2010年7月29日 「停車場の向ふに河原があって」現場探訪

 去る7月25日、一関市東山町の「石と賢治のミュージアム」で開催された、「グスコーブドリの大学校」という催しに参加してきました。本当は、大学校はこの日から2泊3日で開かれるのですが、私は都合で初日だけの出席。
 慌ただしい往復でしたが、この日に行われる「停車場の向ふに河原があって」の現場探訪に、どうしても参加してみたかったのです。

 まず会場へ行く前に、東北砕石工場跡にある食事処「ひまわり」で昼食をとりました。ここは地元のお母さんたちが運営しておられるのですが、地元の採れたての食材を使った手作りの味で、いつも本当に美味しいのです。
 今日のメニューは、「きりむぎセット¥500」です。手打ちの「冷やし切り麦」に、茄子の味噌田楽、菊の花と胡瓜の酢の物、もぎたてのトマト、味噌焼おにぎりと胡麻のおにぎり、胡瓜の漬け物。これに、冷たい「どくだみ茶」が付いています。

食事処「ひまわり」の「きりむぎセット」

 日陰で涼しい屋外のテーブルで食事を終えると、いよいよ「グスコーブドリの大学校」会場へ。その昔、石灰肥料を運搬したトロッコ軌道跡の歩道を、「石と賢治のミュージアム(太陽と風の家)」に向かいます。岩手県も、本当に暑い陽射し。

「グスコーブドリの大学校」会場

 オープニングは、まず斎藤文一さんの講演「賢治の法華世界―基軸宇宙論をめぐって」。

斎藤文一「賢治の法華世界―基軸宇宙論をめぐって」

 賢治が手帳において「〔雨ニモマケズ〕」の後に書いた略式十界曼荼羅のこと、日蓮の法華曼荼羅に触発されて斎藤文一さんが書いた「幻想銀河鉄道いのち曼荼羅」という図式のこと、斎藤さんが考える「宇宙胚」のことなど・・・。現実の賢治の作品や思想を考察したり説明するというのではなく、賢治からインスピレーションを得て、斎藤さん独自の一風変わった世界観を披瀝する、というお話でした。

 さて、次がお目当ての、「停車場の向ふに河原があって」現場探訪。案内は、この「石と賢治のミュージアム」館長の藤野正孝さんです。

藤野正孝館長のお話

 まず、会場で「〔停車場の向ふに河原があって〕」の作品説明。藤野さんは、この作品草稿は1931年(昭和6年)6月14日に書かれたと推測しておられますが、この日に賢治は東北砕石工場を訪れ、鈴木東蔵は地元の鈴木屋旅館の乗合自働車を借り上げて、賢治を猊鼻渓および田河津地区の高金という場所に案内したということです。これについては、日をあらためて考察をしたいと思います。

 次に、会場を出てバスに乗り込みました。

現場探訪バス

 バスは、まず陸中松川駅に寄ります。この駅は、賢治も東北砕石工場へ出向くたびに何度も乗降した場所ですが、残念ながら今年の3月に改築され、現在の駅舎はごく小さなものになっています。駅前広場の広大さが、よけいに寂しさを誘います。

新・陸中松川駅と駅前広場

 下の図は、地元の方が描いた「昭和5年頃の東北砕石工場と陸中松川駅周辺」の図。砂鉄川の流れが現在とは違っていたことを、初めて知りました。

「昭和5年頃の東北砕石工場と陸中松川駅周辺」

 またバスに乗って、砂鉄川沿いに猊鼻渓舟下りの乗り場へ向かいます。

猊鼻渓舟下り乗り場 右写真が、猊鼻渓舟下りの乗り場。何艘もの舟が繋いであって、けっこう沢山の観光客で賑わっています。
 「大学校」のメンバーとともに岸から舟に乗り込み、靴を脱いで座ります。さっきまでの猛暑もどこへやら、いつしか空も曇って、ひんやりとした風が川面をすべってきます。

 「舟下り」とは言いますが、最初は船頭さんの操る「棹」の力で、川を上っていきます。水は透きとおって、鯉が泳いでいるのも見えます。

猊鼻渓(1)

 下写真で、右側の岩は女性の横顔のように見えるというので「少婦岩」、左側の絶壁は「錦壁岩」。

猊鼻渓(2)

 そして下写真は、猊鼻渓最大の石灰岩露頭である「大猊鼻岩」。高さは124mとか。ここへは、いったん舟を降りて、徒歩で向かいました。

大猊鼻岩

 この「大猊鼻岩」こそが、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」の草稿の余白に赤鉛筆で「White lime Stone over the river / NS 75°」と書いてあるポイントだろうというのが、藤野正孝氏の推定であり、この説にはその後、地質学者の加藤碩一氏や原子内貢氏も、賛同しておられるということです。
 「White lime Stone」とは「白色石灰石」、「over the river」とは、地層の層理面が川に覆いかぶさっていることを表しているのだ、ということです。

 地質学では、地層面(層理面)を三次元的に位置づけるために、「走向」と「傾斜」という2つの数値が用いられます。「走向」とは、層理面と水平面の交線の向きのこと、「傾斜」とは、層理面と水平面とが成す角度のことです。
 賢治がメモした「NS 75°」のうち、「NS」は、「走向」が「N(北)-S(南)」すなわちちょうど南北方向であることを示し、「75°」は、層理面が75°の角度で川にかぶさって(オーバーハングして)いることを表しているのだということです。
 この赤鉛筆による書き込みが猊鼻渓のことであるとすれば、それはこの作品の成立時期の推測にとって大きな手がかりとなりますが、これはまた別の日に考えてみます。

猊鼻渓川下りの船頭さん 「大猊鼻岩」から船着場まで戻って、また舟に乗ると、帰りは川下りです。私たちの舟を漕いでくれたのは、佐々木さん(右写真)という船頭さんでしたが、「げいび追分」や「南部牛追い歌」など、見事な喉を披露してくれました。
 伸びのある歌声は、静かな渓谷を渡り、両側の岩壁にも反響して、本当に素晴らしい雰囲気でした。そして幸運なことに、たまたま誰かこの佐々木さんによる猊鼻下りと歌声を、YouTube にアップしているのを見つけました。こちらから、ぜひ一度お聴き下さい。

 もとの船着場に帰り着くと、私は帰りの新幹線に乗るために、一人タクシーで一ノ関駅に向かいました。
 実は、私がこの新幹線に間に合うかどうか、「大学校」のスタッフの方がご親切にもずっと気をもんで下さっていたのですが、お陰様で、無事に余裕を持って一ノ関駅に着くことができました。
 「大学校」の参加者の方々との交流はまったくできなかったのが心残りですが、短い間ながらお世話になった藤野館長、スタッフの皆様、ありがとうございました。

 下の写真は、一ノ関駅のホームの窓からみた、夕暮れの入道雲です。これから新幹線で東京を経て京都へ着くのは、23時31分です。

一ノ関駅のホームの窓から

◇          ◇

 さて、今回の旅行で私は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」が書かれた年月日について、あることを考えました。それは結局は、藤野正孝氏による「1931年(昭和6年)6月14日説」と同じ結果に到るものでしたが、詳しくは日をあらためて、こんどの日曜日にでも書いてみようと思います。

 その際に鍵になると私が思うのは、この詩は陸中松川で書かれたにもかかわらず、なぜ五万分の一「水沢」地図の裏面に書かれていたのか、という謎です。陸中松川駅や東北砕石工場なら五万分の一「一関」に、猊鼻渓は「千厩」に含まれているのに、なぜこの日、賢治は「水沢」の地図を持っていたのか・・・。

