2013年6月16日 城山の「丘」詩碑

 去る4月27日、岩手県紫波郡紫波町にある城山に、賢治の文語詩「」を刻んだ詩碑が建てられ、除幕式が行われました。宮澤賢治没後80年を記念したもので、地元紫波町の「城山に宮澤賢治文学碑を建てる会」の活動が実を結んだものです。
 残念ながら私は除幕式に行くことはできなかったのですが、先月の連休に訪問して、写真を撮影してきました。

 城山は、下記の場所にあります。

 私が訪ねた5月5日はあいにくの曇り空でしたが、城山公園では「桜まつり」が行われていました。

紫波町城山公園「桜まつり」

 この城山の「二の丸広場」という場所に、文語詩「」の詩碑が建てられました。

「丘」詩碑

 写真のように、詩の中から二連を抜粋して刻んだ「主碑」と、詩全文を刻んだ「副碑」から成る、立派なものです。
 直立した「主碑」に一部の抜粋を刻み、斜め水平の「副碑」に全文、という組み合わせは、「元祖賢治詩碑」たる花巻の「雨ニモマケズ」詩碑と、くしくも同じ構成です。左右は逆ですが。

賢治詩碑

 「主碑」の方に刻まれているテキストは、下記です。

 文語詩 「丘」 より
       宮澤賢治

野をはるに北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
かゞやきて黄ばめるものは
そが上に麦熟すらし

うちどよみまた鳥啼けば
いよいよに君ぞ恋しき
野はさらに雲の影して
松の風日に鳴るものを

        宮澤星河書

「丘」詩碑(主碑)

 そして「副碑」の方には、「」の全文が刻まれているのですが、主碑は美しい行書体で書かれているのに対して、この副碑はきちんとした楷書体です。「主碑を補助して一般の人の理解を深める」という趣旨を感じさせます。

「丘」詩碑(副碑)

◇          ◇

 もともとこの「」という文語詩は、1914年(大正3年)6月に詠まれたと推測されるいくつかの短歌に由来しています。

山上の木にかこまれし神楽殿     179
鳥どよみなけば
われかなしむも。

志和の城の麦熟すらし     179a180
その黄いろ
〔きみ居るそらの〕
こなたに明し

神楽殿               179b180
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも

 言うまでもなくこれらの短歌は、同年4月の岩手病院入院の際に恋した看護婦のことを思って作られたものです。
 賢治が立っているのは胡四王山(183m)、そこからおよそ20km北にある紫波町の城山(181m)を遠望することは可能なようですが、そこにある「二本の杉」や、麦が黄色に熟しているところまで見えたというのは、ちょっと驚きです。『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』において小川達雄氏は、次のように記しておられます。

賢治は並はずれた視力を持っていたのかもしれないが、しかし、城跡という遠い緑の丘を眺めて、そこに麦の色の気配を察知し、二本杉の所在を認めることができたのかどうなのか。思うにこれは、賢治がそれまでに何度か志和の城にやって来ていて、それで麦畑や二本杉を知っていた、ということではあるまいか。その記憶があったために、遠いかすかな緑の突起を二本杉と見、城跡の上のかすかな明るさは麦の色、と見ることが出来たのではないかと思う。

そのようなことだったのかなあと、私も思います。

 ちなみに、城山に実際にあった「二本杉」の大正時代の写真が、上掲書に載せられています。

志和城址の二本杉
小川達雄著『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』より

 また、「志和の城の麦」という箇所も、城山とどういう位置関係にあったのか気になりますが、これについて小川氏は、城山の通称「若殿御殿跡」と呼ばれた広場が、大正時代には広い麦畑になっていたという話を紹介しておられます。賢治は、城山に麦畑があるということをあらかじめ知っていたからこそ、見えるか見えないかという程度の「黄いろ」でも、それを「志和の城の麦」と表現することができたのでしょう。
 ちなみに「若殿御殿跡」という場所は、現在の「二の丸広場」に相当するようで、今回の詩碑が建立された場所です。

 この「」という作品は、作者自身が立つ胡四王山の鳥や松風から始まり、途中に「紫波の城」を経て、さらに遠くて見えない「かのまち」に思いを馳せるという構成になっています。最終形に書かれたことだけでは、「きみ」と「かのまち」を特定しきれないかもしれませんが、その「下書稿」に、

今日もまた病む人を守り
つゝがなくきみやあるらん

とあることから、きみ=看護婦であることが裏付けられ、「君が棲むまち」とは、岩手病院のある盛岡だと確定できます。

 今回、城山にこの詩碑が建てられることになった契機の一つは、この看護婦が、紫波町の日詰出身の高橋ミネさんではないかという説があることによります。
 確かに、この作品に登場する、花巻―紫波―(盛岡)という三つのポイントのうち、花巻と盛岡は、自分と相手がそれぞれいる場所だから当然として、その間に紫波が出てくる意味は何なのか、ということには興味を引かれます。賢治がこの地にも特別な意味をこめて眼を向けていたとすれば、それは「高橋ミネ説」を支持する根拠の一つとして数えることも可能でしょう。

 しかし、あらためて何度も作品を読み返してみても、これについては何とも言えない感じです。作品に「紫波」が登場する直接の理由は、下書稿において

野のきはみ北をのぞめば
紫波の城の二本の杉

として出てくるように、このポイントが賢治にとって、北を望む視界の「限界点」であったからでしょう。

 詩碑の前を去るにあたり、二の丸広場から南の方を眺めてみましたが、残念ながら胡四王山は見えませんでした。

城山から南を望む

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2013年6月 6日 第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都・案内

 一昨年から続けている宮澤賢治をテーマとした震災復興支援チャリティ企画「イーハトーブ・プロジェクトin京都」の第5回を、7月28日(日)に、京都府庁旧本館正庁にて開催することになりました。

 下の画像は、今回のチラシです。「よだか」にちなんで、埼玉県在住の画家鈴木広美さんの木版画「とり」を使わせていただきました。(クリックすると、別窓で拡大表示されます。)

「第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表

「第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏

 今回は、林洋子さんをお招きして、「やまなし」、「よだかの星」、そして最後に「雨ニモマケズ」を語っていただきます。
 林さんは、長年にわたり日本全国を巡って賢治作品の「ひとり語り」を続けてこられ、その奥深い表現には定評があります。今回は、「吟遊詩人の楽器」とも呼ばれるアイリッシュ・ハープとの共演です。

 終了後には、私と少し対談をさせていただく予定ですが、林さんと賢治の出会いや、30年以上・1600回にもわたって賢治作品を演じ続けてこられた力は何なのか、などということについてもお話をお聴きしたいと思っています。また林さんは、一昨年の夏には三陸沿岸の避難所をまわる公演も実施されました。今回の震災について感じられたことも、うかがいたいですね。
 さらに、これは偶然のご縁なのですが、林さんは故高木仁三郎氏の活動に共鳴され、高木氏が市民科学者育成のために創設した「高木学校」のサポーターの会の「キャプテン」を務めておられます。一方、高木仁三郎氏の実兄は私の仕事先の理事長をしているので、林さんは以前にそういう関係でも、京都に来られたことがあるということでした。
 というわけで当日は、高木仁三郎氏が生前に行った活動についても、少し話が出ることでしょう。

 会場の「京都府庁旧本館」は、明治37年に建てられたルネサンス様式の重厚な洋館で、国の重要文化財にも指定されています。
 公演を行う「正庁」という部屋は、その旧本館の中でも最も格式の高い場所で、公式行事や公賓の接遇のために使われていた特別な空間です。大正4年の「大正天皇即位の礼」の際、および昭和3年の「昭和天皇即位の礼」の際には、内閣全体が京都に移動してきて、この「正庁」の部屋で閣議が行われたということです。
 現在はこういうイベントなどに使われていますが、当時の雰囲気をそのままに伝えています。

 祇園祭も終わって、その前週の日曜日には参議院選挙が行われ、京都は暑い盛りでしょうが、林洋子さんの情感あふれる「ひとり語り」とアイリッシュ・ハープの音色を、ぜひお楽しみ下さい。

第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都
  〜 林洋子ひとり語り 〜

【演目】
  一、 やまなし
  二、 よだかの星
   三、 雨ニモマケズ
            作: 宮沢賢治
            語り・演出: 林 洋子
            アイリッシュ・ハープ: 梅津 三知代
【日時】
  2013年7月28日(日) 午後3時開演
                              (午後2時半開場)
【場所】
  京都府庁旧本館正庁 (京都市上京区)
【参加費】
  2000円 (必要経費以外は義援金とします)

※ 参加ご希望の方は、必ず事前にご予約下さい。
予約は、当サイト管理者あてメールにて、承ります。



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2013年6月 2日 続・美しい医院のあるじ

 以前の記事で、「〔この医者はまだ若いので〕」という作品で描かれている若い医師は、いったい誰なのかということについて、考えてみました。
 まず下記に、その作品全文を再掲しておきます。

この医者はまだ若いので
夜もきさくにはね起きる、
薬価も負けてゐるらしいし、
注射や何かあんまり手の込むこともせず
いづれあんまり自然を冒涜してゐない
そこらが好意の原因だらう
そしてたうたうこのお医者が
すっかり村の人の気持ちになって
じつに渾然とはたらくときは
もう新らしい技術にも遅れ
郡医師会の講演などへ行っても
たゞ小さくなって聞いてゐるばかり
それがこの日光と水と
透明な空気の作用である
こゝを汽車で通れば、
主人はどういふ人かといつでも思ふ
この美しい医院のあるじ
カメレオンのやうな顔であるので
大へん気の毒な感じがする
誰か四五人おじぎをした
お医者もしづかにおじぎをかへす

 前回は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」から、1933年(昭和8年)刊行の『健康保険医名簿』という文書を閲覧して、候補となる医師を検討してみました。その際、モデルだった可能性の高そうな医師として最終的に残ったのは、下記の4名でした。

中島米八
大平貞治
星多聞
田村孝一郎

 さて、私は先日花巻へ行った際に、市立図書館で『岩手県医師会史』(1980年刊)という大部な本を見ることができました。その「下巻」には「郡市医師会編」として、岩手県内の各地区医師会の歴史がまとめられているのですが、その中に、私が知りたかった大正時代から昭和初期の「稗貫郡医師会」について、かなり詳しい情報が掲載されていました。
 これを参考にすると、上記の候補やその他の医師について、もう少し検討を深めることができそうです。今回ここに、記事として整理しておきます。

