2019年9月16日 存在否定から全称肯定へ

 先日以来、「「〈みちづれ〉希求」の挫折と苦悩」とか「「〈みちづれ〉希求」の昇華」などという記事を書いていましたが、それらで私が言いたかったことの要点は、「賢治には「〈みちづれ〉希求」というような独特の強い感情があって、ある時期まで己の〈みちづれ〉として求めた人に次々と去られ、喪失感や孤独感に苦しんだが、ある時期からは個人を〈みちづれ〉として求めることはやめて、代わりに全ての衆生を〈みちづれ〉として道を求めていこうと考えるに至った」というようなことでした。
 一方、以前から私は「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」とか、当ブログのいくつかの記事において、「賢治はある時期までトシの喪失を受容できず苦悩していたが、ある時期以降は『トシがいつも近くにいる』という感覚を抱くようになり、苦しみを乗り越えていったのではないか」ということを考えていました。

 最近、この二つの「乗り越えの論理」は、構造的にとても似ていると思うようになり、また同じ論理構造は賢治のいくつかの作品にも認められ、さらには大層な話ですが大乗仏教というものが誕生した際の思想転換にも通じるものがあると感じましたので、本日はそのことについて、書いてみたいと思います。


1.「〈みちづれ〉希求」の昇華と「トシ喪失」の受容の論理

 先にも述べましたが、まず「〈みちづれ〉希求」をめぐる賢治の認識の経時的な変化は、次のように要約しなおすことができます。

(1) 私はある人を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く
(これは、ある時期までの賢治が、保阪嘉内やトシや堀籠文之進に対して、抱いていた感情です。それは「小岩井農場」においては、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」と表現されました。)

(2) 誰も私の〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行ってくれる人はいない
(賢治の(1)の思いにもかかわらず、保阪嘉内は故郷へ帰り、トシは彼を置いて早逝し、堀籠文之進は彼と一緒には歩めないと言明しました。結局賢治の「〈みちづれ〉希求」は、誰もかなえてくれなかったのです。)

(3) 私は全ての衆生を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く
(しかしここで賢治は、誰か一人だけと一緒に行くのではなく、「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」(「小岩井農場」)という方向に転換することで、危機を乗り越えようと決意しました。)

 次に、上の論理の骨組みを見えやすくするために、これを記号論理学的に表現してみます。
 「私は衆生xを〈みちづれ〉として、どこまでも一緒に行く」という命題を、A(x)という命題関数で表すとすると、上記(1)は、

(1) ∃xA(x)

と表現できます。ここで記号「∃」は、「存在量化子」と言い、「少なくとも一つ存在する」という状態を表します。上の記号列は全体として、「或る衆生xについてA(x)である」、すなわち「私は或る衆生を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く」ということを表しています。
 また上記(2)は、

(2) ¬∃xA(x)

と表現できます。ここで記号「¬」は否定を表し、「¬∃」とつなげると、「少なくとも一つ存在する」が否定されるので、「一つも存在しない」となります。記号列全体としては、「どの衆生xについてもA(x)ではない」、すなわち「私はどの衆生とも〈みちづれ〉として一緒に行くことはない」ということを表しています。
 さらに、上記(3)を記号化すると、

(3) ∀xA(x)

となります。記号「∀」は、「全称量化子」と言い、「全てが○○である」という事態を表します。全体としては、「全ての衆生xについてA(x)である」、すなわち「私は全ての衆生を〈みちづれ〉としてどこまでも一緒に行く」ということを表しています。

 すなわち、「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華の過程は、論理記号を用いると、

(1) ∃xA(x)
(2) ¬∃xA(x)
(3) ∀xA(x)

という三つのステップとして、表すことができるのです。


 次に、トシが亡くなる前後の賢治のトシに対する認識は、次のように要約することができます。

(1) トシは或る場所にいる(トシ生前の状態)
(2) トシはどこにもいない(トシの死による不在)
(3) トシはどこにでもいる(トシの遍在)

 そして、これを記号論理学的に表現するため、「トシが場所xにいる」という命題をB(x)とするならば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xB(x) (或る場所xにトシはいる)
(2) ¬∃xB(x) (どの場所xにもトシはいない)
(3) ∀xB(x) (全ての場所xにトシはいる)

 ご覧のように、この記号列は、「〈みちづれ〉希求」の昇華過程と同一であり、論理構造が全く同じ形であることがわかります。


2.「めくらぶだうと虹」と「ひのきとひなげし」の論理

 ところで気をつけて見てみると、上記のような論理構造の同型性は、賢治のいくつかの童話作品にも認められます。
 まず、童話「めくらぶだうと虹」において、めくらぶどうは虹のことを最高に誉め讃え、「あなたが、もし、もっと立派におなりになる為なら、私なんか、百ぺんでも死にます」と言います。
 しかし、虹はそんなめくらぶどうをたしなめ、「本たうはどんなものでも変はらないものはないのです」と言い、全ての存在は無常であることを説明します。
 ところがまた虹は、「けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらはれるときは、すべてのおとろえるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです」と言い、全ての生命は無常でありつつも、かぎりなく尊いのだと言います。
 この論旨の骨格は、次のように表現できます。

(1) 或るいのち(虹のような存在)は、かぎりなく尊い
(2) どんないのちにも、かぎりがある
(3) 全てのいのちは、かぎりない

 ここでまた、「いのちxはかぎりない」という命題をC(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xC(x)
(2) ¬∃xC(x)
(3) ∀xC(x)

 これも、「〈みちづれ〉希求」の昇華および「トシ喪失」の受容の過程における論理構造と、同型です。


 次に、童話「ひのきとひなげし」を見てみます。このお話に出てくるたくさんのひなげしの中で、「テクラ」という一本は、その美しさにおいて自他ともに認める「スター」でしたが、実はどのひなげしも、もっと美しくなって「スター」になりたいと、強く望んでいました。
 そこに悪魔がやって来て、ひなげしが作る阿片と引き換えに、彼女たちに美容術の薬を服用させるという約束をしたのですが、まさにその契約が果たされようとした瞬間に、ひのきが悪魔を追い払いました。
 ひなげしたちは、邪魔をしたひのきに怒りますが、ひのきは「もう一足でおまへたちみんな頭をばりばり食はれるとこだった」と説明するとともに、「ありがたいもんでスターになりたいなりたいと云ってゐるおまへたちがそのままそっくりスターでな、おまけにオールスターキャストだといふことになってある」と言い聞かせます。
 この展開の要旨は、次のようになります。

(1) 或るひなげし(テクラ)はスターである
(2) どのひなげしもスターでない(けし坊主の根絶)
(3) 全てのひなげしはスターである(オールスター)

 ここで、(2)の「どのひなげしもスターではない」という段階は、「みんな頭をばりばり食はれる」という事態のことで、これは実際にはひのきの機転によってかろうじて避けられましたが、ほとんど現実化していたことから、ここに挙げています。
 ここでまた、「ひなげしxはスターである」という命題をD(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xD(x)
(2) ¬∃xD(x)
(3) ∀xD(x)

 これもまた、今までに見た例と全く同型です。


3.大乗仏教の思想革命

 紀元前5世紀頃に生きて悟りを開いた釈迦が、80歳で入滅すると、弟子たちは釈迦の教えを継承し実践する教団を形成しました。そして100年以上の歳月が経過するうちに、教えの解釈の違いをめぐって教団は20もの部派に分かれ、「部派仏教」と呼ばれる時代となります。さらに、釈迦入滅から500年ほどが経過した西暦紀元前後の頃、いくつかの部派が伝承する経典群に、ほぼ時を同じくして大きな変化が現れてきます。
 この変化が、後に「大乗仏教」として新たな仏教運動へと発展していくのですが、そこに見られる思想の転換には、いくつかの特徴がありました。ここでは、特にそのうちの二つを取り上げてみます。

 一つは、釈迦や部派仏教の教えでは、悟りに至るためには出家をして、煩悩を滅尽するための教学や修行に励むことが必須の条件とされ、またそれを真面目に実践したとしても、悟りに到達できるのは一部の者だけであるとされていました。しかし、これが大乗仏教になると、「出家者であろうと在家者であろうと、全ての者は悟りに至ることができる」と考えられるようになったのです。
 この画期的な思想は、最初期の大乗仏典である「般若経」系の経典には、「全ての人は過去世において、既に仏と出会って悟りを目ざすとの誓いを立て(誓願)、悟りへの到達を仏から保証されている(授記)」という形で盛り込まれていますし、「法華経」においては、この経こそが全ての衆生を成仏へと導く「一仏乗」であると説かれ、浄土系の宗派では、阿弥陀如来の力によって皆が浄土へ行ける(そして必ず成仏できる)と信じられ、「涅槃経」では「一切衆生悉有仏性」という言葉や「如来蔵」の思想に集約されています。
 部派仏教の中から、このような新たな大乗的思想が生まれてくる時期は、仏教にとっては苦難の時代でもあり、たとえば紀元前180年頃のインドには仏教を弾圧する王が現れたり、ガンダーラ地方には異民族が流入して混乱が起こったりして、出家教団の基盤も脅かされていたということです。このような情勢も反映してか、仏教内部では「釈迦入滅後500年で、正しい教えが滅びる」(=「正法滅尽(法滅)」)という危機的思想も、広がっていました

 以上のような、「悟りの可能性」に関する仏教内の考え方の変遷を、要約すると下記になります。

(1) ある者は悟りに至れる(初期仏教・部派仏教)
(2) 誰も悟りに至れない(正法滅尽)
(3) 誰でも悟りに至れる(大乗仏教)

 またここで、「衆生xは悟りに至れる」という命題をE(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xE(x)
(2) ¬∃xE(x)
(3) ∀xE(x)

 上記も、先に1.2.で見た論理構造と、同型になっています。


 さらにもう一つ、大乗仏教全体に共通する特徴として、「生身の人間としての釈迦は80歳で入滅したが、実は真理を体現する存在としての仏陀は、永遠の過去から未来にわたって、常にこの世に存在し続けている」という考えがあり、このような普遍的で永劫の存在としての仏の身体のことを、「法身(ほっしん)」と呼びます。
 この「法身」という思想も、大乗仏教の最古層の「般若経」系の経典から見られるものですが、「法華経」においては「如来寿量品」で「久遠実成」として説かれ、浄土系の宗派では「法性法身」と言われます。密教においては、永遠不滅の真理を体現しつつ宇宙に遍満する「大日如来」として、非常に高い普遍性が付与されています。
 このような、様々な形での「仏」の存在についての考えを整理すると、下記になります。

(1) 仏はここにいる(釈迦在世中)
(2) 仏はどこにもいない(釈迦入滅)
(3) 仏は常に宇宙に遍満している(法身仏)

