2017年6月 4日 「サガレンと八月」の続き

 「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」
 西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの上着をぱたぱたかすめながら何べんも通って行きました。
 「おれは内地の農林学校の助手だよ、だから標本を集めに来たんだい。」 私はだんだん雲の消えて青ぞらの出て来る空を見ながら、威張ってさう云ひましたらもうその風は海の青い暗い波の上に行ってゐていまの返事も聞かないやうあとからあとから別の風が来て勝手に叫んで行きました。

 童話「サガレンと八月」は、その書き出しからして本当に切なく魅力的ですが、残念なことにこの作品は、未完に終わっています。タネリという少年が、母親の戒めを破って、浜辺で透明なくらげを透かして物を見てしまったために、犬神によって海に連れ去られ、蟹の姿に変えられて海底でチョウザメの下男にされてしまうのですが、ここで作者は執筆を中断しているのです。
 はたしてこの後、物語はどういう風に展開していく予定だったのか、賢治ファンならどうしても知りたいと思ってしまうところですが、それは今となっては知る由もありません。
 以下は、それについて私なりに勝手に空想してみた、「きれぎれのものがたり」です。

1.サハリンの海の虜囚

 「サガレン」とはサハリン(樺太)の古称で、賢治が1923年(大正12年)にサハリンを訪ねたのは「八月」でしたから、この旅行と「サガレンと八月」が密接に関連していると考えるのは、ごく自然なことです。
 実際、天沢退二郎氏は「幻の都市《ベーリング》を求めて」(『《宮沢賢治》論』所収)の中で、「この一九二三年八月の樺太旅行のときに書かれたか、少なくとも着想されたと考えられる童話断片「サガレンと八月」」と書いていますし、鈴木健司氏は「「サガレンと八月」から受けとったもの」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』所収)において、「「サガレンと八月」には「オホーツク挽歌」の裏の世界が描かれている」と述べています。鈴木氏が指摘しているとおり、「サガレンと八月」の自然描写は、「オホーツク挽歌」のそれと、かなりの部分で共通しているのです。

 そうすると、「サガレンと八月」の物語内容も、サハリンを旅した時の賢治の考えや心情と関係しているのではないかと考えてみることができますが、比べてみるとそこには確かに共通する要素が認められます。
 上述のように、「サガレンと八月」で主人公のタネリは、海底でチョウザメの下男にされてしまうのですが、以前にもご紹介したように、ロシアでは昔からサハリン島の形が「チョウザメ」に喩えられるのです。
サハリンとチョウザメ チェーホフによるドキュメント『サハリン島』には、次のような記述があります。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 その比喩の妥当性については、右のように並べた図を見ていただければ、一目瞭然でしょう。

 もし「チョウザメ」が「サハリン島」を表しているとすれば、「海底にあるチョウザメの住みかで下男として使われる」という設定は、「サハリンの海底に囚われる」という事態の、実に巧みな隠喩になっています。
 そしてこれは、「宗谷挽歌」における、賢治の下記の表現にもつながっていきます。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
(中略)
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
(後略)

 すなわち、宗谷海峡において賢治は、トシから呼ばれたら自ら海に落ちようと思い詰めていて、その結果として「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」とも、考えていたのです。
 つまり、「サガレンと八月」におけるタネリの境遇――サハリンの海底に囚われるという状態は、賢治がこの地を訪ねるにあたって、実は自ら秘かに覚悟を定めていたことだったのであり、それはひょっとしたら賢治自身がそうなったかもしれない運命を描いているのです。
 また、やはり「宗谷挽歌」で賢治は、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」と宣言していますが、ここで彼が想定している海の「鬼神」の一つが、タネリをさらった「犬神」なのでしょう。

 それでは、そもそも賢治がサハリンの海の虜囚となるかもしれない危険を冒そうとした目的は、いったい何だったのでしょうか。
 それは、「宗谷挽歌」のテキストの上では、「みんなのほんたうの幸福を求めて」、つまり仏教的真理を求めるための自己犠牲と位置づけられています。しかしよく考えてみると、この箇所のすぐ前には「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら/いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」と記されており、トシの方から「やって来て」、「知らせて呉れ」るのならば、彼が真理を知るためにはそれで十分であって、何も賢治が海に落ちて「封ぜられ」る必要はありません。
 やはり賢治にとって、サハリンの海に封ぜられかねない危険を冒す本当の目的は、「死んだトシに会う」ということにあったのだと、私は思います。そもそもこれこそが、彼のサハリン旅行の目的でした。
 そして、「宗谷挽歌」の冒頭には、「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く」とありますが、人はふつう誰かから呼ばれたら、呼んだ相手がいると思う方へ行こうとするでしょうから、賢治が海に「落ちて行く」と考えていたということは、やはり彼の想定では死んだトシは、海の底にいると思われていたわけです。

 つまり賢治は、この旅において自分がトシに会えるとすれば、その形として次のようなイメージを抱いていたのではないでしょうか。すなわち、サハリンで自分はトシに呼ばれるかまたは鬼神に挑まれるかして、海に落ちて封ぜられるが、そこでついに自分は、妹との再会を果たすことができるのではないか・・・。
 まさにここのような幻想こそが、鈴木健司氏の言う「「オホーツク挽歌」の裏の世界」の内実だったのだと、私は思います。そしてこれが、私が「サガレンと八月」の物語の「続き」を想像する上での、大きな鍵になります。
 タネリは犬神に拉致されて「海に封ぜられ」た後、彼はそこで(賢治にとっての妹に相当する)誰かに、「会う」ことになるのではないでしょうか。

2.「おまへの兄さん」という表現

 もしも、賢治の思いを直接そのまま童話にすれば、タネリが海底に囚われてそこで遭遇するのは、タネリ自身の「死んだ妹」だということになりますが、「サガレンと八月」の残された草稿には、タネリに妹がいたとか死んだとかいう記述はどこにもありません。
 しかしそのかわり、タネリには兄がいる(いた?)ようで、それは次のような母親の言葉に、一か所だけ登場します。

「ひとりで浜へ行ってもいゝけれど、あそこにはくらげがたくさん落ちてゐる。寒天みたいなすきとほしてそらも見えるやうなものがたくさん落ちてゐるからそれをひろってはいけないよ。それからそれで物をすかして見てはいけないよ。おまへの眼は悪いものを見ないやうにすっかりはらってあるんだから。くらげはそれを消すから。おまへの兄さんもいつかひどい眼にあったから。」

 すなわち、タネリの兄は、「くらげで物をすかして見る」ということをしてしまったために、「いつかひどい眼にあった」というのです。
 それでは、この兄は、今はいったいどうしているのでしょうか。

 物語では、タネリの兄の現況については何も触れられていませんから、いったんは「ひどい眼にあった」彼も、今はタネリたちと一緒に元気に暮らしているという可能性も残っています。しかし、母親が上のようにわざわざタネリに警告していることからして、「兄がくらげを透かして見たためにひどい眼にあった」という出来事は、それまでタネリにはあまり知らされていなかったらしい、ということがわかります。
 これは、もしも兄弟が同居しているのだとしたら、ちょっと不思議なことです。年が近い兄弟であれば、兄が「ひどい眼にあった」などという一大事は、弟のタネリもその場で見聞きしていたはずです。
 もしも二人がかなり年の離れた兄弟で、兄がそのような眼にあった時に、まだタネリは物心ついていなかったとしても、その後兄弟が一緒に暮らしておれば、タネリの成長過程において、そのようなエピソードが家族の話題に上らなかったはずはありません。とりわけ、「くらげを透かして物を見てはいけない」というのは、子供の身の安全に関わる大変重大な注意事項でしょうから、家庭において平素からそのような話がされていなかったというのは、とても不自然に感じられます。

 ここで、一つの仮説として想定されるのが、タネリの兄もタネリと同様、くらげを透かして物を見てしまったために、犬神によって海にさらわれ、それ以後ずっと家に帰ってきていないのではないか、ということです。もしそうであれば、母にとってこの出来事は痛切なトラウマとなっており、それについて家族で話題にすることさえ辛く、くらげの危険性についてもこの時まではタネリにちゃんと話せていなかったかもしれません。そう考えると、上記の不自然さは説明がつきます。

 さらにそれを支持するような具体的根拠の一つに、母親による「おまへの兄さん」という表現があります。もしも兄弟がいつも一緒に暮らしていて、タネリにとって「兄さん」が自明の存在であったならば、わざわざ「おまへの」を付けずに、単に「兄さんもいつかひどい眼にあったから」と言うのではないでしょうか。すなわち、ここで母親がことさら「おまへの兄さん」という言い方をしているのは、ただ「兄さん」と言っただけではタネリにはぴんと来ないという状況があるからであり、これは「兄はタネリと一緒には暮らしていない」という事態を、表しているのではないでしょうか。

 ここで、賢治の他の童話においては、親が自分の子供に向かってその兄や姉のことをどう呼んでいるのか、ざっと調べてみました。
 一通り見たかぎりでは、「親が子供に対しその兄や姉を呼称する」という場面は、「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」にありました。
 まず「ひかりの素足」では、最初の方で父親が次男の楢夫に話しかけている、次の場面です。

「なして怖っかなぃ。お父さんも居るし兄なも居るし昼ま で明りくて何っても怖っかなぃごとぁ無いぢゃぃ。」

 ここでは父親は兄の一郎のことを、方言で「兄な(あぃな)」と呼んでいますが、標準語であればこれは「兄さん」というところでしょうか。ここには、「お前の」というような言葉は付けられていません。
 また「銀河鉄道の夜」には、ジョバンニの母がジョバンニに語りかける次のような場面があります。

「あゝあたしはゆっくりでいゝんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」

 ここでも、母はジョバンニに「姉さん」と言っています。母とジョバンニの間で、「姉さん」と言えば自明の存在ですから、これを「お前の姉さんがね・・・」などと言うと、かえってよそよそしい感じもしそうです。

 以上たった二つではありますが、賢治の他の童話において、親が子供に向かってその兄・姉を呼ぶ際に「おまへの・・・」という言葉を付けている例はありませんでした。「サガレンと八月」において、母親が息子に「おまへの兄さん」と言っているのは、タネリにとって「兄」とは、いつも身近にいて親しんでいる存在ではないということを、暗示しているのではないかと思うのです。

 タネリの兄が不在であるとすれば、その原因としては上述のように、彼が「いつかひどい眼にあった」事件を疑ってみるのが、最も自然です。
 そして、兄がタネリと同じ禁忌破りのために海に連れ去られたのだとすれば、このたびまた同じ目に遭ったタネリは、海底において自分の兄に遭遇できる可能性が、十分にあることになります。

 すなわちここに、「死んだ妹に会うためならば海に封ぜられてもよい」という、当時の賢治の強い願望が、物語の形をとって現れるのです。

3.再会のその後

 さて、そうなると現在残された「サガレンと八月」の、次の展開の可能性が、一つ見えてきます。
 蟹に姿を変えられたタネリは、病気のチョウザメのもとでこき使われながら辛い日々をすごし、地上の母のことを思っては孤独にさいなまれることでしょうが、そんなある日、もう長らく会っていなかった兄に、偶然に海底で再会することになるのです。
 兄も、蟹に姿を変えられているのかもしれませんし、他の海生小動物になっているのかもしれません。お互いに姿形は違ってしまっていますが、それでも兄弟だからこそわかる何かが、あったのでしょう。どちらかが先に気がついて声をかけ、互いに相手を確認すると、しばし二人でうれし涙を流したかもしれません。
 しかし、そこから先は、一筋縄ではいきません。長年囚われの身になって、その海底からの脱出がいかに困難であるか、兄の方は身に沁みてわかっていたでしょう。
 それでも、一人だけではできなかったことも、二人で力を合わせれば、活路が開けるかもしれません。母親が待つ地上に帰還するために、二人は秘かに連絡を取り合いながら、コツコツと準備を進めていくことでしょう。