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2010年7月22日 陸中松川駅

 こんどの日曜日には、「グスコーブドリの大学校」に一日だけ出席して、「〔停車場の向ふに河原があって〕」の現場探訪に参加しようと楽しみにしていた矢先だったのですが、加倉井さんの「緑いろの通信/7月18日号」によれば、この作品における「停車場」と推定されている大船渡線の陸中松川駅の駅舎は、最近なくなってしまったんだそうですね。
 今は、はるかに小さく簡易な建物になっているようですが、これは賢治ファンとしては寂しい知らせでした。

 今は亡き、陸中松川駅の旧駅舎は、下の写真のようなものでした(2001年夏に撮影)。駅舎の向こう側には、石灰岩が採掘された山肌が見えます。

陸中松川駅・旧駅舎

 駅舎の扉を開けて中に入ると、待合室はかなり広くて、往年のにぎわいぶりを偲ばせていました。私が足を運ぶようになってからは、いつもがらんとしていたのですが・・・。

 この駅は1925年(大正14年)に開業して以来、旧東山町の役場のある長坂地区や観光地猊鼻渓の最寄り駅として、乗降客も多かったそうです。国鉄時代には、急行の停車駅でもありました。
 そもそも旧東山町は、長坂村、田河津村、松川村が合併したものですが、鉄道駅はこの地域で人口も多かった長坂村には作られず、また松川村と言ってもその中心ではなくて村はずれのこの場所に設置されたのは、考えてみれば不思議なことです。この地に石灰岩が多量に埋蔵されていることと、関連があったのでしょうか。

 一時は、長坂村に行く人も、猊鼻渓を目ざす観光客も、この駅で降りて歩いたり乗合自動車を利用していたのでしょうが、1986年に、2km東に猊鼻渓駅が新設されてからは、そちらに役目を譲ってしまった面もありました。
 また、大船渡線そのものも、徐々に乗客を他の路線や交通手段に奪われていき、JR東日本になってからは急行列車も廃止されて、どうしてもこの駅は日陰にまわっていったような感があります。
 そのような流れの中での、今回の駅舎改築・小型化だったわけでしょうか。

 駅舎の前には、これもまたがらんとした広場がありました。幸いこの広場は、まだ元のままのようですね。賢治の「〔停車場の向ふに河原があって〕」によれば、その昔はここに「がたびしの自働車」が停まって、客待ちをしていたということになります。
 この陸中松川駅前で乗合自働車の営業が始められたのは1927年(昭和2年)からだったらしいということを、以前に「停車場・河原・自働車」という記事に書きましたが、もう一つ、鈴木文彦著『岩手のバスいまむかし』(クラッセ)という本でも、この駅前の乗合自働車に関する記述を見つけました(同書p.15)。

『岩手のバスいまむかし』

 これを見ると、菅原旅館も鈴木旅館も、「自動車営業の許可」が1927年に下りる前年の1926年からバスを走らせていたということで、これは「営業運転」ではないということですから、宿泊客へのサービスのようなものだったんでしょうか。
 そして、賢治の「〔停車場の向ふに河原があって〕」には、「傾配つきの九十度近いカーブも切り/径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ」と、自動車が大変な山道を走ることが書かれていますが、これは陸中松川駅から長坂の間の運行をしているだけではありえないことですので、上の文章で「長坂〜猿沢間を延長」したという1929年(昭和4年)以降のことだろうと考えられます(「停車場・河原・自働車」掲載の地図も参照)。

 となると、賢治は1928年(昭和3年)の8月から結核によって病臥生活に入ってしまい、再び戸外で活動ができるようになるのは1931年(昭和6年)以後ですから、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」を書いたのは、これ以降の時期、すなわち東北砕石工場技師となって陸中松川駅を訪れていた際のことではないかという可能性が高まるように思えます。

 というような感じで、陸中松川駅に今から思いをはせているのですが、予定では明後日(土曜日)の夕方に出発して、その晩は一関に泊まり、日曜日に陸中松川の「石と賢治のミュージアム」で斉藤文一さんの講演を聴いたり、藤野正孝館長のご案内で「〔停車場の向ふに河原があって〕」の現地探訪をした後、深夜に京都に帰り着くと思います。
 ご報告のブログへのアップは数日後になると思いますが、ツイッターではその都度中継するつもりですので、よろしければご覧下さい。

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2010年7月15日 宮沢賢治の軌跡を辿るサハリン5日間

 以前に『宮沢賢治とサハリン』という記事でご紹介した素敵な本の著者、藤原浩さんからご連絡をいただきました。
サハリン このたび、藤原さんも立案に関わって、H.I.S.という旅行会社が今年の9月、「宮沢賢治の軌跡を辿るサハリン5日間」というツアーを企画しているのだそうです。
 出発は、9月6日と13日の2コース。5日間で13万8000円。6日出発便には、藤原さんも同行されるのだそうです。

 今回は特に「宮沢賢治」に焦点を当てたツアーなので、その行程は、「とにかく『賢治が行った場所』『行ったかもしれない場所』に絞っています。それ以外のところは、たとえ人気スポットであっても足を伸ばしておりません。」(藤原氏)とのこと。そして日本語のガイド付きで、「オホーツク挽歌」の栄浜や白鳥湖など、宮沢賢治ゆかりのある6ヶ所を巡るのだそうです。

 それから今回のツアーのもう一つの意義は、往復ともに賢治がサハリンへ渡った「稚泊連絡船」に相当する「稚内―コルサコフ航路」を利用するのですが、この「稚内―コルサコフ航路」は今年度一杯で廃止になる可能性がかなり高いのだそうです。
 すると、「宗谷挽歌」の世界を直接体験できるのは、今回が最後のチャンスということになるかもしれないわけですね。

 賢治が前年に亡くなったトシの魂を追い求め、「銀河鉄道の夜」のインスピレーションの一つの源泉にもなったと言われるサハリン。この、北の最果ての地を一度訪れてみたいという方にとっては、大きなチャンスだと思います。ツアーの最少催行人数は、10名とのこと。
 私も行きたくて行きたくて仕方がないのですが、どうしても仕事を休めない・・・(泣)。

 ところで、サハリンへ行かれる方にも、行かれない方にも、藤原浩著『宮沢賢治とサハリン』は、サハリンにおける賢治の足跡や、彼の推定旅行日程、サハリンの風物の豊富な写真も載っていて600円という、とても魅力的でお買い得なブックレットです。
 実用的なガイドブックとしても、座右に置いて眺めるためにも、お奨め!

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【参考エントリ】
「オホーツク挽歌」詩群
『宮沢賢治とサハリン』
「宗谷〔二〕」の紳士は貴族院議員?
西洋料理店のような?
冥界としてのサハリン
7日乗船説と9日乗船説(1)
7日乗船説と9日乗船説(2)
7日乗船説と9日乗船説(3)

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2010年7月11日 自働車は飛ぶ

 賢治が森荘已池氏にに語った逸話として、次のようなものがあります(森荘已池『宮沢賢治の肖像』p.295)。

―― トラックが川井か門馬まで来た時ですがね、小さい真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが、わいわい口々に何か云いながら、さかんにトラックを谷間に落とそうとしているんですよ。運転手も助手も、それに全く気がつかないと見えて知らないんですね。私はぞっとしましたよ。トラックが谷間に落ちるに違いないと思ったんですね。そしたら驚きましたねえ。大きな、そうですね、二間もあるような白い大きな手が谷間の空に出て、トラックが走る通りついて来てくれるんですよ。いくら小鬼どもが騒いで落とそうとしても、トラックは落ちないで、どんどん危ない閉伊街道を進むんですね。私はこれはたしかに観音さまの有難い手だと思い、ぼおっとして、眠っているのか、起きているのか、夢なのか、うつつなのかもさっぱり解らないんですね。そして宙に浮いてさかんに動き廻り、トラックを押したり、ひっぱったりする小鬼どもと大きな白い手を見比べていましたね。しばらくそうしてガタガタゆすられていると、突然異様な声がして、ハッと思ったとたん白い手は見えなくなったんです。私はもう夢中でトラックから飛降り、その瞬間トラックは谷間をごろごろと物凄い勢いで顛落してしまったんです。運転手も助手も慣れているのか、ひらりと飛降りたらしく危なござんしたねと云って、谷間を見降ろしていましたよ。そのトラックには宮古町から肴が沢山つけて来てありましたよ。