 またここで、「仏は場所xにいる」という命題をF(x)とすれば、上記(1)(2)(3)は、次のように表せます。

(1) ∃xF(x)
(2) ¬∃xF(x)
(3) ∀xF(x)

 これもまた、上の全ての論理構造と同型になっているのです。


4.論理の同型性の意味

 上記のような、論理に共通する筋書きをあらためて抜き出すと、「(1)とても大切な何かを求め、あるいは守っていたところ、(2)それが失われてしまい、『もう○○はない!』という危機に陥るが、(3)ここで大逆転が行われ、『実は全ては○○である!』という認識の転換によって克服される」、という構造になっています。
 すなわち、その大切なものの「存在否定」がもたらす危機において、単にその存在を取り戻して復旧させようとするにとどまらず、むしろ一挙に全てを獲得する「全称肯定」に至るというのが特徴で、いわば「禍を転じて福と為す」というような型になっています。

 ということで、ちょっと不思議な同型性が認められるというのが本日の記事の趣旨なのですが、ここで問題は、賢治の人生や作品に、こういう風に大乗仏教の根幹と共通するような論理の同型性が認められることに、何か意味があるのか、ということです。
 私もよくわからないのですが、賢治がこういうことを具体的に意識しながら己の生き方や創作について考えていたとは、想定しにくいように思います。ただ、大乗仏教を深く学んでいた彼にとって、このような思想の「型」が知らず知らずに血肉となっていて、何かの折りに無意識のうちににじみ出てくるということは、あったのではないかと思います。

 上の六つの例のうちでも、とりわけトシの喪失を受容する過程で「トシの遍在」を意識するようになるところと、大乗仏教で宇宙に遍満する仏の身体としての「法身仏」という概念が出現するところには、特に強い類似性が感じられます。これについては、以前に「上原專祿の死者論―常在此不滅」という記事で紹介したように、上原專祿が「法華経」の「自我偈」を毎日読誦するうちに、仏の久遠実成を述べる「常在此不滅」という一節から、釈尊常在よりも先に亡き妻の「常在」を実感するようになったと書いていたことが、あらためて思い出されます。
 私は従来は、「トシ追悼過程における他界観の変遷」や「賢治の他界観の変遷図」という記事に書いたように、賢治の中の「非仏教的」な要素が、トシ喪失の受容において大きな役割を果たしたのではないかと考えてきたのですが、同時に上記のような仏教的な思想も奥底では働いていたのかもしれないと、思うようになったところです。

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2019年9月 8日 京大で「宮沢賢治と鉱物」講演会

 現在、京都大学総合博物館では、「地の宝II 比企鉱物標本」という企画展が行われていますが、関連した催し一環として、来たる9月15日(日)に同博物館で、「宮沢賢治と鉱物」と題した講演会が行われます。

日時: 9月15日(日) 14:00〜15:00
タイトル: 「宮沢賢治と鉱物」
演者: 桜井 弘(京都薬科大学名誉教授)

 講師の桜井弘さんは、賢治の作品に出てくる45の元素を、美しい鉱物写真とともに周期律の順に配列した、『宮沢賢治の元素図鑑』(化学同人)を、昨年刊行された化学者で、賢治の作品に対する愛情は、この本の隅々にまで充ちあふれています。ちなみに、賢治の本来の専攻分野は「化学(農芸化学)」でしたが、桜井さんも「化学」がご専門で、なおかつ「鉱物学」や「地質学」の造詣も深いというところも共通しており、科学者としてのスタンスに何か響き合うものがあるのかもしれません。
 講演の終了後には、「展示解説ツアーも開催されるということで、これはとても楽しみな企画だと思います。

宮沢賢治の元素図鑑ー作品を彩る元素と鉱物 宮沢賢治の元素図鑑ー作品を彩る元素と鉱物
桜井 弘 (著), 豊 遥秋 (写真)

化学同人 (2018/6/6)

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 ところで今回の企画展は、明治・大正時代に京都帝国大学教授を務めた比企忠が収集した貴重な鉱物標本を展示するもので、企画展のウェブページでは、下記のように説明されています。

企画展「地の宝II 比企忠鉱物標本」 京都大学総合博物館には、京都帝国大学時代から100年をかけて集められた2万点以上もの鉱物標本が収蔵されています。なかでも工学部由来の比企(ひき)鉱物標本は、現代では入手することのできない、国内では最高峰の鉱物コレクションです。これらの鉱物標本の持つ迫力や美しさは圧倒的で、まさに自然が作り出した「地の宝」といえるでしょう。工学部採鉱冶金学科の教授であった比企忠(ひきただす)は日本中、世界中から鉱物・鉱石を集めており、当時その標本室を見たものからは国宝とも称されていました。その後、比企の鉱物コレクションの存在は学術界からさえも長年忘れ去られていましたが、工学部、そして総合博物館へと丁重に引き継がれてきました。整理を進めていると、すべての標本に比企の手書きのラベルが添えられており、比企忠という研究者の姿や比企が標本に込めた想いまでもが現代によみがえるかのようでした。多くの金属鉱山が閉山した現代の日本ではこれらの標本が持つ学術的な価値はかけがえのないものです。

 これだけでも、鉱物好きの方にとってはまたとない機会でしょう。
 場所は、百万遍の交差点から東大路をすぐ南で、電車の最寄り駅は、京阪の「出町柳」です。

京都大学総合博物館地図

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2019年9月 1日 「〈みちづれ〉希求」の昇華

 「〈みちづれ〉希求」の話に行く前に、まずは次の疑問について考えることから、今回の記事を始めてみたいと思います。
 『春と修羅』を書いていた頃の賢治は、いったいなぜ、自らの〈修羅〉性について、あれほど尖鋭に意識し、苦悩しなければならなかったのでしょうか。

 賢治が自らを〈修羅〉と規定し、そのような己の本性に対峙しつつ苦しんだことは、「春と修羅」の、

おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

という箇所に、端的に表れています。なぜ彼は、自分のことを「ひとりの修羅なのだ」と呼び、そのために風景がゆすれるほど、なみだを流さなければならなかったのでしょうか。これは、『春と修羅』という一つの詩集全体をも貫くテーマとも言える、重要な問題でしょう。

 まず客観的に見ると、宮澤賢治という人は、「修羅」と言えるような人柄でもなく、またそういった行動をする人でもなかったということは、以前の「諂曲なるは修羅」という記事においても、具体的に確認したところです。賢治を直接に知る人々の証言では、彼は修羅とは対極的に、「どんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人」(佐藤成)、「おだやかでもの静か」(羽田視学、畠山校長)、「とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人」「けっしていばらない人」(藤原嘉藤治)と評されており、賢治自身が己の修羅性を気にする必要性は、全くなかったはずなのです。

 それにもかかわらず、彼が「おれはひとりの修羅なのだ」と自己規定をせざるをえなかった理由があるとすれば、それは他人からはうかがい知れないけれども、彼にとっては何か自分の内に、〈修羅〉的な要素を強く意識せざるをえない部分があり、その部分をどうしても自分で許せなかったために、あそこまで苦しんだのだろうと、考えるしかありません。

 そこで次の問題は、そのように賢治が意識した自らの〈修羅〉性とは、具体的にはいったいどういう部分だったのか、ということです。これについては、やはり記事「諂曲なるは修羅」で述べたように、童話「土神ときつね」と、「小岩井農場(清書後手入稿)」第五綴の記述が、有効な導きとなります。

 「土神ときつね」は、これまでの研究によって、作者賢治が登場人物を自らの分身のように造型している面があること、そして同時にその「土神」は、修羅性の象徴とも言えることが、指摘されてきました。これに加えて私としては、怒り荒ぶる土神は「修羅の瞋恚的側面」を象徴し、言葉巧みに樺の木を誑かす狐は「修羅の諂曲的側面」を象徴するという図式になっているのではないかと、考えてみました。

 一方、「春と修羅」の翌月にスケッチされた「小岩井農場(清書後手入稿)」の次の箇所における賢治の言動は、このような「瞋恚」と「諂曲」に、不思議と合致しているように感じられます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、何とかして同僚の堀籠文之進と親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけているのですが、なかなかうまく行きません。
 引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところは、土神が樺の木と仲良くなりたいのに、不器用にも乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられます。
 また前半部で、鞍掛山が地質学的に岩手山の系統に属さないという自説を、「これは私の発見です」とやや大げさに自慢げに言っているところは、狐が樺の木の気を引こうとして話を誇張するところに通じます。

 つまり、私が思うのは、次のようなことです。当時の賢治は、自分が堀籠と仲良くなりたい一心で、思わず激情があふれて一方的な物言いになり、意に反して相手を萎縮させてしまうところや、あるいは自分を良く見せようとして、つい得意気に話を盛ってしゃべってしまうところ等が、自分でも情けなく思えて、己を許せなかったのではないでしょうか。そして、そのような自らの言動は、修羅の特性である「瞋恚」と「諂曲」にも通ずるところから、深い自己嫌悪とともに己を〈修羅〉と規定し、そのような自分を何とかして超克しなければならないと、考えたのではないでしょうか。

 おそらく賢治にとって、このような感情に悩まされるのは人生で初めてのことではなく、数年前から保阪嘉内に対して、己の〈みちづれ〉となってくれることを求めては叶えられず悶々とし、ついに「春と修羅」を書く前年に悲しい別れを迎えるまでの過程においても、ずっと同様の苦しみを味わっていたのではないでしょうか。
 そして、翌1922年の春、またもや同じような苦悩に囚わていれる自分に直面し、己のその「業」のような性質に対して、ここで〈修羅〉という自己規定を行ったわけです。

 冒頭に掲げた、「なぜ賢治は、客観的には修羅的ではないのに、己を〈修羅〉と意識して悩まなければならなかったのか」という疑問に対して、現時点で私としてはこれが、最も無理のない答えに思えます。それは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによって、思わず露呈してしまう、自らの内の「下等」な感情のことだったと思われるのです。

 (ちなみに、ここで言う「下等」とは、「小岩井農場(清書後手入稿)」第六綴の、次の箇所からとっています。)

 (私はどうしてこんなに
  下等になってしまったらう。
  透明なもの 燃えるもの
  息たえだえに気圏のはてを
  祈ってのぼって行くものは
  いま私から 影を潜め)

 では賢治は、そのような己の〈修羅〉性を、実際にどのようにして克服していったのでしょうか。
 現在の私たちから見ると、賢治が特定の誰かについて、上記のように感情的になったり諂うような態度をとったりしてしまうのは、「ある一人の人に対して、信仰も含めてどこまでも一緒に行こうとしてしまう」ところに、無理があるのだろうと思われます。つまり、先日の記事の言葉では、「〈みちづれ〉希求」に囚われてしまうことに、原因があるわけです。
 しかし、1922年4月8日の日付を持つ「春と修羅」でも、5月う21日の日付を持つ「小岩井農場(清書後手入稿)」でも、自分の言動を反省してはいるものの、己の「〈みちづれ〉希求」そのものを問題視している様子は見受けられません。しかし、「原因」をそのままにして、表面の「結果」だけを抑えつけようとしても、それは無理なことでしょう。
 1923年3月4日には、堀籠に対して、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言って、堀籠の背中を打ち、これによってどうにか彼を〈みちづれ〉として求めることを諦めたようです。しかし裏を返せば、この日まで賢治は、まだずっと堀籠に対する感情に苦悩し続けていたわけです。

