2015年4月19日 オホーツク行という「実験」

 賢治が1923年(大正12年)夏にサハリンに旅した目的は、表向きは農学校の教え子の就職斡旋のためということでしたが、この間に書かれた「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」など長大な挽歌群を見ると、この旅が妹の死と深く関連したものであったことは、明らかです。
 その「関連」の中身について、『新校本全集』年譜篇は(堀尾青史氏による『旧校本全集』の年譜を引き継ぎ)、この旅の意味を「亡くなった妹トシとの交信を求める傷心旅行」と表現し、鈴木健司氏は「《亡妹とし子との通信》という隠された目的のあったことも確かなことだ」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』p.175)と記しておられます。

 私もこれらの説のとおり、この旅における賢治がトシとの通信あるいは交信を切望し、妹が今どこでどうしているのか、何としても知りたいと願う気持ちがあったのは確かだろうと思います。しかし、私が思うところはそれにとどまらず、賢治がここで本当に求めていたのは、トシとの通信だけではなく、「トシの後を追って自分も妹と一緒に行く」ということだったのではないかと、ひそかに思っているのです。
 今日は、私がそのように考える理由について、トシの死の前、当日、死の後、という順に賢治の作品を追って、整理してみたいと思います。

 その前に確認しておきたいのは、ここで私が言いたいのは、「賢治は妹の後追い自殺をしようと企てていた」ということではありません。ひょっとしたら、この世に残された者から見ると自殺と映るような結果になったのかもしれませんが、賢治の本来の意図は、そうではなかったのです。
 たとえば北方のどこかに、「異空間への接続ステーション」があって、死ぬことなく「死後の世界」に行ける可能性があるかもしれません。実際、「ひかりの素足」でも「銀河鉄道の夜」でも、主人公は大切な人とともに死後の世界へ往って、また還ってきています。
 などと言うと、いい大人が旅行を計画した動機としては、かなり荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、しばしば異界と「交信」し、異空間の実在を信じていた賢治にとっては、これはそんなに無茶な話ではなかったろうと思うのです。少なくとも、「ある種の事を行えば、それに応じた結果が期待される」という意味において、この旅は賢治の意識の中で、宗教的には一つの「儀式」と言えるものだったでしょうし、自然科学的には一つの「実験」と言えるものだったのではないかと、私は思うのです。

1.トシの死の前

 以前の記事にも書いたことですが、賢治は1922年11月のトシの死の少なくとも数ヶ月前から、もしも妹が臨終を迎える時が来たら、自分もともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と考えていたのではないかと、私は思っています。

 ところでこの、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉は、1922年8月に書かれたと推定される「イギリス海岸」の中に、登場するものです。生徒を引率してイギリス海岸に来た賢治は、もしも泳いでいる生徒が溺れた時に自分が取る行動として、次のように思っていたというのです。

もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 生徒に対する賢治のこのありあまるほどの責任感に、もちろん嘘はなかったのでしょう。しかし、あまりにも大仰なこのような言葉が、ふと彼の口をついて出てきた背景には、当時下根子桜の別宅で着実に死へと近づきつつあった妹の存在があったはずだと、私は思うのです。
 賢治は、実はトシに対してこそ、常々このように思い詰めていたのではなかったでしょうか。

 また、童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて、天空から海の底に落とされてしまう箇所には、次のような言葉があります。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 「双子の星」のテキストには、吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』と共通した表現が見られることから、その現存稿が書かれたのは、1922年9月の同書刊行以後だろうという説があります(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の中地文氏による「双子の星」解説)。そうであれば、この作品の完成も、トシの死のほんの少し前のことになります。
 そして、この作品における「双子」という存在が、賢治とトシという兄妹をモチーフの一つとしていることは多くの人の認めるところであり、その二人が「どこ迄でも一諸に落ちやうとした」と賢治が記していることの意味は、やはり見逃すことができません。
 ここでも賢治は、トシが死ぬ時にはその肱をしっかりとつかみ、「どこ迄でも一諸に落ちやう」と、考えていたのではないでしょうか。

 さらに賢治には、もっと直接的に、一緒に死後の世界に至る「兄弟」をテーマとした作品もあります。吹雪における兄弟の遭難を描いた童話「ひかりの素足」では、兄の一郎は弟の楢夫にぴったりと寄り添い、弟を献身的に守りながら、二人一緒に「あの世」にたどり着きますが、この作品の第一形態が成立したのは、1922年前半頃までと推定されています(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の杉浦静氏による「光の素足」解説)。
 やはりトシの死が近づきつつあった年に書き始められたこのお話も、その構想そのものが、「妹に付き添って死後の世界へも同行し、その身を守ってやりたい」という賢治の願望を、反映したものだったのではないでしょうか。

 じりじりと死の影に迫られつつある妹を見守りながら、1922年という年の賢治は、ずっと一人でこういうことを思い詰めていたのではないかと、私は思うのです。
 しかしいずれにせよ、愛する妹の最期の日は、否応なくやってきました。 

2.当日 

 1922年11月27日、トシの臨終の床で、何が起こったでしょうか。賢治は心のどこかでは、たとえば妹と一緒に兄も仏に導かれて別の世界に至るような、何かそんな超自然的な出来事を期待していたのかもしれません。
 しかし現実には、そのようなことは起こりませんでした。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」に記録されいるような会話がおそらく行われ、その後トシは一人で旅立って行ったのです。

 しかしここで、「松の針」に出てくる次のような部分には注目しておくべきだろうと、私は思います。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、妹が「けふのうちにとほくへさらうとする」こと自体は不問にする一方で、「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか」ということを、問いつめているのです。
 思えば「永訣の朝」の冒頭も、「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」でした。このような場合、普通ならば「死なないでくれ」と訴えるのがお決まりのパターンでしょうが、賢治はその日のうちに妹が死んでしまうそのこと自体は、じたばたせずに受け容れていたのです。
 そしてその一方で賢治は、妹が「ひとりでいかうとする」ことには、異議を唱えるのです。「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ/泣いてわたくしにさう言つてくれ」と懇願し、自分が妹の死に同行する可能性を、何とかして引き出そうとするのでした。

 このような賢治のスタンスは、次の「無声慟哭」でも同様です。

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

 上で太字にしてみたように、ここでも賢治は、妹が「ひとり」行こうとすることを、どうしても認めようとしません。

 つまり、賢治は妹の「死」は認めつつも、「ひとりで」を認めないのです。
 これこそ、賢治がトシの死のかなり前から、「妹が死ぬ時には同行しよう」とずっと思い詰めていたことの表れだろうと、私は思うのです。 

3.死の後 

 しかし、トシは結局、「ひとりで」行ってしまいました。残された賢治の喪失感ははかりしれないものだったでしょう。悶々として一篇の詩も生まれない日々が、半年あまりも続きました。
 そのような月日の果てに企画されたのが、翌年夏のサハリン旅行でした。トシの死の当日まで抱えていた上のような賢治の思いは、この時どうなっていたでしょうか。

 サハリン行への途上で書かれた作品のうち、その賢治の気持ちを最もはっきりと表しているのは、「宗谷挽歌」です。「妹の死に同行する」ことをその死の当日までずっと願いつづけていた賢治の思いは、その死後8ヵ月あまりを経てもなお綿々と続いていたことが、ここで明らかになります。
 その冒頭部分を、下に引用します。

   宗谷挽歌

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。 

 宗谷海峡を渡る船の甲板にいる賢治は、もしも妹が自分を呼んだなら、「私はもちろん落ちて行く」と決意しています。
 また、上の最後の引用行においても、「どうして私が一諸に行ってやらないだらう」と書いています。
 まさに賢治はここでも、トシと一緒に「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っているのです。
 さらに、上記のしばらく後の部分には、次のような箇所もあります。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「われわれが信じわれわれの行かうとするみち」とは、法華経信仰に違いありませんが、もしもそれが「まちがひであったなら」自分に知らせに来てくれと、賢治はトシに頼んでいます。もし賢治がそれを聞いたなら、「私はもちろん落ちて行く」という決意を実行に移すでしょうが、そのまま「まっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。
 このような行動は、第三者から見れば「自殺」以外の何ものでもありませんが、賢治もそれは意識しているので、「宗谷挽歌」の文中には、自分が船員から自殺者と疑われているのではないかと、気にする箇所も出てくるわけです。