 『岩手県医師会史』下巻の「花巻医師会史」の項には、明治・大正・昭和の花巻でどういう病院ができたとか、何という名前の医師が開業したとかいう事柄が、遺族の手記などもまじえながら、編年体で網羅的に記されています。
 たとえば、下の画像のような形です。

『岩手県医師会史』下巻より

 上の記事によれば、稗貫郡医師会主催の医学講演会が、昭和2年6月25日に「花巻温泉遊園地」で開催され、「発熱に就いて」「上腹部腹膜炎に就いて」「血液による親子の鑑別」という三題の講演が行われたということです。
 「〔この医者はまだ若いので〕」の中に、「郡医師会の講演などへ行っても/たゞ小さくなって聞いてゐるばかり」という一節がありますが、賢治はこういう講演会の案内とかニュースに接して、「郡医師会の講演」というものをイメージしたのかもしれません。いくら賢治でも、直に医師会の講演会に出席して医師の様子を観察したわけではないでしょうから、医師会の講演に関するそういう間接的情報から、そこに出席している若い医師の様子を、想像して書いたのだろうと思います。

 さて、上でも講演会の記述に続いて、新たに開業をした医師の略歴等が羅列されていますが、この本の大正時代から昭和初期について記述した部分をもとに、この期間に花巻町および花巻川口町において開業した医師をリストアップすると、下記のようになります。

開業
氏名
生年
場所
備考

1911

三浦 泰

1871

川口町

 

1915

藤井 謙蔵

1882

川口町

 

1917

中島 米八

1886

川口町大工町

花巻農学校校医

1917

佐藤 隆房

1890

下根子

後に花巻共立病院を開設

1919

平沢 保之

1888

川口町館

 

1920

石橋 賢斉

1884

花巻川口町

 

1922

小原 隆造

1878

 
 

1922

星 多聞

1894

花巻川口町

趣味スポーツ

1925

佐藤 豊蔵

1877

川口町

 

1925

田村 孝一郎

1900

川口町

趣味謡曲

1927

近江 文男

 

花巻町

趣味スポーツ謡曲

1927

倉井 三郎

1903

川口町

趣味スポーツ

1928

大平 貞治

1898

仲町

学生時代柔道

1929

工藤 軍司

1903

坂本町

 

1929

大橋 秀治

1897

吹張町

 

1933

和田 文治郎

1898

花巻川口町

 


 前回の記事では、作品「〔この医者はまだ若いので〕」が「黄罫詩稿用紙」に書かれていることから、これは羅須地人協会時代、すなわち1926年から1928年の間に着想されたものである可能性が高いと考えました。賢治の口語詩草稿においては、ただ一つの例外を除き、「スケッチ日付が明示されている作品で、詩稿用紙の最初に黄罫用紙が使われているものは、『春と修羅 第三集』に属する」という経験則があります。『春と修羅 第三集』の時期=羅須地人協会時代なのです。
 また、ある特定の個人の人間観察を眼目としている作品の内容からも、これは『春と修羅』や『春と修羅 第二集』の作品とは趣を異にしており、やはり羅須地人協会時代のものではないかと思われます。

 さらに、作品中に「こゝを汽車で通れば/主人はどういふ人かといつでも思ふ」とあって、作者はこの医師に関心を持ちながらもまだ一度も見かけたことはないようですから、医師が医院を開業したのは、作品が書かれた時からさほど遠い過去ではないのでしょう。
 となると、医院の開業時期は1926年〜1928年からせいぜい数年以内の過去と考えられ、そこで上の表を見ると、1925年、1927年、1928年開業、というあたりが気になってきます。表には、1922年に開業した医師も2人いますが、1922年というと賢治はまだ農学校教師になって間もない頃で、町の中に住んで町の人との交流もそこそこ持っていました。ですから、「どういふ人かといつでも思ふ」というほど興味を抱いていた医師に、同じ町内に住んでいて4年以上一度も直接顔をあわせたことがなかったというのは、不自然です。
 これに対して、羅須地人協会を始めてからの賢治は、町の郊外で独居自炊生活をして、あまり町の人との社交はしなくなりましたから、ある人と何年も顔を合わさないということも、あったかもしれません。

 ということで、作品のモデルとなった医師は、1925年、1927年、1928年開業の計5名のうちに含まれる可能性が高いと考えて考察を進めたいのですが、その前に少しだけ余談を。
 ここでひとまず除外した1922年開業の医師の一人に、星多聞という人がありますが、『岩手県医師会史』に掲載されたこの人の経歴は次のようなものです。

 星 多聞 大正十一年花巻川口町に内科星医院開業。明治二十七年六月十一日生れ。福岡市出身。大正五年東北大医学部卒。母校付属病院に二年間研究後一関病院に勤務後現地開業。

 つまり、1922年に花巻で開業する前は、星医師は一関病院に勤めていたということなのですが、これはちょうど、「一関のミネさん」という記事において紹介したように、高橋ミネさんが一関病院玄関前で記念写真を撮影した時期にあたるのです。
 すなわち、星医師は、一関で高橋ミネ看護婦としばらく一緒に仕事をした後、花巻にやってきて開業したということになるのです。これはちょっと不思議な縁のような気もしますが、もちろんそんなことは、当時の賢治も星氏も、意識するはずはありませんね。

 まあとりあえず脱線はこのくらいにして、「美しい医院のあるじ」の探索に戻ります。現時点での候補は、1925年に開業した佐藤豊蔵氏と田村孝一郎氏、1927年に開業した近江文男氏と倉井三郎氏、1928年に開業した大平貞治氏、という5名です。
 このうち、作品では「この医者はまだ若いので」とあることから、開業時に48歳だった佐藤豊蔵氏は、除外してよいでしょう。
 また、近江文男氏の「生年」は上の表では空欄にしてありますが、『岩手県医師会史』では、近江氏の生年月日は「明治二十?年八月七日」と記されています。つまり、開業時には31〜40歳だったわけで、これはやはり、「まだ若い」と言うには、若干年齢が行き過ぎている感があります。
 何歳までなら「まだ若い」ということになるのか、明確な境界線を引くことはできませんが、ここで私が一つの目安にしたいと考えるのは、賢治自身の年齢との関係です。作品中で賢治自身が相手を「まだ若い」と表現し、その人となりを憐れみつつ同情するような視線で見守っていることから、この医師は賢治から見ると、自分よりも若く感じられたのだろうと思うのです。そうすると、「明治二十?年」生まれの近江医師は、最も若いとしても1896年(明治29年)生まれで、賢治と同い年ということになりますから、私としては除外したいと考えます。

 ということで、候補は1925年開業の田村孝一郎氏、1927年開業の倉井三郎氏、1928年開業の大平貞治氏の、3人になりました。
 これを一人一人、順に見ていくことにします。

 まず、田村孝一郎氏の略歴は、『岩手県医師会史』に次のように記されています。

 田村孝一郎 明治三十三年一月二十日生れ。東京府出身。大正十年千葉医専卒。母校付属病院眼科助手勤務。十二年眼科主任として花巻共立病院着任。十四年十二月川口町に田村眼科医院を開業。石橋眼科と二院となった。

 開業は25歳の年で、「この医者はまだ若い」と言われるに十分です。場所は、「川口町」としか記されていませんので、作品にあるように、医院が汽車から見える所だったかどうかはわかりません。
 診療科が眼科であるという点は、一般にはあまり夜間の急患ということは少ない科なので、「夜もきさくにはね起きる」という描写からすると、候補から除外すべき根拠とまでは言えないかもしれませんが、若干の違和感があります。住民が、夜中に眼科の先生を起こして緊急に診察を求める病状としては、眼の外傷くらいしか思い浮かびませんが、夜中にそんな事態が起こるのは、かなり稀なことでしょう。
 さらに、この田村医師は花巻共立病院の勤務医を2年やってからの開業ですが、この点は住民からすると、見知らぬ医師が突然開業したというのとは異なります。賢治は医院のあるじに対して、「主人はどういふ人かといつでも思ふ」と書いて、その人となりについて強い好奇心を示していますが、もしもその医師が共立病院でしばらく診療していて、多くの町民を診ていたことを知っておれば、その好奇心も、ここまで高まらなかったのではないかと思うのです。つまり、この経歴は、田村医師が作品のモデルであった可能性を、やや低下させる要素ではないかと思います。
 ということで、田村医師の可能性も完全には否定はできませんが、眼科医である点と開業前に花巻共立病院に勤めていた点は、少し引っかかります。

 次に、1927年開業の倉井三郎医師の略歴は、以下のとおり。

 倉井三郎 十二月川口町に耳鼻科倉井医院を開業。明治三十六年九月三日生。栃木県出身。大正五年東北大医専卒。大正七年秋田県小坂鉱山病院耳鼻科眼科勤務後来花開業。趣味スポーツ。

 さらに、倉井医師については、昭和13年の項にも、次の記事があります。

 倉井三郎 十一月 花城町に倉井耳鼻咽喉科医院開業。明治三十六年九月三日生れ。大正五年東北大学医学部卒。昭和七年東北大耳鼻科教室から学位授与。昭和八年五月から産業組合盛岡病院耳鼻科勤務。十三年開業。昭和二十五年一月十一日没。

 最初に開業した1927年には24歳で、「この医者はまだ若い」というに十分です。場所は、やはり「川口町」としか記されておらず、汽車から見える所かどうかはわかりません。
 診療科は耳鼻科で、これも内科・外科・産婦人科・小児科に比べると、夜間の急患は少ないかもしれません。しかし、急性の扁桃炎やジフテリアで喉が腫れて呼吸が困難であるとか、鼻出血が止まらないとか、急性中耳炎で痛みが強いとか、それなりにはありえます。

 さて、この倉井医師の経歴が変わっているのは、いったん1927年(昭和2年)に開業してから、1933年(昭和8年)に盛岡の病院の勤務医になり、また1938年(昭和13年)に花巻で再開業しているところです。前回の記事の考察で、この倉井医師が候補に上がっていなかった理由は、前回依拠した『健康保険医名簿』が集計された時点で、倉井医師は医院をいったん閉めていたからだと思われます。

