2015年8月13日 靴革の料理

 『春と修羅』に、「栗鼠と色鉛筆」という詩があります。

  栗鼠と色鉛筆

樺の向ふで日はけむる
つめたい露でレールはすべる
靴革の料理のためにレールはすべる
朝のレールを栗鼠は横切る
横切るとしてたちどまる
尾は der Herbst
 日はまつしろにけむりだし
栗鼠は走りだす
  水そばの苹果緑(アツプルグリン)と石竹(ピンク)
たれか三角やまの草を刈つた
ずゐぶんうまくきれいに刈つた
緑いろのサラアブレツド
  日は白金をくすぼらし
  一れつ黒い杉の槍
その早池峰(はやちね)と薬師岳との雲環(うんくわん)は
古い壁画のきららから
再生してきて浮きだしたのだ
  色鉛筆がほしいつて
  ステツドラアのみぢかいペンか
  ステツドラアのならいいんだが
  来月にしてもらひたいな
  まああの山と上の雲との模様を見ろ
  よく熟してゐてうまいから

 日付は1922年10月15日、『春と修羅』の配列において、この次には「永訣の朝」が来るという、緊張をはらんだ場所に位置しています。
 しかし次の作品に比べてこの作品の方は、朝露に濡れた鉄道線路に現れた栗鼠の仕草を見守り、また周囲に広がる秋らしい風景を静かに愛でているという穏やかさが、空気を満たしています。

 ところで、私がよく意味がわからないのは、本文3行目に出てくる「靴革の料理のためにレールはすべる」という一節です。
 前の行にも、「つめたい霧でレールはすべる」とあり、このレールは朝露に濡れて日の光を浴びて輝き、とても滑らかな表面を見せているのでしょうが、それにしても、<靴革の料理のために>レールがすべるというのが、よくわかりません。
 レールの滑らかさが、賢治に「何か」を連想させたのかとも思われますが、「靴革の料理」とは、いったいどう関係があるのでしょうか?

 ただ、とりあえずここで「靴革の料理」と言われれば、まず誰もが連想するのは、チャップリンの映画『黄金狂時代』の一場面でしょう。金鉱探堀で一攫千金を目ざしてアラスカへやってきたチャーリーは、雪に閉ざされて食べる物も底を尽き、ついに自分の革靴を煮込んで食べるのです。

 チャップリンの真骨頂とも言うべき軽妙な演技は、何度見ても飽きませんね。これは、米タイム誌が選ぶ「印象に残る映画のなかの食事シーンベスト10」にもランクインしています。
 そしてさらに、賢治がチャップリンのことを大好きで、「後年の賢治作品にも影響をあたえた」と弟の清六さんが証言していることを考えると、「栗鼠と色鉛筆」に出てくる「靴革の料理」というのは、チャップリン映画の上記の場面と関連しているのだろうと、どうしても推測したくなります。

 子供のころから今まで、映画で私と兄とに一番強く有難い影響をあたえてくれた人はチャールズ・チャップリンでしょう。
 マック・セネットという人がグリフィス映画をつくったといわれている明治の終りころからいままでの間に、チャップリンはあの独特のスタイルでいつも人間味豊かに私どものそばに居たのでした。そばにいたというよりは、いつでも一歩さきを鵞鳥のようによちよちと歩き、底に深い悲しみを潜めながら私どもを笑わせ、ほんとうの喜劇と芸術とはどんなものかを教えてくれました。(宮沢清六「映画についての断章」)

 ところが、チャップリンの『黄金狂時代』の公開日を調べてみると、世界で最初に封切られたのは、1925年6月26日にロサンゼルスのローマンズ・エジプシャン劇場においてだったのです。日本公開は、その半年後の1925年12月17日からでした。
 一方、「栗鼠と色鉛筆」がスケッチされたのは、前述のように1922年10月15日です。まあこれは、作品の最初の形態が書きつけられた日付であって、賢治が「靴革の料理」という言葉を登場させたのはこれより後であってもよいのですが、『春と修羅』が刊行されたのは1924年4月20日で、やはり『黄金狂時代』の公開よりも、1年以上早いのです。
 Wikipedia によれば、『黄金狂時代』の撮影が始まったのは、1923年の冬だったということで、しかも最初に上記の山小屋で革靴を食べるシーンから撮られたということですから、この部分の撮影そのものは、『春と修羅』刊行よりも早かった可能性が高いことになります。
 しかし、いくら賢治がチャップリン好きだったとは言え、まだ撮影中の映画のシーンの内容について知るなど、到底不可能です。つまり、賢治この「靴革の料理」という言葉を、チャップリンの『黄金狂時代』のあのシーンから着想したということは、ありえないんですね。

 というわけで、「靴革の料理」の由来はまた行方不明になってしまったのですが、きっと西洋では、チャップリンの『黄金狂時代』よりも以前にも、靴革を煮て食べるということが全くなかったわけではないはずです。
 ということで、少し調べてみると、チャップリンが『黄金狂時代』を構想する上で参考にした題材の一つに、1846年に起こった「ドナー隊の悲劇」という出来事があり、この中に「靴革を食べる」というエピソードも登場するのだということです。
 下記は、「チャーリー・チャップリン公式サイト(英語版)」から、「『黄金狂時代』の映画化」という記事の冒頭の、拙訳です。

『黄金狂時代』の映画化
はじめに
 チャーリー・チャップリンは、最も喜劇の題材になりそうもないものをもとに、『黄金狂時代』を作り上げた。最初の着想は、1896年のクロンダイクのゴールドラッシュを描いた立体画を見た時に得られたという。そこには、黄金郷の入口のチルクート峠に向かって果てしなく続く金鉱探したちの行列が描かれていて、チャップリンはこの情景にとりわけ強く印象づけられた。また、ちょうどその頃彼は、1846年に起こった「ドナー隊の悲劇」について書かれた本を、たまたま読んでいた。これは、移民たちの隊列がシエラネバダ山脈で雪に閉ざされ遭難した事件で、この時移民たちは、自分の革靴(moccasins)や、死んだ仲間の遺体まで食べざるをえない状況に追い込まれたのである。
 チャップリンは、悲劇とお笑いとは決して遠く隔たったものではないという自らの信念をもとに、これらの窮乏と恐怖の物語を、喜劇に造りかえようとした。彼は、あのおなじみの浮浪者のキャラクターを金鉱探しにして、寒さや飢えや孤独やグリズリーベアの襲撃をも恐れない、勇敢な楽天家たちの集団に加わらせたのである。

