2020年1月 3日 宮沢賢治における「倫理」と「美」

 多くの人のいだく宮沢賢治のイメージというと、ストイックで、献身的で、信仰篤く、謙虚な人というようなもので、その人柄や作品からは、「倫理的」な要素を強く感じられるのではないでしょうか。
 現実の賢治の生き方を見ても、自分個人が幸せになるとか楽をするとかいうことは眼中になく、いつも他者のために尽くそうとしていたのは確かだと思われますし、そういうところはまさに「倫理に生きた人」という感じです。
 またその作品に目を転じても、「雨ニモマケズ」はその一つの典型的ですし、童話では「グスコーブドリの伝記」とか「貝の火」とか「ひかりの素足」など、読んでいて胸が苦しくなるほどの倫理性を感じます。

 しかし、その一方で賢治という人は、上のような倫理性とは別の側面として、とにかく「美しいもの」には理屈抜きに陶酔してしまうところがあったのも事実だと思います。何かに感動すると、「ほほーっ」と叫んで飛び上がったり踊り出したりしたとか、かなりのお金をかけて浮世絵(春画も含む)やクラシック音楽のSPレコードを蒐集していたとかいうところなどは、彼の倫理とは全く別の問題で、いったん「美」に魅せられると我を忘れてしまう側面もあったということかと思います。

 賢治のこの「美的」あるいは「陶酔的」な側面は、その一部の作品にも表れています。たとえば「大礼服の例外的効果」という一風変わった短篇では、卒業式に臨もうとしている校長と、賢治自身をモデルにしたような「富沢」という卒業生との間の微妙な心理が描かれます。ここで校長は、富沢が式の最中に過激な行動に出ないかと怯えながらも、「卒業証書も生活の保証も命さへも要らないと云ってゐるこの若者の何と美しくしかも扱ひにくいことよ」と嘆息する一方、富沢は校長の大礼服の「こまやかな金彩」が「明るい雪の反射のなかでちらちら顫へ」るのを見て、「恍惚としながら旗をもったまゝ校長を見てゐた」のです。
 ここでは、校長は本来校長としての威厳をもって学生に君臨すべきところ、富沢の心意気に「美」も感じつつ気圧されてしまいますし、また富沢の方も平素は権威だとか「国体」などというものについて何か言いたげな様子なのに、校長の大礼服の美しさに見とれて、ただ恍惚としてしまうのです。
 つまり、両者それぞれが持っているはずの「倫理」が、「美」に圧倒されて消し飛んでしまっているかのようです。

 あるいはまた、「鹿踊りのはじまり」においては、鹿たちが繰り広げる踊りや歌の素晴らしさに感動した嘉十が、「じぶんと鹿とのちがひを忘れて」しまい、「ホウ、やれ、やれい。」と叫びながら、鹿の前に飛び出します。すると当然ながら鹿は一瞬で逃げてしまい、嘉十は一人残されて「にが笑ひ」をするしかありませんでした。
 ここでは、鹿の踊りや歌が孕む「美」のために、人間と動物の間の境界線という「倫理」が、忘れられ破られてしまうという事態が起こっているわけです。

 上のような例に表れているように、「倫理」と「美」というのは、その両方が同時に実現されるということはなかなか難しく、一種の対立関係にあるように見えることもしばしばです。少なくとも上の二つの作品においては、両者は並び立っていません。
 そこで、このような「倫理」と「美」の両立困難性という観点から、賢治の作品を二種類に分類することができるかもしれません。「倫理>美」になっている作品と、「倫理<美」になっている作品の、二種です。

 この分類に当てはめると、最初に挙げた「雨ニモマケズ」「グスコーブドリの伝記」「貝の火」「ひかりの素足」は、「倫理>美」の代表ですし、次に挙げた「大礼服の例外的効果」や「鹿踊りのはじまり」は、「倫理<美」の例と言えるでしょう。
 ただこのように分けてしまうと、賢治は「倫理」と「美」という二つの価値を、両立不可能と見なし、個々の作品によってどちらか一方を表現しようとしていたかのようにも見えてしまいますが、実際にはそうではなく、むしろその逆だったとも言えるでしょう。賢治は、「倫理」と「美」の両方を作品中で同時に達成すべく、本気で追求しつづけていたのだろうと、私は思います。すなわち彼の作品には、この二つの契機が高い緊張感とともに、ギリギリのところでバランスをとろうとしている例も、たくさん見られます。

 たとえば、「なめとこ山の熊」という作品は、上の分類では「倫理>美」の側に属するように、私には思えます。物語の中ほどでは、小十郎が町の旦那の前では卑屈にならざるをえないというこの社会の仕組み(=現実的な倫理)に対して、作者は怒りを禁じえませんし、また最終的には、厳しい自然の中で人間と熊は対等であるという、小十郎や熊たちが体現している生き方(=現実社会を超越した、より高次の倫理)を、賢治は描いていると感じられるからです。
 このように「なめとこ山の熊」は、「倫理」が骨組みとなっている作品だとは思うのですが、この作品自体がどれほど高度な「美」にあふれているかということは、ここであらためて私がご説明するまでもありません。前半の母熊と子熊の会話や、最後の月明かりの山頂の場面など……。
 あるいは、「銀河鉄道の夜」も、私はまず倫理性(ex.大切な人の死、あるいは「〈みちづれ〉希求」の挫折を、人はどう受けとめるべきか、等)の方が根幹にある物語だと思うのですが、これももちろん、賢治の最も美しい作品の一つです。

 となると結局は、「倫理」と「美」が並々ならぬ高度な均衡を保とうとしている有り様こそが、賢治の作品特有の素晴らしさの秘密なのかもしれません。
 思えば、宮沢賢治という人が、一つの人格の中に、高い倫理的感性と天才的な美的感性を併せ持っていたということは、「稀有な偶然」と言うしかないことでしょう。一般には、前者を持つ人が後者も持ちやすいとか、あるいはその逆の相関も、特にはないからです。
 そしてさらに、賢治がこの二つの独立した契機を、緊密に結晶化させて文学的に表現しえたということも、またさらに稀有なことと言うしかありません。世の中には、ひたすら美を追求した作家や、また他方には倫理性を追求した文学者もいろいろありますし、その両者を盛り込もうとした人もあるでしょうが、賢治のような形でそれを達成した人は、やはり他にあまりいないように私には思えます。

 ただおそらく、賢治自身の考えでは、「倫理」と「美」が同時に完全に充足されるのは、『法華経』に云う「娑婆即寂光土」という状態であり、賢治のほんとうの理想は、そこにあったのでしょう。彼にとっては、そこでこそ究極の倫理と美が実現されているわけであり、自身の創作活動は、何とかしてそこに近づこうとする、一つの試みに過ぎなかったのかもしれません。
 しかし賢治のおかげで、私のような信仰を持たない者でも、彼の作品を読むことによって、「倫理」と「美」というもとは独立した別の契機が、奇跡のような結合をしている様子を、ありありと体感することができるのです。

 このように、賢治の作品の真骨頂は、「倫理」と「美」が織りなす構造にあるのだろうと思うのですが、現実の彼の作品では、両者が対等な扱いを受けているわけではありませんので、上のように「倫理>美」群の作品と、「倫理<美」群の作品があるということになります。
 個々の作品について、どっちに属するのだろうと考えてみることは、作品を普段とは別の角度から見てみることにもなって面白いのではないかと私は思うのですが、たとえば、「虔十公園林」は、どちらに入るでしょうか。

 一般的にはこの作品は、「倫理的」な視点から読まれることが多いのではないでしょうか。今福龍太氏が昨年刊行された、『宮沢賢治 デクノボーの叡智』は、幅広い観点から賢治の作品や思想について考えさせてくれる素晴らしい本ですが、ここでは虔十という主人公を、賢治の言う「デクノボー」の典型としてとらえ、これを一つの「倫理的モデル」と見ます。

 「虔十公園林」でもっとも凝縮した物語として語られた賢治の「デクノボー」とは、どのような内実を持った存在なのでしょう? 私たちが「愚かさ」を否定し、「賢さ」に特権を与える常識的な二分法がまったく的外れであることは、先の「博士」の言葉からもあきらかです。さらに一歩踏み込めば、賢治によるデクノボー的形象は、「愚かさ」そのもののなかにこそ守られているある資質としての「智慧」を信じようとするときの手がかりだとも言えるかもしれません。その考えは、差別される愚者への感情移入という心理的側面がまったくないわけではありませんが、それ以上に、知性というものを本質的に謙虚で慎ましいものとしてとらえる一つの倫理意識の表明でもありました。(同書p.175)

 今福氏は、このような「倫理」的視点から、虔十という主人公を解釈しておられますが、しかし私としてはこの物語は、賢治の作品の中では「倫理<美」のグループの一つの典型のように、思えるのです。
 以前に、「「ほんたうのさいはひ」を求めて(2)」という記事にも書いたことですが、この物語の主人公である虔十という人の本質は、「類い稀な美的感受性を持ち、それにある種の表現を与えた」というところにあると、私は思うのです。彼が知的には「愚か」と言われる状態だったというのは、彼の本質ではなくて、「たまたま」のことにしか過ぎないと思うのです。

 虔十は、物語の冒頭で描かれているように、「雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいて」という様子だったということですが、これは賢治が感動すると、「ほほーっ」と叫んで飛び上がったり踊り出したりしたというのと同じで、美しいものを見ると、我を忘れ自分を抑えられなってしまうのです。賢治の例も考え合わせると、これは当人の知的能力とはまた別の特性です。
 ただこのような特性によって賢治は、虔十のように「ばかにされる」というほどではなかったかもしれませんが、少なくとも周囲から「変わった人」と思われていました。