 このような苦しみに囚われていた賢治の問題意識が、原因である自らの「〈みちづれ〉希求」の方へと向かったのは、図らずも「トシを失う」という体験をしたおかげだったのではないかと、私は思います。
 トシという、やはりかけがえのない〈みちづれ〉が1922年11月27日に亡くなり、その喪失の悲嘆に暮れていた賢治は、翌1923年7月末から8月初めにかけて、トシの魂を追い求め、何かの「通信」の望みを抱いて、サハリンへ旅をします。ここでは、賢治はまだトシという「ひとり」を諦めきれていないわけですから、やはり彼は従来のような「〈みちづれ〉希求」に囚われていたと言えるでしょう。
 しかし、この旅から帰郷した後、賢治に重要な変化が現れはじめるように思われます。この年の秋頃に書かれたと推測される「手紙 四」では、死んだ妹ポーセを探そうとするチユンセに対して、「チユンセがポーセをたづねることはむだだ」との宣告が行われ、〈みちづれ〉を求める行為が、明確に否定されるのです。そしてその否定のかわりとして、「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」ということが説かれます。ご存じのように「青森挽歌」においても、いつの時点の推敲からかは不明ですが、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、同様の啓示が現れます。

 すなわちここでは、「死者」を対象とする形ではありますが、ある特定の一人と「どこまでもどこまでも一緒に行かう」とするような「〈みちづれ〉希求」は、利己的な願望として否定され、かわりに「すべての生き物と一緒に、本当の幸福へ到る」という、菩薩行的な志向性こそが、肯定されるのです。

 そしてこの命題を、死者を対象としたものから生者へと拡張すると、「小岩井農場(初版本)」パート九の、有名な定式になります。

もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ

 ここでは二番目に登場して「恋愛」と呼ばれている、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」願望が、これまで述べてきた「〈みちづれ〉希求」に相当します。賢治はおそらく、同性であろうと妹であろうと、全き同伴者として強く求める自らの「〈みちづれ〉希求」というのは、なかなか一般人には理解されにくいということがわかっていて、それでここでは通俗的に「恋愛」と表現しているのではないかと、私は思います。それでも、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」というのは、やはり一般人の平均的な恋愛感情を超えていると言わざるをえず、やはりこれが賢治独特の感情を原型としていることが、推測されます。
 そして、このように一人を対象とした愛は、正しい「宗教情操=じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」願いが、砕けまたは疲れて退化したものにすぎないわけなので、だから人は本来の宗教情操にこそ立ち返らなければならないというのが、この箇所の賢治の考えです。仏教的な言い回しでは、例えば「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」(『法華経』「化城喩品」)に通じます。

 このように、「ただ一人を対象とした〈みちづれ〉希求」を、「全ての衆生を〈みちづれ〉とした求道」、すなわち「菩薩行」へと転換すること、これこそが賢治が到達した「〈みちづれ〉希求」の昇華でした。別の言い方をすれば、「個別的・主観的な愛」を、「普遍的・客観的な愛」に高める、とも言えるでしょうか。
 そしてこれによって、彼はやっと己の〈修羅〉性から解放され、個人への執着に悩み苦しまずに自分が目ざすべき方向性を、明確にできたのです。

 実際、『春と修羅』の最終章である「風景とオルゴール」や、『春と修羅 第二集』以降では、人間ではなくて「自然への愛」や「自然との合体」が、謳歌されるようになります。

こんなあかるい穹窿と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか
   (おい やまのたばこの木
    あんまりヘんなおどりをやると
    未来派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
芦のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはいつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる
        (「一本木野」)

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
        (「種山ヶ原」下書稿(一)

あのどんよりと暗いもの
温んだ水の懸垂体
あれこそ恋愛そのものなのだ
炭酸瓦斯の交流や
いかさまな春の感応
あれこそ恋愛そのものなのだ
        (「春の雲に関するあいまいなる議論」)

 このように振り返ってみると、『春と修羅』という詩集は、賢治が1921年の保阪嘉内との最後の面会、1922年のトシとの死別、1923年の堀籠への諦めという形で、己の「〈みちづれ〉希求」の度重なる挫折に苦悩し、それによって煩悶する自分を〈修羅〉と規定して対峙し、ついにそのどん底から妹の死も契機として再び歩き始めたという、一連のプロセスの記録であったということもできます。
 その期間においては、思想的な懊悩と並行して、飽くなき作品の推敲もあったはずですが、その果てにやっとのことで、「小岩井農場(初版本)」パート九のような、一定の境地を表すテキストに達することができたわけです。
 一つの詩集の中に、本当にダイナミックな展開と決着が隠されていると感じますが、逆に言えば、賢治としては自らの苦悩にやっとこういう形で、思想的なレベルで一段落をつけることができたので、そのドキュメントを『春と修羅』という一つの詩集として、世に出そうと思ったということかもしれません。

 かつて天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現されました(「《宮澤賢治》作品史の試み」)。その二つの中心とは、「己の《修羅》性の発見」と、「妹の死」というテーマだったわけですが、上のように見てくると、賢治にとって「己の〈修羅〉性」とは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによる感情的動乱だったわけですし、「妹の死」は、これ自体が彼にとって最大の「〈みちづれ〉希求」の挫折でした。
 そうすると、天沢氏の言う「二つの中心を持つ楕円」とは、実は突き詰めれば、「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華という「一つの中心を持つ円」だったとも、言えることになります。その「一つの中心」を作品の上に定位するとすれば、「春と修羅」と「永訣の朝」の間にある、「小岩井農場」になるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、この問題こそが、『春と修羅』の最大かつ本質的なテーマであったのだろうと、私としては思うところです。

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2019年8月16日 足摺岬の「雨ニモマケズ」詩碑

 8月11日から12日にかけて、高知県の足摺岬の奥の牧場に先月建立された、「雨ニモマケズ」詩碑の見学に行ってきました。

 先週から台風が、まさにちょうどこのあたりを目ざして来ているところだったので、無事に行き着けるかと心配していたのですが、当初の予想よりも台風の接近が遅れてくれたおかで、天候は大丈夫でした。
 瀬戸大橋が架かってからは、京阪神から四国に入るまではあっという間なのに、やはり足摺まで行くとなると、四国の中での移動が大変です。高知まで土讃線の振り子列車に揺られながら山を越え、そこからさらにJRと土佐くろしお鉄道をまたぐ、「特急あしずり」に乗ります。
 下の写真は、土佐くろしお鉄道の土佐佐賀あたりで、車窓から見た海の様子です。青空ものぞいてはいるものの、遠くの雲は何となく不穏で、海には白い波しぶきがかなり目立っています。

土佐佐賀あたりの太平洋

 「あしずり」に乗って約2時間で終点の中村(四万十市)に着き、そこからはバスに1時間ほど揺られて、土佐清水市です。この日は、詩碑を建てられた西村光一郎さんが、土佐清水のバスターミナルまで車で迎えに来て下さっていたので、市街地からさらに海沿いと山中の道を20分あまりで、「足摺牧場」に着きました。

 地図で見ると下のような、南海に臨む位置です。右下の「+」を押してズームしていただくと、より詳細な場所がわかります。

 足摺牧場の入口です。

足摺牧場入口

 牧場に入ると、まず「宮澤賢治詩碑建立趣意書」があります。

「宮澤賢治詩碑建立趣意書」

 そして、背後に太平洋も見渡せる場所に立つ、3基の詩碑。

足摺牧場の三詩碑

 中央の背の高いのが宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑、向かって左側が岡本弥太の「櫻」詩碑、右側が西村和三郎の「山靈賛歌」詩碑です。
 碑の建立者は、その西村和三郎の次男であり、現在は幼稚園の園長をしておられる西村光一郎さんで、今回はわざわざ私のために、案内の労をお取り下さいました。
 ここにあらためて、西村さんのご厚情に感謝申し上げます。

 さて、このたび並んで詩碑が建てられたこの3人の詩人の間に、いったいどんな縁があったのかということですが、まず左側の碑の岡本弥太については、鈴木健司氏の論考「詩集『春と修羅』の同時代的受容」(蒼丘書林『宮沢賢治という現象』所収)に、次のように紹介されています。

 岡本弥太は、全国的にみれば一部の詩人や研究者にのみその名を知られる存在かもしれない。だが、土佐の地において弥太は「南海の賢治」と称される詩人で、郷土の生んだ最も著名な詩人であり、弥太祭や弥太賞といった催しも行われている。弥太は明治三二年一月、高知県の岸本村(現、香我美町岸本)に生まれた。賢治が明治二十九年八月生まれであるから三歳年下、学年としては二級下にあたる。弥太は高知市立商業学校を卒業、その後一時神戸に職を得るが、二三歳の時郷里に戻ってからは終生土佐の地を離れることなく、二〇年にわたり小学校教師としてその職を尽くし、昭和一七年一二月、結核によって満四三歳の生涯を閉じた。

 弥太の詩人としての活動は、25歳からのいくつかの同人誌発行の後、全国的な詩誌である「詩神」や「日本詩壇」への投稿・掲載とともに、生前の唯一の詩集『瀧』を、昭和7年に34歳で刊行しています。
 「南海の賢治」という呼称は、その作風から付けられたものでしょうが、生前の賢治との直接の交流はありませんでした。しかし弥太は、賢治が『春と修羅』を出版した直後からずっとその作品に注目し、高知の古本屋で埃をかぶった『春と修羅』を見つけた際には、「奪ひとるやうに」購入したのです。
 下記は、鈴木氏の上掲論文から、弥太が「イーハトーヴォ」創刊号(昭和14年)に寄せた、「春と修羅の我が思い出」という文章の一部です。

