2016年9月25日 大槌町の「暁穹への嫉妬」詩碑

 去る9月19日、岩手県大槌町において「暁穹への嫉妬」詩碑の除幕式が行われましたので、参加してきました。
 私はこの除幕式において、賢治の詩「暁穹への嫉妬」を朗読するという大役を仰せつかってしまって冷や汗をかきましたが、このたび新たにできた詩碑は、下写真のような立派なものです。昨年のイーハトーブ賞奨励賞を受賞された佐々木格さんが会長を務める「大槌宮沢賢治研究会」が企画立案し、募金を集めて建立されました。

「暁穹への嫉妬」詩碑

 2011年3月11日の東日本大震災によって、岩手県上閉伊郡大槌町は、死者854人、行方不明者423人という、深刻な人的被害を受けました。
 震災前の大槌町の人口15,277人(2010年国勢調査)に占める、この死者+行方不明者の割合は、実に8.36%にも上り、老若男女あわせた全町民の12人に1人が、犠牲になられたことになります。ちなみに、この8.36%という数字は、宮城県女川町の8.68%に次いで、全国で二番目に高いものです。(データは「東日本大震災における死者・行方不明者数及びその率」より)
 さらに大槌町では、町の幹部が庁舎で災害対策本部を立ち上げようとしているまさにその時に津波に襲われ、懸命の避難も及ばず、当時の町長をはじめ課長クラスの職員のほとんどが一挙に犠牲になってしまうという惨事も起こりました。このため、被災後しばらくは町の行政機能がほとんど麻痺してしまうという事態にも見舞われました。

 そのような大槌町で、様々な方が復興に力を尽くしておられる中、犠牲者の遺族の方々のために「風の電話」という場所を設置・運営してこられた佐々木格さんは、2015年2月に「大槌宮沢賢治研究会」を立ち上げ、宮沢賢治に関する勉強会や講演会を行うとともに、大槌町に宮沢賢治の詩碑を建てるという目標を掲げて、募金や企画・交渉などの活動を行ってこられました。
 その「賢治詩碑建立」という目標が、まず最初に具体化したのが、この「暁穹への嫉妬」詩碑です。

 詩碑は、人の背丈ほどもあろうかという大きな立派な石の表面に、直接そのまま「暁穹への嫉妬」の冒頭4行が刻まれているものです。石そのものの自然な形を生かした雄大な風格があり、すぐ後ろに広がる太平洋の景観と、見事に均衡を保っています。

 そしてこの詩碑の手前に置かれた副碑が、佐々木格さんはじめ大槌宮沢賢治研究会の方々のこの詩碑にかける思いを、如実に物語ってくれています。

「暁穹への嫉妬」副碑

2011年3月11日 東日本大震災で大槌町は壊滅的
被害にみまわれ多くの貴い命を失った 生き残った私たち
は亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたち
に どう生きるかを示す責任がある 私たちは宮沢賢治の
「利他の精神」がその道しるべになると考える ここに大槌
と関わりの深い「暁穹への嫉妬」を建立し顕彰する

 先に述べたように、大槌町は、震災でまさに「壊滅的被害」を受けました。そのような大変な災難を、何とか生き延びた方々におかれては、「生きている・命がある」というだけでも、もうそれだけでかけがえのない価値があるとも思いますが、しかし上の副碑はそれにとどまらず、「生き残った私たち」の「責任」について、問い直します。
 すなわち生存者には、「亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたちに どう生きるかを示す責任がある」というのです。
 そしてそのために、宮沢賢治の精神が「道しるべ」になる可能性が、示唆されています。

 あの震災の後、全国の各地で「〔雨ニモマケズ〕」をはじめ、たくさんの宮沢賢治作品が読まれました。賢治の言葉が、被災地を勇気づけ、慰め、励ます様子が、あちこちで見られました。
 そして今回、この大槌町の詩碑において、こんどは被災地の中から、宮沢賢治という存在をあらためて見直そうという企図が、宣言されているのだと思います。
 これこそが、「大槌宮沢賢治研究会」が、宮沢賢治にかける思いなのでしょう。

 さらに副碑の天面には、左半分に「暁穹への嫉妬」の全文が書かれるとともに、右側には佐々木格さんが地元大槌町で採取した「薔薇輝石」が、綺麗に磨かれて嵌め込まれています。
 ここ大槌町は、昔から薔薇輝石の産地として知られており、若かりし賢治も1919年2月に父親あての「書簡137」において、東京で宝石加工業を始めたいという希望を申し出た際に、取り扱う鉱石の候補として次のような例を挙げています。

