2018年11月18日 『「風の電話」とグリーフケア』の刊行

 岩手県大槌町の佐々木格さんは、「風の電話」による震災被災者支援の活動により、2015年に「イーハトーブ賞奨励賞」を受賞されましたが、この「風の電話」によって提供されているケアの内容について、心理学や精神医学の専門家が考察やエッセイを寄せた本、『「風の電話」とグリーフケア: こころに寄り添うケアについて』(風間書房)が、このたび出版されました。

「風の電話」とグリーフケア―こころに寄り添うケアについて 「風の電話」とグリーフケア: こころに寄り添うケアについて
矢永由里子・佐々木格 編著

風間書房 2018-10-31

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 その目次は下記のとおりで、たいへん充実した内容になっています。

  まえがき 「風の電話」―グリーフワークをひもとく(佐々木格)

 序章「風の電話」におけるグリーフケアについて(矢永由里子)
   第1節 グリーフケアについて
   第2節 「風の電話」の成り立ちとその場を訪ねる人々

第1部 「風の電話」を訪れる人々について―なにが人々を惹きつけるのか
 第1章 「風の電話」を訪れる人々
   第1節 「風の電話」を訪れる人々について(井上志乃)
   第2節 「風の電話」の体験について(塚本裕子)
 第2章 大切な人の死を悼む―お二人の語りより(矢永由里子)
   第1節 インタビュー1
   第2節 インタビュー2
   第3節 グリーフワークについて考える―インタビューを振り返って
 第3章 風の電話の近況(佐々木格)
   はじめに
   第1節 ある男性との出会い―どん底の人生を乗り越えて
   第2節 震災とフランクルについて
   第3節 まとめ

第2部 「風の電話」と考察
   はじめに(矢永由里子)
 第4章 精神科医より1 閉じられつつ開かれた場所(浜垣誠司)
   第1節 「風の電話」を訪ねる
   第2節 死別という心的外傷(トラウマ)からの回復
   第3節 死者との対話
 第5章 精神科医より2 「風の電話」で悼む(クレイグ・ヴァン・ダイク)
 第6章 教育者より 「風の電話」ハーバードにゆく(イアン・ジャレッド・ミラー)

第3部 「風の電話」とそれぞれの活動
   はじめに(矢永由里子)
 第7章 現地活動の専門家より 「風の電話」を語る
   1.「風の電話」 いのちとことば(鈴木満)
   2.「風の電話」で亡き人と話せなかった人へ(長谷川朝穂)
   3.「風の電話」によせて(中田信枝)
 第8章 若手心理臨床家より 「風の電話」からの学び
   1.「ペースを守る」ことの大切さ(井上志乃)
   2.「想像力」の大切さ(塚本裕子)
 終章 まとめ 「風の電話」の体験とグリーフケアを考える(矢永由里子)
   第1節 「風の電話」という場について
   第2節 「風の電話」の体験について
   第3節 われわれは「風の電話」から何を学ぶか

   註
   あとがき(矢永由里子)

 「風の電話」という「心のインフラ」において、これまで実践されてきた活動について、その主宰者であるところの佐々木格さんの思いの記述と、早くからこの活動に心理士として関わってこられた矢永由里子さんらによる客観的な分析とが相まって、この稀有な営みがとても多角的にとらえられていると思います。

 私も、3年前に「風の電話」を訪ねたご縁によって、この本の第4章を執筆させていただきました。
 その章全体の流れとしては、「第2節 死別という心的外傷トラウマからの回復」が本題になるのですが、ここでは賢治のことに触れた第1節と第3節を、以下に抜粋して掲載いたします。



閉じられつつ開かれた場所―「風の電話」と喪の作業
                         浜垣 誠司
一、「風の電話」を訪ねる

 私は精神科医として町なかの診療所で仕事をする一方、宮沢賢治が昔から好きだったもので、賢治の作品を題材としたウェブサイト(宮澤賢治の詩の世界)を作ったり、作品ゆかりの地を一人で巡ったりしていた。生まれも育ちも西日本の私だったが、賢治の故郷である岩手県に足繁く通い、同好の士にお会いすることを続けるうちに、いつしか岩手は私の第二の故郷とも言える場所になっていた。賢治が何度も旅して作品に残した三陸地方も大好きになり、以前からよく訪ねていたもので、幸いこの地にも賢治を愛する仲間がたくさんできていた。

 そんなある日、東日本大震災が起こった。当初の私には、報道などで被災地の様子を見ては、ただ知人の安否を気づかうことしかできなかったが、少し状況が落ち着いてくると、精神科診療所協会のボランティアとして石巻の医療支援に入ったり、三陸沿岸に点在する賢治の詩碑の被災状況を調べて、自分のウェブサイトに載せたりした。
 宮沢賢治の作品には子供の頃から親しんできた私だったが、震災を境にして、その読み方が変わってしまった。これほどの災害や原発事故が起こった日本に、今もしも賢治が生きていたら、どんな発言をしどんな行動をとっただろうと考え、また賢治自身も個人的に深刻な喪失体験を抱えていたのに、いったいどうやってそれを受けとめ乗り越えられたのか、何とかして彼の心の奥底を理解しようと頁を繰った。

 人生において愛する大切な人を失うという出来事は、誰にとっても大きな衝撃となりうるものだが、とりわけその死が予想外の理不尽なものだったり、あまりに早世だったりすると、残された人の苦悩も深刻である。その喪失の悲しみが極端に大きすぎると、心のバランスを崩してしまって、もうこれ以上生きていけないというところまで追い詰められてしまうことさえある。

 しかし人間は多くの場合、そのような悲嘆のどん底からもまた何とかしてはい上がり、苦しみを乗り越えていく力を持っているものだ。一度は死も考えた人が、いったいどうしたらまた生きる力を取り戻していくことができるのか、思えばそれはとても不思議なプロセスである。その回復の過程において、人はいろいろなことを感じ、考え、周囲との相互作用をしていくことになるが、その際に人間の心の中で自ずと営まれている働きのことを、「喪(悲嘆)の作業グリーフ・ワーク」と呼ぶ。悲しみに閉ざされ、凍りついたように思える心の内部でも、知らないうちに実は様々な作業が進められていて、その過程ではしばしば人間の持つ驚くべき力が発揮される。

 宮沢賢治の場合は、最愛の妹トシを亡くした後、年余にもわたり深い苦悩にとらわれることになったのだが、その間に書いた切実な作品群には、図らずも彼独自の「喪の作業」が表現されることとなった。震災後の私は、それらの作品を何度も読み返しながら、賢治が妹の喪失という悲嘆のトンネルを、いったいどうやって通りぬけていったのか、どのような心の作業によって再び安寧を取り戻すことができたのかということについて、始終思いを巡らすようになったのである。

 実は私はかなり以前から、精神科医として犯罪被害者支援センター等に関わっていたので、深刻な死別体験を抱えた方の治療や支援、すなわち「グリーフ・ケア」には多く携わっていた。従って、震災を機に宮沢賢治の「喪の作業」に強い関心を抱くようになったというのは、私の仕事と個人的な趣味の領域が、たまたまここで交叉したということでもあったわけである。
 そんな中である時私は、岩手県大槌町の佐々木格さんが、「風の電話」という独自の方法によって、大切な人を亡くした被災者の方々を支援しておられることを知った。当時、佐々木さんは大槌で宮沢賢治研究会の設立を準備し、またこの地に賢治の詩碑を建立する計画も進めておられるということだったので、ここで私にとっては、三陸、宮沢賢治、グリーフ・ケア、詩碑、などという個人的に強く惹かれていたキーワードが、奇しくも一挙に重なり合って現れたのである。

 そこで私は矢も楯もたまらず、二〇一五年の二月に佐々木さんに突然のメールを差し上げて、「風の電話」を訪ねさせていただくことにした。

 朝早く京都を出て、飛行機や鉄道やバスを乗り継ぎ、大槌町の郊外にある「ベルガーディア鯨山」と名づけられた佐々木さんの庭園に着くと、もう日は傾きかけていたが、佐々木さんご夫妻とともに、岩手県立大槌病院の心療内科医である宮村通典さんも、一緒に私を迎えて下さった。庭内にある「森の図書館」という石造りの家で、佐々木さんから「風の電話」の活動についていろいろお聞きし、また幸いなことに、そこにいた四人みんなが好きだった宮沢賢治についても、あれこれ話が弾んだ。
 妹トシが死んだ日に、賢治が書いた「無声慟哭」という三部作の詩のことや、そして実際にその日から半年あまりにわたって、一篇の詩も残せなかった賢治の「無声」の時期のこと。あるいは一九二五年の一月に、賢治が一人で酷寒の三陸地方を旅した時、大槌のあたりではどの道を歩いたのだろうかという考察など……。

 話に花が咲くうちに、いつしかあたりは真っ暗になっていたので、その日は佐々木さんに車で海辺のホテルまで送っていただいた。

 翌朝は、また佐々木さんが早い時間に車でホテルまで迎えに来て下さって、「ベルガーディア鯨山」にやって来た。奥様が入れて下さったコーヒーをいただいた後、私は初めて「風の電話」を体験させてもらった。

 「風の電話」の電話ボックスは、全面が美しい白い枠にはめられたガラスで囲まれていて、どのガラスも綺麗に磨かれている。緑色の三角形の屋根も付いていて、外から見ると、可憐で愛らしい感じのするボックスだ。

風の電話

 ドアを開けて中に入り、またドアを閉めると、中は予想以上に静寂の空間だった。私はそれまで「風の電話」という名前から、ボックスの中でも風の音や鳥のさえずりなど自然の音が聞こえるのだろうかと何となく思っていたのだが、これはもともと本物の電話ボックスだったわけだから、通話のためには当然ながら、防音性能はかなり高いのだ。
 ボックスに入って正面には、私たちの世代にとっては懐かしいダイヤル式の黒電話が置かれている。

「風の電話」内の黒電話

 またその横には、利用者が自由に思いを書きつけることのできるノートや筆記具や、ボランティア団体から寄贈されたという小さな木彫りのお地蔵さんも並べられている。電話ボックスの中からは、周囲四方のガラスを通して、佐々木さんが丹精を込めた美しい庭園の風景が見えている。そしてその庭園を越えてはるか下の方に目を転ずると、三陸の海も望むことができる。

電話ボックス内から望む太平洋

 さて、「風の電話」のボックスに入って、まず私が感じたことの一つは、この丁寧に手入れされた電話ボックスや、それが置かれている庭園や、さらにそれを取り囲む雄大な自然によって、あたかも自分が「守られている」というような感覚だった。
 そして、それとともにもう一つ、自分自身を何か大きなものに「委ねる」というような感情が、自ずと心の奥から湧いてくるようにも感じた。

 あらためて振り返ってみると、この時の私自身は、ガラス張りのほんの小さなボックスに入っていたのに対して、その周りには、北上山地に連なる深い森や太平洋までもが一望できる、雄大な景色が広がっていた。そこは、自分が大自然の中のちっぽけな存在であるということを、身をもって実感できる環境であるとともに、同時にそのボックス内は周囲からある意味で隔離され、あたかも「静寂のカプセル」に入っているような感じにもなる空間だった。目では周囲のパノラマ風景が三六〇度見渡せる「開かれた」場所でありながら、耳には何も聞こえない「閉じられた」場所でもあるという、パラドキシカルな感覚に私は誘い込まれた。

