2018年5月20日 湯の島と青森大仏

 もう先月のことになりますが、青森県の浅虫温泉に行ってきました。
 この温泉から目と鼻の先の、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」は、賢治が農学校の生徒たちを引率して北海道へ行った修学旅行の帰りに「〔つめたい海の水銀が〕」という作品で、東北本線の車窓から眺めて描いている場所です。「島祠」と題されていたその下書稿(二)においては、島のきれいな三角形の姿から「三稜島」と称されたり、「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という不思議な幻想の舞台ともされています。


 4月の中旬には、湯の島にカタクリの花が咲く時期に合わせて「かたくり祭り」が行われ、この期間中には島に渡る船が出るということを知ったので、賢治が「珪化花園」とも呼んだこの島に行ってみようというのが、私の今回の浅虫温泉行きの目的でした。しかし当日になると、強風のためあいにく船は欠航になり、残念ながら目の前の島へ渡ることはできず、涙を呑みました。

 渡航はかないませんでしたが、陸奥湾の海岸まで出て、湯の島をパノラマで撮影したのが、下写真です。画像下のスクロールバーを動かしていただくと、正面の「湯の島」も含めて、海岸の全景がご覧になれます。



 さて、陸奥湾岸で上の写真を撮影すると、8kmほど南西の「青龍寺」というお寺にある、「青森大仏」を拝観しに行きました。


 この大仏は、昭和59年に造立されたということで「昭和大仏」とも呼ばれます。青銅座像としては奈良や鎌倉の大仏よりも大きく日本一で、高さ21mあまりあります。

青森大仏

 ご覧のように、大仏は屋外に鎮座しているのですが、お寺へタクシーで向かっていると、かなり遠くからも宝塔を戴いたその頭部がちらちら見えてきて、だんだんと大きさを実感することができます。

 ところで私が、今回この大仏を見てみたいと思った理由は、これは私のまったく勝手な想定にすぎないのですが、青森の街の少し東に位置するその場所からして、これは「青森挽歌」の最後の場面で、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉が賢治の心に響いた時、彼が乗った列車がちょうど走っていたあたりなのではないかと、ふと思ったからです。
 もちろん、ここに大仏ができたのは1984年、賢治が列車で通過したのは1923年ですから、はるか昔のことなのですが、列車が青森駅に到着する直前に、突如として賢治に訪れたこの「啓示」の圧倒的な重さの背後に、私はかねてから、青森の空に浮かぶような何か非常に巨大な如来的存在を、感じていたのです。

 その後の賢治の死生観を決定づけ、「銀河鉄道の夜」にも結晶していくことになるこの「啓示」の場所に、60年も後になってのことですが、天に聳える大毘盧遮那仏が建立されることになったとは、何か不思議な縁を感じた次第です。

written by hamagaki : カテゴリー「賢治紀行
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年5月 1日 心象は異空間を写し、歴史は異時間を映す

 1925年12月20日付けの岩波茂雄あて書簡214aにおいて、賢治は前年に刊行した『春と修羅』に収めた「心象スケッチ」について、次のように説明しています。

わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。

 ここで当時の賢治が、何に対して「おかしな感じやう」をしていたのかというと、この文章によれば、それは「歴史やその論料」と、「われわれの感ずるそのほかの空間」という、二つの対象です。
 後者、すなわち「そのほかの空間」のことを、賢治は別の場所では「異空間」とも呼んでいます(思索メモ1「異空間の実在」ほか)。彼は、しばしば幻聴や幻視などの幻覚体験をすることがあり、その際に見聞きした体験内容は、「この世界」には実在しないものですが、賢治はそれを「そのほかの空間」=「異空間」に由来するものだと考えました。しかし、こういった幻覚はいつもあるわけではなく、ある時は見えても別の時には見えないものですし、またそんなものは全く見えないという人もあり、それは人間の認識の状態に依存した、はかなく「相対的」なものなのです。彼が、「そのほかの空間」について「おかしな感じやう」がすると述べたのは、こういう「空間認識の相対性」のことではないかと、私は推測します。

 他方、これに対して前者、すなわち「歴史やその論料」については、賢治はどう「おかしな感じやう」をしていたのでしょうか。こちらに関しては、『春と修羅』の「」が参考になると思います。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

 ここに用いられている「論料データ」という独特の用語が、岩波茂雄あて書簡と共通していることも、両者の論旨が一連のものであることを示唆していると思います。ここでは、「歴史」というものは、ただ「われわれがかんじてゐるのに過ぎません」と述べられており、賢治がここで言いたかったのは、客観的で変わることのない「不磨の大典」のように「歴史」というものが存在するのではなく、それぞれの時代から見たそれぞれの歴史が、「因果の時空的制約のもとに」、存在するに過ぎないのだ、ということでしょう。「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿で大きな帽子の人が言ったように、人間が考える「歴史」とは、時とともに変転していくものであり、所詮「相対的」なものなのです。

 すなわち、岩波茂雄あて書簡に述べられている賢治の「おかしな感じやう」の正体は、「時間認識=歴史の相対性」であり、「空間認識=心象の相対性」である、ということになります。
 さてここで、「われわれの感ずるそのほかの空間」のことを「異空間」と呼ぶのならば、「われわれの生きている今ではない、ほかの時間」のことを、「異時間」と呼んでみることもできるでしょう。そして、「異時間における出来事に関する認識の集成」が、いわゆる「歴史」に相当します。

 つまり、『春と修羅』の「」や、岩波茂雄あて書簡において賢治が述べているのは、「異空間および異時間に対する認識の相対性」と言い換えることもできるというわけです。

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

 この「」の結びの、「心象や時間それ自身の性質として…」という箇所は、アインシュタインの「四次元時空連続体」に基づくならば、「空間や時間それ自身の性質として…」と書いた方がより正確なように思えますし、またその認識の「様態」を指すのならば、上に見たように「心象や歴史それ自身の性質として…」と書く方が適当かとも思われます。
 ただ、この賢治の書き方からあらためてわかるのは、「心象」の持っている次元は、とりもなおさず我々の「空間」が有している三次元だ、ということですね。

 以上、まあ賢治にとっては、「心象」は異空間を写し、「歴史」は異時間を映す、ということだったのではないかと思います。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年4月22日 賢治の貴種流離譚