 虔十は、上のような振る舞いのために、子供たちにもばかにされ笑われていましたが、ある時思い立って、規則的に配列された小さな杉林の空間を造成することにより、自分をばかにしていた子供たちに、自分と同じような感動を教えるのです。
 虔十の創作物であるその杉林に遊びに来た子供たちは、思わず「みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐる」という状態に陥ってしまうのですが、これはそれまで自分たちがばかにしていた、虔十の「口を大きくあいてはあはあ笑」っていた気持ちに、知らずに同化してしまったわけです。

 ところで、虔十がやったような「風景をデザインする」という試みのことを、賢治は「装景」という独自の概念で呼び、文学的表現と並んで自らの美的表現手段の一つと考えていました。すなわち、虔十も賢治と同じく「装景者」だったわけです。
 ただ、類い稀な美的感受性を持ち、それを何らかの形で表現していたとしても、なかなか他人はその価値をわからずに、道楽者とかデクノボーとか言ったりもするでしょう。しかし、いったんそれが何らかの権威によって芸術として評価されるようになると、とたんに掌を返したように、ちやほやしたりもするのです。
 虔十の場合も、世間からはばかにされたまま忘れられかけていましたが、偶然アメリカ帰りの博士という「権威」がその杉林を認めてからは、急に石碑が建ったりお金が集まったりするようになるのです。これも賢治が死後に浴びることになる賞賛と同じです。そして、そのように世間に認められるまでの間、家族はその「作品」を大切に守っていたというところまで賢治の場合と同じで、ちょっと胸が熱くなります。

 それやこれやの意味で、やはり確かに虔十は賢治の分身だと思うのですが、その共通する本質は、すぐれた美的感受性をもった「装景者」であるが、世間からは理解されていなかった、というところにあると私は思います。虔十が知的に愚かであったという設定は、物語を寓話的に構成する上での一つの工夫にすぎず、作者としては「愚かさ」に対して何か積極的で特別な意味づけをしようとわけではなかったのではないかと、私は思うのです。
 「雨ニモマケズ」でも、描かれている「デクノボー」は、「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ 」という能力があり、実際には決して「愚か」な人間ではなく、ただ周囲からは十分に理解されなかったに過ぎません。

 ということで、私としては「虔十公園林」という物語は、「倫理<美」という側に属すると思う次第です。美的感受性やその表現物は、ばかにされていたかと思えば、権威によって箔が付けられたりもするという、「倫理」とは別のアイロニーが描かれるとともに、それでもやはり「雨の中の青い藪」や「青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹」の美しさは、変わらず輝いているのです。

 ただ、この『宮沢賢治 デクノボーの叡智』という本そのものは、私が最近読んだ賢治関連の本の中ではとても面白く、新たな見方もいろいろと教えてくれるものだったということを申し添えておきます。

宮沢賢治 デクノボーの叡知 宮沢賢治 デクノボーの叡知
今福 龍太 (著)

新潮社 (2019/9/26)

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2019年12月29日 おお朋だちよ 君は行くべく…

 「農民芸術概論綱要」の、「農民芸術の綜合」という節の最後に、次の言葉があります。

おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

 この言葉の意味がちょっと気になったのですが、これは具体的には、どういうことを言っているのでしょうか。
 ごく普通に考えれば、「農民芸術」という企画について論じ、それを一緒に実践していこうと、農村の若者たちに呼びかけるこの「概論綱要」の主旨からすると、ここに出てくる「行く」というのは、農民芸術の活動を進めて行く、ということかと思われます。そして、「朋だち」である「君」がまず農民芸術を実践して行けば、やがては全ての農民もそれに続いて「行く」であろう、という風に解釈することができます。

 前後の文脈からしても、この解釈でまあ特に問題はないようにも思えるのですが、ただ少し気になる点が一つ残ります。「農民芸術概論綱要」全体の基調としては、主語は基本的に「われら」であり、「われら」はこうあるべきである、だから一緒にこうして行こう、と皆に呼びかける形になっているのに対して、どうしてここでだけは、「君」ひとりが先に行き、それ以外はなぜか遅れて、「やがて」になっているのか?という点です。
 また別の角度から具体的に言えば、「この『君』とは、どういう人のことを想定しているのか?」という問題です。

 この「農民芸術概論綱要」は、農村の若者を対象として1926年1月末から3月にかけて行われた、「国民高等学校」という連続講座の講義内容をもとにしたものですが、誰かその生徒の中に、ここで言う「君」として先に行く者があったとは、考えにくい感じがします。生徒には、各農村から優秀な人材が集まっていたということですが、賢治の講義は難しく、皆なかなか理解しづらかったと言われています。
 となるとこの「君」は、教室で目の前にしている生徒の誰かではなくて、賢治自身の「朋だち」なのではないかとも思われるのですが、そこで私としてどうしても思い浮かんでしまうのは、保阪嘉内です。

 保阪嘉内と賢治は、1921年7月に東京で会い、この時賢治は嘉内に対して、一緒に国柱会で法華経の教えを世の中に広める活動をしようと、強く誘ったのだと思われます。しかし嘉内は、故郷に帰って農村の改革発展に努めたいという目標があり、結局は賢治の誘いを断って、二人はそれぞれに辛い気持ちを抱えたまま、別々の道へと踏み出したのだろうと思われます。
 その後の保阪嘉内は、電力会社の依頼で山梨県の地質調査をしたり、山梨日日新聞の記者をしたりした後、1925年5月に新聞社を退職して、故郷の駒井村で農業を始めます。
 おそらく当時の嘉内は、そのことを賢治に手紙で知らせたのでしょう。1925年6月25日付けの、賢治から嘉内への「残された最後の」書簡207には、次のように書かれています。

お手紙ありがたうございました。
来春は私も教師をやめて本統の百姓になって働らきます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します
〔後略〕

 先に営農生活に入った嘉内に続き、「来春には私も教師をやめて本統の百姓になって働らきます」と告げているわけです。
 そして、賢治が国民高等学校で「農民芸術」の講義を行った1926年3月は、賢治がその「百姓」になる直前でした。賢治が、「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう」と書いたのは、このような流れの中のことでした。
 やがては「すべて」の農村において、このような農民芸術が興隆して、農民の暮らしが精神的に豊かになっていってほしいというのが、当時の賢治の夢でした。農村発展に尽くす嘉内と同じ道を、「やがてはすべて行くであらう」というわけです。
 こういう意味で、「おお朋だちよ 君は行くべく…」という言葉は、あの別れから5年を隔てた保阪嘉内への、賢治からの遠い呼びかけのように、私には感じられたのです。

 一方、この「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう」という言葉を、もっと大局的に、賢治の「〈みちづれ〉希求」という心理の転帰に重ねて考えてみることもできるでしょう。

 賢治が1921年7月に嘉内に対して、ともに〈みちづれ〉となって仏道を歩もうと請い求めた時、嘉内は別の道を選んで去って行きました。ここで賢治の「〈みちづれ〉希求」は挫折したわけですが、しかしやがて彼は、個人を〈みちづれ〉とするのではなく、一切衆生を〈みちづれ〉として至上福祉を目ざさなければならないのだと、新たに自覚するに至ります(cf.「小岩井農場」)。「〈みちづれ〉希求」は昇華され、普遍化されたのです。
 この一連の経過と考え合わせると、「おお朋だちよ 君は行くべく」という部分は、嘉内が個人的な〈みちづれ〉とならずに去って行ったことに対応するように思えますし、「やがてはすべて行く」という部分は、「すべての衆生を〈みちづれ〉として進む」ことを指しているように感じられます。

 「国民高等学校」における賢治の「農民芸術」の講義を、生徒の伊藤清一書き取った「講演筆記帖」(『新校本全集』第十六巻(下)補遺・資料篇)によれば、「世界が全体真実に幸福にならないうち一人の幸福はあり得ない」「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」との記載に続いて、(仏教では法界成仏と云ひ自分独りで仏になると云ふことが無いのである)との言葉があります。
 この「法界成仏」とは、日蓮の書簡「船守弥三郎許御書」にある、「一念三千の仏と申すは法界の成仏と云ふ事にて候ぞ」に由来し、「十界」のうち「仏界」を除いた、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の「九界」に属するすべての衆生が成仏するということを意味します。
 すなわち、これは一切衆生を〈みちづれ〉とした成仏であり、やはり「やがてはすべて行く」ことになるのです。

 またもう一方で、以前に「トシの「願以此功徳 普及於一切」」という記事に書いたように、「個人的(利己的・排他的)な愛を超克して、普遍的な(凡ての人人に平等な無私な)愛に至らねばならない」という命題は、賢治が「小岩井農場」や「青森挽歌」で定式化するより数年前の1920年に、既にトシが「自省録」に書き付けていたものでした。

 或特殊な人と人との間に特殊な親密の生ずる時、多くの場合にはそれが排他的の傾向を帯びて来易い。彼等の場合にも亦そうではなかったか? 他の人人に対する不親密と疎遠とを以て彼等相互の親密さを証明する様な傾きはなかったか?
〔中略〕
 彼女が凡ての人人に平等な無私な愛を持ちたい、と云ふ願ひは、たとへ、まだみすぼらしい、芽ばえたばかりのおぼつかないものであるとは云へ、偽りとは思はれない。
 「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に──」と云ふ境地に偽りのない渇仰を捧げる事は彼女に許されない事とは思へないのである。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)

 上に引用されている、「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」という『法華経』の「化城喩品第七」の「偈」は、もちろん賢治がトシに教えたもののはずですし、その内容について理屈の上では、賢治の方がトシよりも先に理解していたわけです。
 しかし、女学校時代の教師とのスキャンダルという重い心の痛手から立ち直ろうとする中で、トシは21歳にしてこの法華経の言葉の神髄を、体感的に具体的につかみとり、それを「自省録」に書き記したのです。

