2014年10月 2日 「青森挽歌」の構造について(1)

 8月の東京および先月の比叡山で発表させていただいた話の中では、「青森挽歌」を例にして、賢治の体験様式について説明を試みた部分があったのですが、その時の内容に少し加筆しつつ、下に文章化してみます。

 まず、「青森挽歌」の本文(初版本)を下に掲げます。種々の記号のようなものについては、図の下で説明します。テキストのルビは、省略させていただきました。

 「青森挽歌」の構造

 本文右側に並ぶ数字は、行番号です。「青森挽歌」の本文は、全部で252行あります。
 本文の背景の一部に、水色または桃色で色が付けてありますが、水色の部分は「一重括弧」で囲まれていることを、桃色の部分は「二重括弧」で囲まれていることを、示しています。
 本文左側にある橙色の数字は、「字下げ」を表しています。例えば「-4」なら、その部分が行頭から「4字下げられている」ことを表しています。

 今回は、本文全体を大きく5つの部分(I〜V)に分けてみました。上の図では、細い二重線で区切っています。
 以下、最初の〈I〉から順に見ていきます。

 冒頭から54行目までの〈I〉には、「現実世界からの導入・トシの死について考えることへの躊躇」という見出しを付けました。
 ここでは、作者が夜行列車に乗りつつ、窓の景色を見たり、昼間のことを回想したりするなど、現実的な描写が主体です。しかしその底には、「考へださなければならないことを/わたくしはいたみやつかれから/なるべくおもひださうとしない」(37-38行)との言葉に示されているように、妹トシの死について考えようと思いつつも実行できない、「躊躇」もあります。
 この〈I)には、一重括弧でくくられた言葉が、いくつも出てきます。その言葉の内容は、汽車の媒体として「巨きな水素のりんご」を想像したり、乗客の一人を勝手に「大学の昆虫学の助手」に見立てたり、かなりファンタジックな傾向が認められます。「地の文」が主に、実際に目で見たものなどを記している「顕在的な意識」であるのに対して、この一重括弧は、作者の心のより奥深くから湧いてくる言葉なのでしょう。

 つまり、一重括弧で囲まれた部分は、作者の顕在意識からはやや相対的に独立して、自身の心に自ずと湧いてくる言葉=「内言」を表していると考えられます。卑近な例を挙げれば、「今日のお昼に何を食べようか…」と「顕在意識」で思った時に、「カレーがいいなあ」、「いや、ラーメンが食べたい」などという風に、自然に心の奥から生まれ出てくるような、「思考・言葉」に相当するものです。
 とくにこの作品における作者の内言の特徴の一つは、その出所が上にも述べたように、賢治の内奥のファンタジックな部分とつながっていると思われるところです。

 さて、物憂い眠気とともに淡々と進行する〈I〉の流れに、一つの不吉な変化が生じるのは、28行目の「水いろ川の水いろ駅」に続き、29行目の内言に(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)という言葉が出てくるところです。
 ここに現れる、「おそろしいあの水いろの空虚」という言葉から私が連想するのは、賢治の若い頃の連作短歌「青びとのながれ」から、後の文語詩「〔ながれたり〕」に至る、死者の世界です。
 後者に出てくる「水いろなせる川の水」とか、「水いろの水と屍 数もしら」などの言葉は、直接この箇所の語彙につながっていますし、(そもこれはいづちの川のけしきぞも)は、「青森挽歌」8行目の「けれどもここはいつたいどこの停車場だ」と響き合っているかのようです。また、「〔ながれたり〕」の作品世界の時刻は、「地平わづかに赤らむは/あかつきとこそ覚ゆなれ」とあるように夜明け前ですが、「青森挽歌」でも、「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱をよどませ」(24-25行)という景色が広がり、同じく地平に曙光が現れようとしているところです。
 すなわち、作者は〈?〉の途中までは、何とかして「死」の想念を抑圧しようとしていたのですが、ここに至って窓外の景色までもが死者の世界として迫ってくるようになり、ついに賢治は、「死」について考えることから逃れられなくなったのです。

 そこで作者は観念して、「こんなさびしい幻想から/わたくしははやく浮びあがらなければならない」と自覚します。そして実際に、右横の橙色の数字が示しているように、最初は行頭から「4文字下げ-4」であった内言は、この直前から「3文字下げ-3」に変わり、さらに2つの3文字下げ内言を経て、〈II〉の60行目で「2文字下げ-2」となるまで、徐々に「浮かびあが」っていくのです。
 すなわち、この「文字配置の上昇」は、彼の心の深いところにあった意識が、段々と心の表層近くまで「浮上」してきている様子を、視覚的に表現しているのだと思います。

 この後、37-38行目において作者の内言は、「考へださなければならないことを/わたくしはいたみやつかれから/なるべくおもひださうとしない」と述べて、トシの死について考えようとしない顕在意識(地の文)の姿勢に対して、批判的です。しかしなお顕在意識の方は、「今日の昼すぎ」から重労働をしたことを理由に、「だから睡いのはしかたない」と自己正当化し、抵抗を続けます(40-45行)。

 すると、ここに至って唐突に、作者の内言に、「おゝおまへ せわしいみちづれよ(オー ヅウ アイリーガー ゲゼルレ)/どうかここから急いで去らないでくれ(アイレドツホ ニヒト フォン デヤ ステルレ)」というドイツ語の詩句が、闖入してきます(46-47行)。
 これは、当時の旧制高校等で使われていた『独文読本』に収められている ‘Des Wassers Rundreise’ という作者未詳の詩の一節です(「水めぐりの歌」参照)。ここで賢治の内奥の意識は、暗黙のうちにトシを「せわしいみちづれ」と見立てて、「どうかここから急いで去らないでくれ」と、痛切にも呼びかけるのです。
 すなわちここにおいて、それまで抑圧されていた死んだ妹のイメージが、象徴的な置き換えを受けた形ながらも、初めて現れたのです。

 そして次の48行目に、これも作品中で初めて、「二重括弧」でくくられた言葉が登場します。
 この二重括弧の内容は、先ほど内言で現れたドイツ語の詩句を揶揄するもので、《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》と、まるでいじめっ子がはやし立てるような言い方をしています。
 ここまで作品を読んできた者も、この子供じみた物言いはいったい何なんだと思うでしょうが、やはり内言も、「いきなりそんな悪い叫びを/投げつけるのはいつたいたれだ」と憤慨しています。
 それにしても、この言葉を発した者は、実のところ「いつたいたれ」だったのでしょうか?

 まず、その言葉がわざわざ《 》という二重括弧でくくられていることは、これが「地の文」を成している作者の顕在意識とも、一重括弧で囲まれた「内言」とも、異なった「出所」を持つことを示しています。
 それでは、これは「一重括弧」とはまた別の所から来た「内言」なのでしょうか。
 否、これは「内言」ではありません。これが内言の一種でないことは、一重括弧の内言がその正体を知らずに、「いつたいたれだ」と言っていることによって示されています。
 例えば昼食のメニューを迷っている時に、「いや、ラーメンが食べたい」という言葉が不意に心に出現したとしても、その言葉の出所が「自分の心の一部」であることは、本人は常に分かっています。「内言」というものは、その人が「自己」と感じる領域の内部から、つまり「自我境界」の内側から、やって来るのです。
 これに対して、一重括弧の内言は、《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》という言葉がどこから発せられたのか、その出所を知りませんでした。つまり二重括弧の言葉は、「自己」と感じられる領域の外側から、やって来ているのです。
 自己の外側から、つまり自己にとっては「他者」に由来するものとして、何らかの「言葉」が到来する時、それは主体にとっては、「幻聴」として体験されます。
 すなわち、この作品において、二重括弧内の言葉は、「幻聴」を表しているのです。

 これを図示してみると、次のようになります。
 まず下の図は、「自己」の内部で対話が行われている、通常の「内言」を表しています。

通常の内言

 「顕在意識」も「潜在意識A」も「潜在意識B」も、いずれも「自我境界」の内側にあって、それぞれが「自分」であることを自覚しつつ、相互にコミュニケーションを行っています。これは例えば先に挙げた例で、昼食のメニューをめぐって、「カレーがいい」「ラーメンが食べたい」などと、自分の中で相互に会話をしている時の様子です。

 これに対して「青森挽歌」における、「地の文」と、一重括弧と、二重括弧との関係は、下図のようになっています。

「青森挽歌」における内言と幻聴

 「地の文」を成す「顕在意識」と、一重括弧を成すファンタジックな潜在意識は、「自我境界」の内側にあります。このため、一重括弧の主体も、自らを「顕在意識」と同じ「わたくし」として自覚しています(38行目)。
 これに対して、二重括弧を成す潜在意識は、上図のように「自我境界」の外側に位置しています。これは実際には、自分の脳内の神経活動の一部なのですが、自我境界の外であるために、顕在意識にとっては、あたかも「自己の外」から来たように感じてしまうのです。
 したがって、二重括弧の言葉を受けた一重括弧の主体は、それがどこから出現したのかが分からずに、「いきなりそんな悪い叫びを/投げつけるのはいつたいたれだ」と驚いたのです。そして、このような「正体不明」の言葉の到来を、主体は「幻聴」として体験するのです。

 賢治という人は、しばしば幻聴を体験したようです。多くの人はあまり経験しないようなこのような現象を、賢治がしばしば体験した理由は、おそらく賢治の「自我境界」が、伸縮自在の柔軟な性質を持っていたからだと、私は考えています。だから賢治は一方で、自己が世界と一体化するような感覚を持ったり、逆に自己が消滅するような感じに襲われたりすることがあったのです。
 賢治がよく幻聴を耳にしたのは、上の図のように、「自我境界」が通常よりも収縮したために、自分の内部で起こっている精神活動が、まるで外部にあるかのように定位されてしまったからだと、解釈することができます。

 あともう一つ、この《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》というフレーズの周辺の構造に関して、注目しておくべきことがあります。
 それは、ここで二重括弧の字句は、一重括弧の中に包み込まれる形で、「入れ子」となって現れているということです。
 この「入れ子構造」が意味するところは、「二重括弧の言葉は、(直接的には)一重括弧の意識によって体験された」ということでしょう。このことが、上の図において「幻聴」は、「二重括弧一重括弧という二者の間の矢印」で表現されていることに対応しています。
 図示されているように、二重括弧の主体は表層からかなり深いところに位置しているために、「地の文」を成している顕在意識は、この時点では直接二重括弧にコンタクトをとることができなかったということかと思われます。

 この二重括弧の意識は、「地の文」を成す顕在意識に対して、とにかく反抗的・挑戦的であり、作品の後半でも、揶揄的・嘲笑的な態度を取りつづけます。
 この登場場面においても、幻聴の形で《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》などと、からかうような文句をぶつけてきたので、一重括弧の意識はいったんは憮然として「いつたいたれだ」と言い返します。
 しかし次の瞬間には、なぜか素直に「けれども尋常一年生だ」と受け容れました。

 この、あっさりとした態度変化の理由は何でしょうか。理屈としては、この時点で日本においては未明の時刻でも、-8時間の時差のあるドイツではまだ宵の口なので、尋常一年生だってぱっちりと起きているということなのでしょう。
 しかし、ここでより本質的なことは、作者はこの〈I〉の終結部分においては、自分の「潜在意識」に対して、とても素直で受容的な態度になっているという特徴だと思います。これが、〈I〉の初めと終わりにおける、注目すべき作者の変化です。
 54行葛藤の末に、ひとまずたどり着いたこの「素直さ」「率直さ」を以て、いよいよ作者は〈II〉以降における、トシの死への思索へと入っていきます・・・。