 そして、とうとう脱出計画が実行に移される日が、やって来るでしょう。ここから先の結末は、これはもう作者に聞かなければわかりませんが、理屈の上では四通りがありえます。
 (1)二人とも帰還、(2)タネリは帰るが兄は残留、(3)兄は帰るがタネリは残留、(4)二人とも脱出に失敗し残留、という四つです。

 四つのうちのどれにするか、あとは個人個人で自由に考えたらよいようにも思いますが、あえて蛇足として、私個人のイメージを書いておきます。
 まず、最もあってほしくない結末は、(4)の二人とも脱出できず残留、というものです。これでは、最後までハラハラしながら読んできた読者にとっては、「割に合わない」感じだけが残ってしまいそうです。
 それに賢治の場合は、トシと二人で「海に封ぜられる」ことの「意味」は、「宗谷挽歌」に書かれているように「みんなのほんたうの幸福を求めて」ということにあったわけですが、タネリと兄との場合には、そのような大義名分はありません。賢治の本心では、トシに再会できるならばそのまま海に封ぜられてもよいと思っていたかもしれませんが、タネリの方はそもそも兄に会おうとして海に入ったわけではありませんでした。すなわち、この童話の内部には、「二人とも封ぜられてしまう」という理不尽な結末に見合うような「意味」は、存在しないのです。

 次に、(1)二人とも帰還、というのは、最も喜ばしいハッピーエンドです。一般的に言って、このように兄弟二人が苦難に負けず、力を会わせ機転を利かせて脱出に成功するというストーリーは、童話として十分に存在価値があると私は思います。
 ただ気になるのは、賢治がこの童話を書いたサハリン旅行中あるいはその直後の心境です。トシの喪失の悲しみが癒えない当時の彼の心情からすると、そんなハッピーエンドなんて白々しいかぎりで、この時期の彼ならばそのような結末にはしなかったのではないかというのが、私の想像です。

 となると、、(2)タネリは帰るが兄は残留、(3)兄は帰るがタネリは残留という、どちらか一人だけが帰りもう一人は残るというパターンの、いずれかの可能性が高い感じがします。
 このうちのどちらがありそうかと考えると、私としては(2)の方ではないかと思います。「主人公だけが生きて帰り、愛するもう一人は死んでしまう」というのが、「ひかりの素足」の一郎と楢夫、「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラなど、賢治の物語の一つのパターンであり、その背後には「妹が死に、自分だけが残る」という彼自身の痛切な体験があるからです。
 (2)も(3)も、その最後のクライマックスにおいて、何かの事情で二人ともが生還することはできないことが明らかになると、あえて残留を選んだ方はもう一方を生きて帰還させるために、一種の「自己犠牲」を行うという状況が想定されます。一般に、多くの自己犠牲の物語においては、年長の者が年少の者を助けるために自らを犠牲にするというのが通例で、やはりこの場合は兄が弟タネリを助けて、自分は残留を選択する(「俺の分も母さんを大切にしてやってくれよ!」などと言って…)というのが、お話としても収まりがよくなるのではないかと思います。

 あと、タネリの主人であるチョウザメというのは、見かけは恐ろしいけれど本当はそんなに悪いキャラではないのではないか、というのが私の個人的な印象です。犬神に新しい下男を連れて来られて、初めてタネリにかけた言葉は、「うう、お前かい、今度の下男は。おれはいま病気でね、どうも苦しくていけないんだ」というものでした。
 物語の終盤で、タネリが脱出計画を開始するにあたり、いったんチョウザメはそれに気づいてタネリを制止し、これで万事休すかと思われたが、ふと小さなタネリを不憫に思い、犬神には内緒でこっそり逃がしてやったのではないか・・・、などと想像したりもします。

 以上、長々とお付き合いいただいて恐縮でしたが、風が運んできたような私の勝手な空想でした。

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2017年5月28日 「牛」詩碑アップ

 先週の5月21日に、苫小牧で除幕式が行われた「牛」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。

「牛」詩碑(正面)

「牛」詩碑(背面)

 碑石は、幅2.7m、高さ1.3mもあるという立派なもので、日高産の蛇紋岩だそうです。独特の存在感のある形をしているので、題材の「牛」にちなんで、「これは大きな『ベゴ石』のようだなあ」と言っている人もいました。

 私は、前日土曜の夜遅くに飛行機で新千歳に着いて、その晩は苫小牧市にいる古い友人と一緒に、街のお寿司屋さんでホッキ貝やホッキカレーらツブ貝を食べて、当日の朝は、苫小牧名物という「ホッキカレー」を、駅の建物にある「カフェ駅」でいただきました。
 右の写真のように、ホッキ貝の身がゴロゴロとたくさん入ったカレーで、貝らしい歯ごたえも旨みも、心地よいものです。

 それから、賢治が夜に一人散策して「牛」を着想した場所と推測される、「前浜」地区へ向かいました。
 私はこの浜辺には、ちょうど10年前の2007年5月にも来たことがあったのですが、当時は幅の狭い砂浜しかなかったところが、今は「ふるさと海岸」と名づけられてきれいに整備され、広々とした砂浜も復活していました。

ふるさと海岸の遊歩道

 遊歩道沿いには、上のような「木柵」も設けられていますが、もちろん今は牧場の跡形もありません。

ふるさと海岸の砂浜

 ふるさと海岸から、除幕式の行われる旭町3丁目7まで歩いて戻ると、大通りに面した会場には、もうたくさんの人が集まっていました。

 右のような「除幕」に続いて、詩「牛」の朗読、詩に曲を付けた歌の披露、来賓の挨拶、用地を提供された不動産会社の社長さんへの感謝状贈呈などがあり、30分ほどで式は終わりました。
 この後、会場をグランドホテルニュー王子に移して、宮澤和樹さんの講演、宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事の富山英俊さんや、地元で賢治に関する活動に取り組んでおられる方々によるシンポジウムがありました。コーディネーターの斉藤征義さんの、「一番好きな賢治の作品は何ですか?」という質問に、富山さんが「青森挽歌」を挙げられたのが印象的でした。

 ところで賢治が、苫小牧で夜の浜辺に出て、「海鳴り」に記されたような苦悩を体験したのは、1924年5月21日の晩でした。
 そしてその翌晩には、彼はもう室蘭港から青森へ向かう船中の人となっていたのです。前回「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「海鳴り」と「〔船首マストの上に来て〕」との間に賢治の心境の大きな変化があったとすれば、これは実質的には1日の間に起こったことだったわけです。

 この室蘭―青森航路のように、「夜をずっと船上で過ごし、目的の港に着く直前に夜明けを迎える」というのは、賢治にとってはその前年に宗谷海峡を渡った稚泊連絡船以来のことです。(修学旅行往路の青森―函館は、昼間の便でした。)
 稚内から大泊に渡った時の状況は、あの「宗谷挽歌」に一部が記されていたわけですが、9か月ぶりの夜の船上では、宗谷海峡における「挑戦」とはまた大きく方向性の異なった、心の動きがあったのでしょう。
 賢治の心境変化の上で、「宗谷挽歌」と同じ「夜の船上」という環境が、何か大きな役割を果たしたのではないかとも思ったりします。

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2017年5月14日 「〔船首マストの上に来て〕」の抹消

1.草稿の様子

 『新校本全集』で「補遺詩篇 I 」として分類されている、「〔船首マストの上に来て〕」という作品があります。
 これは「作品」というよりも、「断片」と呼んだ方がよいのかもしれませんが、音楽用五線紙に鉛筆で書いた後、作者によって消しゴムで全面的に抹消されたというもので、なおかつ「おそらく冒頭・末尾を欠いている」(『新校本全集』第五巻校異篇)と推測されています。ところで、「五線紙に鉛筆で書かれた後に消しゴムで抹消」というと、あの印象的な作品を思い出しますが、それについてはまた後で触れます。

 まずは、全集に収録されているその全文を掲載しておきます。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
 ……船員たちはいきなり飛んできて
    足で鶏の籠をころがす
    鶏はむちゃくちゃに鳴き
    一人は籠に手を入れて
    奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
 ……島は鶏頭の花に変り
    水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく
marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
 ……みんながはしけでわたるとき
    馬はちがった方向から
    べつべつに陸にうつされる……

2.いつ・どこの出来事か

 冒頭部がおそらく欠如しているために、内容が唐突に始まりますが、これが船の上の情景を描いているのは確かでしょう。現存一行目の「船首マストの上に来て」の主語が欠けていますが、終わりの方に「かもめ」が登場することを考えると、マストの上に来ているのは、そのかもめだ解釈するのが自然です。
 15行目に「東は燃え出し」とあることから、作品中の時刻は日の出前、航路はどこかは記されていませんが、21行目に「港は近く」と書かれているので、もうすぐ港に到着するようです。
 そして、25行目の「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という言葉が、この船旅の正体を明らかにしてくれます。「わたくしの生徒たち」と言うからには、この生徒たちは賢治の農学校における教え子にほかならず、これだけの生徒を引率して船に乗り、早朝に汽車に乗るとなると、賢治の伝記的事項からして、これは1924年(大正13年)5月18日から23日にかけて行われた、花巻農学校修学旅行の道中と推測できます。翌大正14年3月の卒業生は、名簿によれば34名ですから、この中の一部の生徒が修学旅行に不参加だったと考えれば、「三十名のわたくしの生徒たち」という表現とも符合します。

 この修学旅行中に、賢治たち一行が船に乗ったのは、往路の青森→函館、帰路の室蘭→青森の2回で、前者の船上では「津軽海峡」がスケッチされています。『校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇p.224によれば、往路の船は5月19日の朝7:55に青森港を出て、昼の12:55に函館港に着き、一行は函館で肥料工場や五稜郭、函館公園を見学した後に、23:15の列車で小樽に向かっていますから、上草稿26行目の「けさはやく汽車に乗らうとする」という描写とは食い違っています。
 帰路では、5月22日の17:00に室蘭港を出航し、翌23日の朝4:20に青森港着、続いて6:15青森駅発の東北本線下り列車に乗ったと推定されていますから、日の出前に「港は近く」、そして「けさはやく汽車に乗らうとする」というこの草稿の記述と、ぴったり一致します。

 すなわち、この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿は、その内容からして、修学旅行引率の帰途1924年5月23日の明け方の、青森港に近づきつつある船上の情景と考えられるのです。

 それでは、どうしてこれが他の修学旅行中の作品と一緒に、『春と修羅 第二集』として分類されていないのかというと、それはこの草稿の状態のためです。
 『新校本全集』における詩草稿の分類ルールでは、『春と修羅 第二集』のカテゴリーに分類するためには、草稿に「日付」がつけられていて、その日付が1924年1月〜1926年3月という期間に入っている必要があるのです。冒頭部が欠けているこの「〔船首マストの上に来て〕」には日付がついていないので、『春と修羅 第二集』には分類できません。
 いったんこの期間の日付を持っていた草稿が、その後の改稿によって日付を喪失した場合には、それは「春と修羅 第二集補遺」として分類されることになりますが、「〔船首マストの上に来て〕」は現存稿しか残っていないので、これにも該当しません。
 では、そのかわりにどこに分類されるかというと、草稿が書かれている用紙が、自作のいわゆる「詩稿用紙」ではなく、また「手帳」でもないため、冒頭に記したように「補遺詩篇 I 」になるわけです。
 『新校本全集』の分類は、草稿の「形式」をもとにしているためにこのようになるのですが、ただその「内容」としては、ここに書かれているのは『春と修羅 第二集』の中でも一つの重要なトピックを成す、「北海道修学旅行」の一情景なのです。