 佐々木さんは、何も「風の電話」をそのような特別な環境として設定しようと意識されたわけではないのだと思うが、図らずも生まれたこの稀有な空間のおかげで、人は自らが何か大きなものに「守られている」と感じるともに、それに自分を「委ねる」というような気持ちに導かれるのかもしれない。実際に「風の電話」を体験させていただいて、私はそんな風に感じた。

二、死別という心的外傷トラウマからの回復

〔略〕

三、死者との対話

 ところで先に、心的外傷が痛みや苦しみを伴っている理由は、大きく分けて二つあると書いたが、残りのもう一つは、外傷的な出来事は多くの場合、当事者にとって取り返しのつかないような「喪失」を伴っているという、厳しい現実である。例えば死別体験の場合には、いくら心の癒しを図ったとしても、亡くなった人は二度とこの世には戻って来ない。こればかりは、周りの人々がどんなに暖かく支えても、専門的な治療者が手を尽くしても、どうしようもない事柄である。

 しかし、多くの場合人間は、たとえ時間がかかってもこの苛酷な現実と折り合いをつけて、また生き続けていくことができている。人間にこのようなことが成し遂げられるのは、その底知れない生命力のおかげとしか言えないように私は思うのだが、それを可能にしているのは、たとえ不可逆的な喪失を抱えていても、その新たな状況をもう一度自分に対して位置づけ直し、そこに新しい方向性を見出していくことができるという、人間の力である。
 ただ、そのような位置づけや方向性というものは、それぞれの人が自分の体験に即して個別につかみ取っていくものなので、どうすれば見つかるとかどう考えれば答えが出るとかいう、決まった方法があるわけではない。言葉でうまく表現するのは難しいが、その人が自らの喪失体験を含めた一連の経験全体に新たな「意味」を与え、過去から未来へ向かう自らの人生を、一つの大きな「物語」として紡ぎ出す作業なのだ、という風にも言えるかもしれない。それは例えば、亡くなった人が自分に与えてくれた「何か」に気づき、それをバトンのようにしっかりと受け取って引き継いでいくということかもしれないし、あるいはその人の死の意味を問い続け、社会全体に共有していくということかもしれない。

 埋めようのない「喪失」を、このようにして自分の中にあらためて意味づけ受け容れていくというプロセスも、「喪の作業」のもう一つの重要な側面なのである。

 ここで、喪失体験の持つ「意味」を探し、「物語」を織り上げていくという作業において、しばしば重要な役割を果たすのが、亡くなった人との「対話」である。
 死んだ人と対話するなどと言うと、オカルトじみて聞こえるかもしれないが、しかし皆さんも、亡くなった人に何かを問いかけてみたり、こんな時あの人だったらどう言ってくれるだろうかと、想像してみたりすることはないだろうか。これらも十分に立派な、「死者との対話」である。本稿の最初の方で私は、震災や原発事故の後に「宮沢賢治だったらどうしただろう」と考えたと書いたが、これも今は亡き賢治と、私との対話である。また青森県の恐山には、死者の言葉を伝えてくれる「イタコ」という人々がいるが、日本人が古来そのような場所を守ってきたのも、死別体験を昇華するために、そういう対話を必要としたからだろう。

 宮沢賢治も、妹トシが死んだ翌夏、妹と「通信」を交わしたい一心で、一人北を目ざして樺太まで旅をした。その道中で苦しみつつ綴った「青森挽歌」という詩では、「なぜ通信が許されないのか/許されてゐる、そして私のうけとつた通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ/どうしてわたくしはさうなのをさうと思はないのだらう」などという独白が記されており、賢治が亡き妹との「通信」を、いかに切実に求めていたかがにじみ出ている。

 「風の電話」が、まさに「電話」であることの本質的な意味も、このような「死者との対話」の場を提供してくれるところにあるのだろう。できることならもう一度、亡くなった人と話をしたいと願う人は多いだろうが、恐山へでも行かないかぎり、普段の生活ではなかなかそんな状況はありえない。いつまでも死んだ人のことばかりを考えていてはいけないと、自分でも思い、周囲から言われることもあるだろうが、しかし本当は心の中には、その人に問いかけてみたいことは、山ほどあるはずなのだ。「風の電話」という舞台設定は、こういった方々にとって、大切な故人と一対一で、誰にも邪魔されず、安心して向き合える場所を、提供してくれているのである。

 カプランというアメリカの心理療法家は、『声は決して消えない』と題するその著書の中で、「人間の死別体験とは、死者との持続的で終わることのない対話である」とも書いている。私が精神科の臨床で出会った多くの方々も、そのような対話を通して、故人から自分の人生に新たな意味を与えてもらったと感じたり、あるいは真の意味で「生存者の罪悪感サバイバーズ・ギルト」から解放されたと、私に語って下さった。

 すなわち、亡くなった人の存在は、生きている人々の中にはずっと生き続けており、跡形もなく消えてしまうものではない。私とその人との関係は、その人がまだ生きていた時の間柄とは、違ったものにならざるをえないが、しかしそれでも二人の関係は、今も続いているのだ。

 「風の電話」とは、そのような新たな関係を仲立ちしてくれる基点であり、それぞれの「喪の作業」を助けてくれる場所なのだと、私は感じている。



【参考文献】

 文中に引用した、カプラン著『声は決して消えない』は、邦訳はされていませんが、親子のあいだで死後も続く「対話」について、アメリカの著名な心理療法家が生き生きと描いたものです。

No Voice Is Ever Wholly Lost No Voice Is Ever Wholly Lost
Louise J. Kaplan

Diane Pub Co (1995/6/1)

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 ところで、1916年のフロイトの論文「喪とメランコリー」以来、精神医学や心理学の理論においては、重要な他者の喪失の悲嘆から回復するためには、「死者の不在」という現実を理性的に受け容れ、それまで故人に備給されていたリビドーを撤収することが肝要であるとされてきましたが、これに対して近年は、実際に大切な人を失った人々は、死後も故人と何らかの関係性を保ちつつ、様々な「対話」を行っているということが明らかにされ、死者との間の「持続する絆(Continuing Bonds)」というものが重視されるようになっています。
 上のカプランの『No Voice Is Ever Wholly Lost』も、そのようなスタンスの嚆矢ですし、私が以前に「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」という論文で書いたことも、そのような考え方に基づいていました。
 上の文章で私が「三、死者との対話」に書いたことも、結局はそういうことですが、このようなアプローチに関する最も基礎的で包括的な文献が、下の2つです。

Continuing Bonds: New Understandings of Grief Continuing Bonds: New Understandings of Grief
Dennis Klass (編集)

Routledge (1996/2/1)

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Continuing Bonds in Bereavement Continuing Bonds in Bereavement
Dennis Klass (編集), Edith Maria Steffen (編集)

Routledge (2017/11/14)

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 2冊の編者である心理学者デニス・クラス氏は、日本を訪れた際にどの家にもある「仏壇」を見て、そしてそこで日本人が日常的に手を合わせて「死者との交流」を持っているのを目にして感嘆し、これが後に「持続する絆(Continuing Bonds)」という概念に結実していきます。上の1996年の編著では、日本の「RITUAL TIME: O Bon」についても、興味深く紹介されています。

written by hamagaki : カテゴリー「賢治関連本
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2018年11月 4日 「ほんたうのさいはひ」を求めて(2)

 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」という記事は、宮澤賢治が繰り返し書いていた「ほんたうのさいはひ」というのは、具体的にいったいどういうものだったのか考えてみようとして、『新校本全集』の索引を調べて抜き書きを作ったところで、終わってしまいました。
 その続きについては、また後で考えていくこととして、ところで人間にとっての「幸福」という状態には、いろいろな種類のものがありえます。たとえば、「愛し合う男女が結婚して、生活が安定し、子供も生まれて、仲良く暮らしている」とすれば、その状態は一般的には、「幸福」の一つの典型像なのかもしれませんが、これは賢治が求めていた「ほんたうのさいはひ」とは、違うものだと思われます。
 その理由は、このような幸福には、「普遍性」がないからです。

 上のような満ち足りた仲の良い家族は、たしかに自分たちだけに限定すれば幸せかもしれませんが、その幸福は、その家族以外の人々が幸せなのかどうかということとは、全く無関係です。それどころか場合によっては、その家族が立派な家に住み、綺麗な服を着て美味しい物を食べている生活は、他の人々の不幸や困窮の上に成り立っている可能性さえあります。
 そして賢治は、自分の生まれ育った「宮澤家」に対して、そのような後ろめたさを感じ続け、恵まれた家に生まれた幸福を謳歌するよりも、むしろ罪悪感にさいなまれていた面がありました。

 すなわち、賢治がことさら「あらゆるひとのいちばんの幸福」あるいは「まことのみんなの幸」などと表現して、「あらゆるひと」「みんな」を重視したのは、上の特定の家族のような「個別的」な幸福ではなくて、全ての人、あるいは全ての生き物が共にそうであるような、「普遍的」な幸福を目ざそうとしたからだと考えられます。
 法華経の「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」という言葉に典型的に表れているように、これこそが大乗仏教の本質であるとも言えます。

 そして何よりも、「農民芸術概論綱要」の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、賢治のこのような考えを、最も尖鋭に表現しています。「普遍的な幸福」がなければ、「個人の幸福」は存在しない、とまで言うのです。

 ということで、このような「普遍的な幸福」というところに特に着目しながら、前回の記事で調べた諸作品を見てみます。
 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」で、賢治の作品において「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さひはひ」「しあはせ」等の語句が出てくる作品を『新校本全集』の索引で調べてみると、次の6つがありました。

  • 「貝の火」
  • 「よく利く薬とえらい薬」
  • 「手紙 四」
  • 「虔十公園林」
  • 「ポラーノの広場」(下書稿)
  • 「銀河鉄道の夜」

 私としては、意外に数が少なかったという印象なのですが、この中から、その内実が「普遍的な幸福」と言えるものを、抽出していってみましょう。

 まず「貝の火」では、最後にお父さんがホモイに、「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ」と語りかける箇所に出てきますが、これはあくまでホモイ個人の状況について「さいはひ」と表現しているのであり、みんなの「普遍的な幸福」ではありません。

 次に「よく利く薬とえらい薬」では、「にせ金使ひ」の大三が、自分が大金持ちであることについて、「自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました」とありますので、これも当然「普遍的な幸福」ではありません。

 「手紙 四」では、「チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」として登場し、これはまさに典型的な「普遍的幸福」です。

 「虔十公園林」には、「全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした」とあります。ここでは、この「本統のさいはひ」が「何千人のひとたち」に伝えられ、その数は「数へられません」というほど多いのですから、これは「普遍的な幸福」と言えます。