 そして、実際チャップリンは、「ドナー隊の悲劇」の舞台であるシエラネバダ山脈で、この映画の一部のロケを行ったのだそうです。

 つまり、賢治が「栗鼠と色鉛筆」を書く前に、チャップリンの『黄金狂時代』を見ていたということはありえないわけですが、1846年に起こったドナー隊の遭難について、賢治が何らかの形で耳にしていた可能性はないとは言えず、その際に「靴革の料理」というものを知っていたのかもしれないのです。
 となると、チャップリンも賢治も、同じ事件に取材して、創作を行ったということになります。

 いずれにせよ、太平洋をはさんだ両者が、この「靴革の料理」を作品へに導入していった時期は、上に見たようにほとんど同時期であるのが興味深いところですが、はたして賢治の方の由来はどうだったのでしょうか…。

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2015年8月 6日 千原英喜氏の作品を「歌曲の部屋」にアップ

 以前から作成していた、千原英喜氏作曲の歌曲「ちゃんがちゃがうまこ」、「宮沢賢治の最後の手紙」、そして今回の「祭日」を、まとめて「歌曲の部屋〜後世作曲家篇〜」の、「千原英喜 「雨ニモマケズ」ほか」というページに、アップロードしました。

 千原氏が、宮澤賢治の世界に精力的にアプローチしておられるお仕事の一端を、VOCALOIDの歌声で垣間見ることができると思います。
 よろしければ、お試し下さい。

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2015年8月 2日 千原英喜作曲「祭日」

 去る6月28日に、大阪のいずみホールで大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団による「千原英喜と宮沢賢治―その魅力の音世界」を聴いて感動したことをきっかけに、千原英喜作曲の「祭日」のDTMによる演奏を作成してみました。
 これは、千原氏による『児童・女声合唱組曲 ちゃんがちゃがうまこ』の第4曲で、賢治の文語詩「祭日〔二〕」に曲を付けたものです。
 下のリンクをクリックして、mp3でお聴き下さい。

祭日(mp3)

 歌詞となっているテキストは、下記です。

  祭日〔二〕

アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて
峡に瘧のやまひつたはる

ナビクナビアリナリ 赤き幡もちて
草の峠を越ゆる母たち

ナリトナリアナロ 御堂のうすあかり
毘沙門像に味噌たてまつる

アナロナビクナビ 踏まるゝ天の邪鬼
四方につゝどり鳴きどよむなり

 ここで描かれているのは、花巻市街から10kmほど東へ行ったところにある、「成島の毘沙門天」です。
 2行目の「峡」とは、北上山地から稗貫平野へと流れ下る猿ヶ石川のことです。この流れのほとりの毘沙門堂に、高さ4.7mという日本最大の毘沙門天像があり、周辺の村々の信仰を集めています。「瘧(おこり)のやまひ」とは、高熱が出る病気の総称で、「つたはる」というからには伝染性のものなのでしょう。
 疫病にかかった子供を持つ母親たちは、何としても回復してほしいという切実な願いを胸に、毘沙門天に供えるための赤い幡を手に、峠を越えて御堂に集まってきます。この成島の毘沙門天の面白い特徴は、大きな木像の足の部分に味噌を塗りつけるとご利益があると言われているところで、巡礼者はそれぞれが味噌を持ってきて、毘沙門様の脛に塗りつけては祈るのです。
 各連の最初に出てくる「アナロナビクナビ…」という謎の言葉は、いったい何のことかと思いますが、これは法華経陀羅尼品第二十六にある毘沙門天の陀羅尼(呪文)です。その意味は、「富める者よ、踊る者よ、讃歌に依って踊る者よ、火神よ、歌神よ、醜悪なる歌神よ」というものだそうです。ただ、これは特に成島の毘沙門天で唱えられているというわけではなく、賢治が独自にここに持ってきてはめ込んだもので、言葉そのものの意味というよりも、音の響きによる表現性を意図して取り入れてある印象です。

 「アナロナビクナビ…」という不思議な言葉と、薄暗い御堂の中で像の足に味噌を塗りつけるという行為は、言いようもない一種の「呪術性」を醸し出しています。
 それは、子供の伝染病という人間の力を超えた恐怖に対処しようとする母親たちの、必死の祈りの表現ですが、このようなすぐれて人間的な営みと、「桐の花」「草の峠」「つつどり」などという自然の風景とが、一つの構図のもとに対照をなして描かれています。

 千原英喜氏は、これに日本的なペンタトニックの素朴な旋律を付け、母親たちの切実な情感も込めます。
 最後の方の「四方につゝどり鳴きどよむ…」のあたりのピアノ伴奏に出てくるアルペジオは、詩に合わせて鳥の鳴き声を音で表現したものかと思いますが、今回の演奏では、この部分に実際の鳥の鳴き声も入れてみました。ちょっと小さいですが、「ポポッ、ポポッ」という声で入っているのが、「つつどり」です。耳を澄ませて、聴いてみて下さい。

 歌は、VOCALOID第一世代のMeiko、第二世代の初音ミク、第三世代のMewの共演です。

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2015年7月 5日 そしてみんながカムパネルラだ

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐ行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。」

 「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿の終わり近くのこの箇所で、黒い大きな帽子をかぶった人が言う「みんながカムパネルラだ」という言葉の意味は、どのように解釈したらよいのでしょうか。
 一般的な理解としては、「お前が出会う人はみんな、長い長い輪廻転生のうちには、一度はお前の親きょうだいや親友だった人ばかりなのだから、お前がカムパネルラを大切に思うならば、お前はそれと同じ気持ちで、すべての人の幸いを探していかなければならない」ということになるでしょうか。
 このように解釈すれば、これは倫理的な観点から、「人はこうあるべきだ」という「当為」を述べた命題だということになります。

 一方、私は最近「千の風になって」という記事にも書いたように、トシの死後に賢治がその死をどのように受けとめていったのだろうかということについて考えるうちに、上記のような理解とはまた別のとらえ方について、いろいろ思うようになりました。
 それは、上のように「当為」として人が意識的に引き受けるというのではなくて、それはある意味では「現実」なのだという、一種の「気づき」に関わるものです。

 そのような「気づき」は、たとえばいつも取り上げる「薤露青」にも、現れています。

声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
たしかに二つも入ってゐる
  ・・・・・・あの力いっぱいに
       細い弱いのどからうたふ女の声だ・・・・・・

