2019年5月19日 シカゴの及川家の消息

 一時は賢治とお互いに好意を寄せ合っていたとの説がある、大畠ヤスの結婚渡米後の状況について、花巻市の布臺一郎さんが調査を行い、「ある花巻出身者たちの渡米記録について」という論文を発表されました(『花巻市博物館研究紀要』第14号掲載)。
 私はたまたま10年ほど前に、花巻で布臺さんにお会いして話をさせていただく機会があり、その国際的な見識の広さは存じ上げていたのですが、今回の調査の着眼や、様々な手法を駆使して対象に迫っていく行動力には、感嘆しつつ読ませていただきました。また、こうやって90数年前の公文書がきちんと保存管理されており、これを一般人が希望すれば閲覧できるという米国のシステムにも感動しました。日本における公文書の扱いが議論を呼んでいる昨今だけに、なおさらです。

 この布臺さんの調査によって、これまで大畠ヤスの消息について、大畠家のご遺族からの聴き取りによって語られていた情報の一部に誤りがあったことが明らかになり、今後は賢治とヤスの関わりについて考察を行う際にも、この新たな前提に立って進める必要があります。

 今回の調査結果で、従来の説との最大の相違点は、これまでヤスの結婚相手は「土沢出身の医師・及川修一」と言われていたのが、「大迫出身の旅館業・及川末太郎」だったというところです。
 これ以外に、今回の布臺さんの調査によって判明した事柄の要点を挙げると、次のようになります。

  • (1898年5月から1924年5月まで、及川末太郎はイリノイ州在住。シカゴで「及川旅館」を営み、在米邦人にはかなり知られていたらしい。)
  • 1924年6月14日、及川末太郎と及川ヤスは、横浜から"KAGAMARU"に乗船し、6月27日にシアトルに到着。(引用者註:この船は、1901年から1934年まで太平洋航路に就航していた「加賀丸」であろう。)
  • 1926年8月3日、長男"Shuichi"誕生。
  • 1927年4月13日、ヤスが僧帽弁狭窄症による心不全にて死去。
  • 1929年4月2日、Shuichiが急性粟粒結核にて死去。
  • 1943年、及川末太郎は連邦捜査局の捜索を受けたが、抑留はされなかった(7月5日付けFBI報告書)。
  • 1943年、及川末太郎の名前が第二次抑留者交換リストに記載されるが、この交換によって日本に帰国したかどうかは不明。米国では死亡記録は見つかっていない。

 及川末太郎の、波乱の人生にも興味を引かれますが、以下には、この論文を読ませていただいて、個人的に感じたことなどをいくつか記しておきます。

 まず下記は、論文の資料として掲載されている、及川ヤスの「死亡標準証明書」の写しです。

ヤス死亡証明書

 この記載を見ると、死因は本文中に記載されているとおり、「僧帽弁狭窄症(Mitral stenosis)、心不全(Cardiac insufficiency)」で疑問の余地はありませんが、最下段の「寄与因子(CONTRIBUTORY)」の欄の2つめの単語が、判読しにくいです。
 布臺さんの論文では、"Acute dilatation of heart"と読んで、「拡張型心筋症」と訳していますが、"Dilatation"にしては"l"が1つ多いですし、その次の"a"であるべき字の上に"i"のような点があります。私としては、これは"Debilitation(衰弱)"で、「急性心臓衰弱」と解釈するべきだろうか?とも考えてみましたが、そう読むにもかなり無理があり、結局はやはり布臺さんの解釈のとおり、"Acute dilatation of heart"で、記載したオオヤマ医師がちょっと綴りを間違えたと考えておくべきかと思います。
 ただ、その訳語としては、「拡張型心筋症」というのは、1980年にWHO等が定めた呼称で、1920年代にはまだその概念はありませんでしたし、また「急性」に起こるものでもありません。日本語訳としては、「急性心臓拡張」としておくのがよいかと思われます(コトバンク「心臓拡張」参照)。僧帽弁狭窄症では、血液が左心房から左心室に流れにくくなるので、左心房の圧力が高まって拡張するのです。

 あともう一点、ヤスの長男"Shuichi"の漢字表記も、議論の余地はなきにしもあらずです。
 布臺さんによる米国側の資料調査によって、"Suetaro Oikawa"、"Yasu Oikawa"、"Shuichi Oikawa"の3人のローマ字表記の名前が見出され、さらに「末太郎」「ヤス」については日本側の資料との照合から、日本語表記も確認されました。しかし、"Shuichi"の表記については、現時点では大畠家側の遺族の証言による「ヤスの夫・修一」という情報があるだけなのです。
 この情報の根拠は明らかでなく、「ヤスの夫」という部分は誤りだったわけですから、実は息子の名前だった「修一」という漢字も、正しいという保証はありません。
 しかし一方で、大畠家の遺族の証言でも、「及川」という姓は正しかったわけですし、夫の名前とされていた"Shuichi"が、実際の長男の名前と「偶然に」一致したというのは、あまりにも出来すぎという感じがします。
 となると、「及川修一」という名前は、何らかの形でいったんは大畠家にきちんと伝えられていたけれども、それをかなり後年になってから目にしたご遺族が、勘違いをしてヤスの夫の名前と思いこんでしまったと解釈するのが、まだしも自然な感じがします。そうだとすれば、「修一」という漢字は正しいことになります。

 「大迫出身の旅館業」が、「土沢出身の医師」に変わってしまった経緯についても、具体的なことはわかりませんが、これは「伝言ゲーム」で生ずる変異の範囲を越えてしまっており、同時代に生きている人であれば、犯すはずのない間違いだろうと思います。すなわち、ヤスの実家の大畠家でも、結婚相手が「大迫出身の旅館業」の人であることは、当時はもちろん知っていたはずで、それらの方々が存命のうちは、こういう間違いは起こらなかっただろうと思うのです。
 したがってこれは、そういうことを知っている方々が、みんな亡くなってしまってから生じた錯誤だろうと考えます。

 実際、大正時代から昭和の戦後まで、土沢には「及川」という名前の医師がおられて、かなり有名だったということです。土沢出身の私の知人の奥様も、高校生の頃までは家族ぐるみでこのお医者さんに診てもらっていたということですし、2017年4月にNHKで放送された「宮沢賢治 はるかな愛」という番組では、その医院の跡地の様子も放映されていました。
 ですから、大畠家のご遺族がかなり後になって、ヤスの結婚相手の姓が「及川」であることは知りながらも、もしかしてその出身地を(花巻から東の方にある小さな町ということで)「大迫」から「土沢」に勘違いしてしまったとしたら、昔から土沢にある「及川」という医院のことを連想したとしても、不思議ではない気がします。

 もちろん以上は、あくまで勝手な空想にすぎませんが、いずれにせよ同時代人の一人であった賢治までもが、ヤスの結婚相手が土沢の人だと勘違いしていたと考えるのは、非常に無理があります。
 これまでは、私自身も含めて、土沢を舞台とした賢治の作品を、ヤスとの関連で解釈するという発想もありえましたが、今回の布臺さんの論文によって、その論拠は消滅したと考えるべきでしょう。
 そのようなわけで、一昨年に当ブログに書いていた「Tearful Eye」という記事(賢治が土沢を通って歩いた折に書いた「〔はつれて軋る手袋と〕」という作品に、ヤスの追憶を読みとろうとしたもの)は、削除いたしました。

 一方、及川末太郎は、1924年5月までイリノイ州(おそらくシカゴ市エリス街)に在住していて、同年の6月14日に横浜から及川ヤスと一緒に米国に戻った記録が残っているのですから、末太郎がヤスと結婚式を挙げたとすれば、この5月中の帰国から6月13日までの期間に限定されてきます。
 となると、ひょっとしたら賢治もこのヤスの結婚の時期を知っていたかもしれず、この時期の作品との関連を考えてみることは、無意味とは言えないでしょう。
 たとえば、1924年5月19日の日付を持つ「津軽海峡」は、その初期形が「水の結婚」と題されているように、二つの海流の出会いを象徴的に「結婚」と呼び、ほのかに祝祭的な雰囲気も漂っていますが、その背景にヤスの結婚への意識を読みとることは可能でしょうか。
 また、同じ修学旅行中で5月22日の日付を持つ「」の初期形「海鳴り」では、(遠くアメリカまでも続く)太平洋の荒波に向かって、「すべてのはかないねがひを洗へ」とやり場のない思いをぶつけ、また浜辺では「砂丘のなつかしさとやはらかさ/まるでそれはひとりの処女のようだ」との思いを記していますが、これも気になる描写です。
 さらに、5月23日の「〔つめたい海の水銀が〕」の初期形「島祠」には、「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という一節があり、自らのはるかな過去世の結婚生活について、夢想しているようです。
 私は個人的には、この頃の作品には1年半前に亡くなったトシへの感情が反映していると考えているのですが、時期が時期だけに、これらにはヤスへの思いも重ね合わされているとも、考えられなくはありません。

 それはともかく、インターネットで「及川末太郎」について検索していましたら、1924年8月23日付けの『日米新聞』に、次のような記事が掲載されていました。

『日米新聞』1924年8月23日

 この「シカゴだより」によると、同年8月5日に、「及川末太郎氏宅滞在の二青年」のところに、ピストルを持った2名の強盗が押し入り、青年1人は多少の負傷を受け、所持金20ドルほどを奪われたが、強盗1人は逮捕されたということです。
 旅館の宿泊客の部屋に強盗が押し入ったということかと思われますが、この年の6月27日にシアトルに到着してから、まだ1か月と少ししか経っておらず、見知らぬ土地に来たヤスにとっては、さぞ恐ろしい出来事だったのではないかと推測されます。

 また、1926年8月21日付けの『紐育新報』には、次のような記事が掲載されていました。

『紐育新報』1926年8月21日

 「シカゴ特信」下段に、「◇及川家喜び」という見出しで、「市内エリス街二九四九番の及川末太郎氏方に去る十六日玉のやうな男兒出生母子共に壮健であると」との記事があります。
 きっとこの頃は、及川家もさぞかし喜びにあふれていことでしょう。

 ちなみに、いずれの記事もスタンフォード大学の「フーヴァー研究所」に設置されている「Hoji Shinbun Digital Collection」というアーカイブに収録されていて、ほとんどの記事が登録なしで自由に検索できるようになっています。日本にも到底ないような充実したアーカイブを、日本語の資料に対して作ってしまうあたり、ここにも彼我の差を実感します。

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2019年4月21日 なぜ岩波茂雄あてに

 宮澤賢治は、1925年12月に岩波書店社主の岩波茂雄あてに手紙を書き、自分の手もとに売れ残っている『春と修羅』200部と、岩波書店の刊行している哲学・心理学書を交換してくれないか、言いかえれば現物支給でよいから自分の『春と修羅』を買い取ってくれないか、という依頼をしました。

とつぜん手紙などをさしあげてまことに失礼ではございますがどうかご一読をねがひます。わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。友人の先生尾山といふ人が詩集と銘をうちました。詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほり記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。辻潤氏佐藤惣之助氏は全く未知の人たちでしたが新聞や雑誌でほめてくれました。そして本は四百ばかり売れたのかどうなったのかよくわかりません。二百ばかりはたのんで返してもらひました。それは手許に全部あります。
わたくしは渇いたやうに勉強したいのです。貪るやうに読みたいのです。もしもあの田舎くさい売れないわたくしの本とあなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますならわたくしの感謝は申しあげられません。わたくしの方は二・四円の定価ですが一冊八十銭で沢山です。あなたの方のは勿論定価でかまひません。
粗雑なこのわたくしの手紙で気持ちを悪くなさいましたらご返事は下さらなくてもようございます。こんどは別紙のやうな謄写版で自分で一冊こさえます。いゝ紙をつかってじぶんですきなやうに綴ぢたらそれでもやっぱり読んでくれる人もあるかと考へます。
   ご清福を祈ります。
大正十四年十二月廿日            宮沢賢治