陸奥湾から望む下北半島
陸奥湾から望む下北半島

3.その内容――トシの死との関係

 さて、その内容を見ていくと、まずは全体に漂う明るい雰囲気が、何より印象的です。17行目の「きよめられてあたらしいねがひが湧く」、22行目からの「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に/いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」というところなどに、それは最も表れています。
 作品にあふれるこの「明るさ」の要因は、一つには賢治が修学旅行の引率者として、30名の生徒に事故もなく、本州も目の前というところまで無事帰り着いたという、教師としての「安堵感」にあるのかもしれません。「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という箇所には、何か「責任を果たした」という達成感がにじんでいるように感じられます。何せ青森から汽車に乗ってしまえば、あとはそのまま花巻ですから。

 22行目の「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に」という箇所の意味は、往路でやはりこの海峡を渡る際に書いた「津軽海峡」の「下書稿(一)」が、「水の結婚」と題されていたことを引きついでいるのだと思われます。水が結婚するとは不思議な表現ですが、「津軽海峡」における、「しばしば海霧を析出する/二つの潮の交会点」という表現が、その内容を物語っているのでしょう。
 実際、津軽海峡には対馬海流の支流である「津軽暖流」が西から東に流れていて、これが津軽海峡を東に出たあたりで、北から来る寒流の「親潮(の接岸分枝)」とぶつかるので、「二つの潮の交会点」と言われているのかと思われます。(下図は、「海上保安庁」サイトの「北海道周辺の海流」より)

北海道周辺の海流

 海流同士の出会い・融合を「結婚(marriage)」に喩える着想は、すでに往路からあったわけですが、帰路にはそれがよりいっそう祝祭的な雰囲気を帯びています。
 ここにも、先ほども述べた引率教師としての安堵感や達成感の影響があるのでしょう。

 以上は、まあ一般的に異論のないところかと思われますし、私もこれまではこんな風に考えながら、この作品を読んでいました。しかし最近になって私は、修学旅行が無事に終わりそうだというだけで、「きよめられてあたらしいねがひが湧く」とか、「いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」とまで言うのは、ちょっと大げさすぎないかという感じもしてきました。
 そこで、何か他に賢治のこの感情の由来はなかったのだろうかと考えてみると、上に挙げたような特徴的表現から、5月22日の日付を持つ(しかし実際には5月21日の夜の情景と推測される)、「」の先駆形「海鳴り」を連想しました。やはり賢治は修学旅行の途中で、この時は苫小牧の海岸に一人で出て、荒れた海を眺めつつ次のように記していたのです。

そのあさましい迷ひのいろの海よ海よ
そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をとどろかせ
わたくしの上着をずたずたに裂け
すべてのはかないねがひを洗へ
それら巨大な波の壁や
沸き立つ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

 私が思ったのは、ここに出てくる「すべてのはかないねがひを洗へ」という賢治の苦悩に満ちた叫びと、「〔船首マストの上に来て〕」に出てくる「きよめられてあたらしいねがひが湧く」という新鮮な感情は、セットになって対応しているのではないかということでした。苫小牧における「はかないねがひ」は、その後この船上で「洗」われ「きよめられて」、「あたらしいねがひ」として「湧」きあがったという風に、一つながりに理解すべきものではないでしょうか。

 そうなると、この「ねがひ」の中身は何なのか、ということが問題になりますが、上記の「海鳴り」に表れている激しい感情は、中地文氏が「「一二六 海鳴り」考」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)に述べておられるように、やはり1年半前に亡くなった妹トシをめぐる思いだったと考えざるをえません。
 この前年の夏に、亡き妹を探してサハリンまで旅をし、宗谷海峡やサハリンの栄浜で苦悩のうちに眺めた「北の海」に、ここで賢治はしばらくぶりに一人で向かい合ったのです。また、「海鳴り」において「うしろではパルプ工場の火照りが・・・」として登場する工場は王子製紙苫小牧工場ですが、賢治がサハリンを訪ねた表面上の目的は、大泊の王子製紙会社に生徒の就職を依頼するためでした。同じ王子製紙の建物や煙突を見て、賢治がサハリン旅行を思い出さなかったはずはありません。
 また、「海鳴り」の最後の次の箇所からも、トシが連想されます。

 ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
    まるでそれはひとりの処女のようだ……
はるかなはるかな汀線のはてに
二点のたうごまの花のやうな赤い灯もともり
二きれひかる介のかけら
雲はみだれ
月は黄金の虹彩をはなつ

 「なつかしさとやはらかさ」とともに思い出される「処女」とは、賢治にとって当時トシ一人だけだったとまでは断定できないでしょうが、その最も大切な一人であったことは間違いありません。また、「二点のたうごまの花」「二きれひかる介のかけら」として繰り返される「二」という数字も、前年に「噴火湾(ノクターン)」でトシのことを考えながら、「車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠」「室蘭通ひの汽船には/二つの赤い灯がともり」として「二」に執着していたことを、思い起こさせます。

 このように、草稿「海鳴り」が、当時なお賢治が抱え続けていたトシの喪失の悲しみを海にぶつけるものだったとすれば、そのわずか3日後を描いた「〔船首マストの上に来て〕」の明るく希望に満ちた調子は、それまでの彼の苦悩が、ここで何か大きく変化した可能性を示しています。
 「海鳴り」に記されている「すべてのはかないねがひ」とは、前年までの彼の作品を省みれば、「再びトシに会いたい」という、叶わぬ願望のことだろうと推測されます。賢治は、それは不可能なことだと理性ではわかっていながら、この時点でもまだそのような気持ちに苛まれ続けていたので、荒海に対してそれを「洗へ」と、懇願したのだと思われます。
 そして、この「ねがひ」という言葉からここでさらにもう一つ連想するのは、やはり前年の「青森挽歌」における、次のような表現です。

  (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 ここでは賢治は「けがれたねがひ」と呼んでいますが、やはりその内容としては、「トシとの再会の願い」だったと思われます。
 そして、「〔船首マストの上に来て〕」において、ついにその「けがれ」は「きよめられて」、「あたらしいねがひが湧く」に至ったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治が書いた多くの作品中で、彼が「ねがひ」という言葉で表現した内容には様々なものがありますから、「青森挽歌」における「 ねがひ」と、「海鳴り」における「ねがひ」と、「〔船首マストの上に来て〕」における「ねがひ」とが、すべて同じことを指していると、機械的に決めつけることはできません。しかし、9か月あまりという近接した時期のうちに、「北の海と向き合う」という共通した状況において、彼が同じ「ねがひ」という言葉に込めた思いが、一つながりのものだったと考えてみることは、さほど不自然なことではないと思います。

 そう思って読んでいくと、23行目に出てくる「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現もまた、気になってきます。上記の「青森挽歌」の段階で、「宗谷海峡を越える晩は・・・」として計画されていた賢治の「挑戦」の内容は、「宗谷挽歌」において部分的に示唆されていますが、そこに賢治はこう書いていました。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。

 すなわち、ここで賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、海に身を投げようと決心していたと言うのです。幸いにして、彼は実際に身を投げるには至りませんでしたが、しかし実際に彼がそのような覚悟をしていたのだとすれば、それはすでに「魂を海に投げていた」と言ってもよいのではないでしょうか。
 私としては、これが「〔船首マストの上に来て〕」の23行目の、「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現の伏線だったのではないかと思うのです。
 一度目の投擲は、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という宣言を伴うもので、ここで賢治は海と「対決」しようとしたわけです。
 そして、翌年の修学旅行の帰途に、二度目の投擲が行われたのです。賢治は北海道から青森に向かう船上から海へ、「いまいちど」、「たましひを投げ」たのですが、今度は「水があんな朱金の波をたゝむのは/海がそれを受けとった証拠だ」と、彼は見てとりました。
 すなわち賢治はこの時、海と「和解」したのです。

 つまり、私が仮説的に考えているのは、次のようなことです。賢治は修学旅行中の苫小牧で「海鳴り」をスケッチした1924年5月21日の夜には、まだトシの喪失の悲嘆の中で、彼女との再会に固執する思いを断ち切れずに苦悩していたが、5月23日の早朝には、何かその感情が「きよめられ」るような心境に到達し、そのことを「〔船首マストの上に来て〕」に記したのではないか・・・。

4.心境変化と<海>

 とすると、次に気になるのは、何が短期間のうちに賢治の心境を、そのように変えたのだろうかということです。ただ残念ながら、この頃の作品や賢治の伝記的事項を見てみるかぎり、私にはまだそれははっきりわかりません。
 一般に、このような心境変化というものは、何か特定の明確なきっかけがあって起こることもありますが、また一方では、多くの要因の積み重ねや時間の経過によって、徐々にまたは突然起こり、特に「何のため」とは言いがたいこともあるものです。ですから、そのような「きっかけ」を探る試みが、必ずしも何かの結果につながるものともかぎりません。
 私としては、この問題については今後も考えていきたいと思っていますが、とりあえずここでは、賢治の<海>に対するとらえ方の変化に、着目してみたいと思います。上では、それを「対決」と「和解」と表現しましたが、以下でこれをもう少し詳しく見てみます。

 まず、1923年8月の「宗谷挽歌」の段階では、「海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち」というように、賢治にとって海は、「鬼神」をも宿す邪悪な場所のようにとらえられていました。「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」という覚悟をしていた彼にとって、海という場所は、自分たちを囚える牢獄にもなりうるものでした。
 「宗谷挽歌」で賢治は、トシからの呼びかけを期待し、呼ばれたら海に飛び込もうとも思っていたわけですが、ふつう人は誰かから呼ばれたら相手がいる(と思う)方に行くものですから、これはつまり当時の賢治のイメージとして、死んだトシは「海の中に囚われている」と想定していたことを示唆しています。この見方に立てば、二人を隔てる「タンタジールの扉」とは、海そのものであったとも言えます。

 これに対して、1924年5月21日の「海鳴り」では、海はやはり「あさましい迷ひのいろ」を呈してはいますが、賢治は自ら「海よ海よ」と呼びかけ、「わたくしの上着をずたずたに裂け」「すべてのはかないねがひを洗へ」「やりどころないさびしさをとれ」と、海に対して苦悩からの救済を懇願しています。ここでやはり海は恐ろしい存在でありながらも、なおかつ彼にとって「救済者」となりうる可能性も帯びているのです。また、「阿僧祗の修陀羅をつつみ/億千の灯を波にかかげて/海は魚族の青い夢をまもる」とあるように、海は尊い仏典を蔵し、生命を育む場所としてもイメージされています。
 このように、「海鳴り」で肯定的な存在へと転換しつつあった<海>は、2日後の「〔船首マストの上に来て〕」において、新たな境地に至った賢治の「たましひ」を、「受けとった」のです。「朱金の波をたゝむ」という形で、それは賢治を祝福さえしてくれました。

 内陸の地で生まれ育ち、中学生の修学旅行まで海を見たことのなかった賢治にとって、海というものは当初はさほど親しみを感じる存在ではなかっただろうと思われます。この中学時代の短歌をもとにした文語詩「〔われらひとしく丘に立ち〕」でも、海は「あやしきもののひろがり」と表現されています。
 上に見たように、1923年から1924年にかけて賢治の「海」に対する態度は、大きな転回を見せているわけですが、これは別の角度から見れば、賢治の「亡きトシ」に対する態度の変化を、象徴しているとも言えるでしょう。当初は、海は「死」の側に立って、自分とトシとの間を引き裂く障壁でしたが、いつしかそれは、賢治の苦しみを浄化し、生命力を与える存在ともなっていきました。これは、賢治がトシの死を、自ら受け容れていったことの表れとも言えるでしょう。

青森沖のかもめ
青森沖のかもめ

5.テキストの抹消

 この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿が、もしも上記のように、賢治の心境の上で重要な画期となるものであったのならば、いったいなぜ彼はそのテキストを、消しゴムで抹消してしまったのでしょうか。
 それは最終的には、作者に聞いてみなければわからないでしょうが、しかし彼は他にも多くの草稿を書きながら、出版から除外したり、推敲や改稿において一部や全部を削除したりしていますから、それらの様子から推測することができるかもしれません。

