きくなっていますが、それでも高さの変化に比べたら微々たるものです。

 次に、逆に「自我感情」が低下した場合の様子が、次の(図9)です。

図9
(図9)

 「島」は、下の方に沈下して、その高さはかなり減少しています。少し波が高くなると、島の中心部にもしぶきがかかりそうです。
 しかし、この場合も「島」の面積は、さほど変わってはいません。上の場合と逆に、少しだけ小さくなってはいるでしょうが、それでも高さの変化に比べると、さほど大きな違いではありません。

 すなわち、「自我境界」が明確である場合には、「自我感情」が変化しても、「自己」の範囲や大きさは、さほど変化しないのです。これはまあ当然のことで、一般の大人は、心的なエネルギーが増大したり減少したりしたからと言って、自分そのものが大きくなったり小さくなったりしたように感じるわけではありません。

 一方これに対して、「自我境界」が稀薄化し、曖昧になっている場合を図にしたのが、下の(図10)です。

図10
(図10)

 先ほどと何が変わっているのかと言うと、「島」は低く、「海」は浅くなり、その高低差によって表していた「自己」と「非自己」の落差が、狭まっているわけです。
 このように形が変化しただけでも、「島」は波のしぶきをかぶりやすくなっているわけで、これは「自己」の中心部までもが、周囲の環境の影響を、より受けやすくなっていることを表しています。しかし、この種の「自己」の特徴がより顕著に表れるのは、自我感情が変化した時のことです。

 右の(図11)は、「自我境界」が稀薄であるような個体において、「自我感情」が高揚した時の様子です。

図11

 ここでは驚くべきことに、さっきまで「非自己」であった海の部分が消滅してしまい、全てが「自己」の色彩を帯びています。
 これはどういうことかと言うと、「世界」の隅々にまで「自己」が遍く充満して、世界中の全てが「自己」と感じられる状態、言い換えれば「自己」と「世界」が一体化した状態です。
 なかなか常人には、このような状態を実感できる機会は少ないでしょうが、これこそが、先に論じたロマン・ロランの言う「大洋感情」というものに相当するのではないでしょうか。自分が世界全体と溶け合う、「永遠なるものの感覚」です。

 そして、宮沢賢治の作品にも、このような自己と世界との一体感の描写が、いろいろと出てきます。その例を、右の(図12)に挙げてみました。

図12
(図12)

 まず最初のものは『春と修羅 第二集』に収められている「種山ヶ原」という詩の初期形の一部です。賢治が大好きだった高原を一人で歩いた時の描写ですが、「あゝ何もかもみんな透明だ/雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに/風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され/じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で/それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と謳っています。賢治は、高原の自然の中で全く恍惚として、光や風や水とまさに一体となって、溶け合っています。
 二番目の例は、『春と修羅』に収められている「林と思想」という作品です。ここでは自分が世界全体と完全に一体化しているわけではありませんが、「わたしのかんがへ」が、向こうの林へと「流れて行つて」「溶け込んでゐる」という体験が描かれています。賢治の心の活動は、周囲の自然と部分的に融合しています。
 三番目の「まづもろともに…」は、先にもいくつか引用した「農民芸術概論綱要」の一節で、これも有名ないかにも賢治らしい言葉です。「みんな一緒に宇宙の微塵になって、果てしない空に散らばろう」と仲間に呼び掛けているわけですが、あらためて具体的に考えると、いったい何を一緒にしたいのかよくわかりません。もちろん、文字通り自分たちの体を粉砕して撒布しようと言っているわけではないでしょう。
 結局これも、上の「種山ヶ原」のように、「自分自身がそのまま大宇宙と一体化するような、そういう境地へと、ともに至ろう」という呼びかけと解釈するのが、一番自然だろうと思います。もっとも、呼びかけられたからと言って、皆がそうできるわけではないでしょうが…。

 以上、自我境界が稀薄化している場合に自我感情が高まったら、「自己と世界の一体化」が起こるということをご説明しましたが、今度はそのような曖昧な自我境界の人において、自我感情が低下した際にはどうなるかということを、考えてみます。
 その様子が下の(図13)です。

図13

 ご覧のように、ここでは「島」の全体が海面下に水没してしまって、「自己」として表面に顔を出している部分は、なくなってしまいます。
 すなわち、ここにおいて本人にとって「自己」というものは、あたかも「消滅」してしまったかのように感じられるのです。
 これも、一般人にはぴんと来にくい感覚でしょうが、賢治の作品にはやはりこのような体験があれこれ出てきますので、その例を(図14)に挙げてみました。

図14
(図14)

 上の作品は、まだ中学生の頃に作った短歌ですが、自分の脳やからだが、だんだん「うす白く」「消え行く」ような感覚を詠んでいます。どんな感じだったのか想像してみるしかありませんが、とにかくこの時の賢治は、自分が消滅していくような感覚を抱いたのでしょう。
 下の長い文章は、高等農林学校を卒業した23歳の頃に、親友の保阪嘉内にあてた手紙の一節です。「われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。」という言葉が、激しく5回も繰り返されています。一般に宮沢賢治というと、穏やかな人徳者というイメージがあるかもしれませんが、若い頃にはこれほどの実存的な苦悩を抱えていた人でもありました。ここでは、自分という存在を突き詰めた挙げ句に、「われはなし」という心の叫びが綴られます。「すべてはわれにして、われと云はるゝものにしてわれにはあらず」という風に、全てが自己でありながら同時に自己ではないと述べているところは、まさに(図11)と(図13)で起こっている真逆の事態が、実は表裏一体であることを示してくれていると思います。

 以上お示ししたような賢治の作品の一風変わった特徴は、これまでも多くの方が指摘しているところです。
 たとえば下の(図15)は、佐藤通雅氏が、賢治短歌の特徴を分析した労作『賢治短歌へ』(洋々社)という本からの抜き書きです。

図15
(図15)

 佐藤氏が、賢治の短歌において「賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう」「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」と述べておられるところは、まさに私がこれまでご説明してきた「自己と世界の一体化」です。また、賢治の短歌において、「彼の<われ>の多様性は、方法としてでなく、<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる」と述べ、賢治の作品の特異さは、単に文学的な表現としてなされているのではなく、彼独特の<われ>のあり方そのものに関わっていると指摘しておられるところも、これまで述べた私の思いと一致します。
 そして佐藤通雅氏は、通常の一人称を解体していくような賢治のこの特異な<われ>のあり方を、<超一人称>の方向と呼んでおられます。