 岩波茂雄は、見知らぬ「岩手県の農学校の教師」から突然受け取ったこの手紙に返事は出さなかったようですが、しかし捨ててしまうこともなく何らかの形で保管していたようで、半世紀も経った1970年代になって、これが古書市に出品されているのが偶然発見され、現在のような形で賢治全集にも収録されることになりました。
 余談ですが、さらにこの書簡は2012年7月に、再び「古書大入札会」に最低入札価格500万円で出品されるという運命をたどります(「岩波茂雄あて書簡214aが入札会に」参照)。

 ところでいったいなぜ、賢治がこのような唐突な手紙を、面識もない出版社社長に出したのかというのは、やはり不思議なことです。
 これについて、『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)の「年譜篇」の1925年12月20日の項には、次のように記されています。

一二月二〇日(日) 『春と修羅』の名義上の発行所で販売を依頼していた形の関根書店よりとり戻した二〇〇部を生かす一案として、岩波書店主岩波茂雄にあてて、自著を八〇銭とし、先方出版の哲学や心理学書と交換できまいかと問い合わせ(書簡214a)。これに対する返書はなかったものと見られる。〔後略〕

 つまり、売れ残った『春と修羅』の「200部を生かす」というのが賢治の目的だったとしており、もちろんこれは一面では全くそのとおりでしょう。しかし、単に換金しようということだけが目的ならば、古本屋に売る方が確実であり、なぜ「本の買い取り」など行っていない新刊の出版社に依頼したのか、やはり理解できない部分が残ります。
 また岩手大学の佐藤竜一さんは、下のようにツイートしておられます。

 すなわち、当時「一流出版社の道を歩み始めた岩波書店に渡りをつけたく考えた」という見方です。
 これがおそらく、多くの方々も賛同されるであろう妥当な解釈で、単に「200部を生かす」だけではなくて、岩波茂雄に直々に自分の作品を見てもらって、何とかその鑑識眼によって認めてもらえないか、という期待をこめての行動だったのでしょう。

 ここで、賢治の提案を岩波書店側から見ると、200部もの『春と修羅』を送ってこられても、それをそのまま岩波書店として販売することもできませんから、書店にとっては80銭×200=160円分の「哲学や心理学の立派な著述」を、相手に進呈する分がまるまる損になるわけで、これは普通に考えたら成立するような取り引きではありません。では、仮にこのような無理な取り引き話に岩波側が乗ってくる可能性があるとすれば、いったいどういうケースなのかと考えてみると、それは「この『春と修羅』の再版、あるいは次の『春と修羅 第二集』を、岩波書店から出させてくれ!」と、岩波茂雄が希望した場合だ、ということになります。
 そして、賢治自身も本心ではそれをひそかに期待して、岩波茂雄あてにこの書簡を送ったというのが、真相なのではないかと思います。
 ただ残念ながら、その賢治の期待はかないませんでした。もしもここで『春と修羅』が岩波書店から刊行されることになっておれば、その後の賢治の人生は、全く違ったものになっていたでしょうが……。

 ところで私としては、賢治が一時このような淡い期待を東京の出版社に対して抱いたのだとしても、その望みを託したのが、なぜ他ならぬ岩波書店だったのかということが、まだ気になります。賢治が遺した蔵書の中に、岩波書店から刊行された書籍は、「岩波文庫」が「各科にわたり数十冊」と記されている以外には全く見当たらず(奥田弘「宮沢賢治の読んだ本 所蔵図書目録補訂」)、賢治が岩波書店の本を特に愛読していたという様子は、見受けられないのです。
 当時、もっと大きな出版社は他にいくつもあっただろうと思いますが、賢治が岩波書店を選んだ理由は、いったい何だったのでしょうか。

 ここで私が思い浮かべるのは、1921年に岩波書店が西田幾多郎の『善の研究』を再刊して、これが当時の旧制高校生の間で、大変な人気を博すに至った、という経過です。
 私がそう思った理由のひとつは、『善の研究』という本の「内容」というかその「企図」にあります。
 著者の西田は、『善の研究』の序文の中で、次のように述べています。

 純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいといふのは、余が大分前から有つて居た考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかつた。其中、個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することができ、又経験を能動的と考ふることに由つてフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかの様に考へ、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいふまでもない。

 すなわち、「純粋経験」のみを出発点として、そこから自らの哲学の全体を構築しようという企図によってこの本は貫かれているのですが、その「純粋経験」とは何かと言えば、本文の冒頭において西田は次のように説明しています。

 経験するといふのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てゝ、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といつて居る者も其実は何等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、真に経験其儘の状態をいふのである。

 これは、賢治が上の岩波茂雄あて書簡において、自らの「心もち(心象)」を、「そのとほり科学的に記載し」、あるいは「厳密に事実のとほり記録し」、それを「あとで勉強するときの仕度」にしたという彼の出発点の様子に、共通するものがあると言えないでしょうか。
 そして賢治は、この「心象スケッチ」によって最終的に何を目ざしていたのかというと、岩波茂雄あて書簡と同年の森佐一あて書簡200では、「或る心理学的な仕事の支度」と記し、またその意図は、「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し」というものであったと、書いているのです。
 西田が独自の哲学体系を樹立したように、賢治も非常に野心的な目標を持っていたわけですが、その「或る心理学的な仕事」の内実とは、自らの幻覚体験も含めた記録論料に、何らかの心理学的な手法を適用することによって、「われわれの感ずるそのほかの空間」=異界に関する「十界互具」的・仏教的な認識論と、科学とを架橋しようというものだったのではないかというのが、私の個人的な推測です。

 それはさておき、このように「純粋経験」あるいは「意識現象」を学の土台に据えて出発点にしようとする考え方は、何も西田や賢治に限らず、当時の世界的な潮流でもありました。
 『宮澤賢治 イーハトーヴ学事典』の「現象学」の項で、黒田昭信氏は次のように書いておられます。

 賢治の諸作品、とりわけ『春と修羅』において実践された心象スケッチには、素朴実在論からまったく解放された、現象学的とも呼べる記述的態度を見て取ることができる。
 19世紀末から20世紀初めにかけて、ヨーロッパでもアメリカでも、生きられる「事象そのもの」への回帰という哲学的態度が、フッサール、ベルクソン、ウィリアム・ジェームズらによって、一つの大きな思潮として形成されていくが、それが日本へと流入して来るのが、明治末期から大正期である。フッサール現象学そのものの日本への受容は、大正初期の西田幾多郎よる紹介に始まり、京都学派に属する哲学者たち―田邊元、山内得立、三宅剛一、三木清、あるいは東北大学の高橋里美らによって、大正時代から昭和初期にかけて、その理解の深まりとともに、本格化していくが、その過程は、賢治の文学と思想が形成されていく時期と重なり合う。

 賢治が西田の著作を読んだことがあったかどうかはわかりませんが、下に記すように当時一世を風靡した西田の哲学がどういうものかということについては、知識人として一応は知っていたのではないかと思います。そうであれば、「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」と言う西田幾多郎は、賢治にとっては時代の潮流を共有しつつ、同じ方向を目ざす仲間だったはずなのです。

 そしてさらに、このような「内容」以上に私が興味を引かれるのは、西田幾多郎と岩波書店の関係です。
弘道館版『善の研究』 西田幾多郎が『善の研究』を最初に出版したのは、1911年(明治44年)に「弘道館」という出版社からでしたが、その内容は専門家の一部から高く評価されながらも、三刷を重ねただけで、まもなく絶版になっていました(右画像は国会図書館デジタルライブラリーより)。
 この状況に変化をもたらしたのが、1921年(大正10年)に岩波書店から刊行された倉田百三著『愛と認識との出発』において、著者がこの『善の研究』を絶賛したことでした。
 同書で倉田は、次のように『善の研究』を紹介しています。

 この乾燥した沈滞したあさましきまでに俗気に満ちたるわが哲学界に、たとえば乾からびた山陰の瘠せ地から、蒼ばんだ白い釣鐘草の花が品高く匂い出ているにも似て、われらに純なる喜びと心強さと、かすかな驚きさえも感じさせるのは西田幾多郎氏である。〔中略〕
 操山の麓にひろがる静かな田圃に向かった小さな家に私たちの冬ごもりの仕度ができた。私はこの家で『善の研究』を熟読した。この書物は私の内部生活にとって天変地異であった。この書物は私の認識論を根本的に変化させた。そして私に愛と宗教との形而上学的な思想を注ぎ込んだ。深い遠い、神秘な、夏の黎明の空のような形而上学の思想が、私の胸に光のごとく、雨のごとく流れ込んだ。そして私の本性に吸い込まれるように包摂されてしまった。

岩波書店版『善の研究』 このような紹介文を読むと、それほどに素晴らしい『善の研究』を、今すぐにでも読みたいと願う読者が現れるのは当然のことですが、この時点でこの本は絶版になっていたのです。そこで、同じ1921年にやはり岩波書店から、『善の研究』が再版されることになり、これは発売当初から、旧制高校生が争って買い求めるほどの人気を博すことになりました(右画像は国会図書館デジタルライブラリーより)。
 いったいどれほど愛読されたのか、岩波文庫版『愛と認識との出発』の「解説」には、次のように記されています。

 旧制の第一高等学校の学生たちが、もっとも愛読した書物は何か。1943(昭和18)年に同校で行われた調査によると、第一位が倉田百三の『愛と認識との出発』である。以下、第二位−阿部次郎『倫理学の根本問題』、第三位−同じく倉田の『出家とその弟子』、第四位−西田幾多郎『善の研究』、第五位−出隆『哲学以前』とつづく(『第一高等学校自治寮六十年史』)。

 つまり、その内容的な出発点と企画において「心象スケッチ」と似ていた『善の研究』は、その初版はすぐに絶版になったものの、岩波書店から再版されることによって、一躍脚光を浴びることになったのです。
 ここまで話題となった本ですから、賢治もその再版に至る経緯くらいは耳にしていたはずで、この本と構想と射程において共通する自らの『春と修羅』が、万が一にでも岩波書店から出版されることになれば……と夢見たとしても、そんなに不思議なことではないと、私としては感じた次第です。

 とりわけ、岩波茂雄に対して「あなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますなら……」と書いているところについては、「心理学」の方は上の森佐一あて書簡に「或る心理学的な仕事」とあるように、自らの企画の方向性として意識していた分野なので当然としても、「哲学」が挙げられているのはどうしてなのでしょうか。これはやはり、岩波書店が再版した西田幾多郎の『善の研究』を賢治が意識していたからではないかと、私としては思ってしまうのです。

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2019年4月14日 走査線に明滅する幽霊

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書) 新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)
石田 英敬 (著), 東 浩紀 (著)

ゲンロン (2019/3/4)

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 最近出た、『新記号論 脳とメディアが出会うとき』という本をたまたま読んでいましたら、賢治の『春と修羅』の「」に関する、面白い言及がありました。

『新記号論』p62-63

 少し長くなって恐縮ですが、この「」に対する新たな一つの解釈と思いますので、以下に引用させていただきます。

石田 人間は機械の文字を読み書きすることができないが、その認知のギャップこそが人間の知覚を総合し、人間の意識をつくり出すという話をしました。ぼくたちはこの「技術的無意識の時代」において見えないもの見て、意識の成立以前に聞こえるものを聞いて生活しているわけです。テレビであれ、インターネットの動画であれ、iPod の音楽であれ、ぼくたちは音・イメージや言葉など「記号」だけを取り出し、あたかもそれが現前しているように見なして生活しています。
 現代は音・イメージを伝搬する電波に満ちた時代ですが、フランス語の「スペクトル spectre」(英語の spectrum)には光や音の波長分布像という意味のほかに、「亡霊」という意味もあります。それは、「スペクタクル spectacle(見世物)」という言葉とも結びつく。われわれは音・イメージがつくり出す見世物(亡霊)を存在と見なし、日々暮らしています。これこそヴァルター・ベンヤミンが言うところの「複製技術の時代」にほかなりません。いまここに存在しないひとが話し、存在しない事物の像や光景が見え、いまここに存在しないひととコミュニケーションして生活している。亡霊がいたるところ徘徊してぼくたちを日常的に取り巻いている、かなりふしぎな「スペクタクルの社会」にぼくたちは生きているのです。
 このことを象徴的に表現しているのが、宮沢賢治の『春と修羅』「序」にあるつぎの一節です。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