 賢治は、『春と修羅』の「無声慟哭」や「オホーツク挽歌」の章において、トシの死と自らの悲嘆を真正面から作品化して刊行しましたが、その際にも「宗谷挽歌」は、『春と修羅』には収録しませんでした。
 その理由として杉浦静氏は、「激越な内容ゆえに公表をはばかり、その部分を削除したが、そのために〈定稿〉へ至らなくなってしまったという可能性は否定できない」と指摘するとともに、そこに表れているトシへの強い執着が、《けつしてひとりをいのつてはいけない》という「青森挽歌」の倫理と齟齬をきたしてしまうために、外さざるをえなかったのではないかということを述べておられます(蒼丘書林『宮沢賢治 明滅する春と修羅』)。

 また、それよりさらに後、『春と修羅』刊行後のある時期以降の賢治は、自らの妹のことを直接作品に書くことを、さらに意識して抑制するようになった節があります。
 たとえば上記の「海鳴り」も、「下書稿(一)」の段階では上のように、名指しはしないながらもトシをめぐる苦悩が記されていたのに、その「下書稿(二)」では「」と改題されるとともに、そのような苦悩に関する部分は全て削除され、海辺で月の光と戯れる牛の微笑ましい姿だけを描く作品へと変貌してしまいます。

 「〔船首マストの上に来て〕」と同じく、音楽用五線紙に書かれ、消しゴムで抹消されていた「薤露青」では、賢治はそこに記した自らの思いが「わたくしの亡くなった妹」に関することであると具体的に指定しつつ、「わたくしの胸いっぱいの/やり場所のないかなしさ」などという形で、生の感情をストレートにうたっていました。栗原敦氏は、「パネルディスカッション「春と修羅 第二集」のゆくえ」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)において、この作品の「センチメンタルな、悲しい弱虫のところ」が、作者による抹消の要因だったのではないかという趣旨の発言をしておられますが、やはりこれも妹への個人的感傷を直接的に表現したものだったために、抹消されなければならなかったのではないでしょうか。
 「〔船首マストの上に来て〕」も、いくら肯定的な形であれ、やはり妹の死にまつわる自分の私的な心情を記したものであったため、賢治は抹消すべきと判断したのではないかと思うのです。

  ただ、上記のように「海鳴り」が「」へと改稿されて、トシの死という主題が抹消されていった一方で、同じ日付を持ちつつ別の方向性に変化していった一つの作品が、目にとまります。『春と修羅 第二集』には、「」と同じ5月22日付を持つ作品として、「」と題した詩があり、「牛」と「馬」が並ぶとまるで対になっているかのようにも見えるのですが、この「」の推敲の前後の変化が、興味深いのです。
 「馬」の「下書稿(一)初期形」は、次のように6行だけの小さな作品です。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
こっそり一枚だけ食べた

 これに対して、その「下書稿(一)手入れ形」は、次のような18行になります。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
ぼりぼりぼりぼり食ってゐた
それから青い晩が来て
やうやく厩に帰った馬は
高圧線にかかったやうに
にはかにばたばた云ひだした
馬は次の日冷たくなった
みんなは松の林の裏へ
巨きな穴をこしらえて
馬の四つの脚をまげ
そこへそろそろおろしてやった
がっくり垂れた頭の上へ
ぼろぼろ土を落してやって
みんなもぼろぼろ泣いてゐた

 5行目までは同じですが、熊笹の食べ方が変わり、そして馬はその晩、何の前触れもなく突然に死んでしまうのです。人間の「みんな」は、馬を丁寧に埋葬し、「ぼろぼろ泣いて」、その死を悼みました。ほんの短い作品ながら、「死」というものの理不尽さと悲しさが、際立って身にしみます。
 「海鳴り」から「」への変化は、「下書稿(一)」から「下書稿(二)」への改稿であるのに対して、「」の変化は「下書稿(一)」の上での推敲ですから、二つの変化は同じ段階のものではありませんが、しかし前者においては死者との別離と悲嘆というテーマが「削除」された一方で、後者においてはその同じテーマが新たに「付加」されているというところに、一対の作品の相補的な関係を想像する次第です。

 「トシの死」というテーマは、具体的・個人的な形では、テキストから周到に消されていった一方で、その代わり、より普遍化され寓話化された形で、逆にそれは積極的に描かれるようになっていったということなのかもしれません。
 作品において直接トシの死そのものが扱われることは、1924年8月以降は一切なくなったのに対して、ちょうどその頃から「銀河鉄道の夜」が書き始められたのも、きっとこれと同じ流れなのでしょう。

 奇しくも、「〔船首マストの上に来て〕」の現存末尾が、「みんながはしけでわたるとき/馬はちがった方向から/べつべつに陸にうつされる」という形で、「馬」の運命に対する関心の表明で終わっているところも、何となく面白く感じます。
 こちらの馬は、元気に海を渡って、これから本州で生きていくのでしょうか。

海上から望む青森市
海上から望む青森市

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2017年5月 5日 映画「ネバーランド」と「薤露青」

 自宅の録画機に、たまたま「ネバーランド」という映画が自動録画されていたので、とくに期待もせずに連休の深夜にぽーっと見始めたのですが、これがとても感動的な作品でした。
 物語は、戯曲「ピーター・パン」を書いたイギリスの劇作家、ジェームズ・バリの生涯における一コマを、実話をもとに描いたものです。

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 作品の不評や妻との不仲に悩んでいた劇作家バリは、ケンジントン公園を散歩している時に、4人の男の子を連れた未亡人シルヴィアと出会います。彼は母子家庭の苦労を放っておけず、子供たちの良き遊び相手になりながら、未亡人を支え始めます。様々な困難を抱える家族でしたが、とくに三男ピーターは、父の死の悲しみに閉じこもりがちで、なかなか心を開きませんでした。しかしバリが彼に、「書くこと」の素晴らしさを伝えようとするうちに心の交流が生まれ、またバリ自身も4人の子供たちにインスピレーションをもらいながら、新作劇「ピーター・パン」を制作していきます。
 完成した「ピーター・パン」の初演は、大成功でした。子供たちも劇場に招待されましたが、少し前から重い病に伏せっていたシルヴィアは、その舞台を見に行くことはできませんでした。
 しかしバリは、シルヴィアの自宅の居間で、「ピーター・パン」の特別上演を行います。シルヴィアは念願の「ネバーランド」を目にすることができたのですが、まもなく彼女は世を去ってしまうのでした。
 またしても喪失の悲しみに打ちひしがれる少年ピーターでしたが、映画の最後で、そのピーターとバリが、初めて出会ったケンジントン公園のベンチで、彼女の死について言葉をかわします。(上のDVDのカバーの場面ですね。)

 このラストシーンが本当に素晴らしくて、Amazon のレビュー欄を見ても、「巻き戻して見た」「涙が止まらなかった」というコメントがたくさん並んでいます。
 とうとうピーターは、父に続いて母も亡くしてしまったわけですが、実はジェームズ・バリも、子供時代に両親を亡くしていたのです。そしてまたバリにとっては、いつしか深く心の支えとなっていたシルヴィアを失ったことも、さらなる喪失体験でした。
 映画のラストは、この「大切な人を失う」という、人間にはどうしようもない悲しみをめぐる対話です。

ピーター: まさか、母さんがいなくなるなんて。
バリ:   僕も思ってなかった。

       でも、ほんとうは…、
       お母さんは今もいる。
       だって、お母さんは君の心の、全部のページに
       いるんだから。
       いつだって、そこにお母さんはいる。
       いつだって。

ピーター: でも、どうして母さんは死んじゃったの?
バリ:   わからない。

       でも、君のお母さんについて考えると…、
       僕はいつも、あの人がなんて幸せそうだったかを
       思い出すんだ。
       居間に座って、
       自分の家族についての劇を見ていた。
       大人にならない子供たちの劇…。

       お母さんはね、ネバーランドに行ったんだ。
       そして君は、いつでも好きな時に、
       お母さんに会いに行ける。
       ただ君が、自分でそこへ行きさえすればいいんだ。
ピーター: どうやって行くの?
バリ:   信じることでだよ、ピーター。
       信じるだけ。

ピーター: 僕、母さんが見える。

(完)

こちらのページに掲載されている台本原文からの私訳です。)

「ネバーランド」1

「ネバーランド」2
(画像は、東芝エンタテイメント(株)発売のDVDより)

 ピーターの質問、「どうして母さんは死んじゃったの?」に対して、そのまま答えるとすれば、「病気のため」ということになりますが、バリはそうは答えず、「わからない」と言います。ピーターの質問の真意は、「母の死因」などという表層的なところにはないことを、バリーもわかっていたからです。きっと、ピーターがもっと大きかったら、「僕の母が、理不尽にも、『死』などという運命を甘受しなければならなかったのは、いったい何故なのか?」、あるいは「僕をこれほど絶望させ、僕たちをこれほど苦しめる、この『死』というものは、いったい何なのか?」と問いかけたかもしれません。
 バリを心から信頼するようになったピーターは、父の死以来ずっと自分の心の最も内奥にあった、この最も重大な問題を、最後に意を決してバリに投げかけたのです。そして、バリはこの問いに、いったん「わからない」と言いましたが、次いで自分とともに永遠にいるであろうシルヴィアの姿について語ります。そして、「お母さんはね、ネバーランドに行ったんだ」と答えるのです。

 「ネバーランド(Neverland)」とは、劇中でピーター・パンたちが暮らしている場所の名前ですが、その意味は、「どこにもない土地」です。「ユートピア(utopia)」という言葉が、ギリシア語の「どこにもない場所」という意味の造語であるのと、同じ成り立ちですね。
 ですから、バリがピーターに答えた、「お母さんはネバーランドに行った」というのは、「どこにもない土地に行った」ということで、これは言いかえれば、「お母さんは、どこに行ったかわからない」というのと、同じことを言っているのです。

 ここで私は、賢治の「薤露青」の、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という一節を、連想せずにはいられません。
 ある時から、賢治にとってトシも、「どこへ行ってしまったかわからない」からこそ、逆に「どこにでもいる」存在になったのです。バリやピーターがシルヴィアについて、「いつだって、そこにお母さんはいる」「いつでも好きな時に会いに行ける」「母さんが見える」と言うのと同じように、賢治も「薤露青」や「〔この森を通りぬければ〕」に記したように、そこかしこからトシの声が聞こえるようになったのです。
 そしてこれによって賢治は、トシの喪失の悲嘆から、真の意味で救われていったのでした。

 大切な人との「死別」をテーマとしたこの映画は、私の思うところでは宮澤賢治が妹トシに対して持つに至ったと同じような、「死者との関係性」について描いているように感じられました。

 それにしても、ジョニー・デップという俳優の、奥の深さというか引き出しの多さには、あらためて感嘆しました。ここでもバリという人物の持つ悲しみ、ユーモア、葛藤などを、本当に素敵に表現していました。また、少年ピーターを演じた子役のフレディ・ハイモアも可愛くて切なくて、心に残りました。すっかりフレディに感心したジョニー・デップは、自分が「チャーリーとチョコレート工場」の主役に決まった時、「チャーリー役はフレディに」と監督に強く推薦したのだそうです。あと、劇場支配人のダスティン・ホフマンも、年を経ていい味ですよね。
 これは、お薦めの映画だと思いました。

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2017年4月30日 竜宮の経典

 短篇「竜と詩人」の最後の場面で、詩人スールダッタと老竜チャーナタは互いに理解し合い、竜は詩人に贈り物をしようとします。

竜は一つの小さな赤い珠を吐いた。そのなかで幾億の火を燃した。(その珠は埋もれた諸経をたづねに海にはいるとき捧げるのである。)
スールダッタはひざまづいてそれを受けて龍に云った。
(おお竜よ、それをどんなにわたしは久しくねがってゐたか わたしは何と謝していゝかを知らぬ。力ある竜よ。なに故窟を出でぬのであるか。)
(スールダッタよ。わたしは千年の昔はじめて風と雲とを得たとき己の力を試みるために人々の不幸を来したために竜王の〔数文字空白〕から十万年この窟に封ぜられて陸と水との境を見張らせられたのだ。わたしは日々ここに居て罪を悔ひ王に謝する。)
(おゝ竜よ。わたしはわたしの母に侍し、母が首尾よく天に生れたらばすぐに海に入って大経を探らうと思ふ。おまへはその日までこの窟に待つであらうか。)
(おゝ、人の千年は竜にはわづかに十日に過ぎぬ。)
(さらばその日まで竜よ珠を蔵せ。わたしは来れる日ごとにこゝに来てそらを見水を見雲をながめ新らしい世界の造営の方針をおまへと語り合はうと思ふ。)
(おゝ、老いたる竜の何たる悦びであらう。)
(さらばよ。)(さらば)