 谷間に転落する自動車から、間一髪で飛び降りて怪我一つないとは、アクション映画スター顔負けの身のこなしですが、それまでにずっと「鬼の子」と「観音様の手」が見えていたというのは、ある意味で賢治らしい宗教的な幻覚です。
 これはいったいいつの出来事だったのかということに興味が湧きますが、森荘已池氏は、続いて次のように書いています。

 その時宮沢賢治氏は、宮古町の在の刈屋という村へ行ったのではなかったかと思う。『春と修羅』刊行の大正末年の頃のことである。旧姓刈屋を名乗る令妹のお婿さんが県庁の教育課に務めているので、その出身の下閉伊郡刈屋村の家へ、縁談の用で出かけての帰途宮沢さんは雨に濡れ、風邪から肺炎になりそうで、あわててトラックの後に乗せてもらって帰りの途で「熱は39度から40度はあったでしょう」と云い、「幻覚ですね」と云われたけれど、「鬼神」については滅多に語ることのない宮沢さんから聞いた、これは一番鮮明な「鬼神の話」なのであった。

 上記の文章で、「刈屋という村へ行ったのではなかったかと思う」というのは森荘已池氏の推測のようなのに、後半では賢治の談話のような書き方になっていて、どこまでが直接賢治が述べたことなのか判断しにくいです。しかし少なくとも森氏は、末妹クニと刈屋主計の縁談に関する用事で、賢治が閉伊街道沿いの刈屋村へ行った際のことだと考えているようです。
 ただそうすると、賢治と刈屋主計が初めて出会ったのは、1927年(昭和2年)3月ということですから(宮沢淳郎『伯父は賢治』p.77)、「『春と修羅』刊行(=1925年)の大正末年」という記述とは、ずれてしまいます。縁談の話だとしたら、賢治の刈屋家訪問は、婚約がまとまった1927年(昭和2年)秋頃と考えるのが自然です。

 さて、盛岡と宮古を結ぶ閉伊街道は、岩手県の中心部と太平洋岸をつなぐ重要な交通路で、従来は徒歩では3日かかっていたところを、1906年(明治39年)から「盛宮馬車」が12時間で、さらに1913年(大正2年)から営業開始した「盛宮自動車」が8時間で結ぶようになりました。これは岩手県内で最初の乗合自動車路線で、当初は16人乗りの大型自動車(バス)2台とトラック2台で運行を始めたということです(みやこわが町ミヤペディア「盛宮自動車株式会社」より)。
 しかし、この道は狭く険しい悪路で、大型自動車の運行にはかなりの無理があり、1914年(大正3年)7月に門馬村で客車が転覆し、乗り合わせた新渡戸稲造氏の一行が負傷したり、翌1915年(大正4年)10月には川内村での転覆事故で死者1名が出るなどの事故が続いています。
 賢治が災難に遭ったのも、この危険な街道においてだったわけです。


 ところで賢治は、これ以外にも自動車の転覆事故に遭っていたようなのです。『新校本全集』年譜篇によれば、1925年(大正14年)秋、農学校教師だった賢治は、千厩で開かれた「岩手県農業教育研究会」に参加し、県視学だった新井正市郎に会います。以下は、新井の記述から。

 千厩の旅館についたところ、しばらくして先着の客を女中が案内して来、その客が宮沢と名のり、「県視学も明日は出席するそうですなあ」と言ったので、「私がその県視学です」と答えた。
 「初対面の私達が10年の知己のように打解け得たのは、二人はほぼ同年であり、私も就任日が浅くまだ役人らしくなかったためであろう。――当時の役人には、一種の型があった――宮沢さんは薄衣で下車され千厩までの乗合バスが途中で横転して桑畑に落ちたが、誰も怪我がなかったことや、いつぞや室根山に一人で登った話などは、私を深く引きつけた。眼前に彷彿させるような話術には虚飾がなく、又肉眼に見えない霊の存在については固い信念を持って居られた。一旦、自室に帰られてから夕食後再び来訪された」

 何とこの時も、乗合バスの横転事故を経験したというのです。「横転して桑畑に落ちたが誰も怪我がなかった」ということで、こちらは先ほどの谷に転落した事故よりはやや危険度は低かったようですが、その後どうやって千厩までたどり着いたのだろうかと思います。


 ちなみに、賢治のこんな記録をあえて拾い出してみた理由は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」という作品に出てくる「すさまじい自働車」という表現には、自動車に乗っていて体験したこういう「すさまじい」体験も、こめられているのだろうな、とあらためて思ったからです。
 賢治にとっては、当時の「自働車」というのは本当にダイナミックな乗り物だったのでしょう。

停車場の向ふに河原があって
水がちよろちよろ流れてゐると
わたしもおもひきみも云ふ
ところがどうだあの水なのだ
上流でげい美の巨きな岩を
碑のやうにめぐったり
滝にかかって佐藤猊ガン先生を
幾たびあったがせたりする水が
停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
運転手たちは日に照らされて
ものぐささうにしてゐるのだが
ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ

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2010年7月 8日 『月光2』宮沢賢治特集

 先日刊行された文藝誌『月光2』には、宮沢賢治の特集が組まれていました。

発見!宮沢賢治 「海岸は実に悲惨です」 (月光 2 ) 発見!宮沢賢治 「海岸は実に悲惨です」 (月光 2 )
福島泰樹・立松和平・黒古一夫・太田代志朗・竹下洋一

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 福島泰樹・立松和平のお2人が「責任編集」というこの『月光』は、去年の9月に中原中也特集の創刊号が出て、今回が第2号なわけですが、この間に立松和平氏の死去という大きな出来事を経ています。そのためもあってか、今号の発刊は予定より少し遅れて、このたびやっと賢治ファンの目の前に現れました。

 内容は、詩人・大木実あての最近発見された葉書(この中に「海岸は実に悲惨です」との言葉が出てくる)の写真あり、保阪庸夫氏と福島泰樹氏の対談あり、作品論あり、宗教論あり、こじつけめいたエッセイ風の文章あり、賢治作品を下敷きにした作品(詩、俳句、短歌、能)あり、本当に多彩でユニークなものです。
 私にとって特に興味深くためになったのは、保阪氏と福島氏の対談、大木実あて葉書のほぼ実物大写真、大平宏龍氏の「「法華経と宮沢賢治」私論」、牛崎俊哉氏の「新発見口語詩草稿「〔停車場の向ふに河原があって〕」について」などでした。

 保阪庸夫氏と福島泰樹氏の対談では、庸夫氏から見た父・嘉内や、ご自身の戦後闇市での苦労談、研究者生活、それから故郷へ戻っての『宮沢賢治 友への手紙』の出版をめぐる逸話など、これまで講演等でお聴きしたよりも、さらに詳細が語られている印象です。
 それにしても、賢治から嘉内にあてた手紙は、現在残っているよりも後の時代のものが本当はもっと存在したが失われたという話は、かえすがえす残念なことです。

