2015年3月 1日 レオーノキューストが住んでいたあたり

前十七等官 レオーノキュースト 誌
宮沢賢治 訳述

そのころわたくしはモリーオ市の博物局に勤めて居りました。
十八等官でしたから役所のなかでもずうっと下の方でしたし俸給もほんのわづかでしたが、受持ちが標本の採集や整理で生れ付き、好きなことでしたからわたくしは毎日ずゐぶん愉快にはたらきました。殊にそのころ、モリーオ市では競馬場を植物園に拵え直すといふので、その景色のいゝまはりにアカシヤを植え込んだ広い地面が、切符売場や信号所の建物のついたまゝわたくしどもの役所の方へまはって来たものですからわたくしはすぐ宿直といふ名前で月賦で買った小さな蓄音器と二十枚ばかりのレコードをもってその番小屋にひとり住むことになりました。わたくしはそこの馬を置く場所に板で小さなしきゐをつけて一疋の山羊を飼ひました。毎朝その乳をしぼってつめたいパンをひたしてたべ、それから黒い革のかばんへすこしの書類や雑誌を入れ、靴もきれいにみがき、並木のポプラの影法師を大股にわたって市の役所へ出て行くのでした。あのイーハトーヴォのすきとほった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波、・・・

 「ポラーノの広場」のこの書き出し部分は、数ある賢治の作品の中でも、とくに素敵なものの一つです。それこそ、「イーハトーヴォのすきとほった風」が、読む者の心をも吹き抜けていくような感じがします。
 最後の箇所は、Mac でフォントを管理する Font Book というアプリケーションで、書体見本としても使われていますので、馴染みのある方も多いことでしょう。

 このような場所(=イーハトーヴォ)が、ほんとうに実在するとしたらいったいどんな所なのだろうというのは、賢治ファンならば誰しも考えてみたくなってしまうところですね。
 賢治のいろんな作品に、いろんな形で「イーハトーヴォ」は登場しますが、ここでは「モリーオ市の競馬場の番小屋」が、レオーノキューストの住まいとして設定されています。お話の中でレオーノキューストは、自ら「わたしは競馬場に居るからねえ」と名乗り、ファゼーロも彼を仲間たちに、「競馬場に居る人なんだよ」と紹介しています。
 上に描写されたキューストの競馬場における一人暮らしは、簡素ながら洗練されていて、お洒落な雰囲気も漂っています。ここを舞台に、これから「ポラーノの広場」の物語が展開していくわけですね。

 さて、賢治の作品において「モリーオ市」というのは、現実世界の「盛岡市」に対応しますが、「競馬場を植物園に拵え直す」という話が、私としてはここでちょっと気になりました。実際にこの頃、盛岡の競馬場が何かに転用されるということがあったのでしょうか。
 そんなことを思いつつ、盛岡競馬場の歴史について調べてみました。

『いわての競馬史』

 『いわての競馬史』(岩手県競馬組合,1983)という本を見てみると、盛岡の競馬場は、次のような歴史をたどってきたということです。

明治初期まで: 八幡宮境内の馬場で競馬が行われていた。
1871年(明治4年): 産馬会が盛岡市菜園に長さ1000mの
     楕円形馬場を新設。
1903年(明治36年): 競馬会が盛岡市上田に1000mの
     近代的馬場を新設し、11月に記念競馬を開催。
     その直後、閑院宮載仁親王が盛岡を訪れ、特別競馬会
     を開催。臨席した親王は、競馬場近くの「黄金清水」に
     ちなんで、ここを「黄金競馬場」と命名した。
     毎年春秋2回、3日間ずつ開かれた競馬は、優良馬育成
     を目的とした生産地競馬として発展。1日6レースから
     8レースを行い、東北一の規模として名を挙げた。
1932年(昭和7年): 一帯の耕地整理の関係から、競馬場を
     近くの毛無森に移転。翌1933年11月、新設記念競馬会
     にて1周1600mの「新黄金競馬場」がオープンした。
1996年(平成8年): 盛岡市新庄の現・盛岡競馬場に移転。
     愛称の「OROパーク」は、昔の「黄金競馬場」にちなみ
     スペイン語の「黄金 ORO」からとられている。

 このように盛岡競馬場は、1932年に移転をしているわけです。そしてこれは、賢治が「ポラーノの広場」の草稿を完成させたと言われている1931年-1932年という時期に、ちょうど重なり合うのです。
 つまり、賢治が「ポランの広場」から「ポラーノの広場」へと改作を行い、その推敲を行っている時期に、彼は盛岡の競馬場が移転になるという話を、きっと耳にしたはずなのです。それを聞いた賢治は、競馬場の広い跡地についていろいろと想像をめぐらせるうちに、「そのころ、モリーオ市では競馬場を植物園に拵え直すといふので…」という形で、作品の舞台装置に取りこんだのではないでしょうか。

 賢治が実際に、盛岡市上田のこの旧黄金競馬場を訪れたことがあったのかどうかは、よくわかりません。しかし、この上田地区というのは、彼が青春時代を過ごした盛岡中学や、盛岡高等農林学校もあった場所です。賢治が昔を懐かしみ、この若き日の思い出深い地区の競馬場の跡地に、自らの分身とも言うべきレオーノキューストを住まわせようとしたということは、十分に考えられるのではないでしょうか。
 私には、そんな気がします。

 ということで、レオーノキューストが一人で暮らしていたという可能性のある、この(旧)黄金競馬場の場所について、詳しく調べてみることにしました。

 まず大まかな位置を知っておくために、『いわての競馬史』に掲載されている、「黄金競馬場新旧略図」を見ておきます。下の図は、その一部分です。

黄金競馬場新旧略図

 左下の方にある「元 黄金競馬場」が、1932年までの旧競馬場、右上の「新 黄金競馬場」が、1933年以降の移転先です。
 右方の「高松池」は、現在も盛岡の観光地の一つで、賢治は盛岡高等農林学校に入学して間もなく、同室の高橋秀松を誘って盛岡の案内をした際にも、この池を訪れています。また文語詩「氷上」は、中学時代にこの高松池でスケートをした時の情景に基づいていると推測されています。

 次に、上に相当する箇所をさらに詳しく、当時の2万5千分の1の地図で見てみましょう。
 まず下の地図が、競馬場移転前の1911年(明治44年)測図、1916年(大正5年)発行の、2万5千分の1「盛岡」です。旧競馬場は、「黄金馬場」として掲載されています。下の方に「高等農林学校」があります。

2万5千分の1地形図「盛岡」(大正5年発行)

 そして今度は下の地図が、移転後の1939年(昭和14年)に修正測図、1941年(昭和16年)発行のものです。右上の「黄金競馬場」が、新競馬場です。

2万5千分の1地形図「盛岡」(昭和16年発行)

 最後に、現在の2万5千分の1の地形図(平成10年発行「盛岡」)で同じ箇所を見ると、下のようになっています。
 1933年から1996年まで使われた「新・黄金競馬場」の方は、やはり今も右上にはっきりと確認できます。一方、1932年までの「旧・黄金競馬場」は、今はどうなっているのでしょうか。
 その場所を確認するためには、地図の下の「旧黄金競馬場跡地は?」というボタンを、クリックしてみて下さい。

2万5千分の1「盛岡」(平成25年発行)


 地図上で緑色に点滅している箇所が、旧黄金競馬場跡地です。今はすっかり住宅地になっていますが、この住宅の中をめぐる道路の形に、ここでちょっとご注目下さい。
 驚くべきことに、競馬場の北東側半分の輪郭に沿って、今も道路が楕円の形に浮かび上がって見えるではありませんか!

 この部分をさらに詳しく見てみるために、三つの地図の「旧黄金競馬場」の箇所を拡大すると、下のようになっています。

旧黄金競馬場(大正5年)

旧黄金競馬場跡地

旧黄金馬場跡地

 二番目の昭和16年発行の地形図では、競馬場のあったところは完全に農地になっていますが、ここでも元の競馬場の外周に沿って、まるで競馬場の痕跡を示すかのように、「点々」と軌跡が描かれているのがわかります。これは、地図上では「土囲」を表す記号だということで、あらためて一番上の地形図を確認すると、ここでも競馬場の東半分にそって、やはり「土囲」の記号があるのがわかります。
 競馬場が撤去された後も残っていたこの「土囲」に沿って、さらに後に道路が形成されたということなのでしょう。三番目の地図でよく見ると、この楕円形の道路に沿って、等高線も走っているのがわかります。

 一方、現代の Google マップでこの部分をもう少し拡大してみると、下のようになります。

 Googleマップはベクター画像になっているせいもあってか、ちょっと角々した印象もありますが、それでもやはり「楕円形の半分」という感じはありますね。

 ところで気になるのは、このあたりは現在はどうなっているのだろう、ということです。その昔にレオーノキューストが住んでいたという競馬場跡地に、今はどんな風景が広がっているのでしょうか。
 ということで、世界中の街並みを居ながらにして見られる Google マップのストリートビューで、ここをちょっとのぞいてみましょう。

 下の「スタート」ボタンをクリックしていただくと、上の地図の(A)地点から(B)地点までを、ストリートビューの画像によって、コマ送り動画のようにたどることができます。


   

 途中、「バックストレート」のように直線的な道路が続く箇所もありますが、初めの方と半ば過ぎでは、道が右へ右へとカーブしていくのがおわかりいただけるかと思います。
 あるいは、ここをクリックしていただくと、(A)地点におけるストリートビューが開きますので、道路に標示される矢印をクリックしながら、実際に経路をたどって体験していただくこともできます。

 全体として、何となく「半楕円形」になっていることを、お感じいただけたでしょうか。

 あと、当時の「黄金競馬場」がいったいどんな様子だったのだろうというのも、確認しておきましょう。今回お世話になっている『いわての競馬史』を参照すると、当時の写真が3枚ほど掲載されています。
 まず下の写真は、後方の山が「八幡山」と推測されることから、競馬場全体を南西の方向から撮ったものかと思われます。柵の形から、何となく「楕円っぽい」感じがわかります。

旧黄金競馬場1

 下の写真も、後方の山はやはり「八幡山」かと思われます。なかなかスピード感がありますが、この走路は八幡山の側のように見えますので、上で見た住宅地の中に残る道路と、同じ側にあたるのではないでしょうか。

旧黄金競馬場2

 最後に、当時の盛岡競馬場では、下のように車をつないだ「繋駕速歩競走」というのも行われていたということです。

旧黄金競馬場3

 こういうレースが行われていたのも、「優良馬育成」という実際的な目的もある生産地競馬ならではなのでしょう。この写真には、「昭和5年6月3日」と日付も入っています。

 というようなわけで、その昔にレオーノキューストが住んでいたと舞台設定されていた場所は、現在の「盛岡市高松2丁目」あたりなのではないか・・・という、半分はお遊びの調査でした。
 しかし昔の競馬場の形が、80年以上を経た現在も、住宅地の道路に残っているというのはちょっと嬉しい驚きで、レオーノキューストがファゼーロに語りかける次のような言葉が、ふと聞こえてくるような気持ちもしたものでした。

「おや、ぼくは地図をよくわからないなあ、どっちが西だらう。」
「上の方が北だよ。さう置いてごらん。」 ファゼーロはおもての景色と合せて地図を床に置きました。「そら、こっちが東でこっちが西さ。いまぼくらのいるのはこゝだよ。この円くなった競馬場のこゝのとこさ。」

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2015年2月15日 大槌の「風の電話」と賢治の挽歌

風の電話は心で話します
静かに目を閉じ
耳を澄ましてください
風の音又は浪の音が
或は小鳥のさえずりが聞こえたなら
あなたの想いを伝えて下さい
想いはきっとその人に届くでしょう
                       佐々木格「風の電話」より

 「ベルガーディア鯨山」とは、釜石の会社を早期退職した佐々木格さんが、大槌町の郊外の高台に開いた、広大な庭園の名前です。
 ここには、佐々木さんが一つ一つ石を積んで建てた「森の図書館」(下写真)や・・・、

森の図書館

やはり佐々木さんが自ら木材を組み上げて作った「ツリーハウス」(下写真)などが建ち並んでいますが・・・、

ツリーハウス

それらの建物から少し離れて、海の景色が美しい場所にぽつんと建っている白い電話ボックスが、「風の電話」(下写真)です。

風の電話

 電話ボックスの中には、昔ながらの黒電話が一つ置かれているのですが、この電話機の線は、どこにも繋がっていません。ですから、この電話では物理的には、誰とも話はできないのです。
 しかしこの電話機には、他の普通の電話にはないような、特別な機能があります。実はこれは、この世の人と、亡くなった人の心をつなぐために、佐々木さんが設置したものなのです。

 佐々木格さんは、2010年の冬に、いとこを病気で亡くされました。悲しみに沈むご親族の力になればと考え、佐々木さんはこの庭園内に電話ボックスを設置し、暖かくなったら周囲に花を植えようと、2011年の春が来るのを待っていました。
 するとそこに、震災が起こったのです。ここ大槌町では、1万5千人の人口のうち、1284人が死亡または行方不明という惨事になりました。

 このような状況で、この電話が何か人の役に立つかもしれないと思った佐々木さんは、急いで周りの植栽を行い、これを「風の電話」と名づけて完成したのが、2011年4月のことでした。
 その頃まだ大槌では、現実の電話線も復旧していなかったのですが、5月に新聞記事で紹介されたことをきっかけに、ここを訪れる人がだんだんと増えてきたということです。

 「風の電話」を訪ねてきた方は、まずはこの庭園を散策したり、ベンチに座って海を眺めたりするのだということです。その後、電話ボックスに入って受話器を取り、しばしの時間を持たれるのです。
 ボックス内に置かれているノートに、その思いを書き付けて帰られる方も、たくさんあります。また、千葉県のボランティア団体から寄贈された小さな木彫りのお地蔵さんも置いてあって、ここを訪れる人は、お地蔵さんを自由に持ち帰ってよいことになっています。

 私自身も、2月12日の早朝に、「風の電話」を体験させていただきました。
 電話ボックスの扉を開けて中に入り、また扉を閉めると、中は思ったよりも静かでした。ガラスはきれいに磨かれています。

風の電話の内部

 ノートやお地蔵さんを眺めた後、受話器を手に取ってしばらく耳にあててみました。そして、今は会えないある人に対して、ずっと伝えたかったことを、心に念じてみました。

 実際に「風の電話」を体験して感じたことは、ここに入ってみると、自分を何かに「ゆだねる」というような気持ちが、なぜか湧いてくるということでした。

 しかしまあ、どこにも線の繋がっていない電話の受話器を取って、亡くなった人と「対話」をするなんて、ちょっと「芝居がかった」行為に感じられる向きもあるかもしれません。はたしてこんなことが、何かの役に立つのだろうかという疑問も、ありうるでしょう。
 それでも、この行為に確かな「意味」が存在していることは、震災から年月が経った今でも、わざわざここを訪れて受話器を手にする人が跡を絶たず、中には何度も来られる人もいるという事実が、はっきりと証明してくれています。私がここを訪ねたのは2月11日でしたが、震災から「月命日」にあたるこの日、「風の電話」を訪れる人を取材しようと、複数の新聞社の人も来ていました。

 この舞台装置が「芝居がかった」ものにならずに、実際にしっかりと機能を果たしている理由は、いろいろと考えられます。
 一つには、この電話が位置しているロケーションによるところもあるのでしょう。電話ボックスが設置されているのは、被災地の懐で、豊かな自然に囲まれ、手入れされ落ち着いた庭園の中です。そして、何よりもこの場所からは、あの三陸の海の、「あの日」とは異なった美しい姿を、望むことができるのです。
 そしてまた、この電話を設置して、それを守り続けている佐々木格さんのお人柄も、非常に大きな要素となっていることでしょう。ここに来ればいつでも佐々木さんが優しく迎えてくれて、丁寧に庭園を案内してくれたり、風の電話を使った後はお茶を飲みながら話を聴いてくれたりすることは、多くの人にとって心強い癒やしとなっていることでしょう。
 さらに、ここを訪れる方々同士の横のつながりも生まれ、「子を亡くした親の会」などの自助グループができていることも、当事者の方々にとっては、強い力になっていることでしょう。会の仲間と一緒に、みんなでピザの生地をこね、「森の図書館」の1階に造り付けられている石窯で焼いて食べるという会合も、開かれているのだそうです。

風の電話の内部

 佐々木さんによると、この電話を訪ねて来られた方でも、あまりにも悲しみが深い場合は、最初は電話ボックスに入ることにさえ抵抗感を抱かれるのだそうです。
 そういう方も、しばらくすると入ってみようという気持ちになられますが、それでも当初は、ほとんど言葉も出てこないということです。