 このようにして、妹のもとへ行けるなら死んでもよいという決意のもと、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という心構えを持って、賢治は宗谷海峡に臨んだわけです。
 さかのぼれば、前日の「青森挽歌」において、すでに賢治は次のように書いていました。

(宗谷海峡を越える晩は
 わたくしは夜どほし甲板に立ち
 あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
 からだはけがれたねがひにみたし
 そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 この言葉のとおり、賢治は宗谷海峡を越える晩に「夜どほし甲板に立ち」、何かが起こることを期待したのです。この「挑戦」こそ、賢治にとっては一つの「儀式」であり、「実験」だったのだと思います。
 しかし結局、賢治が期待したような出来事は、この海上では起こりませんでした。海を渡った賢治は、サハリンに到着します。

 そして、サハリンの玄関口である大泊(ロシア名コルサコフ)の港から、彼はまた鉄道に乗って、一路北を目ざします。そして、当時の「樺太東線」の終着駅である、栄浜(ロシア名スタルドブスコエ)の駅に降り立ちました。
 下の地図で、マーカーを立ててある場所が栄浜です。

 私が推測するには、賢治がこの旅行において、宗谷海峡に続いてもう1ヵ所「何か」を期待して臨んだ地が、この栄浜だったのではないかと思うのです。
 この場所は、当時の日本において、鉄道で行くことのできる最北の地点でしたが、この「最果ての浜辺」というロケーションにも、何らかの思い入れがなされていたではないでしょうか。

 賢治はその浜辺に出て、オホーツク海と向かい合い、「オホーツク挽歌」を書くのですが、このテキスト中に出てくる「仮眠」に対して、香取直一氏と鈴木健司は、「《亡妹トシとの通信》を求めた意志的な行為」と解釈しておられます(香取直一「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」および鈴木健司「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」)。私もこの着眼に、同感です。
 最果ての浜辺で、貝殻を口に含んで行った「仮眠」は、賢治によってなされた次なる「儀式=実験」だったのだろうと、私は思うのです。

 「オホーツク挽歌」という作品は、本文中の二つの空白行によって、三つの部分に分かたれていますが、その二番目の部分を、下に引用します。

白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
それにだいいちいまわたくしの心象は
つかれのためにすつかり青ざめて
眩ゆい緑金にさへなつてゐるのだ
日射しや幾重の暗いそらからは
あやしい鑵鼓の蕩音さへする

 この18行は、「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」という自らの行為への、注釈になっています。その仮眠の理由を、賢治はエネルギーの恢復のためとか、心象がつかれているからなどと説明していますが、しかしその本当の目的は、眠っている間にトシのもとへと行ってくることだったのではないかと、私は思うのです。
 それはちょうど「銀河鉄道の夜」において、ジョバンニが天気輪の丘で「仮眠」に入り、その間に死んだカムパネルラとともに異界を旅してきたことに相当します。この時のオホーツクの浜辺における賢治の仮眠は、「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニのそれの、原型とも呼べるものだったのではないでしょうか。

 「オホーツク挽歌」における賢治のこの仮眠が持つ意味について考えるには、この作品と童話「サガレンと八月」との関係に注目する必要があるでしょう。
 鈴木健司氏は、「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」の二つが「ネガとポジの関係」にあると指摘し、さらに踏み込んで「オホーツク挽歌」の仮眠において賢治が体験した内容が、「サガレンと八月」として作品化されたと論じておられます。
 両作品における舞台設定の共通性を見ても、これは非常に説得力のある仮説であると、私も思います。しかし、鈴木氏が栄浜における賢治の「仮眠」についてここまで鋭く論じられながら、その仮眠の目的が、《亡妹トシとの通信》を行うことだったと結論づけておられるところは、私としてはやや物足りなく感じてしまうのです。
 「サガレンと八月」が、<異界へ行く物語>であることに鑑みれば、ここにおいて賢治が期待していたことも、単なる「通信」にとどまらず、「身をもって異界へ行く」ことだったと解釈すべきではないでしょうか。
 それは、「サガレンと八月」において海の底に連れ去られたタネリの運命について考えることによっても、浮き彫りにされます。

 「サガレンと八月」で少年タネリは、母親の与えた禁忌を破った結果、恐ろしい犬神によって海の底に連れて行かれ、蟹の姿にされて「チョウザメの下男」として幽閉されます。
 ところでサハリンという島の形は、日本では「鮭」の姿に喩えられますが、ロシアにおいては、「チョウザメ」の形と言われているのです。下記は、チェーホフの『サハリン島』からの引用です。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 サハリンを蝶鮫にたとへることは、南部の場合は殊にふさはしく、全く魚の尾鰭にそつくりである。尾の左端はクリリオン岬、右は――アニーワ(亜庭)岬と呼ばれ、その間の半円形をなした入江を――アニーワ湾といふ。(岩波文庫版上巻p.248)

サハリンとチョウザメ  このチョウザメの喩えは、右の図をみていただければ一目瞭然です。島全体のスリムさは、鮭よりもチョウザメの方がぴったりきますし、南端の尾びれの形といい、東に突き出た北知床半島(テルペニア半島)が背びれに対応するところといい、比喩の迫真性に関しては、鮭よりもチョウザメの方に軍配を上げざるをえません。
 賢治は、文語詩「宗谷〔二〕」において、中知床岬(アニーワ岬)のことを、「サガレン島の東尾」と表現していますから、サハリン島の形が「魚」に喩えられることを知っていたのは確かです。これが鮭だったのかチョウザメだったのかはわかりませんが、「サガレンと八月」というサハリンを舞台とした童話に、「チョウザメ」が出てくるのですから、これはサハリンという土地を象徴するものと解釈するのが自然でしょう。

 すなわち、「サガレンと八月」の主人公が、他ならぬ「チョウザメ」の下男として海の底に閉じ込められるという物語は、実は作者である賢治が、サハリンという土地に囚われ、その海底に沈められるという事態を、象徴していると解釈すべきでしょう。
 そうなると、賢治が栄浜での「仮眠」において期待していたのは、やはりトシとの「通信」にとどまらず、自らがトシの居場所へと赴くことだったと考えるべきと思います。
 自ら宗谷海峡を渡る船の甲板から飛び込むことによってか、あるいは栄浜の海岸からタネリのように拉致されることによってか、いずれにしても賢治が亡き妹のもとへ行きたいという願望とともに、ひそかに心に期していた「異界への旅」は、「サガレンと八月」におけるタネリと同じ運命を、招き寄せるおそれがあったのです。

 それでは、「オホーツク挽歌」において栄浜の海岸で仮眠をとった賢治は、ジョバンニとカムパネルラのように、その夢の中でトシに会うことができたのでしょうか。
 これについて考えるためには、「オホーツク挽歌」の作品中のどこで「仮眠」が行われたのかということを、同定しておく必要があります。この問題に関して鈴木健司氏は、二つの空白行によって三つに分かたれた作品の「パート2」(=上の引用部分)と「パート3」の間で賢治は仮眠をとり、この際に「サガレンと八月」に結実する《幻想体験》が現れたと推定しておられます。「パート1」「パート2」はまだ朝方の時間であるのに対して、「パート3」には「(十一時十五分 その蒼じろく光る盤面)」という詩句があり、その間に時間的断絶があると思われることを、その根拠として挙げておられます。
 私も、鈴木氏の考えに賛成です。作者は、「パート2」では「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」と述べていることからまだ眠っていないわけですが、「パート3」には「わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき…」という詩句があって、この時点ではすでに「睡つたりしてゐる」からです。
 そうすると、「パート3」を読めば「仮眠」後の賢治の様子がわかるということになります。ということで、その内容を見てみると、まず目に入るのは、「とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」という言葉です。つまり、仮眠の後にも、賢治はトシに関する具体的な情報を持っていないのです。
 あるいはまた、「いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる/あんなにかなしく啼きだした/なにかしらせをもつてきたのか」という、鳥に対する思い入れも書きとめられています。これは、旅行前の6月の「白い鳥」の流れを引いて、鳥の鳴声の中にトシからのメッセージを読みとろうとする姿勢で、もしもその直前にトシと会えたり通信が得られたりしていたのならば、こんな風に鳥の声を頼りなく聴くこともなかったでしょう。
 すなわち、このオホーツクの海岸における仮眠という「実験」によっても、賢治は期待したようにトシのもとへ行くことは、できなかったのです。
 その意味で、未完に終わっている「サガレンと八月」という童話は、賢治の実験が成功しなかったということにおいても、結末に至ることなく放置されたということにおいても、二重の意味で「流産させられた」作品だったと言うことができるでしょう。