 「ポラーノの広場」では、下書稿の上だけですが、3か所に登場します。まず一つは、行方不明だったファゼーロに対してキューストが「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」 と言う場面で、これは単に「幸運だった」ということであり、「普遍的な幸福」ではありません。
 二つめは、最後の方でファゼーロがそれまでの経緯を振り返って、「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った」と言う場面で、この「幸」は「いっしょに」至ろうとするものですから、一応「普遍的な幸福」と言えます。
 三つめは、キューストによる演説に、「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ」として出てきますが、これも同様にひとまず「普遍的な幸福」と言ってよいでしょう。

 「銀河鉄道の夜」には、「初期形一」、「初期形二」、「初期形三」、「最終形態」へと至る過程の全てに、「幸」、「しあはせ」、「幸福」という言葉は何度も登場します。その具体例の一つ一つについては、前回の記事を参照していただくようお願いしますが、ここにはたとえば「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする」というように、おっかさんの「個別的な幸福」として登場する場合もあれば、「だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」というように、究極の「普遍的な幸福」を指している場合もあります。
 つまり、「銀河鉄道の夜」では、個別的/普遍的の両方の「幸福」が扱われているのですが、「初期形一」から「最終形態」に至る時間的推移を追ってみると、最初のうちは「個別的幸福」と「普遍的幸福」の双方とも一緒に求めようとする姿勢が見受けられるのに対して、最終形態に近づくほど、個別的な幸福から離れて普遍的な幸福の方をこそ目ざそうとする態度が、際立ってくるように感じられます。
 たとえば、「初期形一」では、蠍について語るジョバンニの言葉は、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となっていて、ジョバンニは「みんなの幸」と「おまへのさいはひ」の両方のために、自己犠牲を行うと言っています。しかしこの箇所は、「初期形二」以降はご存じのように、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となり、個別的な「おまへのさいはひ」は削られているのです。
 あるいは、「初期形一」から「初期形三」までの稿では、最後の方でジョバンニは「さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」と言っており、ここでも「僕のため」「僕のお母さんのため」「カムパネルラのため」という個別的指向と、「みんなのため」という普遍的指向が並列されているのですが、「最終形態」ではこの部分は削除されます。
 これは言わば、「個と普遍の両立」というスタンスから、「個を抑えて普遍へ」というそれへの転換であり、私としては、「青森挽歌 三」における《願以此功徳 普及於一切》から、「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》への変更を、連想させられるところです(「《願以此功徳 普及於一切》」参照)。すなわち、「トシも、みんなも幸せに」ではなくて、「トシはどこに行ったかわからないが、みんなは幸せに」への変化です

 あと、さらにもう一つ、「銀河鉄道の夜」における「幸」、「しあはせ」、「幸福」の推移をたどってみて気がつくことがあります。それは、稿が進むにつれて、だんだんその内実が不分明で不可知なものになっていくということです。
 「銀河鉄道の夜」の発想の前段階に、「手紙 四」が位置するということは、多くの人の認めるところでしょう。「手紙 四」で、「手紙を云ひつけた人」が、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と宣告した後、様々な生物の同胞性を述べて、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言うパターンは、「銀河鉄道の夜」初期形で博士がジョバンニに、カムパネルラとは「いっしょに行けない」が同時に「みんながカムパネルラだ」と言い、「おまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」と言うパターンと、まさに相似形になっています。
 その「手紙 四」では、「ほんたうの幸福をさが」すということは、すなわち「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と明言されており、ここでは「ほんたうの幸福」とは、法華経への信仰とその実践であると、具体的に規定されているわけです。

 これが「銀河鉄道の夜」になると、法華経などという具体的な宗教性は除かれますが、「初期形一」の最後でカムパネルラの不在を発見したジョバンニは、「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ」と叫び、ここでは「きっとさがしあてる」ことが高らかに宣言され、読む者もそれを期待するようになっています。
 上のジョバンニの言葉は「初期形二」でも同じですが、「初期形三」になると、カムパネルラの不在に気づいたジョバンニは、「咽頭いっぱい泣きだし」、「そこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひ」、「初期形二」までのような決然とした態度ではなくなります。そして、博士に声をかけられて「ぼくはどうしてそれ(=あらゆるひとのいちばんの幸福)をもとめたらいゝでせう」と問いかけるのに対して、博士は「あゝわたくしもそれをもとめてゐる」と答え、博士自身も何が「ほんたうの幸福」なのかという問題の答えはまだ持っていないのです。
 そして「最終形態」では、このような博士による導きの言葉もなくなってしまいますので、何が「ほんたうのさいはひ」なのかは、ますます把握しにくくなっています。
 こういった変化と平行して、「初期形三」以降には、燈台守の「なにがしあはせかわからないです」との言葉があったり、ジョバンニの「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう」という疑問に対して、カムパネルラは「僕わからない」とぼんやり云うなど、結局「しあはせ」「さいわひ」の本質については、「わからない」という言葉が繰り返されるようになっていきます。

 賢治自身は、生涯ずっと法華経を篤く信仰していましたから、「ほんたうのさいはひ」が法華経によってもたらされるという考えには変わりはなかったのだろうと思いますが、当初の「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」という具体的な断定は影を潜め、それが何であるかということを云々するよりも、それを「求める」ことこそが重要であるというスタンスに変わっていくようです。
 これは、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」という「農民芸術概論綱要」の言葉にも、また「学者アラムハラドの見た着物」における「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」というセララバアドの言葉にも、通じるものでしょう。
 すなわち、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の諸段階に至る一連の系列においては、「ほんたうのさいはひ」の根底には法華経があるように感じられながらも、「ほんたうのさいはひ」とは何なのか、それを「求め続ける」姿勢や生き方こそが重要であると、賢治は言おうとしているように思われます。

 これに対して、「ポラーノの広場」の草稿に出てきた「(ほんたうの)幸」は、もっと具体的です。
 すなわち、ここではファゼーロたち農民が力を合わせ、技術を身につけ、産業組合の形で醋酸製造や皮革加工を行う工場を運営し、採算的にも軌道に乗っているというのです。このように、楽しく張り合いのある労働によって、生活が豊かになり、また友愛の精神によって皆が結ばれている状態のことが、物語中では「幸」と呼ばれているのだと思われます。
 そしてこのような「幸」は、仲間たちと「いっしょに」追求し実現されているわけですから、「個別的」ではなく「普遍的」であるように十分見えます。また、こういった活動内容は、賢治自身が羅須地人協会によって目ざそうとしていたこととも、部分的には重なり合うと思われますので、このような生活のあり方が、賢治の理想の一つであったということは言えるでしょう。

 ただし、このような具体的な活動による「幸」の追求が包括しうる普遍性と、「銀河鉄道の夜」において示唆されたそれとの間には、かなり大きなギャップがあります。ポラーノの広場の産業組合がうまく行くことで「幸」になれるのは、あくまでその組合の構成員だけであり、その広がりの範囲は、ジョバンニが言う「みんなのほんたうのさいはい」とは、レベルが違うのです。共同体に根ざした産業組合が、現代の大企業のような冷たい組織とは違って、いくら暖かい人間関係にあふれていたとしても、それは所詮「大きな家族」に過ぎず、冒頭で例に挙げたような家族主義の限界を越えられるものではないのです。
 すなわち、「ポラーノの広場」における「幸」は、「銀河鉄道の夜」におけるように段々と曖昧化されていく「お題目」とは異なって、確かな具体性を備えているのですが、一方でその「普遍性」には、根本的な制約があるのです。

 ということで最後に、「普遍的な幸福」を描いたらしい作品としてあと一つ残っている、「虔十公園林」を見てみましょう。
 該当箇所を前回に続きもう一度引用すると、下記のようになっています。アメリカ帰りの学者が、久しぶりに故郷で虔十の植えた杉林を見て、次のように言います。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここにおいて公園林は、何千人という無数の人々に対して、すなわち普遍性をもって、「本統のさいはひが何だか」を教えたということですが、その「さいはひ」の内実とは、いったい何だったのでしょうか。
 これは、一般的に言われている幸福の概念とは少し違うので、ぱっと読んだだけではわかりにくいですが、文字どおり解釈するとそれは、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」が教えてくれる、「何か」です。
 その次の文、それはこの童話を締めくくる最後の文になりますが、そこには「林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出す」と書かれており、前文からの続きとして、これも多くの人々に「本統のさいはひ」を教えてくれているという趣旨なのでしょう。
 ただこれを読んでも、いったい林は何を「教へ」てくれているのか、まだ具体的に把握しにくいですが、ここに「虔十の居た時の通り」という言葉があることが、手がかりになると思います。
 すなわち、この「さいはひ」とは、このような雨や日ざしや空気に接して、虔十その人が体験していたものだったのではないでしょうか。

 「虔十公園林」の冒頭は、次のように始まっています。

 虔十はいつも繩の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。
 雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。
 けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
 風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。

 ここでは、虔十という人が、「雨の中の青い藪」や、「青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹」や、「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光る」のを見ると、「よろこんで目をパチパチさせ」、「はねあがって手をたゝいてみんなに知らせ」、「うれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ない」という状態になっていた様子が、描かれています。
 そして、虔十が全身で体感している、このようにどうしようもなく抑えられない喜びこそが、賢治がこの作品で言いたかったところの、「本統のさいはひ」なのではないでしょうか。あえて言葉で説明するとすれば、「自然や生命の躍動を感受し、それと自分自身が共振することの喜び」とでも言えましょうか。
 この「さいはひ」は、「銀河鉄道の夜」や「農民芸術概論綱要」のように、いつたどり着くかもわからない未来に向かって「求め続ける」ものではなくて、まさに「今ここ」に存在し、理屈ではなく身をもって、直接感じるべきものです。

 「虔十公園林」という物語の構成を見ると、このような「本統のさいはひ」を、虔十以外の人は当初感じとることができず、逆にそのように「さいはひ」を享受している虔十がばかにされているところから、話は始まります。
 そして虔十が、地下に粘土層がある野原になぜか「杉苗を植えたい」と言い出したことを契機に、このような関係は変化していきます。土壌の関係で低くしか育たなかった杉林は、しかしその可愛らしさのおかげで、子供たちにとっては最高の遊び場になったのです。

 ところが次の日虔十は納屋で虫喰ひ大豆を拾ってゐましたら林の方でそれはそれは大さわぎが聞えました。
 あっちでもこっちでも号令をかける声ラッパのまね、足ぶみの音それからまるでそこら中の鳥も飛びあがるやうなどっと起るわらひ声、虔十はびっくりしてそっちへ行って見ました。
 すると愕ろいたことは学校帰りの子供らが五十人も集って一列になって歩調をそろへてその杉の木の間を行進してゐるのでした。
 全く杉の列はどこを通っても並木道のやうでした。それに青い服を着たやうな杉の木の方も列を組んであるいてゐるやうに見えるのですから子供らのよろこび加減と云ったらとてもありません、みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐるのでした。
 その杉の列には、東京街道ロシヤ街道それから西洋街道といふやうにずんずん名前がついて行きました。
 虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑ひました。
 それからはもう毎日毎日子供らが集まりました。

