2016年1月24日 「噴火湾(ノクターン)」のFuneral march

 トシの死の翌年のサハリン旅行における最後の作品が、「噴火湾(ノクターン)」です。
 この作品における賢治は、噴火湾(内浦湾)に沿って走る列車に乗って、車窓から夜明けの景色を眺めていますが、心の中はやはりトシのことでいっぱいです。
 詩の最後、すなわちこの悲しみの旅における賢治の最後の言葉は、次のように結ばれます。

噴火湾のこの黎明の水明り
室蘭通ひの汽船には
二つの赤い灯がともり
東の天末は濁つた孔雀石の縞
黒く立つものは樺の木と楊の木
駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 北の最果てへの旅を終えようとするこの時にも、やはり悲しみに沈む賢治の心は癒えていなかったということが、ここに如実に表れています。
 ちなみに、この箇所で「室蘭通ひの汽船」の二つの灯火が見えていることから、以前に私は「噴火湾で列車から汽船を見る」という記事において、賢治が乗っていたのは「急行2列車」で、これはおそらく午前4時14分頃のことであり、場所は「野田追」駅と「落部」駅の中間で、列車が海岸沿いに出たあたりではないかと推測してみたことがありました。
 しかし、今日取り上げるのはそこではなくて、作品の中ほどあたりの、次の箇所です。

一千九百二十三年の
とし子はやさしく眼をみひらいて
透明薔薇の身熱から
青い林をかんがへてゐる
フアゴツトの声が前方にし
Funeral march があやしくいままたはじまり出す

 ここに出てくる'Funeral march'とは、「葬送行進曲」のことです。もちろん、賢治のイメージにあるのは、前年のトシの「葬送」でしょう。
 花巻に帰った後の8月31日に書かれた「雲とはんのき」にも、「これら葬送行進曲の層雲の底・・・」という言葉が出てきますから、この時期の賢治の心象風景の BGM としては、ずっと何らかの Funeral march=葬送行進曲が、鳴り続けていたのでしょう。
 ところで、この「葬送行進曲」という言葉が、たんに象徴的な意味で使われているのではなくて、賢治にとって何かある特定の曲を指しているという可能性は、彼がクラシックレコードの蒐集家であったことを思えば、十分にありうることです。「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という描写の具体性も、ここで賢治の心の中には、実際にメロディーが流れていたのではないかと思わせます。

 そして、『宮澤賢治の聴いたクラシック』(小学館)の著者の萩谷由喜子氏も、そのように考えられたようです。

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 この本は、賢治とクラシック音楽の関わりについての詳しい解説とともに、当時のSPレコードから復刻した珍しいCDが2枚も付いているという素晴らしいものです。
 そのCDには、「噴火湾(ノクターン)」に登場する'Funeral march'の推定曲として、ベートーヴェンのピアノソナタ第12番「葬送」第3楽章の吹奏楽編曲版が収録されていて、本文p.72には次のような解説が付けられています。

賢治の心象スケッチ『春と修羅』には『オホーツク挽歌』として一挙収載された5編の口語詩がある。その5編は大正11年11月27日に24歳で世を去った最愛の妹トシを悼む一連の挽歌だが、その最終詩『噴火湾(ノクターン)』に「ファゴツトの聲が前方にしFuneral march があやしくいままたはじまり出す」という詩句がある。「ファゴツトの聲が前方にし」というヒントから、詩の中の「Funeral march」をピアノ・ソナタ第12番の第3楽章のバンド演奏盤と推定し、ヴェルセラ・イタリアン・バンドの録音を収録した。

 実際、ベートーヴェンのピアノソナタ第12番第3楽章は、作曲者によって'MARCIA FUNEBRE'と題されている、クラシック音楽の中でも代表的な葬送行進曲の一つです。ここに収録されているその吹奏楽編曲版は、CDとして世界初復刻ということでとても貴重なものなのですが、ただ私としては、これを「噴火湾(ノクターン)」の'Funeral march'だと推定するには、少なくとも次のような2つの問題点があるように思うのです。

 問題の一つは、確かにこの吹奏楽編曲にはファゴットも使われているようですが、低音部は常に金管楽器とユニゾンで重ねられており、「ファゴットの音色だけ」が聴こえるような箇所は、ほとんど存在しないのです。したがって、まず「フアゴツトの声が前方にし」て、次いで「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という、作品中の描写と具体的に対応するような部分は、この演奏には出てきません。
 一方、「フアゴットの声」とか、「いままた・・・はじまり出す」とかいうこの箇所の賢治の描写は非常に具体的ですので、私にはどうしても、これは実際の音楽の進行と対応しているのではないかと感じられるのです。

 問題点のもう一つは、この吹奏楽編曲版のベートーヴェンのピアノソナタ第12番第3楽章のSPレコードを、生前の賢治が聴いていたという証拠がないことです。
 賢治が実際にどんなレコードを聴いていたのかということについては、(1)賢治が遺品として残したレコード、(2)賢治が友人に贈ったレコード、(3)羅須地人協会時代に作った「レコード交換用紙」に賢治自身が記載したレコード、(4)友人等によるよる証言、という形で知ることができますが、このいずれにも、上記のレコードは含まれていないのです。もちろん、ここに含まれていないからと言って、賢治がこれを持っていた、あるいは聴いたことがあったという可能性を否定することはできませんが、この説をとるためには、そういう一つの「仮定」を追加する必要が出てくるわけです。

 これに対して私自身の考えは、「噴火湾(ノクターン)」における'Funeral march'とは、同じベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第2楽章なのではないか、というものです。
 この楽章も、作曲者自身によって、'Marcia funebre'(=葬送行進曲)と、イタリア語でタイトルが付けられています(下図)。

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章冒頭

 そして、生前の賢治がこの曲を実際に聴いていたことを、親交の深かった斎藤宗次郎氏が書き記しています。下記は、『四次元』第二巻第九号(昭和25年10月)に収載された斎藤宗次郎「懐しき親好」の一部です。(『宮澤賢治研究資料集成』第7巻p.214)

 何時の頃か忘れたが、賢治さんが始めて蓄音機を求めた時、私は妻とと共に賢治さんに招かれ、二階の広い室の一隅で父君と四人頭を聚めて色々のレコードを聴いたことがある。此頃の賢治さんは、音楽に対する興味其観賞の力が大いに進んで居られたであろう。名曲に魅せらるる様子は感心の至りであった。其後私も蓄音機を求めたので、賢治さんはベートーヴエンのクロイツエルソナタや第三第七交響楽などのレコードを借りに見えたこともあり、時には令弟を伴つて来て、私の求康堂の店頭に腰を下し、ヘンデル・シユーベルト・チヤイコフスキー・シヤリアピンなどのレコードを聴き楽んで帰られたこともあつた。

 すなわち、上の分け方で言えば「(4)友人等による証言」によって立証されるわけですが、賢治はベートーヴェン交響曲第3番のレコードを、少なくとも斎藤宗次郎に借りて聴いていたことは、確かなのです。

 すると次の課題は、「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」というように音楽が進行する箇所が、この曲に実際に存在するのかということです。
 結論から言えば、それは第2楽章の43小節目から始まるファゴットのソロに導かれて、やがて50小節目からオーボエによる第一主題(すなわち葬送行進曲の主題)が現れるところだろうと、私は考えています。
 下に、その箇所の楽譜を引用します。

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章2

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章3

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章4

 上の1頁目および2頁目で、赤い色を付けてあるところが、「フアゴツトの声が前方にし」に相当する部分です。1頁目の最後の2小節からファゴットのソロが始まり、これは2小節後からは他の木管楽器と重ねられますが、さらにその2小節後には、六度の音程でクラリネットと美しく絡みます。
 そして、2頁目の最後の青い色を付けたところから、オーボエに第一主題(葬送行進曲の主題)が再び現れ、3頁目へと続きます。つまり、ここが「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」に相当するのです。(以上、引用楽譜はいずれも全音楽譜出版社のポケットスコアによります。)

 音楽の流れとしてはこうなっているのですが、楽譜で見ていただくよりも「百見は一聞に如かず」ということで、この箇所の実際の演奏をお聴きいただきましょう。
 下の演奏は、カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団による、「ベルリンフィルハーモニー創立100周年記念演奏会」(1982)のライブです。第2楽章が始まる直前(15:05)から再生されるように設定してありますが、問題のファゴットのソロは、17:59頃から始まります。

 この17:59から、ファゴット高音域の、独特の哀愁を帯びた調子で推移的な旋律が奏でられ、そこにフルートや他の木管が加わり、一瞬クラリネットだけが残って、またファゴットが繊細に寄り添います。
 そして18:29頃からは、オーボエが再び第一主題を奏で始めます。この少し前の17:36には、流麗な長調の第二主題が導入され、いったん曲想が転換した後ですから、ここで再び短調の第一主題が現れた時の印象は、まさに「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という表現が、絶妙に当てはまる感じがします。

 以上、これは賢治が実際に聴いていた曲であること、また上のように作品中の描写と美しく対応している箇所も存在していることから、私としてはこれこそが、「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という部分だろうと、自分では深く納得している次第です。

 余談ながら、上のベルリン・フィルのライブにおいて、オーボエの首席を務めているのはローター・コッホ、クラリネットはカール・ライスター、そしてファゴットはギュンター・ピースクという面々であり、私としてはベルリン・フィルの木管セクションを「超人集団」として崇拝していた学生時代を思い出す、懐かしい演奏です。
 カラヤンによる端整な造型、弦楽器の圧倒的な力量とも相まって、これはベートーヴェン「英雄」の歴史的名演の一つとも言える記録ではないかと、今回YouTubeで視聴して感じました。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について
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2016年1月17日 万象同帰のそのいみじい生物の名

 1922年11月27日の午後8時半、妹トシの臨終の場面において、賢治は死にゆく彼女の耳もとで、何事かを「ちからいつぱい」叫びました。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちいさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた
   《ヘツケル博士!
    わたくしがそのありがたい証明の
    任にあたつてもよろしうございます》

 上の「青森挽歌」のテキストによれば、賢治が叫んだのは、「万象同帰のそのいみじい生物の名」だったということです。
 これはいったい、何のことでしょうか?

 遂にトシの呼吸と脈が止まった時、その枕元へ走った賢治が何を叫んだのかということは、「永訣の朝」から続くこの運命的な一日のドラマを私たちが思い描く上でも、非常に重要なポイントです。ところが、この「生物の名」が意味するところについては、まだ賢治研究者の間でも、十分な意見の一致には至っていないのです。
 たとえば鈴木健司氏は、渡辺芳紀編『宮沢賢治大辞典』の「青森挽歌」の項に、次のように書いておられます。

 次の「いみじい生物の名」とは大乗経典の〈妙法蓮華経〉のこと。賢治は宇宙の本体を〈妙法蓮華経〉そのものと考えており、宇宙全体を一つの生物(釈迦の身体)と捉えようとする認識が見える。

 たしかに、臨終の瞬間のトシに賢治が「南無妙法蓮華経!」と叫んだとすれば、それは二人でともに法華経を信仰していた兄が、妹の最期にとった行動として、まさにふさわしいものと言えます。またこれを一般的な臨終の情景として眺めても、全く違和感はありません。
 しかし、私にとってはどうしても、「妙法蓮華経」を「生物の名」と呼ぶことに対して、納得のいかない感じが残るのです。