 ぼくはこれは「テレビの原理」で書かれた詩だと思っています。この詩が書かれたのは1924年です。テレビ技術は19世紀末からの複数の技術的発明が組み合わさって実現したものですが、ベアードによるテレビ像の実験は1924年、日本では高柳健次郎がブラウン管による「イ」の文字の電送・受像の実験に成功したのが1926年です。『銀河鉄道の夜』が相対性理論をベースに書かれたとも読めるように、賢治は科学の動向に詳しいひとだったから、テレビ技術もおそらく知っていたにちがいなく、テレビの原理そのものをメタファーに使っているのではないか。
 テレビでは、走査線上を明滅する光のフレームによって、「わたくしといふ現象」(意識)が生まれる。「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける」テレビの映像のような「わたくしといふ現象」「あらゆる透明な幽霊の複合体」が、人々の意識生活をつくっていく。テクノロジーが文字を書く時代を予言しているようです。
 まさに予言的ですね。「わたくしという現象」が「明滅する」「幽霊」であるという表現は、たいへんデリダ的な表現です。
石田 メディアがテクノロジーの文字で書くようになると亡霊化する。だから、事物および事実が、まさに現象学が言うような「現象」になるわけですね。(『新記号論』p.61-63)

 というわけで、賢治の『春と修羅』の「」に登場する、「幽霊」や「明滅」する「照明」というイメージは、テレビジョンという当時世界最先端のテクノロジーのメタファーではないかという解釈が、ここで提示されているわけです。
 映画好きで、弟を連れて頻繁に映画館に通っていたという賢治のことですから、もしもテレビの原理やその可能性について知っていたら、並々ならぬ興味を抱いて当然ですし、この「」を書いた時点でそのような知識を持っていたのならば、それがここに反映されたという可能性も、十分に考えられそうです。
 ただ、実際に賢治がテレビ技術について言及している記録は何一つ残っていないと思いますので、彼が「」の執筆時点でそのような技術について知っていたか否かを判断するためには、まずはそれが「時間的に可能だったのか」ということから、調べてみる必要があります。

 ご存じのように、賢治の『春と修羅』「」には、「大正13年(1924年)1月20日」という日付が付されていますが、はたしてこの時点で、賢治がテレビジョンというものを知りうる可能性があったのでしょうか。上記の石田氏の発言には、「ベアードによるテレビ像の実験は1924年」という、まさにピンポイントの年号が書かれていますが、より細かい時間的な前後関係はどうなっていたのでしょうか。
 そこでまず、Wikipedia の「ジョン・ロジー・ベアード」の項を見ると、「1924年2月、Radio Times 誌に半機械式のテレビシステムを公開し動く影(物体の輪郭)の映像を披露した」とあります。しかし、これだけではまだ十分に明らかではないので、ベアードのテレビ発明の記録として現時点で最も詳しそうな、“John Logie Baird: Television pioneer”という本を Google books で拾い読みしてみると、彼の1924年前後の研究活動は、次のようなものでした。

John Logie Baird: Television pioneer (History and Management of Technology) John Logie Baird: Television pioneer (History and Management of Technology)
Russell W. Burns

The Institution of Engineering and Technology (2001/2/21)

Amazonで詳しく見る
  • ベアードが、自らのテレビジョン研究について最初に出版物で報告したのは、1923年11月号の Chambers Journal 誌であり、ここでは、自作の装置が直径20インチで毎秒20回転の走査ディスクを用い、画面は2×2インチであること等を述べている。
  • 1924年1月、研究のための資金集めに迫られていたベアードは、報道向けの実演を行い、同年1月15日付けの Daily News 紙と、1月19日付けの Hastings and St Leonard's Observer 紙に記事が掲載され、実際これを見たベアードの父親の友人から、50ポンドの資金援助を受けた。この時点では、ベアードの装置はまだ単一の文字や記号の「影絵」を転送できるだけで、集光レンズの前に置かれた十字架形の厚紙の輪郭を、数フィート離れた暗い部屋で見ることができたという。
  • 1924年2月15日付けの Radio Times 紙には、「テレビジョンが実現すれば、肘掛け椅子から世界が見られる」と題された匿名記事が掲載され、無線放送や電波について説明をした後、もしもこれが実現すれば、たとえばアルバートホールに座ったままで、競馬ダービーや、オクスフォード・ケンブリッジ対抗ボートレースや、海軍観艦式や、アメリカのボクシング試合や、あるいは戦争さえ見られる、10年後には地球の反対側で起こる出来事さえ見ることができるだろう、と述べられていた。
  • 1924年1月の新聞記事による資金援助を受けて、ベアードは4月までにより大きなアパートの研究室に引っ越し、4月10日に行った実験の電波が、イギリス南岸部でパリのラジオを聴取していた人々の耳に高音の雑音として聞こえたと、Glasgow Herald ほか数紙が報道した。
  • 1924年3月17日に、ベアードは撮像機と受像機の同期に関する新たな技術の特許を申請した。
  • 1924年4月の Radio Times 紙に、ベアードの支援者である作家のル・キューが「テレビジョン:一つの事実」と題した論文を掲載し、ベアードが撮像機と受像機を正確に同期させるという難題を克服して、完全に切断された装置の間での画像送信を成功させたこと、送信レンズの前で指を上下に動かすと、受像ディスクにおいて上下する指をはっきりと見ることができたことを述べている。
  • 1924年5月に、ベアードはそれまでの実験成果をまとめた最初の技術論文を刊行した。
  • 1924年7月26日付けの Hastings and St Leonard's Observer 紙に、「テレビジョンの発明者と名乗るベアード氏」の実験室で電流がショートして爆発事故が起こり、ベアードは爆風で部屋の端まで飛ばされたという記事が掲載された。
  • この後、ベアードは1925年10月2日に、初めてグレースケールの画像の送受信に成功し、この装置が「最初のテレビジョン」と言われることとなった。1926年1月26日には公開実験においてこれを示した。

 ということで、賢治が『春と修羅』の「」を書いたと推測される1924年1月20日までの時点では、ベアードによるテレビジョン装置は、まだその前段階の開発実験が、イギリスの地方新聞や専門雑誌で細々と紹介されていたにすぎず、さらにその実験装置を実際に見ることができたのは、1924年1月の報道発表に招かれた一部の記者や、ベアードのために金銭的支援をする人だけだったというのが、実情のようです。彼が自らの装置について初めての論文を発表したのも1924年5月で、これも時期的に「」には間に合いません。
 そして、ベアードが現実に「最初のテレビジョン」と呼びうる性能の装置を製作できたのは、1925年10月のことだったのです。

 つまり、賢治が日本にいながらにして、1924年1月までに当時のイギリスにおけるテレビジョンの開発状況――しかもそれはまだ非常に未熟で、隣の部屋に影絵を送れる程度であり、現地の人々にもあまり知られていなかった、実験室の中の試作機という段階――について、具体的に知りえた可能性は、まずないと言わざるをえません。

1924年初期にテレビジョンの実験をするベアード

 なお上の写真は、“John Logie Baird: Television pioneer”に掲載されている1924年初期におけるテレビジョン実験の様子で、中央の人物がベアードで、左側が支援者のル・キューです。さらに左には大きな円盤が写っていますが、当時はこのような円盤に螺旋状に多数の穴をあけておき、円盤を高速で回転させてその穴を透過してくる光を、撮像機および受像機で走査線として用いていたということです。

 以上、実際に確認してみると、賢治が『春と修羅』の「」を書いた時点では、テレビジョンの受像機において「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける」「幽霊の複合体」を想像しえたということはありえず、これが「テレビの原理」で書かれた詩だという解釈も、成り立たないということになります。
 それはそれで、ちょっと魅力的な解釈だったのにまあ残念だった、というだけのことで、ここで今回の記事を終わってもよいのかもしれませんが、しかしそれにしても宮澤賢治という人は、この東大のメディア学の教授をしても、なぜかここまでの期待というか思い入れをさせてしまう、何か不思議な吸引力を持った人であることは確かです。

 現代の我々は、たとえば賢治が「エコロジー思想の先駆者」であったとか、彼の書いたものやその行動を、ついつい贔屓目に持ち上げたくなる傾向があります。多くの場合、それはある程度までは事実に基づいているのでしょうが、しかし賢治が「有機農業の先駆者だった」とまで言い出すと、これは事実の真逆になってしまいます。また自然科学的分野でも、たとえばある高名な賢治研究者のように、短篇「柳沢」に描かれた岩手山頂の雪の白光を、「超高層空間における発光現象の予覚」であるとか論じてしまうと、やはり独りよがりな思いこみになってしまいます。

 上のような問題は、勝手な読者の側に原因があるわけですが、ただ我々読者がそういうことを考えたくなってしまう理由の一つは、賢治の方も確かに当時の作家としては異例なほどに自然科学知識が豊富で、その最新の進歩にも通じていたということにあるでしょう。
 冒頭の本で石田英敬氏が言っているように、「『銀河鉄道の夜』が相対性理論をベースに書かれたとも読めるように、賢治は科学の動向に詳しいひとだった」わけで、これも「相対性理論をベースに書かれた」とまで言ってしまうとちょっと言いすぎで、「相対性理論の前提である『真空は光の媒質である』という認識が踏まえられている」と表現した方が正確ではあるでしょうが、しかしやはり賢治という作家の印象は、まさにこのとおりなのです。
 近代日本の作家で、我々がこういうイメージや思い入れを投影する人というのは、ほかにはちょっと思い浮かばず、森鴎外などはずっと現役の医師でしたから、当時最先端の科学にもきっと通じていたと思うのですが、読者としては鴎外の作品に、賢治のごとく何か「未来への先見性」を期待するという感じには、なぜかなりません。

 そしてさらに、上記のように賢治が実際に自然科学に詳しかったということに加えて、彼は当時まだ知りえなかったはずの事柄まで、現在から見ると「当時なぜこんなことが書けたんだろう」と不思議になるような、信じられない想像力を示していることも、よくあるのです。
 以前の記事「銀河、ワームホール、りんご」で書いたように、銀河を「りんご」に喩えてそこを走る鉄道を考えるというイメージは、空間の歪みをワープする「ワームホール」の着想そのものですし、また「現象としての真空」で書いたように、「この世界」と「異界」が「真空」という対象を媒介として繋がっているという発想も、現代物理学を先取りしていました。
 これらはいずれも、「賢治の洞察力が凄かった」とまで言ってしまうと言いすぎで、まあ偶然に符合したにすぎないと考えるしかないのですが、しかしたとえ偶然にしても、数十年後に驚かされるようなこういう素晴らしいイメージを独自に生み出すことができる想像力というのは、やはり賢治ならではなのだと思います。

 思えば、記事「現象としての真空」のコメント欄で吉田さんが、「賢治は、アインシュタインら、独創的な思考ができた科学者たちにも負けない豊かな想像力の持ち主だった」との意見を下さいましたが、まさにそういうことなのかなあと、あらためて感じざるをえません。
 そして人は、やはり賢治のそういうところについつい惹かれて、冒頭のようにちょっと先走りした解釈を生み出してしまうこともあるのだろうかと思うのです。
 しかし賢治作品のこういう「読み」もまた楽しいもので、ただそれにあまりとらわれると「トンデモ」になってしまって危ういのですが、その境目がわからないあたりを彷徨ってみるのは、私などは大好きです。まあ同時に、客観的で大局的な視点というものを、忘れないようにしなければなりませんね。

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2019年4月 7日 富山英俊著『挽歌と反語』

 明治学院大学教授で宮沢賢治学会イーハトーブセンターの前代表理事の、富山英俊さんによる賢治研究書『挽歌と反語 宮沢賢治の詩と宗教』が、刊行されました。

挽歌と反語―宮沢賢治の詩と宗教 挽歌と反語―宮沢賢治の詩と宗教
富山英俊 (著)