 大平宏龍氏の文章は、法華経について仏教の門外漢にもわかりやすく解説してくれていて、勉強になりました。
 私は「願教寺「島地大等」歌碑」という記事において、法華経と出会った後の賢治が、「諸宗の混淆状態から、純粋な法華経専修主義に変わったのはいつ頃か」ということを考えようとしましたが、この問題は、もっと適切な言葉に言い換えれば、「賢治が天台的法華経観から日蓮的法華経観に変わったのはいつ頃か」ということになるようです。
 また、賢治が「ぼさつ」を目ざそうとした、と言われることの宗教的背景も、少しはわかったような気になりました。

 牛崎俊哉氏の論文は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」に関する現在の諸説を簡潔に整理したものです。文中で、拙ブログの「あったがせたりする」という記事にも少しだけ触れて下さいました。
 作品の場所は陸中松川駅ということで問題はなさそうなものの、創作時期についてはまだ議論があるということです。この作品の創作時期については、私も「停車場・河原・自働車」という記事において、陸中松川駅前で乗合自動車の営業が始まったのは1927年(昭和2年)5月であることから、それ以降ではないかということを書きました。

◇          ◇

 ところで今日私は、用事で京都駅を通ったついでに、7月24日の夜に京都を発って岩手県へ行き、25日の深夜に京都に帰る切符を買ってきました。
 「石と賢治のミュージアム」が毎年開催している「グスコーブドリの大学校」というセミナーの初日に行われる、「〔停車場の向ふに河原があって〕のゆかりの地を訪ねる」という企画に参加してみる予定です。案内して下さるのは、上記の牛崎さんの論文にもお名前の出てきた藤野正孝氏(「石と賢治のミュージアム」館長)ということで、今から楽しみにしています。

一関往復切符

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2010年7月 4日 打つも果てるもひとつのいのち

伊藤卓美「剣舞の歌」
伊藤卓美氏の版画「剣舞の歌」

◇          ◇

 折口信夫は、『日本藝能史ノート』(中央公論社)の「念佛踊り」の章に、次のように書いていました(p.88)。

さて、少し話を念佛踊りの方へ向けたい。古は若い者の魂を後ほど怖れなかつた。まびくことも普通だつた。幼兒の死も、少年期から青年期にかけての人々の死も怖れなかつた。この信仰が段々變つて來た。御靈信仰は若くて恨みを呑んでゐる者の死靈であるといふが、若くてといふことは必須の條件ではない。もとは唯鬱屈した魂の祟りである。それが後に曾我兄弟や義經が出てくるに及んで、若さの観念がつきまとうて來るやうになつた。成年戒を受けずに死んだ者の魂は、里に残つてゐて他處へ行かぬので、次第にその扱ひに恐しさを感じて來て、それを祓ふ式を必要として來る。此が念佛踊りの一つの起原である。そして現存の大部分の田樂の基礎は、この念佛踊りである。

 岩手県地方に伝わる「剣舞(けんばい)」も、その起源は「念仏踊り」にあります。私は折口信夫の上の文章を読んだ時、はからずも賢治の「原体剣舞連」を連想してしまいました。

 賢治は地質調査で通りかかった江刺地方の原体村で、たまたま剣舞を目にして涙が出るほど心を動かされます。岩手で生まれ育った賢治ですから、それまでにも剣舞を見たことはきっと何度もあったはずなのに、この時にそれほどの感動をしたのは、原体村の剣舞はいわゆる「稚児剣舞」で、舞い手はみんな少年たちだったからでしょう。

うす月にひらめきいでし踊り子の異形を見ればわれなかゆかも 593
若者の青仮面の下につくといきふかみ行く夜をいでし弦月     605

 剣舞のルーツである念仏踊りが、もとは若くして死んだ者たちの霊を鎮めるための儀式だったとは、賢治はまったく意識していなかったでしょうし、彼が原体村の剣舞を見た際の感動と、このような由緒とは、関係のないことです。

 しかし、亡くなった少年たちの鎮魂のために、健やかな少年たちがけなげに踊る・・・。そのような情景を想像した時、私には「打つも果てるもひとつのいのち」という、「原体剣舞連」の最後の一行が、否応なく心に浮かんだのです。

 (今日の文章は、理屈のない連想のかけらでした。)

◇          ◇

   原体剣舞連(はらたいけんばひれん)

   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装(いさう)のげん月のした
(とり)の黒尾を頭巾(づきん)にかざり
片刃(かたは)の太刀をひらめかす
原体(はらたい)村の舞手(おどりこ)たちよ
(とき)いろのはるの樹液(じゅえき)
アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ
(せい)しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹(まだ)(かわ)と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋(とも)たちよ
青らみわたるこう気をふかみ
楢と掬(ぶな)とのうれひをあつめ
蛇紋山地(じゃもんさんち)に篝(かゞり)をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
   dah-dah-sko-dah-dah
肌膚(きふ)を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗(あら)
月月(つきづき)に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累(かさ)ねた師父(しふ)たちよ
こんや銀河と森とのまつり
(じゅん)平原の天末線(てんまつせん)
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
  Ho!Ho!Ho!
     むかし達谷(たった)の悪路王(あくろわう)
     まっくらくらの二里の洞
     わたるは夢と黒夜神(こくやじん)
     首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
     青い仮面(めん)このこけおどし
     太刀を浴びてはいっぷかぷ
     夜風の底の蜘蛛(くも)おどり
     胃袋はいてぎったぎた
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにただしく刃(やいば)を合(あ)わせ
霹靂(へきれき)の青火をくだし
四方(しほう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき
樹液(じゅえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲(ひゃううん)と風とをまつれ
  dah-dah-dah-dahh
夜風(よかぜ)とどろきひのきはみだれ
月は射(ゐ)そそぐ銀の矢並
打つも果(は)てるも火花のいのち
太刀の軋(きし)りの消えぬひま
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻(いなづま)萱穂(かやほ)のさやぎ
獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の
消えてあとない天(あま)のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

◇          ◇

 賢治はこの詩の最後の10行に節を付けて、「剣舞の歌」として唄っていたということで、劇「種山ヶ原の夜」の中でも劇中歌として使用されます。
 下のファイルは、その節回しで宮澤清六さんが唄っていたソノシートをもとに、私が以前に編曲したものです(「歌曲の部屋」より)。

♪「剣舞の歌」(MP3:2.17MB)

 

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2010年7月 1日 「ヒデリ」論の私的メモ

 先日、「入沢康夫『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』」という記事を書いて、入沢さんの近著をご紹介いたしましたが、当該記事に昨日コメントをいただき、「Web上にある入沢康夫氏の「「ヒドリ―ヒデリ問題」について」(宮沢賢治学会イーハトーブセンター・ライブラリ所収)という文章を読んでも納得がいかないので、「迷わぬようにお導きください」との依頼を受けました。
 私は、この問題に関して人様の「導き」をするような立場にはありませんし、ご参考のために何かを書こうとしても、入沢氏の上掲書の内容を受け売りする以上の知識も何も持っていません。この問題に関するモノグラフまで出された専門家を差し置いて私がそのようなことをするなど、僭越きわまりないとも思います。
 そこで、上記コメントのご依頼に対しては、「どうか直接、入沢氏の著書をお読み下さい」とだけお返事をしようかと、当初は考えました。

 しかし、それもあんまり素っ気ない対応ですし、賢治に対する真摯な思いから縁あって拙サイトにコメントを下さったことを思えば、ここは私なりに、入沢康夫氏の『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』の内容をもとに、「なぜ、「ヒデリ」と校訂することが妥当であるとこの私も考えているのか」ということを、個人的メモとして記させていただくことにします。
 入沢康夫様、ご著書からかなり多くの引用をさせていただくことになりますが、どうかご容赦下さい。以下の文章では、入沢康夫著『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田)のことを『入沢書』と略記します。