 では、「オホーツク挽歌」におけるこのような体験は、結局のところ賢治に何を与えたのでしょうか。
 香取直一氏は次のように述べて、賢治はこれを契機に、トシの「行方」について思い悩まなくてよい心境に到達したのだと、考えておられます。

玉随の雲に漂って行ったあの一羽の鳥は、《とし子》が蒼空の彼方へ行ったこと、そこから《通信》はこないが、《通信》をよこす必要のない処・眼前に望まれる樺太のような花のきれいな光あふれる浄らかなところへ行ったことをものがたっているのだ。賢治にはこう信じられていたのであろう。(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)が記されたのも、やはり必然であったと思われるのである。(「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」より)

 一方、鈴木健司氏は次のように述べ、賢治はこの時、香取氏の言うようにトシの往生の地を《浄土》と信じたというわけではないのではないかとしておられます。

 香取のいう「必然」とはどのようなことか。賢治にとって、妹とし子の往生の地が「光りあふれる浄らかなところ(浄土)」に違いないと確信することと、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやくことが、どのような必然の糸で結ばれているというのだろうか。おそらく私の解釈は香取の主張するところとは異なっている。賢治が「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやいたのは、妹とし子の往生の地が《浄土》と信ぜられた結果としてではなく、《浄土》であり続けるためにつぶやいたのである。なぜなら、妹とし子の浄土往生を支えうるのは、己れの信仰の正しさの確認以外になく、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という語には、この場合、破地獄としての陀羅尼(呪文)の作用が託されていると考えられるからである。(「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」より)

 そして鈴木氏は、「オホーツク挽歌」の終結部に出てくる「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という梵語による唱題の意味について、次のように述べます。

「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやかれたことは、賢治が妹とし子のいない現実世界を受容したことを意味するのであり、それは取りも直さず、《亡妹とし子との通信》の断念の表白でもあるのだ。

 この鈴木氏の見解について、私は半分は賛成です。
 すなわち、鈴木氏が上の後半で述べているように、「オホーツク挽歌」以後の賢治は、もうそれまでのようにトシとの「通信」に執着することはなくなります。その後の作品には、「通信」というテーマは出てこなくなるのです。
 一方、前半部の「賢治が妹とし子のいない現実世界を受容した」という点については、この時点の賢治はまだ「受容」にまでは至っていないと、私は考えざるをえません。
 たとえば、サハリンからの帰途の「噴火湾(ノクターン)」では、トシに関して次のような思いが綴られています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 ここに描かれている賢治にとっては、「何べん理智が教へても」、やはりさびしさは癒えません。そして彼が、「どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」理由は、「妹とし子のいない現実世界」を、まだ受容しきれていないからに他なりません。
 あるいはまた、サハリン旅行から帰ってから書いた「〔手紙 四〕」の冒頭には、次のように記されています。

 わたくしはあるひとから云ひつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つているかたはありませんか。 

 ここでも、チュンセの死んだ妹ポーセが「ほんたうにどうなつたか」を知りたいという賢治の願望は、まだ強く持続しているのです。妹の行方を知る手段として、トシ本人からの「通信」を求めるという以前のやり方は用いられず、「手紙に託して探す」という方法がとられますが、それでもやはり賢治は、まだ「妹とし子のいない現実世界」を受容しているとは言えません。

 サハリン行から後の作品を順に追って見ていくと、賢治が本当の意味でトシの死を受容できるようになったのは、さらに翌年の「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」、そしてその頃に書き始められた「銀河鉄道の夜」に至ってのことだったろうと、私は考えます。
 賢治がその境地まで至った道筋は、崇高な「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」の一例とも言えるものであり、またそのうちに記事にしてみたいと思っています。

 では、賢治が結局オホーツク行という企図によって得た最大の収穫は何だったのかとあらためて考えてみると、私としては、「青森挽歌」の終わり近くに出てくる次の一言の啓示だったと思います。

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

 この認識が、「〔手紙 四〕」の重要なテーマとなり、「〔この森を通りぬければ〕」と「薤露青」を支え、さらには後の「銀河鉄道の夜」にも引き継がれることになっていきます。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
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2015年4月 9日 酒井俊のライブとCD『花巻農学校精神歌』

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 酒井俊さんという歌手がおられて、ジャンルは何と言えばいいのか、私ごときにはよくわかりませんが、1970年代にジャズヴォーカルとしてセンセーショナルにデビューし、その後マンハッタンで生活していた時期などをはさんで、ある時点からはもっぱら日本語で歌う道を選び、1995年の阪神淡路大震災以降は被災者への鎮魂歌とも言うべき「満月の夕」を歌い続けて2003年日本レコード大賞企画賞を受賞し、現在はベトナムで暮らしながら、日本でも音楽活動をしているという、そんな方です。
 一般的な音楽ジャンルの境界など超越しておられる感じですが、しいてその歌を位置づけるならば、「日本の魂のあふれたジャズ」ということになるんでしょうか? その歌声は、温かくやさしく、それでいて力強く、初めて聴いても不思議な懐かしさを感じます。

 その酒井俊さんは、宮澤賢治を深く敬愛しておられるということで、このたび4月20日に、その名も『花巻農学校精神歌』というアルバム(上のジャケット)を発売されます。この日はくしくも、賢治が『春と修羅』を出版した記念の日ですね。
 そしてその発売に合わせ、4月14日から5月26日まで、日本各地29ヵ所でライブ「怒濤の全国ツアー」を開くということで、その京都公演を企画しておられる方から、お知らせをいただきました。
 京都では、4月16日(木)の夜に、鞍馬口の「」というレストランで開かれます。私は、開演には遅れてしまいそうなのですが、それでもぜひ聴きに行きたいと思っています。

『花巻農学校精神歌』新譜アルバム発売記念ライブツアー
京都公演
  日時: 4月16日(木)18:30 開場/19:30 開演
  場所: カジュアルレストラン 陽 (地下鉄「鞍馬口」駅徒歩3分)
  料金: 3500円(ドリンク代別途)
  予約: 075-414-0056(陽)

酒井俊『花巻農学校精神歌』発売記念ライブツアー京都公演

 さらに、全国ツアーの予定は下記のとおりだということで、これはまさに「怒濤のツアー」ですね!

中京関西山陽ツアー
4月14日(火): 名古屋「得三」
4月15日(水): 大阪「ラグタイム大阪」
4月16日(木): 京都「レストラン 陽」
4月17日(金): 神戸「James Blues Land」
4月19日(日): 広島「行者山太光寺」
4月20日(月): 広島「オリエンタルホテル広島 3Fチャペル」
九州ツアー
4月22日(水): 福岡「ニューコンボ」
4月23日(木): 久留米「ルーレット」
4月24日(金): 熊本「Restaurant & Live Bar CIB」
4月25日(土): 熊本「リハビリテーション病院」
4月28日(火): 喜界島「SABANI」
4月29日(水): 鹿児島「明日の地図」
TOKYO公演
5月 1日(金): 下北沢「ザ・スズナリ」
東北中越北関東ツアー
5月 7日(木): 宇都宮「悠日カフェ」
5月 8日(金): 二戸「蔵元南部美人」
5月 9日(土): 八戸「茶屋東門」
5月10日(日): 気仙沼「ヴァンガード」
5月12日(火): 仙台「カーボ」
5月13日(水): 新潟「Jazz FLASH」
5月14日(木): いわき「Bar QUEEN」
北海道ツアー
5月18日(月): 札幌「JERICHO」
5月19日(火): 小樽「GROOVY」
5月20日(水): 伊達「チロル」
5月21日(木): 函館「Ji-no」
5月23日(土): 釧路「ジスイズEST」
5月24日(日): 三石「蓬莱音楽館」
5月25日(月): 東川「叢舎」
5月26日(火): 札幌「くう」
横浜公演
5月28日(木): 新横浜「エアジン"ラントラクト1F」