 以上、「青森挽歌」の〈I〉の部分を順に見てきましたが、もうかなり長くなってしまいましたので、〈II〉以降の続きは、また稿をを改めたいと思います。

 それにしても、様々な精神活動を記述し分けるために、「地の文」と「一重括弧」と「二重括弧」を使い分けるという方法、そして意識が深層から徐々に「浮かびあが」っていく様子を表すために、「字下げ」を徐々に少なくして視覚的にも「浮かびあが」らせるという方法など、賢治がこの作品で行っている細やかな表現には、感嘆させられます。
 このような独自の精緻な「工夫」こそ、後に彼が岩波茂雄あて書簡において「わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました」と書いたところの、「科学的」という言葉の意味だったのかと思います。

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2014年9月15日 延暦寺賢治忌法要と講演会

 今年も宮澤賢治の命日、9月21日が近づいてきました。

 この日、花巻では賢治詩碑前で毎年「賢治祭」が行われますが、関西では比叡山にある賢治歌碑の前で、延暦寺の高僧の方々による「賢治忌法要」が営まれます。
 当日の法要およびその関連行事の予定は、下記のとおりです。

受付開始: 10:30 (比叡山延暦寺根本中堂 宮沢賢治歌碑前)
法要: 11:15ー12:00
記念講演会: 13:00ー14:30 (延暦寺会館)
  演者: 浜垣 誠司
  演題: 統合し制御する精神と解離し浸透する精神
          ― 宮沢賢治の心性の特徴について ―

 賢治の命日に、このような大切な場所でお話をさせていただくことになるとは、私としてもまたとない光栄です。
 実は、「関西宮澤賢治の会」の会長さんからは、5年ほど前に講演のお話をいただいていたのですが、9月21日が休日になる日でないと参加が難しい個人的事情があり、急いでカレンダーを調べた結果、2014年は日曜になっているということで、この年にお願いしていました。
 まだまだ先のことと思っていたのですが、ついに今年になってしまいました。

 当日は、概ね下記のようなお話をさせていただく予定にしております。

統合し制御する精神と解離し浸透する精神
             ― 宮沢賢治の心性の特徴について ―
1.震災の夜に思ったこと
   「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福は
    あり得ない」の本当の意味とは
   その本質は、自己と世界との直接的な一体感
     = ロマン・ロランの言う「大洋感情」
     ← フロイトは「自我境界の消滅」と解釈
2.賢治の心性の特徴 ― 稀薄・曖昧な自我境界
   詩的霊感の源泉として
   倫理的・宗教的基盤として
   自己の消滅
   外的現実と内的心象の同一視
3.解離という視点
   解離とは:
   自我境界の稀薄化・曖昧化も、解離の一形態である
   賢治の作品・書簡に見る種々の解離症状
   「青森挽歌」に見る解離性幻聴と複数の主体
4.賢治の解離傾性の高さ
   「静座法」エピソードに見る「催眠感受性」の高さ
   それはおそらく天性の素質
5.二方向の精神
     統合的 ⇔ 解離的
     動物的 ⇔ 植物的
     能動的 ⇔ 受動的
     支配的 ⇔ 適応的
     対象変革的 ⇔ 自己変容的
     自力的 ⇔ 他力的
     指示的 ⇔ 受容的
     教化的 ⇔ 共感的
     一元的 ⇔ 多元的
     求心的 ⇔ 遠心的
     凝集的 ⇔ 浸透的
     中央集権的 ⇔ 地方分権的
     自己保存的 ⇔ 自己裂開的
     即自的 ⇔ 脱自的

「根本中堂」歌碑

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2014年8月31日 線路脇の豆畑

 『春と修羅』所収の「電車」は、まるでミュージカルか何かのように、「豆ばたけ」の中を疾走します。列車に揺られるうちに思わず舞い上がって、ほとんど歌い出すかのようなその調子には、「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」や、「岩手軽便鉄道の一月」にも通じるようなノリがあります。

    電車

トンネルヘはいるのでつけた電燈ぢやないのです
車掌がほんのおもしろまぎれにつけたのです
こんな豆ばたけの風のなかで

 なあに、山火事でござんせう
 なあに、山火事でござんせう
 あんまり大きござんすから
 はてな、向ふの光るあれは雲ですな
 木きつてゐますな
 いゝえ、やつぱり山火事でござんせう

おい、きさま
日本の萓の野原をゆくビクトルカランザの配下
帽子が風にとられるぞ
こんどは青い稗(ひえ)を行く貧弱カランザの末輩
きさまの馬はもう汗でぬれてゐる

 3行目に「こんな豆ばたけの風のなかで」として周囲の景色が出てきますが、最後から2行目には、「今度は青い稗を行く…」との言葉があり、電車は豆の次には稗の畑に差しかかったようです。

 また、同じく『春と修羅』所収の「」でも、8行目に「山を下る電車の奔り」とあるように、作者賢治は電車に乗っています。

    昴

沈んだ月夜の楊の木の梢に
二つの星が逆さまにかかる
  (昴がそらでさう云つてゐる)
オリオンの幻怪と青い電燈
また農婦のよろこびの
たくましくも赤い頬
風は吹く吹く、松は一本立ち
山を下る電車の奔り
もし車の外に立つたらはねとばされる
山へ行つて木をきつたものは
どうしても帰るときは肩身がせまい
  (ああもろもろの徳は善逝(スガタ)から来て
   そしてスガタにいたるのです)
腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ
この籠で今朝鶏を持つて行つたのに
それが売れてこんどは持つて戻らないのか
そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
市民諸君よ
おおきやうだい、これはおまへの感情だな
市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
見たまへこの電車だつて
軌道から青い火花をあげ
もう蝎かドラゴかもわからず
一心に走つてゐるのだ
  (豆ばたけのその喪神のあざやかさ)
どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝(スガタ)から来て善逝(スガタ)に至る

 中ほどに出てくる「東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ」との言葉は、半月前の関東大震災を指していて、こちらの作品にはどことなく死の予感が漂っています。
 周囲の情景に注目すると、17行目には「そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ」とあるように「そば畑」を通った後、27行目には「(豆ばたけのその喪神のあざやかさ)」という一節があり、ここで電車は再び「豆ばたけ」を走っているのです。

 「電車」のスケッチ日付は1922年8月17日、「」は1923年9月16日ですから、この時期に花巻で「電車」と言えば、1915年に西公園―松原間で開業し、1918年には志度平温泉まで延伸した、花巻電鉄「軌道線」のことです。町から花巻温泉の方へ行く「鉄道線」の開業は1925年のことですから、この時はまだできていません。
 「」には、「貨物電車」という言葉も出てきて、いったいどんなものだったんだろうと興味が湧きますが、「花巻電鉄の貨車」(地方私鉄 1960年代の回想)というページを見ると、花巻電鉄で走っていた様々な貨車の写真を目にすることができます。JRの大きな貨車のイメージからすると、おもちゃのように小さくて可愛い「箱」で、これが電車の後ろに繋がれて走っていく様には、何か「けなげ」さも感じてしまいます。
 そもそも、この電車(と馬車軌道)が結ぶ鉛温泉の奥には、硫黄を産出する鶯沢鉱山などがあったので、当時は貨物輸送もかなりの需要があったのだということです。

 『定本 宮澤賢治語彙辞典』によれば、賢治の作品中で「豆と出てきたら大豆のことと考えてよい」(p.683)ということですので、この「豆ばたけ」は、大豆の畑のことなのでしょう。「電車」が書かれた8月中旬は大豆の開花時期、「」が書かれた9月中旬は、枝豆としての収穫時期に当たります。
 どちらの作品も、大豆の葉や莢の青々と繁る色彩を感じさせ、とりわけ「」では、夜の闇の中で電燈に照らされる鮮やかさが印象的です。

 さて、賢治が電車に乗りつつ、その車窓から眺めた「豆ばたけ」というのは、はたしてどのあたりにあったのだろうとぼんやりと考えていましたら、91年前の今日、1923年8月31日に書かれた「雲とはんのき」という作品にも、「豆畑」が出てくることに気づきました。

    雲とはんのき

雲は羊毛とちぢれ
黒緑赤楊(はん)のモザイツク
またなかぞらには氷片の雲がうかび
すすきはきらつと光つて過ぎる
  《北ぞらのちぢれ羊から
   おれの崇敬は照り返され
   天の海と窓の日おほひ
   おれの崇敬は照り返され》
沼はきれいに鉋をかけられ
朧ろな秋の水ゾルと
つめたくぬるぬるした蓴菜とから組成され
ゆふべ一晩の雨でできた
陶庵だか東庵だかの蒔絵の
精製された水銀の川です
アマルガムにさへならなかつたら
銀の水車でもまはしていい
無細工な銀の水車でもまはしていい
   (赤紙をはられた火薬車だ
    あたまの奥ではもうまつ白に爆発してゐる)
無細工の銀の水車でもまはすがいい
カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの
感官のさびしい盈虚のなかで
貨物車輪の裏の秋の明るさ
  (ひのきのひらめく六月に
   おまへが刻んだその線は
   やがてどんな重荷になつて
   おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
 手宮文字です 手宮文字です
こんなにそらがくもつて来て
山も大へん尖つて青くくらくなり
豆畑だつてほんたうにかなしいのに
わづかにその山稜と雲との間には
あやしい光の微塵にみちた
幻惑の天がのぞき
またそのなかにはかがやきまばゆい積雲の一列が
こころも遠くならんでゐる
これら葬送行進曲の層雲の底
鳥もわたらない清澄(せいたう)な空間を
わたくしはたつたひとり
つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら
一挺のかなづちを持つて
南の方へ石灰岩のいい層を
さがしに行かなければなりません

 これは、「オホーツク挽歌」の旅から帰ってきてまだ間もない頃の作品で、最後の方の「これら葬送行進曲の層雲の底/鳥もわたらない清澄な空間を…」というあたりは、まさに挽歌の残照を感じさせます。作品全体に、透明な孤独感が漂っていますね。そしてこの作品の最後から13行目に、「豆畑だつてほんたうにかなしいのに…」という言葉が出てくるのです。
 それでもう少し気をつけてテキストを追ってみると、その「豆畑」の8行上に、「貨物車輪」という言葉があるのに気がつきます。これは、どこの鉄道の貨物車輪なのでしょうか。
 そしてまた「貨物車」があるとなると、さらにその5行上にある「赤紙をはられた火薬車だ」という言葉の意味が、明確になります。きっとこの貨物車は火薬を積んでいるので、危険物を載せていることを表示するために、当時の「火薬類鉄道運送規程(『銃砲火薬類取締法令通義』p.246)」に従って、「赤紙」が貼られているのです。

○火藥類鐵道運送規程(1915年改正)
第十六條 火藥類積載ノ貨車ノ兩側面ニハ見易キ位置ニ白地ニ火藥ト朱記シタル標札ヲ附スヘシ

 この「白地ニ火藥ト朱記シタル標札」のことを、賢治は「赤紙」と呼んでいるのでしょう。
 となると、この貨車は先に見たような、花巻電鉄軌道線のものだった可能性が、がぜん高まります。既に述べたように、この軌道線の奥には鶯沢鉱山があり、採鉱のためには大量の火薬を必要としたはずだからです。