 しかしそのうちに多くの方は、抱えてきた悲しみを佐々木さんに切々と話されるようになるのだそうです。それは初めのうちは、亡くなった方に対して自分を責める気持ち、生き残ってしまったことへの罪責感が、ほとんどだということでした。
 それでもいつしか、そのお話もだんだんと穏やかになり、表情も柔和になっていかれるということです。

 大切な人を失い、自分だけが生き残ってしまった時、人はしばしば「サバイバーズ・ギルト(生存者の罪責感)」という感情を抱いてしまいます。「なぜ自分はあの人を助られなかったのか」、「もしもあの時ああしておれば助けられたのではないか」、「自分が殺してしまったようなものだ」、「こんなことなら自分こそ死ねばよかったのだ」、などという思いが、無限ループのように心の中で渦巻きます。このような罪責感は、その人を失った痛切な記憶と固く結びついているので、その記憶がよみがえるたびに、まるで「自動思考」のように発動してしまい、人はなかなかこのループから抜け出すことができません。

 私が「風の電話」で感じた、「自分を何かにゆだねるような気持ち」は、このような「自動思考」を幾分なりとも解除してくれて、心が再び自然な流れを取り戻す上で、一定の役割を果たしてくれているのかもしれないと、ふと思ったりもしました。
 自分の心に浮かぶ考えや感情に流されたり、それらに対して価値判断を差しはさむことなく、ただ心に湧いてくることを客観的に観察しようとするという、「マインドフルネス」という心理アプローチがありますが、この「風の電話」に入ることは、意図せずにこの「マインドフルネス」に似たような心の状態を、作り出してくれているようにも感じました。
 ガラス張りで、中からは周囲の美しい風景がすっきりと見渡せる一方で、一人だけの静かな「守られた空間」でもあるというような不思議な感覚が、何らかの作用をしてくれているのかもしれません。

風の電話からの景色

 上に記したように、人間が深い「悲しみ」を段階的に昇華していく作業のことを、「グリーフ・ワーク」と言います。私は去る2月11日に、佐々木格さんと、県立大槌病院の心療内科医である宮村通典さんと一緒に、宮澤賢治が最愛の妹トシを亡くした後に経験したであろう「グリーフ・ワーク」について、暖炉の火の燃える「森の図書館」で、しばらくお話しをしました。

 トシを亡くした日、賢治は「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という不朽の三部作を書き付けましたが、その日からおよそ半年間は、少なくとも『春と修羅』に収められる作品は書いていない、文字どおり「無声」の時期が訪れます。
 翌年の6月以降、また創作は再開されますが、今度は「オホーツク挽歌」の章の諸作品のように長大なものが続き、言葉は堰を切ったように大量にあふれ出します。このあたりは、佐々木さんが、「風の電話」を訪れる方々を見ていて感じられた上記のプロセスと、同じような経過とも言えます。

 そして、賢治が「青森挽歌」に記している言葉、「なぜ通信が許されないのか/許されてゐる…」に表現されている葛藤は、まさに故人との「通信」を求めて、「風の電話」を訪れる人々とも、共通するものだと言えます。古今東西にあまねく、さまざまな「霊媒」と呼ばれる人々の存在があるのも、何とかして死者と通信をしたいという、人間の普遍的な願望によるものでしょう。
 賢治の場合は、青森へ向かう夜行列車の中や、稚泊連絡船の甲板や、サハリンの栄浜の海岸などが、トシとの「通信」を可能にするための舞台設定だったように思われます。一方、ここ大槌の「風の電話」には、上に記したようにさまざまな要素が絡み合って、「通信」のための絶妙の環境装置が備わっているわけです。

 賢治にとっても、もちろん一回の旅行だけで、その深刻な「グリーフ・ワーク」が終了したわけではありませんでした。その後もさまざまな作品に、彼の心の軌跡は表れています。
 そして最終的には、たとえば「銀河鉄道の夜」に代表されるような、「人の死の受けとめ方」へと結晶していったのです。

 古今東西、大切な人の死をどう受けとめるかという「ワーク」に求められているのは、きっと本質的にはみんな同じことなのだと思います。

 佐々木さんが設置したこの「風の電話」は、去年には可愛い絵本にもなって、出版されています。
 登場する動物たちのけなげさが、心に沁みます。

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いもとようこ

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やまのうえに 1だいの でんわが おいてあります。
きょうも だれかが やってきました。
せんのつなっがていない そのでんわで はなしをするために・・・。
                           (「かぜのでんわ」より)

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2015年2月14日 「大槌 宮沢賢治研究会」発足へ

 去る2月11日に私は岩手県大槌町を訪ね、そこで下記の佐々木格さんと宮村通典さんにお目にかかり、とても貴重なお話をお聴きしてくることができたのですが、その詳しい内容はまた次の記事でご報告することとして、まず今回は、来たる2月15日(日)に大槌町において予定されている講演会と、それを機に「大槌 宮沢賢治研究会」が発足予定であることを、ここにご紹介させていただきます。

 下の写真が、2月15日のその講演会の案内チラシです。

「宮沢賢治と大槌の関わりを知る」

宮沢賢治と大槌の関わりを知る

  日時: 平成27年2月15日(日) 13:00-16:00
  場所: 大槌町中央公民館第一会議室(3F) 無料

  第一部 宮沢賢治と大槌の関わり
                ベルガーディア鯨山 佐々木 格
  第二部 宮沢賢治に背中を押されて
                県立大槌病院心療内科医師 宮村 通典
  第三部 大槌 宮沢賢治研究会の発足
                小学生から大人まで参加できます。

  申し込み・問い合わせ先: ベルガーディア鯨山
                Tel. 0193-44-2544 佐々木
  主催: ベルガーディア鯨山
  後援: 大槌町教育委員会

 中心となってこの催しを企画し、第一部の講演もされる佐々木格さんは、釜石市の会社を早期退職後、大槌郊外の高台に「ベルガーディア鯨山」と名づけた美しい庭園を開き、そこに「風の電話」「森の図書館」「ガーデンカフェ」「ツリーハウス」などを、ご自分で製作しておられます。
 今回の催しを機に、「大槌 宮沢賢治研究会」を発足させ、また今後は大槌町内に2基の新たな賢治詩碑を建立する計画も進行中とのことです。
 佐々木さんが運営しておられる「風の電話」という素晴らしい<媒体>に関しては、次回記事でご紹介させていただくつもりです。

 第二部の講演をされる宮村通典さんは、心療内科の医師であり、日蓮宗の僧侶でもあるという方で、先の震災までは長崎県大村市の病院で勤務しておられましたが、震災を機に長崎の病院は退職し、自ら大槌町の病院に赴任して、地元の医療に尽くしておられます。
 私は2月11日に、宮村さんにも親しくお話をうかがうことができたのですが、宮村さんが九州から、はるばる三陸の被災地に身を投じる決断をする上で、大きな力となったのは、賢治が「〔雨ニモマケズ〕」に記した「行ッテ」の精神だったということです。

 今後の大槌町の復興と、「大槌 宮沢賢治研究会」のご発展を、心からお祈り申し上げます。

ベルガーディア鯨山
ベルガーディア鯨山

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2015年2月11日 スタンレー探険隊とコンゴー人

 「春と修羅 第二集補遺」に分類されている「発動機船 第二」の冒頭は、次のようになっています。

   発動機船 第二

船長は一人の手下を従へて
手を腰にあて
たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く
さっき一点赤いあかりをふってゐた
その崖上の望楼にむかひ
さながら挑戦の姿勢をとって
つゞけて鉛のラッパを吹き
たうたうたうたう
月のあかりに鳴らすのは
スタンレーの探険隊に
丘の上から演説した
二人のコンゴー土人のやう
(後略)

 船の上から崖上の望楼に向かって、勇ましくラッパを吹く船長の様子が、「スタンレーの探険隊に/丘の上から演説した/二人のコンゴー土人のやう」だというのですが、さらに賢治にはこの「探険隊」と「土人」のやりとりそのものをテーマとした作品もあって、その名もずばり「スタンレー探険隊に対する二人のコンゴー土人の演説」(「文語詩未定稿」)です。

   スタンレー探険隊に対する二人のコンゴー土人の演説

演説者
白人 白人 いづくへ行くや
こゝを溯らば毒の滝
がまは汝を膨らまし
鰐は汝の手を食はん

     証明者
     ちがひなしちがひなし
     がまは汝の舌を抜き
     鰐は汝の手を食はん

白人 白人いづくへ行くや
こゝより奥は 暗の森
藪は汝の足をとり
蕈は汝を腐らさん

     ちがひなしちがひなし
     藪は汝の足をとり
     蕈は汝を腐らさん

白人白人 いづくへ行くや
こゝを昇らば熱の丘
赤は 汝をえぼ立たせ
黒は 汝を乾かさん

     ちがひなしちがひなし
     赤は汝をえぼ立たせ
     黒は汝を乾かさん

白人 白人 いづくへ行くや
こゝを過ぐれば 化の原
蛇はまとはん なんぢのせなか
猫は遊ばんなんぢのあたま

     ちがひなしちがひなし
     蛇はまとはん なんぢのせなか
     猫は遊ばんなんぢのあたま

白人 白人いづくへ行くや
原のかなたはアラヴ泥
どどどどどうと押し寄せて
汝らすべて殺されん

     ちがひなしちがひなし
     どどどどどうと押し寄せて
     汝らすべて殺されん

    (このときスタンレー〔数文字不明〕こらへかねて
     噴き出し土人は叫びて遁げ去る)

 このような作品にも仕立て上げるくらいですから、この「スタンレー探険隊」と「コンゴー土人」とのやりとりに関して、きっと賢治は相当の関心を抱いていたのでしょう。

ヘンリー・モートン・スタンリー ヘンリー・モートン・スタンレー(1841-1904,右写真はWikipediaより)は、イギリスのジャーナリスト・探検家で、生涯に何度も中央アフリカ奥地を探検し、当時アフリカで行方不明になっていた探検家デイヴィッド・リヴィングストンとタンガニーカ湖畔で邂逅したり、ナイル川の源流を突き止めたことなどで知られています。彼がアフリカの奥地でリヴィングストンと巡り会った時に発したという言葉、「Dr. Livingstone, I presume? リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」は、当時イギリスで、思いがけず人と対面した時の慣用句として使われるほど有名な言葉になったということです。

 賢治が、このスタンレーの探険隊やアフリカにおける現地人との接触について知った出典として、『定本 宮澤賢治語彙辞典』は、スタンレーの著書『スタンレー探険実記 一名闇黒亜弗利加』(博文館,1896)だとしていますので、さっそく国会図書館デジタルコレクションで、これを調べてみました。

『スタンレー探険実記』 該当する本はおそらく右のもので、賢治が生まれた1896年(明治29年)に、矢部新作訳として刊行されています。
 『定本 宮澤賢治語彙辞典』には、これはスタンレーの著書"Through the Dark Continent"の翻訳であると書いてありますが、実際にはこれは、やはりスタンレーによるもっと後の探険記"In Darkest Africa or the Quest Rescue and Retreat of Emin Governor of Equatoria"の訳書であるようです。

 ページをめくって順に見ながら、賢治が注目したコンゴー人とのやりとりを探してみると、150-151ページにそれと思われる箇所がありました。

『スタンレー探険実記』p.150

『スタンレー探険実記』p.151

 このままでは読みにくいので、該当する部分を書き起こすと、下のようになります。

此朝暁方より凡そ三時間前に於て、舎営は土人の怒號と角笛の聲とに由て、一同平和の夢を攪破されたり。暫らくにして此聲は止めり。時に二人の土人、遙かの高所に在つて余等に對し、演説を始めたり、其聲明かに余等の耳に達せり。
第一人は曰く ― 外人共、外人共、何處へ行くのだ、何處へ行くのだ。
第二人は之れに應じて ― 何處へ行くのだ、何處へ行くのだ。
第一人 ― 此國は外人を容れない、外人を容れない。
第二人 ― 容れない、容れない、相違ない。
第一人 ― 一同皆汝等を敵とすべし。
第二人 ― 汝等を敵とすべし、帰れ帰れ。
第一人 ― 汝等は必ず殺さるべし。
第二人 ― 必ず殺さるべし、必ず。
第一人 ― ア、ア、ア、ア、ア―。
第二人 ― ア、ア、ア―。
第一人 ― ウ、ウ、ウ、ウ、ウ―。
第二人 ― ウ、ウ、ウ、ウ―。
此二人は實に能く調子を揃へて應演せり、此奇妙なる亜弗利加スタイルの演説法は、思はず、余等をして喝采せしめたり。次で諸方より一同に笑聲起れり、彼の演説者は此聲に驚きけん、匆々に逃げ去りぬ。

 これを見ると、賢治が「スタンレー探険隊に対する二人のコンゴー土人の演説」として文語詩化した内容よりはかなり簡素なものですが、しかし「第一人」が言ったことの一部分を「第二人」がリフレインのように繰り返し、いろいろと恐ろしい予言を連ねた挙げ句、最後に探険隊の笑い声に驚いて逃げ去る、という大枠は一致しています。
 念のために、原書"In Darkest Africa or the Quest Rescue and Retreat of Emin Governor of Equatoria"から該当部分を取り出してみると、下のようになっています。(The Internet Archive より)

 比べてみると、コンゴー人の発言部分は、矢部新作訳でもほぼ忠実に訳されているようです。

 興味深いのは、2人のコンゴー人の呼び方として、スタンレーによる原書では、'speaker'と'parasite'(=「腰巾着」?)として、2人目に対する評価が明らかに低いのに対して、矢部新作訳では「第一人」「第二人」と中立的な記述であり、一方賢治による「スタンレー探険隊に対する二人のコンゴー土人の演説」では、「演説者」と「証明者」となっていて、2人目に対しても一種の「権威」が付与されているところです。実際には、2人目は後について叫んでいるだけなので、これは賢治独特のユーモアなのでしょう。

 全体を眺めてみて、この2人の「演説」は、まるでミュージカルの一節であるかのような調子の良さと、滑稽な雰囲気に満ちています。(訳書には「此二人は實に能く調子を揃へて應演せり」と書いてありますが、この部分は原書にはありませんね。)
 最後で、二人が探険隊の笑い声で驚いて逃げてしまうところなど、もしもこれが舞台で演じられていたら、客席も一緒にどっと沸く場面でしょう。
 農学校の教師として、歌も入った喜劇を書いては生徒たちと上演していた賢治が、このような独特のやりとりに強く魅かれたというのは、理解できる感じがします。

 実際、賢治の作品の中にも、一人が何か叫んだらもう一人がその一部を真似するように叫んだり、あるいは強そうにしていた者が笑われた途端に逃げ出してしまったり、というような場面があったような気もしますが、今ちょっとすぐには思い出せません。

 何かありましたっけ?