 ここに出てくる「新らしい世界の造営の方針」というところには、前回「予言者、設計者スールダッタ」という記事に書いた賢治独特の世界観が表れていますが、今日取り上げてみたいのは、竜が(その珠は埋もれた諸経をたづねに海にはいるとき捧げるのである)と言い、スールダッタが(すぐに海に入って大経を探らうと思ふ)と述べている箇所についてです。
 竜によれば、海の中には「埋もれた諸経」があり、スールダッタは海中に入ってその「大経」を探索したいと言うのですが、ここで私がふと連想したのは、『春と修羅 第二集』所収の「」の先駆形である「海鳴り」という草稿にある、次の箇所です。

いまあたらしく咆哮し
そのうつくしい潮騒えと
雲のいぶし銀や巨きなのろし
阿僧祗の修陀羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
海は魚族の青い夢をまもる

 4行目に、「阿僧祗の修陀羅」という言葉が出てきて、このままでは意味がわかりにくいですが、この「阿僧祗」は正しくは「阿僧祇」のようで、数の単位の一つです。一般的には、一阿僧祇は1056を表すということですから、1の後ろに0が56個並ぶという、想像もつかない大きさの数です。まあ、現実的・具体的な数値を表すためというよりも、お話の中で「想像を絶した大きさ」を表すというのが基本的用法のようで、たとえば『法華経』の「如来寿量品第十六」の偈には、「自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇」として出てきます。
 次の「修陀羅」は、サンスクリット語sūtraの音写で、「お経」のことです。「オホーツク挽歌」に、(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)として出てきた、あの「スートラ」ですね。
 すると、「阿僧祗の修陀羅」とは、「非常に大量の経典」ということになり、「海」がこの大量の経典を「つつんでいる」ということを、上の箇所は記しているわけです。

 「竜と詩人」の竜チャーナタも、「埋もれた諸経をたづねに海にはいる」と言っていたわけですが、このように海中に大量の経典が蔵されているという話は、どこから来ているのだろうと思って少し調べてみましたら、『華厳経』をめぐる伝説に、そのような箇所があるようです。
 鎌田茂雄著『華厳の思想』には、次のように書かれています。

 『華厳経』の母胎はインドで成立した。『華厳経』には三種あったとされている。
 第一は、上本の『華厳経』である。それは三千大千世界を十集めた大宇宙に遍満する無限の数量の微塵の数ほどもある偈文から成り立っている。
 第二は、中本の『華厳経』である。それは四十九万八千八百偈、一千二百品から成り立っている。
 第三は、下本の『華厳経』である。それは十万偈、三十八品から成り立っている。
 この三種の『華厳経』のなかで、上本と中本の『華厳経』は竜宮にあって、この地上に伝わらず、下本の『華厳経』のみ、この地上の世界に伝えられ弘まったという。下本の『華厳経』はさらに簡略化されて、三本が中国に伝えられた。

 ここにも、いかにもインド的な莫大な数量のたとえが出てきますが、結局、『華厳経』の上本と中本という超絶に大部な経典が、海の底の竜宮に所蔵されているのだということになります。

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 また、この「竜宮にある経典」というモチーフは、2世紀頃に南インドに生まれた偉大な仏教者、龍樹(ナーガールジュナ)の生涯をめぐる伝説にも登場します。
 瓜生津隆真著『龍樹―空の論理と菩薩の道』には、龍樹の生涯を記した中国の『付法蔵因縁伝』の和訳が掲載されていますが、そこには次のようにあります。

 ときに龍樹はことばに窮し心に屈辱を感じて、自ら心のなかに思った、――世界で説かれている教えのなかには、道が無量にある。仏の経典はことばは絶妙であるけれども〔理は〕いまだ尽くされていない。われはさらにこれをしかるべく敷衍し、後学の者を開悟して衆生に利益を与えよう――。このように考えて、そのために師自身の教えと戒めを立て、さらに〔独自の〕衣服を造って、仏教であっても少し違いをつけたものにしたがわせた。人々の迷いの心を除こうとして、不受学(戒を受けていない者)に日や時を選んで戒を受けるようにと示し、独り静かな室の水晶の房のなかにいた。
 大龍(マハーナーガ)菩薩は、このことを大いにあわれみ、神通力をもって直ちに彼を伴って大海に入り、宮殿に赴いて七宝の函を開き、もろもろの方等(大乗)の深奥の経典、無量の妙法を龍樹に与えた。読むこと九十日、内容に通じ理解するところが非常に多かった。その心は深く経典のなかに入り、真の利益を得たのである。
 大龍はナーガールジュナの心を知って、問うていった。「汝は今、経をみな見られたか否か。」 龍樹は答えていった。「汝の経は無量であって、見尽くすことはできません。私がここで読んだのは、閻浮提(人間の住む世界)で読んだのを超えること十倍に及びます。」 龍王はいった。「刀利天にいる天王(インドラ神)が所有する経典はこの宮殿の経典の超えること百千万倍で、このように諸処にあって、ここと比べても数えることができないのだ。」
 そのとき龍樹は諸経を得て、心ひろびろと一相(一如)の理を了解し無生法忍(すべては空であると知る智慧)を得て、悟りの道を完成した。龍王は龍樹が悟ったのを知って、宮殿を出て送り帰したのである。

 すなわち、「埋もれた諸経をたづねに海にはい」った一人として、2世紀インドの龍樹(ナーガールジュナ)がいたというわけです。
 ところでこの龍樹の伝説では、上の「竜と詩人」と同じく、人間と竜との対話が行われているのが、興味深いところです。賢治が「竜と詩人」の最後に、海中の大経を探索するというモチーフを挿入したのは、龍樹に関するこのような伝説の影響もあったのではないかと思わせます。

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 先の「海鳴り」に戻りますが、賢治がこの草稿をスケッチしたのは、1924年の5月21日の夜、農学校の生徒を引率してやってきた北海道苫小牧の海岸でした。(草稿には「一九二四、五、二二、」と記入されていますが、旅程から賢治が苫小牧で夜を過ごしたのは、21日だけだったことがわかっています。)
 その翌晩に一行は帰途につき、賢治は5月23日に青森を過ぎた車中で、「〔つめたい海の水銀が〕」をスケッチします。この作品の「下書稿(二)」には、浅虫温泉の「湯の島」が描写されているのですが、ここに賢治は次のような、不思議な童話的空想を書きつけています。

   そこが島でもなかったとき
   そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 島でもなく、陸でもないということは、「海中」のことではないかと思われ、「鱗をつけたやさしい妻」という言葉もそれを裏づけます。そして、そのように海の中で「やさしい妻と暮らす」となると、「竜宮」を連想せざるをえません。陸奥湾に浮かぶ湯の島の、お伽話のようにかわいらしい雰囲気から、賢治はふとこんなことも思ってみたのでしょうか。
 しかし、ここで賢治が「竜宮」のことを考えたとすれば、これは2日前の苫小牧における、「阿僧祗の修陀羅をつつみ」という幻想とも、つながるわけです。

 ところで、来たる5月21日、賢治が苫小牧を訪れた記念日に、苫小牧市に賢治の「」を刻んだ新たな詩碑が、建立されるということです。
 昨年12月にいくつかの新聞で報道されて以降、あまりインターネット上には情報が出ていませんでしたが、詩碑建設委員会の方に電話で問い合わせたところ、午前10時から苫小牧市の旭町3丁目で、除幕式が行われるということでした。また、苫小牧市による「平成29年度苫小牧市民文化芸術振興助成事業申請一覧」を見ると、5月21日の欄に「宮沢賢治詩碑除幕記念シンポジウム」とあり、会場は「グランドホテルニュー王子 若草の間」となっていますので、同日に記念シンポジウムも行われるのですね。
 当日は、私もできれば見学に行きたいと思っています。

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2017年4月23日 予言者、設計者スールダッタ

 昨年夏に花巻で行われた「第4回宮沢賢治国際研究大会」には残念ながら参加できなかったのですが、その際に行われたシンポジウム「イーハトーブは今どこにあるのか」における各演者の発表内容が、つい先日送られてきた宮沢賢治学会の「会報第54号」に掲載されていました。
 その中でも、とくに岡村民夫さんの「潜在力の設計者、宮沢賢治」という文章を、とても興味深く読ませていただきました。
 この中で岡村さんは、次のように述べておられます。

 「竜と詩人」という作品は、インドを舞台とした仏教説話のような体裁をとっています。詩の大会でスールダッタという新進詩人が一位になって、それまで最優秀詩人の座にあった老詩人が退位する。そのとき老詩人はスールダッタを讃えて、こんな即興詩をうたいます。

風がうたひ雲が応じ波がならすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ
星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する
あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる予言者、設計者スールダッタ

 ふつう詩人は「設計者」とは考えられていないのに、ここでは「設計者」と呼ばれています。賢治にとっての詩人、賢治的な詩人とは、「設計者」なのです。そしてこの「設計者」は、既存のモデルを一方的に環境に対して押し付ける者ではなく、環境自体に潜んでいる「潜在力」を、望ましい形で実現しようとするデザイナーを意味しています。これは「イーハトーブ」という概念に深く関わってきます。(「宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第54号」p.23より)

 ここで岡村さんが指摘しておられる、「設計者」としての詩人、すなわち「環境自体に潜んでいる「潜在力」を、望ましい形で実現しようとするデザイナー」としての詩人という賢治独特の考えは、たとえば詩断章「〔生徒諸君に寄せる〕」においても、次のように描かれています。

新たな詩人よ
嵐から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ

 ここにおける「新たな詩人」は、「人と地球にとるべき形を暗示」するという仕事をしますが、これは「竜と詩人」の方では、「あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくり・・・」というところに相当するわけです。その意味で、やはりこちらの詩人も、「設計者」です。

 しかしそれと同時に、これらの詩人は、岡村さんが書いておられるように「既存のモデルを一方的に環境に対して押し付ける者」ではありません。たとえどんなに偉大な詩人でも、その詩にうたうという行為によって、世界を自分の「設計」のままに自由に改変できるなどということはありえません。
 スールダッタは、「風がうたひ雲が応じ波がならすそのうたをたゞちにうたふ」ことによって、「星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する」、その「覚悟」の内容を、誰よりも速く正しく知ることができます。また「〔生徒諸君に寄せる〕」の「新たな詩人」は、「嵐から雲から光から/新たな透明なエネルギーを得」ることによって、「とるべき形」を構想することができるのです。
 この側面は、「竜と詩人」で「予言者、設計者スールダッタ」と呼ばれているうちの、「予言者」に相当する側面です。詩人は、自然の変化を素早く「感じとる」ことができるのです。

 しかしここでちょっと考えてみると、「予言者」であるということと、「設計者」であるということは、本来は相容れないことであるはずです。
 「予言者」というのは、自分の意志の関与しない未来の現象に対して、その成り行きをあらかじめ知ることができる人です。
 これに対して「設計者」とは、自分の意志にもとづいて、実現すべき未来を能動的に構想する人のことです。
 たとえば、もしも予言者が、「いついつ、これこれの事件が起きる」ということを前もって言っていて、そのとおりに事件が起こったら、予言は正しかったということで予言者の評判は上がるでしょう。しかしその後、実はその事件はかの予言者が自分で計画したものだったことがバレてしまったら(つまり実は「設計者」であったなら)、もはやその人は「予言者」ではなく、「詐欺師」だったということになってしまいます。
 二つを区別するのは、出来事を起こした「意志」が、対象の側か自分の側か、どちらにあったのかということです。自分の意志と無関係に、対象の側の意志や法則で起こる出来事を言い当てたら、それは「予言者」ですし、その出来事を自分の意志で企画したら、「設計者」になります。

