2019年7月21日 諂曲なるは修羅

 本日の記事の趣旨は、詩「春と修羅」の冒頭部分で、タイトルに記したように「諂曲てんごく)」」という言葉に賢治が込めた意味について、具体的に考えてみようとするものです。

  春と修羅
      (mental sketch modified)

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

 この作品「春と修羅」は、詩集『春と修羅』のタイトルにもされているように、賢治にとって非常に重要な意味を持つ一篇だったと考えられます。天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現していますが(「《宮澤賢治》作品史の試み」)、その二つの中心テーマとは、「己れの《修羅》性の発見」と、「妹の死」です。

 では、賢治が自己の内に見出した《修羅》性とは、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。賢治も愛読した島地大等編著『漢和対照妙法蓮華経』では、「修羅」について次のように説明されています。

【阿修羅】(Asura)略して「修羅」ともいふ。非天、非類、不端正と訳す。十界、六道の一。衆相山中、又は大海の底に居り、闘諍を好み常に諸天と戦う悪神なりといふ。


 すなわち、仏教で修羅という存在は、好戦的で、「怒り」や「攻撃性」がその最も顕著な特徴とされているのです。
 「春と修羅」のテキストに、「いかりのにがさまた青さ」とあったり、自らについて「唾し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」と記していたりするところなどは、そういう自己の内の「怒り」の表現の、典型なのだと思います。
 しかし現実の賢治という人が、このような「怒り」を表に出す人だったのかというと、一般的な基準から言えば、むしろ「穏やか」で「温和」で、「謙虚」な人だったという評価がほとんどのようです。下記は、彼がこの「春と修羅」を書いた前後、すなわち農学校に勤めていた頃の周囲の人々の証言を集めた、佐藤成著『証言 宮澤賢治先生』から、「3 賢治という人」の「人間像」の一部です。

 賢治はどんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人であった。
 賢治を教師に推せんした羽田視学も、畠山校長も異口同音に賢治のことを、おだやかでもの静か、勤務ぶりも熱心で生徒に深い愛情をもった勉強家であったと語っている。(佐藤成)

 賢治という人は生来本質的に、人を責めること、人を煽動すること、声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたりするというようなことを好まない人であった。(佐藤隆房)

 とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人でした。賢治のお母さんという人も、観音様のように非常になごやかな感じの人でした。とにかく彼の居る一帯の雰囲気がなごやかになるような、そういう人だった。
 普段の賢治は、けっしていばらない人でした。話す相手にあわせて、話をしたのです。(藤原嘉藤治)

 ということで、周囲から見た賢治は、《修羅》的な「怒り」や「攻撃性」からは、程遠いタイプの人だったようです。ただしかし、どんな人間も一面だけでは捉えられないもので、たとえば上の佐藤隆房氏の証言には「人を煽動すること、声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたりするというようなことを好まない人」とありますが、農学校に就職する同じ年の中頃までは、彼は東京で国柱会の宣伝奉仕活動に従事し、「声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたり」ということをやっていたのも事実です。
 またその前年には、次のような手紙も書いています。

突然ですが。私なんかこのごろはブリブリ憤ってばかりゐます。何もしやくにさわる筈がさっぱりないのですがどうした訳やら人のぼんやりした顔を見ると、「えゝぐづぐづするない。」 いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふのを思ひだしながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります。いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。確かにいかりは気持が悪くありません。関さんがあゝおこるのも尤です。私は殆ど狂人にもなりさうなこの発作を機械的にその本当の名称で呼び出し手を合わせます。人間の世界の修羅の成仏。そして悦びにみちて頁を操ります。(保阪嘉内あて書簡165)

 この書簡は、1920年の6月-7月頃のものとされており、「いかり」が「真青」に見えるという色彩的な共感覚や、「その本当の名称」として「修羅」を挙げているところも含め、「春と修羅」という作品に通ずることころが大きいと感じられます。

 ただし上の書簡でも、自分の内に「いかり」が煮えたぎっていて、「机をなぐりさうに」なることもあると書いてあるだけで、実際に彼がその怒りを外に「表出」したとまでは、書かれていません。本来の「修羅」は、単に「内心に怒りを秘めている」だけではなく、「闘諍を好む」性質を持っているわけで、怒りを何らかの形で外に出す存在です。
 では、賢治自身は、実際に「怒りをあらわにする」ということがあったのでしょうか。

 一つの例としては、盛岡高等農林学校の修学旅行中のエピソードとして、同級生の大谷良之が書き残しているものがあります。箱根の関を、同級生8人で歩いて越えようとしていた時のことです。

関所跡も近づいて土地も広く開け畑地が見える所にさしかかつた。「関所跡までどれ位ありますか」と農夫に聞いたところ「そうじやのー、あと二里あるで」と返答があつた。所が大きな声で「馬鹿野郎、嘘つくなツ」と宮沢君が叫んだ。私は農夫が怒つて追いかけて来はしないかと恐ろしかつたが、彼は平気な顔をしておる。あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が、あんなに叫んだのは彼のあの鋭どい感覚で農夫が大嘘をついたのを見破り、純情の彼としては我慢できなかつたのであろう。(川原仁左エ門『宮沢賢治とその周辺』)

 大谷自身が、「あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が……」と言っているように、このような激しい表出は、賢治にしては非常に珍しいことだったようですが、それでも全くなかったわけではないことがわかります。

 まとめると、賢治という人は、一般的に言えば全く怒りっぽい人でも粗暴な人でもなく、むしろその逆だったと思われるのですが、自らの心のうちに「怒り」を抱えて苦しむことは実際にあり、まれにはそれを表出することもあったようです。こういったことは、誰でも多かれ少なかれあって当然と思いますが、賢治の感受性の強さのためか、あるいは自分自身に対する「厳しさ」や「潔癖さ」のためか、そのような自分を耐え難く感じていた、ということかと思います。

 と、以上のような事柄は、賢治の《修羅》性について、これまでにも言われてきたことだと思いますし、特に新味はないでしょうが、今回私が気になったのは、「修羅」が持つもう一つの側面についてです。
 仏教において「修羅」という存在は、「怒り」や「攻撃性」によって特徴づけられるとともに、もう一つ「諂曲」という要素も、重要なものとされています。「諂曲」の「諂」とは「へつらう」、「曲」とは「心を曲げる」ということで、合わせて「自分の意志を曲げて相手にこびへつらうこと」(『日本国語大辞典』)です。

 この「諂曲」は、日蓮の「観心本尊抄」において、「修羅」の本質的特徴として、次のように説かれています。

しばしば他面を見るに、或時は喜び、或時はいかり、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時はおろか現じ、或時は諂曲てんごくなり。瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏して現はれざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし。

 ここで日蓮は、はたして人間に仏性は備わっているのか、という問題を説き明かすために、人間の様々な「顔」を見てみれば、そこには「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」の六道が表れているのだということを、述べています。すなわち、「瞋」っているのは地獄、「貪」っているのは餓鬼、「癡か」なのは畜生、「諂曲」をするのは修羅、「平らか」なのは人、「喜ぶ」のは天、だというのです。日蓮は、「瞋り」は「地獄」の方に当てはめる一方、「修羅」の特徴としては「諂曲」を挙げていて、むしろこちらの方を重視しているようにも見えます。
 そしておそらく日蓮のこのような記述を背景として、賢治の「春と修羅」の心象世界は、「いちめんのいちめんの諂曲模様」によって覆われているのです。「諂曲」は、「怒り」とともに、賢治が己れの《修羅》性を問題にする上では、もう一つの重要な側面だったはずです。
 それでは、賢治は具体的に自分のどのような部分を、「諂曲」として認識し、自戒していたのでしょうか。現実の賢治には、「諂曲」と言えるような側面が実際にあったのでしょうか。

 これは、生前の賢治の人となりにおいて、「怒り」や「攻撃性」を探すよりも、さらに難しいことに思えます。周囲人々の証言によれば、彼は嘘や偽りを特に嫌がり、人に媚びへつらうような態度をとることがあったとは、到底思えないのです。
 上にも引用した、佐藤成著『証言 宮澤賢治先生』には、次のような記載があります。

 宮沢君は嘘をつく人間が大きらい、往来で行きあっても見向きもしない。(大谷良之)

 賢治はいつでも相手を見透かしてものをいっている。嘘や偽りは大嫌いで、真実純真、そういうものがすき、どんな偉そうな人でも恐れない、弱点をすぐ見破るという人であった。(藤原嘉藤治)

 先生は嘘やいつわりを極度に嫌われた。またいやなことはいやとはっきりすれば喜ばれ、義理にもいやなことを承諾したりするとかえって機嫌が悪かった。正直の徳を尊ばれた。(菊井清人 大・十五卒)

 以上のように、賢治を知る人の証言や、伝記的な記録から、彼が実際に「意志を曲げて媚びへつらう」ようなことをしたという証拠を探し出すのは、不可能なような気がするのですが、それではなぜ賢治が自らの心象世界を、「いちめんのいちめんの諂曲模様」と描写したのか、私としてはその理由がわかりません。
 ここで、従来の解釈を参照してみようと思うのですが、この「諂曲模様」が具体的にどういう意味なのかということについては、さほど多くの解説はないようです。

 その中で、まず恩田逸夫氏は、「詩篇「春と修羅」の主題と構成」(天沢退二郎編『「春と修羅」研究 II』學藝書林所収)において、次のように説明しています。

 さて、賢治は自己の心象風景を自然の風景に托して「諂曲模様」といって自戒しています。「諂」とは媚びへつらうことで、ここでは自分自身を甘やかす傾向でしょう。「曲」とはねじまげた誤れる受けとり方です。賢治のこのような暗い心情とは対照的に、天からは春の琥珀色のキラキラした陽光が降り注いでいます。

 この解釈では、賢治が媚びへつらっているのは「自分自身」に対してであり、彼は自らの内にある「自分自身を甘やかす傾向」を自戒して、このように表現したと考えられています。つまりこれは、「自己欺瞞」の一種だというわけです。
 恩田氏がこのように解釈した理由は、賢治が「他人に対して媚びへつらっていた」という状況が想定しにくいために、「自分に対して」と考えざるをえなかったということかと思いますが、しかし「自分で自分に諂曲する」というのは、理屈としては言えなくもないかもしれませんが、この言葉の現実の解釈としては、非常に無理があるように思います。
 そもそも「修羅」の本質は、自分ではなく他者と争って優位に立とうとすることであり、その際の手段として、多くの場合は好戦的に戦いますが、しかし相手が強いと見ると「媚びへつらって」、少しでも自分を有利に見せようとするのが「諂曲」のはずです。
 したがって、この解釈にはちょっと賛同できません。