 ここで賢治は、製糸場の工女たちのざわめきを聴きながら、彼女たちのまぶしい声の中に、妹トシの声が「二つも入ってゐる」のに驚きます。
 ふと気がつくと、まるで「みんながトシ」なのです。

 以前の私は、この箇所で工女たちが「わたくしをあざけるやうに歌って」行くということから、ここには賢治の孤独感や、いつまでも悩み続けている自分への情けなさが投影されていて、つまりこれは賢治の悲しみを表しているのかと思っていました。
 しかし、その「あざけるやう」な声の中に、愛する妹の声も入っていることに注目するならば、この「あざけり」を単純にネガティブな意味だけに解釈するのは、ちょっと違うような気もしてきます。

 そう思って、「薤露青」の2日前の、7月15日の日付を持つ「〔北上川はケイ気を流しィ〕(下書稿(三))」を見ると、ここにも妹トシの「声」が入っていると考えざるをえません。そしてそこには、たとえば次のような兄と妹のやり取りが出てきます。

(学名は何て云ふのよ)
(ひやかしちゃいけないよ)
(知らないんだわきっと)
(学名なんかうるさいだらう)
(Oenothera lamarkeana ていふんだ)
(ラマークの発見だわね)
(ああ)
  やれやれ一年も東京で音楽などやったら
  すっかりすれてしまったもんだ、

 ここで、「一年も東京で音楽などやったら」というところには脚色が入っているのでしょうが、ここには明らかに、東京の日本女子大学で学んでいたトシの面影があります。
 あるいはその少し前では、(そんなら豚もミチアねえ)と妹に突っ込まれて、兄は(かなはないな おまへには)と、やり込められたりもしています。

 持ち前の利発さに加えて、都会的な向こうっ気の強さも身につけてきた妹に対し、兄はまさにたじたじとなっていますが、彼はそんな風に妹にからかわれることを、積極的に楽しんでいるようでもあります。
 そして、「薤露青」において、妹の声の工女たちが「わたくしをあざけるやうに歌って」行くという箇所にも、同じような賢治の気持ちが入っているのではないかと感じるのです。若々しく無邪気な工女たちの声は、上のように兄をからかったお転婆なトシの一面を連想させ、懐かしく心温まる思いも抱かせたのではないかと、私は考え直してみたりもするのです。

 いずれにせよ、先日「千の風になって」という記事に書いたように、ちょうどこの頃の賢治が、「死んだ妹がいつも近くにいる」と感じるようになっていたとすれば、妹はさまざまな人の「声」を借りて、その存在を現しているということでもあっただろうと思うのです。
 また前回、「「探索行動」としてのサハリン行」という記事に書いたように、大切な人を喪った人は、街の雑踏の中にふと現れた後ろ姿に、「その人」を見ることもよくあります。
 目や耳や、さまざまな感官を通して、まさに「みんながカムパネルラ」になるのです。

 ところで、一人の私の知人が、「薤露青」を読んでこんな感想を話してくれました。

「妹の声」が混じって聴こえるというのは、そういうのは私もよくあるので、わかる気がします。
私は子どもの頃から、よく祖母に 「あんたは墓守りをしてや」と言われていて、祖母は私に、お墓の掃除や手入れの仕方を、丁寧に教えてくれていました。そして、将来おばあちゃんが死んでから、あんたがお墓の手入れをしに来て、掃除をしたりお花を生けたりした後に、「しといたで」とおばあちゃんに言ってくれたら、おばあちゃんはお墓の中から、「おおきに」って返事をするからな、と言ってくれていたんです。
それなのに、祖母が亡くなってからのある日、お墓に来てきちんと手入れをして、「しといたで」と祖母に声をかけても、何も返事がなかったんです。
がっかりして帰り道についたら、途中のバス停で、一人のおばあさんがバスがわからなくて困っていたので、教えてあげました。
そしたら、そのおばあさんが、「ありがとう」と言ってくれたんです。
おばあちゃんが、この人の口を借りて言ってくれたんだな、と思いました。
亡くなったおばあちゃんに、「包まれている」ような感じがしました。

 これも、「みんながカムパネルラだ」ということだと思います。

 ここにおいて、黒い大きな帽子をかぶった人が言う「そしてみんながカムパネルラだ」という命題は、「当為」としてのみならず、一つの「現実」として、立ち現れてくるのです。

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2015年6月15日 「探索行動」としてのサハリン行

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)

 トシの死(1922年11月23日)から半年あまり経った1923年6月4日の、この「白い鳥」という作品において、賢治は自らの喪失感を、悲しげな鳥の啼き声に重ね合わせています。
 賢治自身、鳥に対するこのような感情移入の当否に関して、「それは一応はまちがひだけれども/まつたくまちがひとは言はれない」と保留していますが、はたして実際に鳥は、大切な仲間を求めてこのように啼くということがあるのでしょうか。

 動物行動学者のコンラート・ローレンツは、つがいの相手から引き離されたハイイロガンが示す反応について、次にように書き記しています。

 相手の姿が見えなくなると、これに対する最初の反応として、ハイイロガンは相手を見つけ出そうとして全力を尽くす。ひっきりなしに、文字通り昼夜の別なく三音節の遠なきをして、せかせかと興奮しながら、住みなれたあたりの、ゆくえ不明になった相手といっしょに常日ごろいた場所をかけめぐり、捜索の範囲をだんだん広げ、たえず鳴きながら広く飛び回る。(K.ローレンツ『攻撃』)

 このハイイロガンの様子は、まさに「鋭くかなしく啼きかはしながら」飛ぶ「白い鳥」のようですが、このようにして失った相手を「探索」しようとする行動は、動物に見られるだけではありません。実は人間も、喪失体験の際には同じような行動をとるのです。

 イギリスの精神科医で死別体験の心理とケアを研究するコリン・M・パークスは、その著書『死別』の中で、次のように述べています。

 死別を体験した成人は、死別した人を探し求めることが無意味だということは十分に承知しているが、だからといって、強い探索衝動がおさまるはずがないと、私は断言できる。探すことが不合理だと判っているからこそ、これこそが自分がやりたいことだと思うことに抵抗するのである。もっとも、死別を体験した成人の中には、自分の行動に不合理なところがあるという洞察を既に持っている者もいる。
 「あらゆる所で、亡夫を探さずにおれません。――彼を探してさまよい歩きます。――どこかできっと見つけ出せるという気がするのです」。ロンドン調査の被験者の未亡人は、夫の死後一週目にそう語っている。死んだ夫に会いたい一心で、降霊術者の会合に出るつもりでいたが、結局行かないことに決めた。やはりロンドン調査の被験者である別の未亡人は「私はまさに空虚を無駄に探していたのです」と語り、また別の未亡人は、「私はお墓に行くんです……でもそこにはいませんでした。まるで夫に引き寄せられているようです」と語っている。

