2017年9月24日 純粋贈与としてのトシの死

 先週の「上原專祿の死者論―常在此不滅」という記事では、上原專祿という歴史学者が、妻の死後にも常に彼女の存在を身近に感じつづけ、法華経の「常在此不滅」という自我偈の一節を拠り所に、「死者との共存・共生・共闘の生活」を生きたということについて、書きました。
 この新たな「生活」の中で上原は、「三つほどのいままで気づかなかった理念というようなもの、イデーのようなものが、イデーとしてではなく実感として出てきているのに気がつきました」と、講演「親鸞認識の方法」で述べています。
 それによれば、その三つのイデー(実感)の一つめは、先週の記事に引用した、「過ぎゆかぬ時間」ということの認識であり、二つめは、「死者との共存」という感覚だということですが、三つめの実感として、次のように述べています。

 第三になりますと、今度は、私たち生き残った人間と死んだ人間との間の共鳴、共存、共闘における主導的立場に立っているものは、私ども生きている人間か、死んだ人間か、というと、以前は、私が回向するご供養する、そういうふうに、生き残った人間のほうが主導的立場に立っているものだと思いこんでいたんですが、考えてみるとそうじゃない。死者のほうがむしろ主導的なんです。回向ということも、私が回向しているのではなくて、死んだ家内が私らのために回向してくれている。その死んだ人間の背後にもっと大きな、絶対的な存在というものがあって、家内が私ども生き残った人間のために回向してくれている、その回向の、さらに原動力になって下すっているという感じがだんだんする。
(中略)
 今晩のこういう集まりは、なんかお供養になるとおっしゃっていただいたんですが、お供養じゃないんです。私の家内が供養をしている。回向をさしてもらっている、という感じ。その私はメディアなんです。そういったような問題、つまり、死者というものは、回向の主体でもある。審判の主体でもある。そういうふうに考えている。(「親鸞認識の方法」より)

 つまりここで上原專祿は、「生きている者は、死者のメディア(媒体)となる」ということを言っているわけですが、これをもっと一般的なわかりやすい言葉に言いかえれば、「生きている者は、死者から託された<使命>を帯びる」ということになるでしょう。そのような使命は、帯びたくて帯びたわけでは毛頭なく、大切な人の死によって、是非もなく、受け身的に「背負わされた」ものではありますが。

 このように、生き残った者が、死者から否応なく<使命>を託され、何らかの生成変化をこうむって、その後の生を生きるという事態のことを、教育学者の矢野智司氏は、「純粋贈与」という概念でとらえています。その著書『贈与と交換の教育学 漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』においては、宮澤賢治の作品もふんだんに引用して論が展開されていますが、これについては以前に「純粋贈与とそのリレー」という記事で、その一部をご紹介しましたので、そちらを参照していただければ幸いです。
 ごく大ざっぱに割り切って言えば、矢野氏の言う「純粋贈与」の典型例は、夏目漱石の『こころ』において、「先生」が「私」に、その自死によって与えたもののことです。例えばそれは、「先生」が「私」に宛てた遺書の、最後の箇所に表れています。

私は今自分で自分の心臓を破つて、其血をあなたの顔に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。(「先生と遺書」二)

 この「先生」の全く一方的な死によって、「私」は計り知れない衝撃を受けたでしょうし、その後の「私」の人生は、「先生」の遺した言葉や思想によって、甚大な影響を受けてしまうでしょう。そのような物凄く重たい「贈り物」を、「私」は「先生」から受け取ってしまったわけですが、それに対して「私」が何か応答をしようにも、すでに死んでしまった人に対しては、何をどうすることもできません。受け取った側からは、どんなお返しをすることも不可能なので、これは「〈純粋〉贈与」なのです。
 『こころ』における「先生」の死は自ら意図したものだったので、「贈与」としての性質が特に際立っていますが、矢野氏の「純粋贈与」の概念においては、その死は意図的なものには限りません。たとえばイエス・キリストの死は、イエス自身が望んだものではなく、無理に捕えられ処刑された結果ですが、それでも残された使徒たちは、イエスの死は全ての人間の罪を背負っての死だったと位置づけ直し、それをイエスからの「純粋贈与」として把握したのです。

 このような矢野智司氏の見方に従えば、上原專祿も妻・利子から、その死とともに「純粋贈与」を受けたのだ、と言うことができます。本当は、愛する妻の死など、絶対に受け取りたくない出来事ですが、しかしその死が事実であるからには、その妻の遺志を丸ごと引き受けて、「死者との共存・共生・共闘」を行っていくという道を、上原は進みました。その道を共に進むことによって、彼はその後も、常に亡き妻と共にあったのです。

 ここで私が重要と思うのは、このような生者と死者との関わりにおいて、生者は常に「受け身的」な立場に置かれるということです。上原も上記の引用部において、生き残った人間のほうが主導的立場に立っているのではなくて、「死者のほうがむしろ主導的なんです」と述べています。「自力」で死者と関わろうといくら努力しても、彼岸には手は届きませんが、受け身に徹して、「他力」に任せることによって、一種の交流が生まれます。前回も上原の「過ぎゆかぬ時間」から引用したように、「私の日常生活の中に、私や子供というものを通して、やはり妻は、自分の意思みたいなもの、あるいは思考のようなものをフッと出してくるんです」という体験が生まれるのです。
 そして、宮澤賢治が、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」において、「死んだ妹の声」「亡くなった妹の声」を聴いたというのも、これとちょうど同じ事態だと、私は思います。

 そしてまた、賢治がこのような体験をしつつ、トシの存在を身近に感じられるようになるためには、上に見たように、彼女の死をあたかも「他力」に任せるように甘受するというスタンスが、非常に重要だったのだろうと、ここで私はあらためて思います。「〔この森を通りぬければ〕」では、それは「またあたらしく考へ直すこともない」と記され、「薤露青」では、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝこと」と認識されます。
 思えば、トシとの通信を求めてサハリンまで行ったり、彼女と会うためならば真夜中の宗谷海峡に飛び込もうとまで思いつめていた頃の賢治は、あくまで「自力」によってもがいていたのであり、実は彼女が決して自分の力の及ばないところにあるという「他力」的な心境には、まだ到達していませんでした。ところが、トシの死を心の底から受け容れられた時、それまで求めても得られなかった「通信」が、彼女の声として耳に届くようになったのです。
 つまり、私が言いたいのは、ここにおいて賢治はついに、トシの死を「純粋贈与」として受けとめられるようになったのではないか、ということです。愛する妹の死が現実である以上、自らの内に彼女の死を、与えられた「贈り物」として受け容れて生きていこうと、ある時から賢治は思うに至ったのではないかと思うのです。

 そして実は、矢野智司氏もすでに上記の『贈与と交換の教育学 漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』において、賢治がトシの死を「純粋贈与」として受け取っていたということを、指摘しています。

そのように考えるとき、賢治のすぐ下の妹トシの鎮魂を描いた「無声慟哭」「オホーツク挽歌」といった一連の作品が、『春と修羅』という心象スケッチの作品集に収録されたことは重要な意味をもっている。心象スケッチは、トシの死を負い目による「贈与=犠牲」ではなく、純粋贈与へと転回する生の技法であった。このように心象スケッチとは死者と交流し、死者からの贈与を受けとめ、そして贈与者となる生の技法でもあったのだ。 (p.188)

 『春と修羅』に収められている「無声慟哭」「オホーツク挽歌」の章だけでは、まだ賢治はトシの死を受けとめきれず、それは1924年の夏までの期間を要したのではないかというのが私の考えですが、しかし矢野氏の指摘のように、「心象スケッチ」を書き続けていくということが、賢治の「生の技法=喪の作業」であったことは、確かだと私も思います。

 さて、そのようにトシの死が賢治によって純粋贈与として受けとめられたとするならば、はたして賢治はトシの死によって、彼女から何を贈られた=受け取ったのでしょうか?

 「永訣の朝」を読むと、このトシの臨終の朝には、「贈与」をめぐるやりとりがあったことがわかります。すなわち、トシは(あめゆじゆとてちてけんじや)と賢治に頼み、賢治は庭に出てみぞれと松の枝を取ってきて、トシに与えます。これは確かに賢治からの一つの「贈与」ですが、しかし賢治は、妹のこの依頼そのものが、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたものだと考えています。そうであれば、この依頼そのものが、トシから賢治への「贈与」でもあったのです。そして賢治は、そのようなトシの気づかいに対して、「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」と感謝をしています。
 ここまでの贈与のやりとりでは、互いに相手に自らの思いを伝達できており、物ではなくても心情的な交換が成されていることにおいて、「〈純粋〉贈与」ではありません。
 一般に純粋贈与は、贈与者が死んでしまって、もはやいかなる形でも返礼が不可能になった時に現実化しますが、賢治が妹トシから「受け取ることになる」ものを「永訣の朝」のテキストから取り出すとすれば、それはトシの優しい依頼に応えた「わたくしもまつすぐにすすんでいくから(強調は引用者)」という決意と、(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)という、トシ自身が述べていた「心残り」でしょう。「自分のことばかりで苦しまないように生まれてきたい」ということは、「他人のために苦しむ人として生きたい」ということです。

 そして、この情景に対応するように、「銀河鉄道の夜」の初期形三では、博士とジョバンニは次のように会話をします。

「お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。
(中略)
お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。(強調は引用者)

 ここで博士は二度、「まっすぐに」という言葉を使い、ジョバンニも「僕きっとまっすぐに進みます」と答えます。ここには、「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」という「永訣の朝」の決意が再生されていると考えざるをえません。そして、賢治やジョバンニは何に向かって「まっすぐに」進むのかと言うと、博士が言うには「あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし」にということです。

 ただ、このように月並みな指摘をするためだけならば、何も「純粋贈与」という難しい言葉を持ち出して来なくてもよいのですが、私がこの概念に強く惹かれるところがあるのは、「銀河鉄道の夜」という物語そのものが、「純粋贈与」という出来事について、格好の「モデル」を提示してくれていると思うからです。
 「純粋贈与」と言っても目には見えないものなので、どんなものなのか、それを受け取った人以外には、わかるものではないでしょう。この記事では、矢野智司氏の詳細な説明を私が勝手に端折ってしまいましたから、これを読まれた方も、それがいったいどんなものなのか、なかなかピンと来ない感じだろうと危惧します。
 しかし、「銀河鉄道の夜」を読んで心打たれたことのある方ならば、「純粋贈与」とはどういう感じのものか、きっと即座にわかっていただけるだろうと思います。カムパネルラが死んだその晩に、ジョバンニが彼と一緒に鉄道で銀河を旅して、いろいろな人と出会い、「ほんたうのさいわひ」について考えることができた、あの体験こそが、カムパネルラからジョバンニに贈られた「純粋贈与」の象徴なのです。実際のカムパネルラは、ザネリを救助して命を落としたわけですから、ザネリに対して「贈与=犠牲」を行ったのですが、しかしジョバンニにとっては、カムパネルラと乗った銀河鉄道の夜は、かけがえのない唯一無二の出来事でした。カムパネルラの死は、絶対的に大きな悲しみであり、ジョバンニにとってその衝撃は計り知れませんが、これによってジョバンニの「生」の意味は大きく変容し、これからの人生はカムパネルラとともに生きていくことになるでしょう。
 このような出来事こそが、「純粋贈与」です。