 賢治がトシの「自省録」を読んでいたかどうかはわかりませんが、たとえ読んでいなかったとしても、上のようなトシの考えについては、彼女自身の口から聞く機会があったはずです。そして、賢治自身が保阪嘉内やトシや堀籠文之進との間の喪失体験において、このトシの考えをあらためて真に具体的に感じとり、「小岩井農場」や「青森挽歌」の推敲過程に盛り込んでいったのではないかと、私は思っています。
 その意味で、賢治よりも先に「逝って」しまったトシの心を賢治が受け継ぐことによって、結局「やがてはすべて行く」(皆共成仏道)ことになるのだと考えてみれば、これもこの言葉の、勝手な一つの解釈になるのではないでしょうか。

 賢治がトシの遺志も継ぐ形で、一切衆生を〈みちづれ〉とする道を歩む決心をしたとすれば、これこそ私がかねてから抱いている仮説のように、彼が「いつもトシとともにいる」と感じるようになった、大きな根拠のようにも思われます。トシの心は、賢治の中でずっと生きつづけていることになるからです。

 ということで、「農民芸術概論綱要」の一節に込められた含意について、思いつくままに考えてみました。
 1921年7月に、賢治が帝国図書館の一室で、保阪嘉内から「君と一緒に行くことはできない、僕は故郷に帰ってやらねばならないことがあるから」と告げられた時、5年後の「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう」という言葉をもって、嘉内にはなむけの言葉とすることができたなら、それはとても格好よかっただろうな、などと想像したりもしています。

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2019年12月15日 宮沢賢治作品の幻想性の由来

 先週12月8日に、「日本イメージ心理学会」のシンポジウム「宮沢賢治の持つイメージの世界をどう読み解くか」でお話をさせていただいた際の配付資料を、下記にアップしました。嵩高いタイトルでちょっと気恥ずかしいですが、ご興味がおありの方にお読みいただけましたら幸いです。

「宮沢賢治作品の幻想性の由来――その方法論と体験特性」(配付資料)

 ところで今回の発表では、賢治のモチーフをあしらった縦書きのパワーポイントテンプレートを作成して、初めて使ってみました。作品テキストを引用する際には、「月夜のでんしんばしら」やはり縦書きの方がしっくり来るので、従来は横書きと縦書きが混在するスライドになっていたのですが、これで全体が縦書きで統一できました。
 タイトル行の区切り線の上端には、賢治が描いた「月夜のでんしんばしら」を入れています。

 スライドの中から、アニメーションを用いた数枚を、GIFにして下に貼っておきます。

気配過敏・被注察感

離人症

体外離脱体験

(部分的)体外離脱体験

部分憑依

解離性幻覚

世界合一体験

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2019年12月 1日 君野隆久著『捨身の仏教』

 最近は、来週の日本イメージ心理学会シンポジウムの準備に追われていて、ブログの更新がまったくできていませんでしたが、今日でやっと配付資料やスライドが形になって、先が見えてきたところです。

 ところで、先ごろ京都造形芸術大学の君野隆久さんが、ご著書『捨身の仏教―日本における菩薩本生譚』を、ご恵贈下さいました。ここに深く感謝を申し上げます。
 君野隆久さんとは、2014年に「宮沢賢治学会京都セミナー《宮沢賢治 修羅の誕生》」でご一緒をした時以来のご縁なのですが、釈迦の前生譚など「ジャータカ」の研究者でいらっしゃいます。
 恥ずかしながら、私はそれまでジャータカというものについてほとんど知らなかったのですが、上記セミナーで君野さんの素晴らしいご講演「宮沢賢治とジャータカ」をお聞きして、その劇的な世界と賢治とのただならむ因縁に、強く惹かれました。これらの物語は、賢治の深層の心理と、どこか奥深くでつながっているような感じがします。

捨身の仏教 日本における菩薩本生譚 捨身の仏教 日本における菩薩本生譚
君野 隆久

KADOKAWA (2019/10/26)

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 この本において君野さんは、ジャータカのうちで「菩薩がふみおこなうべき徳目のために身体を犠牲にする──「捨身」する──主人公が登場するもの」を「菩薩本生譚」と呼び、この菩薩本生譚を日本の文化がどのように受容したかを考察されます。その過程で、日本の種々の説話への影響とともに、明恵上人、宮澤賢治、和辻哲郎の各々が、菩薩本生譚とどう関わったのかということを分析しておられるのですが、賢治の章では、私が以前に「ヴェッサンタラ王の布施」という記事に書いたことまでご紹介して下さっていて、恐縮・光栄の至りです。

 私が今回の君野さんの著作で、非常に強い印象を受けたのは、「身体を苦しめる行を捨て去ることによって成立したはずの仏教が、なぜ内側に、苦行の極限を表現するような菩薩本生譚を抱えこむこととなったのか」という謎に対して、君野さんが提出しておられる仮説です。
 君野さんは本書で、「菩薩本生譚とは、人間が普遍的にもつ深く昏い部分が表象としてあらわれた「反復強迫」なのではないか」との説を提唱しておられるのです。すなわちフロイトの言う、「抑圧されたものの回帰」です。
 そして、宮澤賢治について扱った章の終盤には、次のように記しておられます。

 本書の序章において、菩薩本生譚は仏教が抑圧、もしくは解体したはずの「死への欲動」が回帰した産物ではないかという仮説を述べた。菩薩本生譚がともなう激しい捨身行為は内攻した攻撃衝動の回帰であるとみるのである。賢治が自分の内なる攻撃衝動に対して非常に敏感でありかつ意識的であったことは、たとえば「土神と狐」のような作品や書簡の随所にみてとることができる。自己を捨てようとする願望は、慈悲の観念と結びつく以前に、攻撃衝動と表裏一体のものなのである。

 この考えは、賢治の心理や作品について考える上でも、とても重要な導きとなるのではないかと、私はいま感じています。

宮沢賢治作品の幻想性の由来(タイトル)

 「宮沢賢治作品の幻想性の由来」(本日のお話)

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2019年10月27日 「心象」の意味

 12月8日に埼玉の文教大学で開催される、「第20回日本イメージ心理学会」の公開シンポジウム「宮澤賢治の持つイメージの世界をどう読み解くか」において、鈴木健司さん、大島丈志さん、栗原敦さんとご一緒に話をすることになったので、最近はその準備を少しずつしています。
 今回はそれに関連して、賢治の「心象」と「イメージ」について。

 宮澤賢治が「心象」という語を作品に記した最初は、「〔冬のスケッチ〕」の中のいくつかの断章においてかと思われます。

    ※ おもかげ
心象の燐光盤に
きみがおもかげ来ぬひまは
たまゆらをほのにやすらふ
そのことのかなしさ。

天河石 心象のそら
うるはしきときの
きみがかげのみ見え来れば
せつなくてわれ泣けり。

 「〔冬のスケッチ〕」は、最も広く見積もって1921年12月から1923年3月までの間に書かれたと推測されており(『新校本全集』第一巻「校異篇」p.148)、一部は『春と修羅』の時代と重なっていると言われていますが、後者の作品になると、「春と修羅」の「心象のはいいろはがねから」、「小岩井農場」の「こんなせわしい心象の明滅をつらね」をはじめ、一挙にたくさん「心象」が出てきます。
 そしてやがて、個々の作品そのものが作者によって「心象スケッチ」と呼ばれるようになるわけです。

 賢治の言う「心象」とはどういう意味なのかということは、これまでも多くの人によって論じられてきました。境忠一氏は『評伝 宮澤賢治』において、当時の代表的な哲学事典である『哲学大辞典』で、現在では「心像」の語をあてる"image"の訳語として、「心象」が用いられていることを指摘していますし、大塚常樹氏の『宮沢賢治 心象の宇宙論(コスモロジー)』所収の「「心象」語誌」でも、エンジェル著『機能主義 心理学講義』の日本語訳や、当時のその他の心理学書において、「心象」が"image"の訳語として用いられている例が挙げられています。
 また、先月刊行された、奥山文幸氏の『渦動と空明 日本近代文学管見』(蒼丘書林)の第1章「宮沢賢治と「心象」」では、井上円了による「心象」の用例や、やはりエンジェルの『機能主義 心理学講義』の内容を検討し、さらに心的活動を「知・情・意」に三分するという考え方の沿革などを詳しく論じてていますが、最終的な結論は、以下のようになっています。

具体的には諸説紛々としており、心象スケッチという言葉が宮沢賢治の作品の中で成立する以前の時代もそれぞれ違っているのだが、賢治の心象スケッチにおける「心象」の位置がそのどれと重なり、あるいは近似しているのかについて確定することは難しい。

 ということで、奥山氏によれば「心象」の意味の問題は未解決だということなのですが、私としては、境忠一氏や大塚常樹氏の意見のように、心理学的な意味での"image"の訳語としての「心象」に由来していると言ってよいのではないかと、考えています。

 賢治の時代までの明治大正期における「心象」の語の用例を調べるために、国会図書館デジタルライブラリーでインターネット公開されている書籍のうちで、(賢治が「心象」の語を使い始めた時期の下限と言える)1923年までに刊行され、「書名」または「目次」に「心象」の語が入っているものをリストアップし、その中から同一の書籍の改訂版を除外すると、31件が該当しました。そして、各々の書籍において「心象」という語がどういう意味で使用されているかを調べると、下の表のようになりました。

 明治大正期における「心象」の意味

 ここで「イメージ」とは、前述のように英語"imege"の訳語として使われている場合で、現在の「心像」にあたります。一方、「心的現象」とは、心において生起する現象全般を指しているもので、「的現」に由来すると思われます。「心霊」とは、オカルト的な「心霊術」などで用いられる意味です。

 一見してわかるように、「イメージ」と、「心的現象」の二種が、拮抗しています。これを円グラフにすると、下のとおりです。

 明治大正期における「心象」の用例(グラフ)