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 このように、大切な人を失った後の「悲嘆」の過程にある人は、しばしば亡くした人を懸命に探し求めようとすることがあります。パークスはまた、第二次大戦で息子を亡くしたオーストラリア人の両親が終戦後にイギリスに「息子を探しに」来たり、イギリス人の両親がベルギーに行ったりした話も紹介しています。
 はるばる外国まで死者を探しに行くこれらの人々は、目的地に着いても死者に会えるわけではないことを、本当は知っています。それは本人もよくわかっているのに、それでもやむにやまれぬ気持ちに駆られて、どうしても行かずにはいられないのです。
 このような現象を、パークスらは「探索行動」と呼びました。そしてこれは程度の差はあれ、正常な大人にもかなり広く見られる反応であると述べています。

 また、やはりイギリスの著名な児童精神科医であるジョン・ボウルビイは、次のように書いています。

 この見解をさらに進めて、悲嘆が健全な過程をたどっている死別者においては、失った人を探し求め取り戻そうとする衝動が、初期の数週間そして数か月間にしばしば生じ、その後時がたつにつれて徐々に消えていくこと、そそてその経験の程度は、個人により大きな差があることを私は示唆した。ある人たちは失った人を意識的に探し求めるが、他の人たちはそうではない。ある人たちは進んでそのことに熱中するが、他の人たちはそれが不合理でばかげているとして隠そうとする。自分の衝動に対して、どちらの態度をとるにしろ、死別者はそれでもなお死んでしまった人を探し求め、もしもできることなら、取り戻そうとしている自分を認めないわけにはいかない。

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 死んでこの世にいない人を探し求めるという一見不合理な行動は、別に異常なことでも何でもなく、悲嘆において誰しも経験する「健全な過程」なのです。

 さて、このような観点から見ると、賢治がトシの死後8か月あまり経ってから、妹の行方を追うような気持ちでサハリンに向かったのは、死別体験者における典型的な「探索行動」だったと言えます。
 この旅行において、賢治は単にトシとの「通信」を求めていただけではなくて、「トシのもとへ行こうとしていた」のだろうということについては、以前に「オホーツク行という「実験」」という記事で触れました。賢治がこの時、ある種の超自然的な形でのトシとの遭遇を期待していたと思われるところは、上のパークスの引用で、夫と会うために「降霊術者の会合」に出ようとしたという女性のケースと通じるところがあります。
 またパークスは、降霊術を遺族の関わりについて、次のように記しています。

 降霊術は遺族が亡くした人を探し求めることを助けるのを標榜しており、私が種々の調査で出会った遺族のうちの七人は、降霊会もしくは降霊術者の教会を訪れたことがあった。彼らの反応は様々で、いく人かは故人との何らかの接触が得られたと感じており、これに驚いた人もいた。彼らはこうした経験に満足を感じることはなく、降霊術者の集会の常連になった人はひとりもいなかった。

 それまでの人生において、「降霊術」などというものに関心を持ったことなどなかった英国の婦人が、しばしば死別の後には足を運ぶことがあったことを思えば、以前から「異界」への親和性を持っていた賢治が、何か通常ではない形で、トシと交信したりそのもとへ行けると思ったりしていたとしても、別に不思議はないという気がします。

 このように「探索行動」というものが、洋の東西を問わず、大切な人を亡くした人に広く見られる現象であるということを知れば、死んだ恋人エウリディケを連れ戻しに冥界へ行ったオルフェウスの登場するギリシア神話と、死んだイザナミノミコトを連れ戻しに黄泉の国へ行ったイザナギノミコトの登場する日本神話との間の不思議な共通性も、しっくりと腑に落ちる感じがします。
 そして賢治の旅も、そのような文脈で理解することができるのです。

コロー『冥界からエウリディケを連れ出すオルフェウス』
コロー『冥界からエウリディケを連れ出すオルフェウス』(Wikimedea Commons

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2015年5月24日 千の風になって

 トシの死による悲しみと苦悩を、賢治はどのようにして受容し、昇華したのか・・・。
 このテーマについて考えていくと、深い孤独や迷いに満たされた「オホーツク挽歌」の詩群や、まだ危うい綱渡りをしているような「〔手紙 四〕」を経て、結局は「〔この森を通りぬければ〕」および「薤露青」に至って、ある一つの安定した境地に到達したように、思われます。
 これまでも何度か引用したように、「〔この森を通りぬければ〕」においては、

わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
  ・・・・・・それはもうさうでなくても
       誰でもおなじことなのだから
       またあたらしく考へ直すこともない・・・・・・

という形で、「妹の声」は静かな諦念とともに受けとめられ、「薤露青」においては、

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

として、妹の「不在」は肯定的に評価されます。これがなぜ「いゝこと」として肯定されるのかという理由は、この部分の推敲前の第一形態が下記のようになっていたことを知れば、一応理解することができます。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことから
     ほんたうのさいはひはひとびとにくる・・・・・・

 すなわち、特定の一人への愛に固執し続けることが不可能であるからこそ、人はそこを越えてすべての衆生への愛へと向かい、「ほんたうのさいはひ」を目ざすことができるのだという、あの「銀河鉄道の夜」のテーマです。

 ここまでのところは、これまでもしつこいほどに、何度も考えたとおりです。
 今回考えてみたいのは、上のようにして妹の死に思想的に整理をつけることは、確かに《倫理的には》正しいことかもしれないけれど、賢治自身はこのように考えることによって、《心情的には》本当に楽になったのだろうか、はたして賢治の気持ちは現実にこれで癒されたのだろうか?という問題です。
 もしもこれが、賢治が無理をして理屈で考えたことにすぎず、トシへの肉親としての愛を、ただ一方的に断念しただけだったのならば、それは賢治にとって、あまりにも苛酷で寂しいことに思えてしまいます。