 つまり、この「雲とはんのき」において作者は花巻電鉄の車両には乗っておらず、外から貨車の通過を眺めているようですが、そこはやはり「豆畑」のある場所だというところが、「電車」「」と共通しているのです。
 となると、この作品舞台がどこだったのか、ますます何としても知りたくなってしまいます。

 そこで今度は、上の作品中に出てくる「沼」に着目してみましょう。「沼はきれいに鉋をかけられ/朧ろな秋の水ゾルと/つめたくぬるぬるした蓴菜とから組成され…」という箇所です。
 この沼は、水面が「鉋をかけられ」たように滑らかで、蓴菜もあるようですから水は澄んでいるのでしょう。

 ここで、「水銀」「沼」という言葉からふと連想したのが、『春と修羅 第二集』の「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」という作品です。

一〇六
                    一九二四、五、一八、
日はトパースのかけらをそゝぎ
雲は酸敗してつめたくこごえ
ひばりの群はそらいちめんに浮沈する
    (おまへはなぜ立ってゐるか
     立ってゐてはいけない
     沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる)
一本の緑天蚕絨の杉の古木が
南の風にこごった枝をゆすぶれば
ほのかに白い昼の蛾は
そのたよリない気岸の線を
さびしくぐらぐら漂流する
    (水は水銀で
     風はかむばしいかほりを持ってくると
     さういふ型の考へ方も
     やっぱり鬼神の範疇である)
アイヌはいつか向ふへうつり
蛾はいま岸の水ばせうの芽をわたってゐる

 この作品でも、12行目で「沼」の水が「水銀」に喩えられているところが、「雲とはんのき」と共通しているのです。「下書稿(二)」では、水面は「鏡の面」と表現されており、やはりとても滑らかだったのでしょう。

 さて、こちらの作品の舞台に関しては、木村東吉氏が『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』の中で、次のように推定しておられます。

作品の舞台は花巻の西の郊外、才ノ神・熊堂付近が想定される。下書稿(一)にも「花巻一方里のあひだに云々」とあり、手入形に「沼はむかしのアイヌのもので/岸では鏃も石斧もとれる」とある。熊堂付近のアイヌ塚の存在は早くから知られており、出土品の一部は今も魔王塚に近い熊野神社の展示室に飾られている。下書稿(一)にある赤い石の塚についても、才ノ神部落の平賀静男氏宅裏の祠に赤煉瓦色の石塚がまつられているものが確認される。したがって作者は、北海道白老のアイヌ・コタンを訪ねる旅に出ることを考えながらアイヌ塚付近を歩いていて、豊沢川に沿って多数あったという沼の水面に、アイヌの幻を捉えたわけである。(p.180-181)

 上記の、「作者は、北海道白老のアイヌ・コタンを訪ねる旅に出ることを考えながらアイヌ塚付近を歩いていて…」という箇所の意味は、この「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」がスケッチされた1924年5月18日の午後10時に、賢治は花巻農学校の生徒を引率して北海道修学旅行に出発したことを指しています。
 木村氏の言う「豊沢川に沿って多数あったという沼」のいずれかが、作品の舞台だったというわけですね。

 実は私は、2009年にこの熊堂古墳群のある熊野神社を訪ね、そこに今は一つだけある「沼」を見てきました。
 Googleマップではこの沼は、熊野神社の南に「ひょうたん」のような形で見ることができます。

 下の写真が、私が訪ねた時の「沼」の様子です。

熊堂古墳の沼

 作品から何となく想像していたのよりは小さな沼でしたが、水はきれいに透きとおっていました。右下には鯉もいます。
 ここのあたりで、江戸時代後半、明治30年代、さらに大正年間に、たくさんの副葬品が発見されて、「蝦夷塚」「アイヌ塚」と呼ばれるようになりました。1986年から行われた発掘調査では、熊野神社境内に7基、神社西側に9基の古墳が確認され、現在は下のような形で保存されています。

熊堂古墳群

 境内には上のような墳丘があちこちにあり、各々直径10m、高さ1m程度の土饅頭になっていて、一部には写真のように小さな川原石で築かれた石室もあります。それにしても、こんなに身近に、直接触れることさえできる形で「古墳」を体験できるとは、関西ではちょっとないことで、この「熊堂古墳群」というのは、観光的にもお勧めのスポットではないかと思います。
 木村東吉氏が指摘するように、賢治ももちろんこの遺跡については知っていたはずですし、それが「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」の中に、幻の「アイヌ」の姿を登場させることにもつながっているのでしょう。

 そこで、この古墳群のある熊野神社の場所を、あらためて考え直してみると、実はここはまさに、花巻電鉄軌道線の「熊野」の停車場があったところなのです。
 下の写真は、熊野神社を東から見たところですが、右端奥へと続く広い道路が県道12号線で、その昔にはこの道に敷設された軌道を、電車が走っていたのです。

熊野神社と県道12号線

 つまり、「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」に登場する沼と、「雲とはんのき」に登場する沼とは、どちらも「花巻電鉄沿線の水銀のような沼」ということで、実は同一の場所だったのではないでしょうか。

 こう考えてみることによって、何となく腑に落ちる点が二つあります。

 一つは、「雲とはんのき」の中に出てくる、「手宮文字です 手宮文字です」という一節の背景です。
 「手宮文字」というのは、1866年に小樽の手宮洞窟で発見された彫刻で、明治から大正時代にかけては古代の文字と考えられ、「アイヌ文字」とも呼ばれていました。その後、これは「陰刻画」であって、「文字」として意味を伝えるものではなかったというのが定説となりましたが、賢治が「雲とはんのき」において「アイヌ塚」に来ていたとすれば、当時はアイヌの文字とも考えられていた「手宮文字」がそこに登場するのも、ごく自然なことになります。

 もう一つは、賢治が1924年の北海道修学旅行直前にこの場所に来て「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」を書いたことと、1923年の「オホーツク挽歌」の北海道旅行の後にもこの場所に来て「雲とはんのき」を書いていたこととの対応です。
 1923年8月11日、賢治は「噴火湾(ノクターン)」の中ほどで、妹トシへの'Funeral march'(=葬送行進曲)を耳にしましたが、その20日後の「雲とはんのき」においても、やはり「葬送行進曲」を感じています。北海道から帰った賢治が、この時「アイヌ塚」を訪れたのは意図的ではなかったのかもしれませんが、ここで彼は、自らの北海道における体験を、不思議にも甦らせてくれるものを感じたのではないでしょうか。
 そして翌1924年5月18日、北海道へ旅立つ当日の昼間に、おそらく慌ただしい合間を縫って、賢治は再びこの場所を訪れるのです。各所でしばしば「地霊」の声を聴くことのあった彼ですから、北海道へ行く直前にわざわざ「アイヌ塚」に来たことに関しては、意図的な何かを感じざるをえません。
 たとえば、はるか昔にはこの地にも居住していたアイヌの神に、北海道における生徒たちの無事を祈ったのではないか・・・、などということも想像します。


 というわけで、はっきりとした証拠がある話ではありませんが、『春と修羅』から『春と修羅 第二集』にかけて、電車、豆畑、沼、という舞台装置を持つ4つの作品を辿っていくと、何かが浮かび上がってくるような気がしたのでした。

熊堂古墳の沼

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2014年8月24日 かなしみはちからに…

書簡165
保阪嘉内あて書簡165
(山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』より)

かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは
智慧にみちびかるべし。

 この言葉は、1920年(大正9年)6月〜7月頃の投函と推定されている保阪嘉内あて書簡165の上欄外に、90度方向を変えて書かれているものです。
 この時、嘉内は志願兵として東京で入営中、賢治は5月に盛岡高等農林学校の研究生を修了して、なすすべもなく花巻の実家で質屋の店番をする毎日でした。

 書簡そのものの内容としては、下記のように最近の自分は「毎日ブリブリ憤ってばかり」いるということを書き連ねていて、この「いかり」をどう扱ったらよいのかということから、欄外の言葉へと関連してくるのでしょう。本文の進行とパラレルに、上部にもう一つの想念が配置されてポリフォニーを奏でているところは、後の「習作」という作品の構造も連想させます。

(前略)突然ですが、私なんかこのごろは毎日ブリブリ憤ってばかりゐます。何もしやくにさわる筈がさっぱりないのですがどうした訳やら人のぼんやりした顔を見ると、「えゝぐづぐづするない。」いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふのを思ひ出しながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります。いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。(後略)

 このような精神状態に対して、「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」という命題が提示されるわけですが、それにしてもこれは、非常に意味深く感じられ、また端正な響きのある言葉ですね。
 以前からある程度は注目されていた言葉なのでしょうが、2011年の大震災の直後に、齋藤孝さんがその一部をタイトルにして、『かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば』という本を出されてから、また一段と多くの人々に知られるようになったと思います。
 このあたりの拡散力は、『声に出して読みたい日本語』シリーズ以来際立っている齋藤孝さんの「ことば」に対するセンスや、その人気にも支えられている部分が大きいのでしょう。

かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば
齋藤 孝

朝日新聞出版 2011-06-17
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 しかしこの「かなしみはちからに…」の広まり具合を少し詳しく見てみると、宮澤賢治の童話や詩が好きで読んできたという従来の一般的読者にとっては、書簡の片隅にあるこの言葉は、作品テキストほどには親しまれておらず、むしろ賢治にかぎらず「名言集」というものを好んでおられるような層の間で、これはよりポピュラーになっているのかとも思います。
 ネット検索から垣間見た、この言葉の流通状況から受ける印象として、そんな感じを持ちました。

 ところで、この言葉に関して一つ気になるのは、これははたして賢治のオリジナルなのか、それとも経典か何かにその元となる語句があるのかどうか、ということです。
 当時満23歳だった賢治は、仏典やその他古今東西の書籍には広く親しんでいたとは言え、まだ社会で仕事をした経験はありませんでした。賢治の才能をもってしても、こういう成熟した人間性の表現を独力でなしえたとすれば、それは驚嘆すべきことに思えます。これは一見して思慮深そうな言葉ですが、後に述べるように、その深さはとても一筋縄でとらえられるものではありません。
 「かなしみ」「欲(ほ)り」「いかり」という問題選択や、その「導き方」という設定は、どこかに出典があるのでしょうか。

 すぐに連想するのは、仏教で「三毒」と呼ばれている、「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」という根本的な「三つの煩悩」です。これを問題の言葉と対応させてみると、「欲(ほ)り」が「貪」に、「いかり」が「瞋」に、とこの二つはきちんと当てはまるのですが、「かなしみ」と「癡」とは明らかに別のものですので、単純にこれが由来とは言えません。
 しかし、「〔雨ニモマケズ〕」のテキストと「三毒」との関連を見てみると、「慾ハナク」が「貪」の否定、「決シテ瞋ラズ」が「瞋」の否定、「ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」が「癡」の否定、とこれは登場する順序も含めて、正確にぴたりと対応しますから、「〔雨ニモマケズ〕」を書く際に賢治が「三毒」を意識していたことは明らかです。
 「かなしみ」「欲り」「いかり」という三つの主題を取り上げるにあたり、三つのうち二つを含む「三毒」という概念は、多少ともその発想に影響をあたえていた可能性はあるのでしょうが、それ以上のことは私にはわかりません。
 この言葉の出典について、何かご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示をいただければ幸いです。

 さて、ここで主題となっている「かなしみ」「欲(ほ)り」「いかり」は、いずれも人間にとって「陰性」の感情です。普通は「抱えていると苦しい」これらの情動を、人間はいかに取り扱うべきかということが、この言葉の眼目なのでしょう。
 ここで私としてとても興味深く思うのは、これら陰性の感情にそれぞれ対置されているものが、各々の「対義語」ではない、ということです。