 私が故人の名前を知ったのは例の詩話会から出てゐた詩誌日本詩人誌上、多分大正十三年ではなかつたかと思ひます。春と修羅のあの薊の押絵のある麻表紙の詩集の奥付が大正十三年四月二十日発行となつてゐますから――あの詩集の紹介者は佐藤惣之助氏でなかつたかと記憶してゐるが、或は 川路柳虹氏だつたかも知れない。豊富絢爛な未来派的官覚異装を讃えた詩評で、この東北の天才を評するに決して不当でなかつたやうに思ひますが、今のやうな広汎深刻な人性的意味の探求では決してなく、自分にはハルトシユラといふおどろくべき野生のちからを持つた Dawn man 的意味の現出に官覚的驚異を感ずるの外はなかつたやうに印象されてゐます。
〔中略〕
 私はこの人の詩集を出版後三四年たつてから私の辺鄙な土地の町の古本屋の埃のなかから偶然拾ひ出しました。貳円四拾銭の定価のものを符牒どほりの六拾五銭で、奪ひとるやうに買ひ(多分僕が買はなかつたらこの詩集は何年も宮沢さんの死ぬ時まで、その通りだつたのかも知れません。この辺鄙でその真価を知る人は寡いのですから。)その晩徹宵でこの詩集のあの重い手ざはりと活字に吸ひとられて仕舞ひました。松の針と無声慟哭のところへ来てとうとう涙を滾して仕舞ひました。

 ということで、花巻から遠く離れた南国の地に、ひそかに賢治に共鳴する同時代の詩人がいたというわけです。その作風には、賢治を思わせるような斬新な語法も見られたということですが、上の詩碑に刻まれている「櫻」は、平易で静かな、そして哀しい作品です。教師として、教え子の出征を見送った情景を回想するものでしょうか。

   櫻
                岡本彌太
おたっしゃでゐて下さい

そんな風にしか云えないことばが
さくらの花のちる道の
親しい人たちと私との間にあった
そのことばに
ありあまる人の世の大きな夕日や
涙がわいてきた

私はいまその日の深閑と照る
さくらの花のちる岐路に立ってゐる

おたっしゃでゐて下さい
私はその路端のさくらの花に
話しかける
さくらは
日の光に美しくそよいでゐる

 さて、向かって右側の詩碑の西村和三郎は、この岡本弥太を通じて賢治の作品を知り、やはり賢治のことを深く敬愛するようになったという詩人です。
 和三郎は、1913年(大正2年)に高知県土佐清水市に生まれ、高知師範学校(現高知大学)を卒業後、26年間小学校の教師をしながら詩作に励みました。教師を退いてからは、高知県議会議員を一期務め、1967年(昭和42年)に足摺岬の奥の未開の地を購入して、牧場を始めます。山中にて、ランプの灯りで清貧の生活を送り、1996年に亡くなりました。
 詩人としては、郷土の先輩である岡本弥太に師事し、生前に詩集『五月狂想』『修羅の恋歌』を刊行しています。

 この間、故・宮澤賢治に対する敬慕の念を強くした和三郎氏は、1940年(昭和15年)にはるばる花巻を訪ね、この時に宮澤清六氏や菊池暁輝氏と会ったということで、菊池氏と一緒に撮った写真も残っています。この縁で、翌年に清六氏から賢治遺言の『国譯 妙法蓮華経』を贈られて、以後は毎日法華経の勤行を欠かさず、土佐清水の町を団扇太鼓を叩きながら唱題して歩いた時期もあったということです。

 下の写真は、和三郎氏が所蔵していた『国譯 妙法蓮華経』です。和三郎氏はこれを「お飾り」などにはせずに、毎日座右に置いて読経に使っていましたので、特に「如来寿量品」の部分などは手垢にまみれ、後にこれを見た清六氏は、「ここまで読み込まれた版は見たことがない」と言ったということです。

西村和三郎氏旧蔵『国譯 妙法蓮華経』

 詩碑に刻まれている「山靈賛歌」は、和三郎氏が足摺の山中を開墾して「足摺牧場」を作っていた頃の一コマかと思われます。

   山靈賛歌
                西村和三郎
伐りゆくほどにゆくほどに
秘めし山霊の相にして
自からなるマンダラの
たからの苑ぞあらわるる
  とわの園生を開くべく
  いのち傾け老いゆかん
汗みどろなる肩よせて
石にいこいて語りしは
夢みるごとくちかいしは
そも現し世のことならじ

 「道を求めるのにひたむきで一途だった」という人で、土佐清水市の市街地から、当時はまだ電気も来ていない山の中に移り住んだわけですから、ご家族にとっては大変な面もあったでしょうが、子どもたちにはよく賢治の童話を読んで聞かせてくれたということです。

 おそらく1980年頃のことかと思われますが、宮澤清六氏が講演のために、当時はまだ高校生だった宮澤和樹さんを連れて、高知を訪ねられたことがあったそうです。この時に、和三郎氏とともに二人に会った次男の光一郎さんは、「いつか足摺の地に賢治の詩碑を建てたい」という願いを、清六さんと和樹さんに語られました。

 そして、今回やっとその西村光一郎さんの長年の念願がかなって、宮澤賢治・岡本弥太・西村和三郎という3人の詩碑が、和三郎の開いた「足摺牧場」の一角に、建立されたわけです。賢治の「雨ニモマケズ」は、その前半部が刻まれ、花巻の羅須地人協会跡にある元祖賢治詩碑に後半部が刻まれているのと合わせて、これで「一対」になるのだと、光一郎さんは話して下さいました。

 2019年7月15日に行われた除幕式には、はるばる花巻から宮沢和樹さんと、碑文の揮毫をした宮沢やよいさんのご夫婦も臨席し、総勢150名もが集まる盛会となりました。式では、西村光一郎さんが園長を務める「しみず幼稚園」の園児らによる「ポランの広場」の合唱や、「雨ニモマケズ」の朗読や、餅まきもありました。
 宮沢和樹さんは挨拶の中で、この足摺牧場の風景を評して、「賢治が愛した種山ヶ原に似ている」と述べられたということですが、緑の草原に牛や馬がくつろいでいる様子はまさにそのとおりですし、その草原から遠くに帯のように青く見えるのは、種山ヶ原の場合には「海だべがど、おら、おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」なのに対して、こちらはほんとうの海、黒潮の流れる太平洋が広がっているのです。
 今のところ下記リンクからは、7月16日に「テレビ高知」で放映されたニュース番組で、この詩碑の除幕式を伝える様子が視聴できます。西村光一郎さんや宮沢和樹さんも出ておられます。

宮沢賢治の詩碑 高知県土佐清水市に完成」(KUTV)

 8月11日の午後は、詩碑を見学させていただいた後、足摺牧場にある西村光一郎さんの弟さんのお宅で、上の貴重な『国譯 妙法蓮華経』を見せていただいたり、清六さんや和樹さんとのエピソードを聞かせていただいたりしました。その後、また牧場から土佐清水のバスターミナルまで車で送っていただき、再びバスに1時間ほど揺られ、四万十市の中村駅前に戻りました。
 晩ご飯は、四万十市内の居酒屋で、四万十川の天然鰻や、カツオの塩たたきなどをいただきました。

四万十川のウナギの白焼き

カツオの塩たたき

 ポン酢醤油のかわりに塩で食べる「カツオの塩たたき」は、高知市あたりでは粗塩をざらっと振ってあるのですが、四万十市など高知県西部では、「塩だれ」の中に少し漬け込んでから食べるのが特徴です。薬味は、たっぷりのタマネギ、青ネギ、ニンニクのやや厚めのスライスに、大葉の繊切り。何と言っても高知で食べると、たたきの一切れ一切れが無茶苦茶でかくて豪快(厚さ2cmくらい!)なのがいいです。

 夜は駅前のホテルに泊り、翌朝に中村駅からまた「特急あしずり」に乗りました。ちなみに、中村駅の売店コーナーで売っているお弁当は以前にも買ったことがあるのですが、安くてボリュームもあって美味しいです。
 下の「華かん彩り弁当」は、400円から480円くらいで中身が違う何種類かあり、これはご飯の上に小ぶりの鯖の塩焼きが半身まるごと!入っていて、さらにコロッケや卵焼き、こんにゃくの煮物、ごぼうサラダ、ししとうの煮物、春雨の酢の物なども入って、430円でした。

中村駅の弁当

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2019年8月 4日 想像上の〈みちづれ〉

 柴山雅俊氏の『解離性障害』(ちくま新書)に、次のような箇所があります。

ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
(中略)
  《幻想が向ふから迫つてくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう

 素足の子どもたちの幻視は「想像上の友人イマジナリイコンパニオン」がありありとした実在感を獲得したものであろうか。子どもたちは、すでにとりあげた「配偶者シユジユゴス」にみられる「友」「伴侶」「天使」「天の衣」などのイメージと重なる。彼らはまさに、時空を遠く離れたところからやってきた賢治の同伴者コンパニオンである。

 引用されているのは「小岩井農場」の「パート九」の一節ですが、柴山氏は、ここに幻視として登場する子どもたち――ユリア、ペムペルらを、賢治の「想像上の友人イマジナリイコンパニオン」と解釈しています。
 「想像上の友人(Imaginary Companion, 以下ICと略)」とは、幼児が一定期間にわたって架空の(想像上の)遊び相手を持ち、様々な形で交流を行うという現象のことで、たとえば田尻由起氏(「幼児期のICに関する研究 ─ 回顧調査からの検討」2004)は、次のように説明しています。

幼児期の子どもは,自らの想像(創造)した世界で自発的,能動的に遊び,それらに熱中する。そのような遊びの中で,架空の誰か(空想上の友達)を作り出し,それと遊び,話すようになる時期がある。それは現実とは区別されているが,ごっこ遊びや他の遊び同様,自発的意思に基づいた現象となっている。この乳幼児期の子どもの遊びにしばしば登場する仲間,遊び友達を一般にImaginary Companionという。

 ICの出現は、一人っ子や長子など単独で遊ぶ時間が長い子に多いとされ、一般に思春期までには消失するものですが、一部には青年期や成人期以降も存続している場合もあります。
 文学作品でも、ICと解釈できる存在が登場する例は多くあり、たとえばジブリで映画化もされた『思い出のマーニー』にも、そういう側面があります。

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 孤立感を深める少女アンナにとって、マーニーは自分を孤独から救い出し、勇気づけてくれる存在でしたが、賢治にとってのユリアとペムペルも、まさにそのような役割を果たしていました。

 前回も述べたように、「小岩井農場」を書いた頃の賢治は、同僚の堀籠文之進に対して「自分と一緒に歩んでほしい」と強く願う一方(=「〈みちづれ〉希求」)、しかしその思いがかなえられないことから、強い葛藤と孤独感を覚えていました。「小岩井農場」の「パート四」で彼は、何とかしてこの孤独感を振り払い、開き直ろうとしています。

いまこそおれはさびしくない
たつたひとりで生きて行く
こんなきままなたましひと
たれがいつしよに行けやうか
大びらにまつすぐに進んで
それでいけないといふのなら
田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ
それからさきがあんまり青黒くなつてきたら……
そんなさきまでかんがへないでいい
ちからいつぱい口笛を吹け
口笛をふけ 陽の錯綜
たよりもない光波のふるひ
すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
またほのぼのとかゞやいてわらふ
みんなすあしのこどもらだ