 ここで子供たちは、「みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐる」のです。あまりの喜びに、子供たちは我を忘れて興奮してしまっており、これはお話の冒頭では、自分たちがばかにして笑っていた虔十の、興奮を抑えられない様子そのものに化しているわけです。
 すわなち、当初は虔十だけがこの「本統のさいはひ」を感じることができて、そのために彼は皆にばかにされていたのですが、彼が杉林を作ったおかげで、子供たちもその「さいはひ」を体感できるようになり、虔十と同じく我を忘れて喜べるようになったのです。

 つまり、「虔十公園林」という小さな人工林とは、そのままではごく限られた人しか感じとれないような、自然や生命の躍動、その美しさを、多くの人に感じとりやすい形に変換してくれる、巧妙な「翻訳装置」だったのです。
 生のままのアモルファスな自然の美は、そのままでは一部の人間にしか感受されないかもしれませんが、等高の杉が規則正しく植えられ、綺麗に枝打ちをされることで生まれた、幾何学的な文様の持つ美や律動性は、全ての子供たちにも一目瞭然だったのです。そして、いったんこの幾何学的リズムを身をもって体感できたからこそ、次いで今度は「杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」という本来の自然そのものが、実はどれほどの美と心地よさを湛えているのかということに気づくことができて、結局これは「何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へる」結果となったのです。

 一般には、「虔十公園林」という童話は、「デクノボー礼賛」として読まれることが多く、その見方によれば、これは「たとえ能力は劣っていても、それでも人のために良いことを行えることはあるのだ」という、逆説の不思議を描いたお話になります。
 しかし、上のように見てくると、話の本質は全く異なってきます。これは、誰も及ばない稀有な能力を備えた一人の男がいて、当初その能力は人に理解されなかったが、彼が作ってくれた「翻訳装置」のおかげで、他の人々もその能力を分かち持てるようになり、皆が「本統のさいはひ」を共に享受できるようになったという、一つの「英雄譚」なのです。
 それとともに作者賢治は、そのような装置を用いるか否かはともかく、自然や生命の躍動と美を感受し、自らもそれらと共に打ち震えることは、本来は全ての人々に開かれている喜びであり、これが普遍性を持った「本統のさいはひ」なのだということを、言おうとしたのだと思います。

 そして、このように考えてくると、「虔十」と「賢治」が、だんだんと重なり合って感じられてきます。
 ご存じのように、「兄妹像手帳」に賢治が残していたメモの中には、彼が自分の名前を「Kenjü Miyazawa」と記しているように見える箇所があり(右写真のようにuにウムラウトが付いている)、これはまさに「Kenju Miyazawaケンジュウ」と読めるものです。また、「ビジテリアン大祭」の草稿第一葉欄外には、「座亜謙什」という人名のようなものが書き込まれており、この「ザアケンジュウ」と読める名前も、「ミヤザワケンジ」に由来するものでしょう。
 すなわち、「ケンジュウ」という名前は、賢治が自らの「別名」としていたような節があるのです。

 そう思って、この「ケンジュウ」を主人公とした童話を見てみると、自然や生き物の素晴らしさに感動して、思わず周囲を驚かすような振る舞いをしてしまったり、またそれによって奇人変人のように思われていたというのは、まさに生前の賢治その人のことです。ですから、「虔十公園林」という作品は、賢治自身のある側面の、「自画像」と言ってもよいものでしょう。
 ではそうなると、虔十が作り上げて生涯をかけて大切にし、彼の名を後世に残すことにもなった「公園林」に相当する「装置」は、賢治の場合には何に当たるのかということが問題になります。虔十が公園林によって実現したように、それまでは自分だけしか感受できずにいたこの世界の素晴らしさを、多くの人に伝えるために、賢治が作ったものは何か……。

 それは明らかに、彼が書いたたくさんの詩や童話などの「作品」です。
 賢治という人は、自らの作品という魔法の「装置」を作ることによって、私たちのような一般人に対しても、この世界がどれほど神秘にあふれ、尽きせぬ美を湛えているかということを、わかりやすく教えてくれたのです。
 彼は、生前はあまり他人からは理解されなかった自らのその営みを、自分の別名を主人公として、寓話化してみせたのです。虔十が拵えておいた「装置」の真の意味が、人々によって心底から認められたのはその死後のことで、そこには名前を刻んだ石碑まで建てられましたが、賢治の場合も、その作品の魔法が多くの人によって本当に理解されるようになったのは、すなわちそれらが真の普遍性を獲得したのは、やはり彼の死後のことでした。
 そして、賢治の作品の石碑は、今や全国各地に建てられています。

 ということで、思わず「虔十公園林」の作品論にまで深入りをしてしまいましたが、賢治がこの童話で「本統のさいはひ」と言っていること、それは突き詰めれば「世界の美の感受と共振」と言えるかと思いますが、これもまた「銀河鉄道の夜」や「ポラーノの広場」と並んで、彼の考える究極の「幸福」の一つのあり方だったのだということを、あらためて私たちはしっかり押さえておく必要があると思います。
 それは、「銀河鉄道の夜」に象徴されるような、求道者的、禁欲的、自己犠牲的な生き方によって、はるか彼方に求める幸福とは対照的に、耽美的、享楽的、刹那的なものであり、今そこにあるものを一瞬にして感じとり身を浸すことにしかすぎませんが、それもまた実は、「本統のさいはひ」なのです。
 思えば私たちの知る賢治その人も、前者の側面だけではなく、後者も兼ね備え、多面的な魅力を放つ人でした。

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2018年10月28日 「ほんたうのさいはひ」を求めて(1)

 「ほんたうのさいはひ」、「いちばんのさいはひ」、「ほんたうのほんたうの幸福」、「あらゆるひとのいちばんの幸福」、「ほんたうの幸」、「まことのみんなの幸」……。表現は微妙に異なっても、これらは賢治の作品を読む上で、あるいは彼の思想を理解する上で、最も重要なキー・ワードの一つであるということには、誰しも異論はないでしょう。「あらゆるひとのいちばんの幸福」を実現することこそが、彼の究極の理想だったとも言えます。
 それでは、賢治の言うこの「ほんたうのさいはひ」とは、具体的にはどういうものなのか、彼は実際に何がどうなっている状態を目ざそうとしていたのかということが問題になってきますが、皆様もご存じのとおり、これがなかなか難しいのです。

 これについて考えてみるために、今回はまずこれらの言葉が、実際の作品の中でどのように現れるのかということを、確認してみます。
 『新校本宮澤賢治全集』の「別巻」には、賢治の全作品に登場する語句を網羅した、とても有難い「索引」が掲載されていますが、これで「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さいわい」「さひはひ」「しあはせ」「しあわせ」という語句を検索し、それぞれの作品名を赤字で付記すると、下のようになります。索引の丸数字は『新校本全集』の巻数を、正体数字はその「本文篇」のページ数、斜体数字は「校異篇」のページ数を表しています。「銀河鉄道の夜」に関しては、題名を省略して「初期形一」「初期形二」「初期形三」「最終形態」とだけ記しています。

索引1

索引2

索引3

索引5

索引6

 画像の2枚目以降では、「銀河鉄道の夜」に関しては作品名の付記も省略しましたが、第10巻「本文篇」のp.16-28が「初期形一」、p.111-131が「初期形二」、p.132-177、および同「校異篇」p.77-110が「初期形三」、第11巻「本文篇」のp.123-171、および同「校異篇」p.176-223が「最終形態」です。

 一見して明らかなように、「銀河鉄道の夜」における使用が目立って多いです。それ以外の作品としては、「貝の火」、「よく利く薬とえらい薬」、「手紙 四」、「虔十公園林」、「ポラーノの広場」があります。
 ここではまず、「銀河鉄道の夜」以外の作品を順に見てみます。

 「貝の火」には、「さいはひ」という言葉が次のように出てきます。

お父さんが腕を組んでじっと考へてゐましたがやがてホモイのせなかを静かに叩いて云ひました。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」

 ここでは、宝珠とともに視力も失ったホモイをお父さんが慰めていますが、何が「一番さいはひ」なのだと言っているのかというと、ホモイが「慢心」ということの恐ろしさを、知ることができたことに対してです。

 次に、「よく利く薬とえらい薬」です。

 ところが近くの町に大三といふものがありました。この人はからだがまるで象のやうにふとって、それににせ金使ひでしたから、にせ金ととりかへたほんたうのお金も沢山持ってゐましたし、それに誰もにせ金使ひだということを知りませんでしたから、自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました。

 ここでは「にせ金使ひ」が、自分が金持ちであることをもって、「人間のさいはい」と思っています。

 「手紙 四」には、次のように出てきます。

けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」

 ここでは、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言明され、さらに「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と断定されています。

 「虔十公園林」では、下のようになっています。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここに出てくる「本統のさいはひ」は、ちょっと他の例とは異なっていて、何が「さいはひ」なのかわかりにくいですが、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」などが、人々にもたらしてくれる「美の享受」ということかと思われます。

 最後に「ポラーノの広場」の草稿段階には「幸」が3か所、次のように出てきます。

「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」

「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った。」

「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ。見たまへ諸君はまもなくあれらの人たちにくらべて倍の力を得るだらう。」

 上記に出てくる「幸」は、全てその後の推敲で削除されてしまうのですが、一番目のものは単に「幸運」という意味であるのに対して、二番目と三番目の「幸」は、広場の協同組合設立による、経済的・文化的な豊かさと友愛ということになるかと思います。

 次に「銀河鉄道の夜」は、初期形から順番に見ていきます。
 まず、「初期形一」。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」「あゝではさよなら。」博士はちょっとジョバンニの胸のあたりにさわったと思ふともうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 「初期形二」では、次のようになっています。

 ジョバンニはなんだかとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなって、殊にあの鷺をつかまへてよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をちらちら横目で見て愕いたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。」カムパネルラはさうは云ってゐましたけれどもジョバンニはどうしてもそれがほんたうに強い気持から出てゐないやうな気がして何とも云へずさびしいのでした。

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。
「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 

 「銀河鉄道の夜」初期形三には、このように出てきます。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいゝでせう。」「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。」

「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。

 そして最後に、「銀河鉄道の夜」最終形態では、次のようになっています。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

 ということで、検討のための材料は以上で揃ったのですが、ここまでの作業で時間がなくなってしまいましたので、すみませんが続きは次回にしたいと思います。尻切れトンボになってしまって、誠に申しわけありません。

 ただ次回に書こうと思っている事柄を、あらかじめ少し述べておきますと、賢治の言う「ほんたうのさいはひ」には、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の「初期形一」→「初期形二」→「初期形三」→「最終形態」に至る系列と、「ポラーノの広場」に出てくるものと、「虔十公園林」と、それぞれニュアンスの異なった少なくとも三つの種類があるのではないかということ、そして私自身は、とりわけ「虔十公園林」に注目してみたい、ということです。

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2018年10月15日 移設された「庚申」詩碑

 花巻市材木町にあった「庚申」詩碑は、2010年に盛岡大学に寄贈され移設されていたのですが、その写真を当該詩碑のページにアップしました。

盛岡大学の「庚申」詩碑

 実は私は昨年の12月にも、詩碑を見るためにこの場所に来てみたのですが、すべて雪に埋もれて、どこに碑があるのかもわかりませんでした。今回の写真は、あらためて8月に来た時のものです。

