2017年1月 4日 賢治は三浦参玄洞とは会わなかった

 「賢治生誕120周年」の2016年が終わりましたが、今年は「中外日報創刊120周年」にあたるのだそうです。

 『中外日報』は、真渓涙骨が1887年(明治20年)に京都で『教学報知』として創刊した仏教関係の新聞で、1902年(明治35年)に『中外日報』と改題して、現在も「宗教・文化の新聞」として継続されています。「近代日本の宗教ジャーナリズムの礎を築いた」と評されるこの新聞は、宮澤賢治よりも1歳年下だったわけですね。
 さらに、われわれ賢治ファンにとってこの新聞は、賢治の父・政次郎が購読していたことによって、賢治の目にもしばしば触れていたであろうことが推測される上に、1921年(大正10年)4月の父と二人の関西旅行の際には、二人で京都の本社を訪れたことが、父の回想によって記録されています。
 この京都における父子の中外日報社訪問については、以前に「「中外日報社」のあった場所」と「「中外日報社」旧社屋は現存していた!」という記事に書いたことがあり、私にとっても印象深いものがあります。
 そもそも、生前の賢治が確かに見ていた建物が、それなりの改修はされているにせよ当時のままの外形で現在も残っているなどというのは、花巻では「旧菊池邸」や「旧稗貫郡役所」(大迫に移設)、盛岡では「旧盛岡高等農林学校本館」や「岩手銀行」、奥州市の「旧水沢緯度観測所」、東京の「旧帝国図書館」など、全国的にもごく限られているのです。その一つが、なんと岩手から遠く離れた京都にもあったというのですから、それを知った時の喜びは、私にとっては格別でした。
 ちなみに、この「旧中外日報社屋」の状況は、私が上の記事を書いた後にもさらに変化して、現在は建物の前の庭がコインパーキングになってしまって、建物そのものは逆に正面からは見えやすくなっています。しかし、以前の記事をご覧いただいたらわかるように、この前庭もなかなか魅力的なものでしたから、これが消失したのは寂しいことです。
 下の写真が現在の状況で、Googleマップのストリートビューからキャプチャしたものです。

旧中外日報社屋
Googleマップより

 それはさておき、元日付で発行された『中外日報』の新春特別号では、創刊120周年を記念して、「中外日報を彩った文化人」という特集が掲載されていました。ここでは、「新村出と真渓涙骨」、「藤本義一と今東光」、「小笠原登と小笠原秀実」、「司馬遼太郎と青木幸次郎」というコンビとともに、「宮沢賢治と三浦参玄洞」が取り上げられているのです。

 三浦参玄洞は、1884年(明治17年)に奈良県宇陀郡政始村(現・宇陀市)の農家に生まれ、早稲田大学や仏教大学(現・龍谷大学)に学ぶも中途退学し、得度を受けて奈良県南葛城郡掖上村(現・御所市)の誓願寺の住職となりました。三浦は当初から、差別の問題に強い関心を持って運動にも拘わっていましたが、1922年(大正11年)の「全国水平社」設立にあたっては、その中心メンバーの一人だった西光万吉を、強力に支援しました。
 しかし、小作争議で小作人の側に立ち地主の檀家総代と対立したことを契機に、三浦は「出寺」(還俗)して大阪に移り、『中外日報』の記者・主筆として、仏教界や社会問題に対し鋭い筆を揮うようになります。

 この三浦参玄洞が、1935年(昭和10年)1月の『中外日報』に、「第四次元世界への憧憬」と題して、賢治を紹介・顕彰する文章を4日間にわたって連載し、さらに同年3月には「岩手の天才、第二の啄木、宮沢賢治の詩」と題する文章を3日間連載しているのです。
 彼の賢治に対する讃辞は最大級のもので、たとえば次のような文章に表れています。

とにかく此第三巻(引用者注:文圃堂版『宮沢賢治全集』第三巻)に集められた多数の童話を通じて宮澤氏のいかに「人間」を眺め「社会」を考へたかは――それをいま紹介しようとするわたしの胸に不思議なときめきを与へるくらゐ――ずば抜けて高次的なのである。(「第四次元世界への憧憬」1935)

 にも拘わらず、わたしはこの詩や童話から離れる気にはどうしてもなれないのはどういふものかと、そこには確かに他人にはない別な世界からきたにほひが漂ふてゐるからであらう。すなはち第四次元の世界に直接して居られた宮澤さんの特異な人格がわたしを引張りよせて下さるのであらう。ともかくわたしはまだ多くの人々が知らない宮澤さんを、割合にはやく知り得たことを、読み書きして活きる果報の中のいちばん尊いものだと感謝してゐる。(「宮澤さんからうける香ひ」1939)

 宮澤賢治に対して強い執心を抱いてゐるわたしは、彼が三十八年の息を引取るまで何をいつたか、何をこの地上に残しておかうとしたかを知るべくこの数年間彼の作品に親しみつづけて来た。(「善意の探求(手記)」1941)

 この三浦参玄洞が、賢治の父の政次郎氏と文通を行っていたということは、参玄洞自身が書いています。

 これは過日宮澤さんの御父さんに差上げた手紙の中でも申上げたことであるが、今回、草野心平氏の御骨折りで出版された「宮澤賢治研究」を読み行くうち、わたしは佐藤勝治氏の「くわご」に至つて涙とめどもなく落ちて傍人(私は電車以外あまり多く読書の時間を持たぬ)に隠すのに困つたくらゐであつた。(「宮澤さんからうける香ひ」1939)

 となると、最初に触れたように父と賢治の関西旅行の折りに、「叡福寺への道順を尋ねる」という目的のために、わざわざ中外日報社を訪問した背景には、政次郎氏にとって中外日報社には誰か知人がいたのではないか、それはひょっとして三浦参玄洞ではなかったろうかという推測を、どうしてもしたくなってしまうのです。(たんに「寺への道順を尋ねる」だけなら、回り道をして新聞社を訪ねなくても、途中のどこかの駅で聞くなど、他にいくらでも時間を節約する方法はあります。)

 それに、『「雨ニモマケズ」の根本思想』(龍門寺文蔵著, 大蔵出版)という本の冒頭は、次のように始まっています。

賢治と『中外日報』社
 宮沢賢治が京都の宗教新聞『中外日報』社を訪ねたのは大正十年四月上旬のことである。この年は比叡山伝教大師第一千一百年遠忌が、三月十六日から四月四日まで行われた。東塔根本中堂の前で賢治は、
   ねがはくは妙法如来正遍知
      大師のみ旨成らしめたまへ
と詠み、その日は日暮れて京都三条橋畔に投宿。翌日、厳父政治郎(ママ)と賢治の二人は七条大橋東詰下ルの中外日報社を訪ねている。
 賢治の父、政治郎(ママ)は『中外日報』の愛読者であり、主筆の三浦参玄洞(大我)と面会した。二十五歳の賢治は紺カスリの羽織ハカマ姿で初対面の挨拶をした。
 三浦参玄洞は、後に熱心な賢治ファンになり、「関西宮沢賢治友の会」をつくった。昭和十年一月五日から八日まで、同氏が『中外日報』に連載した「第四次元世界への憧憬」は、賢治文学を紹介した名文で、彼は関西における最古の賢治礼賛者として有名である。
 『雨ニモマケズ手帳研究』『雨ニモマケズ手帳新考』の著者、小倉豊文は、『中外』紙上に三浦参玄洞の紹介する賢治に深く感動して、一生を捧げて賢治研究に没頭したのだから、賢治と中外日報社の縁は深い。