 矢野智司氏が指摘しているように、実は賢治自身が、「純粋贈与者」としての側面を色濃く持つ人でした。「銀河鉄道の夜」以外にも、「虔十公園林」や「グスコーブドリの伝記」のように、「純粋贈与」を行う人物を、賢治はいくつもの作品に造型しています。
 賢治自身は、その贈与の源泉を、「人」からよりも「自然」から多く受けていた部分が大きかったでしょうが、その中で「人」から受けた最大のものの一つが、妹トシからだったのではないかと、私は思います。

 そして、そのトシから受け取ったものを、賢治が象徴化して一種の模型化したのが、「銀河鉄道」だったのではないかと、今は感じている次第です。

贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン 贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン
矢野 智司

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2017年9月17日 上原專祿の死者論―常在此不滅

 妹トシの死後、8か月あまりが経っても、「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「宗谷挽歌」「噴火湾(ノクターン)」などの作品における賢治は、トシがいったいどこへ行ってしまったのか、必死に探し求めていました。しかしその努力も空しく、彼はトシに会うことはできず、その行方の確証をつかむこともできず、探索は失意のうちに終わりました。
 妹の不在を心に受けとめきれないままに、その後も苦悩しつづけた賢治でしたが、しかしその悲嘆の日々の末に、彼は新たな心境に至るのです。翌年7月に賢治は、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」において「死んだ妹の声」「亡くなった妹の声」を聴き、また「〔北上川はケイ気を流しィ〕」では、妹との会話を活き活きと楽しむまでになりました。

 この際に賢治にとっては、「トシはどこにもいない」から、「トシはどこにもいる」へと、その感覚のコペルニクス的な転換があったのではないかと私は推測し、これまでいくつかの記事に書いてきました。これは相当アクロバティックな考え方のように見えるかもしれませんが、しかし「生きている者が死者を身近に感じる」という現象そのものは、以前に「「トシの行方」の二系列」という記事にも書いたように、われわれ日本人にとっては、さほど異様なものではありません。私たちは、お盆には祖先の魂を家々に迎えてともに過ごしますし、それ以外の時季でも、いつも懐かしい死者は「草葉の蔭から」私たちを見守ってくれているように感じます。
 ただしかし、仏教を篤く信仰してその教理を身につけ、常にこの世界を仏教的な観点から把握していた宮澤賢治が、「輪廻転生」という仏教的な死生観とは相反するこのような感覚を、いったいどうやって自分の中に位置づけていたのだろうかということは、かねてから私にとって疑問でありつづけていました。

 これについていろいろ考える中で、私は上原專祿という歴史学者に、次第に興味を惹かれるようになりました。今回は、その上原が晩年に展開した独自の「死者論」を、簡単にご紹介してみたいと思います。
 実は上原も、日蓮を深く尊崇し、しかも若い頃には国柱会にも出入りして、田中智学の「日蓮主義」に親しんでいたのです。そしてこの日蓮への篤い信仰を保ったままで、晩年に妻を亡くしてからは、彼は「死者との共存・共生・共闘の生活」ということを言い始めるのです。
 ですから賢治において、法華経や日蓮への信仰が、「死者を身近に感じる」というような死生観とどのような関係にあったのか、それを知るためには、上原專祿の思想が参考になるのではないかと思われました。

 以下、上原專祿の生涯を簡単にご紹介した後、彼が書き残した文章の中からその「死者論」を引用しつつ、彼の思想を振り返ってみたいと思います。

上原專祿 上原專祿(右写真は岩波書店『「いのちの思想」を掘り起こす』より)は、1899年に京都で商家の長男として生まれましたから、宮澤賢治よりは3歳年下にあたります。1905年、日露戦争で父を亡くしたことを契機に、薬種商を営む伯父の養子となって、四国の松山に移ります。上原の実家も日蓮宗の檀家だったということですが、養父となったこの伯父という人物が国柱会の会員で、熱心な「日蓮主義者」でした。

 まあ、そういうことで実父は死にました。その兄があります。私の伯父ですが、子どもがなかったもんですから本家相続ということで、そちらに養子になりました。これが熱心な日蓮主義の信者、田中智学の国柱会にはいって、本法寺の檀家であることをやめたわけではありませんけれども、国柱会の信者になった。私も養家へまいりまして子どものときからお経をおそわり、同時に田中智学師の日蓮主義というものを子どものときからたたき込まれた。(「親鸞認識の方法」より)

 このようないきさつで、上原專祿は日蓮と出会います。それ以来ずっと日蓮は上原にとって、「擁護者的聖者・教師的人格・導師的存在として私の面前に立ち現れてくれる」(『上原專祿著作集17』の「序」)ようになったのです。また、田中智学の日蓮主義は、上記のように伯父から「たたき込まれた」だけでなく、自らも面白く読んでいたようです。

 養父の強い要請で『法華経』の他、『日蓮聖人御遺文』の「読書」もつづけられていたが、肩を張った演説口調の田中智学師の文章も面白く、師の日蓮主義の講演や論述をわれから進んで読んだのも、中学生のころの出来事だった。(「本を読む・切手を読む」より)

 松山で中学校を卒業した上原は、東京商科大学(現在の一橋大学)に入学して、1922年に卒業しますが、この間には国柱会に出入りして田中智学から目をかけられ、1918年には『国柱新聞』において、「貧乏に就いて」と題した連載も行っています。そして、「田中智学から、〔お前は〕よく出来るやつであるから国柱会の仕事を一生手伝うがよろしい」とまで言われていたということです(「大正研究の一つの発想」)。この時期は、賢治が家出して東京で国柱会の布教活動をしていた1921年とも重なっていますから、ひょっとしたら二人は、鶯谷の国柱会館で顔を合わせていた可能性もあります。
 しかし一方で上原は、「国柱会の日蓮主義がどこか大風呂敷をひろげすぎる」とも感じてその思想に飽き足らず、「それと反対だというふうに若者心に直感された」、親鸞の書物も熱心に読むようになり、『教行信証』や『歎異抄』や浄土三部経などにも親しんだと言います。このように、日蓮と親鸞の両方に通じていたところも、賢治との共通点です。

 上原はおそらく商家の跡継ぎということで、東京商科大学に進学したのでしょうが、大学で専攻したのは歴史学で、卒業後も賢治同様、家の商売は継ぎませんでした。結局、ヨーロッパ中世史の研究者となった上原は、ウィーン大学に留学して、史料批判に基づいた実証的な歴史研究を身につけます。
 帰国後も東京商科大学等で教鞭をとりつつ敗戦を迎えた上原は、1946年には学長に就任して、新制大学への移行準備と大学の民主化に取り組みます。しかし、学内の「旧体制を温存しようとする」勢力との対立も激しく、1949年の新制一橋大学の発足ともに学長を免ぜられ、新設された一橋大学社会学部の教授に就任しました。
 この頃に行っていた講義について、上原は次のように書いています。

 私は社会学部教授としては「歴史学」という講座を担当し、経済学部の兼任教授としては「西洋経済史」を兼担したが、「歴史学」の方は無理に文部省に認めさせた講座の一つであって、助教授も助手も欠けた、いわゆる「不完全講座」に過ぎなかった。だから、本来は広大きわまる歴史学の全内容を蔽うはずの「歴史学」をたった一人で処理してゆかねばならぬ羽目に立たされた私は、歴史認識おける主体性を育てるのに最も適わしい講義内容をと考え、それに焦点をしぼって、毎年「歴史学の歴史」を講じることにした。(「本を読む・切手を読む」より)

 ということで、「歴史学の歴史」を講じる上原教授は、まるで「グスコーブドリの伝記」で「歴史の歴史といふことの模型」を使って授業をしていたクーボー大博士のようであり、あるいは「この頁一つが一冊の地歴の本にあたる」という地理と歴史の辞典をジョバンニに見せてくれた、ブルカニロ博士のようでもあったわけです。

 一方で上原は、1959年には日米安保条約改定に反対して、家永三郎・清水幾多郎らとともに「安保問題研究会」を結成しますが、翌1960年の安保条約自然成立を前に、突然大学を辞職します。これに続いて、それまで務めていた国民文化会議会長や国民教育研究所研究会議議長などの公的な役職も次々と辞任し、徐々に孤高の研究生活に入っていったのでした。
 それまでは、ある意味で「戦後民主主義」の思潮を体現しつつ、学者として様々な社会活動に関わっていった上原ですが、自らが正しいと思う道を真っ直ぐに突き進むタイプだったために、その途上では様々な抵抗に遭い、苦難にも直面したようです。種々の公職を退いていった過程のことを、上原は自ら「敗退」と表現していますが、しかし彼はその後も旺盛な研究・執筆活動は続けていました。

 そのような中で、1969年4月に、上原の妻・利子が肝癌で亡くなりました。その死に至るまでの過程では、上原家の家庭医として定期的に家族の診療をしていた医師による誤診と責任放棄、またその後関わった医師たちの「生命蔑視」とも言うべき非人道的な態度などがあり、家族全員が深く傷ついたまま、利子の死を迎えたのです。
 その後の上原は、医療に潜む非人間性を告発するべく、いくつかの文章を書き、講演も行っています。妻の死後の彼が、「死者との共存・共生・共闘の生活」に生きようと決意した背景には、妻が医療によって「殺された」という強い憤りがあったのです。

 さて、そのような上原が、妻を亡くしてからどのような心境にあったのか、彼が妻の死後半年あまり後に書いた「過ぎ行かぬ時間」という文章が、その一端を示してくれます。歴史学者として「時間」を見てきた上原は、次のように語り始めます。

 時間の流れのなかで、事柄というものを理解したり、評価したりすることを、普通の意味では、歴史的思考というでしょうけれども、妻に死なれてみると、その死んだ時点で、時間の歩みというものがとまってしまったんです。いろいろな思いがグルグル、グルグル妻の死という事実を旋回するだけじゃなくて、時間もある意味では、いっこうにたたないんです。つまりほかの諸事物は、どんどん時間とともに流れていくのに、妻が死んだという事実とそれにかかわる諸事物とは流れないんですね。

  また同じ文章の中で、自らが亡き妻の存在を常に感じ続けていることについては、次のように述べています。

 私は少なくとも、簡単に、妻の死というものをあきらめるわけにはいかん。いわばこだわっている。むしろこだわってこだわってこだわり抜いてやろうというか、うっかりあきらめてはいけないし、また、妻も簡単に成仏してくれても困る。簡単に往生してくれても困る。これは実際不思議な話ですけれども、肉体はなくなったということは確かなんだけれども、すっかりなくなったとは思えないんで、私の日常生活の中に、私や子供というものを通して、やはり妻は、自分の意思みたいなもの、あるいは思考のようなものをフッと出してくるんです。肉体がなくなったということは、掩うべくもない事実だけれども、どういっていいのかしら、キリスト教的にいえば霊というものでしょう。仏教では霊なんていうものはそう簡単にはいえないでしょうけれども、つまり、そういう一緒に生きているという経験が実際なんどもなんどもあるわけですね。(「過ぎ行かぬ時間」より)