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2018年10月 8日 「雨ニモマケズ」詩碑二つ

 石碑の部屋に、岩手町立川口小学校の「雨ニモマケズ」詩碑と、盛岡市材木町の「雨ニモマケズ」詩碑を、アップしました。

 川口小学校の碑は、2016年に建てられたもので、日時計花壇とも併設されています。

川口小学校「雨ニモマケズ」詩碑

 現在、「〔雨ニモマケズ〕」の全部あるいは一部を刻んだ碑は、全国で17基ほどありますが、その中でも岩手町にあるこれが、最北の碑ということになります。

 盛岡市材木町の方の碑は、この商店街の振興組合の52周年を記念して建立されたものだということで、これまでもこの通りに沿って設置されてきた、光原社の「烏の北斗七星」碑、「宮沢賢治坐像」、「詩座」など様々な賢治関連のオブジェに、また新たな一つが加えられたことになります。

盛岡市材木町「雨ニモマケズ」詩碑

 上の写真ではちょっとわかりにくいですが、ほぼ水平になった上の面に、「〔雨ニモマケズ〕」の全文が刻まれています。詩碑が上を向いているというのは珍しく、「ベンチにもなるように」という趣向なのだそうですが、現時点ではこんなに美しい碑文にお尻を乗せるというのは、ちょっと畏れ多い感じもします。

 隣に一緒に立てられた電信柱のオブジェには、上写真のように「かまだ屋」という表札がかけられています。その昔、賢治たちが集まって『アザリア』の合評会を催したり、あの短篇「秋田街道」に描かれた深夜の雫石までの徒歩旅行に出発したりしたのは、昔この場所にあった下宿屋「かまだ屋」だったということです。ちなみに、『定本宮澤賢治語彙辞典』の「材木町」の項目によれば、ここに下宿していた『アザリア』のメンバーは、河本義行でした。
 すなわち、この盛岡市材木町は、『注文の多い料理店』の出版元の「光原社」があっただけではなく、賢治の青春の輝かしい一コマの舞台でもあったわけです。

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2018年9月30日 トシの「願以此功徳 普及於一切」

 以前に私は「《願以此功徳 普及於一切》」という記事で、賢治が「青森挽歌 三」の初期形に書いたものの後に削除した《願以此功徳 普及於一切》という言葉が、最終形の「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示への導きになったのではないかと、考えてみました。
 その記事にも書いたように、「願以此功徳 普及於一切」とは、『法華経』の「化城喩品第七」に出てくる「偈」の一節で、これに「我等與衆生 皆共成佛道」という言葉が続き、あわせて「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」と読み下します。善根を修することによってその人に備わる徳性(=功徳)を、その人だけのものとせず、広く一切の衆生に振り向けて、皆で一緒に成仏しようということで、これがまさに大乗仏教で言う「回向」という概念の意味するところです。

 一方、現実にはこの「願以此功徳 普及於一切」という言葉は、その「法華経」由来にもかかわらず、特に法華経を重んじる宗旨だけでなく、日本ではほとんどの仏教宗派において、死者の「法要」の最後に唱えられる「回向文」として用いられています。
 下の動画は、真言宗の在家用仏前勤行次第だということですが、クリックしていただければ、「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」との言葉を聞くことができます。

 ということで、「青森挽歌 三」の中に、なぜ唐突に「願以此功徳 普及於一切」という言葉が登場するのかという疑問に対する答えとしては、賢治が青森に向かうこの夜行列車の中で、ずっとトシの死後の行方について思い巡らし、彼女の冥福を祈った上で、その自らの祈りを、妹一人だけの死後の幸福にとどまらず、全ての衆生の幸福に向けようとする、彼の意思の表現だったのだろう、ということになります。

 ここまでは、すでに「《願以此功徳 普及於一切》」という記事に書いたことだったのですが、その後私は、賢治の妹トシが1920年(大正9年)に書いた「自省録」の中にも、この同じ言葉があることに気がつきました。
 それは、次のようにして現れます。

 彼女が凡ての人人に平等な無私な愛を持ちたい、と云ふ願ひは、たとへ、まだみすぼらしい、芽ばえたばかりのおぼつかないものであるとは云へ、偽りとは思はれない。
 「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に――」と云ふ境地に偽りのない渇仰を捧げる事は彼女に許されない事とは思へないのである。
 この願ひと矛盾した自己の幸福をのみ追求した事を彼女は愧ぢねばならない。懺悔しなければならぬ。そして人人の彼女に加へた処置を甘んじてうけなければならぬ。排他に対する当然の報償としてうけなければならぬ。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)

 この「自省録」という文章において、トシは自分自身のことを「彼女」という三人称で記していますので、上で「彼女」と書かれているのは、トシ自身のことです。
 上の引用文を読んだだけでは、これはいったい何のことを言っているのかわかりにくいと思いますが、そもそもトシの「自省録」とは、彼女が日本女子大学を卒業し、結核療養を経て、母校の花巻高等女学校の教諭心得になろうとする時期に、自らが女学校時代に関わったある「事件」による心の痛手を乗り越えようと、その胸中を内省し、整理した記録なのです。

 実は、トシは女学校時代に若い音楽教師に対して憧れの気持ちを抱き、その思いを当該教師に包み隠さずに親しく接していたので、彼女の気持ちは衆目の知るところになっていたようですが、教師の方は別の女生徒の方がお気に入りだったようで、図らずもここに三角関係のような状況が生まれてしまいました。その噂が新聞記者の耳に入り、興味本位に脚色されて、「音楽教師と二美人の初恋」と題して『岩手民報』に3日間の連載で記事になったものですから、当時としては一大スキャンダルになったのです。
 傷ついたトシは、自分自身の名誉失墜以上に、自らを案じてくれる家族を悲しませてしまったことで自分を責め、「もう一日も早くこの苦しい学校と郷里からのがれ度いと云ふ願ひの外には、麻の様に乱れた現在を整理する気力も勇気も全く萎え果て」、「全く文字通りに彼女は学校から逃れ故郷を追はれた」という形で、東京の日本女子大学に入学しました。
 トシはその後も、この「事件」について考えることは慎重に避けながら学生生活を送っていたようですが、卒業後の1920年、事件の舞台となった母校に勤務することになり、意を決してこの体験に向き合おうとしたようです。
 かくして「自省録」の冒頭は、次のように始まります。

 思ひもよらなかった自分の姿を自分の内に見ねばならぬ時が来た。最も触れる事を恐れて居た事柄に今ふれねばならぬ時が来た。『自分もとうとうこの事にふれずには済まされなかったか』と云ふ悲しみにも似た感情と、同時に「永い間摸索してゐたものに今正面からぶつかるのだ、自分の心に不可解な暗い陰をつくり自ら知らずに之に悩まされゐたものの正体を確かめる時が来た」と云ふ予期から希望を与へられて居る。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)

 そしてトシは、自分が音楽教師に対して抱いた感情の推移をたどり、また自らの行動を省みつつ、順を追って問題を分析していきます。相手の教師の行動や態度について客観的な評価を行い、さらに世間から向けられた苛酷な非難を自分はいかに受けとめるべきかという考察に続いて、結局トシが自らの最も反省すべき点として挙げたのは、自分が音楽教師に対して抱いた感情が、「排他的な愛情」であったということでした。

 彼女には世間を不当と責める権利がない。彼女は、黙って、人人の与へるものを受けなければならぬ。彼女はかうして世間の意思に対して消極的に是認する以上に、尚考ふべき事がある。
 彼女は冷酷な世間を止むを得ず是認する前に、自身を世間に対しては冷酷でなかったか、と反省する必要がありはしないか。
 云ふまでもなく彼女の求むる所は享楽(たとへそれがどんな可憐なしほらしい弁解がついても)以上には出なかったらしい。それは表面愛他的、利他的な仮面を被っても畢竟、利己的な動機以上のものではなかったらしい事を認めなければならない。或特殊な人と人との間に特殊な親密の生ずる時、多くの場合にはそれが排他的の傾向を帯びて来易い。彼等の場合にも亦そうではなかったか? 他の人人に対する不親密と疎遠とを以て彼等相互の親密さを証明する様な傾きはなかったか?
 彼等の求めたものは畢竟彼等の幸福のみで、それがもしも他の人人の幸福と両立しない場合には、当然利己的に排他的になる性質のものではなかったか?
 彼女の反省はこの問に否とは云ひ得ないのである。
 利己の狭苦しい陋屋から脱れて一歩人が神に近づき得る唯一の路であるべき「愛情」が美しいままに終る事が少くて、往往罪悪と暗黒との手をひきあうて来る事は実に delicate な問題である。愛の至難な醇化の試練に堪え得ぬものが愛を抱く時――それは個人に向けられたものであらうと家庭や国家に向けられたものであらうと――頑迷な痴愚な愛は、自他を傷つけずにはおかないであらう。煩悩となり迷妄となり修道の障りとならずにゐないであらう。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)

 当時まだ21歳の女性が書いた文章としては、本当に冷静で理知的で驚かされますが、とりわけ自らが教師に対して抱いてしまった愛情に関する総括の仕方には、非凡なものがあると思います。普通ならば、学校における恋愛沙汰でスキャンダルを招いた自分を反省するとなれば、「生徒でありながら先生を好きになるとは、自分の立場をわきまえていなかった」とか、「たとえ異性に好意を抱いても、女としてはそういう感情を表に出すような、はしたないことは慎むべきだった」などというような形に収めるのが常識的な感じがしますが、トシの考えは違います。
 上の文章において彼女は、自分も含めた人間が「愛情」を抱くということは肯定しながらも、自らの場合はその愛が「排他的」であったことが、問題だったとするのです。
 さらに、彼女は続けます。

 彼女の現在はまだまだ云ひ様もなく低い。真の愛、などは口にするだに憚られる僭越ではあるけれども、彼女は最早現状に満足せずして高められ浄めらるるを求むると云ふに躊躇しないであらう。盲目な痴愚な愛に満足しない、求めないと云ふに躊躇しないであらう。彼女は未だ真の愛の如何なるものかを知らない。けれども、「これが真の愛ではない」と見分けうる一つの路は、それが排他的であるかないか、と云ふことである。
 彼女と彼との間の感情は排他的傾向を持ってゐた、とすれば、彼女の眠ってゐた本然の願ひが、さめた暁には到底、彼女に謀反を起こさせずにおかなかったであらう。自分から、自分等の感情に息詰りを感じて、どう云ふ形でかこれを破り、捨てずにはおかなかったであらう。或はこれを排他的なものでないものに、醇化しやうとする、身に過ぎた重荷に苦しまねばならなかったであらう。此点に於ても、彼等の、今、離れ終わったと云ふ事は自然な正当な事ではなかったか。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)

 そして、上記の後に、最初に引用した「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に――」を含む部分が続くのです。
 ここでやっと、トシが「願以此功徳 普及於一切」という法華経の一節を引いてきた文脈が、皆様にもわかっていただけたかと思います。彼女は、「排他的でない愛」の一つの典型的なあり方として、この経文を提示しているのです。