 上の表から、いくつかの具体例を見てみましょう。
 まず「心理現象」の意味の例としては、明治期の心理学においてパイオニア的貢献をした井上円了の、『心理学 : 通信教授. 第1』(1895)では、「心ノ現象ハ爰ニ之ヲ心象ト名クルナリ」(p.9)と述べて、心の現象全般を「心象」と命名していることがわかります。1893年の『心理学百問百答』(日下部三之介)でも、「心象(即チ心ノ現象)トハ…」(p.6)とあり、さらに1903年の『催眠術及感応療法』(山崎増造)も、「心性の現象即ち心象は意識の作用にして単一なり」(p.37)と述べています。
 著作年は不明ですが、西村茂樹訳の『可吉士氏心象學摘譯』は、William Edward Coxというイギリス人の著した心理学書の手書きの抄訳で、「心象學」と「心理學」が、psychologyの訳語として混在しており、まだ「心理学」の訳語が完全には定まっていなかった時代を目の当たりにします。これも、「心象」が心理現象全般を表していることから、こちらの分類に入れています。
 少し変わっているのは、1906年の『倶舎哲学』(舟橋水哉)です。これは、心理学ではなく仏教哲学書ですが、「倶舎論」の世界観を説明する中で、下のように「心象」の語が出てきます(p.38)。

『倶舎哲学』

 本文の説明を読むと、世親の倶舎論では、万有をまず因果的事物(左の図式では有為)と非因果的事物(無為)に分け、次に「有為」を「物質(色)」と「心象(心心所)」と「非物非心(心不相応行)」に分け、さらに、「心象(心心所)」は、「心」と「心所」に分けられるということです。この「心」は、本来は「心王」と呼ばれ、心の認識作用のことを指し、「心所」は、その認識内容のことを指すようです。フッサール的に言えば、「ノエシス」と「ノエマ」でしょうか。
 いずれにせよ、「心王」と「心所」を合わせたものが「心象」だというのですから、これは「心的現象全般」のことになります。
 1908年の加藤咄堂著『心の研究』は、このような仏教哲学と西洋的な心理学を統合しようとしたものですが、「心象」の語はやはり『倶舎哲学』と同様の意味に用いられています。
 上の表およびグラフで、「心象」の意味を「智情意」としてある2件は、「心的現象」と一応区別はしてありますが、そもそも「心象」を三つに分類すると「智情意」になるということを述べており、するとこの「心象」は「心的活動」全体を指しているわけですから、広くとれば「心的現象」の分類に入れてもよいでしょう。
 もしそうした場合には、「心的現象」は2件増えて13件、「イメージ」は12件ということで、数は逆転します。

 一方、このような「心的現象全般」という意味と双璧を成すのが、心理学用語の"image"の訳語としての「心象」です。最も初期の頃の用例の一つと思われる1895年の『実験心理学(麟氏). 上巻』では、感覚トハ精神ノ表象(略シテ心象トイフ以下準之)ニシテ、外界ヨリ刺戟セラレタル神経興奮ヲ神経中枢ニ通ジ、該中枢ノ媒介ニ由リテ更ニ之ヲ精神其物ニ達スルニ由リ起ルモノナリ」とあり、「感覚」の要素の一つとして登場します。感覚内容が、何らかの「形象」を備えていることを、表しているのかと推測されます。
 よりはっきりと、"image"との関連を示しているのは、1900年の『教育学ニ応用シタル心理学』(浮田和民)で、ここには「再現的心象の象と云ふ字はイマゴ(Imago)と云ふ羅甸語から転化したるものでございます」(p.114)と書かれています。
 1909年の大槻快尊著『心理学』になると直接的に、「心象。Image/Gebild 精神現象は種々複雑なる結合状態にして、その内にて比較的簡単なる結合をなせるものあり、此を心象と称す」とあり、またハーバード大学でウィリアム・ジェイムズの同僚でもあったジョサイア・ロイスの心理学書の翻訳『ロイス氏 心理学』(風見謙次郎訳)では、「心象(Image)とは一般に過去の五官興奮の間接的結果なり」と述べられており、いずれも"image"の訳語であることが明示されています(p.146)。

 上の二種のいずれとも違った意味の「心象」として、オカルト的な意味での「心霊」があり、たとえば1918年の『心霊の秘密』では、"The Society for Psychical Research"が、「英国心象研究協会」と訳されています。
 ただ、このような「心霊」の意味と、心理学における「イメージ」―現在の「心像」に該当―とは、互いに関連性があるわけではなさそうです。大塚常樹氏は、エンジェル著『機能主義 心理学講義』の記載内容をもとに、「「心象」は「心像」よりも、より神秘的な精神作用を意味しうる用語だと言える」と述べておられますが、エンジェルの同書はあくまで自然科学的な立場から心理学を解説しており、そのような「神秘的な」事柄は述べられていないように、私には思われます。

 さて、以上見てきた、明治大正期の「心象」の主要な2つの意味、「心的現象全般」と「イメージ」のどちらに、賢治の用法が沿っているかということを実際の作品に即して見てみると、後者であることは明白だと思います。

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
          (「春と修羅」)

それよりもこんなせわしい心象の明滅をつらね
すみやかなすみやかな万法流転のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう
          (「小岩井農場」)

幻聴の透明なひばり
七時雨の青い起伏は
また心象のなかにも起伏し
ひとむらのやなぎ木立は
ボルガのきしのそのやなぎ
          (「一本木野」)

雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。
心象の明滅をきれぎれに降る透明な雨です。
          (「手簡」)

 これらはいずれも、作者の心の中に映じた、あるかたちをもった心的なイメージを表しています。明確な姿形を持っているとはかぎりませんが、少なくとも光が「明滅」するように、何か視覚的な様態である場合がほとんどです。
 ただし、、賢治の言う「心象」と、当時の心理学的な意味での「心象(イメージ)」、あるいは現在の「心像」との重要な相違点は、一般に心理学で言う「イメージ」は、現在体験しているものの像(知覚像)を指す場合には用いず、あくまで心に思い浮かべる像(表象)を指すのに対して、賢治はいま現に感じている知覚像も、あるいはそれとともに彼の心の奥底から湧いてくる表象や幻覚的な体験なども含めて、すべてを「心象」と呼び、その記録を「心象スケッチ」と名づけたということです。

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

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2019年10月 6日 Attachment is forbidden...

 映画「スター・ウォーズ」のエピソード2「クローンの攻撃」の、中ほどに出てくる場面です。

 アナキン・スカイウォーカーとパドメ・アミダラが、下記のように語り合っています。

Padme:
Are you allowed to love?
(あなたたちは愛することを許されているの?)
I thought that was forbidden
for a Jedi.
(ジェダイは愛を禁じられているのかと思ってた。)

Anakin:
Attachment is forbidden.
(愛着は禁じられている。)
Possession is forbidden.
(所有も禁じられている。)
Compassion, which I would define
as unconditional love...
(慈愛というのは、無条件の愛のことだけど…
is central
to a Jedi's life.
これはジェダイの生き方の中心なんだ。)
So you might say that
we are encouraged to love.
(だから僕らは、愛するよう奨められているとも言えるんじゃないかな。)

 ここに出てくる、愛着(attachment)と、慈愛(compassion)という、「愛」の二つの形は、賢治の生涯における重要な葛藤にも、通じるものがあるのではないかと思います。

 まず attachment とは、「一つの対象に執着する愛」と言っていいでしょう。「小岩井農場」パート九の表現では、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」という道です。
 これに対して compassion とは、passion(感情)を com(共にする)という語の成り立ちに見るように、「共感」を基とする愛です。passion は、語源的には「苦しみ」という意味で、ここから「キリストの受難」という特別な意味も出てきたわけですから、ここには「共に苦しむ」「共に身を捧げる」というようなニュアンスも、含まれているでしょう。
 やはり「小岩井農場」パート九では、「正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」と表現されている道で、これはまさに菩薩の「慈悲」です。「共苦」という概念は、「〔雨ニモマケズ〕」の、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」にも通じるものだと思います。
 ところで、「スター・ウォーズ」における「ジェダイ」という設定には、その衣装を含めていろいろ東洋的な様式が取り入れられていますが、上のような「ジェダイの掟」は、非常に仏教的な色彩を帯びていると感じます。

 以前の記事で私は、賢治は並外れて強い「〈みちづれ〉希求」を抱いていたのだろうということ、そして「個々の人間を〈みちづれ〉として」求めた結果はいずれも挫折に終わり、結局は「全ての衆生を〈みちづれ〉として」生きる道を選択をしたのだろうということを書きましたが、これは「スター・ウォーズ」風に言えば、attachment(個別的な愛)を超克して、compassion(普遍的な愛)に至る道だった、ということになるわけです。
 また「青森挽歌」に出てくる、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という命題は、上のアナキンの言葉では、"Attachment is forbidden"に、まさに対応していると言えます。

 ただ、上の場面では優等生的に「ジェダイの掟」を説明していたアナキンでしたが、その後結局パドメに対する強い attachment に振り回されてしまった結果、暗黒卿ダース・シディアスの陰謀によってフォースの暗黒面に墜ち、ダース・ベイダーになるという運命が待っていたのです。

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2019年9月16日 存在否定から全称肯定へ

 先日以来、「「〈みちづれ〉希求」の挫折と苦悩」とか「「〈みちづれ〉希求」の昇華」などという記事を書いていましたが、それらで私が言いたかったことの要点は、「賢治には「〈みちづれ〉希求」というような独特の強い感情があって、ある時期まで己の〈みちづれ〉として求めた人に次々と去られ、喪失感や孤独感に苦しんだが、ある時期からは個人を〈みちづれ〉として求めることはやめて、代わりに全ての衆生を〈みちづれ〉として道を求めていこうと考えるに至った」というようなことでした。
 一方、以前から私は「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」とか、当ブログのいくつかの記事において、「賢治はある時期までトシの喪失を受容できず苦悩していたが、ある時期以降は『トシがいつも近くにいる』という感覚を抱くようになり、苦しみを乗り越えていったのではないか」ということを考えていました。