 ですから、一つの出来事について「予言者」であり同時に「設計者」であるということは、概念的にはありえないことのはずなのです。しかしそれならば、スールダッタはいかにして、この二つの名で同時に呼ばれうるのでしょうか。

 その謎は、「竜と詩人」の続きを読めば解けてきます。詩の大会で自分のうたった詩が、実は老竜チャーナタの歌をぬすみ聞いたものではないかという噂を耳にしたスールダッタは、竜のもとに許しを乞いに来ますが、これに対して竜は次のように答えます。

スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考へたのであるか。おまへはこの洞の上にゐてそれを聞いたのであるか考へたのであるか。
おゝスールダッタ。
そのときわたしは雲であり風であった。そしておまへも雲であり風であった。詩人アルタがもしそのときに冥想すれば恐らく同じいうたをうたったであらう。けれどもスールダッタよ、アルタの語とおまへの語はひとしくなくおまへの語とわたしの語はひとしくない韻も恐らくさうである。この故にこそあの歌こそはおまへのうたでまたわれわれの雲と風とを御する分のその精神のうたである。

 つまりここで、詩人スールダッタという存在は、雲や風と同一化しており、竜もまた雲や風と同一化しており、それらすべてが渾然一体となっていたというのです。
 もしも、詩人がうたった内容が、「星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する」ことだけ、すなわち「自然の意志」のみであったなら、詩人は「予言者」ではありますが、「設計者」ではありません。一方、詩人が「あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる」のみであれば、そこに反映しているのは「詩人の意志」だけであり、詩人は「設計者」ではあるが「予言者」ではありません。
 ところが、ここで老竜チャーナタが言っているのは、これは「自然の意志」であるとともに、同時にまた「詩人の意志」でもあるという、不可分の融合状態が実現していたのだということです。
 ここでは、詩人は自らの「主体」を放棄して、自然の中に完全に溶解してしまっているのです。あるいは、自らの「主体」の中に自然を吸収包含して、自らが自然そのものと化してしまっているのです。

 賢治における、このような自己と自然との一体化を典型的に表現しているのは、いつも引用しているところですが、「種山ヶ原」の下書稿(一)第一形態に出てくる次の一節です。

あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ここで賢治は、大好きな種山ヶ原の自然の中で恍惚として、「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と感じます。まさに、自然に溶解しつつ一体化しているのです。

 そしてこのような自己と自然との一体化こそが、彼の「心象スケッチ」という方法論を基礎づけるものでした。
 彼は、『春と修羅』の「」の中で言います。

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 賢治は、この世界における現象は、すべて「こゝろのひとつの風物」=「心象」なのだと考えていました。だからこそ、「心象」を克明に「スケッチ」することが、この世界の科学的な「記録」にもなりうると考えていたのです。
 しかし、それならば賢治の認識論は、この世界には自分の「こゝろ」しか存在しないという「独我論」だったのかというと、そうではありません。上の引用部の最後の、(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という箇所に表れているように、賢治にとって「こゝろ」は、世界全体を包含するとともに、世界の中の小さな一部でもあるからです。
 無論そう言われても、簡単にはぴんときません。世界を包含しながら、同時にその小さな一部でもあるという存在様式は、形式論理的にはありえないことだからです。
 どうしてこんな不思議な事態が起こるかというと、賢治の「自己」は、とても境界が薄くて、自由自在に伸び縮みする性質を持っており、ある時は世界そのものと一体化するほど大きく拡散するけれど、またある時は小さく縮むというものだったのです。
 その様子は、たとえば下のアニメーションスライドのようなものです。

自己と世界の一体化

 「世界の一部である」自己が、このように、ある時は世界全体を包含してしまうのです。

 ところで一般に、人間の精神活動は、「知」「情」「意」という三つの側面に分けて考えられます。
 賢治にとって、「心象スケッチ」という手段が世界記述の方法として成立する根拠は、「自己の心象についての認識は、世界についての認識に一致する」ということにありました。つまり「知」の領域において、「自己と世界の一体化」が表れていたわけです。上のアニメーションをご覧いただくと、自己が膨張して世界と一体化している時には、「心象スケッチが世界のスケッチである」ということが、一目瞭然だと思います。
 そして今回見たように、「予言者でありかつ設計者である」という詩人スールダッタのあり方は、「自己の意志が、世界の意志でもある」という構造に基づいていました。これはつまり、「自己と世界の一体化」が、「意」の領域で表れているということになります。
 残りの一つの「情」において、「自己と世界の一体化」が表れると、「自己の感情と世界の感情が一致する」ということになります。これは、生前の賢治が示していた、「他者に対する並はずれて鋭敏な共感性」というものに相当するでしょう。

 「農民芸術概論綱要」の中の次のような言葉は、こういう「自己と世界の一体化」という観点も併せることで、真に理解されるものだと思います。

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

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2017年4月 9日 対馬丸の姿

 「対馬丸」というと、太平洋戦争中の1944年8月22日、政府命令による沖縄からの学童疎開輸送中にアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没し、1476名の犠牲者を出した悲劇が有名です(Wikipedia「対馬丸事件」参照)。
 この「対馬丸」は、1915年にイギリスのグラスゴー造船所で建造された大型貨物船で、欧州航路やアメリカ航路に就航した後、太平洋戦争開戦後に日本陸軍に徴傭されたものですが、今日ご紹介するのは、同じ船名ながら日本の三菱長崎造船所で1905年に建造されたもっと小さな船で、山陽汽船が運営する関釜連絡船として就航し、その後鉄道省の所有となって、1923年6月から北海道の稚内とサハリンの大泊を結ぶ「稚泊連絡船」になったものです。

 この稚泊連絡船「対馬丸」に乗って、賢治は1923年8月2日に宗谷海峡を渡り、船上の様子を「宗谷挽歌」(『春と修羅』補遺)を書きました。
 また、帰途では8月7日または9日に乗船し、船上の様子を「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」(補遺詩篇 I)を書いたと推測されます。さらにこれは、文語詩「宗谷〔二〕」に改作された可能性があります。
 (「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」がこの帰途の船上のことと思われる根拠としては、以前の記事「西洋料理店のような?」をご参照下さい。)

 今回、この記事で「対馬丸」をご紹介しようと思った理由は、たまたまネットで検索をしていたら、「札幌市中央図書館デジタルライブラリー」に、この対馬丸のかなり鮮明な写真の絵葉書を目にしたからです。
 下のリンクが、そのページです。

稚泊連絡船 対馬丸

 こちらのサイトでは拡大表示をすることもできますし、またダウンロードをすれば1667×1072ピクセルという大きな画像が得られるので、賢治が乗った対馬丸というのがどんな船だったのか、かなり具体的に見ることができます。
 すなわち、賢治が「宗谷挽歌」を、「こんな誰も居ない夜の甲板で・・・」と書き出したのも、「宗谷〔二〕」で「そらの微光にそゝがれて/いま明け渡る甲板は/綱具やしろきライフヴイ/あやしく黄ばむ排気筒」と描写したのも、この船の甲板だったわけです。
 また彼はこの船上で、「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く」とまで思い詰めるという、ちょっと尋常ではない精神状態にあったのでした。

 一方、国会図書館の近代デジタルライブラリーでは、「造船協会」編の『日本近世造船史 附図』という本を見ることができますが、ここには「対馬丸」の船体図が掲載されています(下図は同書より「第37図」)。

対馬丸船体図

 そして、「天翔艦隊」というサイトの、「最果ての海に:第一章 最北の鉄道連絡船」というページには、対馬丸および壱岐丸の船内について、次のように書かれています。

 ブリッジの真下にあたる上甲板の前部室を一等客社交室(サロン)兼出入り口広間(エントランス・ホール)とし、その下のメインデッキには一等食堂がある。両者の間は楕円形の吹き抜けと階段で結ばれており、天井には色ガラスの天窓(スカイライト)が設けられた。天窓の模様には山陽鉄道の社章が模されおり、これは晩年に至るまでそのまま残されていた。

 ここで、上の「船体図」の中の、上甲板前部の「一等客社交室」と、その下の「一等食堂」のあたりを拡大すると、下図のようになっています。

対馬丸一等客社交室・食堂

 上の方に楕円形に見えるのが、さきほどのサイトで「両者の間は楕円形の吹き抜けと階段で結ばれており・・・」と書かれている箇所と思われ、下の方に「TABLE.」などとあるのが、一等食堂でしょう。
 「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」という作品断片において、いきなり「大きな西洋料理店のやう」と形容されているのは、この豪華な造りの「一等食堂」のことではないだろうかと、私は個人的に推測してみているところです。

 

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2017年3月20日 萩京子作曲「ケンタウルス 露をふらせ」

 3月9日に、オペラシアターこんにゃく座による公演「想稿・銀河鉄道の夜」を観てから、「ケンタウルス、露をふらせ!」という萩京子さんの曲がずっと頭の中で流れつづけていたので、当日購入したパンフレットに掲載されているその楽譜をもとに、この曲の VOCALOID 版を作成してみました。
 「想稿・銀河鉄道の夜」は、賢治の原作を尊重しながらも北村想さんが「自分の読みを刻ん」だ劇ですが、物語の前半で「ケンタウル祭」の晩に、子どもたちはみんな嬉しさいっぱいで、この歌を唄います。

 それにしても、賢治による「ケンタウルス、露をふらせ」のかけ声に、北村さんが加えた「子どもたちの髪をぬらせ」という一節は、この物語の悲劇的な側面を暗示しているようでもあり、不思議な雰囲気を醸成しています。
 と言うのも、この物語において「ぬれて」いるということは、カムパネルラが「ぬれたやうにまっ黒な上着をきた、せいの高い子供」として登場し、途中から乗車した小さな男の子が「ちぢれてぬれた頭」「ぬれたやうな黒い髪」をしていることに表れているように、水難事故の死者の表徴でもあるのです。
 萩京子さんによる、楽しげだけれど一抹の寂しさも漂う曲想が、その雰囲気にぴったりと寄り添っています。

 下のファイルの歌は、VOCALOID の Mew、初音ミク、Kaito で、二番の冒頭のソロは、Mew です。本番では、伴奏にクラリネットとチェロも加わってさらに色彩豊かな音楽でしたが、ここではパンフレット掲載の楽譜に従って、伴奏はピアノのみになっています。かわりというわけではありませんが、「ケンタウルス!」の部分に、「露」のイメージで「鈴」を入れてみました。

♪ 「ケンタウルス 露をふらせ」(2.57MB)

               詩: 北村 想  曲: 萩 京子
一、星の祭の夜は
   星座表から星が空に帰る
   白鳥は舞い
   琴は奏で
   天秤は揺れ
   かんむり輝く
   ケンタウルス 露をふらせ
   子どもたちの髪をぬらせ

二、星の祭の夜は
   星座表から星が空に帰る
   牛飼いは歩き
   竜はうねり
   鷲は飛び
   蠍は跳ねる
   ケンタウルス 露をふらせ
   子どもたちの髪をぬらせ
   ケンタウルス 露をふらせ
   子どもたちの髪をぬらせ