 折口信夫は、日本の神話や民話、物語などの構造を特徴づける一つの原型として、「貴種流離譚」という形を取り出してみせました。
 これはもともとは、天上界で罪を犯した幼い神が、天を離れて人間界に流れ込み、辛苦を味わった後に人間としての死に至り、再び神界に転生するという神話の形式です。「竹取物語」において、かぐや姫が天上で罪を作ったために地上の竹の中に生まれ落ち、この世でさまざまな経緯があった後、また月の世界に帰ってしまうという筋書きはその典型ですし、折口はまた「源氏物語」の「須磨」「明石」の巻で、禁断の恋を犯した光源氏が、都を離れて辺境で流謫の身となり、「澪標」の巻でまた都に返り咲くというストーリーも、その例として挙げています。
 貴種流離譚という説話構造のパターンは、「山椒大夫」「愛護若」「小栗判官」など中世に起こった説経節においても、広く用いられるものになっていきますし、さらに折口は「義経記」で、源義経という若きヒーローが兄頼朝によって都を放逐され、弁慶とともに諸国を放浪するという話が、広く民衆に愛好されていく背景にも、貴種の流離という「型」を見てとります。

 折口が取り出した貴種流離譚の典型においては、主人公は「おさがみ」という言葉のように、年は若く何らかの高貴な性質を帯びており、それがある種の罪や不遇のために理不尽な環境に追いやられますが、そこで出会った「はぐくびと」によって守られ、世話をされます。主人公はそこで、無力な存在として苦労を重ねた後に、死を迎えて転生するか、あるいはただちに神として昇天する、という結末に至ります(折口信夫「小説戯曲における物語要素」,『日本文学の発生 序説』所収)。

日本文学の発生 序説 (角川ソフィア文庫) 日本文学の発生 序説 (角川ソフィア文庫)
折口 信夫

KADOKAWA 2017-06-17
売り上げランキング : 363025

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


 さて、このような枠組みをもとにして考えてみると、例えば賢治の童話「雁の童子」は、典型的な「貴種流離譚」の形をとっていることがわかります。
 物語の初めの方で、撃ち落とされた雁から人間の姿になった老人は、死ぬ間際に次のように言います。

 (私共は天の眷属でございます。罪があってたゞいままで雁の形を受けて居りました。只今報ひを果しました。私共は天に帰ります。ただ私の一人の孫はまだ帰れません。これはあなたとは縁のあるものでございます。どうぞあなたの子にしてお育てを願ひます。おねがひでございます。)

 このようにして、老人から依頼を受けた須利耶圭は「雁の童子」を育て、時々まるで大人のようなことを言う童子の様子に驚き、一種の畏敬の念も抱いていきます。
 そして、都の郊外の廃寺跡から天童子の壁画が掘り出された年の春、雁の童子に「お迎ひ」が来て、この世での生を終わるのです。

 つまりこの童話は、幼い高貴な童子とその罪による降下、「育み人」の登場、この世での生涯と天への帰還という型に則っており、まさに「貴種流離譚」のお手本のような構造を備えているわけです。
 そこで、気をつけて賢治の他の作品を見てみると、例えば「双子の星」において、チュンセとポウセは彗星に騙され(しかし王様の許可なくお宮を離れたということにおいては罪を犯し)、海の底に落とされて、ひとでになってしまいます。そこで二人は、他のひとでたちに馬鹿にされたり、鯨に呑まれそうになったりというような目に遭うのですが、最後には海蛇の王様に助けられ、竜巻に乗って天上への帰還を果たします。
 これも、「貴種流離譚」の典型と言えるでしょう。

 また「サガレンと八月」は、途中までしか書かれていない未完の断片ですが、主人公タネリは、くらげを透かして見てはいけないという母親の禁制を破ったために、犬神によって海底に拉致され、そこで苦難が始まるというところで中断しています。普通の男の子と思われるタネリは「貴種」とは言えませんが、連れ去られていく途中で、「ああおいらはもういるかの子なんぞの機嫌を考えなければならないようになったのか」と思って涙し、小さな蟹の姿にされてしまうところなどは、明らかに彼の運命が「没落」であり「流離」であることを示しています。罰によって垂直に下降するこのような動きは、貴種流離譚に特徴的と感じられます。
 そしてもしも、賢治がこの作品を中断せずに終わりまで書いていたら、最後にはタネリは何らかの形で地上に帰還できたのではないかと私は想像しているものですから(「「サガレンと八月」の続き」参照)、そうなればこの物語は、めでたく貴種流離譚として完成するのです。

 さらに、このように貴種流離譚として不完全な形のものも含めて考えていくならば、私としては「貝の火」も気になってきます。
 主人公のホモイは、もとは無邪気な兎の子供でしたが、身を挺してひばりの子供を助けたために、鳥の王から宝珠を贈られ、いったんはすべての動物たちから尊敬される存在になります。しかし、徐々に慢心したホモイは、他の動物をいじめたり、しまいには狐に騙されて鳥を捕まえる片棒をかつぐという愚行に走ったために、宝珠は砕け、さらに失明するという罰も受けてしまいます。
 お話としてはここで終わるのですが、ここまでの筋書きを通覧すると、ホモイという元来は無垢で献身的な子供が、その尊い行いにより敬われる身分になったものの、まもなく「罪」を犯してしまったためにその地位を剥奪され、さらに「光のない世界」に追放されるという形になっており、これはまさに「貴種」の「流離」という構造にほかなりません。完成された「貴種流離譚」となるためには、この後の主人公の遍歴や帰還が必要となりますが、「貝の火」という物語は、その前半部の断片と考えてみることも可能なのです。

 ところで「貝の火」を読む多くの人は、ホモイが受ける罰の苛酷さに恐れおののくとともに、一種の理不尽さも感じるのではないでしょうか。確かにホモイがやったのは愚かで悪いことであり、彼が宝珠を持つ資格はないとしてそれを失うのは当然の報いだとしても、しかしまだいたいけない子供の両目までつぶさなければならない道理が、はたしてあるのでしょうか。
 この問題については、これまで様々な解釈がなされてきたと思いますが、ここで私が思うのは、もしもこの「貝の火」という童話が、全体としては貴種流離譚を成す「大きな物語」の、始まりの部分であると考えれば、この理不尽さも納得できるのではないか、ということです。
 「サガレンと八月」でも、タネリが禁忌を破ったために哀れな蟹に変えられて、チョウザメの下男になるという現存部分だけ終わっては、あまりに理不尽で救いのないお話ですが、私たちはこれが未完のものだと知っており、まだこの後には何か続きがあると思うので、特に違和感を覚えないのです。
 また「雁の童子」でも、前々世の童子が敵の王に殺され、その際に出家の身でありながら恋をしたたという「罪」のために次世では雁として生まれ、そして空を飛んでいたら自分以外の眷属全員が人間によって突然撃ち殺され、天涯孤独になってしまったというところで終わっていたならば、これほど理不尽な話はありません。しかし実際には、その後の須利耶圭との出会いと、短いけれども意味の深い日々の暮らしがあり、「おぢいさんがお迎ひをよこしたのです」に続く童子の最期の言葉があったおかげで、これは宝石のように美しく完成した作品となっているのです。