 もちろん賢治には、鈴木氏の指摘するとおり、「宇宙全体を一つの生物と捉えようとする」考え方があったでしょう。また、1918年頃の書簡には、「万物最大幸福の根原妙法蓮華経」「三世諸仏の眼目妙法蓮華経」「一切現象の当体妙法蓮華経」(保阪嘉内あて書簡50)とか、「妙法蓮華経ハ私共本統ノ名前デスカラ之ヲ譏ルモノハ自分ノ頸ヲ切る様ナモノデセウ」(成瀬金太郎あて書簡55)などの言葉もあります。
 そうすると、「妙法蓮華経」を「生物の名」と呼ぶことも、論理的には成り立ちうることに違いありません。しかし一方で、これを「宇宙の名」と呼んでも、「一切現象の名」と呼んでも、「私共の名」と呼んでも、論理的にはどれでもかまわないわけです。それなのに、なぜここでは「生物の名」なのでしょうか。
 賢治が、トシの臨終の床で「南無妙法蓮華経!」と力いっぱい叫ぶというのは、それはもう非常にありそうなことですが、もし賢治がそのことを書き記したいのなら、ここで賢治はなぜそれを「万象同帰のいみじい経典の名」と書かなかったのでしょうか。たとえその名をどのように修辞的に表現できるとしても、法華経とは、第一義的には「経典」です。鈴木氏の指摘のように、賢治にとっては法華経→宇宙→生物という概念的な置き換えが可能であったとしても、法華経そのものは、「生物」ではありません。この世に生まれ、そしてはかなく死ぬ運命にある無常の存在ではなくて、すべての現象を変わらず貫く「法」なのです。
 それなのに、ここで賢治が特に「生物の名」と書いていることには、何か理由があるはずではないか、賢治は単に「南無妙法蓮華経」と唱えただけではなかったのではないかと、私にはどうしても思えてならないのです。

 一方これに対して、この「生物の名」というところに、特に注目した説もあります。
 見田宗介氏は、『宮沢賢治―存在の祭の中へ』において、これを生物学者ヘッケルが、最も原始的な生命の段階として仮説的に提唱した「モネラ」という存在のことではないかと考えて、次のように述べておられます。

 中学生と女学生の賢治ととし子は、読んだばかりのヘッケルの書物のなかの、この〈モネラ〉という奇妙な生物のなかで、賢治ととし子も他のあらゆる人間たちも、他のあらゆる生命たちも、ひとつにとけ合っていたことがあったのだねなどと、なかばおどけて語り合い、うなずきあうこともあったかと思われる。個体発生が系統発生をくりかえすならば、わたしたちひとりひとりの生の起源にも〈モネラ〉は存在するはずである。
 この「生物」の名が二人のあいだで、個我とその他の生命たちとの同帰する根源にあるものを指す記号として、語り合われるたびにさまざまな意味を吸収してふくらみながら、〈対の語彙〉――二人だけのあいだで通用することばとして定着していて、賢治は死んでゆくトシ妹の耳に、必ずまた会おうねという暗号のように、ヘッケル博士のこのいみじい生物の名を、力いっぱい叫んだかもしれないと思う。

 これは、とてもロマンチックで美しい仮説だと思います。そして最近では、廣瀬正明氏も「「青森挽歌」における「ありがたい証明」とは何か」(『賢治研究』125号)において、見田氏のこの「モネラ説」に賛意を表しておられます。
 実際、「ペンネンノルデはいまはいないよ 太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ」と題した賢治の創作メモのなかに、「ノルデは書記にならうと思ってモネラの町へ出かけていった」という一節がありますので、賢治の意識のなかにこの「モネラ」という言葉があったのは確実なのです。また、賢治の蔵書の中にヘッケルの『生命の不可思議』があったことからも、上で見田宗介氏が述べているような意味で、賢治がこの言葉を理解していた可能性も十分に大きいのです。

 しかしながら、賢治とトシが、ヘッケルの言う「モネラ」という架空の生命体について、見田氏が想像したように語り合っていたというのは、あくまで見田氏による一つの仮定にすぎず、これは何ら根拠のあることではありません。
 それに何より、賢治が死にゆくトシの耳もとで、「モネラー!!」と叫んでいるという図は、私にとってはあまりにも滑稽なものに感じられてしまうのです。あくまで私の主観にすぎないことですが、これはどうしても、厳粛な臨終の場面にふさわしい感じではありません。

 ということで、賢治がトシの耳もとで何と叫んだのかという問題に対する従来の説は、いずれも私にとっては十分に納得できるものではないのです。
 「万象同帰」、すなわち全ての現象がともに帰っていくべき対象であり、また「すべての勢力(エネルギー)のたのしい根源」であるような、「いみじい生物」とは、いったい何なのでしょうか。

 ここで、そもそも法華経に記されている世界において、最も「いみじい生物」とは何だろうかと考えてみるならば、法華経において「久遠本仏」として位置づけられている「釈迦牟尼仏」こそが、それに該当するでしょう。
 釈迦とは、インドに生まれたゴータマ・シッダールタという一人の人間であり、青年期に出家して悟りを開き、人々に対して教化と伝道を行った後、80歳で亡くなったわけですから、確かに「生物」に違いありません。
 そうすると、賢治がトシの耳もとで叫んだのは、たとえば「南無釈迦牟尼仏!」という言葉だったのでしょうか。

 これも、十分に一つの仮説としては成り立ちうると思います。しかしこの説には、一つ難点があります。
 それは、「何を本尊とすべきか」という問題に関する日蓮の考えに現れていることなのですが、他の多くの仏教宗派が、釈迦や阿弥陀や薬師や大日など、様々な仏を尊崇し、その仏像を「本尊」として礼拝しているのに対し、日蓮はこのように「仏」を拝むこと(=人本尊)は行わず、仏をはじめ万象をあらしめている根源であるところの、「法華経」をこそ尊ぶべきである(=法本尊)と説いているのです。
 下記は、この問題について日蓮が述べている、「本尊問答抄」の一節です。

問ふ、其の義如何。仏と経といづれか勝れたるや、
答へて云はく 本尊とは勝れたるを用ふべし、例せば儒家には三皇五帝を用ひて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。
問うて云はく、然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、
答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ、私の義にはあらず 釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 すなわち、まず日蓮は、「本尊とは勝れたるを用ふべし」とした上で、仏教では釈迦が最も尊いのだから「仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」と答えています。ここまでを根拠とするならば、上のように「南無釈迦牟尼仏!」と唱えることにも、正当性があるわけです。
 しかし、これに続く「ではなぜあなたは釈迦を本尊としないのか」という問いに対して、日蓮は「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり」「釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり」として、釈迦ではなくて法華経を本尊とすべきだと明言しています。
 法華経によれば、釈迦など諸仏は、法華経の力によって生まれたもの(=所生)であるのに対して、法華経こそがそれらを生んだもの(=能生)なので、仏よりも法華経の方を尊ぶべきだというのです。

 したがって、「南無釈迦牟尼仏!」と叫ぶことは、たしかに「いみじい生物の名」を唱えていることではありますが、日蓮の教えに基づけば、これでは「すべての勢力のたのしい根源/万象同帰」の名前とは言えないのです。
 これが賢治の家の宗派であった浄土真宗ならば、「南無阿弥陀仏!」と唱えることは、「阿弥陀仏」という「いみじい生物の名」を呼ぶことになり、「青森挽歌」における記載とも宗教的教義とも合致するのですが、日蓮の場合は違うのです。
 それでは、日蓮の考えに基づくかぎりは、「本当に尊ぶべきもの」が「生物」であるということは、ありえないのでしょうか。

※ 

 ここで、日蓮の教義における「本尊」について見てみましょう。賢治自身が、国柱会から「御本尊」として授与されていたものは、下のような文字による曼荼羅でした。(『新校本全集』第16巻下「補遺・伝記資料篇」口絵より)

賢治が国柱会より受領した「本尊」

 これは、日蓮が佐渡配流中の1273年(文永10年)に描いた曼荼羅(「佐渡始顕本尊」)を、田中智学が模写したもので、国柱会ではこれを「本尊」として会員に授与していました。
 ここには、中央の「南無妙法蓮華経」を中心に、上段その左隣には「南無釈迦牟尼佛」、さらに左へ順に「南無浄行菩薩」、「南無分身等諸佛」、「南無安立行菩薩」が並び、反対に題目の上段右隣には、「南無多宝如来」、さらに右へ順に「南無上行菩薩」、「南無三世諸佛」、「南無无邊行菩薩」と並んでいます。この下の段には、他の菩薩や仏弟子の尊者、さらに下の段には「十羅刹女」や「鬼子母神」など女性の諸天、さらに最下段には、左に「南無妙楽大師」、「南無伝教大師」、右に「南無龍樹菩薩」、「南無天台大師」と、歴史上の僧の名も続いています。左右両端には、上段に「大毘沙門天王」と「大持国天王」、中段に梵字で「愛染明王」と「不動明王」、下段に「大増長天王」と「大広目天王」が配され、すべてを守護する形になっています。
 全体を活字で表わせば、下のようになります。

法華曼荼羅文字


 これがいったい何を表しているかというと、これは法華経全巻におけるクライマックスとも言うべき「虚空会」の情景を、日蓮が文字によって図示したものなのです。「法華曼荼羅」とも「十界曼荼羅」とも「妙法曼荼羅」とも呼ばれます。
 すなわち、「法華経見宝塔品第十一」では、説法をする釈尊(釈迦牟尼仏)の前に、突如として高さ五百由旬の巨大な美しい宝塔が地から涌き出して、空中に浮かびます。次いで、あらゆる世界から分身の仏が来集し、釈尊は宝塔の扉を開けて中に入り、そこで多宝如来と並んで座します。そして釈尊は、居並ぶ諸仏、諸菩薩、諸天、善神、善男善女など会衆の全員をも宙に浮かせ、皆に向けて説法を行ったというのです。すべてが空中で行われたということで、これは「虚空会」と呼ばれます。
 日蓮はこの曼荼羅に、法華経に描かれたかくも壮大・荘厳な世界を凝縮して表現しようとしたわけで、この図像を心に観ずることによって、人は法華経と一体になれるとされています。
 賢治も、二階の自分の部屋の壁にこの本尊を掛け、日夜この前に正座して、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて礼拝を行っていたわけです。

 さてここで、賢治がトシの臨終においてその耳もとで叫んだ言葉は、この曼荼羅に記されている内容だったと考えてみたら、どうでしょうか。

 順に唱えていくと、「南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来、南無浄行菩薩、南無上行菩薩、南無分身諸仏、南無三世諸仏、南無安立行菩薩、南無無辺菩薩、南無普賢菩薩・・・」などということになり、最初の「妙法蓮華経」だけは経典の名前ですが、これを除けば、あとは最後まですべて「生物の名」になります。すなわち、題目に続いてここに羅列されている名は、すべてが法華経のクライマックスに参集した諸仏、諸菩薩、諸天、善神、善男善女たちであり、これこそ「いみじい生物の名」とも言えるのです。

 つまり私としては、賢治はトシの臨終の枕元において、日蓮が著した本尊たる曼荼羅を口唱したのではないか、と考えるのです。あるいは、この本尊全体を唱えるとなるとあまりにも長いので、その最上段のみを抜粋した「略式曼荼羅」を唱えたと考えてもよいかもしれません。下写真は、「〔雨ニモマケズ〕」に続けて賢治が手帳に書いた、その略式の曼荼羅です。

略式妙法曼荼羅

 ただ、この仮説を採ったとしても、最初に唱えるべき最も重要な「南無妙法蓮華経」は、やはり「生物の名」ではありませんので、全体を「いみじい生物の名」と呼ぶことには、やはり若干の問題が残ります。
 これに関しては、上の略式曼荼羅を唱えたとしても、7つの名前のうちで6つは「生物」です。それに何より賢治にとっては、トシの臨終ほど重要な場面において、「唱題をする」というのはあまりにも当然の自明のことなので、ここにはあえて記さず、その後に続けた諸仏・諸菩薩の名前の方を「いみじい生物の名」として特記した、と考えることもできます。

 このように、もしも賢治がトシの臨終において「本尊曼荼羅を口唱する」という行動をとったとすれば、その意図は何だったのか、このような行為の宗教的な意味は何なのか、ということが次に問題になります。
 これについては、江戸時代初期の日蓮正宗の「中興の祖」と言われる日寛(1665-1726)が著した「臨終用心抄」という文書が、参考になるように思われます。日寛はこの文書の中で、「臨終の断末魔の苦しみで心が乱れないためには、どのようにしたらよいか」という問いに答えて、次にように記しています。

常に本尊と我と一躰也と思惟して口唱を励むべし。御書十四四十七実に己心と仏心と一心なりと悟りなば臨終を礙ふるべき悪業も有らず、生死に留るべき妄念も有らず云云

 すなわち、臨終に際しては「常に本尊と自分とが一体であると念じて、(題目の)口唱を励むべし」というのです。しかし現実には、トシはその最期において、自ら「南無妙法蓮華経」と唱える力はもはや残っていませんでした。しかしそのかわりに、賢治が「本尊」の内容を高らかに口唱してそれをトシの耳から入れてやることによって、トシと本尊を一体化させようと試みたのではないかと、私は思うのです。
 日寛の「臨終用心抄」にはまた、病人がまさに臨終を迎える時にしてやるべきこととして、次のような記述もあります。