萩京子「ケンタウルス 露をふらせ」
オペラ「想稿・銀河鉄道の夜」公演パンフレットより

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2017年3月12日 親鸞の夢告の地

 浄土真宗の開祖親鸞は、その生涯の重要な局面において、三度にわたり「夢のお告げ」を受けたとされています。

 その第一は、親鸞が19歳の1191年(建久2年)に、河内国磯長にある聖徳太子廟に参籠した際のもので、夢に聖徳太子が現れ、次のように告げたとされています。

我が三尊、塵沙界を化す
日域は大乗相応の地なり
諦聴せよ、諦聴せよ、我が教令を
汝の命根、応に十余歳なるべし
命終して速やかに清浄土に入らん
善信、善信、真菩薩

 すなわち、阿弥陀・観音・勢至の三尊は、この塵のような世を救おうとしている、日本は大乗仏教にふさわしい地である、私の教えをよく聞け、お前の命はあと十余年である、その命が終わると速やかに清らかな世界に入るであろう、真の菩薩をよく信ぜよ、というのです。

 次の第二の夢告は、1200年(正治2年)、親鸞が比叡山無動寺の大乗院に参籠した際のもので、夢に如意輪観音が現れ、次のように告げたとされています。

善哉、善哉、汝の願、将に満足せんとす
善哉、善哉、我が願、亦満足す

 これは、その時点での親鸞の信仰を強く肯定するものであり、磯長の夢告で「余命10年あまり」と言われていた親鸞の背中を押して、翌年の比叡下山に向かわせた契機とされています。

 そして第三の夢告は、翌1201年(建仁元年)のことで、親鸞は京都の頂法寺六角堂で百日参籠を行い、その95日目の夜の夢に救世観音が現れ、次のように告げたとされています。

行者宿報に設い女犯すとも
我玉女の身と成りて犯せられむ
一生の間、能く荘厳して
臨終に引導して極楽に生せしむ

 これは、行者であるお前(親鸞)が、たとえ前世の因縁によって女性と交わろうとも、私(観音)が女性の身となってその交わりを受け、お前の一生を助けて、臨終には導いて極楽に往生させようというもので、これを受けた親鸞は、京都吉水の法然の門に入ることとなりました。

 上記の三つの夢告のうち、最後の六角堂における夢告は、親鸞の妻の恵信尼が娘の覚信尼にあてた手紙(「恵信尼消息」)にも出てくるので概ね史実と考えられていますが、前の二つは、後世に生まれた伝説と考える向きが多いようです。
 しかし、親鸞を尊崇する人々にとっては、これらはいずれも宗祖の偉大な生涯を特徴づける、貴重なエピソードと言えるでしょう。

 さて、賢治が1921年(大正10年)に家出をしている最中に、父政次郎が息子を誘って関西地方を旅行した際の旅程を見ると、上の親鸞の夢告の地のうち、二つが入っていたことがわかります。
 まず、第二の夢告の「大乗院」に関しては、小倉豊文「旅に於ける賢治」に、次のように記されています。

 さて、根本中堂や大講堂のある一廓は、東塔と称し、叡山の中心地区ではあるがまだほんの入口にすぎない。なほ奥には西塔の一廓があり、更に遠くはなれて横川塔の一廓があり合せて叡山三塔と言ふ。ことに横川塔は日蓮上人の遺蹟でもある。全山の主峰四明ヶ嶽も西塔の近くである。しかし、この時の父子二人の日程では、それ等何れへも足を運ぶことが許されなかつた。彼等は大講堂から名残を惜しみつゝ歩をかえした。そして、道を大乗院「親鸞上人蕎麦喰木像」にとつた。すでに暮れなずむ春の夕べではあれ、谷や木の間には夕暗が色濃く迫つて来てゐた。

 すなわち、政次郎氏が小倉豊文氏に語ったところによれば、賢治父子は比叡山参詣の最後に大乗院を訪れ、そこから下山の途についたのです。
 そしてこの日は、かなり夜も更けてから京都三条大橋たもとの「布袋館」に投宿し、次の朝は「中外日報」社を訪ねて、大阪の叡福寺への行き方を教えてもらいます。そして二人は叡福寺へと向かうのですが、実はこの「叡福寺」こそ、「磯長の夢告」があった聖徳太子廟に建てられた寺なのです。
 ただ現実には、賢治たち父子は大阪から関西線で叡福寺に向かう途中、柏原駅で下車しなければならないところを、おそらく「乗り過ごし」てしまい、残念ながら叡福寺には行きそびれてしまいました(「運命の柏原駅」参照)。
 しかし政次郎氏は、少なくとも旅行の計画においては、「磯長の夢告」と「大乗院の夢告」の地を、訪ねることにしていたわけです。

 となると、親鸞を深く信仰していた政次郎氏としては、宗祖のもう一つの夢告の地で、しかも宗教的には最も重要な意味を持つ、「六角堂」に行こうとはしなかったのだろうか、ということが気になります。実際、父子が宿泊した「布袋館」と、親鸞が参籠した「頂法寺六角堂」は、かなり近い場所にあって、下の地図のような位置関係にあります。(マーカーの(布)が布袋館、(六)が六角堂)

 布袋館から六角堂までの距離は1.2kmで、徒歩で15分ほどですから、これは旅館の朝食前の散歩にも、ちょうどよい感じです。しかし、二人が六角堂を訪ねたという話は、政次郎氏からこの旅行について聴きとりをした小倉豊文氏も、佐藤隆房氏も、堀尾青史氏も、誰も記録していませんので、実際には行かなかったのでしょう(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)。
 仏典に詳しい政次郎氏のことですから、叡福寺、大乗院と来て、六角堂を意識しなかったはずはないと思うのですが、この時は賢治への配慮もあったのでしょうか。大乗院は、純粋に親鸞の旧蹟ですが、叡福寺には賢治の信仰する日蓮も若い頃に参籠したという有名な逸話があり、こちらは親鸞だけでなく日蓮とも関連した「所縁の地」でした。叡福寺に関しては、親鸞と日蓮の共通のルーツを訪ねるという、この旅の趣旨に合致した場所だったのです。

 それから、親鸞は19歳の時に叡福寺の聖徳太子廟で、「お前の余命は十余年」と宣告されたにもかかわらず、実際には90歳まで生きましたが、賢治は22歳になる夏に体調不良で岩手病院を受診して「肋膜の疑い」と言われ、親友の河本義行に「私の命もあと15年」と書き送り、まさにその15年後に37歳で世を去りました。
 たんに肋膜の「疑い」があったというだけで、岩手病院の医者がそのような「お告げ」をするとは思えませんから、これは賢治自身の何らかの「直観」による言葉だったのだろうと思われますが、こちらの方は、残念ながらそのとおりの結果になってしまったわけです。

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2017年3月 5日 《願以此功徳 普及於一切》

1.「青森挽歌 三」の位置

 新校本全集で「『春と修羅』補遺」に分類されている「青森挽歌 三」は、『春と修羅』に収録されている「青森挽歌」の、先駆形と考えられる草稿です。このテキストが書かれているのは、「丸善特製 二」というやや変則的な原稿用紙で、一般の原稿用紙が「20字×10行×2」という400字詰めであるのに対して、これは「25字×12行×2」という600字詰めになっているのです。
 実は、『春と修羅』の「詩集印刷用原稿」は、全てがこの「丸善特製 二」の原稿用紙なのですが、その意義について、『校本全集』第二巻校異篇p.11には、次のように書かれています。

本文の書かれ方について特記すべきは、用紙の25字×12行という字詰めが、初版本本文の活字の組み方と合致していることで、原稿用紙の右半・左半が、それぞれ、そのまま初版本の各一頁に相当するように書かれ、紙を二つに折って重ねて綴じれば、詩集の雛形になる仕組みになっている。

 すなわち、賢治はこの「丸善特製 二」原稿用紙に、『春と修羅』の最終段階のテキストを記入して、それによって「詩集の雛形」をイメージしたのです。
 つまり、賢治が『春と修羅』関係の詩の草稿用紙として、この「丸善特製 二」原稿用紙を使用している場合は、それは推敲過程の中でもかなり最後の方の段階に位置していることを意味するわけであり、「青森挽歌 三」という草稿は、そのような段階のテキストだと考えられるのです。(この原稿用紙のことについては、以前の記事「「丸善特製 二」原稿用紙」もご参照下さい。)

 さて、前置きが長くなりましたが、その「青森挽歌 三」の冒頭は、次のように始まります。

   青森挽歌 三

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。
それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき
或ひは青ぞらで溶け残るとき
必ず起る現象です。

 冒頭の「仮睡硅酸」という特徴的な造語は、「青森挽歌」においては中ほどの112行目に出てくるのに対して、5行目の「それはおもては軟玉と銀のモナド」から14行目の「巻積雲にはいるとき」までは、ほとんどそのまま「青森挽歌」の213行目から222行目と同内容です。
 比較のために、下にその「青森挽歌」の213行目から222行目を掲げてみます。

おもては軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいつぱいだ
巻積雲のはらわたまで
月のあかりはしみわたり
それはあやしい蛍光板になつて
いよいよあやしい苹果の匂を発散し
なめらかにつめたい窓硝子さへ越えてくる
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき・・・・・・

 これを上の「青森挽歌 三」の5行目以降と比べていただくと、ほとんど一致することがわかると思います。
 さらに、『新校本全集』第二巻校異篇を見ると、「青森挽歌」の「詩集印刷用原稿」には、上の箇所に続いて、「あるひは青ぞらで溶け残るとき/かならず起る現象です」という字句が書かれていたのが、印刷する前に墨で削除されていますが、これは「青森挽歌 三」の15〜16行目ともほぼ一致するもので、両者の相似はいっそう深まります。
 また同じ校異篇によれば、「青森挽歌」の上に引用した箇所の直前、すなわち213行目の前には、もともと「三行アキ」の空白が挿入されていたということです。印刷された『春と修羅』にはこの「行アキ」はなく、212行目と213行目は切れ目なくつながっているのですが、印刷前の賢治の考えでは、212行目と213行目の間には、形式上の大きな「切れ目」があったのだろうと推測されます。

 さて、ここでまず私が考えてみたいのは、次のような事柄です。
 「青森挽歌 三」が残っているということは、もともとは「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」も存在したのだろうと推測されますし、またひょっとしたら「青森挽歌 四」やそれ以降が存在していた可能性も、否定できません。
 このような、「青森挽歌 一」・・・「青森挽歌 n」が、その後さらに推敲されるうちに、漢数字による区分が消失し、最終的に単一の「青森挽歌」になったと想定できると思いますが、そのもともとの「青森挽歌 一」・・・「青森挽歌 n」というのは、いったいどんな構成だったのでしょうか。

 最初に考えておきたいのは、「青森挽歌 n」というのが、いくつまで存在したのだろうかということですが、「青森挽歌 三」の最後の部分を見ると、次のように終わっています。

「太洋を見はらす巨きな家の中で
仰向けになって寝てゐたら
もしもしもしもしって云って
しきりに巡査が起してゐるんだ。」
その皺くちゃな寛い白服
ゆふべ一晩そんなあなたの電燈の下で
こしかけてやって来た高等学校の先生
青森へ着いたら
苹果をたべると云ふんですか。
海が藍テンに光ってゐる
いまごろまっ赤な苹果はありません。
爽やかな苹果青のその苹果なら
それはもうきっとできてるでせう。

 これを見ると、車窓からは「海」が見えているようですが、花巻発青森行き東北本線で、海が見えるのは陸奥湾しかありませんので、列車はかなり青森に近づいていることがわかります。また、「ゆふべ一晩」という言葉も、時刻がもう朝という言える時間帯になっていることを想像させますし、「青森へ着いたら/苹果をたべると云ふんですか」という言葉も、何となく列車が終点の青森駅に近づいているような雰囲気を漂わせます。
 すなわち、「青森挽歌 三」は、青森駅の手前近くで終わっているわけです。
 ここで推敲後の「青森挽歌」も、青森駅の手前で終わっていると推測されることと考え合わせると、「青森挽歌 三」の後に、「青森挽歌 四」やそれ以降が存在したとは考えにくく、この段階の草稿は、「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」「青森挽歌 三」という、三部構成になっていたのではないかと推測されます。