 この問題に対する私の考えは、実は上のような「整理」というのは、賢治が単に理屈の上だけで考えたことではなく、これによって彼は《心情的にも》、かなり気持ちの平安を得られるようになっていったのではないか・・・というものです。

 私がそう考える根拠の一つは、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」における賢治は、まるで何気ない様子で、「妹の声」を聴くことができるようになっていることです。
 その様子は、「〔この森を通りぬければ〕」では次のように記されます。

蛍が一さう乱れて飛べば
鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声
林のはてのはてからきく

 そして「薤露青」では、次のように。

声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声
たしかに二つも入ってゐる
  ・・・・・・あの力いっぱいに
       細い弱いのどからうたふ女の声だ・・・・・・

 思えば賢治は、トシの死後ずっと、この世にいなくなった妹が今いったいどこにいるのか、その手がかりをひたすら探し求め、そして妹からの「通信」を待ち焦がれていました。翌夏には、そのためにはるばるサハリンにまで行ってしまったほどでした。
 しかし結局、賢治が得ることができた「通信」は、「青森挽歌」によれば、ただ1回だけでした(「私のうけとつた通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ」)。これはおそらく、「風林」において、「・・・・・・此処あ日あ永あがくて/一日のうちの何時だがもわがらないで・・・・・・/ただひときれのおまへからの通信が/いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ」と記されているエピソードに対応しているのでしょう。賢治はいつか、汽車に乗っていて眠りに落ちたその夢の中で、このようなトシの言葉を聴いたのでしょう。

 ところが上記のように、1924年(大正13年)7月になって、賢治がもはやトシの行方や通信を追い求めないという心境に達したところ、7月5日(「〔この森を通りぬければ〕」)、7月17日(「薤露青」)と、短い間に2度も、トシの声を耳にすることになったのです。
 あるいはまた、この二つの作品の間の7月15日に書かれた「〔北上川はケイ気をながしィ〕」という作品は、そのほぼ全篇が、賢治とトシ(と一部では弟)を思わせる会話で構成されているのです。そこには、利発で愛嬌のあるトシの魅力が、満ちあふれるようです。
 すなわち、この7月における賢治は、妹トシが亡くなってからの2年弱の歳月の中で、おそらく最も身近にトシを感じとっているのです。

 それでは賢治にとって、この時期におけるトシの「接近」は、果たして偶然のことだったのでしょうか。

 私は、これは偶然ではなくて、賢治がトシのことを「そのまゝどこへ行ってしまったかわからない」という形で、安んじて受容できたことと、表裏一体の関係にある現象なのだと思います。
 それはたとえば、「青い鳥」を必死に探し求めている時は見つからなかったけれど、探すことを諦めたら、「青い鳥」は身近にいたことに気づく、ということにも似ています。
 トシが「何処にいるのか?」、「何を伝えようとしているのか?」という形で、焦点を絞って対象を特定しようとすると、どうしてもそれを捉えることはできませんでした。しかし、賢治がそのような追求をやめてしまい、すべてをありのままに受け容れようというスタンスに変わった時、トシは実はそこかしこに、「あまねく」存在していたのです。さまざまな形でトシの声は賢治を訪れ、トシとの会話もあふれ出しました。

 もちろん賢治は、死んだトシが「リアルにそこに存在している」、とまで作品に書いているわけではありません。
 しかし、1924年(大正13年)7月の「〔この森を通りぬければ〕」、「〔北上川はケイ気をながしィ〕」、「薤露青」というトシの面影がポジティブに漂う三作品、さらには同年8月の日付を持ち、女学生のような「むすめたち」が輝く「」などの作品を見ると、この頃の賢治が、トシをとても近いところに感じながら、日々を送るようになっていたのは確かだろうと、私には思われるのです。

 ここに至って、トシの死によって深い傷みを負った賢治の心は、やっと一定の回復を見せたと言ってよいのではないかと、私は思います。「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないこと」が「いゝこと」であるのは、単に《倫理的に》よいばかりでなく、《心情的に》も、賢治にとって安寧をもたらしてくれるものだったのです。

 ところでこのように、「死者がつねに生者の近くにいてくれている」と想定する「死生観」は、本来は輪廻転生を基本とする仏教的なそれとは、相容れないものです。むしろこれは、「ご先祖様が草葉の陰から見守ってくれている」という考えや、柳田国男の祖霊論に似ており、日本の伝統的な死生観と共通するものがあるように思われます。そしてさらに、賢治がトシの声をひそかに聴いている様子は、それらよりももっと個人的で、親密なな色彩を帯びているような感じもします。
 このような、「身近な・親密な死者」というイメージから私が連想するのは、アメリカ発祥とされる詩を新井満氏が訳し、2006年に秋川雅史氏が歌って広く知られるようになった、「千の風になって」の歌詞です。

  千の風になって
              新井満(訳詩)
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

 ここで歌われているのも、死者はお墓にはいないし、「特定のどこかにいる」というものではない、ということです。言わば、「どこへ行ってしまったかわからない」のです。
 しかし、特定のどこかにはいないからこそ、風となって空をわたり、光となってそそぎ、そしてまた(賢治に対するトシのように)、鳥になって声を聴かせることもできる、というのです。

 この歌が、2005年には阪神大震災10周年を機に広まり、2006年にはNHK紅白歌合戦でも歌われるほど愛唱されるようになったのは、その喚起するイメージが、何か現代の日本人の感性に響くところがあったのでしょう。
 ただ、この歌詞の内容自体は、すでに触れたように、一般的な仏教の死生観とは異なったもので、「散骨」などという新たな死のあり方にも関連するような、どこか現代的なイメージを伴っています。松尾剛次氏はこの歌のことを、「われわれの葬礼習俗への挑戦ともいえるものだ」(平凡社新書『葬式仏教の誕生』p.12)とも評しておられます。

 ということで、仏教を篤く信仰していた賢治が、個人的な苦悩の末に、図らずもこの「千の風になって」にも似た、現代的な死生観に接近していたとすれば、これはなかなか興味深いことだと思う次第です。

 最後にもう一つ、やはり同様の死生観を表したものとして、哲学者の森岡正博氏が、2011年3月に朝日新聞に寄せた、「私たちと生き続けていくいのち」という素晴らしい文章を、引用させていただきます。

