2016年4月21日 大槌町で講演「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」

 来たる5月4日(祝)に、岩手県の大槌町で、「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」と題した講演をさせていただくことになりました。下記が、そのチラシです。

大槌宮沢賢治研究会講演会チラシ

大槌宮沢賢治研究会 講演会(参加費無料・予約不要)
「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」
   ―最愛の妹トシを亡くした後の心の軌跡を作品でたどる―
日時: 平成28年5月4日(水・祝日) 14時―16時

主催: 大槌宮沢賢治研究会 ベルガーディア鯨山
後援: 大槌町 大槌町教育委員会 NPO法人心の架け橋いわて

 場所は、大槌町吉里吉里にこの4月にできたばかりの「Remenber HOPE 浪板海岸ヴィレッジ」というところです。地図では下のマーカーの場所で、「三陸花ホテルはまぎく」のすぐ北隣の浜辺にあります。

 今回のお話は、大槌で「風の電話」を運営しておられる佐々木格さんからお受けしたもので、たまたま私が今度の連休に三陸方面に行くので、また佐々木さんのところにお邪魔してもよいかとお聞きしたところ、「それならついでに講演も」というご依頼を頂戴しました。
 内容としては、昨年11月に「第7回 イーハトーブ・プロジェクトin京都」で、竹崎利信さんの「かたり」とともにお届けしたものを、今度は私一人の「講演」という形式で行います。

 佐々木格さんが、先の震災・津波で大切な人を亡くした方々のために、「風の電話」によって提供しておられる活動も、一つの「グリーフ・ワーク」であると言えますが、一人の人間としての宮沢賢治が、かつてどんな「グリーフ・ワーク」の道を歩んだのかということを、大槌の皆さんと一緒にたどってみたいと思います。
 私自身が、直接的に地元の方々の力になる、ということまではなかなかできないと思いますが、宮沢賢治という「先達」が、経験し、苦しみ、考えたことの中に、少しでも参考としてお役に立つことがあれば・・・と思っています。

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2016年4月10日 足利市宝福寺の「雨ニモマケズ」詩碑

 今日は、栃木県足利市の宝福寺というお寺にある、「雨ニモマケズ」詩碑を、拝見してきました。経緯は以下のとおりです。

 私はこの3月末に、一通のメールをいただきました。

・・・私も宮澤賢治様のファンですが、郷里の栃木県足利市に嘗て賢治様の熱烈な崇拝者が居りまして、彼の家の菩提寺に「雨ニモマケズ」の立派な石造りの詩碑を建て、賢治様と彼の祖先の供養をしております。・・・

 そして、その「雨ニモマケズ」詩碑を、当サイトの「石碑の部屋」に加えていただくというのはいかがですか?とのご提案をいただいたのです。
 実は、この詩碑を建立されたのは、メールを下さった橋本和民さんのご令兄の、故・橋本哲夫氏だということでした。

 「賢治の詩碑」と聞くと、いつもながらじっとしておれなくなる性分の私は、地図で場所を確認するとともに時刻表検索をして、4月10日(日)であれば何とか現地往復ができそうだと思いましたので、橋本さんにメールでその旨をお知らせしました。
 すると、ふだんは東京都内にお住まいであるにもかかわらず、当日は足利市にて私を詩碑まで案内して下さるというご親切なお返事を橋本さんからいただき、本日の行程と相成ったわけです。

 京都を朝早く「のぞみ」で発って、東京からJR上野東京ラインで北千住へ、そして北千住から東武線に乗り換えました。
 菜の花が咲くのどかな北関東の平原を、電車は北に向かいます。

東武線車窓から

 そして、「足利市」駅の一つ手前の、「東武和泉」という駅で降りました。

東武和泉駅

 駅前で橋本さんがお出迎え下さって、詩碑のある宝福寺まで、タクシーでお連れいただきました。徒歩でも10分ほどのようです。
 地図で言うと、下記の場所ですね。

 下写真が、宝福寺の正面です。

宝福寺正面

 ちょうど、桜吹雪の舞う頃でした。

 そもそもこの宝福寺は、鎌倉時代から続く武士の家系である橋本家のご先祖が、菩提寺として建立したお寺で、境内の墓地には、橋本家代々の広大な墓所があります。そして、その墓所の一角に、第20代当主であった故・橋本哲夫氏が、1978年(昭和53年)に、賢治の「〔雨ニモマケズ〕」を刻んだ碑を建てられたのです。
 下写真が、その詩碑です。

宝福寺「雨ニモマケズ」詩碑

 碑は、縦長の黒御影石に、哲夫氏の義兄にあたられる書道家が書かれた「雨ニモマケズ」のテキストが、端正に刻まれています。
 真摯で、かつ活き活きとした力を感じました。

 橋本家の始祖・橋本求馬(もとめ)は、上州館林城の家老で、鎌倉時代の末には主君赤木氏に従って、新田義貞の鎌倉攻めに参加したという逸話も残されています。その後の子孫は、三河武士になったり、江戸で醸造業を営んだりしていた時期もあったそうですが、はるか時代が下って明治になると、橋本さんの曾祖父、祖父の時代には、農民救済のために足尾鉱毒事件と闘う田中正造翁を、この足利において物心両面で支える役割も果たしていたということです。
 橋本さんのご令兄・哲夫氏は、1925年(大正14年)生まれで、戦争中は海軍に従軍しておられたということですが、早くから宮澤賢治に親しみ尊崇していたとのことです。終戦とともに郷里へ帰ると、この宝福寺の境内にある集会所で宮澤賢治の研究会を開いたり、村の青年たちを集めて劇団を組織し、自ら脚本を書き演出を行って、「石川啄木の生涯」などという劇を行ったりもしたということです。

 ところで、敗戦とともに世の中の価値観が180度変わるという激動にさらされた時、新たな方向を模索しようとする青年たちが、宮澤賢治の思想を拠り所にしようとするという現象は、全国のいくつかの場所で見られたことだったように思います。
 現在は一関市となった長坂村の青年たちが、紙不足の中で苦労して、「雨ニモマケズ」「農民芸術概論綱要」「ポラーノの広場」などのテキストを手に入れて勉強する中で、谷川徹三揮毫の「農民芸術概論綱要」碑を村に建立していくエピソードや、また北海道の穂別村で、戦後最初の公選村長となった横山正明が、賢治の精神を村に根付かせようと、「賢治観音」なる仏像を発願して建立する経緯などが、私には連想されます。
 賢治の「〔雨ニモマケズ〕」は、大政翼賛会文化部によって、「滅私奉公」など戦争遂行のための思想宣伝に利用され、そのおかげで国民に広く知られるようになった面もありました。そして敗戦とともに、戦前のイデオロギーが一挙に否定され、それまでもてはやされていた多くのものが地に落ちましたが、ただ宮澤賢治の思想には、それでも変わらぬ何かが含まれていることを、当時の若者たちは感じとっていったわけです。
 上の二つの例のいずれも、「農民芸術概論綱要」碑あるいは「賢治観音」というモニュメントとなって、戦後まもない時期から現在まで残されているのがもう一つの共通する特徴ですが、ここ栃木県足利市で終戦後に賢治の研究会を行ったという橋本哲夫氏の思いも、この「雨ニモマケズ」詩碑となって、やはり今もしっかりと刻まれています。

 さて、戦前は大地主だった橋本家も、戦後の農地改革で農地の大部分を手放さざるをえなくなりますが、哲夫氏は賢治の「羅須地人協会」を理想として、農業に身を捧げていったそうです。
 現在、栃木県はイチゴの生産量では日本一ですが、この「栃木のいちご」の栽培・改良に力を注ぎ、現在の栃木県産イチゴの先鞭をつけた一人が、橋本哲夫氏だったということです。

 そして、晩年になってからも哲夫氏の賢治への敬慕の念はますますつのり、ついに青年時代からの念願だった賢治の詩碑を、橋本家の墓所に建立したのが、昭和53年秋でした。

 下の写真は、詩碑の両脇にある地蔵菩薩の石像と、石灯籠も一緒に写したところです。この二つも、橋本哲夫氏が詩碑と一緒に建立されました。
 この宝福寺には、子供の健やかな成長を守ってくれるという「子育地蔵尊」があり、古くから近隣の信仰を集めてきたということですが、その縁にちなんで、ここにもお地蔵さんが立っておられます。

宝福寺「雨ニモマケズ」詩碑

【謝辞】 ご親切な案内およびご説明に加え、様々なご厚情を賜りました 橋本和民様に、心より感謝申し上げます。

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2016年4月 3日 大阪府柏原市の賢治来訪100周年事業

 去る3月31日に、大阪府柏原市の「柏原市立歴史資料館」で展示されている、「宮沢賢治が見た「100年前の柏原」」という企画を見に行ってきました。
 JR関西本線の「高井田」という駅で降りて北に向かい、古墳のある小さな丘を越えて5分ほど歩くと、この資料館の横に出てきます。

柏原市立歴史資料館

 この日にうかがうことをあらかじめお伝えしていたところ、館の事務室では資料館の方と柏原歴史研究会の代表の方が迎えて下さって、3月12日に開催された「「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム」の様子や、3月25日に実施された「100年前に賢治が来た柏原は?見学ツアー」の状況について、丁寧に説明をして下さいました。

 そもそも、今回の「賢治来柏100年記念プロジェクト」という企画は、3年ほど前に柏原市民の方が、私のサイトの「農商務省農事試験場畿内支場」とか「運命の柏原駅」という記事をたまたまご覧になって、「あの宮沢賢治が柏原市に来ていたとは!」と市役所の方と話題にされていたことが、事の発端だったということです。
 その後、市教育委員会の文化財保護課や、柏原歴史研究会の方々が関連した調査を行い、今年の初めから具体的なプロジェクトの準備を開始して、今回の企画の実現に至ったとのことです。