たとへば花輪の鉄石英、秋田諸鉱山の孔雀石、九戸郡の琥珀、貴蛇紋岩、大槌の薔薇輝石、等

 この「暁穹への嫉妬」という詩は、大槌町とともに岩手県内の薔薇輝石の産地として名高い野田村あたりを賢治が歩いている時にスケッチされたものと考えられており、大槌が作品舞台というわけではありませんが、上のような「薔薇輝石」を介した縁によって、このたび大槌町に建立されたというわけです。

 佐々木格さんたちは、この詩碑に大槌町にとっての精神的なモニュメントとしての意味を込めるだけでなく、町の内外の人の交流を生むきっかけとならないかとも、期待をしておられるということです。
 三陸海岸には、1925年1月の宮沢賢治の旅程に沿って、今やいくつもの賢治詩碑が立ち並んでいます。

普代村堀内:「敗れし少年の歌へる」詩碑

普代村黒崎:「発動機船 一」詩碑

田野畑村平井賀:「発動機船 一」詩碑

田野畑村島越:「発動機船 第二」詩碑

田野畑村和野:「発動機船 三」詩碑

宮古市浄土ヶ浜:「寂光のはま」歌碑

釜石市仙人峠:「峠」詩碑

 そして今回この系列の終わり近く、釜石の「峠」詩碑の前に、「暁穹への嫉妬」詩碑が加わったわけです。さらに今後、大槌宮沢賢治研究会では、大槌町が作品舞台と推定される詩「旅程幻想」の詩碑も建立することを、計画しておられるのだそうです。
 そして、上のような三陸沿岸の賢治詩碑を持つ市町村どうしが交流を深め、協力して一つの観光ルートとし、全国から賢治の足跡をたどる詩碑めぐりをする人々に、訪れてもらえるようにしようという構想もあるということです。
 まだ津波の爪痕が残る三陸地方に、宮沢賢治との縁によって新たな展開を生み出そうという企画です。

 ところで、この「暁穹への嫉妬」詩碑のすぐ後ろは、「浪板海岸」という東へ開けた雄大な海ですから、ここは美しい「暁穹」を望むのに絶好のスポットでもあります。
 詩碑が立つ「三陸花ホテルはまぎく」は、震災前は「浪板観光ホテル」として営業し、「日本のホテルの中で最も海に近いホテルの一つ」とも言われていました。津波が襲ってきた時、宿泊客は全員が避難して無事でしたが、ホテルの社長や若女将を含む職員6名は、自らの避難よりも宿泊客の確認を優先して最後まで館内に残っていた結果、大津波に呑まれて行方不明になられたということです。
 その後ホテルは懸命の復旧を行い、震災から2年後の2013年8月に、名前も「三陸花ホテルはまぎく」と変えて、新たなスタートを切りました。「はまぎく」の花言葉、「逆境に立ち向かう」という思いも込めての改名だったということです。
 私もこのホテルには何度か宿泊いたしましたが、美しく清潔に改装された館内、まさに絶景と言うべきオーシャンビューの客室、「海望風呂」、三陸の海の幸を集めた美味しい料理など、素晴らしいひとときを堪能させていただきました。
 三陸地方では、特にお勧めの宿の一つだと思います。

 下の写真は、2016年5月にホテルの客室から見た「暁穹」です。

浪板海岸の夜明け

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2016年9月15日 埼玉県小鹿野町の新歌碑

 去る9月4日は、賢治が盛岡高等農林学校の地質学研修旅行で埼玉県小鹿野町を訪ねてから、ちょうど100周年にあたる日でしたが、これを記念して同町では、「宮沢賢治 小鹿野町来訪100年・生誕120周年記念祭」が行われました。

小鹿野町来訪100年記念祭

 この催しの「一幕」(上写真)では、埼玉大学名誉教授の萩原昌好さんや、宮沢和樹さんの講演、山梨県韮崎町の「アザリア記念会」の皆さんのステージなど、多彩で楽しい演目があり、会場一杯に詰めかけた町民の皆さんも盛り上がっておられました。
 私は、この催しに参加するかたがた、小鹿野町に今年7月に建立された新たな歌碑を、見学してきました。