   私たちと生き続けていくいのち

 2011年3月11日の震災で、多くの方々のいのちが奪われた。
 ある生存者は語る。津波が襲ってきたとき、妻の手を握りしめていたが、強い波の力によって彼女を流されてしまった、と。目の前で愛する者が消えてゆき、自分だけが生き残ってしまったという慟哭は、それを聴く者の心にも突き刺さる。自分は愛する者を守りきることができなかった、最後の瞬間に何もしてあげることができなかったという自責の念は、どんな言葉をかけられたとしても、おそらく消えることはないだろう。
 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。
 たとえばふとした街角の光景が、たわいない日常や、自然の移りゆきのただ中に、私たちは死んでしまった人のいのちの存在をありありと見出すのだ。彼らは言葉を発しないけれども、この世から消え去ったわけではない。
 人生は一度限りであるから、どんな形で終わったにせよ、すべての人生は死によって全うされている。すべての亡くなった方の人生は聖なる者として閉じた。そして彼らのいのちはこれからずっとこの世で私たちと共にいる。私たちは彼らに見守られて生きていくのである。      (森岡正博『生者と死者を繋ぐ』春秋社より)

 トシの死を前に、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」とひそかに考えていた賢治にとって、なすすべなく妹を「ひとりで」逝かせてしまったことは、上の津波生存者の方と同じように、理不尽な「自責の念」を背負いこんでしまうきっかけになっただろうと、私は思います。
 そして、最終的にその深い心の傷は、亡くなったトシの「いのち」を身のまわりに感じ、上で森岡氏が記すように「共にいる」という感覚を持つことによって、やっと癒えはじめたのではなかと、私は思うのです。

 賢治自身は、「みんなのさいはひ」を目ざすという原則的な立場から、もはやこのような個人的な親密な感情を、直接に作品に書きこむことはしなくなりました。ですから、その後の賢治が上のようにトシの存在を感じるようになっていたとしても、私たちはその痕跡を作品の行間から、ふと垣間見るしかありません。
 ちなみに、私がそのような意味で、トシの面影を何となく感じる作品としては、上述の「〔北上川はケイ気をながしィ〕」や「」に加えて、後者が晩年になって「変奏」された「春 変奏曲、」のにぎやかでまぶしい少女たち、「〔ふたりおんなじさういふ奇体な扮装で〕」の「曠原淑女」、「発動機船 一」における「頬のあかるいむすめたち」などがあります。

 これらはいずれも、私たち後世の読者にとっては、ふと街の雑踏ですれ違った姿に故人の面影を重ねるに似た、儚い試みなのかもしれません。しかし私は個人的に、そこに生き続けているトシの「いのち」を見るような気がするのです。
 きっと賢治も、その時何かを感じとっていたのではないかと、私には思えてなりません。

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2015年5月17日 この命題は可逆的にもまた正しく(2)

 以前に私は、「この命題は可逆的にもまた正しく」という記事を書いて、「小岩井農場」の最後近くに出てくるこの一行が、何を意味しているのかということを考えようとしたことがありました。
 そして最近になって、「賢治がトシの死の苦悩をどのように昇華したのか」ということについて考えるうちに、前回とはまた違う解釈の可能性についても思い至るようになったので、今日はそれについて書いてみます。

 まず、「小岩井農場」パート九において、この一行が出てくる前後の箇所を、引用しておきます。この賢治最長の詩が、これからクライマックスに差しかかるところです。

  ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ
すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといつても
それがほんたうならしかたない

 引用部分の下から4行目に、「この命題は可逆的にもまた正しく」が位置しています。
 ここにおいて、「この命題」と呼ばれているのは、その箇所に先立つ部分の内容を指しているわけですが、あえてそれを大ざっぱに単純化すると、この命題は次のようにまとめられるでしょう。

  1. 正しい願いに燃えて、自分と他人と全ての生き物と一緒に至上福祉に至ろうとするのが、本来の「宗教情操」である
  2. 1.を追求しようとして挫折した結果、その代わりに自分がただ一人の人だけとともに、完全に永久にどこまでも一緒に行こうとするのが、「恋愛」である
  3. しかし2.を目ざしても現実には、(完全に永久にどこまでもというような)その本質部分を達成することは不可能なので、無理にごまかして人をそのように動かす傾向が、「性欲」である
  4. 上記1.→2.→3.というモチベーションの系列は、様々な生物の種類に対応している

 「この命題は可逆的にもまた正しく…」という言葉は、(1)まず上記の命題が正しいとともに、(2)その「逆の命題」もまた正しい、という二つのことを主張しているわけですが、ではその「逆の命題」とは、いったいどのようなことなのでしょうか。

 これについて考えてみたのが、前回の記事でした。この時はいろいろと理屈をこねた挙げ句、「人間よりも高次の存在(生物)であっても、場合によっては頽落して人間と同等の存在になったり、さらに人間もより下等な存在に墜ちることもありえる」というのが、ここで言われている「逆命題」であろうと考えました。
 これは、上記の4.において、「モチベーションの系列」→「生物の種類」という対応関係を、「生物の種類」→「モチベーションの系列」という風に、「逆」に入れ換えるという解釈でした。このように理解すれば、「小岩井農場」のこの部分と、同日にスケッチされた「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」という草稿との、内的なつながりがすっきりと腑に落ちる、という事情もありました。

 これに対して、今回考えるのは、1.→2.→3.という「モチベーションの系列の順序」における、「逆」の方向性です。

 賢治が、1922年11月の妹トシの死の苦悩を、自らのうちに受け容れ、昇華していく過程において、一つの大きな画期となったのは、1924年7月に書かれた「薤露青」という作品だったと思います。
 その中でも、終わり近くに現れる次の箇所が、トシの死を賢治が新たに位置づける上で、とくに重要な意味を持っていると、私は考えます。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 これ以前の賢治は、「いとしくおもふもの=トシ」が、「そのまゝどこへ行ってしまったかわからないこと」の苦痛に耐えかねて、あちこちでトシに呼びかけたり、トシとの「通信」を試みたり、翌夏にはその行方を追うようにサハリンまで旅をしたりしました。
 しかし、これらの試みの結果は空しく終わり、賢治の孤独は癒されませんでした。ところが、「薤露青」のこの箇所においては、「どこへ行ってしまったかわからないこと」が、それまでとは逆に、「なんといふいゝことだらう」と認識されるという、価値の転倒が行われているのです。
 この作品以前には、このように明確にトシの死を肯定的に位置づけたものは見当たりませんので、それで私はこの作品のこの箇所を、賢治にとっての一つの重要な里程標と考えるのです。