 あるいはまた、たまたま妻が昔暮らしていた家があったあたりの会場で講演をすることになって、次のように語っています。

 死者というものは過ぎ去った、この生きている人間にとっては、いわば絶縁的状態におかれてしまった、そういう存在のことを死者というのかもしれませんが、死者というものは、はたして死ぬるということによって生者、生きている人間との共存をやめたのかというと、そうじゃないと思うんです。死者は、死んだという形で肉体を失いますけれども、なにが残るのか、何か新しく、ただ残るだけでなくて作り出されていくような感じが私はするのです。肉体は滅んだけれども魂が残る、というそんな引き算的なものではなくて、死者は死ぬことによって、なにか新しいものとしてそこに存在する。例えば、今晩ここでこうしてお話をさしていただく。家内はここで少なくとも四年なり五年なりおった、その場所でこの話をする、ということは偶然なんですけれども、それはやはり家内が生きておりまして、ここで話をしなさい、といってくれているような感じが私にはするんです。それは私についてするだけで、皆さんにとっては関係ないことですが、私にとっては、家内は死ぬことによって過去のものになってはいない。私と一緒に生きてい、私と一緒に生き、感じ、戦っている。共鳴し、共存し、共闘している死者、それをまあ、いちいち申しあげませんけれども、そういう経験をこの一年の間に何回か、何回かいたしました。大事なときになってくるというと、一緒におる。ですから、話しておるときにも、どこかここらにおるんです。きっといるんです。(「親鸞認識の方法」より)

 ここでは、上原がすぐ身近に妻の存在を感じとっているのは「現実」なので、仏教の教理から出発して死後の妻について考察するなどという発想は、もとから彼にはありません。彼にとって妻は、「どこかここらにおるんです。きっといるんです」という存在ですから、そこに「輪廻転生」などという抽象的な観念が介入する余地はないようです。
 そして、宮澤賢治が「とし子」との「通信」を求め続けたように、上原專祿もその妻・利子との「交流の道を懸命に模索」します。

 妻は死去した。それと同時に、「戦友集団」としての家族集団も壊滅した。私は半世紀に及ぶ伴侶を失なっただけではなく、一切の営為の構造と基盤、一切の闘争の真の主体と意味をも喪失したのである。残されたものは、「被殺」を含意する妻の死去という永遠の事実と、死去した妻は過去の存在となったのではなく、死者として新しく実存するにいたった、という永劫の事態とであった。私は、このような死者として新しく実存するにいたった妻との交流の道を懸命に模索した。この模索以上に緊要な課題は私にはありえなかったからである。その模索の過程で、仏教でいう「回向」の理念がいつの間にか私のこころをいっぱいに領していることに、私は気づいた。それと同時に、その「回向」こそが、私の探求していた当のもの――死者として実存するにいたった妻との交流の道――に他ならないことも、私に合点された。そして、「回向の生活」のみが妻を失ない、「戦友集団」を失ない、私自身の生存方向をも見失なった私にとって、ただ一つ残された生存と生活の形態であることが、しかとわかったのである。(「本を読む・切手を読む」より)

 もともと「回向」とは、生者が善行を積んでその功徳を死者に「回し向ける」ことにより、死者の次生を安楽にしてあげようという行いのことです。ここでは一応、「生者から死者へ」の働きかけがあるわけですから、これが正統的な仏教の教理が許す範囲での、生者と死者の「交流」なわけです。
 これに対して上原は、妻の「回向」のために経をあげているうちに、「自分が妻を回向している」のではなく、「自分の方が亡き妻によって回向されている」という心境に至るのです。つまり、「死者から生者へ」の交流を、彼は感じとっているのです。
 これについては、上原が1970年に『読売新聞』に掲載した、「常にここにあって滅せず」という文章が、とても感動的に彼の心境を伝えてくれるので、ここにその全文を引用させていただきます。

     常にここにあって滅せず

 古代インドの仏教徒の間では、釈尊がさとりに達したのは、彼が釈迦族の宮城を脱出して、伽耶城近傍の「道場」にあったときのことだ、と長く信ぜられてきた。この通念を破って、釈尊の成道をはかり知れぬ久遠の過去のできごととして定立したのが、法華経の如来寿量品である。これによって釈尊の成道は、歴史を越えて逆に歴史を見はるかす視座となり、軌範となるにいたった。
 しかし、寿量品が定立したのは、このような歴史的時間を越えた釈尊成道の経緯だけではない。寿量品はまた、成道を起点とする、あらゆる歴史的時間と歴史的空間を通じての、衆生の教化という釈尊慈悲行のイメージをも確立した。このようにして「常にここにあって滅せず」(「常在此不滅」)という寿量品中「自我偈」の金句が、千釣の重みをもって読誦者に迫ってくる。「ここ」とはたんに「霊鷲山」だけを指すのではない。恭敬し信楽する衆生の存するところ、常に且つ遍く釈尊は妙存する、というのが、「常在此不滅」の玄義だろう。
 以上は、この一句の教理的解釈の一つに他ならないが、老妻を失って九箇月余、位牌を前にして毎夜「自我偈」を唱える身には、釈尊常在の理念よりもさきに、亡妻の常在が実感されてくる。ところで、ふしぎなことに、亡妻常在の情感にふけっていると、その情感に誘われ、それに媒介されて、釈尊常在の理念が浮かび上がってき、やがては釈尊の常在が実感されるような思いにさえなってくる。亡妻に回向していると思ったのは、独り合点なのであって、実は、亡妻に回向される身に私はなっているのかも知れないのである。

 ここに至って私は、賢治も「トシ常在」を我が身に感じながら、「自我偈」を読誦していたのではないかと、ひそかに想像するのです。

「自我偈」より
賢治による「自我偈」の一部の毛筆筆写

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2017年8月27日 Tearful eye

 賢治は『春と修羅 第二集』に、1925年4月2日の日付を持つ4つの作品を残しています。これらについては、以前に「岩根橋発電所詩群」というページにまとめたのですが、簡単に言えばこの日に賢治は、夕方から岩手軽便鉄道に乗って岩根橋の発電所方面に行き、夜遅くにそこから徒歩で、花巻まで帰ってきたのだと思われます。岩根橋から花巻までは約20kmありますから、いくら賢治でも夜が更けてから一人でこれだけの道のりを歩くというのは、なかなかのものです。
 なぜ賢治がこの日、岩根橋方面に行ったのかその理由はわかっていませんが、木村東吉氏は『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』(渓水社)において、次のように書いておられます(p.233)。

 詩人がなぜこの日、わざわざ夜の発電所を訪ねたのかは不明だが、当時の作者の生活や五〇六〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕を参照すれば、あるいは和讃の会のようなものを兼ねた農事講習会などがあって、その後で、見学に立ち寄ったのであろうか。岩根橋から花巻までの約二〇キロの夜の釜石街道を歩いて帰ったことは、五一一〔はつれて軋る手袋と〕下書稿(三)に、「三郎沼の岸からかけて/夜なかの巨きな苹果の樹」とあることで窺われる。三郎沼は花巻の東の郊外、街道筋にある大きな農業用水池の名称である。

 ちなみに、賢治の時代に岩根橋にあった発電所の跡地は、今は全く廃墟になっていて、私は2007年3月の雪の日に訪ねてみたことがあります。下がその時の写真の1枚で、発電所の土台のみが遺蹟のように残っており、「岩根橋發電所記念碑 大正七年十一月書」と書かれた石碑だけが往時を偲ばせてくれました。賢治がここで書いた「発電所」から発展した、「〔雪と飛白岩の峯の脚〕」も、とても面白い作品ですね。

岩根橋発電所跡

 さて、1925年4月2日に賢治が軽便鉄道に乗り込むところに戻ると、この日の4連作の1作目「〔硫黄いろした天球を〕」は、まさに軽便花巻駅から東に向かって列車が発車しようとするところです。木村東吉氏の調査によれば、当時の岩手軽便鉄道下りの最終列車は、花巻を5時50分発、岩根橋には7時10分着だそうです。
 ところでこの作品の「下書稿(二)」には、次のような箇所があります。

(前略)
肥料倉庫の亜鉛の屋根を
鳥が矢形にひるがへる

   ……風と羽とのそのほのじろいラヴバイト ……
最后に湿った真鍮を
二きれ投げて日は紺青の山に落ち
おもちゃのやうな小さな汽車は
わづかなあおいけむりを吐いて
その一一の峡谷の
つましい妻をかんがへてゐる
幾人かの教師や技手を乗せて
東の青い古生山地に出発する
(後略)

 ここに出てくる「ラヴバイト」というのは、"love-bite"すなわち「キスマーク」のことで、鳥が風と戯れる様子を、愛の交歓のように見立てているわけです。また、仕事を終えて軽便鉄道の乗客となっている「幾人かの教師や技手」は、それぞれの家で待つ「つましい妻をかんがへている」のではないかと賢治は想像をしているわけで、先の「ラヴバイト」ともども、何か賢治の心中には、男女の愛情のイメージが潜在しているように感じられます。
 ただ、この「ラヴバイト」にしても「つましい妻」にしても、下書稿(三)になると作者によって削られて、シンプルな形になってしまいます。このような推敲の方向性には、賢治の「禁欲性」が影響しているようにも思うのですが、しかし本日私が取り上げてみたいのは、この日の連作の最後を飾る、「〔はつれて軋る手袋と〕」です。
 ここには、賢治のそんな「禁欲」の意志にもかかわらずどうしてもあふれ出してしまう心情が、綴られているように私は思うのです。

 ちょっと長いですが、まずその全文を下記に引用します。

  五一一
               一九二五、四、二

   ……はつれて軋る手袋と
      盲ひ凍えた月の鉛……
県道(みち)のよごれた凍み雪が
西につゞいて氷河に見え
畳んでくらい丘丘を
春のキメラがしづかに翔ける
   ……眼に象って
      かなしいその眼に象って……
北で一つの松山が
重く澱んだ夜なかの雲に
肩から上をどんより消され
黒い地平の遠くでは
何か玻璃器を軋らすやうに
鳥がたくさん啼いてゐる
   ……眼に象って
      泪をたゝえた眼に象って……
丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる
ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて
笹がすこうしさやぐきり
たとへばねむたい空気の沼だ
かういふひそかな空気の沼を
板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ
   ……眼に象って
      かなしいあの眼に象って……
あらゆる好意や戒めを
それが安易であるばかりに
ことさら嘲けり払ったあと
ここには乱れる憤りと
病ひに移化する困憊ばかり
   ……鳥が林の裾の方でも鳴いてゐる……
   ……霰か氷雨を含むらしい
      黒く珂質の雲の下
      三郎沼の岸からかけて
      夜なかの巨きな林檎の樹に
      しきりに鳴きかふ磁製の鳥だ……
       (わたくしのつくった蝗を見てください)
       (なるほどそれは
        ロッキー蝗といふふうですね
        チョークでへりを隈どった
        黒の模様がおもしろい
        それは一疋だけ見本ですね)
おゝ月の座の雲の銀
巨きな喪服のやうにも見える

 ここで賢治は、前述のように20kmに及ぶ夜道を一人歩きながら、あたりの情景を眺め、鳥の声を聴きつつ、何かをずっと思いめぐらしているようです。その描写はかなり謎めいていますが、30行目からの「あらゆる好意や戒めを/それが安易であるばかりに/ことさら嘲けり払ったあと/ここには乱れる憤りと/病ひに移化する困憊ばかり」という箇所から感じられるのは、深く重たい「悔恨」とでも言えるような感情です。
 文字どおりに解釈すると、賢治は人から多くの「好意や戒め」をもらったようですが、それを何か「安易」なものとして、「嘲けり払っ」てしまったようです。そしてその結果、今は「憤り」と「困憊」ばかりが残っているというのです。
 では、賢治はいったい何を嘲り払ってしまい、そのため今になって何を悔やんでいるのでしょうか。この箇所から前にさかのぼって見てみると、21行目から27行目にかけて、次のように記されています。