 ここで賢治は、堀籠が自分と一緒に歩んでくれないことに関し、「こんなきままなたましひと/たれがいつしよに行けやうか」と自ら認めて、一人で生きていこうと決心します。もしそれでうまく行かなければ、「田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ」というのは、もう教師なんか辞めたっていいということでしょうか。
 しかしこうやって何とか割り切ろうとしても、「それからさきがあんまり青黒くなつてきたら……」との不安がよぎり、やはり奥底の孤独感は拭えません。

 まさにその心の揺れのさなかに、「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる」という形で、幻の子どもたちが登場するのです。彼らは堀籠の代わりに、同伴者コンパニオン=〈みちづれ〉として賢治に付き添い、その孤独感を慰藉してくれます。
 そして賢治は彼らと会えたおかげで、「血みどろ」の孤独から救われたということが、「パート九」に記されています。

きみたちとけふあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになつて遁げなくてもいいのです

 思えば、「小岩井農場」の9日前の日付を持つ「手簡」という作品にも、やはり「白びかりの巨きなすあし」をもった存在に、賢治は懸命に呼びかけていました。

あなたは今どこに居られますか。
早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に
まっすぐに立ってゐられますか。
雨も一層すきとほって強くなりましたし。

誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。
向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。

いま私は廊下へ出やうと思ひます。
どうか十ぺんだけ一諸に往来して下さい。
その白びかりの巨きなすあしで
あすこのつめたい板を
私と一諸にふんで下さい。

 ここでも賢治は、「あなた」と呼びかける存在と、「一諸に往来」することを強く願っています。すなわち、同伴者コンパニオン=〈みちづれ〉を、求めていたのです。

 前回の記事で書いた賢治の「〈みちづれ〉希求」は、もしも現実にかなわなければ、「想像上の〈みちづれ〉イマジナリイコンパニオン」として可視化されてしまうほど、彼にとって切実かつ差し迫ったものだったと思われるのです。

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2019年7月28日 「〈みちづれ〉希求」の挫折と苦悩

 長詩「小岩井農場」には様々な側面があり、様々な解釈が可能でしょうが、その初期形における重要なモチーフの一つは、「農学校の同僚の堀籠文之進と仲良くなりたいが、うまく行かない」という賢治の悩みでした。
 もっとも、この堀籠をめぐる葛藤に関する記述は、後の推敲によって削除され、全く痕跡をとどめない状態にされてしまうので、出版された『春と修羅』に掲載されている形態を見るかぎりは、そのようなモチーフはうかがい知れません。しかし賢治が、この日の小岩井農場散策を途中で取りやめ、引き返すという決断をしたのも、実は堀籠に対する気持ちによるところが大きく、早く花巻に戻って農学校に寄れば、日直をしている堀籠と一緒にチョコレートを食べられるかもしれない、と考えたからだったのです。

 もちろん、賢治が引き返した直接のきっかけは、よく知られているように「雨が降り出したから」だったのですが、「下書稿」や「清書後手入稿」を見ると、彼は雨が降り出すかなり前から、「もう柳沢へ抜けるのもいやになった」と記し、何時の列車に乗れば農学校に寄るのに都合がいいかなどと、しきりに考えているのです。

五時の汽車なら丁度いゝ。
学校へ寄って着物を着かへる。
堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。
錫紙のチョコレートをもち出す。
けれどもみんながたべるだらうか。
それはたべるだらう、そんなときなら
私だって愉快で笑はないではゐられないし
それにチョコレートはきちんと、
新らしい錫紙で包んであるから安心だ。

 賢治はこんなことを考えながら、しかし引き返す決断はできないまま歩みを進めていたところに、急に雨が降ってきたので、これ幸いとばかりに「引っ返せ 引っ返せ」と自分に掛け声をかけ、Uターンをしたのです。
 この一連の流れを見ても、当時の賢治にとって堀籠に関する悩みが、どれほどのウェイトを占めていたのか、ということがわかると思います。

 実際にこの1922年5月21日(日)、小岩井農場から予定を早めて花巻に戻った賢治が、農学校に立ち寄って堀籠文之進とともにチョコレートを食べたのかどうかはわかりません。しかし賢治にとって、堀籠との関係をめぐる葛藤は、その後も続いていたようです。
 それを物語るのは、『新校本全集』の「年譜篇」の1923年3月4日の項に記されている、二人の間の特異な出来事です。

 同僚堀籠文之進と一関へハイキング。途中一切英会話。一関で上演中の歌舞伎を見物し、10時を過ぎる。汽車もなく、飲み屋で休み、月夜を幸い帰る。
 途中、たまたま信仰の話に及んだとき、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」といい堀籠の背中を打った。
 「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました。痛かったでしょう。許してください」といい、平泉駅につき待合室のベンチで休み、夜明けとともに下り列車に乗り、花巻まで一睡する。

 職場の同僚である堀籠の背中を打つというこの賢治の行動は、前回も引用したような、「穏やかで、温和で、謙虚な」賢治の人柄のイメージからすると、かなり意外なものです。このような行動の背景には、何らかの強い「感情」の存在を想定せざるをえません。
 この時二人は、「信仰の話」をしていたということで、賢治が「どうにも耐えられない」と言った理由は、おそらく堀籠が、自分は賢治と同じ信仰を持つことはできないと、はっきり言明したか何かだったのでしょう。日蓮系の教団では、周囲の人に「折伏」をして、少しでも多くの信者を獲得することを特に重視しますので、この時賢治が「一人の信者を獲得し損ねた」ことは、かなり残念な結果だったことでしょう。
 しかし、当時の賢治にとって堀籠が、単なる折伏の対象としての「一人」にしか過ぎなかったとは、到底思えません。もしそれだけのことだったなら、賢治が周囲の人に日蓮の教えを勧めた際には、相手が断るたびごとにその人の背中を叩いていたはずですが、もちろん実際はそんなことはありません。ですから、ここで賢治に堀籠の背中を打たせた「感情」は、堀籠という個人に対して、特別に向けられていたものだったということになります。

 その感情とは、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか」という賢治の言葉に表れているように、「自分と一緒に歩んで行く人を求める」という思いでしょう。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニがカムパネルラに言った、「どこまでもどこまでも一緒に行かう」という願いと同型なのが印象的で、これは賢治にとって、重要なテーマだったのだろうと推測されます。
 このような、「生涯の同伴者を求める」という賢治の強い感情のことを、ここでは「〈みちづれ〉希求」と名づけておこうと思います。〈みちづれ〉という言葉は、賢治が「無声慟哭」において、トシにとっての賢治自身のことを、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」と呼んだことからとっています。

 思えば、宮澤賢治という人は、『春と修羅』の時期の少し前から、〈みちづれ〉を強く希求しては失うという挫折を、下記のように毎年経験していました。

  • 1921年7月: 保阪嘉内との別れ
  • 1922年11月: トシの死
  • 1923年3月: 堀籠文之進への諦め(上述)

 このような悲痛な体験の連続は、彼に深い喪失感と孤独感をもたらしたでしょうが、これらの苦悩の直視と昇華こそが、『春と修羅』という詩集の、本質的なテーマだったと言えるのではないでしょうか。

 前回も見たように、詩「春と修羅」で抉り出された「自らの《修羅》性」とは、童話「土神ときつね」において類型化されているように、土神の象徴する「修羅の瞋恚的側面」と、狐の象徴する「修羅の諂曲的側面」という二面に分けて考えることができます。そして、そのどちらの側面も、「小岩井農場」の初期形に描かれたように、堀籠に対する過剰で一方的な「〈みちづれ〉希求」と、現実との齟齬において、自覚され記載されたものでした。

 長詩「小岩井農場」は、当初は堀籠に対するこのような心理的=《修羅》的葛藤を主要なモチーフとしていましたが、推敲の過程でそこに含まれる個人的要素は削り取られ、最終的にはただ「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛=宗教情操」に昇華すべきだという理念のみが、高らかに謳われることになります。推敲後の「小岩井農場」では、堀籠の名前すら出ず、ただ「さびしい」とか「さびしくない」とかいう抽象的な言葉だけが残され、最後の「宗教情操」をめぐる大団円に至るので、その具体的な意味がわかりにくくなっていますが、もとはこの作品のテーマも、「〈みちづれ〉希求」に関連した苦悩だったわけです。

 また、トシの死後の「無声慟哭」の章と、「オホーツク挽歌」の章の諸作品が、トシに対する「〈みちづれ〉希求」の挫折と、その後の苦悩を描いたものであることも、言うまでもありません。そしてここでも賢治は、「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉に集約されるように、「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛」に昇華しなければならない、という結論に至ります。

 詩集『春と修羅』の最後の章である「風景とオルゴール」では、個別の人間に対する「〈みちづれ〉希求」を昇華する一つの方向性として、「自然への愛」への志向が描かれています。「過去情炎」では、賢治は梨の木に対して「待つてゐたこひびとにあふやうに」接し、「一本木野」では、自然の中を歩く恩恵を「こひびととひとめみること」とでも取りかえると言った後、「わたくしは森やのはらのこひびと」と宣言します。

 以上のように、賢治は己れの過剰な「〈みちづれ〉希求」が招来する苦悩を、『春と修羅』の諸作品を書きつつ推敲しつつ必死で乗り越えて、ついには新たな段階に入っていったように見えます。したがって、彼の生涯のうちで、そのような葛藤が作品のテーマとなっていた時期は、せいぜい数年間にすぎません。
 しかし、若き日の彼がこのような経験をしたことが、その後も含めた彼の作品に、独特の奥深さと陰翳をもたらしてくれたことは、確かだと思います。

 それから、賢治のこの感情は独特なもので、作品の記述などから想像するに、それはおそらく世間一般の「友情」とか「家族愛」などをはるかに超越する強度だったと、考えざるをえません。この「独特さ」を無視して、賢治の具体的行動や作品の描写を、普通人の心理に当てはめて解釈しようとすることから、「保阪嘉内に対する感情は同性愛だった」とか、「トシとの間には禁断の愛があった」などという俗説が生まれてしまうのだと思います。『宮沢賢治の真実』で今野勉氏は、堀籠文之進に対する感情も同性愛として論じておられますが、保阪嘉内の場合も含め、彼らを〈みちづれ〉として求めた賢治の感情を、「性欲」を伴った「愛」と解釈すべき根拠は、わかっている範囲では何も見出せません。

 私としては、賢治のこの独特の感情に何か名前があった方が、上記のような俗な誤解を招きにくくなるのではないかと思い、とりあえず「〈みちづれ〉希求」と呼んでみた次第です。

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2019年7月21日 諂曲なるは修羅

 本日の記事の趣旨は、詩「春と修羅」の「諂曲てんごく)」」という言葉によって、賢治はいったい何を表現しようとしたのかということについて、具体的に考えてみようとするものです。

  春と修羅
      (mental sketch modified)