 さて、3月12日に行われた「「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム」では、賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行で柏原市の農事試験場畿内支場を見学した際の詳細について、当時の農事試験場の状況や、賢治が乗ってきた鉄道について、3人のパネリストの方々がそれぞれの研究成果を発表され、市民の方々が熱心に聴講されたということでした。

 鉄道研究の観点からは、当時の賢治が乗ってきたと推測される蒸気機関車の写真も紹介されました。

王子駅に停車する8620形機関車

 上の写真は、当時の関西線にも走っていた、大正時代の代表的客貨両用の機関車「8620形」です(当日の配付資料より)。
 賢治が柏原市を訪れた1916年3月25日からちょうど100年後、「100年前に賢治が来た柏原は?見学ツアー」の参加者は、賢治が乗ったと推測される「五一番列車」の、奈良駅発10時6分→柏原着10時47分という時刻に合わせて、奈良駅を10時1分発→柏原駅着10時32分という「大和路快速」に乗り込み、柏原駅では「ようこそ賢治さん」という横断幕を持った柏原市長らに出迎えられたということです。

 100年前に柏原駅を降りた賢治たちは、駅の目の前にある広大な農事試験場を見学したわけですが、当時この畿内支場では、イネの育種交配の日本における第一人者だった加藤茂苞(しげもと)が、精力的に研究を進めていました。賢治の同級生・森川修一郎の記録によれば、修学旅行生に説明を行ったのは畿内支場の「場長」だったということですが、中でも育種の具体的方法については、「其方法としては在来種より単に良種を撰出するもの、ミユーテイシヨンにより良種を改良するもの及相互の掛け合わせにより良きものを得るものとの三法であつて、其各法の優劣易不易等に就いて…」などと専門的に詳しい講話を聞いたとのことですから、この研究の責任者であった加藤茂苞も、その場にいた可能性は十分に考えられます。
 そして加藤は、この1週間後の4月1日に、秋田県大曲の陸羽支場の場長として栄転し、ここであの「陸羽132号」の誕生にも関わるのです。
 後の賢治が、在野の農業技術者として、岩手県に「陸羽132号」を普及させるために熱心な活動を繰り広げることになる重要な「伏線」が、この日の見学でイネ育種研究の最前線を目の当たりにしたことにあった可能性があるのです。

畿内支場硝子室

 上の写真は、当時の畿内支場で品種交配研究のために使用されていた、「硝子室」です(当日の配付資料より)。
 イネの人工的な交配は、あらかじめ雄しべを取り除いたイネの花の雌しべに、別のイネの雄しべから採取した花粉を振りかけることによって行います。この作業は、真夏の暑い盛りに、花粉が遠くへ飛んでしまわないように風のない閉め切った空間で行わなければなりませんし、イネの花というのは咲いてから1時間から2.5時間ほどで閉じてしまうので、とても集中力を求められるものなのだそうです。そして受粉をさせた後も、そのまま屋外でイネを育てていると、スズメなどが来て勝手に他のイネの花粉を付けてしまうおそれもあるため、上のような「ガラス室」の中で、育成管理を続けなければなりません。
 写真のような、全国でも他の農事試験場にはない大規模なガラス室がこの畿内支場に存在していた理由は、少し前に大阪で行われた博覧会の展示用のガラス室を払い下げてもらったためだということで、この設備があったおかげで当時の畿内支場は、イネの交配育種研究では日本一(ということは事実上の世界一)の実績を挙げられたのです。そして加藤茂苞も、この設備のもとで研究を行うために、わざわざ秋田県大曲の陸羽支場から畿内支場に移ってきたのです。
 もともと東北出身の加藤茂苞と宮沢賢治という二人が、この関西の地でたまたま出会い、それが賢治のその後の活動にも影響を与えていたとすれば、とても興味深いことです。

 「陸羽132号」は、それ自身としても冷害に強く東北の飢饉を救う品種となっただけでなく、その後さらなる品種育成の出発点となり、「農林1号」、「コシヒカリ」、「ササニシキ」、「あきたこまち」、「ひとめぼれ」など、その後の日本における代表的なお米を生み出していきます。そのような品種が生まれる源流の一つが、ここ柏原市の「畿内支場」にあったのです。
 残念ながら、畿内支場はその後1924年(大正13年)に廃止され、地元の柏原市においても、その存在はいったん忘れられかけていたようです。しかし、今回の賢治関連のイベントを契機に、ある時期の日本の農業の発展に多大な貢献をしたこの施設を、地元からも見直していこうという機運が、高まっているということです。
 下の写真は、柏原駅の西口近くに立てられた、農商務省農事試験場畿内支場の跡地の案内板です。昨年の2月に柏原市の教育委員会が設置したもので、宮沢賢治の来訪にも触れてくれています。

「農商務省農事試験場畿内支場跡」案内板

     農商務省農事試験場畿内支場跡
 JR柏原駅の北側には、明治三六年(一九〇三)から大正一三年(一九二四)ごろまで、農商務省の宇治試験場畿内支場がありました。農事試験場とは、当時、農産物の改良のために設置されていた施設です。東京の本場のほか、全国に支場が設置されていました。そのうちの一つが、畿内支場です。畿内支場の総面積は、明治三六年ごろで約二万七五〇〇平方メートル。明治四一年(一九〇八)ごろからは、それに加えて旧奈良街道(今町通り―古町通り)の西側にも約三万五〇〇〇平方メートルもの農地を借地していました。当時、支場には、全国から約三五〇〇品種もの水稲が集められており、日本で初めて人工交配に成功するなど稲の品種改良研究に関しては、全国のトップレベルにあったようです。
 大正五年(一九一六)年には、宮沢賢治が盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)の修学旅行で同級生らとともに見学に訪れています。
  平成二七年(二〇一五)二月
                            柏原市教育委員会

 また、現在の柏原駅舎は2007年に全面改築されて橋上駅になっていますが、1889年(明治22年)に建てられ、賢治が乗降した際に使った旧駅舎の正面入口に敷かれていた花崗岩の敷石が、今は柏原駅西口のベンチの脇に「旧駅舎メモリアルモニュメント」として保存されています。
 縦向きに置かれているこれらの石の上を、100年前に賢治たちが歩いたというわけです。

柏原駅西口旧駅舎メモリアルモニュメント

 「柏原市立歴史資料館」の「宮沢賢治が見た「100年前の柏原」」は、この4月下旬まで展示されているということですので、関心のある方はぜひ一度ご覧に行かれることをお勧めします。

 さらに、今年8月27日の賢治の誕生日(生誕120周年!)の頃には、今度は柏原市立図書館において、賢治の作品を取り上げる企画を開催する予定とのことですので、こちらもまた楽しみにしたいと思います。

柏原市立歴史資料館・宮沢賢治が見た「100年前の柏原」

【謝辞】 貴重な時間をさいてご説明を下さった、柏原歴史研究会の桝谷政則様と、柏原市立歴史資料館の石田成年様に、心より感謝申し上げます。

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2016年3月27日 「饗宴」詩碑アップ

 「石碑の部屋」に、「饗宴」詩碑をアップしました。花巻の賢治詩碑近くの「賢治文学碑散歩道」に、すでに2年前にできていた詩碑ですが、やっと掲載できました。

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2016年3月 6日 宮澤賢治来柏100周年プロジェクト

 大阪府柏原市の「まちの魅力づくり課」の方から、お知らせをいただきました。
 柏原市というと、賢治が1916年(大正5年)3月に、盛岡高等農林学校の修学旅行で訪れ、農事試験場を見学した場所ですが、このたび柏原市では、賢治の訪問100周年を記念して、「宮澤賢治来柏100周年プロジェクト」という催しを行うのだそうです。
 下が、そのイベントのチラシです。クリックすると拡大表示されます。

宮澤賢治来柏100周年記念プロジェクト(表)

宮澤賢治来柏100周年プロジェクト(裏)

 開催される企画は、以下のとおりです。

平成28年3月25日(金)
100年前に賢治が来た柏原は? 見学ツアー
集合: (1) 午前9時40分: JR奈良駅・正面改札口
または(2) 午前10時30分: JR柏原駅改札口集合も可
   ※集合は(1)か(2)のいずれかを選択
コース: JR柏原駅から徒歩で、旧「農商務省農事試験場畿内
     支場」跡地周辺を散策、12時30分頃JR柏原駅で解散
参加費: 300円 (資料・保険代)
申込先: 柏原おいなーれガイドの会(連絡先はチラシを参照)

平成28年3月12日(土)
「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム
  これまでに「宮沢賢治と柏原」について調査・研究してきた結果
  わかってきたことを発表し、参加者全員でさらに史実を深めま
  す。
時間: 午後1時30分〜3時30分
会場: 柏原市立男女共同センター(フローラルセンター)
パネリスト: 石田成年(市立歴史資料館)
        寺本光照(鉄道写真家)
        宮本和幸(柏原市教育委員会)
資料代: 500円
申込先: 柏原歴史研究会(連絡先はチラシを参照)

平成28年3月1日〜4月下旬
宮沢賢治が見た『100年前の柏原』
  賢治が目にした100年前の柏原の姿を紹介します。
会場: 柏原市立歴史資料館

 「見学ツアー」は、賢治の柏原訪問(1916年3月25日)と、月日まで合わせた企画ですね。
 私も、できれば全ての催しに参加したいところなのですが、残念ながら3月12日の「研究フォーラム」も、25日の「見学ツアー」も、どちらも仕事と重なって行けません。せめても、期間中に「柏原市立歴史資料館」の資料展示だけでも見てこようと思っています。