 通常は、医師が開業してから短期間で医院を閉めて、勤務医に戻るということは、あまりないことです。開業に際しては、建物を構え医療機械を揃えるなどの少なからぬ投資が必要で、医院を閉めてそれらを遊ばせておくということを、多くの人は好みません。医院に全く患者が来なくてつぶれたとか、何か不祥事を起こして診療を続けにくくなったとかなら別ですが、倉井医師はまた5年後に同じ花巻で医院を再開していますから、そういうわけでもありません。
 考えられるのは、盛岡へ行く前年の昭和7年には「東北大耳鼻科教室から学位授与」とありますから、倉井医師はいったん医院を閉めて大学に戻って研究生活を送った後、医局の要請によって盛岡の病院に赴任した、という経緯です。しかしいずれにしても、盛岡の病院で勤務していた期間、花巻に残してきた医院のことは、ずっと気になっていたでしょう。本心では、盛岡などへ行かずに、学位を取ったらすぐに花巻へ戻って医院を再開したかっただろうと思うのですが、そうせずに5年も盛岡で勤務医をやったというのは、この倉井医師は頼まれたことは断りにくい「お人好し」だったのかもしれません。

 それからあと一つ注目しておきたいのは、「趣味スポーツ」と記されている点です。この作品の初期形には、「ベースボールなどもやりたさう」という一節があり、賢治にはこの医師がスポーツマンに見えたらしいのです。
 この点は、この作品のモデルが倉井医師であったという可能性を、多少とも高めてくれるポイントです。

 最後に、1928年に開業した大平貞治医師の略歴は、以下のとおりです。

 大平貞治 (昭和3年)四月花巻市仲町に内科産婦人科大平医院を開業。大正十二年共立病院に着任勤務していたが、この時開業。趣味謡曲。

 開業時には30歳、賢治より2歳年下ですから、「この医者はまだ若い」という範囲にギリギリ収まるでしょうか。診療科が内科産婦人科というのも、夜間に急患が十分にありえます。
 ただ、開業場所が「仲町」というのが、汽車から医院が見えるという条件からすると、厳しいものがあります。仲町は、東北本線からはずっと遠く離れており、岩手軽便鉄道からは、最も近いところでも150mあります。市街地の中で住宅も多いことを考えると、汽車から医院が見えるというのは、非常に困難であったと思われます。

 今回の記事の最初の方に、『岩手県医師会史』の1頁を例示しましたが、そこにたまたま大平貞治氏の写真が載っています。そしてその写真の下に書いてあるように、大平氏は稗貫郡医師会の第三代および第五代会長を務めたということです。後に医師会長にまでなる人だったとすれば、賢治が作品中で「郡医師会の講演などへ行っても/たゞ小さくなって聞いてゐるばかり」と描写した人物像とは、かなり印象が異なります。ただこの辺は賢治の想像上のことでしょうから、すべてを真に受けることもできませんが。
 また、賢治はこの医師について、「カメレオンのやうな顔であるので/大へん気の毒な感じがする」と描写していますが、写真に見る大平氏はどうでょうか? これもどこまで当てにできるかわからない情報ですが、「カメレオン」と呼ぶのはちょっと苦しいかもしれません。
 総合すると、医院の場所、および容貌や推測される人となりから、大平貞治氏も候補としてはあまり合わない感じがするのです。


 ということで、今回の資料『岩手県医師会史』をもとにして考察したかぎりでは、口語詩「〔この医者はまだ若いので〕」という作品において描かれている「美しい医院のあるじ」とは、昭和2年に開業した倉井三郎医師(当時24歳)である可能性が、最も高いように思われます。
 しかし、利用できる情報はまだまだ限定されており、また考察の前提としたいくつかの事項も、完全に確かと言えることばかりではなく、とても断定的なことは言えません。たとえば、これまでの検討は、その医院は花巻町または花巻川口町にあると考えて進めてきましたが、これも確実な前提ではありません。

 この問題については、これからも引き続き考えていきたいと思いますが、何らかの方法で、当時の花巻および周辺にあった医院の具体的な場所を、特定することはできないものかと思っています。

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2013年5月12日 三陸の賢治詩碑の現況(5)

 先の連休に岩手方面へ行っていたのですが、その際にやっと、陸前高田市の高田高校にあった「農民芸術概論綱要」碑に、再会することができました。一昨年11月に行った時には目にすることができなかったもので、再会できたのは正確には碑の全体ではないのですが、今回はそのご報告をいたします。

 岩手県陸前高田市にある県立高田高校に、宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ石碑が建てられたのは、1972年(昭和47年)のことでした。
 当時校長をしていた鈴木實氏が、東北砕石工場で賢治と一緒に仕事をしていた鈴木東蔵工場長の長男であるという縁もあって、宮澤清六氏はこの年の8月に、高田高校に寄付を行ったのだそうです。そして、そのお金の使途について関係者が協議した結果、これを基にして賢治の詩碑を作ろうということになりました。碑文には、たまたまこの2年前の1970年(昭和45年)に、学校創立40周年記念として講演を行った谷川徹三氏が揮毫した「農民芸術概論綱要」の一節の色紙が、銅板にして使用されました。
 碑石は、陸前高田市内を流れる気仙川の上流、住田町上有住字桧山というところから、河原の転石を選んで運んできたのだということです。

 下記が、在りし日のこの石碑です。高校の正面玄関左横に、鎮座していました。

在りし日の「農民芸術概論綱要」碑

 ちなみに鈴木實氏は、高田高校に続いて、遠野高校、花巻北高校という、県立の名門校の校長も歴任しますが、それぞれの学校における在職中に、「農民芸術概論綱要」碑(遠野高校)、「ポラーノの広場のうた」碑(花巻北高校)という賢治碑を建立しています。3つの碑とも、碑文が銅板に刻まれているところも共通点です。

◇          ◇

 さて、東日本大震災とその津波によって高田高校では、死亡または行方不明の生徒が計22名という、東北3県の高校としては最大の被害を蒙りました。海から1kmも内陸にありながら、校舎は3階天井までもが浸水し、全壊というべき状態となりました。
 学び舎を失った生徒や先生たちは、隣の大船渡市で廃校になっていた旧・大船渡農業高校の校舎を借り受けることとなり、授業が再開できたのはやっと2011年5月2日からということで、これは岩手県内の学校で最も遅いものでした。生徒たちは毎朝、陸前高田市内からスクールバスを連ねて、大船渡市郊外の仮校舎に通うことになったのです。

 私が震災後に高田高校を訪ねることができたのは、2011年の11月26日でした。しかし、大量の土砂や瓦礫が堆積した構内で、賢治の碑を見つけることはできませんでした。

高田高校構内

 ただ、正面玄関の近くでは、倒れた門柱と、野球部の甲子園初出場を記念した阿久悠氏の詩碑が、目にとまりました。

高田高校門柱と阿久悠詩碑

◇          ◇

 そして去る5月4日に、私は高田高校の仮校舎がある場所を訪ねてみたのです。

 まず確認しておくと、元の陸前高田高校のあった場所(A)と、現在の仮校舎(B)の位置関係は、下の図のようになっています。バイパスを通っていっても、距離は約20kmあります。

 5月4日朝は、新花巻を新幹線で発つと、一ノ関で大船渡線に乗り換え、東北砕石工場があった陸中松川なども過ぎて、気仙沼までJRで来ました。本来はJR大船渡線は大船渡市の盛まで続いているのですが、気仙沼より先の路線は震災の被害が著しく、復旧の目途も立っていない状況で、現在はここ気仙沼が終点になっています。
 気仙沼駅の駅舎は、一昨年に来た時よりもきれいに改装され、連休とあって観光客の姿もたくさん見られました。

気仙沼駅

 この駅前から、BRT(Bus Rapid Transit)という交通機関に乗ります。これは、もとは大船渡線の鉄道線路だった跡地を舗装してバス専用レーンとし、ここにシャトルバスを走らせるというものです。本年3月2日からその運行が開始されたことによって、この地区の交通の不便はかなり改善されたということですが、このような手段を取らざるをえないこと自体が、鉄道再開の困難さをあらためて浮き彫りにしているとも言え、なかなか手放しでは喜べません。

 バスは、鹿折地区の「第十八共徳丸」を過ぎ・・・

第十八共徳丸

 陸前高田も過ぎ・・・、

陸前高田

 大船渡市の盛駅に着きました。

BRT盛駅

 上写真のようにBRTというのは、元の鉄道駅のホームに乗り付けます。途中には、バスの走る「道」の両側に「踏み切り」がある場所もあって、何となく不思議な雰囲気でした。

 盛駅からはタクシーに乗って、旧・大船渡農業高校の校舎に向かいました。運転手さんが道々、この高田高校の仮校舎にはこれまで全国から支援の教職員の方々がたくさん来られていること、はるばる宮古島から来たという女先生もタクシーに乗せたことなどを、話してくれました。

 車はかなり郊外を走り、ちょっとした山あいの雰囲気も出てきた頃、「高田高校仮校舎」に着きました。
 入口の門柱には、まだ真新しい輝きを放つ、「岩手県立高田高等学校」というステンレスの表札が掲げられています。

高田高校仮校舎表札

 中に入ると、勇ましい掛け声で剣道部の練習なども行われています。
 おそらくはるばる陸前高田市から部活に来ている元気な生徒さんたちとすれ違いながら、かなり古い校舎の裏手にまわると、そこには大きな岩がごろごろと置かれている場所がありました。

碑石置き場

 これを見た瞬間は、図らずも「碑石の墓場」などというような不吉な言葉も浮かんでしまったのですが、実は断じてそうではなくて、ここは高田高校の新校舎が完成した暁には、昔の校舎の歴史を知る証人として校内のしかるべき場所に配置されるべき石碑たちが、静かにその出番を待っている、「控えの間」なのです。

 そしてこの中に、あの「農民芸術概論綱要」碑の碑石も、ちゃんとありました。

「農民芸術概論綱要」碑の碑石

 ただ、上の写真を見ていただいたらわかるとおり、谷川徹三氏の揮毫によって鋳造され嵌め込まれていた銅板は、ぽっかりと失われてしまっており、その場所に四角い跡だけが残っています。恐ろしい津波の勢いは、この金属板を碑石から引き剥がして、流し去ってしまったのでしょう。
 しかし、碑石の脇の方には、下写真のようなより小さな銅板は残っており、たしかにこれが「農民芸術概論綱要」碑であることを、証明してくれています。

「農民芸術概論綱要」碑/副銅板

 ところで、失われてしまった銅板と、ここに刻まれていた「農民芸術概論綱要」の一節については、朝日新聞北上支局の但木記者による昨年10月27日の記事(「「賢治の碑」の行方[6]」)が、消息を伝えてくれています。