せりか書房 (2019/3/20)

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 この本の装幀に使われているのは、上の写真からも少し見ていただけるように、賢治の「青森挽歌」の自筆稿の、美しくも緊迫感のあふれる画像で、これがまず何よりも私にとっては、比類のない魅力を持って目に入ってきます。
 上には写っていませんが、本書の黒色の帯に記されている言葉は、下記です。

『春と修羅』挽歌群の最高峰
「青森挽歌」全篇の音数律と楽曲的な
主題構成を分析し、賢治文学の
反語性・多声性の源泉を(キリスト教
との接触の諸相を読解しつつ)
日本仏教の「本覚」的な性向へと遡り、
仏教思想が「心象スケッチ」を主観性の
表出から離脱させた経緯を展望し、
ゲーリー・スナイダーの賢治詩英訳を
検討し、T・S・エリオットとの類縁
を指摘し、新たな賢治像を提示する

 とても長い一つのセンテンスで書かれていますので、複雑に曲がりくねった印象を与える紹介文ではありますが、この本全体の本質的な要素は、もう全てここに凝縮され詰め込まれています。本の内容紹介としては、もうここに尽きてしまうのですが、これで記事を終わってしまっても何ですので、とりあえず本を開いてみましょう。
 まず本文の最初に位置して圧倒的な存在感を放っているのは、上記のように装幀にも使われている「青森挽歌」を取り上げた「第一章 「青森挽歌」を読む、聴く」です。そこでは、「音数律」という道具を、まるで地質学者のルーペのように丹念に使用しつつ、一片の鉱石も見逃さないような足どりで綿密に進行していくテキストの分析が、とりわけ印象的です。

 音楽に喩えれば、この「音数律」というのは、旋律や対旋律の構成単位としての「動機(モチーフ)」のようなものでしょうが、この章で著者は、賢治という詩人が多彩な言葉のリズムを巧みに駆使する能力において、いかに類い稀な資質をもっていたのかということを、細かく実証的に示してくれています。著者の言葉では、「賢治の詩は、生来の抜群の音感によって細部にいたるまで構成され、定型とそこからの離脱との行き来を精妙に演奏し、長篇詩であっても単調に陥らず多彩に展開する」(p.30)のです。

 この言葉はまさに、私がこれまで賢治の詩を読みつつ感じてきた、その喩えようのない魅力を、具体的な形で表現してくれるものでした。
 例えば、古今東西に「美しいメロディー」というのは数限りなくあるでしょうが、その中でも(少なくとも私にとっては)モーツァルトやベートーヴェンの作った音楽が、その一部を聴いただけでも他に代えがたい魅力を備えているように感じられるのは、個々の動機(モチーフ)が組み合わされ、絡み合い、展開し、変化していく様子が、まさに「精妙」としか言いようのない素晴らしさだからでしょう。それが「なぜ美しいのか」と言われても、何とも説明しがたいですが、単調でもなく、ランダムでもなく、一見気まぐれのように変移しつつも、どこかで均整がとれていて、何とも心地よいのです。
 賢治が自らの詩において用いた音数律も、言わばそういう絶妙なものとしか言いようのないものなのでしょう。

 さらに、このように精妙な「音数律」によって紡ぎ出されていく言葉の連なりは、積み重ねられることによって自ずとさらに大規模で高次の階層の「構造」を形成して行きますが、その「音楽的構成」について、著者の富山さんは次のように述べます(p.63-64)。

 そして、作品の音楽的構成にもう一度戻るなら、この詩篇のここまでの展開は、いくつかの主題や要素の暗示と布置から始まって、妹の死という問いが次第にはっきりと想起され、それから死後の世界の三つの像が出現するというものだった。それらは、異なった方向性をもつ諸主題の対話、交渉という意味で「弁証法的」であり(その衝突からより高い「綜合」が生じる、という意味ではそうではないかもしれないが)、それらの主題がいわば交響曲におけるように展開される。それは「大局的」に言えば、日本の伝統的な詩が十分に発達させえなかった展開ということになるだろうが、しかし賢治のこの作品は、思想の「弁証法的」な展開を詩文の音楽的な構成として劇化するという志向を、近代日本のどんな作品よりも卓越して実現している。じっさい、この詩篇での賢治の詩行は、たとえば英詩の伝統でいえばロマン派の長大なオードに匹敵するものだ。(またT・S・エリオットの長篇詩に。それについては本書第九章で論じる。)

 そして、いったいなぜ、他ならぬ賢治が、これほど長大な詩においてその形式と内容を高度な次元で連関させつつ有機的に構築するという離れ業を、「近代日本のどんな作品よりも卓越して実現」できたのか、ということが、私たちにとっては最大の疑問として現れます。これについて富山さんは、次のように述べます(p.64)。

 東北という地方にいて、英語やドイツ語はかなりできたらしいが、けっしてそれらの言語の長詩を原文で研究する機会が多かったはずはないかれに、なぜそれができたのか? その答えは、だがとうの昔に詩人の弟の宮沢清六によって与えられている。クラシック音楽のレコードのたいへんな愛好家だった賢治は、ベートーベンなどの交響曲を熟知していた。賢治は蓄音機のラッパに耳を突っ込んで、さまざまな音色とメロディを視覚的な像として感受していたというが、交響曲的な構成、構築もまた、そこから獲得したものだろう。われわれは、「兄とレコード」での、「此のころ兄の書いた長い詩などは、作曲家が音符でやるように言葉によってそれをやり、奥にひそむものを交響曲的に現わしたい思ったのであろう」という宮沢清六の発言を文字通りに受け取る必要がある。また、浅野晃は前掲論で「青森挽歌」を「構築し得たこと」が「驚異である」「壮大なマーラー的交響曲」と呼んでいる。(クラシック音楽の愛好家である詩人などは日本に無数に存在してきたが、ほかに賢治のように長篇詩を構成し、かつ多彩にことばを動かせた詩人がいただろうか?)

 私はこの箇所を読んで、かつて自分が高校生だった時代に、ここまで長篇詩ではありませんが「春と修羅」を読んで何とも言えず感動し、自分でその全文をわら半紙に書き写しては読み、これはまるでベートーヴェンの交響曲やソナタの一楽章のようだと感じたことを、懐かしく思い出しました。
 浅野晃氏は、「青森挽歌」を「マーラー的交響曲」と呼んだということですが、さすがにここまで長大になり、また構造も複雑でいわゆる古典的な均整を志向するものではないところからは、これは確かにベートーヴェンではなくてマーラーの交響曲に譬えられるものでしょう。
 (ちなみに以前から私は、賢治の「小岩井農場」は、当該作者の最長の作品であること、全体が6つのパート(楽章)から成っていること、途中では現実的・象徴的な様々な苦悩が描かれながらも最後には若々しい肯定に至るという全体の構成などから、マーラーでいえば交響曲第3番に相当するなぁと、浅野晃氏の指摘は知らないままに思っていました。それでは、「青森挽歌」をマーラーの交響曲で言えば、何番になるのでしょう。その悲壮感の深さからは、かなり対照的ではありますが6番や9番などに当たるでしょうか……。)

 ……などということで、第一章の一つの側面のご紹介だけでも、もうかなりの字数を費やしてしまいましたが、本書の後半部では、キリスト教や仏教の思想への富山さん独自の視点と、それを通した賢治作品の読みが、非常に深く展開されます。本書副題の「宮沢賢治の詩と宗教」が示すように、これもこの本の二本柱のもう一方を成す、重要なテーマなのです。
 その中でも、今回の書き下ろしという「第六章 ヘッケル博士と倶舎―諸説の検討と私見」においては、「青森挽歌」のテキスト中で最も研究者による解釈の分かれる「謎」の部分について、現時点での諸説を丁寧に包括的に整理して、著者の見解を付してくれており、この問題に関心を持っておられる方には、必見の章かと思います。私も「ヘッケル博士」については、「「青森挽歌」における二重の葛藤」の中でも自分なりの解釈を書いてみたりして、相当の関心を持ってはいるのですが、それでも今回の富山さんの論考を読ませていただいて、「やっぱりこの問題は難しいなあ」というのが、率直な感想でした。

 また、宗教的側面からの分析においては、キリスト教における「反律法」という方向性と、仏教における「(天台)本覚思想」を、アナロジーとしてとらえようとする著者の視点は、比較宗教学的に見ても非常に斬新なものではないかと、私には感じられます。しかし現時点で、その検討は私の能力を越えてもいますので、今回の記事での本書のご紹介はこのくらいにし、あとはまた可能ならば、いつか別の記事を立てて考えてみたいと思います。

 ちなみに私は本書を読みながら、これまで賢治学会のセミナー等で謦咳に接してきた富山英俊さんの、理知的で淡々として鋭く、しかしどこかにユーモアもこめられたご発言の様子が、行間から浮かび上がってくるようで、これは研究書としてとても高度で専門的な内容であるとは思いますが、同時に私にとっては暖かく楽しい読書体験でした。

【本書の目次】

はじめに

第一章 「青森挽歌」を読む、聴く
第二章 宮沢賢治の詩の実現(音数律と主題構成)
第三章 賢治仏教学への予備的な覚書(日蓮と親鸞)
第四章 宮沢賢治とキリスト教の諸相―「天国」と
    「神の国」のいくつかの像
第五章 宮沢賢治とキリスト教の一面(反律法)と
    仏教の一面(本覚)
第六章 ヘッケル博士と倶舎―諸説の検討と私見
第七章 心象スケッチ、主観性の文学、仏教思想
第八章 ゲーリー・スナイダーの宮沢賢治
第九章 T・S・エリオットと宮沢賢治

あとがき
参照文献

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2019年3月24日 『宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈』出版

 信時哲郎さんの『宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈』(和泉書店)が、ついに出版されました。

宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈 宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈
信時 哲郎 (著)

和泉書院 (2019/2/28)

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 信時さんは、2010年に上梓された『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』によって、翌年に「第21回宮沢賢治賞奨励賞」を受賞されましたが、それから9年の歳月が経ち、その後の厖大で緻密な研究の成果を、こうしてまた私たちの手元で利用できる形にして下さったのです。
 ちなみに、本文は744ページ、本の厚さは4.3cmあります。

 皆様もご存じのように、賢治の文語詩というのは、彼が最晩年に至ってそれまでの人生を回顧し、その生涯における様々な一コマを切りとって、その都度の自らの感慨とともに凝縮し、最後は単純で美しい珠玉のように「結晶化」させたようなテキストです。そこでは、言葉があまりにも圧縮され切り詰められているために、ちょっと読んだだけでは意味不明で難解なものが多いですが、その奥深い含意や賢治の感情が読み解けてくると、何とも味わい深い感動をもたらしてくれます。
 そのように、一見取っつきにくい賢治の文語詩の世界を旅してみる際に、この『一百篇評釈』は9年前の『五十篇評釈』とともに、最高の導き手になってくれるに違いありません。

 本書の構成は、101篇の各文語詩ごとに、作品「本文」の掲出に続き、「大意」、「モチーフ」、「語注」、「評釈」が記され、最後に「先行研究」の一覧が掲げられています。
 「大意」の項では、削ぎ落とされた賢治の表現を適宜補いながら、作品内容を簡潔な口語訳にしてくれていますので、何のことを言っているのかわからないような難しい文語詩も、ここを読むだけで「ああそういうことだったのか」と一瞬にしてわかるようになっています。
 次の「モチーフ」という項がまた秀逸で、作品の背景や、賢治の生涯との関連を、コンパクトにまとめてくれていますので、鑑賞のための最小限の基礎知識は、ここで得られるようになっています。
 たとえば、「岩手公園」の「モチーフ」の項目には、

賢治の文語詩は、岩手に生きる様々な人を登場させようとする、いわば「岩手ひとり万葉集」とでもいうものを編もうとする試みだったと思うのだが、定稿を書こうとした段階で、賢治はタッピング一家を思い出したということであったかと思う。