 詳しくは、酒井俊さんのオフィシャルサイトの「4月のスケジュール」および「5月のスケジュール」のページからご覧いただくことができます。

 最後に、下のYouTubeからは、CD『花巻農学校精神歌』の一部を視聴することができます。

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2015年4月 5日 コンサート「千原英喜と宮沢賢治」

 これまで宮澤賢治の詩にもとづいた多くの合唱曲を作曲・初演してきた、千原英喜氏と大阪コレギウム・ムジクムのコンビが、東京と大阪で公演を行います。
 大阪コレギウム・ムジクム創立40周年記念にあたり、「千原英喜と宮沢賢治〜その魅力の音世界〜」と題して、5月24日(日)に東京・浜離宮朝日ホールで、6月28日(日)に大阪・いずみホールで、それぞれコンサートが行われます。
 当日は音楽だけでなく、照明と演出が付いた「シアターピース舞台作品」として演じられるのだということです。また演奏に先立って、作曲の千原英喜氏と、大阪コレギウム・ムジクム主宰の当間修一氏のお二人による、「プレトーク」があるのも楽しみですね。
 プログラムは、下記の4曲です。

種山ヶ原の夜の歌 ―異伝・原体剣舞連

文語詩稿<祭日>
混声合唱とチェロ、ピアノ、パーカッションのために

児童・女声合唱組曲
ちゃんがちゃがうまこ

混声合唱とピアノのための組曲
わたくしという現象は

 「種山ヶ原の夜の歌」および「祭日」は、いずれも2007年大阪コレギウム・ムジクム委嘱作品です。
 出演は、下記のとおり。

指揮・演出: 当間 修一
ピアノ: 木下 亜子
チェロ: 大木 愛一
打楽器: 高鍋 歩 奥田 有紀
笛: 礒田 純子
合唱: 大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団
     大阪コレギウム・ムジクム合唱団

 千原英喜氏による宮澤賢治作品のコンサートには、2007年9月10月2010年12月2014年7月にも行ったのですが、いずれも印象に残る素晴らしい体験となりました。
 賢治ファンには、お勧めのコンサートだと思います。

大阪コレギウム・ムジクム「千原英喜と宮沢賢治」

【参考】
 ちなみに下記は、これまでに私が VOCALOID で演奏してみた千原英喜作品(の真似事)です。

・「雨ニモマケズ
・「ちゃんがちゃがうまこ
・「宮沢賢治の最後の手紙

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2015年3月26日 映画『幕が上がる』の劇中劇「銀河鉄道の夜」

映画『幕が上がる』

 私は、最近のアイドルグループの中ではももクロが一番好きなんですが、そのももいろクローバーZが主演する映画『幕が上がる』が現在公開されているので、今日映画館で見てきました。

 この映画は、女子高の演劇部のメンバーたちが全国大会を目ざして演劇に打ち込む中で、孤独や人との関わりに悩み、成長していくという物語で、ももクロのメンバーがそれぞれ生身の高校生を、切実に演じています。そして彼女たちが、大会に向けて取り組んでいく作品が、主人公役が思いの丈をぶつけて脚本化した「銀河鉄道の夜」であるということで、私としてはその意味でも、ぜひ見ておきたかったのです。

 アイドルを主演に据えて制作した映画なんていうと、内容は学芸会の延長のような感じがするかもしれませんが、この映画はそんなものではありません。映画監督の大林宣彦さんは、この映画を見て次のように語っておられます。

最初は、近くにいそうな普通の女の子に見えて、「この子たちと2時間付き合うのはつらいぞ」と思ったんです。でも、映画が進んでいくにつれてどんどんチャーミングになり、見終った時には、ハグしたいくらいになっていた。[中略]プロの女優になっていく過程を、ドキュメンタリーのように見ることができる。それが、この映画を感動させる大きな力になっていると思います。(『日経エンタテインメント』3月号)

 ということで、大御所も相当に評価しておられるのですが、そもそもこの映画は、今の日本を代表する劇作家・演出家の一人である平田オリザさんの小説をもとにしています。一方、「踊る大捜査線」などの大ヒット作を持つ映画監督の本広克行さんは、そのヒットから10年近くが過ぎた頃、映画監督を辞めようかと思い悩む時期もあったということですが、平田オリザ氏の「現代口語演劇理論」と出会い、その方法論に新たな可能性を見出し、平田さんの演劇にも関わり始めます。そして平田オリザ氏の小説『幕が上がる』を読んで感動し、これを自分の作った青春ドラマや映画で一番見たくなる作品にしなくては、という異常な使命感を持ち」(監督コメントより)、映画化にこぎつけたのだということです。
 本広監督が主演に抜擢したももクロのメンバーは、25時間にわたって平田オリザ氏の演劇ワークショップを受けて参加したということで、まるで「演技」か「地」かわからないほどの自然さを醸し出していましたし、弱小演劇部を大きく変えるきっかけとなる新任の美術教師を演じた黒木華さんも、素晴らしい存在感でした。あと、控えめながら国語の先生もいい味を出していて、授業の中で「銀河鉄道の夜」だけでなく、賢治の「告別」や、谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」などを取り上げています。

 中でも、主人公たちが情熱をかけて取り組む「銀河鉄道の夜」が、重要な劇中劇として、なくてはならない意味を帯びつつ生かされていたことが、個人的には最大のポイントでした。宮澤賢治は、「銀河鉄道の夜」という作品にさまざまな多次元的な意味をこめていただろうと思いますが、この映画においては、宇宙の中にたった一人いるような「孤独」や、「人とのつながり」や「別れ」に悩む少女たちの思いが、ジョバンニとカムパネルラとの関係に投影されていきます。大会へ向けて稽古を重ねるうちに、彼女たちがどんどんジョバンニに感情移入していく様子には、切ないものがありました。

 ということで、ももクロファンならばもちろんのこと、賢治ファンの方も、もしもお暇があればご覧になってみてはいかがでしょうか。

 下の映像は、劇中劇部分の「銀河鉄道の夜」の抜粋で、県大会の「本番」や、稽古場面などがつなぎ合わされています。
 個人的には、最後のところの「クルミ」がちょっといい感じがします。賢治にとってもこれは、思い出深い木の実でしたものね。

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2015年3月 1日 レオーノキューストが住んでいたあたり

前十七等官 レオーノキュースト 誌
宮沢賢治 訳述

そのころわたくしはモリーオ市の博物局に勤めて居りました。
十八等官でしたから役所のなかでもずうっと下の方でしたし俸給もほんのわづかでしたが、受持ちが標本の採集や整理で生れ付き、好きなことでしたからわたくしは毎日ずゐぶん愉快にはたらきました。殊にそのころ、モリーオ市では競馬場を植物園に拵え直すといふので、その景色のいゝまはりにアカシヤを植え込んだ広い地面が、切符売場や信号所の建物のついたまゝわたくしどもの役所の方へまはって来たものですからわたくしはすぐ宿直といふ名前で月賦で買った小さな蓄音器と二十枚ばかりのレコードをもってその番小屋にひとり住むことになりました。わたくしはそこの馬を置く場所に板で小さなしきゐをつけて一疋の山羊を飼ひました。毎朝その乳をしぼってつめたいパンをひたしてたべ、それから黒い革のかばんへすこしの書類や雑誌を入れ、靴もきれいにみがき、並木のポプラの影法師を大股にわたって市の役所へ出て行くのでした。あのイーハトーヴォのすきとほった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波、・・・

 「ポラーノの広場」のこの書き出し部分は、数ある賢治の作品の中でも、とくに素敵なものの一つです。それこそ、「イーハトーヴォのすきとほった風」が、読む者の心をも吹き抜けていくような感じがします。
 最後の箇所は、Mac でフォントを管理する Font Book というアプリケーションで、書体見本としても使われていますので、馴染みのある方も多いことでしょう。

 このような場所(=イーハトーヴォ)が、ほんとうに実在するとしたらいったいどんな所なのだろうというのは、賢治ファンならば誰しも考えてみたくなってしまうところですね。
 賢治のいろんな作品に、いろんな形で「イーハトーヴォ」は登場しますが、ここでは「モリーオ市の競馬場の番小屋」が、レオーノキューストの住まいとして設定されています。お話の中でレオーノキューストは、自ら「わたしは競馬場に居るからねえ」と名乗り、ファゼーロも彼を仲間たちに、「競馬場に居る人なんだよ」と紹介しています。
 上に描写されたキューストの競馬場における一人暮らしは、簡素ながら洗練されていて、お洒落な雰囲気も漂っています。ここを舞台に、これから「ポラーノの広場」の物語が展開していくわけですね。