朝日新聞岩手版2012年10月27日
朝日新聞岩手版2012年10月27日

 「かゞやく宇宙の微塵」という言葉が、震災前年の卒業アルバムのタイトルとなっていたということにも何かの因縁を感じますが、それにも増して、谷川徹三氏の色紙原本が、「水没した3階西側図書室」で発見された経緯について読んだ時、私は体が震えるような感じがしました。
 この発見が、碑の復元への道筋を開いてくれたという喜びとともに、それが他ならぬ「9月21日=賢治忌」の日に、再び姿を現したというめぐり合わせへの驚きを、禁じ得なかったのです。
 実は、この翌日の2012年9月22日は、校舎の解体を前に、生徒たちや関係者が旧校舎に別れを告げる、「高田校舎お別れ式」が行われるというタイミングでした。この日を逃せば、もう発見は不可能だったろうという、本当に最後のチャンスの賢治忌だったのです。
 ここでついでにもう一つ偶然のめぐり合わせを追加すれば、この色紙は、1930年に「高田実科高等女学校」として創立された高田高校の40周年を記念して、1970年に揮毫されたものでしたが、これを元にして碑が建てられたのは1972年。そしてこのたび色紙が発見された2012年は、碑の建立から40周年に当たります。

 さて、高田高校の新校舎は、2015年3月に完成予定とのことですが、その際にはこの石碑が復元され、また生徒たちを見守るようになることを願って、失われる前の銅板の写真を、ここに載せておきます。

「農民芸術概論綱要」碑面

 これは2000年の夏に撮影したものですが、板面に浮き彫りにされた文字は、けっこう擦り減っています。40年近くにわたる歴代の生徒たちは、この表面を手で撫でたりして親しむことも多かったのだろうかなどと、あれこれ想像してみたりします。

【関連記事】
三陸の賢治詩碑の現況(1)
三陸の賢治詩碑の現況(2)
三陸の賢治詩碑の現況(3)
三陸の賢治詩碑の現況(4)

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2013年4月29日 賢治セミナー『宮沢賢治と北三陸』

NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」 今月から始まったNHK朝の連続テレビ小説は、宮藤官九郎の脚本で三陸の「北限の海女」を描く、「あまちゃん」です。
 お話の舞台は「北三陸市」という架空の町ですが、これは現実の岩手県久慈市を題材にしています。また主人公アキの親友ユイちゃんが住んでいるという設定の「畑野村」は、久慈市から三陸鉄道で南に40分ほどのところにある、下閉伊郡田野畑村がモデルですね。
 私は第2週から毎日録画して視聴する体制に入っているのですが、朝ドラでこんなことをするのは、やはり岩手を舞台としていた2007年の「どんど晴れ」以来のことです。
 これはドラマとしてもなかなか面白いですし、何と言っても宮本信子と小泉今日子という大物二人のキャラクターが最高です。もちろん、北三陸の風物に毎回触れられるのも、大きな楽しみとなっています。

 ということで、今や全国的にも視聴率20%を越える注目を集めている北三陸地域なのですが、このたびこの場所を舞台として、賢治ファンの皆さんも、「じぇじぇ!(‘ jj ’)」と驚くような企画が実現しました。
 「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」の主催によるセミナー、『宮沢賢治と北三陸』がそれで、6月29日(土)・30日(日)の2日間、花巻発のバスで北三陸地方―久慈市、野田村、普代村、田野畑村―を訪ね、この地区における賢治の足跡や作品、またそれにちなんで建立されている詩碑をめぐり、賢治の旅と、一昨年の津波や現地の実情に思いを致すという、中身の濃いバスツアーです。
 現時点で発表されている予定は、次のようになっています。

期日: 2013年6月29日(土)・30日(日)
会場・宿泊先国民宿舎 えぼし荘 
定員: 40名
参加費: 12,000円
申込み宮沢賢治学会イーハトーブセンターまで
  Tel: 0198-31-2116   Mail: kenji.info@kenji.gr.jp
  (5月1日より受付を開始し、定員になりしだい締め切り)
日程
 第一日(29日)
  (1)出発 イーハトーブ館 10:00
         新花巻駅(東北新幹線)10:15
  (2)バス移動 久慈海岸経由 野田村 えぼし荘着 15:30
  (3)講演 「北三陸海岸詩篇群について」(仮題)16:00-17:30
      講師: 交渉中
  (4)夕食・懇親会 18:30-
 第二日(30日)
  (5)講演 「三陸海岸の賢治碑について」(仮題)9:00-10:00
      講師: 浜垣誠司(京都市)
  (6)実地研修 普代村、田野畑村の賢治碑 10:00-12:00
  (7)バス移動 岩泉経由、盛岡駅停車 15:30
            新花巻停車、イーハトーブ館着 16:30

 私は2日目に、津波後の三陸の賢治詩碑の状況をお話する予定です。また1日目の懇親会でも、野田村、普代村、田野畑村の合唱団の皆さんとご一緒に、余興を披露させていただくかもしれません。

 さて今この時期に、賢治を愛する方々とともに三陸を訪ねるという企画には、はかりしれない深い意味があると思います。このような貴重な機会に、私のような余所者がお話をさせていただくというのは大変に恐れ多いことに感じられ、ご依頼をいただいた時にも、自分がはたしてその任に堪えられるかと躊躇しました。
 しかし、これまで北三陸で出会い、お世話になった方々への「恩返し」と言うとこれはまたおこがましいことになってしまいますが、とにかく何でも私に今できることは、しなければならないと思った次第です。

 本格的な夏を前にした三陸に、皆様もぜひお越し下さい。

 ・・・海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。(「ポラーノの広場」より)

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2013年4月21日 熱と汗の四十日

 1928年(昭和3年)の8月、賢治は下根子桜における羅須地人協会の活動に終止符を打って、豊沢町の実家に戻ります。
 その理由は、一般には賢治の病気のためとされていますが、この時の状況について佐藤隆房氏は、『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)に次のように書いています。

 昭和三年の八月、食事の不規則や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではなく、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医は花巻共立病院の佐藤長松博士でしたが、重要な診断や助言については、前々から父政次郎さんと昵懇の仲であって、また賢治さんとも親しい間にあった院長の私が当たっていました。

 「両側の肺浸潤」というのが、この時に下された診断だったわけです。「浸潤」という語は、(布や紙を水に浸したような)不規則な形をした病変が広がっている様子を表す言葉で、これ自体は、特定の疾患を指す用語ではありません。しかしこれが「肺浸潤」となると、結核によるある種の肺の病態を意味する言葉になります。
 X線写真では、たとえば下の画像のようなものです。

肺浸潤
『医療者のための結核の知識』(医学書院)より

 向かって左側(右肺)の、中央少し上の左端にぼやっとした白い影が見えますが、これが結核による浸潤陰影です。空気感染によって肺胞に定着した結核菌がこの部分で増殖しているのに対して、それを何とかして撃退しようと白血球や種々の免疫細胞が集まって、両者の間で戦いが繰り広げられている現場です。
 肺胞で炎症が起こっているわけですから、これは医学的には「肺炎」の一種です。

 ですから、これを素直に「結核性肺炎」と呼ぶ方が、本当はわかりやすいと思うのですが、「肺浸潤」などという、それ自体は特定の疾患を指しているわけではない曖昧な言葉が、この場合はまるで一つの病名のように使われるのが通例です。
 そのような婉曲な表現がとられる理由は、抗生物質もなかった戦前においては、不治の病と恐れられる「結核」という言葉は、人々にとってあまりにも不吉な響きを帯びていたために、皆があえてその忌わしい語を口に出したくなかったからでしょう。結核性胸膜炎が一般に「肋膜」と呼ばれ、また結核性脊椎炎が「カリエス」と、結核性頸部リンパ節炎が「瘰癧(るいれき)」と、それぞれがまるで別の病気のような名前で呼ばれるのも、同じ事情によるのだと思います。

 いずれにせよ、佐藤医師が「肺浸潤」という病名を付けたこの時点で、賢治の発熱や体のだるさは、単なる風邪や疲労によるものではなく、妹の命を奪ったのと同じ病魔によるものであることが、初めて(注1)正式に宣言されたわけです。
 以前に「身熱の日々」という記事に書いたように、羅須地人協会で独居生活を始めてからの賢治は、これに先立つ1926年11月、1927年6月、1928年7月にも発熱を繰り返し、その際の作品には、その熱の持つ容易ならざる意味を自らも十分に承知していた様子が、見てとれます。おそらくこの時、もしX線写真を撮っておれば、すでに上のような肺の浸潤病変が現れていたのではないかと、私は思います。
 ともあれこのようにして一つ一つ階段を上るように、賢治の肺に結核病巣は広がっていったのです。

 1928年8月に佐藤長松医師が賢治を診察した際には、おそらくまだX線写真は使われていなかったでしょうから、「両側の肺浸潤」と診断した根拠は、主には肺の聴診による所見でしょう。
 1933年9月11日付け柳原昌悦あての「最後の書簡」に、「どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず…」という表現が出てきますが、この「ラッセル音(Rasselgerausch)」というのが、聴診器で肺の呼吸音を聴いた時に認められる雑音のことです。賢治は病床にあっても、医師とこういう専門的な話をしていたんでしょうね。

 上に引用した佐藤隆房氏の記述には、「たいした発熱があるというわけではなく…」との一節があり、この部分だけを読むと、それほど心配するような病状ではないような印象も受けますが、基本的に肺結核という病気では、後述する「シュープ(急性増悪)」という時期を除き、「肺浸潤」という状態でも、あまり高い熱が出るわけではないのです。ほとんどの場合は、「微熱」「倦怠感」「咳」という3つな典型的な症状があるだけです。上の画像の例は、「30歳、男性」という当時の賢治と似たようなケースですが、ここでも主訴は、「咳と微熱」と書かれています。
 そしてこの時の賢治に関しては、こういった表面的な症状よりも、佐藤長松医師の診断によればすでに「両側の」肺浸潤をきたしていたということが、実は深刻です。病巣が両肺に広がり、それが同時に炎症を起こしているということは、菌と戦う人間側としては、かなり困難な戦局になっています。
 そして実際に賢治は、「たいした発熱があるというわけではなく…」と言われた時点からおそらく短期間のうちに、重篤な状態に陥ったのです。

お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。(1928年9月23日付け沢里武治あて書簡243)