 次に、今野勉氏の『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)を、見てみます。

 「諂曲」とは、「へつらうこと」だが、そのままでは意味をなさない。日蓮の『観心本尊抄』に「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かなるは畜生、諂曲は修羅」とある。ここで「諂曲」を「こびへつらう」とすると、「修羅」は、こびへつらう人となってしまう。島地大等の『妙法蓮華経』の「方便品第二」に、「諂曲心不実しんふじつ」という言葉が出てくる。島地は「諂曲」の字の右に「てんごく」とルビを付し、左側に片仮名で「ヨコシマ」とカナを当てている。すなわち「よこしま」である。「諂曲心不実」は「邪にして心不実なり」だ。とすると、日蓮の「諂曲は修羅」は「邪なるは修羅」と解さなければならない。『梵漢和対照・現代語訳 法華経』でも、訳者で仏教学者の植木雅俊は「諂曲」を「心のひねくれたものたち」としている。「諂曲模様」は、したがって「邪な模様」、すなわち「正常ではない、異端の様相」という意味としていいだろう。賢治の立っている心象風景は、「邪」な風景なのだ。
〔中略〕
 賢治は、自らを「邪な修羅」としている。「冬のスケッチ」に賢治は、「このこひしさをいかにせん/あるべきことにあらざれば」という言葉を遺した。
 「この恋は、あってはならないものだ」という、罪の意識が賢治の中にはある。「自分は邪なことをしている」という意識だ。それを強烈に示す言葉が、保阪あての賢治の手紙にある。

 すなわち今野氏は、もしも「諂曲」を「媚びへつらう」という意味に解釈すると、「「修羅」はへつらう人となってしまう」から「意味をなさない」、という根拠に基づいて、「諂曲」とは「邪」という意味である、と解釈しなおすわけです。 そして、賢治が自らのことを「邪」と考えた理由は、保阪嘉内に対する同性愛を抱いていることに対する罪の意識であるというのが、今野氏の説です。
 しかし、すでに上に見たように、修羅とは一面ではまさに「へつらう人」であるというのが仏教の教説であり、それを賢治が理解していなかったはずはありません。

 以上のように、賢治の「諂曲性」については、これという妥当な解釈が見あたりません。賢治はいったい、自分のどのような部分が「へつらう人」だと認識し、自戒していたのだろうか、というのが今回の記事の主題です。

 この問題について別の角度から考えてみるために、賢治の童話「土神ときつね」を参照してみます。
 「土神ときつね」には、粗暴で怒りっぽい土神と、上品で弁舌爽やかだがやや不正直な狐と、その二人が思いを寄せる樺の木が出てきます。この土神と狐は、対照的な存在ではありますが、どちらも賢治自身のある側面を象徴しているということは、これまでにも指摘されてきました。
 土神は、いつも素朴な驚きの目で自然を見る感性を持つ一方で、自らの感情を処理できず、苦悩しています。狐は、西洋の科学や文学の知識が豊富で、それらを魅力的に語ることができます。どちらの特性も、まさに賢治らしいと言えますし、またこの作品の改作を検討したメモに、土神を「退職教授」に、狐を「貧なる詩人」にするという案があり、これもそれぞれ賢治の人生の一側面に対応しています。

 一方、二人のうちで土神の方は、「修羅」を象徴する存在と解釈できることも、多くの研究者によって指摘されてきました。怒りっぽく乱暴なところはもちろん「修羅」の特徴ですし、詩「春と修羅」との関連では、土神の棲んでいるのが「湿地」であること、怒りに燃えると「歯噛み」をして「その辺をうろうろ」すること、通り過ぎる木樵から姿が見えないこと、最後ではその泪が雨のよう降るところなどが、「春と修羅」に共通した描写と言えます(栗原敦氏などによる)。

 今回、私としてはこれに加えて、実は「修羅」を象徴しているのは「土神」だけではなくて、「狐」もまた「修羅」の一側面を表しているのではないかということを、考えてみたいのです。
 すなわち、怒りっぽく乱暴な、修羅の「攻撃的側面」を土神が体現しているのに対し、その「諂曲的側面」――相手に取り入るために媚びへつらい、自分を良く見せるためには事実を「曲げて」嘘もついたりする部分――を、「狐」が体現しているのではないかと考えるわけです。
 このような観点が、「土神ときつね」という作品を理解する上で何をもたらしてくれるかということは、また別の機会に考えてみるとして、とりあえず今回はこの解釈を、「賢治の内の修羅の諂曲的側面」を考える上での、補助線として利用してみたいと思います。

 上述のように、生身の賢治を対象として、「どこに諂曲があるのか」と直接探してみても、なかなか見つけるのは難しいのですが、ここで賢治と「諂曲」の間に、この「狐」を置いてみると、見えてくるものがあるように思います。
 もちろん賢治は、この狐のように嘘をついて人を騙したりすることはなかったでしょうが、それでも調子に乗ってちょっと大言壮語してしまうことは、あったのではないでしょうか。
 私としては、「小岩井農場」の清書後手入稿で、「春と修羅補遺」に「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」として分類されている草稿の、次の箇所などを連想します。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、同僚教師の堀籠文之進と何とかして親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけたりしているのですが、なかなかうまく行きません。引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところなどは、土神がぜひとも樺の木と仲良くなりたいのに、不器用で乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられてしまいます。
 この部分は私にとって、賢治の「土神的な側面」、すなわち「修羅の攻撃的側面」を、表しているように思えます。

 これに対して、その前の方で「鞍掛山は南昌山や沼森の系統に属し、岩手山の系統とは異なっていて、石英安山岩があるかもしれない」という地質学的な知見を得意気に堀籠さんに披露し、「これは私の発見です」と言って自慢までしているところからは、私はあの「狐」の樺の木に対するおしゃべりを、連想してしまうのです。
 鞍掛山が岩手山よりも地質学的にかなり古いという説は、「国立公園候補地に関する意見」においても、「ぜんたい鞍掛山はです/Ur-Iwate とも申すべく……」などと書かれており、賢治の十八番の一つでした。これは、現代の地質学から見ても正しいということですが、しかしこれを「私の発見です」とまで主張するのは、ちょっと賢治の勇み足ではないでしょうか。
 科学の分野で「自分の発見」と言うためには、それを学会で発表するなり、論文にして学術雑誌に投稿するなりして、専門の研究者たちに認めてもらう必要がありますが、賢治はそういう手続きを踏んだわけではありません。確かに、彼は独力でこれを「発見」したかもしれませんが、それより前に別の研究者が、すでに発見し報告していた可能性もあります。
 こういう風に、思わずちょっと「話を盛って」しまい、相手の気を引こうとしているところが、「土神ときつね」における「狐」のおしゃべりに似ているように、私は思うのです。
 そして、あの「狐」が象徴するのが「修羅の諂曲的側面」だったとすれば、賢治は自分自身の行動のうちで、こういう部分を「諂曲的」だと捉えて、反省し自戒していたのではないかと、私は推測するのです。

 もしも、このような読み方が成り立ちうるのなら、「小岩井農場」の下書稿段階では、樺の木に対して「土神」と「狐」が対照的なアプローチをしていたように、堀籠さんの気を引こうとする賢治が「修羅の二側面(=攻撃性と諂曲性)」を露呈して、葛藤していた様子が記録されているのだと、考えることができます。
 ただし、「小岩井農場」のそのような側面は、その後の推敲によって抹消され、最終的にはもっと抽象化された形で、人間一般における「愛」のあり方として昇華され、理論化されることになります。

 長詩「小岩井農場」の推敲は、元あったその九つの「パート」のうち三つも抹消するような大規模なものでしたが、上記のような視点からその作業の意味を考えてみると、それは一方では、賢治が「主観的な愛」を「客観的な愛」へと昇華しようとした過程であり、そしてもう一方では(それと表裏をなす動きとして)、「主観的な〈幻想〉観」を「客観的な〈幻想〉観」へと転換した過程だと言うことができるのではないかと思うのですが、これについてはまたいつか、別稿で考えてみたいと思います。

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2019年7月 7日 京都市に「風の又三郎」像

 種山ヶ原に設置されている、あの魅力的な「風の又三郎」像(中村晋也氏作)と同じものが、なんと京都市内にもあるよ!と教えて下さった方がありまして、今日は学会で深草の龍谷大学に行ったついでに、一緒に見てきました。
 下が、その又三郎君の写真です。

「風の又三郎」像(京セラ本社前)

 この銅像は、京都市伏見区の京セラ本社ビル前に設置されています。
 以前から京セラ株式会社は、本社ビル内に「京セラギャラリー」を開設して、様々な美術作品を無料で展示していましたが、しばらく前からその一環として、この本社ビル前庭において、中村晋也氏の彫刻作品4体を、道行く誰でも鑑賞可能な状態で設置してくれていたのです。
 ただこの場所は、上写真の背景に見えているような高架の自動車道(第二京阪道路)と、反対側には地上20階建ての京セラビル(95m)に挟まれた、高層都市建造物の「谷間」のような一角で、大自然の中に立つ種山ヶ原の像とは、環境の違いが歴然としています。(「風の又三郎」の書き出しが、「谷川の岸に小さな学校がありました」というのとは、同じ「谷」でも雲泥の差です。)
 私が知るかぎりでは、あの種山ヶ原の像が今もきれいな銅色あかがねいろでつやもあったに比べると、こちらは表面に少し緑青も浮いているようで、やはり排気ガス中の硫黄酸化物や窒素酸化物等の影響があるのかもしれません。

京セラ本社ビル

  しかしそれでも、こちらの又三郎君もやっぱり表情は健気で凜々しく、都会の中でもここだけには、清々しい風が吹き渡っているような感じがしました。思えば彼は、いつも地球上のどこへでも自由自在に飛び回っていますから、時にはこういうごみごみしたところにもやって来て、自然を忘れそうになっている都会人を慰めてくれるのかもしれません。
 今日は日曜日ということで、京セラビル前庭のベンチには、多くの若い人が座ってお昼を食べたりしながら、くつろいでいました。