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2015年2月 5日 銀河、ワームホール、りんご

 かなしい時はジョバンニのように眼をそらに挙げると、天の川が見えます。今の季節なら、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、オリオン座のベテルギウスが形づくる「冬の大三角形」によって、天の川は飾られています。

 ・・・ところで最近、「天の川は巨大なワームホール?」という科学記事を目にしました。
 この記事は、SISSA(トリエステ国際高等研究スクール)の研究者が最近発表した論文(「銀河ハロウの中心領域におけるワームホール存在の可能性」)および報道発表(「理論的には、天の川は巨大な"銀河移動システム"かもしれない」)にもとづいたもので、それによると、私たちの「天の川銀河」には、巨大な時空トンネル(ワームホール)があるかもしれないというのです。

 「ワームホール」とは、宇宙を舞台にしたSFではなじみ深い言葉ですが、私たちの属しているこの「時空」が歪みを持っているために、ある一点から別の離れた一点に移動できるような「トンネル」のような抜け道があり得るのではないか、という仮説です。
 すでに1935年に、アインシュタインとその共同研究者ローゼンによって、その存在の可能性が示唆されていましたが、今のように「ワームホール」という言葉が普及するきっかけとなったのは、1988年にマイケル・モリス、キップ・ソーンらが発表した論文(「ワームホール、タイムマシン、および弱いエネルギー状態」)において、「もし負のエネルギーを持つ物質が存在するならば、通過可能なワームホールは存在しうる」ということが、数学的に確かめられたことによります。
 この仕事のおかげで、以後のSFは、「どんな宇宙船も光速を超えられない」という相対性理論の桎梏から解き放たれ、「科学的」な方法によって人類が宇宙のはるか彼方まで旅をするという物語が、世界中で続々と生まれるようになりました。あの『スター・トレック』においても、ワームホールが重要な役割を果たしていました。

 ということで、今回SISSAの研究者が論じたように、もしも天の川銀河に巨大なワームホールがあって、それが時空を旅する軌道になるのだとしたら、これこそ賢治が夢想した「銀河鉄道」そのものではありませんか!
 賢治が描いたイメージが、思わぬ形でニュースに登場したことに感嘆するとともに、このSISSAという研究機関がイタリアにあることから、ジョバンニやカンパネルラやザネリなどという名前も、ここにぴったりふさわしいものに思えてきます。

 あと、さらにもう一つ、魅惑を感じるような一致があります。
 どちらも「宇宙空間における移動手段」だということで、「銀河鉄道」は「ワームホール」に比定することができるわけですが、そもそもこの「ワームホール」という名称は、「りんご」の実にあけられた「虫食い穴」から由来しているのです。「ワーム」というのは「芋虫」のことですね。

りんごとワームホール ワームホールという名前は、1957年にジョン・ホイーラーという物理学者が付けたものだそうですが、その発想の由来は、りんごの内部の虫食い穴を通れば、表面に沿って移動するよりも近道になる、ということです。右の図で、AからBへ行くのに、実線のように移動するのと、点線で移動するのとの違いですね。
 平面においては、このような「近道」はありえませんが、りんごの表面は一種の球面で「歪み」を持っているために、このような現象が起こるのです。

 となると、賢治が「銀河鉄道の夜」を着想するきっかけの一つとなったと考えられている作品「青森挽歌」において、「きしやは銀河系の玲瓏レンズ/巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる」と書いていたことに、思いを馳せずにはいられません。

 銀河鉄道は、まさに「りんごのなか」のワームホールを「かけてゐる」のです!

 最後に、下の動画は、銀河にあるワームホールを、SISSAがイメージ化して公開しているものです。よくわからないけど、スペクタクルです。


"Galactic Wormhole"

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2015年1月27日 I AM KENJI

I AM KENJI

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2015年1月26日 三陸旅程後半に関する疑問いくつか

 今からちょうど90年前、1925年(大正14年)の1月に、賢治は一人で真冬の三陸地方を旅行しているのですが、この旅行はその目的も具体的な日程も不明で、いろいろと謎に包まれているものです。
 この旅行に関して、『新校本全集』の「年譜篇」に掲載されいている大まかな日程の推測は、以下のようなものです。

〔一月〕
五日 夜陸中種市から久慈へ向う。
六日 暁穹に百の岬が明ける。この夜安家(下安家と推定)に
   宿泊。
七日 下安家より普代を経て羅賀へ出、ここより発動機船に乗り
   夜宮古港着、宿泊したか夜〇時発三陸汽船にのりかえ釜石
   に向かったか(あるいは「函館航路」の他の臨機寄港地を用
   いたか)。
八日 宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着。天神町の
   叔父宮沢磯吉家に宿泊。
九日 釜石を出発。仙人峠より釜石湾を見る。仙人峠一二時三五
   分発ならば花巻着午後四時三〇分、三時五五分発ならば夜
   七時四五分着。
以上はあくまでも推測で、詩の内容・日付やノートだけでは確定は困難である。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇p.286-287より)

 また、木村東吉氏は、『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』(渓水社)において、上記『新校本全集』年譜篇における推測をおおむね踏襲しながらも、7日の発動機船乗船地を、羅賀ではなく、下安家、堀内、大田名部のいずれかであったと推定しておられます。
 この木村氏の推定については、当サイトの「旅程幻想詩群」というページで、ご紹介しています。

 発動機船乗船地に関しては、普代村の堀内港から乗船したとの説に基づき、2004年にこの堀内地区に「敗れし少年の歌へる」詩碑が建立されるなど、今も諸説がありますが、本日取り上げてみたいのは、翌1月8日の、宮古から釜石に向かったと思われる行程についてです。
 発動機船に乗ったのがいずれの港であったにせよ、いったん宮古港に入港したことは、「発動機船 三(下書稿(一))」に、「船は宮古の港にはいる」との一節が出てくることから明らかです。
 しかし、宮古から先の賢治の足どりは、非常にあやふやなものになります。

 1月9日付けの「」に、「釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド/……そこでは叔父のこどもらが/みなすくすくと育ってゐた……」とあることから、1月8日の夜に賢治が、釜石の叔父宮澤磯吉宅に泊まったことは、確実と言ってよいと思われます。では、宮古から釜石まで、賢治はどうやって来たのでしょうか。
 ここで、1月8日付けの二つの作品、「発動機船〔断片〕」と、「旅程幻想」を参照しなければなりません。

 まず「発動機船〔断片〕」は、本文4行しかない書きかけの断片ですが、その内容から、作者は船に乗っていると考えられます。「月夜の海」という言葉が出てくることから、時刻は夜と思われますが、しかしこれが1月8日午後の夜だとすると、この晩は釜石の叔父宅に宿泊しているという先ほどの推定との関係で、やや困難が生じます。
 この日の夕方、暗くなってから釜石に向かう船に乗っていて、その後船を降りて叔父宅に行ったと考えることも無理ではありませんが、「Ke!sanサイト」で調べた1925年1月8日の釜石における月の出は15時6分、日の入りは16時44分で、この作品がスケッチされたのが、例えば18時頃だとしても、月の高度はまだ低く、「月夜の海」と言えるほどの情景になるかどうかは疑問です。
 そこで、この「発動機船〔断片〕」に描かれた「月夜の海」は、1月8日の未明の情景だと考えると、より辻褄が合うのです。上記『新校本全集』の年譜における、「宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着」という推測も、これと関連していると考えることができます。

三陸汽船時刻表 ちなみに、この「宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着」というのは、当時の「三陸汽船」の運航ダイヤです。
 賢治がこの三陸旅行において「三陸汽船」を利用した可能性については、最初に奥田弘氏が「宮沢賢治研究周辺資料〔十一〕」(1989)において指摘し(蒼丘書林『宮沢賢治研究資料探索』所収)、その後木村東吉氏が「旅の果てに見るものは―《春と修羅 第二集》三陸旅行詩群考―」(1994)において、運航時刻も調査されたものです。
 右の複写は、賢治の旅行の1年半前ですが、1923年(大正12年)7月号の『公認汽車汽船旅行案内』を、新人物往来社が1998年に復刻刊行したものです。
 2段目の「復航」欄の該当部分を抜き出すと、以下のとおりです。

宮古発 後 一二、〇〇
山田〃 前  三、四〇
大槌〃     七、三〇
釜石〃   一一、二〇

 この運航時刻に基づいて、『新校本全集』では「午前一一時二〇分釜石着」と推測したのでしょうが、しかしここで賢治が宮古から釜石まで三陸汽船に乗船したのだとしたら、やはり1月8日付けの「旅程幻想」の記述との間に、齟齬が生じてしまいます。
 すなわち、「旅程幻想」においては、「海に沿ふ/いくつもの峠を越えたり/萓の野原を通ったりして/ひとりここまで来たのだけれども…」とありますが、釜石港で下船した場合には、釜石の中心部にある叔父の家に行くまでの間で、こんなにいくつも峠を越えたりすることはありえないのです。
 そこで、木村東吉氏は『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』において、賢治が三陸汽船を降りたのは山田港か大槌港のいずれかであり、そこから釜石までは徒歩で行ったと推測されました。
 こう考えれば、作品の日付および内容と、当時の時刻表を、ひとまず一致させることができます。
 しかしここで、どうしても次の疑問がわいてきます。

【疑問1】 賢治の目的地は釜石だったのに、なぜ釜石まで乗船せずに山田なり大槌なりで、途中下船してしまったのか?

ということです。
 山田から釜石までは30km、大槌から釜石なら15kmの道のりで、健脚の賢治ならばもちろん歩けないことはありませんが、寒風吹きすさぶ真冬の三陸海岸で、もしも歩かずにすむならばそれに越したことはないでしょう。
 この問題に対して木村東吉氏は、「なぜ釜石まで乗船しなかったのか現在からすれば不審だが、ボロ船で当時利用者の不満も高かった三陸汽船だったし、船荷の都合なども考えられる」と、記しておられます。

 この点に関しては何とも言えませんが、もしも賢治が何かこのあたりに用事があったとすれば、途中下船する明確な理由となります。個人的に少し気になるのは、賢治が1919年に東京から父に出した「書簡137」において、鉱物を扱う事業を始めたいと訴える中で、例として挙げられている鉱石が、「九戸郡の琥珀、貴蛇紋石 大槌の薔薇輝石」となってることです。
 ここに登場する九戸郡も大槌も、この三陸旅行において徒歩で移動したと推測されている箇所に、ちょうど一致するのです。

 憶測はさておき、賢治が1月8日未明に宮古から山田または大槌まで「三陸汽船」に乗船したとすれば、この船上における描写が、同日の日付を持った「発動機船〔断片〕」だということになります。1925年1月8日の月の入りは午前4時3分ですから、深夜0時に宮古を出港して間もない頃であれば、まだ「月夜の海」であり、木村氏の調査によれば、この日の午前1時-4時の宮古地方の天候は快晴でした。月は海上に、晴れ渡って浮かんでいたことでしょう。

 しかしここで、また一つ疑問がわいてきます。

【疑問2】 「汽船」に乗ったのに、なぜ作品タイトルは「発動機船」なのか?

ということです。
 当然ながら、「汽船」とは、蒸気機関により推進力を得る船であり、「発動機船」とは、「発動機」すなわち内燃機関により推進力を得る船です。賢治が北三陸から宮古まで乗った船は、比較的小規模な「発動機船」だったのでしょうが、「三陸汽船」はもちろん「汽船」です。
 この疑問の答えとしては、三通りの可能性がありえるでしょう。

 一つ目は、賢治がこの時に乗ったのは「三陸汽船」ではなくて、題名どおり「発動機船」だった、という可能性。この場合、奥田弘氏から木村東吉氏に至る「三陸汽船説」は間違いだったということになってしまいますし、時刻の推定も不可能になります。
 この推測の難点は、当時は小規模な貨物輸送や旅客輸送を行っていたと思われる発動機船が、日中ではなくこんな真夜中の夜半から未明にかけて、はたして運航していたのかどうか、という問題です。ちょっと心もとない感じがします。

 二つ目は、賢治が「汽船」と「発動機船」の違いを意識せず、実際この時に乗ったのは汽船だったのに、北三陸で「発動機船」に乗ったという意識につられてか、ここでもタイトルを「発動機船」としてしまったという可能性。このように「作者が間違えた」と仮定するのは、考察としてあまりすっきりはしませんが、しかしこういう可能性も否定はできないでしょう。

 三つ目は、やはりこれも作者のミスを仮定してしまいますが、「発動機船〔断片〕」の「1月8日」との日付が間違いで、この断片は実は前日1月7日の発動機船による船旅を描いたものだったという可能性。これも多少の無理はありますが、ただこれは後で述べる、「発動機船 第二」と「発動機船〔断片〕」との関係にも関わってくる問題をはらんでおり、きちんと検討しておく必要はある仮説です。

 どれが正しいかについては何とも言えませんが、個人的には、上の二つ目の「実際は汽船に乗ったのに発動機船と書いてしまった」という可能性が、どうも棄てきれません。
 その理由の一つは、「発動機船〔断片〕」の本文4行目に、「船は真鍮のラッパを吹いて」と書いてあるところです。

 この「発動機船〔断片〕」のテキストは、「発動機船 第二」とかなり共通している部分が多いのですが、ここに出てくる「ラッパ」も、その共通する道具立ての一つです。
 ただ、ここが大きな違いかもしれないのですが、「発動機船 第二」においては、「船長は一人の手下を従へて/手を腰にあて/たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く」とあり、ラッパを吹くのは「船長」です。
 これに対して、「発動機船〔断片〕」では、「船は真鍮のラッパを吹いて」となっていて、ラッパを吹く主体は、「船」なのです。

 さてここで、人間ではなくて「船がラッパを吹く」というのは、擬人的表現と読むのでなければ奇妙なことに思えますが、一つだけ文字通りの解釈もありえます。このラッパが、「汽笛」だったと考えてみたらどうでしょうか。
 「汽笛」というのは、蒸気船において、動力に用いる蒸気のあまりを配管で引いてきて、これを必要な時にラッパに通し、大きな音を発生させるものですから、吹いている主体は「船」そのものです。
 一方、動力源が発動機である場合には、蒸気機関のように高圧の気体を取り出すということはできませんので、船から周囲に向けて信号を送るためには、人間がラッパを吹くなどの手段が必要となります。

 したがって、賢治が「発動機船〔断片〕」における「船は真鍮のラッパを吹いて」という言葉を、その文字通りの意味で書いたのだとすれば、このラッパは「汽笛」だったということになり、ならばその船は「汽船」であった、という結論になります。
 この場合、タイトルの「発動機船」は誤りで、賢治が乗っていたのはやはり「三陸汽船」だったと考えるべきでしょう。
 これは、何かの確定的な証拠になるというほどの事柄ではありませんが、「三陸汽船説」に味方する小さな材料とは言えるかもしれません。

 さて、上にも少し触れたように、「発動機船〔断片〕」と「発動機船 第二」のテキストの間には、かなりの重なり合った部分があります。
 すでに挙げた「ラッパ」もその一つですが、それ以外に、前者の1行目の「水底の岩層も見え」は、後者の18行目の「青じろい岩層も見えれば」に対応し、前者2行目の「藻の群落も手にとるやうな」は、後者19行目の「まっ黒な藻の群落も手にとるばかり」に、前者3行目の「月夜の海」は、後者9行目「月のあかり」に対応します。
 これほどまでに、二つのテキストの素材が共通しているのですから、これらが密接に関連していると考えるのはある意味当然で、このため『新校本全集』では、「発動機船〔断片〕」の発展形が「発動機船 第二」であると位置づけられています。すなわち、前者が「改作」されて後者になったのであり、もとになる作者の体験は、同一だったと判断しているわけです。

 しかしそのように考えると、新たな問題が発生してきます。
 一つには、上にも述べたように、両者の「ラッパ」は一見共通していても、一方は「船が」吹き、他方は「船長が」吹いているわけで、船自体も「汽船」と「発動機船」という違いがあるかもしれないのです。
 またもう一つ、これよりさらに厄介なことになるのは、「発動機船 第二」の前身が「発動機船〔断片〕」であるのなら、「発動機船〔断片〕」で描かれていた情景は、時間的には「発動機船 一」と「発動機船 三」との間に位置するはずです。賢治の詩作品では、「小岩井農場」や「種山ヶ原(下書稿(一))」などに、漢数字によるパートが記されていますが、数字は時間経過の順に並べられており、この場合も、現実の時間経過は、「発動機船 一」→「発動機船 第二」→「発動機船 三」、という順番だったと考えるのが当然でしょう。
 しかしそうであれば、「発動機船 三」は宮古港に入る前の情景を描いており、1月7日夜のことであるのはほぼ確実なのに、これでは「発動機船〔断片〕」に記されている「1月8日」という日付と順序が逆になってしまうのです。
 そこで、『新校本全集』のように、「発動機船 第二」は「発動機船〔断片〕」の発展形であると考えるためには、後者に記されている「1月8日」の日付は作者の誤記であり、実際は「1月7日」のことだったと考える必要が出てくるのです。
 これは、上で【疑問2】の答えとして考えた、「三つ目の可能性」に対応します。
 これは、可能性として否定はできないのですが、こう考えるとすれば、1月8日に賢治が船に乗ったと考える根拠は、何もなくなります。
 賢治の足どりも、完全に闇の中に消えてしまうわけです。

 いずれにしても、賢治が誤記をしたと仮定せざるをえないこの説に対しては、疑問を抱く人があっても無理はないでしょう。

【疑問3】 「発動機船〔断片〕」は、「発動機船 第二」の発展形なのか?