 となると、「青森挽歌 三」は、「青森挽歌」の「213行目から最後まで」という部分に相当すると、考えることができます。前述のように、もともと「青森挽歌」の印刷用原稿では、213行目の手前に「三行アキ」の空白があったということから、ここに形式的な切れ目があったと思われるからです。
 それでは、「青森挽歌 一」と「青森挽歌 二」は、「青森挽歌」ではそれぞれどの部分に対応するのでしょうか。

 これは、「青森挽歌」の212行目以前の部分を、意味内容の上で二つに区切るとすれば、どこで分けるべきか、という問題に置き換えることができるでしょうが、それの区切りは具体的には、どこに当たるでしょうか。
 以前に、「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事を書いたことがありますが、その時は「青森挽歌」の全体を、次の7つの部分に分けてみました。

I 現実世界からの導入・トシの死について考えることへの躊躇
II 死の認識の困難性
III トシの死の状況の具体的回想
IV 転生の可能性(鳥・天・地獄)
V トシの行方に執着することへの自戒
VI 車窓風景の展望と魔の声
VII 個別救済祈願の禁止

 具体的な区分については、元の記事をご参照いただくとして、今回論じている「青森挽歌 三」は、「青森挽歌」の213行目以降に相当するわけですから、上では VI と VII にあたります。
 そして、I から V までの部分を二つに分けるとすれば、II と III の間で区切るのが妥当だと考えます。I と II は、広い意味で作品全体の導入部にあたる箇所であり、ここで賢治は、トシの死について考えることを躊躇したり、死そのものをとらえることの困難性について記しています。「ギルちゃん」や「ナーガラ」が出てくる部分にも、幼い者が「死」という現実をうまく理解できない様子が、童話的に表現されています。
 これに対して、III・IV・V の部分で、賢治はトシの死の状況を具体的に回想することを通して、その死後の行方について、執拗なまでに考察を展開しています。そもそもこれこそが、「青森挽歌」の中心的な主題でした。

 すなわち、「青森挽歌」の先駆形として、「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」「青森挽歌 三」が存在したとすれば、大まかには「青森挽歌」の1〜85行目が「青森挽歌 一」に、86〜212行目が「青森挽歌 二」に、213行目〜252行目が「青森挽歌 三」に、それぞれ相当すると考えられるのではないでしょうか。

2.「青森挽歌 三」の内容

 「青森挽歌」の213行目以降の主な内容は、トシの行方について考え疲れた賢治が車窓の月を眺めていると、トシの死相について揶揄する「魔」のような存在の声が聴こえ、さらには最後に、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示がもたらされる、というものでした。
 これに対して、「青森挽歌 三」の主な内容となっているのは、「トシの似姿」を見る話です。

 まず賢治には、同じ車両で眠っている乗客の一人が、まるでトシのように見えます。

その右側の中ごろの席
青ざめたあけ方の孔雀のはね
やはらかな草いろの夢をくわらすのは
とし子、おまへのやうに見える。

 次には、父親が出張中に、「まるっきり同じわらす」を見た話です。

「まるっきり肖たものもあるもんだ、
法隆寺の停車場で
すれちがふ汽車の中に
まるっきり同じわらすさ。」
父がいつかの朝さう云ってゐた。

 花巻から遠く古都奈良の、「すれちがふ汽車」の中に子供時代の娘を見るというのは、父親にとって何という切ない体験でしょう。いくら手を伸ばしても届かないという現実が、象徴されているかのようです。

 そして三つめには、トシが亡くなった翌月に、賢治自身がトシの似姿を見た体験が回想されます。

そして私だってさうだ
あいつが死んだ次の十二月に
酵母のやうなこまかな雪
はげしいはげしい吹雪の中を
私は学校から坂を走って降りて来た。
まっ白になった柳沢洋服店のガラスの前
その藍いろの夕方の雪のけむりの中で
黒いマントの女の人に遭った。
帽巾に目はかくれ
白い顎ときれいな歯
私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。
( それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)
私は危なく叫んだのだ。
(何だ、うな、死んだなんて
いゝ位のごと云って
今ごろ此処ら歩てるな。)
又たしかに私はさう叫んだにちがひない。
たゞあんな烈しい吹雪の中だから
その声は風にとられ
私は風の中に分散してかけた。

 ここには、まだトシが死んだと信じ切れない賢治の、悲痛な思いが刻まれています。

 さてこのような、ふと故人の似姿を見て、たとえ一瞬だけにせよ、本当に「あの人」だと思ってしまうという現象は、その人のことをまだ現実世界の中に、無意識のうちに「探しつづけている」からこそ、起こるものです。
 この賢治のサハリンへの旅行は全体として、死んだ人を無意識のうちに探そうとしてしまう「探索行動」として理解することができると、以前から私は思っているのですが(「「探索行動」としてのサハリン行」参照)、ここにも「探索」の一端が、顔をのぞかせているわけです。

 ところで、最初に引用した「同じ車両の乗客」が、「やはらかな草いろの夢をくわらす」と書いてある言葉の意味が、ちょっとわかりません。「夢をくわらす」というのは、いったいどういうことでしょうか。
 「くわらす」という言葉は、『精選版 日本国語大辞典』にも載っていませんし、もちろん「喰らわす」では、意味が通りません。
「夢をくゆらす」 私がちょっと思うのは、これは「くゆらす」のことなのではないか、ということです。「くゆらす」を辞書で引くと、「(煙や匂いなどを)立ちのぼらせる」とあり、「夢をくゆらす」というのも、右図のような感じで、比喩として理解できなくはありません。
 また、ひらがなの「ゆ」と「わ」というのは、書き方によっては形が似ています。

 まあ、これについては確かなところはわかりませんが、賢治はしきりに苹果のことを考えながら、汽車は青森駅に近づいて行きます。

3.《願以此功徳 普及於一切》

 以上のように、「青森挽歌 三」と、「青森挽歌」の213行目以降の内容は、大きく異なるわけですが、何と言っても「青森挽歌」の終結部には、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示が現れるのに、「青森挽歌 三」にはそういった話が全く出てこないところが、最も大きな違いです。この啓示が、後には賢治の亡妹トシに対する態度を大きく規定することになることを思うと、この相違点は重大です。

 では、「青森挽歌 三」の方には、この《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》に類した発想が全く含まれていなかったのかというと、その最終形を見るかぎりではそのようなものは見当たりませんが、推敲過程を見ると、注目すべき箇所があります。
 すなわち、『新校本全集』第二巻校異篇p.199には、「青森挽歌 三」の本文6行目の次に、当初は《 願此功徳 普及於一切》という字句が「三字下ゲ」で書かれていたのが、その後削除されたということが、記されています。
 つまり、当初は「青森挽歌 三」の冒頭部は、次のようになっていたのです。

   青森挽歌 三

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。
それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
   《 願以此功徳 普及於一切》
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。

 「青森挽歌」の213行目以降では、「魔」の嘲笑的な言葉も、例の重要な啓示も、《二重括弧》で括られて記されていましたが、「青森挽歌 三」の最終本文には、二重括弧は使われていませんでした。しかし実は、この《願以此功徳 普及於一切》に、用いられていたのです。
 この言葉は、いったいどういう意味なのでしょうか。

 調べてみると、「願以此功徳 普及於一切」とは、法華経の「化城喩品第七」に出てくる「偈」の一節で、その前後とともに引用すると、次のようになっています。

我等諸宮殿 蒙光故厳飾
今以奉世尊 唯垂哀納受
願以此功徳 普及於一切
我等與衆生 皆共成佛道

(書き下し)
われ等の諸の宮殿は、光を蒙るが故に厳に飾られたり。
今、もって世尊に奉る 唯、哀を垂れて納受したまえ。
願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし
われ等と衆生と 皆、共に仏道を成ぜん。
            (岩波文庫『法華経』中巻p.52)

 これは、「五百万億の諸々の梵天王」が、世尊を讃えて荘厳な宮殿を献上し、その功徳をあまねく一切に及ぼすことによって、我ら梵天王と衆生がともに成仏できるようにと、願う場面です。

 その中の一節が、なぜトシの死を思う「青森挽歌 三」に登場するのか、ということが問題ですが、実はこの「願以此功徳 普及於一切/我等與衆生 皆共成佛道」という言葉は、日蓮宗に限らずさまざまな宗派で「法要」を行う際に、その最後に唱えられ、「回向文」と呼ばれるものなのです。
 下の動画は、真言宗の在家用仏前勤行次第だということですが、クリックしていただければ、「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、われ等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」との言葉を聞くことができます。

 一般に「法要」というのは、故人の縁者たちが集まって、故人の冥福のために、お経を上げ、仏を礼拝し、お布施をする等の、仏教的な善行を成すことです。このような行為そのものを実施するのは生きている人々ですが、それによって得られる「功徳」を、自分たちだけでなく死者にも振り向ける(回向する)ことによって、故人の次生での幸福を、助けようとしているわけです。
 そしてさらに、自分たちの縁者だけでなく全ての生き物の救済を目ざすのが大乗仏教ですから、その法要による功徳も自分たちだけに限定せず、広く回向して「普く一切に及ぼし」、「われ等と衆生と 皆、共に仏道を成ぜん」ために唱えるのが、この回向文なのです。

 ここにおいて、この回向文の趣旨と、賢治のトシに対する思いや行動とのつながりが、明らかになってきます。
 すなわち、賢治が青森へ向かう夜行列車の中で、トシのことをずっと考えつづけたのは「法要」ではありませんが、しかし賢治はこの時トシの次生における幸せを心から願い、きっと「南無妙法蓮華経」の題目も、何度となく唱えたことでしょう。その功徳によって、賢治はトシの冥福を祈ったわけです。
 しかし、大乗仏教を信仰する賢治としては、トシのことばかりを祈ることでこれを済ますわけにはいきません。あるいは賢治には、ここまで自分が延々とトシという一人の肉親のことばかり考えつづけてきたことに対して、何らかの後ろめたさがあったのかもしれません。
 ともかくも賢治にとっては、自らが青森に向かう列車の中でトシに向けた功徳を、あらためて「全ての衆生」に回向するために、《願以此功徳 普及於一切》という祈りが、ここにどうしても必要だったのです。

 つまり、トシに限らず「すべてのいきもののほんたうの幸福」を願うという目的において、「青森挽歌 三」におけるこの《願以此功徳 普及於一切》は、「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉と、まさにつながっているものなのです。
 しかしその内容を見ると、前者では「トシのことを祈った上でそれを衆生に回向する」という形になっているのに対し、後者においては「けつしてひとりをいのつてはいけない」として、そもそも「一人を祈る」こと自体が禁止されているという点において、大きな違いがあります。

 「青森挽歌 三」にいったん書かれていた《願以此功徳 普及於一切》という一節が、その推敲過程において消去されてしまった理由はわかりませんが、想像するに、賢治が本当はトシのことを強く祈りながら、最後に取って付けたように《願以此功徳 普及於一切》の一節を追加することで、自分は全ての衆生のことを思っているのだと正当化するというやり方を、「偽善的」と感じて許せなくなったのではないかと思ったりもします。

 いずれにしても、賢治は最終的に「青森挽歌」において、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という制約を自らに課すことによって、厳しい未知の領域へと、大きな一歩を踏み出したのです。

 しかし、この「青森挽歌 三」が、「丸善特製 二」というかなり最終段階に近い草稿用紙に書かれたものであり、そこにいったんは上記のような意味合いの《願以此功徳 普及於一切》という言葉があったということの深い意味は、あらためて心に留めておく必要があるかと思います。
 私はこれまで何となく、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な思想を賢治が抱くに至ったのは、サハリン旅行中のことだったようにばくぜんと思っていたのですが、それは大きな間違いでした。
 実際に彼がこういう考えを持つようになったのは、おそらく旅行から帰ってからも苦悩をつづけた後のことで、彼が詩集『春と修羅』のために清書を開始してからもかなり経った時期のことだったということを、きちんと押さえておく必要があると感じました。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について
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