 最近、この二つの「乗り越えの論理」は、構造的にとても似ていると思うようになり、また同じ論理構造は賢治のいくつかの作品にも認められ、さらには大層な話ですが大乗仏教というものが誕生した際の思想転換にも通じるものがあると感じましたので、本日はそのことについて、書いてみたいと思います。


1.「〈みちづれ〉希求」の昇華と「トシ喪失」の受容の論理

 先にも述べましたが、まず「〈みちづれ〉希求」をめぐる賢治の認識の経時的な変化は、次のように要約しなおすことができます。

(1) 私はある人を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く
(これは、ある時期までの賢治が、保阪嘉内やトシや堀籠文之進に対して、抱いていた感情です。それは「小岩井農場」においては、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」と表現されました。)

(2) 誰も私の〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行ってくれる人はいない
(賢治の(1)の思いにもかかわらず、保阪嘉内は故郷へ帰り、トシは彼を置いて早逝し、堀籠文之進は彼と一緒には歩めないと言明しました。結局賢治の「〈みちづれ〉希求」は、誰もかなえてくれなかったのです。)

(3) 私は全ての衆生を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く
(しかしここで賢治は、誰か一人だけと一緒に行くのではなく、「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」(「小岩井農場」)という方向に転換することで、危機を乗り越えようと決意しました。)

 次に、上の論理の骨組みを見えやすくするために、これを記号論理学的に表現してみます。
 「私は衆生xを〈みちづれ〉として、どこまでも一緒に行く」という命題を、A(x)という命題関数で表すとすると、上記(1)は、

(1) ∃xA(x)

と表現できます。ここで記号「∃」は、「存在量化子」と言い、「少なくとも一つ存在する」という状態を表します。上の記号列は全体として、「或る衆生xについてA(x)である」、すなわち「私は或る衆生を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く」ということを表しています。
 また上記(2)は、

(2) ¬∃xA(x)

と表現できます。ここで記号「¬」は否定を表し、「¬∃」とつなげると、「少なくとも一つ存在する」が否定されるので、「一つも存在しない」となります。記号列全体としては、「どの衆生xについてもA(x)ではない」、すなわち「私はどの衆生とも〈みちづれ〉として一緒に行くことはない」ということを表しています。
 さらに、上記(3)を記号化すると、

(3) ∀xA(x)

となります。記号「∀」は、「全称量化子」と言い、「全てが○○である」という事態を表します。全体としては、「全ての衆生xについてA(x)である」、すなわち「私は全ての衆生を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く」ということを表しています。

 すなわち、「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華の過程は、論理記号を用いると、

(1) ∃xA(x)
(2) ¬∃xA(x)
(3) ∀xA(x)

という三つのステップとして、表すことができるのです。


 次に、トシが亡くなる前後の賢治のトシに対する認識は、次のように要約することができます。

(1) トシは或る場所にいる(トシ生前の状態)
(2) トシはどこにもいない(トシの死による不在)
(3) トシはどこにでもいる(トシの遍在)

 そして、これを記号論理学的に表現するため、「トシが場所xにいる」という命題をB(x)とするならば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xB(x) (或る場所xにトシはいる)
(2) ¬∃xB(x) (どの場所xにもトシはいない)
(3) ∀xB(x) (全ての場所xにトシはいる)

 ご覧のように、この記号列は、「〈みちづれ〉希求」の昇華過程と同一であり、論理構造が全く同じ形であることがわかります。


2.「めくらぶだうと虹」と「ひのきとひなげし」の論理

 ところで気をつけて見てみると、上記のような論理構造の同型性は、賢治のいくつかの童話作品にも認められます。
 まず、童話「めくらぶだうと虹」において、めくらぶどうは虹のことを最高に誉め讃え、「あなたが、もし、もっと立派におなりになる為なら、私なんか、百ぺんでも死にます」と言います。
 しかし、虹はそんなめくらぶどうをたしなめ、「本たうはどんなものでも変はらないものはないのです」と言い、全ての存在は無常であることを説明します。
 ところがまた虹は、「けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらはれるときは、すべてのおとろえるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです」と言い、全ての生命は無常でありつつも、かぎりなく尊いのだと言います。
 この論旨の骨格は、次のように表現できます。

(1) 或るいのち(虹のような存在)は、かぎりなく尊い
(2) どんないのちにも、かぎりがある
(3) 全てのいのちは、かぎりない

 ここでまた、「いのちxはかぎりない」という命題をC(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xC(x)
(2) ¬∃xC(x)
(3) ∀xC(x)

 これも、「〈みちづれ〉希求」の昇華および「トシ喪失」の受容の過程における論理構造と、同型です。


 次に、童話「ひのきとひなげし」を見てみます。このお話に出てくるたくさんのひなげしの中で、「テクラ」という一本は、その美しさにおいて自他ともに認める「スター」でしたが、実はどのひなげしも、もっと美しくなって「スター」になりたいと、強く望んでいました。
 そこに悪魔がやって来て、ひなげしが作る阿片と引き換えに、彼女たちに美容術の薬を服用させるという約束をしたのですが、まさにその契約が果たされようとした瞬間に、ひのきが悪魔を追い払いました。
 ひなげしたちは、邪魔をしたひのきに怒りますが、ひのきは「もう一足でおまへたちみんな頭をばりばり食はれるとこだった」と説明するとともに、「ありがたいもんでスターになりたいなりたいと云ってゐるおまへたちがそのままそっくりスターでな、おまけにオールスターキャストだといふことになってある」と言い聞かせます。
 この展開の要旨は、次のようになります。

(1) 或るひなげし(テクラ)はスターである
(2) どのひなげしもスターでない(けし坊主の根絶)
(3) 全てのひなげしはスターである(オールスター)

 ここで、(2)の「どのひなげしもスターではない」という段階は、「みんな頭をばりばり食はれる」という事態のことで、これは実際にはひのきの機転によってかろうじて避けられましたが、ほとんど現実化していたことから、ここに挙げています。
 ここでまた、「ひなげしxはスターである」という命題をD(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xD(x)
(2) ¬∃xD(x)
(3) ∀xD(x)

 これもまた、今までに見た例と全く同型です。


3.大乗仏教の思想革命

 紀元前5世紀頃に生きて悟りを開いた釈迦が、80歳で入滅すると、弟子たちは釈迦の教えを継承し実践する教団を形成しました。そして100年以上の歳月が経過するうちに、教えの解釈の違いをめぐって教団は20もの部派に分かれ、「部派仏教」と呼ばれる時代となります。さらに、釈迦入滅から500年ほどが経過した西暦紀元前後の頃、いくつかの部派が伝承する経典群に、ほぼ時を同じくして大きな変化が現れてきます。
 この変化が、後に「大乗仏教」として新たな仏教運動へと発展していくのですが、そこに見られる思想の転換には、いくつかの特徴がありました。ここでは、特にそのうちの二つを取り上げてみます。

 一つは、釈迦や部派仏教の教えでは、悟りに至るためには出家をして、煩悩を滅尽するための教学や修行に励むことが必須の条件とされ、またそれを真面目に実践したとしても、悟りに到達できるのは一部の者だけであるとされていました。しかし、これが大乗仏教になると、「出家者であろうと在家者であろうと、全ての者は悟りに至ることができる」と考えられるようになったのです。
 この画期的な思想は、最初期の大乗仏典である「般若経」系の経典には、「全ての人は過去世において、既に仏と出会って悟りを目ざすとの誓いを立て(誓願)、悟りへの到達を仏から保証されている(授記)」という形で盛り込まれていますし、「法華経」においては、この経こそが全ての衆生を成仏へと導く「一仏乗」であると説かれ、浄土系の宗派では、阿弥陀如来の力によって皆が浄土へ行ける(そして必ず成仏できる)と信じられ、「涅槃経」では「一切衆生悉有仏性」という言葉や「如来蔵」の思想に集約されています。
 部派仏教の中から、このような新たな大乗的思想が生まれてくる時期は、仏教にとっては苦難の時代でもあり、たとえば紀元前180年頃のインドには仏教を弾圧する王が現れたり、ガンダーラ地方には異民族が流入して混乱が起こったりして、出家教団の基盤も脅かされていたということです。このような情勢も反映してか、仏教内部では「釈迦入滅後500年で、正しい教えが滅びる」(=「正法滅尽(法滅)」)という危機的思想も、広がっていました

 以上のような、「悟りの可能性」に関する仏教内の考え方の変遷を、要約すると下記になります。

(1) ある者は悟りに至れる(初期仏教・部派仏教)
(2) 誰も悟りに至れない(正法滅尽)
(3) 誰でも悟りに至れる(大乗仏教)

 またここで、「衆生xは悟りに至れる」という命題をE(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xE(x)
(2) ¬∃xE(x)
(3) ∀xE(x)

 上記も、先に1.2.で見た論理構造と、同型になっています。


 さらにもう一つ、大乗仏教全体に共通する特徴として、「生身の人間としての釈迦は80歳で入滅したが、実は真理を体現する存在としての仏陀は、永遠の過去から未来にわたって、常にこの世に存在し続けている」という考えがあり、このような普遍的で永劫の存在としての仏の身体のことを、「法身(ほっしん)」と呼びます。
 この「法身」という思想も、大乗仏教の最古層の「般若経」系の経典から見られるものですが、「法華経」においては「如来寿量品」で「久遠実成」として説かれ、浄土系の宗派では「法性法身」と言われます。密教においては、永遠不滅の真理を体現しつつ宇宙に遍満する「大日如来」として、非常に高い普遍性が付与されています。
 このような、様々な形での「仏」の存在についての考えを整理すると、下記になります。