(3) 外的現実と内的心象の同一視

 さて、自我境界の薄さに由来する賢治の「自己」の独特さは、彼が精力的に展開した「心象スケッチ」という方法論の基礎とも、密接に関係しています。

 賢治が生前に唯一刊行した詩集『春と修羅』の序文には、この世界では様々な現象が生起するように感じられるが、詰まるところは「それらも畢竟こころのひとつの風物です」述べて、自らの『春と修羅』は、その現象を「そのとほり」に記録した「心象スケッチ」であると書いています。すなわちこれらの作品は、作者の「内的世界」の描写なのです。
 一方、やはり唯一刊行した童話集『注文の多い料理店』の序文には、「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」と書かれていて、こちらは逆に外的世界から「もらってきた」というのです。

図16
(図16)

 それでは二つの作品集は、正反対の方法論で作られたのかというと、もちろんそうではありません。賢治は、外の世界で起こる現象(外的現実)と、心の中で繰り広げられる現象(内的心象)とは同一のものと考えていたので、どちらを描いても、結局は同じことになるのです。

図17
(図17)

 これを常識的な認識論の立場から理解しようとすると、たとえば現実世界にある白い雲を見ると、心の中にも白い雲のイメージが生まれますから、外的現実と内的心象が「同じ」であるのは当たり前のことのように思われます。
 しかし賢治の認識は、そういうことではありませんでした。外界にある「本物の雲」と、心でイメージしているその「似姿の雲」とが「二重に」存在しているのではなくて、それらは本当は「ただ一つの現象」であるにすぎない、というのです。

 このことを、実際に賢治が書いたものから見てみましょう。

図18
(図18)

 (図18)の最初の例は、親友の保阪嘉内が盛岡高等農林学校を退学になった時に送った手紙ですが、親友が退学になったことと、自分が徴兵されたらシベリアで戦死するかもしれないということを取り上げて、「退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか」「保阪嘉内もシベリアもみんな自分ではないか」と言っています。退学になったとかシベリアで戦死するとかいう、現実世界の出来事は、「自分の中の現象」にすぎないと言うのです。これは退学になった親友を慰めるつもりで書いた手紙だったのですが、この言葉が果たして親友の慰めになったのだろうかというところが、ちょっと気になります。
 二番目の例は、「銀河鉄道の夜」の初期形に出てくるものですが、「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのだから…」と、ここでも同じような世界観が語られます。
 三番目の例は、やはり親友保阪家内あての手紙の一節ですが、上記のように自分の心の中に現れることと、現実の出来事が同一だという理屈で行くと、心でふとイメージしただけのことでも、それは現実に起こってしまうのではないかという、ちょっとオカルト的な事態になってきます。ここでは、椅子に座って「ふと心が高い方へ行」くと、虚空に巨きな人が横たわっているのが見えたが、その姿はちょうどその頃亡くなった盛岡高等農林学校の先生だったのだろう、と言うのです。賢治は先生の死を予知した、というわけですね。

 こういう風に、外的現実と内的心象とを区別せず単一のものとする考え方は、仏教的には「唯識」の思想にも通ずるところがあるでしょう。しかし、賢治は仏教を学んだために知性的にこう考えるようになったのではなくて、それよりも前から、理屈以前の感性として、このように考えていたのではないかと思われます。
 そして、賢治のこの独特な世界観も、先ほどからお話している自我境界の薄さということから、説明することができます。

 通常は、世界の中に自己がいて、世界には自己以外にも、生物・無生物含めていろいろな存在があります。下の(図19)のように、自己は、世界のごく一部にしかすぎません。

図19
(図19)

 しかし、賢治のように自我境界の薄い人は、時に自我感情が高揚すると、自己と世界とが一体化して融合するという境地に至ることがあります。
 その状態が、(図20)です。

図20
(図20)

 ここでは自己がはるかに拡大して、「世界=自己」となっています。そのために、普通は自己の「外部」にあって、自分とは別個に独立した存在であったものたちが、あたかも自己の内部に所属しているかのような状態になっています。
 ここでは、「外的現実」と「内的心象」という区別はもはや意味をなさなくなり、「心象」をスケッチすることが、取りも直さずそのまま「外的現実」を記述することになるのです。
 これこそが、彼が『春と修羅』において打ち立てた、「心象スケッチ」の方法論であると言えます。

(4) 小括

 以上、いろいろとお話してきましたが、いったんここまでのところを簡単にまとめておきます。

図21
(図21)

 宮沢賢治の作品や書簡に表れたその心性の特徴について考えてみると、彼は「自我境界が薄い」というタイプの人だったと思われます。これは、彼が意識的にそうしたとか、勉強してそのような感覚を身に付けたとかいうものではなくて、彼の天性のものだったのではないかと思います。そしてこの特徴が、彼の人間性や作品に、ある種の独特さを与えました。

 一つは、たとえば「種山ヶ原」の初期形に見られるような、自己と世界が一体化してエクスタシーを感じるような体験を彼にさせ、その詩的霊感の源泉となりました。そのような作品は、枚挙にいとまがありません。

 また一つには、この感性によって賢治は常に自己と世界とが不可分の一体であると感じていたために、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉に表現されるような、世界に対する独自の倫理的スタンスをとることとなりました。
 賢治の子供の頃のエピソードとして伝えられている話に、他の子が手押し車に轢かれて指を怪我した時に、思わず駆け寄って「痛かべ、痛かべ」と言いながらその子の指を口に入れて吸ってやったとか、小学校で先生に怒られて水の入った鉢を持って廊下に立たされている子がいると、重いだろうと同情してその水を飲んでしまった、とかいうものがあります。
 このように、理屈以前に「他人の痛みを自分の痛みとして感じてしまう」というところも、自我境界が薄く、自他を一体のものとして感じていたからでしょう。

 このような倫理的姿勢は、彼の宗教的な態度にも、大きな影響を与えたはずです。すなわち、信仰によって自分自身の極楽往生を願うという浄土教的な信仰に飽き足らず、全ての衆生の救済という理想へ向けて、自らを積極的に駆り立てる方向へと、彼を動かしたのではないでしょうか。つまり、このような性向は、青年期に彼を浄土真宗から日蓮宗へと転向させる動因の一つになった可能性があります。

 以上は主に、自我感情が高揚して自己と世界が一体化する傾向にある時に起こったことでしたが、時にエネルギーが低下した時には、賢治は自己が消滅するような感覚にとらわれることもありました。これは彼に苦しみを与えたようですが、これも自我境界の薄さのために起こってしまうことでした。

 また、自我境界の薄さは、外的現実を内的心象を同一視するという、独特の世界観の形成にもつながり、『春と修羅』において開花する「心象スケッチ」という方法論に結実しました。

 以上、震災の夜に感じたことをきっかけに、賢治の心性や作品を包摂的に理解すべく考察を行ってみましたが、次にはこれを精神医学的にもう少し広い視点からとらえてみたいと思います。

(後半に続く)

【参考文献】
ロマン・ロラン: 136ジークムント・フロイトに(1927年12月5日).『ロマン・ロラン全集』第36巻(みすず書房)
ジークムント・フロイト: 文化への不満.『幻想の未来/文化への不満』(光文社古典新訳文庫)
佐藤通雅: 『賢治短歌へ』(洋々社)