 これを「発展形である」と考える『新校本全集』の立場に対して、木村東吉氏は、取材の場所も異なる別作品と考え、次のように述べておられます。

 なお、『新・校本全集』では、「発動機船 第二」を『第二集』の「発動機船」〔断片〕の発展形とみなしたためか、「第二集補遺」に収めている。しかし、作品中で真鍮のラッパを吹いている点では共通していても、創作日付を信ずるなら『第二集』の断片稿は宮古から乗船した後の旅に取材しているはずで、羅賀を想定させる「発動機船 第二」とは、取材の場所も異なる。その順序も『第二集』の「発動機船」は『口語詩稿』の「発動機船 三」の後に位置するはずのものである。(『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』p.206)

 「発動機船 第二」が「羅賀を想定させる」かどうかという点に関しては、私としては判断を保留しますが、やはり私も木村氏のように、「発動機船〔断片〕」の日付を尊重したいという気持ちはあります。
 ただしその場合、この二つのテキストがここまで似通っていることを、どう説明するかという問題は発生します。

 というような感じで、賢治の三陸旅行の後半は、まさに「謎だらけ」なのですが、最後にもう一つ、どうしても気になる疑問を挙げておきます。

【疑問4】 「旅程幻想」の舞台はどこなのか?

 1月8日の日付を持つ「旅程幻想」に漂う、孤独感、寂寥感、不安感は何とも印象的で、私にとっては忘れられない作品の一つです。賢治はいったいどこの河原でこのような休息をとったのだろうと、これまであてもなく思ってみたりもしましたが、自分では何の手がかりも見つけられませんでした。
 実はこれについて、大槌町において考えておられる方がいらっしゃるようですので、一度お話をお聴きしたいものだと思っているところです。

『公認汽車汽船旅行案内』附録図
『公認汽車汽船旅行案内』大正十二年七月号より

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2015年1月 4日 イチョウの長い旅と一瞬の別れ

 ピーター・クレイン著『イチョウ 奇跡の二億年史』(河出書房新社)という本を読みました。著者は、植物の系統・進化史を専門とするイギリス人生物学者で、昨年の国際生物学賞も受賞された方です。

イチョウ 奇跡の2億年史: 生き残った最古の樹木の物語 イチョウ 奇跡の2億年史: 生き残った最古の樹木の物語
ピーター クレイン Peter Crane

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 実にこの本を読むまで私は、いつも当たり前のように眺めているあのイチョウの木が、地球上でこれほど数奇な運命をたどってきたのだとは、思いもよりませんでした。
 イチョウは、現生の樹木の中でも最も古い形質を持ち、2億年も昔から各大陸で繁栄を続けていたということですが、白亜紀末からは徐々に減少を続け、人類が地球上に登場する頃には、わずかに中国の山間部に残るだけになっていたということです。しかし、人間がその種子を食用にし、また宗教的にも尊んだことから、まずは中国各地に、その後は朝鮮半島および日本へと、分布を広げていきました。
 そして江戸時代に、日本の出島に居留していたオランダ人がこの美しい樹木に興味を持ったことから、この木は海を渡ってヨーロッパで人気を博し、その後は瞬く間に世界各地に広がっていったのです。
 これまでに人類は、たくさんの生物種を絶滅に追いやってきたことでしょうが、図らずもその逆に、絶滅から救うことになった種もあったのだというわけです。

 その波乱の歴史の一コマにおいては、日本が多少の貢献をしているというのも、嬉しいところです。イチョウの英独仏語'ginkgo'は、江戸時代の日本で「銀杏」を「ギンキョウ」とも読んでいたのを、出島に来ていたドイツ人医師ケンペルが、'y'音を'g'で表すという北ドイツ式の表記法によって伝えたことに由来するということです。
 また近代日本となって以降にも、賢治の生年である1896年(明治29年)には、小石川植物園の平瀬作五郎が世界で初めて、イチョウの受精の際に繊毛で泳ぐ精子を観察することに成功しました。この仕事は欧米の研究者を驚嘆させるとともに、「日本人科学者の名が国際舞台にのぼる最初の研究成果」になったということです。

 2億年もにわたりこの地球上で長く生きのびて、「生きた化石」とも呼ばれる生物が、地質学的には「ほんの一瞬」とも言えるわずか1000年ほどの間に、ヒトを介して東アジアに広まり、また300年ほどで全地球に分布するようになったというその壮大な時間の対照が、何とも不思議な感動を誘います。

 そしてこの本によれば、イチョウがその生存を「一瞬」に賭けているのは、このような歴史の偶然性においてだけではなくて、実は毎年のことなのです。
 雌雄異株、すなわち雄木と雌木が別株であるイチョウの生殖は、先に触れた泳ぐ精子の存在にとどまらず、全てが非常に精妙に行われます。
 暖かい春の数日間に、雄木の短枝には「花粉錐」が形成されて伸長し、その先に付いた「花粉袋」が裂けると、2-3日のうちに1本あたり1兆個もの花粉が飛び散ります。途方もない数の花粉ですが、どこか離れたところの雌木にたどり着いて受精を成し遂げるためには、それくらいが必要なのです。

 花粉が風に乗って漂っているまさにそのとき、(雌木の)若い胚珠はその先端に珠孔液という液体をつけてきらきらと輝く。この液体は空中を漂う花粉を捕らえるためのもので、ここで捕らえられた粒子を何であれ内部にとりこむ。珠孔液は花粉粒を胚珠に引きこむまで、一日に何度も吸収と再生をくり返す。
 自ら動いて伴侶さがしができない植物にとって、受粉は生殖における最もリスキーな部分だ。中でもイチョウのような雌雄異株の植物の場合、雌木と雄木で珠孔液と花粉の産生をぴったり同じタイミングに合わせなければならない。これを同期させられるかどうかですべてが決まる。受粉に成功した花粉粒の中で精子細胞が育ち、それが数か月後に胚珠の中にある卵に受精させると胚ができ、それが育つと種子になる。しかし、タイミングが少しでもずれれば成果はゼロだ。種子はできず、次世代の子孫を残せない。雄木と雌木の絶妙の同期作業が自然淘汰によって調整し尽くされてきたことは想像に難くない。(『イチョウ 奇跡の2億年史』p.82)

 このように、いっせいに花粉が舞い散り、風に乗ってすぐさま胚珠に取りこまれるという見事な斉一性は、秋のその落葉においても、際立っています。
 イチョウがその黄金色の葉を、晩秋のある日いっせいに落としてしまうことについて、アメリカの桂冠詩人ハワード・ネメロフは次のような詩を書きました。(同書p.55)

   合意

十一月下旬のたった一日の
まだ凍えるほど寒くない夜に
イチョウの木々はいっせいに葉を落とす
雨でも風でもなく、時だけに合わせるように
きょう、芝の上に散乱する黄金の葉は
きのうは枝の上ではためく光の扇であったのに

星からどんな合図が来るのだろう
木は何をもって決断を下すのだろう
葉を襲い、葉を落とせという合図に
反抗すべきか降伏すべきかという決断を
だが、それが定めなら、免れることなどできようか
時が教えてくれることを知って何になる
さ、いまだ、と星が命じてくれるなら

 かくして一挙に敢行されるイチョウの落葉の鮮やかさから、私はさらに宮澤賢治の童話「いてふの実」も連想しました。
 賢治初期のこの短篇は、東の空に「優しい桔梗の花びらのやうにあやしい底光り」が現れてから、「突然光の束が黄金の矢のやうに一度に飛んで来る」までの、夜明けの短時間を描いたお話です。イチョウの雌木に生まれた千の種子たちは、母なる木とお互いの別れを惜しみつつ、しかし時が来ればやはりいっせいに、未知の世界へと旅立つのです。

 突然光の束が黄金の矢のやうに一度に飛んで来ました。子供らはまるで飛びあがる位輝やきました。
 北から氷のやうに冷たい透きとほった風がゴーッと吹いて来ました。
「さよなら、おっかさん。」「さよなら、おっかさん。」 子供らはみんな一度に雨のやうに枝から飛び下りました。(「いてふの実」)

 いったいイチョウの木が、何をもって種子を落とす「決断を下す」のか、果たしてネメロフが想像したような「星からの合図」によるのかわかりませんが、賢治の童話に出てくる若い種子たちも、それを「定め」として巣立っていくのです。

 この本は、一つの生物種の2億年の歴史が、上のような命がけの一瞬の積み重ねによって形作られていることを、教えてくれました。
 イチョウに関する生物学、古生物学の知見、イチョウをめぐる古今東西の文化や人間との関わり、そして地球における生物多様性の意味についても、包括的に記された一冊です。

Ginkgo Biloba

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2014年12月30日 9月に比叡山でお話ししたこと(2)

 前回に続き、この9月の賢治忌法要の時にお話しさせていただいた内容です。3.(5)の内容は、以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」として掲載した記事と、一部重複します。

3. 解離という視点

(1) 柴山雅俊著『解離性障害』
 今日はここに、1冊の本を持って来ました。柴山雅俊さんという精神科医が書かれた『解離性障害』という新書本で、タイトルの「解離性障害」という、現代において注目されている一群の精神疾患について、一般向けに解説したものです。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書) 解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)
柴山 雅俊

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 この解離性障害という病気は、昔から知られてはいましたが、従来は比較的珍しいものとされ、精神科の医者をやっていても実際にその患者さんにめぐり会うのは、一生に1人か2人と言われていました。それが、近年になって驚くほどその数が増加して、いろいろと話題に上るようになっています。

 その「解離性障害」というのはどんな病気かということですが、いきなり全体像をご説明しようとすると、ちょっとぼやけてしまってイメージが湧きにくいかと思いますので、まずその最も代表的で極端な状態を挙げてみましょう。
 『ジキル博士とハイド氏』という小説がありますが、この物語の題材となっている「多重人格」という状態がそれです。このような状態においては、一人の人間の中に全く異なった別々の人格が形成されて、それが時によって勝手に出てきて行動をしてしまう、という現象が起こります。いったいなぜこんなことになるのでしょうか。

 誰しも、心の中に相反する要素を抱えているということはあるものです。たとえば、「勉強をしよう」という気持ちと「遊びたい」という気持ちが葛藤するというのはごく普通のことですが、たとえ相反する気持ちでも、心の中で相互にきちんと繋がっているおかげで、どちらにしようかと人は「悩む」ことができるのです。
 ここでもしも、この二つの要素が、心の中のバリヤーで完全に切り離されて繋がりを失ってしまうと、「とにかく勉強するくそ真面目な人格」と、「遊んでばかりの放縦な人格」とに分裂してしまうことになります。そして、各々の人格が時によって勝手に現れるだけで、意識的に悩んだりコントロールしたりすることが、できなくなるのです。
 このような状態が「多重人格」であり、そのメカニズムを説明する「解離」という言葉は、心の中の要素が、相互にバリヤーで「切り離されている」という事態から由来しています。

 20世紀の終わり頃からまずアメリカで、次いで日本でも、それまでは精神科の医者が一生に1人か2人見る程度と言われていた多重人格の患者さんが、かなりの数で医療機関を訪れるようになりました。そのように増えた原因は、社会環境の変化などにあるとも言われていますが、解離性障害が注目を集めるに従い、その背景にある「解離という心理現象」が、より詳細に研究されるようになったことにもよります。
 以前は、「多重人格」や「健忘」(いわゆる記憶喪失)などに限定して用いられていた「解離」という概念が、より広い意味で使われるようになってきたのです。そのような変化が、「解離性障害」という疾患群の裾野を大きく広げ、従来ならば解離として取り扱われてこなかった病状も、解離性障害として分類されるようになりました。

 ここにお持ちした柴山雅俊氏の『解離性障害』という本でも、どちらかというとその幅広い「裾野」の方が詳しく紹介されているのですが、ところで私が今日この本をここに持って来た理由を申し上げますと、実はこの本の第四章は、まる一章を割いて、宮沢賢治の作品や心性について、解離性障害との関連から分析を行っているからなのです。
 以下、まずは柴山雅俊氏の本に従って、賢治の作品に現れている「解離」的な現象を見てみましょう。

(2) 賢治作品に見る解離症状
 柴山雅俊氏もきっと宮沢賢治がお好きなんだと思いますが、この本で柴山氏は、賢治の作品において描写されている特異な現象をいくつも取り上げ、これが「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」という4種類の解離症状に相当すると述べておられます。

図22
(図22)

 まず、「離人症」の例として挙げられているのは、すでに前半部で「自己の消滅」の例として(図14)で挙げたと同じ、「ぼんやりと脳もからだも/うす白く/消え行くことの近くあるらし」や、保阪嘉内あて書簡の「われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。…」という一節です。
 このように、自分自身の存在が現実ではないように思えたり、「自分がここにいる」という実感が失われたりすることを、医学的には「離人症」と呼びます。この離人症も、解離という現象の一種です。

 次の「体外離脱体験」というのは、自分の魂が体から外に出てしまうという感覚のことで、柴山氏は「インドラの網」という童話の、「そのとき私は大へんひどく疲れてゐてたしか風と草穂との底に倒れてゐたのだとおもひます。その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずゐぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやってゐました。」という一節を挙げておられます。自分の体から抜け出した「私」が、その抜け殻の体に挨拶しているというわけですね。
 あるいは、(図18)で引用した書簡の、「ある日の午后私は椅子によりました。ふと心が高い方へ行きました。」というところも、典型的な体外離脱でしょう。

 三番目の「表象幻視」というのは、心の中に存在するイメージ(表象)が、まるで現実の存在のように、目の前にありありと見えるという現象です。詩「小岩井農場」には、「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる/ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り/またほのぼのとかゞやいてわらふ/みんなすあしのこどもらだ」という箇所があります。農場を歩いている賢治には、後ろを歩いている素足の子供たちの姿が見えたのです。
 また、『春と修羅 第二集』の「塚と風」という作品には、「髪を逆立てた印度の力士ふうのものが/口をゆがめ眼をいからせて/一生けんめいとられた腕をもぎはなし/東に走って行かうとする/その肩や胸には赤い斑点がある」という一節があって、この時の賢治には、「体に赤い斑点のあるインドの力士」などという摩訶不思議な存在も見えたようです。

 最後の「気配過敏症状」というのは、誰もいないところにまるで人がいるような「気配」を強く感じてしまうことで、若い頃の短歌の「うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり」や、「ブリキ鑵がはらだゝしげにわれをにらむつめたき冬の夕暮れのこと」などという作品に表れています。背後の湖やブリキ缶などという無生物に睨まれているという「気配」を、賢治はこの時ありありと感じたのです。

(3) 解離という心理機制
 このように、「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」という症状を並べてみると、一見何のつながりもないように思えます。また、これらは最初に解離の典型像として挙げた「多重人格」とも全く異なっていますから、これらをまとめて「解離症状」と呼ぶと申し上げても、ちょっと理解しにくいかもしれません。
 そこで、これらを束ねている「解離」という心的現象の概念について、ここで簡単にご説明をしておきます。

 人間の「精神」というのは、その複雑で巨大な全貌はまだとても解明されてはいませんが、それでも一人の人間の「精神」は、何らかの「まとまり」を持って働いているということは言えるでしょう。
 今、皆さんの目には、この会場の照明や、スクリーンに映ったスライドや、前の人の背中や、いろいろな物が見え、耳には私の声や、エアコンの音や、隣の椅子のきしみや、様々な音が聞こえ、またさっき頂いた昼食の満腹感や、軽い眠気や、椅子の座面や背もたれの感覚など、たくさんの刺激を感じておられるでしょう。
 これらは、四方八方や自分の内側から、てんでばらばらにやってきて、相互に無関係なものも無数にありますが、皆さんの各人にとっては、「私の」感覚として一束にまとめられています。

 このように「知覚」された内容は、皆さんの中で大まかにいったん「統合」されているわけです。同じように、頭の中で考える様々な内容も、「私の」考えとしてやはり「統合」され、あと、「記憶」や「意志」や「感情」なども同様です。また人間の「意識」というものを、これらの要素が様々に活動する舞台であると考えれば、私の「意識」というものもまた、「私」のもとに「統合」されています。

 人間の精神活動というのは、このように何らかの仕方で「統合」され、一定の組織だった働き方をすることによって、うまく機能しているのだと言えますが、時にこの「統合」の機能が低下し、各々の働きが「ばらけて」しまうことがありえます。このような「精神機能の統合性が低下した状態」のことを、広い意味で「解離」と呼ぶのです。

 解離によって引き起こされる病的な症状の中で、臨床的によく遭遇するのは、「健忘」と言って、本来ならば憶えているはずの事柄が思い出せなくなる現象です。
 例えば、物凄く恐ろしい目に遭ったという体験などは、普通ならば忘れるはずはありませんが、その際にあまりの恐怖や衝撃を受けた場合には、出来事の一部あるいは全部を思い出せなくなるということがあります。これは、本来ならば「私の記憶」として脳の中に統合され保存されている情報の中で、その出来事の記憶だけが一種のバリヤーによって隔離されてしまい、「私の意識」がその領域にアクセスできなくなっていることが原因です。その記憶だけが、他から「切り離されている」という意味で、「解離」の一種なのです。