 一般的には、何かが「行き過ぎた」状態にある時に、それをその逆の性質のものによって「中和する」ということは、一つの対処法として有効です。風呂のお湯が熱すぎるので冷たい水を入れて温度を下げるとか、岩手の土壌は酸性に傾いているのでアルカリ性の石灰岩抹を播いて中和する、とかいう方法ですね。
 しかし、「かなしみはちからに・・・」という言葉で示されているのは、このような対処法ではありません。すなわち、「かなしみ」と「ちから」は対義語ではないし、「欲り」と「いつくしみ」も、「いかり」と「智慧」も、それぞれ対立する概念ではありません。

 この言葉によって示されているのは、何か苦しいもの、厄介なものがある場合に、それを「和らげる」とか「鎮める」とかいう形で解決しようとするのではなくて、その苦難自体を、本当の意味で「乗り越える」、あるいは「そこを通り抜けて、新たなより高次の段階へ至ろうとする」という方向性です。
 「悲しみ」の対義語は「喜び」ですが、何か「悲しいこと」がある時に、自分を喜ばせてくれるような「楽しいこと」によって心をまぎらせて、とりあえず苦痛を緩和するというのは、人間が誰しもすることです。多くの場合、苦しみを軽くする方法としてそれが一番手っ取り早いので、好んで採用されますが、しかしその一時的な「喜び」が過ぎ去ると、元の「悲しみ」は、何の変わりもなくそこに存在し続けています。これは、真の意味での解決にはなっていないのです。
 一方、賢治が「かなしみはちからに・・・」という言葉によって示した道筋、すなわち「かなしみ」に対して「ちから」を処方するという方向性は、そうではありません。「かなしみ」から、本当の意味で抜け出そうとするものです。

 私が、この言葉が単に美しく響くだけでなく、一筋縄ではとらえきれない「奥深さ」を持っていると思うのは、まさにこの点によります。それはきれい事ではなくて、人間という存在への十分な理解に基づいた、実践的な叡智です。このように含蓄のある言葉を、学生を終えたばかりで社会人経験もない23歳の「家業見習い」の若者が、ふと友達への手紙に書いたのだとすれば、まさにこいつは「ただ者ではない」と思うのです。
 その「含蓄」の中身にはどのようなものがあるのか、現時点で私が想像する事柄について、以下に順に記してみます。

1.「かなしみ」と「ちから」

 上にも書いたように、「かなしみ」を抱えている人に、その反対物である「よろこび」を与えるという方法は、問題の根本的な解決にはなりません。しかしそれでも、悲しみに沈んでいる人に喜ばせるような贈り物をするとか、被災地の避難所にお笑い芸人が慰問に行って公演をするとかいうことは、それなりに行われますし、無意味とは感じられません。そのことによって、「かなしみ」の原因が取り除かれるということはありませんが、受けとった側も、大抵はそうしてもらってよかったと思うでしょう。
 このような場合、受けとった贈り物や娯楽それ自体によって「かなしみ」が減殺されているのではなくて、「今の自分に対して、こんな優しさや善意を示してくれる人が存在する」というそのことが、かなしみを抱えた人を「力づけて」くれるのではないでしょうか。
 だからこの場合、「かなしみ」に拮抗したのは「よろこび」ではなくて、一緒に与えられた「ちから」だったのではないかと思うのです。

 別の角度から考えてみましょう。
 一般に、人間が「悲しみ」を抱く典型的な場面とは、「身近な人を亡くした」とか、「失恋した」とか、「大切にしていた物が壊れた」とか、何であれ重要な対象の「喪失」という状況です。
 失った対象を、もはや取り戻すことはできません。しかしそれはわかっていても、対象をなおも求め続けようとする欲求を断念し、新たな状況を受け入れて歩み始めるというのは、これもまた容易なことではありません。人はそこで悩み、苦しみますが、このように人間が喪失に直面し、それに対処していくプロセスのことを、フロイトは「悲哀の仕事(Trauerarbeit)」と名づけました(『悲哀とメランコリー』)。
 この「悲哀の仕事」の過程においては、当初は失った対象への断ちがたい思いが渦巻き、恨みや自責の念も錯綜します。しかし人間は、このような感情もあらためて一つ一つ体験し、受けとめ、理解していくことによって、対象と自らの関係について捉え直し、対象が存在しない世界と自分との間に、新たな関わりを築いていくことができるのです。
 「かなしみ」という状態を、避けたりまぎらせたりするべきものとしてでなく、積極的な意味を持った「心の仕事」として遂行するよう位置づけたのが、フロイトの功績の一つでした。そして人間は、たとえどんなに深刻な喪失でも、その「悲哀の仕事」を行うための「ちから」さえ持っていたならば、それをやり遂げることができるのです。

 ですから、「かなしみ」を抱えた人に対して、人がしてあげることができるのは、「ちからづける」ということです。この営みのことを、心理や福祉の領域では、'empowerment'と言います。
 そして、この'empowerment'において実際に起こっている現象は、外から「ちから」を与えるということよりも、そのような人との関わりによって、むしろその人が「自分の中ににあった『ちから』を、あらためて再発見する」ということなのです。

 賢治の、「かなしみはちからにみちびかるべし」という言葉の底には、このような人間の理解があるのだろうと、私は思います。


2.「欲(ほ)り」と「いつくしみ」

 「貪欲」の対義語は、「無欲」です。先ほどの、「過剰な状態を、逆の性質のものによって中和する」という戦略でいくならば、欲が深すぎる人に対しては、そのような煩悩を離れて「無欲」になることを説いたり、「禁欲」や「我慢」を勧めるということになるかと思います。
 しかしこれは、やらないよりは少しましかもしれませんが、やはり誰しも予想ができるように、さほど画期的な効果は期待できないでしょう。
 それではどうしたらよいのでしょうか。

 欲望の対象には様々なものがありえますが、そのあまりにも過剰な状態=ひりひりと灼けつくような渇望に常に苛まれている状態において問題なのは、個々の欲望の対象ではなくて、その人の中でどうしても埋めようのない、深刻な空虚感・欠落感なのだとも言えます。
 この空虚・欠落を、人は何とかして物質的に満たそうと、その代わりとなる物を飽くことなく求め続けますが、結局は代替物で埋めることはできません。目の前の欲望を達成した瞬間に、また渇きは始まります。
 しかし本当に重要なのは、その人の奥底にある空虚感・欠落感なのです。

 たとえば、食べることへの欲求が抑えられず非常に大量のものを食べずにはいられないような状態として、「過食症」という病気があります。過食症の原因には、ケースバイケースで様々な要因が関与しているので、一概に単純化して議論することはできないのですが、一つの説として、その人の中の「愛情飢餓」という問題が関与しているという考えがあります(例えば、黒川昭登・上田三枝子著『摂食障害の心理治療―愛情飢餓の克服』)。
 このような場合には、自分が尊重されていると感じられる対人関係、心から信頼できると思える人とのつながりを体験することが、過食からの回復のために、大きな作用を果たすと言われています。
 ここにおいて力となっているのが、人と人との間で受けとる「いつくしみ」の体験なのではないかと思うのです。

 また、アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症など種々の依存症も、対象への欲求を断ち切れないことに苦悩の根源がありますが、これらの内奥にも、深い空虚感があることがしばしばです。そして、これら依存症の回復においても本質的な力となるのが、断酒会、AA、ダルク、マック、NA、GAなどの「自助グループ」との関わりです。やはりここでも、同じ苦しみを抱えた仲間との間で、真に肯定的な人間関係を経験することが、目に見えない働きをしてくれるのだと思われます。
 ここにおいても、その人間関係の本質を言葉に表せば、「いつくしみ」ということになるのではないかと思います。

 すなわち私としては、賢治が「欲(ほ)りはいつくしみにみちびかるべし」と言っていることの本当の意味は、ここにあるのではないかと思うのです。


3.「いかり」と「智慧」

 「怒り」の対義語は何でしょうか。辞書やネット検索で調べてみても、わかりません。
 ただ、生物学には、'Fight or Flight response'という言葉があり、動物は危険な相手に遭遇した時、極度の緊張下で、「闘うか、逃げるか」という両極端の判断を迫られます。「闘う」に対応する情動が「怒り」で、「逃げる」に対応した情動が「恐れ」ですから、「怒り」の対義語は「恐れ」であると言うこともできるでしょう。
 しかし、「怒り」も「恐れ」も、どちらも陰性の感情ですから、「対義語」とするにはもう一つしっくりきません。
 適切な対義語であるためには、それは陽性の感情で、緊張の反対に弛緩した状態であるべきでしょうから、「怒り」の対義語は「安らぎ」であると考えるのがよいのかもしれません。

 ということで、例によって「過剰な状態を、逆の性質のものによって中和する」という戦略でいくならば、「いかり」を抱えている人に対しては、何とかして「やすらぎ」を提供して、頭に上った血を沈めてもらうというのが、一つの対処法だということになるでしょう。
 そして、これは確かに一般的に行われていることではあります。カッカしている人に、「まあ、まあ、まあ・・・」と穏やかに声をかけて、なるべく静かに話を聞く。そして、あまり感情的になるのも「大人げない」ということで、何とか矛先を収めさせようとする・・・。

 しかし、このような対応が時にどこか胡散臭さを含んでいるのは、「いかり」は大抵は真っ当な理由に基づいたものであり、それをただ単に鎮静化して、「なかったこと」にしてしまったのでは、何ら建設的な対策にはならないからです。社会においては、「怒りを抑える」ことこそが善いことのように言われがちですが、それでは本人には鬱憤が溜まりますし、全体としても進歩がありません。

 ちなみに、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、「怒り」について次のように述べています。

然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ怒る人は、賞賛される。(岩波文庫版上巻p.155)

 つまり、「適切に怒る」ことが、倫理的に賞賛されるべきことだというのです。アリストテレスによれば、いつも怒りを抑えてばかりいるのは「意気地なし」で、上に述べたような「適切な怒り」こそが、彼が推奨した「中庸」にあたるというのです。
 となると、ここで最も重要になるのが、「然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ」という、怒りの表現の「適切さ」の判断です。
 そしてここで、その大切な「判断」の役割を担うのが、「智慧」だということになるでしょう。

 すなわち、「いかりは智慧にみちびかるべし」という賢治の言葉の真意は、ここにあるのだと私は思います。

 ということで、「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」という、宮澤賢治のものと思われる言葉の中には、少なくとも上記のような含意があるのではないかと、私には思えるのです。
 これは、響きとしても美しいので、「名言集」などに収めるにはぴったりですが、いわゆる「美辞麗句」にはとても収まるものではなく、すぐれて「実践的」な言葉だと感じます。
 机上の思弁のみからひねり出せるものではないと思いますので、ですから「学生を終えたばかりで社会人経験もない23歳の家業見習いの若者」のペン先からふと生まれたとすれば、やはりその若者はただ者ではなかったのだな、と思う次第です。

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2014年8月21日 東山地区のポラーノの広場

 前回の記事「産業組合のトラウマ?」では、「昭和前期の農村地域における<共同体>の編成とその機能)―産業組合の事例を中心に―」という論文をご紹介し、その中には1935年(昭和10年)に刊行された本に、岩手県の産業組合青年組織が「『演劇部を設け』農村劇を演じることで『農村文化運動』を行った」という記述があることに触れました。
 すなわち、賢治が花巻農学校で実践し、本当は羅須地人協会でもやりたかっただろう「農村演劇」を、彼の没後まだ間もない時期に、岩手県内で実際に行った若者たちがいたというわけです。これは非常に興味を惹かれる話でしたので、今日は国会図書館関西館でちょっと調べてみました。