一、唯今と見る時本尊を病人の目の前に向へ耳のそばへより臨終唯今也、祖師御迎ひに来り給ふ可し、南無妙法蓮華経と唱へ給へとて病人の息に合せて速からず遅からず唱題すべし、已に絶へ切つても一時ばかり耳へ唱へ入る可し、死ても底心あり或は魂去りやらず死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し。

 「青森挽歌」や他の作品の記述を見るかぎりでは、賢治はトシの臨終において、上に書かれているように「本尊を病人の目の前に向へ」ということは、行わなかったようです。周囲は全員が浄土真宗の門徒であるという状況に、遠慮したのかもしれません。しかしまさにそのかわりとして、「本尊の内容を口唱する」ということをしたのではないかと、私は考えてみるのです。

 そしてまた、上に引用した後半部に、「すでに息が絶えきっても一時ばかり耳へ唱え入れるように、死んでも底心というものがあるし、魂は去ってしまうわけではない」と書かれているところも、「青森挽歌」における賢治の考えや行いを彷彿とさせるものがあります。すなわち賢治はこの時、トシの耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい」叫んで「唱へ入れ」ましたが、それに応えてトシが「二へんうなづくやうに息をした」ことを、何度も自分に言い聞かせるかのように回想します。

たしかにあのときはうなづいたのだ
そしてあんなにつぎのあさまで
胸がほとつてゐたくらゐだから
わたくしたちが死んだといつて泣いたあと
とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ
ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで
ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない

 ここに描かれているトシの様子は、「死ても底心あり或は魂去りやらず」という記述に、まさに呼応しているかのようです。

 それからあと一つ、念のために考えておきたいことがあります。それは、私がここで想定したように「本尊の内容を口唱する」ということを、日蓮を信仰する人は一般的に行うものなのか、という問題です。本来は、日蓮が著した本尊の曼荼羅は、目で見て心に観ずることによって尊崇するものであり、声に出して唱えるために書かれたものではないでしょう。
 これについては、浅学の私にはまだよくわからないのですが、しかし賢治が「雨ニモマケズ手帳」に残している下の記載が、一つのヒントを与えてくれるのではないかと思います。

「雨ニモマケズ手帳」p.155-156

 ここにおける配列は、先に引用した「〔雨ニモマケズ〕」末尾のものとは異なっています。すなわち、本来は「南無妙法蓮華経」は中央に位置しなければならないのに、ここでは右端にあり、これに続いて、「南無上行菩薩」、「南無浄行菩薩」、「南無無辺行菩薩」、「南無安立行菩薩」となっています。
 もとの略式曼荼羅と比較すると、「南無釈迦牟尼仏」と「南無多宝如来」が抜けてはいますが、題目→上行→浄行→無辺行→安立行という順序は、題目から始まって、右、左、右、左となっており、これは曼荼羅に配された菩薩の名を、「口唱する」順序になっていると思われるのです。
 すなわち、賢治は手帳のこの2ページを、曼荼羅を口唱しながら書いたと考えられることから、賢治は、本尊の曼荼羅の少なくとも一部を、口唱することがあったのではないかと推測できるわけです。

 ということで、「青森挽歌」に描かれたトシの臨終において、賢治が「ちからいつぱい」叫んだ「いみじい生物の名」とは、日蓮が著した本尊の曼荼羅の内容だったのではないか、という私の想像について述べました。

 最後に、鈴木憲夫氏作曲の混声合唱曲「雨ニモマケズ」の大阪コレギウム・ムジクム合唱団による演奏を、下に貼っておきます。
 この合唱曲では、1:04あたりからと、9:21あたりからの二箇所で、上にも引用した略式十界曼荼羅の「南無無辺行菩薩、南無上行菩薩、南無多宝如来、南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無浄行菩薩、南無安立行菩薩」が、歌われます。「いみじい生物の名」が、唱えられているのです。

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2016年1月10日 「タンタジールの死」と《ギルちゃん》

 「宗谷挽歌」には、賢治と死んだトシとの間を隔てるものとして、「タンタジールの扉」という言葉が出てきます。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。 
    (おまへがこゝへ来ないのは
    タンタジールの扉のためか、
    それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

『タンタジールの死』 この「タンタジール」とは、ベルギーの詩人・劇作家であるモーリス・メーテルリンクが、1894年に書いた戯曲「タンタジールの死」に由来しており、日本ではたとえば1914年に翻訳が刊行されています。このように作品中に名前が引用されているのですから、おそらく賢治自身、この「タンタジールの死」を読んでいたと考えてよいでしょう。(右画像は、国会図書館デジタルライブラリーより、1914年に日吉堂本店から刊行された同書の扉です。)

 メーテルリンク初期の象徴主義作品の典型の一つと言われるこの戯曲は、暗い谷で暮らす二人の姉と爺やのもとへ、幼い弟タンタジールが海を渡って戻されて来た場面から始まります。
 彼ら姉弟と爺やは、谷底に建つ古い城の一角にある部屋で暮らしています。城には高い塔があって、その塔の中には女王が住んでいると言われていますが、誰もその姿を見た者はありません。すでに父親は亡くなり、二人の兄も行方が知れず、冒頭からこの家族には、死の影が色濃く漂っています。そして、長姉のイグレーヌも、次姉のベランジエールも、爺やのアグロワールも、帰ってきた幼いタンタジールが、塔の女王によって連れ去られてしまうのではないかと、なぜかひどく怯えている様子なのです。
 ベランジエールは、たまたま塔の下まで行った際に、女王が子供を見たがっているという侍女たちの会話を耳にしたと、姉に報告します。そして女王の召使いたちが、今夜にもここに来るかもしれないというのです。そこで姉たちは部屋の扉を見張り、爺やは剣を膝に置いて、タンタジールの番を始めました。
 夜になると案の定、扉の外に大勢の人の気配が現れました。姉たちは、必死に扉を押さえて抵抗しましたが、結局開けられてしまい、爺やが突き出した剣も、あっけなく折れました。もう駄目かと思った時に、気を失っていたタンタジールが我に返り、扉はまた閉められて、幼な児は助かったのです。
 その夜遅く、また女王の三人の侍女は、ひそかにタンタジールを連れ去る相談をしていました。姉二人もタンタジールも爺やも、ぐっすりと眠りこんでいますが、タンタジールは姉イグレーヌにしっかりと抱き付き、姉の長い黄金色の髪を自分の手にからめ、さらに堅く歯でも噛みしめています。決して離れまいとする二人は、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに、互に、扼(つか)み合つてる」状態なのです。それでもしかし、侍女たちはこっそりと忍び込み、イグレーヌの髪をハサミで切って、タンタジールを連れ去ってしまいました。
 その時タンタジールが遠ざかりながら上げた声で、姉たちは目を覚まして、弟の不在に気がつきます。しかしベランジエールはショックのあまり昏倒してしまい、イグレーヌが一人、道に落ちている自分の金髪をたどって、城の塔に至ります。
 彼女が夢中で階段を昇っていくと、塔の円天井の下に、大きな鉄の扉がありました。その扉の隙間にまた金髪が挟まっていたので、イグレーヌは確かにここにタンタジールがいることを悟ります。姉が、激しく扉を叩いて弟の名前を呼ぶと、弱々しい返事とノックが返ってきました。イグレーヌは必死になって扉を押したり引いたり、何とかして開けようとしますが、びくともしません。
 そのうちにタンタジールは、「あいつの息がかかる」と言い出し、さらに「あいつが僕の喉をおさえる」と訴えはじめましたので、イグレーヌは狂ったように扉を引っ掻き、やがてその爪ははがれ、扉に打ちつけたランプも砕けて、とうとうあたりは真っ暗になってしまいました。
 最後は絶望のうちに、重い扉をはさんで姉と弟はキスをかわし、やがてイグレーヌの耳には、扉の向こうで小さな体が倒れる音が聞こえたのです・・・。

 これは、物語としてはごく単純で、最初からタイトルに示された結末に向けて、ただ進んでいくだけなのですが、それでも読者は、何か心の奥に強く迫ってくるものを感じざるをえません。すべての登場人物にも観客にも、始めから恐ろしい結末が見えていながら、それでもその進行を如何ともできない人間の無力さが露呈し、全てを超越した「死」というものの底知れぬ強大な力が、ひしひしと迫って来ます。

 そしてこのように、「愛する者の死を予期し、何とかしてそれに抗おうとしながらも、結局はその愛する者を失ってしまう」というプロセスは、ずっと病床にあったトシを見守り続けていた賢治の日々と、まさに重なるものだったはずです。きっと賢治は、1922年の初め頃から11月までずっと、この作品における長姉イグレーヌと同じ心境を味わいつづけていたに違いありません。
 とりわけ私にとって印象深いのは、最後の晩にイグレーヌとタンタジールが、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに、互に、扼(つか)み合つてる」と描写されている箇所です。
 以前に私は、賢治が1922年8月に書いた短篇「イギリス海岸」において、もし生徒が溺れた時には「たゞ飛び込んで行って一諸に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらうと思ってゐた」と記している心の底には、実は死んでいくトシに対する自らの気持ちがあったのではないかと、推測してみました。「タンタジールの死」のこの箇所における、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに」という比喩は、まさにこの「イギリス海岸」の表現を思い起こさせます。
 さらにまた私は、賢治が1922年9月以降に手入れをした可能性もある童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて天から海へと墜落していく際に、「二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書かれている箇所にも、トシから離れずどこまでも一緒に行ってやりたいという賢治の思いが投影されているのではないかと推測してみました。「タンタジールの死」において、「互に、扼(つか)み合つてる」というイグレーヌとタンタジールの様子は、「しっかりとお互の肱をつかみました」というチュンセとポウセにそっくりのように、私には思えます。

 つまり、このメーテルリンクの「タンタジールの死」という戯曲は、トシの死に怯えていた頃の賢治にとっては、まさに身に迫るように切実なものであり、そのような思いはひょっとして、上記のような作品における表現にも影響を与えていたのではないかと、私は思うのです。
 「宗谷挽歌」に登場する「タンタジール」という言葉は、「死」という絶対的な断絶を表現するというためだけでなく、賢治の心の中では、上記のような一連の思い入れを込めたものだったのではないかと、私はひそかに想像する次第です。

「タンタジールの死」より 

 さて、それからあともう一つ、私はこの「タンタジールの死」に関連して思い浮かぶものがあります。それは、「青森挽歌」の中に登場する、「ギルちゃん」という存在です。

あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
 (草や沼やです
  一本の木もです)
 《ギルちやんまつさをになつてすわつてゐたよ》
 《こおんなにして眼は大きくあいてたけど
  ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ》
 《ナーガラがね 眼をぢつとこんなに赤くして
  だんだん環をちいさくしたよ こんなに》
 《し、環をお切り そら 手を出して》
 《ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ》
 《鳥がね、たくさんたねまきのときのやうに
  ばあつと空を通つたの
  でもギルちやんだまつてゐたよ》
 《お日さまあんまり変に飴いろだつたわねえ》
 《ギルちやんちつともぼくたちのことみないんだもの
  ぼくほんたうにつらかつた》
 《さつきおもだかのとこであんまりはしやいでたねえ》
 《どうしてギルちやんぼくたちのことみなかつたらう
  忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに》

 ここで、二重括弧《 》で囲まれている内容は、以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」で考えてみたように、作者賢治にとって「幻聴」として体験された言葉であろうと推測されます。
 そしてここに出てくる「ギルちゃん」は、死んでゆくトシを象徴するような存在かと思われますが、その正体についてはよくわかりません。一説には、この「ギルちゃん」とは実は蛙であり、環を作る「ナーガラ」は蛇のことなのではないかと言われており、これは「草や沼やです」という舞台設定や、「おもだか」という水生植物が出てくることからも、一定の説得力があります。
 しかしここで私が気になるのは、「ギル」というその名前です。これは「タンタジール」という名前の一部に由来しているのではないかと、ふと感じたのです。
 タンタジールは、もとのフランス語の綴りでは Tintagiles ですが、この後ろ半分の'giles'は、別の読み方をすれば、「ギル」と読むこともできます。そして、メーテルリンクの「タンタジールの死」におけるこの幼な子には、何となく「ギルちゃん」を連想させる場面が、いくつかあるのです。