 さて、賢治の作品において「モリーオ市」というのは、現実世界の「盛岡市」に対応しますが、「競馬場を植物園に拵え直す」という話が、私としてはここでちょっと気になりました。実際にこの頃、盛岡の競馬場が何かに転用されるということがあったのでしょうか。
 そんなことを思いつつ、盛岡競馬場の歴史について調べてみました。

『いわての競馬史』

 『いわての競馬史』(岩手県競馬組合,1983)という本を見てみると、盛岡の競馬場は、次のような歴史をたどってきたということです。

明治初期まで: 八幡宮境内の馬場で競馬が行われていた。
1871年(明治4年): 産馬会が盛岡市菜園に長さ1000mの
     楕円形馬場を新設。
1903年(明治36年): 競馬会が盛岡市上田に1000mの
     近代的馬場を新設し、11月に記念競馬を開催。
     その直後、閑院宮載仁親王が盛岡を訪れ、特別競馬会
     を開催。臨席した親王は、競馬場近くの「黄金清水」に
     ちなんで、ここを「黄金競馬場」と命名した。
     毎年春秋2回、3日間ずつ開かれた競馬は、優良馬育成
     を目的とした生産地競馬として発展。1日6レースから
     8レースを行い、東北一の規模として名を挙げた。
1932年(昭和7年): 一帯の耕地整理の関係から、競馬場を
     近くの毛無森に移転。翌1933年11月、新設記念競馬会
     にて1周1600mの「新黄金競馬場」がオープンした。
1996年(平成8年): 盛岡市新庄の現・盛岡競馬場に移転。
     愛称の「OROパーク」は、昔の「黄金競馬場」にちなみ
     スペイン語の「黄金 ORO」からとられている。

 このように盛岡競馬場は、1932年に移転をしているわけです。そしてこれは、賢治が「ポラーノの広場」の草稿を完成させたと言われている1931年-1932年という時期に、ちょうど重なり合うのです。
 つまり、賢治が「ポランの広場」から「ポラーノの広場」へと改作を行い、その推敲を行っている時期に、彼は盛岡の競馬場が移転になるという話を、きっと耳にしたはずなのです。それを聞いた賢治は、競馬場の広い跡地についていろいろと想像をめぐらせるうちに、「そのころ、モリーオ市では競馬場を植物園に拵え直すといふので…」という形で、作品の舞台装置に取りこんだのではないでしょうか。

 賢治が実際に、盛岡市上田のこの旧黄金競馬場を訪れたことがあったのかどうかは、よくわかりません。しかし、この上田地区というのは、彼が青春時代を過ごした盛岡中学や、盛岡高等農林学校もあった場所です。賢治が昔を懐かしみ、この若き日の思い出深い地区の競馬場の跡地に、自らの分身とも言うべきレオーノキューストを住まわせようとしたということは、十分に考えられるのではないでしょうか。
 私には、そんな気がします。

 ということで、レオーノキューストが一人で暮らしていたという可能性のある、この(旧)黄金競馬場の場所について、詳しく調べてみることにしました。

 まず大まかな位置を知っておくために、『いわての競馬史』に掲載されている、「黄金競馬場新旧略図」を見ておきます。下の図は、その一部分です。

黄金競馬場新旧略図

 左下の方にある「元 黄金競馬場」が、1932年までの旧競馬場、右上の「新 黄金競馬場」が、1933年以降の移転先です。
 右方の「高松池」は、現在も盛岡の観光地の一つで、賢治は盛岡高等農林学校に入学して間もなく、同室の高橋秀松を誘って盛岡の案内をした際にも、この池を訪れています。また文語詩「氷上」は、中学時代にこの高松池でスケートをした時の情景に基づいていると推測されています。

 次に、上に相当する箇所をさらに詳しく、当時の2万5千分の1の地図で見てみましょう。
 まず下の地図が、競馬場移転前の1911年(明治44年)測図、1916年(大正5年)発行の、2万5千分の1「盛岡」です。旧競馬場は、「黄金馬場」として掲載されています。下の方に「高等農林学校」があります。

2万5千分の1地形図「盛岡」(大正5年発行)

 そして今度は下の地図が、移転後の1939年(昭和14年)に修正測図、1941年(昭和16年)発行のものです。右上の「黄金競馬場」が、新競馬場です。

2万5千分の1地形図「盛岡」(昭和16年発行)

 最後に、現在の2万5千分の1の地形図(平成10年発行「盛岡」)で同じ箇所を見ると、下のようになっています。
 1933年から1996年まで使われた「新・黄金競馬場」の方は、やはり今も右上にはっきりと確認できます。一方、1932年までの「旧・黄金競馬場」は、今はどうなっているのでしょうか。
 その場所を確認するためには、地図の下の「旧黄金競馬場跡地は?」というボタンを、クリックしてみて下さい。

2万5千分の1「盛岡」(平成25年発行)


 地図上で緑色に点滅している箇所が、旧黄金競馬場跡地です。今はすっかり住宅地になっていますが、この住宅の中をめぐる道路の形に、ここでちょっとご注目下さい。
 驚くべきことに、競馬場の北東側半分の輪郭に沿って、今も道路が楕円の形に浮かび上がって見えるではありませんか!

 この部分をさらに詳しく見てみるために、三つの地図の「旧黄金競馬場」の箇所を拡大すると、下のようになっています。

旧黄金競馬場(大正5年)

旧黄金競馬場跡地

旧黄金馬場跡地

 二番目の昭和16年発行の地形図では、競馬場のあったところは完全に農地になっていますが、ここでも元の競馬場の外周に沿って、まるで競馬場の痕跡を示すかのように、「点々」と軌跡が描かれているのがわかります。これは、地図上では「土囲」を表す記号だということで、あらためて一番上の地形図を確認すると、ここでも競馬場の東半分にそって、やはり「土囲」の記号があるのがわかります。
 競馬場が撤去された後も残っていたこの「土囲」に沿って、さらに後に道路が形成されたということなのでしょう。三番目の地図でよく見ると、この楕円形の道路に沿って、等高線も走っているのがわかります。

 一方、現代の Google マップでこの部分をもう少し拡大してみると、下のようになります。

 Googleマップはベクター画像になっているせいもあってか、ちょっと角々した印象もありますが、それでもやはり「楕円形の半分」という感じはありますね。

 ところで気になるのは、このあたりは現在はどうなっているのだろう、ということです。その昔にレオーノキューストが住んでいたという競馬場跡地に、今はどんな風景が広がっているのでしょうか。
 ということで、世界中の街並みを居ながらにして見られる Google マップのストリートビューで、ここをちょっとのぞいてみましょう。

 下の「スタート」ボタンをクリックしていただくと、上の地図の(A)地点から(B)地点までを、ストリートビューの画像によって、コマ送り動画のようにたどることができます。


   

 途中、「バックストレート」のように直線的な道路が続く箇所もありますが、初めの方と半ば過ぎでは、道が右へ右へとカーブしていくのがおわかりいただけるかと思います。
 あるいは、ここをクリックしていただくと、(A)地点におけるストリートビューが開きますので、道路に標示される矢印をクリックしながら、実際に経路をたどって体験していただくこともできます。

 全体として、何となく「半楕円形」になっていることを、お感じいただけたでしょうか。

 あと、当時の「黄金競馬場」がいったいどんな様子だったのだろうというのも、確認しておきましょう。今回お世話になっている『いわての競馬史』を参照すると、当時の写真が3枚ほど掲載されています。
 まず下の写真は、後方の山が「八幡山」と推測されることから、競馬場全体を南西の方向から撮ったものかと思われます。柵の形から、何となく「楕円っぽい」感じがわかります。

旧黄金競馬場1

 下の写真も、後方の山はやはり「八幡山」かと思われます。なかなかスピード感がありますが、この走路は八幡山の側のように見えますので、上で見た住宅地の中に残る道路と、同じ側にあたるのではないでしょうか。