 ただここで、「いとしくおもふものが/ そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」と言われても、なぜそれが「いゝこと」であるのか、この論理には謎のような部分が残されています。こう言われただけでは、誰もすんなり同意できるものではないでしょう。

 そこで、「薤露青」の草稿を参照してみると、この引用部分は、最初の第一形態においては下記のように書かれていたことがわかります(『新校本全集』第三巻校異篇p.247)

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことから
     ほんたうのさいはひはひとびとにくる・・・・・・

 この形であれば、賢治の「論理」はかなり理解しやすくなっています。
 すなわち、「愛しく思う者がどこへ行ってしまったかわからない」という厳然たる事実があるからこそ、人はそれを諦念とともに受け容れざるをえず、そのおかげで「一人だけ」にいつまでも執着しつづけられなくなり、結果として人はふたたび「みんなの幸い」について考えられるようになる、というわけです。これは、たとえば「銀河鉄道の夜」において、カムパネルラを失った後にジョバンニが目ざすべき方向性として、作者が暗示していることでもあります。
 「どこへ行ってしまったかわからないことから/ほんたうのさいはひはひとびとにくる」という第一形態の方が、意味としては直接的でわかりやすいのは明らかですが、おそらく賢治としては、これではあまりにも教訓的に響いてしまうという懸念から、より抽象化して、「なんといふいゝことだらう」と改めたのではないでしょうか。

 さて、「薤露青」のエッセンスがここにあるとすれば、これは冒頭の「小岩井農場」の「命題」につながります。

 ずっとトシという一人の魂に固執しつづけ、その行方をいつまでも追い求めようとした賢治の行動のモチベーションは、上に1.2.3.として要約した系列の中では、2.「恋愛」に相当します。もっとも、賢治とトシの場合は「兄妹愛」であって、一般的な意味での「恋愛」とは異なりますが、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」という、この箇所の定義には合致しています。(以前、「オホーツク行という「実験」」という記事では、賢治はトシとともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と常々考えていたということについて書きました。)
 ですから、ここでは「恋愛」を広義に解釈して、賢治がトシに示したような「個別的な愛」を含むものと理解しておきましょう。
 さて、小岩井農場の命題によれば、一人の人と「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かう」という方向でいくら努力をしても、そこには避けられない限界が存在します。この限界にぶつかっても、それでも強引に人を衝き進めようとする傾向として現れるのが、3.の「性欲」でした。
 つまり、人間は往々にして、2.→3.の方向へと堕落してしまうというのが、ここでの賢治の考えです。

 これに対して、「薤露青」の草稿第一形態で示されている論理は、逆の方向性を指し示しています。
 すなわち、「いとしくおもふもの」が、その死によって「そのまゝどこへ行ってしまったかわからない」状態になってしまうということは、確かに上記の命題の2.にあるように、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かう」とする願望が、挫折させられることまさにそのものです。もとの命題では、そうなると 3.の方向への頽落が起こったのですが、しかし「薤露青」第一形態では、むしろそのことのおかげで、「ほんたうのさいはひはひとびとにくる」と言うのです。これは、命題における1.「至上福祉」に相当する状態です。
 つまりここでは、2.→1.という方向へと、逆の向きへの進展が起こるというのです。

 私が今回の記事において書いておきたかったのは、「時にはこのようにして、2.→3.ではなく、2.→1.という逆も起こりうる」という事態こそが、賢治が「小岩井農場」パート九に記した「この命題は可逆的にもまた正しく」という字句の意味だったのではないか、ということです。
 その次の行に、「わたくしにはあんまり恐ろしいことだ」と賢治が書いているのは、愛する人の魂が「どこへ行ってしまったかわからない」というのは、彼にとっては本当に心の底から恐ろしいことだからでしょう。それでも、「けれどもいくら恐ろしいといつても/それがほんたうならしかたない」のです。
 そしてこの現実を、「ほんたうならしかたない」と受容するおかげで、人間が「個的な愛」にとどまらず、そこを越えて「至上福祉」へ向かうという可能性も、開けてくるというわけです。

 ただ、このように「小岩井農場」のテキストを解釈することは、賢治の考えの時間的な変遷からして、はたして妥当なのかという問題は残ります。
 「小岩井農場」がスケッチされた1922年5月21日は、トシの死のまだ半年以上も前のことです。この時点では、もちろん賢治の考えが上記のようなものになっていたことはありえませんし、1923年8月の「オホーツク挽歌」の章の時期でさえ、彼はまだトシの死を上のように受けとめるには至っていませんでした。
 先にも述べたように、賢治が今日述べたような考えに到達したのが明らかなのは、「薤露青」の1924年7月を待たなければなりません。

 となると、1922年5月の日付のある「小岩井農場」に、このような思想を読みとろうとするのは、後からの勝手なこじつけなのかもしれません。
 それは、ひょっとしたらそうなのかもしれません。しかし、『春と修羅』に収められている「小岩井農場」にしても他の作品にしても、1924年4月における『春と修羅』出版の直前ぎりぎりまで、かなりの推敲が重ねられつつ思想的にも深化を続けていたということは、たとえば杉浦静氏が『宮沢賢治 明滅する春と修羅』(蒼丘書林)で明らかにしておられるとおりです。
 ですから私としては、1924年7月の「薤露青」から3か月ほど前の『春と修羅』刊行時点までに、すでに賢治の心の中ではトシの死の受容を通した個別的愛の乗り越えへという大きな変化が起こりつつあって、その変化が「小岩井農場」の最終形態に反映されたという可能性も、一概に否定はできないのではないかと思っている次第です。

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2015年5月10日 小都のはづれなる小き駅

 『新校本全集』の「補遺詩篇II」に、「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」という仮題で収録されているテキストがあります。
 これは、賢治が東北砕石工場技師時代に、懸命の営業活動のあいまに手帳に書きつけていたもので、「文語体による心象スケッチ」という趣きなのですが、私はこれを読むといつも、胸が熱くなるような思いがします。