 最初に例に挙げた「多重人格」というのは、これよりさらに大がかりな解離です。この場合は、「記憶」だけでなく「意識」や「知覚」や「思考」や「感情」や「意志」までも、通常言われる「人格」全体が、バリヤーによっていくつかに切り離されてしまうために、それぞれが別個の人間であるかのように行動を始めてしまうのです。

 「健忘」や「多重人格」などの解離症状は、このように心の中に一種のバリヤーができてしまうことが特徴で、これを「区画化」と言います。
 これに対して、「区画化」を伴わない解離症状もあって、それが先に挙げた「離人症」とか「体外離脱体験」など、宮沢賢治に特徴的に見出されたものです。

 例えば「離人症」においては、人が通常ならば自分自身にぴったりと身に付けて感じている「現実的な存在感」が、まるで自分から離れてしまったかのように感じられます。賢治の、「ぼんやりと脳もからだも/うす白く/消え行くことの近くあるらし」という描写は、まさに私たち精神科医が診察室で耳にする言葉そのもので、たとえば「脳が無くなった」と表現する患者さんがあったり、「自分は、感じることも考えることも、何かしたいと思うこともなくなった」と言う人もあります。それでもご本人はこのように正しい言葉でしゃべれているわけですから、認知症の場合のように、本当に考えられなくなっているわけではありません。
 通常ならば、自分の存在感や、知覚、思考、感情、意志などが、「私」という自我のもとに統合されているはずのところ、その統合性が低下して、自分のものでないような感覚になってしまっているのです。

 このような感覚は、多くの人にとってはぴんと来ないかもしれませんし、「現実的な存在感とやらが薄れても、それで何か困るの?」と思われるかもしれません。しかしこれは、その本人にとっては非常に苦痛の大きな症状で、苦しさに耐えかねて自殺を考える人さえあるほどなのです。きっと賢治も、「…消え行くことの近くあるらし」の短歌を作った際には、相当の苦しさを抱えていたのではないかと思います。

 次に、「体外離脱体験」というのも、通常は自分の「身体」としっかり統合されているはずの「自己」の意識が、その身体との間の紐帯がほどけてしまって、ふらふらと離れてしまうと言うべき現象です。やはり精神機能の「統合」が低下しているという意味で、「解離症状」の一つなのです。

 そして、これらの「区画化」を伴わない解離現象は、自分の「意識」が何か通常の状態から変化してしまったという感覚を伴うため、まとめて「意識変容」あるいは「変性意識状態」と呼ばれることもあります。一般に知られているその例としては、夢のような恍惚とした意識となる「トランス状態」とか、シャーマンやイタコに見られる「憑依現象」なども、これに含まれます。

 宮沢賢治が描写している様々な特異体験は、こうやって見ると解離症状の中でも「意識変容」と呼ばれるものが主体です。前半で詳しく取り上げた「自我境界が薄い」という特徴も、あらためて解離という視点から見れば、意識変容の表れであると考えることができます。
 すなわち、「自他の区別」とは、「自分のことは自分と感じ、自分でないものは自分でないと感じる」という、まるで同語反復のような当たり前の感覚に基づいていて、これは一般の人にとっては、「それ以外にあり得ない」ほど自明の事柄です。しかし、人はどうやって「自己」と「非自己」を分けているのかと言うと、それは先述のように、赤ん坊が生後6ヵ月の間に身に付けた「自我境界」という心理的なメカニズムのおかげなのです。
 自我境界の内側から来る知覚をまとめて、「自己」の標識のもとに束ねている統合機能が、何らかの理由によって低下すると、たとえば種山ヶ原における賢治のように、この大地や空や雲も含めて「ぜんたいがわたくしなのだ」と感じることともなるのです。

図23
(図23)

(4) 解離性幻聴の特徴
 賢治の作品に描かれた特異な体験を、いくつか精神医学的な視点から見てきましたが、あと「幻聴」という現象を取り上げて、この項目を終わりたいと思います。
 「幻聴」というのは、実際に物理的には何の音もしていないのに、声や音が聴こえるという体験で、賢治の作品にはこれがしばしば登場します。「比叡(幻聴)」とか「鬼言(幻聴)」というように、タイトルに「幻聴」という言葉の入った詩もありますし、友人の森佐一から雑誌掲載のための作品を求められた際には、「スケッチ二篇お送りいたします…幻聴や何かの入らないすなほなものを撰びました」と書いており、賢治自身もその体験を「幻聴」と自覚していたことは明らかです。

 精神医学の領域で、「幻聴」という症状が最も典型的に現れるのは、統合失調症という疾患です。このため、賢治が統合失調症に罹患していたのではないかという説を出した精神科医も過去にはありましたが、現在ではそのように考えている人はいないようです。
 賢治の作品に登場する幻聴を詳しく検討してみると、それは統合失調症において現れる幻聴とは、特徴が異なっています。上にも触れたように、賢治は自分の体験している幻聴が現実の声ではなく「幻聴である」と認識していましたが、統合失調症の場合は、本人はそれが自分だけに聴こえている幻聴とはわからず、本当に誰かがしゃべっているのだと信じてしまいます。また、統合失調症の幻聴の内容は、その人を迫害するような内容が大半で、それが種々の被害妄想に発展するのが一般的ですが、賢治においてはそのようなことはありませんでした。さらに、統合失調症の幻聴においては、本人にとって思いもよらなかった未知で意外な事柄が聴こえることがよくありますが、賢治の場合は彼自身の思考や表象と連続した内容でした。

 では、賢治が体験した幻聴を医学的にはどう理解したらよいかというと、上に挙げたような特徴は、いずれも解離性障害の人にしばしば認められる「解離性幻聴」と呼ばれるタイプの幻聴に、ぴったりと当てはまるものなのです。
 そこで以下では、解離というメカニズムによって、どのようにして幻聴という体験が起こるかということを、その現象の詳細な描写を含む「青森挽歌」という作品を題材に、考えてみましょう。

図24

(5) 「青森挽歌」における幻聴と複数の主体
 「青森挽歌」という詩は、賢治が最愛の妹トシを亡くした翌年に、トシの魂の行方を求める思いを胸に、サハリンまで一人で旅をした時の作品です。賢治の心には、妹の死をめぐって様々な思いや声が去来するのですが、賢治はその詳細を、実に緻密な手法で書き記しています。ここで、その方法の一端を見てみましょう。

 賢治が「青森挽歌」で用いた表記上の工夫の一つは、詩のテキストを構成する「地の文」の合間に、「一重括弧( )」および「二重括弧《 》」で括られた字句を挿入するという方法です。
 この記法の意味としては、「地の文」が作者の「顕在意識」を表し、「一重括弧」と「二重括弧」は、より深いところの「潜在意識」から由来する言葉を表していると、考えることができます。
 そのように考えられる理由は、「青森挽歌」で用いられているもう一つの表記上の工夫に関連しています。この作品では、テキストが書き出される位置が様々に「字下げ(インデント)」をされているのですが、この「字下げ」の深さが、顕在意識から潜在意識に至る「意識の奥深さ」に対応していると考えられるのです。これについて、具体的に見てみましょう。

 「字下げ」が最初に現れるのは、テキストの3行目「(乾いたでんしんばしらの列が…」からの一重括弧に括られた4行で、ここは頭から4字下げられています。その後もこれと同じく、「一重括弧」で「4字下げ」された字句が、10行目の「八月の…」および17行目からの「その大学の…」と、2ヵ所続きます。
 ところが、29行目の「(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)」は、それまでよりも1字浅くなって、「3字下げ」になっています。また、その後37行目からの「(考へださなければならないことを…」と46行目からの「(おゝ おまへ せはしいみちづれよ…」も、やはり「3字下げ」です。
 そして、60行目からの「(草や沼やです…」や、80行目の「《耳ごうど鳴ってさっぱり聞げなくなったんちゃい」に至っては、「2字下げ」になっています。すなわち、冒頭からこの箇所まで、「字下げ」はだんだんと少なくなってきているのです。この特徴的な文字配置には、どういう意味があるのでしょうか。

 私の考えでは、この「字下げの減少」の意味は、31行目〜32行目の「こんなさびしい幻想から/わたくしははやく浮かびあがらなければならない」という言葉によって示されていると思います。
 すなわち、ここで作者は、考えが意識の奥深いところに幻想的に沈み込んでしまっている状態から抜け出そうとして、自らを「浮かびあが」らせようと努めているわけですが、実際にこれに伴って自分の想念が、意識の表層部へと徐々に浮上してきている様子を、「4字下げ」→「3字下げ」→「2字下げ」という形で、ここに書き表しているのだと思うのです。
 つまり、字下げの深さは、意識の深さに対応していると考えられるのです。

 次に、「一重括弧( )」と「二重括弧《 》」の意味について考えてみましょう。既に述べたように、これらはいずれも作者の奥深い「潜在意識」から湧き上がってきている言葉だと思われます。そして、その口調や意味内容がかなり異なっていることから、両者は潜在意識の中でも別々の「場所」から発せられているのだろうと推測されます。
 それでは、一重括弧と二重括弧は、単にその「場所の違い」を表しているだけなのでしょうか。

 「青森挽歌」において、一重括弧の言葉を発している意識の「場所」に関する一つの情報は、37行目〜39行目の箇所から読みとれます。
 すなわち、ここでは「(考へださなければならないことを/わたくしはいたみやつかれから/なるべくおもひださうとしない)」と述べられていて、この言葉を発している主体は、自ら「わたくし」と名乗っているのです。この「わたくし」は、作品の「地の文」を構成している作者の「顕在意識」と同一の主体でもあり、この両者が心の中で位置する場所は、いずれも自我が「わたくし」として認識する場所、すなわち前半でご紹介した言葉で表せば「自我境界の内側」であると言えます。

 この状態を卑近な例に置き換えると、例えば顕在意識で「昼ご飯は何を食べようか」と思った時に、「ラーメンにしよう」「いやカレーの方がいい」とか、潜在意識からいろんな意見が出てくるということがあるでしょう。
 これらは、心の中のいろんな所から勝手に発せられますから、自分という一人の人間の気持ちでありながら、互いに相反するものもあるでしょうが、たとえラーメンであろうとカレーであろうと、それは「わたくし」の気持ちであることに違いはありません。その気持ちが「自分の中から」出てきていることが、自分でわからなくなるということはないのです。

 「青森挽歌」における一重括弧の言葉も、地の文より奥深い潜在的な意識の表現ではあるでしょうが、その主体は、「わたくし」なのです。そしてこの潜在意識は、心の中で「自己」として感じられる領域である、「自我境界の内側」に位置しているのです。

 しかし、二重括弧で括られたの言葉の様相は、これとは大きく異なっています。本文48行目に、「《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》」として、この作品で初めて二重括弧の表現が登場しますが、これに続いてすぐ49行目では、一重括弧の言葉が「いきなりそんな悪い叫びを/投げつけるのはいったいたれだ」と応答します。
 ここで明らかになっているのは、一重括弧の主体には、二重括弧の主体が「いったいたれ」なのか、わかっていないという事実です。一重括弧の主体にとっては、「《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》」という言葉は、「叫び」のように、「いきなり」「投げつけ」られるかのように出現したのです。
 すなわち、これは一重括弧の意識にとってはどこか知らない「外部」から到来した言葉として体験されており、精神医学的に言えば、これこそが「幻聴」と言うべき現象です。その言葉を発したであろう主体は、「自己」と感じられる領域の内部には存在しません。つまり、「自我境界」の外側からやって来たのです。

 これを、図を用いて説明してみましょう。下の(図25)で、顕在意識において「今日のお昼ご飯は何にしよう」と考えた時に、たとえば潜在意識Aは「ラーメンがいい」と言い、Bは「カレーが食べたい」と言うなど、潜在意識の方から浮かび上がってくる言葉があります。

図25
(図25)

 このように、自分の中で交わされる言葉のことを「内言」と言いますが、右図で「潜在意識A」と「潜在意識B」は、それぞれが「顕在意識」との間で内言をやり取りしているわけです。
 ここで重要な特徴は、ラーメンを推す意見もカレーを推す意見も、どちらも「自分の気持ち」であり、それらの言葉はあくまで「自分の内側から」やって来ていると、顕在意識は感じているところです。すなわち、潜在意識AもBも、「自我境界」の内側に位置しているのです。

 次に、「青森挽歌」のテキストの構造を見てみましょう。

図26
(図26)

 まずここでは、「地の文」が作者の顕在意識を表していると考えられます。また作者は「一重括弧」で括られた言葉を受け取りますが、この言葉を発する主体も、作者である「わたくし」の一部であり、これは顕在意識からは「内言」として、ラーメンの例と同じように体験されていることになります。すなわち、どちらの意識も「自我境界」の内側に位置しています。

 一方、「二重括弧」で括られた言葉は、「一重括弧」の潜在意識にとっては、誰がどこから発したものなのかわかりませんでした。すなわち、この言葉を発した潜在意識は、「自我境界」の外側に位置しているのです。

 そしてこれこそが、「解離性幻聴」という現象が起こるメカニズムなのです。
 一般に、解離性幻聴が最も顕著に現れるのは、「多重人格」の人においてです。この場合は、Aという人格が表に出ている時に、Bという別人格が裏の方で言葉を発すると、A人格にとってそれはまるで外部から誰かがしゃべっているように、「幻聴」として体験されます。
 他人から見たら、一人の人間の心の中で起こっている現象でも、Aという人格の自我境界の外部で起こっている言語活動は、Aとしてはまるで「外界」の現実の声を耳で聴いたように感じられるのです。

 賢治の場合は、多重人格のように心の中に明確な「区画化」が生じているわけではありませんが、前述のようにもともと自我境界が薄く曖昧で、自我感情の上下に伴いその境界線は大きくなったり小さくなったり(時に消滅したり)することがあったと推測されます。
 「青森挽歌」がスケッチされた夜汽車において、賢治は眠気も感じていたでしょうし、昼間の作業の疲労もあったようですし、亡くなった妹のことを思うと気持ちも憂鬱になったでしょう。これらが相まって、自我感情が低下し、自我境界も収縮したために、自己の精神活動の多くの部分が、自我境界の外に取り残される状態になったと推測されます。
 そうなると、その自我環境の外の部分で考えられたことは、顕在意識にとってはまるで自分の外界から聴こえてきた声のように、幻聴として体験されることになったのだと考えられます。

 前半で、「非自己」の海に浮かぶ「自己」の島、という断面図によってご説明したように、多くの人はもともと自我境界が明確であるために、自我感情が上下しても自我境界の範囲はそれほど変化しません。従って、一般の人が「幻聴」の体験をするのは稀なことです。例外的に、普通の人でも眠りに入る間際などには、たとえば自分の名前が呼ばれるような「声」が聴こえる体験をすることがあり、これは「入眠時幻覚」と呼ばれます。覚醒レベルが低下して、平素の自我境界がごく一時的に曖昧になってしまう際に起こる現象です。
 しかし賢治は、普段から自我境界が曖昧であったために、何かふとした要因によって自我境界が収縮すると、幻聴を体験することがあったのだろうと思います。それが、様々な形で作品に書きとめられたのでしょう。

4.賢治の解離傾性の高さ

(1) 正常解離と病的解離
 以上、賢治の作品に記載されている特異な体験は、「解離」という心的機制によって包括的に理解できるということを、ご説明しました。前半で詳しく述べた「自我境界の薄さ」という特徴も、解離という現象として理解できることですし、それ以外にも柴山雅俊氏が挙げておられる「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」などは、現在の解離性障害の人にもしばしば見られる現象です。さらにまた多くの賢治の作品に記されている「幻聴」も、解離性幻聴としてよく理解できることを、「青森挽歌」を題材として見てみました。

 それでは、賢治は「解離性障害」という精神の病気に罹患していたのかというと、そういうわけではありません。前述したように、解離という現象には、精神内部に「区画化」を伴うものと、「区画化」を伴わず「意識変容」と呼ばれるものと、大きく分けて二種類があり、前者は病的な状態において認められるのですが、後者は健常者にもしばしば出現するのです。前者は「病的解離」、後者は「正常解離」と呼ばれることもあります。
 たとえば、意識変容の一種である「トランス状態」や「憑依状態」は、古今東西において宗教と密接に関連しており、そのような状態は宗教的に意味のある体験と見なされることはあっても、医学的治療の対象となることはまずありません。