 まず次の引用は、第二幕の冒頭です。

     第二幕

  城の内の一室、それに、アグロワアルとイグレエヌ坐せり。
  次でベランヂエール登場す
ベランヂエール。 タンタヂールは何処に居るの?
イグレエヌ。 此処に居るのよ、余り大きな声で話さないやうに
  ね、他の部屋で寝て居るんだから。少し顔の色が青いの、体が
  良くないやうだわ、旅の疲れが出たんだわ――それに長い事
  海の上に居たんだから。それとも、ひょっとしたら、此のお城の
  空気が、あの子の小さな魂を脅かしたのかもしれないわ。泣い
  て居ても、何うして泣くんだか自分でも判らないの。

 ここでタンタジールは、「少し顔の色が青い」と言われています。
 そしてまた、その少し後のところ。

  ベランヂエール、タンタヂールを腕に懐きつゝ隣の部屋より来る
ベランヂエール。 起きてるのよ……。
イグレエヌ。 顔の色が悪いのね……、何うしたんだらう?
ベランヂエール。 わたしにも判らないの……黙って、唯だ泣くの
  よ……。
イグレエヌ。 タンタヂールや……。
ベランヂエール。 あら、そっぽを向いて了ふわ。
イグレエヌ。 わたしが判らないやうだわ……タンタヂールや、
  お前何処に居るか知ってて?――お前と話しているのは
  姉さんよ……何をそんなにひとっとこを見つめて居るの?
  此方をお向き……さ、姉さんと遊ばうよ……。
タンタヂール。 いや……いや……。

 ここでもタンタジールはやはり顔色が悪く、ただ「ひとっとこ」を見つめるばかりです。一時的には姉のことが「判らない」ような様子を見せて、誘われても一緒に遊ぼうとしません。
 さらに、その少し後の箇所。

タンタヂール。 来たよ姉さん――、何うして灯は点って居ない
  の?
イグレエヌ。 灯は点ってるのよ、坊や……天井から垂っている
  ランプが見えないの。
タンタヂール。 うん、うん、……あれは小さいんだね、……外に
  点いて居ないの。
イグレエヌ。 外にはもうありは仕ないわ、あれで何でも見えるん
  だから……。
タンタヂール。 あゝ……。
イグレエヌ。 まあ、お前の眼は窪んだのねえ……。

 まだここでも、タンタジールの目はあまりよく見えていないような様子なのです。

 ということで、上に挙げた箇所におけるタンタジールの様子は、「青森挽歌」のギルちゃんが、「まっさを」になり、また「青くてすきとほるやう」になっていたこと、「眼は大きくあいてたけど/ぼくたちのことはまるでみえないやうだつた」こと、そして友だちと遊ぼうとしなかったことなどと、かなりよく似ているように、私には思えるのです。
 つまり、「青森挽歌」のこの部分で、ふと「ギルちゃん」をめぐるお話が語られた背景には、やはり当時の賢治の心に焼き付いていた「タンタジールの死」という戯曲があったのではないかと、私は考えるのです。

※ 本文中に引用した「タンタジールの死」のテキストや画像は、国会図書館デジタルライブラリーより、1914年に日吉堂本店から刊行された『タンタヂールの死: 附・群盲』(小島春潮訳)によっています。

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2016年1月 4日 佐藤恵子著『ヘッケルと進化の夢』

 あけましておめでとうございます。

 今年は、賢治生誕120周年という節目の年で、「十干十二支」においても賢治と同じ丙申(ひのえさる)にあたりますが、はたしてどんな1年になりますでしょうか。

 私自身は、この年末も年始もごろごろと過ごしていたのですが、休みの間に、『ヘッケルと進化の夢 一元論、エコロジー、系統樹』という本を読んでみました。

ヘッケルと進化の夢 ヘッケルと進化の夢
佐藤恵子

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 本の帯には、「日本初紹介!エルンスト・ヘッケルの実像」とあります。思えば私も10年ほど前に、ヘッケルについて少し調べて、当ブログの「エルンスト・ヘッケル博士とその業績(2)」という記事などに書いたことがあるのですが、確かにこの当時も、日本語の文献でヘッケルについて詳しく書かれたものは、なかなか見つかりませんでした。
 戦前までさかのぼれば、単行本として出されたものとしても、岩崎重三著『進化論者ヘッケル』(1921年刊)や、シュミット著『ヘッケル伝:ひとつの偉大な人生の記念碑』(1942年邦訳刊)など、ヘッケルの業績や生涯について詳述した書物がありますので、今回の本に「日本初紹介!」とまで銘打つのは、厳密にはやや言い過ぎになるのかもしれません。
 しかしそれにしても、当時からまた格段に進歩した現代の科学的視点に立って、ヘッケルが残した厖大な著作やその理論体系を、わかりやすく一望できる書物が登場したということは、とても意義のあることと思います。

 著者の佐藤恵子氏は、東大薬学部在学中に「医学や薬学の根底にあるドイツ思想の影響に関心を抱き」(「あとがき」より)、ふたたび学士入学してドイツ地域研究や科学史科学哲学を、さらに大学院で比較文学比較文化を学ばれたということです。そのような経歴も反映して、この本の特色は、生物学をはじめとしたヘッケル本来の自然科学的業績を紹介するする「理系」的な部分と、それを当時の文化や思想など人文科学的背景に位置づけていく「文系」的な部分とが、うまく有機的にかみあっているところにあると言えるでしょう。
 「まえがき」にある著者の次の言葉は、まさにそのような本書の魅力を言い表してくれていると思います。

 ヘッケルを読むことはまた、十九世紀末ドイツという、私たちにとっての異文化空間で、自然科学と文化と社会がどう影響し合いながら歴史を推し進めてきたかを見出す一つのヒントを示すことでもあり、さらには、その流れが織り糸の一本となって、私たちの今を織り上げていることを知るヒントにもなるだろう。

 著者によれば、ヘッケルは「単なる生物学者」ではありませんでした。「彼は、私たちの常識を覆すほど多方面で活躍してきた人物」であり、「十九世紀後半のドイツにおいてヘッケルは、良くも悪くも、計り知れない威力と影響力をもっていた」のです。
 そしてその圧倒的な存在感は、遠く日本岩手の宮澤賢治にも到達し、賢治はヘッケルの思想から、「何か」を感じとっていたのは確実です。

 それが「何か」ということに関しては、賢治研究者の間でもまだ議論が錯綜しているのが現状ですし、本書においても、

また、日本への影響も、三木成夫、夢野久作に関しては生物発生原則の影響の箇所で少し触れたが、宮沢賢治、森鴎外、加藤弘之をはじめとする知識人への影響については力が及んでいない。

と「あとがき」に書かれているように、賢治がヘッケルをどう受容したのかということについては、残念ながら触れられていません。
 しかし、上のように本書の著者が賢治との関連についても問題意識を持って下さっているということは、賢治愛好家の一人としても嬉しいことですし、また今後の展開を楽しみにお待ちしたいと思っています。

 ところでその、「賢治はヘッケルの思想に何を感じとっていたのか」という問題については、私自身これも以前に「《ヘッケル博士!》への呼びかけに関する私見」という記事において考えたことがありましたが、この時はヘッケルの「反復説」と、仏教の「輪廻転生説」との関連に、注目してみたのでした。
 今回また、ここでご紹介した『ヘッケルと進化の夢 一元論、エコロジー、系統樹』を読んだことをきっかけに、あらためて「青森挽歌」におけるこの問題についてお正月の間にあれこれ考えつつ、ヘッケル著『生命之不可思議』を読んでみたり、いろいろな賢治研究者の説を読んでみたりしたのですが、そのうちに前回の拙記事とは少し違った解釈の可能性について、考えるようになりました。

 いずれ、またそのことについて書いてみたいと思っています。
 本年もよろしくお願い申し上げます。

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2015年12月13日 賢治は水族館を見たのか

1.青森の夜汽車の窓

 「青森挽歌」の書き出しは、じつに印象的です。

   青森挽歌

こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
   (乾いたでんしんばしらの列が
    せはしく遷つてゐるらしい
    きしやは銀河系の玲瓏レンズ
    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
〔後略〕

 本当に、夜行列車に乗って黒い窓から見知らぬ風景を目を凝らしながら眺めている時の気持ちは、水族館に行って水槽の中の不思議な生き物たちを見ることに、どこか通ずるものがあります。
 「四角いガラス窓を通して、その向こうにある暗い空間の様子を見る」という位置関係が、まさに夜行列車の窓と水族館の水槽とを相似形にしているのでしょうが、共通しているのはおそらくその物理的な状況だけではなくて、何か日常世界を離れて「異界」に来たような、心理的なものも関わっているのかもしれません。この「異界」の感覚は、夜の列車が銀河鉄道へと昇華されるに至って、最大化されます。
 高校生の頃の私は、将来自分が夜行列車でも何でも乗って、自由に旅ができるようになった時のことを想像しながら、この「青森挽歌」を読んでいたものでした。

 ところで、「客車のまど」を「水族館の窓」になぞらえるというこの比喩を着想した賢治自身は、実際に「水族館」を見たことはあったのでしょうか。これほど絶妙の表現が出てくるからには、きっと実物を見ていたのだろうと個人的には思うのですが、作品を含めて賢治自身の書いたものや、関係者の証言の中には、彼が水族館を見たという証拠となる記録はないようです。

 そもそも、賢治の時代に「水族館」というものは、どのくらい一般的なものだったのでしょうか。


2.日本における水族館の歴史

 東海大学海洋科学博物館の設立に尽力してその館長も務め、現在は東海大学名誉教授である魚類学者の鈴木克美氏は、日本における水族館研究の第一人者と呼ぶべき方だと思いますが、その鈴木氏の論文「我が国の黎明期水族館史再検討(2001)」と、著書『水族館 ものと人間の文化史』(法政大学出版局, 2003)などをもとに、日本で作られた水族館を開設順に並べてみると、次の表のようになります。

  名称 所在地 開設時期

1

上野動物園観魚室(うをのぞき)

東京市上野

1882/9/20−?

2

浅草水族館

東京市浅草

1885/10/17−2年未満で閉館

3

第三回内国勧業博覧会水族館

東京市上野

1890/4/1−7/31

4

東京大学理学部附属三崎臨海実験所付属水族館

神奈川県三崎町

1890夏−現在

5

第四回内国勧業博覧会水族室

京都市岡崎

1895/4/1−7/31

6

第二回水産博覧会水族館

神戸市和田岬

1897/9/1−1911

7

浅草公園水族館

東京市浅草

1899/10/1−1933頃

8

日本水族館

大阪市難波

1901/1/6−数年?

9

江ノ島水族館

神奈川県江ノ島

1902/8/24−数年?

10

第五回内国勧業博覧会堺水族館

大阪府堺市

1903/3/1−1961/9

11

横浜教育水族館

横浜市羽衣町

1906/7/13−?

12

東京勧業博覧会教育水族館

東京市上野

1907/3/20−7/31

13

京都市紀念動物園水族室

京都市岡崎

1908−?

14

北海道水産共進会水族館

北海道小樽市

1908

15

第十三回九州沖縄八県連合共進会水族館

福岡市箱崎

1910−1935?

16

名古屋教育水族館

名古屋市東築地

1910/4/10−?