 すなわち、「貝の火」においても、お話が終わった後のホモイは、ハンディキャップを背負ってきっと様々な困難に立ち向かわざるをえないでしょうが、しかし彼が毅然と生きて命を全うし、そしてその死の間際には、あの幼い日の罪について、雁の老人のように「只今報ひを果しました」と言うことができたならば、そこで大きな円環が閉じたと感じられるでしょう。
 つまり私が思うのは、「貝の火」という作品は、読む者がその後のホモイの生の厳しさと、しかしなおそれを引き受けて生きていく彼の勇気とを想像することによって、はじめて理不尽ではない均衡を保つことができるのではないか、ということです。

 ということで、以上のように賢治の作品の中には、「貴種流離譚」という視点でとらえられるものがいくつかあると思うのですが、しかしはたして賢治自身は、そういう「型」というものを意識して、創作をしていたのでしょうか。
 折口信夫が、「貴種流離譚」という概念を提唱しはじめたのは大正時代の中頃で、1918年に発表した「愛護若」という論文において、この説経節を天皇や親王の流離譚と比較検討したあたりが、最初期の論及かと思われます。これは、賢治が童話の創作を始めるよりも早い時期ですから、理屈としては、賢治がこのような「型」を知った上で童話を構想したということも、考えられなくはありません。
 しかし、当時の賢治の関心領域に「折口信夫」という名前など全くなかったように思いますし、所蔵していた本や彼の残したメモ類にも、こうした分野と関連するものは見当たりません。すなわち、賢治が「貴種流離譚」などという概念を下敷きにして童話を書いたという可能性は、棄却してよいように思われます。おそらく彼は、幼い頃から接してきた様々な物語や説話の中から、無意識のうちにこのような「型」を体得し、それが自然に創作に反映していったのでしょう。

 ただ、上に見たように「雁の童子」や「双子の星」といった賢治の重要な作品に、そして部分的な形ではさらに「貝の火」や「サガレンと八月」にも、共通した一つの「型」が読みとれるということは、彼がこの原型に対して何かひそかな愛着を抱いていたのではないかと、思わず私は想像してしまいます。
 生前の賢治は、周囲に対して必要もないのに何故か申しわけないという気持ちを感じている節があったり、自分を犠牲にしなければならないような衝動に駆られているようだったり、何か「原罪意識」のようなものを持っていたのではないかと思わせるところがあります。
 また、「雁の童子」を読むと、童子について記されたエピソードには、「脳が疲れてその中に変なものが見える」という、賢治が自らの体験として短歌に詠んだようなものがあったり、魚を食べたくないと言って泣き出すというこれもまた賢治のような訴えをしたり、まるでこの童子は賢治自身の自画像ではないかと思わせるところもあります。

 つまり、これは全く私の勝手な空想なのですが、ひょっとして賢治自身も、この世における自分のこの人生が、実は何かの罪を帯びて墜ちてきた、貴種の流離としての身ではないかと、どこかで思っていたのではないか・・・、などと思えてくることがあるのです。

 例えば、「サガレンと八月」や「貝の火」を、大きな貴種流離譚の断片と想定するのと同じように、私たちに見えている彼の生涯も、何か大きな物語の「一部」であると考えてみたら、その全貌はどんな様相を呈してくるでしょうか…。
 …世界の東の果ての島国の北の町に、古着屋の息子として生まれたこの子供は、時々不思議なことを言ったり、美しい言葉で詩を書いたりしつつ、人のために自分の体を壊すほど無理をした挙げ句に、結婚もせずに37歳の若さでこの世を去ったわけですが、彼のこの生涯は、ひょっとしたら前世の誰かが故あって、身をやつした姿だったのかもしれません。
 もしも彼がこの辛苦の生涯によって、何か大切な「報ひを果し」、今はもう別の世界に還っていったのだとしたら、彼のこの世の生の軌跡に対して私が感じてきた悲しみや寂しさも、少しは和らぐような気がするのです。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
コメント (1) | トラックバック (0) |

2018年4月 8日 大角修 訳・解説『法華経』

 昨夜は、東京の「宮沢賢治研究会」において、「宮沢賢治の他界観 ―その非仏教的側面と現代的意義―」というタイトルで、発表をさせていただきました。少し時間を超過して質問時間が十分に取れず、出席者の皆様にはご迷惑をおかけしましたが、その限られた時間でもその後の懇親会でも、質問やご指摘をいろいろといただけて、私としてはとても有意義な機会となりました。
 それにしても、宮沢賢治学会の前々代表理事、前代表理事、現代表理事をはじめ、居並ぶ錚々たる研究者の方々の前で発表する機会をいただけたことは、光栄な体験でした。

 ところで、今回は所用のために研究会は欠席されていてお会いできなかったのですが、同会の会員で、以前からお世話になっている大角修さんから、このたび新刊『全品現代語訳 法華経』(角川ソフィア文庫)を、ご恵贈いただきました。 大角さん、ありがとうございました。

全品現代語訳 法華経 (角川ソフィア文庫) 全品現代語訳 法華経 (角川ソフィア文庫)
大角 修

KADOKAWA 2018-03-24
売り上げランキング : 3924

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 私も賢治を愛好する者の端くれとして、時には『法華経』を参照しないわけにはいきませんので、これまでは岩波文庫から上中下3冊組みで出ている『法華経』を買って、いちおう書棚には並べておりました。この岩波文庫版は、偶数頁には鳩摩羅什による漢訳『妙法蓮華経』の原文および書き下し文を、奇数頁にはサンスクリット語原典からの口語訳を掲載するという体裁になっていて、異なったニュアンスの二つの翻訳を比較して検討することもできるようになっています。きちんとした論文を書く時の典拠とするというのならば、このような本がよいのかもしれませんが、しかし3巻で計1300ページ以上にわたるそのボリュームは、私などのような素人がちょっと読んで、『法華経』のイメージをつかもうなどという目的には、あまりにも大部なものでした。
 そこに、このたび出た大角修さんの訳本ですが、 これは長大な法華経の中に繰り返し出てくるリフレインを適宜簡約化したり、すでにイメージも失われたような神々の名前は省略するなどして、400ページ台の文庫本1冊の中に、「法華経」の全品と、開経の「無量義経」、結経の「観普賢菩薩行法経」を収めているのです。なおかつ、要所要所には仏教的な背景や日本における受容の歴史などについて、わかりやすく解説した34もの「コラム」や、様々な図版も挿入されていて、読む者を飽きさせない作りになっています。

 さらに、賢治ファンにとってありがたいことには、そのコラムの中には宮澤賢治と法華経の関連に触れた文章が、2つも入っているのです。

大角修『法華経』より
大角修訳『法華経』より(p.316-317)