 関西地方では、数少ない宮澤賢治関係の企画ですので、興味をお持ちの方は、ぜひ参加されてはと思います。


 ちなみに、当ブログで賢治の柏原訪問を取り扱った記事は、主に下記の二つです。

・「農商務省農事試験場畿内支場」 (2008年6月19日)
・「運命の柏原駅」 (2008年10月19日)

 前者は、1916年に賢治が修学旅行で訪れた農事試験場について、後者は1921年に父と柏原駅を「通過」した時のことについて述べています。

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2016年2月28日 三つの賢治碑

 ここ数年来、いくつか新たな賢治の文学碑をめぐってはいたのですが、あの震災以降というもの、「石碑の部屋」のページをきちんと更新することができていませんでした。今回、たまっていた写真を整理して、下記の三つの賢治碑のページを新たにアップしました。

 いずれも新しいものではなくて、2010年から2012年の間に建てられた碑です。

 まだ、手もとには少なくとも6つほど未掲載の詩碑写真があるのですが、これからも頑張ってアップしていきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。

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2016年2月14日 あいつは二へんうなづくやうに息をした

 先日も考えてみた、「青森挽歌」の前半部のクライマックスとも言うべき部分を、また下記に引用します。

 《耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい》
さう甘へるやうに言つてから
たしかにあいつはじぶんのまはりの
眼にははつきりみえてゐる
なつかしいひとたちの声をきかなかつた
にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちいさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた
   《ヘツケル博士!
    わたくしがそのありがたい証明の
    任にあたつてもよろしうございます》
 仮睡硅酸の雲のなかから
凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……
 (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)
たしかにあのときはうなづいたのだ

 賢治がトシの臨終の前後の様子を細かく想起し、彼女の「感官」や「意識」がどのような経過をたどっていったのかということを、必死になって跡づけようとしているところです。
 トシの死からは、すでに8か月以上も経った時点での心象スケッチですが、実に詳細に記されていることに驚かされます。きっと賢治は、トシの死からこの方ずっと、何度も何度もこの時の情景を思い返さずにはいられず、これはその後もまるで目の前で繰り広げられる情景のように、ずっと心に焼き付いていたのでしょう。
 今日は、この記録の素晴らしい克明さを頼りにしつつ、この時のトシの状態について、少し医学的に考えてみようと思います。

 まず、上記引用の最初の、《耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい》という言葉から推測されるトシの病状に関しては、以前にも「耳ごうど鳴って・・・」という記事に書いてみたことがありました。
 下の図(Wikimedia Commons より)は耳の構造を表したものですが、喉の奥(咽頭部)と耳の奥(鼓室)は、「耳管」と呼ばれる細い管でつながっています。この管はふだんは閉じているのですが、唾を飲み込んだ際などには一時的に開くので、飛行機で高い空を飛んでいる時などに、鼓室内と鼓膜の外に気圧差ができて耳が詰まったような感じになった際に、唾を飲み込むと解消するのは、この耳管を空気が通って両側の気圧が同じになるからです。

耳の構造

 さて、肺結核になると、結核菌は痰とともに肺から喀出されて、喉の奥(咽頭部)にたくさんたまりますが、その菌は咳をした時などに咽頭部から耳管を通って、鼓室に入り込んでしまいます。そして結核菌は、この部分にも病巣を作ることになり、これを「中耳結核」と言います。中耳結核は、最近では非常に稀になっていますが、戦前には肺結核の患者にかなりの割合で合併していたと言われています。
 中耳結核によって引き起こされる症状としては、蝸牛など内耳の部分の障害によって徐々に耳が聴こえにくくなる、「進行性感音性難聴」が典型的とされています。一方、鼓膜や鼓室内の組織も結核菌によって侵されていますから、やはり咳をした時などに、鼓膜が破れたり、鼓室内で出血が起こったりすることもあります。この場合は、突然に耳が聴こえなくなるのです。

 トシの場合は、「耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい」と言っていますから、ここでわかるのは、トシには急に「ごう」という音が聴こえたこと、そしてその音ともに、耳が全く聴こえなくなったということです。
 「ごう」と鳴ったというのは、この時に鼓膜が破れるか鼓室内で出血が起こるか、何かそういう突発的な事態が起こったということであり、そのどちらかが起こったとすれば、以後そちら側の耳は聴こえなくなってしまうでしょう。これが、トシの耳が聴こえなくなった時に起こっていた事態だと思われます。
 ただし、耳は左と右と二つありますから、「さつぱり聞けなぐなつたんちやい」となるためには、両耳ともに聴力が失われている必要があります。両側の耳で、先ほど述べたような鼓膜穿孔あるいは鼓室出血が同時に起こるということは、確率的に考えにくいですから、あらかじめ片方の耳は感音性難聴などで聴力が消失していた上に、まだ聴こえていたもう一方の耳にも、この時に突然の鼓膜穿孔か鼓室出血が起こったと考えるべきかと思います。

 さて、以上はすでに記事にしていたことのおさらいでしたが、本日ここで考えてみたいのは、冒頭の引用の19行目に記されている、「あいつは二へんうなづくやうに息をした」という部分についてです。
 先日の記事でも触れたように、この時のトシの「うなづく」動作は、賢治が彼女の天界往生への希望を託した「証し」として、作品中でも非常に重要視されています。「二へんうなづくやうに息をした」」、「けれどもたしかにうなづいた」、「たしかにあのときはうなづいたのだ」と、三度にもわたって思い返されたこの動作は、実際にはどういうものだったのでしょうか。
 その13行前では、「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり…」と書かれているのに、ここでまた「うなづくやうに息をした」とは、いったいどういうことだったのでしょうか。

 結論から申し上げると、この時トシが「うなづくやうに息をした」というこの呼吸の仕方は、「下顎呼吸」というものだったのではないかと、私は考えています。
 「下顎呼吸」というのは、一般的には人が亡くなる間際の数分間くらいに見られる、通常とは異なった呼吸パターンのことで、「死戦期呼吸」とも呼ばれます。たとえば、読売新聞の医療サイト「yomiDr.(ヨミドクター)」の記事「「呼吸停止」が別れの時ではない」には、次のように説明されています。

 その最後の呼吸は、下顎を大きく上げることから「下顎呼吸」と呼ばれます。下顎呼吸を数分続けた後、最後の呼吸は人によってそれぞれの様態がありますが、目を僅かに開いたり、ひときわ大きく下顎を上げたりしたのち、呼吸が停止します。

 賢治は「うなづくやうに息をした」の次の行に、「白い尖つたあごや頬がゆすれて…」と書いていますが、これは上の yomiDr.の記事で「ひときわ大きく下顎を上げたりしたのち、呼吸が停止します」と書いてある現象に相当すると思われます。
 その直前にトシの耳もとで大きく叫んだ後、何かその反応がないかと懸命に見つめていた賢治にとっては、このようなトシの呼吸の様子が、「うなづくやうに息をした」と見えたとしても、何の不思議もありません。
 また賢治が、「あのきれいな眼が/なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた」と書いているのも、上の記事引用中で、「目を僅かに開いたり…」と書かれている部分に相当するのではないかと思われます。

 トシが最期に、賢治の叫んだ言葉に「うなづいた」のかどうかという切実な問題を、死期における一般的現象に還元してしまうのは、あまりにも即物的で興醒めな印象があるかもしれませんが、医学的には上記のようなことだったのではないかと、私としては思うのです。

 そうしてみると、「青森挽歌」本文中で「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり…」と書かれている時点では、まだ本当の呼吸停止になっていたわけではないことになります。
 死期が近づいてくると、呼吸はしているかしていないかわからないほど弱々しくなり、呼吸の数も極端に減って、間隔が15秒もあくこともありますから、まだ呼吸が完全に停止していなくても、周囲の家族が「呼吸が止まった」と思ってしまうことは十分にありえます。また血圧も低下して、手首などでは脈拍も触れにくくなっていたでしょうから、「脈も打たなくなった」と思われたのでしょう。
 そして、賢治が呼ばれて駆けつけた後、顎や頬をを動かすような「下顎呼吸」に移行して、「二へんうなづくやうに息をした」ということだったのではないかと、私は推測します。

 ところで、上に引用させていただいた yomiDr.の「「呼吸停止」が別れの時ではない」という記事には、下顎呼吸の説明の後に、次のような一節があります。

反応がなくても…最期まで聞こえている
 人の耳は最期まで聞こえていると言います。ある患者さんは胃潰瘍からの大吐血で窒息し、心停止・呼吸停止を来たしましたがその後完全復活しました。彼は何と意識レベルが一番悪い状態で私と指導医が交わした会話を覚えていました。もちろんその際は何の反応もありませんでしたが、後日「聞こえていた」と私たちに伝えたのです。彼のように死の直前にあった人でも声は聞こえていたわけですから、今死にゆく方々も、たとえ反応がなかったとしても声は聞こえている可能性があると考えられます。
 また死の三徴候を確認した時点でも、人の全ての細胞が死んでいないことを考えれば、たとえ呼吸停止・心停止を来たし、ピクリともその方が動かなくても、声はまだ聞こえている可能性もあると思います。
 ただ、見た目には呼吸が止まっていると、亡くなったと思いがちですし、反応もなく動きもしなければ、一般の方も「もう声は届かない」と思いがちなのはよくわかります。