 賢治の作品等に記載されている解離現象も、いずれも種々の「意識変容」の体験であり、「正常解離」として健常者にもよく起こるものです。賢治の作品や伝記的事項を見るかぎり、それ以外に明らかに病的な所見は認められず、結局これらの体験は、あくまで健常人に出現した解離現象だったと言えます。
 ただ、この種の体験は一般人にも認められるとは言え、本日も賢治の多数の作品から引用したように、彼がこれほど目まぐるしい体験を日常的にしばしばしていたとなると、やはりこれは稀有なことと言えます。

 医学的に正常範囲の解離現象であっても、それを頻繁に体験しやすい人から、ほとんど体験しない人に至るまで、かなり広い個人差があることが、わかっています。そして、解離現象を体験しやすい人のことを、「解離傾性が高い」と言います。
 この用語を使えば、「賢治は解離傾性が人並み外れて高い人だったのではないか」ということが推測されるわけですが、次にはこれについて考えてみたいと思います。

 現在ならば、解離傾性の高さを測定するための心理テストなども開発されているのですが、今となっては賢治にそういうテストを受けてもらうこともできません。
 しかしここで、賢治をめぐるある一つのエピソードが、この問題に対して興味深い示唆を与えてくれています。

(2) 「静座法」と催眠現象
 賢治は、盛岡中学の生徒だった16歳の時に、寄宿舎の近くで「霊磁療法院」なるものを開いている佐々木電眼という人に「静座法」を習うという体験をしています。この時、電眼氏の指導のもとに「静座」を行うと、「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態になったという旨を、父親に手紙で報告をしています。
 さらに賢治は、この「静座法」あるいは佐々木電眼という先生によほど心酔したのか、次の休みには電眼氏をわざわざ盛岡から花巻の自宅に連れてきて、父親と妹にも静座法を受けさせます。すると、「トシは見る間に催眠状態になったが、父親はいつまで経っても平気で笑っていた」ということです(宮沢清六『兄のトランク』)。

 さて、名前からしても何とも怪しげな電眼氏ですが、彼が賢治に指導した「静座法」とは、いったいどんなものだったのでしょうか。
 いろいろと当時の資料を調べてみると、賢治が行った「静座法」とは、1904年(明治37年)に岡田虎二郎という人が創始した、「岡田式静座法」だったと思われます。
 そのように推測される理由の一つは、この岡田式静座法は、全盛期には会員2万人を擁し、東京の百数十ヵ所で「静座会」が開かれるほどに隆盛を極めていたということにあります。
 さらにもう一つ、より興味深い特徴として、この岡田式静座法を行っている人は、座っているうちにしばしば「勝手に身体が動く」という状態に至ったと記されているからです。これは、賢治が記している「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態に相当すると思われるのです。

図27

 この現象について、当時の岡田式静座法の解説書である『岡田式静坐三年』(岸本能武太)という本には、次のように書かれています。

此の身體の動揺には、色々種類がある。手を動かす人もあれば、頭を動かす人もある。肩を動かす人もあれば、腰を動かす人もある。頭の運動にも、或は前後に或は左右に、種々の運動がある。手の運動にも、その通りで、縦に振るものもあれば、横に振るものもあるが、握り合せた儘の兩の手で、下腹をポンポンと打つのが、最も普通の形である。或は端座の儘で、にじり廻る人もあれば、ピョンピョンと飛び廻る人もある。懸け聲を懸けて叫ぶ人もあれば、又妙な聲を出して唸る人もある。其れも三十分なり一時間の間、同じ運動を反復する人もあれば、運動を種々様々に變更する人もある。忽ち静かに、忽ち騒がしく、いまは石地蔵の如く、次には夜叉の如く、千態萬状の動揺を演ずるは、是れ實に静坐會の實況である。

 岸本氏はこのような「静座会」の様子について、「多くの人々が頭を振つたり手を動かしたり、色々様々に身體を動揺して居るのを見ると、如何にも狐つきの寄り合ひの如く、氣違ひの集會の如く思はれる」とも述べていて、これはさぞかし壮観だったろうと思われます。

 これらの「動揺」現象について、岸本氏は『岡田式静坐法の新研究』という本の中で、「自分が意志の力で、勝手に身體を動揺させるのではなく、意志に關係なくして、身體が自然に振動する」こと、また「岡田式に於ける身體の動揺は無意志ではあるが、無意識では無い」ということを記しています。
 このような特徴を持った現象が、医学的にどう解釈されるかと言いますと、これは自己催眠現象の一種である「部分自動症」という状態の一種だったのだろうと推測されます。他に「部分自動症」の例としては、ペンを持ったら自分の意志と関係なく勝手に文字を書いてしまうという「自動筆記」という現象(宗教的な文脈では「お筆先」「神がかり」とも呼ばれる)や、昔子供たちの間で流行った「コックリさん」という遊びも、これに相当します。

 ということで、賢治が静座中に呈した「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態は、このような自己催眠現象だったと推測されるのですが、これは他の人が静座を行った場合の反応と比べると、どうだったのでしょうか。
 荒井倉三郎という医学士が1917年(大正6年)に著わした『實験 岡田式静坐法』という本には、「親しく岡田氏の指導を受けて、熱心に静坐を行つて居る人々の中にも、身體動揺の現象は、二三日にして起つた人もあれば、既に三年餘も熱心に行つて居ても些しも起らない人もある」ということが記されています。すなわち、「身体動揺」が早く起こる人の例として、「二三日」という期間が挙げられているわけです。
 となると、賢治が静座の指導を受けた初日に、「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態になったというのは、一般的に言って相当早い部類に属するのではないかと、思われます。

 すなわち、この「静座法」のエピソードから、「賢治は催眠感受性がかなり高い人だった」ということが推測されるわけです。

(3) 解離傾性の高さとその表れ
 一方、これまでの様々な実験によって、「催眠感受性と解離傾性は強い相関がある」ということがわかっています。つまり、催眠術にかかりやすい人というのは、解離現象も起こしやすいというわけです。
 これを前節の推定と併せると、賢治は、解離傾性もかなり高かっただろうということが、間接的に導かれます。

 となると、これは先ほどまで賢治の作品や人となりを見ながら考えてきたことと、一つにつながったわけです。
 彼に特有の表現を生んだ「自我境界」の薄さや、「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」「幻聴」などの所見は、医学的に言えば、彼が「解離現象を起こしやすい人だった」ということから来ていのだと、理解することができるのです。

 このことを足場にさらに連想を広げてみると、賢治は何かに感動すると目の前にいる人のことも忘れて「ホッホー!」などと叫んで走り出すということがしばしばあったということですが、こういう風に何かに心を奪われると他のことが眼中になくなり「心ここにあらず」という状態になることを、心理学的には「没入absorption」と言います。解離傾性の高い人は、この「没入」状態になりやすい傾向もあることがわかっています。
 また、自然に自分の中でどんどん空想を膨らませていて、気がつくとお話の世界に浸りきっている、というような状態になりやすい人のことを、「空想傾性fantasy pronenessが高い」と表現しますが、解離傾性はこの空想傾性の高さとも、相関していると言われています。賢治の作品世界の、あのファンタジーの豊かさを思うと、これも彼が生来の特性として、持っていた傾向だったのでしょう。

 「解離の起こしやすさ」という特徴は、賢治の人となりとして伝えられている他の様々な特徴とも、関連している可能性があるのです。

5.統合し制御する精神と解離し浸透する精神

 以上、宮沢賢治という人の心性の特徴について、精神医学的な視点も交えつつ、いろいろ考えてみました。
 賢治が、時に自己と世界が渾然と一体化するような恍惚を体験したり、また別の時には自己が消滅するような感覚を持ったり、また幻聴や幻視をはじめ様々な特異体験をしたり、ふと何かに没入してしまったり、ファンタジーの広大な翼を持つ人であったりしたということは、「解離」という人間の心性の一つの傾向が、様々な方向性において表れたものとして、理解することができるのではないかと思います。

 あと最後に、このように賢治において典型的に示されているような「解離」という人間の心性が、現代社会の中ではどのような意味合いを持っているのかということについて、考えておきます。

 「解離傾性の高さ」と関連した上記のような特徴は、周囲に対する感受性の強さや、環境から容易に感化されそれと一体化する傾向と、関連しています。
 これはこれで、感性が豊かな、ある種の「人間らしい」傾向ではあります。しかし一方で、もしも人がとにかく能動的であろうとして、そのために「自己」というものを一貫して変わらず保ち、自己に合わせて環境を操作しようとするならば、この種の傾向は、その目ざす方向性とは、反対を指向するものです。

 話の冒頭で、「人間という生き物は、世界の中に様々な垣根や境目を作りながら生きている」ということを申し上げましたが、個人や組織を守り、周囲の影響に流されずに何かを達成するという目的のためには、自らのアイデンティティを保つべき「境界線」を、しっかりと維持している必要があります。そして有能な個人や組織たるものとしては、環境からの入力情報を可能な限り集めて処理し、その状況における最適解を求め、その結果をやはり統制のとれた手段で出力することが、すべからく求められます。
 ここで、このようなタイプの適応戦略のことを、「統合し制御する精神」と呼ぶことにしてみましょう。

 19世紀から20世紀にかけて人間は、科学技術という統合的アプローチを用いて、自らを取り巻く環境を制御することに邁進し、輝かしい成果を収めました。日本では、明治維新以来「富国強兵」というスローガンのもとに国の力は集中され、第二次大戦後は「高度経済成長」がその目標に取って代わりました。
 このような精神が支配的である状況下では、「臨機応変」であるよりも、一貫して「ブレない」ことが評価され、自由奔放に行動するよりも、秩序だった動きの方が善しとされます。

 一方で、たとえば先の大震災の直後のような状況では、物や情報を流通させるための既存のラインは切断されてしまいますから、組織的あるいは統合的な活動は、麻痺してしまいます。各避難所に個別に送られてきた物資を、公平性の確保のためにいったん中央に集めてから再配分するなどというやり方は愚の骨頂ですし、何をするにも一々中央の指示などを待っていては埒が開きません。中央が事態を制御するのではなく、全ての末端において、個々に柔軟に臨機応変に、対処していくしかありません。
 ここでは、統合されているよりもバラバラである方が効率的であり、物や情報は中心部へではなく周縁部へと向かって行くことが求められます。
 このようなタイプの適応戦略のことを、「解離し浸透する精神」と呼ぶことにしましょう。

 「統合し制御する精神」と、「解離し浸透する精神」。
 相当わかりにくい呼び方で恐縮ですが、その趣旨は、一般に人間の精神活動の方向性として、このように互いに反対を指す二つのベクトルがあるのではないか、ということです。
 この二方向の精神は、どちらが正しいとかどちらが優れているとかいうものではありません。人間やその組織が動いている時、これらは互いに補い合って、「車の両輪」のように機能しているとも言えるでしょう。

 ただこれら二つは、相補的な関係にあるとしても、ある時代や状況においては、一方どちらかが優勢になるということはありえます。先に述べたように、「富国強兵」とか「高度経済成長」というような局面では、「統合し制御する」という指向性が重視されただろうと思います。
 一方、大災害後のような非常時には、「解離し浸透する精神」の方が価値を持つのではないかということを述べました。そう言えば、あの大震災の後に、全国的に宮沢賢治の作品や生き方が注目を集めるという現象がありましたが、これは単に賢治が東北の出身だったからというだけではなく、何か彼の人となりが、震災後の人々の共感を集めるところがあったからではないでしょうか。
 震災によって、私たちが平常時に依拠している考えや行動の基準が崩れたかに見えた時、人々は無意識のうちに、今回お話ししたような賢治独特の心性に、何か貴重な示唆を感じとったのではないでしょうか。

 下の(図28)には、「統合し制御する」という方向性と、「解離し浸透する」という方向性の、それぞれに関連すると思われる属性を、思いつくままに挙げてみました。

図28

 左側に並んでいるのは、概ね平常時における人間の生産的・建設的な活動に関係しているような属性です。左側のように、確固とした目的を持ち、周囲に流されず継続的に力を蓄え、その力によって周囲の環界をコントロールし変えていく人は、たいていの社会において評価されるでしょう。

 しかしこれとは逆に、自分が「世界に対して」何かを「成す」よりも、「世界からの」豊かな恵みを「享受する」ことを喜び、環界を変えるより自らが変わることを尊び、己を開いて全ての存在を平等に受け容れる、という生き方もありえます。それは、物質的な「モノ」を生み出すわけではないかもしれませんが、これはこれでまた、目には見えない価値に満たされた「生」だと思います。
 そして、そのような方向性を代表する先達が、私にとっては賢治なのです。

 宮沢賢治という人は、生活の実用的な側面においては、あまり何かをきちんと達成したわけではありませんでした。長男として質屋の家業を継ぐよう親から求められながら、自分には才能がないと言って逃げてしまい、学校の教師も4年で辞職、百姓として働きながら農民との文化共同体を作ろうとした企画も、2年で頓挫しました。石灰肥料の技師兼セールスマンという最後の仕事も、数ヶ月しか続きませんでした。
 人並み外れた知性に恵まれながらも、それを何か一つの目標に集中するということはせず、「ブレない生き方かどうか」で評価するならば、落第点を付けざるをえないような人生でした。

 けれども私たちは、宮沢賢治という人は、そのような尺度で測れる存在ではないということを、知っています。彼が生きた方向性は、当時や現代の社会における支配的な価値観とは、対極的とも言えるものでした。
 そのために彼は社会において様々な苦難に直面したわけですが、逆に社会の方が困難にぶつかっている局面においては、賢治が残した足跡や作品は、私たちに深い示唆を与えてくれるのではないでしょうか。宮沢賢治という人は、科学を学び、それを生かして世の中を変えようと模索した人でもありましたが、その人間性の奥底には、そのような近現代の価値観とは対極的な、別の重要な方向性を胚胎していたのだということを、私はあらためて強く感じています。

 賢治のそのような側面について、言葉で適確に表現するのはなかなか難しく、今日のお話でも、まだ十分に言語化はできていません。残念ながら今のところ、力が及ばないようです。
 本当にわかりにくい話になってしまいましたが、長時間のご清聴を、ありがとうございました。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
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2014年12月14日 9月に比叡山でお話ししたこと(1)

 この9月に比叡山延暦寺で行われた賢治忌法要が行われた後、記念講演としてお話をさせていただいた内容を、ここに掲載しておきます。この話は、8月に東京の宮沢賢治研究会で発表させていただいたものと、概ね同じです。
 ちょっと長いので、今回はその前半部です。

0.はじめに

 今日は宮沢賢治さんの命日ですが、賢治さんゆかりの比叡山延暦寺において、この貴重な機会にお話をする機会を与えていただき、大変光栄に存じます。

 私は、普段は精神科の医者をしておりまして、全然宮沢賢治と関係ないことを仕事にしています。ただ、賢治の作品が子供の頃からとても好きでしたので、昔から彼の作品をあれこれ読んだり、また賢治ゆかりの地を訪ね歩いたりしていました。
 これらの趣味的な活動は、仕事とは関係なくやっていたのですが、一方で賢治という人について、彼は普段どんなことを考えていたんだろう、どういう思いでこの作品を書いたんだろう、とかいろいろ考えていくうちに、どうしても自然に精神科医という立場、職業的な視点からも考えてしまうところがありました。今日は、そういう中から出てきたお話をさせていただこうと思います。

 宮沢賢治という人は、一方では本当に努力の人、刻苦勉励の人だったと思います。亡くなる2-3日前にも、農家の人が肥料について相談に来た時に、すでに重篤な病状であったにもかかわらず、また家族が止めたにもかかわらず、長時間その人の相談に乗って、それが死期を早めてしまったのではないか、という話もあります。そういう風に、自分の命さえ省みずに「人の役に立とう」という仕事をした人ですね。とことん自分の力を振りしぼって、多方面の活動に邁進しました。
 しかしその一方で宮沢賢治という人は、ありきたりの言葉ですが、まさに「天才的な感性」を持った人でもありました。どうしてこんな風な言葉が書けるんだろう、どうしてこんな角度から世界を見ることができるんだろうとか、不思議なところが一杯あります。今まで他の人が全く使わなかったような言葉で世界を描写しつつ、またそれが「言われてみれば確かにそうだなあ」という感じの表現でもあって、このあたりになると単なる「努力の人」という範疇を超えて、まあ本当に常人離れした感性としか言いようがない部分が、どうしてもあるように思います。
 賢治ももちろん、私たちと同じように悩み、苦しみつつ生きた人ですが、このように他の人とちょっと違う形で世界が見えたり、物事を感じたりしていた部分もあるのではないか。いろいろな作品を読んでいると、私としてはどうしてもそういう感じがするのです。