(1) 仏はここにいる(釈迦在世中)
(2) 仏はどこにもいない(釈迦入滅)
(3) 仏は常に宇宙に遍満している(法身仏)

 またここで、「仏は場所xにいる」という命題をF(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xF(x)
(2) ¬∃xF(x)
(3) ∀xF(x)

 これもまた、上の全ての論理構造と同型になっているのです。


4.論理の同型性の意味

 上記のような、論理に共通する筋書きをあらためて抜き出すと、「(1)とても大切な何かを求め、あるいは守っていたところ、(2)それが失われてしまい、『もう○○はない!』という危機に陥るが、(3)ここで大逆転が行われ、『実は全ては○○である!』という認識の転換によって克服される」、という構造になっています。
 すなわち、その大切なものの「存在否定」がもたらす危機において、単にその存在を取り戻して復旧させようとするにとどまらず、むしろ一挙に全てを獲得する「全称肯定」に至るというのが特徴で、いわば「禍を転じて福と為す」というような型になっています。

 ということで、ちょっと不思議な同型性が認められるというのが本日の記事の趣旨なのですが、ここで問題は、賢治の人生や作品に、こういう風に大乗仏教の根幹と共通するような論理の同型性が認められることに、何か意味があるのか、ということです。
 私もよくわからないのですが、賢治がこういうことを具体的に意識しながら己の生き方や創作について考えていたとは、想定しにくいように思います。ただ、大乗仏教を深く学んでいた彼にとって、このような思想の「型」が知らず知らずに血肉となっていて、何かの折りに無意識のうちににじみ出てくるということは、あったのではないかと思います。

 上の六つの例のうちでも、とりわけトシの喪失を受容する過程で「トシの遍在」を意識するようになるところと、大乗仏教で宇宙に遍満する仏の身体としての「法身仏」という概念が出現するところには、特に強い類似性が感じられます。これについては、以前に「上原專祿の死者論―常在此不滅」という記事で紹介したように、上原專祿が「法華経」の「自我偈」を毎日読誦するうちに、仏の久遠実成を述べる「常在此不滅」という一節から、釈尊常在よりも先に亡き妻の「常在」を実感するようになったと書いていたことが、あらためて思い出されます。
 私は従来は、「トシ追悼過程における他界観の変遷」や「賢治の他界観の変遷図」という記事に書いたように、賢治の中の「非仏教的」な要素が、トシ喪失の受容において大きな役割を果たしたのではないかと考えてきたのですが、同時に上記のような仏教的な思想も奥底では働いていたのかもしれないと、思うようになったところです。

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2019年9月 8日 京大で「宮沢賢治と鉱物」講演会

 現在、京都大学総合博物館では、「地の宝II 比企鉱物標本」という企画展が行われていますが、関連した催し一環として、来たる9月15日(日)に同博物館で、「宮沢賢治と鉱物」と題した講演会が行われます。

日時: 9月15日(日) 14:00〜15:00
タイトル: 「宮沢賢治と鉱物」
演者: 桜井 弘(京都薬科大学名誉教授)

 講師の桜井弘さんは、賢治の作品に出てくる45の元素を、美しい鉱物写真とともに周期律の順に配列した、『宮沢賢治の元素図鑑』(化学同人)を、昨年刊行された化学者で、賢治の作品に対する愛情は、この本の隅々にまで充ちあふれています。ちなみに、賢治の本来の専攻分野は「化学(農芸化学)」でしたが、桜井さんも「化学」がご専門で、なおかつ「鉱物学」や「地質学」の造詣も深いというところも共通しており、科学者としてのスタンスに何か響き合うものがあるのかもしれません。
 講演の終了後には、「展示解説ツアーも開催されるということで、これはとても楽しみな企画だと思います。

宮沢賢治の元素図鑑ー作品を彩る元素と鉱物 宮沢賢治の元素図鑑ー作品を彩る元素と鉱物
桜井 弘 (著), 豊 遥秋 (写真)

化学同人 (2018/6/6)

Amazonで詳しく見る


 ところで今回の企画展は、明治・大正時代に京都帝国大学教授を務めた比企忠が収集した貴重な鉱物標本を展示するもので、企画展のウェブページでは、下記のように説明されています。

企画展「地の宝II 比企忠鉱物標本」 京都大学総合博物館には、京都帝国大学時代から100年をかけて集められた2万点以上もの鉱物標本が収蔵されています。なかでも工学部由来の比企(ひき)鉱物標本は、現代では入手することのできない、国内では最高峰の鉱物コレクションです。これらの鉱物標本の持つ迫力や美しさは圧倒的で、まさに自然が作り出した「地の宝」といえるでしょう。工学部採鉱冶金学科の教授であった比企忠(ひきただす)は日本中、世界中から鉱物・鉱石を集めており、当時その標本室を見たものからは国宝とも称されていました。その後、比企の鉱物コレクションの存在は学術界からさえも長年忘れ去られていましたが、工学部、そして総合博物館へと丁重に引き継がれてきました。整理を進めていると、すべての標本に比企の手書きのラベルが添えられており、比企忠という研究者の姿や比企が標本に込めた想いまでもが現代によみがえるかのようでした。多くの金属鉱山が閉山した現代の日本ではこれらの標本が持つ学術的な価値はかけがえのないものです。

 これだけでも、鉱物好きの方にとってはまたとない機会でしょう。
 場所は、百万遍の交差点から東大路をすぐ南で、電車の最寄り駅は、京阪の「出町柳」です。

京都大学総合博物館地図

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2019年9月 1日 「〈みちづれ〉希求」の昇華

 「〈みちづれ〉希求」の話に行く前に、まずは次の疑問について考えることから、今回の記事を始めてみたいと思います。
 『春と修羅』を書いていた頃の賢治は、いったいなぜ、自らの〈修羅〉性について、あれほど尖鋭に意識し、苦悩しなければならなかったのでしょうか。

 賢治が自らを〈修羅〉と規定し、そのような己の本性に対峙しつつ苦しんだことは、「春と修羅」の、

おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

という箇所に、端的に表れています。なぜ彼は、自分のことを「ひとりの修羅なのだ」と呼び、そのために風景がゆすれるほど、なみだを流さなければならなかったのでしょうか。これは、『春と修羅』という一つの詩集全体をも貫くテーマとも言える、重要な問題でしょう。

 まず客観的に見ると、宮澤賢治という人は、「修羅」と言えるような人柄でもなく、またそういった行動をする人でもなかったということは、以前の「諂曲なるは修羅」という記事においても、具体的に確認したところです。賢治を直接に知る人々の証言では、彼は修羅とは対極的に、「どんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人」(佐藤成)、「おだやかでもの静か」(羽田視学、畠山校長)、「とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人」「けっしていばらない人」(藤原嘉藤治)と評されており、賢治自身が己の修羅性を気にする必要性は、全くなかったはずなのです。

 それにもかかわらず、彼が「おれはひとりの修羅なのだ」と自己規定をせざるをえなかった理由があるとすれば、それは他人からはうかがい知れないけれども、彼にとっては何か自分の内に、〈修羅〉的な要素を強く意識せざるをえない部分があり、その部分をどうしても自分で許せなかったために、あそこまで苦しんだのだろうと、考えるしかありません。

 そこで次の問題は、そのように賢治が意識した自らの〈修羅〉性とは、具体的にはいったいどういう部分だったのか、ということです。これについては、やはり記事「諂曲なるは修羅」で述べたように、童話「土神ときつね」と、「小岩井農場(清書後手入稿)」第五綴の記述が、有効な導きとなります。

 「土神ときつね」は、これまでの研究によって、作者賢治が登場人物を自らの分身のように造型している面があること、そして同時にその「土神」は、修羅性の象徴とも言えることが、指摘されてきました。これに加えて私としては、怒り荒ぶる土神は「修羅の瞋恚的側面」を象徴し、言葉巧みに樺の木を誑かす狐は「修羅の諂曲的側面」を象徴するという図式になっているのではないかと、考えてみました。

 一方、「春と修羅」の翌月にスケッチされた「小岩井農場(清書後手入稿)」の次の箇所における賢治の言動は、このような「瞋恚」と「諂曲」に、不思議と合致しているように感じられます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、何とかして同僚の堀籠文之進と親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけているのですが、なかなかうまく行きません。
 引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところは、土神が樺の木と仲良くなりたいのに、不器用にも乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられます。
 また前半部で、鞍掛山が地質学的に岩手山の系統に属さないという自説を、「これは私の発見です」とやや大げさに自慢げに言っているところは、狐が樺の木の気を引こうとして話を誇張するところに通じます。

 つまり、私が思うのは、次のようなことです。当時の賢治は、自分が堀籠と仲良くなりたい一心で、思わず激情があふれて一方的な物言いになり、意に反して相手を萎縮させてしまうところや、あるいは自分を良く見せようとして、つい得意気に話を盛ってしゃべってしまうところ等が、自分でも情けなく思えて、己を許せなかったのではないでしょうか。そして、そのような自らの言動は、修羅の特性である「瞋恚」と「諂曲」にも通ずるところから、深い自己嫌悪とともに己を〈修羅〉と規定し、そのような自分を何とかして超克しなければならないと、考えたのではないでしょうか。

 おそらく賢治にとって、このような感情に悩まされるのは人生で初めてのことではなく、数年前から保阪嘉内に対して、己の〈みちづれ〉となってくれることを求めては叶えられず悶々とし、ついに「春と修羅」を書く前年に悲しい別れを迎えるまでの過程においても、ずっと同様の苦しみを味わっていたのではないでしょうか。
 そして、翌1922年の春、またもや同じような苦悩に囚わていれる自分に直面し、己のその「業」のような性質に対して、ここで〈修羅〉という自己規定を行ったわけです。

 冒頭に掲げた、「なぜ賢治は、客観的には修羅的ではないのに、己を〈修羅〉と意識して悩まなければならなかったのか」という疑問に対して、現時点で私としてはこれが、最も無理のない答えに思えます。それは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによって、思わず露呈してしまう、自らの内の「下等」な感情のことだったと思われるのです。