 「おわりに」によれば、大角さんは、訳文の言葉のイメージをできるだけ新鮮なものにするために、賢治の「雁の童子」の朗読CDを繰り返し聞くという作業も行っておられたのだそうで、そう思って本文を読むと、何となくそんな雰囲気も漂ってくるような気がしてきます。

 というわけで、この大角修さんの『全品現代語訳 法華経』は、これまで仏教の経典などには馴染みがなかった賢治の読者が、いったい「法華経」の中にはどんな世界が広がっているのかを体感し、その中に分け入っていくためには、うってつけの1冊と言えるのではないかと思います。
 ちょうどこの4月には、NHKの「100分 de 名著」シリーズにおいて、「法華経」が取り上げられていますので、手元に置いて視聴の参考にするのもよいかもしれません。

法華経 2018年4月 (100分 de 名著) 法華経 2018年4月 (100分 de 名著)
植木 雅俊

NHK出版 2018-03-24
売り上げランキング : 25

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

written by hamagaki : カテゴリー「賢治関連本
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年4月 1日 賢治の他界観の変遷図

 4月7日の「宮沢賢治研究会」での発表「宮沢賢治の他界観―その非仏教的側面と現代的意義」まで1週間を切り、スライドと配付資料の準備に追われているところです。新たなブログ記事を書く時間もありませんので、本日はそのスライドの中の1枚、「トシ追悼過程における他界観の軌跡」を、GIFアニメーションにしてご紹介します。

 トシ追悼過程における他界観の軌跡

 1922年11月から1924年7月までの期間の、トシのことを扱っていると推測される17の口語詩を、その背景に想定される他界観に従って、分類・配置してみたものです。
 賢治がイメージしていたトシの行方は、仏教的な「超越他界観」から始まって、まもなく非仏教的な「山上他界観」や「海上他界観」を行きつ戻りつするようになり、最終的には「隣接他界観」に至る、という軌跡になっているのではないのかというのが、私の論旨の一つです。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
コメント (2) | トラックバック (0) |

2018年3月25日 伊藤卓美木版画展=宮沢賢治との出会い=

 先日、伊藤卓美さんからご案内をいただいたのですが、まだイーハトーブセンターのサイトには掲載されていなかったので、こちらでご紹介させていただきます。
 来たる4月2日から、6月30日まで、「宮沢賢治イーハトーブ館」の企画展示として、「=宮沢賢治との出会い=伊藤卓美木版画展」が開催されます。上記の伊藤さんのブログ記事によれば、「せっかくなので作品点数を100点(かるた札を含めないで)と大幅に増やし”飾りすぎでは?”と思うくらいにしました」ということですので、楽しみですね。
 4月29日には、伊藤卓美さんご本人も参加されて、「手摺りの札によるかるた会」も開かれるということです。

4/2-6/30伊藤卓美木版画展=宮沢賢治との出会い=

手摺りの札によるかるた会
日時: 2018年4月29日(日) PM1:00〜
所: 宮沢賢治イーハートーブ館ホール

○ 賢治の歌ミニコンサート
   歌: 川島有希枝(ソプラノ)
   ピアノ: 小谷初音
○ かるた会「宮澤賢治かるた」
   詠み: 伊藤卓美
○ かるた会「宮澤賢治歌かるた」
   歌・ピアノ: 川島有希枝

written by hamagaki : カテゴリー「賢治イベント
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年3月18日 鳥の季節

 ふと思い立って、賢治の詩の中に「鳥」が現れる回数が、時間的にどう推移したのかということを、調べてみました。
 『春と修羅』『春と修羅 第二集』『春と修羅 第三集』という分類ごとに、1か月あたりの作品数と、そしてそのうち何らかの形で「鳥」が登場する作品数を、棒グラフにしたのが、下の図です。
 ここで、「何らかの形で鳥が登場する」というのは、作品中で賢治が鳥の姿を見たとか、その声を聴いたという描写があるものとしています。「鳥のやうに栗鼠のやうに/おまへは林をしたつてゐた」などというのは、「鳥」という語は出てきていますが、賢治が鳥の姿や声を体験しているわけではないので、ここにはカウントしません。
 グラフでは、水色の棒の高さが、月ごとの総作品数を表し、ピンク色の棒の高さが、そのうちで鳥が現れる作品数を表します。

『春と修羅』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数
『春と修羅』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数

『春と修羅 第二集』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数
『春と修羅 第二集』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数

『春と修羅 第三集』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数
『春と修羅 第三集』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数

 とまあ、上にご覧いただいたようなことにしかすぎませんが、当然のことながら、毎年春から夏にかけての時期に、「鳥の現れる作品」がよく書かれる傾向があります。

 そもそも私がこういうことを調べようかと思った動機は、何となく『春と修羅 第二集』には、「鳥」が出てくる作品が多いような気がしたから、ということだったのですが、その予想はその通りでした。
 上の図からわかるように、『春と修羅 第二集』の初期、すなわち1924年3月から7月の期間というのは、賢治が口語詩を主に作っていた7年間のうちでも、最も創作が旺盛だった時期のうちの一つに数えることができます。そしてちょうとこの頃に、彼は生涯のうちで最も多く鳥が出てくる作品を書いており、とりわけ「休息」「鳥の遷移」「〔この森を通りぬければ〕」など、トシのイメージを伴った鳥は、この季節に賢治の身近に現れたのです。

賢治鳥類学 賢治鳥類学
赤田 秀子 中谷 俊雄 杉浦 嘉雄

新曜社 1998-05-01
売り上げランキング : 653051

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


written by hamagaki : カテゴリー「作品について
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年3月11日 宮沢賢治研究会発表「宮沢賢治の他界観」

 来たる4月7日(土)に行われる宮沢賢治研究会例会において、「宮沢賢治の他界観」と題して発表させていただくことになりました。
 下記が、研究会に提出した発表要旨です。

宮沢賢治の他界観 ―その非仏教的側面と現代的意義―

 宮沢賢治は一貫して敬虔な仏教徒であり、その世界観は基本的に仏教の教理に則っていた。「死者の行方」という問題に関しても、母親を亡くした保阪嘉内に送った手紙では、日蓮の教えに従い母の後生のために如来寿量品を書くよう強く勧めており、そこには何の迷いも見えない。
 妹トシの死去に際しても、当初「永訣の朝」や「風林」には、彼女が天界に生まれるよう願う信仰と祈りが記されていたが、しかしその後の作品群は、次第にこのような仏教的輪廻転生観には収まらなくなっていく。「白い鳥」に引用されているヤマトタケル伝説をはじめ、日本固有の他界観に根ざしたイメージが、次々と展開されていくのである。
 こういった賢治の他界観の「非仏教的」側面は、これまであまり注目されてこなかったが、当日は特にそのような面に光を当てつつ、トシ追悼過程における彼の他界観の動揺・変遷を、作品に沿って辿ってみたい。
 ある意味では、ここで賢治が仏教のみに徹することができなかったからこそ、苦悩とともに彼は無意識の底から豊穣なイメージを紡ぎ出し、これが図らずも現代に生きる我々の深い共感を呼び、示唆を与えてくれているとも言える。