 それにしても、本日は貴重な時間をさいて案内をして下さったTさんに、ここにあらためて感謝申し上げます。

 ところで、龍谷大学であった日本病跡学会では、午前中に下のような発表をしたのですが、タイトル背景に使った写真は、こちらも偶然に「種山ヶ原」でした。

「宮沢賢治の作品に現れる超常体験と解離」

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2019年6月18日 火の車の歌

 宮澤賢治ともいろいろ縁のあった詩人の草野心平は、生前に屋台の焼き鳥屋「いわき」をやったり、居酒屋「火の車」を開いたり、賢治とはまた趣の違った、破格の人生を歩んでいます。心平が東京で焼き鳥屋を開店するにあたっては、賢治が「電気ブドウ酒」という一種の合成酒の製法を手紙で伝授したというエピソードも残っています。

「火の車」一日開店

 ところで少し前のことですが、去る3月10日にいわき市の「草野心平記念文学館」において、往年の「居酒屋火の車」を再現した「居酒屋「火の車」一日開店」という催しが開かれました。私も日帰りでのぞいて来たのですが、その際に同館の専門学芸員の小野浩さんが、居酒屋「火の車」のテーマソングとも言うべき「火の車の歌」を、当日の参加者に教えて下さいました。
 素朴でちょっと破れかぶれで、哀愁も漂う感じなのですが、作曲は深井史郎というクラシックの作曲家で、草野心平の「蛙」や「小川の歌」による歌曲も作曲している人です。この人も、「火の車」の常連だったのでしょうか。

 今日はこれを、VOCALOID の Kaito と Mew に歌わせてみました。下がそのMP3ファイルです。クリックしたら再生すると思います。

♪「火の車の歌」(MP3:1.13MB)

 

火の車の歌

 居酒屋「火の車」の場所は、文京区田町28番地で、間口は1間半で奥行きは2間という狭いスペースに、1尺2寸のカウンターとテーブル4つを置いたという店でした。詩人の宗左近は、「かつてこのように格調高く、また、メチャクチャな飲み屋があったろうか。このように度外れの酔客がいただろうか」と書き残しています。

居酒屋「火の車」

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2019年6月 9日 優美な死骸

 『新校本全集』第十六巻年譜篇の1924年の項に、次のような記載があります。

 この年藤原嘉藤治および小原弥一の回想によれば、中小路の高日義海花巻高等女学校校長宅で月一回定期的に座談会が行われた。メンバーは藤原嘉藤治(花巻高等女学校)、羽田正一(県視学)、宮沢賢治、白藤慈秀、阿部繁(花巻農学校)、小原弥一(八重畑小学校)、多田辰己(花巻小学校)らで、自由に教育や時事問題、人生論思想論を語りあったという。座談会というのが流行したことと高日校長の話題をふやす意味もあったという。お茶とお菓子だけで酒食は出なかった。藤原嘉藤治の「他を犯さずに生きうる世界というものはないだろうか」の設問に答えたのが賢治の童話「ビジテリアン大祭」であったという。賢治が、山おくの昼なお暗い密林の中に一筋の川が流れ、そこに黒髪を乱しながら女の死体が漂ってきた、そのときわれらはどうするか、という難問を出したこともある。

 当時の花巻の、教育関係のトップたちによる「座談会」が毎月行われていたという記載ですが、賢治の「ビジテリアン大祭」が、この会における藤原嘉藤治の「他を犯さずに生きうる世界というものはないだろうか」の課題に答えるものだったというのは、面白い逸話です。嘉藤治の設問に対して、たとえば賢治が菜食主義の立場から持論を展開し、それに対して他の人々から様々な反論が出された様子が、「ビジテリアン大祭」の議論にも生かされているのかもしれません。
 またこの、「他を犯さずに生きうる世界」という発想は、1924年10月の日付を持つ「業の花びら」(「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」下書稿(二))に出てくる、次の一節を思い起こさせます。

ああ誰か来てわたくしに云へ
億の巨匠が並んで生れ
しかも互ひに相犯さない
明るい世界はかならず来ると

 このような例を見ると、この「座談会」で出た話題が、ひょっとしたら賢治の他の作品のモチーフになることもあったのかもしれません。

 それにしても、この座談会で賢治が出した設問の「山おくの昼なお暗い密林の中に一筋の川が流れ、そこに黒髪を乱しながら女の死体が漂ってきた」というシュールレアリスム的な情景は、何とも印象的です。彼の幻想的な作品の裏の面を垣間見るようで、かなり怖いものがありますが、いったい彼はどういう意図で、こんな「お題」を出したのでしょうか。
 居並ぶ偉い先生方の、当惑する顔を見てやろうというような、ちょっとしたいたずら心があったかもしれませんし、こんなに突飛で不思議な設定は、彼がふだんから実際に山奥に分け入っては、様々な超常体験をしていたこととも、関連しているでしょう。

 また、「女性の死体が川を流れてくる」という場面設定は、ジョン・エヴァレット・ミレーの絵画「オフィーリア」を連想させます。(下画像は「Google Arts & Culture」より)

ジョン・エヴァレット・ミレー「オフィーリア」

 この絵の題材は、シェークスピアの『ハムレット』で、誤ってハムレットに父ポローニアスを殺されたオフィーリアが、悲しみのあまり正気を失い、川に落ちて溺れ死ぬ場面です。劇中ではガートルードが、彼女の最期を語ります。

「すてきな花輪を、垂れた枝にかけようと、柳によじ登ったとたん、意地の悪い枝が折れ、花輪もろとも、まっさかさまに、涙の川に落ちました。裾が大きく広がって、人魚のようにしばらく体を浮かせて―――そのあいだ、あの子は古い小唄を口ずさみ、自分の不幸が分からぬ様子―――まるで水の中で暮らす妖精のように。でも、それも長くは続かず、服が水を吸って重くなり、哀れ、あの子を美しい歌から、泥まみれの死の底へ引きずり下ろしたのです。」

 当時の賢治が、ミレーの「オフィーリア」を知っていたかどうかはわかりませんが、夏目漱石の「草枕」の中に、この絵に言及している部分があり、知っていた可能性もあります。

成程此調子で考へると、土左衛門は風流である。スヰンバーンの何とか云ふ詩に、女が水の底で往生して嬉しがつて居る感じを書いてあつたと思ふ。余が平生から苦にして居た、ミレーのオフェリアもかう観察すると大分美しくなる。何であんな不愉快な所を撰んだものかと今迄不審に思つて居たが、あれは矢張り畫になるのだ。水に浮んだ儘、或は水に沈んだ儘、或は沈んだり浮んだりした儘、只其儘の姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。

 あるいはこの「お題」は、20世紀前半のシュールレアリストが行っていたという「優美な死骸」というゲームの名前も、連想させます。
 これは「小さな紙切れの遊び」とも呼ばれ、数人の人が集まって、それぞれが小さな紙切れに思い思いの言葉を書いて、その紙切れを集めて一つの詩にする、という手法です。イヴォンヌ・デュプレシの『シュールレアリスム』によれば、これによって、「羽のはえた蒸気が、鍵で閉ざされた鳥を誘惑する」とか、「セネガルの牡蠣が、三色のパンを食べるだろう」とかいうような超現実的なフレーズが生まれたということですが、初期に誕生した「優美な屍骸は新しい葡萄酒を飲むだろう」という一節がとりわけ有名になったことから、この手法自体が「優美な死骸」と呼ばれるようになったのです。

 また、シュールレアリストによる同様の創作ゲームとして、互いに独立して「質問」と「答え」を書いておき、後でそれをつなぎ合わせる、という手法もありました。
 ポール・エリュアールの上げている例は、次のようなものです。(イヴォンヌ・デュプレシ『シュールレアリスム』より)

「S・―月ってどんなもんだい
「B・―それは素晴らしいガラス屋だ。
「N・―春っていうのは何だい。
「S・―ホタルを食べて生きているランプさ。
「A・A・―シュールレアリスムは、われわれの生命の組織形成、あるは組織破壊のなかでも、同じような重要性をもちつづけているんだろうか。
「A・B・―それは、その構造のなかに花以外のものはほとんど入ってこない泥なのだ。

 これはまるで、賢治が「〔うとうとするとひやりとくる〕」で展開している「天狗問答」のようでもあります。
 思えば、「真空溶媒」などは、まるでダリの絵のように自在に変形する世界を描いていましたが、あらためて賢治という人の感性は、こういうシュールレアリスムの方法論と共通するものがあったのだなと感じます。

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2019年5月26日 大槌町の「旅程幻想」詩碑

 先日の連休に大槌町で見学してきた「旅程幻想」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。
 この詩碑は、以前にもご紹介したとおり、三陸鉄道リアス線の全線復旧開通を記念して、「大槌宮沢賢治研究会」がクラウドファンディングを募って建立したもので、去る3月16日に除幕が行われました。この「旅程幻想」の舞台が、ここ大槌町だったのではないかという説もあることから、ここに建てられたのです。

「旅程幻想」詩碑

 今回、新たにオープンした三陸鉄道の「大槌駅」は、下写真のようなユニークな形をしています。

大槌駅

 横から見ると少しわかりにくいのですが、屋根の形が「ひょうたん」形になっていて、これは大槌湾に浮かぶ「蓬莱島」が、井上ひさしの「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったと言われていることに由来しています。よく見ると、駅前の時計の枠も、ひょうたん形になっていますし、駅の周辺を歩くと、「ドン・ガバチョ」や「サンデー先生」など、「ひょっこりひょうたん島」のキャラクターの人形がいろいろ並んでいます。
 ちなみに、下写真は駅の2階に上がってみたところで、奥の方で、「博士」が外を眺めています。

大槌駅舎2階

 ちなみに、この「大槌」の東隣の駅が「吉里吉里」ですから、大槌町内の三陸鉄道の駅は、井上ひさしの作品に関係しているのが2つもあることになります。

 また下の写真は、大槌駅から少し西の方に歩いたところにある、「小鎚川」です。作品中で賢治がまどろんでいる「荒れた河原の砂」は、この小鎚川の河原だったのではないかという説があります。