 前回の記事では、賢治の叫びは果たしてトシに聴こえたのか、それに対してトシはうなずいてくれたのかという問題を、必死になって追求しようとする賢治の姿を、作品において跡づけてみました。そこには、ドイツの生物学者ヘッケルの学説までも持ち出して、トシには確かに自分の声が聴こえていたのだと、何とかして自らを納得させようとする賢治がいました。
 しかし、上の引用記事において大津秀一医師が書いておられるところでは、たとえ本人が呼吸停止・心停止をきたした後でも、周囲の人の声は、まだ聴こえている可能性があるのです。
 もしそうであれば、賢治が「ちからいつぱい」叫んだ言葉が、実際トシの耳に聴こえていたということも、医学的にはありえるわけです。たとえ、「うなづくやうに息をした」のは臨終前の「下顎呼吸」に過ぎず、トシが意識的にうなずいたものではなかったとしても、この時のトシの耳には、賢治の言葉が届いていたかもしれないのです。
 ただ、上で大津医師が挙げられた事例ように、そのような生死の境から幸運にも生還できた方の場合には、「聴こえていた」ということが後で確認できるのに対して、トシの場合は残念ながら、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

 結局、トシの耳に果たして賢治の言葉が聴こえたのかどうか、生きている者として確かめる手段は、何もなかったわけです。だからこそ賢治は、トシの死後にあれほど執拗なまでに、彼女との「通信」を求め続けたのかもしれません。実際のところはどうだったのか、と・・・。

 しかし、その死から11年後に、やっとあの世で賢治と再会できたトシは、今度こそしっかりと、「あの時の兄さんの言葉は、ちゃんと聴こえていたのよ」と、笑顔で伝えることができたのではないかと、そんなこともふと考えてみる次第です。

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2016年2月11日 《ヘッケル博士!》という声に関する私見(2)

 お正月の記事では、佐藤恵子著『ヘッケルと進化の夢』という本についてご紹介しましたが、正月休みにこの本を読みながら、私はあらためて「青森挽歌」に登場する《ヘツケル博士》の意味について考えてみました。すなわち、《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という一節は、いったいどういう意味なのか、「そのありがたい証明」とは、いったい何の証明なのか、という問題です。

 これについては、もう10年以上も前に、「《ヘツケル博士!》への呼びかけに関する私見」という記事で、その時点での私の考えを書いてみたことがありました。当時の論旨を要約すると、「そのありがたい証明」とは、ヘッケルが提唱した「反復説」、すなわち「個体発生は系統発生を反復する」という学説の証明であり、賢治の考えでは、自分がトシと「通信」を交わすことによって仏教の「輪廻転生説」を検証することができれば、それは「輪廻転生説の科学化」とも言える「反復説」を証明することにもつながる、というものだったのではないかということでした。
 一方、今年のお正月以来私は、この箇所についてまた違った考えをするようになってきたので、今日はそのことを書いてみようと思います。

 まず、以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事において、この作品を<I>から<V>までに区分した中から、ヘッケル博士の登場する<III トシの死の状況の具体的回想>の部分を、下記に掲げておきます。右側に行番号を付けていますので、以下の説明中で適宜ご参照下さい。

「青森挽歌」<III>

 作品のこの部分では、トシの臨終の様子が具体的に回想されるわけですが、ここで賢治はただ手当たり次第にその時の出来事を思い出しているのではありません。
 内容を見ていただいたらわかるとおり、86行目では耳が聞こえなくなったこと、93-95行目では目が見えなくなったということをまず確認し、97-98行目では、その後もトシはこの世の幻視や幻聴を感じたのではないか、という推測を述べています。
 つまりここで賢治は、トシの臨終前後の「感官」の状態について、意識的に記憶を整理しているのです。

 そして、このようにしてトシの感官の状態を振り返った上で、賢治が本題として持ち出すテーマは、彼が「いみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき」に、はたしてトシがそれに対して「うなづいた」のか、という問題です。賢治はこれについて、執拗なまでに考えをめぐらします。
 すなわち、まず104行目では、「あいつは二へんうなづくやうに息をした」と、事実をそのまま記していますが、次に108行目では、「けれどもたしかにうなづいた」と、彼女が「うなづいた」ことを断定的に述べます。そして、「ヘッケル博士」への言及をはさんで119行目では、実に三度目に「たしかにあのときはうなづいたのだ」と記すのです。
 この一連の流れにおいて、「うなづいた」という言葉を畳みかけるように繰り返して、作品の声調が高まってくるところは、「青森挽歌」前半部における一つのクライマックスを形づくっていると言えるでしょう。

 そして、賢治がこれほどまでに、「トシが『うなづいた』かどうか」という問題にこだわっている理由は、この問題が、作品全体を貫くテーマであるところの「トシは天界に往生したのか?」という問題に対して、重要な意味を持っていたからだと思われます。
 すなわち、トシの「臨終正念」に関する問題です。

 「臨終正念」とは、「邪念のない正しい信仰を持って臨終を迎える」ということで、人は最期の時にこれが正しくできておれば、浄土真宗ならば浄土への往生が、日蓮系の宗派ならば天界への往生が、かなえられるという教えになっています。
 賢治が、トシの臨終に際してこの「臨終正念」をはっきりと意識していたであろうことは、早くも1976年に杉浦静氏が、「賢治文学における「死」のイメージと<臨終正念>」(『近代文学論』7号)という論文において指摘されました。
 杉浦氏は、日蓮が臨終正念について触れた書簡「妙法尼御前御返事」を引用し、人の死に際の顔色が白い場合は天に往生するのだと述べていることを、紹介しておられます。

 天台云はく「白々は天に譬ふ」と。大論に云はく「赤白端正なる者は天上を得る」云云。天台大師御臨終の記に云はく「色白し」と。玄奘三蔵御臨終を記して云はく「色白し」と。一代聖教の定むる名目に云はく「黒業は六道にとゞまり、白業は四聖となる」と。此等の文証と現証をもってかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 杉浦氏によれば、賢治が「無声慟哭」においてトシの顔貌や匂いについて記しているのも、あるいは「青森挽歌」後半部では《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》とか《…あのときの眼は白かつたよ/すぐ瞑りかねてゐたよ》 などと、その顔色を中傷する「魔」の声が入るのも、賢治が「臨終正念」という観点から、トシの最期の顔の相を特に気にかけていたからです。

 ではここで、トシにおける顔の肌の色が実際にどうであったかを確かめてみると、「青森挽歌」105行目に「白く尖ったあごがゆすれて…」とあるように、幸いなことに白かったのです。
 そうであれば、日蓮の「妙法尼御前御返事」を読んでいたであろう賢治は、安心してトシの天界往生を信じてもよいはずです。ところが、それでも賢治が安心しきれなかったのは、実は日蓮自身が臨終正念において本当に重視していたのは、顔色という外面的な事柄だけでなく、心や行いにおける信仰のあり方だったからだと思われます。下記は、やはり「妙法尼御前御返事」からの引用です。

 しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととはねさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 すなわち、臨終において「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながら亡くなった者は、成仏間違いないというのです。
 もちろん賢治も、このことは強く意識していたはずで、彼が死に近いトシに題目を熱心に唱えさせていたことを、トシに看護婦としてついていた細川キヨという女性が、森荘已池氏に語っています。

 豊沢町にうつってくると、やっぱり目にみえてよくありませんでした。古い家で、陰気でしたし、その上カヤをつってびょうぶでかこいますから、とてもくらくて穴ぐらにでも入ったようなのです。賢さんはいっしょにうつってきて、二階のへやにおられました。そしてときどき二階からおりてきては、ナムメョウホウレンゲキョウ何に彼にうんぬんと大きなこえでとなえて、としさんにも寝たまま手を合わさせて、ナムメョウホウレンゲキョウととなえさせるのでした。
 私は、まったくハラハラとして気が気でありませんでした。とても弱っている病人に、あんなマネをさせてはよくないと思ったのです。うしろから、小指でつついただけで、つんのめってしまって倒れるような病人があるものです。としさんはそれと同じことです。でも信仰のためなら、それもしかたのないことだろうと思って黙っておりました。お父さんお母さんとちがう信仰に一生けんめいなのですから、付添いの私なんか何かいえる筋合いのものでもありませんでした。(森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』より)

 このように、衰弱したトシに相当の無理をさせながらも、「南無妙法蓮華経」を唱えさせ続けていた賢治でしたが、しかし彼女のまさに最期の場面においては、題目を唱えさせることができなかったのだろうと思われます。
 もしも、トシが臨終に際して唱題を行ったとすれば、賢治はその事実を「青森挽歌」の上掲の部分に記さないはずはありません。ところが、テキストにはそのようなことは何も書かれておらず、それに作品中の記述を読めば、賢治は実際のところトシの呼吸と脈が止まってしまってから後に、その枕元へ「はしつて行つた」のです。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた

 愛する妹の死の瞬間、すなわち「呼吸がとまり脈がうたなくな」ったまさにその時点に立ち会えなかったことは、賢治にとっては悔やんでも悔やみきれないことだったろうと思います。
 賢治が駆けつけた時、もはや意識を失ったトシに、自ら題目を唱えさせることは不可能でした。

 そして、その時に賢治がとった行動は、トシの「耳もとで」、「万象同帰のそのいみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫」ぶということでした。私が思うには、賢治のこの行動は、「本人自身が題目を唱えつつ臨終を迎える」という、臨終正念のための最善の方法を実行できなかったため、それに代わる次善の策として、行われたものだったのではないでしょうか。
 先日、「万象同帰のそのいみじい生物の名」と題した記事において私は、この時に賢治が叫んだのは「生物の名」であるということから、日蓮の描いた「本尊」に記されている諸仏や諸菩薩の名前ではないかと推測してみました。後で触れる日寛の「臨終用心抄」の中で、臨終の際には「本尊と我と一躰也と思惟して…」ということを重視していることにもよります。しかし本日の議論においては、これは鈴木健司氏らが考えておられるように、賢治が叫んだのは「南無妙法蓮華経」だったと考えても、同じことです。
 いずれにせよ賢治はこの時、トシの天界往生を助けようとして、とにかくそのために効力があるとされる言葉を、力の限りに叫んだのだと思います。


 しかし、たとえそれがいくら偉大な力を持った言葉だったとしても、まだ賢治にとっては問題が残ります。
 すでに少し前に耳が聞こえなくなり、そして今や呼吸も脈も止まってしまい、明らかに「死」の境を越えてしまったように見えるトシ(の遺体)に対して、今さら言葉を聴かせてやることに、果たして意味はあるのでしょうか?