 ここには、三浦参玄洞に対して「二十五歳の賢治は紺カスリの羽織ハカマ姿で初対面の挨拶をした」と、見てきたような具体的な様子が書いてありますので、賢治がこの時三浦参玄洞に会っていたという根拠が、何か実際にあるのだろうかと思ってしまいます。

 しかし、今回の『中外日報』120周年記念新春特別企画の「宮沢賢治と三浦参玄洞」を見ますと、三浦参玄洞が『中外日報』入社は1921年(大正10年)6月で、同年4月に賢治父子が訪問した時にはまだ入社していなかったのだということです。それに、上にも引用した「善意の探求(手記)」をあらためて確認すると、次のような一節があります。

しかし考へることは考へてみても生前彼と一回も会うたことのないわたしには、どうも作品だけでは真実彼が考へたところを的確につきとめることの困難にしばしば直面してゐる。

 ということで、三浦参玄洞自身が、「生前彼と一回も会うたことのないわたし」と書いているのです。もちろん、賢治父子の『中外日報』社訪問の時点では、賢治は無名の青年ですから、たとえ参玄洞が会っていても、その時の記憶と、後年の読書から知った「宮澤賢治」がつながらなかったということは、可能性としてはありえます。しかしもしそうだったとしても、後に父政次郎と参玄洞は手紙のやり取りをしていたわけですから、その中でそのつながりは判明したはずです。

 ということで、やはり生前の賢治と三浦参玄洞が顔を会わることはなかったのだと考えておくべきでしょう。
 下の画像は、今回の『中外日報』120周年記念新春特別企画「宮沢賢治と三浦参玄洞」の一部で、やはり「父子と接した可能性は低い」と記してある部分です。私も、以前に『中外日報』社の社屋について触れていた上記の記事のご縁で、今回の企画に際しては、同社の記者さんとお話をする機会があったのでした。

『中外日報』2017年新春特別号より
『中外日報』2017年新春特別号より

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2016年12月30日 まがつたてつぽうだまのやうに

 「永訣の朝」は、次のように始まります。

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)

 ここに出てくる「まがつたてつぽうだまのやうに」とはどういう意味か、という問題は、国語の教科書にこの詩が載っている場合には、しばしば授業で取り上げられるようで、「Yahoo!知恵袋」などネット上の質問サイトでも、定番の質問の一つのようです。
 石黒秀昭氏による感動的な授業、『宮澤賢治「永訣の朝」の授業 トシへの約束』(幻冬舎)では、この部分については次のように教師と生徒の会話が進行します。

教師  家の構造を想像して。〈簡単な図を書く〉

生徒  賢治は急いではいるものの、まっすぐに飛び出すわけに
    はいかない。廊下や部屋の角を曲がって飛び出して行っ
    たはずだ。だから、「まがつた」と表現したんだ。

教師  そうです。部屋や廊下には壁がありますから、直線で外
    には飛び出せない。急ぎながらもぶつからないように曲が
    って飛び出したのでしょう。軌道が曲がっている。そのよう
    に読めます。
     いかに賢治が急いでいたのか。それがこの比喩で表現
    されています。

宮澤賢治 『永訣の朝』の授業 トシへの約束 宮澤賢治 『永訣の朝』の授業 トシへの約束
石黒 秀昭

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 つまり、「まがつたてつぽうだまのやうに」とは、発射された「鉄砲玉」の軌道が、「曲がっている」ということを表しているのだというわけですね。

 しかし、落ち着いて考えてみると、これは結構わかりにくい比喩です。先入観を取り払って、虚心に思いをめぐらせれば、この表現の解釈としては、少なくとも次の三つがありえるでしょう。

(1) 鉄砲玉そのものが曲がっている
 これは、図示すると、下のような状態ですね。

「まがつたてつぽうだまのやうに」(1)

 「まがつたてつぽうだま」とあるのですから、字句どおり最も素直に解釈すると、こうなるのではないでしょうか。
 しかし、このように銃弾が曲がっていたら、それを鉄砲に込めることはできませんし、すると当然発射も無理ですから、この解釈は現実的ではありません。

(2) 発射後の銃弾の軌道が曲がっている
 これも図示すると、下のようになります。

「まがつたてつぽうだまのやうに」(2)

 これも、現実にはなかなかありそうにもない状態です。ただ、銃弾の速度がいくら速いと言っても、重力の影響で軌道は非常に平坦に近い放物線を描きますから、厳密には「曲がって」いるのは事実です。
 しかし、上記の「永訣の朝」の解釈で言われているように、賢治が「廊下や部屋の角を曲がって飛び出して行った」様子の比喩となるような、かくっかくっと折れ曲がるような軌道を銃弾が描くということは、やはり現実にはありえません。
 ご存じのように、銃身の内側には「施条」あるいは「腔綫」と呼ばれる螺旋状の溝が刻まれていて、発射された弾丸は旋回運動をしながら進むため、ジャイロ効果のおかげで、軌道がカーブすることはほぼ皆無なのです。
 しかし、「まがつたてつぽうだまのやうに」の国語授業的な解釈としては、これが「正解」ということになるのだろうと、長らく私は思っていました。

(3) 銃身が曲がっている
 これは、最近になってある動画を見てから考えるようになったのですが、図示すると下のようになります。

 「まがつたてつぽうだまのやうに」(3)

 つまり、「まがつたてつぽう」です(笑)。
 実際にこんな銃があったら、発射した瞬間に銃身が破裂してしまいそうな気がして、これもまた現実的な解釈とは言えないと私は思っていたのですが、最近たまたま下のような動画を目にしました。

 2か所で直角に曲がった鉄パイプの中に打ち込んだ弾丸が、ちゃんと反対の端から出てくるのかという実験をしているところです。2分10秒すぎから実際に発射されますが、弾丸はちゃんと鉄パイプの反対側から出てきて、牛乳の入った容器を貫くんですね。
 これをきっかけに調べてみると、歴史的には「曲射銃」というものがあって、物陰などから敵を撃つために、銃身が最初から90度曲げられた銃などが作られていたのだそうです。たとえば、こちらのツイートをご参照下さい。ガスの制御が難しく、銃身の摩耗が激しいなどの難点があるため、現代ではもう作られなくなったそうですが、第二次大戦中にドイツ軍は実戦でも使用していたということです。

 すなわち、上の三つの解釈のうちで、唯一現実的なのは、意外なことに (3) なのです。

 そう思ってあらためて考えてみると、トシの言葉(あめゆじゆとてちてけんじや)を聞いた賢治が「廊下や部屋の角を曲がって飛び出して行った」際に、賢治という「鉄砲玉」が通った廊下も部屋も、実はまだ鉄砲の「銃身の中」であり、屋外に出た瞬間に、この弾は「発射」されたのだと想定することができます。
 つまり、鉄砲の「銃身が曲がっていた」と考えるのが、最も現実的であり、また意味内容としても妥当に思えてくるのです。