小鎚川

  旅程幻想
               一九二五、一、八、

さびしい不漁と旱害のあとを
海に沿ふ
いくつもの峠を越えたり
萓の野原を通ったりして
ひとりここまで来たのだけれども
いまこの荒れた河原の砂の、
うす陽のなかにまどろめば、
肩またせなのうら寒く
何か不安なこの感じは
たしかしまひの硅板岩の峠の上で
放牧用の木柵の
楢の扉を開けたまゝ
みちを急いだためらしく
そこの光ってつめたいそらや
やどり木のある栗の木なども眼にうかぶ
その川上の幾重の雲と
つめたい日射しの格子のなかで
何か知らない巨きな鳥が
かすかにごろごろ鳴いてゐる

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2019年5月19日 シカゴの及川家の消息

 一時は賢治とお互いに好意を寄せ合っていたとの説がある、大畠ヤスの結婚渡米後の状況について、花巻市の布臺一郎さんが調査を行い、「ある花巻出身者たちの渡米記録について」という論文を発表されました(『花巻市博物館研究紀要』第14号掲載)。
 私はたまたま10年ほど前に、花巻で布臺さんにお会いして話をさせていただく機会があり、その国際的な見識の広さは存じ上げていたのですが、今回の調査の着眼や、様々な手法を駆使して対象に迫っていく行動力には、感嘆しつつ読ませていただきました。また、こうやって90数年前の公文書がきちんと保存管理されており、これを一般人が希望すれば閲覧できるという米国のシステムにも感動しました。日本における公文書の扱いが議論を呼んでいる昨今だけに、なおさらです。

 この布臺さんの調査によって、これまで大畠ヤスの消息について、大畠家のご遺族からの聴き取りによって語られていた情報の一部に誤りがあったことが明らかになり、今後は賢治とヤスの関わりについて考察を行う際にも、この新たな前提に立って進める必要があります。

 今回の調査結果で、従来の説との最大の相違点は、これまでヤスの結婚相手は「土沢出身の医師・及川修一」と言われていたのが、「大迫出身の旅館業・及川末太郎」だったというところです。
 これ以外に、今回の布臺さんの調査によって判明した事柄の要点を挙げると、次のようになります。

  • (1898年5月から1924年5月まで、及川末太郎はイリノイ州在住。シカゴで「及川旅館」を営み、在米邦人にはかなり知られていたらしい。)
  • 1924年6月14日、及川末太郎と及川ヤスは、横浜から"KAGAMARU"に乗船し、6月27日にシアトルに到着。(引用者註:この船は、1901年から1934年まで太平洋航路に就航していた「加賀丸」であろう。)
  • 1926年8月3日、長男"Shuichi"誕生。
  • 1927年4月13日、ヤスが僧帽弁狭窄症による心不全にて死去。
  • 1929年4月2日、Shuichiが急性粟粒結核にて死去。
  • 1943年、及川末太郎は連邦捜査局の捜索を受けたが、抑留はされなかった(7月5日付けFBI報告書)。
  • 1943年、及川末太郎の名前が第二次抑留者交換リストに記載されるが、この交換によって日本に帰国したかどうかは不明。米国では死亡記録は見つかっていない。

 及川末太郎の、波乱の人生にも興味を引かれますが、以下には、この論文を読ませていただいて、個人的に感じたことなどをいくつか記しておきます。

 まず下記は、論文の資料として掲載されている、及川ヤスの「死亡標準証明書」の写しです。

ヤス死亡証明書

 この記載を見ると、死因は本文中に記載されているとおり、「僧帽弁狭窄症(Mitral stenosis)、心不全(Cardiac insufficiency)」で疑問の余地はありませんが、最下段の「寄与因子(CONTRIBUTORY)」の欄の2つめの単語が、判読しにくいです。
 布臺さんの論文では、"Acute dilatation of heart"と読んで、「拡張型心筋症」と訳していますが、"Dilatation"にしては"l"が1つ多いですし、その次の"a"であるべき字の上に"i"のような点があります。私としては、これは"Debilitation(衰弱)"で、「急性心臓衰弱」と解釈するべきだろうか?とも考えてみましたが、そう読むにもかなり無理があり、結局はやはり布臺さんの解釈のとおり、"Acute dilatation of heart"で、記載したオオヤマ医師がちょっと綴りを間違えたと考えておくべきかと思います。
 ただ、その訳語としては、「拡張型心筋症」というのは、1980年にWHO等が定めた呼称で、1920年代にはまだその概念はありませんでしたし、また「急性」に起こるものでもありません。日本語訳としては、「急性心臓拡張」としておくのがよいかと思われます(コトバンク「心臓拡張」参照)。僧帽弁狭窄症では、血液が左心房から左心室に流れにくくなるので、左心房の圧力が高まって拡張するのです。

 あともう一点、ヤスの長男"Shuichi"の漢字表記も、議論の余地はなきにしもあらずです。
 布臺さんによる米国側の資料調査によって、"Suetaro Oikawa"、"Yasu Oikawa"、"Shuichi Oikawa"の3人のローマ字表記の名前が見出され、さらに「末太郎」「ヤス」については日本側の資料との照合から、日本語表記も確認されました。しかし、"Shuichi"の表記については、現時点では大畠家側の遺族の証言による「ヤスの夫・修一」という情報があるだけなのです。
 この情報の根拠は明らかでなく、「ヤスの夫」という部分は誤りだったわけですから、実は息子の名前だった「修一」という漢字も、正しいという保証はありません。
 しかし一方で、大畠家の遺族の証言でも、「及川」という姓は正しかったわけですし、夫の名前とされていた"Shuichi"が、実際の長男の名前と「偶然に」一致したというのは、あまりにも出来すぎという感じがします。
 となると、「及川修一」という名前は、何らかの形でいったんは大畠家にきちんと伝えられていたけれども、それをかなり後年になってから目にしたご遺族が、勘違いをしてヤスの夫の名前と思いこんでしまったと解釈するのが、まだしも自然な感じがします。そうだとすれば、「修一」という漢字は正しいことになります。

 「大迫出身の旅館業」が、「土沢出身の医師」に変わってしまった経緯についても、具体的なことはわかりませんが、これは「伝言ゲーム」で生ずる変異の範囲を越えてしまっており、同時代に生きている人であれば、犯すはずのない間違いだろうと思います。すなわち、ヤスの実家の大畠家でも、結婚相手が「大迫出身の旅館業」の人であることは、当時はもちろん知っていたはずで、それらの方々が存命のうちは、こういう間違いは起こらなかっただろうと思うのです。
 したがってこれは、そういうことを知っている方々が、みんな亡くなってしまってから生じた錯誤だろうと考えます。

 実際、大正時代から昭和の戦後まで、土沢には「及川」という名前の医師がおられて、かなり有名だったということです。土沢出身の私の知人の奥様も、高校生の頃までは家族ぐるみでこのお医者さんに診てもらっていたということですし、2017年4月にNHKで放送された「宮沢賢治 はるかな愛」という番組では、その医院の跡地の様子も放映されていました。
 ですから、大畠家のご遺族がかなり後になって、ヤスの結婚相手の姓が「及川」であることは知りながらも、もしかしてその出身地を(花巻から東の方にある小さな町ということで)「大迫」から「土沢」に勘違いしてしまったとしたら、昔から土沢にある「及川」という医院のことを連想したとしても、不思議ではない気がします。

 もちろん以上は、あくまで勝手な空想にすぎませんが、いずれにせよ同時代人の一人であった賢治までもが、ヤスの結婚相手が土沢の人だと勘違いしていたと考えるのは、非常に無理があります。
 これまでは、私自身も含めて、土沢を舞台とした賢治の作品を、ヤスとの関連で解釈するという発想もありえましたが、今回の布臺さんの論文によって、その論拠は消滅したと考えるべきでしょう。
 そのようなわけで、一昨年に当ブログに書いていた「Tearful Eye」という記事(賢治が土沢を通って歩いた折に書いた「〔はつれて軋る手袋と〕」という作品に、ヤスの追憶を読みとろうとしたもの)は、削除いたしました。

 一方、及川末太郎は、1924年5月までイリノイ州(おそらくシカゴ市エリス街)に在住していて、同年の6月14日に横浜から及川ヤスと一緒に米国に戻った記録が残っているのですから、末太郎がヤスと結婚式を挙げたとすれば、この5月中の帰国から6月13日までの期間に限定されてきます。
 となると、ひょっとしたら賢治もこのヤスの結婚の時期を知っていたかもしれず、この時期の作品との関連を考えてみることは、無意味とは言えないでしょう。
 たとえば、1924年5月19日の日付を持つ「津軽海峡」は、その初期形が「水の結婚」と題されているように、二つの海流の出会いを象徴的に「結婚」と呼び、ほのかに祝祭的な雰囲気も漂っていますが、その背景にヤスの結婚への意識を読みとることは可能でしょうか。
 また、同じ修学旅行中で5月22日の日付を持つ「」の初期形「海鳴り」では、(遠くアメリカまでも続く)太平洋の荒波に向かって、「すべてのはかないねがひを洗へ」とやり場のない思いをぶつけ、また浜辺では「砂丘のなつかしさとやはらかさ/まるでそれはひとりの処女のようだ」との思いを記していますが、これも気になる描写です。
 さらに、5月23日の「〔つめたい海の水銀が〕」の初期形「島祠」には、「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という一節があり、自らのはるかな過去世の結婚生活について、夢想しているようです。
 私は個人的には、この頃の作品には1年半前に亡くなったトシへの感情が反映していると考えているのですが、時期が時期だけに、これらにはヤスへの思いも重ね合わされているとも、考えられなくはありません。

 それはともかく、インターネットで「及川末太郎」について検索していましたら、1924年8月23日付けの『日米新聞』に、次のような記事が掲載されていました。

『日米新聞』1924年8月23日

 この「シカゴだより」によると、同年8月5日に、「及川末太郎氏宅滞在の二青年」のところに、ピストルを持った2名の強盗が押し入り、青年1人は多少の負傷を受け、所持金20ドルほどを奪われたが、強盗1人は逮捕されたということです。
 旅館の宿泊客の部屋に強盗が押し入ったということかと思われますが、この年の6月27日にシアトルに到着してから、まだ1か月と少ししか経っておらず、見知らぬ土地に来たヤスにとっては、さぞ恐ろしい出来事だったのではないかと推測されます。