 この問題に関しては、「万象同帰のそのいみじい生物の名」でも引用した日寛の「臨終用心抄」という文書に、賢治にとっては一縷の望みが記されています。

一、唯今と見る時本尊を病人の目の前に向へ耳のそばへより臨終唯今也、祖師御迎ひに来り給ふ可し、南無妙法蓮華経と唱へ給へとて病人の息に合せて速からず遅からず唱題すべし、已に絶へ切つても一時ばかり耳へ唱へ入る可し、死ても底心あり或は魂去りやらず死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し。

 すなわち、命が「已(すで)に絶へ切つても」、題目を「一時ばかり耳へ唱へ入る可し」ということを、日寛は推奨しているのです。何となれば、「死ても底心あり或は魂去りやらず」とのことで、人間は死んでもその深い奥底には「底心」というものがあり、魂はまだ去らないのだというのです。そして、「死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し」とも述べて、死んでからでも唱題を聞かせれば、「悪趣」(=地獄・餓鬼・畜生)に転生することはないと、保証してくれています。
 この、「已に絶へ切つても…耳へ唱へ入る」という行為こそ、まさにトシの息が絶えた後に賢治が行った、「その耳もとで…ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」という行為そのものであり、この箇所は、彼がとった行為の有効性を、根拠づけてくれるものだと思います。

 「青森挽歌」のテキストでは、上掲の<III トシの死の状況の具体的回想>の後半部のほとんど、すなわち120行目から139行目までずっと、臨終後のトシに日寛の言う「底心」が存在したということを、何とかして確かめようとする賢治の思索が、縷々記されています。
 すなわち、「わたくしたちが死んだといつて泣いたあと/とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ/ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで/ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない」とか、「たしかにとし子はあのあけがたは/まだこの世かいのゆめのなかにゐて/落葉の風につみかさねられた/野はらをひとりあるきながら/ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ」という箇所などがそうです。
 このように、死後のトシにも「底心」が残っていて、「魂」の活動がまだかすかにでも続いていたのだとすれば、賢治が耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」ことにも、何らかの意味があったことになるわけです。


 さてこのように考えれば、賢治はトシの臨終への遅刻を挽回して、彼女の天界往生を助ける行為ができたのではないかと思われるのですが、しかしご存じのように賢治という人は、上記ような教えを信ずる「宗教者」としての側面とはまた別に、「科学者」としての側面も兼ね備えていました。科学者として合理的に考えてみると、日寛が言うような理屈は、かなり危ういものにも感じられます。
 科学者・賢治は、ここでまだトシの天界往生を安心して信ずるまでには、至らなかったかもしれません

 ところがここに、「生」と「死」を隔てる深い溝を強引にも乗『生命之不可思議』り越えて、生物と無生物、あるいは有機体と無機体というものは、本来はシームレスに繋がっており、両者は連続しているのだという説を唱えた科学者がいました。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、その大胆な「一元論」によって一世を風靡したドイツの生物学者、エルンスト・ヘッケルです。

 生前の賢治は、ヘッケルの代表的著作の“Die Lebenswunder”(邦訳『生命の不可思議』)を、原書で持っていました。
 下記は、『生命之不可思議』上巻(大日本文明協会事務所刊,1915)の、「第十三章 感覚」の一部です。

 有機体を分析する時、無機自然物体に発見せられざる原素を見ることなし。吾人は有機体の運動は、無機体と同じく重学の法則に従ふを見る、又、吾人は生活物質に於ける力の変化、即ちエネルギー代謝は、無機物に於けると同様に生じ且同じ刺激に依りて惹起せらるゝを信ず。以上の経験よりして、吾人は『刺激の知覚』(客観的意味に於ける感覚、及び主観的意味に於ける感情)も一般に両者に存在すると結論せざるべからず。総ての自然物体は、或意味に於て悉く『感覚を有す』。一元論が『死せる』物の一部を無感覚と認むる唯物論的解釈と相異する点は、物質に対する此のエネルギー説的理解に存す。

 すなわち、ヘッケルが提唱した「一元論」に立てば、「死せる物」も、生物と程度こそ違え、「感覚を有す」のです。このように、生物と無生物を連続した存在としてとらえる考え方は、やはり同様のアニミズム的な感性を持っていた賢治にとっては、共感するところも多かったのではないでしょうか。
 そして、もしもヘッケルが言うように「生ける者」と「死せる物」の活動(エネルギー代謝)が連続しているのならば、ついさっきまで生きていたトシが息絶えた後にも、何らかの「感覚」があり、それ相応の「意識」があっても、おかしくないように思えます。

 さて、ここでついに問題の箇所に到達しました。「青森挽歌」109-111行目に出てくる、《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という言葉の意味するところは、このようなヘッケルの考え(=一元論)のことであり、これが真実であるということを確認することこそが、「そのありがたい証明」なのではないかと、私は考えるのです。

 本文中でこの言葉は、臨終直後のトシが賢治の叫びに応えて、「二へんうなづくやうに息をした」(104行目)、「けれどもたしかにうなづいた」(108行目)と続き、彼女の感覚や運動がまだ保たれていたと信ずる気持ちが、頂点まで高まった瞬間に現れます。そしてこの言葉のさらに少し後で、賢治は三たび「たしかにあのときはうなづいたのだ」(119行目)と繰り返すのです。
 すなわち、このテキストの構造からすると、ヘッケルの「ありがたい証明」とは、「賢治の声がトシに届き、トシはそれにうなずいたに違いない」という問題の、ど真ん中に関わっているはずです。そして、ヘッケルの「証明」を上記のように理解すれば、これは上記の問題の解決につながるのです。

 もしもトシからの「通信」が得られて、あの時たしかに彼女は「うなづいた」のだということが確認できれば、それはヘッケルが言うところの「無機体も感覚を有す」という説の「証明」にもなると賢治は考えたのではないか、これがこの箇所に関する私の解釈です。
 そして、114-118行目の、(宗谷海峡を越える晩は/わたくしは夜どほし甲板に立ち/あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり/からだはけがれたねがひに みたし/そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)という箇所に描かれている賢治の決意は、この「挑戦」によってトシとの「通信」を実現しようということだと考えます。

 ただ、このように自分の妹の天界往生を確信するという目的のために、ヘッケルの説の「証明」をしようというのは、賢治の倫理観からするとあまりに利己的な動機にもとづいたものと言えるでしょう。このヘッケル博士に対する呼びかけが、「凍らすやうなあんな卑怯な叫び声」という風に否定的に位置づけられているのはこのためでしょうし、また宗谷海峡での挑戦の動機が、「けがれたねがひ」と表現されているのも、同じ理由によると思われます。
 作品の最後で、《けつしてひとりをいのつてはいけない》として現れる言葉の伏線が、すでにここにあるとも言えます。

 ところで、この《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という言葉は、二重括弧《 》で括られていますから、「「青森挽歌」の構造について(1)」で述べたように、これは賢治の潜在意識の底から発せられ、彼にとっては「幻聴」として体験された言葉と思われます。
 賢治としては、臨終のトシが自分の叫んだ言葉にうなずいてくれたと信じたい、そしてその天界往生を信じたい、という願望が非常に強かった一方で、そんなに自分の妹の幸せばかりを祈ってはいけないとして、そういう思いを抱くことに対する内的な禁止・抑圧も、また強かったのだろうと思います。このように、自分の心の中に激しい二律背反が存在する時に、一方を自我から切り離して(=解離)自分の外部に投影し、あたかも外から声が聴こえるような体験が起こるということがあります。
 これが、この《ヘツケル博士!…》という言葉が、この時の賢治にとっては「幻聴」として感じられたことの原因だったのだろうと、私は思っています。

 以上のような、賢治が「青森挽歌」において抱えていた問題群と、その解決のための典拠を図にすると、下記のようになります。

「青森挽歌」の問題群

 トシの天界往生の問題は、右側の様々な論拠を参照しつつ段々と下の問題に置き換えられていき、最下段でヘッケルが説くように無機体にも感覚があるのか、という問題に行き着きます。
 もしもこのヘッケルの学説が「証明」できれば、今度は左側を段々と昇って、まずこれは臨終直後のトシが賢治の声を知覚できたことの尤もらしい説明となり、次にそれはトシが「うなづいた」ことを根拠づけ、すると臨終時のトシは「本尊」(または「題目」)と一体であったことになり、これはすなわち「臨終正念」ということであり、最後にトシは天界往生したという結論が導かれる、というわけです。

 なお、右側に並べている論拠のうち、日蓮の書簡とヘッケルの著書は、確かに賢治は読んでいたと思われるのですが、日寛の「臨終用心抄」という文献は、日蓮系の教団においては重要なもののようですが、賢治が読んでいたという証拠は何もありません。
 ただ、ちょうど「幾何」の問題を解く際に適当な「補助線」を引いてやると筋道がきれいに見えてくるように、「青森挽歌」が孕んでいる数々の謎に対して、この「臨終用心抄」という足場を置くと、全体が論理的に繋がるように見えてくるのです。