かういふひそかな空気の沼を
板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ

 「板やわづかの漆喰から/正方体にこしらえあげて…」というのは、素朴な日本家屋のことなのでしょう。そして賢治は、そのような家の中で、「ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする」というような「やさしいこと」を、今思えば不覚にも「卑し」んでしまっていたと、後悔しているのだと思われます。
 さて、ここに描かれているように、素朴な家で、「ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする」という情景が何を表しているかと考えてみると、その様子が象徴するのは、言わば「静かでつつましい結婚生活」というものでしょう。
 すなわち、前回「ありえたかもしれない結婚」という記事に書いたように、賢治はここでも、もしかしたら自分が送ったかもしれない結婚生活について、秘かに想像しているのではないかと思われるのです。彼は、もしも自分がそんな風に二人で幸せに生きることを「卑し」んだり「嘲り払った」りさえしていなければ、今頃は上に描いたような境遇にあったのかもしれないと、ここであらためて心を痛めつつ思いをめぐらしているのではないでしょうか。

 そうだとすれば次の問題は、賢治はいったいどのような人との「結婚生活」のことを仮想しているのかということになりますが、ここで注目すべきは、この日に賢治が歩いた行程です。
 賢治が歩いたと推測される道を、Googleマップで表示すると、下のようになります。

 青色の点で表示されているのが、現在の「釜石街道」、すなわち国道283号線を通る経路です。最初に引用した木村東吉氏の考察にも、「岩根橋から花巻までの約二〇キロの夜の釜石街道を歩いて帰った」として出てきます。
 そしてここで重要なことは、賢治がこの晩「釜石街道」を歩いたとすれば、彼は土沢の町を通り抜けたことになり、この土沢には、澤口たまみさんが『宮澤賢治 愛のうた』(もりおか文庫)において一時は賢治の恋人だったと推定した、大畠ヤスが嫁いだ家があったのです。

 大畠ヤスの嫁ぎ先については、去る4月30日にNHKで放送された「宮沢賢治 はるかな愛〜“春と修羅”より〜」でもその家屋の現在の様子が映し出されて、賢治ファンの間ではちょっとした話題になりました。その家は、ちょうど国道283号線沿いで、現在の消防署東和分署の近くにありました。
 もし賢治がこの晩、「現在の釜石街道」=国道283号線を歩いたとすれば、彼はヤスが住んでいた家のまさに目の前を通ったことになるのですが、当時の釜石街道はまだ旧道が使われていましたので、実際には彼女の嫁ぎ先から、少し北側を通過したのかと思われます。
 しかしそれでも賢治は、ヤスが住んでいた町を、夜中に一人歩いたのです。

 ただ、澤口さんが「宮澤賢治センター通信第17号」に書いておられるように、ヤスは1924年5月にアメリカに渡ったということですから、賢治が前を通った1925年4月の時点では、彼女は土沢の家にはもういなかったことになります。
 しかし、賢治が土沢という町からヤスのことを連想することがあったのではないかということについては、すでに澤口さんが同じく「宮澤賢治センター通信第17号」で、『春と修羅』の「冬と銀河ステーション」に関して指摘しておられます。この作品には、土沢の市日のにぎやかな描写に交じって、(はんの木とまばゆい雲のアルコホル/あすこにやどりぎの黄金のゴールが/さめざめとしてひかつてもいい)という記述が出てきますが、これは「やどりぎの下で愛を誓い合った恋人は幸せになれる」という西洋の言い伝えに基づいており、土沢に住んでいたヤスと関係があるのではないかというのが、澤口さんのお考えです。
 ちなみに、澤口さんから最近お聞きしたところでは、ヤスは1923年の4月から10月の間のいずれかの時期に、土沢在住の医師と結婚したと推測されるとのことで、そうすると「冬と銀河ステーション」が書かれた1923年12月の時点では、ヤスは土沢で暮らしていたことになります。この時点で、土沢とヤスの住まいがすでに賢治の意識の中で結びついておれば、たとえ彼女がアメリカに去ってから後でも、その家のすぐ近くを通るとなると、賢治が彼女のことを考えるのも当然と言えます。
 思えば、賢治がこの日の夕方に軽便鉄道に乗って、岩根橋に向けて出発した際には、「ラヴバイト」とか「つましい妻」など、男女の愛について何となく考えていたのでした。この時すでに彼は、その夜の帰り道には昔の恋人が住んでいた家の近くを通るということを、意識していたのかもしれません。

 さて、もしもこのように「〔はつれて軋る手袋と〕」という作品が、賢治がヤスに対して感じていた悔恨の思いに関わっているのだとしたら、作品中に何度も現れる、「……眼に象って/かなしいその眼に象って……」、「……眼に象って/泪をたゝえた眼に象って……」、「……眼に象って/かなしいあの眼に象って……」という印象的なリフレインは、賢治との別れに際して、悲しみに沈み、涙をたたえた、大畠ヤスの「眼」の記憶なのではないでしょうか。
 賢治がヤスとどういう別れ方をしたのかはわかりませんが、澤口さんが推測しておられるように彼女が最後まで賢治のことを思い続けていたのであれば、その別れの場面における彼女の表情は、賢治の記憶に強く刻み込まれていたはずです。そして彼女の眼には、涙がたたえられていたと考えるのが自然でしょう。

 また、作品の終わりの方の、

       (わたくしのつくった蝗を見てください)
       (なるほどそれは
        ロッキー蝗といふふうですね
        チョークでへりを隈どった
        黒の模様がおもしろい
        それは一疋だけ見本ですね)

という箇所は、月に照らされた夜の雲の形を、イナゴに見立てているのかと思われますが、この仮想上の会話は、何かまるでヤスと賢治がむつまじく話しているようさえ、私には思えてきます。
 「ロッキー蝗」というのは、下書稿(一)から下書稿(三)までにおいては「Rocky Mountain locust」と英名で記されていますが、これはその昔にアメリカで大量発生しては深刻な農業被害をもたらしたというバッタで、1902年に絶滅したとされている種です。このような専門的な名称が出てくるのは、賢治の農学の知識に基づいているのでしょうが、ここで他ならぬ「アメリカ」の生物が唐突に現れるのも、この時ヤスはアメリカ在住だったことと、何か関連づけたくなってしまいます。

 これ以外にも、考えていくときりがありません。この作品の下書稿(二)は、その一部を作者が切り抜いて下書稿(三)に転用したために、断片しか残っていないものなのですが、その中には「どうだいきみの指環の…」とか「そしたら指環を…」などという言葉が登場しているところも、気になってきてしまいます。澤口さんは『宮澤賢治 愛のうた』において、童話「シグナルとシグナレス」は賢治とヤスの恋をモチーフにしているのではないかと述べておられますが、上の「指輪」をめぐる会話からは、シグナルがシグナレスに贈った「約婚指輪」(=環状星雲)のことも、連想してしまいます。

 ということで、「……眼に象って/かなしいその眼に象って……」というリフレインは、大畠ヤスの悲しい眼の思い出なのではないかというのが、私の(少し願望もこめた)推測です。ところで、「泪をたゝえた眼」というとふと心に浮かぶのは、賢治が「Memo Flora」と表記したノートに描いていた、「Tearful eye」と題した花壇の設計図です。

Tearful eye
『新校本宮澤賢治全集』第十三巻本文篇p.25より

 この「Memo Flora」ノートの花壇設計図を賢治が書い時期について、伊藤光弥氏は『イーハトーブの植物学』(洋々社)において、大正15年(1926年)4月から翌年までの間ではないかと推測しておられます。また、伊藤氏は「Tearful eye」という発想の由来について、「外山牧場などで見た子馬の目からヒントを得たのかもしれない(同書p.146)」と推測し、「ゆがみうつり/馬のひとみにうるむかも/五月の丘にひらくる戸口」などの短歌を引用しておられます。
 ただ、馬の眼というのは一般的には、上図のような紡錘形よりもっと円い形で、「白眼」の部分がかなり少なくほとんどが「黒眼」になっていますから、賢治の「Tearful eye」の形とはちょっと違うのではないかと私は思います。
 上の設計図の眼の形は、私にはやはり人間の眼に見えますし、「泪をたゝえた眼」を直訳すれば「Tearful eye」なのですから、これは「〔はつれて軋る手袋と〕」のリフレインに由来しているのではないかと、私としては思うところです。

 すなわち賢治は、ヤスとの別れとともに忘れられない彼女の「泪をたゝえた眼に象って」、その思い出のために、花壇を作ろうと考えたのではないかと、私は思うのです。
 「Tearful eye」の設計図が書かれたのが、1926年4月から1927年の間だとすると、これは1927年4月にヤスがアメリカで亡くなったということを、賢治が何らの形で知ったことが契機となったのかもしれないとも、想像します。

「涙ぐむ眼」花壇(北海道むかわ町穂別)
「涙ぐむ眼」花壇(北海道むかわ町穂別)

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2017年8月20日 ありえたかもしれない結婚

 最近はもっぱら、死んだトシに対する賢治の思いについてばかり書いていますが、今日はまた違った角度も含めたお話です。

 1924年5月に修学旅行を引率して北海道へ向かう際に書かれた「津軽海峡」で賢治は、この海峡付近で二つの海流が出会って水が混じり合う現象を称して、「喧びやしく澄明な/東方風の結婚式」と描写しています。定稿では、このアイディアは詩を構成する題材の一つという趣きですが、その「下書稿(一)」の段階では、タイトルは「水の結婚」となっており、この「結婚」というモチーフが、作品のメインテーマだったことがわかります。
 さらに、その修学旅行の帰途でやはり津軽海峡を航行しながら書かれた「〔船首マストの上に来て〕」には、「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に/いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」という一節があり、ここに出てくる「marriage」の語は、やはり先の「津軽海峡」と同じく、二つの海流が混じり合うことを指していのでしょう。

 そのようにして、「結婚」という言葉が何となく重なって出てくる感じがするところ、上記「〔船首マストの上に来て〕」の数時間後に青森発上り列車からの眺めを描いていると推定される、「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」には、つい先日も引用した次のような箇所があります。

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 ここで賢治は、珍しくも自分の「妻」について言及していて、つまり自らの「結婚生活」を描いているわけです。

 このように、「結婚」というテーマが数日間のうちに何度も登場することについて、私は何となく不思議に感じていたのですが、実はこの「1924年5月」という時期は、澤口たまみさんの『宮澤賢治 愛のうた』によれば、一時は賢治と恋愛関係にあり、たがいに結婚まで考えていたという女性・大畠ヤスが、別の男性と結婚してアメリカに旅立つ時だったのです。

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 すなわち、上掲書のp.205には、次のように記されています。

 大正十三(一九二四)年五月、ヤス子は結婚した男性とともに、渡米することになっていました。

 この記述では、1924年5月にヤスが渡米したのがまだ事実として確認されたわけではなかったようにも読めますが、『宮澤賢治センター通信 第17号』に掲載されている、澤口たまみさんの2012年12月14日の講演「宮沢賢治『春と修羅』の恋について、続報」の記録には、次のように書かれています。