 また、1926年8月21日付けの『紐育新報』には、次のような記事が掲載されていました。

『紐育新報』1926年8月21日

 「シカゴ特信」下段に、「◇及川家喜び」という見出しで、「市内エリス街二九四九番の及川末太郎氏方に去る十六日玉のやうな男兒出生母子共に壮健であると」との記事があります。
 きっとこの頃は、及川家もさぞかし喜びにあふれていたことでしょう。

 ちなみに、いずれの記事もスタンフォード大学の「フーヴァー研究所」に設置されている「Hoji Shinbun Digital Collection」というアーカイブに収録されていて、ほとんどの記事が登録なしで自由に検索できるようになっています。日本にも到底ないような充実したアーカイブを、日本語の資料に対して作ってしまうあたり、ここにも彼我の差を実感します。

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2019年4月21日 なぜ岩波茂雄あてに

 宮澤賢治は、1925年12月に岩波書店社主の岩波茂雄あてに手紙を書き、自分の手もとに売れ残っている『春と修羅』200部と、岩波書店の刊行している哲学・心理学書を交換してくれないか、言いかえれば現物支給でよいから自分の『春と修羅』を買い取ってくれないか、という依頼をしました。

とつぜん手紙などをさしあげてまことに失礼ではございますがどうかご一読をねがひます。わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。友人の先生尾山といふ人が詩集と銘をうちました。詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほり記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。辻潤氏佐藤惣之助氏は全く未知の人たちでしたが新聞や雑誌でほめてくれました。そして本は四百ばかり売れたのかどうなったのかよくわかりません。二百ばかりはたのんで返してもらひました。それは手許に全部あります。
わたくしは渇いたやうに勉強したいのです。貪るやうに読みたいのです。もしもあの田舎くさい売れないわたくしの本とあなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますならわたくしの感謝は申しあげられません。わたくしの方は二・四円の定価ですが一冊八十銭で沢山です。あなたの方のは勿論定価でかまひません。
粗雑なこのわたくしの手紙で気持ちを悪くなさいましたらご返事は下さらなくてもようございます。こんどは別紙のやうな謄写版で自分で一冊こさえます。いゝ紙をつかってじぶんですきなやうに綴ぢたらそれでもやっぱり読んでくれる人もあるかと考へます。
   ご清福を祈ります。
大正十四年十二月廿日            宮沢賢治

 岩波茂雄は、見知らぬ「岩手県の農学校の教師」から突然受け取ったこの手紙に返事は出さなかったようですが、しかし捨ててしまうこともなく何らかの形で保管していたようで、半世紀も経った1970年代になって、これが古書市に出品されているのが偶然発見され、現在のような形で賢治全集にも収録されることになりました。
 余談ですが、さらにこの書簡は2012年7月に、再び「古書大入札会」に最低入札価格500万円で出品されるという運命をたどります(「岩波茂雄あて書簡214aが入札会に」参照)。

 ところでいったいなぜ、賢治がこのような唐突な手紙を、面識もない出版社社長に出したのかというのは、やはり不思議なことです。
 これについて、『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)の「年譜篇」の1925年12月20日の項には、次のように記されています。

一二月二〇日(日) 『春と修羅』の名義上の発行所で販売を依頼していた形の関根書店よりとり戻した二〇〇部を生かす一案として、岩波書店主岩波茂雄にあてて、自著を八〇銭とし、先方出版の哲学や心理学書と交換できまいかと問い合わせ(書簡214a)。これに対する返書はなかったものと見られる。〔後略〕

 つまり、売れ残った『春と修羅』の「200部を生かす」というのが賢治の目的だったとしており、もちろんこれは一面では全くそのとおりでしょう。しかし、単に換金しようということだけが目的ならば、古本屋に売る方が確実であり、なぜ「本の買い取り」など行っていない新刊の出版社に依頼したのか、やはり理解できない部分が残ります。
 また岩手大学の佐藤竜一さんは、下のようにツイートしておられます。

 すなわち、当時「一流出版社の道を歩み始めた岩波書店に渡りをつけたく考えた」という見方です。
 これがおそらく、多くの方々も賛同されるであろう妥当な解釈で、単に「200部を生かす」だけではなくて、岩波茂雄に直々に自分の作品を見てもらって、何とかその鑑識眼によって認めてもらえないか、という期待をこめての行動だったのでしょう。

 ここで、賢治の提案を岩波書店側から見ると、200部もの『春と修羅』を送ってこられても、それをそのまま岩波書店として販売することもできませんから、書店にとっては80銭×200=160円分の「哲学や心理学の立派な著述」を、相手に進呈する分がまるまる損になるわけで、これは普通に考えたら成立するような取り引きではありません。では、仮にこのような無理な取り引き話に岩波側が乗ってくる可能性があるとすれば、いったいどういうケースなのかと考えてみると、それは「この『春と修羅』の再版、あるいは次の『春と修羅 第二集』を、岩波書店から出させてくれ!」と、岩波茂雄が希望した場合だ、ということになります。
 そして、賢治自身も本心ではそれをひそかに期待して、岩波茂雄あてにこの書簡を送ったというのが、真相なのではないかと思います。
 ただ残念ながら、その賢治の期待はかないませんでした。もしもここで『春と修羅』が岩波書店から刊行されることになっておれば、その後の賢治の人生は、全く違ったものになっていたでしょうが……。

 ところで私としては、賢治が一時このような淡い期待を東京の出版社に対して抱いたのだとしても、その望みを託したのが、なぜ他ならぬ岩波書店だったのかということが、まだ気になります。賢治が遺した蔵書の中に、岩波書店から刊行された書籍は、「岩波文庫」が「各科にわたり数十冊」と記されている以外には全く見当たらず(奥田弘「宮沢賢治の読んだ本 所蔵図書目録補訂」)、賢治が岩波書店の本を特に愛読していたという様子は、見受けられないのです。
 当時、もっと大きな出版社は他にいくつもあっただろうと思いますが、賢治が岩波書店を選んだ理由は、いったい何だったのでしょうか。

 ここで私が思い浮かべるのは、1921年に岩波書店が西田幾多郎の『善の研究』を再刊して、これが当時の旧制高校生の間で、大変な人気を博すに至った、という経過です。
 私がそう思った理由のひとつは、『善の研究』という本の「内容」というかその「企図」にあります。
 著者の西田は、『善の研究』の序文の中で、次のように述べています。

 純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいといふのは、余が大分前から有つて居た考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかつた。其中、個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することができ、又経験を能動的と考ふることに由つてフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかの様に考へ、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいふまでもない。

 すなわち、「純粋経験」のみを出発点として、そこから自らの哲学の全体を構築しようという企図によってこの本は貫かれているのですが、その「純粋経験」とは何かと言えば、本文の冒頭において西田は次のように説明しています。

 経験するといふのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てゝ、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といつて居る者も其実は何等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、真に経験其儘の状態をいふのである。

 これは、賢治が上の岩波茂雄あて書簡において、自らの「心もち(心象)」を、「そのとほり科学的に記載し」、あるいは「厳密に事実のとほり記録し」、それを「あとで勉強するときの仕度」にしたという彼の出発点の様子に、共通するものがあると言えないでしょうか。
 そして賢治は、この「心象スケッチ」によって最終的に何を目ざしていたのかというと、岩波茂雄あて書簡と同年の森佐一あて書簡200では、「或る心理学的な仕事の支度」と記し、またその意図は、「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し」というものであったと、書いているのです。
 西田が独自の哲学体系を樹立したように、賢治も非常に野心的な目標を持っていたわけですが、その「或る心理学的な仕事」の内実とは、自らの幻覚体験も含めた記録論料に、何らかの心理学的な手法を適用することによって、「われわれの感ずるそのほかの空間」=異界に関する「十界互具」的・仏教的な認識論と、科学とを架橋しようというものだったのではないかというのが、私の個人的な推測です。

 それはさておき、このように「純粋経験」あるいは「意識現象」を学の土台に据えて出発点にしようとする考え方は、何も西田や賢治に限らず、当時の世界的な潮流でもありました。
 『宮澤賢治 イーハトーヴ学事典』の「現象学」の項で、黒田昭信氏は次のように書いておられます。

 賢治の諸作品、とりわけ『春と修羅』において実践された心象スケッチには、素朴実在論からまったく解放された、現象学的とも呼べる記述的態度を見て取ることができる。
 19世紀末から20世紀初めにかけて、ヨーロッパでもアメリカでも、生きられる「事象そのもの」への回帰という哲学的態度が、フッサール、ベルクソン、ウィリアム・ジェームズらによって、一つの大きな思潮として形成されていくが、それが日本へと流入して来るのが、明治末期から大正期である。フッサール現象学そのものの日本への受容は、大正初期の西田幾多郎よる紹介に始まり、京都学派に属する哲学者たち―田邊元、山内得立、三宅剛一、三木清、あるいは東北大学の高橋里美らによって、大正時代から昭和初期にかけて、その理解の深まりとともに、本格化していくが、その過程は、賢治の文学と思想が形成されていく時期と重なり合う。

 賢治が西田の著作を読んだことがあったかどうかはわかりませんが、下に記すように当時一世を風靡した西田の哲学がどういうものかということについては、知識人として一応は知っていたのではないかと思います。そうであれば、「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」と言う西田幾多郎は、賢治にとっては時代の潮流を共有しつつ、同じ方向を目ざす仲間だったはずなのです。

 そしてさらに、このような「内容」以上に私が興味を引かれるのは、西田幾多郎と岩波書店の関係です。
弘道館版『善の研究』 西田幾多郎が『善の研究』を最初に出版したのは、1911年(明治44年)に「弘道館」という出版社からでしたが、その内容は専門家の一部から高く評価されながらも、三刷を重ねただけで、まもなく絶版になっていました(右画像は国会図書館デジタルライブラリーより)。
 この状況に変化をもたらしたのが、1921年(大正10年)に岩波書店から刊行された倉田百三著『愛と認識との出発』において、著者がこの『善の研究』を絶賛したことでした。
 同書で倉田は、次のように『善の研究』を紹介しています。