 とは言え、賢治自身もこう考えて「まがつたてつぽうだまのやうに」という比喩を用いたのだ、などと主張するつもりは、毛頭ありません(笑)。

 年の瀬の慌ただしい時期に、恐縮でした。

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2016年12月25日 佐藤泰平さんにお聞きしたこと

 一昨日に行われた、宮沢賢治学会地方セミナーin神戸「宮沢賢治と音楽」は、素晴らしい会場にたくさんの方々にお越しいただいて、印象に残る催しとなりました。
 下の写真はリハーサル時のものですが、プログラムの最後ではこの見事なパイプオルガンで、映画「風の又三郎」のテーマ音楽や、「星めぐりの歌」が演奏されました。何メートルもある巨大なパイプが「どっどど どどうど・・・」と振動する様子は、まさにこれは「風の楽器」であることを実感させてくれました。

甲南女子大学芦原講堂のパイプオルガン

 私にとって今回のイベントは、長年『新校本宮澤賢治全集』の歌曲の部分の校訂や、著書『宮沢賢治の音楽』によってその研究成果を学ばせていただいた、佐藤泰平さんに直接お会いしてお話をうかがうことができたことが、何よりも嬉しいことでした。
 個人的に、『新校本全集』の歌曲の校訂に関して疑問に思っていた点がいくつかありましたので、セミナー終了後の懇親会の際に、佐藤さんに質問をさせていtだきました。
 以下、そのご報告です。

【質問1】
 『新校本全集』における歌曲「〔私は五聯隊の古参の軍曹〕」の歌詞は、『十字屋版全集別巻』巻末に付された「全集第六巻並に別巻解説」(森惣一)に、「当時の生徒」の証言として掲載されていた内容に基づいて、下記のようにされている。

一、私は五聯隊の古参の軍曹
   六月の九日に演習から帰り
   班中を整理して眠りました
   そのおしまひのあたりで夢を見ました。

二、大将の勲章を部下が食ふなんて
   割合に適格なことでもありませんが
   まる二日食事を取らなかったので
   恐らくはこの変てこな夢をみたのです。

 一方その旋律は、当時の流行歌「チッペラリー」を忠実に反映した下記のようなもので、これに従うと歌詞の「一番」と「二番」の旋律は別のものになる。
tippe[1].gif

 しかし、賢治が「飢餓陣営」を上演した際には、「一番」も「二番」も上の楽譜で言えば5段目の"CHORUS"と書かれている以降の部分の旋律で歌っていたと推測するのが、妥当ではないか?

 私が上のように推測した理由の一つは、一般的に歌の「一番」と「二番」とは、同じ旋律で歌うものであり、賢治の他の歌曲でも、「一」「二」と番号が付いているものはそうなっているという、ごく当たり前のことでした。
 そして、そのもう一つの理由は、賢治の教え子の小原忠の証言です。小原は、「この歌(チッペラリー)は大正十二年、賢治が英語で教えて全校で歌われた。初めの方だけうろ覚えで云うと、イッチヤロングウェーチッペラリーイッチャロングウェーツーゴー・・・」と回想しているのですが(佐藤泰平『宮沢賢治の音楽』p.84)、この英語の歌詞に対応するのはやはり上の楽譜の"CHORUS"以降の部分なのです。その部分を、小原が「初めの方」と呼んでいるということは、それ以前の部分、すなわち上の楽譜で第1段から第4段の旋律や歌詞は、賢治は生徒に教えなかったのではないか、と考えられるのです。
 この"CHORUS"以降の旋律、いわゆる「サビ」の部分で、「一番」「二番」の両方を歌うこともできることは、佐藤さんご自身も『新校本全集』の校異篇に、「一般には曲の後半がよく知られているので、後半のふしだけを用いて一・二節を歌うのも可能である。」と述べておられることで、佐藤さんも想定済みのことです。
 私のこの質問に対する 佐藤さんのお答えは、「確かにそのとおりだと思う、でも一番と二番を別の旋律にした方が面白い」というものでした。
 実際、上の楽譜で歌った方が、歌としては面白いのは確かです。しかし、全集の校訂方針としては、「面白さ」よりも「賢治がどう歌っていたか」ということを優先すべきと思いますので、私としては「後半のふしだけを用いて一・二節を歌う」方を取りたいと考えています。
 ちなみに、当サイトの「歌曲の部屋」に載せている「〔私は五聯隊の古参の軍曹〕」の旋律は、佐藤さんによる『新校本全集』の楽譜どおりにしていますが、今回の神戸セミナーにおいて、「後半のふしだけを用いて一・二節を歌う」という演奏をご紹介しました。下記をクリックして、聴き比べてみて下さい。

新校本全集版「〔私は五聯隊の古参の軍曹〕」

神戸版「〔私は五聯隊の古参の軍曹〕」

【質問2】
「飢餓陣営」より 『新校本全集』において「「飢餓陣営」の歌(五)」には、「〔いさをかゞやく バナナ 軍〕」という形で、作者が題名を付けていない場合の扱いとして「作品一行目を〔 〕で括った仮の題」が付けられているが、「飢餓陣営」のテキストにはこの歌詞の前に、「バナナ大将の行進歌」として「題名」と思われる言葉が記入されているので、この「バナナ大将の行進歌」を、歌曲の題名とするべきではないか?

 右の画像は、『新校本宮澤賢治全集』第十二巻本文篇から、「飢餓陣営」の終わりの方の部分です。合唱が「いさをかゞやく バナナ軍…」と歌い出す前に、「バナナ大将の行進歌」という言葉があるのです。
 これに対する佐藤泰平さんのお答えは、「そのとおり、この歌曲の題名は、「バナナ大将の行進歌」とするのがよいだろう」、ということでした。

【質問3】
 『新校本全集』には、全く同じ旋律による「〔つめくさの花の 咲く晩に〕」と、「〔つめくさのはなの 終わる夜は〕」という2曲が別の歌曲として掲載されているが、これらは全体として一つの歌曲と考え、前者が「一番」「二番」、後者が「三番」「四番」ととらえるべきではないか?

 これに対する佐藤さんのお答えは、「それでよいと思うが、『校本全集』までの全集では、「〔つめくさのはなの 終わる夜は〕」の方は見落とされていて収録されていなかったので、あえて別項を立てた」ということでした。
 この2曲を1曲にまとめてしまうと、賢治の歌曲の総数は、『新校本全集』における27曲から1曲減って「26曲」ということになります。何か少し寂しい感じもしますが、内容的には何も減るわけではありません。

【質問4】
 「剣舞の歌」と「大菩薩峠の歌」は、『新校本全集』には「宮沢賢治・作詞作曲」と記されているが、『昭和四二年版全集』の第十二巻の「後記」には、「「大菩薩峠を読みて」と「剣舞の歌」の二つは、この地方に伝わっている古い郷土芸能の旋律に賢治が詞をつけて自己流に口ずさんだものを、各々藤原嘉藤治と宮沢清六が口唱したものである」と記されているので(『新校本全集』第六巻校異篇p.229)、現時点では「原曲未詳」または「作曲者未詳」としておく方が適切ではないか?

 『昭和四二年版全集』の言う「この地方に伝わっている古い郷土芸能の旋律」については、佐藤さんご自身も調査をされた結果、「私が調べた範囲で賢治のふし全体と似ているものはなかった」(『宮沢賢治の音楽』p.34)と記しておられます。したがって、本当に「剣舞の歌」と「大菩薩峠の歌」が郷土芸能の旋律に基づいているのかどうか、確定はできませんし、「宮沢賢治作曲」であるという可能性も、まだ否定できるものではありません。
 しかし、上のように「宮沢賢治作曲ではない」とする説も存在する以上、現時点では「宮沢賢治作曲」とは断定せず、「原曲未詳」または「作曲者未詳」としておく方がよいのではないかと、私としては考えた次第です。
 この質問に対する佐藤さんのお答えは、「それでよいと思います」とのことでした。
 ちなみに『新校本全集』では、「〔飢餓陣営のたそがれの中〕」は(原曲 未詳)とされ、「青い槍の葉」は(作曲者 未詳)とされています。

【質問5】
 ある歌曲が「替え歌」である場合、その楽譜を作成する上では、替え歌の「原曲」にできるだけ忠実であるのと、それとも賢治の周囲の人々の「口唱」をできるだけ忠実に再現するのと、どちらが望ましいか?