 この記述の出典は、西尾愛治編『産青聯の活動事例』(成美堂書店,1935)という本で、国会図書館ではすでにデジタルデータ化されているのですが、「館内限定閲覧」になっているのでインターネットで見ることはできず、図書館まで足を運ぶ必要があったわけです。

 で、下の写真が、『産青聯の活動事例』の中で「岩手県における演劇活動」について紹介している箇所です。

『産青聯の活動事例』

 内容を書き起こすと、以下のとおり。

     二、岩手縣産青聯田河津支部の演劇部設置
              依・岩手の盟友第二七號

 最近岩手縣東磐井に於ける田河津支部の活動は最も目覺ましいものがあり、組合員の教育活動も次第に組合員の覺醒を促し其の姿は最近支部の事業に當つて積極的援助となつて現はれ、組合員は着々産業組合に對する認識を高め、かへつて組合員から部落座談會の提唱が擧げられる等、次第に理想の産業組合組織形態に進みつゝあるが、同支部ではこれに力を得、更に支部の陣容を整備刷新する事になり、兼て計畫中の女子部を設置消費經濟を中心として活發な婦人運動を展開する筈であるが又同時に演劇部を設け各部員をそれぞれ決定、農村文化運動の達成に向つて一大烽火を擧げる事となつたが、岩手縣産青聯の中堅として根強い青年運動を續けて行く東磐井各支部の活動に強豪田河津を中心として今や活發な實践の繪卷を展開して來た。

 ということで、岩手県内で演劇活動を始めたという産業組合青年連盟は、東磐井郡の「田河津支部」だったのです。
 この『産青聯の活動事例』という本には、他の産青連で「演劇」を行っているという報告は見当たりませんでしたので、この田河津村では、全国的に見てもかなり早期に、「農民劇」が発足したということでしょう。

 「田河津村(たこうづむら)」は、岩手県南部にあった村で、現在は一関市東山町の一部になっています。

旧東山町

 田河津村の合併の歴史をたどると、1955年(昭和30年)に長坂村と合併して「東山村」に、さらに1958年(昭和33年)にはその東山村と松川村が合併して「東山町」となり、長らくこの状態が続いていましたが、2005年(平成17年)に一関市に吸収合併されました。
 上の地図で水色を付けた部分が、旧「東山町」に属した三つの村です。このあたりは、花巻からはかなり遠く離れていますが、しかし松川村は「東北砕石工場」があった場所、長坂村はその工場長の鈴木東蔵の出身地ということで、賢治との縁は、かなり深い地区です。

 賢治は1931年(昭和6年)に、このあたりに足繁く通ったわけですが、その際に賢治と田河津村の青年との間に何らかの接触があって、それがもしかして後にこの地区に、全国でも先駆的な演劇活動を始めさせる要因になったとすれば、とても胸が躍ることです。
 たとえば、田河津村出身で東北砕石工場の工員となっている青年がいて、たまたま休憩の時などに、賢治が農学校で上演した劇の話や、農民劇を通した農村文化振興の意義について、お茶を飲みながら話を聞いていたとしたら・・・、そして青年がその後、あの先生の言っていた農民劇を村でやってみたいと一念発起したら・・・ということなどを、私はつい想像してみたくなります。
 賢治は、東北砕石工場に来るたびに、タオルや、「唇がくっつくような」上等の米や、小さな布袋に入ったお菓子などのお土産を工員たちのために持参し、工員と一緒にお茶を飲みつついろんな話をしたということです。
 鈴木東蔵の長男の鈴木實氏は、賢治と工員たちの関係について、次のように回想しています。

賢治の帰った後の工場には、賢治を思慕する異様な空気が残っていて、その不思議な存在を私は肌で感じていた。(中略)
賢治が来訪しますと、数日はきまって賢治のまねなどをしながらその話が続きました。賢治と東蔵両者の関係も良好なスタートでしたが、賢治はさらにあのような工員たちにふれ、この人達のためにもと、努力の決意を固めたのではないでしょうか。貞治(引用者注:東蔵の叔父)がよく命をうけて花巻に行きますと、賢治は「工場が困るから、工場が困るから」といつも工場のことを心配していたと語っていました。これがまた工員たちに伝わり、賢治と工員たちの心は一体となっていきました。(鈴木實『宮澤賢治と東山』より)

 ひょっとして、このような賢治と工員たちとの暖かい交流によって偶然にも播かれた種が、賢治の没後に芽を吹いていたのだったら、どんなに素晴らしいことでしょうか。

 まあ、こんな勝手な空想の真偽については、今となっては確かめようもありませんが、元来この東山町というところは、青年の文化的活動は昔から盛んな土地だったようです。
 鈴木東蔵が長坂村役場の書記時代には、青年たちを集めて「演芸発表会」を行っていたということですし、その著書『理想郷の創造』には次のような一節があり、「音楽や演劇」を若者に推奨しています。

娯楽と教化を同時に与えるような音楽や演劇は楽しんでいるうちに、知識を広め、趣味を高め、品性を陶冶する効果は計り知れない。(中略)精神的に娯楽を得ている住民は、終日の労働で疲労している身体も、別天地に遊べれば、翌日また元気が回復して大いに働けるようになる。(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』より)

 一方、その長男の鈴木實氏は戦後まもない時期に、青年たちとともに賢治の作品を読む学習会を長坂村で行い、この青年の集まりが発展する形で、1948年に賢治の「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ碑が、村に建てられることになりました。
 これが、谷川徹三揮毫による、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」の碑です。賢治の碑としては、その元祖たる花巻の「雨ニモマケズ」詩碑に次いで、全国で二番目にできたものでした。
 鈴木實氏と青年たちが、賢治の作品の中で最も深い共感を寄せたのが「ポラーノの広場」であったというのも、産業組合的な青年組織を象徴するものとして、示唆的です。

 結局、田河津村と賢治との間の、具体的なつながりの有無はわからないのですが、賢治の死後もこのあたりの土地には、その縁がずっと息づいていたことだけは確かです。

賢治碑除幕式記念撮影
賢治碑除幕式記念撮影
(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』より)

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2014年8月14日 産業組合のトラウマ?

 「産業組合」とは、1900年に公布された「産業組合法」に基づいた種々の生産者の組合ですが、その中で最も重要な役割を果たしたのは、農民によって組織され、その構成員の生産や経済活動を支えた、「農村産業組合」でした。
 産業組合の活動形態としては、組合員の出資や貯蓄をもとに低利の貸付を行う「信用組合」、原料や日用品の共同購入を行う「購買組合」、生産物を集めて消費者に直接売る「販売組合」、個人では購入できない大規模な農業機械などを組合員で共同利用する「利用組合」という、四種類がありました。
 賢治の「ポラーノの広場」の最終場面では、ファゼーロたち農民が、ハムや皮製品や醋酸やオートミールなどを自分たちの工場で共同生産し、それをモリーオ市やセンダード市など都市部の消費者に広く販売するという、見事な産業組合を作り上げた様子が描かれます。上の分類で言えば、少なくとも「購買組合」と組合立工場、それに「販売組合」とが、有機的に連動して機能していたわけです。
 「ポラーノの広場」という物語全体を振り返ってみれば、農民たちが「山猫博士」を追い払った後に協力して組合を作り、輝かしい成果を挙げたわけですから、賢治が「広場」という概念に象徴的に込めたもの=その理想の結実こそ、この「産業組合」という組織だったと言うこともできます。

 このように賢治も、農村における産業組合の活動には、心情的にとても期待をかけていた節が読みとれるわけですが、彼自身の実践においては、農学校教師時代も、教師を辞めて農耕生活に入ってからも、産業組合活動に何か積極的な関わりを持ったという記録は、全く残っていないのです。
 私にとってはこれは不思議なことで、農業や地質に関する賢治の知識経験や、(元)農学校教師という肩書きを持ってすれば、花巻近郊農村の産業組合の「顧問」的な役割を担うことは十分可能だったはずですし、またそうした方が、個人的に無料肥料設計だけをしているよりも、より多くの農民に働きかけ、より効率的に知識を伝えることができたはずだと思うのです。

 ちなみに下画像は、1925年(大正14年)の『産業組合現勢調査』から、当時の稗貫郡、紫波郡において組織されていた、産業組合のリストです。

『産業組合現勢調査』

 賢治が農事講演や肥料設計などでよく足を運んでいた、湯本村、好地村、大迫村、太田村、矢沢村、湯口村にも、それぞれ産業組合があり、たくさんの組合員(表の右端の数字)を擁していたのです。どうして賢治とこれらの組合との間に、実践的な連携が生まれなかったのだろう・・・というのが、私が前回も記した疑問です。

 この謎の答えは、私にはまだわからないのですが、今日は現時点で私が感じているところを書いてみます。
 ところでさっきは、賢治が「産業組合活動に何か積極的な関わりを持ったという記録は、全く残っていない」と書きましたが、実はこれはちょっと言いすぎでした。農学校教師時代に書いた詩に「産業組合青年会」と題されたものがあり、そのタイトルから想像するには、ここで賢治は産業組合の青年会とは、「何らかの」接点は持った可能性が大きいのです。

 ということで、目ざすところは「産業組合青年会」という詩の内容について考えてみることです。その検討に入る前に、まず当時の「産業組合」の青年組織というものについて一般的な理解をしておくために、下記の一つの研究文献を参照してみます。

 河内聡子氏による「昭和前期の農村地域における<共同体>の編成とその機能)―産業組合の事例を中心に―」という論文は、昭和前期における産業組合の青年組織や婦人組織の活発な運動を通して、農村共同体がどのように変化・発展していったかを跡づけたものですが、そこでは、「産業組合青年連盟(産青連)」という組織の活動が、最も注目されています。
 「産業組合青年連盟」とは、産業組合に所属する青年たちの組織の連合体で、1925年(大正14年)に長野県小県郡で結成された「新光会」をその嚆矢とし、1932年(昭和7年)には、「府県単位のものだけで18、盟友1万2千余、府県以下の単位のものも加えれば2万以上」(上記論文p.128)という拡大を遂げます。中でも、その活動内容として注目すべき点は、彼らが農村に文化を根づかせることに、特に力を注いでいたということです。
 上記論文p.131には、1930年の長野県の産青連第1回大会における「農村文化建設運動」の、以下のような決議が引用されています。

 最近我国の農村には陰惨な影が漂つてゐる。農村青年男女も明るい生気を失つてゐる感が深い。我等は先づ第一に農村からこの暗さと無気力とを除かなくてはならない。之が為めには勿論農村の経済的向上を図らなくてはならないが、それにも増して必要なことは、農村に新興の気力を植付けることである。農村に若き精神文化を建設することである。我等の誇るべき郷土たらしむる為に必要なる文化的施設を完備せしむる為に先づ左記事項の実現を期すること。
  1. 図書館、巡回文庫の充実を図ること。
  2. 農民美術方面の事業に進出すること。
  3. 民謡、舞踊、演劇、映画等農村娯楽方面の研究改善を
    図ること。
  4. 祝祭日、記念日には全村的和楽の施設を為すこと。