 この乾燥した沈滞したあさましきまでに俗気に満ちたるわが哲学界に、たとえば乾からびた山陰の瘠せ地から、蒼ばんだ白い釣鐘草の花が品高く匂い出ているにも似て、われらに純なる喜びと心強さと、かすかな驚きさえも感じさせるのは西田幾多郎氏である。〔中略〕
 操山の麓にひろがる静かな田圃に向かった小さな家に私たちの冬ごもりの仕度ができた。私はこの家で『善の研究』を熟読した。この書物は私の内部生活にとって天変地異であった。この書物は私の認識論を根本的に変化させた。そして私に愛と宗教との形而上学的な思想を注ぎ込んだ。深い遠い、神秘な、夏の黎明の空のような形而上学の思想が、私の胸に光のごとく、雨のごとく流れ込んだ。そして私の本性に吸い込まれるように包摂されてしまった。

岩波書店版『善の研究』 このような紹介文を読むと、それほどに素晴らしい『善の研究』を、今すぐにでも読みたいと願う読者が現れるのは当然のことですが、この時点でこの本は絶版になっていたのです。そこで、同じ1921年にやはり岩波書店から、『善の研究』が再版されることになり、これは発売当初から、旧制高校生が争って買い求めるほどの人気を博すことになりました(右画像は国会図書館デジタルライブラリーより)。
 いったいどれほど愛読されたのか、岩波文庫版『愛と認識との出発』の「解説」には、次のように記されています。

 旧制の第一高等学校の学生たちが、もっとも愛読した書物は何か。1943(昭和18)年に同校で行われた調査によると、第一位が倉田百三の『愛と認識との出発』である。以下、第二位−阿部次郎『倫理学の根本問題』、第三位−同じく倉田の『出家とその弟子』、第四位−西田幾多郎『善の研究』、第五位−出隆『哲学以前』とつづく(『第一高等学校自治寮六十年史』)。

 つまり、その内容的な出発点と企画において「心象スケッチ」と似ていた『善の研究』は、その初版はすぐに絶版になったものの、岩波書店から再版されることによって、一躍脚光を浴びることになったのです。
 ここまで話題となった本ですから、賢治もその再版に至る経緯くらいは耳にしていたはずで、この本と構想と射程において共通する自らの『春と修羅』が、万が一にでも岩波書店から出版されることになれば……と夢見たとしても、そんなに不思議なことではないと、私としては感じた次第です。

 とりわけ、岩波茂雄に対して「あなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますなら……」と書いているところについては、「心理学」の方は上の森佐一あて書簡に「或る心理学的な仕事」とあるように、自らの企画の方向性として意識していた分野なので当然としても、「哲学」が挙げられているのはどうしてなのでしょうか。これはやはり、岩波書店が再版した西田幾多郎の『善の研究』を賢治が意識していたからではないかと、私としては思ってしまうのです。

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2019年4月14日 走査線に明滅する幽霊

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書) 新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)
石田 英敬 (著), 東 浩紀 (著)

ゲンロン (2019/3/4)

Amazonで詳しく見る

 最近出た、『新記号論 脳とメディアが出会うとき』という本をたまたま読んでいましたら、賢治の『春と修羅』の「」に関する、面白い言及がありました。

『新記号論』p62-63

 少し長くなって恐縮ですが、この「」に対する新たな一つの解釈と思いますので、以下に引用させていただきます。

石田 人間は機械の文字を読み書きすることができないが、その認知のギャップこそが人間の知覚を総合し、人間の意識をつくり出すという話をしました。ぼくたちはこの「技術的無意識の時代」において見えないもの見て、意識の成立以前に聞こえるものを聞いて生活しているわけです。テレビであれ、インターネットの動画であれ、iPod の音楽であれ、ぼくたちは音・イメージや言葉など「記号」だけを取り出し、あたかもそれが現前しているように見なして生活しています。
 現代は音・イメージを伝搬する電波に満ちた時代ですが、フランス語の「スペクトル spectre」(英語の spectrum)には光や音の波長分布像という意味のほかに、「亡霊」という意味もあります。それは、「スペクタクル spectacle(見世物)」という言葉とも結びつく。われわれは音・イメージがつくり出す見世物(亡霊)を存在と見なし、日々暮らしています。これこそヴァルター・ベンヤミンが言うところの「複製技術の時代」にほかなりません。いまここに存在しないひとが話し、存在しない事物の像や光景が見え、いまここに存在しないひととコミュニケーションして生活している。亡霊がいたるところ徘徊してぼくたちを日常的に取り巻いている、かなりふしぎな「スペクタクルの社会」にぼくたちは生きているのです。
 このことを象徴的に表現しているのが、宮沢賢治の『春と修羅』「序」にあるつぎの一節です。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

 ぼくはこれは「テレビの原理」で書かれた詩だと思っています。この詩が書かれたのは1924年です。テレビ技術は19世紀末からの複数の技術的発明が組み合わさって実現したものですが、ベアードによるテレビ像の実験は1924年、日本では高柳健次郎がブラウン管による「イ」の文字の電送・受像の実験に成功したのが1926年です。『銀河鉄道の夜』が相対性理論をベースに書かれたとも読めるように、賢治は科学の動向に詳しいひとだったから、テレビ技術もおそらく知っていたにちがいなく、テレビの原理そのものをメタファーに使っているのではないか。
 テレビでは、走査線上を明滅する光のフレームによって、「わたくしといふ現象」(意識)が生まれる。「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける」テレビの映像のような「わたくしといふ現象」「あらゆる透明な幽霊の複合体」が、人々の意識生活をつくっていく。テクノロジーが文字を書く時代を予言しているようです。
 まさに予言的ですね。「わたくしという現象」が「明滅する」「幽霊」であるという表現は、たいへんデリダ的な表現です。
石田 メディアがテクノロジーの文字で書くようになると亡霊化する。だから、事物および事実が、まさに現象学が言うような「現象」になるわけですね。(『新記号論』p.61-63)

 というわけで、賢治の『春と修羅』の「」に登場する、「幽霊」や「明滅」する「照明」というイメージは、テレビジョンという当時世界最先端のテクノロジーのメタファーではないかという解釈が、ここで提示されているわけです。
 映画好きで、弟を連れて頻繁に映画館に通っていたという賢治のことですから、もしもテレビの原理やその可能性について知っていたら、並々ならぬ興味を抱いて当然ですし、この「」を書いた時点でそのような知識を持っていたのならば、それがここに反映されたという可能性も、十分に考えられそうです。
 ただ、実際に賢治がテレビ技術について言及している記録は何一つ残っていないと思いますので、彼が「」の執筆時点でそのような技術について知っていたか否かを判断するためには、まずはそれが「時間的に可能だったのか」ということから、調べてみる必要があります。

 ご存じのように、賢治の『春と修羅』「」には、「大正13年(1924年)1月20日」という日付が付されていますが、はたしてこの時点で、賢治がテレビジョンというものを知りうる可能性があったのでしょうか。上記の石田氏の発言には、「ベアードによるテレビ像の実験は1924年」という、まさにピンポイントの年号が書かれていますが、より細かい時間的な前後関係はどうなっていたのでしょうか。
 そこでまず、Wikipedia の「ジョン・ロジー・ベアード」の項を見ると、「1924年2月、Radio Times 誌に半機械式のテレビシステムを公開し動く影(物体の輪郭)の映像を披露した」とあります。しかし、これだけではまだ十分に明らかではないので、ベアードのテレビ発明の記録として現時点で最も詳しそうな、“John Logie Baird: Television pioneer”という本を Google books で拾い読みしてみると、彼の1924年前後の研究活動は、次のようなものでした。

John Logie Baird: Television pioneer (History and Management of Technology) John Logie Baird: Television pioneer (History and Management of Technology)
Russell W. Burns

The Institution of Engineering and Technology (2001/2/21)

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  • ベアードが、自らのテレビジョン研究について最初に出版物で報告したのは、1923年11月号の Chambers Journal 誌であり、ここでは、自作の装置が直径20インチで毎秒20回転の走査ディスクを用い、画面は2×2インチであること等を述べている。
  • 1924年1月、研究のための資金集めに迫られていたベアードは、報道向けの実演を行い、同年1月15日付けの Daily News 紙と、1月19日付けの Hastings and St Leonard's Observer 紙に記事が掲載され、実際これを見たベアードの父親の友人から、50ポンドの資金援助を受けた。この時点では、ベアードの装置はまだ単一の文字や記号の「影絵」を転送できるだけで、集光レンズの前に置かれた十字架形の厚紙の輪郭を、数フィート離れた暗い部屋で見ることができたという。
  • 1924年2月15日付けの Radio Times 紙には、「テレビジョンが実現すれば、肘掛け椅子から世界が見られる」と題された匿名記事が掲載され、無線放送や電波について説明をした後、もしもこれが実現すれば、たとえばアルバートホールに座ったままで、競馬ダービーや、オクスフォード・ケンブリッジ対抗ボートレースや、海軍観艦式や、アメリカのボクシング試合や、あるいは戦争さえ見られる、10年後には地球の反対側で起こる出来事さえ見ることができるだろう、と述べられていた。
  • 1924年1月の新聞記事による資金援助を受けて、ベアードは4月までにより大きなアパートの研究室に引っ越し、4月10日に行った実験の電波が、イギリス南岸部でパリのラジオを聴取していた人々の耳に高音の雑音として聞こえたと、Glasgow Herald ほか数紙が報道した。
  • 1924年3月17日に、ベアードは撮像機と受像機の同期に関する新たな技術の特許を申請した。
  • 1924年4月の Radio Times 紙に、ベアードの支援者である作家のル・キューが「テレビジョン:一つの事実」と題した論文を掲載し、ベアードが撮像機と受像機を正確に同期させるという難題を克服して、完全に切断された装置の間での画像送信を成功させたこと、送信レンズの前で指を上下に動かすと、受像ディスクにおいて上下する指をはっきりと見ることができたことを述べている。
  • 1924年5月に、ベアードはそれまでの実験成果をまとめた最初の技術論文を刊行した。
  • 1924年7月26日付けの Hastings and St Leonard's Observer 紙に、「テレビジョンの発明者と名乗るベアード氏」の実験室で電流がショートして爆発事故が起こり、ベアードは爆風で部屋の端まで飛ばされたという記事が掲載された。
  • この後、ベアードは1925年10月2日に、初めてグレースケールの画像の送受信に成功し、この装置が「最初のテレビジョン」と言われることとなった。1926年1月26日には公開実験においてこれを示した。