「霧晴れぬ」歌碑

 上写真が、小鹿野町の中心部から国道299号線を西に9kmほど山奥に入ったところにある「古鷹神社」に、このたび立てられた歌碑です。

霧晴れぬ
分れて乗れる
三台の
ガタ馬車は行く
山岨のみち

 今回これを、当サイトの「石碑の部屋」に、「霧晴れぬ」歌碑としてアップしました。

 それにしても、小鹿野町というのは人口が1万2000人ほどの町ですが、これで町内の宮沢賢治の詩碑・歌碑は、実に4基めということになります。
 ちなみに、全国の市町村ごとの賢治詩碑・歌碑の数を見てみると、花巻市の47基は別格として、2位の盛岡市の15基、3位の滝沢市の8基に続いて、「一市町村内にある賢治詩碑・歌碑の数」としては、全国4位ということになりました。岩手から遠く離れた埼玉県の小さな町が、ここで堂々と単独第4位に入るというのは、この町の熱意の表れと言えるかもしれません。

 この歌碑は、直接的には「宮沢賢治小鹿野来訪100年」を記念して建立されたものですが、もう一つ、2011年の「田嶋保日記」(「嶋」の字は正しくは「」の左に「鳥」)の発見を記念する意味も、間接的にはあったようです。
 この日記は、小鹿野町の中心部で江戸時代から旅館を営んできた「本陣寿旅館」の店主が、明治から昭和に至る46年間にわたって付けていたもので、毎日の宿泊客の動静や、当時の世相などが記されています。そしてこの中の、大正5年9月4日のページに、「盛岡高等農林学校教授関豊太郎神野幾馬両氏ト生徒二十三人来宿ス」との記載があり、それまでは萩原昌好さんの研究によっても「賢治たち一行は本陣寿旅館に泊まったのではないか」として「推定」の段階にとどまってきた事柄が、晴れて「確定」されたのです。
 下写真が、その「田嶋保日記」の該当ページです。

田嶋保日記

 そして、同じページにはさらに、「午前中来館、三田川村源沢ニ向ハレ夜、帰宿セラル」との記載もあり、賢治たち一行は午前中にいったん宿に荷物を置いて身軽になった後、「三田川村源沢」に行き、夜に帰宿したということも判明しました。この「源沢(みなもとざわ)」は、現在は「皆本沢」という漢字があてられていますが、旅館のある小鹿野町の中心部からは、9kmほど西の山奥に入ったあたりの沢で、一行がこの場所に行ったということは、今回の発見によって初めて明らかになった事実でした。
 宮澤賢治の生涯については、これまでに数多くの研究者が様々な角度から資料を収集して分析しており、死後すでに80年以上が経過した今となっては、彼の伝記的事実を新たに追加するような「一次史料」が発見されるというのは、本当に珍しいことになっていますが、その「発見」が、つい最近なされたわけです。
 小鹿野町におけるこの画期的な出来事を記念するという意味もこめて、新たに賢治訪問が明らかになった「皆本沢」にほど近い「古鷹神社」の境内に、今回の歌碑が建てられたのでした。

 それにしても、「田嶋保日記」の上の2ページを見るだけでも、このご主人の「おもてなし」の心は、本当にひしひしと伝わってきます。
 すなわち、一行が到着する午後、主人は「盛岡高等農林学校御定宿ノ看板ヲ掲」げた上で、「原町箱屋辺迄ムカヒニユク」とあり、また翌5日の出発の前には、「三峯山宮沢到氏ニ宛テ封書ヲ生徒ナル塩井義郎氏ニ託シツカワス、便宜ヲハカルヤウノ手紙ナリ」と、一行のその晩の宿泊先に便宜を図るよう願う手紙を書いて持たせています。さらに、翌々日の宿泊先に対しても、「魚惣ヘモ書面中ニパン代金弐円入金シテ馬車要吉ニタノミツカワス、生徒一行ノ石モ送レリ」という配慮をしているのです。別の宿屋に泊まっている際の「パン代金弐円」まで、この旅館主人が負担して手紙の中にしのばせるなんて、信じられないような手厚い気配りですね。
 これら諸々の配慮をした上で、主人は9月5日朝、「盛岡高等農林学校関先生神野先生及生徒二十三人ヲ送リテ落合橋向フ迄至リテカヘル」のです。

 この「田嶋保日記」は、去る9月4日の小鹿野町のイベントでも、実物が展示されていましたが、毎年はるばる盛岡からやってくる学生たちを、遠く離れた小鹿野町で、旅館主人が精一杯歓迎しようとしていた様子が、ここにはしっかりと記録されていました。
 現代の小鹿野町の方々が、賢治来訪100年を記念して大きなイベントを行い、また町内に4基もの歌碑・詩碑を建立しておられるというのも、実は100年前の田嶋保氏の「志」を継いでおられるのだなあと、しみじみ思った次第です。