 (ちなみに、ここで言う「下等」とは、「小岩井農場(清書後手入稿)」第六綴の、次の箇所からとっています。)

 (私はどうしてこんなに
  下等になってしまったらう。
  透明なもの 燃えるもの
  息たえだえに気圏のはてを
  祈ってのぼって行くものは
  いま私から 影を潜め)

 では賢治は、そのような己の〈修羅〉性を、実際にどのようにして克服していったのでしょうか。
 現在の私たちから見ると、賢治が特定の誰かについて、上記のように感情的になったり諂うような態度をとったりしてしまうのは、「ある一人の人に対して、信仰も含めてどこまでも一緒に行こうとしてしまう」ところに、無理があるのだろうと思われます。つまり、先日の記事の言葉では、「〈みちづれ〉希求」に囚われてしまうことに、原因があるわけです。
 しかし、1922年4月8日の日付を持つ「春と修羅」でも、5月う21日の日付を持つ「小岩井農場(清書後手入稿)」でも、自分の言動を反省してはいるものの、己の「〈みちづれ〉希求」そのものを問題視している様子は見受けられません。しかし、「原因」をそのままにして、表面の「結果」だけを抑えつけようとしても、それは無理なことでしょう。
 1923年3月4日には、堀籠に対して、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言って、堀籠の背中を打ち、これによってどうにか彼を〈みちづれ〉として求めることを諦めたようです。しかし裏を返せば、この日まで賢治は、まだずっと堀籠に対する感情に苦悩し続けていたわけです。

 このような苦しみに囚われていた賢治の問題意識が、原因である自らの「〈みちづれ〉希求」の方へと向かったのは、図らずも「トシを失う」という体験をしたおかげだったのではないかと、私は思います。
 トシという、やはりかけがえのない〈みちづれ〉が1922年11月27日に亡くなり、その喪失の悲嘆に暮れていた賢治は、翌1923年7月末から8月初めにかけて、トシの魂を追い求め、何かの「通信」の望みを抱いて、サハリンへ旅をします。ここでは、賢治はまだトシという「ひとり」を諦めきれていないわけですから、やはり彼は従来のような「〈みちづれ〉希求」に囚われていたと言えるでしょう。
 しかし、この旅から帰郷した後、賢治に重要な変化が現れはじめるように思われます。この年の秋頃に書かれたと推測される「手紙 四」では、死んだ妹ポーセを探そうとするチユンセに対して、「チユンセがポーセをたづねることはむだだ」との宣告が行われ、〈みちづれ〉を求める行為が、明確に否定されるのです。そしてその否定のかわりとして、「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」ということが説かれます。ご存じのように「青森挽歌」においても、いつの時点の推敲からかは不明ですが、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、同様の啓示が現れます。

 すなわちここでは、「死者」を対象とする形ではありますが、ある特定の一人と「どこまでもどこまでも一緒に行かう」とするような「〈みちづれ〉希求」は、利己的な願望として否定され、かわりに「すべての生き物と一緒に、本当の幸福へ到る」という、菩薩行的な志向性こそが、肯定されるのです。

 そしてこの命題を、死者を対象としたものから生者へと拡張すると、「小岩井農場(初版本)」パート九の、有名な定式になります。

もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ

 ここでは二番目に登場して「恋愛」と呼ばれている、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」願望が、これまで述べてきた「〈みちづれ〉希求」に相当します。賢治はおそらく、同性であろうと妹であろうと、全き同伴者として強く求める自らの「〈みちづれ〉希求」というのは、なかなか一般人には理解されにくいということがわかっていて、それでここでは通俗的に「恋愛」と表現しているのではないかと、私は思います。それでも、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」というのは、やはり一般人の平均的な恋愛感情を超えていると言わざるをえず、やはりこれが賢治独特の感情を原型としていることが、推測されます。
 そして、このように一人を対象とした愛は、正しい「宗教情操=じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」願いが、砕けまたは疲れて退化したものにすぎないわけなので、だから人は本来の宗教情操にこそ立ち返らなければならないというのが、この箇所の賢治の考えです。仏教的な言い回しでは、例えば「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」(『法華経』「化城喩品」)に通じます。

 このように、「ただ一人を対象とした〈みちづれ〉希求」を、「全ての衆生を〈みちづれ〉とした求道」、すなわち「菩薩行」へと転換すること、これこそが賢治が到達した「〈みちづれ〉希求」の昇華でした。別の言い方をすれば、「個別的・主観的な愛」を、「普遍的・客観的な愛」に高める、とも言えるでしょうか。
 そしてこれによって、彼はやっと己の〈修羅〉性から解放され、個人への執着に悩み苦しまずに自分が目ざすべき方向性を、明確にできたのです。

 実際、『春と修羅』の最終章である「風景とオルゴール」や、『春と修羅 第二集』以降では、人間ではなくて「自然への愛」や「自然との合体」が、謳歌されるようになります。

こんなあかるい穹窿と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか
   (おい やまのたばこの木
    あんまりヘんなおどりをやると
    未来派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
芦のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはいつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる
        (「一本木野」)

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
        (「種山ヶ原」下書稿(一)

あのどんよりと暗いもの
温んだ水の懸垂体
あれこそ恋愛そのものなのだ
炭酸瓦斯の交流や
いかさまな春の感応
あれこそ恋愛そのものなのだ
        (「春の雲に関するあいまいなる議論」)

 このように振り返ってみると、『春と修羅』という詩集は、賢治が1921年の保阪嘉内との最後の面会、1922年のトシとの死別、1923年の堀籠への諦めという形で、己の「〈みちづれ〉希求」の度重なる挫折に苦悩し、それによって煩悶する自分を〈修羅〉と規定して対峙し、ついにそのどん底から妹の死も契機として再び歩き始めたという、一連のプロセスの記録であったということもできます。
 その期間においては、思想的な懊悩と並行して、飽くなき作品の推敲もあったはずですが、その果てにやっとのことで、「小岩井農場(初版本)」パート九のような、一定の境地を表すテキストに達することができたわけです。
 一つの詩集の中に、本当にダイナミックな展開と決着が隠されていると感じますが、逆に言えば、賢治としては自らの苦悩にやっとこういう形で、思想的なレベルで一段落をつけることができたので、そのドキュメントを『春と修羅』という一つの詩集として、世に出そうと思ったということかもしれません。

 かつて天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現されました(「《宮澤賢治》作品史の試み」)。その二つの中心とは、「己の《修羅》性の発見」と、「妹の死」というテーマだったわけですが、上のように見てくると、賢治にとって「己の〈修羅〉性」とは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによる感情的動乱だったわけですし、「妹の死」は、これ自体が彼にとって最大の「〈みちづれ〉希求」の挫折でした。
 そうすると、天沢氏の言う「二つの中心を持つ楕円」とは、実は突き詰めれば、「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華という「一つの中心を持つ円」だったとも、言えることになります。その「一つの中心」を作品の上に定位するとすれば、「春と修羅」と「永訣の朝」の間にある、「小岩井農場」になるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、この問題こそが、『春と修羅』の最大かつ本質的なテーマであったのだろうと、私としては思うところです。

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2019年8月16日 足摺岬の「雨ニモマケズ」詩碑

 8月11日から12日にかけて、高知県の足摺岬の奥の牧場に先月建立された、「雨ニモマケズ」詩碑の見学に行ってきました。

 先週から台風が、まさにちょうどこのあたりを目ざして来ているところだったので、無事に行き着けるかと心配していたのですが、当初の予想よりも台風の接近が遅れてくれたおかで、天候は大丈夫でした。
 瀬戸大橋が架かってからは、京阪神から四国に入るまではあっという間なのに、やはり足摺まで行くとなると、四国の中での移動が大変です。高知まで土讃線の振り子列車に揺られながら山を越え、そこからさらにJRと土佐くろしお鉄道をまたぐ、「特急あしずり」に乗ります。
 下の写真は、土佐くろしお鉄道の土佐佐賀あたりで、車窓から見た海の様子です。青空ものぞいてはいるものの、遠くの雲は何となく不穏で、海には白い波しぶきがかなり目立っています。

土佐佐賀あたりの太平洋

 「あしずり」に乗って約2時間で終点の中村(四万十市)に着き、そこからはバスに1時間ほど揺られて、土佐清水市です。この日は、詩碑を建てられた西村光一郎さんが、土佐清水のバスターミナルまで車で迎えに来て下さっていたので、市街地からさらに海沿いと山中の道を20分あまりで、「足摺牧場」に着きました。

 地図で見ると下のような、南海に臨む位置です。右下の「+」を押してズームしていただくと、より詳細な場所がわかります。

 足摺牧場の入口です。

足摺牧場入口

 牧場に入ると、まず「宮澤賢治詩碑建立趣意書」があります。

「宮澤賢治詩碑建立趣意書」

 そして、背後に太平洋も見渡せる場所に立つ、3基の詩碑。

足摺牧場の三詩碑

 中央の背の高いのが宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑、向かって左側が岡本弥太の「櫻」詩碑、右側が西村和三郎の「山靈賛歌」詩碑です。
 碑の建立者は、その西村和三郎の次男であり、現在は幼稚園の園長をしておられる西村光一郎さんで、今回はわざわざ私のために、案内の労をお取り下さいました。
 ここにあらためて、西村さんのご厚情に感謝申し上げます。

 さて、このたび並んで詩碑が建てられたこの3人の詩人の間に、いったいどんな縁があったのかということですが、まず左側の碑の岡本弥太については、鈴木健司氏の論考「詩集『春と修羅』の同時代的受容」(蒼丘書林『宮沢賢治という現象』所収)に、次のように紹介されています。