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

 この作品「春と修羅」は、詩集『春と修羅』のタイトルにもされているように、賢治にとって非常に重要な意味を持つ一篇だったと考えられます。天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現していますが(「《宮澤賢治》作品史の試み」)、その二つの中心テーマとは、「己れの《修羅》性の発見」と、「妹の死」です。

 では、賢治が自己の内に見出した《修羅》性とは、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。賢治も愛読した島地大等編著『漢和対照妙法蓮華経』では、「修羅」について次のように説明されています。

【阿修羅】(Asura)略して「修羅」ともいふ。非天、非類、不端正と訳す。十界、六道の一。衆相山中、又は大海の底に居り、闘諍を好み常に諸天と戦う悪神なりといふ。


 すなわち、仏教で修羅という存在は、好戦的で、「怒り」や「攻撃性」がその最も顕著な特徴とされているのです。
 「春と修羅」のテキストに、「いかりのにがさまた青さ」とあったり、自らについて「唾し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」と記していたりするところなどは、そういう自己の内の「怒り」の表現の、典型なのだと思います。
 しかし現実の賢治という人が、このような「怒り」を表に出す人だったのかというと、一般的な基準から言えば、むしろ「穏やか」で「温和」で、「謙虚」な人だったという評価がほとんどのようです。下記は、彼がこの「春と修羅」を書いた前後、すなわち農学校に勤めていた頃の周囲の人々の証言を集めた、佐藤成著『証言 宮澤賢治先生』から、「3 賢治という人」の「人間像」の一部です。

 賢治はどんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人であった。
 賢治を教師に推せんした羽田視学も、畠山校長も異口同音に賢治のことを、おだやかでもの静か、勤務ぶりも熱心で生徒に深い愛情をもった勉強家であったと語っている。(佐藤成)

 賢治という人は生来本質的に、人を責めること、人を煽動すること、声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたりするというようなことを好まない人であった。(佐藤隆房)

 とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人でした。賢治のお母さんという人も、観音様のように非常になごやかな感じの人でした。とにかく彼の居る一帯の雰囲気がなごやかになるような、そういう人だった。
 普段の賢治は、けっしていばらない人でした。話す相手にあわせて、話をしたのです。(藤原嘉藤治)

 ということで、周囲から見た賢治は、《修羅》的な「怒り」や「攻撃性」からは、程遠いタイプの人だったようです。ただしかし、どんな人間も一面だけでは捉えられないもので、たとえば上の佐藤隆房氏の証言には「人を煽動すること、声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたりするというようなことを好まない人」とありますが、農学校に就職する同じ年の中頃までは、彼は東京で国柱会の宣伝奉仕活動に従事し、「声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたり」ということをやっていたのも事実です。
 またその前年には、次のような手紙も書いています。

突然ですが。私なんかこのごろはブリブリ憤ってばかりゐます。何もしやくにさわる筈がさっぱりないのですがどうした訳やら人のぼんやりした顔を見ると、「えゝぐづぐづするない。」 いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふのを思ひだしながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります。いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。確かにいかりは気持が悪くありません。関さんがあゝおこるのも尤です。私は殆ど狂人にもなりさうなこの発作を機械的にその本当の名称で呼び出し手を合わせます。人間の世界の修羅の成仏。そして悦びにみちて頁を操ります。(保阪嘉内あて書簡165)

 この書簡は、1920年の6月-7月頃のものとされており、「いかり」が「真青」に見えるという色彩的な共感覚や、「その本当の名称」として「修羅」を挙げているところも含め、「春と修羅」という作品に通ずることころが大きいと感じられます。

 ただし上の書簡でも、自分の内に「いかり」が煮えたぎっていて、「机をなぐりさうに」なることもあると書いてあるだけで、実際に彼がその怒りを外に「表出」したとまでは、書かれていません。本来の「修羅」は、単に「内心に怒りを秘めている」だけではなく、「闘諍を好む」性質を持っているわけで、怒りを何らかの形で外に出す存在です。
 では、賢治自身は、実際に「怒りをあらわにする」ということがあったのでしょうか。

 一つの例としては、盛岡高等農林学校の修学旅行中のエピソードとして、同級生の大谷良之が書き残しているものがあります。箱根の関を、同級生8人で歩いて越えようとしていた時のことです。

関所跡も近づいて土地も広く開け畑地が見える所にさしかかつた。「関所跡までどれ位ありますか」と農夫に聞いたところ「そうじやのー、あと二里あるで」と返答があつた。所が大きな声で「馬鹿野郎、嘘つくなツ」と宮沢君が叫んだ。私は農夫が怒つて追いかけて来はしないかと恐ろしかつたが、彼は平気な顔をしておる。あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が、あんなに叫んだのは彼のあの鋭どい感覚で農夫が大嘘をついたのを見破り、純情の彼としては我慢できなかつたのであろう。(川原仁左エ門『宮沢賢治とその周辺』)

 大谷自身が、「あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が……」と言っているように、このような激しい表出は、賢治にしては非常に珍しいことだったようですが、それでも全くなかったわけではないことがわかります。

 まとめると、賢治という人は、一般的に言えば全く怒りっぽい人でも粗暴な人でもなく、むしろその逆だったと思われるのですが、自らの心のうちに「怒り」を抱えて苦しむことは実際にあり、まれにはそれを表出することもあったようです。こういったことは、誰でも多かれ少なかれあって当然と思いますが、賢治の感受性の強さのためか、あるいは自分自身に対する「厳しさ」や「潔癖さ」のためか、そのような自分を耐え難く感じていた、ということかと思います。

 と、以上のような事柄は、賢治の《修羅》性について、これまでにも言われてきたことだと思いますし、特に新味はないでしょうが、今回私が気になったのは、「修羅」が持つもう一つの側面についてです。
 仏教において「修羅」という存在は、「怒り」や「攻撃性」によって特徴づけられるとともに、もう一つ「諂曲」という要素も、重要なものとされています。「諂曲」の「諂」とは「へつらう」、「曲」とは「心を曲げる」ということで、合わせて「自分の意志を曲げて相手にこびへつらうこと」(『日本国語大辞典』)です。

 この「諂曲」は、日蓮の「観心本尊抄」において、「修羅」の本質的特徴として、次のように説かれています。

しばしば他面を見るに、或時は喜び、或時はいかり、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時はおろか現じ、或時は諂曲てんごくなり。瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏して現はれざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし。

 ここで日蓮は、はたして人間に仏性は備わっているのか、という問題を説き明かすために、人間の様々な「顔」を見てみれば、そこには「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」の六道が表れているのだということを、述べています。すなわち、「瞋」っているのは地獄、「貪」っているのは餓鬼、「癡か」なのは畜生、「諂曲」をするのは修羅、「平らか」なのは人、「喜ぶ」のは天、だというのです。日蓮は、「瞋り」は「地獄」の方に当てはめる一方、「修羅」の特徴としては「諂曲」を挙げていて、むしろこちらの方を重視しているようにも見えます。
 そしておそらく日蓮のこのような記述を背景として、賢治の「春と修羅」の心象世界は、「いちめんのいちめんの諂曲模様」によって覆われているのです。「諂曲」は、「怒り」とともに、賢治が己れの《修羅》性を問題にする上では、もう一つの重要な側面だったはずです。
 それでは、賢治は具体的に自分のどのような部分を、「諂曲」として認識し、自戒していたのでしょうか。現実の賢治には、「諂曲」と言えるような側面が実際にあったのでしょうか。

 これは、生前の賢治の人となりにおいて、「怒り」や「攻撃性」を探すよりも、さらに難しいことに思えます。周囲人々の証言によれば、彼は嘘や偽りを特に嫌がり、人に媚びへつらうような態度をとることがあったとは、到底思えないのです。
 上にも引用した、佐藤成著『証言 宮澤賢治先生』には、次のような記載があります。

 宮沢君は嘘をつく人間が大きらい、往来で行きあっても見向きもしない。(大谷良之)

 賢治はいつでも相手を見透かしてものをいっている。嘘や偽りは大嫌いで、真実純真、そういうものがすき、どんな偉そうな人でも恐れない、弱点をすぐ見破るという人であった。(藤原嘉藤治)

 先生は嘘やいつわりを極度に嫌われた。またいやなことはいやとはっきりすれば喜ばれ、義理にもいやなことを承諾したりするとかえって機嫌が悪かった。正直の徳を尊ばれた。(菊井清人 大・十五卒)

 以上のように、賢治を知る人の証言や、伝記的な記録から、彼が実際に「意志を曲げて媚びへつらう」ようなことをしたという証拠を探し出すのは、不可能なような気がするのですが、それではなぜ賢治が自らの心象世界を、「いちめんのいちめんの諂曲模様」と描写したのか、このままではその理由がわかりません。
 そこで、この「諂曲模様」が具体的にどういうことを意味しているのかということについて、これまでの研究者の解釈を参照してみようと思うのですが、有名なフレーズの割には、あまり多くの解説はないようです。

 その中で、まず恩田逸夫氏は、「詩篇「春と修羅」の主題と構成」(天沢退二郎編『「春と修羅」研究 II』學藝書林所収)において、次のように説明しています。

 さて、賢治は自己の心象風景を自然の風景に托して「諂曲模様」といって自戒しています。「諂」とは媚びへつらうことで、ここでは自分自身を甘やかす傾向でしょう。「曲」とはねじまげた誤れる受けとり方です。賢治のこのような暗い心情とは対照的に、天からは春の琥珀色のキラキラした陽光が降り注いでいます。

 この解釈では、賢治が媚びへつらっているのは「自分自身」に対してであり、彼は自らの内にある「自分自身を甘やかす傾向」を自戒して、このように表現したと考えられています。つまりこれは、「自己欺瞞」の一種だというわけです。
 恩田氏がこのように解釈した理由は、賢治が「他人に対して媚びへつらっていた」という状況が想定しにくいために、「自分に対して」と考えざるをえなかったということかと思いますが、しかし「自分で自分に諂曲する」というのは、理屈としては言えなくもないかもしれませんが、この言葉の現実の解釈としては、非常に無理があるように思います。
 そもそも「修羅」の本質は、自分ではなく他者と争って優位に立とうとすることであり、その際の手段として、多くの場合は好戦的に戦いますが、しかし相手が強いと見ると「媚びへつらって」、少しでも自分を有利に見せようとするのが「諂曲」のはずです。
 したがって、この解釈にはちょっと賛同できません。