 発表のためのスライドを作らなければならず、作業を始めたところなのですが、とりあえず予定しているそのタイトル画面。禅林寺の「山越阿弥陀図」をお借りして…。

「宮沢賢治の他界観」タイトル画面

 ご関心をお持ちの方は、ご来聴いただければ幸いです。

written by hamagaki : カテゴリー「賢治イベント
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年3月 4日 未完成霊の舞い

 日本人が古くから死者や霊魂についてどのように考え、受けとめてきたかということに関して、「民俗学」という学問は明治以来こつこつと探究を続けていたわけですが、しかし時まさにすべての日本人が、第二次世界大戦という未曾有の惨禍と厖大な死者に直面するに際して、民俗学者もそのような時代的な使命を帯びた思索を、自ずと展開することになりました。
 柳田國男においては、それは連日の空襲警報下で書き継がれ1946年に刊行された『先祖の話』でしたし、折口信夫の場合は、死の前年にあたる1952年に発表した「民族史観における他界観念」という論文が、それに相当するでしょう。折口の「遺言」とも言われるこの論稿は、日本人の他界観一般を扱ってはいますが、とりわけここで彼は、若くしてあるいは思いを残したままに亡くなった者たちの、「未完成の霊魂」という存在に対して、執拗に思いを巡らせます。林浩平著『折口信夫 霊性の思索者』の表現を借りれば、「先の戦争で生まれた何百万もの死者たちが、無数の「未完成の霊魂」として人界を彷徨うのが折口にはたまらく辛いこと」だったのです。

 折口信夫によれば、人間が充実した生を送り、円満な死を迎えられた場合には、その魂は「完成した霊魂」として、「他界=常世」に至ることができますが、そうではなかった場合、死後には「未完成の霊魂」が残されます。折口は、日本のアニミズムの根源に、そのような未完成霊の存在があると考えました。

日本におけるあにみずむは、単純な庶物信仰ではなかつた。庶物の精霊の信仰に到達する前に、完成しない側の霊魂に考へられた次期の姿であつたものと思はれる。植物なり岩石なりが、他界の姿なのである。だが他界身と言ふことの出来ぬほど、人界近くに固著し、残留してゐるのは、完全に他界に居ることの出来ぬ未完成の霊魂なるが故である。つまり、霊化しても、移動することの出来ぬ地物、或は其に近いものになつてゐる為に、将来他界身を完成することを約せられた人間を憎み妨げるのである。此が、人間に禍ひするでもんすぴりっとに関する諸種信仰の出発点だと思はれる。未完成の霊は、後来の考へ方で言ふ成仏せぬ霊と同じやうに、祟りするものと言つた性質を持つてゐる。

 「未完成霊」なるものが、このように人間を憎み妨げ祟りをするとなると、それは我々にとっては厄介なものですが、それは実は、生きている人間の責任でもあるのです。折口はさらに続けて、未完成霊を大量に一挙に生み出してしまう、戦争という事態に言及します。

御霊の類裔の激増する時機が到来した。戦争である。戦場で一時に、多数の勇者が死ぬると、其等戦没者の霊が現出すると信じ、又戦死者の代表者とも言ふべき花やかな働き主の亡魂が、戦場の跡に出現すると信じるやうになつた。さうして、御霊信仰は、内容も様式も変つて来た。戦死人の妄執を表現するのが、主として念仏踊りであつて、亡霊自ら動作をするものと信じた。それと共に之を傍観的に脇から拝みもし、又眺めもした――芸能的に――のである。戦場跡で行ふものは、字義通りの念仏踊りらしく感じるが、近代地方辺鄙のものは、大抵盂蘭盆会に、列を組んで村に現れる。

 すなわち折口は、未完成霊を扱う宗教的・芸能的行事として、「念仏踊り」というものに注目するのです。さらに続けて折口は述べます。

念仏踊りは、大体二通りあつて、中には盆踊り化する途に立つてゐるものがある。だが其何れが古いか新しいかではなく、念仏踊りの中に、色々な姿で、祖霊・未成霊・無縁霊の信仰が現れてゐることを知る。墓山から練り出して来るのは、祖先聖霊が、子孫の村に出現する形で、他界神の来訪の印象を、やはりはつきりと留めてゐる。行道の賑かな列を組んで来るのは、他界神に多くの伴神== 小他界神== が従つてゐる形として遣つた祖先聖霊の眷属であり、同時に又未成霊の姿をも示してゐる。而も全体を通じて見ると、野山に充ちて無縁亡霊が、群来する様にも思へるのは、其姿の中に、古い信仰の印象が、復元しようとして来る訣なのである。一方、古戦場における念仏踊りは、念仏踊りそのものゝ意義から言へば、無縁亡霊を象徴する所の集団舞踊だが、未成霊の為に行はれる修練行だと言へぬこともない。なぜなら、盆行事(又は獅子踊り)の中心となるものに二つあつて、才芸(音頭)又は新発意シンポチと言ふ名で表してゐる。新発意は先達センダチの指導を受ける後達ゴタチの代表者で、未完成の青年の鍛錬せられる過程を示す。こゝで適当な説明を試みれば、未完成の霊魂が集つて、非常な労働訓練を受けて、その後他界に往生する完成霊となることが出来ると考へた信仰が、かう言ふ形で示されてゐるのだ。若衆が鍛錬を受けることは、他界に入るべき未成霊が、浄め鍛へあげられることに当る。其故にこれは、宗教行事であると共に、芸能演技である。拝むことが踊ることで、舞踊の昂奮が、この拝まれる者と拝むものとの二つを一致させるのである。

 以上、折口信夫の「民族史観における他界観念」から長々と引用させていただきましたが、私が「念仏踊り」に関するこの折口の考察から、どうしても連想せざるをえないのは、賢治の詩「原体剣舞連」なのです。

 岩手県各地に伝わる「剣舞」は、様々な「念仏踊り」の中の一つの形態ですが、特にこの原体地区に伝わる剣舞は、12歳までの少年や少女たちによって舞われる「稚児剣舞」であることが、この舞いの主体が「未成霊」であることを、明瞭に示してくれていると思います。
 さらに、中路正恒氏の「「ひとつのいのち」考」によれば、この原体剣舞あるいはその伝承元である増沢剣舞の由来は、「奥州平泉初代の藤原清衡が、豊田館(江刺市岩谷堂下苗代沢字餅田)に在ったとき、藤原家衡の襲撃を受け、一族郎党皆殺しの目にあい、清衡のみが逃れ」たという事件を契機に、後に清衡がその時に殺された者たちの供養として行い、「特に亡き妻と子の怨霊供養を厚くするために」稚児と女子に演じさせたということです。つまりこれは、まさに戦争による亡霊を弔うために戦場跡で行われるところの、折口の言う「字義通りの念仏踊り」に相当するわけです。