 コメントを下さったノラ様は、「なぜ「ヒドリ」では不適切で、「ヒデリ」へと校訂せざるをえなかったか」という点がどうしても納得できないということのようですので、その点を中心に、私の理解している範囲のことを述べます。
 なお、ノラ様のお考えは、ノラ様のこちらのブログ記事の「コメント欄」に長文で書かれています。


1.賢治が実際に「ひどり」と書いた(書きかけた)他の例の存在

 「〔雨ニモマケズ〕」の手帳上のテキストでは、もちろん「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」となっているのですが、賢治が「ひどり」と書いた(書きかけた)のは、この一例だけではありません。

 一つは、「毘沙門天の宝庫」(「口語詩稿」)という作品の下書稿において、「旱魃」という語にルビを振ろうとして、「ひど」まで書いて「ど」の字を消し、続けて「でり」と書いているのです。「ひでり」と書こうとしたが、「ひど」と書きかけて自分で気づいて訂正したわけですね。
 下画像は、『入沢書』p.57に掲載されている「毘沙門天の宝庫」の下書稿において、賢治が「ひ[ど→(削)]でり」と訂正した箇所です(赤丸は引用者)。

「毘沙門天の宝庫」(下書稿)より

 「ひ」の次に「ど」と書いて、グルグルと渦で消し、下に「でり」と書いてあります。
 この作品においては、賢治自身が書きながら気づいたので、「ひどり」という単語としては残りませんでしたから、後に論争の種となることもありませんでした。それでも、「賢治が「ひでり」と書こうとして、うっかり「ひどり」と書きそうになる傾向があったかもしれない」という、一つの所見にはなります。

 ところが、現実に「ひどり」という形で残されてしまった例が、「〔雨ニモマケズ〕」以外にも存在するのです。
 下の画像は、童話「グスコーブドリの伝記」が、1932年(昭和7年)に最初に『児童文学』という雑誌に発表された際の誌面の一部で、『入沢書』p.54に掲載されています(傍線は引用者)。

「グスコーブドリの伝記」(『児童文学』発表形より)

 赤い傍線を引いた部分に、「ひどり」と書いてあります。これは、作者の原稿をもとに活字を組んで出版された最終形態ですから、これを尊重して、「グスコーブドリの伝記」のこの箇所は、あくまでも「ひどり」として現在も出版し、子供たちに読ませるべきでしょうか。
 問題は、ここで「ひどり」と記されている単語の意味も、「〔雨ニモマケズ〕」の「ヒドリ派」の人々が主張するように、「日雇い稼ぎの賃金・またはその労働のこと」なのか、否かです。

 文章の内容を検討すると、「次の年もまた同じやうなひどりでした。」とあることから、その前の年の描写を見ると、「植ゑ付けの頃からさつぱり雨が降らなかつたために、水路は乾いてしまひ、沼にはひびが入つて、秋のとりいれはやつと冬ぢゆう食べるくらいでした。」とあります。
 これは、「ひでり=旱害」の記述以外の何物でもありません。

 かりにここで、前の年に「日雇い稼ぎに出た」などという記載があったとしたら、「次の年もまた同じやうなひどりでした」という文の意味は、「次の年も同じように日雇い稼ぎに出た」と考えられなくもありませんが、前年に「ひでり」の描写があって、「次の年も同じように日雇い稼ぎに出た」では、文章の意味が通りません。どこにも「同じやうな」ところがないのです。

 したがって、「グスコーブドリの伝記」におけるこの「ひどり」の語は、「ひでり」の誤りであると考えられます。当然のことながら、これまで出版された各種全集においては、この箇所は校訂によって「ひでり」と改められています。

 誤りが起きたポイントとしては、(1)作者が原稿に「ひどり」と書き誤っていた可能性、あるいは(2)作者は「ひでり」と書いていたが活字に組む段階で誤って「ひどり」としてしまった可能性、の二つが考えられますが、「毘沙門天の宝庫」下書稿に現れていたように、賢治が「ひどり」と書き誤りやすい傾向をもっていたことからすると、(1)の蓋然性が高いように思われます。そもそも、活字を組む職人さんが、まるで現代の「ヒドリ―ヒデリ問題」を予測したかのように、そんなに都合よく「ひでり」を「ひどり」と組み間違えてくれたとはとても思えません。
 したがって、「グスコーブドリの伝記」においても、賢治は「ひでり」と書こうとして誤って「ひどり」と書いていた可能性が高いのです。
 となると、「〔雨ニモマケズ〕」においても同様に、「ヒデリ」と書こうとして「ヒドリ」と書いてしまった可能性は、やはりありえます。

 ここでちょっと個人的に思うのは、「〔雨ニモマケズ〕」において「ヒドリ」説を主張する方は、「グスコーブドリの伝記」のこの箇所に関しても「ひどり」説を主張されて当然と思うのですが、なぜか「〔雨ニモマケズ〕」のことしか問題にされません。なぜ「グスコーブドリの伝記」も取り上げられないのか、理由を一度お訊きしてみたいものだと思っています。
 もしも、「グスコーブドリの伝記」において、「ひどり→ひでり」の校訂を是とされるならば、「〔雨ニモマケズ〕」だけにおいて非とされるのは、理屈に合わないと思います。


2.同じ手帳に記された類似内容の戯曲メモに「ヒデリ」とある

 「〔雨ニモマケズ〕」が記されている手帳は、賢治が晩年に病床で使っていたものですが、その同じ手帳の少し後には、「土偶坊」と題した一種の戯曲のメモのようなものが記されています。下の画像が、その一部です(『新校本全集』第十三巻(上)「本文篇」p.531より)。

「土偶坊」メモ

 題名と思われる「土偶坊」は、「デクノボウ」と読むのでしょう。右ページの最後の行にも、小さな字ですが「デグノ坊見ナィナ」などと記されています。題名の横には、「ワレワレカウイフモノニナリタイ」と書かれており、これはまさに「〔雨ニモマケズ〕」最終2行の「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」に対応しています。この戯曲?の構想が、「〔雨ニモマケズ〕」の内容と密接に関わっていることを、示唆しています。
 さて、このメモで左ページの「第五景」と題されたところには、「ヒデリ」という言葉が書かれています。すなわち、賢治はおそらく「デクノボー」が主役となるであろうこの戯曲において、「ヒデリ」の場面を考えていたのです。
 この事実も、「〔雨ニモマケズ〕」においても、「ヒドリ」ではなくて「ヒデリ」の時のデクノボーの様子が描かれていると考えることの妥当性を、支持していると思います。


3.「ヒデリ」なら文章の整合性があるが「ヒドリ」では崩れる

(1) 対句的表現
 「〔雨ニモマケズ〕」というテキストは、「雨ニモ」「風ニモ」「雪ニモ」、「東ニ」「西ニ」・・・など、「対句」的表現に満ちています。
 問題の箇所が、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」であれば、それぞれ「旱害」と「冷害」という、気象条件による代表的な農作物への被害として、「対句」をなします。しかし、これが「ヒドリ」ではそのような対応は生まれず、形式としてあまり整いません(『入沢書』p.111と関連)。

(2) 乾燥→涙という意味関係
 これは、原子朗氏の説を紹介する形で『入沢書』p.21に書かれていることです。「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」では、「日雇い労働が辛いから涙を流す」という単なる生理的な涙にすぎない。しかし、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」であれば、その「ナミダ」は、「雨のごとく降ってほしい」という賢治の「心理の」涙なのであり、単なる哀れみや悲しみの涙ではないと、原子朗氏は述べておられます。