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2016年9月 8日 論文版「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」

 一昨日に花巻から送られてきた、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの会誌『宮沢賢治研究Annual Vol.26』(2016)に、拙稿「宮沢賢治のグリーフ・ワーク ―トシの死と心の遍歴―」を、掲載していただきました。

「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」

 昨年11月の「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」で、竹崎利信さんの「かたり」とともにお話ししたこと、それから今年の5月に岩手県大槌町の講演会でお話しさせていただいたことを、論文の形にまとめてみたものです。

 これはそもそも、文学の「研究論文」として書いたというものではなく、上記のような成り立ちの経緯が示すように、東日本大震災の復興を支援するための催しの場で、あるいは被災地の方々に直接語りかける場で、宮沢賢治という人の、一つの等身大の「像」を描いてみようとしたものでした。「あの宮沢賢治も、死別の悲しみを抱えて尋常ではない苦悩を体験し、そしていつしかその悲しみを引き受けて、また歩いて行った人だった」ということを、跡づけてみようとしたものです。
 そのような事情もあってこの論文は、賢治の作品テキストを批判的に検討してみたり、「創作」のダイナミズムに分け入ったりするというようなものではなく、賢治が書いた言葉を、言わば作者の「生の声」として、受けとっていくものでした。

 ですから、巻末の「編集後記」において編集者の方が、この論文について「作品と作家の距離が密接であるため、一見、かなり素朴な作家論と映ることも否めません」と、評しておられるのは、まさにご指摘のとおりと思います。これはただ素朴に、ナイーブに、作品のままに作家を浮き彫りにしようとしたものにすぎません。
 しかしこの「編集後記」の上記の箇所の少し後で、「そして、その意図のもと、私たちは、賢治のいわば同伴者となり、愛する人の「不在」から「遍在」を受け入れるに至る、彼の「グリーフ・ワーク」を疑似体験することになります」と評していただいた言葉は、今回の論文を投稿させていただいた私にとって、とても嬉しい贈り物でした。
 「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」でも、大槌町の講演会でも、何とかして皆さんと一緒に賢治の同伴者となって、彼の心の旅を一緒に体験してみたいということが、微力ながら私が目ざそうとしたことだったからです。

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2016年8月28日 地方セミナーin神戸「宮沢賢治と音楽」

 昨日8月27日は、宮澤賢治の誕生日でした。今年が「賢治生誕120周年」にあたるということで、今年に入ってからこれまでにも全国のあちこちで記念の催しが行われてきましたが、まさにこの週末、それらのイベントはピークを迎えています。
 地元花巻では、宮沢賢治学会イーハトーブセンター主催の「第4回国際研究大会―イーハトーブは今どこにあるのか」(8月27日-29日)、宮沢賢治記念館では手帳実物を展示する「雨ニモマケズ」展(8月20日-28日)、宮沢賢治童話村では「イーハトーブ・フェスティバル」(8月26日-28日)や「童話村の森ライトアップ」(8月20日-28日)などが開かれています。
 これ以外にも、賢治の母校でもある盛岡市の岩手大学では「リバイバル賢治」(8月29日-9月20日)があり、また丹波篠山でも8月27日には「宮沢賢治生誕120年の催し」が行われました。9月に入ると、埼玉県小鹿野町で「宮沢賢治 小鹿野町来訪100年・生誕120周年記念祭」(9月4日)や、岩手県一関市の「石と賢治のミュージアム」で「防災一人語り ・ 宮沢賢治生誕120年記念公演」もあり、まさに「目白押し」という感じですが、これら沢山のイベントの、おそらく今年最後を飾ることになるのが、12月23日に宮沢賢治学会・地方セミナーとして神戸で開かれる、「宮沢賢治と音楽」という催しです。

「宮沢賢治と音楽」チラシ表

「宮沢賢治と音楽」チラシ裏

 内容は、賢治の音楽に関する研究の第一人者である佐藤泰平さんによる講演や、ピアノ演奏、そして「西日本一」と言われる甲南女子大学のパイプオルガンの演奏もあるという多彩なものですが、当日は私も佐藤さんの「前座」として、「宮沢賢治の歌曲をめぐって」と題してお話しをさせていただくことになりました。佐藤泰平さんと同じステージに立てるとは、それだけでも光栄な感じがしています。
 このイベントは、甲南女子大学の公開講座として、12月8日、15日、24日に行われる講演会やクリスマスチャリティコンサートの一環に位置づけられており、申し込みは甲南女子大学のサイトのこちらのページから行えるようになっています。