 この、「四十日の間熱と汗に苦しみました」という期間が、結核がたどる経過の中で「シュープ(Schub)」と呼ばれる、急激な病状悪化の時期だったと思われます。
 前述のように、結核という病気の経過において、その大半の期間は、肺の局所的な炎症と37℃台の微熱を呈しながらも、体の免疫機能は懸命に結核菌の勢力拡大を食い止めようと防戦し、一進一退の情勢が続きます。
 しかし時に、体力が低下したり寒冷にさらされた時などに、このギリギリの均衡が崩れてしまうことがあり、そうなると結核菌の方が一気に攻勢に転じて、病状が進行してしまうのです。何かのきっかけで、肺の中に形成された壊死巣が気管の中に破れるなどして一度に大量の結核菌が肺の他の部位に撒布されると、「肺浸潤」よりも広汎な肺炎(大葉性乾酪性肺炎)が起こり、熱も38℃以上に上昇します。この重篤な状態のことを、「シュープ(急性増悪)」と言います。
 結核という病気は、微熱を帯びた膠着状態の時期と、その間に時々挟まれる高熱のシュープとを繰り返しながら、階段状に病状が進行していく性質があるのです。

 佐藤医師が診察した時点では、「両側の肺浸潤」は認められましたが、まだ「たいした発熱があるというわけではなく…」という状態でした。しかし、沢里武治あて書簡には、「四十日の間熱と汗に苦しみました」とあり、ここには明らかに病状の変化が認められます。佐藤医師の診察後に、熱が上昇したと考えるのが自然です。
 「苦しみました」というのがどの程度かと言うと、書簡に「やっと昨日起きて…」とあることから、それまでは40日間も床から起きられないほどの病状だったと推測されます。
 総じて、ここまで長期に発熱と身体的な衰弱が続いたというのは、相当に深刻な病状だったと言えます。佐藤医師が診察した時点で、「両側」の肺に異変を認めたというのは、すでにシュープが始まっていたのではないかとも思われ、その後間もなく熱が上昇して、床から起きられなくなってしまったのかもしれません。
 幸いこの時、賢治はすでに親元に帰っていましたから、家族は懸命に看病してくれたでしょう。

 当時は、結核の治療として有効な薬というのはまだ何もありませんでしたから、できることと言えば、適度な温度の部屋で安静にさせ、せいぜい栄養を摂らせて、患者の体力の消耗を最小限におさえ、病原菌と戦える力を少しでも付ける、ということに尽きました。賢治の優しい家族は、滋養強壮によい食べ物をあれこれと準備したでしょうし、熱が上がれば冷やしてやり、汗をかいたら肌着を替え、きっと献身的な看護をしたことでしょう。
 そして、その看病があったからこそ、この時の賢治は曲がりなりにも何とか40日で、いったん持ち直すことができたとも言えるでしょう。
 これがもしも、羅須地人協会の建物で一人で寝込んでいたならば、例によってきちんと栄養も摂らず、汗をかくたびに濡れた衣類で体を冷やしてしまい、そんな状態が続くうちには、生命も危うくなったのではないかと思います。
 実際、その3ヵ月後の12月には、賢治は実家にいながらもまた次のシュープ(注2)に襲われ、今度は本当に生死の境をさまようこととなったのです。


 以上、賢治が羅須地人協会を辞めて実家に戻った際の病状について、整理をしてみました。実家に戻った理由として、病気以外の要因を考えること自体は不可能ではありませんが、少なくとも病状だけからしても、独居生活を継続することは、到底無理だったと思われるのです。


(注1) 一般には、賢治の結核が「初めて」診断されたのは、1918年6月に岩手病院にて「肋膜」と言われた時と見なされているが、この時の父あて書簡77を読むと、はっきり肋膜と診断されたとは書かれていない。
(注2) ちなみに、伝記上で明らかなさらに次の賢治のシュープは、1931年9月20日の上京時であり、さらにもう一つ次は、1933年9月20日に、花巻共立病院の草刈兵衛医師が「急性肺炎」と診断した時だった。

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2013年3月31日 美しい医院のあるじ

 「口語詩稿」に、「〔この医者はまだ若いので〕」という作品があります。

この医者はまだ若いので
夜もきさくにはね起きる、
薬価も負けてゐるらしいし、
注射や何かあんまり手の込むこともせず
いづれあんまり自然を冒涜してゐない
そこらが好意の原因だらう
そしてたうたうこのお医者が
すっかり村の人の気持ちになって
じつに渾然とはたらくときは
もう新らしい技術にも遅れ
郡医師会の講演などへ行っても
たゞ小さくなって聞いてゐるばかり
それがこの日光と水と
透明な空気の作用である
こゝを汽車で通れば、
主人はどういふ人かといつでも思ふ
この美しい医院のあるじ
カメレオンのやうな顔であるので
大へん気の毒な感じがする
誰か四五人おじぎをした
お医者もしづかにおじぎをかへす

 この医師は、若くして医院を開業し、患者のために尽くして、儲けを追求するわけでもなく、さりとて学問を究めようとしている風でもなく、同業者の間でも、村人に対しても、いつも控え目な態度でいるようです。村人からは好意を持って迎えられ、賢治もそれに共感している様がうかがわれます。
 若い医者が主人公となるテレビドラマには、高度な先進医療の前線で活躍するエリートとか、逆に大学医局に背を向けて地域医療に奮闘する熱血青年医師とかいうパターンがありますが、そのどちらでもなく、「大志」などというものからはほど遠い様子です。謙虚に、淡々と静かに自分のやるべきことをやる、という雰囲気ですね。
 こういうキャラクターは、ドラマになるような一般的ヒーロー像とはかけ離れていますが、この作品において賢治は、このような彼に、自分の理想の一つの型を投影しているのではないでしょうか。

 小さな医院の開業医が行う治療というのは、設備を要する手術などができるわけでもありませんので、病気の診立てにもとづいて、適切な薬剤を選びその適量を配合した「処方箋」を書き、それに従って調合された薬を患者に服用させるということに、ほとんど尽きます。「注射や何かあんまり手の込むこともせず」というのは、やはりこの医師が薬を処方するという治療に徹していることを、表しているのでしょう。

 ところで、医者がこういう風に診断し処方箋を書くという仕事は、ある時期の賢治が熱心に行っていた「肥料設計書を書く」という作業に、とてもよく似ています。
 どちらも、まずは相手の話をしっかりと聞き、次に直接その身体または土壌の状態を調べ、その所見を自らの知識と経験と照らし合わせて、その体または土の状況を改善するのに最も適した化学物質の配合を考え、それを紙上に表現するのです。
 この作品において賢治はおそらく、両者のアナロジーを感じつつ、この若い医者が「すっかり村の人の気持ちになって/じつに渾然とはたらく」ことを、賞賛しているのでしょう。

 ここで私が思うのは、この医者の人間像は、賢治が「〔雨ニモマケズ〕」に描いたものに、通ずるところがあるのではないか、ということです。
 「夜もきさくにはね起きる」ところは、「東ニ…」「西ニ…」の箇所の行動的な献身を思わせますし、「薬価も負けてゐる」ところは、「慾ハナク」に相当します。「お医者もしづかにおじぎをかへす」という態度は、「イツモシヅカニワラッテヰル」の感じですね。
 だからと言って偉い先生なのかというと、「郡医師会の講演などへ行っても/たゞ小さくなって聞いてゐるばかり」という有り様で、これはまさに「デクノボー」の生き方に一致するのではないでしょうか。
 行動的で、献身的で、抑制的で、そして人の前では謙虚さを通り越して卑屈さにも甘んじる・・・。後の賢治が、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と書いたような人の姿が、ここにあります。

 1926年(大正15年)、賢治は農学校を自ら退職し、地人協会の活動や肥料設計相談に精力を注ぎ込んでいきました。この際に、自らも一人の農民となることで彼が目ざしたのは、まさにこの作品の一節にあるような、「すっかり村の人の気持ちになって/じつに渾然とはたらく」ということだったろうと、私は思います。
 しかしながら、現実には賢治と村の人々との関係は、彼の理想のように「渾然と」とはいかず、彼我の間には越えがたい溝が横たわったままでした。賢治自身は、「すっかり村の人の気持ちに」なろうとしていたのでしょうが、現実の農民の考え方に対しては、事あるごとに様々な違和感を覚え、それを作品にも吐露しています。村人から賢治に対しても、例えば「金持ち息子の道楽」と見る視線は根強く、「同志」として受け容れるには至りませんでした。

 どうして賢治は、この若い医者のように、「すっかり村の人の気持ちになって/じつに渾然とはたらく」ことができなかったのか・・・。
 これは、羅須地人協会時代の賢治を考える上で、最も重たい問題の一つです。

 その要因は、賢治の側にも村人の側にもあったと言えるでしょう。しかし、この「若い医者」との対比で考えるならば、これを各々の「側」に内在する問題のためであるとするよりも、双方を包む「制度」の問題であると考える方が、現実的だと思います。
 賢治もこの若い医者も、高等農林学校や医学校で学んできた科学的知識をもとに、肥料設計書や処方箋を書く「専門家」として、村人と関わっています。その意味では、二人とも村人と「対等」な位置にいたわけではありません。
 しかし医者の方は、村人に専門知識を提供することで、「診察代」という対価を得られるという制度に自らを組み込んで、自分も生きています。たとえ時々「薬価も負けて」いたとしても、村人のおかげで医者は生活できているわけですから、村人は医者に対して何も引け目に感じる必要はありません。前回の記事でご紹介した言葉を使えば、両者の関係は「フラット」ではないけれども、社会制度によって「なめらか」につながっているのです。
 これに対して賢治は、無料で肥料設計書を書き、無料で若者たちを教えました。これは賢治の奉仕の精神の発現でもあったでしょうが、多くの人は、「純粋贈与」を心おきなく受け取ることには、慣れていません。こちらから依頼して無料の肥料設計書を書いてもらうばかりでは、だんだんと負債を背負っていくような気持ちにもなるでしょう。それで多くの村人が、賢治の活動を当初は遠巻きに眺めるという態度をとったのも、無理からぬことと思えます。
 村人と賢治との間は「なめらか」ではなく、「膜」が存在し続けたのです。

 これを言葉を換えれば、医学の場合には個人で専門知識を活用するビジネス・モデルがすでに存在したが、土壌学・肥料学に関しては、残念ながらそれがなかった、ということになるかと思います。現代になっても、医者が診療所を開くように、個人が「肥料設計事務所」を開業するというビジネスが存在していないのは、そこまで専門的に肥料の匙加減を行ったとしても、そのコストに見合っただけの収穫量増加が見込めないからなのかもしれません。