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2014年11月16日 悲劇として→喜劇として

 ナポレオン・ボナパルトがクーデターによりフランス第一共和政を葬り去った半世紀後に、その甥のルイ・ナポレオンがやはりクーデターによって、第二共和制を崩壊させたという「歴史の繰り返し」を評して、マルクスが著書『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の冒頭で述べた次の言葉は、広く知られています。

 世界史上の大事件と大人物は二度現れると、かつてヘーゲルは書いた。だがヘーゲルは、次の言葉を付け加える事を忘れていた。その一度目は悲劇として、二度目は喜劇として、ということである。

 これを最近の日本の政治で見ると、いえ無論それは「世界史上の大事件」などでは到底ありませんが、まず第一次安倍内閣の時にも閣僚の不祥事が相次いで、佐田特命大臣の辞任に続き、松岡農林水産大臣は政治資金問題を追及された結果、議員宿舎において自殺するという「悲劇」に至りました。これに続き、久間防衛大臣、赤城農林水産大臣、遠藤農林水産大臣も辞職する事態に及び、安倍首相自身も、まもなく辞任に追い込まれたのです。
 一方今年の秋、第二次安倍内閣でも改造後に閣僚の不祥事が続き、2人の大臣が同時に辞任する運びとなりました。しかし今回の事態は、「これは“うちわ”か否か」などという珍妙な論争が国会で行われた挙げ句の結末であり、こちらは「喜劇」としか言いようがありません。
 ということで、「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という歴史の繰り返しは、やはり実際にあるものですね。

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 …と、話がえらく下世話な感じになってしまいましたが、実のところ本日述べたかったのは、もう少し神妙な事柄です。
 喜劇王チャーリー・チャップリンが述べたとされる言葉として、次のようなものがあります。

 人生とは、クローズアップで見ると悲劇だが、遠景で見ると喜劇である。
 (Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.)

 この含蓄のある言葉の出典がどこにあるのか、ネットであれこれ検索してみてもはっきりとはしないのですが、すでにこれはチャップリンの遺した箴言として、世界的に広く浸透しています。
 生粋の映画人であったチャップリンらしく、ここでは人生というものへの視点が、'close-up'と'long-shot'という映画の撮影手法に喩えて表現されています。これは、ドタバタ喜劇の中でも、つねに庶民の悲哀とペーソスを描きつづけた、いかにも彼らしい言葉と感じられます。
 先に挙げたマルクスの言葉が、時間的な順序に従って「悲劇」と「喜劇」が生じると言っているのに対して、こちらの言葉は、空間的な距離に伴って、「悲劇」となったり「喜劇」となったりしているというわけですね。

 ここでチャップリンのこんな言葉をご紹介した理由は、これがまさに、宮澤賢治の口語詩と文語詩との関係にも当てはまるように、私には思われるからです。
 『春と修羅』に始まる賢治の口語詩においては、激しいパッションをもって人間存在の修羅性や死の痛切な悲しみを描いた作品が、何と言っても印象的です。
 これに対して、晩年に書かれた文語詩においては、人生における何気ないような各場面を、「三人称的に」「客観的に」「無私の視点から」、淡々とそしてしばしばユーモアをまじえつつ叙述しているのが特徴です。そこでは、当事者たちに渦巻く生々しい感情は稀薄となって、「自然の風景」と「人間の営み」とが、微笑みを誘うようにまるで一幅の絵のごとく溶け合っているのです。

 賢治の創作態度がこのように変化した理由は、いろいろあるでしょう。私が思うところのその一つの大きな要因は、口語詩を書いていた頃の賢治は、身をもって人生や現世の苦難に直面していたのに対して、文語詩を書くに至った頃の賢治は、社会生活からは離れほとんど病床で過ごしつつ、昔の自分の詩稿に想を得たり、自らの人生をノートに整理して回顧したりしながら、自分や他の人々の人生を、観想的に眺めていたというところにあるのではないでしょうか。
 上のチャップリンの言葉に倣えば、前者においては賢治は人生を「クローズアップ」で目にしていたのに対して、後者においては、遠くから「ロングショット」で眺めていた、ということになります。
 それが、あるものを「悲劇」として表現するか、「喜劇」として表現するか、という違いを生んでいるのではないかと思うのです。

 具体的な例を挙げてみましょう。
 たとえば、『春と修羅 第三集』に属する「〔何をやっても間に合はない〕」という口語詩は、後に改作されて、「副業」という文語詩になります。
 「〔何をやっても間に合はない〕」は、まず「詩ノート」に書き付けられた後、黄罫詩稿用紙に改稿されているのですが、ここではより臨場感をもって「クローズアップ」された姿を見ていただくために、その「詩ノート」上の形態を下に掲げます。

 一〇九〇

何をやっても間に合はない
世界ぜんたい間に合はない
その親愛な仲間のひとり
    また稲びかり
雑誌を読んで兎を飼って
その兎の眼が赤くうるんで
草もたべれば小鳥みたいに啼きもする
    何といふ北の暗さだ
    また一ぺんに叩くのだらう
さうしてそれも間に合はない
貧しい小屋の軒下に
自分で作った巣箱に入れて
兎が十もならんでゐた
    もうここまででも
    みちは倒れた稲の中だの
    陰気なひばやすぎの影だの
    まがってまがって来たのだが
    あっちもこっちも気狂みたいに
    ごろごろまはる水車の中を
    まがってまがって来たのだが
外套のかたちした
オリーブいろの縮のシャツに
長靴をはき
頬のあかるいその青年が
裏の方から走って来て
はげしい雨にぬれながら
わたくしの訪ねる家を教へた
わたくしが訪ねるその人と
縮れた髪も眼も物云ひもそっくりな
その人が
わたくしを知ってるやうにわらひながら
詳しくみちを教へてくれた
ああ家の中は暗くて藁を打つ気持にもなれず
雨のなかを表に出れば兎はなかず
所在ない所在ないそのひとよ
きっとわたくしの訪ねる者が
笑っていふにちがひない
「あゝ 従兄すか。
さっぱり仕事稼がなぃで
のらくらもので。」
世界ぜんたい何をやっても間に合はない
その親愛な近代文明と新な文化の過渡期のひとよ。

 この作品が書かれたのは、豪雨によって賢治が肥料設計した稲に甚大な被害が出た1927年8月20日のことで、その様子はやはり同日の「〔もうはたらくな〕」にも描かれています。人の力ではどうしようもない天災に直面して、賢治は必死の思いで、とある農家を訪ねようとしています。
 途中たまた道を尋ねた農家では、副業として兎を飼っていました。激しい雷雨と、つつましい兎の巣箱の様子が、対照的です。しかしこの日の豪雨は、個々の農家によるこういう健気な工夫と努力をも、根こそぎ台無しにしてしまうほどの被害を、まさに引き起こしつつあるのです。
 「何をやっても間に合はない」「世界ぜんたい間に合はない」と繰り返される言葉には、この現実に打ちひしがれた賢治の焦燥感や絶望感がこめられており、ここに描かれている情景は、まさに「悲劇」と言わざるをえません。