17

富山県共進会魚津水族館

富山県魚津町

1913/9−1944/3

18

第十四回九州沖縄八県連合共進会水族館

大分県大分市

1921/3/15−5/10

19

東北大学理学部附属浅虫臨海実験所付属水族館

青森市浅虫

1924/7−1984/4

20

松島教育水族館

宮城県松島村

1927/4/1−2015/5/10

21

別府市中外産業博覧会水族館

大分県別府市

1928/4/1−5/20

22

大礼記念国産振興東京博覧会水族館

東京市上野

1928/3/24−5/22


 これらの中から、賢治が生まれた1896年から「青森挽歌」が書かれた1923年までの期間に、賢治訪れたことがわかっている場所に存在した水族館を選び出してみると、7、11、13が、ひとまず可能性としては考えられます。しかしこの中では、7の「浅草公園水族館」が、何と言っても最有力候補だろうと思われます。
 賢治は、1916年(大正5年)3月に盛岡高等農林学校の修学旅行の帰りに、浅草に立ち寄って

浅草の
木馬に乗りて
哂ひつゝ
夜汽車を待てどこゝろまぎれず

という短歌を残していますし、この後にも、同年7月−8月には「独逸語夏期講習」を受けるために東京に1か月滞在、あと1917年1月には商用の叔父に同伴して上京、1918年12月から1919年3月まではトシの看病、1921年1月から夏までは家出をして、いずれも東京に滞在していますから、浅草に行けたであろう機会は、何回もあります。
 また賢治は、特に「浅草オペラ」に対して格別の愛着を持っていたようで、劇「飢餓陣営」の構想や、詩「凾館港春夜光景」に出てくる当時の歌手の名前などを見ても、生前の賢治が何度も「浅草オペラ」を見たであろうことは、明らかです。となると、オペラ観劇のついでに、彼が浅草の水族館に立ち寄ったという可能性は、十分に考えられるわけです。

 賢治が、「浅草公園水族館」以外の水族館を見ていた可能性となると、上に触れたように、1916年の修学旅行で京都に行った際に、13の「京都市紀念動物園水族室」を見たか、1917年1月の上京時には横浜にも寄っていますから、この際に11の「横浜教育水族館」を見たということも、完全に否定はできません。しかし、前者では「水族室」という名称が「青森挽歌」とは異なること、1917年の横浜ではスケジュール的に余裕がなかったのではないかと思われることから、やはり私としては、賢治が見たであろう水族館としては、「浅草公園水族館」の一本で考えたいところです。

 ちなみに、上表の19の「東北大学理学部附属浅虫臨海実験所付属水族館」は、1984年に閉館するまで60年にもわたって運営されてきた、当時としては先進的な施設の一つだったということですが、賢治が1923年夏にこの浅虫のあたりを通りながら、「客車のまどはみんな水族館の窓」とつぶやいたちょうど1年後に開館しているのが、面白いところです。


3.浅草公園水族館

 やはり鈴木克美氏の論文「浅草公園水族館覚え書(2003)」によれば、1899年10月11日に開業した「浅草公園水族館」はたいへんな大衆的人気を博し、「日曜のごときは極めて雑踏をなし、かつ室内暗黒なれば、開館の当初は、まま婦女子の櫛笄などを抜き去る無頼漢ありしとかや。館員の語るところによれば、一日平均三千名内外の観覧者ありという」(坪川辰雄「土木門 水族館」風俗画報, 1900)という盛況だったとのことです。
 水族館のあった場所は、下の地図の矢印のところで、Googleマップで調べると現在ここは「雷おこし」の常磐堂の経営する、「雷5656茶屋」というお店がある場所のようです。

 「浅草公園水族館」地図

 また、当時の「グラフ雑誌」と言うべき『風俗画報』という雑誌には、次のような「浅草公園水族館」の外観の絵が載せられています。

「浅草公園水族館」外観
浅草公園水族館覚え書」より

 さらに、水族館の内部の様子は、浮世絵のような見事な多色刷り版画で描かれています。

「浅草公園水族館」
我が国の黎明期水族館史再検討」より

 ところで、上の画像の左下部分にある、水族館の中の様子を拡大すると、下のようになっています。

「浅草公園水族館」

 これを見ると、狭い幅でまっすぐ長い通路の横に、同じ大きさの長方形の「窓」がずらりと並んでおり、これはまさに「客車のまど」と言うにぴったりの景観です。トンネルまたはチューブのように、天井が丸みを帯びた内部の作りは、鉄道列車の中の様子を連想させるもので、やはり賢治が「青森挽歌」の比喩を思いついたきっかけは、この水族館だったのではないかと、ますます考えたくなります。

 さて、このようにオープンの当初は賑わっていた「浅草公園水族館」ですが、大正時代に入ると、徐々に客の入りが減少していきました。盛り返しを狙った経営者は、1913年(大正2年)頃から水族館の2階に演芸場を設け、「娘手踊り」などのアトラクションで、客を取り戻そうとしました。
 ところで上の表からもおわかりのように、当時の水族館というのは、博覧会などの際に一時的に設けられるものが多く、常設として開館したものでも、わずか数年で閉館になっているところがほとんどです。その理由は、当時の知識や技術では、魚などの海の生き物を長期間にわたって飼育しつづけるのは困難で、数年もたつうちには、開館当初に揃えた生き物たちはだんだん死に絶えていくからです。展示生物の減少ともに、人々にも飽きられていって客が減り、経営が苦しくなると新しい生物を補充する予算もなくなって、ますます貧弱な内容になる、という悪循環が起こります。
 上の絵のように見事だった「浅草公園水族館」の水槽も、ある時期からは、「申しわけのように金魚とスッポンを泳がせている」というような状態になっていったという記述もあります(水守三郎「レヴユーからバーレスクへ」)。

 1923年の関東大震災の際には、浅草も壊滅的な被害を受けたということですが、いったんは水族館も何とか再興したようです。そしてその後、1929年(昭和4年)に水族館2階の演芸場は、後に「喜劇王」とも呼ばれる榎本健一(エノケン)を座長とする「カジノ・フォーリ−」として新装オープンし、これが図らずも爆発的な人気を呼ぶことになります。エノケンは、機知に富んだ演出で、レヴューや軽演劇を上演し、「水族館の二階の演芸場は、もともと下の水族館の、いわば客寄せで、水族館の付録のようなものだったが…これは逆になり水族館のほうが付録になってしまった」と、自らも回想しています(榎本健一「“浅草と僕”―思い出すカジノ・フォーリ−, 1955」)。

 このように、水族館そのものは「おまけ」のような地位に甘んずることになりますが、軽妙な演劇や若い女性による華やかなレヴューと、薄暗く不思議な雰囲気の漂う水族館が、一つの建物に共存するという奇妙なマッチングは、当時の文学者たちの創作意欲をかき立てたという一面もあったようです。川端康成は、浅草公園水族館も登場する一連の作品、『浅草紅団』(1929)、『水族館の踊子』(1930)、『浅草の姉妹』(1932)を発表して、これがまた浅草のこの界隈に人々の注目を集めることとなりました。堀辰雄も、ここを舞台に『水族館』(1929)という短篇を書いています。
 『水族館の踊子』における川端の描写は、次のようなものです。

そのガラスは、水槽の底だったのです。水族館で一番大きい水槽だったのです。たひ、すずき、をこぜ、ほうぼう、のどくさり、かれひ、―いろんな魚が泳いでゐましたよ。…その水槽の上が舞台だったのです。真上かどうかは分からないが、とにかく、なんかしかけがあるのか、その水槽を通して穴倉から舞台が見えたのです。…踊子と魚が、同じ水の中にゐるやうにです。


4.賢治の他の作品

 賢治の他の作品で「水族館」が登場するものを調べてみると、「口語詩稿」に分類されている「〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕」の最後の部分に、次のような箇所があります。

〔前略〕
こどもらがこっそりかはるがはる来て
がらすの戸から口をあいたりのぞくのは
水族館のやうでもある
おとなもそろそろ来てゐるやうだ
日高神社の別当は
いまだに眉をはげしく刻む

 これは、賢治が農学校を退職した後の羅須地人協会時代の作品と思われますが、何かの用事で彼が学校の職員室にやってきた時の情景のようです。職員室にいる賢治たちを、ガラス窓を通して生徒たちが廊下から面白そうに眺めているという場面で、これを「水族館」に見立てるならば、生徒たちが観客で、賢治ら来賓が「魚たち」に相当するのでしょう。廊下の横の窓が「水族館の窓」という状況は、これも上に載せた『風俗画報』の拡大図の、長細い水族館の通路の様子を彷彿とさせます。
 あとこれ以外では、上記作品を文語詩化した「来賓」という作品の「下書稿(一)」の手入れ形に、「児童(こ)らもこもごものぞけるは/水族館のごとくなり」として、さらに「下書稿(二)」の初期形に、「児童(こ)らこもごもにのぞけるは/水族館のけはひなり」として登場していますが、その「定稿」では姿を消しています。

 それからもう一つ、「水族館」ではありませんが、「口語詩稿」の「来訪」という作品が、私は気になります。それは、下記のようなものです。

     来訪

水いろの穂などをもって
三人づれで出てきたな
さきに二階へ行きたまへ
ぼくはあかりを消してゆく
つけっぱなしにして置くと
下台ぢゅうの羽虫がみんな寄ってくる
  ・・・・・・くわがたむしがビーンと来たり、
       一オンスもあって
       まるで鳥みたいな赤い蛾が
       ぴかぴか鱗粉を落したりだ・・・・・・
ちゃうど台地のとっぱななので
ここのあかりは鳥には燈台の役目もつとめ
はたけの方へは誘蛾燈にもはたらくらしい
三十分もうっかりすると
家がそっくり昆虫館に変ってしまふ
  ・・・・・・もうやってきた ちいさな浮塵子
       ぼくは緑の蝦なんですといふやうに
       ピチピチ電燈をはねてゐる・・・・・・
〔後略〕

 これも羅須地人協会時代の作品のようで、賢治が暮らしていたあの建物を描いています。部屋の灯りをつけっぱなしにしておくと、羽虫がたくさん入ってきて、「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」と言っているのですが、じつはこの「昆虫館」という施設も、当時は浅草公園の水族館に隣接して建っていたのです。

 Wikipediaの「木馬館」の説明によれば、1907年に昆虫学者の名和靖が、「浅草公園水族館」の隣に開設したのが「通俗教育昆虫館」、通称「昆虫館」でした。川端康成の『浅草紅団』にも、「花屋敷と昆蟲館――この二つの小屋が、浅草の家庭的な遊び場として、諸君に知れ渡つてゐるのは、もちろん虎夫婦の寝相のためではない。メリイ・ゴオ・ラウンドの木馬があるからだ」として出てきます。
 水族館と同様に、この昆虫館もやがて経営が行き詰まり、1922年には昆虫の展示は2階部分のみとなって、1階には木馬が置かれて名前も「昆虫木馬館」に、次いで「木馬館」となります。ここは現在も名前が残って、「浅草木馬館大衆劇場」になっていますね。

 さて、上の作品で賢治が「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」と書いたのは、浅草公園の「昆虫館」を知った上でのことだったのでしょうか。
 これは「昆虫」と「館」を合わせただけの簡単な語句ですから、賢治の即興的な造語だった可能性も、もちろんあります。しかし私には、「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」という表現の背景には、「昆虫館」という既成の概念があったように、何となく感じられるのです。
 もしそうであれば、当時は東京の浅草以外には「昆虫館」などという施設はなかったと思われますから、賢治が「浅草公園水族館」を訪れていた可能性は、さらにいくぶん高まるとことになります。


5.列車は海中から天上へ

 以上、賢治が「浅草公園水族館」を実際に見ていた体験が、「青森挽歌」の「客車のまどはみんな水族館の窓になる」という一節に反映したのではないか、という私の個人的な想像を述べました。
 ここから先は、さらに空想的なお話です。

 上に引用した、「浅草公園水族館」の通路の拡大図を見ていただいたらおわかりのように、この水族館において観客は、まるで海中のトンネルから魚たちを眺める気持ちになるように作られています。下の図は、「浅草公園水族館」開館の翌年に出版された『少年教育水族館』という本の1ページですが、ここでも「まるで海の底へ遊びに行くやうです」と表現されています。

『少年教育水族館』
水産総合研究センター図書デジタルアーカイブ」より

 この、海中を思わせる「水族館の窓」が、「客車のまど」なのですから、この時の賢治のイメージの中では、列車は海中を走っているということになるでしょう。すなわち、「青森挽歌」が書かれた夜汽車に乗りながら、賢治が「客車のまど」を「水族館の窓」として感じたならば、彼は同時に、「いま自分は列車に乗って海の中を走っている」とも感じたはずです。

 一方、賢治の童話「双子の星」においては、「天上」と「海中」は、対になった相似の場所として、描かれます。
 チュンセとポウセの双子の星たちが、彗星の乱暴によって天上から海の底へ落とされてしまった時、二人は「ひとで」になってしまいます。ここでは、ちょうどどちらも「星形」の、天の「星」と海の「ひとで」が対応物になっているわけですが、賢治はこのようなアナロジーをさらに推し進め、まず「彗星」の自己紹介は、次のようです。