 最後に、上の図を動画にしてみたものを下に載せておきます。「青森挽歌」の前半部において、賢治の心の底にあった理屈の流れを表そうとしたものです。

「青森挽歌」前半部のフローチャート

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2016年1月24日 「噴火湾(ノクターン)」のFuneral march

 トシの死の翌年のサハリン旅行における最後の作品が、「噴火湾(ノクターン)」です。
 この作品における賢治は、噴火湾(内浦湾)に沿って走る列車に乗って、車窓から夜明けの景色を眺めていますが、心の中はやはりトシのことでいっぱいです。
 詩の最後、すなわちこの悲しみの旅における賢治の最後の言葉は、次のように結ばれます。

噴火湾のこの黎明の水明り
室蘭通ひの汽船には
二つの赤い灯がともり
東の天末は濁つた孔雀石の縞
黒く立つものは樺の木と楊の木
駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 北の最果てへの旅を終えようとするこの時にも、やはり悲しみに沈む賢治の心は癒えていなかったということが、ここに如実に表れています。
 ちなみに、この箇所で「室蘭通ひの汽船」の二つの灯火が見えていることから、以前に私は「噴火湾で列車から汽船を見る」という記事において、賢治が乗っていたのは「急行2列車」で、これはおそらく午前4時14分頃のことであり、場所は「野田追」駅と「落部」駅の中間で、列車が海岸沿いに出たあたりではないかと推測してみたことがありました。
 しかし、今日取り上げるのはそこではなくて、作品の中ほどあたりの、次の箇所です。

一千九百二十三年の
とし子はやさしく眼をみひらいて
透明薔薇の身熱から
青い林をかんがへてゐる
フアゴツトの声が前方にし
Funeral march があやしくいままたはじまり出す

 ここに出てくる'Funeral march'とは、「葬送行進曲」のことです。もちろん、賢治のイメージにあるのは、前年のトシの「葬送」でしょう。
 花巻に帰った後の8月31日に書かれた「雲とはんのき」にも、「これら葬送行進曲の層雲の底・・・」という言葉が出てきますから、この時期の賢治の心象風景の BGM としては、ずっと何らかの Funeral march=葬送行進曲が、鳴り続けていたのでしょう。
 ところで、この「葬送行進曲」という言葉が、たんに象徴的な意味で使われているのではなくて、賢治にとって何かある特定の曲を指しているという可能性は、彼がクラシックレコードの蒐集家であったことを思えば、十分にありうることです。「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という描写の具体性も、ここで賢治の心の中には、実際にメロディーが流れていたのではないかと思わせます。

 そして、『宮澤賢治の聴いたクラシック』(小学館)の著者の萩谷由喜子氏も、そのように考えられたようです。

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 この本は、賢治とクラシック音楽の関わりについての詳しい解説とともに、当時のSPレコードから復刻した珍しいCDが2枚も付いているという素晴らしいものです。
 そのCDには、「噴火湾(ノクターン)」に登場する'Funeral march'の推定曲として、ベートーヴェンのピアノソナタ第12番「葬送」第3楽章の吹奏楽編曲版が収録されていて、本文p.72には次のような解説が付けられています。

賢治の心象スケッチ『春と修羅』には『オホーツク挽歌』として一挙収載された5編の口語詩がある。その5編は大正11年11月27日に24歳で世を去った最愛の妹トシを悼む一連の挽歌だが、その最終詩『噴火湾(ノクターン)』に「ファゴツトの聲が前方にしFuneral march があやしくいままたはじまり出す」という詩句がある。「ファゴツトの聲が前方にし」というヒントから、詩の中の「Funeral march」をピアノ・ソナタ第12番の第3楽章のバンド演奏盤と推定し、ヴェルセラ・イタリアン・バンドの録音を収録した。

 実際、ベートーヴェンのピアノソナタ第12番第3楽章は、作曲者によって'MARCIA FUNEBRE'と題されている、クラシック音楽の中でも代表的な葬送行進曲の一つです。ここに収録されているその吹奏楽編曲版は、CDとして世界初復刻ということでとても貴重なものなのですが、ただ私としては、これを「噴火湾(ノクターン)」の'Funeral march'だと推定するには、少なくとも次のような2つの問題点があるように思うのです。

 問題の一つは、確かにこの吹奏楽編曲にはファゴットも使われているようですが、低音部は常に金管楽器とユニゾンで重ねられており、「ファゴットの音色だけ」が聴こえるような箇所は、ほとんど存在しないのです。したがって、まず「フアゴツトの声が前方にし」て、次いで「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という、作品中の描写と具体的に対応するような部分は、この演奏には出てきません。
 一方、「フアゴットの声」とか、「いままた・・・はじまり出す」とかいうこの箇所の賢治の描写は非常に具体的ですので、私にはどうしても、これは実際の音楽の進行と対応しているのではないかと感じられるのです。

 問題点のもう一つは、この吹奏楽編曲版のベートーヴェンのピアノソナタ第12番第3楽章のSPレコードを、生前の賢治が聴いていたという証拠がないことです。
 賢治が実際にどんなレコードを聴いていたのかということについては、(1)賢治が遺品として残したレコード、(2)賢治が友人に贈ったレコード、(3)羅須地人協会時代に作った「レコード交換用紙」に賢治自身が記載したレコード、(4)友人等によるよる証言、という形で知ることができますが、このいずれにも、上記のレコードは含まれていないのです。もちろん、ここに含まれていないからと言って、賢治がこれを持っていた、あるいは聴いたことがあったという可能性を否定することはできませんが、この説をとるためには、そういう一つの「仮定」を追加する必要が出てくるわけです。

 これに対して私自身の考えは、「噴火湾(ノクターン)」における'Funeral march'とは、同じベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第2楽章なのではないか、というものです。
 この楽章も、作曲者自身によって、'Marcia funebre'(=葬送行進曲)と、イタリア語でタイトルが付けられています(下図)。

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章冒頭

 そして、生前の賢治がこの曲を実際に聴いていたことを、親交の深かった斎藤宗次郎氏が書き記しています。下記は、『四次元』第二巻第九号(昭和25年10月)に収載された斎藤宗次郎「懐しき親好」の一部です。(『宮澤賢治研究資料集成』第7巻p.214)

 何時の頃か忘れたが、賢治さんが始めて蓄音機を求めた時、私は妻とと共に賢治さんに招かれ、二階の広い室の一隅で父君と四人頭を聚めて色々のレコードを聴いたことがある。此頃の賢治さんは、音楽に対する興味其観賞の力が大いに進んで居られたであろう。名曲に魅せらるる様子は感心の至りであった。其後私も蓄音機を求めたので、賢治さんはベートーヴエンのクロイツエルソナタや第三第七交響楽などのレコードを借りに見えたこともあり、時には令弟を伴つて来て、私の求康堂の店頭に腰を下し、ヘンデル・シユーベルト・チヤイコフスキー・シヤリアピンなどのレコードを聴き楽んで帰られたこともあつた。

 すなわち、上の分け方で言えば「(4)友人等による証言」によって立証されるわけですが、賢治はベートーヴェン交響曲第3番のレコードを、少なくとも斎藤宗次郎に借りて聴いていたことは、確かなのです。

 すると次の課題は、「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」というように音楽が進行する箇所が、この曲に実際に存在するのかということです。
 結論から言えば、それは第2楽章の43小節目から始まるファゴットのソロに導かれて、やがて50小節目からオーボエによる第一主題(すなわち葬送行進曲の主題)が現れるところだろうと、私は考えています。
 下に、その箇所の楽譜を引用します。

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章2

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章3

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章4

 上の1頁目および2頁目で、赤い色を付けてあるところが、「フアゴツトの声が前方にし」に相当する部分です。1頁目の最後の2小節からファゴットのソロが始まり、これは2小節後からは他の木管楽器と重ねられますが、さらにその2小節後には、六度の音程でクラリネットと美しく絡みます。
 そして、2頁目の最後の青い色を付けたところから、オーボエに第一主題(葬送行進曲の主題)が再び現れ、3頁目へと続きます。つまり、ここが「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」に相当するのです。(以上、引用楽譜はいずれも全音楽譜出版社のポケットスコアによります。)

 音楽の流れとしてはこうなっているのですが、楽譜で見ていただくよりも「百見は一聞に如かず」ということで、この箇所の実際の演奏をお聴きいただきましょう。
 下の演奏は、カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団による、「ベルリンフィルハーモニー創立100周年記念演奏会」(1982)のライブです。第2楽章が始まる直前(15:05)から再生されるように設定してありますが、問題のファゴットのソロは、17:59頃から始まります。

 この17:59から、ファゴット高音域の、独特の哀愁を帯びた調子で推移的な旋律が奏でられ、そこにフルートや他の木管が加わり、一瞬クラリネットだけが残って、またファゴットが繊細に寄り添います。
 そして18:29頃からは、オーボエが再び第一主題を奏で始めます。この少し前の17:36には、流麗な長調の第二主題が導入され、いったん曲想が転換した後ですから、ここで再び短調の第一主題が現れた時の印象は、まさに「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という表現が、絶妙に当てはまる感じがします。

 以上、これは賢治が実際に聴いていた曲であること、また上のように作品中の描写と美しく対応している箇所も存在していることから、私としてはこれこそが、「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という部分だろうと、自分では深く納得している次第です。

 余談ながら、上のベルリン・フィルのライブにおいて、オーボエの首席を務めているのはローター・コッホ、クラリネットはカール・ライスター、そしてファゴットはギュンター・ピースクという面々であり、私としてはベルリン・フィルの木管セクションを「超人集団」として崇拝していた学生時代を思い出す、懐かしい演奏です。
 カラヤンによる端整な造型、弦楽器の圧倒的な力量とも相まって、これはベートーヴェン「英雄」の歴史的名演の一つとも言える記録ではないかと、今回YouTubeで視聴して感じました。

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2016年1月17日 万象同帰のそのいみじい生物の名

 1922年11月27日の午後8時半、妹トシの臨終の場面において、賢治は死にゆく彼女の耳もとで、何事かを「ちからいつぱい」叫びました。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちいさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた
   《ヘツケル博士!
    わたくしがそのありがたい証明の
    任にあたつてもよろしうございます》

 上の「青森挽歌」のテキストによれば、賢治が叫んだのは、「万象同帰のそのいみじい生物の名」だったということです。
 これはいったい、何のことでしょうか?