◆ヤスの遺族からの証言
 『宮澤賢治 愛のうた』を出版したのち、大畠ヤスの遺族より「この本に書かれた恋は事実である」との証言をいただいた。ヤスより九歳年下の妹トシ(ヤスの妹もまたトシである)は、ヤスに頼まれて賢治に手紙を届けたことがあり、賢治からは返事を貰って帰ってきた、という。
 賢治とヤスは相思相愛であり、一時は宮澤家より結婚の申し入れもあったとされる。ヤスの母が大反対であったために、この恋は実らなかった。ヤスは傷心のまま、東和町の及川修一という医師との結婚を承諾し、大正十三年五月に渡米した。ふたりの恋が記された『春と修羅』が出版された、一か月のちのことである。

 「大畠ヤス=賢治の恋人」説に対しては、これまではいろいろな意見もあったようですが、上記のように大畠ヤスの遺族の方から、ヤスの妹さんが賢治との間の手紙の仲立ちをしていたという証言まであるとなれば、信憑性も非常に高まってきます。
 そして、二人の恋がかなわず、ヤスが結婚して1924年5月に渡米したというのも、遺族の証言から事実として確認されたことのようです。

 となると、同じこの1924年5月に賢治が、作品の中で何度も「結婚」というテーマを扱い、さらには「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」などと、自らの過去世における「結婚」についても描いているというのは、注目すべきことだと思います。
 すなわち、「〔船首マストの上に来て〕」に「あたらしく marriage を終へた海」という表現があり、またその全体に祝祭的な雰囲気が漂っている背景には、ヤスの結婚に幸あれと祈る賢治の心情が込められていた可能性があります。
 また、「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」で賢治は、もしかしたら自分とヤスとの間にありえたかもしれない「結婚」についても、ふと思いをめぐらしたのかもしれません。「青森挽歌」にあったように、「みんなむかしからのきやうだい」=「すべての衆生は過去世において一度は兄弟姉妹だったことがある」のだとすれば、今生では結ばれなかったヤスと自分だって、果てしない輪廻転生のうちには(たとえ魚どうしだとしても)夫婦だったことがあったはずです。

 もちろん上記は、あくまでも一つの仮説的な考え方に過ぎませんが、しかしもしこういう見方が成り立つのなら、この修学旅行における他の作品の解釈にも、別の視点がありえることになります。
 たとえば、この間ずっと亡きトシへの思いの表現として解釈してきた「」の下書稿(一)「海鳴り」において表出されている激情を、大畠ヤスとの別離の悲嘆として理解していけない理由はありません。
 賢治が、

わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

と謳った時、その「やりどころのないさびしさ」の中には、ヤスとの悲恋による感情も入っていて当然ということになります。

 このようなことを考えてみつつ、私がふと連想したのは、1995年7月に行われたシンポジウム「「春と修羅 第二集」のゆくえ ―結論にかえて」における、栗原敦さんの発言です。この辺の問題に対するとても重要な指摘と思いますので、少し長くなりますが下記に引用させていただきます。

 ただ、つまりその事を考えてみますとね、質問を生かして話してしまうんですが、『春と修羅』第一集の終わりの「風景とオルゴール」の章などを見ていきますと、そこには、非常に手の込んだ仕掛があって、男女の大人の愛情、性愛の様なものに引かれる気持ちや、実際に何かがあった。伝記上は、特定の人の名前はまだわかっておりませんし、これからも、隠れて消えたままになるかも知れないけれど、もしかしたら特定の女性とお付き合いが、それなりに深まったものとしてあったかもしれないと、思わせるような、思わせぶりな、表現をして、且つ、その思わせぶりな表現を否定し、克服する姿で、振り切るという様な道の選び方が、書いてあると私は思うんです、そして、「第二集」の方になってきて、先程、密教風のとか、性愛の話というか、情欲に近いような、そういうものみたいなのが、密教やその他の考え方と、溶け合う形で、もっと進んだ姿で書かれているような気がします。そのことが、しかし、やはり、先程、入沢さんも言われた様に、ある時期からまた、消えていく。それは、『春と修羅』第一集というのは、「風景とオルゴール」という章の、作品の日付は、大正一二年くらいになりますけど、実際、詩集が刊行されたのは、一三年ですから、我々がもっている「第二集」というのは、もちろん、赤罫詩稿用紙にきれいに清書されたのは、もっと後だとしても、原型はすでに手元にありますから、同じ時期に内容的にはダブっている時期があると思うんですね。そういう様な何かが、仮にやはり、大正一三年の夏詩群と呼んでみたい様な時期まで、かなり色濃く、それらが同調する必然性があった。しかし、そういう姿で、私に言わせると、性愛、妹さんというものに対してですね、あけっぴろげの愛情とか、愛着とかを出すのは安全なんです。最近では、安全じゃなくて、それは、近親相姦の現実的行為があるとか、そういう風な感じに、言いかねない情況にいまありますけれど、ある意味では逆に妹への愛というのは、愛着とか愛執を出しても、普遍的な愛というものとさほど、衝突しないで理解できる。安全性があると思うんですね、そういうものによって、大げさにいえば、ある種のカムフラージュというのがなされたと思うのです。カムフラージュといっても、隠すという意味ではなくて、自分の持っているテーマ、思想に対する強調として、個別、具体的なものとして、ある典型化された図式、禁欲の思想と、その情愛の思想とのバランスとか、表裏の入れ替りみたいなものを、賢治ははかりながら、表現化しているんじゃないかと思いますが。(宮沢賢治学会イーハトーブセンター発行『「春と修羅 第二集」研究』p.260-261)

 初めの方にある、「特定の女性とのお付き合いが、それなりに深まったものとしてあったかもしれない」が、「特定の人の名前はまだわかっておりません」という状態だったところに、最近の澤口たまみさんのお仕事によって、「大畠ヤス」という可能性が、とみにクローズアップされてきているわけです。
 そして栗原さんによれば、賢治はこの「特定の女性」に対する思いと、トシを亡くした喪失体験との両方を、『春と修羅』と『春と修羅 第二集』の頃に抱えていたと思われるが、前者はより「安全」である後者の中に、カモフラージュされる形で表現されているのではないか、というのです。

 すなわち、『春と修羅 第二集』の「津軽海峡」や「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」に込められている感情は、前回「ネガとポジの行程」という記事でも書いたように、私としては妹トシに対するものだろうと考えているわけですが、同時にそこには、大畠ヤスへの思いも込められている可能性があるのです。
 これは、「トシへの感情か、ヤスへの感情か」という二者択一で考えるべきものではなくて、賢治によって両方が巧妙に重ね合わされているのではないかというのが、栗原さんのご指摘の私なりの解釈です。

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2017年8月13日 ネガとポジの行程

 前々回の「津軽海峡のかもめ」という記事と、前回の「如来的あるいは地質学的視点」という記事の趣旨はひとことで言えば、賢治は1923年夏のサハリン行の往路と、1924年5月の修学旅行の復路において、空間的にはほぼ同じ場所で逆を向いて、内容的には対極的な作品を書いていたことになるのではないか、ということでした。
 具体的には、津軽海峡の船上における「津軽海峡」と「〔船首マストの上に来て〕」、青森駅の少し東の東北本線列車内における「青森挽歌」と「〔つめたい海の水銀が〕」(正確にはその先駆形「島祠」)という二組の作品が、上記のような「対」を成しているように見えるのです。

 これを、地図上に表示してみると、下のようになります。

行程の反転
(地図は「カシミール3D」より)

 サハリンへの往路の「青森挽歌」も「津軽海峡」も、孤独で悲愴な調子であるのに対して、修学旅行の帰途に各々ほぼ同じ場所で書かれた「〔船首マストの上に来て〕」と「〔つめたい海の水銀が〕」は、何かふっ切れたような、明るく軽やかな気分があふれています。
 前者の二つを「ネガ」とすれば、後者の二つは「ポジ」と言うことができるでしょう。

 そして、各作品のモチーフを具体的に見てみると、まず「青森挽歌」と「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形「島祠」とは、輪廻転生における今生とは別の生を見るという共通した視点に立ちながら、そこに普遍性と個別性という逆の価値を見出しており、また「津軽海峡」と「〔船首マストの上に来て〕」とは、どちらも船に来るかもめを妹の象徴と見つつも、そこに正反対の感情を担わせているのです。
 つまり、いずれの「対」においても、同じモチーフを取り上げつつそれを逆方向から見ているのであり、これは空間的に「同じ場所」において「逆を向いている」ことと、あたかも対応しているかのようです。

 そしてもっと考えるならば、ここでは個々の作品同士が「点」として対照を成しているだけではなく、二つの旅の行程そのものが「線」として、ネガとポジになっているようにも思えます。

 1923年の夏にサハリンへ渡った賢治の旅は、形としては10日あまりで終わりましたが、実際のところ彼にとっては、この旅ではまだ心の決着はついておらず、翌年の5月にもう一度北海道から帰ってくる時に、やっと一つの整理をつけて、故郷に帰ることができたということなのかもしれません。
 そして花巻に戻った彼は、まもなくその7月に、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」を書いて、亡きトシを身近に見出すのです。

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2017年8月 6日 如来的あるいは地質学的視点

 「青森挽歌」の最後は、次のように終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 ここで二重括弧に囲まれた《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉の意味は、全ての人間(あるいは全ての衆生)は、悠久の時間の中で輪廻転生を繰り返すうちに、互いに兄弟となったことが必ずあるのだから、その中でことさら今生の肉親についてだけ祈るというのは無意味なことだ、ということになるでしょう。
 私たちでも、生き物たちが生まれかわり死にかわりするたびに、様々な出会いと別れを繰り返していくそのような生命の連鎖を、理屈として想像することはできますが、三世十方にわたる全てを見通す能力=「天眼」を備えた仏(如来)にとっては、それは直に目に見え感得される眺望だということになります。
 賢治は、このようにして全ての生命が一体であると考えることによって、自分も妹トシのことばかりを祈っていてはいけないと、自らを戒めたのです。

 この「青森挽歌」の舞台は、1923年7月31日の夜から8月1日の未明、賢治が花巻から青森に向かっていた東北本線下り夜行列車の中で、当時の時刻表調査によると、青森駅着は午前4時30分とされています。作品中の時間を考えてみると、最初の方に「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱をよどませ」とあることから、ほんの少し地平線は明るくなってきているのかと思われ、また終わりの方では「ぢきもう東の鋼もひかる」と書かれており、もう夜明けは近いのだと推測されます。ちなみに、1923年8月1日の青森市における日の出は4時32分、市民薄明開始は4時1分でした。
 そもそも「青森挽歌」というタイトルからして、これは青森県内の情景だということを作者が示しているわけですが、作品が幕を閉じる段階では、終着駅の青森に、かなり近づいていると考えておいてよいでしょう。

 さて、この「青森駅に着く少し手前」というのは、逆向きの列車に乗れば「青森駅を発車して少し行ったところ」ということになりますが、翌1924年の修学旅行からの帰途において、ちょうどこのあたりで書かれた作品があります。
 「〔つめたい海の水銀が〕」がそれで、下記はその「下書稿(二)」で、「島祠」と題されていた段階の全文です。