 折口信夫が念仏踊りの中に、成熟した「先達センダチ」が若い「後達ゴタチ」を指導鍛錬し、未完成の若者が労働訓練によって完成されていくという力動を見るように、賢治も「原体剣舞連」において、一方には厳しい「アルペン農」に打ち込む若者=気圏の戦士たちと、他方には「敬虔に年を重ねた師父たち」の両者を見据えているところも、興味深いです。

ときいろのはるの樹液じゆえき
アルペン農の辛酸しんさんに投げ
せいしののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮まだかはと縄とをまとふ
気圏の戦士わがともたちよ
青らみわたるコウ気かうきをふかみ
楢とぶなとのうれひをあつめ
蛇紋山地じやもんさんちかがりをかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
   dah-dah-sko-dah-dah
肌膚きふを腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸にあら
月月つきづきに日光と風とを焦慮し
敬虔に年をかさねた師父しふたちよ

 折口が、若者の霊的な鍛錬と芸能的なそれとを重ね合わせていたように、賢治は農業労働と剣舞という芸能をオーバーラップさせており、これは後の「農民芸術概論」にも通じるように思います。

 このように、折口信夫は日本古来の他界観にこの「未完成霊」という考え方を導入することによって、木や石にも霊が宿るという日本的アニミズムを理解したわけです。未完成→完成という霊魂の階梯は、仏教における「成仏」という考え方とも似ていますから、両者の習合も容易に起こりえたというわけでしょう。

近代では、念仏信仰が合理解釈を与へて、「無縁亡霊」なるものを成立させた。これは、昔からあつた未完成霊を、さやうに解し、さやうに処置したのであつた。考へてみると、此翻訳は、必しも妥当であつたとは言はれない。無縁と言ひながら、全く縁者を失うたものばかりではなく、祀られぬ霊を言ふ部分もあつた。こゝに祖先霊魂の一部なることを示してゐるものと見てよい。其と、木霊・石霊とは、自ら大いなる区別があつたのである。祖先霊魂と生活体なる我々との間に、無縁亡霊を置いて、中間の存在のあることを示してゐた。

 ここで折口は、未完成の「祀られぬ霊」の例として、「木霊」「石霊」などを挙げているわけですが、これを読むと私としては、賢治の劇「種山ヶ原の夜」に、柏の木や楢の木の霊や雷神が出てきたことを思い起こさずにはいられません。
 私は以前に、「祀られざる神・名を録した神(2)」という記事において、「産業組合青年会」という詩に出てくる「祀られざるも神には神の神土がある」という謎のような一節の「祀られざる神」とは、賢治が「種山ヶ原の夜」の劇の中に登場させた、これらの霊や神のことを指しているのではないかと考えました。これらの樹木霊は、折口信夫の分類によれば、確かに「未完成霊=祀られぬ霊」に相当します。
 そして、折口がこれらの未完成霊は人間に禍をもたらすと言った言葉のとおり、「種山ヶ原の夜」を上演した翌日に、雷神を演じた生徒は足を怪我してしまったのです。これについは「産業組合のトラウマ?」という記事に書きましたが、賢治はこの生徒の怪我を偶然の出来事とは考えず、劇で舞台に上げた鬼神が「仇を返した」のだと解釈し、「あまりよい神様ではなく、相当下等」となどと表現していました。

 このような存在のことを、折口信夫も「祀られぬ霊」と言っていたわけで、この霊魂観は「産業組合青年会」という詩に対する私の解釈にも支持を与えてくれているように思うのですが、さらに劇「種山ヶ原の夜」の内容を見ると、もう一つ面白い符号があります。
 劇の中では、樹木霊たちが農夫の伊藤に対して、「剣舞踊れ」と要求するのです。下の場面では、伊藤が木の霊たちに、笹戸の長嶺のあたりが払い下げになるかどうか教えてくれと頼むのに対し、樹木霊たちは剣舞を交換条件に持ち出します。

柏木霊「そだら教へらはて、一つ剣舞踊れ。」
伊藤「わがなぃぢゃ、剣もなぃし。」
「そだらうだれ。」
「どごや。」
「夜風のどごよ。」
伊藤歌ふ、(途中でやめる)
「教へろ」
「わがなぃぢゃ、お経までもやらなぃでで。」

 「剣舞踊れ」という樹木霊たちの要求に対し、伊藤は「剣もないし」といったん断りますが、樹木霊は「それなら歌ってくれ」と重ねて求め、どこを歌うのかと聞いた伊藤に、「夜風のどごよ」と答えています。「夜風のどご」とは、詩「原体剣舞連」の下記の部分ですね。

夜風よかぜとどろきひのきはみだれ
月はそそぐ銀の矢並
打つもてるも火花のいのち
太刀のきしりの消えぬひま
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻いなづま萓穂かやぼのさやぎ
獅子の星座せいざに散る火の雨の
消えてあとないあまのがはら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 賢治が曲も付けて、「剣舞の歌」として歌っていたという部分で、劇中でもこの旋律で歌われたのでしょう。「銀河鉄道の夜」の中に「星めぐりの歌」が出てくるように、賢治の作品の内容について彼の別の作品の登場人物が言及するいう設定が面白いです。

 ということで、伊藤はおそらくこの「剣舞の歌」を歌い始めるのですが、途中でやめてしまってまた払い下げの件を「教えろ」と言うので、樹木霊は「だめだ、お経までもやらないでいて」と拒みます。
 この一連のやり取りは興味深いことに、「念仏踊り」を通して「未完成霊」が「完成霊」になっていくという折口信夫の指摘をまさに証拠立てるように、樹木霊たちは剣舞の踊りを見たり歌を聞くことを願っており、とりわけその「お経」の部分を求めている様子なのです。ここで樹木霊たちは、剣舞の御利益によって、「他界に往生できるような完成霊になること」を求めているようにさえ思えます。