 これは、かなり以前に「「【新】校本全集」の歌曲の校訂について」という記事に書いた問題です。
 一般に、賢治が何かの原曲をもとに「替え歌」を作って歌っていたとすると、
   (1)原曲
      ↓
   (2)賢治による作詞と口唱
      ↓
   (3)周囲の人も一緒に口唱
というプロセスになるでしょう。
 賢治はほとんど楽譜を残していませんでしたから、賢治によるその「替え歌」がどんな歌だったのかということを、賢治の死後に究明しようとすると、(1)の原曲の旋律に歌詞を当てはめて再現しようとするか、(3)の「周囲の人」の口唱を採譜するか、どちらかの方法を取ることになります。
 『校本全集』までの従来の全集では、(3)に基づいて関係者の口唱を採譜する方法がとられていましたが、『新校本全集』では佐藤さんによって(1)の原曲を重視する方針に変更され、これによってかなりの曲の楽譜が、それまでとは変わりました。たとえば、「〔つめくさの花の 咲く晩に〕」(『校本全集』までの題名は「ポランの広場」)などは、最も大幅に変わった結果、ちょっと聴くと別の曲かと思うほどになりました。
 この問題について、私としては『校本全集』までの方針の方が妥当ではないかと考え、そのことを「「【新】校本全集」の歌曲の校訂について」にも書いていたのですが、これを佐藤さんに直接お聞きしてみたかったのです。
 結果としては、時間もあまりなかったのと、私の説明も拙かったために、きちんとかみ合った質問と回答という形にはなりませんでした。
 ただ、「ポランの広場」の原曲である"In the good old summer time"は3拍子であるのに、『校本全集』までの「ポランの広場」は2拍子になっていることについて、佐藤さんは「当時の日本人は3拍子にあまり馴染みがなかったので、2拍子になってしまったのだろう」とおっしゃっていました。
 また、では実際に賢治自身や劇を演じた生徒は3拍子か2拍子かどちらで歌っていたんでしょう、という私の質問に対しては、「時によって2拍子だったり3拍子だったりしたのではないか」とおっしゃったのが印象的でした。
 思えば「花巻農学校精神歌」も、沢里武治の記憶に基づくという8分の6拍子の楽譜と、藤原嘉藤治の採譜によるという4分の4拍子の楽譜の2種が残されており、時によって別の歌われ方をしていたと推測されるのです。

 慌ただしい中で、以上のような会話をさせていただいたのですが、不躾にたくさんの質問を浴びせかけてしまった私に対して、終始優しく丁寧にお答え下さった佐藤泰平さんに、あらためて感謝申し上げます。

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2016年12月18日 賢治セミナー「宮沢賢治と音楽」まであと5日

 来たる12月23日(金・祝)に神戸市の甲南女子大学で開かれる、「宮沢賢治学会地方セミナーin神戸『宮沢賢治と音楽』」まで、あと5日になりました。

宮沢賢治学会地方セミナーin神戸「宮沢賢治と音楽」

 会場は、見事なパイプオルガンもあって1,800名も入る大きな講堂で、まだ甲南女子大学のサイトでは参加の受付を行っていますので、ご興味のおありの方は、ぜひお越し下さい。
 当日のプログラムでは、『新校本宮澤賢治全集』の「歌曲」の項目を監修された佐藤泰平さんのご講演と、「西日本一」とも言われるパイプオルガンの響きが、何と言っても聞きものだと思います。

 私も今月に入ってからは、もっぱらこの準備の方をやっていて、こちらのブログの更新がほとんどできずに心苦しい思いをしていましたが、やっと当日のスライドがだいたいできてきたところです。

 下に、そのスライドの中の1枚と、当日用に少し演奏を変えた「ポラーノの広場のうた」を、ご紹介しておきます。スライドの画像をクリックすると、歌が再生されます。
 会場のものにはとても及びませんが、二番はパイプオルガンの伴奏にしてみました。

「ポラーノの広場のうた」

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2016年12月 4日 賢治と現代日本の死生観

 以前に「千の風になって」という記事において、賢治がトシとの死別の苦悩から救われていったのは、1924年7月頃になって、「死んだトシの存在を身近に感じられる」という心境に至ったことによるのではないか、ということを書いてみました。
 この記事では、当時の賢治が到達した心境が、現代日本の死生観にも共通するものがあるという例として、ひと頃流行した「千の風になって」という歌の歌詞や、哲学者の森岡正博氏が東日本大震災後に書いた「私たちと生き続けていくいのち」という文章を引用しました。森岡氏の文章の一部を再び引用させていただくと、「死者」についての氏の考えは、下の部分に最も象徴されています。

 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。

 この中で、死者が「私たちの外側にもリアルに生き続ける」というところが、何より特徴的で印象的です。「死者が生き続ける」という表現が、単なる「比喩」ではないということを明らかにするために、わざわざ「リアルに」という言葉が用いられていますが、同じような事柄を、死者の側から歌っているのが、「千の風になって」だったわけです。

 最近、さまざまな形でこのような死生観――死者がこの世で私たちと一緒にいるという意識――に触れることが多いように感じるのですが、とりわけ現代の葬送儀礼の変化に、それは典型的に表れていると思います。

 日本では、江戸時代に幕府によって「檀家制度」が整えられて以来、葬式はそれぞれの「家」が所属する「檀那寺」が執り行い、遺骨は定まった墓地に埋葬するという方式が、昭和の時代までほぼ一貫していました。しかし最近になって、そのような枠組みにとらわれないさまざまな形の葬儀や遺骨の扱いが、行われるようになっています。

 たとえば、「手元供養」という方法は、遺骨(遺灰)の一部または全部を墓に納骨せずに遺族が手元にとどめ置いて、亡き人を偲ぶよすがにするというもので、納骨容器に入れて自宅の居間や仏間に安置するという方法もあれば、遺骨を入れたペンダントや、遺骨の一部を七宝焼きのように焼成したアクセサリーを身につけるというものもあります。たとえば「おこつ供養舎」という会社の「手元供養品」というページを見ていただくと、さまざまな種類の「遺骨アクセサリー」が掲載されています。
 いずれも、故人を「遠くに葬り去る」ということに抵抗感があったり、「いつも故人と身近にいたい」という気持ちが強い場合に、その思いを具現化する方法として行われているようです。
 こうすれば、折々に「墓参」をする時だけではなく、年中つねに「手元」で故人を感じていられるというわけですね。

 あるいは、最近は遺骨を墓地に埋葬せずに粉砕して散布する「散骨」という方法も、かなり一般的に行われるようになっています。海に撒く「海洋散骨」というのもあれば、ロケットに乗せて宇宙空間に打ち上げるという「宇宙葬」というものまであって、「小さなお葬式」という会社の「海洋散骨」のページでは、全国各地の海域に散骨するプランが提供されていますし、「銀河ステージ」という会社のサイトを見ると、「宇宙飛行プラン」「人工衛星プラン」「月旅行プラン」「宇宙探険プラン」などという各プランと、その料金も書かれています。