という一節もあって、この「岩手ひとり万葉集」という表現などは、これほどまで綿密に賢治の文語詩を読み込んでこられた、信時さんならではの視点から生まれた言葉だと思います。確かに、この賢治の独自の企画は、「岩手ひとり万葉集」とも言えますね。
 さらに続く「語注」では、難解であったり解釈の分かれる語句を、文献も踏まえて丁寧に説明し、そして中心となる「評釈」では、厖大な先行研究や、出版されていないインターネット上の言説までも幅広く参照して、実に精密な作品分析が行われます。
 私事ながら、私のこのブログを参照していただいている箇所も、全部で実に10か所を数え、それぞれ丁寧に引用した上で、賛成であれ反対であれ真摯に評価をして下さっているのが、本当にありがたく存じます。

 「評釈」の例としては、たとえば『文語詩稿 一百篇』の最初の作品「」は、私も大好きな詩の一つなのですが、これについては作品が掲載された『女性岩手』という雑誌の創刊号の巻頭言やそこに掲げられた精神、また当時の社会情勢を論じて、最後は次のように閉じられます。

 だとすれば、まだ母としての自覚、大人としての自覚の薄い母親が、本当は自分の方が大きな声を出して飛びつきたいくらいの瓜を、黙ってわが子に譲るというシーン、すなわち子どもが大人になり、女の子が女になる瞬間の記述として、賢治は興味深いものとして書き留めたかったのではないか、というようにも読めてくる。そしてそれは、大正六年の感動であるに留まらず、昭和七年に至っても、永続していたのではないかと思えるのである。世に欠食児童が増えていた時期であったからこそ、新しい岩手の生活と文化を担う女性たちへの期待を込めて、賢治はこうした作品を書いたのだと考えたい。

 「定稿」になってしまえば、たった4行の小さな作品で、そこには秋空と雲と風と山とススキと、微笑ましい母子の歩く姿がだけ見えますが、そのさらに奥には、こんな厳しい世相や、女性運動に向かう希望や、暖かい賢治の思いも込められていることが、じんわりと浮かび上がってきます。

 賢治の文語詩というものが、見かけは小さな美しい「結晶」の中に、実は「一つの世界」を宿しているということを、わかりやすく紐解いて教えてくれる、この本は素晴らしいガイドブックだと思います。

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2019年3月 3日 大槌町に「旅程幻想」詩碑建立

 来たる3月23日に、東日本大震災以来不通になっていたJR山田線の沿岸部(宮古―釜石間)が復旧開通しますが、それとともに同線沿岸部は三陸鉄道に移管され、これによって従来の久慈―宮古の「北リアス線」と、釜石―盛の「南リアス線」がついに「南北統一」され、三陸沿岸を久慈から盛まで一本でつなぐ、「三陸鉄道リアス線」が誕生することになります。
 実際に、久慈から盛までの直通列車が走り始めるのは、翌24日からのようで、すでに発表されている「リアス線列車時刻表」を見ると、直通列車は上りが3本、下りが2本で、全線でだいたい4時間30分かかるようです。

 下のGoogleマップで、青色部分が北リアス線紫色部分が山田線赤色部分が南リアス線ですが、あと2週間で、ここを北から南まで一本の列車で走ることができるわけですね。
 開通したらぜひとも、この直通列車に乗ってみたいものです。

 ということで、リアス線の「南北統一」も画期的なことではありますが、同時に旧JR山田線の沿岸路線部分がやっとのことで復旧し、再びこの路線を列車が走り始めるということは、震災から8年あまりも鉄道がない状況を強いられてきた、旧山田線の磯鶏駅から両石駅までの沿線部の方々にとっては、本当に待ち遠しかったこの3月23日でしょう。

 そして、その祝賀の意味も込めて、賢治の「旅程幻想」を刻んだ詩碑が、8年ぶりに列車を迎える大槌駅において、再開の1週間前にあたる3月16日に、完成除幕されることになったのです。上の地図で、青いマーカーを付けた場所が、その大槌駅です。
 詩碑建立を中心になって準備をされたのは、「大槌宮沢賢治研究会」の会長で、また「風の電話」の活動によって第25回イーハトーブ賞奨励賞を受賞された、佐々木格さんです。

「旅程幻想」詩碑除幕式チラシ表

「旅程幻想」詩碑除幕式チラシ裏

 ところで、「旅程幻想」の作品舞台がどこかということに関しては、まだ確定的なことはわかりませんが、賢治が発動機船を降りたと推定されている宮古と、叔父の家があった釜石との間のどこかだったということまでは、確かでしょう。佐々木格さんの説では、これは大槌町で作られたもので、作品中に出てくる「放牧用の木柵」があるような牧場が、昔は大槌町の北の方にあったということですし、賢治がこの作品でまどろんでいる「河原」とは、大槌町を流れる「小鎚川」ではないかということです。

 残念ながら、私は23日の詩碑除幕式に行くことはできませんが、そのご盛会と、今後の大槌町の発展を、心からお祈りしています。

  旅程幻想
               一九二五、一、八、

さびしい不漁と旱害のあとを
海に沿ふ
いくつもの峠を越えたり
萓の野原を通ったりして
ひとりここまで来たのだけれども
いまこの荒れた河原の砂の、
うす陽のなかにまどろめば、
肩またせなのうら寒く
何か不安なこの感じは
たしかしまひの硅板岩の峠の上で
放牧用の木柵の
楢の扉を開けたまゝ
みちを急いだためらしく
そこの光ってつめたいそらや
やどり木のある栗の木なども眼にうかぶ
その川上の幾重の雲と
つめたい日射しの格子のなかで
何か知らない巨きな鳥が
かすかにごろごろ鳴いてゐる

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2019年2月24日 世界の救済と個人の救済

 この正月明けに亡くなられたある年配の知人の奥様に、先週お会いしてお話をする機会があったのですが、その前夜に知人のことを何となく思い巡らしつつ寝床に入っていると、その方と奥様が出てくる夢を見ました。とても複雑で奇想天外な内容で、わけがわからないような夢だったのですが、早朝に目が覚めると、なぜか不思議に少しほっとしたような気持ちがしました。

シモーヌ・ヴェイユ(Wkimediaコモンズより〕 その知人は、シモーヌ・ヴェイユの思想や生き方に心酔して、まるでヴェイユのごとく自分の身を削るようにして、世の中の虐げられた人々のために尽力奔走する人生を送り、その途中で病に倒れられました。
 病気がいったん小康を得ると、知人はご自身のそれまでの生き方を振り返って、これまでの自分は少し自分自身を追い詰めすぎていたのかもしれないと言い、これからはヴェイユよりも、ブッダやタオの教えを導きにして、残された日々新たな方向を目ざして歩んでいきたいとおっしゃりました。そしてそれから数年は、山を歩いて野草を愛でたり、絵を描いたりして、日々を過ごしておられたのです。
 そのような穏やかな生活を送りながら、私にもよく折々の心境を話して聞かせて下さっていたのですが、そんな私たちの予想もしないある日、突然に帰らぬ人となったのです。

 その知人と奥様が出てくる複雑な夢から目覚めて、私の心にはなぜかふと、「賢治も結局は自分自身のために生きて死んだんだ」という言葉が浮かんで、そしてその時に私はわけもなく、何かほっとしたような気がしたのです。
 夢には賢治のことはまったく出てこなかったのに、目が覚めてみると賢治に関する言葉が残っているとは、何とも不思議なことでした。

 それにこの、「賢治も結局は自分自身のために生きて死んだんだ」という言葉の意味も、私としてはよくわかりません。
 賢治は、自分自身のためではなく、「利他の精神」によって生き、死んだ人の、典型のはずです。賢治を敬愛する方々の中には、彼が自分のために生きて死んだのだなどと聞くと、変なことを言うなと憤る方も多いでしょう。私もそう思いますし、いったいなぜこんな言葉でほっとしたのか、どうも釈然としません。
 しかし戸惑いながらも、まだ外は暗い早朝の寝床の中で、私はぼんやり次のようなことを考えていました。

 ある意味では、賢治もシモーヌ・ヴェイユのように自らの健康を犠牲にしてまで世の人々のために働き、その類い稀な才能や創作の種子を、まだたくさん内に秘めたままで、この世を去ってしまいました。その早すぎる死を思うと、心が痛まずにはいられません。
 しかし、あの「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉に従えば、賢治が彼自身の「個人の幸福」を手にするためには、まずはどうしても「世界の幸福」を実現する必要があったのです。そして、その「世界の幸福」をこそ目ざして、彼は文学の創作や宗教や農業や教育に、命を燃やし尽くしました。

 賢治にとっては、それが彼独自の「個人の幸福」へと至る、唯一無二の道だったのでしょうし、また「自分」と「世界」がしばしば合一するという性癖を持っている彼にしてみれば、「世界の幸福」と「個人の幸福」とは、結局は同じことだったのかもしれない……などど考えつつ、またM.T.さんのご冥福を祈りつつ、私はうとうとと、もう一眠りしたのでした。

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2019年2月17日 幻の賢治の白バラ

グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園) 2000年代に、日本のバラ愛好家の間では、「グルス・アン・テプリッツ」という真紅の美しいバラが、「賢治の愛したバラ」として非常に有名になり人気を博す一方、賢治研究者の間でこのバラが話題になることは全くないという、扱われ方の極端な不均衡が見られることが、私にはとても不思議でした。様々な賢治研究書にも、バラに関する記述はほぼ皆無で、いったい何を根拠にグルス・アン・テプリッツが賢治のバラと言われているのかも、私にはわかりませんでした。
 そこで、この「グルス・アン・テプリッツ」がいかにして「賢治が愛したバラ」と呼ばれるようになっていったのかという経緯を、私なりに調べ、またいろいろな方からご教示をいただいて、2006年から以下の一連の記事を書きました。

 このたび、「花巻ばら会」のSさんが、「公益財団法人 日本ばら会」の会報誌に、「「宮沢賢治のバラ」を守った花巻ばら会」という文章を発表され、そのコピーを私のもとに送って下さいました。そこには、「賢治のバラ」がたどった数奇な運命が写真とともに簡潔にまとめられ、そのタイトルのとおり、「花巻ばら会」の皆さんが、これまでいかに真摯にこの「賢治のバラ」を守り育てられたかということが、克明に記録されています。

 この「賢治のバラ」の詳しい経緯については、上のブログ記事を順に全て読んでもらえればおわかりいただけるはずなのですが、しかしそれではあまりに理不尽なご苦労をおかけしますので、ここにあらためて大まかにその内容を整理してみると、事の次第は次のようなものでした。

  1. 1928−1929年頃、賢治は花巻共立病院院長・佐藤隆房氏の邸宅の新築祝いに訪問し、後にバラの苗20種を寄贈した。
    これについて、佐藤隆房著『宮沢賢治―素顔の我が友―』には、「秋になり賢治さんは私に立派な薔薇の苗二十種を届けてくれました。その薔薇は今も大切に培養されていて、年ごとに美しい色を咲かせます。(一九二九年)」との記載がある。
    ただし、賢治によるこのバラの苗の寄贈は、彼が1929年にはずっと病床にある重篤な状態だったことを考えると、前年の1928年だった可能性もある。

  2. 時代は降って1964年、「花巻ばら会」が発足した際に、顧問を佐藤隆房氏に依頼したところ快諾され、さらに佐藤隆房氏は花巻ばら会副会長の佐藤昭三氏に、「今、家の庭にも賢治さんがくれたばらが咲いているよ」と言われ、「一度見に来るように」と勧められたので、昭三氏は隆房氏宅を訪問してそのバラを見せてもらった。
    花巻ばら会としては、まもなく開催される創立記念展示会に、ぜひこの賢治ゆかりのバラを展示したいと考え、佐藤隆房氏に依頼して庭に咲いているバラの20輪ほどを切り花としてもらい受け、当日はフラスコに活けて、「賢治ゆかりのバラ」として展示した。
    これが、「賢治のバラ」の最初の公開展示である。しかし当時は、まだこれらのバラの品種名はわからなかった。