 まだだいぶ先のイベントですが、今日はその時に使うことも考えて、賢治の「角礫行進歌」の演奏ファイルを作り直してみました。これは、グノーのオペラ「ファウスト」の中の「兵士の合唱」のメロディーを賢治が替え歌にしたものなのですが、今回は原曲のオーケストレーションを、ほぼ忠実に再現してみました。

角礫行進歌(MP3: 1.86MB)

氷霧(ひょうむ)はそらに(とざ)し、
落葉松(ラーチ)(くろ)くすがれ、
稜礫(りょうれき)の あれつちを、
やぶりてわれらはきたりぬ

(てん)のひかりは()りも()ず、
 (てん)のひかりは(そゝ)()ず、
 (てん)のひかりは()しも()ず。
 タララララ タララララ タラララ 

かけすの(うた)途絶(とだ)え、
腐植質(フームス)はかたく(こご)ゆ、
角礫(かくれき)のかどごとに、
はがねは火花(ひばな)をあげ()し。

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2016年7月31日 詩碑二つ追加

 「石碑の部屋」に、下の二つの碑を追加しました。

盛岡市立見前中学校中庭の「生徒諸君に寄せる」詩碑
「生徒諸君に寄せる」詩碑

花巻市高松で猿ヶ石川に架かる猿ヶ石橋の「高原」親柱
「高原」親柱

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2016年7月26日 本年度イーハトーブ賞に司修さん

 先日ご紹介した京都のギャラリーヒルゲートでの司修展「賢治の遊園地」が始まる今日、司修さんが本年度のイーハトーブ賞に決定したことが報じられました。他の受賞者は、宮沢賢治賞奨励賞に銅版画家の加藤昌男さん、イーハトーブ賞奨励賞に朗読家の野口田鶴子さんです。
 これは、7月30日にギャラリーヒルゲートで予定されている司さんの講演も、ぜひ拝聴したいところです。

司修『グスコーブドリの伝記』
(2012年に絵本にいただいたサイン)

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2016年7月24日 司修展「賢治の遊園地」

 京都市中京区の画廊「ギャラリーヒルゲート」にて、7月26日(火)から8月7日(日)まで、司修氏の絵画展「賢治の遊園地」が開かれます。

司修展「賢治の遊園地」

 上のチラシに載せられている絵の、左上は「雁の童子」、右下は「イギリス海岸でドビュッシーを聴く宮澤とし子」と題されています。後者の「ドビュッシー」とは、前奏曲集第1巻の「沈める寺」でしょうか。

 以下、ギャラリーヒルゲートのチラシに記された紹介文より、引用させていただきます。

 8月27日は宮沢賢治の生誕120年。1994年以来ほぼ毎年のように開催してきた個展で、先生は賢治に関わる作品を数多く発表して下さいました。『セロ弾きのゴーシュ』『雪渡り』『雁の童子』『グスコーブドリの伝記』『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』等の絵本原画の他、賢治のイメージから発した絵画の数々。それら、水彩・パステル・木版・リトグラフ・CG……と多彩な技法を駆使して表現された作品は「賢治の世界」であるとともに「司修の世界」でもあります。
 小説『イーハトーヴォ幻想』、詩画集『賢治の手帳』等も著され、画家、装幀家、作家、評論家と自由な表現者としての活動をつづけてこられた司修先生の世界に賢治の世界は不可分に重なっているように感じられます。

 ギャラリーヒルゲートの場所は、下記です。

 期間中、7月30日(土)の18:30〜20:00には、「いま考えていること」と題して、司修さんの講演もあるということです。

 4年前に同じく「ギャラリーヒルゲート」で、「宮沢賢治の世界」展が開催された時も見に行きましたが、今回も期間中のいつか、拝見しに行きたいと思っています。

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2016年7月17日 秩父の碑を三つ

 この3月に秩父地方に行った際に見学してきた三つの碑、「雨ニモマケズ」詩碑「荒川ぎしの片岩」歌碑「本野上」歌碑を、「石碑の部屋」にアップしました。
 これで、当サイトにアップしている賢治文学碑の数は、139基になりました。