 岡本弥太は、全国的にみれば一部の詩人や研究者にのみその名を知られる存在かもしれない。だが、土佐の地において弥太は「南海の賢治」と称される詩人で、郷土の生んだ最も著名な詩人であり、弥太祭や弥太賞といった催しも行われている。弥太は明治三二年一月、高知県の岸本村(現、香我美町岸本)に生まれた。賢治が明治二十九年八月生まれであるから三歳年下、学年としては二級下にあたる。弥太は高知市立商業学校を卒業、その後一時神戸に職を得るが、二三歳の時郷里に戻ってからは終生土佐の地を離れることなく、二〇年にわたり小学校教師としてその職を尽くし、昭和一七年一二月、結核によって満四三歳の生涯を閉じた。

 弥太の詩人としての活動は、25歳からのいくつかの同人誌発行の後、全国的な詩誌である「詩神」や「日本詩壇」への投稿・掲載とともに、生前の唯一の詩集『瀧』を、昭和7年に34歳で刊行しています。
 「南海の賢治」という呼称は、その作風から付けられたものでしょうが、生前の賢治との直接の交流はありませんでした。しかし弥太は、賢治が『春と修羅』を出版した直後からずっとその作品に注目し、高知の古本屋で埃をかぶった『春と修羅』を見つけた際には、「奪ひとるやうに」購入したのです。
 下記は、鈴木氏の上掲論文から、弥太が「イーハトーヴォ」創刊号(昭和14年)に寄せた、「春と修羅の我が思い出」という文章の一部です。

 私が故人の名前を知ったのは例の詩話会から出てゐた詩誌日本詩人誌上、多分大正十三年ではなかつたかと思ひます。春と修羅のあの薊の押絵のある麻表紙の詩集の奥付が大正十三年四月二十日発行となつてゐますから――あの詩集の紹介者は佐藤惣之助氏でなかつたかと記憶してゐるが、或は 川路柳虹氏だつたかも知れない。豊富絢爛な未来派的官覚異装を讃えた詩評で、この東北の天才を評するに決して不当でなかつたやうに思ひますが、今のやうな広汎深刻な人性的意味の探求では決してなく、自分にはハルトシユラといふおどろくべき野生のちからを持つた Dawn man 的意味の現出に官覚的驚異を感ずるの外はなかつたやうに印象されてゐます。
〔中略〕
 私はこの人の詩集を出版後三四年たつてから私の辺鄙な土地の町の古本屋の埃のなかから偶然拾ひ出しました。貳円四拾銭の定価のものを符牒どほりの六拾五銭で、奪ひとるやうに買ひ(多分僕が買はなかつたらこの詩集は何年も宮沢さんの死ぬ時まで、その通りだつたのかも知れません。この辺鄙でその真価を知る人は寡いのですから。)その晩徹宵でこの詩集のあの重い手ざはりと活字に吸ひとられて仕舞ひました。松の針と無声慟哭のところへ来てとうとう涙を滾して仕舞ひました。

 ということで、花巻から遠く離れた南国の地に、ひそかに賢治に共鳴する同時代の詩人がいたというわけです。その作風には、賢治を思わせるような斬新な語法も見られたということですが、上の詩碑に刻まれている「櫻」は、平易で静かな、そして哀しい作品です。教師として、教え子の出征を見送った情景を回想するものでしょうか。

   櫻
                岡本彌太
おたっしゃでゐて下さい

そんな風にしか云えないことばが
さくらの花のちる道の
親しい人たちと私との間にあった
そのことばに
ありあまる人の世の大きな夕日や
涙がわいてきた

私はいまその日の深閑と照る
さくらの花のちる岐路に立ってゐる

おたっしゃでゐて下さい
私はその路端のさくらの花に
話しかける
さくらは
日の光に美しくそよいでゐる

 さて、向かって右側の詩碑の西村和三郎は、この岡本弥太を通じて賢治の作品を知り、やはり賢治のことを深く敬愛するようになったという詩人です。
 和三郎は、1913年(大正2年)に高知県土佐清水市に生まれ、高知師範学校(現高知大学)を卒業後、26年間小学校の教師をしながら詩作に励みました。教師を退いてからは、高知県議会議員を一期務め、1967年(昭和42年)に足摺岬の奥の未開の地を購入して、牧場を始めます。山中にて、ランプの灯りで清貧の生活を送り、1996年に亡くなりました。
 詩人としては、郷土の先輩である岡本弥太に師事し、生前に詩集『五月狂想』『修羅の恋歌』を刊行しています。

 この間、故・宮澤賢治に対する敬慕の念を強くした和三郎氏は、1940年(昭和15年)にはるばる花巻を訪ね、この時に宮澤清六氏や菊池暁輝氏と会ったということで、菊池氏と一緒に撮った写真も残っています。この縁で、翌年に清六氏から賢治遺言の『国譯 妙法蓮華経』を贈られて、以後は毎日法華経の勤行を欠かさず、土佐清水の町を団扇太鼓を叩きながら唱題して歩いた時期もあったということです。

 下の写真は、和三郎氏が所蔵していた『国譯 妙法蓮華経』です。和三郎氏はこれを「お飾り」などにはせずに、毎日座右に置いて読経に使っていましたので、特に「如来寿量品」の部分などは手垢にまみれ、後にこれを見た清六氏は、「ここまで読み込まれた版は見たことがない」と言ったということです。

西村和三郎氏旧蔵『国譯 妙法蓮華経』

 詩碑に刻まれている「山靈賛歌」は、和三郎氏が足摺の山中を開墾して「足摺牧場」を作っていた頃の一コマかと思われます。

   山靈賛歌
                西村和三郎
伐りゆくほどにゆくほどに
秘めし山霊の相にして
自からなるマンダラの
たからの苑ぞあらわるる
  とわの園生を開くべく
  いのち傾け老いゆかん
汗みどろなる肩よせて
石にいこいて語りしは
夢みるごとくちかいしは
そも現し世のことならじ

 「道を求めるのにひたむきで一途だった」という人で、土佐清水市の市街地から、当時はまだ電気も来ていない山の中に移り住んだわけですから、ご家族にとっては大変な面もあったでしょうが、子どもたちにはよく賢治の童話を読んで聞かせてくれたということです。

 おそらく1980年頃のことかと思われますが、宮澤清六氏が講演のために、当時はまだ高校生だった宮澤和樹さんを連れて、高知を訪ねられたことがあったそうです。この時に、和三郎氏とともに二人に会った次男の光一郎さんは、「いつか足摺の地に賢治の詩碑を建てたい」という願いを、清六さんと和樹さんに語られました。

 そして、今回やっとその西村光一郎さんの長年の念願がかなって、宮澤賢治・岡本弥太・西村和三郎という3人の詩碑が、和三郎の開いた「足摺牧場」の一角に、建立されたわけです。賢治の「雨ニモマケズ」は、その前半部が刻まれ、花巻の羅須地人協会跡にある元祖賢治詩碑に後半部が刻まれているのと合わせて、これで「一対」になるのだと、光一郎さんは話して下さいました。

 2019年7月15日に行われた除幕式には、はるばる花巻から宮沢和樹さんと、碑文の揮毫をした宮沢やよいさんのご夫婦も臨席し、総勢150名もが集まる盛会となりました。式では、西村光一郎さんが園長を務める「しみず幼稚園」の園児らによる「ポランの広場」の合唱や、「雨ニモマケズ」の朗読や、餅まきもありました。
 宮沢和樹さんは挨拶の中で、この足摺牧場の風景を評して、「賢治が愛した種山ヶ原に似ている」と述べられたということですが、緑の草原に牛や馬がくつろいでいる様子はまさにそのとおりですし、その草原から遠くに帯のように青く見えるのは、種山ヶ原の場合には「海だべがど、おら、おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」なのに対して、こちらはほんとうの海、黒潮の流れる太平洋が広がっているのです。
 今のところ下記リンクからは、7月16日に「テレビ高知」で放映されたニュース番組で、この詩碑の除幕式を伝える様子が視聴できます。西村光一郎さんや宮沢和樹さんも出ておられます。

宮沢賢治の詩碑 高知県土佐清水市に完成」(KUTV)

 8月11日の午後は、詩碑を見学させていただいた後、足摺牧場にある西村光一郎さんの弟さんのお宅で、上の貴重な『国譯 妙法蓮華経』を見せていただいたり、清六さんや和樹さんとのエピソードを聞かせていただいたりしました。その後、また牧場から土佐清水のバスターミナルまで車で送っていただき、再びバスに1時間ほど揺られ、四万十市の中村駅前に戻りました。
 晩ご飯は、四万十市内の居酒屋で、四万十川の天然鰻や、カツオの塩たたきなどをいただきました。

四万十川のウナギの白焼き

カツオの塩たたき

 ポン酢醤油のかわりに塩で食べる「カツオの塩たたき」は、高知市あたりでは粗塩をざらっと振ってあるのですが、四万十市など高知県西部では、「塩だれ」の中に少し漬け込んでから食べるのが特徴です。薬味は、たっぷりのタマネギ、青ネギ、ニンニクのやや厚めのスライスに、大葉の繊切り。何と言っても高知で食べると、たたきの一切れ一切れが無茶苦茶でかくて豪快(厚さ2cmくらい!)なのがいいです。

 夜は駅前のホテルに泊り、翌朝に中村駅からまた「特急あしずり」に乗りました。ちなみに、中村駅の売店コーナーで売っているお弁当は以前にも買ったことがあるのですが、安くてボリュームもあって美味しいです。
 下の「華かん彩り弁当」は、400円から480円くらいで中身が違う何種類かあり、これはご飯の上に小ぶりの鯖の塩焼きが半身まるごと!入っていて、さらにコロッケや卵焼き、こんにゃくの煮物、ごぼうサラダ、ししとうの煮物、春雨の酢の物なども入って、430円でした。

中村駅の弁当

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