 さて、トシがこのように目ざそうとする「排他的でない愛」あるいは「真の愛」とは、最初に引用した部分にあるように、「凡ての人人に平等な無私な愛」ということでしょうが、考えてみれば、これはまさに、賢治が生涯をかけて追求したテーマでもあります。
 「青森挽歌」のキーワードである、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という一節もそれを表していますし、「農民芸術概論綱要」の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」もそうでしょう。
 山根知子氏は、著書『宮沢賢治 妹トシの拓いた路』の中で、トシのこの「排他的な愛」という概念と、賢治の書簡下書252aにおける「私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから」という考え方との共通性を指摘しておられますが、私もまさにそのとおりだと思います。

 ここに見られる、「愛」に対するトシと賢治の考えの特徴は、単に「普遍的な愛」を賞揚するだけではなくて、「排他的・個別的な愛」というものを、ほとんど否定してしまうというところにあります。普通ならば、「普遍的な愛」というのは立派で結構なものとして讃えながらも、しかしもう一方では、家族や恋人や親友を特に大切にする「排他的な愛」というのも、それはそれであってもよいと認めるのが一般的でしょうが、彼らはそうではありません。トシにとって排他的な愛は、「煩悩となり迷妄となり修道の障りとならずにゐない」ものであり、賢治にとっては「ひとりをいのつてはいけない」として禁じられ、「一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません」と打ち捨てられるものだったのです。

 このように、トシが「自省録」において打ち出した倫理観と賢治のそれとは、ぴったりと重なり合っているのですが、それらが同じであるのは、その結論においてだけではなく、そこに至るプロセスに関してもそうでした。
 トシは、一時は「お互ひに好意を持ち合って居る」と信じていた男性から、新聞沙汰を機に一転して「侮辱と憎しみの詞」を伝え聞くようになり、「心の痛みは絶頂に達し」、「重ね重ねの打撃に魂を打ち砕かれて」しまったのですが、この苛酷な喪失体験の底から、驚くべき強靱さをもって立ち直ろうとします。
 すなわちトシは、「彼女と彼との間の感情は排他的傾向を持ってゐた、とすれば、彼女の眠ってゐた本然の願ひが、さめた暁には到底、彼女に謀反を起こさせずにおかなかったであらう」と述べて、自らの愛は排他的であったが故に、いずれ破綻するのは当然のことだったとして過去の自分を否定し、「彼等の、今、離れ終わったと云ふ事は自然な正当な事」として、苦難を肯定的に受容するのです。そしてその受容からあらためて出発し、「普遍的な愛」への道を踏み出そうとするのです。

 このような道筋は賢治の場合も同じで、すなわち賢治はある時期までは、トシを喪った悲しみに耐えられず苦しみ続けたのですが、サハリンへの旅の後のいつしか、そのように一人の肉親にとらわれるのは利己的な執着なのだとして、それまでの自分をやはり否定するのです。そして、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないこと」は当然の帰結であるばかりか、「なんといふいゝことだらう」として、その喪失を積極的に肯定する段階に至るのです(「薤露青」)。
 そして彼はその肯定の上に立って、「手紙 四」や「銀河鉄道の夜」初期形三では、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という立場を宣言しました。

 トシと賢治が各々のトラウマから立ち直っていったプロセスは、このようにほぼ同型になっており、二人とも、(1)自らの喪失の苦悩を、排他的あるいは利己的な愛に基づいたものとしてまずは否定し、(2)だから別離は不可避なものであったと「合理化」して、その喪失を肯定的に受け容れます。(3)そして両者とも、そこからさらに進んで、その苦しみをより普遍的な愛へと昇華しようとするのです。
 そしてここで注目すべきことは、その二人に共通する道筋の「かなめ」の部分に、「願以此功徳 普及於一切」という法華経の一句が位置しているということです。

 さて、このようにして賢治がトシと同じような道を歩んでいったのだとすると、気になるのは、はたして賢治がトシの「自省録」を読んでいたのかどうかということです。『伯父は賢治』によれば、宮沢淳郎氏は1987年(昭和62年)に父主計氏の遺した書類を整理していて、偶然トシのこの原稿を発見したということです。これは、淳郎氏の母であり賢治およびトシの末妹であるクニが、何らかのいきさつで、受け継いだものだったのでしょう。
 その内容からして、まだトシが存命中には、いくら家族であっても彼女が自分から見せるとは、ちょっと考えにくい気がします。それとも、「賢治とトシ」という親密な兄妹関係ならば、自ら兄に読んでもらうということもあったでしょうか?
 でも一般的には、トシの死後に親が遺品を整理していて見つけたのではないかと考えてみる方が、常識的な感じがします。
 すると一つの可能性としては、トシの死後に「形見分け」として、クニがこの原稿を譲り受けたということも考えられますが、しかしトシの死の時点でまだクニが15歳だったことを思うと、いくら姉のものとは言え、親としてはこのようなスキャンダラスな恋愛沙汰を扱った文章を、まだ女学生の少女に渡すというのは、ちょっと考えにくい気がします。
 となると、クニが受け取ったのはもっと後のことかとも思われますが、具体的なことはどうにもわかりません。

 結局いろいろ考えてみても、賢治が妹トシの「自省録」を読んでいたかどうかということは、現時点では不明と言わざるをえません。ただしかし、もし仮に読んでいなかったとしても、彼女がここに記した「願以此功徳 普及於一切」という言葉は、彼女が賢治から法華経を教えてもらう中で、出会ったもののはずです。
 ですから、上記のような「同型性」という意味でも、この言葉に二人が込めていた思いは、一緒に共有していたと思われるのです。そして、「願以此功徳 普及於一切」という言葉が、1920年の「自省録」から、1923年の「青森挽歌 三」へと受け継がれたのだと見るならば、トシは果たせなかった「排他的な愛を否定し普遍的な愛を目ざす」という理想の追求が、ここでトシから賢治へと託されたとも言えるのです。
 そして上にも述べたように、これはバトンを受けた賢治にとっても、生涯のテーマとなりました。

 山根知子氏は、著書『宮沢賢治 妹トシの拓いた路』の第二部第一章「賢治の前を歩んだトシ」において、このように「トシから賢治へ」という方向性の影響関係について、詳しく考察しておられます。トシの「自省録」における「排他的な愛」という概念についても、成瀬仁蔵の宗教思想の反映を解き明かし、また賢治の作品への影響についても分析しておられます、
 私は、トシの「自省録」に「願以此功徳 普及於一切」が登場することに触発されて、今回の記事のようなことを思い巡らしていたところ、山根氏の著書を読んでみるとほとんど同様の事柄が、すでにはるかに詳細に述べられていることに気づきました。
 私としては、この法華経の言葉が、賢治の「青森挽歌 三」において引き継がれていること、そして二人がこの言葉に象徴される同型の道をたどって、深刻な外傷体験を乗り越えていったと思われることを、ここにわずかに付け加えさせていただきたいと思います。

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2018年9月24日 「盛岡附近地質調査報文」の「○終結」章

 1916年(大正5年)、賢治が盛岡高等農林学校2年の時に同級生たちと作成した「盛岡附近地質調査報文」については前回も少し触れましたが、この「報文」は農学科第二部二年生が共同で提出した形になっていて、その中に賢治が執筆した部分が含まれているのかどうかということは、明らかにされていません。
 しかし、これまでに何人かの研究者が指摘しているように、この調査自体が賢治の主導のもとに行われたのはかなり確かなようですし、また「報文」の中には、いかにも賢治っぽい表現が多々含まれており、『新校本全集』第十四巻の「校異篇」では、次のように説明されています。

 賢治の執筆部分は明らかではないが、全体的に賢治の文体めいた箇所が散見する。賢治の執筆部分を分離特定することができないため、本巻では表題に〔共同執筆〕と付記して全文を本文に掲げた。

 この「報文」全体の構成は、「○地理及地質の概要」、「○火成岩及風化物の記載」、「○水成岩及其風化物の記載」、「○終結」という四章から成っているのですが、この最後の「○終結」という章には、まさに私たちの知っている賢治の特徴が、かなり顔を出しているように感じられます。
 たとえば、この章は、次のように始まります。

   ○終結
地質学は吾人の棲息する地球の沿革を追究し、現今に於ける地殻の構造を解説し、又地殻に起る諸般の変動に就き其原因結果を闡明にす、即ち我家の歴史を教へ其成立及進化を知らしむるものなるを以て、苟くも智能を具へたるものに興味を与ふること多大なるは辯を俟たずして明なりとす。
閑散なるの日一鎚を携へて山野に散策を試みんか目に自然美を感受し心身爽快なるを覚ゆるのみならず造化の秘密を看破するを得、一礫一岩塊と雖も深々たる意味を有するを了解し、尽き難きの興味を感ずるは、生等の親しく経験したる所とす、加之冬夏の休業に際し地質図を手にして長期の跋渉を試みんか至る所目前に友ありて自然の妙機を語り旅憂を一掃せしむるのみならず、進んで宇宙の真理を探究せんとするの勇気を勃々たらしむ、欧米には地質案内記の刊行せられたるもの多く、婦女子に至るまで之を携へて或は山岳を攀ぢ或は原野を彷徨するもの多しと聞き、其誠に故なきにあらざるを会得せり。

 この箇所ついて、『宮澤賢治 岩手山麓を行く 盛岡附近地質調査』の著者の亀井茂氏は、通常は科学論文には書かれないような「個人的、心象的な自然との接し方、即ち、深遠な自然の不可思議さに感動、自然に同化する心境、その効用などの体験的、心理的効能が記されている」ことを指摘し、「この『調査報文』において、「○終結」は全く賢治による記述を明らかに思わせる部分である」と述べておられ、私も同感です。また、「冬夏の休業に際し地質図を手にして…」とありますが、この夏休みの間の「閑散なる日」に実際に調査を行ったのは、賢治ともう一人、級長の塩井義郎だけだったことからしても、これを賢治が書いた可能性は非常に高いと言えるでしょう。

 ところで、この「○終結」の書き出しでは、我々の地球を称して「吾人の棲息する…」と形容しているところがちょっと面白いですが、1900年(明治33年)に冨山房から出版された『礦物学及地質学』という本の冒頭は、下記のようになっています。(国会図書館デジタルライブラリーより)

冨山房『礦物学及地質学』

 ここでもやはり、「吾人ノ棲息スル…」という書き出しから始まっていて、こちらは「地球」ではなく「地殻」を形容する語句となってはいますが、大意は同じです。「吾人」「棲息」などという言葉まで一致していて、これは偶然にしては、ちょっとできすぎではないかと思います。
 すなわち、賢治(かあるいは別の学生)が、この当時に冨山房の『礦物学及地質学』という教科書を読んでいて、そこから意識的か無意識的かはともかく、影響を受けつつ書かれた文章なのではないでしょうか。

 この、「冨山房編輯所編纂」による『礦物学及地質学教科書』には、どこにも具体的な著者の名前は記されていないのですが、同じ冨山房が1918年(大正7年)に刊行した『新編 鑛物学地質学教科書』には、下図のように「理学博士 小川琢治 著」と記されています。