「雨ニモマケズ」詩碑「雨ニモマケズ」詩碑

「荒川ぎしの片岩」歌碑
「荒川ぎしの片岩」歌碑

「本野上」歌碑「本野上」歌碑


 賢治が、秩父地方の地質学研修旅行に行ってこれらの歌を詠んだのは、今からちょうど100年前の1916年ですが、この年20歳になった賢治にとって、この1916年とは、その活動範囲や視野が一挙に広がった、画期となる年でした。
 それまでの賢治にとって、岩手県の外に出た経験と言えば、16歳で中学校の修学旅行において、お隣の宮城県の松島、仙台へ行っただけだったのですが、この1916年には、まず3月に盛岡高等農林学校の修学旅行で京都、大阪、奈良をめぐり、8月には「独逸語夏季講習会」を受講するために上京して約1か月の東京暮らしを行い、そしてそのまま9月の秩父旅行に合流したのです。

 賢治が岩手から飛び出して、コスモポリタンとなっていくために、重要な意味のある一年だったのではないかと思います。

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2016年7月10日 マリヴロンと虹

 「めくらぶだうと虹」と、「マリヴロンと少女」という二つの童話は、登場するキャラクターは異なっていますが、ストーリーは全く同じと言ってもよい内容です。それもそのはずで、後者は、前者の草稿に赤インクで大幅に手入れをするという形で、誕生したのです。 ちなみに下写真が、その「赤インク」が入った1頁目です。

「めくらぶだうと虹」「マリヴロンと少女」草稿
『新校本宮澤賢治全集』第8巻口絵より

 手入れ前の「めくらぶだうと虹」は、地上のめくらぶどうが、天上の虹を讃え敬い、虹に対するかぎりない憧れを述べ、自分を教え導いて下さいと懇願するのに対して、虹の方は、自分もめくらぶどうも価値においては同じである、すべては無常であるとともに「まことのひかり」の中では不滅なのだと説き、すがるめくらぶどうを残して消え去る、というお話です。
 「美のはかなさと永遠性」というようなテーマを、大乗仏教的世界観のもとに、賢治らしい繊細な自然描写によって綴ったもの、とでも言えるでしょうか。

 手入れ後の「マリヴロンと少女」においては、前者における「虹」が有名声楽家の「マリヴロン」に、「めくらぶだう」が「彼女を崇拝する少女」に、それぞれ置き換えられます。配役は変わるものの、物語の構造は同一で、それぞれが述べる台詞も、大まかには共通しているのです。

 「めくらぶだうと虹」が書かれたのは1921年秋頃と推定されており(『宮沢賢治大辞典p.215)、これが「マリヴロンと少女」へと書き換えられたのは、だいたい賢治が羅須地人協会を始めた頃、すなわち1926年あたりと考えられているようです。
 その根拠として、たとえば佐藤泰正氏は、「宮沢賢治――その改稿の問いかけるもの」(『国文学 解釈と鑑賞』平成13年8月号)において、作品中でマリヴロンが述べる「正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです」「鳥はうしろにみなそのあとをもつものです」という言葉と、「農民芸術概論綱要」の思想との共通性を挙げておられますし、また天沢退二郎氏は、『《宮沢賢治》論』所収の「〈読み書き〉の夢魔を求めて」の中で、次のように書いておられます。

 「めくらぶだうと虹」から「マリヴロンと少女」への転位は、こうして、<死との関係>から<限界芸術論>への道すじとして読めること、しかもなお、その道すじは、ひばり=詩人に調子はずれの歌をうたわせることをやめないということが、私たちの足をなおここにとどめさせるのだ。『春と修羅』第一集の詩人を、農民劇や「修学旅行復命書」の限界芸術者へと向かわせるにいたる原点にやはりとし子の死があったことを、「めくらぶだうと虹」→「マリヴロンと少女」は暗示する。

 ここはとても難しい箇所で、全体としては私の理解能力を越えているのですが、最後の部分を読むと、「めくらぶだうと虹」→「マリヴロンと少女」という書き換えには、「とし子の死」が何らかの意味で関係している、ということを天沢氏は考えておられるようです。したがってその書き換えの時期は、やはり妹トシの死よりも後、ということになります。
 そして私としても、(天沢氏の論旨全体は理解できないながらも)上の結論部分に関してはなぜか同感で、すなわち「マリヴロンと少女」には、どこか「トシの死の後の賢治の思想」に通ずるものがあるような気がするのです。
 あまり、きちんと筋道立てて述べられるような根拠はなくて、「何となくそう感じる」という程度の事柄なのですが、それは下記のようなことです。