  3. さらに時代が降って、1989年に花巻ばら会は創立25周年を迎え、1990年の日本ばら会第10回全国大会開催を花巻で引き受けることになり、全国から集まるバラ愛好家に、ぜひ賢治ゆかりのバラを見てもらおうということになった。そこで会員数人で佐藤隆房氏宅を訪れ、賢治から贈られたというバラの一つが当時市販されていない品種であることを確認し、これを増殖することにして高橋健三会員が接ぎ木を行い、大会期間中にはその二株を「賢治のバラ」として展示した。

  4. その後、花巻ばら会会員の吉池貞蔵氏が、このバラの品種名を何とかして突き止めようと、当時「日本バラの父」と言われた第一人者の鈴木省三氏にその苗を送り、鑑定を依頼した。

  5. 鈴木氏は自宅でその苗を育て、3年後にバラは開花した。するとその花は、奇しくも鈴木氏が子供の頃に父親が最も大切に育てていて、鈴木氏とバラの出会いを作ったとも言える品種「日光」(グルス・アン・テプリッツ)であることが判明した。
    これについて鈴木省三氏は、「京成バラ会」会報『バラの海 第36号』(1995)に、下のような文章を書いている。

「賢治の薔薇が咲いた」(鈴木省三)
(これがおそらく、グルス・アン・テプリッツが「賢治のバラ」として紹介された文献の初出と思われる。)

  1. この「グルス・アン・テプリッツ」は、日本では一時ほとんど栽培されなくなり市販もされていなかったが、鈴木省三氏によるこの紹介を契機に再び人気を集めるようになり、各種のバラ関係の書籍や図鑑等でも、「賢治が愛したバラ」として必ず紹介されるようになり、現在に至っている。

 賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラの品種が同定され、それを契機にまた日本各地でたくさん栽培されるようになったのも、佐藤隆房氏が自宅の庭で何十年も大切にそのバラを守り、花巻ばら会の方々がその貴重な株を接木によって殖やし、さらに東京の鈴木省三氏にその苗を送って、鈴木氏が3年がかりで苗を育ててくれたという、このバラに関わった多くの方々の努力の結晶だったわけです。
 当時の賢治が「グルス・アン・テプリッツ」の苗を入手したのは、横浜の輸入商「横浜植木」への注文取り寄せによってだったということもわかっていますが、これを「賢治が愛したバラ」とまで呼ぶのは、やや勇み足の感があります。賢治自身は、あくまでこのバラの苗をただカタログから取り寄せて、世話になっている知人に贈っただけであり、それを自ら育てていた可能性は非常に低いと思いますし、その花を実際に見たかどうかも不明です。あくまで「賢治ゆかりのバラ」という表現に留めておくのがよいでしょう。

 ところで、本日こうやって一つの記事を書いた理由は、以上の話に続くちょっとした後日談を、Sさんが教えて下さったのです。
 上にも引用したように、賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラは、元は「20種」もあったはずです。では、グルス・アン・テプリッツ以外の19種?のバラは、その後いったいどうなったのでしょうか。
 賢治の寄贈から何十年の月日が経つうちに、佐藤氏宅の庭には新たなバラも植えられて新旧交代していき、賢治が贈ったバラは次第に姿を消していったというのは、やむをえない時の流れと言えますが、実は最近まで、グルス・アン・テプリッツとは別の賢治ゆかりと思しきバラが、佐藤邸の庭にはまだ2種ほど残っていたというのです。

 そして、花巻ばら会所属のSさんともう一人の方が、そのうちの白バラを譲り受けて、ひそかに「賢治の白バラ」と呼んで大切に育て、ついに開花に成功させたそうなのです。晴れて同定されたその品種は、どちらも「アイスバーグ」というものだったのですが、ところがこれは、賢治の死後20年ほどたってから作出された品種であり、賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラではありえないということがわかりました。

 ということで、赤いグルス・アン・テプリッツに続く「賢治の白バラ」は、残念ながら幻に終わってしまったというお話でした。

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項
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2019年2月10日 エマーソンの「大霊」と賢治

1.エマーソンと賢治

 『新校本全集』第16巻(下)の「年譜篇」には、賢治が盛岡中学3年の「二学期」の部分の記載に、次のようにあります。

 寄宿舎六室に移る。同室した一年藤原文三の記憶によると、同室者は、五年佐藤重次郎、四年矢幅忠太郎、三年賢治という。藤原の記憶によるが、三学期とも考えられる。
 藤原の談話によると、とにかく変っていて汚れ物はかまわず押入につっこみ、教科書は見ず、「中央公論」の読者で、エマーソンの哲学書を読んでいたのに驚いたという。

Ralph Waldo Emerson ラルフ・ウォルド・エマーソン(右写真)は、19世紀アメリカで活躍した思想家・哲学者・詩人ですが、まだ15歳の賢治がこの時読んでいた「エマーソンの哲学書」とは、いったい何だったのでしょうか。
 彼の中学3年は1911年(明治44年)ですから、この年までに日本で翻訳刊行されていたエマーソンの著作を、現在の国会図書館の蔵書から調べてみると、下記がありました。

 上記以外にも、西洋の偉人伝を集めたような本でも、エマーソンの紹介は複数収録されており、明治時代の日本では、彼は相当に注目されていた思想家だったことがわかります。賢治が読んでいたのは、上のうちのどれかであった可能性が高いでしょうが、ただ実際にどの本だったかということまでは、今ある情報からはわかりません。

 一方、賢治の教え子照井謹二郎氏は、「妹トシの落書」(『啄木と賢治』, 昭和51)において、「昭和七年の新春を迎えた、ある日曜日」に、自分が病床の賢治を見舞った際のこととして、次ようなエピソードを記しています。

 「本をあげましょう」と云われ、本棚に並んでいる本の中から、先生がおっしゃる二冊の本を頂戴して帰ることにした。(中略)今では、一冊は残念ながら所在不明となっているが、もう一冊は、なんと妹トシ子さんの愛読本“エマーソン論文集、上巻”であったとは。

 ここに挙げられている『エマーソン論文集、上巻』とは、上に挙げた一番下の戸川秋骨訳『エマーソン論文集 上巻』の第5版(1913年刊行)で、表紙裏に「責善寮宮沢敏子」の署名があるということです。つまりこの本は、トシが1915年4月に日本女子大学の責善寮に入ってからいずれかの時期に購入したものと思われ、これを賢治がおそらくトシの没後に譲り受けて、所蔵していたものだったのでしょう。

 あとさらにもう一つ、賢治自身が書いたものにも、エマーソンとの関連を示す所見が残っています。戦災によって今は失われた草稿「農民芸術の興隆」は、「農民芸術概論」や「農民芸術概論綱要」の中の一部分を賢治がより詳しくメモしたものですが、その中に次のような部分がありました。

芸術はいまわれらを離れ多くはわびしく堕落した
〔中略〕
 エマーソン 近代の創意と美の源は涸れ 才気 避難所

ここにはわれらの不断の浄い創造がある
〔中略〕
 →エマーソン 斯ノ如キ人ハ

 ここには「エマーソン」という名前が登場するとともに、大沢正善氏による「宮沢賢治と『エマーソン論文集』」(文芸研究(100), 1982)における調査によれば、上の2行目の部分は戸川訳『エマーソン論文集 上巻』の「芸術論」にある、

 然るに近代の社会に於る創意と美の源は殆んど乾涸し去れり。〔中略〕而して今日の芸術家並に鑑賞家は芸術に於て己の才気を示さんとし若くは人生の害悪よりの避難所をこれに求む。

という箇所の下線部に基づいており、また上の4行目の部分は、同じく「芸術論」の、

 抑も芸術は皮相的の才能たるべきものに非ず、人間の内心に於ける遙かの背後より出でざるべからず。然るに今や人々は自然を以て美なるものと為さず、而して美なるべき立像をつくらんとす。(誤れりと云ふべし)斯の如き人は世間の人々を以て趣味なき遅鈍なる度し難きものとなし、絵具袋と大理石の幾片かを以て自ら慰む。

という箇所の下線部に基づいていると考えられます。すなわち、賢治はおそらくトシから受け継いで後に照井謹二郎に贈ることになる戸川訳『エマーソン論文集 上巻』を、この時期にも熟読していたことが推測されます。

 以上をまとめると、まず賢治は中学3年生(15歳)という早期から、エマーソンの著作を読んでいたという証言があり、これは時期的にはちょうど戸川訳『エマーソン論文集 上巻』が刊行された直後であることから、この本だった可能性もありますが、その他にも候補はあり、どれと断定はできません。しかし、トシの蔵書であった戸川訳『エマーソン論文集 上巻』を賢治が後に所蔵していたことは確実で、さらにその一節を上記のように自らの重要な論考の中に引用していることから、これは彼の思想の根幹に、深い影響を与えていたと言うことができます。

 このようなエマーソンと賢治の関係についての先行研究としては、まず上にも引用したように大沢正善氏が、「宮沢賢治と『エマーソン論文集』」(文芸研究(100); 157-167, 1982)において先駆的な調査と考察を行い、エマーソンの超越的汎神論と法華経の世界観の関連、同論文集所収の「歴史論」「円環論」から賢治の「心象スケッチ」や「四次元」思想への影響、さらに「芸術論」から賢治の「農民芸術概論綱要」への影響等について、明らかにされました。
 それまでは、法華経と中心とした仏教や、アインシュタイン説など自然科学の観点からのみ検討が加えられてきた、賢治の世界観の奥深いところに、エマーソンという西洋的な宗教思想の巨人の影響を読みとった、これは画期的な論考と言えるでしょう。

 これに続いて、信時哲郎氏は「宮沢賢治とエマーソン―詩人の誕生―」(比較文学(34); 139-150, 1992)において、大沢正善氏が『エマーソン論文集 上巻』に収められている諸論から賢治の思想への影響関係を探ったのに対し、同論文集『下巻』に収められている「詩人論」が、賢治の「詩」に関する考え方に及ぼした影響について、詳しく考察しておられます。

 最近では、山根知子氏が「宮沢賢治の文学と浄土真宗信仰―信仰の重層性の基層から―」(白山ふるさと文学賞第22回暁烏敏賞入選論文; 3-18, 2016)において、暁烏敏が『歎異鈔講話』でエマーソンも引きつつ「宇宙の大霊の弥陀如来」と記しており、同書が刊行された1911年に中学生の賢治もまさにエマーソンを読んでいたことから、賢治が暁烏の影響によってエマーソンに親しみ、これが晩年の「宇宙意志」などの思想にもつながっていった可能性を指摘されました。

2.エマーソンの「大霊」と賢治

 以上のように、賢治がエマーソンの思想から受けた影響については、これまで「大々的に研究されてきた」とまでは言えませんが、数人の研究者の方々が、綿密な研究を行っておられます。
 今回私は、これらの知見に対して特に新たに加えるようなことがあるわけではありませんが、ただエマーソンの思想の核心とも言うべき、「大霊(Over-Soul)」という概念と、賢治の世界観との関連について、少し考えてみたいと思います。

(1) 歴史について

 そもそもエマーソンの思想の本質は、大沢氏も述べておられるように、一言でいえば「超越的汎神論」とも呼ぶべきものです。それは具体的にはどういうものかと言うと、例えば戸川訳『エマーソン論文集 上巻』の冒頭に置かれた「歴史論」は、実に単刀直入に、次のように始まります。

 あらゆる個人を通して一貫せる一個の心あり。各個人はみな此の心とその全局に到るの溝渠たるなり。(p.1)

 そしてこの、「あらゆる個人を通して一貫せる一個の心」こそが、エマーソンの言うところの‘Over-Soul’なのです。
 エマーソンの考えでは、この‘Over-Soul’は、現実的な事物の背後に、それらを超えて存在するので「超越的」であり、またこれは全ての人間にも自然にも、遍く行き渡って存在しているものなので、「汎神論」なのです。戸川秋骨氏以来、最近の酒本雅之訳の岩波文庫版に至るまで、この語には「大霊」という日本語訳が定着していますが、‘Over’という語が含む「〜の上を超えて」という意味を強調するならば、これは「超霊」と訳すこともできるでしょう。この霊は、われわれ全ての人間の魂に繋がり、それらを遍く包含している存在なのです。
 ただ戸川秋骨氏の明治の香り高い訳文では、「全局」とか「溝渠」という語がやや堅苦しくて、全体の意味がわかりにくいかもしれません。ここはエマーソンの原文では、次のようになっています。