    島祠
               一九二四、五、二三、

うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
鴎の声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 一行目の「三稜島」とは、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」のことで、列車の車窓からもすぐ目の前に、かわいらしい三角の形で見えます。 下の写真は、青森駅からは17.2km東の、「浅虫温泉駅」(賢治の当時は「浅虫駅」)からの眺めです。

東北本線から見る「湯の島」
浅虫温泉駅を通る列車から見る「湯の島」

 上の写真では小さくて見えにくいですが、島の下部の中央より少し左寄りのあたりには、この島に祀られている弁財天の社の、朱色の鳥居も見えています。これこそが、賢治が下書稿(二)のタイトルとした「島祠」なのでしょう。
 賢治はよほどこの島の風景が気に入ったのか、初夏のその木々の色を、「パリスグリン」「緑礬いろ」「あらたな銅で被はれた」などと様々な瑞々しい言葉で表現し、島全体を「ひとつの珪化園」とも呼んでいます。

 最後から4行目の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」という箇所の意味は、島全体が海の中に沈んでいて、海底にあった時、ということでしょう。実際にこの「湯の島」が、過去のある時代には海中に没していたのかどうか私にはわかりませんが、青森市から4kmほど内陸に入った台地にある三内丸山遺跡は、縄文時代には海に面した海岸段丘にあったと言われていますから、島も含めてこのあたりの地形は、その後隆起して今のようになったのかもしれません。
 いずれにせよ、朱い鳥居も含めて島全体が海中にあるところを想像すると、それはまるでおとぎ話の竜宮城のような景色です。そしてさらにここからがこの作品の真骨頂なのですが、賢治はこの不思議な海中世界で、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」と言うのです。

 「鱗をつけたやさしい妻」というのですから、その「妻」とは魚なのでしょう。そして魚と夫婦になっているということは、賢治自身も魚だったというわけです。
 1918年5月19日付けの保阪嘉内あて書簡63には、次のような一節があります。

もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。私は人々のうしろから見てゐる。「あゝあの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思はず呑みこんでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横はってゐた。今は不思議なエンチームの作用で真暗な処で分解して居るだらう。われらの眷属をあげて尊い惜しい命をすてゝさゝげたものは人々の一寸のあわれみをも買へない。」
私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません。

 ここで賢治は、自分が過去世において魚だったことを想像しつつ、本当にそうだったに違いないとまで言っているわけですが、設定こそ違えど、「島祠」に出てくるのも、その「魚としての過去世」です。

 さて、この「島祠」に見られる世界観は、この現世以外の別の輪廻転生の「世」を見ているという点においては、「青森挽歌」に現れた如来的な視点と共通していますが、それが目ざす発想の方向性は、正反対を向いていると言えます。
 「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想は、全ての衆生が実は互いに肉親であり一体であるという認識に立って、だから一つの世における個別の愛だけにとらわれるのではなく、全ての生き物の救済をこそ目ざさなければならない、と説くものでした。
 それは、法華経の言葉で言えば、「我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」というような、大乗仏教的な「究極の幸福」を志向するものです。

 これに対して、「島祠」が扱っているのは、上のような全ての時間・空間を射程に入れた壮大なスペクタクルではなくて、地質学的な時間と空間におけるたった一点、すなわち陸奥湾の海底に美しい秘境があって、そこで魚である自分がやさしい妻と暮らしていた、というただそれだけのエピソードに、焦点を当てているのです。
 魚の一生は、本当にはかないものでしょうが、それでもやさしい妻との生活には、魚としての「ささやかな幸福」があったはずです。修学旅行の帰途、無事に引率教師としての責任を果たせそうでほっとしていた賢治は、車窓の景色を見てふとこのような空想をしたのです。

 ただ、こんな小さな幸せに甘んじるなどという生き方は、本来の真面目な賢治にとっては、あまり素直に肯定できるものではなかったはずです。そんな小市民的(小魚的?)な満足には安住せずに、全ての人の幸せのために、たとえ自らは苦しくとも努力を重ねるべきだというのが、彼の基本的な考えでした。「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉も、まさにそんな賢治らしい禁欲的な思想の表現です。
 一方、この「島祠」で賢治が描いた世界というのは、そういう真面目な賢治の考えとは一線を画しますが、むしろそれへの一つのアンチテーゼになっているのではないかと、私には思えるのです。全ての時間と空間に通ずる普遍的な「善」を求めるかわりに、四次元空間の中で何の変哲もないただ一点の、そのかけがえのなさを愛でるという視点が、ここには提示されています。
 ここからふと私が連想するのは、たとえば「〔はつれて軋る手袋と〕」という作品の中の、次のような一節です。

板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ

 この箇所が、作品全体の中でどういう意味を持っているのかということはちょっとわかりにくいのですが、しかしここには、素朴な家で静かに暮らす夫婦の様子が描かれているようで、そして賢治はそのような小市民的な生き方を、(何かの後悔とともに?)あらためて肯定しているように思えるのです。

 それからあともう一つ、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という一節から連想することがあります。
 それは、前年夏の「宗谷挽歌」において賢治は、

けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く

と、自ら海に飛び込むことさえ覚悟し、さらに

みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

と自らに言い聞かせていたことです。
 ここにも表れているように、賢治は死んだトシが、なぜか海の底に囚われていると考えていたような節がありますし、また「」の下書稿(一)の「海鳴り」でも、彼は海に向かって挑むように苦悩をぶつけ、また同時に「海よしづかに青い魚族の夢をまもれ」と、魚の保護を海に懇願していたのです。
 すなわち、当時の賢治にとって海とは、亡きトシが住む他界のように想定されていた面があり、「海に封ぜられても悔いてはいけない」と思い詰めていたのは、トシに再会することの代償でもあったのでしょう。

 そのような賢治が、「海に封ぜられる」という運命を一種のファンタジー化したものが、童話断片「サガレンと八月」だったのではないかと思うのですが、翌年に書かれたこの「島祠」は、その新たな肯定的なファンタジー化とも言えるのではないでしょうか。竜宮城のような海底の秘境で、「鱗をつけたやさしい妻と」一緒に暮らすというのであれば、「海に封ぜられる」ことさえも、はかなくささやかな幸せとともに、甘受してもよいかもしれません。

 以上、青森駅のやや東を走る列車内というほぼ同じ場所で着想された、二つの作品を見てみました。
 1923年の下り列車における「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉と、1924年の上り列車における「島祠」の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージとは、どちらも輪廻転生観に基づいた、如来的=地質学的視点を前提としているところは共通していたのですが、前者は、普遍的な「善」=「究極の幸福」のためには、この世の個人の感情などにとらわれるなと説くのに対して、後者は、はかない生における個の「やさしさ」を大切にしつつ、「ささやかな幸福」に目を向けるものでした。
 二つの作品の方向性は、対極を志向するものと言えます。

 前回の「津軽海峡のかもめ」という記事では、死んだトシが鳥になったのではないかという賢治のイメージに基づいて、二つの作品を比較してみましたが、今回は、亡きトシが海に囚われているのではないかという、前者とは大きく異なったイメージが関連しているようでした。
 鳥なのか海なのか、亡きトシの行き先をいったいどう理解したらよいのか、それは賢治にとっても理屈でどうこうできるものではなかったのでしょうし、ある時期までは両方のイメージが混然として、悩める賢治の心の中で揺れ動いていたのかと思われます。

 そしてやはり、1923年夏のサハリン旅行の往路と、1924年の北海道修学旅行の復路で、ほぼ同じ場所で着想された対照的な内容の二作品が、「対」になっているように思われるというのが、前回と今回を通して感じられたことでした。

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2017年7月30日 津軽海峡のかもめ

1.「津軽海峡」(『春と修羅』補遺)におけるかもめ

上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけをきいている
私もひとり連絡船に乗り
こごえそうなかもめ見つめ泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色
        (作詞: 阿久悠「津軽海峡・冬景色」より)

 石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」においても、青函連絡船から見るかもめは、主体の悲しみの象徴だったようですが、宮澤賢治が1923年夏にサハリンへ向かった途上でも、やはりこの海鳥は同じような役回りにあったと思われます。
 以下、少し長いですが、「『春と修羅』補遺」より「津軽海峡」を引用します(下線は引用者)。

   津軽海峡
       ――  一九二三、八、一、――

夏の稀薄から却って玉髄の雲が凍える
亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き
新らしく潮で洗ったチークの甲板の上を
みんなはぞろぞろ行ったり来たりする。
中学校の四年生のあのときの旅ならば
けむりは砒素鏡の影を波につくり
うしろへまっすぐに流れて行った。
今日はかもめが一疋も見えない。
 (天候のためでなければ食物のため、
  じっさいべーリング海峡の氷は
  今年はまだみんな融け切らず
  寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)
向ふの山が鼠いろに大へん沈んで暗いのに
水はあんまりまっ白に湛え
小さな黒い漁船さへ動いてゐる。
(あんまり視野が明る過ぎる
 その中の一つのブラウン氏運動だ。)
いままではおまへたち尖ったパナマ帽や
硬い麦稈のぞろぞろデックを歩く仲間と
苹果を食ったり遺伝のはなしをしたりしたが
いつまでもそんなお付き合ひはしてゐられない。
さあいま帆綱はぴんと張り
波は深い伯林青に変り
岬の白い燈台には
うすれ日や微かな虹といっしょに
ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。
どこで鳴る呼子の声だ、
私はいま心象の気圏の底、
津軽海峡を渡って行く。
船はかすかに左右にゆれ
鉛筆の影はすみやかに動き
日光は音なく注いでゐる。
それらの三羽のうみがらす
そのなき声は波にまぎれ
そのはゞたきはひかりに消され
  (燈台はもう空の網でめちゃめちゃだ。)
向ふに黒く尖った尾と
滑らかに新らしいせなかの
波から弧をつくってあらはれるのは
水の中でものを考へるさかなだ
そんな錫いろの陰影の中
向ふの二等甲板に
浅黄服を着た船員は
たしかに少しわらってゐる
私の問を待ってゐるのだ。

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。
「あれは鯨と同じです。けだものです。」

くるみ色に塗られた排気筒の
下に座って日に当ってゐると
私は印度の移民です。
船酔ひに青ざめた中学生は
も少し大きな学校に居る兄や
いとこに連れられてふらふら通り
私が眼をとぢるときは
にせもののピンクの通信が新らしく空から来る。
二等甲板の船艙の
つるつる光る白い壁に
黒いかつぎのカトリックの尼さんが
緑の円い瞳をそらに投げて
竹の編棒をつかってゐる。
それから水兵服の船員が
ブラスのてすりを拭いて来る。

 最初の方の8行目に、「今日はかもめが一疋も見えない」とありますが、中ほど47行目では、「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」となっており、おそらくかもめは、途中から賢治の前に姿を現したのでしょう。
 しかしそもそも賢治が、実際に目の前にある情景だけでなく、わざわざ「今日は見えない」存在について、まず初めに書き記した理由は何だったのだろうかと考えてみると、この時彼は、津軽海峡のかもめに会うことをあらかじめ期待して、連絡船に乗り込んだのではなかったかという気がしてきます。

 「今日はかもめが一疋も見えない」の「今日は…」という対比の相手は、5行目の「中学校の四年生のあのときの旅ならば…」になりますので、賢治は中学校の修学旅行の際には、津軽海峡でかもめを目にしていたのでしょう。その時の記憶があったので、彼は今日もかもめに会えるかと思って青森港から乗船したのに、船が動き出してもその鳥の姿は見えず、ここまでは賢治の期待は裏切られていたのではないでしょうか。