 一方、この口語詩を賢治が晩年に文語詩化した「副業」では、情景は次のようになっています。

  副業

雨降りしぶくひるすぎを、  青きさゝげの籠とりて、
巨利を獲るてふ副業の、  銀毛兎に餌すなり。

兎はついにつくのはね、   ひとは頬あかく美しければ、
べっ甲ゴムの長靴や、    緑のシャツも着くるなり。

 作品の舞台装置は、激しい雨、副業の兎、長靴、緑のシャツと、先の口語詩と共通しています。しかしここには、前作にあったような深刻な悲劇性はうかがえません。
 「兎はついにつくのはね」(「つくのはね」は、償わない=採算が合わないこと)とやはり書かれていて、この副業が生活の「間に合はない」ことに変わりはないのですが、賢治はこの兎を飼い主の思惑を、「巨利を獲るてふ副業」と表現することで、あたかも「一攫千金を夢見るお人好し」のように造型しています。
 さらにその飼い主は、「頬あかく美し」き人で、当時流行の「べっ甲ゴムの長靴」や「緑のシャツ」を身につけるという、なかなかのお洒落もしているのです。
 すなわち、この文語詩の作品世界では、農家の厳しい境遇や運命の悲惨さなどではなく、一人の紅顔の農民の魅力、ユーモラスでもあるその無垢な純真さが、まるでミレーの絵のように、描かれているのです。
 これは「喜劇」というほどではないにしても、読む者をふっと微笑ませてくれるものでしょう。

 同じ題材を扱いながら、口語詩と文語詩とのこのような相違は、「出来事」と「書き手」との間に存在ある、時間的な距離が生み出しているのではないでしょうか。すなわち、豪雨災害の危機感の只中で書かれた口語詩と、それから遙か何年も経って賢治にもいろいろあって、病床の中で多少とも懐かみつつ回想しながら書かれた文語詩との間の違いです。

 ついでにもう一つ、例を挙げておきます。
 まずは、やはり『春と修羅 第三集』の、「〔同心町の夜あけがた〕」です。

 一〇四二
               一九二七、四、二一、
同心町の夜あけがた
一列の淡い電燈
春めいた浅葱いろしたもやのなかから
ぼんやりけぶる東のそらの
海泡石のこっちの方を
馬をひいてわたくしにならび
町をさしてあるきながら
程吉はまた横眼でみる
わたくしのレアカーのなかの
青い雪菜が原因ならば
それは一種の嫉視であるが
乾いて軽く明日は消える
切りとってきた六本の
ヒアシンスの穂が原因ならば
それもなかばは嫉視であって
わたくしはそれを作らなければそれで済む
どんな奇怪な考が
わたくしにあるかをはかりかねて
さういふふうに見るならば
それは懼れて見るといふ
わたくしはもっと明らかに物を云ひ
あたり前にしばらく行動すれば
間もなくそれは消えるであらう
われわれ学校を出て来たもの
われわれ町に育ったもの
われわれ月給をとったことのあるもの
それ全体への疑ひや
漠然とした反感ならば
容易にこれは抜き得ない
  向ふの坂の下り口で
  犬が三疋じゃれてゐる
  子供が一人ぽろっと出る
  あすこまで行けば
  あのこどもが
  わたくしのヒアシンスの花を
  呉れ呉れといって叫ぶのは
  いつもの朝の恒例である
見給へ新らしい伯林青を
じぶんでこてこて塗りあげて
置きすてられたその屋台店の主人は
あの胡桃の木の枝をひろげる
裏の小さな石屋根の下で
これからねむるのでないか

 賢治は、自分で作った野菜や花をリヤカーに積んで町へ売りに行くところですが、近所の農民(程吉)の冷たい視線に遭います。それが、作物に対する「嫉視」であるのならまだ根は浅いが、町に育ち、学校を出て、月給をとったことのあるものへの疑いや反感ならば、もっと根は深いと嘆じています。
 道中の情景には心温まる部分もありますが、賢治の心の中は、苦々しく重たいものです。

 一方、これが後に文語詩に改作された、「短夜」という作品を次に掲げます。

  短夜

屋台を引きて帰りくる、      目あかし町の夜なかすぎ、
うつは数ふるそのひまに、    もやは浅葱とかはりけり。

みづから塗れる伯林青の、    むらをさびしく苦笑ひ、
胡桃覆へる石屋根に、       いまぞねむれと入り行きぬ。

 ここでは、作者の心に当時あった重苦しい思いは消し去られ、ロングショットのカメラが代わりにとらえるのは、口語詩では最後に登場していた「屋台店の主人」です。
 屋台に自分で施した塗装のその塗りむらに苦笑しつつ、仕事を終えてさあ寝ようと家に入るその主人…。ここにもやはり人生のペーソスが、ふと垣間見えています。
 賢治は詩稿用紙の上で文語詩を推敲しつつ、当時の自分の個人的な思いよりも、こういった人間のふとした仕草を思い出しつつ愛おしみつつ、書き付けていったのだろうと思います。

 チャップリンが、映像表現において「クローズアップ」と「ロングショット」で対比したのは、カメラと被写体との間の「空間的な距離」でしたが、賢治にそのような視点を与えてくれたのは、対象との「時間的な距離」だったと言えるでしょう。

チャップリン

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2014年11月 9日 秀明大学の「宮沢賢治展」

 今日は、千葉県八千代市にある秀明大学で行われた「宮沢賢治展」に行ってきました。
 朝9時前に家を出て、新幹線で東京へ行き、地下鉄東西線から東葉高速鉄道に入って八千代緑が丘という駅で降りて、さらにバスで15分ほど走り、大学に着くと午後1時前でした。

 ちょうど大学では「飛翔祭」という大学祭が行われているところで、賢治展もこの企画の一環だったんですね。

秀明大学「飛翔祭」

 学生さんたちはみんな親切でフレンドリーで、アットホームな雰囲気のキャンパスです。

 午後1時からは、宮澤和樹さんの講演「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」が予定されていたのですが、何とかぎりぎりで間に合うことができました。会場の大きな教室は、ざっと200名以上の老若男女でぎっしり埋まり、熱気にあふれています。

宮澤和樹氏講演「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」

 ユーモアとともに、人間味あふれる賢治の一面を伝えてくれる和樹さんの講演に、会場からは熱心な質問が相次ぎました。
 そして、講演が終わってあたりを見まわすと、賢治研究者や愛好家の懐かしいお顔がいっぱい…。これほどたくさんの方々に一度にお会いできるのは、9月の花巻以外では珍しい。