冨山房『新編 鑛物学地質学教科書』

 これも、少し字句に修正はあるものの、初めにはやはり「吾人の棲息せる地球の…」という字句があり、これは1900年の『礦物学及地質学』が、装いを新たにした「新編」なのでしょう。

 著者の小川琢治は、京都帝国大学理学部地質鉱物学科の初代主任教授を務めた人ですが、旧版の『礦物学及地質学』刊行時には、農商務省地質調査所技手の職にあったために、名前は出さなかったのかと思われます。その後、1908年に農商務省を退官して京大教授となったので、1918年刊の新版では、晴れて著者として顔を出したのでしょう。
 ちなみに、小川琢治の息子たちは、長男の小川芳樹が冶金学者、次男の貝塚茂樹が東洋史学者、三男の湯川秀樹が物理学者、四男の小川環樹が中国文学者という、有名な物凄い学者一家です。

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2018年9月17日 「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑アップ

 「石碑の部屋」に、「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑をアップしました。
 これは、岩手県滝沢市の大沢坂峠の頂上に、去年の10月に設置された碑で、私は先月のお盆の頃に見に行ってまいりました。

「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑

 碑に刻まれているテキストは、「疾中」の中の「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」で、この最後の行に「大沢坂峠」が登場していることから、この峠に置かれたものです。なお、「大沢坂」は「おさざか」と読みます。

眠らう眠らうとあせりながら
つめたい汗と熱のまゝ
時計は四時をさしてゐる

わたくしはひとごとのやうに
きのふの四時のわたくしを羨む
あゝあのころは
わたくしは汗も痛みも忘れ
二十の軽い心躯にかへり
セピヤいろした木立を縫って
きれいな初冬の空気のなかを
石切たちの一むれと
大沢坂峠をのぼってゐた

 詩には、1928年(昭和3年)夏から病床に就いてしまった賢治の、闘病の一コマが描かれています。毎日毎日が苦しくて、何もできずただもう寝ているだけの時間だったでしょうが、それでも今の状態と比べて1日前の自分を羨んだり、20歳の頃の清々しい峠道を夢に見たり、賢治にとっては病の床の中でも、様々な情景が展開します。
 思えば20歳の頃の賢治は、盛岡高等農林学校の2年生で、7月にグループ実習課題として「盛岡附近地質調査」を級友たちと行ったのですが、賢治たちが担当したのが、この大沢坂峠も含む盛岡から北西の地域でした。
 「歌稿〔B〕」の「大正五年七月」の項には、「湯船沢」、「石ヶ森」、「沼森」、「新網張」、「茨島野」などこの地質調査の際の体験を詠んだ連作がありますが、その中にやはり「大沢坂峠」が登場しています。

        ※ 大沢オサ坂峠
341   大沢坂の峠は木木も見えわかで
     西のなまこの雲にうかびぬ。


341a342 大沢坂の
     峠は木々も
     やゝに見えて
     鈍き火雲の
     縞に泛べり

        ※ 同 まひる。
342   ふとそらの
     しろきひたひにひらめきて
     青筋すぎぬ
     大沢坂峠。

 「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」の中で夢に見ているのは、「きれいな初冬の空気のなか」で大沢坂峠を登る場面ですから、この時の地質調査と季節は合いませんが、『宮澤賢治 岩手山麓を行く』(イーハトーヴ団栗団企画)における照井一明氏は、賢治はその後もう一度初冬に調査のためにこのあたりを訪れ、その時に作られたのが「歌稿」の「大正五年十月より」の項にある次の短歌群ではないかと推測しておられます。

418   霜ばしら
     砕けて落つるいは崖は
     陰気至極の Liparitic tuff

        ※
419   凍りたる
     凝灰岩の岩崖に
     その岩崖に
     そつと近より。

         ※
420   凍りたる凝灰岩の岩崖を
     踊りめぐれる
     影法師なり。

 照井氏の推測では、賢治は夏の調査だけでは確認しきれなかった大沢坂峠あたりの丘陵の火山岩の基盤となる地層を調べておきたくて、あらためてこの年の10月以降の初冬に、この場所を訪ねたのではないかということで、これは説得力のある説だと思います。
 そうであれば、詩「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」において賢治が夢で見ているのは、この初冬の再訪の際の記憶だということになります。
 ちなみに下図は、この時の調査結果を集約した「盛岡附近地質図」です(『新校本全集』第十四巻より)。

盛岡附近地質図

 ところで、「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」の最後から2行目には、「石切たちの一むれと…」とありますので、このあたりに石切場があったのだろうかと気になったのですが、上図の右端の方を拡大すると、確かに「石切場」という記載が見えます。

盛岡附近地質図(拡大)

 上の拡大図で、上の方の縦長の赤い楕円で囲んだところに、「石切場」とあるのです。さらに、その間にある横長の赤楕円で囲んだところには「石ヶ森」という山名が記されているのですが、そもそもこの「石ヶ森」という名前自体が、ここが石を産する山であることから来ているのでしょう。大沢坂峠(上図の「●大沢坂峠」は引用者記入)よりは少し北になりますが、それでも石切り場で働く人々がこの峠を往来することは、十分にありえたでしょう。
 さらに、この地質調査の報告書である「盛岡附近地質調査報文」には、次のような記載があります。

      (二)第三紀層
本層図幅の西隅に分布し、主として凝灰質の岩石より成る、本層を構成する岩石中重要なるものは流紋質凝灰岩及び安山岩質凝灰岩並びに半熔頁岩及び角礫岩とす。
○流紋質凝灰岩
稍脆弱にして触るれば粗鬆の感を生じ灰白色にして灰状の外観を有し実質中に細き石英の粒子を散布す図幅の西北鬼越山以北に稍広く分布し金沢、影添於て好露出を見る。多くは流紋岩の砕屑を混淆し又往々硅板岩粘板岩の砕片を雑ゆ、本岩中に散布せる石英粒の大部分が錐形式の結晶より成れるは特に注意すべきの価値あるとす、採掘して竈材として賞用せらる(滝沢石)

 すなわち、この図の「西隅」で黄色に塗られている「第三紀層」の「流紋質凝灰岩(正しくは「流紋岩(質)凝灰岩)」は、「採掘して竈材として賞用せらる(滝沢石)」ということですから、これが「石切り」の対象だったのだろうと推測されます。
 「盛岡附近地質調査報文」は、全体としてはグループの「共同執筆」という形になっていて、賢治がどの部分を書いたのかはわからないのですが、上に引用した部分は賢治が担当した地域でもあり、また現在一般には「鬼古里山」と書かれる山を「鬼越山」と表記しているところも、賢治の特徴に一致すると思います。

 盛岡方面から大沢坂峠に行くには、JR田沢湖線で盛岡から一駅目の「大釜」で降りて、県道16号線を北に歩き、「←大沢坂峠」という標識も出ているJAの角から西に曲がり、熊野神社の脇を通って山道に入っていきます。大釜駅から峠頂上の詩碑の場所まで、歩いて1時間あまりという感じでした。

大沢坂峠頂上の標識と詩碑

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2018年9月 2日 「法華堂建立勧進文」碑アップ

 「石碑の部屋」に、「法華堂建立勧進文」碑をアップしました。この碑は、すでに2003年に建立されていたものですが、私は最近までその存在を知らず、つい先日教えていただいたので、見学に行って参りました。

「法華堂建立勧進文」碑

 碑は、北万丁目共同墓地の東の端の、無縁仏の墓碑などを集めた一角にあります。美しく磨かれた、黒御影石の碑面です。

 ここに刻まれている「木石一を積まんとも/必ず仏果に至るべく/若し清浄の信あらば/永く三途を離るべし」という言葉は、賢治が農学校教師時代に請われて起草した、「法華堂建立勧進文」の最後の4行です。
 この長大な勧進文は、まさに賢治らしい格調高い名文だと思うのですが、彼の童話や詩を愛好する人々でも、読む機会は比較的少ないかと思いますので、本日は以下に全文を掲載しておきます。

  法華堂建立勧進文

教主釈迦牟尼正偏知けふしゆしやかむにしやうへんぢ
涅槃ねはんくもりまして
正法しやうばう千は西にしてん
余光よかうかぜかぐはしく
像法ざうばう千は華油燈ともしび
影堂塔かげだうたうえき
仏滅ぶつめつ二千あは
ごう濁霧ぢよくむふかくして
権迹ごんしやくみちはしげければ
衆生しゆじやうゆくてをうしなひて
闘諍堅固たうじやうけんごいやしる
兵疾風火へいしつふうくわきそひけり
このとき地涌ぢゆ上首尊じようしゆそん
本化上行大菩薩ほんげじやうげうだいぼさつ
如来によらいちよくけまして
末法まっぱう救護くごの大悲心ひしん
青蓮華しやうれんげ東海たうかい
朝日あさひとともにれたもふ
ももたびひら大蔵だいぞう
久遠くをんかなしんかぎ
諸山しよざんざう精進しやうじん
かゞみちりかげもなし
正道しやうだうすでにしやうあれば
法鼓ほっくくもにとどろきて
四箇格言しかかくげんはんたか
要法やうばう下種げしゆむねふか
街衢かいくたみをしへては
刀杖瓦石たうじやうぐわしやくいとあま
要路やうろくにいさむれば
流罪るざい死罪しざいなほたの
色身しきしん法華経ほけきやう
ゆきのしとねにかぜいひ
水火すいくわつぶさにそのかみの
勧持くわんじしんてましぬ
三度みたびいさめてひとくら
たみ諸難しよなんのいやせば
いまはちまたちり
ひたすらくにいのらんと
領主りやうしゆこひをそのままに
るや甲州かうしゆう波木井郷はぎりがう
きり不断ふだんかう
かぜとことはに天楽てんがく
身延みのぶやまのふところに
聖化しやうげ末法まっぱう万年まんねん
法礎ほうそさだたまひけり
そのとき南部なんぶ実長さねながきやう
法縁はうゑんいとどめでたくて
外護げごちかひのいとあつ
あるひはせんたてまつ
あるひはだうおこしつつ
供養くやうはげたまひしが
やがてはかえ本誓ほんぜい
すみころもをなして
堤婆だいばほんもそのまゝに
給仕きうじにつとめおはしける
帰命心王大菩薩きめうしんわうだいぼさつ
応現化おうげんけをばへまして
浄楽吾浄じやうらくがじやう花深はなふか
本土ほんどかへりまししより
向興かうこう諸尊しよそんともろともに
聖舎利せうしやりたまひつゝ
法潤はうにんいよよふかければ
ながれはきよ富士川ふじがは
すゑなが勤王きんわう
外護げごほまれつたへけり
后事のちことありて陸奥みちのく
遠野とほのほうたま
辺土へんどたみ大法たいはう
ひかりくまなき仁政じんせい
徳化とくくわ四辺しへんおよびつゝ
なが遺宝ゐほうつたへしが
当主たうしゆ日実上人にちじつしやうにん
俗縁法縁ぞくゑんはうゑん相契あひかな
祖道そだうこゝ興起こうきして
末世まっせ衆生しゆじやうすくはんと
悲願ひぐわんはやがて灌頂かんてふ
祖山そざんしゆうたま
しきえにし花巻はなまき
優婆塞うばそく優婆夷うばゐちぎりあり
法筵はうゑんかずかさなれば
諸人もろびとここにはからひて
あらた一宇いちう建立こんりう
たとへいらかはいぶせくも
信楽衆しんげふしゆう質直しつぢき
至心ししんしやうたてまつ
聖宝せうぼうともにやすらけく
このまもざし
未来みらいとほつたへんと
浄願じやうぐわんここむすぼれぬ
いま仏滅ぶつめつの五五を
ごうにごりはいやふか
われらはおもき三どく
ごうほむらけり
泰西たいせい成りしがく
口耳こうにしやうかさ
おごりはやがて冥乱めいらん
諸仏菩薩しよぶつぼさつそし
因果いんぐわ撥無はつむしぬ
阿僧祇あそうぎはうはずして
心耳しんにくらめい
つみ衆生しゆじやうのみなともに
きそひてこれにしたがへば
人道じんだうはやちて
邪見じやけん鉄囲てつゐしぬ
皮薄ひはく文化ぶんくわなが
五慾ごよくらくせど
もとおさめぬ業疾ごうしつ
苦悩くのふはいよよふかみたり
さればぞ憂悲うひさんとて
あらた憂苦うくもと
たがひきそあらそへば
こは人界にんかいいろ
鬼畜きちくさうをなしにけり
菩薩ぼさつ衆生しゆじやうすくはんと
三悪道さんあくだうにいましては
たゞひたすらにみちびきて
から人果にんくわいたらしむ
衆生しゆじやうこのうま
虚仮こけおしへまよ
ふたたび三かへらんは
痛哭つうこくたれふべしや
法滅相ほうめつさうまへにあり
人界にんがいしやうはいや多し
仏弟子ぶつでしここにやすければ
慳貪けんどんとがはまぬかれじ
信士女しんしによなかにむさぼらば
諸仏しよぶつあだをなさん
世界せかいぐう所感しよかんゆゑ
どくおもければくら
饑疾きしつ風水ふうすゐしきりにて
兵火へいくわつひえぬなり
正信しやうしんあればきよ
おのづから厳浄ごんじやう
ふうの世となりて
まねかで華果けくわいたるなり
仏弟子ぶつでしはんひと
この法滅はうめつさう
仏恩ぶつおん報謝ほうしやこのときと
ともちからしたまへ
木石ぼくせき一をまんとも
かなら仏果ぶつくわいたるべく
清浄しやうじやうしんあらば
ながく三はなるべし