There is one mind common to all individual men. Every man is an inlet to the same and to all of the same.

 inlet というのは「入口」のことで、各々の人間は「大霊」への「入口」であり、ここで同じ一つの「大霊」に直接繋がっているとともに、さらに‘all of the same’にも、すなわち「(同じ大霊のもとにある)みんな」にも、繋がっているのです。
 私が思うには、これこそが、『春と修羅』の「」の、

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

という箇所の、最もわかりやすい解釈の一つを与えてくれるのではないでしょうか。

 エマーソンの「歴史論」は、上の2文に続けて、さらに次のように展開していきます。

されば人若し一たび理性を用ふるの権を享有せんか、その人はかの心の全領土に於ける自由の民とせられたるなり。その人はプレトオの思索せる処を思索し得べく、古聖の感じたる処を感じ得べく、時の如何を問はず、人の如何を論せず、苟も人間の上に起りし事はこれを了解し得るなり。この普遍共通の心の内に入るを得たるものは、既に今日に至る迄に遂げられ、また今後に於て遂げらるべき事物を知悉せるものなり。何となれば此の普遍共通の心は唯一最高の機能を有するものなればなり。
 歴史は此の心の働きの記録なり。この心の精華は日々の連続に依りて闡明され、人間は又正にその歴史によりて説明せらる。急がず休まず、人間の精神は太初より随時随処の事件の内にその一々の能力、その思索、その感情を体現し行けり。(p.1-2)

 この箇所については、大沢正善氏も、「歴史を論じるのに超越的汎神論から始めるこの部分は、賢治の眼を驚かしたに違いない」と述べておられますが、私も本当にそう思います。エマーソンのこの歴史観は、後々まで賢治に非常に強い印象を残したのではないでしょうか。
 上記におけるエマーソンの考えは、「歴史」とは客観的な物理的な出来事の羅列ではなく、「心の働きの記録なり」と述べているのが特徴で、これはヘーゲルが『精神の現象学』において、歴史というものを「世界精神」にまで至る意識の発展として捉えたことにも似ていますが、ここで私としては何より賢治との関連において、「銀河鉄道の夜」(初期形三)でブルカニロ博士が示した「地理と歴史の辞典」や、「グスコーブドリの伝記」のクーボー大博士による「歴史の歴史といふことの模型」を連想します。

「けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いゝかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、〔後略〕(「銀河鉄道の夜」初期形三)

 エマーソンと同じように賢治も、「歴史」というものは、「紀元前二千二百年のことでな」く、「紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた」こととして、すなわちみんなの「心の働きの記録」として、捉えられているのです。
 このブルカニロ博士の「辞典」については、大沢正善氏も『エマーソン論文集 上巻』所収の「円環論」の中の、「或時代に於ける歴史と世界の記述とは、直接その時代の人心に存在する智力的分類に依るものなり」という言葉を引いて、その影響を示唆しておられます。
 いずれにせよ、賢治独特の歴史観の根底に、エマーソンの影響があった可能性は高いと思われます。

(2) 「脱自エクスタシス」と「神充エントゥシアスモス

 「歴史」についてはこれくらいにして、本題の「大霊」について、もう少し詳しく見てみます。エマーソンは、この大霊を主題としたその名も「大霊論」という論文も著しており、これは戸川訳『エマーソン論文集 上巻』にも収められていますから、賢治も確実に読んでいたはずです。
 その冒頭近くで、エマーソンは「大霊」について、例えば次のように説いています。

吾人は連続の内に、区劃の内に、部分、分子の内に生活す、然るに人間の内部には全局を蔽ふ心霊あり、賢明なる緘黙あり、宇宙的の美ありて、これに対し各部分並に分子は平等の関係を有す、これ即ち永劫不滅の一なるものなり。而してこの深大なる力の内に吾人は存在し、又その力の至福は何人にも得らるべきものなるが、この力は毎時自から足りて完全せるものたるのみならず、この力の内にありては同時に観る働きと観らるゝものと、観者と観覧物と、主観と客観と共に一に帰するなり。吾人は世界を見るに個々の一片を以てす、例へば太陽、月、動物、樹木といふが如し、雖然これ等がみなその輝ける一部を成せるその全体なるものは心霊なり。(p.450)

 ここで、エマーソンが言うところの、一人の人間の内部にある「全局を蔽ふ心霊」、あるいは「永劫不滅の一なるもの」、すなわち超越的で普遍的・絶対的な存在に、一般的な名前を与えるとすれば、それは「神」と言わざるをえません。
 ところでエマーソンは神学校を卒業した敬虔なキリスト教徒であり、25歳から29歳までは教会の牧師も務めていたのですが、しかし彼が考える上記のような汎神論的な「神」は、これまでのご紹介からも明らかなように、伝統的キリスト教における神の概念からは、明らかに逸脱するものになっています。そして、牧師をしつつも次第に従来の教会の教義や礼拝に違和感を覚えるようになったエマーソンは、ある時「聖体拝領」の儀式に関する当局との意見の相違によって、教会を辞職することとなりました。

 エマーソンの「神」すなわち大霊と、個々の人間との関係は、一方では「人間の内部には全局を蔽ふ心霊あり」として、人間が大霊を内に含むとともに、他方では逆に「この深大なる力の内に吾人は存在し」という形で、大霊が人間を内に含むということになっています。すなわち、AがBを含み、かつBがAを含むというわけですから、論理的にこのような事態が成立するためには、A=Bであるほかはありません。つまりこれは、一種の「神人合一」の境地を具現しているわけです。
 一方、伝統的キリスト教においては、イエスの体を象徴するパンと、その血を象徴するワインを、信者が体内に取り入れる「聖体拝領」という儀式によって、「神と人との一体化」が達成されると見なしています。
 大霊との「神人合一」を、もっと霊的で超越的で、しかも何の媒介も要しない出来事と考えていたエマーソンにとって、いかにも物質的に見える伝統的な聖体拝領の儀式は、特に耐え難かったのかもしれません。

 ところでこの「神人合一」という状態については、昨年の賢治学会夏季セミナーにおける発表でもご紹介させていただいたように、井筒俊彦氏が古代ギリシア哲学をもとにして、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」という二つの対照的原理を抽出しています(「「世界合一体験」から「重重無尽」へ」参照)。
 井筒氏の初期の著書『神秘哲学 ギリシアの部』では、それは次のように説明されています。

 古代ギリシアの自然神秘主義は、ディオニュソス神がヘラスの民に教えた「脱自エクスタシス」及び「神充エントゥシアスモス」の体験に基く一の特異なる宇宙的霊覚の現成である。エクスタシスekstasisとは文字通り「外に立ち出ること」即ち通常の状態に於ては肉体と固く結合し、いわば肉体の内部に幽閉され、物質性の原理に緊縛されて本来の霊性を忘逸している霊魂が、一時的に肉体を離脱し、感性的事物の塵雑を絶せる純霊的虚空に出で、かくて豁然として秘妙の霊性に覚醒することを意味する。然して、かくの如く感性的生成界の一切を離却し、質料性の纏縛を一挙に截断しつつ「外に出」た霊魂はもはや旧き人間的自我ではあり得ない。人間的自我が自性を越え、最早いかなる意味に於ても自我と名付けられぬ絶対的他者の境位に棄揚されることがエクスタシスの端的である。言い換えればエクスタシスとは人間的自我が我性に死に切ること、自我が完全に無視されること、自我が一埃も残さず湮滅することを意味する。併し意識の主体としての自我があますところなく湮滅し去れば、その意識の内容として今まで自我の対象をなしていた感性的世界もまた自ら掃蕩されて遺影なきに至るは当然であろう。かくてエクスタシスに於て、人間の自然的相対意識は遺漏なく消融し、内外共に一切の差別対立を絶して蹤跡なく、ただ渾然として言慮の及ぶことなき沈黙の秘境が現証されるのである。この自我意識消滅の肯定的積極的側面をエントゥシアスモスenthousiasmos(神に充たされ、神に充満すること)という。(井筒俊彦『神秘哲学 ギリシアの部』p.19-20)

 つまり、「脱自(エクスタシス)」とは、自我が自我の「外に立ち出ること」によっていつしか「我」ではなくなり、神へと一体化するという「忘我」の状態であるのに対して、「神充(エントゥシアスモス)」とは、神の方から自我の内部に向かって流入し、もとは一個の自我にすぎなかった場所が「神によって充ち溢れる」という状態を指しているのです。
 ちなみに、古代ギリシア語の‘ekstasis’は、・ek-(外に)+stasis(立てる)→「外に出る」という原意から、現代英語の‘ecstasy’(恍惚、忘我)の語源となっており、また古代ギリシア語の‘enthousiasmos’は、en-(中に)+theos(神)+ousia(本質)→「神の本質の流入・憑依」という原意から、現代英語の‘enthusiasm’(熱狂、狂信)の語源となっています。

 井筒氏も書いているように、現実にはこの二つの原理は、しばしば同時に生起することも多いようですが、理屈の上ではこれらは「内から外へ」と「外から内へ」という逆の方向性を持った動きであり、対を成すものです。
 その様子を、昨年の賢治学会夏季セミナーにおいて行ったように、「自我」との関係において図示するならば、下のようなものを描いてみることができます。この図で、「自我」を包む膜=自我境界は、細く赤い点線で示されていますが、これは解離状態としての「自我境界の稀薄化」によって、「内から外へ」あるいは「外から内へ」という流出または流入が、非常に起こりやすくなっていることを示しています。

「脱自」と「神充」

 エマーソンの言う「神人合一」が、上の二つのどちらに相当しているのかというと、「大霊論」では次のように述べられています。

 吾人は心霊の来降、則ち心霊自体の顕現なるものを表はすに啓示なる文字を以てす。この心霊の顕現には必ず崇高の感の伴ふものなり。何となればこの心霊の交会は神の心の吾人の心に流入する事なればなり。〔中略〕個人がこの霊の侵入を感ずるその瞬時は則ち忘るべからざる大事の時なり。(p.466-467)

 すなわちエマーソンによれば、大霊と個人との「交会」は、「神の心の吾人の心に流入する事」によって成し遂げられるというわけでであり、井筒氏による上の二つ原理のうちでは、「神充(エントゥシアスモス)」に相当するのです。
 ちょうどこれとよく似た「自己の内への神の流入」というエピソードを、ウィリアム・ジェイムズがある男性の体験記から、『宗教的経験の諸相』に引用しています。

家に着くとすぐ、私は床についた。そして宗教のことなど少しも気にしなかった。すると五分ほどたってから、私は聖霊によってつぎのように動かされ出した。――「最初、私は自分の心臓がまったく突然に、非常に速く打ち始めたのを感じた。それで私は最初、なにか病気にかかりかけているのだろうと考えたが、別に苦痛は感じなかったので、驚きはしなかった。私の心臓の鼓動はだんだん激しくなった。私はすぐにそれが私に対する聖霊のはたらきであることを悟った。私は非常に幸福と謙虚な気持ちとを感じ始めた。このように自分の無価値を感じたことは今までに一度もないことであった。私はどうしても、大声で語らずにはいられなかった。それで大声を出して言った。主よ、私はこの幸福に値しない人間です、と。あるいは、それと同じ意味の言葉を口にした。そうしている間に、なにか流れのようなもの(感じの上では空気に似ていた)が、ほんとうの飲み物よりももっとはっきり感覚できるようなふうに私の口と心とのなかへ流れこんできて、それが、私の判断ではだいたい五分か、もう少し続いたが、これが私の心臓があのように激しく動悸を打った原因だったように思われた。それは私の魂に完全に取りついてしまった。そしてその真最中にも、確かに私は主に、もうこれ以上の幸福は与えて下さらないように、と切願した。私が受け取ったものを心に入れておくことが私にはできないように思われたからであった。私の心臓は破裂するのではないかと思われたが、私が言葉では言いあらわせないほど神の愛と恩寵とに満たされたかのように感じるまで、打ちつづけた。(岩波文庫版『宗教的経験の諸相』上巻p290-291)