 講演会場を2時すぎに後にすると、期待に胸を躍らせて「宮沢賢治展」会場の教室に向かいました。
秀明大学《宮沢賢治展》 こちらの教室では、ガラスケースに入れられた様々な貴重な資料を間近で見られ、さらに「写真撮影自由」というありがたいご配慮です!
 みんな、食い入るように賢治の書簡や写真を見つめ、あちこちから感嘆の声が上がります。一つ一つ、すべての資料を丹念に写真に収めている方も結構おられ、本当に熱心な賢治好きの方々が、この郊外の大学まで集まられたのだなという感じです。
 今回の厖大な資料は、すべて秀明大学学長の川島幸希先生の個人所蔵ということで、会場では川島先生が忙しくあちこちに出向いては、懇切に説明をしておられる姿が印象的でした。

 さて、今回の「宮沢賢治展」の大きな意義は、次のような点にありました。

  1. 新発見の賢治の書簡を一挙に9通公開
     賢治ほど調査研究が進んだ作家に関して、これほどのまとまった数の新発見自筆資料が一度に出てくるというのは、今後もそうそうないことでしょう。
     またこれに加えて、「新発見」ではないものの、全集において「所在不明」「現存しない」とされていた書簡も、3通「再発見」されて出展されていました。
  2. 賢治の写っている新たな写真を公開
     これも、賢治ファンにとっては快哉を叫びたくなるようなことですよね。
     これは、盛岡高等農林学校の卒業アルバムが新たに発見されたことによるもので、そのアルバムの中に学生の風景を記録した未公開の写真があったのです。これまで全集等に収められていた盛岡高等農林学校時代の写真は、宮澤家と佐々木又治遺族所有のアルバムから採られたものでしたが、収録写真はアルバムごとに少しずつ違うものだった可能性があります。
  3. 『春と修羅』背表紙の「詩集」の文字をブロンズで消した本を公開
     賢治の意思に反して入れられてしまった『春と修羅』の背表紙の「詩集」の文字を、賢治が後でブロンズで消していたということは、森佐一あて書簡には書かれていましたが、実際にそのような処置が行われた本は、これまで見つかっていませんでした。それが、今回確認されたわけです。
     賢治が、自らの「心象スケッチ」という営みと、世間一般の「詩」との間にはっきり一線を画そうとした、思いが見てとれます。

『成瀬金太郎小伝』 今回発見された上記 1. 2. の資料は、いずれも盛岡高等農林学校における賢治の親友であった成瀬金太郎氏が所有していたものが、最近になって何らかの経路で古書の市場に現れたというものです。しかし、その出現がどのような事情によるものだったのか、経緯はわかっていません。
 『成瀬金太郎小伝』(右写真)という書物には、第二次大戦中の成瀬氏のエピソードとして、次のようなことが書かれています。

将来を考えて盛岡の書籍、家具等使用しない物は出来るだけ安全な所に疎開せねばと思い鉄道便で四国神山の生家へ送ったものの内、梱包一ヶ高徳線造田駅内において盗難にあい無くなったことは、残念でならない。この紛失物の中には宮沢賢治君から贈られた法華経の本、学生時代の記録、南洋拓殖工業株式会社当時の貴重な記録が一杯詰って居たので損害は甚大であった。
(『成瀬金太郎小伝』p.61-62)

 この事実を知っていた一部の方からは、今回発見されたのは、ひょっとしてこの四国で盗難に遭った品物の一部だったのではないかという推測も出さていたのですが、実態は違ったようです。今回「再発見」された資料は、ある時期までは東京の成瀬家に保管されていたものなのだそうです。

 さてここで、今回発見された賢治の新しい写真を、掲載させていただきましょう。

宮澤賢治新発見写真

 前列の右から2人目、分厚い本を広げて静かに読んでいる姿が、我らが賢治君ですね。
 この写真の賢治の部分を、拡大してみます。

宮澤賢治新発見写真(部分拡大)

 うーん、これはなかなか、白皙の美青年ですよね…。賢治の青春時代への想像の翼が、また一つ増えたという感じです。

 それにしても、秀明大学の川島幸希学長におかれましては、このたびは貴重なコレクションを惜しげもなく公開し、見学者には写真撮影まで許可していただき、超多忙な中を奔走して、私どもの質問にも優しく答えて下さいました。
 このような機会を与えていただいた川島幸希学長と大学関係者の方々に、ここにあらためて御礼を申し上げます。

 ただ惜しむらくは、公開期間が2日間限定ということで、全国には今回来られなかった賢治ファンもたくさんおられることと思います。またいずれの日にか、多くの方々がこの貴重な資料に対面できる機会が実現することを、お祈りしています。

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2014年11月 3日 オフィス3○○『天使猫―宮澤賢治の生き方―』

『天使猫―宮澤賢治の生き方―』

 ちょうど82年前の今日、賢治が手帳に「〔雨ニモマケズ〕」を書き付けたという縁のある日に、渡辺えりさんの率いる「オフィス3○○」の公演『天使猫―宮澤賢治の生き方―』を見てきました。東日本大震災を受けて、渡辺さんが2011年に書き下ろしたという作品を、やはり震災に遭った西宮市にある兵庫県立芸術文化センターで体験するという、これもめぐり合わせ。
 トシを演じた大和田美帆さんは、昨年11月にやはりこの兵庫県立芸術文化センターで、井上ひさし『イーハトーボの劇列車』でトシを演じておられましたので、ちょうど1年ぶりの再会です。

 全篇を堪能して、やはり今さらながら、宮澤賢治という人の稀有な「生き方」に対して胸が詰まるような思いがこみあげてくるとともに、作中にたくさん散りばめられた賢治の「言葉」の力を、ひしひしと感じました。
 渡辺えりさんの、賢治に対する深い造詣と共感とに裏打ちされたドラマでした。

 今後の公演予定は、下記のようになっています。もしも時間とお席がありましたら、足を運んでみられてはいかがでしょうか。

11月 5日(水)19時 金沢市 北國新聞赤羽ホール
11月 8日(土)14時 山口市 山口情報芸術センター スタジオA
11月 9日(日)14時 同上
11月11日(火)19時 宮崎県三股町 三股町立文化会館
11月24日(月)18時 愛知県長久手市 文化の家 森のホール
11月27日(木)19時 福島県南相馬市 市民文化会館
11月28日(金)19時 仙台市 日立システムズホール仙台
11月30日(日)13時 山形市 シベールアリーナ
           17時 同上

 11月1日には石巻市に特設された屋外テントで公演されたということですが、11月27日のトシの命日には福島県の南相馬市、そして30日の千秋楽は、渡辺えりさんの出身地である山形公演で打ち上げなんですね。