 ということで、賢治が『春と修羅』の「」を書いたと推測される1924年1月20日までの時点では、ベアードによるテレビジョン装置は、まだその前段階の開発実験が、イギリスの地方新聞や専門雑誌で細々と紹介されていたにすぎず、さらにその実験装置を実際に見ることができたのは、1924年1月の報道発表に招かれた一部の記者や、ベアードのために金銭的支援をする人だけだったというのが、実情のようです。彼が自らの装置について初めての論文を発表したのも1924年5月で、これも時期的に「」には間に合いません。
 そして、ベアードが現実に「最初のテレビジョン」と呼びうる性能の装置を製作できたのは、1925年10月のことだったのです。

 つまり、賢治が日本にいながらにして、1924年1月までに当時のイギリスにおけるテレビジョンの開発状況――しかもそれはまだ非常に未熟で、隣の部屋に影絵を送れる程度であり、現地の人々にもあまり知られていなかった、実験室の中の試作機という段階――について、具体的に知りえた可能性は、まずないと言わざるをえません。

1924年初期にテレビジョンの実験をするベアード

 なお上の写真は、“John Logie Baird: Television pioneer”に掲載されている1924年初期におけるテレビジョン実験の様子で、中央の人物がベアードで、左側が支援者のル・キューです。さらに左には大きな円盤が写っていますが、当時はこのような円盤に螺旋状に多数の穴をあけておき、円盤を高速で回転させてその穴を透過してくる光を、撮像機および受像機で走査線として用いていたということです。

 以上、実際に確認してみると、賢治が『春と修羅』の「」を書いた時点では、テレビジョンの受像機において「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける」「幽霊の複合体」を想像しえたということはありえず、これが「テレビの原理」で書かれた詩だという解釈も、成り立たないということになります。
 それはそれで、ちょっと魅力的な解釈だったのにまあ残念だった、というだけのことで、ここで今回の記事を終わってもよいのかもしれませんが、しかしそれにしても宮澤賢治という人は、この東大のメディア学の教授をしても、なぜかここまでの期待というか思い入れをさせてしまう、何か不思議な吸引力を持った人であることは確かです。

 現代の我々は、たとえば賢治が「エコロジー思想の先駆者」であったとか、彼の書いたものやその行動を、ついつい贔屓目に持ち上げたくなる傾向があります。多くの場合、それはある程度までは事実に基づいているのでしょうが、しかし賢治が「有機農業の先駆者だった」とまで言い出すと、これは事実の真逆になってしまいます。また自然科学的分野でも、たとえばある高名な賢治研究者のように、短篇「柳沢」に描かれた岩手山頂の雪の白光を、「超高層空間における発光現象の予覚」であるとか論じてしまうと、やはり独りよがりな思いこみになってしまいます。

 上のような問題は、勝手な読者の側に原因があるわけですが、ただ我々読者がそういうことを考えたくなってしまう理由の一つは、賢治の方も確かに当時の作家としては異例なほどに自然科学知識が豊富で、その最新の進歩にも通じていたということにあるでしょう。
 冒頭の本で石田英敬氏が言っているように、「『銀河鉄道の夜』が相対性理論をベースに書かれたとも読めるように、賢治は科学の動向に詳しいひとだった」わけで、これも「相対性理論をベースに書かれた」とまで言ってしまうとちょっと言いすぎで、「相対性理論の前提である『真空は光の媒質である』という認識が踏まえられている」と表現した方が正確ではあるでしょうが、しかしやはり賢治という作家の印象は、まさにこのとおりなのです。
 近代日本の作家で、我々がこういうイメージや思い入れを投影する人というのは、ほかにはちょっと思い浮かばず、森鴎外などはずっと現役の医師でしたから、当時最先端の科学にもきっと通じていたと思うのですが、読者としては鴎外の作品に、賢治のごとく何か「未来への先見性」を期待するという感じには、なぜかなりません。

 そしてさらに、上記のように賢治が実際に自然科学に詳しかったということに加えて、彼は当時まだ知りえなかったはずの事柄まで、現在から見ると「当時なぜこんなことが書けたんだろう」と不思議になるような、信じられない想像力を示していることも、よくあるのです。
 以前の記事「銀河、ワームホール、りんご」で書いたように、銀河を「りんご」に喩えてそこを走る鉄道を考えるというイメージは、空間の歪みをワープする「ワームホール」の着想そのものですし、また「現象としての真空」で書いたように、「この世界」と「異界」が「真空」という対象を媒介として繋がっているという発想も、現代物理学を先取りしていました。
 これらはいずれも、「賢治の洞察力が凄かった」とまで言ってしまうと言いすぎで、まあ偶然に符合したにすぎないと考えるしかないのですが、しかしたとえ偶然にしても、数十年後に驚かされるようなこういう素晴らしいイメージを独自に生み出すことができる想像力というのは、やはり賢治ならではなのだと思います。

 思えば、記事「現象としての真空」のコメント欄で吉田さんが、「賢治は、アインシュタインら、独創的な思考ができた科学者たちにも負けない豊かな想像力の持ち主だった」との意見を下さいましたが、まさにそういうことなのかなあと、あらためて感じざるをえません。
 そして人は、やはり賢治のそういうところについつい惹かれて、冒頭のようにちょっと先走りした解釈を生み出してしまうこともあるのだろうかと思うのです。
 しかし賢治作品のこういう「読み」もまた楽しいもので、ただそれにあまりとらわれると「トンデモ」になってしまって危ういのですが、その境目がわからないあたりを彷徨ってみるのは、私などは大好きです。まあ同時に、客観的で大局的な視点というものを、忘れないようにしなければなりませんね。

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2019年4月 7日 富山英俊著『挽歌と反語』

 明治学院大学教授で宮沢賢治学会イーハトーブセンターの前代表理事の、富山英俊さんによる賢治研究書『挽歌と反語 宮沢賢治の詩と宗教』が、刊行されました。

挽歌と反語―宮沢賢治の詩と宗教 挽歌と反語―宮沢賢治の詩と宗教
富山英俊 (著)

せりか書房 (2019/3/20)

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 この本の装幀に使われているのは、上の写真からも少し見ていただけるように、賢治の「青森挽歌」の自筆稿の、美しくも緊迫感のあふれる画像で、これがまず何よりも私にとっては、比類のない魅力を持って目に入ってきます。
 上には写っていませんが、本書の黒色の帯に記されている言葉は、下記です。

『春と修羅』挽歌群の最高峰
「青森挽歌」全篇の音数律と楽曲的な
主題構成を分析し、賢治文学の
反語性・多声性の源泉を(キリスト教
との接触の諸相を読解しつつ)
日本仏教の「本覚」的な性向へと遡り、
仏教思想が「心象スケッチ」を主観性の
表出から離脱させた経緯を展望し、
ゲーリー・スナイダーの賢治詩英訳を
検討し、T・S・エリオットとの類縁
を指摘し、新たな賢治像を提示する

 とても長い一つのセンテンスで書かれていますので、複雑に曲がりくねった印象を与える紹介文ではありますが、この本全体の本質的な要素は、もう全てここに凝縮され詰め込まれています。本の内容紹介としては、もうここに尽きてしまうのですが、これで記事を終わってしまっても何ですので、とりあえず本を開いてみましょう。
 まず本文の最初に位置して圧倒的な存在感を放っているのは、上記のように装幀にも使われている「青森挽歌」を取り上げた「第一章 「青森挽歌」を読む、聴く」です。そこでは、「音数律」という道具を、まるで地質学者のルーペのように丹念に使用しつつ、一片の鉱石も見逃さないような足どりで綿密に進行していくテキストの分析が、とりわけ印象的です。

 音楽に喩えれば、この「音数律」というのは、旋律や対旋律の構成単位としての「動機(モチーフ)」のようなものでしょうが、この章で著者は、賢治という詩人が多彩な言葉のリズムを巧みに駆使する能力において、いかに類い稀な資質をもっていたのかということを、細かく実証的に示してくれています。著者の言葉では、「賢治の詩は、生来の抜群の音感によって細部にいたるまで構成され、定型とそこからの離脱との行き来を精妙に演奏し、長篇詩であっても単調に陥らず多彩に展開する」(p.30)のです。

 この言葉はまさに、私がこれまで賢治の詩を読みつつ感じてきた、その喩えようのない魅力を、具体的な形で表現してくれるものでした。
 例えば、古今東西に「美しいメロディー」というのは数限りなくあるでしょうが、その中でも(少なくとも私にとっては)モーツァルトやベートーヴェンの作った音楽が、その一部を聴いただけでも他に代えがたい魅力を備えているように感じられるのは、個々の動機(モチーフ)が組み合わされ、絡み合い、展開し、変化していく様子が、まさに「精妙」としか言いようのない素晴らしさだからでしょう。それが「なぜ美しいのか」と言われても、何とも説明しがたいですが、単調でもなく、ランダムでもなく、一見気まぐれのように変移しつつも、どこかで均整がとれていて、何とも心地よいのです。
 賢治が自らの詩において用いた音数律も、言わばそういう絶妙なものとしか言いようのないものなのでしょう。

 さらに、このように精妙な「音数律」によって紡ぎ出されていく言葉の連なりは、積み重ねられることによって自ずとさらに大規模で高次の階層の「構造」を形成して行きますが、その「音楽的構成」について、著者の富山さんは次のように述べます(p.63-64)。

 そして、作品の音楽的構成にもう一度戻るなら、この詩篇のここまでの展開は、いくつかの主題や要素の暗示と布置から始まって、妹の死という問いが次第にはっきりと想起され、それから死後の世界の三つの像が出現するというものだった。それらは、異なった方向性をもつ諸主題の対話、交渉という意味で「弁証法的」であり(その衝突からより高い「綜合」が生じる、という意味ではそうではないかもしれないが)、それらの主題がいわば交響曲におけるように展開される。それは「大局的」に言えば、日本の伝統的な詩が十分に発達させえなかった展開ということになるだろうが、しかし賢治のこの作品は、思想の「弁証法的」な展開を詩文の音楽的な構成として劇化するという志向を、近代日本のどんな作品よりも卓越して実現している。じっさい、この詩篇での賢治の詩行は、たとえば英詩の伝統でいえばロマン派の長大なオードに匹敵するものだ。(またT・S・エリオットの長篇詩に。それについては本書第九章で論じる。)