 すなわち、この部分における「祀られぬ霊」と剣舞(念仏踊り)の描写も、まるで折口信夫の理論を先取りしているように私には感じられて、興味深かったのです。

 さて、詩「原体剣舞連」の根底に流れる基調が、「命のはかなさと美しさ」であるということは多くの人の認めるところでしょう。鉦や太鼓のリズムとともに踊りが昂揚していき、最後に上記引用部の「剣舞の歌」に至って、それは頂点に達します。
 私が以前に、「大内義隆の辞世」という記事で書いたのも、「打つも果てるも火花のいのち」という一節などに特に表れた、この「命のはかなさ」という主題に関することでしたし、また森荘已池『宮沢賢治の肖像』によれば、賢治の父政次郎も、賢治がこの詩を朗読するのを聞いて、「これは、物のいのちのハカナサを書いたものだナ」と言って、とても褒めたということです(同書p.228)。

 賢治がこの詩を書く契機となったのは、1917年に地質調査の際に剣舞を見た体験にあり、それは「歌稿〔A〕」の「上伊手剣舞連」と題された4首、 「原体剣舞連」と題された2首、そして同年10月17日発行の『アザリア第三号』に掲載された「原体剣舞連」と題された3首に記録されています。
 しかしここで注意しておくべきは、当時のこれらの短歌には、「命のはかなさ」というモチーフは詠み込まれていなかったということです。

 つまり、賢治が1922年8月に5年前の原体村における体験を、口語詩「原体剣舞連」として作品化した際に、この「命のはかなさ」という主題は新たに付け加えられたものだということになりますが、私は「大内義隆の辞世」という記事を書きながら、いったい何故この時点でこういう‘modify’が行われたのかと、ちょっと不思議に感じていました。
 原体村に伝わる剣舞が「命のはかなさ」を象徴しているとすれば、その一つの要因は、剣舞が実はその昔に若くして殺された少年たちの鎮魂をテーマとしていたということにあるでしょう。賢治自身は、この詩では「悪路王=アテルイ」の征伐を象徴する踊りとして描いていますから、これと藤原清衡の一族の悲劇との関連は知らなかったでしょうが、たとえ討たれる者が悪路王だったとしても、彼はやはりそこに失われる命の刹那性を感じ、折口の言葉を借りれば「拝むことが踊ることで、舞踊の昂奮が、この拝まれる者と拝むものとの二つを一致させるのである」という境地で、恍惚として剣舞に見とれていたことでしょう。

 しかし私としては、ここにあともう一つ、賢治がこの「原体剣舞連」を書いた1922年8月に、とりわけ「命のはかなさ」を感じていただろう事情として考えておきたいことがあります。それは、この頃にはトシの死は3か月先に迫っており、賢治にとってもう妹の命のはかなさは、逃れられない現実として目の前に立ち塞がっていたということです。同じ8月に彼は「イギリス海岸」という作品に、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐた」という言葉を書きつけていたことも、思い起こされます(「死ぬことの向ふ側まで」参照)。
 すなわち、トシがこのまま結婚できずに夭逝したならば、折口の説に従えばやはり「未完成霊」となって野山を彷徨うことになるという、そういう状況に賢治は置かれていたわけです。

 まさにそういう時期において、賢治は5年前に見た稚児剣舞に込められた「命のはかなさ」を、思わずにいられなかったのではないかと考えたりしています。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年2月18日 現象としての真空

 私たちの常識的な感覚では、あるいは古典力学的には、「真空」というのは「何もない空間」であり、それが何らかの「もの=実体」であるなどというのは一種の論理矛盾ですが、20世紀以降の物理学では、「真空」も一つの物理的対象として、すなわち「実体」として扱われるようになっています。
 宮澤賢治の作品では、「銀河鉄道の夜」の「一、午后の授業」で、先生が、「そんなら何がその川の水にあたるかと云ひますと、それは真空といふ光をある速さで伝へるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでゐるのです」と説明していますが、ここで「真空といふ光をある速さで伝へるもの」と言っているところに、まさにこの近代物理学的な真空観が表れています。「真空=もの」だと言うのです。

 この、「真空」が「光をある速さで伝へるもの」だという先生の言葉は、アインシュタインが特殊相対性理論(1905)の出発点とした命題で、ここに端的に、当時の賢治がアインシュタインの理論を、少なくとも表面的には知っていたことが表れています。
 ところで、これに関して『定本 宮澤賢治語彙辞典』の「真空」の項の解説には、次のように書かれています。

これまで童[銀河鉄道の夜]での「真空」の記述が、アインシュタインの特殊相対性原理の受容を意味すると解釈されてきたが、検討を要するかもしれない。賢治の「真空」理解は、光が横波で電磁気と一体の現象であることを予言したマクスウェルに近いところがある。マクスウェルはエーテルの存在を前提としており、この点も賢治の「真空」の認識に近い。

 この説明を読むと、まるで賢治の考えがアインシュタインの理論よりもマクスウェルのそれに近いという風に受けとれますが、もちろんアインシュタインも、「光が横波で電磁気と一体の現象である」ことを前提としていることに違いはありませんから、この比較はちょっと意味不明です。もし賢治がアインシュタインよりもマクスウェルを信じていたのなら、ジョバンニの先生は午后の授業において、天の川の水のことを「エーテルといふ光をある速さで伝へるもの」と言わなければならなかったわけですが、これを「真空」と言っているところにこそ、賢治のアインシュタイン理解が表れているわけです。

 つまり、「真空とは光の媒質である」ということであり、ここにおいて真空は「何もないだけの空間」ではなく、物理学的実体と見なされているわけです。あるいは、いつも仏教的立場から「非・実体論」を採っていた賢治のことを思えば、「真空は実体である」と言うよりも、「真空とは、ひとつの現象である」と言っておいた方が、より似つかわしいかもしれません。

 この「真空は媒質である」という命題を、少し変えて「真空は溶媒である」に置き換えたところに生まれたのが、あの「真空溶媒」という作品です。
 液体の中に、さまざまな物質が溶け込んでしまうと形が見えなくなるように、「真空」そのものが溶媒として、いろんな物を溶かして消してしまうというお話ですね。

……もうおそい ほめるひまなどない
虹彩はあはく変化はゆるやか
いまは一むらの軽い湯気ゆげになり
零下二千度の真空溶媒しんくうようばいのなかに
すつととられて消えてしまふ
それどこでない おれのステツキは
いつたいどこへ行つたのだ
上着もいつかなくなつてゐる
チヨツキはたつたいま消えて行つた
恐るべくかなしむべき真空溶媒は
こんどはおれに働きだした
まるで熊の胃袋のなかだ
それでもどうせ質量不変の定律だから
べつにどうにもなつてゐない

思索メモ2  以上、このあたりまでは、「真空」の特殊相対性理論的解釈およびその派生物としていちおう理解できるように思いますが、では右図に記されたような「真空」概念になると、どうでしょうか。
 これは『新校本全集』では「思索メモ2」と呼ばれているもので、書簡484aの下書きを消して書かれています。この書簡484aというのは、羅須地人協会設立時の会員であった伊藤与蔵に宛てたもので、書簡そのものは1933年8月30日付けですから、このメモも賢治の最晩年、おそらく亡くなる1か月前頃に書かれたものではないかと推測されます。
 「科学より信仰への小なる橋梁」と題され、物質の成り立ちに関する階層的な図式が書かれていて、これは「思索メモ1」とも、ほぼ同内容のものです。