 ところで一見すると、遺骨をつねに見える身近な場所に置く「手元供養」と、遺骨を広大な場所に散布してしまってどこに行ったかわからなくする「散骨」とでは、全く正反対の方向を目ざしているように思えますが、実はこの二つが心の奥底ではつながり合っていることが、「千の風になって」の歌詞に表れています。

  千の風になって
              新井満(訳詩)
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

 歌詞の一番は、死んだ人はお墓にはおらず、「大きな空を吹きわたって」いるということを言っていて、これはまさに「散骨」のイメージですが、二番になると、そのように空間全体に行き渡っているからこそ、雪や、鳥や、星になって、「いつも生者のすぐ傍らに」いることができるのだ、ということが歌われています。
 「特定のどこにもいない」からこそ、「どこにでもいる」のです。

 これはちょうど賢治が、「トシの行方」を必死になって探しても何も得られず、結局「薤露青」において、「どこへ行ってしまったかわからない」ということを受け容れるとともに、トシの「声」をあちこちから聞くことができるようになったことと対応しているようで、興味深いところです。

 「手元供養」「散骨」「千の風になって」に表れている現代日本の死生観は、死後はまた六道のいずれかの世界において輪廻転生を繰り返していくという伝統的な仏教のそれとは、大きく異なっています。まあ、現代日本で仏教色が薄れているのは無理もないところかと思いますが、しかし、仏教を篤く信仰していたはずの賢治が、亡きトシに対して抱いていたであろうイメージが、仏教ではなくこの現代日本の死生観に近いというのは、とても不思議なことです。
 それはいったい何故なのだろうと考えたりしていましたが、その理由として最近一つ思うのは、どちらも「彼岸における故人の生」について、あまり考えようとしないところが共通しているのではないか、ということです。

 まず現代日本では、今も葬式の大半は「仏式」で行われており、故人が亡くなってまもない頃には、「今ごろはあの世でお父さんに会って思い出話をしてるかな」などと、「あの世」について話題にすることもあります。
 しかし、本当に「地獄」や「極楽浄土」や「天界」などというものがあって、人間が死んだらそのどこかで新たな生を送るのだと心から信じている人は、今やごく少数になっているのが現状でしょう。多くの現代人が「死後」について抱いているイメージとしては、せいぜい「安らかに眠っている」というくらいで、「彼岸」や「あの世」の存在と、そこで死者が送っている「生」を、具体的に思い描いている人は、はたしてどれくらいいるでしょうか。

 そもそも、仏教にかぎらずキリスト教でもイスラム教でも、その他ほとんどの宗教では、生きているうちに良いことをした人は死後に「天国」のような素晴らしい場所に行ける一方、悪いことをした人は「地獄」のようなひどい場所で苦しい目に遭う、という教えがあります。このような教えが果たしている役割の一つは、「だから悪いことはせず、良いことをしましょう」と、生きている人に倫理を説くということがあるでしょう。そして、良いことをしていると自覚している人にとっては、この教えは「死の恐怖」を軽減してくれる効用もあります。
 それに加えてもう一つ、宗教がこのように死後の世界を想定することの効用としては、「遺された人の悲しみを和らげる」ということもあるように思います。大切な人を亡くしてしまって、遺族や親しかった人たちは悲しくて仕方がないけれども、故人はきっと天国に行って新たに安らかな生を送っているに違いないと信じることができれば、遺された人としては、「それならば自分は辛くてもこの人の死を受け容れよう」と思うことができるわけです。「別世界における死者の幸福」という救いによって、喪失の苦しみを緩和するのです。
 ところが、前述のように現代日本では、たとえ遺族であっても、「故人があの世で幸福に暮らしている」ということを、昔ほどには実感をもって信じることができなくなっているでしょう。このため、昔の人のように「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の悲しみに耐えるということができません。
 そこで現代人はその代わりに、「別世界」ではなく「この世界」に死者がとどまって、自分たちと一緒にいると想定することによって、死別の寂しさを乗り越えようとしているのではないでしょうか。

 翻って、宮澤賢治の場合も、トシの死後しばらくはその喪失の苦しみに打ちひしがれ、サハリンまで旅行をしたこともありましたが、その途上の「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という考えに思い到ます。そしてこれ以後は、トシが天界に往生するように祈ったり、トシの次生における幸福を願ったりすることを、自らに禁じてしまったのです。この思想は、「〔手紙 四〕」のテーマとして引き継がれ、「銀河鉄道の夜」の底にも流れています。
 すなわち、ここで賢治もまた、「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の苦しみを和らげるということができなくなったわけです。そして、このために彼もまた、「別世界」ではなく「この世界」にトシの存在を感じることによって、最終的には救われていったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治としては、何もそのように意図したわけではなかったのでしょうが。

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2016年11月20日 こんにゃく座「想稿・銀河鉄道の夜」再演

 昨夜帰宅したら、「こんにゃく座」から公演の案内が届いていました。こんど来年の2月〜3月に、2010年に初演された「想稿・銀河鉄道の夜」が、新演出で再演されるということで、前回は見られなかった私としては、とても楽しみです。

こんにゃく座「想稿・銀河鉄道の夜」

 公演予定は下記のとおりで、嬉しいことに京都でもやっていただけます。

2月3日(金)・4日(土)・5日(日) 世田谷パブリックシアター
3月9日(木) 京都府立文化芸術会館
3月11日(土) 広島市東区民文化センター・ホール
3月18日(土)・19日(日) 長野市芸術館 アクトスペース
3月22日(水) 名古屋市芸術創造センター

 チケット予約方法等は、こんにゃく座の「公演情報」のページを、ご参照下さい。

 

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2016年10月25日 札幌時計台で賢治の詩とグランドハープ

 札幌市の熊谷ユリヤさんからお知らせをいただきました。もう明後日に迫っているのですが、10月27日(木)に、札幌の時計台ホールで、「宮沢賢治の詩の世界・朗読とグランドハーブ」と題した催しが開かれます。
 「生誕120周年に 宮沢賢治の詩の世界をグランドハープの調べと時計台の鐘の音にのせて」とのことです。(下チラシは、クリックすると拡大表示されます。)

2016/10/27宮沢賢治の詩の世界・朗読とグランドハーブ

 出演は、日・英朗読とトーク、弾き語りが熊谷ユリヤさん、朗読とトークが斉藤征義さん、ハープ演奏が鈴木貴奈さんです。
 日時は、10月27日(木)19:00―20:30(会場18:30)、場所は、札幌時計台ホール(札幌市中央区北1西2 札幌市時計台2階)です。
 入場料は、一般が1000円、中高校生が500円で、収益は全額「みちのく未来基金-震災遺児に進学の夢を!」に寄付されるということです。

 取り上げる作品は、「序」「雨ニモマケズ」「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」「冬と銀河ステーション」「春と修羅」「屈折率」「小岩井農場 パート九」「種山ヶ原」「有明」「札幌市」「オホーツク挽歌」「噴火湾(ノクターン)」ほかということで、私も近くならばぜひ聴きにうかがいたいところですが、あいにくかないません。
 お近くの方は、秋の一夜にいかがでしょうか。札幌の、あの「時計台」でやる、というのが素敵ですね。