 会場で販売していたパンフレットには、まだ来日して間もないロジャー・パルバースさんが、1971年に比叡山延暦寺の賢治歌碑前で、宮澤清六さんや賢治研究者の堀尾青史さん、歌碑建立の中心となった延暦寺長?の葉上照澄さんらと一緒に撮影した記念写真が「世界初公開」として載せられていて、これも個人的には嬉しかったです。

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2014年10月26日 花巻ばら会創立50周年記念誌

 以前に「賢治が愛したバラ」のシリーズ((1), (2), (3), (4), (5), (6))を記事にした際に、「花巻ばら会」の佐香厚子さんからは、いろいろと貴重なご教示をいただいたのですが、このたび、「花巻ばら会」が創立50周年を迎えたということで、佐香さんからその創立50周年記念誌をお贈りいただきました。
 下写真が、その立派な記念誌の表紙です。

花巻ばら会50周年記念誌

 表紙に描かれているのは、花巻ばら会の象徴とも言える、「賢治のばら」こと「グルス・アン・テプリッツ」ですが、このイラストも佐香さんが描かれたのだそうです。
 「50年」と言うと、私の人生ともほとんど重なり合う期間ですが、今から50年前には東海道新幹線が開業して東京オリンピックが開かれ、また花巻では岩手県の空の玄関口・花巻空港が開港したということで、戦後の経済成長を体現するような時期だったわけですね。

 『花巻ばら会創立50周年記念誌』の中身を拝見すると、この50年の歴史を彩ったさまざまな貴重なバラの写真が紹介されていますが、私として特に興味を引かれるのは、やはり何と言っても「賢治ゆかりのばら」のエピソードです。
 花巻ばら会名誉会長の佐藤昭三さんは、当時の経緯を回顧する文章を寄せておられるのですが、ここには私が7年前に「賢治が愛したバラ」シリーズを書いた時点ではわからなかった、より詳しい情報が記されているのでした。
 以下に、佐藤昭三さんによる「賢治ゆかりのばら」という文章より、一部を引用させていただきます。

 花巻ばら会が昭和三十九年六月四日に設立され、その総会で佐藤隆房先生を会の顧問に推挙することが決まり、その就任の承諾を得る役を副会長の私が指名されたのであった。
 当時の私のメモによれば、「六月五日午後花巻病院顧問」とあり、私が直接院長にお目にかかっている。顧問就任は問題なく快諾されて、市内のばら事情の会話の中で、「今、家の庭にも賢治さんがくれたばらが咲いているよ」という先生のお話に初耳のことなのでその経緯を尋ねた所「住まいを桜に移したときにばらの苗二十本をお祝いにくれた」のが咲いているから一度見に来るようにとのお誘いをいただいたのだった。
 その時に、ばら会創立記念の第一回ばら展を八、九日の両日開催予定していることを報告して、「賢治ゆかりのばら」として会場に特別展示することになり、お庭の貴重な花を採取することをお許しいただいた。その後展示会前日、ばら会員数名で桜町のお宅に伺った。すでに開花が進んでいたがお庭の管理人の案内で「賢治ゆかり」のばらを拝見した。品種名を記した名札が皆無で、同行した会員の知識では判別ができず、よく咲いていると思しき中から数種の二十輪ほどを切り花として頂戴し、フラスコに活けて、八日からばら展会場に特別出品「賢治ゆかりのばら」として市民や入場者に初めて公開してご覧いただいた。

 つまり、生前の賢治が佐藤隆房氏にばらを贈っていたという話を、佐藤昭三氏が初めて知ったのが1964年6月5日、そしてそれらのばらの花が初めて一般公開されたのが、同年6月8日だったのです。
 すなわち今年は、「賢治のばら」の話が世に知られ、その花が実際に公開されてからも、ちょうど50周年にあたるわけなんですね。

 また、この「賢治のばら」のエピソードは、花巻ばら会が佐藤隆房氏に顧問就任を依頼した縁から、ふとした雑談の折りに偶然にも判明したことだったというのも、「不思議なめぐり合わせ」を感じるところです。
 ちなみに下写真は、この1964年6月8日・9日に開催された「花巻ばら会・第一回ばら展」に「宮沢賢治ゆかりのバラ」が特別出品された時のものです。
 これこそが、その後有名になる「賢治のばら」が初めて世に出た機会であり、まさに貴重な記録と思います。

宮沢賢治ゆかりのバラ

 さて、しかしまだこの時点では、「賢治のばら」の品種が何であるのか、その名前はわかっていませんでした。その品種特定をめぐる次の動きは、花巻ばら会の「25周年」という節目を契機として、訪れたのです。

 以下は、再び記念誌掲載の佐藤昭三さんの文章から、「賢治ゆかりのばらの品種判明」より引用させていただきます。

 花巻ばら会設立後二十五年を経過した平成二年、日本ばら会の要請により第十回の全国大会を主催することになったが、地方の小都市での開催は初めてのこと、全国から参加するばら愛好家に何かばらにまつわる花巻の話題を提供できないかと検討したときに、賢治が佐藤隆房先生に贈ったばらをお見せすることはどうかという事になった。そこで会員数人で隆房先生宅に伺いその中の一株が明白な特徴があり、市販されている品種でないことを確認した上でこれを増殖することにし、同行した高橋健三会員に要請して接木によって複数の新苗が育てられた。
 大会開催中、見事に開花した二鉢に「賢治のばら」の解説をつけて展示公開することができた。このように新苗が育てられたが、品種名が不明のまま「ゆかりのばら」では納得ができず、吉池貞蔵会員(現会長)は「ミスターローズ」と呼ばれた国際的なばらの育種家鈴木省三氏に相談し、苗を贈り、氏はその苗を自ら自宅の庭で育てられた。三年後、見事に咲いた真紅の花はビロードの花弁で甘い芳香が高くて花の女王にふさわしい気品があり、強い印象を与えた。
 このばらの名称は和名は「日光」、正式には「グルズ・アン・テプリッツ」という花名であることが分かった。鈴木氏が少年の頃、自宅の庭にあった父が最も大事にしていたばらで、名前も知らずに親しんだ少年時代のばらと運命的な再会だったことを知った。

 品種名判定を依頼した鈴木省三氏が、自らの少年時代の思い出のばらと「再会」することになったという逸話は、これまでもご紹介してきたことですが、これもまた「不思議なめぐり合わせ」を感じてしまうところですね。
 上の内容から推測すると、「賢治ゆかりのばら」の品種が判明した時期は、「日本ばら会第十回大会」が1990年なわけですから、それから鈴木省三氏のもとに贈られたばらが3年後に開花したとすれば、1993年あたりということになります。
 一方、「賢治が愛したバラ(3)」では、京成ばら園で鈴木省三氏の秘書をしていた野村和子氏からの情報として、「賢治のバラが初めて開花した時の写真の日付は1987年だった」という話をご紹介しましたが、この情報とは矛盾してしまうことになります。
 どちらが正しいかということは、現時点でははっきりわかりません。ただ、「賢治が愛したバラ(4)」でご紹介した、佐藤昭三氏の文章「宮沢賢治とばら」は、「第10回日本ばら会全国大会記念」としてまとめられたもので、1990年か1991年に書かれたものと思われますが、この文中には「グルス・アン・テプリッツ」という品種名は登場しないことから、この時点ではまだ品種名は判明していなかったのではないかと思われます。したがってそれが判明した時期は、今回の佐藤氏の文章のように、1993年頃だったという可能性が高いのではないかと、個人的には感じています。