 これはまさに、賢治の『農民芸術概論綱要』を具現化しようとするかのような計画ですね。とくに 3.には、賢治が重視した「演劇」も盛り込まれています。
 そして実際に、同じページの上の方には、「岩手県では『演劇部を設け』農村劇を演じることで『農村文化運動』を行ったという(『産青連の活動事例』)」という記述も引用されていて、この箇所は大いに気になります。『産青連の活動事例』という本は、1935年(昭和10年)すなわち賢治没の2年後に刊行されていますが、これははたして岩手県のどこの産業組合の、どのような実践だったのでしょうか。こういう全国的な「活動事例」で報告されるということは、国内でも先駆的な活動だったのでしょうが、岩手県で「演劇部」が設けられ「農村劇」が演じられたというのは、ひょっとして賢治が蒔いた種が、どこかで芽を吹いたのでしょうか。
 また、産業組合の青年組織が活動を開始したのは、上記のように1925年(大正14年)が全国的にも最初とされており、補足として上記論文の注(4)には、

産業組合の内部で青年会が発足された例としては、明治四十一年に鹿児島県で結成された中名郡産業組合青年会がその創始と言われている。しかし、これらの原初的な青年組織は中道にして消滅してしまい、産青連として活動が存続しなかった。

と書かれています。となると、賢治が書いた「産業組合青年会」の日付は1924年10月5日ですから、もしもこの時点で実際に「産業組合青年会」が出来ていたとすれば、やはりこれは全国に先駆けた活動だったと言えるのではないでしょうか。
 ちなみに、賢治の「産業組合青年会」の初期の草稿に「こゝはたしか五郎沼の岸だ…」という記述が出てくるところから、作品舞台は現在の紫波町南日詰にある五郎沼の近くだろうと推測されます。上に引用した『産業組合現勢調査』のリストを見ると、この場所に該当するのは、日詰町にあった「紫波信用購買販売利用組合」(大正8年4月30日設立)か、五郎沼のある赤石村にあった「赤石信用販売購買組合」(明治40年8月31日設立)かの、いずれかだったのではないかと推測されます。
 賢治の作品が、全国に先駆けて生まれた産業組合の青年会を描写したものだったとすれば、それはそれで非常に意義深いことと言えるでしょう。

 さて、賢治の詩作品の中でとりわけ難解な印象のあるのがこの「産業組合青年会」ですが、まずその定稿全文を掲げます。

 三一三
  産業組合青年会
               一九二四、一〇、五、

祀られざるも神には神の身土があると
あざけるやうなうつろな声で
さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ
  ……雪をはらんだつめたい雨が
     闇をぴしぴし縫ってゐる……
まことの道は
誰が云ったの行ったの
さういふ風のものでない
祭祀の有無を是非するならば
卑賤の神のその名にさへもふさはぬと
応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ
  ……ときどき遠いわだちの跡で
     水がかすかにひかるのは
     東に畳む夜中の雲の
     わづかに青い燐光による……
部落部落の小組合が
ハムをつくり羊毛を織り医薬を頒ち
村ごとのまたその聯合の大きなものが
山地の肩をひととこ砕いて
石灰岩末の幾千車かを
酸えた野原にそゝいだり
ゴムから靴を鋳たりもしやう
  ……くろく沈んだ並木のはてで
     見えるともない遠くの町が
     ぼんやり赤い火照りをあげる……
しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半
祀られざるも神には神の身土があると
老いて呟くそれは誰だ

 作品に描かれた「事実関係」としては、ここにあるのはごく単純なことです。
 「産業組合青年会」という会合において、誰かが、「祀られざるも神には神の身土がある」と言い、それに応えてまた誰かが、「まことの道は誰が云ったの行ったのさういふ風のものでない/祭祀の有無を是非するならば卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」と言ったという、ただそれだけのことにしかすぎません。
 後に出てくる「部落部落の小組合が・・・ゴムから靴を鋳たりもしやう」の部分は、おそらく作者賢治の心の中の思いですから、会における上の二つの「発言」だけが、現実に起こった出来事なのです。
 ただ問題は、この二つの発言がいったい何のことを言っているのか、非常にわかりにくいというところにあります。

 この「祀られざるも神には神の身土がある」という言葉の解釈を、具体的に提示している先行研究は、私が知っている範囲では数少ないのですが、その数少ない一つの解釈は、これを後半に出てくる大規模な開発計画に対する反論として、理解しようとするものです。
 その「祀られざるも神には神の身土がある」の解釈を私なりに文章化すると、次のようになります。

(山地の肩をひととこ砕いて…などという一方的な自然への操作は、神の領域への侵犯であり、)たとえ祭祀は行われていなくても、自然は神の「身土」として、尊重しなければならない。

 このように解釈すれば、「祀られざるも神には神の身土がある」という言葉と、後半との意味的つながりもわかりやすくなりますし、「自然開発」と「自然保護」という、賢治自身が日頃から抱いていたであろう葛藤とも、関連してきます。
 しかし、この解釈に立ってみると、次の「祭祀の有無を是非するならば/卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」という言葉は、どう理解したらよいのか、という難問に突き当たります。「卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」とは、どうしても神を罵る言葉のように感じられてしまいますが、ここで発言者は、「自然に宿る神など卑しい存在だから、気にせずどんどん開発を行ったらよい」、と言っているのでしょうか。
 たとえ開発推進論者でも、こんなことを言っていては人の共感は得られないでしょうし、「熱誠有為な村々の処士」の発言とも思えません。

 私自身の解釈は、以前も断片的にブログには書いたことがあるものですが、それは、「産業組合青年会」が書かれた1924年10月から2ヵ月前にあたる8月10日・11日に、賢治が花巻農学校の生徒たちと、学校劇を上演していたことを前提としています。その中に、「種山ヶ原の夜」という劇がありましたが、これは楢や樺や柏の樹霊や雷神に扮した生徒と人間の青年とが、舞台上で滑稽なやりとりをするものでした。
 そして、「産業組合青年会」の原型である「草稿的紙葉群」を母体としてまるで一卵性双生児のようにして生まれた「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」という作品があるのですが、その「下書稿(一)手入れ」には、「山地の〕〔?〕舞台の上にうつしたために」という字句がいったん書き込まれているのです。これは、劇「種山ヶ原の夜」の内容を表していると考えざるをえません。さらに、「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の各段階の草稿にも、「祀られざるも神には神の身土がある」という言葉は、繰り返し何度も登場します。
 このような周辺の状況を勘案して、問題の会合における「祀られざるも…」に続く一連のやり取りは、賢治が少し前に学校劇において、「山地の神を舞台の上にうつしたために」引き起こされたのだというのが、私の解釈です。

 以下にそれを文章化してみますが、括弧内は、詩のテキストとはなっていないが話の流れとして、私が推測し補足した部分です。

  1.  (産業組合青年会に招かれた賢治は、作品中に出てくる会話の前に、上記の「学校劇」の紹介をした。そして、産業組合の青年会でも、農民劇を行うことを奨めた。)

  2.  賢治のこの話に対して、次のような発言があった。
     (先生は、自分が学校で劇をやったことを得意げに言っておられるが、樹霊にせよ雷神にせよ、)神社に祀られてはいないものの、神様には神様としての身分()と、おわすべき場所()があるのだ。(それなのに、神様をあんな舞台に上げて笑いものにするとは、神に対する冒涜ではないか。)

  3.  これに対して賢治はやや感情的になり、息巻いて次のように応えた。
     (私は何も自分がやった劇のことを自慢しているのではない。それが素晴らしいことで、皆がやったらいいと思うから言っているだけであり、)本当に正しいことは、誰が云ったか行ったかなどというものではないのだ。
     祭祀の有無に関して言うなら、(あの劇で登場させた神などは、祀られていないのも無理もないような)まさに卑賤な神であり、神という名にさえふさわしくない存在だ。

 当日の話題としては、賢治が産業組合青年会の場で「劇」の話をしたという可能性は、上に紹介した論文にあるように、後に岩手県で実際に産青連活動の一環として農村劇が演じられたという当時の状況からも、十分にありえることだと思います。
 また、「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕(下書稿(一)手入れ」において、「山地の〔神〕〔?〕を/舞台の上に/うつしたために」という字句が、同じ日のスケッチとして登場する理由も、私としてはこのように考える以外には思いつきません。

 発言後半の、「まことの道は・・・卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」が、賢治の言葉であると考える根拠としては、まず「まことの道は/誰が云ったの行ったの/さういふ風のものでない」という言葉は、いかにも賢治がよく言うような言葉です。
 また、前半の「祀られざるも・・・」の部分は、「さう云ったのはいったい誰だ」と続いており、「誰」を問題にしていることから作者自身の言葉でないのは明らかですが、後半の部分は、「応へたものはいったい何だ」と続き、「誰」は問題にせずに、むしろそのように応えた意図や感情を、「何」として問うています。このような対照も、後半の話者が作者自身であることを暗示しているのではないでしょうか。

 なお、後半の発言が賢治のものだとして、彼が「卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」などと、神のことを悪しざまに言うのはちょっと似つかわしくありませんが、この辺の事情については、賢治が森荘已池に語った話が、明らかにしてくれていると思います。
 森荘已池『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)という本の中に、賢治が以下のように学校劇の後日談を語っているところがあります。(以下、同書p.297-298)

『鬼神の中にも、非常にたちのよくない「土神」がありましてねえ。よく村の人などに仇(悪戯とか復讐とかをひっくるめていうことば)をして困りますよ。まるで下等なのがあるんですね』と、云ったのを聞いたのは、宮沢さんがまだ、花巻農学校の先生をしておられたころ、私が盛岡から出かけて行き、宿直に泊まった大正十四年秋の夜の会話であった。そこは校長室で、光った大きいテーブルの上に馬追いが迷い込み、提灯をつけて宮沢さんが夜分わざわざ畑からもぎとって来たトマトが塩と一緒にテーブルの上にあった。ぼんやりした向うの森を窓から指して、「あの森にいる神様なんか、あまりよい神様ではなく、相当下等なんですよ」といったのであった。

――「種山ヶ原」を出し物にした時でしたがねえ、雷神になった生徒が次ぎの日、ほかの生徒のスパイクで足をザックリとやられましてねえ、私もぎょっとしましたよ、偶然とはどうしても考えられませんし、こんなに早く仇をかえさなくてもよかろうになあと、呆れましたねえ。

(中略)「種山ヶ原の夜」の中には、日雇の草刈や放牧地見廻人、また林務官や樹霊、雷神などが出てくるが、その雷神になって、赤い着物を着、「誰だ、畜生ひとの手ふんづげだな、どれだ、畜生、ぶっつぶすぞ」と怒鳴り、烈しく立上がって叫び地団駄踏んだ一人の生徒が競技の選手で、次ぎの日運動場で、丁度そのように地団駄踏んだ一人の生徒のスパイクか、或は自分のスパイクで、無残に足をつき刺してしまったということであった。

 すなわち、雷神に扮した生徒が劇の翌日に、劇中の場面と同じような形で、手を怪我してしまったというのです。賢治はこれを偶然の出来事ではなく、神様が仕返しをしたのだと考え、そんなことをする神様のことを、「非常にたちのよくない」「まるで下等な」「相当下等」などと、かなり悪く言っているのです。
 これを少し堅苦しい言い方に変えれば、「卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」ということにも、なるのではないでしょうか。