 これを横にしてみると、下記のようになります。

思索メモ2

 この図は、賢治が想定していた「異世界」(=「異空間」)の成り立ちを示そうとしたもののようです。「異単元」というのは、異世界を構成する最小単位、すなわちこの世界では「電子」に相当するもので、それがさらにその世界の物質や生物を構成して、全体として「異世界」に至る、ということでしょう。この図式において私が面白いと思うのは、「この世界」と「異世界」が、「真空」を共通の基盤としている、というところです。
 ここでもしも、「真空」が古典力学におけるように「何もない空間」であれば、それは両者の「共通基盤」には成りようがなく、「この世界」と「異世界」は、ただ真空の中に併存しているだけで、真空は単なる「容れ物」にすぎません。しかし賢治のモデルではそうではなくて、「真空というもの」が両者を「媒介している」ところが、とても興味深いと思うのです。
 ちなみに、「真空」がそのように異空間を媒介しているという考えは、「阿耨達池幻想曲」にも記されています。

虚空に小さな裂罅ができるにさういない
  ……その虚空こそ
     ちがった極微の所感体
     異の空間への媒介者……

 ここでは「真空」ではなく、仏教的に「虚空」と記されていますが、それが「異の空間への媒介者」だと言うのです。
 この賢治のモデルを仏教の方から見れば、我々がこの世界で「実体」と思っているものも、実は我々がそう感じているだけの「現象」で、それは突きつめていくと「空(虚空)」であり、それが「空」であるからこそ、「異世界」にも変じることができる、というような感じになるのかもしれません。

 しかしそれでは、賢治が「科学より信仰への小なる橋梁」と書いているように、仏教だけでなく科学の側においても、このように「真空」が、この世界の構成単位と別の世界の構成単位を媒介するなどという理屈があるのだろうかと考えてみると、何か似たのがあるように思います。

粒子対の生成

 上の図は、陽子(p)にガンマ線(γ)を照射すると、何もないところ(=真空)から電子(e-)と陽電子(e+)の「対」が生成するという現象を表していて、1932年にアメリカの物理学者カール・デイヴィッド・アンダーソンが発見しました。この「電子」に対する「陽電子」のように、通常存在する素粒子と質量・スピンが同じで電荷が逆の粒子のことを「反粒子」と呼び、たとえば陽子に対しては反陽子が、対応する反粒子です。
 「反粒子」が存在するからには、反粒子ばかりで構成された「反物質」や、反物質ばかりでできた「反世界」というものが、宇宙のどこかに存在するのではないかというのが、私の子供の頃のSF小説の定番ネタの一つでしたが、これこそまさに、賢治が図にしている「異単元―異構成物―異世界」という階層構造そのものです。
 現実には、粒子と反粒子が出会うと、上図と逆の反応が起こり、莫大なエネルギーを放出して両方とも消滅してしまうので、残念ながらこの宇宙に「反世界」が安定して存在することは不可能なのですが、少なくとも概念的には、そのような「異世界」を、科学的に考えてみることが可能なのです。

 そしてまた面白いことに、そのような粒子と反粒子の生成や消滅を媒介しているのが、「真空」そのもの物理的性質であるというところがまた、賢治のモデルとぴったり符合しています。
 イギリスの物理学者ポール・ディラックは、陽電子が発見されるよりも前の1930年に、量子力学を相対性理論に対応させた自らの「ディラック方程式」を成立させるために、「真空とは、負のエネルギーの電子によって満たされた状態である」という、通称「ディラックの海」の理論を提唱していましたが、このように真空が奇妙奇天烈な性質を持っていると考えることによって、1932年に発見された電子・陽電子対の生成という現象も、理論的に説明がついたのです。
 その後、「場の量子論」が構築されていくに伴い、「ディラックの海」などというものは考えなくてもよくなりましたが、ここに至って、昔は物理現象が起こる「舞台」あるいは「容れ物」にすぎなかった「真空」が、「場」と名前を変えて、物理学の主役に踊り出たわけです。現代の物理学では、もはや「素粒子」を実体として扱うのではなく、すべての現象は「場」の相互作用として記述されるようになっています。
 そしてまたこれは、「五輪峠(下書稿(二)初期形」で賢治が思い描いている世界観に、通ずるところがあります。

五輪は地水火風空
むかしの印度の科学だな
空というのは総括だとさ
まあ真空でいゝだらう
火はエネルギー これはアレニウスの解釈
地と[削除]
[削除]
風は物質だらう
世界も人もこれだといふ
心といふのもこれだといふ
今でもそれはさうだらう
   そこで雲ならどうだと来れば
   気相は風で
   液相は水
   地大は核の塵となる
   光や熱や電気や位置のエネルギー
   それは火大と考へる
   そして畢竟どれも真空自身と云ふ。

 すなわち、「地水火風空」という昔の五元素を、「地水風」という物質と、「火」というエネルギーに分け、最終的には物質もエネルギーも、それらを総括する「空」に、すなわち「畢竟どれも真空自身」に帰せられる、というのです。
 この「真空」を「場」と読みかえれば、素粒子もエネルギーも、「場」の一つの様態として記述されるという、「場の量子論」そのものになります。

 ただし、賢治がアインシュタインの理論に触れていたのは確かだとしても、陽電子が発見された1932年は賢治の死の前年で、これが「異単元」と呼びうるものだとは、当時まだ専門家でも誰も考えてもみなかったでしょうし、「場の量子論」が形をとり始めるのも、1950年代以降のことです。賢治が知らなかったはずのこういう知見を、後から当てはめて「賢治の先見性」などと持て囃すのは、後世の勝手な解釈の押し付けだとは思いますが、しかしそれでもこの類似性は不思議です。
 なかでも「真空」が、無内容な「空虚」ではなくて、物質を孕みエネルギーを帯びた「ひとつの現象」だと賢治が考えていたと思われるところが、何より面白いと私は思うのですが、彼はいったいどうやって、こんなことを思いついたのでしょうか。
 私が想像するところでは、一つには前述のように、「空」に関する仏教の教理を、物理的な「真空」のアナロジーとして適用してみたのではないかということと、そしてもう一つには、賢治自身が「何もないところ」に物が見えたり声が聴こえたりするという、幻覚体験をする人だったので、このように豊穣な「真空」イメージを抱くに至ったのではないのだろうかと、思ったりします。
 しかしもちろん、これは賢治自身に聞いてみなければわかりません。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について
コメント (7) | トラックバック (0) |