 遂にトシの呼吸と脈が止まった時、その枕元へ走った賢治が何を叫んだのかということは、「永訣の朝」から続くこの運命的な一日のドラマを私たちが思い描く上でも、非常に重要なポイントです。ところが、この「生物の名」が意味するところについては、まだ賢治研究者の間でも、十分な意見の一致には至っていないのです。
 たとえば鈴木健司氏は、渡辺芳紀編『宮沢賢治大辞典』の「青森挽歌」の項に、次のように書いておられます。

 次の「いみじい生物の名」とは大乗経典の〈妙法蓮華経〉のこと。賢治は宇宙の本体を〈妙法蓮華経〉そのものと考えており、宇宙全体を一つの生物(釈迦の身体)と捉えようとする認識が見える。

 たしかに、臨終の瞬間のトシに賢治が「南無妙法蓮華経!」と叫んだとすれば、それは二人でともに法華経を信仰していた兄が、妹の最期にとった行動として、まさにふさわしいものと言えます。またこれを一般的な臨終の情景として眺めても、全く違和感はありません。
 しかし、私にとってはどうしても、「妙法蓮華経」を「生物の名」と呼ぶことに対して、納得のいかない感じが残るのです。

 もちろん賢治には、鈴木氏の指摘するとおり、「宇宙全体を一つの生物と捉えようとする」考え方があったでしょう。また、1918年頃の書簡には、「万物最大幸福の根原妙法蓮華経」「三世諸仏の眼目妙法蓮華経」「一切現象の当体妙法蓮華経」(保阪嘉内あて書簡50)とか、「妙法蓮華経ハ私共本統ノ名前デスカラ之ヲ譏ルモノハ自分ノ頸ヲ切る様ナモノデセウ」(成瀬金太郎あて書簡55)などの言葉もあります。
 そうすると、「妙法蓮華経」を「生物の名」と呼ぶことも、論理的には成り立ちうることに違いありません。しかし一方で、これを「宇宙の名」と呼んでも、「一切現象の名」と呼んでも、「私共の名」と呼んでも、論理的にはどれでもかまわないわけです。それなのに、なぜここでは「生物の名」なのでしょうか。
 賢治が、トシの臨終の床で「南無妙法蓮華経!」と力いっぱい叫ぶというのは、それはもう非常にありそうなことですが、もし賢治がそのことを書き記したいのなら、ここで賢治はなぜそれを「万象同帰のいみじい経典の名」と書かなかったのでしょうか。たとえその名をどのように修辞的に表現できるとしても、法華経とは、第一義的には「経典」です。鈴木氏の指摘のように、賢治にとっては法華経→宇宙→生物という概念的な置き換えが可能であったとしても、法華経そのものは、「生物」ではありません。この世に生まれ、そしてはかなく死ぬ運命にある無常の存在ではなくて、すべての現象を変わらず貫く「法」なのです。
 それなのに、ここで賢治が特に「生物の名」と書いていることには、何か理由があるはずではないか、賢治は単に「南無妙法蓮華経」と唱えただけではなかったのではないかと、私にはどうしても思えてならないのです。

 一方これに対して、この「生物の名」というところに、特に注目した説もあります。
 見田宗介氏は、『宮沢賢治―存在の祭の中へ』において、これを生物学者ヘッケルが、最も原始的な生命の段階として仮説的に提唱した「モネラ」という存在のことではないかと考えて、次のように述べておられます。

 中学生と女学生の賢治ととし子は、読んだばかりのヘッケルの書物のなかの、この〈モネラ〉という奇妙な生物のなかで、賢治ととし子も他のあらゆる人間たちも、他のあらゆる生命たちも、ひとつにとけ合っていたことがあったのだねなどと、なかばおどけて語り合い、うなずきあうこともあったかと思われる。個体発生が系統発生をくりかえすならば、わたしたちひとりひとりの生の起源にも〈モネラ〉は存在するはずである。
 この「生物」の名が二人のあいだで、個我とその他の生命たちとの同帰する根源にあるものを指す記号として、語り合われるたびにさまざまな意味を吸収してふくらみながら、〈対の語彙〉――二人だけのあいだで通用することばとして定着していて、賢治は死んでゆくトシ妹の耳に、必ずまた会おうねという暗号のように、ヘッケル博士のこのいみじい生物の名を、力いっぱい叫んだかもしれないと思う。

 これは、とてもロマンチックで美しい仮説だと思います。そして最近では、廣瀬正明氏も「「青森挽歌」における「ありがたい証明」とは何か」(『賢治研究』125号)において、見田氏のこの「モネラ説」に賛意を表しておられます。
 実際、「ペンネンノルデはいまはいないよ 太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ」と題した賢治の創作メモのなかに、「ノルデは書記にならうと思ってモネラの町へ出かけていった」という一節がありますので、賢治の意識のなかにこの「モネラ」という言葉があったのは確実なのです。また、賢治の蔵書の中にヘッケルの『生命の不可思議』があったことからも、上で見田宗介氏が述べているような意味で、賢治がこの言葉を理解していた可能性も十分に大きいのです。

 しかしながら、賢治とトシが、ヘッケルの言う「モネラ」という架空の生命体について、見田氏が想像したように語り合っていたというのは、あくまで見田氏による一つの仮定にすぎず、これは何ら根拠のあることではありません。
 それに何より、賢治が死にゆくトシの耳もとで、「モネラー!!」と叫んでいるという図は、私にとってはあまりにも滑稽なものに感じられてしまうのです。あくまで私の主観にすぎないことですが、これはどうしても、厳粛な臨終の場面にふさわしい感じではありません。

 ということで、賢治がトシの耳もとで何と叫んだのかという問題に対する従来の説は、いずれも私にとっては十分に納得できるものではないのです。
 「万象同帰」、すなわち全ての現象がともに帰っていくべき対象であり、また「すべての勢力(エネルギー)のたのしい根源」であるような、「いみじい生物」とは、いったい何なのでしょうか。

 ここで、そもそも法華経に記されている世界において、最も「いみじい生物」とは何だろうかと考えてみるならば、法華経において「久遠本仏」として位置づけられている「釈迦牟尼仏」こそが、それに該当するでしょう。
 釈迦とは、インドに生まれたゴータマ・シッダールタという一人の人間であり、青年期に出家して悟りを開き、人々に対して教化と伝道を行った後、80歳で亡くなったわけですから、確かに「生物」に違いありません。
 そうすると、賢治がトシの耳もとで叫んだのは、たとえば「南無釈迦牟尼仏!」という言葉だったのでしょうか。

 これも、十分に一つの仮説としては成り立ちうると思います。しかしこの説には、一つ難点があります。
 それは、「何を本尊とすべきか」という問題に関する日蓮の考えに現れていることなのですが、他の多くの仏教宗派が、釈迦や阿弥陀や薬師や大日など、様々な仏を尊崇し、その仏像を「本尊」として礼拝しているのに対し、日蓮はこのように「仏」を拝むこと(=人本尊)は行わず、仏をはじめ万象をあらしめている根源であるところの、「法華経」をこそ尊ぶべきである(=法本尊)と説いているのです。
 下記は、この問題について日蓮が述べている、「本尊問答抄」の一節です。

問ふ、其の義如何。仏と経といづれか勝れたるや、
答へて云はく 本尊とは勝れたるを用ふべし、例せば儒家には三皇五帝を用ひて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。
問うて云はく、然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、
答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ、私の義にはあらず 釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 すなわち、まず日蓮は、「本尊とは勝れたるを用ふべし」とした上で、仏教では釈迦が最も尊いのだから「仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」と答えています。ここまでを根拠とするならば、上のように「南無釈迦牟尼仏!」と唱えることにも、正当性があるわけです。
 しかし、これに続く「ではなぜあなたは釈迦を本尊としないのか」という問いに対して、日蓮は「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり」「釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり」として、釈迦ではなくて法華経を本尊とすべきだと明言しています。
 法華経によれば、釈迦など諸仏は、法華経の力によって生まれたもの(=所生)であるのに対して、法華経こそがそれらを生んだもの(=能生)なので、仏よりも法華経の方を尊ぶべきだというのです。

 したがって、「南無釈迦牟尼仏!」と叫ぶことは、たしかに「いみじい生物の名」を唱えていることではありますが、日蓮の教えに基づけば、これでは「すべての勢力のたのしい根源/万象同帰」の名前とは言えないのです。
 これが賢治の家の宗派であった浄土真宗ならば、「南無阿弥陀仏!」と唱えることは、「阿弥陀仏」という「いみじい生物の名」を呼ぶことになり、「青森挽歌」における記載とも宗教的教義とも合致するのですが、日蓮の場合は違うのです。
 それでは、日蓮の考えに基づくかぎりは、「本当に尊ぶべきもの」が「生物」であるということは、ありえないのでしょうか。