(3) 「ヒドリ」とした場合の主体の問題
 「ヒドリ」説をとっておられる方は、この「ヒドリ(日雇い稼ぎ)」を行うのは、作者であると解釈しておられるのか、作者が見ている農民か誰かであると解釈しておられるのか、どちらなのでしょうか。
 「ヒドリ」説の説明を聞いていると、後者のようなニュアンスが感じられるのですが、文章を普通に読むと、なかなかそうは意味がとりにくいと言わざるをえません。

北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ

 上記の文章において、「ツマラナイカラヤメロト」言うのは作者(のめざす姿)であり、「サムサノナツハオロオロ」歩くのも作者(のめざす姿)であり、「ミンナニデクノボート」呼ばれるのも作者(のめざす姿)です。「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」において、「涙を流す」のは作者(のめざす姿)だが、「ヒドリ」を行うのだけが第三者というのは、日本語の文章として不自然です。
 この点について、入沢氏はわかりやすい例を挙げて説明しておられます(『入沢書』p.107-108)。

 「○○○○の時は △△△△する」という文の前半の「○○○○の」のところには、辞書によれば行為か状態・環境を表わす語句(連体修飾語句)が入って「何々が何々する(した)場合には」または「何々が何々である(あった)場合には」という意味になります。
 そして、この「何々が」が特に示されていないなら、その行為や状態は、後半の△△△△する人の行為や、その人の状況(自分の体調や気分・自分の周囲の状況・環境等)であると理解するのが、日本語としての普通な扱いです。
 実例を掲げたほうが判りやすいでしょう。「兄の外出の時は 門口まで見送る」とあれば、外出するのはまぎれもなく兄で、見送る人とは別人ですが、もしも前半に「誰が」を示す語がない文、例えば「外出の時は 帽子をかぶる」という文では、外出するのは、後半の「帽子をかぶる人」であるとうけとるのが、普通でしょう。
 もう一つ別な例を挙げれば、「友人が病気の時は見舞いに行く」と「病気の時は薬を飲む」を比べた時、後者で病気なのは「薬を飲む人」当人であることは、すぐ判るはずです。
 「ヒドリ」が、上記の拡張した意味(日雇い稼ぎの労働)だとしますと、これは行為を表す言葉であり、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」だけでは、それが誰の行為か示されていませんから、さきほど見た例のように、ナミダヲナガす人の行為という意味にとるのが自然です。つまり「日雇い稼ぎをするのは、涙を流すそのひと」ということになり、この行全体の意味は《自分が日雇い稼ぎをする時には涙を流す(ような人にわたしはなりたい)となって、初めに掲げた《日雇い稼ぎをして生きていかねばならぬ貧しい農民の身の上を思いやって涙を流す(ような人にわたしはなりたい)という意味とは、大きくズレてしまいます。

(4) 文章の明快さ
 これも、『入沢本』p.109-110より引用させていただきます。

 この「〔雨ニモマケズ〕」の全体は、読めばすぐ気がつくことですが、内部に籠められている深い思想内容は別として、表面の言葉のつながりや、いちいちの言葉の意味を辿っていく限りでは、対句的表現を多用し、たいへん明快で歯切れよく判りやすく出来ています。物理化学や宗教や哲学などの専門語の使用はいっさい避けて、やさしい日常の共通語(いわゆる標準語)で終始しているのも大きな特徴です。そういう全体の中で、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の行だけが、このままでは意味がすっきりととり難い、奇妙な一行となっています。ここだけ「ヒドリ」という方言が混じっているというのも、他の行と異なる点ですが、賢治の作品では、たまに方言や方言的言い回しが混じることもありますので、ここではそれは問題にしません。しかし、それをたとえば「日雇い仕事」と置き換え、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」を「日雇いに出なければならぬ農民の辛苦を思って涙を流す」と読もうとしましても、この言い方ではなかなかそういうふうには読みとれない、全体の判りやすく辿りやすい言葉の運び方ともしっくり行かない、という点が問題なのです。


 さらに細かい点まで挙げるとすれば、まだたくさんあるのですが、これ以上となるとやはり『入沢本』を直接読んでいただくのが一番でしょう。

 以上、入沢康夫氏のご著書を全面的に参考にさせていただきましたが、その中から一部を要約したり「つぎはぎ」したりしたのは私の勝手な作業ですので、上の文章の全体としてのわかりにくさや不十分な点は、私の責任にあります。

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2010年6月20日 ほっと na 朗読会(第3回)

 以前にもご紹介した星野祐美子さんカフェ「 ジョイント・ほっと」における朗読会(第3回)が、また明日の午後に開かれます。

ほっと na 朗読会(第3回)

【日時】 6月21日(月) 午後3時15分から30分

【場所】 カフェ「ジョイント・ほっと」

【朗読】 星野祐美子

【演目】 宮沢賢治「蛙のゴム靴」 他

【入場】 無料


 カフェ「ジョイント・ほっと」は、私の関わっている社会福祉法人が運営している事業所です。昔ながらの京都の「町家」の雰囲気が漂い、木の温もりあふれる「ほっとできる空間」です。明日の午後おひまがありましたら、ぜひ足をお運び下さい。

カフェ「ジョイント・ほっと」

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2010年6月17日 入沢康夫『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』

 入沢康夫著『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田)という本を読みました。

「ヒドリ」か、「ヒデリ」か―宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって 「ヒドリ」か、「ヒデリ」か―宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって
入沢 康夫

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 言うまでもなく入沢康夫氏は、『校本宮澤賢治全集』『新校本宮澤賢治全集』編纂の中心を担った一人であり、氏の力によって賢治の作品の姿やテクストが初めて明らかになった例も、たくさんあります。
 その入沢氏が、このたび上のような本を上梓されました。その内容と趣旨については、本書の「後記」において入沢氏自らが書いておられることを引用させていただくのが、最も明快でしょう。

 本書は、宮沢賢治が手帳に書き遺した「〔雨ニモマケズ〕」中の「ヒドリ」という一語の取り扱いに関する拙文を集成したものである。読み返せば少々《大人げない》文章というきらいもないではないが、これも、「校本」「新校本」の編纂担当者としての《務め》だったのだと、自らを納得させている。
 1989年の10月に、読売新聞全国版社会面のトップでセンセーショナルに報じられて以来、「〔雨ニモマケズ〕」の「ヒドリ・ヒデリ」問題がクローズアップされ、今日でも、まだその余燼は収まりきってはいない。本書に収録したのは、「ヒドリとは、方言で《日雇い仕事(の賃金)》のこと」という新説に対し、「ヒドリはヒデリの誤記に違いない」とする立場からの、この20年余りの、折に触れての反論であり、解説である。

 《大人げない》などとは滅相もないことで、賢治が書いた一つの文字・言葉をもおろそかにしない入沢氏らの厳格な姿勢が、『校本』『新校本』の業績を成し遂げる根本にあったわけですし、また上の文中にあるように、両全集の「編纂担当者としての《務め》」として、校訂の子細を明らかにしなければならないという強い責任感が、このたった一語(一文字)のために、一冊の本を世に出させたのだと言えるでしょう。

◇          ◇

 さて、賢治が手帳に鉛筆で書いた「〔雨ニモマケズ〕」テキストの原文24行目が、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」となっているのは事実です。

「雨ニモマケズ」手帳

 これを全集編集者は賢治による誤記と考え、本当は作者は「ヒデリ」と書こうとしたと判断して校訂を行っているわけですが、その背景にある厖大な根拠が、本書にまとめられているわけです。具体的なことは、どうか本書をお読みいただいて、入沢氏の綿密詳細な検討に触れていただければと思います。
 そしていったんこの本を通読された方は、「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記であるとする現校訂に、心から納得されるでしょう。