 これはジェイムズが、スティーヴン・H・ブラドリーという平凡な男性の手記から引いたものですが、この時ブラドリー氏は、比較的冷静な意識のもとで「なにか流れのようなもの(感じの上では空気に似ていた)が、ほんとうの飲み物よりももっとはっきり感覚できるようなふうに私の口と心とのなかへ流れこんで」くるのを感じ、そして「言葉では言いあらわせないほど神の愛と恩寵とに満たされたかのように感じる」状態になり、そして上には引用していませんが少し後では、「私の魂が聖霊で一杯になってしまったように感じ」たのです。
 これこそが、「神充(エントゥシアスモス)」の体験と言えるものであり、エマーソンの言う個人と大霊との関係も、まさにこういった形をとっているわけです。

 一方、賢治自身が経験した「神人合一」、すなわち普遍的な存在と自己の一体化の体験がどういうものだったかというと、これまでも何度かご紹介しているように、それは例えば「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態」の、次の箇所に典型的に表れています。

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ここにおいて賢治は、自分を取り巻く種山ヶ原の自然と一体化して溶け合ってしまいますが、自らの自我(わたくし)も自らの外に出て拡散するとともに、またその「わたくし」の中にも種山ヶ原の「水や風やそれらの核の一部分」が流入してきているわけですから、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」が同時に起こっていると言えるでしょう。
 また1925年9月21日付けの、宮澤清六あて書簡の次の一節も、ほぼ同じような心境を表しています。さらにここでは、「銀河系全体」が「ひとりのじぶん」と感じられています。

もし風や光のなかに自分を忘れ世界がじぶんの庭になり、あるひは惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるときはたのしいことではありませんか。

 一方、エマーソンやウィリアム・ジェイムズの例のように、専ら「神充(エントゥシアスモス)」が生起している状況としては、賢治の場合には次のような例が当てはまるかもしれません。

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗(らしゃ)や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。(『注文の多い料理店』序)

 ここでは、「虹や月あかり」に潜む自然の神秘が、賢治の中に流入してきています。賢治は、「きれいにすきとほった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の光をのむことができ」て、それらを「きれいなたべもの」と呼んでいますが、これはまさに上記のブラドリー氏が、「ほんとうの飲み物よりももっとはっきり感覚できるようなふうに私の口と心とのなかへ流れこんでき」たと述べたものに、相当しています。
 すなわち、賢治のこの営為も、「神充(エントゥシアスモス)」の一種と言えるものでしょう。

 「脱自(エクスタシス)」であろうと「神充(エントゥシアスモス)」であろうと、このような解離的現象に常日頃から親しんでいる賢治だったからこそ、エマーソンが描いた大霊と個人の一体性という感覚には、直観的に共感するところが大きかったのだろうと、私は想像します。

(3) 予言者であり設計者であること

 以前に私は、「予言者、設計者スールダッタ」という記事において、賢治の「竜と詩人」という短篇の次の箇所について考えてみました。

風がうたひ雲が応じ波がならすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ
星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する
あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる予言者、設計者スールダッタ

 「詩賦の競ひの会」で栄誉を受け、竜に祝福された詩人スールダッタは、星や陸地が未来において「さういふ形をとらうと覚悟する」様子を予め謳うところから「予言者」であり、また「まことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる」ところから「設計者」だというわけです。しかし、私が以前の記事で疑問に思ったのは、本来は「予言者」であることと「設計者」であることとは、論理的に両立しえないのではないか、ということでした。
 なぜなら、ある人が「予言者」であるためには、予言された出来事を自分で意図的に起こしてはならないはずであるのに、他方で「設計者」であるためには、その出来事を自らの意志で実現しなければならないからです。

 たとえばある人が、「明日火事が起こる」と予言して、翌日に実際火事が起こればその言葉は正しかったことになりますが、もしもその火事がこの人によって計画的に仕組まれたものだったら、彼は火事の「設計者」ではあったかもしれないが、「予言者」としては偽者です。逆に、その人の全く関与しないところで起こった火事を言い当てたのなら、彼は「予言者」ではありますが、火事の「設計者」ではありません。
 それではいったい、どのような状況であれば、ある人が予言者であり同時に設計者であるということが可能になるのでしょうか。

 その状況とは、その人がある面では世界の中に単なる一部分として「包含」され、その動きを操ることはできないがそれを見て知ることはできる「予言者」として存在し、また同時にある面では世界全体(あるいは神)と「合一」し、その意志を世界(あるいは神)の意志と同一化することによって、世界を動かす「設計者」として存在する、というような場合です。
 そして、エマーソンの「大霊論」には、まさにこれと同じような、「部分」と「全体」のパラドキシカルな関係が書かれているところがあります。

 それは、上に神(大霊)と人間の「交会」=「神充(エントゥシアスモス)」の説明として引用したp.467の部分に続く、次の箇所です。

斯の如く神の心と交会するに当りてや、見る力は働く意志と分離する事なく、内観は服従より来り、服従は楽しき認知より来る。個人がこの霊の侵入を感ずるその瞬時は則ち忘るべからざる大事の時なり。(p.467)

 ここにある、「見る力は働く意志と分離することなく」という一節がそれで、この「見る力」によって人は神の心を知ることができ、それによって「予言者」たりうる一方、「働く意志」とはこの世をあるべき姿に形づくる神の意志であり、その神と合一した人は、神とともに世界の「設計者」たりうる、ということになります。一人の人間が大霊と一体である時、上の二つの力は分離することなく一つであり、「予言者でありかつ設計者である」という、通常はありえないような状態が実現されるのです。

 このように、賢治が「竜と詩人」において、詩人の営みを「予言者、設計者」と表現した独特の視点は、エマーソンの「大霊論」にも通じるものです。私としては、賢治の「予言者、設計者」という言葉が、エマーソンから直接影響されたものとまでは思いませんが、おそらく若い頃から普遍的存在との合一を体感することがあった賢治にとって、同様の感覚に溢れたエマーソンの思想は、いつしか自らの血肉となり、こういう形で表出されたのではないかと思います。

(4) 解離的心性と無媒介な合一

 以上見てきたように、賢治の思想はその根幹の部分で、エマーソンの思想と通じ合うところが大きいのですが、大沢正善氏は、エマーソンの思想が孕んでいた限界が、賢治の限界ともなってしまった面があるのではないかと考えておられるようで、「宮沢賢治と『エマーソン論文集』」の結び近くでは次のように述べておられます。

 「農民芸術概論綱要」はまた、労働と人生と芸術の融合を説きながら、楽天的理想性と方法論の欠如が指摘されている。それは、エマソンの「天与の精神」たる自恃に支えられているかぎり、むしろ当然のことである。二十六例もの「われら」という言葉には賢治と他者との短絡的な自己同定がうかがわれ、「わたし」の希願は「みんな」の希願であり「われら」の希願であり、「われら」の個々人に有効な方法論の検討は無用ですらある。「われら」の即ち「わたし」の希願を鼓舞すればよいのである。このことは「序」にも「すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの」としてみられたことであり、「この大自然はかの統一若くは大霊にして、その内に人々個々の存在は抱有せられ、個々の人は甲乙共に合一するなり。」(「大霊論」)という考え方が積極的に展開されたものである。
 それは確かに自己と他者の合一の短絡的思考であるが、「心象スケッチ」思想におけるひたすら超越的存在との契合を志向するのと違って、それを前提としながら地上の他者に向って開かれている。そこに「農民芸術概論綱要」の開かれた思想としての意味があり、羅須地人協会の実践活動ともかかわってくる。

 重要な部分ですので引用が長くなり恐縮ですが、この大沢氏の指摘は、確かにそのとおりだと私も思います。賢治の言う「われら」や「みんな」は、自らの思いを一挙に世界へと拡大したもので、まさに「他者との短絡的な自己同定」ですし、「心象スケッチ」においては、彼は「ひたすら超越的存在との契合を志向」しています。

 ただしかし、賢治が他者と容易に一体化してしまい、また超越的存在とも契合してしまうのは、彼の「思想」が育まれる以前に、それこそ賢治がこの世に生まれて以来持っていた「感覚」としか言いようのないものだろうと、私は思うのです。他人の痛みも直接に自分の痛みとして体感し、あるいはふと気がつくと「惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと」感じている人間にとっては、これらの体験は理屈ではなく、勝手に向こうからやってくるもので、それこそ「天与の精神」なのです。
 こういう感覚への親和性、それは精神医学的に言えば「解離的な傾向の高さ」ということだろうと私は思うのですが、なぜか賢治は生まれながらそういう傾向を強く持っていた人であり、おそらくエマーソンもそうだったのでしょう。

 短絡的に、無媒介的に、人々と一体になったり世界や神と合一してしまったりする賢治にとっては、それは「もうどうしてもこんな気がしてしかたない」「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」ことなのですから、それは私たちとしても、そう受けとめておくしかありません。そして、それが思想として世の中の役に立つのかどうか、ちょっと方法論が不十分ではないか、などと問われても、賢治としては、「これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません」と、答えるしかないのでしょう。

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2019年1月20日 映画『愁いの王 -宮澤賢治- 』上映会

 吉田重滿さんが監督・制作された劇映画『愁いの王 -宮澤賢治- 』の、「世界初の一般公開」が、来たる3月9日(土)に、盛岡劇場メインホールにて行われます。

『愁いの王 -宮澤賢治- 』

 この『愁いの王 -宮澤賢治- 』は、吉田重滿さんが企画・構想から40年の歳月をかけて完成された映画で、第一部「業の花びら」と第二部「装景者」を合わせて、上映時間は3時間18分に及びます。
 その制作手法については、公式サイト上映のお知らせのページにて、次のように解説されています。

 賢治の宇宙観・死生観を描き出すために、表現技法にも独特の工夫を凝らし、オフスクリーン手法による全カット固定ショットのモノクローム映像、モンタージュの駆使等、芸術性の高い映像を作り出している。また、出演者は非俳優の一般人で、芝居めいた演技を排し、感情を込めない、登場人物になり切らない等、画期的な試みがなされている。

 私は、吉田重滿さんのご厚意で、この映画をDVDにしたものを一昨年12月にお送りいただいて拝見したのですが、全編に非常に深い精神性が湛えられ、まさに「重厚の極み」とも言うべき作品になっています。音楽は、すべてJ.S.バッハの作品が用いられていますが、これもまたこの映画の性質を象徴しています。
 上にも引用した上映のお知らせのページには、吉田重滿さんご自身が、昨年5月に岩手大学宮澤賢治センター定例研究会で講演された内容が掲載されていて、ここにこの映画の「企画」と「構想」が、まとめて述べられています。私としては、この映画の第二部が「装景者」と題され、吉田さんご自身も、「こういう事をいっては何ですが、私自身も映画を撮ることは、ある意味、装景するつもりで撮っています」と言っておられるところに、この映画の基本的スタンスが示されているように思います。

 ところで、今度の上映会が開かれる「盛岡劇場」は、その昔1913年に東北地方初の近代的演劇専用劇場として開館したもので、賢治自身も一時は足繁く通い、ここでチャップリンの映画や少女歌劇を見たと言われています(Wikipedia「盛岡劇場」より)。
 現在の盛岡劇場は、いったん昔の建物が取り壊された後、1990年に新築されて再オープンしたものですが、その場所は賢治の当時と同じで、この映画を「世界初の一般公開」するには、まさにふさわしい場所だと思います。

 映画の予告編は、公式サイトから3種類を見ることができます。下にはその1分半のものを貼っておきますので、まずはとにかく一度、ご覧になってみて下さい。現代にあふれる商業的な映画とは、手法の点でも全く一線を画するものですが、賢治の精神性や宗教的側面に関心のある方には、お薦めさせていただきます。

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