 ただ、賢治が後に東北砕石工場の嘱託技師として職に就いた時には、かねてから自分が求めていた仕事にめぐり会えたという思いが、多少ともあったのではないかと思います。
 単に工場長に対して専門的な助言をするという役割には自分をとどめず、病み上がりの体に鞭打ち、あえて一介の「セールスマン」となって東北の各地を歩いた理由は、そこにもあったはずです。自分の知識を活用しつつ販売した石灰肥料が、農民の生活を楽にする助けになり、同時に自らの生活をも支えてくれるという「持続可能な」モデルに、これはなったかもしれないのです。
 結局は、道半ばで病に倒れてしまったのですが・・・。

 賢治は、教師としては生徒との間に「なめらか」なつながりを築き、生き生きと仕事をしていたのだと思いますが、学校を辞めて農村に飛び込むと、そこでは困難に直面しました。そんな時に、医療という制度に守られながらではありますが、「すっかり村の人の気持ちになって/じつに渾然とはたらく」若い医者を見て、思わず心を寄せたのが、この作品なのかと思います。

◇          ◇

 さて一方で、賢治の創作の常として、こういう作品はたいてい実体験にもとづいていますから、いったいこの「若い医者」というのは誰なんだろうということにも、興味が湧いてきます。
 それを考えてみるために、まずこの作品が書かれた時期を推測しておくと、この草稿が「黄罫詩稿用紙」に書かれていることから、羅須地人協会時代、すなわち1926年から1928年の間に書かれた可能性が高いと思われます。内容的にも、医師と村人との関係に注目しているところなど、上記のように羅須地人協会時代の賢治の思いに通ずるところが大きいと感じます。
 屋外の出来事の描写ですので、1928年後半から1930年頃、および1931年9月以降の病臥期は除外できますが、東北砕石工場技師をしていた1931年2月〜9月の可能性を否定する確実な根拠は、現時点の私にはありません。しかし、この時期のものであることが明確な作品は、すべて手帳にメモされた文語体の色彩が濃いもので、本作品の雰囲気とは、かなり異なっています。
 ということで、とりあえずは1926年〜1928年の羅須地人協会時代のものではないかと考えつつ、考察を進めてみます。

 作品中には、この若い医者が所属する組織として「郡医師会」が登場しますが、これは、花巻町が含まれる「稗貫郡医師会」の可能性が高いでしょう。汽車で通るたびに医院の主人はどんな人かと思っていたというのは、よその土地ではなくて地元のことと考えるのが自然です。
 また、作品中の描写から、賢治はこの医師と面識がなかったことがわかります。
 さらに、汽車から医院が見えたということですから、東北本線または岩手軽便鉄道の沿線に、この医院はあったと思われます。
 あと、この作品の初期形には、「ベースボールなどもやりたさう」との一節があり、当時の常識的に考えると、男性医師であったと思われます。

 以上の予備的考察をもとに、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」から、1933年(昭和8年)に日本医師会が発行した『健康保険医名簿』という文書を見てみました。これは、1932年(昭和7年)10月時点での、日本医師会に所属する全国の医師が、地区医師会ごとに掲載されているものです。
 上記のように、作品が1926年〜1928年のものだとすると、「この間には開業していたが、1932年時点では転居・死亡などしていたため、この名簿の稗貫郡医師会の項には掲載されていない」という可能性も否定はできませんが、これは現実的には確率の低いことと思いますので、この資料を用います。

 さて、1933年刊『健康保険医名簿』の「稗貫郡医師会」のページは、次のようなものでした。(クリックすると別ウィンドウで拡大表示されます)

稗貫郡医師会(1932)

 上記のうちから、やはり賢治の地元のことだろうとの推測にもとづき、住所が「花巻町」である医師を選び、また開業医のことですから「花巻共立病院」に所属する7名の医師を除くと、候補者は以下の12名になります。(1929年に花巻町と花巻川口町は合併して、新たな花巻町となっています。)

平澤保之
中島米八
大橋秀治 
大平貞治
大橋珍太郎
星多聞
田村孝一郎
沼野春枝
藤井謙蔵 
小原隆造 
佐藤豊蔵 
工藤軍司

 これを順に検討してみますが、まず作品に登場するのは、郡医師会の講演会で「たゞ小さくなって聞いてゐるばかり」の若い医者だというのですから、郡医師会会長の平澤保之氏は除外してよいでしょう。
 3番目に出てくる大橋秀治氏は、小学校で賢治と同級生で、当時の八木先生から「秀才の三治」と並び称されたという人ですから、賢治とは面識があったわけで、やはり除外できます。
 5番目の大橋珍太郎氏は、賢治よりはるかに年上の地元の名士で、賢治との面識もありますから、もちろん除外できます。
 7番目の沼野春枝氏に関しては、名前からは女性であると思われ、そうであれば上記のように男性医師であろうとの推定から、除外できます。
 9番目の藤井謙蔵氏は、妹トシの元主治医であり、1922年11月27日のトシ臨終の日にも往診してくれたという人ですから、これも除外できます。
 10番目の小原隆造氏に関しては、泉沢善雄氏のWebサイト「オッホの森」の「戦前の吹張町界隈地図(1)」によれば、舘坂小路の税務署の向かいあたりに、「小原医院」があります。医師会の名簿では花巻町で他に小原姓の開業医はいないので、もしここが医院の場所であれば、東北本線や岩手軽便鉄道の汽車から見ることはできず、除外できることになります。
 11番目の佐藤豊蔵氏に関しても、やはり「戦前の吹張町界隈地図(1)」によれば、花巻警察署の一軒おいて北の末広町に、「佐藤医院」があります。医師会の名簿では花巻町で他に佐藤姓の開業医はいないので、もしここが医院の場所であれば、東北本線からは直線距離で180m以上あり、岩手軽便鉄道からはさらに遠いので、汽車から見ることは困難であり、除外できることになります。
 12番目の工藤軍司氏に関しては、現在花巻市一日市にある「医療法人工藤医院」のサイトの「施設案内」によれば、「医療法人工藤医院は1929年工藤軍司先生により花巻市に産婦人科・外科医院として開院しました」とあります。この作品が書かれたのが、1926年〜1928年の羅須地人協会時代だとすると、工藤医院はまだ開業しておらず、除外できることになります。

 以上、100%確実とまでは言い切れない根拠も中にはありますが、「この美しい医院のあるじ」であった可能性が比較的高い医師の候補としては、現時点で次の4名が残っています。

中島米八
大平貞治
星多聞
田村孝一郎

 残念ながら今のところ私には、これ以上特定する情報はありません。また今後も気にかけつつ、資料があれば調べてみたいと思いますが、何か情報がありましたら、ご教示をいただければ幸いです。

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2013年3月17日 なめらかな世界を感ずる者

 鈴木健著『なめらかな社会とその敵』という本を読みました。

なめらかな社会とその敵 なめらかな社会とその敵
鈴木健

勁草書房 2013-01-28
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 本当は、どこにも本質的な境目も中心もない、「網」のようなこの世界を、人間は、たくさんの「境界」によって区切られた単位の集積として認識し、それぞれが機能的な「中心」によって制御されて動いていると、ふだんは考えています。それは、生物の情報処理機構が、複雑な世界を一定範囲内のスピードとコストにおいて認識し解釈するために、進化の過程で獲得してきた方法です。
 著者の鈴木健氏は、しかしこのような認識の限界を何とかして超え出て、「この複雑な世界を複雑なまま生きることは、いかにして可能か」という課題を設定します。そして、コンピュータやインターネットなど現代の情報技術の進歩を活用して、その方法を具体的に探っていきます。その過程においては、さまざまな斬新なイメージが、提出されます。

 「なめらかな」という形容詞は、「不連続な境界を持たない」ということを表現しています。著者は、シグモイド関数 f(λ,x) = 2/(1 + e^(λx)) のλを変えてみることによって得られる、「なめらか」「ステップ」「フラット」という3つの典型像を例として挙げていますので、イメージをつかむ助けになるでしょう。

「なめらか」「ステップ」「フラット」
(本書p.40-41より)

 さて、下記が、その本書の「目次」です。

第I部 なめらかな社会
 第1章 生命から社会へ
 第2章 なめらかな社会

第II部 伝播投資貨幣 PICSY
 第3章 価値が伝播する貨幣
 第4章 PICSYのモデル
 第5章 PICSY、その可能性と射程

第III部 分人民主主義 Divicracy
 第6章 個人民主主義から分人民主主義へ
 第7章 伝播委任投票システム

第IV部 自然知性
 第8章 計算と知性
 第9章 パラレルワールドを生きること

第V部 法と軍事
 第10章 構成的社会契約論
 第11章 敵
 終章 生態系としての社会へ

 議論の出発点として著者は、オートポイエーシス(自己創出系)の概念を用いて、生命というものの本質を考察します。ここでは、生物にあって自己とその環境とを区分している「膜」と、生物体を構築し制御するための司令塔としての「核」という二つの構造が、生命体の本質的な構成要素として取り出されます。
 生命を含んだ世界が、さまざまな「境界」によって区分され、それぞれが「中心」に従って動いているという認識方法は、このように生物そのものの根源的な成り立ちに基づいており、それだけに、簡単に捨象することは難しいものなのです。
 たとえば、「私的所有」という社会的な制度を取ってみても、これは1個の細胞が自己に必要な物質を、細胞膜の内側に取り込んで利用しやすくしているという生命現象に基づいています。社会的な諸集団や国家などの組織が、「境界」をはっきりと区切ろうとするのも同根で、たとえこれらの制度に弊害があるからと言って改変を加えようとしても、その成り立ちは人間存在の深奥に由来しているだけに、変えるのは容易ではありません。

 しかし一方でさまざまな生物は、種々の「建築物」や「道具」を用いることによって、生物の個体が持つ制約を乗り越えつつ生きています。ここで著者が「建築物」と呼ぶのは、「人工物」のうちで「環境の方に帰属するもの」、すなわちシロアリの巣や人間の建築物であり、これに対して「人工物」のうちで「より身体に寄り添ったもの」が、「道具」です。「建築物」としては、上記のようにハードな物理的存在だけではなく、種々の「社会制度」も含まれます。
 たとえば「市場」という社会制度は、環境側に種々の機能を肩代わりさせることによって、人間の個体レベルでの情報処理能力を越えて、効率的な取引を可能にしています。

 そして、この本で著者が目ざそうとしたことも、ある種の「社会制度」を採用することによって、人間が現在の生物学的な限界を超えて、「複雑な世界を複雑なままに」、「なめらかに」、生きられるようにできるのではないか、という発想に基づいています。
 そのために著者が行っている具体的な提言の例が、「伝播投資貨幣 PICSY」であり、「分人民主主義 Divicracy」です。