 前述のように、「めくらぶだうと虹」と「マリヴロンと少女」とは、その基本的な中身はほとんど同じと言ってよいと思うのですが、それでも微妙に違っているところがいくつかあります。
 たとえば、物語の最後の場面で、めくらぶどう/少女の必死の懇願に対して、虹/マリヴロンが答える言葉です。

 まず、「めくらぶだうと虹」。

「私を教へて下さい。私を連れて行って下さい。私はどんなことでもいたします。」
「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考へてゐます。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるといふことはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでせう。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。私はあなたにお別れしなければなりません。」
 停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴りました。
 もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行きました。
 めくらぶだうは高く叫びました。
「虹さん。私をつれて行って下さい。どこへも行かないで下さい。」
(後略)

 次は「マリヴロンと少女」における、上記に相当する場面。

「私を教へて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします。」
「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう。」
 停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴り、もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行く。
「先生。私をつれて行って下さい。どうか私を教へてください。」
(後略)

 ここで私が注目したいのは、虹/マリヴロンの最後の言葉です。大まかには同じなのですが、いくつかの相違点があるので、下記において、それを一文ずつ比較してみます。異なっている部分を、赤字にしておきますので、上と下を見比べてみて下さい。

虹の言葉

  1. いゝえ私はどこへも行きません。
  2. いつでもあなたのことを考へてゐます
  3. すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。
  4. いつまでもほろびるといふことはありません。
  5. けれども、あなたは、もう私を見ないでせう
  6. お日様があまり遠くなりました。
  7. もずが飛び立ちます。
  8. 私はあなたにお別れしなければなりません

マリヴロンの言葉

  1. いゝえ私はどこへも行きません。
  2. いつでもあなたが考へるそこに居ります
  3. すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。
  4. (削除)
  5. けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません
  6. お日様があまり遠くなりました。
  7. もずが飛び立ちます。
  8. では。ごきげんよう

 文の番号で言えば、1.、6.、7. は、全く同じです。2.、3.、5.、8.がそれぞれ異なっており、4.は、「マリヴロンと少女」では削除されています。
 それでは、2.、3.、5.、8.の違いを、一つ一つ見てみましょう。

 まず、2.では、「めくらぶだう」における「考へてゐます」が、「マリヴロン」では「考へるそこに居ります」となっていて、マリヴロンがそこに「存在している」ことが際立っています。
 また、3.においても、前者の「いつでもいっしょに行くのです」が、後者では「いつでもいっしょにゐるのです」になっていて、ここでも「行く」が「ゐる」に変えられることにより、マリヴロンの「存在」が強調されているように感じられます。
 「めくらぶだう」における「考へてゐます」というのは、そこに一緒にいなくてもできることですし、「まことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」というのも、たとえその身が離れていても(「まことのひかり」を共有しておれば)可能であることに、注目しておきたいと思います。

 4.の文が前者にあったのに後者では削除されたのは、どういう意味があるのでしょうか。前者において、「ほろびるということはありません」と言われているのは、「虹」のことではないですよね。「すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」という、一つの「法」とでも言うべき真実が、「滅びない」のでしょう。「マリヴロンと少女」においてこれが消されているのは、あえてこのことは説く必要なないと作者が考えたのでしょうか。

 5.は、両者で主語の異なった文になっています。前者において「あなたは、もう私を見ないでしょう」とあるのは、対象は本来は滅びることはないのに、それを見るこちら側の問題によって、滅びたように思ってしまうのだということでしょうか。
 後者で、「けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません」とマリヴロンが言うのは、その直前に「そこに居ります」「いつでもいっしょにゐるのです」と言っていたことと一見矛盾するようですが、この矛盾こそが、作品の眼目でもあるのでしょう。

 8.は、前者では「別れ」という言葉が使われていて、本当に「別れてしまう」という感じが強いのですが、後者では「では、ごきげんよう」と、とても気軽な挨拶で、まるで、またいつでも会えるというような雰囲気です。


 以上のような相違点があるわけですが、手入れ前の「めくらぶだうと虹」における虹の言葉から私が感じるのは、たとえお互いは離れていても、「いっしょに行く」=信念を共有して進むことはできるのだ、というような考えです。「存在」よりも、「法」あるいは「道」の不滅を説くという感があり、その不滅性がおびやかされるとすれば、「あなたはもう私を見ない」というような、こちら側の信念の問題だということでしょうか。
 これに対して、手入れ後の「マリヴロンと少女」におけるマリヴロンの言葉から私が感じるのは、「いつでもあなたが考へるそこに居ります」とか「いつでもいっしょにゐるのです」という言葉に象徴されるように、「ずっと対象ともにある」という感覚です。その対象は、「もう帰らなければなりません」とか「では、ごきげんよう」という風に目の前から去ってしまうようではありますが、それでも本当は、「いつでもいっしょにゐる」のです。