旧黄金競馬場2

 最後に、当時の盛岡競馬場では、下のように車をつないだ「繋駕速歩競走」というのも行われていたということです。

旧黄金競馬場3

 こういうレースが行われていたのも、「優良馬育成」という実際的な目的もある生産地競馬ならではなのでしょう。この写真には、「昭和5年6月3日」と日付も入っています。

 というようなわけで、その昔にレオーノキューストが住んでいたと舞台設定されていた場所は、現在の「盛岡市高松2丁目」あたりなのではないか・・・という、半分はお遊びの調査でした。
 しかし昔の競馬場の形が、80年以上を経た現在も、住宅地の道路に残っているというのはちょっと嬉しい驚きで、レオーノキューストがファゼーロに語りかける次のような言葉が、ふと聞こえてくるような気持ちもしたものでした。

「おや、ぼくは地図をよくわからないなあ、どっちが西だらう。」
「上の方が北だよ。さう置いてごらん。」 ファゼーロはおもての景色と合せて地図を床に置きました。「そら、こっちが東でこっちが西さ。いまぼくらのいるのはこゝだよ。この円くなった競馬場のこゝのとこさ。」

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2015年2月15日 大槌の「風の電話」と賢治の挽歌

風の電話は心で話します
静かに目を閉じ
耳を澄ましてください
風の音又は浪の音が
或は小鳥のさえずりが聞こえたなら
あなたの想いを伝えて下さい
想いはきっとその人に届くでしょう
                       佐々木格「風の電話」より

 「ベルガーディア鯨山」とは、釜石の会社を早期退職した佐々木格さんが、大槌町の郊外の高台に開いた、広大な庭園の名前です。
 ここには、佐々木さんが一つ一つ石を積んで建てた「森の図書館」(下写真)や・・・、

森の図書館

やはり佐々木さんが自ら木材を組み上げて作った「ツリーハウス」(下写真)などが建ち並んでいますが・・・、

ツリーハウス

それらの建物から少し離れて、海の景色が美しい場所にぽつんと建っている白い電話ボックスが、「風の電話」(下写真)です。

風の電話

 電話ボックスの中には、昔ながらの黒電話が一つ置かれているのですが、この電話機の線は、どこにも繋がっていません。ですから、この電話では物理的には、誰とも話はできないのです。
 しかしこの電話機には、他の普通の電話にはないような、特別な機能があります。実はこれは、この世の人と、亡くなった人の心をつなぐために、佐々木さんが設置したものなのです。

 佐々木格さんは、2010年の冬に、いとこを病気で亡くされました。悲しみに沈むご親族の力になればと考え、佐々木さんはこの庭園内に電話ボックスを設置し、暖かくなったら周囲に花を植えようと、2011年の春が来るのを待っていました。
 するとそこに、震災が起こったのです。ここ大槌町では、1万5千人の人口のうち、1284人が死亡または行方不明という惨事になりました。

 このような状況で、この電話が何か人の役に立つかもしれないと思った佐々木さんは、急いで周りの植栽を行いました。そして、これを「風の電話」と名づけて完成したのが、2011年4月のことでした。
 その頃まだ大槌では、現実の電話線も復旧していなかったのですが、5月に新聞記事で紹介されたことをきっかけに、ここを訪れる人がだんだんと増えてきたということです。

 「風の電話」を訪ねてきた方は、まずはこの庭園を散策したり、ベンチに座って海を眺めたりするのだということです。その後、電話ボックスに入って受話器を取り、しばしの時間を持たれるのです。
 ボックス内に置かれているノートに、その思いを書き付けて帰られる方も、たくさんあります。また、千葉県のボランティア団体から寄贈された小さな木彫りのお地蔵さんも置いてあって、ここを訪れる人は、お地蔵さんを自由に持ち帰ってよいことになっています。

 私自身も、2月12日の早朝に、「風の電話」を体験させていただきました。
 電話ボックスの扉を開けて中に入り、また扉を閉めると、中は思ったよりも静かでした。ガラスはきれいに磨かれています。

風の電話の内部

 ノートやお地蔵さんを眺めた後、受話器を手に取ってしばらく耳にあててみました。そして、今は会えないある人に対して、ずっと伝えたかったことを、心に念じてみました。

 実際に「風の電話」を体験して感じたことは、ここに入ってみると、自分を何かに「ゆだねる」というような気持ちが、なぜか湧いてくるということでした。

 しかしまあ、どこにも線の繋がっていない電話の受話器を取って、亡くなった人と「対話」をするなんて、ちょっと「芝居がかった」行為に感じられる向きもあるかもしれません。はたしてこんなことが、何かの役に立つのだろうかという疑問も、ありうるでしょう。
 それでも、この行為に確かな「意味」が存在していることは、震災から年月が経った今でも、わざわざここを訪れて受話器を手にする人が跡を絶たず、中には何度も来られる人もいるという事実が、はっきりと証明してくれています。私がここを訪ねたのは2月11日でしたが、震災から「月命日」にあたるこの日、「風の電話」を訪れる人を取材しようと、複数の新聞社の人も来ていました。

 この舞台装置が「芝居がかった」ものにならずに、実際にしっかりと機能を果たしている理由は、いろいろと考えられます。
 一つには、この電話が位置しているロケーションによるところもあるのでしょう。電話ボックスが設置されているのは、被災地の懐で、豊かな自然に囲まれ、手入れされ落ち着いた庭園の中です。そして、何よりもこの場所からは、あの三陸の海の、「あの日」とは異なった美しい姿を、望むことができるのです。
 そしてまた、この電話を設置して、それを守り続けている佐々木格さんのお人柄も、非常に大きな要素となっていることでしょう。ここに来ればいつでも佐々木さんが優しく迎えてくれて、丁寧に庭園を案内してくれたり、風の電話を使った後はお茶を飲みながら話を聴いてくれたりすることは、多くの人にとって心強い癒やしとなっていることでしょう。
 さらに、ここを訪れる方々同士の横のつながりも生まれ、「子を亡くした親の会」などの自助グループができていることも、当事者の方々にとっては、強い力になっていることでしょう。会の仲間と一緒に、みんなでピザの生地をこね、「森の図書館」の1階に造り付けられている石窯で焼いて食べるという会合も、開かれているのだそうです。

風の電話の内部

 佐々木さんによると、この電話を訪ねて来られた方でも、あまりにも悲しみが深い場合は、最初は電話ボックスに入ることにさえ抵抗感を抱かれるのだそうです。
 そういう方も、しばらくすると入ってみようという気持ちになられますが、それでも当初は、ほとんど言葉も出てこないということです。

 しかしそのうちに多くの方は、抱えてきた悲しみを佐々木さんに切々と話されるようになるのだそうです。それは初めのうちは、亡くなった方に対して自分を責める気持ち、生き残ってしまったことへの罪責感が、ほとんどだということでした。
 それでもいつしか、そのお話もだんだんと穏やかになり、表情も柔和になっていかれるということです。

 大切な人を失い、自分だけが生き残ってしまった時、人はしばしば「サバイバーズ・ギルト(生存者の罪責感)」という感情を抱いてしまいます。「なぜ自分はあの人を助られなかったのか」、「もしもあの時ああしておれば助けられたのではないか」、「自分が殺してしまったようなものだ」、「こんなことなら自分こそ死ねばよかったのだ」、などという思いが、無限ループのように心の中で渦巻きます。このような罪責感は、その人を失った痛切な記憶と固く結びついているので、その記憶がよみがえるたびに、まるで「自動思考」のように発動してしまい、人はなかなかこのループから抜け出すことができません。

 私が「風の電話」で感じた、「自分を何かにゆだねるような気持ち」は、このような「自動思考」を幾分なりとも解除してくれて、心が再び自然な流れを取り戻す上で、一定の役割を果たしてくれているのかもしれないと、ふと思ったりもしました。
 自分の心に浮かぶ考えや感情に流されたり、それらに対して価値判断を差しはさむことなく、ただ心に湧いてくることを客観的に観察しようとするという、「マインドフルネス」という心理アプローチがありますが、この「風の電話」に入ることは、意図せずにこの「マインドフルネス」に似たような心の状態を、作り出してくれているようにも感じました。
 ガラス張りで、中からは周囲の美しい風景がすっきりと見渡せる一方で、一人だけの静かな「守られた空間」でもあるというような不思議な感覚が、何らかの作用をしてくれているのかもしれません。