 あと一つ、「ヒドリ」「ヒデリ」論争に加えて、故・小倉豊文氏が一時、これは「ヒトリ」の誤記であるという説を提唱したこともあったということです。この「ヒトリ説」に対しても、入沢氏は本書で論評を加え、小倉氏もある時に入沢氏の講演を聴いて、結局は「ヒトリ説」の旗をいさぎよく撤回されたのだそうです。

◇          ◇

 しかし、私は今でも賢治ファンの方とお話をしていて、まだ「ヒドリ説」に肩入れをしておられ方に遭遇することが、時々あります。
 そのような方は、あえて分布傾向を考えると、地元花巻に多いというのが私の印象です。郷土の生んだ偉人である賢治先生が、「書き誤り」などするはずがない(と思いたい)という心理が働いているように、感じられることもあります。
 「〔雨ニモマケズ〕」の記されている手帳欄外には「11.3」との書き込みがあって、これは11月3日に書かれたと推定されることから、「畏れ多くも『明治節』に書かれたものだから、書き誤りなどあるわけがない」と理屈の通らないことを言う人があったり、「賢治はこの語に、ヒドリ(日雇い仕事)とヒデリの両方の意味を込めたのだろう」などと、無理な折衷案を出す人もあったりします。

 また、とくに最近になって建立される「雨ニモマケズ」の詩碑のうちには、この箇所を「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と刻んだものもあります。
 下記は、当サイト「石碑の部屋」所収の「雨ニモマケズ」詩碑を分類してみたものです。

原文複写的碑(=推敲跡や書き損じまで含めて刻む)
  ・鎌倉市・光則寺の碑(1985)
  ・裾野市・総在寺の碑(1996)

「ヒデリ」と刻んである碑
  ・下根子桜の碑(1936)
  ・静岡県富士市・田子浦小学校の碑(1966)
  ・宮城県唐桑町の碑(1997)
  ・福岡県筑後市・筑後工藝館の碑

「ヒドリ」と刻んである碑
  ・岩手県住田町の碑(2002)
  ・花巻市・南城中学校の碑(2003)

かな・漢字に変えてある碑
  ・岐阜県石津町・牧田小学校の碑(1972)
  ・奈良市・近鉄奈良駅前の碑(1980)

抜萃・改変を加えた碑
  ・熊本県三角町・戸馳小学校の碑(1975)
  ・広島県・柏島の碑(1976)

 以前は私は、「まあ、いろいろな碑があってもいいかも…」と安易に考えていた頃もありました。しかしその後、入沢氏の論文などを読むうちに、碑を見る人々(とくに子供たち)に賢治の文章の意味をきちんと理解してもらうためには、適切に校訂されたテキストを刻むべきであると考えるようになりました。
 このような観点から見ると、最近2000年代になってから、わざわざ「ヒドリ」と刻んだ碑が作られるようになっていることは、ちょっと気になることです。

◇          ◇

 さて、宮澤賢治さん自身は、後々にこのような事態になるなんておそらく夢にも思わず、ふとこの「〔雨ニモマケズ〕」の文章を手帳に書きつけたのでしょう。
 入沢氏は、今に至ってもまだ収まらない騒ぎについて本書の中で、「それもこれも、せんじつめれば、「〔雨ニモマケズ〕」が、《超有名作品》となってしまった《報い》ということになるのでしょうか?」と嘆じておられます。

南城中学校「雨ニモマケズ」詩碑
羅須地人協会後にもほど近い南城中学校に2003年に建てられた詩碑。
(原文のまま)と但し書きを付けて、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と刻まれている。

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2010年6月13日 願教寺「島地大等」歌碑

 島地大等(1875-1927)は、明治末から大島地大等正時代に活躍した、浄土真宗本願寺派の僧・仏教学者でした。
 西本願寺大学林高等科(現・龍谷大学)を終えた後、インド・中国の仏教史蹟を調査、さらに比叡山や高野山にて天台・真言の古蔵資料の研究もしています。東京帝国大学、曹洞宗大学(現・駒澤大学)、日蓮宗大学(現・大正大学)、東洋大学などで教鞭を執っており、浄土真宗だけでなく、当時の日本の仏教界全体を代表する学僧だったと言えるでしょう。
 この島地大等は、義父の黙雷の後を継いで盛岡市北山の願教寺の住職に就いていましたから、岩手の人々にとっては身近な存在でした。

 賢治が、初めて島地大等の謦咳に接したのは、盛岡中学3年の1911年(明治44年)8月、大沢温泉で開かれた「夏期仏教講習会」の時だったと思われます。賢治の父の政次郎は、この仏教講習会企画の中心メンバーでしたが、8月6日付け暁烏敏あての書簡に「昨日賢治を遣ハシ申候」と書いています(『金沢大学暁烏文庫蔵/暁烏敏宛 宮沢政次郎書簡集』)。
 賢治は島地大等に惹かれるところがあったのか、1913年(大正2年)10月には願教寺で開かれた「報恩講」に出席して、やはり大等師の法話を聴いたようです(「「東京」ノート」の「五年二学キ」の項に、「報恩講 島地大等」の記載)。
 さらに、盛岡高等農林学校入学後も1915年(大正4年)、1年生の8月には願教寺で1週間にわたり早朝5時から7時まで行われた「夏期仏教講習会」に出席し、「歎異鈔法話」を聴いています(河上和吉「賢治君の学生時代」:川原編『周辺』)。

◇          ◇

 盛岡市北部の閑静な地区・北山にある願教寺は、下のような構えです。

願教寺

 このお寺の境内は、広大な庭園になっているのですが、その一角に下のような賢治の歌碑があります。

「島地大等」歌碑

本堂の
高座に島地大等の
ひとみに映る
黄なる薄明

 これは、「歌稿〔B〕」において「大正四年四月」と題された章に含まれ、次の章は「大正五年3月より」です。したがってこの間の賢治の行動から見ると、これは上記の1915年(大正4年)8月に朝5時から7時まで行われた「夏期仏教講習会」の折りに詠まれた歌だと思われます。
 冒頭の写真のように大きく澄んだ島地大等の瞳に、夏の早朝の薄明が反射して光る。これは、今まさに法話が始まろうとして、皆が固唾をのんでいる瞬間でしょうか。感情的な言葉を廃した、「写真的」な一首です。
 かっと目を見開いた島地大等にも、彼を見つめる賢治にも、緊張感がみなぎっています。

 下写真は、願教寺の「本堂」。島地大等の夏の法話の際には、ここに数百人もの盛岡市民が集まったと言います。

願教寺本堂

◇          ◇

 さて、宮澤賢治と島地大等というと、何よりも強く連想されるのが、下写真の『漢和対照 妙法蓮華経』(=いわゆる「赤い経巻」)です。
 賢治は、おそらく1914年(大正3年)の秋、島地大等が編纂し解説を付けたこの法華経全文を読み、「只驚喜し身顫い戦けり」と述べるほどの感動を受けたと言われています。

『漢和対照 妙法蓮華経』

 賢治のこの法華経との最初の出会いは、あまりにも劇的に語り伝えられているので、ここで彼が一気に法華経専修の信者になったかのような印象も受けてしまいますが、実際には賢治はこの後、浄土真宗、法華経、禅などの諸派をわたる宗教的彷徨を続けます。

 1914年(大正3年)の法華経との出会いの後にも、上述のように1915年(大正4年)夏には島地大等の「歎異鈔法話」を聴いていますし、翌1916年(大正5年)には教師と学生合同で願教寺を中心に結成した「仏教青年会」に出席しました。この年の12月には「仏教青年会」の仲間と願教寺に行ったものの、一人別れて隣の報恩寺(曹洞宗)に行き、住職の尾崎文英について参禅したということです。