 そういう部分について、今日は少し精神科医としての立場もまじえて、考えてみたいと思います。

1. 震災の夜に思ったこと

(1) 「世界ぜんたい幸福にならないうちは…」の本当の意味
 あの震災の夜のことから、話を始めさせていただきます。
 皆さんもいろんなところで3年半前の震災を体験されたと思いますが、私は京都におりました。このスライド(図1)は、震災の夜にNHKテレビで放送されていた映像です。

スライド1
(図1)

 3月11日の20時12分と書いてありますね。自衛隊のヘリコプターから、気仙沼市のあたりを撮影したもので、気仙沼市一帯が、このように津波に襲われ火事が起こって、炎に包まれています。私は震災の夜に、この映像を、まさに茫然として見ていました。
 「いったい何でこんなことが起こるんだろう」という以外に何の言葉も出ず、途方もない衝撃を受けていました。そして、いろんな思いが心の中で渦巻きました。
 一つは、これだけのことが東北地方で起こっているのに、今、自分は安全な場所でテレビを見ている。自分はここでこんな風に傍観していていいんだろうか、という気持ちにとらわれました。今まさに、たくさんの人が、これだけ大変な目に遭っているのに、自分だけがぬくぬくと暖かい部屋にいて許されるんだろうかなど、何か自分が被災者の人々に対して限りなく申しわけないような、一種の「罪悪感」が湧きました。
 それからもう一つは、自分に何かできることがあれば現地に行きたい、でも行くこともできない、今行っても大した役に立つこともできないという、自分に対する空しさを感じました。これだけのことが起こっているのに、自分には何もできないという、底知れない「無力感」です。

 こういう気持ちに渦のようにとらわれながら、私は茫然とテレビを見ていたのですが、この時ふと私の心には、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、浮かびました。これは賢治の「農民芸術概論綱要」という草稿の中にある言葉なんですが、なぜかこれが浮かぶとともに、私はこの言葉の本当の意味が、この時初めてわかったような気がしました。

 この言葉は、宮沢賢治が書き遺したものの中でも有名なもので、いろんなところでしばしば引用されます。これはとても賢治らしく、美しく崇高な言葉ですが、ただそれまで私にとっては、あまりにも自己犠牲的に思えて、ちょっと「しんどい」感じもしていました。
 この言葉は、「全体が幸せにならないうちは、自分個人が幸せになってはいけない、自分はならないんだ」と言っているように聞こえますし、あるいは「個の幸福」よりも「全体の幸福」が優先すると解釈すれば、「全体主義」を思わせるところもあります。ですから以前の私にとっては、これはとても立派ではあるけれども、一方で息苦しくも感じたのです。もしもこれを皆でスローガンのように奉じるとしたら、かなり抵抗感もありました。

 それが、たまたまこの震災の夜にテレビを見ている時に、この言葉の本当の実感というか、今までは分かっていなかったその意味が、ありありと自分に立ちのぼってくるように感じたのです。
 私のその時の感覚を言葉にすると、「この全ての被災地の、全ての被災者にに安寧が訪れないかぎりは、私自身の安寧もあり得ない」、というような感じでした。今思えば何とも力み返ったような考えですが、実際この晩には、そんな感じがしていたのです。そしてこれが、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉への連想に、つながりました。

 そこではたと気づいたのは、宮沢賢治という人は、まさに今の自分のような気持ちを終生にわたって抱えつつ、生きた人だったのではないかということでした。つまり、私のような凡人は、大震災の夜という非常事態に置かれて、そこで初めて普段と違う感覚で、自分と世界との間のこのような特別な関係を感じとり、それはまた時間とともに薄れていってしまうのですが、実は賢治という人は、普段からいつもずっとこういう感覚で、生き続けていたのではないでしょうか。

 そう考えれば、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉の意味するところが、私のような者にも具体的に実感できると思いました。

(2) 震災によって現出した「一体性」

 ではなぜ私は、ほかならぬ震災の夜に、こういう「宮沢賢治的」な仕方で、この「自分と世界との特別な関係」を、感じとることができたのでしょうか。
 私の考えるところでは、この賢治的な感覚が私に現れた原因は、震災や津波という莫大な自然の力が、人間が普段この世界に張りめぐらしている「境界線」というものを、一気に取り払ってしまったからだと思います。

 人間という生き物は、この世界の中に様々な垣根を、あるいは境目を作って生活しています。例えば、野原の中では雨も風もあり、寒かったり暑かったりしますから、人は「家」というものを建てて、屋根や床や壁で外界との間に境界を作り、自分たちが暮らしやすい環境を作って生活をします。しかし今回の震災では、そういう家々が地震で崩れ、津波で流されてしまったために、人は境界のない大自然の中に、いったん裸で投げ出されてしまいました。
 また人間は、海辺や川岸には、海や川の水を防ぐための「堤防」を築いて、人間の生活空間を守ってきました。しかし、これも津波によって押し流されてしまい、海と陸との境界が消滅してしまいました。
 さらに原子炉の圧力容器や格納容器というのは、生物にとって有害な放射能が周囲に漏れ出さないように本来は作られているものですが、これも震災と津波によって破壊され、原子炉の内部と外部の境界が一部で失われたために、今も続く深刻で悲惨な事態が起こりました。

 以上は、物理的な境界線に起こった出来事です。しかし問題は、物理的なものだけにとどまりません。
 震災や津波から避難してきた人々は、かなりの期間にわたって体育館などに設けられた「避難所」で生活することを余儀なくされました。そこでは、普通の住宅にあるようなプライバシーは保てず、全ての人々が分け隔てなく一体となって生活するしかありません。ここでも、普段の社会生活にある「境目」が、消滅したのです。
 また私が、被災地から遠く離れた場所で、見知らぬ人々に対して、「被災した全ての人々に安寧が訪れないかぎり、私自身の安寧もあり得ない」というようなことを思ったりしたのも、普段は物理的な距離や縁の薄さに隔てられている東北地方との間の「境界線」が、いったん心理的には消滅してしまったことによるのでしょう。
 震災と津波が、人間が普段設けている様々な「境界線」を一時的に消滅させてしまったというのは、こういうことです。

 人間が、物理的に自分の生活空間を守るためだけでなく、「プライバシー」という形で自分と他人の領域を分けて暮らしたり、ある程度までは「他人のことは他人のこと」として気にしないようにして生活しているのは、各々の心の安定のためでもあります。「この世の全ての人のことを、我がことのように考えましょう」というのは、建前としてはその通りですが、あまり他人の心配ばかりしていたのでは自分の身が持たないので、普段はみんな自分と他人との間には、一定の線を引いて暮らしています。
 そのような境界線が、震災によって一時的に失われると、人々は非日常的な「一体性」を獲得します。被災地から離れた場所でも、普段は仕事に追われている人が休みをとって被災地にボランティアに行ったり、これまで寄付などしたことない人が義援金を寄せたり、そのような姿が、全国のあちこちで見られました。普段から、事件や事故で人が亡くなったというニュースは数限りなく報道されていても、大震災はそれらとは違い、多くの日本人にとって「他人事」ではなかったのです。「これは皆で何とかしなければならない」という思いが、少なくともある時期までは、日本全体で共有されていたと思います。

 そして、私が先に「賢治的な感覚」と呼んだものの正体が、まさにこれなのだと思います。この感覚の中では、世界は様々な境界によって区切られてはいません。「個を超えた、世界との一体感」があります。
 一般人が、震災のような特別な非日常的状況において獲得するこの感性を、宮沢賢治という人は、いったい何の因果か、いつも常に身にまとい続けていたのではないかと、私は思うのです。その感覚のやむにやまれぬ表現が、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉だったのでしょうし、賢治の他の作品を見ても、彼が常々こういう風に感じていたということが、いろいろな形で表れています。

スライド4
(図2)

(3) 賢治作品に見る「個を超えた一体性」

 先に引用した「農民芸術概論綱領」の中には、「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」という言葉もあります。人間やいろいろな生き物が、別個にばらばらに存在しているのではなくて、一つの生き物になっていくということで、これも「個を超えた一体性」を表していると思います。

 あるいは、「小岩井農場」という詩は、賢治が広大な小岩井農場を訪ねて歩いている時の心象を描写したものですが、その中に、「ちいさな自分を劃ることのできない/この不可思議な大きな心象宙宇のなかで・・・」という一節があります。この宇宙全体に比べて、自分なんて小さなものですが、その宇宙における「自分」という存在は、他からそれだけを区切って取り出せるものではない、と言うのです。この小さな自分は、たとえちっぽけでも孤立しているわけではなくて、実は大宇宙と一体であるということが、「小岩井農場」のこの箇所で描かれていると思います。

 そして私が考えるには、これが大事なところなのですが、賢治にとってはこのような言葉で描かれている事態は、詩的修辞や想像力の産物ではなくて、本当に自分の実体験として、理屈抜きに感じていたことなのだと思うのです。
 賢治は自分の作品のことを「詩」と呼ばれるのを好まず、自ら「心象スケッチ」と呼んで、「ありのままをその通りに書いた」ということをあちこちで述べていますが、上のような感覚こそが、賢治にとって「ありのまま」だったのだと思います。

 結局、冒頭でご紹介した、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉の趣旨は、「個人の幸福よりも全体の幸福が先にあるべきだ」とか、「全体の幸福が実現されるまで個人は幸福になるべきではない」というような「べき論=当為」ではなくて、賢治にとってはまさに「あり得ない」という、不可避の「事実」だったのだと思います。「そうあるべき」とか「理想論」とか「信念」として言っているのではなくて、「望むと望まざるとにかかわらず、世界とはこのようなものだ」という、彼にとっての事実をありのままに述べたにすぎないと思うのです。
 喩えて言えば、人間の体というのは文字通り「一体」ですから、体全体は病気なのに、その中の一本の指だけが幸福であるということはあり得ません。体が全体として健康で平穏であって、初めて一本の指も、安寧でいられます。これと同じ意味で世界は一体のものであるというのが、賢治の基本的な認識だったのだと思います。

 先ほどの賢治忌法要において、延暦寺の横山照泰師の法話をお聞きしましたが、その際に「自他不二」という言葉をお教えいただきました。その意味は、「自己と他者は二つではない、一つである」ということでしたが、これはまさに今ここで申し上げているように、「自己と他者は別個にではなく、一体となって存在している」という宮沢賢治の感覚を、図らずも表現してくれている言葉だと思います。

2.賢治の心性と作品の特異さ

(1) 自己と世界の一体感の由来=自我境界の薄さ

 ということで、宮沢賢治には独特の「自己と世界の一体感」があったのだろうということを申し上げましたが、ではこの「一体感」というのは、いったいどういう性質のものなのでしょうか。私自身、精神科の医師という立場からも、これは関心を引かれる問題でした。

 この「自己と世界の一体化」とは、自分と他者との間の境目が薄らぎ、自分と他者、あるいは自分と世界とが、一体となり融合しているということですが、これと同じ感覚のことを、ロマン・ロランというフランスの文学者は、「大洋感情」という言葉で呼びました。
 ロマン・ロランは、「宗教の本質は何か」という問題について、精神分析学の創始者であるフロイトとの間で書簡を交わして議論をしたことがあるのですが、これはその往復書簡の中に出てくる言葉です。
 ロランよれば「大洋感情」とは、広い海のように「限界がない感覚」だということです。たとえば、自分が海に浮かんでいて、自分と海との間の境目がいつしか溶けてしまい、どこまでが自分でどこからが海という区別もなくなり、自分が広大な海そのもの(あるいは世界全体)に一体化している感覚、と言ってもよいでしょう。ロランはまたこれを、「永遠なるものの感覚」とも表現し、これが全ての宗教の根源にあると考えました。

 これに対してフロイトは、より即物的な自然科学的な立場からこの「大洋感情」を分析し、この感覚は、乳幼児期のまだ自他が未分化な段階への「退行」であると考えました。
 これについてちょっとご説明すると、生まれたばかりの赤ん坊というのは、「自分」と「他人」とを区別する認識を、まだ持っていないのです。まだ目の見えない赤ちゃんは、お腹が空いたら泣いて、すると口のあたりにおっぱいが現れるので、それを口に含んで吸ったら満たされる、ということを日々繰り返していますが、ここに現れるおっぱいというのは母親のもので「自分の一部ではない」とか、この口や自分の泣き声は「自分のものだ」とか、そういう区別はまだできないのです。そのうちに、一般に生後6ヵ月くらいになると、自分が自由に動かせる手足は「自分の一部だ」という感覚を持つようになり、一方で自分の自由にならないおっぱいや、その他のいろいろな外的存在は「自分ではない」ものだと認識するようになります。「自他の区別」ができるようになるのです。

 精神分析学の言葉ではこのことを、自己と他者との間に「自我境界」が形成されていく、と言います。文字通り、自分とそれ以外の存在との間に存在する見えない「境界」のことです。赤ん坊は、成長とともに徐々に「自我境界」を獲得していき、間もなく自分と他人の区別を間違えるなどということはなくなります。
 しかし一方で、大人になってからも時に幼少期の感覚が甦って、まるでその頃の段階に戻ったかのように感じたり振る舞ったりすることがあり、これを「退行」と言います。フロイトは、「大洋感情」を体験している大人は、まだ「自我境界」が形成されず自他が未分化だった乳幼児期へと一時的に「退行」して、自分と自分以外の存在が区別されず一体となっていた、太古の感覚を体験しているのだと考えました。

スライド6
(図3)

 大人においても「自我境界」が曖昧になってしまうような例として、フロイト自身が挙げているのは、恋人同士のような特別に親密な関係です。もちろん恋人のそれぞれも、各自が別の人格であるという自覚はありますから、自我境界が完全に消滅しているわけではありませんが、相手の喜びを自分の喜びと感じ、自分と相手の思いを重ね合わせようとするうちに、どこまでが自分でどこからが相手なのか、自他が渾然一体となる感覚が生まれるのです。ここでは、自我境界が薄くなってしまっています。
 母親と赤ん坊という関係においても、同じようにお互いがお互いの一部であるかのように感じつつ、生きている面があります。これは、子供が小さな赤ん坊である間は正常なことですが、子供が成長してからもこのような関係が続いてしまうと、その自立を阻害することもあります。
 また、大型のトラックなどを運転している時に、人間は気持ちが大きくなるということが言われます。この場合は、運転者の「自我」が自動車の大きさまで拡大しているということなのかもしれませんね。

スライド7
(図4)

 ということで、自己と世界とが一体化しやすかった宮沢賢治という人は、この言葉を用いて表現すれば、「自我境界が薄い人」という風に言うことができます。

(2) 自己の拡大・消滅

 さて、宮沢賢治という人が、普通の人よりも自我境界が薄かったとして、ではそれは彼の世界観に対して、どんな影響をもたらしたのでしょうか。

 「自我境界」というのは、「自己」とその外界との間を隔てている境界面というわけですから、それが「薄い」ということは、「自己と外界との区別が薄い」、ということになります。

スライド8
(図5)

 上のスライドのように表せば、「自己」というのは、この世界に浮かぶ一つの「島」のような存在です。周りを取り囲んでいるのは、自分ではない存在=「非自己」ですから、「自己」というのは、「非自己」という海に浮かんでいる島のようなものだとも言えます。
 上の(図5)では、「自己」と「非自己」との間には実線の境界線があり、両者は赤色と白色ではっきりと区別されています。これに対して下の(図6)では、自己を囲む線が点線になって「稀薄化」しており、その色としても、「自己」と「非自己」との差は、薄くなっています。

図6
(図6)

 次に、この「島」のように「非自己」の海に浮かぶ「自己」を垂直面で切ったと想定して、その断面図を考えてみます。
 下の(図7)が、その断面図です。

図7
(図7)

 これは一種のグラフのようなものと思っていただいたらよいのですが、横軸は、この「世界」の空間的広がりを表しています。縦軸は、右端に小さく書いてあるように、「自我感情の強度」というものを表しています。この「自我感情」という言葉について、少しご説明をしておきます。