 次に、今野勉氏の『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)を、見てみます。

 「諂曲」とは、「へつらうこと」だが、そのままでは意味をなさない。日蓮の『観心本尊抄』に「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かなるは畜生、諂曲は修羅」とある。ここで「諂曲」を「こびへつらう」とすると、「修羅」は、こびへつらう人となってしまう。島地大等の『妙法蓮華経』の「方便品第二」に、「諂曲心不実しんふじつ」という言葉が出てくる。島地は「諂曲」の字の右に「てんごく」とルビを付し、左側に片仮名で「ヨコシマ」とカナを当てている。すなわち「よこしま」である。「諂曲心不実」は「邪にして心不実なり」だ。とすると、日蓮の「諂曲は修羅」は「邪なるは修羅」と解さなければならない。『梵漢和対照・現代語訳 法華経』でも、訳者で仏教学者の植木雅俊は「諂曲」を「心のひねくれたものたち」としている。「諂曲模様」は、したがって「邪な模様」、すなわち「正常ではない、異端の様相」という意味としていいだろう。賢治の立っている心象風景は、「邪」な風景なのだ。
〔中略〕
 賢治は、自らを「邪な修羅」としている。「冬のスケッチ」に賢治は、「このこひしさをいかにせん/あるべきことにあらざれば」という言葉を遺した。
 「この恋は、あってはならないものだ」という、罪の意識が賢治の中にはある。「自分は邪なことをしている」という意識だ。それを強烈に示す言葉が、保阪あての賢治の手紙にある。

 すなわち今野氏は、もしも「諂曲」を「媚びへつらう」という意味に解釈すると、「「修羅」はへつらう人となってしまう」から「意味をなさない」、という根拠に基づいて、「諂曲」とは「邪」という意味である、と解釈しなおすわけです。 そして、賢治が自らのことを「邪」と考えた理由は、保阪嘉内に対する同性愛を抱いていることに対する罪の意識であるというのが、今野氏の説です。
 しかし、すでに上に見たように、修羅とは一面ではまさに「へつらう人」であるというのが仏教の教説であり、それを賢治が理解していなかったはずはありません。

 最後に、宮澤清六氏の「『春と修羅』への独白」を見てみます。この清六氏の文章は、「研究」というよりは、『春と修羅』の諸作品をもとにした「随想」とも言うべきものですが、それでも個々の作品について、作者のすぐ側にいた人ならでは解釈が記されているので、いろいろと教えられるところが多いものです。
 この「『春と修羅』への独白」(ちくま文庫『兄のトランク』所収)から、「諂曲」と関係している部分を抜き出すとすれば、次の部分がそうでしょう。

  心象のはひいろはがねから
  あけびのつるはくもにからまり
  のばらのやぶや腐植の湿地
  いちめんのいちめんの諂曲模様

 幾億の巧智にたけた蜘蛛やなめくじや狸やねずみ。
 世界いっぱいに張りめぐらされた精巧きわまる舶来製のトラップやかすみあみ。
 さては各地に駐屯する山猫博士、カイロ団長、オッペル達の群落。
 億千の鳥やけものや羽虫のむれ。
 それらが毎日殺し合ったりだましたり、接合したり離散したり、そねみあったりけなしたり、ひだりになったりみぎになったり、ただもう、せわしくせわしく発生したり消滅したりしているのだ。
 しかもそのまたひとつひとつが、どれでも彼自身の中のみんなであることがあまりにも明らかで、世界ぜんたいのさいわいがはるかにはるかに遠方であることに心痛み、修羅の怒りは燃えさかり、修羅は地面に慟哭し、風景もなみだにゆれるのだ。

 上記のうち、「諂曲」に関連する表現としては、「蜘蛛やなめくじや狸やねずみ」が「巧智にたけた」と形容されているところ、そしておそらく彼らが仕掛けた「精巧きわまる舶来製のトラップやかすみあみ」、「それらが毎日殺し合ったりだましたり…」という箇所などが、「心を曲げて媚びへつらう」という意味に通じているのかと推測されます。
 そうすると、「諂曲」という性質を帯びているのは、賢治という個人ではなく、「蜘蛛やなめくじや狸やねずみ」、あるいは「山猫博士、カイロ団長、オッペル達の群落」なのだというのが、清六氏の解釈なのでしょう。ただし、これらの悪者たちと賢治は無関係なのではなく、「しかもそのまたひとつひとつが、どれでも彼自身の中のみんなである」という、『春と修羅』の「」に記されたような相互包含の世界を形成しているのですから、賢治自身もこのような「諂曲」性と、分かちがたく絡み合っているということになるのでしょう。
 これも、一つの見方かとは思いますが、しかし私として違和感を覚えるのは、特に作品「春と修羅」における賢治の自我は、このように世界と密接に繋がり合っているというよりも、非常に強く孤立し、全世界から疎外され、一人だけ浮いているように、私には感じられるからです。通り過ぎる農夫を見ても、「ほんたうにおれが見えるのか」との疑念を抱くのは、対象から何かで隔てられているような疎外感のためかと思いますし、「風景」を「ゆすれ」させている「なみだ」も、自分と外界との間の透明な壁のようです。
 私が「春と修羅」という作品から感じる、このような深い孤独感・疎外感からすると、「おれはひとりの修羅なのだ」という自己認識は、どうしても「世界ぜんたい」のものではなく、自分がたった「ひとり」で背負っている、「業」のようなものに思われるのです。私としては、賢治が抉り出した「修羅性」は、あくまで自分個人のものであり、清六氏の解釈のように彼が世界とともに担っているとは、どうしても思えないのです。

 以上のように、私から見ると、賢治の「諂曲性」については、これという妥当な解釈が見当たらないというのが実感です。賢治はいったい、自分のどのような部分が「へつらう人」だと認識し、自戒していたのだろうか、というのが今回の記事の主題です。

 この問題について別の角度から考えてみるために、賢治の童話「土神ときつね」を参照してみます。
 「土神ときつね」には、粗暴で怒りっぽい土神と、上品で弁舌爽やかだが少し不正直な狐と、その二人が思いを寄せる樺の木が出てきます。この土神と狐は、対照的な存在ではありますが、どちらも賢治自身のある側面を象徴しているということは、これまでにも指摘されてきました。
 土神は、素朴な驚きの目で自然を見る感性を持つ一方で、自らの感情を処理できず、苦悩しています。狐は、西洋の科学や文学の知識が豊富で、それらを魅力的に語ることができます。どちらの特性も、まさに賢治らしいと言えますし、またこの作品の改作を検討したメモに、土神を「退職教授」に、狐を「貧なる詩人」にするという案があり、これもそれぞれ賢治の人生の一側面に対応しています。

 一方、二人のうちで土神の方は、「修羅」を象徴する存在と解釈できることも、多くの研究者によって指摘されてきました。怒りっぽく乱暴なところはもちろん「修羅」の特徴ですし、詩「春と修羅」との関連では、土神の棲んでいるのが「湿地」であること、怒りに燃えると「歯噛み」をして「その辺をうろうろ」すること、通り過ぎる木樵から姿が見えないこと、最後ではその泪が雨のよう降るところなどが、「春と修羅」に共通した描写と言えます(栗原敦氏などによる)。

 今回、私としてはこれに加えて、実は「修羅」を象徴しているのは「土神」だけではなくて、「狐」もまた「修羅」の一側面を表しているのではないかということを、考えてみたいのです。
 すなわち、怒りっぽく乱暴な、修羅の「瞋恚的側面」を土神が体現しているのに対し、その「諂曲的側面」――相手に取り入るために媚びへつらい、自分を良く見せるためには事実を「曲げて」嘘もついたりする部分――を、「狐」が体現しているのではないかと考えるわけです。
 このような観点が、「土神ときつね」という作品を理解する上でどんな意味を持つかということは、また別途考えるとして、とりあえず今回はこの解釈を、「賢治の内の修羅の諂曲的側面」を考える上での、補助線として利用してみたいと思います。

 上述のように、生身の賢治を対象として、「どこに諂曲があるのか」と直接探してみても、なかなか見つけるのは難しいのですが、ここで賢治と「諂曲」との間に、この「狐」を置いてみると、見えてくるものがあるように思います。
 もちろん賢治は、この狐のように嘘をついて人を騙したりすることはなかったでしょうが、それでも下記のような例を見ると、調子に乗ってちょっと大言壮語してしまうことは、あったのかもしれません。
 「小岩井農場」の清書後手入稿で、「春と修羅補遺」に「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」として分類されている草稿の、次の箇所を見てみます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、同僚教師の堀籠文之進と何とかして親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけたりしているのですが、なかなかうまく行きません。引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところなどは、土神がぜひとも樺の木と仲良くなりたいのに、不器用で乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられてしまいます。
 この部分は私にとって、賢治の「土神的な側面」、すなわち「修羅の瞋恚的側面」を、表しているように思えます。

 これに対して、その前の方で「鞍掛山は南昌山や沼森の系統に属し、岩手山の系統とは異なっていて、石英安山岩があるかもしれない」という地質学的な知見を得意気に堀籠さんに披露し、「これは私の発見です」と言って自慢までしているところからは、私はあの「狐」の樺の木に対するおしゃべりを、連想してしまうのです。
 鞍掛山が岩手山よりも地質学的にかなり古いという説は、「国立公園候補地に関する意見」においても、「ぜんたい鞍掛山はです/Ur-Iwate とも申すべく……」などと書かれており、賢治の十八番の一つでした。これは、現代の地質学から見ても正しいということですが、しかしこれを「私の発見です」とまで主張するのは、ちょっと賢治の勇み足ではないでしょうか。
 科学の分野で「自分の発見」と言うためには、それを学会で発表するなり、論文にして学術雑誌に投稿するなりして、その分野の研究者コミュニティに承認される必要がありますが、賢治はそういう手続きを踏んだわけではなさそうです。確かに、彼は独力でこれを「発見」したのかもしれませんが、それより前に別の研究者が、すでに発見し報告していた可能性もあります。
 こういう風に、思わずちょっと「話を盛って」しまい、相手の気を引こうとしているところが、「土神ときつね」における「狐」のおしゃべりに似ているように、私は思うのです。
 そして、あの「狐」が象徴するのが「修羅の諂曲的側面」だったとすれば、賢治は自分自身の行動のうちで、こういう部分を「諂曲的」だと捉えて、反省し、自己嫌悪を抱いていたのではないかと、私は推測するのです。

 もしも、このような読み方が成り立ちうるのなら、「小岩井農場」の下書稿段階では、樺の木に対して「土神」と「狐」が対照的なアプローチをしつつ争っていたように、堀籠さんの気を引こうとする賢治が「修羅の二側面(=瞋恚性と諂曲性)」を露呈して、葛藤していた様子が記録されているのだと、考えることができます。
 ただし、「小岩井農場」のそのような側面は、その後の推敲によって抹消され、最終的にはもっと抽象化された形で、人間一般における「愛」のあり方として昇華され、理論化されることになります。