 賢治が直に心の内を吐露した記録として、1916年親友高橋秀松あての書簡[15]には、次のような一節があります。

・・・聖道門の修行者には私は余り弱いのです。東京のそらも白く仙台のそらも白くなつかしいアンモン介や月長石やの中にあつたし胸は踊らず旅労れに鋭くなつた神経には何を見てもはたはたとゆらめいて涙ぐまれました。こんなとき丁度汽車があなたの増田町を通るとき島地大等先生がひよつとうしろの客車から歩いて来られました。仙台の停車場で私は三時間半分睡り又半分泣いてゐました。宅へ帰つてやうやく雪のひかりに平常になつたやうです。昨日大等さんのところへ行つて来ました

 この頃の賢治の弱気な心境が率直に書かれていて、「聖道門」(法華経や禅)に関心を持ちつつも、その修行者となるには自分は弱すぎる、と嘆じています。そして、自分がそれまで拠り所としてきた浄土真宗の最高権威であり、また一方では法華経の素晴らしさを教えてくれた人でもある島地大等に、この頃に会いに行って話をしてきたようです。

 翌1917年(大正6年)には、親友の保阪嘉内に『真宗聖典』を贈っており、この時点の賢治の信仰の中心は、まだ浄土真宗にあったと考えざるをえません。すでに大切な親友となっていた嘉内に対して、自分が疑念を抱いている宗教を勧めるとは思えませんし、自らの「迷い」を相談するための資料として、いきなり大部な聖典を贈ったとも考えにくいからです。
 また、この年の10月には、親戚の関徳弥が人生に悩んでいると聞き、「それなら報恩寺(曹洞宗)にゆきましょう。あの和尚なら偽リは言いますまい。ぎりぎりのところを聞いてみましょう。」と言って関を尾崎文英のところに連れて行き、問答をしたということです(関登久也『賢治随聞』)。
 「歌稿〔B〕」の「大正五年三月より」の項には、

いまはいざ
僧堂に入らん
あかつきの、般若心経
夜の普門品          319

という歌もあり、当時の賢治が法華経(普門品)とともに、他の経(般若心経)も読誦していたことがわかります。

◇          ◇

 では、このような諸宗の混淆状態にあった賢治が、純粋な法華経専修主義になったのは、はたしていつからだったのでしょうか?
 少なくとも、1918年(大正7年)2月2日の父あて書簡[44]では、次のように「法華経」を奉じて進む決意を述べます。

願はくゞ誠に私の信ずる所正しきか否や皆々様にて御判断下され得る様致したく先づは自ら勉励して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつくのはしめ進みては人々にも教へ又給し若し財を得て支那印度にもこの経を広め奉るならば誠に誠に父上母上を初め天子様、皆々様の御恩をも報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償をも致すことゝ存じ候

 さらに、2月23日の父あて書簡[46]では、「万事は十界百界の依て起る根源妙法蓮華経に御任せ下され度候」「何卒折角の御心配には候へども私一人は妙法蓮華経の前に御供養願上候」と書き、ますます態度をはっきりとさせます。
 退学処分となった保阪嘉内あてに書いた3月20日頃の書簡[50]に至っては、その法華経一元主義は一般人の理解困難な地点にまで近づいています。退学で失意の嘉内は、これを読んでどう感じたでしょうか。

保阪嘉内は退学になりました。けれども誰が退学になりましたか。又退学になりましたかなりませんか。あなたはそれを御自分の事と御思ひになりますか。誰がそれをあなたの事ときめましたか。又いつきまりましたか。私は斯う思ひます。誰も退学になりません。退学なんといふ事はどこにもありません。あなたなんて全体始めから無いものです。けれども又あるのでせう。退学になったり今この手紙を見たりして居ます。これは只妙法蓮華経です。妙法蓮華経が退校になりました。妙法蓮華経が手紙を読みます。下手な字でごつごつと書いてあるらしい手紙を読みます 手紙はもとより誰が手紙ときめた訳でもありません 元来妙法蓮華経が書いた妙法蓮華経です。あゝ生はこれ法性の生、死はこれ法性の死と云ひます。只南無妙法蓮華経 只南無妙法蓮華経
至心に帰命し奉る万物最大幸福の根原妙法蓮華経 至心に頂礼し奉る三世諸仏の眼目妙法蓮華経 不可思議の妙法蓮華経もて供養し奉る一切現象の当体妙法蓮華経

 ということで、1918年(大正7年)2月には、完全に法華経にはまり込んでいたことがわかるのですが、このような一元主義が賢治のうちで正確にいつから始まっていたのかというのは、難しい問題です。表に現れる前に、いつ頃から内的な変化があったのか・・・。

 ここで私が一つ注目したいのは、賢治が1917年(大正6年)7月25日-29日頃に「東海岸視察団」に加わって三陸地方を旅行した際に、宮古町の「浄土ヶ浜」で詠んだ次のような短歌です。

うるはしき
海のびらうど 褐昆布
寂光ヶ浜に 敷かれ光りぬ。     560

寂光のあしたの浜の
岩しろく
ころもをぬげばわが身も浄し。    561

寂光の
浜のましろき巌にして
ひとりひとでを見つめゐるひと。   563

 ここで賢治は、短歌560に典型的に見るように、「浄土ヶ浜」という実際の地名を、「寂光ヶ浜」と言い換えているのです。一般に賢治の短歌において、地名を架空化している例は他には見あたらず、これはきわめて異例のことです。ここには、何かの意味があるはずです。
 ここで連想されるのが、浄土真宗で言う「浄土」と、天台宗や日蓮宗で言う「寂光土」の違いです。
 浄土真宗では「浄土」とは、現実世界=「穢土」との対概念で、「この世」ではない「あの世」を意味します。これに対して、法華経の天台宗・日蓮宗的解釈によれば、真に永遠の浄土はこのような此彼相対の限定的な枠を超えた絶対界であり、積極的に言えば、只今この娑婆において感得される浄土である、とされるのです。すなわち「娑婆即浄土」であり、これを特に天台や日蓮では「常寂光土」(略して「寂光土」)と呼びます。
 「銀河鉄道の夜」の中でジョバンニが、サウザンクロスの停車場で下車しようとするクリスチャンたちに向かって、「天上なんかへ行かなくたっていゝぢゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといいゝとこをこさへなけぁいけないって僕の先生が云ったよ」と言う場面がありますが、これこそまさに、「娑婆即浄土=寂光土」という日蓮的思想の表現と言えます。

 つまり、ここで賢治がわざわざ「浄土ヶ浜」という実在の地名を短歌に詠むにあたって「寂光ヶ浜」という名前に置き換えたのは、すでに彼のうちで浄土真宗を否定する気持ちが強まり、この世を寂光土とすることを目ざす天台・日蓮的な法華経解釈が、この時までに彼の思想の基盤となっていたことを示すのではないかと、私は思うのです。
 浄土真宗と日蓮主義の逆転は、ひょっとしたらこの1917年7月からまだもう少しさかのぼることができるのかもしれません。しかし前述のように、これからほんの4ヵ月前の同年3月に刊行された『真宗聖典』を、賢治は嘉内に贈っているのです。

 となると、その「逆転」は、この4ヶ月間のうちのどこかで起こったと考えるのが妥当なように、私には思われるのです。

「寂光ヶ浜」歌碑
宮古市浄土ヶ浜の賢治歌碑

【参考文献】
小倉豊文 「二つのブラックボックス―賢治とその父の宗教信仰」
小川達雄 『盛岡中学生 宮沢賢治』

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
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