 ということで、結論として私が今回の記事で言いたいのは、「めくらぶだうと虹」の方には、ひょっとして保阪嘉内との「別れ」という体験の影響があったのではないか、「マリヴロンと少女」の方には、トシとの死別と悲嘆の影響があったのではないか、ということなのです。
 前者は、1921年の秋に書かれたと推定されているので、この年7月の嘉内との悲しい別れの、少し後です。
 後者は、1926年の手入れであれば、1922年11月のトシの死よりは、後のことです。
 したがって、時期としては、それぞれが嘉内との別れ、トシとの別れと関係したとしても、矛盾はありません。

 「めくらぶだうと虹」が、保阪嘉内と別れを反映しているという前提で読んでみると、2..の「いつでもあなたのことを考えています」とは、嘉内は賢治と離れていても、賢治のことを考えてくれている、という風にも解釈できます。
 3.の、「まことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」が表しているのは、たとえ生身の賢治と嘉内は「物別れ」になって、離ればなれでいたとしても、2人の志は同じであり、同じ道を進んでいるのだ、という風に解釈することもできます。

 「マリヴロンと少女」が、トシとの死別と関係しているとすれば、ここに記されている「いつでもあなたが考へるそこに居ります」とか「いつでもいっしょにゐるのです」という言葉は、以前に「千の風になって」や「そしてみんながカムパネルラだ」という記事に書いたように、賢治がトシの死を乗り越えて、「いつも身近にトシの存在を感じられる」というような心境に至ったのではないか、という私の仮説につながってきます。
 1924年の7月に賢治は、「〔この森を通りぬければ〕」、「〔北上川はケイ気をながしィ〕」、「薤露青」などの作品を書きますが、そこにはトシの「声」やトシとの会話があふれています。この頃に、トシの「不在」を真に受容できるようになったことが、逆説的にその「遍在」の認識への扉を開いてくれたのではないかと、私は思っているのですが、「マリヴロンと少女」における、「いつでもあなたが考へるそこに居ります」等の言葉に、相通ずるものを感じるのです。たとえば、「いつでもいっしょにゐる」と言いながら、「もう帰らなければなりません」「では、ごきげんよう」と言うという「矛盾」は、トシが「不在」かつ「遍在」という「逆説」と似ています。

 「めくらぶだうと虹」と、「マリヴロンと少女」を見比べていて、ばくぜんとそのようなことを思いました。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
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2016年7月 3日 こんにゃく座のオペラ「グスコーブドリの伝記」

 先月以降、更新の間隔がだいぶ空いてしまいまして、申しわけありませんでした。しばらくの間、以前に「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」でお話ししたことを、「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」という論文の形にまとめようとしておりました。

 ところで、先日「オペラシアターこんにゃく座」から案内のチラシが届き、賢治生誕120周年を記念して、この9月にこんにゃく座としても久々の宮沢賢治オペラの新作、「グスコーブドリの伝記」の公演が行われるということです。

こんにゃく座「グスコーブドリの伝記」バナー

 作曲の寺嶋陸也さんは、林光さんとのご縁も深かった方なので、何となくこれまでから、こんにゃく座のお仕事も結構なさっているような気がしていたのですが、「書き下ろし」となると今回が初めてなのだそうですね。
 寺嶋陸也さんのオペラと言えば、ちょうど1年前の去年の7月に、室内オペラ「耳なし芳一」を神戸に聴きに行って、大変に感銘を受けました。また、今度の7月18日には、知人の詩に寺嶋さんが作曲された作品の初演ということで、相模原市にも行く予定にしており、いろいろとご縁があります。

 今度の「グスコーブドリの伝記」も、できればぜひ聴きに行きたいと思っているのですが、次の週がいわゆる「賢治ウィーク」で、いろいろと出かける予定があり、体力の配分をどうしたらいいか・・・、と、今から悩んでいるとことです。

オペラシアターこんにゃく座公演 宮澤賢治生誕120周年記念
グスコーブドリの伝記
2016年9月14日(水)>18日(日)
俳優座劇場
チケット発売日:7月16日午前10時より(申し込みは こちら

 下の動画は、こんにゃく座がこれまで公演した賢治作品をまとめたものです。私にもいくつか、懐かしいものがあります。

written by hamagaki : カテゴリー「賢治イベント
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