 長詩「小岩井農場」の推敲は、元あったその九つの「パート」のうち三つも抹消するような大規模なものでしたが、上記のような視点からその作業の意味を考えてみると、それは一方では、賢治が「主観的な愛」を「客観的な愛」へと昇華しようとした過程であり、そしてもう一方では(それと表裏をなす動きとして)、「主観的な〈幻想〉観」を「客観的な〈幻想〉観」へと転換した過程だと言うことができるのではないかと私は思うのですが、これについてはまたいつか、別稿で考えてみたいと思います。

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2019年7月 7日 京都市に「風の又三郎」像

 種山ヶ原に設置されている、あの魅力的な「風の又三郎」像(中村晋也氏作)と同じものが、なんと京都市内にもあるよ!と教えて下さった方がありまして、今日は学会で深草の龍谷大学に行ったついでに、一緒に見てきました。
 下が、その又三郎君の写真です。

「風の又三郎」像(京セラ本社前)

 この銅像は、京都市伏見区の京セラ本社ビル前に設置されています。
 以前から京セラ株式会社は、本社ビル内に「京セラギャラリー」を開設して、様々な美術作品を無料で展示していましたが、しばらく前からその一環として、この本社ビル前庭において、中村晋也氏の彫刻作品4体を、道行く誰でも鑑賞可能な状態で設置してくれていたのです。
 ただこの場所は、上写真の背景に見えているような高架の自動車道(第二京阪道路)と、反対側には地上20階建ての京セラビル(95m)に挟まれた、高層都市建造物の「谷間」のような一角で、大自然の中に立つ種山ヶ原の像とは、環境の違いが歴然としています。(「風の又三郎」の書き出しが、「谷川の岸に小さな学校がありました」というのとは、同じ「谷」でも雲泥の差です。)
 私が知るかぎりでは、あの種山ヶ原の像が今もきれいな銅色あかがねいろでつやもあったに比べると、こちらは表面に少し緑青も浮いているようで、やはり排気ガス中の硫黄酸化物や窒素酸化物等の影響があるのかもしれません。

京セラ本社ビル

  しかしそれでも、こちらの又三郎君もやっぱり表情は健気で凜々しく、都会の中でもここだけには、清々しい風が吹き渡っているような感じがしました。思えば彼は、いつも地球上のどこへでも自由自在に飛び回っていますから、時にはこういうごみごみしたところにもやって来て、自然を忘れそうになっている都会人を慰めてくれるのかもしれません。
 今日は日曜日ということで、京セラビル前庭のベンチには、多くの若い人が座ってお昼を食べたりしながら、くつろいでいました。

 それにしても、本日は貴重な時間をさいて案内をして下さったTさんに、ここにあらためて感謝申し上げます。

 ところで、龍谷大学であった日本病跡学会では、午前中に下のような発表をしたのですが、タイトル背景に使った写真は、こちらも偶然に「種山ヶ原」でした。

「宮沢賢治の作品に現れる超常体験と解離」

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2019年6月18日 火の車の歌

 宮澤賢治ともいろいろ縁のあった詩人の草野心平は、生前に屋台の焼き鳥屋「いわき」をやったり、居酒屋「火の車」を開いたり、賢治とはまた趣の違った、破格の人生を歩んでいます。心平が東京で焼き鳥屋を開店するにあたっては、賢治が「電気ブドウ酒」という一種の合成酒の製法を手紙で伝授したというエピソードも残っています。

「火の車」一日開店

 ところで少し前のことですが、去る3月10日にいわき市の「草野心平記念文学館」において、往年の「居酒屋火の車」を再現した「居酒屋「火の車」一日開店」という催しが開かれました。私も日帰りでのぞいて来たのですが、その際に同館の専門学芸員の小野浩さんが、居酒屋「火の車」のテーマソングとも言うべき「火の車の歌」を、当日の参加者に教えて下さいました。
 素朴でちょっと破れかぶれで、哀愁も漂う感じなのですが、作曲は深井史郎というクラシックの作曲家で、草野心平の「蛙」や「小川の歌」による歌曲も作曲している人です。この人も、「火の車」の常連だったのでしょうか。

 今日はこれを、VOCALOID の Kaito と Mew に歌わせてみました。下がそのMP3ファイルです。クリックしたら再生すると思います。

♪「火の車の歌」(MP3:1.13MB)

 

火の車の歌

 居酒屋「火の車」の場所は、文京区田町28番地で、間口は1間半で奥行きは2間という狭いスペースに、1尺2寸のカウンターとテーブル4つを置いたという店でした。詩人の宗左近は、「かつてこのように格調高く、また、メチャクチャな飲み屋があったろうか。このように度外れの酔客がいただろうか」と書き残しています。

居酒屋「火の車」

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2019年6月 9日 優美な死骸

 『新校本全集』第十六巻年譜篇の1924年の項に、次のような記載があります。

 この年藤原嘉藤治および小原弥一の回想によれば、中小路の高日義海花巻高等女学校校長宅で月一回定期的に座談会が行われた。メンバーは藤原嘉藤治(花巻高等女学校)、羽田正一(県視学)、宮沢賢治、白藤慈秀、阿部繁(花巻農学校)、小原弥一(八重畑小学校)、多田辰己(花巻小学校)らで、自由に教育や時事問題、人生論思想論を語りあったという。座談会というのが流行したことと高日校長の話題をふやす意味もあったという。お茶とお菓子だけで酒食は出なかった。藤原嘉藤治の「他を犯さずに生きうる世界というものはないだろうか」の設問に答えたのが賢治の童話「ビジテリアン大祭」であったという。賢治が、山おくの昼なお暗い密林の中に一筋の川が流れ、そこに黒髪を乱しながら女の死体が漂ってきた、そのときわれらはどうするか、という難問を出したこともある。

 当時の花巻の、教育関係のトップたちによる「座談会」が毎月行われていたという記載ですが、賢治の「ビジテリアン大祭」が、この会における藤原嘉藤治の「他を犯さずに生きうる世界というものはないだろうか」の課題に答えるものだったというのは、面白い逸話です。嘉藤治の設問に対して、たとえば賢治が菜食主義の立場から持論を展開し、それに対して他の人々から様々な反論が出された様子が、「ビジテリアン大祭」の議論にも生かされているのかもしれません。
 またこの、「他を犯さずに生きうる世界」という発想は、1924年10月の日付を持つ「業の花びら」(「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」下書稿(二))に出てくる、次の一節を思い起こさせます。

ああ誰か来てわたくしに云へ
億の巨匠が並んで生れ
しかも互ひに相犯さない
明るい世界はかならず来ると

 このような例を見ると、この「座談会」で出た話題が、ひょっとしたら賢治の他の作品のモチーフになることもあったのかもしれません。

 それにしても、この座談会で賢治が出した設問の「山おくの昼なお暗い密林の中に一筋の川が流れ、そこに黒髪を乱しながら女の死体が漂ってきた」というシュールレアリスム的な情景は、何とも印象的です。彼の幻想的な作品の裏の面を垣間見るようで、かなり怖いものがありますが、いったい彼はどういう意図で、こんな「お題」を出したのでしょうか。
 居並ぶ偉い先生方の、当惑する顔を見てやろうというような、ちょっとしたいたずら心があったかもしれませんし、こんなに突飛で不思議な設定は、彼がふだんから実際に山奥に分け入っては、様々な超常体験をしていたこととも、関連しているでしょう。

 また、「女性の死体が川を流れてくる」という場面設定は、ジョン・エヴァレット・ミレーの絵画「オフィーリア」を連想させます。(下画像は「Google Arts & Culture」より)

ジョン・エヴァレット・ミレー「オフィーリア」

 この絵の題材は、シェークスピアの『ハムレット』で、誤ってハムレットに父ポローニアスを殺されたオフィーリアが、悲しみのあまり正気を失い、川に落ちて溺れ死ぬ場面です。劇中ではガートルードが、彼女の最期を語ります。

「すてきな花輪を、垂れた枝にかけようと、柳によじ登ったとたん、意地の悪い枝が折れ、花輪もろとも、まっさかさまに、涙の川に落ちました。裾が大きく広がって、人魚のようにしばらく体を浮かせて―――そのあいだ、あの子は古い小唄を口ずさみ、自分の不幸が分からぬ様子―――まるで水の中で暮らす妖精のように。でも、それも長くは続かず、服が水を吸って重くなり、哀れ、あの子を美しい歌から、泥まみれの死の底へ引きずり下ろしたのです。」

 当時の賢治が、ミレーの「オフィーリア」を知っていたかどうかはわかりませんが、夏目漱石の「草枕」の中に、この絵に言及している部分があり、知っていた可能性もあります。

成程此調子で考へると、土左衛門は風流である。スヰンバーンの何とか云ふ詩に、女が水の底で往生して嬉しがつて居る感じを書いてあつたと思ふ。余が平生から苦にして居た、ミレーのオフェリアもかう観察すると大分美しくなる。何であんな不愉快な所を撰んだものかと今迄不審に思つて居たが、あれは矢張り畫になるのだ。水に浮んだ儘、或は水に沈んだ儘、或は沈んだり浮んだりした儘、只其儘の姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。

 あるいはこの「お題」は、20世紀前半のシュールレアリストが行っていたという「優美な死骸」というゲームの名前も、連想させます。
 これは「小さな紙切れの遊び」とも呼ばれ、数人の人が集まって、それぞれが小さな紙切れに思い思いの言葉を書いて、その紙切れを集めて一つの詩にする、という手法です。イヴォンヌ・デュプレシの『シュールレアリスム』によれば、これによって、「羽のはえた蒸気が、鍵で閉ざされた鳥を誘惑する」とか、「セネガルの牡蠣が、三色のパンを食べるだろう」とかいうような超現実的なフレーズが生まれたということですが、初期に誕生した「優美な屍骸は新しい葡萄酒を飲むだろう」という一節がとりわけ有名になったことから、この手法自体が「優美な死骸」と呼ばれるようになったのです。

 また、シュールレアリストによる同様の創作ゲームとして、互いに独立して「質問」と「答え」を書いておき、後でそれをつなぎ合わせる、という手法もありました。
 ポール・エリュアールの上げている例は、次のようなものです。(イヴォンヌ・デュプレシ『シュールレアリスム』より)

「S・―月ってどんなもんだい
「B・―それは素晴らしいガラス屋だ。
「N・―春っていうのは何だい。
「S・―ホタルを食べて生きているランプさ。
「A・A・―シュールレアリスムは、われわれの生命の組織形成、あるは組織破壊のなかでも、同じような重要性をもちつづけているんだろうか。
「A・B・―それは、その構造のなかに花以外のものはほとんど入ってこない泥なのだ。

 これはまるで、賢治が「〔うとうとするとひやりとくる〕」で展開している「天狗問答」のようでもあります。
 思えば、「真空溶媒」などは、まるでダリの絵のように自在に変形する世界を描いていましたが、あらためて賢治という人の感性は、こういうシュールレアリスムの方法論と共通するものがあったのだなと感じます。

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項
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