※ 

 ここで、日蓮の教義における「本尊」について見てみましょう。賢治自身が、国柱会から「御本尊」として授与されていたものは、下のような文字による曼荼羅でした。(『新校本全集』第16巻下「補遺・伝記資料篇」口絵より)

賢治が国柱会より受領した「本尊」

 これは、日蓮が佐渡配流中の1273年(文永10年)に描いた曼荼羅(「佐渡始顕本尊」)を、田中智学が模写したもので、国柱会ではこれを「本尊」として会員に授与していました。
 ここには、中央の「南無妙法蓮華経」を中心に、上段その左隣には「南無釈迦牟尼佛」、さらに左へ順に「南無浄行菩薩」、「南無分身等諸佛」、「南無安立行菩薩」が並び、反対に題目の上段右隣には、「南無多宝如来」、さらに右へ順に「南無上行菩薩」、「南無三世諸佛」、「南無无邊行菩薩」と並んでいます。この下の段には、他の菩薩や仏弟子の尊者、さらに下の段には「十羅刹女」や「鬼子母神」など女性の諸天、さらに最下段には、左に「南無妙楽大師」、「南無伝教大師」、右に「南無龍樹菩薩」、「南無天台大師」と、歴史上の僧の名も続いています。左右両端には、上段に「大毘沙門天王」と「大持国天王」、中段に梵字で「愛染明王」と「不動明王」、下段に「大増長天王」と「大広目天王」が配され、すべてを守護する形になっています。
 全体を活字で表わせば、下のようになります。

法華曼荼羅文字


 これがいったい何を表しているかというと、これは法華経全巻におけるクライマックスとも言うべき「虚空会」の情景を、日蓮が文字によって図示したものなのです。「法華曼荼羅」とも「十界曼荼羅」とも「妙法曼荼羅」とも呼ばれます。
 すなわち、「法華経見宝塔品第十一」では、説法をする釈尊(釈迦牟尼仏)の前に、突如として高さ五百由旬の巨大な美しい宝塔が地から涌き出して、空中に浮かびます。次いで、あらゆる世界から分身の仏が来集し、釈尊は宝塔の扉を開けて中に入り、そこで多宝如来と並んで座します。そして釈尊は、居並ぶ諸仏、諸菩薩、諸天、善神、善男善女など会衆の全員をも宙に浮かせ、皆に向けて説法を行ったというのです。すべてが空中で行われたということで、これは「虚空会」と呼ばれます。
 日蓮はこの曼荼羅に、法華経に描かれたかくも壮大・荘厳な世界を凝縮して表現しようとしたわけで、この図像を心に観ずることによって、人は法華経と一体になれるとされています。
 賢治も、二階の自分の部屋の壁にこの本尊を掛け、日夜この前に正座して、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて礼拝を行っていたわけです。

 さてここで、賢治がトシの臨終においてその耳もとで叫んだ言葉は、この曼荼羅に記されている内容だったと考えてみたら、どうでしょうか。

 順に唱えていくと、「南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来、南無浄行菩薩、南無上行菩薩、南無分身諸仏、南無三世諸仏、南無安立行菩薩、南無無辺菩薩、南無普賢菩薩・・・」などということになり、最初の「妙法蓮華経」だけは経典の名前ですが、これを除けば、あとは最後まですべて「生物の名」になります。すなわち、題目に続いてここに羅列されている名は、すべてが法華経のクライマックスに参集した諸仏、諸菩薩、諸天、善神、善男善女たちであり、これこそ「いみじい生物の名」とも言えるのです。

 つまり私としては、賢治はトシの臨終の枕元において、日蓮が著した本尊たる曼荼羅を口唱したのではないか、と考えるのです。あるいは、この本尊全体を唱えるとなるとあまりにも長いので、その最上段のみを抜粋した「略式曼荼羅」を唱えたと考えてもよいかもしれません。下写真は、「〔雨ニモマケズ〕」に続けて賢治が手帳に書いた、その略式の曼荼羅です。

略式妙法曼荼羅

 ただ、この仮説を採ったとしても、最初に唱えるべき最も重要な「南無妙法蓮華経」は、やはり「生物の名」ではありませんので、全体を「いみじい生物の名」と呼ぶことには、やはり若干の問題が残ります。
 これに関しては、上の略式曼荼羅を唱えたとしても、7つの名前のうちで6つは「生物」です。それに何より賢治にとっては、トシの臨終ほど重要な場面において、「唱題をする」というのはあまりにも当然の自明のことなので、ここにはあえて記さず、その後に続けた諸仏・諸菩薩の名前の方を「いみじい生物の名」として特記した、と考えることもできます。

 このように、もしも賢治がトシの臨終において「本尊曼荼羅を口唱する」という行動をとったとすれば、その意図は何だったのか、このような行為の宗教的な意味は何なのか、ということが次に問題になります。
 これについては、江戸時代初期の日蓮正宗の「中興の祖」と言われる日寛(1665-1726)が著した「臨終用心抄」という文書が、参考になるように思われます。日寛はこの文書の中で、「臨終の断末魔の苦しみで心が乱れないためには、どのようにしたらよいか」という問いに答えて、次にように記しています。

常に本尊と我と一躰也と思惟して口唱を励むべし。御書十四四十七実に己心と仏心と一心なりと悟りなば臨終を礙ふるべき悪業も有らず、生死に留るべき妄念も有らず云云

 すなわち、臨終に際しては「常に本尊と自分とが一体であると念じて、(題目の)口唱を励むべし」というのです。しかし現実には、トシはその最期において、自ら「南無妙法蓮華経」と唱える力はもはや残っていませんでした。しかしそのかわりに、賢治が「本尊」の内容を高らかに口唱してそれをトシの耳から入れてやることによって、トシと本尊を一体化させようと試みたのではないかと、私は思うのです。
 日寛の「臨終用心抄」にはまた、病人がまさに臨終を迎える時にしてやるべきこととして、次のような記述もあります。

一、唯今と見る時本尊を病人の目の前に向へ耳のそばへより臨終唯今也、祖師御迎ひに来り給ふ可し、南無妙法蓮華経と唱へ給へとて病人の息に合せて速からず遅からず唱題すべし、已に絶へ切つても一時ばかり耳へ唱へ入る可し、死ても底心あり或は魂去りやらず死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し。

 「青森挽歌」や他の作品の記述を見るかぎりでは、賢治はトシの臨終において、上に書かれているように「本尊を病人の目の前に向へ」ということは、行わなかったようです。周囲は全員が浄土真宗の門徒であるという状況に、遠慮したのかもしれません。しかしまさにそのかわりとして、「本尊の内容を口唱する」ということをしたのではないかと、私は考えてみるのです。

 そしてまた、上に引用した後半部に、「すでに息が絶えきっても一時ばかり耳へ唱え入れるように、死んでも底心というものがあるし、魂は去ってしまうわけではない」と書かれているところも、「青森挽歌」における賢治の考えや行いを彷彿とさせるものがあります。すなわち賢治はこの時、トシの耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい」叫んで「唱へ入れ」ましたが、それに応えてトシが「二へんうなづくやうに息をした」ことを、何度も自分に言い聞かせるかのように回想します。

たしかにあのときはうなづいたのだ
そしてあんなにつぎのあさまで
胸がほとつてゐたくらゐだから
わたくしたちが死んだといつて泣いたあと
とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ
ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで
ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない

 ここに描かれているトシの様子は、「死ても底心あり或は魂去りやらず」という記述に、まさに呼応しているかのようです。

 それからあと一つ、念のために考えておきたいことがあります。それは、私がここで想定したように「本尊の内容を口唱する」ということを、日蓮を信仰する人は一般的に行うものなのか、という問題です。本来は、日蓮が著した本尊の曼荼羅は、目で見て心に観ずることによって尊崇するものであり、声に出して唱えるために書かれたものではないでしょう。
 これについては、浅学の私にはまだよくわからないのですが、しかし賢治が「雨ニモマケズ手帳」に残している下の記載が、一つのヒントを与えてくれるのではないかと思います。

「雨ニモマケズ手帳」p.155-156

 ここにおける配列は、先に引用した「〔雨ニモマケズ〕」末尾のものとは異なっています。すなわち、本来は「南無妙法蓮華経」は中央に位置しなければならないのに、ここでは右端にあり、これに続いて、「南無上行菩薩」、「南無浄行菩薩」、「南無無辺行菩薩」、「南無安立行菩薩」となっています。
 もとの略式曼荼羅と比較すると、「南無釈迦牟尼仏」と「南無多宝如来」が抜けてはいますが、題目→上行→浄行→無辺行→安立行という順序は、題目から始まって、右、左、右、左となっており、これは曼荼羅に配された菩薩の名を、「口唱する」順序になっていると思われるのです。
 すなわち、賢治は手帳のこの2ページを、曼荼羅を口唱しながら書いたと考えられることから、賢治は、本尊の曼荼羅の少なくとも一部を、口唱することがあったのではないかと推測できるわけです。

 ということで、「青森挽歌」に描かれたトシの臨終において、賢治が「ちからいつぱい」叫んだ「いみじい生物の名」とは、日蓮が著した本尊の曼荼羅の内容だったのではないか、という私の想像について述べました。

 最後に、鈴木憲夫氏作曲の混声合唱曲「雨ニモマケズ」の大阪コレギウム・ムジクム合唱団による演奏を、下に貼っておきます。
 この合唱曲では、1:04あたりからと、9:21あたりからの二箇所で、上にも引用した略式十界曼荼羅の「南無無辺行菩薩、南無上行菩薩、南無多宝如来、南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無浄行菩薩、南無安立行菩薩」が、歌われます。「いみじい生物の名」が、唱えられているのです。

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