俺のあだ名は空の鯨と云ふんだ。知ってるか。俺は鰯のやうなヒョロヒョロの星やめだかのやうな黒い隕石はみんなパクパク呑んでしまふんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってそのまままっすぐに戻る位ひどくカーブを切って廻るときだ。まるで身体が壊れさうになってミシミシ云ふんだ。光の骨までがカチカチ云ふぜ。

 これに対して、二人が海で出会った「鯨」は、次のように言います。

俺のあだなは海の彗星と云ふんだ。知ってるか。俺は鰯のやうなひょろひょろの魚やめだかの様なめくらの魚はみんなパクパク呑んでしまふんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってぐるっと円を描いてまっすぐにかへる位ゆっくりカーブを切るときだ。まるでからだの油がねとねとするぞ。

 まさに賢治のユーモアがあふれている箇所ですが、ここでは天の「彗星」と海の「鯨」とが対応物だというわけですね。とにかくこの作品では、「天上」と「海中」の間に、相同性、双対性があるとされていて、チュンセとポウセが墜落することによって「天」と「海」が入れ替わっても、そして最後に天上に戻されることで再び両者が入れ替わっても、双方には相似の世界が広がっているのです。

 それでは、「青森挽歌」において「海中を走る列車に乗っている」賢治に対して、このような「天上」と「海中」の入れ替え操作を行うと、どうなるでしょうか。
 もちろん列車は、天上の空間を、星々の間をめぐりながら走る、ということになるわけです。トシのことを思いながら夜汽車に乗っていた賢治は、ひょっとしたらこういうイメージの変転によって、「銀河鉄道の夜」の着想に至ったのではないかと、私はふと思ってみたりする次第です。

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2015年12月 6日 第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都・終了

 去る11月29日(日)、私どもの企画した「第7回イーハトーブin京都」が、無事終了いたしました。寒い日でしたが、会場いっぱいの皆様にお越しいただき、竹崎利信さんによる賢治作品の美しく迫真の「かたり」を、ご一緒に堪能することができました。
 いただいた「参加費」は、今回もまた東日本大震災の被災地にお届けさせていただきます。

 お話しした内容については、またいずれきちんとした形でまとめたいと思いますが、今日は当日のいくつかの写真のみご紹介申し上げます。


 まず、舞台設定時のプロジェクター試写。三つの丸い明かりとりの窓が印象的でした。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」舞台設定


 竹崎利信さんによる「かたり」に、会場の皆さんとともに固唾をのんで耳を澄ませます。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」:竹崎利信さんの「かたり」


 私が解説をしているところ。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」・解説風景


 最後の、「銀河鉄道の夜」の一コマです。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」より:「銀河鉄道の夜」


 終了後のご挨拶。もうかなり暗くなってしまいましたが、長時間ありがとうございました。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」より:終了後のご挨拶


 お越しいただいた皆様に、厚く御礼申し上げます。
 また今後とも、よろしくお願い申し上げます。<(_ _)>

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2015年11月23日 「宗谷挽歌」と歎異抄

 十代半ばまでの宮澤賢治は、家の宗派であった浄土真宗を深く信仰していて、16歳の時には父あての書簡の中で、「小生はすでに道を得侯。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し侯。」(書簡6)という宣言までしていました。3歳頃には、「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していたという逸話が残っている賢治ですが、きっと「歎異抄」にも馴れ親しんでいたことでしょう。
 そんな賢治が、少なくとも1918年2月には、浄土真宗から離れて完全に法華経にはまり込んでいたことが、父あての「書簡44」や「書簡46」から見てとれます。そして、死の当日に父に伝えたという遺言も、「国訳妙法蓮華経を千部作って配って下さい」というものでしたから、その信仰は死ぬまで変わらなかったと言えるでしょう。

 しかし、このように法華経や日蓮に深く帰依し続けていた賢治の信仰心や思想に、実は「浄土真宗的」な要素が分かちがたく結びついていたということを、松岡利夫著『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』という本は詳しく分析してみせてくれていますし、私自身も以前に「けつしてひとりをいのつてはいけない」という記事などで触れました。
 上記の私の記事で取り上げたのは、「青森挽歌」に突如として出現する《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という命題は、「歎異抄」において親鸞が言ったとされる、次の言葉をルーツに持っているのではないか、ということでした。

 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、佛になりて、たすけさふらうべきなり。                   (『歎異抄』第五条より)

 すなわち、親鸞は父母への孝行のために念仏を唱えたことは一度もない、なぜなら一切の生き物は皆、輪廻転生のうちには自分の父母兄弟だったこともある存在なので、この次の生で(自分が死んで浄土に生まれて)仏になってから、あらためて皆をお救いするべきだからだ、というのです。
 ここで親鸞は、父母兄弟のことを「いのつてはいけない」と禁止まではしていませんが、少なくともそれは無意味なことだと見なしています。現代の浄土真宗は、おそらくここまで潔癖な態度はとっておらず、他の宗派と同じように亡くなった方のための「法事」も執り行っているのでしょうが、この親鸞の言葉は今の日本人の感性とは一線を画しているので、とても印象的です。

 一方、賢治がこの頃も信じていたはずの日蓮は、近親者を亡くした遺族が故人の死後の幸いを祈るのは当然のことであり、またそれは善いことでもあると言い、大いに行うよう積極的に勧めていました。ですから、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という命題は、日蓮の考えとは異なっているのです。
 前掲の松岡利夫著『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』によれば、日蓮にも「六道四生の一切衆生は皆父母也」という言葉があり(「法蓮抄」)、やはりすべての生き物が父母であったということは述べていますが、賢治は「みんなむかしからのきやうだい」と書いているところを、日蓮は「父母」だけを挙げているのに対して、親鸞は上記のように「父母兄弟」としています。したがって松岡利夫氏は、「青森挽歌」のこの箇所は日蓮ではなく親鸞の影響を受けたものであろうと、推断しておられます。

 そして今日ふと思ったのは、「青森挽歌」の翌日に書かれた「宗谷挽歌」の、次の箇所についてです。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 詩の前半部によれば、稚内からサハリンへ向かう連絡船の甲板に立っている賢治は、もしもトシがどこからか自分を呼ぶ声が聞こえたら、「私はもちろん落ちて行く」という決心を固めています。
 何のためにトシが賢治を呼ぶのかというと、トシが死んだ結果、「われわれが信じわれわれが行かうとするみち」、すなわち法華経が、「まちがひ」であったと判明したならば、その事実を「まっすぐにやって来て/知らせて呉れ」というわけです。
 この理屈に立つならば、トシが賢治のもとにやって来て再会すること、あるいは会えないまでも二人で通信をかわすことは、「ひとりをいのる」行為に伴うものではなく、現世で法華経を信仰している人すべてにその誤りを伝えるための行いであり、すなわち「みんなのほんたうの幸福を求めて」の行為なのですから、「青森挽歌」でもたらされた上記の啓示には違反しません。

 しかし、この「理屈」を皆さんはどう評価されるでしょう。確かに、一応の筋は通っていますが、でもその理屈の皮を一枚めくれば、とにかくトシと会いたい、声を聞きたい、という肉親の愛情に基づいた賢治の本心が、ありありと見えてしまうように、私には感じられます。「ひとりをいのつてはいけない」との制約を自らに課しながら、それでもなおトシと会いたい一心で構築した、綱渡りのごとき論理のように、私には思えるのです。

 いずれにせよ、もしもトシが、夜の船上にいる賢治にそのようなことを知らせてくれたら、賢治は「もちろん落ちて行く」という覚悟を決めていて、そして海中に沈む賢治とトシの二人=「私たち」は、「このまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。

 私がふと感じたのは、この「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」という箇所は、これも「歎異抄」の次の部分と、どこか似ているのではないか、ということです。

 念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてははんべらん、また、地獄におつべき業にてははんべるらん。惣じてもって存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。 (『歎異抄』第二条より)

 念仏というものが、浄土に生まれる契機になるのか地獄に落ちる罪業になるのか知らないが、たとえ法然上人に騙されて地獄に落ちたとしても、何ら後悔すべきではない、と親鸞は言うのです。

 賢治が封ぜられるのは、まずは「このまっくらな海」ですが、地獄にいて苦しんでいるトシのもとに行くのですから、最終的にはやはり地獄です。そして、地獄に落ちる理由は、賢治とトシも、法然と親鸞も、どちらも「信仰が間違っていたから」ということで共通しています。
 後悔すべきでない理由は、賢治の場合は「みんなの幸福」のためだから、親鸞の場合は「他に方法がないから」、ということで異なっていますが、トシと再会できる賢治と同様に、きっと親鸞は地獄で法然に会えるでしょう。
 親鸞が法然から直に教えを受けられたのはわずか6年のことで、承元元年に法然は讃岐へ、親鸞は越後へと流罪になり、これが二人の今生の別れとなりました。「歎異抄」では上の箇所に続いて、「地獄は一定すみかぞかし」という有名な一節が出てきますが、トシのもとへ行く賢治と同じく親鸞にとっても、「お慕いする法然上人と一緒なら、たとえ地獄でも・・・」という気持ちがあったのかもしれません。

 ということで、この二つの状況にはある種の共通点を感じ、私としては「青森挽歌」のみならず翌日の「宗谷挽歌」においても、賢治の深層意識からは、むかし親しんだ「歎異抄」の思想や言葉が、思わずにじみ出てきていたのではないか、という気がするのです。

対馬丸
「宗谷挽歌」において賢治が乗船していたと推測される「対馬丸」
(萩原昌好著『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」への旅』より)

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2015年11月 8日 宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」

 11月29日(日)に行う、「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都―宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」まで、あと3週間となりました。

 今回のプログラムは、竹崎利信さんによる賢治作品の「かたり」の合間に、私が「解説」をはさむという形になっていますので、竹崎さんと私とで合同の「稽古」を、竹崎さんのご自宅のある宝塚市で、これまで3回行いました。だんだんとイメージが具体的な姿をとってで現れてくるにしたがって、私たちとしてもますます当日が楽しみになっているところです。

 第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都―宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」

 全体のプログラムは、チラシにある当初の予定から少しだけ変わって、下記のようになりました。

1.死ぬことの向ふ側まで一諸について・・・
   ひかりの素足(部分)
   イギリス海岸(部分)

2.臨終の日
   永訣の朝
   松の針
   無声慟哭

  (休憩)

3.探索行動・深層意識の言語化
   風林
   青森挽歌
   宗谷挽歌

4.現実との相克から内心の葛藤へ
   手紙 四
   宗教風の恋

5.「死者とともにある」
   この森を通りぬければ
   薤露青
   銀河鉄道の夜
(部分)

 竹崎利信さんによる美しい「かたり」によって作品を鑑賞しつつ、トシの闘病中、臨終の床、死後、と順を追って、賢治の「心の軌跡」をたどるという企画です。
 日時は、11月29日(日)午後2時から、場所は、京都市上京区の京都府庁敷地内にある、「府庁旧本館正庁」で行います。
 会場として使用させていただく「京都府庁旧本館正庁」は、明治時代に建てれた国の重要文化財で、これをご覧いただくだけでも、かなりの価値はあると思います。

 今のところまだ席に余裕はありますが、「当日券」は設けていません。私あてにメールをしていただければ、予約をお取りいたしますので、行ってみようかと思われる方は、メールをいただければ幸いです。


 さて下の絵は、当日の配付資料の最後のページに載せる予定のものです。今回のプログラム最初の「ひかりの素足」と、最後の「銀河鉄道の夜」とは、ちょうど相似形の構造になっているのですが、催し全体のテーマも、やはり同型だということを表しています。

「ひかりの素足」、「銀河鉄道の夜」、宮沢賢治のグリーフ・ワーク

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2015年10月18日 Sachikoの歌う「大菩薩峠の歌」

 先日 YAMAHA から、歌手の小林幸子さんの歌声をもとにした VOCALOID 音声ライブラリー、‘Sachiko’が発売されました。

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 あのドスのきいた小林幸子さんの声…を想像して、個人的にまず制作してみたいと思ったのが、賢治の「大菩薩峠の歌」でした。