 私がこのように彼の気持ちを推測する理由は、47行目の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」という一節にあります。
 と言うのも、かもめという白い色をした鳥が、「かなしく鳴きながら」、賢治が乗った船について来る描写からは、どうしても2か月前の「白い鳥」の、次の一節を思い起こさずにはいられないからです。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる

 上の「白い鳥」が、死んだ妹の化身であったように、津軽海峡でかなしく鳴きながら賢治の船について来るかもめも、彼にとっては妹の象徴だったはずです。そして実際、賢治がこのかもめを見た後のテキストでは、「こんなたのしさうな船の旅もしたことなく/たゞ岩手県の花巻と/小石川の責善寮と/二つだけしか知らないで/どこかちがった処へ行ったおまへが/どんなに私にかなしいか…」と、トシの回想が始まるのです。

 この日の未明、「青森挽歌」において、「いつぴきの鳥になつただらうか」「かなしくうたつて飛んで行つたらうか」と想像したトシの幻影を、ここで再び賢治は津軽海峡のかもめに見たのです。

2.「〔船首マストの上に来て〕」(補遺詩篇 I )におけるかもめ

 さて、賢治の作品において、次に津軽海峡が舞台となるのは、翌年5月の北海道修学旅行の往路で書かれた、上記と同名の「津軽海峡」ですが、この作品には「かもめ」や「鳥」は登場しません。
 そこで注目すべきは、この旅行の復路、室蘭から青森に向かう船上で書かれた「〔船首マストの上に来て〕」という作品断片です。ここにまた、かもめが姿を見せるのです。
 下記は、その残存している全文です。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
 ……船員たちはいきなり飛んできて
    足で鶏の籠をころがす
    鶏はむちゃくちゃに鳴き
    一人は籠に手を入れて
    奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
 ……島は鶏頭の花に変り
    水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
 ……みんながはしけでわたるとき
    馬はちがった方向から
    べつべつに陸にうつされる……

 こちらの作品は、さびしさを湛えた前年の「津軽海峡」とは対照的に、祝祭的な雰囲気に満ちています。以前に、「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事で考察したように、この時の賢治は、トシの死をめぐって何か大きく肯定的な心境変化を遂げたのではないかとも、私は推測しています。

  この断片冒頭、「船首マストの上に来て/あるひはくらくひるがへる」と描写されている存在がはたして何であるのか、この箇所だけからはわかりません。しかし後半の29行目に、「……かもめの黒と白との縞……」、32行目に「かもめは針のやうに啼いてすぎ」とあることからすると、これこそがかもめに違いありません。今回はかもめは、賢治の乗る船の「船首マストの上に」、来ていたのです。
 そして、先日「鳥となって兄を守る妹」という記事でご紹介したように、沖縄地方の伝承では、このように航海中に船の柱に白い鳥が来るのは縁起の良いこととされていて、なぜならその鳥は、「おなり神(姉妹神)」の象徴と考えられていたからです。これについて先日の記事では、伊波普猷が1927年に書いた「をなり神」の一部を引用しましたが、今回は伊波が賢治のこの旅行と同じ1924年に出版した、『琉球聖典おもろさうし選釈』から引用してみます。

琉歌にも、
   船の艫なかい、白鳥しらとやが居ちよん、
   白鳥しらとややあらぬ、おみなりおすじ。
といふのがあるが、これは船の艫に、白鳥しらとりが止まつてゐる、否々、白鳥しらとりではない、私を守護してくれる、姉妹の生ける霊である。の意だ。これで見ると白鳥しらとりが「をなり神」の象徴であることもわかる。沖縄では航海中白鳥しらとりが船の柱などに止まるのを縁起のいゝことゝされてゐた、それは陸が近くなつたことを知らして呉れるから。さういふところから白鳥しらとりは自然その守護神なるおみなりおすじ丶丶丶丶丶丶丶の象徴にされたのであらう。こゝでいふ白鳥はスワンのことではなくて、単に白い鳥といふことである。

 すなわち、沖縄の伝承に照らしてみると、やはりこのかもめは「妹の象徴」と解釈できるわけで、その点では前年の「津軽海峡」の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」というところと同じです。しかし、こちらの「船首マストの上に」来ているかもめは、兄賢治にとっては「守護神」であり、「幸運の象徴」でもあるのです。
 そして、このかもめが持つ肯定的な意味合いが、作品全体の明るさの重要な構成要素になっているのです。

3.「ネガ」と「ポジ」

 つまり、私が思うのはこういうことです。
 1923年に津軽海峡を北に往きつつ書かれた「津軽海峡」と、1924年に津軽海峡を南に還りつつ書かれた「〔船首マストの上に来て〕」とは、どちらも亡き妹トシの化身とも言える「かもめ」が海上で現れるという点において、ちょうど「対」になった二作品と言えるが、各々においてそのかもめが象徴している意味内容を比べると、前者では「白い鳥」と同様に「兄との死別の悲しみに暮れる妹」であるのに対して、後者では「兄を守護し幸いをもたらす妹」であり、まさに対極的な意味づけができるのではないか、ということです。
 もちろん、賢治が当時、「白い鳥=おなり神」といった沖縄の伝承を知っていたとは思えないのは、先日も検討したとおりなのですが、しかし少なくとも、マストの上をひるがえって飛び、針のように啼くこちらのかもめには、前年にはなかった躍動性があふれています。賢治はこちらのかもめに対しては、「かなしく鳴きながらついて来る」かもめとは、何か明らかに違ったとらえ方をしているのです。
 すなわち、寂しく悲しい「津軽海峡」と、輝かしく明るい「〔船首マストの上に来て〕」という二作品は、ほぼ同じ海峡上における「北向き」と「南向き」という空間的な対蹠性にとどまらず、その内容も含めて、言わば「ネガ」と「ポジ」をなす関係にあると言えるのではないでしょうか。

 そしてこれら二作品の関係を、このように位置づけることができるならば、それはさらに私にとっては、次のような二つの事柄を示唆してくれるように思えます。

 一つは、死んだトシと鳥を関連づけるというこの認識パターンが、当時の賢治にとっていかに根深く重い意味を持っていたのかということの、再確認です。それは、1923年夏の「白い鳥」と「青森挽歌」に始まり、最後は翌年夏の「鳥の遷移」や「〔この森を通りぬければ〕」に及んでいますが、実は「津軽海峡」にも引き継がれていた上に、さらに翌年5月の「〔船首マストの上に来て〕」でも重要な意味を帯びていたわけです。あらためて、「鳥としてのトシ」を描く作品群の連鎖が、浮き彫りになってきます。
 そうなると、同じこの期間において「鳥」が登場する他の作品、たとえば「山火」とか「〔祠の前のちしゃのいろした草はらに〕」などに出てくる「鳥」にも、どこかにそのようなトシのイメージの痕跡はなかったか、もう一度見直しておいた方がよいのかもしれません。

 そしてもう一つは、「ネガ」と「ポジ」の関係にあるのは、単に上の一対の二作品だけにとどまるのか、という問題です。ひょっとしたら、1923年8月の旅と、1924年5月の旅との間には、他にも対応関係があるのではないか、という疑問が起こります。
 これについては、また次回に考えてみたいと思います。

陸奥湾のかもめ

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2017年7月23日 あの世の入口

 賢治は1923年夏、北海道の噴火湾に沿って走る列車の中から駒ヶ岳を眺めてその雲の中にトシを思い、また翌1924年5月には、苫小牧の海岸でまたトシのことを考え悩み、翌日は白老でアイヌ集落を見学した後、室蘭から船に乗りました。
 その室蘭からの船上も、賢治にとってはトシへの心境の大きな節目になったのではないかと思うのですが(「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」参照)、最近たまたま知里真志保氏の「あの世の入口――いわゆる地獄穴について――」という論文を読んでいましたら、ちょうど上に挙げたような道央地区の太平洋岸一帯には、アイヌの人々が「あの世の入口」と考えていたスポットが、たくさん分布していることを知りました。

 詳しくは、上記のリンク先にある知里真志保氏の興味深い論文をお読みいただければと思いますが、この中の「二 あの世の入口に関する各地の伝説」および「三 登別のアフンルパルについて」の節で挙げられている19か所の「あの世の入口」=アイヌ語では「アフルンパロ」のうち、道央の太平洋岸には、下の地図のように9か所が存在するのです。

 地図に付けたマーカーの数字は、それぞれ「あの世の入口―いわゆる地獄穴について―」の「二 あの世の入口に関する各地の伝説」における見出し番号に対応して、下記のようになっています。

(1) 虻田の海岸にあるアフンルパル
(2) 室蘭のアフンルパロ
(3) 富川のオマンルパロ
(4) 余市のオマンルパロ
(5) 沙流川上流のオマンルパロ
(6) 平取村のオマンルパロ
(10) 鵡川の洞窟
(
15) 千歳町内のオマンルパル
(18) 虎杖浜のアフンルパル
(19) 登別のアフルンパル

 これらは、だいたいが海岸の崖にある洞窟で、アイヌの人々はその洞穴が「あの世」とつながっていると信じていて、神聖な儀式の時以外には近づいてはいけない場所とされていました。
 ここから連想するのは、沖縄・奄美・先島の多くの諸島では、亡くなった人を海蝕洞窟に風葬するという葬法が長く行われていたということです(谷川健一著『日本人の魂のゆくえ』)。近世以降のアイヌ人は、集落近くの墓地に遺体を埋葬していたようですが、その昔には、沖縄と同じように海岸の洞窟に死者を葬っていた時代があって、「あの世の入口」とされている上記のような場所は、その葬地の記憶の痕跡なのではないかとも想像します。
 久保寺逸彦氏の「アイヌの他界観に就いて」という論文には、上の地図で(2)の「室蘭のアフンルパロ」と呼ばれている断崖の洞穴のスケッチが、掲載されていますので、下記に引用させていただきます。ここは、「〔船首マストの上に来て〕」の船上の賢治が、出航してまもなく後ろを振り返れば、見ることができたかもしれません。

室蘭のアフンルパロ

 ところで賢治が、このようなアイヌの伝承について知っていたのか否かについては、何とも言えません。彼は、中学5年の北海道修学旅行と、農学校教師としての修学旅行引率の際には、白老のアイヌ集落を見学していますので、アイヌの生活に関する一般的な知識は持っていたでしょう。また、修学旅行の引率で北海道へ出発する直前には、自ら花巻郊外の熊堂のアイヌ塚付近を訪ねて、アイヌの幻影も登場する「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」という作品を書いていますから、アイヌに対してかなり関心を抱いていたことも事実でしょう。

 しかし、このアイヌの他界観が、実際に当時の賢治に影響を与えていたと考えられるような具体的証拠は、現時点では何もありません。
 ただそれでも、これは私にとっては何となく面白く感じられます。

 彼が、とにかく亡くなったトシに会いたい、何とかして通信を交わしたいと胸を焦がしつつ、何度か鉄道で往復した北海道の太平洋岸には、あの銀河鉄道の沿線にあった「そらの孔(石炭袋)」にも比すべき「あの世の入口」が、実はいくつも口を開けていて、彼はそのすぐそばを列車や船で旅していたのです。