 ということで、賢治はこの日の「産業組合青年会」におけるやり取りで、自分の自信作でもあった劇を批判され、かなりショックを受けたのではないかと、私は思うのです。そのショックは、「いきまき応へた」という言葉に記されているように、その場で思わず感情的に応えてしまったことにも表れているでしょうし、後でそのような自分に対して、「応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ」と、自らを責めているところにも示されているように思います。
 またこのように解釈すれば、この作品の「一卵性双生児」である「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」に登場する一節、「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」も、この「種山ヶ原の夜」という劇において「神々の名を録した」ことに対する、激しい葛藤を表現しているのではないかと考えることができます。ただしそれは単純な悔恨ではなくて、創作者であるかぎり逃れえない一種の「業」として、自ら引き受けようとしているようにも感じられますが・・・。

 そして、「産業組合青年会」の議論がこのような結果に終わったということは、それまで賢治の中にあった「組合」への期待をも、変化させてしまったのではないでしょうか。
 「草稿的紙葉群」の中には、次のような一節が出てきます。

あゝわたくしの恋するものは
わたくしみづからつくりださねばならぬかと
わたくしが東のそらに
声高く叫んで問へば
そこらの黒い林から
嘲るやうなうつろな声が
ひときれの木だまをかへし

 「わたくしの恋するもの」が何を指しているかは難しいところですが、これをこの夜の出来事に引きつけて考えれば、後に『農民芸術概論綱要』に表現されるような「農民芸術文化活動共同体」の構想を、既存の組織に期待するのは無理だと失望し、結局は「わたくしみづからつくりださねばならぬ」と考えたのかもしれません。

 それが、この2年後に「羅須地人協会」を「みづからつくりだす」ことにつながり、またこれ以後は各農村の産業組合や農会とは一定の距離を置く、賢治のスタンスを生んだのかもしれない、などと考える次第です。

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2014年8月10日 大島丈志著『宮沢賢治の農業と文学』

 本年度の宮沢賢治賞奨励賞を受賞された大島丈志さんの著書、『宮沢賢治の農業と文学―過酷な大地イーハトーブの中で』という本を読みました。

宮沢賢治の農業と文学―苛酷な大地イーハトーブの中で 宮沢賢治の農業と文学―苛酷な大地イーハトーブの中で
大島 丈志

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 目次は、下記のようになっています。

序章 宮沢賢治の生涯と農業 考察の方法

第一章 盛岡高等農林学校の幻影 羅須地人協会以前
  1 「チュウリップの幻術」という装置
  2 「紫紺染について」
  3 「農民芸術」が生まれる土壌
  4 十六人の百姓の行方

第二章 投企する農業技術者 「農民芸術概論綱要」・羅須地人協会時代
  1 詩「第三芸術」から「農民芸術概論綱要」へ
  2 詩「産業組合青年会」をめぐって
  3 農夫へのまなざし 文語詩「副業」を読む
  4 「〔或る農学生の日誌〕」における一農民の孤独

第三章 羅須地人協会時代以降 「グスコーブドリの伝記」を中心に
  1 「ポラーノの広場」論
  2 「グスコーブドリの伝記」論
  3 一九二〇〜一九三〇年代における宮沢賢治の農業思想
   

補論 宮沢賢治作品と同時代の潮流
  1 「雪渡り」論
  2 「鳥箱先生とフゥねずみ」における不条理の構造
  3 「烏の北斗七星」を読み直す

 この本は、著者がこれまでに書かれた論文を集成したもので、「補論」を除き、何らかの形で農業に関連した主題を扱っています。
 宮澤賢治という人が、農学を修め、農学校の教師をして、さらに自らも農耕に携わって青年たちと「協会」を作るなどの活動を行ったことは、よく知られています。そしてその作品を読む者は誰しも、農業や農民に対する賢治の深い思い入れに、直に触れることができます。
 しかし、その実際の活動や農業思想の位置づけ・評価については、まだ十分な研究がなされているとは言えません。著者の言葉を借りれば、次のような現状があります。

 農業に関わった宮沢賢治、というイメージは溢れているものの、賢治・賢治作品と農業とはどのような関係にあったのか、また農業実践の内実はいかなるものであったのか、さらに同時代の中でどう位置づけられるのかは解明されておらず、問題は山積しているのである。

 この本に収められている数々の論考は、まさにこの山積した問題に対して、緻密に実証的に迫ろうとしたものです。なかでも圧巻なのは、「第二章 投企する農業技術者」と「第三章 羅須地人協会以降」の部分で、ここで著者は賢治の実践や思想に迫るために、たとえば当時の岩手県農会や産業組合に関する基礎的な文献を丹念に調査し、また農業統計データはグラフ化して考察するなどして、賢治の行動や思考をその背景から浮き彫りにしていきます。

 なかでも私にとって印象深かったのは、第二章の章題「投企する農業技術者」という言葉にも込められていることですが、賢治が行った「肥料設計」の特徴として、「化学肥料を多く使用し大増収を狙うという山師のような」(本書p.176)傾向があったという指摘です。当時、岩手県農会も一種のモデル事業として、少数の農家を対象に「農業経営の設計作成からその実施」を指導していたということなのですが、この県農会による肥料設計と比較すると、賢治のそれの方が化学肥料の比率が高く、「多肥多収」を目ざすものだったというのです。
 まあこのことは、すでに川原仁左エ門『宮沢賢治とその周辺』にも書かれていたのを私が不勉強にも知らなかっただけなのですが、本書において著者はこれを指摘した上で、賢治がこのような方針で農業指導をしていた背景について、「先づ経済生活を潤沢にして後精神生活に覚醒を来させる」(賢治の言葉として『岩手県農会報』1928に掲載)という考えがあったからだろうと考察しておられます。

 現代における賢治のイメージは、「エコロジー」や「オーガニック」などの言葉と関連づけられやすいと思いますので、化学肥料をどしどし使っていたというのはちょっと意外な感じもしますが、技術者としての賢治の基盤は高等農林学校で身につけた近代科学であり、その中でも最も惹かれていたのが「化学」だったわけですから、この流れはある意味で自然なことです。
 あるいは、このように多少の無理をしてでも一挙に増収を狙うという「山師」的な部分は、どこか賢治の性向と親和性があるのかもしれません。本書でも指摘されているように、「巨利を獲るてふ副業」(文語詩「副業」)に精を出す青年や、「グスコーブドリの伝記」に出てくる山師の「赤髭の主人」に、賢治がどこかで共感を寄せていることとも、これはつながるものでしょう。

 また、これとも関連することですが、従来の多くの研究者は賢治が理想としていたのは「農村における自給自足経済」であると考えていたのに対して、著者は、「自給自足経済と花巻という地域を超えた商品経済とを複合したハイブリッドなもの」(p.197)であったと結論づけています。

 このように、本書において著者は、賢治と農業の関わりについてこれまでの研究者が述べてきたことや、漠然とイメージとして語られてきたことに疑問を投げかけ、丁寧な論証によって、その従来とは異なった側面に光を当てていきます。
 私自身、これほどの調査には足元にも及びませんが、少し前に「何をやっても間に合はない」という記事を書く際に、当時の農家副業の実情について若干調べてみたことがありましたので、いろいろと共感しつつ読むことができました。

 ところで、この本を読みつつ私があらためて大きな疑問として感じたのは、賢治は農業を進歩させたい、農村をよりよく変えたいと強く望み、いろいろ工夫しながら活動を行ったにもかかわらず、その過程においては、「系統農会」と「産業組合」という当時の農村における二大組織に積極的に関わったり、自分の理想実現のために協調したりしなかったのは、いったい何故なんだろうか、ということです。

 川原仁左エ門氏が『宮沢賢治とその周辺』に記録しているように、賢治は盛岡市の「岩手県農会」の事務所にはよく立ち寄り、全国各地の農会報をチェックしたり、農業関係の蔵書を閲覧したりして知識を仕入れるとともに、盛岡農林学校の同窓生で岩手県農会技師をしていた大森堅弥とは、論戦もしていたということです。
 しかし、農会として「岩手甘藍」を何とか岩手の特産物にしようと考え、稗貫地方も適地であることから大森技師が賢治に相談した際には、「こういう仕事は私にはむきません」とあっさり断ってしまったということです。また、地元の「稗貫郡農会」や「花巻川口町農会」に、賢治が何かの関わりを持ったという話も聞いたことはありません。
 大島丈志氏が書いているように、「農会との間に距離があった」のです。

 また産業組合に関しては、農学校教師時代に有名な「産業組合青年会」(『春と修羅 第二集』)という作品があり、この時に賢治が何らかの形で産業組合の青年組織と関わりを持ったことは確かと思われますが、それ以外には産業組合に関係する記録は目にしません。
 賢治は羅須地人協会において、農産物の物々交換を行ったり、食品加工・工芸品製作などもしようと考えていたようです。また「種苗協会」のようなものを構想していたという教え子の回想もあり、これらはいずれも一種の産業組合的活動です。さらに「ポラーノの広場」も、ある産業組合設立の苦労と成功を描いた作品と言えます。
 つまり賢治は、農村における産業組合活動に対して、かなり積極的な希望を託していたと思うのですが、現実には産業組合と関係する活動を行わなかったのは、いったいどうしてなのでしょうか。

 当時、花巻川口町や花巻町には、農村産業組合はありませんでした。しかし羅須地人協会時代の賢治は、農業に関する相談や指導のために、花巻近郊の太田村、湯口村、湯本村、好地村、八幡村、矢沢村などを巡っており(たとえば「〔澱った光の澱の底〕」)、これらの村には、それぞれの産業組合があったのです。講演や指導に行った際に、もし地元の産業組合の関係者と接触することができたなら、賢治の知識やアイディアを持ってすれば、その「顧問」的な役割を担うこともできたのではないでしょうか。
 個人的に「無料の肥料設計」をするだけでなく、既存の組合を通しての組織的活動に関わることができれば、もっと系統的な形で、農業知識の普及や新たな企画に取り組めたのではないかと思うのですが、どんなものでしょうか。

 繰り返すと、「賢治がその農業実践活動において、農会や産業組合という団体・組織から距離を置き、積極的に関わろうとしなかったのはなぜなのか?」というのが私の疑問です。
 これは、賢治が「〔或る農学生の日誌〕」において主人公に、「ぼくはどこへも相談に行くとこがない」と悲痛な叫びを上げさせているところの、深刻な「孤独」と通底するものではないかとも、私には思えるのです。

 この疑問の答えはまだ私にはわかりませんが、一つの要因としてふと思うのは、賢治は「産業組合青年会」という作品に記録した1924年10月5日の夜、産業組合青年会の場で体験した出来事が、一つのトラウマとして心に残り、このような団体に関わることを躊躇させたのではないか・・・ということです。
 しかしこれ以上の個人的詮索は、また別の機会に譲りましょう。

 大島丈志氏の素晴らしい本は、いろいろなことを考えさせてくれました。

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2014年8月 1日 宮沢賢治研究会発表

 最近とんとブログの更新ができていませんでしたが、明日8月2日(土)に、東京の「宮沢賢治研究会」の例会で話をするよう言われ、その準備をしていたことも一つの理由でした。
 発表は、「求心的・凝集的な精神と遠心的・浸透的な精神 〜宮沢賢治の心性に関する一考察〜」というタイトルにしたのですが、確かにこれはあまりにも中身がわかりにくい題名なので、名前の付け方に失敗したかなと思っていますw。中身については、同研究会の「8月第276回例会のご案内」のページに、説明を載せていただいています。

 発表を同席させていただくのが、以前に「ヴェッサンタラ王の布施」という記事で、論文を引用させていただいた伊藤雅子氏であるというのは、不思議なご縁であり光栄なことです。お会いするのが楽しみです。