 ということで、以前に「歌曲の部屋」で公開していたものとは、伴奏の楽器編成も少し変えて、DTM化してみたのが、下のファイルです。

 ♪ 大菩薩峠の歌 MP3 (Sachiko版)

二十日月かざす刃は音無しの
       虚空も二つときりさぐる
                  その竜之助

風もなき修羅のさかひを行き惑ひ
       すすきすがるるいのじ原
                  その雲のいろ

日は沈み鳥はねぐらにかへれども
       ひとはかへらぬ修羅の旅
                  その竜之助

 VOCALOID も本当に進化したもので、以前の「初音ミク」などは、人間の歌とは違うヴァーチャルな感じがその魅力の一つだったものでしたが、これはまるで、小林幸子さん本人が歌っているかのような独特のビブラートまで聴かせてくれます。
 伴奏楽器は、Garritan World Instruments から、琴、古箏、鼓、中太鼓、虎杖笛、ベース、それに持鈴です。

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2015年10月12日 福田パンの創業者・及川留吉

 先月の連休に、花巻から普代村へ向かう途中、腹ごしらえのために盛岡で「福田パン本店」に寄りました。
 この「福田パン」とは、岩手県でおもにコッペパンの製造・販売を行っている会社なのですが、ここのパンは、長年にわたって盛岡近郊のほとんどの小中学校の給食に採用され、また多くの高校の購買部でも定番のメニューとなっていることから、盛岡を中心とした岩手の人々は、幾世代にもわたって子供の頃からずっとこのパンの味に親しんでおられるのです。そして今や福田パンは、「盛岡のソウルフード」とまで呼ばれるまでになっています。

 盛岡市長田町にあるその福田パンの本店は、下のようなちょっとメルヘン調の外観です。

福田パン本店入口

 レトロな木造の雰囲気や、正面の丸い時計は、昔の学校を連想させるものがありますが、実際これは、多くの盛岡市民が福田パンと出会った原体験の舞台である、「学校の校舎」をイメージして建てられているのだそうです。

 広い駐車場は、すでにほとんど満杯で、専属の誘導員も大忙しでしたが、扉を開けて店内に入ると、まだ祝日の朝8時すぎというのに、すでにホールを行列がぐるっと一周しています。
 そして正面の売り場窓口の上の「おしながき」と書かれたボード(黒板の色!)には、下写真のように、メニューの札がずらっと掛けられています。

福田パン「おしながき」

 「139円」の部には、「ピーナツ」「ピーナツバター」「ジャム」「ジャムバター」「バター」「まろやかチョコ」「ブルーベリークリーム」「バナナ」・・・の札が並び、さらに「159円」、「163円」と続いて、「276円」の「トンカツ」や「てりやきチキン」まで全部で50種類、さらにこれ以外にも「店舗限定メニュー」として、「ずんだあん」や「夏みかんマンゴージャム」などが、少なくとも7種類はありました。
 お客さんは、これらの具材の中から好きなものを選んで、「ご注文」と書かれた窓口で店員さんにオーダーし、その場で自分のコッペパンの中に、塗ったり挟んだりしてもらうのです。そして出来上がったパンを、隣の「お会計」の窓口で受け取ってお金を払う、というシステムになっています。
 具材は、2種類以上を組み合わせて注文することもできるので、そのバリエーションは物凄い数にのぼり、まさに「自分だけのオリジナル・コッペパン」を作ってもらうことができるという趣向です。
 「SUBWAY」という、細長いサンドイッチを供するアメリカ発祥のファストフードチェーン店がありますが、中身を自分好みにオーダーして詰めてもらうというところは、ちょうど同じような感じです。同じようなシステムながら、こちらは「SUBWAY」よりも20年以上早い、戦後まもなくから営業しているのです!

 「福田パン」のコッペパンは、私たちが給食で食べたものよりは一回り大きくて、皮も中身もふわふわとやわらかく、ほんのり甘い後味がして、本当に「優しい味」という感じです。
 福田パンの直営店としては、他に「矢巾店」と「厨川店」もありますが、この「本店」は最もメニューが豊富で、パンも焼きたてのものを搬入しているとあって、盛岡市民の皆さんが行列に並んででもここのパンを買いに来るというのは、よくわかる気がします。
 私も、もしも近所にこんなお店があったら、いつも買いに来ていることでしょう。

 ということで、盛岡に来られることがあれば、ぜひともお勧めしたい「福田パン」なのですが、当サイトとしてこのお店に注目する最大の理由は、1948年(昭和23年)に「福田パン」を創業した福田留吉という方が、実は宮澤賢治の農学校における元教え子だったということにあります。

 以下、この創業者と賢治の関わりについて、一通り見てみたいと思います。

 下のコピーは、『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)「補遺・伝記資料篇」p.116より、稗貫農学校の大正12年卒業生名簿です。

稗貫農学校大正12年卒業生名簿

 赤枠が、「福田パン」創業者の福田留吉ですが、この方は卒業後に名字が変わっていて、在学中の旧姓は、括弧内に記されている「及川」でした。
 賢治が稗貫農学校に就職したのは大正10年(1921年)の12月で、そのすぐ後の大正11年3月にも、4か月だけ教えた生徒を卒業生として送り出していますが、まる1年を通して直接教え、いかにも「賢治らしい」独自の教育を存分に授けることができたのは、大正12年卒業のこの及川留吉の学年からだったわけです。同級生には、後に宮沢賢治記念会理事長等の役職に就き、賢治を顕彰する種々の活動にも尽力した、照井謹二郎氏もいます。

 『証言 宮澤賢治先生』(佐藤成編,農文協)という本には、福田(及川)留吉からの聞き書きがかなり収録されているのですが、以下にその一部を引用してみます。

福田(及川)留吉  (私は「飢餓陣営」の特務曹長であります)
 稗貫農学校は、私どもが最初の入学生(大正十年)ですが、二年制の乙種農学校で、しかも新設校でしたので、学習用具などは皆無に等しく、養蚕実習用具のほかは、大八車一台、鍬数丁、顕微鏡は一基くらいあったでしょうか。フラスコもビーカーも見たことはありませんでしたが、宮沢先生の机の上には常に数冊の新刊書が積まれていました。私の見たのは、吉村清尚著『肥料学』、大工原銀太郎著『土壌学』、片山正夫著『化学本論』などでした。いずれも1000頁前後の大冊で、学界最高峰の本でしょう。私は無遠慮にも、「先生、この本を見る暇があるのですか」と尋ねました。先生は「なあに、一ヵ月に一冊は平らげるさ」と、にこにこしながら答えました。先生は英語の百科事典を使っていました。授業には分厚い原書を抱えてきての講義で午前中は普通、授業(座学)、午後は農場で実習、実習が終われば郊外に農作状況の観察、ときには生徒を帯同して出かけました。私どもは喜んで後に続き、心安く語り合いながら、課外指導を受けたものでした。(p.63-64)

 また及川留吉は、授業中に賢治から読み聞かせてもらった彼の童話に興味を引かれ、それを借りて書写したこともあったとのことです。

 先生は授業中、よく自分の書いた詩や童話を生徒たちに読んで聞かせました。
 五分か十分前といえば、生徒がちょうど授業に飽きてくる頃。先生は、このタイミングをうまくつかまえました。しかも聞かせてくれる童話が実に面白い。聞きっ放しにしておくのが惜しいので私は一度朗読のあとで、「先生、その原稿をちょっと貸してください」といって、そっくり借りたことがあります。それから、二晩か三晩かけて筆写しました。「貝の火」という童話で、四〇〇字詰めの原稿用紙三八枚の短編でしたが、筆写したのは大正十一年十一月、私が二年の秋のことでした。(p.66)

 この及川留吉の二年の秋9月、賢治が企画・脚本・演出をした初めての学校劇「飢餓陣営」が、農学校で上演されました。上のような文学への関心も与ってか、及川留吉は重要な配役である「特務曹長」を演じています。
 この「飢餓陣営」とは、食べ物がなく飢え死にしそうになっている兵隊たちのもとに、宴会から上機嫌で「バナナン大将」が帰還したところ、大将が身につけている肩章(エボレット)や勲章が、実はバナナやお菓子で出来ていたものですから、空腹に耐えかねた隊員たちは、これらの勲章を拝謁するふりをしながら、皆で食べてしまうというお話です。
 当初は「コミックオペレット」とも題されていたこの「歌物語」において、特務曹長と曹長は、バナナン大将の帰還を待ちわびながら、「もう一時半なのにどうしたのだらう・・・」という調子で交互に何度も歌を唄いますし、大将の勲章をもらい受ける場面では、特務曹長が巧妙な駆け引きで大将をおだてながら、次々と「お菓子」をはぎ取っていくという構成になっています。
 この「特務曹長」を演じた及川留吉には、相当の演技力と歌唱力が求められたことでしょう。

 そして、大将の勲章や肩章を全部食べてしまった後、自分たちの犯した罪の重さに愕然とした特務曹長と曹長は、二人ですべての罪を背負ってピストルで自決しようと覚悟し、「飢餓陣営のたそがれの中」という歌を唄います。

♪ 「飢餓陣営のたそがれの中」(mp3: クリックで再生)

飢餓陣営のたそがれの中
犯せる罪はいとも深し
あゝ夜のそらの青き火もて
われらがつみをきよめたまへ

マルトン原のかなしみのなか
ひかりはつちにうづもれぬ
あゝみめぐみのあめをくだし
われらがつみをゆるしたまへ

〔合唱〕 あゝみめぐみの雨をくだし
      われらがつみをゆるしたまへ

 この歌詞一番の、「飢餓陣営のたそがれの中・・・」という部分を切々と歌ったのが、及川留吉だったのです。

 さて、そんな風に、楽しく充実した学校生活を送ったであろう及川留吉ですが、年が明けると、卒業後の針路を考えるべき時期がやってきます。
 ここで再び、『証言 宮澤賢治先生』(農文協)から引用させていただきます。

 卒業も間近い大正十二年の二月上旬でした。授業もすんで、帰り仕度をして廊下に出た私を、先生は呼びとめました。何かと思い脱帽してペコンと頭をさげました。先生は「学校に宮野目村役場から、農業技術員を一人世話してくれとの依頼状が来たので、君を推薦しようかとも考えたが、君はあまり子どもっぽいので考えなおした。それより盛岡高等農林学校の助手になって、もっと勉強する気はないか」といわれました。その頃私は、とにかく農学を勉強し、少しでも多収穫の農業技術を身につけたいと、そればかりに没頭して、作物病理でも、肥料設計でも、地質土壌でも、農業に関する大事なことなら何でも先生方のお話は聞きもらすまいと一生懸命でしたから、先生のお話にはちょっと虚を突かれた感がしました。しかも「もっと勉強する気がないか」の言葉は、非常に魅力的に響いて私の脳裡に深く刻まれました。帰宅して、そのことを兄に話したら、兄は「それはたいへん有難いことだ。願ってもないことだ。ぜひ先生にお願いしろ」とのことで、次の日、早速先生にお願いしました。
 先生は、何遍も盛岡に出向かれて、高農の鏡校長や農芸化学部長、すなわち学校当局にご苦労なさって交渉してくださったに違いありません。このことに関してとくに銘記したいことは、先生は私のために、ご自分の時間、私費を費やして努力してくださったにもかかわらず、そのことの片鱗も、お顔にもお口にも表わしませんでした。そればかりでなく、私の赴任に際しては、懇ろにご教示をいただき、私のことを衷心から喜んで祝福してくれました。(p.65)

 「留吉」という名前から想像されるのは、彼はある程度の人数の兄弟の末っ子として生まれたのではないかということです。彼自身が継がなければならない家業や、耕さなければならない田畑はなく、卒業とともに、自らを養うための職を見つけなければならない立場だったのでしょう。
 賢治は、このような生徒に対しては、骨を折って就職を斡旋してやったようです。