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2017年7月 9日 山の雲と他界

 サハリンから帰りの列車の中、「噴火湾(ノクターン)」において、賢治は北海道駒ヶ岳にかかる雲の中に、亡くなった妹トシが隠されているのかもしれないと、空想します。

東の天末は濁つた孔雀石の縞
黒く立つものは樺の木と楊の木
駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない

 ところで、『万葉集』の中にも、これとよく似た挽歌がいくつも収められていることを、大東俊一著「日本人の他界観の構造―古代から現代へとつながるもの―」という論文で知りました。
 それは、次のようなものです。

こもりくの 泊瀬はつせの山の 山のに いさよふ雲は いもにかもあらむ
   柿本人麻呂(巻三・四二八)

山のゆ 出雲の児らは 霧なれや 吉野の山の 嶺にたなびく
   柿本人麻呂(巻三・四二九)

佐保山に たなびく霞 見るごとに いもを思ひ出で 泣かぬ日はなし
   大伴家持(巻三・四七三)

つのさはふ 磐余の山に 白たへに かかれる雲は 皇子すめらみこかも
   (巻十三・三三二五)

 一、四首目では山にかかる「雲」が、二首目では山から立ち上る「霧」が、三首目では山にたなびく「霞」が、亡き人を心に呼び起こす契機となっており、賢治の場合と不思議に共通しています。
 これらの歌の背景にある他界観について、大東俊一氏は次のように考察しておられます。

 山にかかる雲・霧・霞などは天に近接するものであり、天上他界を示唆しているものと言われてきたが、歌意を忠実にたどれば、雲・霧・霞などは第一義的には故人を偲ぶ手がかりとして機能していると考えられよう。そして、五感の働きの及ばない世界に故人が去っていってしまったことを嘆き悲しむことが歌意であるとすれば、これまで天上他界と言われてきたものは空間的に特定された天上ではなく、葬地としての山中他界の向こうに広がるさらに漠然とした境外の他界と言ってもよいであろう。

 すなわち、人が「山にかかる雲」に寄せて亡き人を思う時、故人の居場所は「天上」と想定されているわけではなく、むしろ「山中他界」に近いものとして考えるべきだという指摘です。
 これは、賢治が「噴火湾(ノクターン)」の上の引用に続けて、最後に次のように書いていることとも、符合します。

たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 最後の行の「どこかにかくされたとし子をおもふ」の「どこか」とは、具体的には上のように駒ヶ岳にかかる「まつくらな雲のなか」なのですが、やはりこの時賢治は、トシが天上(=「きらびやかな空間」)に往生したとは、どうしても感じられていないのです。大東氏によれば、その「雲」は天上にあるというよりも、日本固有信仰における「山」を象徴しているのです。

 いずれにせよ、ここでもやはり賢治がトシを思う時の他界観は、仏教よりも日本の古層にあったそれに、つながっているのです。

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2017年7月 2日 鳥となって兄を守る妹

 先週の「「トシの行方」の二系列」という記事を書きながら、谷川健一著『日本人の魂のゆくえ 古代日本と琉球の死生観』という本を、興味深く読みました。

日本人の魂のゆくえ―古代日本と琉球の死生観 日本人の魂のゆくえ―古代日本と琉球の死生観
谷川 健一

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 この本の帯には、次のような文が書かれています。

誕生と死は、日本人にとって
どのようなものであったのか
死者、祖霊、神はいつも生者の傍らにあって、
ともに遊んだそこには、死者を永久に閉じ込める息の
詰まる世界はない

 著者の谷川健一氏はこの本で、日本の神道が死者を「ケガレ」として忌避し生者から遠ざけるようになる以前の古い信仰、あるいは「ニライカナイ」が海の彼方の遠い異界と考えられるようになる以前にもっと近しく存在すると考えられていた時代の死生観を、様々な証拠をつなぎ合わせて掘り起こそうとしておられます。
 「死者がいつも生者の傍らにある」というイメージが、実は我々の古層に存在するのではないかというのが著者の主張の一つなのですが、それは賢治が死んだトシに対してある時期から抱いていた感覚にも通ずるのではないかと、かねてから私が考えてきたところでもあります。
 この本における議論はさらに広範で奥深く、とてもここで私が簡単にまとめられるようなものではありませんが、本を読んでいるうちにいくつか賢治との関連で面白く感じたところがありました。

 一つは、同書の「青の島とあろう島」という章で述べられていることですが、古い時代の琉球の人々は、自分たちが住む島からすぐ目の前の「地先の島」に死者が住んでいると考え、そこを「青の島」「アウの島」「奥武(おう)の島」などと呼んでいたが、後世になって死者が住むのは水平線の彼方の「ニライカナイ」と考えるようになったのではないか、という話です。
 すぐ目の前の青い島に「他界」を見るというのは、賢治の作品で言えば「〔つめたい海の水銀が〕」の下書稿(二)「島祠」において、修学旅行の帰途の列車から陸奥湾に浮かぶ「湯の島」を見て、次のように「竜宮」を思ったことと、偶然にも相似形を成しています。

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 トシの死後約1年半が経って、賢治はこの「湯の島」に「青の島」を見たのでしょうか。

東北本線から見る「湯の島」
東北本線から見る「湯の島」

 そしてもう一つは、同書の「挽歌から相聞歌へ」という章において引用されていた、下のような「シマウタ」です。これは、奄美大島南部において、死者の棺の前で歌ったり、墓を弔う時に歌ったりする「行きよれ節」と呼ばれる唄だということですが、私はこれを読むと賢治の「白い鳥」を連想せずにはいられません。

なごびらぬちぢに
白鳥(しらとり)ぬゐしゆり
白鳥やあらぬ
美代貞主がたまし

(訳)
なご坂(びら)の上に
白鳥が坐っている
ただの白鳥ではないよ
美代貞(人名)主の魂だよ

 賢治自身は「白い鳥」において、ヤマトタケルの白鳥伝説を引用し、また「死者が鳥になる」という説話は『遠野物語』にもいくつも収められていることは、前回もご紹介したとおりですが、南島地方にもまさに同型の信仰があったわけです。

 またこれとよく似た歌を、伊波普猷が1927年に『民族』誌に発表した論文「をなり神」において、次のように紹介して解説しています。

 南島人は、航海中、海鳥が帆桁などに止まるのを、縁起のいゝことゝした。例へば琉歌の中にもかういふのがある。

御船の高艫に    (船ノ高艫ニ)
白鳥が居ちよん   (白イ鳥ガ止マツテヰル)
白鳥やあらぬ     (白イ鳥デハナイ)
おみなりおすじ    (姉妹ノ生御魂ダ)

 それは南島中、どこでも謡はれてゐる歌である。「おみなりおすじ」は、「をなり神」の同義語である。「すじ」は「せぢ」と同語で、聖化されたものゝ義だから、「おすじ」に稜威・霊あるもの・神のやうなものゝ義のあることは、いふまでもない。
 かうして白鳥(海鳥)が「をなり神」の象徴になったことは、近代のことではない。「屋良ぐわいにや」にも、亦同じ思想があらはれてゐる。この「くわいにや」は三十行のもので、こゝには出すことが出来ぬが、海外に派遣されることになつた屋良村の地頭が、縁起のいゝことに、屋良の浜辺で、金銀を咥へてゐる海鳥を捕獲して、それを金銀製の籠に入れ、首里の都に上つて、国王と其世子とに献上する迄のいきさつを歌つたものである。詩句のきれる毎に、「をなり、やあらあ、やう(姉妹なる屋良よ)あむしいたあ(女等よ)」と囃子をなすところから考へて見ても、海鳥がやはり「をなり神」の象徴であつたことが知れる。

 つまり、南島では船の帆桁などに白い鳥が止まるのを吉兆と見るということなのですが、その理由は、白い鳥のことを「おなり神」の象徴だと考えるからだというのです。ここで「おなり神」とは、妹が兄に対して持つとされる力の神聖化で、たとえば Wikipedia の「おなり神」には、「妹(をなり/おなり/うない)が兄(えけり)を霊的に守護すると考え、妹の霊力を信仰する琉球の信仰」と書かれています。琉球においては、兄と妹の関係に、特別なものを見ていたのです。

 さてこのように、「白い鳥」という存在が、ヤマトタケル伝説のように「死者一般」の象徴であるばかりでなく、「兄を守る妹」の象徴であるのだとすれば、トシの死後の賢治の「鳥」に対する特別な思い入れが、ここでまたぐっと違った意味を持って迫ってきます。
 彼はトシの死後7か月の「白い鳥」で、かなしく啼く白い鳥を見て、「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ/兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」と詠嘆したことを皮切りに、さらに2か月後の「青森挽歌」でも妹が「いつぴきの鳥になつただらうか」と想像し、さらに1年7か月後の「鳥の遷移」では「わたくしのいもうとの/墓場の方で啼いてゐる」鳥を特別な関心のもとに描き、また翌月の「〔この森を通りぬければ〕」(下書稿(二)の題名は「寄鳥想亡妹」)では、鳥の啼き声の中に「死んだ妹の声」を聴くのです。

 そして、今回私はあらためて気がついたのですが、賢治が亡きトシに関して何か大きな心境の転換を成し遂げたと思われる北海道修学旅行の帰途(「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」参照)、まさに賢治が乗っていたその船の「船首マスト」には、かもめ(=白い海鳥)がやってきていたのです!
 これこそが、南島においては兄を守る妹の魂の化身であり、「おなり神」と呼ばれる存在だったのです。

 さて、このように明らかな対応が認められるのですから、賢治はきっと、「妹の魂は鳥になって兄を守護する」「船の帆桁に止まる鳥は妹の魂であり幸いをもたらす」という沖縄地方の信仰を知っていたのではないかと、ここはどうしても考えたくなってしまいます。
 しかしながら、前回の記事にも書いたように、それは現実にはなかなか考えにくいのです。

 伊波普猷が1911年に刊行した『古琉球』では、まだ「ニライカナイ」や「おなり神」の問題には触れられておらず、柳田国男が1921年に朝日新聞に連載した「海南小記」にも、これらは登場しませんでした。折口信夫が1923年に著した「琉球の宗教」には、「妹(ヲナリ)おがみ」という言葉が一箇所出てきますが、上記のようなその信仰内容については、明らかにされていません。
 伊波普猷が、これらの問題について明確な解説を行った『琉球聖歌おもろさうし選釈』と「をなり神」を発表したのは、それぞれ1924年12月と1927年で、賢治のサハリン行よりも北海道修学旅行よりも後のことでしたし、柳田国男が伊波の「をなり神」に触発されて「玉依彦考」を発表したのは、賢治の死後の1940年のことでした(1940年刊『妹の力』所収)。
 そもそも、賢治が沖縄地方の文化や宗教について、多少なりとも関心を持っていたということを私は知りませんし、仮に深く興味を持って文献を読もうとしていたとしても、上記のような時代的制約から、それは不可能だったと思われるのです。

 そうなると、賢治が数々の作品において、亡きトシと鳥とを結びつけてとらえていたのは、単なる偶然の一致にすぎなかったのか、はたまた何か彼の心の底にある「集合的無意識」が働いたのか、それとも私が調べえた以外に、琉球の信仰と賢治をつなぐ何かの「糸」が存在するのか、今の私にはこれ以上は不明です。

 しかしそれにしても、不思議を感じている今日この頃です。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
・・・・・・・

written by hamagaki : カテゴリー「作品について
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