 ということで、明日は仕事をなるべく早く終えて、東京に向かいます。

「求心的・凝集的な精神と遠心的・浸透的な精神」

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2014年7月 3日 千原英喜作曲『永訣の朝』初演コンサート

 来たる7月6日(日)に、大阪のシンフォニーホールにおいて、千原英喜氏の新作合唱曲『永訣の朝』の初演が行われます。(下のチラシ画像はクリックすると別窓で拡大表示されます)

豊中混声合唱団第54回定期演奏会

 この『永訣の朝』は、大阪府豊中市を中心に活動している「豊中混声合唱団」が、本年度定期演奏会のために委嘱した作品だということで、上掲チラシ裏には、曲について下記のような説明が付けられています。

■ 永訣の朝
 豊中混声の本年度委嘱初演作品となります。妹トシの死を悼んだ挽歌として、宮澤賢治の作品の中でも取り分け愛されている「永訣の朝」。
 内省的かつ深い悲しみと愛、祈りに満ちた賢治のことばたちは、千原英喜先生の手腕により、全宇宙的な広がりを持つ音作品へと遷移していきます。ひとりでも多くの方にご拝聴いただきたい、ア・カペラによる心の絶唱。名作の誕生にお立ち会いください。

 千原英喜氏と言えばこれまでにも、『混声合唱とピアノのための組曲 雨ニモマケズ』、『児童・女声合唱組曲 ちゃんがちゃがうまこ』、『混声合唱組曲 月天子』「宮沢賢治の最後の手紙」など、賢治のテクストをもとにして、数々の素晴らしい合唱曲を作ってこられました。私たちが一昨年12月に行った「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都」においても、その中から「雨ニモマケズ」を取り上げさせていただきました。
 何と言っても千原氏の合唱曲は、わかりやすく詩情豊かなメロディーやハーモニーと、現代的で斬新な感覚とが、絶妙に調和しているところが魅力です。賢治に対しても非常に造詣が深くていらっしゃって、詩の奥底まで見通すような視線も感じられます。

 そして今回、豊中混声合唱団の委嘱のおかげで、これら千原氏による賢治作品群の一環に、「永訣の朝」も加わることになったというわけです。どんな作品世界が造型されたのか、千原英喜ファンの私としても、今から楽しみです。
 2007年9月の『混声合唱とピアノのための組曲 雨ニモマケズ』の初演の際には、私もたまたま立ち会うことができて感動したのですが、今回も大阪まで聴きに行く予定にしています。

 下記のように、コンサートのプログラムは他にも盛り沢山で、豊中混声合唱団第54回定期演奏会のページから、メールにてチケットの申し込みや問い合わせができるということです。

豊中混声合唱団 第54回定期演奏会
  〜三善晃先生追悼・千原英喜先生委嘱初演〜

日時: 2014年7月6日(日) 午後3時開場 午後4時開演
場所: ザ・シンフォニーホール

プログラム:
■ 童声・混声合唱とピアノのための
  「葉っぱのフレディ」
  (作詞・作曲:三善晃)
■ 混声合唱曲「嫁ぐ娘に」
  (作詞:高田敏子 作曲:三善晃)
■ 「啄木短歌集」
  (作歌:石川啄木 作曲:高田三郎)
■ 「永訣の朝」(2014年度委嘱作品)
    永訣の朝 I
    永訣の朝 II
  (作詩:宮澤賢治 作曲:千原英喜)

 最後にご参考までに、これまで私が VOCALOID 等を用いて、千原英喜氏作曲の賢治作品を演奏したページを、挙げておきます。
 本物の合唱の歌声には比べるべくもありませんが、千原氏の曲がどのようなものか、とりあえず「試聴」していただくことはできるかと思います。

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2014年6月 8日 鏑木蓮『イーハトーブ探偵』

              
                   大正十一年一月六日金曜日

 映画館を出たとき、また雪が降り出した。すでに積雪は一間は超えていただろう。ただ花陽館の前もそうだけれど、町の大きな通りは雪かきが済み、道端に寄せられていて歩きづらさはない。
 正月休みの夕刻、藤原嘉藤治は、小岩井から帰ったばかりの友人、宮澤賢治と並んで歩いた。ケンジは映画館に入るまでは、小岩井のきらきらする雪の中を移動したことを熱に浮かさているように、一人で喋り続けていた。ところが映画を見終わると今度は急に黙ってしまった。     (「ながれたりげにながれたり」冒頭より)

 上記は、鏑木蓮著『イーハトーブ探偵 賢治の推理手帳 I』の冒頭部です。

イーハトーブ探偵 ながれたりげにながれたり: 賢治の推理手帳I (光文社文庫) イーハトーブ探偵 ながれたりげにながれたり: 賢治の推理手帳I (光文社文庫)
鏑木 蓮

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 この本は、宮澤賢治と親友の藤原嘉藤治が、ちょうどホームズとワトソンのように、格好のコンビを組んでいろいろな難事件を解決していくという、痛快な推理短編集です。上記のように表紙絵には、この「ケンジ」と「カトジ」の二人がイギリス海岸を歩く姿が描かれ、賢治ファンとしては中を開く前からワクワクしてしまいます。
 実際に賢治は、広汎な自然科学的・博物学的知識と独特の頭脳を持っていましたから、現場の遺留品の断片からシャーロック・ホームズのように推理を働かせて事件を見通すという役柄には、まさにうってつけの感があります。
 それに、過去の名作において造型された「名探偵」というのは、シャーロック・ホームズにしてもエルキュール・ポアロにしても金田一耕助にしても、どこか一般常識を超越した「変人」のようなところがありましたが、われらが宮澤賢治の、その生前から地元では名高かった「変人」ぶりも、本シリーズの探偵キャラクターに一種のカリスマ性を帯びさせる上で、最高のスパイスとなっています。
 そして、放っておいたらどっかへ飛んでいきそうなこの「ケンジ」探偵を、しっかりとつなぎ止めつつ常識人として気配りをするのが、コンビ相方の親友「カトジ」なのです。

 さて、この一冊には、下の四篇が収められています。

ながれたりげにながれたり
マコトノ草ノ種マケリ
かれ草の雪とけたれば
馬が一疋

 一見していただいたらわかるとおり、これらはいずれも賢治の詩の題名に基づいており、それぞれの賢治作品の世界が、各篇の背景となる雰囲気を形づくっています。
 そして、各篇の舞台となっているのは、冬の大沢温泉であったり、南部藩と伊達藩の藩境にある「南部曲り家」であったり、明治の遺構「旧岩谷堂町役場」であったり、下鍋倉の水車小屋であったり、「イーハトーブ」ならではのスポットが選ばれていますし、それぞれに事件の背景をなしているのは、貧困と「口減らし」、結核による死、密造酒と税務官吏による取締り、農村の困窮と軍馬買い上げなど、当時の岩手県の切実な問題を反映しています。
 また、これらの作品を純粋に推理小説として読むと、各篇ともに、いったいどのようにして犯行が為されたのか、まったくわからないようなミステリーが構築されていて、その仕掛けをケンジが解明していくとともに、想像もつかなかったような大がかりなトリックが姿を現わすという形になっています。
 作者の、並々ならぬ意欲が表れている作品集だと思います。

 それより何より、賢治ファンとしてこの「イーハトーブ探偵」シリーズに限りない魅力を感じるのは、その作品世界の意味深い構成にあります。
 冒頭に引用させていただいた箇所の「大正十一年一月六日金曜日」にも表れているように、各作品にはその年月日が記されています。大正11年1月6日というのは、賢治の詩集『春と修羅』の冒頭および二番目の作品、「屈折率」と「くらかけの雪」がスケッチされた日であり、引用箇所にもあるとおり、この日に賢治は雪の小岩井農場へ出かけてきたのです。

 つまり、この「イーハトーブ探偵」シリーズは、『春と修羅』の世界の開始とともに幕を開け、各ミステリーはそれぞれの時期の賢治の実生活とともに、進行していくのです。
 すなわち、「ながれたりげにながれたり」は大正11年1月6日から10日、「マコトノ草ノ種マケリ」は5月3日から7日、「かれ草の雪とけたれば」は8月15日、「馬が一疋」は11月10日から19日の出来事という設定になっています。 そして、この時期の賢治の身辺において、最も切実な問題となっていたのは、何よりも妹トシの病状の深刻化でした。
 具体的にその内容を見てみましょう。

 最初の「ながれたりげにながれたり」においては、登場人物の一人である花巻高等女学校の生徒に関連して、トシが以前に同校の教師をしていたものの、「体調を壊し」て退職したと、さらりと触れられるだけでした。
 それが「マコトノ草ノ種マケリ」では、ある人物の息子が肺病で夭折したという話題になり、嘉藤治は大変に気をつかいます。

「肺病で亡くなったのか・・・」
 ケンジは遠くを見る目をした。
「あっ僕としたことが、もしゃけね」
 ケンジは肺を病むトシのことを思い浮かべたにちがいなかった。

 次の、8月の「かれ草の雪とけたれば」になると、下のような場面が出てきます。

 しばらくは、花巻から豊沢川を越え移ろい行く車窓に目を遣る。
 ケンジはまばゆい真夏の風景に目をしばたたかせ、奥歯を噛みしめていた。
「トシさんのあんべえは?」
「よくねえ。熱が下がらねえんだ。だば町中にいるよりは涼しいから」
「そうだな」
 いま通過した下根子の桜という場所に、宮澤家の別荘があった。ケンジの妹のトシが少し前から、病気療養している。

 そして、最後の「馬が一疋」では、容態はより深刻になっています。

 黒い帽子に黒いインバネス姿のケンジは、うつむき加減で風を受けながら、
「ゆんべ、トシがまた高熱を出したのす」
とぽつりと言った。
「それはことだなっす。側にいてあげてくなんせ、ケンさん」
 カトジは事件に引っ張り出したことを詫びた。
「食も細くなる一方で・・・俺は見てるのも辛い」
「それは・・・辛いな」
言葉がなかった。
「熱に浮かされながらも、兄さんは人の役に立ってけろって」
 ケンジの言葉が詰まる。

 この作品終わりの11月19日には、トシの容態が急変したために、彼女を下根子の別宅から豊沢町の実家に移すことになり、ケンジは事件の最後の現場に立ち会うことができず、カトジは一人で、花巻西郊の草井山に登り、顛末を見届けます。
 そして作品は、次のように締めくくられます。

 カトジは昨夜のケンジの言葉を思い出しながら、坂道の落ち葉を踏みしめる。やがて集落の家々から煮炊きの細い煙が見えてきた。
 ケンさんは多くの人の役に立ったのす。だから仏様はトシさんを見捨てるようなことはしねえ。きっと熱は下がる。必ずよぐなる、と心の中で祈った。

 つまりこの物語集は、トシの病気を見えない背景として、ケンジとカトジの友情を描いたものでもあるのです。

 今回の「賢治の推理手帳 I」が、実際のトシの死の8日前で終わっていることからすると、次の「賢治の推理手帳 II」は、トシの死後から始まるのかもしれません。あるいは何らかの仕方で、永訣の朝を迎えた賢治が描かれるのかもしれません。
 いずれにしても、私としては続篇を心から待ち望む、「賢治の推理手帳」です。 巻末の杉浦静さんによる「解説」も、賢治自身の人柄や作品、当時の岩手県の社会状況に関して要を得た説明をして下さって、この作品の奥行きをさらに広げてくれています。

written by hamagaki : カテゴリー「賢治関連本
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