 賢治の推薦によって及川留吉は、1923年(大正12年)4月に盛岡高等農林学校農芸化学部の実験助手として就職して、伊藤武男教授(専門は物理・物理化学・分析化学)の実験室に所属し、学生教育や研究を手伝いながら、化学分析技術や農芸化学の勉強を始めます。またその後、村松舜祐教授のもとで、納豆に関する研究も行ったということです。
 この盛岡高等農林学校在職中の及川留吉に対して、賢治が出した書簡が、現在2通残されています。いずれも、『新校本全集』第十五巻(書簡)の刊行後に発見されたので、第十六巻(下)の「補遺・伝記資料篇」に収録されています。

 一つは、1923年(大正12年)4月14日付けで、まだ就職してまもない及川留吉にあてたもの。

書簡199b
たびたびのお便りをありがたう。今度はまあ恰度いゝあんばいで寔に結構でした。村松先生もお悦びのやうですしどうかしっかりやって下さい。鈴木君は東京のある医師の家で書生をしながら夜学に通ってゐます。沢田、小田島両君は更木の耕地整理にはいりました。みんなお互からだを大切にしてどこまでも本気にやって行きませう。先頃はまた兄さんがわざわざ学校まで入らして結構なお品物を戴き本統に恐縮です。こちらへ帰ってもし暇のあったときはどうか学校なり私の家へなり寄って下さい。今ごろになってまた雪が降ったりして大へん困ります。学校では苗代は四畝作りましたが雪の為にまで馬肥もかけられず折角天気になるのを待ってゐます。
 どうか身体を大事にして下さい。
    大正十二年四月十四日
                                   宮沢賢治
及川留吉様

 留吉も何度も賢治に手紙を書き、高農就職を勧めたその兄も、お礼の品を持って賢治を訪ねたようですね。教え子のことを思う賢治の気持ちが、文面から伝わってきます。
 あともう一通は、年は不明ながら、筆跡から「1925年(大正14年)」と推定されているもの。

書簡199c
〔冒頭欠〕ませうか折角ご自愛を祈ります。
かくかうが来たと思ってゐるうちに早くも収穫季節になりましたどうか辛抱してしっかりやってください
      十月五日
                                   宮沢賢治
及川留吉様

 ところで、この二つの書簡にはさまれた1923年(大正12年)の12月、郷里に帰省する途中で及川留吉は、賢治を訪ねて一枚の写真を贈呈しました。その経緯について、やはり『証言 宮澤賢治先生』(農文協)からの引用によって見てみます。

 私は高農農芸化学科の助手になって半年ぐらいして、やっと実験室の様子もわかりかけた頃、偶然写真屋が来ましたので、実験台をバックに写真を撮ってもらいました。ひとっぱしのラボラント気取りで撮った写真を、私はこうして分析の手ほどきを受けていますという実況を、子ども心に先生に見てもらいたかったのです。
 十二月の下旬になって、冬期休暇に入ったので帰省しましたが、その途路、その写真を一枚お上げしました。そのとき先生は、お喜びの表情で「よく撮れた写真だ、記念だ、私も後で撮って送るから」とのお話でした。冬休みもすんで、私は実験室で働いていましたら、しばらくたって一通の郵便物が届き、それが先生からの署名入り写真でした。私のために、この写真をわざわざお撮りくださったかと思うと本当に感激でした。(p.209)

 この時、賢治が及川留吉に贈った写真が、有名な下のものです。(『新校本全集』第十四巻「雑纂」p.294〔写真献辞署名等 五〕」より)

 農民シャツの写真

 今日、私たちが賢治のこの肖像写真を見られるのも、及川留吉が自分の写真を賢治に贈ったおかげだったわけですね。

 さて、このようにして賢治との交流も続けながら、高等農林学校の実験助手の仕事を続けていた及川留吉ですが、1928年(昭和3年)春に、高農を退職し、大阪に赴任します。
 この辺の状況も含めて、『新校本全集』第十六巻(下)「補遺・伝記資料篇」の「受信人索引(付・略歴)には、次のように書かれています。

福田留吉(ふくだ・とめきち)
[199b,199c]
明39・7・4-昭59・12・24
旧姓及川。出身は稗貫郡湯本村小瀬川(現花巻市)。大正10・4稗貫農学校入学、12・3卒業。4月より盛岡高等農林学校農芸化学部助手となり、昭3・3まで勤務。同月大阪のマルキイースト菌研究所研究部に勤務。昭6・3・16婚姻により福田姓となる。戦後盛岡に戻り、製パン業に従事した。(p.19)

 これによると、1928年(昭和3年)3月に高農を退職した及川は、同じ月のうちに大阪の「マルキイースト菌研究所」に勤務したことになっています。
 一方、佐藤成著『宮沢賢治の五十二箇月―教師としての賢治像―』(川嶋印刷)には、次のような記載があります。

 このように賢治は卒業生の世話をよく見、高農の助手への道を開いた。最初福田留吉を無機化学の伊藤教授の助手に推せんし化学分析技術、農芸化学の勉強をさせた。福田は伊藤教授や村松部長(大豆の研究で農学博士となる。納豆の権威で納豆博士といわれた。)の指導を受けて数年の後村松部長の推せんによって高農の卒業生と同じように大阪市立衛生研究所の研究員、次に京都宇治の酵母製造所に勤務、パンの腐敗菌や酵母の研究を続けた。(p.121)

 こちらによれば、彼はまず「大阪市立衛生研究所」に勤めた後、京都宇治の「酵母製造所」に勤務したというのです。
 どちらも信頼できる文献と思われるだけに、判断が難しいところですが、いろいろ調べてみると、後者に出てくる「京都宇治の酵母製造所」というのは、大阪に本社があった「マルキ号パン株式会社」が宇治に建設した、「マルキイースト工場」だったと推測されるのです。
 すなわち、この工場について『パンの明治百年史』(パンの明治百年史刊行会)という本には、下のように記されています。

 昭和二年。大阪のマルキ号経営にかかる、京都市の郊外宇治川畔に建設の、マルキイースト工場から、我国最初のイーストが生産された。知識の不足と設備の不完全に因って、純粋精強なイーストではあり得なかったが、とにかくイーストの科学的培養に成果を得た"国産イースト第一号"であって、これが大阪の製パン業者の手で作り出された事実は、我国製パン史に明記されなければならぬ。(p.750)

 『新校本全集』には、「大阪のマルキイースト菌研究所」と書かれ、『宮沢賢治の五十二箇月』には「京都宇治の酵母製造所」と書かれていて、一見するとこれらは別々の場所のように思われますが、実は両者は上記のように、「大阪のマルキ号パン会社が京都宇治に建設したイースト工場」ということで、同じ一つの施設のことと思われます。
 及川留吉は、まず「大阪のマルキ号パン会社」に入ってから、次いでその運営する宇治の「マルキイ−スト工場」に移ったのか、それとも直接宇治の「マルキイースト工場」に入ったのかはわかりませんが、いずれにせよ高等農林学校で分析化学の手技を身につけ、また納豆菌の培養にも携わっていた知識と経験を生かして、マルキ号パン会社の研究部門に勤務していたということかと推測します。
 またこれは彼自身にとっても、イースト菌の培養とパン製造の知識と経験を得る機会となり、後の「福田パン」創業へと連なる仕事だったでしょう。
 続いて『新校本全集』の略歴によれば、及川留吉が結婚して福田姓となったのは、1931年(昭和6年)3月のことです。大阪か宇治かはともかく関西で仕事をしていた時期のことですが、お相手は関西の方だったのでしょうか?それとも故郷岩手の方だったのでしょうか?

 ところで、福田留吉が勤めていた「マルキ号パン会社」は、水谷政次郎という人が1904年(明治37年)に大阪で始めたパン屋でした。最初は小さな店でしたが、大阪の大火の時に消防夫たちに大量のパンを無料で配ったことが美談として新聞を賑わせ人気を呼び、さらに大正時代の米騒動の際には、米価の上昇に伴ってパンの需要が一気に増大し、他のパン屋が軒並みパンを値上げした中で、マルキ号だけは以前の価格のまま販売したということで大阪の街で話題になり、また一段と人気を上げたのです。
 このような勢いに乗って、マルキ号は大阪一のパン屋にまで発展しましたが、社長の水谷政次郎はこの成功に安住せず、女婿の水谷清重氏をアメリカ製パン研究所に留学させ、イースト菌に関する最新の科学的成果を取り入れて研究を進めました。そして、日本で初めてイースト菌の培養に成功したことは、前述のとおりです。
 さらに水谷社長は同郷の友人に依頼して、大規模なアメリカ式の製パン機械を初めて国産で開発し、当時「東洋一」と言われる製パン工場を、大阪に建設しました。また、原料の小麦粉も安定して確保するために、北海道に広大な土地を購入・開墾してアメリカ式農場で小麦を作り、自社で使用する小麦粉を自前で生産するシステムも作り上げました。(このマルキ号農場の跡地が、現在の千歳空港になっているとのことです。)
 しかし、このような努力と工夫で発展させた会社も、太平洋戦争突入と国家総動員体制の荒波をもろにかぶり、藻屑と消えてしまうのです。1942年(昭和17年)に食糧管理法が公布され、各地に国の管理する「食糧営団」が組織されると、各業者は様々な圧力を受けて食糧営団に接収されていきます。水谷社長は、北海道開墾と農場経営の手腕を買われて、セレベス島の開拓指導者として赴くことを受諾し、マルキ号パン会社は、大阪食糧営団に譲渡・吸収されてしまいました。
 そして、かつては「東洋一」と謳われたパン工場も、空襲で壊滅してしまったのです。

 となると、マルキ号パン会社の消滅とともに、我らが福田留吉がどうなったのかということが、気になるところです。大阪食糧営団に接収された後も、しばらくは営団職員としてパンの研究製造に携わったという可能性もありますが、まだ30代の壮年男子ですから、召集され戦地に行っていた可能性も大きいでしょう。
 戦後、水谷政次郎の女婿の水谷清重氏が、マルキ号パン会社の再興を図ったが果たせなかったとういことですから、福田留吉は、この「マルキ号」の本当の最期を見届けてから、故郷岩手県に帰ったのかもしれません。

 いずれにせよ、1948年(昭和23年)に、現在の本店がある盛岡市長田町で、福田留吉は「福田パン」を開業します。この年、留吉はすでに37歳で、奇しくも賢治が没した年齢になっていました。戦争を経て、「第二の人生」を始めるという心境だったかもしれません。
 創業当初から、「秘伝のコッペパン」は人気を集めたということですが、そこには大阪のマルキ号パン会社の味が、受け継がれていたのではないでしょうか。

 その後、福田パンが大きく発展して、「盛岡のソウルフード」と呼ばれ、世代を越えて老若男女に親しまれるようになる過程については、冒頭で触れました。
 それにしても、稗貫農学校・花巻農学校における「賢治の教え子」は、総計157名に上りますが、その中で「商業的に最も成功した人」を挙げるならば、私の知るかぎりでは、この及川(福田)留吉がそうなのではないかと思うのですが、はたしてどうでしょう。
 また、ただ単に経済的な面での達成だけでなく、「ソウルフード=魂の食べ物」と呼ばれるような商品を世に送り出すことが出来たという点において、「ほんたうのたべもの」を求めた宮澤賢治という人の精神にも、通ずるものがあるようにも感じます。


 最後に、私には今度「福田パン」に行った時にはぜひ注文してみたいと思っているメニューがありまして、それは139円の「バナナ」と、205円の「ハムサンド」です。
 及川留吉少年が、特務曹長を熱演した劇「バナナン大将」において、実は「バナナ」は大将の肩章(エボレット)、「ハムサンドウィッチ」は、六番目に頂戴する勲章だったのです。一度これらの優しい味を愛でながら、創業者の若き日に思いをはせてみたいなあと…。

特務曹長 「次はどれでありますか」
大将 「これぢゃ」
特務曹長 「実にめづらしくあります。やはり支那戦争でありますか。」
大将 「いゝや。支那の大将と豚を五匹でとりかへたのぢゃ。」
特務曹長 「なるほど、ハムサンドウィッチでありますな。」(兵卒六これを嚥下す。)
                           (劇「飢餓陣営」より)

【劇「飢餓陣営」関連歌曲】
私は五聯隊の古参の軍曹
一時半なのにどうしたのだらう + 糧食はなし四月の寒さ
飢餓陣営のたそがれの中
いさをかゞやくバナナン軍(バナナン大将の行進歌)

written by hamagaki : カテゴリー「イーハトーブ・グルメ
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