 それにしても、今回の記念誌を拝見して、「花巻ばら会」がまさに「賢治のばら」と深い縁で結ばれつつ、50年の歴史を歩んでこられたのだなあと、あらためて実感させていただきました。

 記念誌をお贈り下さった佐香厚子さんに、ここにあらためて御礼申し上げるとともに、花巻ばら会の益々のご発展をお祈り申し上げます。

【関連記事】
・「賢治が愛したバラ(1)
・「賢治が愛したバラ(2)
・「賢治が愛したバラ(3)
・「賢治が愛したバラ(4)
・「賢治が愛したバラ(5)
・「賢治が愛したバラ(6)

グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園)
グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園にて)

written by hamagaki : カテゴリー「雑記
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2014年10月 2日 「青森挽歌」の構造について(1)

 8月の東京および先月の比叡山で発表させていただいた話の中では、「青森挽歌」を例にして、賢治の体験様式について説明を試みた部分があったのですが、その時の内容に少し加筆しつつ、下に文章化してみます。

 まず、「青森挽歌」の本文(初版本)を下に掲げます。種々の記号のようなものについては、図の下で説明します。テキストのルビは、省略させていただきました。

 「青森挽歌」の構造

 本文右側に並ぶ数字は、行番号です。「青森挽歌」の本文は、全部で252行あります。
 本文の背景の一部に、水色または桃色で色が付けてありますが、水色の部分は「一重括弧」で囲まれていることを、桃色の部分は「二重括弧」で囲まれていることを、示しています。
 本文左側にある橙色の数字は、「字下げ」を表しています。例えば「-4」なら、その部分が行頭から「4字下げられている」ことを表しています。

 今回は、本文全体を大きく5つの部分(I〜V)に分けてみました。上の図では、細い二重線で区切っています。
 以下、最初の〈I〉から順に見ていきます。

 冒頭から54行目までの〈I〉には、「現実世界からの導入・トシの死について考えることへの躊躇」という見出しを付けました。
 ここでは、作者が夜行列車に乗りつつ、窓の景色を見たり、昼間のことを回想したりするなど、現実的な描写が主体です。しかしその底には、「考へださなければならないことを/わたくしはいたみやつかれから/なるべくおもひださうとしない」(37-38行)との言葉に示されているように、妹トシの死について考えようと思いつつも実行できない、「躊躇」もあります。
 この〈I)には、一重括弧でくくられた言葉が、いくつも出てきます。その言葉の内容は、汽車の媒体として「巨きな水素のりんご」を想像したり、乗客の一人を勝手に「大学の昆虫学の助手」に見立てたり、かなりファンタジックな傾向が認められます。「地の文」が主に、実際に目で見たものなどを記している「顕在的な意識」であるのに対して、この一重括弧は、作者の心のより奥深くから湧いてくる言葉なのでしょう。

 つまり、一重括弧で囲まれた部分は、作者の顕在意識からはやや相対的に独立して、自身の心に自ずと湧いてくる言葉=「内言」を表していると考えられます。卑近な例を挙げれば、「今日のお昼に何を食べようか…」と「顕在意識」で思った時に、「カレーがいいなあ」、「いや、ラーメンが食べたい」などという風に、自然に心の奥から生まれ出てくるような、「思考・言葉」に相当するものです。
 とくにこの作品における作者の内言の特徴の一つは、その出所が上にも述べたように、賢治の内奥のファンタジックな部分とつながっていると思われるところです。

 さて、物憂い眠気とともに淡々と進行する〈I〉の流れに、一つの不吉な変化が生じるのは、28行目の「水いろ川の水いろ駅」に続き、29行目の内言に(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)という言葉が出てくるところです。
 ここに現れる、「おそろしいあの水いろの空虚」という言葉から私が連想するのは、賢治の若い頃の連作短歌「青びとのながれ」から、後の文語詩「〔ながれたり〕」に至る、死者の世界です。
 後者に出てくる「水いろなせる川の水」とか、「水いろの水と屍 数もしら」などの言葉は、直接この箇所の語彙につながっていますし、(そもこれはいづちの川のけしきぞも)は、「青森挽歌」8行目の「けれどもここはいつたいどこの停車場だ」と響き合っているかのようです。また、「〔ながれたり〕」の作品世界の時刻は、「地平わづかに赤らむは/あかつきとこそ覚ゆなれ」とあるように夜明け前ですが、「青森挽歌」でも、「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱をよどませ」(24-25行)という景色が広がり、同じく地平に曙光が現れようとしているところです。
 すなわち、作者は〈I〉の途中までは、何とかして「死」の想念を抑圧しようとしていたのですが、ここに至って窓外の景色までもが死者の世界として迫ってくるようになり、ついに賢治は、「死」について考えることから逃れられなくなったのです。

 そこで作者は観念して、「こんなさびしい幻想から/わたくしははやく浮びあがらなければならない」と自覚します。そして実際に、右横の橙色の数字が示しているように、最初は行頭から「4文字下げ-4」であった内言は、この直前から「3文字下げ-3」に変わり、さらに2つの3文字下げ内言を経て、〈II〉の60行目で「2文字下げ-2」となるまで、徐々に「浮かびあが」っていくのです。
 すなわち、この「文字配置の上昇」は、彼の心の深いところにあった意識が、段々と心の表層近くまで「浮上」してきている様子を、視覚的に表現しているのだと言えるでしょう。

 この後、37-38行目において作者の内言は、「考へださなければならないことを/わたくしはいたみやつかれから/なるべくおもひださうとしない」と述べて、トシの死について考えようとしない顕在意識(地の文)の姿勢に対して、批判的です。しかしなお顕在意識の方は、「今日の昼すぎ」から重労働をしたことを理由に、「だから睡いのはしかたない」と自己正当化し、抵抗を続けます(40-45行)。

 すると、ここに至って唐突に、作者の内言に、「おゝおまへ せわしいみちづれよ(オー ヅウ アイリーガー ゲゼルレ)/どうかここから急いで去らないでくれ(アイレドツホ ニヒト フォン デヤ ステルレ)」というドイツ語の詩句が、闖入してきます(46-47行)。
 これは、当時の旧制高校等で使われていた『独文読本』に収められている ‘Des Wassers Rundreise’ という作者未詳の詩の一節です(「水めぐりの歌」参照)。ここで賢治の内奥の意識は、暗黙のうちにトシを「せわしいみちづれ」と見立てて、「どうかここから急いで去らないでくれ」と、痛切にも呼びかけるのです。
 すなわちここにおいて、それまで抑圧されていた死んだ妹のイメージが、象徴的な置き換えを受けた形ながらも、初めて現れたのです。

 そして次の48行目に、これも作品中で初めて、「二重括弧」でくくられた言葉が登場します。
 この二重括弧の内容は、先ほど内言で現れたドイツ語の詩句を揶揄するもので、《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》と、まるでいじめっ子がはやし立てるような言い方をしています。
 ここまで作品を読んできた者も、この子供じみた物言いはいったい何なんだと思うでしょうが、やはり内言も、「いきなりそんな悪い叫びを/投げつけるのはいつたいたれだ」と憤慨しています。
 それにしても、この言葉を発した者は、実のところ「いつたいたれ」だったのでしょうか?