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2016年10月23日 春日神社の赤い鳥居

 つい先日の記事では、『春と修羅 第二集』の「人首町(下書稿(一))」で賢治が目にした「赤い鳥居」のある、奥州市江刺区の久須師神社をご紹介しました(下写真)。
「人首町」詩碑と久須師神社の鳥居

 今回取り上げるのは、『春と修羅 第三集』の「」です。下記がその全文です。

七四〇
  秋
               一九二六、九、二三、

江釣子森の脚から半里
荒さんで甘い乱積雲の風の底
稔った稲や赤い萓穂の波のなか
そこに鍋倉上組合の
けらを装った年よりたちが
けさあつまって待ってゐる

恐れた歳のとりいれ近く
わたりの鳥はつぎつぎ渡り
野ばらの藪のガラスの実から
風が刻んだりんだうの花
  ・・・・・・里道は白く一すじわたる・・・・・・
やがて幾重の林のはてに
赤い鳥居や昴(スバル)の塚や
おのおのの田の熟した稲に
異る百の因子を数へ
われわれは今日一日をめぐる

青じろいそばの花から
蜂が終りの蜜を運べば
まるめろの香とめぐるい風に
江釣子森の脚から半里
雨つぶ落ちる萓野の岸で
上鍋倉の年よりたちが
けさ集って待ってゐる

 この日おそらく賢治は、「鍋倉上組合」の農家の人々への農事指導のために、当時の湯口村上鍋倉地区にやって来たものと思われます。
 乱積雲が暗くかかり風も吹き、あいにく雨模様のようですが、稲穂は稔ってとり入れも間近のようです。「恐れた歳」とあるように、一時は収穫が危ぶまれたのかと思われますが、何とか無事に乗り切って、この日を迎えられたようです。
 最初の連と最後の連が、ともに「年よりたちが/けさ集まって待ってゐる」で締められているところは、「皆が自分を待ってくれている」ということに対して賢治が感じている、気持ちの張り合いや喜びがにじみ出ているようにも思えます。
 いろいろと苦労も多かった羅須地人協会時代の賢治ですが、こういう充実感も味わいながら、各地を奔走していた一コマなのでしょう。

 さて、この作品の13行目に、「赤い鳥居」が出てきますが、これはその位置からすると、鍋倉地区にある「春日神社」の鳥居と考えられるところです。

 赤く囲んである区域が鍋倉地区で、その中心に、昔は「村社」だった春日神社があります。「江釣子森の脚から半里」とありますが、春日神社から江釣子森山の麓までは2km弱で、この意味でもぴったりなのです。

 ところが、現在の春日神社の鳥居は、下の写真のように御影石でできていて、まったく赤くはないのです。

現在の春日神社

 これはなぜなんだろう・・・、と以前から疑問に思っていたところ、3年前にもご紹介した岡部さんとメールのやり取りをしている中で、たまたま「昔は春日神社の鳥居は赤かった」という話が出たものですから、これはぜひ地元の方にお話しをうかがいたい!と思っていたのです。
 そうしたところ、先日岡部さんから連絡があり、体育の日の連休に童話村のライトアップを見に行くので、春日神社の件もどうですか?とのお誘いがあったのです。私は喜び勇んで、10月9日に日帰りで花巻に行ってまいりました。

 昼前に花巻空港に着くと、岡部さん親子のお出迎えを受け、「春日流鹿踊保存協議会」会長の藤井智利さんのお宅にお邪魔しました。
 藤井さんのお宅では、奥様の素晴らしい手料理をご馳走していただいた後、藤井さんからは春日神社で毎年鹿踊りを奉納してこられたお話しをうかがいました。それによると、今は上写真のように一つの鳥居だけが立つ春日神社ですが、以前は三つの鳥居が重なるように立てられていて、そのうちの一つが赤かったのだということです。三つも重ねて鳥居があった理由は、もともとは神社の前の参道に、「一の鳥居」「二の鳥居」・・・という風に離れて立っていたのですが、道路の拡張のために撤去することになり、神社の入口にまとめて移設されたのだということです。

 この日は、花巻市教育委員会文化財課の酒井宗孝さんも藤井さん宅にいらっしゃっていて、酒井さんからは春日神社の歴史について、教えていただきました。
「萬福寺跡」碑 それによると、昔からこの地には「万福寺」という真言宗の大きな寺院があったのだそうですが、鎌倉時代初期の建久年間に、源頼朝から「稗貫郡主」として任ぜられた藤原為重が、その寺院内に鎮守社として春日明神を祀ったのが始まりということのようです。右の写真は、春日神社の裏の林の中にある、「萬福寺跡」という石碑です。
 稗貫氏の最初の居城は、やはりこの近くの小瀬川城だったということで、今は花巻の西郊外になっていますが、当時はこのあたりが「稗貫の中心地」だった、ということになるわけですね。

 その後、藤井さん、酒井さん、岡部さんとともに、実際に春日神社の見学に行きました。
 すると、神社の脇には花巻市が設置した「宮沢賢治ゆかりの地」の説明板が立てられていて、ここに上記の「」の抜粋が記されるとともに、「この詩に登場する「赤い鳥居」は、春日神社の鳥居といわれていますが、平成15(2003)年の地震で倒れ、現在は石の鳥居になりました」と書かれているのでした。

賢治ゆかりの地「春日神社」

 というわけで、私が知りたかったことは、この最近できた説明板にすでに書かれていたわけです。しかしそれでも、藤井さんに案内していただいて春日神社に来た甲斐がありました。藤井さんは、神社を現在管理しておられる高橋力さんに声をかけて下さって、高橋さんのご厚意により神社の拝殿の鍵を開けて参拝させていただくとともに、2003年5月26日の「宮城県沖地震」の際の春日神社の被災写真を見せていただくことができたのです。

 今回、高橋力さんのご許可を得て、地震直後に高橋さんが撮影された写真の一部を、ご紹介させていただきます。

春日神社2003年5月(1)

春日神社2003年5月(2)

春日神社2003年5月(3)

春日神社2003年5月(4)

 ご覧のように、鳥居、灯籠、玉垣などが痛々しく倒壊し、胸に迫るものがあります。この2003年の宮城県沖地震は、宮城県気仙沼市沖を震源として5月26日18時24分に発生したM7.1の地震で、花巻市の震度は5弱だったということです。
 この地震による死者はなかったということですが、震源からかなり離れた岩手県内陸部でも上のような状況で、もしも石造りの鳥居や灯籠の近くに人がいたら、と考えると背筋が寒くなります。神社の復興も、大変なことだったろうと拝察します。

 一番上の写真を見ると、三重になっていたと言われる鳥居の、最も外側にあったのが石の鳥居で、これは上部の「笠木」「島木」と呼ばれる部分が落下して、地面の上で割れていますが、二本の「柱」とそれを貫く「貫」の部分は残っています。
 二番目にあったのが木造の「赤い鳥居」のようで、ご覧のように全壊しています。
 三番目、すなわち最も内側にあった鳥居は、詳しくはわかりませんが、上から二枚目の写真で、左半分に横になって倒れている丸い柱が、おそらく三番目の鳥居のものではないでしょうか。石の鳥居のようです。