 「自我感情」とは、「自我エネルギー」と呼ばれることもありますが、これもフロイトの言葉で、個人が、自分の「自我」に対して供給しているエネルギーのことです。
 と言っても何のことかわかりにくいと思いますが、人間は誰しも自分自身のことを「自分という存在」として自覚し、守り、支え、動かしています。そして、その活動を支えている動力として、何らかの「心的なエネルギー」が働いていると想定してみることができるでしょう。
 もちろん、これは外部から物理的に測定できるようなエネルギーではなくて、一種の比喩的な想定ですが、たとえば「自尊心」というのは、そのエネルギーのわかりやすい表現の一つです。自尊心を感じている時、人は自分で自分に対して、ある種のエネルギーを供給しているのです。このように明白な形だけではなくて、基本的には自分という存在が、この机や椅子や外界とは異なって、自分にとって唯一無二の「自己」として浮き出して感じられるのは、自分という存在に対して特別なエネルギーが供給され、自己としての特性を帯びているからなのです。

 一般に人間の活発さというものが、気分や体調によって高くなったり低くなったりするのと同じく、自我感情も、時により増大したり減少したりします。自我感情が高揚した時には、自分に力がみなぎり、自信にあふれて何でもできそうに感じたりもしますが、逆に自我感情が低下した時には、自分が取るに足りないちっぽけな存在に思えたりします。
 石川啄木の短歌に、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買い来て/妻としたしむ」というものがありますが、これなどは「自我感情の低下」の様子を表現している好例だと思います。もっともこの時の啄木は、妻だけは自分を支えてくれるだろうと思える程度には、まだしも自我感情が保たれていいたことが救いだったわけで、かりにそれがもっと低下しておれば、「妻からも軽蔑される」と感じたかもしれません。
 同じ頃の啄木には、「おほどかの心来れり/あるくにも/腹に力のたまるがごとし」とか、「腕拱みて/このごろ思ふ/大いなる敵目の前に躍り出でよと」という短歌もありますが、こちらの方はかなり自我感情が高揚した時のものでしょう。

 このような「自我感情」というものをグラフにしてみると、(図7)のように、この世界の中で「自己」が存在している箇所では、「これは私である」という自我感情がぐっと高まり、自己から離れると、すぐに低下する、という形になります。
 スライドの中央あたりの赤い水平線を境に、上が「自己」、下が「非自己」と書いてありますが、これが「島」にとっての「海面」のレベルを表しています。海面上に出ている部分が、その十分に強い自我感情によって「自己」と感じられる場所であり、水面下に没しているのは「非自己」です。
 そしてこれは全体として、非常に急峻な岩礁が、海面上に突き出ているような断面図になっています。この急峻さは、「自己」と「非自己」の間には自我感情の大きな落差が存在しているという一般的な事実に対応しているもので、言い換えればこれは、「自我境界が明確である」ということを意味しています。これが、自我境界の明確な、一般成人の「自己」の存在様式です。

 さて、このような「自己」において、「自我感情」が高まるとどのようなことが起こるでしょうか。それを表してみたのが、下の(図8)です。

図8
(図8)

 ここでは「島」が全体として地殻上昇して、より高く海面上に突き出ています。自己の内では高揚感や能力感がかなり高まっているわけですが、(図5-6)のようにこの「島」を上から眺めると、それが海面において占める面積は、さほど大きく変わってはいません。この図では、岩礁の根元の方が太くなっているために、少しだけ面積は大きくなっていますが、それでも高さの変化に比べたら微々たるものです。

 次に、逆に「自我感情」が低下した場合の様子が、次の(図9)です。

図9
(図9)

 「島」は、下の方に沈下して、その高さはかなり減少しています。少し波が高くなると、島の中心部にもしぶきがかかりそうです。
 しかし、この場合も「島」の面積は、さほど変わってはいません。上の場合と逆に、少しだけ小さくなってはいるでしょうが、それでも高さの変化に比べると、さほど大きな違いではありません。

 すなわち、「自我境界」が明確である場合には、「自我感情」が変化しても、「自己」の範囲や大きさは、さほど変化しないのです。これはまあ当然のことで、一般の大人は、心的なエネルギーが増大したり減少したりしたからと言って、自分そのものが大きくなったり小さくなったりしたように感じるわけではありません。

 一方これに対して、「自我境界」が稀薄化し、曖昧になっている場合を図にしたのが、下の(図10)です。

図10
(図10)

 先ほどと何が変わっているのかと言うと、「島」は低く、「海」は浅くなり、その高低差によって表していた「自己」と「非自己」の落差が、狭まっているわけです。
 このように形が変化しただけでも、「島」は波のしぶきをかぶりやすくなっているわけで、これは「自己」の中心部までもが、周囲の環境の影響を、より受けやすくなっていることを表しています。しかし、この種の「自己」の特徴がより顕著に表れるのは、自我感情が変化した時のことです。

 右の(図11)は、「自我境界」が稀薄であるような個体において、「自我感情」が高揚した時の様子です。

図11

 ここでは驚くべきことに、さっきまで「非自己」であった海の部分が消滅してしまい、全てが「自己」の色彩を帯びています。
 これはどういうことかと言うと、「世界」の隅々にまで「自己」が遍く充満して、世界中の全てが「自己」と感じられる状態、言い換えれば「自己」と「世界」が一体化した状態です。
 なかなか常人には、このような状態を実感できる機会は少ないでしょうが、これこそが、先に論じたロマン・ロランの言う「大洋感情」というものに相当するのではないでしょうか。自分が世界全体と溶け合う、「永遠なるものの感覚」です。

 そして、宮沢賢治の作品にも、このような自己と世界との一体感の描写が、いろいろと出てきます。その例を、右の(図12)に挙げてみました。

図12
(図12)

 まず最初のものは『春と修羅 第二集』に収められている「種山ヶ原」という詩の初期形の一部です。賢治が大好きだった高原を一人で歩いた時の描写ですが、「あゝ何もかもみんな透明だ/雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに/風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され/じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で/それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と謳っています。賢治は、高原の自然の中で全く恍惚として、光や風や水とまさに一体となって、溶け合っています。
 二番目の例は、『春と修羅』に収められている「林と思想」という作品です。ここでは自分が世界全体と完全に一体化しているわけではありませんが、「わたしのかんがへ」が、向こうの林へと「流れて行つて」「溶け込んでゐる」という体験が描かれています。賢治の心の活動は、周囲の自然と部分的に融合しています。
 三番目の「まづもろともに…」は、先にもいくつか引用した「農民芸術概論綱要」の一節で、これも有名ないかにも賢治らしい言葉です。「みんな一緒に宇宙の微塵になって、果てしない空に散らばろう」と仲間に呼び掛けているわけですが、あらためて具体的に考えると、いったい何を一緒にしたいのかよくわかりません。もちろん、文字通り自分たちの体を粉砕して撒布しようと言っているわけではないでしょう。
 結局これも、上の「種山ヶ原」のように、「自分自身がそのまま大宇宙と一体化するような、そういう境地へと、ともに至ろう」という呼びかけと解釈するのが、一番自然だろうと思います。もっとも、呼びかけられたからと言って、皆がそうできるわけではないでしょうが…。

 以上、自我境界が稀薄化している場合に自我感情が高まったら、「自己と世界の一体化」が起こるということをご説明しましたが、今度はそのような曖昧な自我境界の人において、自我感情が低下した際にはどうなるかということを、考えてみます。
 その様子が下の(図13)です。

図13

 ご覧のように、ここでは「島」の全体が海面下に水没してしまって、「自己」として表面に顔を出している部分は、なくなってしまいます。
 すなわち、ここにおいて本人にとって「自己」というものは、あたかも「消滅」してしまったかのように感じられるのです。
 これも、一般人にはぴんと来にくい感覚でしょうが、賢治の作品にはやはりこのような体験があれこれ出てきますので、その例を(図14)に挙げてみました。

図14
(図14)

 上の作品は、まだ中学生の頃に作った短歌ですが、自分の脳やからだが、だんだん「うす白く」「消え行く」ような感覚を詠んでいます。どんな感じだったのか想像してみるしかありませんが、とにかくこの時の賢治は、自分が消滅していくような感覚を抱いたのでしょう。
 下の長い文章は、高等農林学校を卒業した23歳の頃に、親友の保阪嘉内にあてた手紙の一節です。「われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。」という言葉が、激しく5回も繰り返されています。一般に宮沢賢治というと、穏やかな人徳者というイメージがあるかもしれませんが、若い頃にはこれほどの実存的な苦悩を抱えていた人でもありました。ここでは、自分という存在を突き詰めた挙げ句に、「われはなし」という心の叫びが綴られます。「すべてはわれにして、われと云はるゝものにしてわれにはあらず」という風に、全てが自己でありながら同時に自己ではないと述べているところは、まさに(図11)と(図13)で起こっている真逆の事態が、実は表裏一体であることを示してくれていると思います。

 以上お示ししたような賢治の作品の一風変わった特徴は、これまでも多くの方が指摘しているところです。
 たとえば下の(図15)は、佐藤通雅氏が、賢治短歌の特徴を分析した労作『賢治短歌へ』(洋々社)という本からの抜き書きです。

図15
(図15)

 佐藤氏が、賢治の短歌において「賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう」「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」と述べておられるところは、まさに私がこれまでご説明してきた「自己と世界の一体化」です。また、賢治の短歌において、「彼の<われ>の多様性は、方法としてでなく、<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる」と述べ、賢治の作品の特異さは、単に文学的な表現としてなされているのではなく、彼独特の<われ>のあり方そのものに関わっていると指摘しておられるところも、これまで述べた私の思いと一致します。
 そして佐藤通雅氏は、通常の一人称を解体していくような賢治のこの特異な<われ>のあり方を、<超一人称>の方向と呼んでおられます。

(3) 外的現実と内的心象の同一視

 さて、自我境界の薄さに由来する賢治の「自己」の独特さは、彼が精力的に展開した「心象スケッチ」という方法論の基礎とも、密接に関係しています。

 賢治が生前に唯一刊行した詩集『春と修羅』の序文には、この世界では様々な現象が生起するように感じられるが、詰まるところは「それらも畢竟こころのひとつの風物です」述べて、自らの『春と修羅』は、その現象を「そのとほり」に記録した「心象スケッチ」であると書いています。すなわちこれらの作品は、作者の「内的世界」の描写なのです。
 一方、やはり唯一刊行した童話集『注文の多い料理店』の序文には、「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」と書かれていて、こちらは逆に外的世界から「もらってきた」というのです。

図16
(図16)

 それでは二つの作品集は、正反対の方法論で作られたのかというと、もちろんそうではありません。賢治は、外の世界で起こる現象(外的現実)と、心の中で繰り広げられる現象(内的心象)とは同一のものと考えていたので、どちらを描いても、結局は同じことになるのです。

図17
(図17)

 これを常識的な認識論の立場から理解しようとすると、たとえば現実世界にある白い雲を見ると、心の中にも白い雲のイメージが生まれますから、外的現実と内的心象が「同じ」であるのは当たり前のことのように思われます。
 しかし賢治の認識は、そういうことではありませんでした。外界にある「本物の雲」と、心でイメージしているその「似姿の雲」とが「二重に」存在しているのではなくて、それらは本当は「ただ一つの現象」であるにすぎない、というのです。

 このことを、実際に賢治が書いたものから見てみましょう。

図18
(図18)

 (図18)の最初の例は、親友の保阪嘉内が盛岡高等農林学校を退学になった時に送った手紙ですが、親友が退学になったことと、自分が徴兵されたらシベリアで戦死するかもしれないということを取り上げて、「退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか」「保阪嘉内もシベリアもみんな自分ではないか」と言っています。退学になったとかシベリアで戦死するとかいう、現実世界の出来事は、「自分の中の現象」にすぎないと言うのです。これは退学になった親友を慰めるつもりで書いた手紙だったのですが、この言葉が果たして親友の慰めになったのだろうかというところが、ちょっと気になります。
 二番目の例は、「銀河鉄道の夜」の初期形に出てくるものですが、「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのだから…」と、ここでも同じような世界観が語られます。
 三番目の例は、やはり親友保阪家内あての手紙の一節ですが、上記のように自分の心の中に現れることと、現実の出来事が同一だという理屈で行くと、心でふとイメージしただけのことでも、それは現実に起こってしまうのではないかという、ちょっとオカルト的な事態になってきます。ここでは、椅子に座って「ふと心が高い方へ行」くと、虚空に巨きな人が横たわっているのが見えたが、その姿はちょうどその頃亡くなった盛岡高等農林学校の先生だったのだろう、と言うのです。賢治は先生の死を予知した、というわけですね。

 こういう風に、外的現実と内的心象とを区別せず単一のものとする考え方は、仏教的には「唯識」の思想にも通ずるところがあるでしょう。しかし、賢治は仏教を学んだために知性的にこう考えるようになったのではなくて、それよりも前から、理屈以前の感性として、このように考えていたのではないかと思われます。
 そして、賢治のこの独特な世界観も、先ほどからお話している自我境界の薄さということから、説明することができます。

 通常は、世界の中に自己がいて、世界には自己以外にも、生物・無生物含めていろいろな存在があります。下の(図19)のように、自己は、世界のごく一部にしかすぎません。

図19
(図19)

 しかし、賢治のように自我境界の薄い人は、時に自我感情が高揚すると、自己と世界とが一体化して融合するという境地に至ることがあります。
 その状態が、(図20)です。

図20
(図20)

 ここでは自己がはるかに拡大して、「世界=自己」となっています。そのために、普通は自己の「外部」にあって、自分とは別個に独立した存在であったものたちが、あたかも自己の内部に所属しているかのような状態になっています。
 ここでは、「外的現実」と「内的心象」という区別はもはや意味をなさなくなり、「心象」をスケッチすることが、取りも直さずそのまま「外的現実」を記述することになるのです。
 これこそが、彼が『春と修羅』において打ち立てた、「心象スケッチ」の方法論であると言えます。

(4) 小括

 以上、いろいろとお話してきましたが、いったんここまでのところを簡単にまとめておきます。

図21
(図21)

 宮沢賢治の作品や書簡に表れたその心性の特徴について考えてみると、彼は「自我境界が薄い」というタイプの人だったと思われます。これは、彼が意識的にそうしたとか、勉強してそのような感覚を身に付けたとかいうものではなくて、彼の天性のものだったのではないかと思います。そしてこの特徴が、彼の人間性や作品に、ある種の独特さを与えました。

 一つは、たとえば「種山ヶ原」の初期形に見られるような、自己と世界が一体化してエクスタシーを感じるような体験を彼にさせ、その詩的霊感の源泉となりました。そのような作品は、枚挙にいとまがありません。

 また一つには、この感性によって賢治は常に自己と世界とが不可分の一体であると感じていたために、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉に表現されるような、世界に対する独自の倫理的スタンスをとることとなりました。
 賢治の子供の頃のエピソードとして伝えられている話に、他の子が手押し車に轢かれて指を怪我した時に、思わず駆け寄って「痛かべ、痛かべ」と言いながらその子の指を口に入れて吸ってやったとか、小学校で先生に怒られて水の入った鉢を持って廊下に立たされている子がいると、重いだろうと同情してその水を飲んでしまった、とかいうものがあります。
 このように、理屈以前に「他人の痛みを自分の痛みとして感じてしまう」というところも、自我境界が薄く、自他を一体のものとして感じていたからでしょう。

 このような倫理的姿勢は、彼の宗教的な態度にも、大きな影響を与えたはずです。すなわち、信仰によって自分自身の極楽往生を願うという浄土教的な信仰に飽き足らず、全ての衆生の救済という理想へ向けて、自らを積極的に駆り立てる方向へと、彼を動かしたのではないでしょうか。つまり、このような性向は、青年期に彼を浄土真宗から日蓮宗へと転向させる動因の一つになった可能性があります。

 以上は主に、自我感情が高揚して自己と世界が一体化する傾向にある時に起こったことでしたが、時にエネルギーが低下した時には、賢治は自己が消滅するような感覚にとらわれることもありました。これは彼に苦しみを与えたようですが、これも自我境界の薄さのために起こってしまうことでした。

 また、自我境界の薄さは、外的現実を内的心象を同一視するという、独特の世界観の形成にもつながり、『春と修羅』において開花する「心象スケッチ」という方法論に結実しました。

 以上、震災の夜に感じたことをきっかけに、賢治の心性や作品を包摂的に理解すべく考察を行ってみましたが、次にはこれを精神医学的にもう少し広い視点からとらえてみたいと思います。

(後半に続く)

【参考文献】
ロマン・ロラン: 136ジークムント・フロイトに(1927年12月5日).『ロマン・ロラン全集』第36巻(みすず書房)
ジークムント・フロイト: 文化への不満.『幻想の未来/文化への不満』(光文社古典新訳文庫)
佐藤通雅: 『賢治短歌へ』(洋々社)

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
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