 ここでは、それらの具体的な内容にまでは触れませんが、この本は、とてもわかりやすく論理的なスタイルで、生物、人間、社会に対する、俯瞰的なパースペクティブを提供してくれています。「第I部」の文章は私にとって、乾いた砂に水がしみ込むように速やかに心に浸透していきましたし、何よりもこの大局的な世界観は、とても心地よいものでした。

 もう一つ、私にとって印象深かったのは、このように世界を「なめらかに」認識するというスタイルは、宮澤賢治の感性ととても似たところがあるのではないかということでした。

◇          ◇

 例えば、それを最も端的に示している言葉は、

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

という、「農民芸術概論綱要」の中の一節です。
 この言葉にもさまざまな解釈がありえますが、これを文字どおり理解すれば、皮膚や種々の「境界=膜」によって、自己と非自己とを区別している私たちにとって、「微塵」となって宇宙に「散らばる」という存在様式は、まさに境界線を越えて世界と一体化し、「なめらかに」在るということです。
 この言葉は、何も自分の身体を物理的に粉砕して空に散布せよということを言っているのではなくて、実はわれわれはすでに今ここにおいても、この言葉のように世界と連続し溶け合っていることを認識せよ、という賢治からのメッセージなのでしょう。
 この話題においてはこれまで何度か引用している一節ですが、「種山ヶ原(下書稿(一)」には、次のような箇所があります。

雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ここで謳われているのは、賢治が種山ヶ原を散策中に体験した、自己と世界(風、水、地殻…)が一体となった恍惚感です。
 人間が、自分の心の中で起こる(主観的)現象を自分独自のものとして認識し、それ以外の(客観的)存在と区別できているのは、その境目に何らかの「線」を引いているからだと考えることができますが、この境目のことを心理学では「自我境界」と呼びます。この用語を使えば、宮澤賢治という人は、「自我境界」の被膜が、他の人よりも薄い人だったのだろうと言うことができます。
 「林と思想」には、次のような表現があります。

そら、ね、ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ

ここでは、「わたしのかんがへ」という主観的現象と、向こうの「林」という客観的存在が、溶け合っているわけです。
 また、賢治の作品には、幻聴や幻視の描写が頻繁に登場しますが、これも上記と類似の現象です。やはり「自我境界」が薄いために、自分の心の中で生起する表象が、あたかも外の世界からやってくるかのように外部に定位されると、種々の幻覚として体験されるわけです。

 程度の差はあれ、このような特徴は彼の他の作品にも広く行き渡っていて、賢治によるほとんどあらゆる物語は、人間と他の生物との間の境界を、また生物と無生物との間の境界を越えて、彼が「林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきた」ものなのです。
 そこで人は、彼の作品を読むことによって、世界を「なめらかに」体験する感覚を味わうことができるのです。

 さらに宮澤賢治という人は、自らのインプットにおいて感覚的な「膜」が薄く、自分と世界を一体として感じやすいことに忠実に、アウトプットとしての実践倫理においても、自分は世界と「なめらかに」つながっていなければならないと、自らに課していました。
 やはり「農民芸術概論綱要」の、

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

との一文は、そのような彼の理念を表していると言えるでしょう。
 これは、普通に理解するとかなり息苦しくなってしまうような言葉で、私はこれをどのように受けとめればよいのか、ずっと考えあぐねていました。
 しかし東日本大震災が起こって、「宮澤賢治の世界感覚について」という記事に書いたように、私はこの言葉を初めて実感として理解できたように思いました。
 人間は、自分が暮らす空間を外界の雨風から守るために、床や壁や屋根を備えた家を作り、海や川から陸地を隔てるために堤防を築いてきました。このようにして、「建築物」として設けられたさまざまな人工的な境界線は、震災や津波によって崩され、世界の一部はフラットな状態になってしまいました。
 これは被災地のみならず、実は2年前には全国的に起こった現象でした。3月11日の夕方から、全てのチャンネルがCMもはさまずに延々と流し続けた映像は、被災地以外の日本中の人によって、同時的に共有されていたでしょう。そこには、被災地と遠隔地の間の境さえ越えさせる、目に見えない力が働いていました。そして、たとえふだんは自分や家族の生活で精一杯という人でも、見知らぬ被災者が大切な人を喪って嘆き悲しむ様子を見ると、思わず我が事のように胸が痛み、心が大きく揺れ動くのを感じたのではないでしょうか。
 茫然とTVを見ていた私はこの時、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉の本当の意味を、実感したのです。自分が何事もなく暖かい部屋の中でテレビを見ていることが、現地の人々に対してまるで申し訳ないように感じ、被害に遭った方々全員が救われないかぎりは、自分の心も救われないというような、一方的な思いを禁じ得ませんでした。

 人々が、賢治の作品に何らかの魅力を感じ、とりわけ先の震災の後にそれが切実なものとなったのは、誰もが多少とも持っている、このような「境界を無化する」ような感覚を、ありありと浮かび上がらせてくれるからだろうと思います。
 裏を返して言えば、宮澤賢治という人は、私たちが震災後のような特殊な状況下で一時的に味わうような心境を、いつも肌身で感じながら生きていたわけです。

 さて、そのようにして感じられる「なめらかな世界」を、私たちがなるべくそのままに生きられるようにするための方法論として、この『なめらかな社会とその敵』という本は、いくつもの斬新なアイディアを提出してくれているのです。

宮澤賢治「教材用絵図・細胞」

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2013年3月 3日 「黒と白との細胞…」のスライド

 「詩ノート」に収められている「〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕」に関して、以前に「「黒と白との細胞」による千億の明滅」という文章をまとめたことがありましたが、これを書き直してある場所でお話することになったので、パワーポイントでスライドを作っていました。
 下記から見られるファイルはその中の一枚で、作品冒頭の「黒と白との細胞のあらゆる順列」という言葉の意味するところについて、図示しようとするものです。アニメーション機能を多用していますが、このちょっと難解な一節の説明として、はたして成功しているかどうか・・・。

 下の画像をクリックすると、別ウィンドウでスライドが表示されます。ウィンドウ下部の再生ボタンをクリックすると、順にアニメーションが進んで行きます。

クリックすると別ウィンドウでスライドが表示されます

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2013年2月10日 たとえ明日世界が滅びようとも…

 とくに有名な作品でもありませんし、評論などで取り上げられているのも見たことはないのですが、「口語詩稿」として分類されている作品群の中に、「〔あしたはどうなるかわからないなんて〕」と仮題を付された一篇があります。

あしたはどうなるかわからないなんて、
百姓はけふ手を束ねてはゐられない
折鞄など誰がかゝえてあるいても、
木などはぐんぐんのびるんだ
日が照って
うしろの杉の林では
鳩がすうすう啼いてゐる
イギリスの百姓だちの口癖は
りんごなら
馬をうめるくらゐに堀れ
馬をうめるくらゐに堀れだと
遠慮なくこの乳いろの
花もさかせ
落葉松のきれいな青い芽も噴けだ。
そのうちどうでも喧嘩しなければいけなかったら
りんごも食ってやればいゝ
そのときの喧嘩の相手なんか
なにをいまからわかるもんか
くさったいがだの
落葉を燃やす青いけむりは
南の崖へながれて行って
そのまんなかで
かげらふも川もきらきらひかる

 このテキストだけを読むと、どういう状況を描いているのか、今ひとつわかりにくい感じですね。屋外にいるらしい作者は、ここで何の作業をしているのでしょうか。
 「あしたはどうなるかわからないなんて」という冒頭の言葉は、一見心細さを感じさせるようでもありますが、全体を読むと何か妙に前向きであるとともに、苛立ちのようなものも漂ってきます。「喧嘩」などという穏やかならぬ語も出てきますが、どんな事情があってのことなのでしょうか。

◇          ◇

 その疑問は、上のテキストの先駆形にさかのぼると、かなり明らかになってきます。その「下書稿(一)」の初期形の全文は下記のとおりで、「廃屋手入」というタイトルも付けられています。

   廃屋手入

いきなり窓から飛び出したのは
小友から来た大工弟子
たゞ二足で
松の下まではねて来て
釘をつまんではらかけに入れ
また一つまみは口に入れ
たちまち窓へ飛び込めば
日が照って日が照って
うしろの杉の林では
鳩がすうすう啼いてゐる
くさったいがや松葉を燃やす
ぼそぼそ青いけむりの列は
南の崖へながれて行って
その向ふでは
かげらふも川もきらきらひかる
となりの桐のはたけでは
もゝ引ばきの幸一が
りんごを植える穴を掘る
イギリスのお役人たちの口癖通り
馬をうめる位に掘れ
馬をうめる位に掘れと
じぶんでじぶんに云ひながら
一生けん命掘ってゐる
あしたはどうなるかわからないといって
今日は洋々たる春の希望
落葉松の青い芽も
苹果の乳いろの花も咲けだ
こっちの枯れた萱ばでは
めいめいに火をうつして行って
赤い髪をした子どもらが
蘭の花だの羊歯の芽を
一列ならんでくつくつ煮る
家の中では小友から来た大工の弟子が
軒を裏からはげしく叩く

 つまりこの日の賢治は、大工に入ってもらって、「廃屋」のリフォームをしているようなのです。賢治が廃屋の手入れをするというと、連想するのはもちろん「あの家」ですね。
花巻農業高校「賢治先生の家」 祖父喜助が脳出血後遺症の療養のために建て、その死後は空き家となり、5年後には妹トシの療養場所とされてまたその死後は空き家となり、さらに4年後に賢治が農学校を辞めて一人移り住んだ、下根子桜の宮澤家別宅です。

 同じく「口語詩稿」の印象的な作品に、「憎むべき「隈」辨当を食ふ」というのがありますが、その初めの方にはやはりこの別宅が「廃屋」と表現されて出てきます。

きらきら光る川に臨んで
ひとリで辨当を食ってゐるのは
まさしく あいつ「隈」である
およそあすこの廃屋に
おれがひとりで移ってから
林の中から幽霊が出ると云ったり
毎晩女が来るといったり
町の方まで云ひふらした
あの憎むべき「隈」である
・・・・

 ここにも「きらきら光る川」が登場していますが、「〔あしたはどうなるかわからないなんて〕」の方でも、やはり「かげらふも川もきらきらひかる」として、北上川が描かれていました。
 つまりこの二つの作品はどちらも、「廃屋」と「きらきら光る川」を、舞台背景としているわけです。