 そして、いったいなぜ、他ならぬ賢治が、これほど長大な詩においてその形式と内容を高度な次元で連関させつつ有機的に構築するという離れ業を、「近代日本のどんな作品よりも卓越して実現」できたのか、ということが、私たちにとっては最大の疑問として現れます。これについて富山さんは、次のように述べます(p.64)。

 東北という地方にいて、英語やドイツ語はかなりできたらしいが、けっしてそれらの言語の長詩を原文で研究する機会が多かったはずはないかれに、なぜそれができたのか? その答えは、だがとうの昔に詩人の弟の宮沢清六によって与えられている。クラシック音楽のレコードのたいへんな愛好家だった賢治は、ベートーベンなどの交響曲を熟知していた。賢治は蓄音機のラッパに耳を突っ込んで、さまざまな音色とメロディを視覚的な像として感受していたというが、交響曲的な構成、構築もまた、そこから獲得したものだろう。われわれは、「兄とレコード」での、「此のころ兄の書いた長い詩などは、作曲家が音符でやるように言葉によってそれをやり、奥にひそむものを交響曲的に現わしたい思ったのであろう」という宮沢清六の発言を文字通りに受け取る必要がある。また、浅野晃は前掲論で「青森挽歌」を「構築し得たこと」が「驚異である」「壮大なマーラー的交響曲」と呼んでいる。(クラシック音楽の愛好家である詩人などは日本に無数に存在してきたが、ほかに賢治のように長篇詩を構成し、かつ多彩にことばを動かせた詩人がいただろうか?)

 私はこの箇所を読んで、かつて自分が高校生だった時代に、ここまで長篇詩ではありませんが「春と修羅」を読んで何とも言えず感動し、自分でその全文をわら半紙に書き写しては読み、これはまるでベートーヴェンの交響曲やソナタの一楽章のようだと感じたことを、懐かしく思い出しました。
 浅野晃氏は、「青森挽歌」を「マーラー的交響曲」と呼んだということですが、さすがにここまで長大になり、また構造も複雑でいわゆる古典的な均整を志向するものではないところからは、これは確かにベートーヴェンではなくてマーラーの交響曲に譬えられるものでしょう。
 (ちなみに以前から私は、賢治の「小岩井農場」は、当該作者の最長の作品であること、全体が6つのパート(楽章)から成っていること、途中では現実的・象徴的な様々な苦悩が描かれながらも最後には若々しい肯定に至るという全体の構成などから、マーラーでいえば交響曲第3番に相当するなぁと、浅野晃氏の指摘は知らないままに思っていました。それでは、「青森挽歌」をマーラーの交響曲で言えば、何番になるのでしょう。その悲壮感の深さからは、かなり対照的ではありますが6番や9番などに当たるでしょうか……。)

 ……などということで、第一章の一つの側面のご紹介だけでも、もうかなりの字数を費やしてしまいましたが、本書の後半部では、キリスト教や仏教の思想への富山さん独自の視点と、それを通した賢治作品の読みが、非常に深く展開されます。本書副題の「宮沢賢治の詩と宗教」が示すように、これもこの本の二本柱のもう一方を成す、重要なテーマなのです。
 その中でも、今回の書き下ろしという「第六章 ヘッケル博士と倶舎―諸説の検討と私見」においては、「青森挽歌」のテキスト中で最も研究者による解釈の分かれる「謎」の部分について、現時点での諸説を丁寧に包括的に整理して、著者の見解を付してくれており、この問題に関心を持っておられる方には、必見の章かと思います。私も「ヘッケル博士」については、「「青森挽歌」における二重の葛藤」の中でも自分なりの解釈を書いてみたりして、相当の関心を持ってはいるのですが、それでも今回の富山さんの論考を読ませていただいて、「やっぱりこの問題は難しいなあ」というのが、率直な感想でした。

 また、宗教的側面からの分析においては、キリスト教における「反律法」という方向性と、仏教における「(天台)本覚思想」を、アナロジーとしてとらえようとする著者の視点は、比較宗教学的に見ても非常に斬新なものではないかと、私には感じられます。しかし現時点で、その検討は私の能力を越えてもいますので、今回の記事での本書のご紹介はこのくらいにし、あとはまた可能ならば、いつか別の記事を立てて考えてみたいと思います。

 ちなみに私は本書を読みながら、これまで賢治学会のセミナー等で謦咳に接してきた富山英俊さんの、理知的で淡々として鋭く、しかしどこかにユーモアもこめられたご発言の様子が、行間から浮かび上がってくるようで、これは研究書としてとても高度で専門的な内容であるとは思いますが、同時に私にとっては暖かく楽しい読書体験でした。

【本書の目次】

はじめに

第一章 「青森挽歌」を読む、聴く
第二章 宮沢賢治の詩の実現(音数律と主題構成)
第三章 賢治仏教学への予備的な覚書(日蓮と親鸞)
第四章 宮沢賢治とキリスト教の諸相―「天国」と
    「神の国」のいくつかの像
第五章 宮沢賢治とキリスト教の一面(反律法)と
    仏教の一面(本覚)
第六章 ヘッケル博士と倶舎―諸説の検討と私見
第七章 心象スケッチ、主観性の文学、仏教思想
第八章 ゲーリー・スナイダーの宮沢賢治
第九章 T・S・エリオットと宮沢賢治

あとがき
参照文献

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2019年3月24日 『宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈』出版

 信時哲郎さんの『宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈』(和泉書店)が、ついに出版されました。

宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈 宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈
信時 哲郎 (著)

和泉書院 (2019/2/28)

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 信時さんは、2010年に上梓された『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』によって、翌年に「第21回宮沢賢治賞奨励賞」を受賞されましたが、それから9年の歳月が経ち、その後の厖大で緻密な研究の成果を、こうしてまた私たちの手元で利用できる形にして下さったのです。
 ちなみに、本文は744ページ、本の厚さは4.3cmあります。

 皆様もご存じのように、賢治の文語詩というのは、彼が最晩年に至ってそれまでの人生を回顧し、その生涯における様々な一コマを切りとって、その都度の自らの感慨とともに凝縮し、最後は単純で美しい珠玉のように「結晶化」させたようなテキストです。そこでは、言葉があまりにも圧縮され切り詰められているために、ちょっと読んだだけでは意味不明で難解なものが多いですが、その奥深い含意や賢治の感情が読み解けてくると、何とも味わい深い感動をもたらしてくれます。
 そのように、一見取っつきにくい賢治の文語詩の世界を旅してみる際に、この『一百篇評釈』は9年前の『五十篇評釈』とともに、最高の導き手になってくれるに違いありません。

 本書の構成は、101篇の各文語詩ごとに、作品「本文」の掲出に続き、「大意」、「モチーフ」、「語注」、「評釈」が記され、最後に「先行研究」の一覧が掲げられています。
 「大意」の項では、削ぎ落とされた賢治の表現を適宜補いながら、作品内容を簡潔な口語訳にしてくれていますので、何のことを言っているのかわからないような難しい文語詩も、ここを読むだけで「ああそういうことだったのか」と一瞬にしてわかるようになっています。
 次の「モチーフ」という項がまた秀逸で、作品の背景や、賢治の生涯との関連を、コンパクトにまとめてくれていますので、鑑賞のための最小限の基礎知識は、ここで得られるようになっています。
 たとえば、「岩手公園」の「モチーフ」の項目には、

賢治の文語詩は、岩手に生きる様々な人を登場させようとする、いわば「岩手ひとり万葉集」とでもいうものを編もうとする試みだったと思うのだが、定稿を書こうとした段階で、賢治はタッピング一家を思い出したということであったかと思う。

という一節もあって、この「岩手ひとり万葉集」という表現などは、これほどまで綿密に賢治の文語詩を読み込んでこられた、信時さんならではの視点から生まれた言葉だと思います。確かに、この賢治の独自の企画は、「岩手ひとり万葉集」とも言えますね。
 さらに続く「語注」では、難解であったり解釈の分かれる語句を、文献も踏まえて丁寧に説明し、そして中心となる「評釈」では、厖大な先行研究や、出版されていないインターネット上の言説までも幅広く参照して、実に精密な作品分析が行われます。
 私事ながら、私のこのブログを参照していただいている箇所も、全部で実に10か所を数え、それぞれ丁寧に引用した上で、賛成であれ反対であれ真摯に評価をして下さっているのが、本当にありがたく存じます。

 「評釈」の例としては、たとえば『文語詩稿 一百篇』の最初の作品「」は、私も大好きな詩の一つなのですが、これについては作品が掲載された『女性岩手』という雑誌の創刊号の巻頭言やそこに掲げられた精神、また当時の社会情勢を論じて、最後は次のように閉じられます。

 だとすれば、まだ母としての自覚、大人としての自覚の薄い母親が、本当は自分の方が大きな声を出して飛びつきたいくらいの瓜を、黙ってわが子に譲るというシーン、すなわち子どもが大人になり、女の子が女になる瞬間の記述として、賢治は興味深いものとして書き留めたかったのではないか、というようにも読めてくる。そしてそれは、大正六年の感動であるに留まらず、昭和七年に至っても、永続していたのではないかと思えるのである。世に欠食児童が増えていた時期であったからこそ、新しい岩手の生活と文化を担う女性たちへの期待を込めて、賢治はこうした作品を書いたのだと考えたい。

 「定稿」になってしまえば、たった4行の小さな作品で、そこには秋空と雲と風と山とススキと、微笑ましい母子の歩く姿がだけ見えますが、そのさらに奥には、こんな厳しい世相や、女性運動に向かう希望や、暖かい賢治の思いも込められていることが、じんわりと浮かび上がってきます。

 賢治の文語詩というものが、見かけは小さな美しい「結晶」の中に、実は「一つの世界」を宿しているということを、わかりやすく紐解いて教えてくれる、この本は素晴らしいガイドブックだと思います。

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