風の電話からの景色

 上に記したように、人間が深い「悲しみ」を段階的に昇華していく作業のことを、「グリーフ・ワーク」と言います。私は去る2月11日に、佐々木格さんと、県立大槌病院の心療内科医である宮村通典さんと一緒に、宮澤賢治が最愛の妹トシを亡くした後に経験したであろう「グリーフ・ワーク」について、暖炉の火の燃える「森の図書館」で、しばらくお話しをしました。

 トシを亡くした日、賢治は「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という不朽の三部作を書き付けましたが、その日からおよそ半年間は、少なくとも『春と修羅』に収められる作品は書いていない、文字どおり「無声」の時期が訪れます。
 翌年の6月以降、また創作は再開されますが、今度は「オホーツク挽歌」の章の諸作品のように長大なものが続き、言葉は堰を切ったように大量にあふれ出します。このあたりは、佐々木さんが、「風の電話」を訪れる方々を見ていて感じられた上記のプロセスと、同じような経過とも言えます。

 そして、賢治が「青森挽歌」に記している言葉、「なぜ通信が許されないのか/許されてゐる…」に表現されている葛藤は、まさに故人との「通信」を求めて、「風の電話」を訪れる人々とも、共通するものだと言えます。古今東西にあまねく、さまざまな「霊媒」と呼ばれる人々の存在があるのも、何とかして死者と通信をしたいという、人間の普遍的な願望によるものでしょう。
 賢治の場合は、青森へ向かう夜行列車の中や、稚泊連絡船の甲板や、サハリンの栄浜の海岸などが、トシとの「通信」を可能にするための舞台設定だったように思われます。一方、ここ大槌の「風の電話」には、上に記したようにさまざまな要素が絡み合って、「通信」のための絶妙の環境装置が備わっているわけです。

 賢治にとっても、もちろん一回の旅行だけで、その深刻な「グリーフ・ワーク」が終了したわけではありませんでした。その後もさまざまな作品に、彼の心の軌跡は表れています。
 そして最終的には、たとえば「銀河鉄道の夜」に代表されるような、「人の死の受けとめ方」へと結晶していったのです。

 古今東西、大切な人の死をどう受けとめるかという「ワーク」に求められているのは、きっと本質的にはみんな同じことなのだと思います。

 佐々木さんが設置したこの「風の電話」は、去年には可愛い絵本にもなって、出版されています。
 登場する動物たちのけなげさが、心に沁みます。

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やまのうえに 1だいの でんわが おいてあります。
きょうも だれかが やってきました。
せんのつなっがていない そのでんわで はなしをするために・・・。
                           (「かぜのでんわ」より)

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2015年2月14日 「大槌 宮沢賢治研究会」発足へ

 去る2月11日に私は岩手県大槌町を訪ね、そこで下記の佐々木格さんと宮村通典さんにお目にかかり、とても貴重なお話をお聴きしてくることができたのですが、その詳しい内容はまた次の記事でご報告することとして、まず今回は、来たる2月15日(日)に大槌町において予定されている講演会と、それを機に「大槌 宮沢賢治研究会」が発足予定であることを、ここにご紹介させていただきます。

 下の写真が、2月15日のその講演会の案内チラシです。

「宮沢賢治と大槌の関わりを知る」

宮沢賢治と大槌の関わりを知る

  日時: 平成27年2月15日(日) 13:00-16:00
  場所: 大槌町中央公民館第一会議室(3F) 無料

  第一部 宮沢賢治と大槌の関わり
                ベルガーディア鯨山 佐々木 格
  第二部 宮沢賢治に背中を押されて
                県立大槌病院心療内科医師 宮村 通典
  第三部 大槌 宮沢賢治研究会の発足
                小学生から大人まで参加できます。

  申し込み・問い合わせ先: ベルガーディア鯨山
                Tel. 0193-44-2544 佐々木
  主催: ベルガーディア鯨山
  後援: 大槌町教育委員会

 中心となってこの催しを企画し、第一部の講演もされる佐々木格さんは、釜石市の会社を早期退職後、大槌郊外の高台に「ベルガーディア鯨山」と名づけた美しい庭園を開き、そこに「風の電話」「森の図書館」「ガーデンカフェ」「ツリーハウス」などを、ご自分で製作しておられます。
 今回の催しを機に、「大槌 宮沢賢治研究会」を発足させ、また今後は大槌町内に2基の新たな賢治詩碑を建立する計画も進行中とのことです。
 佐々木さんが運営しておられる「風の電話」という素晴らしい<媒体>に関しては、次回記事でご紹介させていただくつもりです。

 第二部の講演をされる宮村通典さんは、心療内科の医師であり、日蓮宗の僧侶でもあるという方で、先の震災までは長崎県大村市の病院で勤務しておられましたが、震災を機に長崎の病院は退職し、自ら大槌町の病院に赴任して、地元の医療に尽くしておられます。
 私は2月11日に、宮村さんにも親しくお話をうかがうことができたのですが、宮村さんが九州から、はるばる三陸の被災地に身を投じる決断をする上で、大きな力となったのは、賢治が「〔雨ニモマケズ〕」に記した「行ッテ」の精神だったということです。

 今後の大槌町のさらなる復興と、「大槌 宮沢賢治研究会」のご発展を、心からお祈り申し上げます。

ベルガーディア鯨山
ベルガーディア鯨山

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2015年2月11日 スタンレー探険隊とコンゴー人

 「春と修羅 第二集補遺」に分類されている「発動機船 第二」の冒頭は、次のようになっています。

   発動機船 第二

船長は一人の手下を従へて
手を腰にあて
たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く
さっき一点赤いあかりをふってゐた
その崖上の望楼にむかひ
さながら挑戦の姿勢をとって
つゞけて鉛のラッパを吹き
たうたうたうたう
月のあかりに鳴らすのは
スタンレーの探険隊に
丘の上から演説した
二人のコンゴー土人のやう
(後略)

 船の上から崖上の望楼に向かって、勇ましくラッパを吹く船長の様子が、「スタンレーの探険隊に/丘の上から演説した/二人のコンゴー土人のやう」だというのですが、さらに賢治にはこの「探険隊」と「土人」のやりとりそのものをテーマとした作品もあって、その名もずばり「スタンレー探険隊に対する二人のコンゴー土人の演説」(「文語詩未定稿」)です。

   スタンレー探険隊に対する二人のコンゴー土人の演説

演説者
白人 白人 いづくへ行くや
こゝを溯らば毒の滝
がまは汝を膨らまし
鰐は汝の手を食はん

     証明者
     ちがひなしちがひなし
     がまは汝の舌を抜き
     鰐は汝の手を食はん

白人 白人いづくへ行くや
こゝより奥は 暗の森
藪は汝の足をとり
蕈は汝を腐らさん

     ちがひなしちがひなし
     藪は汝の足をとり
     蕈は汝を腐らさん

白人白人 いづくへ行くや
こゝを昇らば熱の丘
赤は 汝をえぼ立たせ
黒は 汝を乾かさん

     ちがひなしちがひなし
     赤は汝をえぼ立たせ
     黒は汝を乾かさん

白人 白人 いづくへ行くや
こゝを過ぐれば 化の原
蛇はまとはん なんぢのせなか
猫は遊ばんなんぢのあたま

     ちがひなしちがひなし
     蛇はまとはん なんぢのせなか
     猫は遊ばんなんぢのあたま

白人 白人いづくへ行くや
原のかなたはアラヴ泥
どどどどどうと押し寄せて
汝らすべて殺されん

     ちがひなしちがひなし
     どどどどどうと押し寄せて
     汝らすべて殺されん

    (このときスタンレー〔数文字不明〕こらへかねて
     噴き出し土人は叫びて遁げ去る)

 このような作品にも仕立て上げるくらいですから、この「スタンレー探険隊」と「コンゴー土人」とのやりとりに関して、きっと賢治は相当の関心を抱いていたのでしょう。

ヘンリー・モートン・スタンリー ヘンリー・モートン・スタンレー(1841-1904,右写真はWikipediaより)は、イギリスのジャーナリスト・探検家で、生涯に何度も中央アフリカ奥地を探検し、当時アフリカで行方不明になっていた探検家デイヴィッド・リヴィングストンとタンガニーカ湖畔で邂逅したり、ナイル川の源流を突き止めたことなどで知られています。彼がアフリカの奥地でリヴィングストンと巡り会った時に発したという言葉、「Dr. Livingstone, I presume? リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」は、当時イギリスで、思いがけず人と対面した時の慣用句として使われるほど有名な言葉になったということです。