 まず、その言葉がわざわざ《 》という二重括弧でくくられていることは、これが「地の文」を成している作者の顕在意識とも、一重括弧で囲まれた「内言」とも、異なった「出所」を持つことを示しています。
 それでは、これは「一重括弧」とはまた別の所から来た「内言」なのでしょうか。
 否、これは「内言」ではありません。これが内言の一種でないことは、一重括弧の内言がその正体を知らずに、「いつたいたれだ」と言っていることによって示されています。
 例えば昼食のメニューを迷っている時に、「いや、ラーメンが食べたい」という言葉が不意に心に出現したとしても、その言葉の出所が「自分の心の一部」であることは、本人は常に分かっています。「内言」というものは、その人が「自己」と感じる領域の内部から、つまり「自我境界」の内側から、やって来るのです。
 これに対して、一重括弧の内言は、《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》という言葉がどこから発せられたのか、その出所を知りませんでした。つまり二重括弧の言葉は、「自己」と感じられる領域の外側から、やって来ているのです。
 自己の外側から、つまり自己にとっては「他者」に由来するものとして、何らかの「言葉」が到来する時、それは主体にとっては、「幻聴」として体験されます。
 すなわち、この作品において、二重括弧内の言葉は、「幻聴」を表しているのです。

 これを図示してみると、次のようになります。
 まず下の図は、「自己」の内部で対話が行われている、通常の「内言」を表しています。

通常の内言

 「顕在意識」も「潜在意識A」も「潜在意識B」も、いずれも「自我境界」の内側にあって、それぞれが「自分」であることを自覚しつつ、相互にコミュニケーションを行っています。これは例えば先に挙げた例で、昼食のメニューをめぐって、「カレーがいい」「ラーメンが食べたい」などと、自分の中で相互に会話をしている時の様子です。

 これに対して「青森挽歌」における、「地の文」と、一重括弧と、二重括弧との関係は、下図のようになっています。

「青森挽歌」における内言と幻聴

 「地の文」を成す「顕在意識」と、一重括弧を成すファンタジックな潜在意識は、「自我境界」の内側にあります。このため、一重括弧の主体も、自らを「顕在意識」と同じ「わたくし」として自覚しています(38行目)。
 これに対して、二重括弧を成す潜在意識は、上図のように「自我境界」の外側に位置しています。これは実際には、自分の脳内の神経活動の一部なのですが、自我境界の外であるために、顕在意識にとっては、あたかも「自己の外」から来たように感じてしまうのです。
 したがって、二重括弧の言葉を受けた一重括弧の主体は、それがどこから出現したのかが分からずに、「いきなりそんな悪い叫びを/投げつけるのはいつたいたれだ」と驚いたのです。そして、このような「正体不明」の言葉の到来を、主体は「幻聴」として体験するのです。

 賢治という人は、しばしば幻聴を体験したようです。多くの人はあまり経験しないようなこのような現象を、賢治がしばしば体験した理由は、おそらく賢治の「自我境界」が、伸縮自在の柔軟な性質を持っていたからだと、私は考えています。だから賢治は一方で、自己が世界と一体化するような感覚を持ったり、逆に自己が消滅するような感じに襲われたりすることがあったのです。
 賢治がよく幻聴を耳にしたのは、上の図のように、「自我境界」が通常よりも収縮したために、自分の内部で起こっている精神活動が、まるで外部にあるかのように定位されてしまったからだと、解釈することができます。

 あともう一つ、この《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》というフレーズの周辺の構造に関して、注目しておくべきことがあります。
 それは、ここで二重括弧の字句は、一重括弧の中に包み込まれる形で、「入れ子」となって現れているということです。
 この「入れ子構造」が意味するところは、「二重括弧の言葉は、(直接的には)一重括弧の意識によって体験された」ということでしょう。このことが、上の図において「幻聴」は、「二重括弧一重括弧という二者の間の矢印」で表現されていることに対応しています。
 図示されているように、二重括弧の主体は表層からかなり深いところに位置しているために、「地の文」を成している顕在意識は、この時点では直接二重括弧にコンタクトをとることができなかったということかと思われます。

 この二重括弧の意識は、「地の文」を成す顕在意識に対して、とにかく反抗的・挑戦的であり、作品の後半でも、揶揄的・嘲笑的な態度を取りつづけます。
 この登場場面においても、幻聴の形で《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》などと、からかうような文句をぶつけてきたので、一重括弧の意識はいったんは憮然として「いつたいたれだ」と言い返します。
 しかし次の瞬間には、なぜか素直に「けれども尋常一年生だ」と受け容れました。

 この、あっさりとした態度変化の理由は何でしょうか。理屈としては、この時点で日本においては未明の時刻でも、-8時間の時差のあるドイツではまだ宵の口なので、尋常一年生だってぱっちりと起きているということなのでしょう。
 しかし、ここでより本質的なことは、作者はこの〈I〉の終結部分においては、自分の「潜在意識」に対して、とても素直で受容的な態度になっているという特徴だと思います。これが、〈I〉の初めと終わりにおける、注目すべき作者の変化です。
 54行葛藤の末に、ひとまずたどり着いたこの「素直さ」「率直さ」を以て、いよいよ作者は〈II〉以降における、トシの死への思索へと入っていきます・・・。

 以上、「青森挽歌」の〈I〉の部分を順に見てきましたが、もうかなり長くなってしまいましたので、〈II〉以降の続きは、また稿をを改めたいと思います。

 それにしても、様々な精神活動を記述し分けるために、「地の文」と「一重括弧」と「二重括弧」を使い分けるという方法、そして意識が深層から徐々に「浮かびあが」っていく様子を表すために、「字下げ」を徐々に少なくして視覚的にも「浮かびあが」らせるという方法など、賢治がこの作品で行っている細やかな表現には、感嘆させられます。
 このような独自の精緻な「工夫」こそ、後に彼が岩波茂雄あて書簡において「わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました」と書いたところの、「科学的」という言葉の意味だったのかと思います。

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