  とまあ、全体で143行もある長大さで、かなり難しい仏教用語も使われていますが、見事に整えられた七五調が調子良く弾み、気がつくと最後まで読んでしまいます。
 その内容は、釈迦の入滅から正法―像法―末法という時代の推移、 日蓮の誕生とその輝かしくも苦難に満ちた生涯、甲州の南部氏が日蓮に篤く仕えた後に遠野に移ったこと、そしてその遙かな子孫である南部日実の縁によって、このたび花巻に法華堂を建立するに至った経過を、まさに滔々と述べ連ね、さらに昨今の仏教界の有り様について痛烈に批判を行った後、結びで法華堂への寄進を募っています。

 この文の起草を賢治に依頼した叔父の宮澤恒治によれば、賢治は依頼を受けたわずか一両日後の朝に、原稿を叔父宅に持参したそうで、これほどの名文を短期間でさらりと書き上げてしまう田舎の農学校教師とは、いったい何者なのかという感じですが、やはり宮澤賢治という人は、こういう仏教的素養と作文力を、当たり前のように自家薬籠中のものにしていたということなのでしょう。
 この文章は単に「宗教色が濃い」というよりも、まさに純度100%の宗教的テキストですから、賢治愛好家にもあまり親しまれていないかもしれませんが、それでも日蓮の流謫を述べるところに出てくる「雪のしとねに風の飯」という表現や、「世界は共の所感ゆゑ…」という認識論などは、いかにも賢治らしい感じがします。

 これまで全国各地に建てられてきた賢治の文学碑としては、詩や短歌や俳句や童話の一部が刻まれたもの、またその思想の表現としては「農民芸術概論綱要」の一節が採られたものなどが多々ありますが、この「法華堂建立勧進文」の碑は、それらに加えてまた新しいジャンルを開くものと言えるでしょう。

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2018年8月26日 「作品日付」と「文語詩篇ノート」の意味

 ご存じのように、賢治の口語詩の大半には、作者によって「日付」が記入されています。全集の分類上、『春と修羅』『春と修羅 第二集』『春と修羅 第三集』に収められている口語詩には、(「白菜畑」「野の師父」という2つの例外を除き)全てに日付が記されており、作品数において、日付のない口語詩(「口語詩稿」「補遺詩篇I」などに分類)を、はるかに上回っています。
 口語詩以外の他の種類の作品においては、日付はここまで律儀には記されていませんが、それでも童話集『注文の多い料理店』に収められている9作品には全て「年月日」が付けられており、また「初期短篇綴」と称されている10作品には、(おそらく取材時と一次稿成立時の)二種類の「年月」が記入されています。

 なぜ賢治が、これほど小まめに自作品に日付を入れていたのかということが、まずは疑問として湧いてきますが、このことについて天沢退二郎氏は『宮澤賢治イーハトーブ学辞典』の「日付の問題2 [賢治的オブセッションとして]」という項目で、次のように述べておられます。

〔様々な口語詩を例示して「日付問題」の複雑さを論じた後〕
 以上、これらの事例から賢治詩における「日付」のオブセッションの、多元的なありようを垣間見ることができよう。
 そして、『第三集』の最終形態あたりから、賢治詩草稿から日付が消えはじめる(とりわけこの時期に多作される文語詩稿において)。このことは、すでに詩紙発表形で日付が除かれていたことと相まって、賢治詩が、不特定多数の読者へ開かれるにつれて、「日付」のオブセッションから解放されていったように思われる。

 つまり天沢氏は、賢治が自作に日付を記したことを、一種の「オブセッション」(=強迫行為)として、すなわち彼の「こだわり」や「とらわれ」として、解釈しておられるようです。となると、この日付には別に合理的な目的や意味があったわけではなく、賢治としては「なぜかそうしないと気がすまない」というような性癖として、自作に日付を記入していたのだということになります。

 たしかに、作品に日付が入っていても、一般の読者にとっては特に鑑賞の仕方が変わるわけではありませんし、また賢治自身も、その日付を後で何かに活用したような形跡はなく、これ自体には、具体的な「目的」や「意味」は見当たりません。『春と修羅』および『注文の多い料理店』の刊本において、作品が全て例外なく日付順に並べられているということには注目すべきと思いますが、しかし単に配列を決めるという目的のためだけであれば、作品に「年月日」まで書いておかなくても、原稿の順序さえ定めておけばよいはずです。
 したがって、この日付記入に特に深い意味はなく、それは単なる賢治の「習癖」だったのだろうという天沢氏の考えは、これはこれで十分に説得力のあるものです。

 ただ私としては、それでも一つ気になることが残ります。
 それは、天沢氏も書いておられるように、賢治は後半生の文語詩においては、もう全く日付は記入しなくなるのですが、しかしその一方、文語詩創作のために題材を整理する目的で作成した「「文語詩篇」ノート」という覚書は、それまでの自分の生涯を振り返る形で、「年」と「月」を明示する一定のフォーマットに則って記されており、ここで形は変えながらも、やはり賢治の「時間」へのこだわりが見てとれるのです。

「文語詩篇」ノートより

 上の画像は、『新校本全集』第13巻(下)から引用した「「文語詩篇」ノート」の見開きの一例ですが、右ページの右上に「1918」と書いてあるのが西暦の年号で、その左の「23」という数字は、この年の賢治の数え年齢です。その下に、「一月」「二月」…と「月」が書かれ、「三月」のところに「高農卒業」、「四月」には「地質調査」と、主要な出来事が記されています。
 左のページは、賢治がこのノートを逆向きに使っているため1918年ではなく1917年後半の記事なのですが、「八月」の欄に「瓜喰みくる子/母はすゝきの穂を集めたり」などと書かれてから×印が付けられています。この八月の記載内容は、文語詩「」そのものであり、ここに記した題材を文語詩として作品化し終わった印に、賢治は「×」を付けたのかと思われます。つまり、彼が文語詩「」として作品化した内容は、1917年8月に彼が実際に見た情景だったのだろうと考えられます。
 「「文語詩篇」ノート」の全ページは、このように1年を2ページにまとめた編年体で、賢治の人生上の出来事が順番に並べられており、彼はこれを「台帳」として、文語詩を創作していったのだと思われます。

 ということで、文語詩においてはその原稿に「日付」は記入されなくなったとは言え、ここでもやはり一つ一つの作品を時間軸の上に位置づけようとする賢治の意図は、明らかに存在するのです。
 「「文語詩篇」ノート」が「年/月」に従った配列になっている理由として、賢治にとってその方が自分の半生の出来事を回想しやすかったからだということも考えられなくはありませんが、しかし創作の題材をストックしておくだけならば、ここまで厳密に時間を特定しなくても、思い出した事柄を順不同に書き溜めていってもよいはずです。

 つまり、私が思うのはこういうことです。
 賢治が、口語詩の一つ一つに「日付」を記入した背景にも、文語詩創作のための「「文語詩篇」ノート」を規則的な編年体で構成した背景にも、一貫して流れ続けているのは、賢治が自らの作品を「時間」という軸にしっかりと結び付けておこうとする意思だったのではないでしょうか。

 しかしそれでは、作品をそのように時間軸に結び付けることの意味や目的は、いったい何だったのでしょうか。

 私はそれは、賢治が考えていた「四次の芸術」という構想と、関係があるのではないかと思います。
 すなわち賢治は、「農民芸術概論綱要」の終わりの方の「農民芸術の綜合」という項目で、次のように述べています。

……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……

巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす

 また、童話「マリヴロンと少女」では、これをもう少し具体的な形で、芸術家マリヴロンに次のように語らせています。

「…正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向ふの青いそらのなかを、一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでせうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじやうにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。」

 例に挙げられている「鳥の飛翔」ということについては、以前に「鳥とは青い紐である」という記事において、シャビ・ボウという写真家による画像とともに考えてみましたが、人間においては、生きているうちに三次元の空間において行った全ての活動に、その生涯における時間という第四の軸を加えて得られた、総計「四次元」の構造体こそが、「あらゆる人々のいちばん高い芸術」なのだというのです。

 このような考えに立ってみれば、賢治がその生涯において三次元空間の中で経験したこと、行動したことは、口語詩あるいは文語詩という形で、様々に修飾を受けながらも記録されているわけですが、この「記録」とそれが成された「時間」を正しく結び付けておけば、そこに「巨きな第四次元の芸術」が姿を現すということになります。

 つまり、賢治は自らの人生の記録とも言える口語詩や文語詩に、日付やノートによって時間の軸を紐付けすることで、ひそかに自分自身の「四次芸術」を作り上げておいたということなのではないでしょうか。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
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