 賢治が、このスタンレーの探険隊やアフリカにおける現地人との接触について知った出典として、『定本 宮澤賢治語彙辞典』は、スタンレーの著書『スタンレー探険実記 一名闇黒亜弗利加』(博文館,1896)だとしていますので、さっそく国会図書館デジタルコレクションで、これを調べてみました。

『スタンレー探険実記』 該当する本はおそらく右のもので、賢治が生まれた1896年(明治29年)に、矢部新作訳として刊行されています。
 『定本 宮澤賢治語彙辞典』には、これはスタンレーの著書"Through the Dark Continent"の翻訳であると書いてありますが、実際にはこれは、やはりスタンレーによるもっと後の探険記"In Darkest Africa or the Quest Rescue and Retreat of Emin Governor of Equatoria"の訳書であるようです。

 ページをめくって順に見ながら、賢治が注目したコンゴー人とのやりとりを探してみると、150-151ページにそれと思われる箇所がありました。

『スタンレー探険実記』p.150

『スタンレー探険実記』p.151

 このままでは読みにくいので、該当する部分を書き起こすと、下のようになります。

此朝暁方より凡そ三時間前に於て、舎営は土人の怒號と角笛の聲とに由て、一同平和の夢を攪破されたり。暫らくにして此聲は止めり。時に二人の土人、遙かの高所に在つて余等に對し、演説を始めたり、其聲明かに余等の耳に達せり。
第一人は曰く ― 外人共、外人共、何處へ行くのだ、何處へ行くのだ。
第二人は之れに應じて ― 何處へ行くのだ、何處へ行くのだ。
第一人 ― 此國は外人を容れない、外人を容れない。
第二人 ― 容れない、容れない、相違ない。
第一人 ― 一同皆汝等を敵とすべし。
第二人 ― 汝等を敵とすべし、帰れ帰れ。
第一人 ― 汝等は必ず殺さるべし。
第二人 ― 必ず殺さるべし、必ず。
第一人 ― ア、ア、ア、ア、ア―。
第二人 ― ア、ア、ア―。
第一人 ― ウ、ウ、ウ、ウ、ウ―。
第二人 ― ウ、ウ、ウ、ウ―。
此二人は實に能く調子を揃へて應演せり、此奇妙なる亜弗利加スタイルの演説法は、思はず、余等をして喝采せしめたり。次で諸方より一同に笑聲起れり、彼の演説者は此聲に驚きけん、匆々に逃げ去りぬ。

 これを見ると、賢治が「スタンレー探険隊に対する二人のコンゴー土人の演説」として文語詩化した内容よりはかなり簡素なものですが、しかし「第一人」が言ったことの一部分を「第二人」がリフレインのように繰り返し、いろいろと恐ろしい予言を連ねた挙げ句、最後に探険隊の笑い声に驚いて逃げ去る、という大枠は一致しています。
 念のために、原書"In Darkest Africa or the Quest Rescue and Retreat of Emin Governor of Equatoria"から該当部分を取り出してみると、下のようになっています。(The Internet Archive より)

 比べてみると、コンゴー人の発言部分は、矢部新作訳でもほぼ忠実に訳されているようです。

 興味深いのは、2人のコンゴー人の呼び方として、スタンレーによる原書では、'speaker'と'parasite'(=「腰巾着」?)として、2人目に対する評価が明らかに低いのに対して、矢部新作訳では「第一人」「第二人」と中立的な記述であり、一方賢治による「スタンレー探険隊に対する二人のコンゴー土人の演説」では、「演説者」と「証明者」となっていて、2人目に対しても一種の「権威」が付与されているところです。実際には、2人目は後について叫んでいるだけなので、これは賢治独特のユーモアなのでしょう。

 全体を眺めてみて、この2人の「演説」は、まるでミュージカルの一節であるかのような調子の良さと、滑稽な雰囲気に満ちています。(訳書には「此二人は實に能く調子を揃へて應演せり」と書いてありますが、この部分は原書にはありませんね。)
 最後で、二人が探険隊の笑い声で驚いて逃げてしまうところなど、もしもこれが舞台で演じられていたら、客席も一緒にどっと沸く場面でしょう。
 農学校の教師として、歌も入った喜劇を書いては生徒たちと上演していた賢治が、このような独特のやりとりに強く魅かれたというのは、理解できる感じがします。

 実際、賢治の作品の中にも、一人が何か叫んだらもう一人がその一部を真似するように叫んだり、あるいは強そうにしていた者が笑われた途端に逃げ出してしまったり、というような場面があったような気もしますが、今ちょっとすぐには思い出せません。

 何かありましたっけ?

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2015年2月 5日 銀河、ワームホール、りんご

 かなしい時はジョバンニのように眼をそらに挙げると、天の川が見えます。今の季節なら、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、オリオン座のベテルギウスが形づくる「冬の大三角形」によって、天の川は飾られています。

 ・・・ところで最近、「天の川は巨大なワームホール?」という科学記事を目にしました。
 この記事は、SISSA(トリエステ国際高等研究スクール)の研究者が最近発表した論文(「銀河ハロウの中心領域におけるワームホール存在の可能性」)および報道発表(「理論的には、天の川は巨大な"銀河移動システム"かもしれない」)にもとづいたもので、それによると、私たちの「天の川銀河」には、巨大な時空トンネル(ワームホール)があるかもしれないというのです。

 「ワームホール」とは、宇宙を舞台にしたSFではなじみ深い言葉ですが、私たちの属しているこの「時空」が歪みを持っているために、ある一点から別の離れた一点に移動できるような「トンネル」のような抜け道があり得るのではないか、という仮説です。
 すでに1935年に、アインシュタインとその共同研究者ローゼンによって、その存在の可能性が示唆されていましたが、今のように「ワームホール」という言葉が普及するきっかけとなったのは、1988年にマイケル・モリス、キップ・ソーンらが発表した論文(「ワームホール、タイムマシン、および弱いエネルギー状態」)において、「もし負のエネルギーを持つ物質が存在するならば、通過可能なワームホールは存在しうる」ということが、数学的に確かめられたことによります。
 この仕事のおかげで、以後のSFは、「どんな宇宙船も光速を超えられない」という相対性理論の桎梏から解き放たれ、「科学的」な方法によって人類が宇宙のはるか彼方まで旅をするという物語が、世界中で続々と生まれるようになりました。あの『スター・トレック』においても、ワームホールが重要な役割を果たしていました。

 ということで、今回SISSAの研究者が論じたように、もしも天の川銀河に巨大なワームホールがあって、それが時空を旅する軌道になるのだとしたら、これこそ賢治が夢想した「銀河鉄道」そのものではありませんか!
 賢治が描いたイメージが、思わぬ形でニュースに登場したことに感嘆するとともに、このSISSAという研究機関がイタリアにあることから、ジョバンニやカンパネルラやザネリなどという名前も、ここにぴったりふさわしいものに思えてきます。

 あと、さらにもう一つ、魅惑を感じるような一致があります。
 どちらも「宇宙空間における移動手段」だということで、「銀河鉄道」は「ワームホール」に比定することができるわけですが、そもそもこの「ワームホール」という名称は、「りんご」の実にあけられた「虫食い穴」から由来しているのです。「ワーム」というのは「芋虫」のことですね。

りんごとワームホール ワームホールという名前は、1957年にジョン・ホイーラーという物理学者が付けたものだそうですが、その発想の由来は、りんごの内部の虫食い穴を通れば、表面に沿って移動するよりも近道になる、ということです。右の図で、AからBへ行くのに、実線のように移動するのと、点線で移動するのとの違いですね。
 平面においては、このような「近道」はありえませんが、りんごの表面は一種の球面で「歪み」を持っているために、このような現象が起こるのです。

 となると、賢治が「銀河鉄道の夜」を着想するきっかけの一つとなったと考えられている作品「青森挽歌」において、「きしやは銀河系の玲瓏レンズ/巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる」と書いていたことに、思いを馳せずにはいられません。

 銀河鉄道は、まさに「りんごのなか」のワームホールを「かけてゐる」のです!

 最後に、下の動画は、銀河にあるワームホールを、SISSAがイメージ化して公開しているものです。よくわからないけど、スペクタクルです。


"Galactic Wormhole"

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2015年1月27日 I AM KENJI

I AM KENJI

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