 さて、「廃屋手入」の方は、威勢のよい大工の動きで始まりますが、関登久也著『賢治随聞』には、この家の改修を依頼された大工について、次のような記載があります。

      二人の大工

 二人の大工というのは、兄弟の大工であり、兄を八重樫倉蔵さんといい、弟を民三さんといいます。根子村の羅須地人協会、――賢治の住いしていた協会の修理に頼まれて行った時のことです。兄弟の大工はどちらも正直一徹であり、素朴で、昔風の堅気を持っておりました。本当の職人気質などは、もうとっくの昔に失われているこんにち、この二人の兄弟などはかなり珍重されているのでした。一日賢治のところで働いているうちに、弟の民三さんが、中土台の腐ったものを取りかえようとしたら、釘が錆びついてどうしてもそれが抜けて来ませんので、額から汗をこぼしながら、うんうん力みかえり、さては「こんちくしょう、なんたら抜けない」と思わず大声を挙げて叫びますと、そばで見ていた賢治は、兄の倉蔵さんに向かい、働く人たちの気持ちは実にさっぱりしていいものだ、怒ればすぐ怒るし、釘が抜けなければ、こんちくしょうとさけぶし、まったくさっぱりしたものだ、こういう気質を私は一番好きです、と言ってにこにこ笑っておりました。(p.75-76)

  上の「下書稿(一)」初期形に「大工弟子」として登場するのは、きっとこの兄弟の弟、八重樫民三のことなのでしょう。彼が一心に働く様子を、賢治は微笑ましく眺め、テキストの最後では、また彼の作業が描かれます。その一本気に突進するような仕事ぶりが、作品全体の基調ともなっているようです。
 ちなみに、賢治はこの大工の兄弟によほど好感をおぼえたのか、作業の後は二人を「精養軒」に招待して、料理や酒を好きなだけ振る舞って慰労したということも、『賢治随聞』には書かれています。

 ところで上の「下書稿(一)」初期形においても、冒頭に掲げた「下書稿(二)」においても、作品の核となっているのは、「あしたはどうなるかわからないといって」「あしたはどうなるかわからないなんて」という一節です。
 初期形の方で、その次の行に対置されているのは、「今日は洋々たる春の希望」という思いでした。ちなみにこの年4月4日付けの森佐一あて書簡218には、

学校をやめて今日で四日木を伐ったり木を植えたり病院の花壇をつくったりしてゐました。もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。

という一節があります。賢治がこの作品をスケッチしたのは、3月31日付けで花巻農学校を退職して、上記のように「木を伐ったり木を植えたり」していた、まさにこの時期なのでしょう。
 もはや何者にも縛られず、しかしよりどころとて何もない境遇となり、賢治は一抹の不安をかかえながらも、「洋々たる春の希望」を胸にしています。「落葉松の青い芽も/苹果の乳いろの花も咲けだ」という高揚した声調には、自らを奮い立たせようとしている様を感じますし、最後に響いている「大工の弟子が/軒を裏からはげしく叩く」音は、賢治自身を叱咤しているようでもあります。

 しかし、森佐一あて書簡にある「もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました」という言葉は考えてみれば不思議なもので、一方的に学校を辞めて「村で働く」道を選んだのは賢治自身なのですから、「厭でもなんでも」ということなどないはずです。それなのに彼が思わずこういう言葉を洩らした背景には、自分が始めようとする活動の将来に対する、逃れようのない不安があるのでしょう。
 この不安が彼に、「あしたはどうなるかわからない」という率直な心情の吐露をさせ、そして結局はその不安を呑み込んで行動していくしかないと、思い知らせているのです。「厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました」との言葉によって賢治は、自ら敷いた陣形がまさに背水の陣であることを、あらためて己に言い聞かせているわけです。

 ただ、こういう不安や自己激励をにじませた「下書稿(一)」初期形ではありますが、この段階ではまだ、苛立ちのような感情は見受けられません。
 しかし、この初期形に対して推敲が加えられていくと、雰囲気は変わってくるのです。

◇          ◇

 下記は、先のテキストに、鉛筆、赤インク、そしてまた鉛筆によって修正がなされた、「下書稿(一)」手入れ形です。

日が照って
うしろの杉の林では
鳩がすうすう啼いてゐる
落葉を燃やす青いけむりは
南の崖へながれて行って
そのまんなかで
かげらふも川もきらきらひかる
りんごを植える穴を掘る
イギリスのお役人たちの口癖通り
馬をうめる位に掘れ
馬をうめる位に掘れと
じぶんでじぶんに云ひながら
一生けん命掘ってゐる
あしたはどうなるかわからない?
落葉松の青い芽も噴かせ
苹果の乳いろの花も咲けだ
どうするかわからないでなく
どうなるかわからないといふのなら
なんにもないさ
植えろ植えろ
やっさもっさと云ってるうちに
木などはぐんぐんのびてしまふんだ
銀ドロの葉もひらめかし
いなづまの晩にはまっ白な百合
夏には赤いおにげしを燃し
けれども
まづ喧嘩してもっと楽にしてからといふのなら
銀ドロなどはやめてしまへ
花だの木だの植えて
ひとをなだめて喧嘩するのをやめさせやうなんて
おれはそんなけちな人間ではない
喧嘩をするものとしないもの
眼をいつでも人間に向けて
きろきろしてゐるものと
自然に向けて
ぼうとしてゐるものとは
強制されないかぎり
大ていはうまれつきだよ

 ここで賢治が植えようと空想?している植物には、賢治の他の作品にも登場するお馴染みの名前も出てきて、なかなか面白い感じがします。「落葉松」「銀ドロ」「赤いおにげし」という組み合わせは、「産業組合青年会」(草稿的紙葉群)などにおいて描かれた一種の理想郷で、

・・・・
から松が風を冴え冴えとし
銀どろが雲を乱してひるがえるなかに
赤い鬼げしの花を燃し
・・・・

として夢見られた光景と同じですし、その間にはさまれた「いなづまの晩にはまっ白な百合」という情景は、あの「ガドルフの百合」そのものです。思えば、ガドルフが白い百合に出会ったのも、「廃屋」の中でした。
 これらの景色は、いずれもきっと賢治の心の中に大切に刻まれているものなのでしょうが、彼がそれらをここで一挙に思い描いているのは、やはり不安に抗して自らを奮い立たせようとしているからなのではないかと思います。

 さらに、「ひとをなだめて喧嘩するのをやめさせやうなんて/おれはそんなけちな人間ではない」との言葉は、「〔雨ニモマケズ〕」において「北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」と書いた賢治とは、まさに正反対です。世間に流布している彼のイメージとはギャップがあるかもしれませんが、こういうパッションもまた、ある時期までの賢治の性質であったのは事実です。
 そしてまさにこのテキストでは、初期形に見られていた「不安」や「自己激励」にとどまらず、このような苛立ちや攻撃性までも表明されるようになっているのが特徴です。「初期形」から「手入れ形」までの時間的間隔がどの程度あったのかはわかりませんが、この二つのテキストの違いを形づくっているのは、「村」で単身生活を開始してしばらくの間に経験した、周囲の人々との軋轢なのではないでしょうか。
 同じ舞台背景を持った「憎むべき「隈」辨当を食ふ」の方で、もっとストレートに表現されている憎悪や、「敵」とか「復讐」とかいう「喧嘩」腰のスタンスが、この間の「手入れ」に反映しているのだろうと思います。

 これが、冒頭に掲げた「下書稿(二)」になると、上では「喧嘩も辞さない」ような好戦的とも思える態度だったのが、さすがに少し緩和されています。すなわち、「そのうちどうでも喧嘩しなければいけなかったら・・・」という消極的な表現に変えられるのですが、それでも「下書稿(一)」初期形にはなかった「喧嘩」という言葉自体は、残されています。
 賢治が、近隣の農民たちと表立って「喧嘩」をしたという記録はありませんが、彼の心情の内には、何か抜きがたく沈殿しているものがあったのでしょう。

◇          ◇

 さて、ここまで「〔あしたはどうなるかわからないなんて〕」という作品のたどった3段階のテキストを並べてみましたが、段階ごとにニュアンスが少しずつ変遷していく中でも、変わらずに持続しているモチーフがありました。それは、「あしたはどうなるかわからない」という思いと、「りんごを植える」という行いです。
 前者についてはすでに述べたように、公職を辞して単身で農耕と農民芸術活動を始めようとするに際しての、不安やおののきを素直に表現したものだと思われます。ではそれは、後者の「りんごを植える」という行動とは、どのように関わっているのでしょうか。
 あるいは、この羅須地人協会の建物周囲には、落葉松、銀どろ、蔓ばら、けし、チューリップなどが植えられていたことは教え子が証言していますが(菊池信一「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」)、実はここにりんごの木が植えられていたという記述は、見あたりません。それなのに推敲・改稿とともに木の種類が入れ替わっても、りんごだけは不変ですし、さらに「そのうちどうでも喧嘩しなければいけなかったら/りんごも食ってやればいゝ」というように、特別な役割も担っています。
 このりんごの木は、いったい何を表しているのだろうかと気になっていたところ、先日その意味を明らかにしてくれるような言葉に、偶然めぐり会いました。

 それは、宗教改革の祖マルティン・ルターのものとして伝えられている、次のような言葉です。

たとえ明日世界が滅びようとも、今日私はりんごの木を植える。
Wenn morgen die Welt unterginge, würde ich heute ein Apfelbäumchen pflanzen.

マルティン・ルター ネット上でいろいろ検索してみましたが、残念ながらこれがルターの言葉であるという確かな証拠はないようです。しかしこれは、いかなる状況でも変わらぬ希望と強い信念を持って行動するという姿勢を、簡潔な表現で示してくれています。(ルターの右画像は「ウィキメディア・コモンズ」より)

 それにしてもこの言葉は、「明日の不確実性とりんごの植樹」というこの作品のモチーフを、そっくりそのまま結び付けてくれているではありませんか。
 キリスト教についても関心を寄せていた賢治は、きっとこの言葉を知っていたのだろうと、私は思います。そして彼は、この言葉を下敷きとして、この「〔あしたはどうなるかわからないなんて〕」という作品を書いたのだと思うのです。
 新たな出発にあたって彼は、「あした」に対する大きな不安をかかえていたのでしょうが、「明日世界が滅びようとも、今日はりんごの木を植える」と喝破した先人の覚悟を自らの心にも刻みつつ、この春の一日を作業に明け暮れたのでしょう。

 そう思うと、一見目立たないこの作品も、この時期の賢治が胸に秘めていた強い意気込みを、眼前にありありと見せてくれるように感じられた次第です。

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