 さて、この倒壊した「赤い鳥居」が、はたして賢治が目にしたものだったかどうか、「」が書かれてから77年も経っているわけですから、確実なところはわかりません。
 しかし、この鳥居が最初からここにあったものではなく、参道から移設されたものだったことを考えると、少なくともこの神社入口に移設した後で老朽化したとしても、わざわざ同じ場所に建て替えるということはなかっただろうと思われます。上の地震の後にも、三つの鳥居を再建せず一つだけにしたように、老朽化して撤去しなければならなくなったら、ただ単に撤去しただけだろうと推測されます。
 となると、2003年まで「赤い鳥居」が残っていたということは、これは賢治が直接見て、「」に描いたものだった可能性は高いのではないかと、私としては考えます。
 ただし、立てられていた場所は、上のように神社の入口ではなくて、おそらく田んぼの中の参道で、「稔った稲や赤い萓穂の波のなか」だったのではないかと想像しますが・・・。

【謝辞】
 今回の春日神社見学にあたりご厚意を賜りました、藤井智利さん、高橋力さん、酒井宗孝さん、そして岡部和保さんに、心より感謝申し上げます。

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2016年10月16日 賢治はいつトシは死んだと判断したか

 「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という有名な三部作は、この世のトシの「最後の朝」の情景を描いたものであり、もちろんまだこの時点では、トシは生きています。そして、この三作の次の作品である「風林」は、トシの死から半年あまりも経った後の出来事を記しています。
 それでは、トシが臨終を迎えるまさにその場面の状況はどこに描かれているのかというと、それは「青森挽歌」の中に、賢治の回想として記録されているのです。
 「青森挽歌」の前半のクライマックスにあたる本文の86行目から139行目で、私が以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事において、<III トシの死の状況の具体的回想>と呼んでいた部分です。
 下に、その部分だけ抜粋して再掲します。

<III トシの死の状況の具体的回想>

 ところで今回、私がちょっと興味深いと感じ、考えてみたいのは、97行目・98行目の、次の言葉です。

それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう

 さてここで、「幻視」「幻聴」という言葉が使われているのは、いったいどういう意味なのでしょうか。

 「幻視」という語の一般的な意味は、「実際にはないものが、あたかもあるように見えること」、「幻聴」の意味は、「実際には音がしていないのに、聞こえるように感じること」です。(いずれも三省堂『大辞林』より)
 したがって、「青森挽歌」の上記の時点で、もしトシがまだかろうじて生きていて、周囲の様子がかすかにでも見えたり、聞こえたりしていたのであれば、それらは「実際にあるもの」の知覚ですから、「幻視」でも「幻聴」でもありません。どんなに弱々しいものであったとしても、それは正常な視覚や聴覚の残存です。
 そして、もしもこの時点でトシが既に死んでいたのであれば、幻視・幻聴であろうと、正常な視覚・聴覚であろうと、もはや不可能なはずです。一般常識としては、死んだ人に周囲の事物が見えたり聞こえたりすることないと考えられていますが、仮にそういうことがあったとすれば、それは一種の超自然的現象であって、普通はそれを「幻視」「幻聴」とは呼びません。

 というわけで、「それはまだおれたちの世界の幻視をみ/おれたちのせかいの幻聴をきいたらう」という言葉は、いったいどういう意味なのだろうかということが問題になるわけですが、私としてはこれは、「幻視」「幻聴」という言葉に、賢治が独自に込めた意味をもとにして理解すべきところだと考えます。

 私の想定するその「賢治独自の意味」とは、「幻視」「幻聴」とは、「異空間」の現象が見えたり聞こえたりすることだ、というものです。
 上に見たように、辞書的な意味では、これらは「実在しない事物の知覚」ということになるのですが、賢治にとっては、幻視・幻聴の対象は、ただ単に「実在しない」のではなく、「私たちのこの世界には実在しないが、異世界(異空間)には実在する」ことになるのです。

 実際のところ、生前の賢治が「異世界」「異空間」の実在を信じ、この世界とは異なる世界の出来事を見たり聞いたりした(と自分で思っていた)というエピソードは、しばしば紹介されています。
 賢治が、「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」(下書稿(二))の草稿裏に書き残し、「思索メモ1」と呼ばれているものがあります。下に掲げたのは、『新校本全集』第十三巻の(下)に掲載されている、そのメモの写しです。

「思索メモ1」

 この中の、「一、」の部分を書き出すと、次のようになっています。

                             異構成―異単元
                                      \
一、異空間の実在  天と餓鬼、  分子―原子―電子―真空
    感覚幻想及夢と実在、

 ここには、「実在」する「異空間」の例として、「天と餓鬼」が挙げられており、「幻想及夢と実在」という部分は、われわれの世界へのこれらの「異空間」の存在の顕れは、「幻想」や「夢」という形をとる、という意味かと思われます。

 賢治における「天」の世界の顕れとして、すぐに連想するのは、「小岩井農場」パート九の、次の箇所です。

 (天の微光にさだめなく
  うかべる石をわがふめば
  おゝユリア しづくはいとど降りまさり
  カシオペーアはめぐり行く)
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
・・・・・・はさつき横へ外れた
あのから松の列のとこから横へ外れた
  《幻想が向ふから迫つてくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  《あんまりひどい幻想だ》

 ここで賢治は、ユリア、ペムペルと呼ぶ二人の童子の姿を見ますが、その少し後では「どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は」と触れられ、あるいはパート四には「緊那羅のこどもら」という言葉も見えることから、賢治はこの童子たちを「天」の存在と考えていたと推測されます。そして、自分がこのような異界の者を見ることについては、「幻想」と表現しています。

 また、賢治にとっての「餓鬼」の世界の顕れとしては、白藤慈秀著『こぼれ話 宮沢賢治』(杜陵書院)の、「餓鬼との出合い」という章に、賢治が同僚教師の白藤氏に語った、次のような言葉が記されています。

 田圃の畦道の一隅に大きな石塊が置かれてあるので不思議に思いました。畦の一隅に何故このような石が一つだけ置かれてあるかと疑い、この石には何んの文字も刻まれていないからその理由はわからない、何んの理由なしに自然に石塊一つだけある筈はない。これには何かの目じるしに置かれたに相違ないと考えた。その昔、この辺一帯が野原であったころ人畜類を埋葬したときの目じるしに置いたものに相違ない。また石の代りに松や杉を植えてある場所もある。こういうことを考えながらこの石塊の前に立って経を読み、跪座して瞑想にふけると、その石塊の下から微かな呻き声が聞えてくるのです。この声は仏教でいう餓鬼の声である。なお耳を澄ましていると、次第に凄じい声に変ってきました。それは食物の争奪の叫びごえであったと語った。

 この賢治の話に対して、白藤慈秀氏は、「「ガキ」の世界というのは私どもの感覚によって、とらえられる世界でありますか」と、至極まっとうな、少し皮肉も混ざったような質問を返していますが、賢治は「それはできます」と答えたということです。

 このように、賢治は「異界」の声を聴くことがしばしばあったようですが、自分がそのような体験をすることを、自ら「幻聴」と呼んでいて、それはたとえば「比叡(幻聴)」とか「鬼言(幻聴)」などという作品名にもなっています。

 以上のような状況を図にしてみると、下のようになります。

賢治にとっての「幻視」「幻聴」

 賢治や私たちが住んでいるこの世界と、「天界」や「餓鬼界」など仏教でいう「十界」の他の世界との間には、通常は越えられない「壁」があり、その壁が上図では黒く分厚い境界で示されています。この「壁」のために、私たちはその向こうの出来事について、通常は何も知ることはできません。
 しかし賢治は、時折その壁の向こう側の事物を見たり聞いたりする(と感じる)ことがあり、彼はこのような自らの知覚体験のことを、「幻視」「幻聴」と呼んでいたのです。

 それでは、この賢治の用語法を、「それはまだおれたちの世界の幻視をみ/おれたちのせかいの幻聴をきいたらう」という「青森挽歌」の表現に当てはめてみると、どうなるでしょうか。
 トシが、この時点で「幻視」あるいは「幻聴」を体験しているとすれば、これらの知覚は賢治的な意味では、上記のような「異世界」を隔てる「壁」を越えて、もたらされていることになります。つまり、既にこの時トシは、「おれたちの世界」からすると通常は越えられない「壁」の向こう側に、行ってしまっているのです。

 すなわち、ここで賢治が「幻視」「幻聴」という言葉を使ったということは、取りも直さずこの時点で賢治が、「トシは死んだ」と認識していたことを示しているのです。
 これを図示すると、下のようになります。

トシにとっての「幻視」「幻聴」

 ここでは、最初に掲げた図における「賢治の体験」としての幻視・幻聴とは、矢印が反対向きになっていますが、しかしいずれも一つの世界から別の世界へと、越えられないはずの壁の向こうへ知覚が「越境」していることをもって、賢治はこれを「幻視」「幻聴」と呼ぶのです。

 では、どの時点で賢治はトシが死んだと判断したのか、本文をさかのぼって見れば、91行目の「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり」という箇所をもって、賢治はトシの臨終と認識したと考えておくのが妥当でしょう。

 ところで、以前に「あいつは二へんうなづくやうに息をした」という記事に書いたように、現在から振り返ってみると、上の時点ではまだトシは亡くなっていなかったと思われます。この後に、賢治が「万象同帰のそのいみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」のに対してあたかも応えるように、トシは「二へんうなづくやうに息をした」という動きを見せましたが、これは医学的には「下顎呼吸」という、終末期に出現する特殊な呼吸だったと考えられるのです。
 そのような事情もあったものですから、これまで私は、賢治がトシの耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」り、それに応えるようにトシが「うなづいた」と見たりしたのは、トシの臨終をおおむね認めながらも、「ひょっとしたら今はまだ生きているかもしれない」という一縷の望みを託しながら、そのような行動や観察をしたのかもしれないとも思い、この時点における賢治の真意を図りかねていました。
 しかし、上のように考えてみると、この97行目・98行目で既に賢治は、「トシは死んだ」
とはっきり認めていたということになります。

 となると、その明確な認識にもかかわらず賢治が、あえて「ちからいつぱい」叫び、それに対してトシが「うなづいた」と自分に言い聞かせていたのは、一般的な言葉でいえば、彼は一種の「奇跡」を信じようとしていたということになります。
 その奇跡の
「証明」のために、《ヘッケル博士》までもが召喚されたのは、このような前提において理解すべきことかと、あらためて思う次第です。

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2016年10月 2日 「人首町」詩碑

 今年3月にできた「人首町」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。

「人首町」詩碑

 賢治はこの人首町を、少なくとも1917年9月3日-4日と1924年3月24日-25日の2回、訪れています。前者は、盛岡高等農林学校3年の時に江刺郡地質調査として、後者は、花巻農学校教師時代の春休みに五輪峠を越えて水沢の緯度観測所へ行く小旅行の途中でした。
 このたび地元の有志の方が、1924日3月25日の日付を持った「人首町」(『春と修羅 第二集』)という作品を詩碑として建立し、同じ日付の今年3月25日に、除幕式を上げられたのです。

 「人首(ひとかべ)」という不思議な名前は、アテルイと坂上田村麻呂が戦った時代に、アテルイ(悪路王)の甥?(息子?)の人首丸が、ここで討ち死にしたという伝承に基づいています。
 その後この場所は、岩手県内陸部の水沢から種山ヶ原を経て三陸沿岸部の大船渡市盛町を結ぶ「盛街道」の宿場町として、さらにこの街道から五輪峠を越えて遠野に至る「五輪街道」が分岐する地点として、昭和初期までは交通量も多く、賑わいを見せていたということです。賢治も、「人首町」(下書稿(二)初期形)に、「広田湾から十八里/水沢へ七里の道が…」と書いています。

 1917年に賢治が来た際には、8月28日付けで岩谷堂町から保阪嘉内に手紙を出し(書簡37)、8月31日には田茂山から(書簡38)、9月2日には伊出から(書簡39)、9月3日にはここ人首から(書簡40)、それぞれ嘉内にあてて投函しています。人首における郵便局の消印が、9月3日午後3時〜6時であることから、賢治はこの日はここ人首に宿泊したと推測され、その宿は明治時代から現在も続く老舗旅館である「菊慶旅館」だっただろうと、考えられています。
 この地質調査旅行に一緒に行った佐々木(工藤)又治あてに、賢治が後に出した書簡54には、「人首ノ御医者サン」という言葉も出てくることから、「賢治街道を歩く会|宮沢賢治と人首」というサイトの「菊慶旅館」の項目においては、この日に賢治らが人首に宿泊したのは、同行者の誰かが体調を崩し、この地で診察を受ける必要が出てきたからではないかという推測が記されており、興味深いところです。
 当時、人首町には医師は一人しかおらず、その唯一の医療機関だった「角南医院」の跡地には、「賢治街道を歩く会」が、下のような説明板を立ててくれています。

角南医院跡

 ここがおそらく、「人首ノ御医者サン」のいた場所だったわけですね。
 それにしてもこの場所にかぎらず、ここ人首町の賢治ゆかりの地には、「賢治街道を歩く会」が丁寧な解説のついた説明板を数多く立てて下さっているので、ありがたく心強いかぎりです。

 次に、1924年に賢治が来た際には、3月24日付けで「五輪峠」や「丘陵地を過ぎる」が書かれ、3月25日付けで早朝の情景を描いた「人首町」が書かれているところから、24日の夜は人首で宿泊したと推測され、さらに作品中で描かれている風景が、「菊慶旅館」からの眺めとして無理なく解釈できることから、この時も泊った宿もこの「菊慶旅館」だったのだろうと推測されているのです。

菊慶旅館

 上の写真が、現在も旅館として営業を続けている「菊慶旅館」です。今もどこかに、歴史を感じさせる雰囲気が漂います。
 一方、下の写真は、賢治が1回目に宿泊したと同じ1917年に、岩手県知事一行が来館した時の記念写真です(「賢治街道を歩く会」による説明板より)。

菊慶旅館(1917年)

 賢治が宿泊したと推測されている旅館が、現在もそのまま旅館として営業を続けている例としては、私の知るかぎりここ以外では京都の「西富家」(「京都における賢治の宿(2)」参照)が残っているだけであり、賢治ファンにとっては貴重な場所と言えます。

 詩碑が建てられているのは、街道から少し南西に入ったところにある「壇ヶ丘」の上の、「久須師神社」です。賢治が「人首町(下書稿(一))」で、「……丘には杉の杜もあれば/赤い小さな鳥居もある……」と描いた「赤い鳥居」が、他ならぬこの神社の鳥居であるという縁から、ここに建てられました。
 盛街道からは、細い路地を通して鳥居は下のように見えます。「菊慶旅館」は、ここよりもっと右手の方に位置するのですが、やはり「杉の杜」とともに賢治の目に入ったのでしょう。

久須師神社

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