朝は北海道の拓植博覧会へ送るとて
標本あまたたづさえ来り
それが硬度のセメントに均しく
色彩宇内に冠たりなど
或はこれがひろがりは
大連蠣殻の移入を防遏すべき点
殊に審査を乞ふなどと
やゝ心にもなきこと書きて
県庁を立ち出でたりけるに
ときに小都を囲みたる
山山に雲低くして
木々泣かまほしき藍なりけるを
出でて次々米搗ける
門低き家また門広く乱れたる
家々を
次より次とわたり来り
おのもにまことのことばもて
或はことばやゝ低く
或は闘ふさまなして
二十二軒を経めぐりて
夕暮小都のはづれなる
小き駅にたどり来れば
駅前の井戸に人あまた集り
黒き煙わづかに吐けるポムプあり
余りに大なる屈たう性は
むしろ脆弱といふべきこと
禾本の数に異らずなど
こゝろあまりに傷みたれば
口うちそゝぎいこはんと
外の面にいづればいつしか
ポムプことこととうごきゐて
児らいぶかしきさまに眉をひそめみる
「この水よく呑むべしや」と戯るゝに
〈通〉のはんてん着たる
肩はゞ広きをのこ立ちありて
「何か苦しからんいざ召たまへ」とて
蛇管の口をとりてこれを揚げるに
水いと烈しく噴きて児ら逃げ去る
すなはち笑みて掬はんとするに
時に水すなはちやめり
をのこ
「こは惜しきことかな
いま少し早く来り給はゞ」
といと之を惜むさまなり
われすなはち
とみに疲れ癒え
全身洗へるこゝちして立ち
雲たち迷ふ青黒き山をば望み見たり
そは諸仏菩薩といはれしもの
つねにあらたなるかたちして
うごきはたらけばなり

 蛇足かとは思いますが、拙い口語訳を付けておきます。

朝には、北海道の拓殖博覧会へ送るために
たくさんの標本を携えて来て、
「これはセメントと同じくらい硬くて、
色彩は天下随一だ」とか、
また「これが普及すれば
大連からの蛎殻の移入を阻止できるという点に
特に留意して、審査をお願いしたい」などと、
あんまり心にもないことを書いて
県庁から出てきたところ・・・
その時、この小都を囲んでいる
山々に雲は低くかかり
木々は泣きたくなるような藍色だったが・・・
また出かけて順々に、精米を行っている
門の低い家や、また門は広く乱れた
家々を、
次から次へと訪問し
自分の顔に正直な言葉でもって
ある所では低姿勢な言い方で
ある所ではけんか腰で
二十二軒をめぐりめぐって・・・
夕暮れに、小都のはずれにある
小さな駅にたどり着いたところ、
駅前の井戸に人がたくさん集まっていて
黒い煙の少し出ているポンプがあった。
「あんまり屈撓性が大きいのは
むしろ脆弱というべきであって
それは多くのイネ科植物と同じことだ」などと自分を省みては
あまりに心が傷んだので、
口をすすいで休憩しようと思い
駅の外に出たら、いつしか
ポンプはコトコト動いていて
子供たちがそのおかしな様子を眉をひそめて見ていた。
「この水は飲めるのかい?」と私が軽い調子できいたら
〈通〉の印の袢纏を着た
肩幅の広いあんちゃんが現れて
「さあ遠慮なくお飲み下さい」と言って
ホースの口を持ち上げたところ
水が烈しく噴き出したので、子供たちは逃げ去った。
そこで私は笑って、手で水をすくおうとしたら
まさにその時、水は止まってしまった。
あんちゃんは、
「これは残念だなあ、
もう少し早く来られてたら・・・orz」
と、とても悔しそうな様子だった。
私はすぐさま
すっかり疲れも癒えて
全身を洗われたような気持ちでそこに立ち
雲が立ち迷う青黒い山を望み見ていた・・・。
それは、諸仏菩薩と呼ばれてきたものが
常に新しい形をして
動き働いているという、まさにその存在を感じたからだ。

 1行目にある「北海道の拓殖博覧会」というのは、1931年(昭和6年)7月12日から8月20日まで、札幌の中島公園を会場に開かれた博覧会で、北海道拓殖博覧会全景全国各地の物産の展示やアトラクションなどが行われ、入場者は65万人という盛況だったということです。(右写真は「扶桑文庫」より)
 賢治がこの時、「あまたの標本」を県庁に持ち込んだのは、この博覧会における岩手県の陳列ブースに、東北砕石工場の製品を並べさせてくれという陳情のためだったのでしょう。
 ここで「色彩宇内に冠たり」と言っている方の製品は、白や淡灰色の石灰岩抹ではなくて、工場で最近製造を始めた「赤間砕石」とか「紫砕石」を用いた、建築材料だったのではないかと思われます。一方、「大連蠣殻」というのは、家畜にカルシウムを与えるための飼料として中国の大連から輸入される蛎殻粉末のことで、賢治と鈴木東蔵は、石灰岩抹を同目的の家畜飼料としても各地に売り込もうと、活動していました。
 これらの製品について、県庁のお役人に説明したり書類に記入したりした後で、「やゝ心にもなきこと書きて…」と自嘲している賢治ですが、有能なセールスマンであるためには、こういう方便も避けては通れない道なのでしょう。
 一仕事を終えて県庁の建物を出ると、目に入った木々の色は、「泣かまほしき藍」でした。

 さて、ゆっくりする暇もなく、次は工場製の石灰岩抹を、米を精米する際の「搗粉」として売り込むために、精米業者のところを一軒一軒まわります。
 今度は、賢治自身その効用を科学的にも説明できるので、セールストークは「心にもなきこと」ではなく、「まことのことば」です。相手の出方を見ながら、ある店では「ことばやゝ低く」、ある店では「闘ふさまなして」、賢治の営業活動は多彩です。
 そして、まわった店の数は、全部で22軒でした。

 下の表は、賢治が足で廻って作成し、1931年7月3日付で鈴木東蔵に送った盛岡市内の精米業者29軒のリストです。個々の業者について、搗粉の月間使用量、その仕入先、摘要が記入されています。もちろん、この作品に描かれた戸別訪問の成果も、ここには組み入れられているはずです。

盛岡市内の精米業者
(『新校本全集』第15巻より切り貼り)

 賢治の汗の結晶とも言うべき一覧表ですが、このような一日の仕事を終えて、賢治は街はずれの小さな駅にたどり着きました。駅前の広場には井戸があって、その汲み上げポンプは調子が悪いのか、黒い煙が出ています。

 さてここで賢治は、今日一日の自分の仕事を振り返って、「余りに大なる屈たう性は/むしろ脆弱といふべきこと/禾本の数に異らず」と、嘆じています。
 「屈撓性」というのは、何かの力が加わったら曲がってたわみ、また力が除かれたら元に戻る、「しなやかさ」のことです。イネなどの植物では、茎が硬いと強い風などでポキンと折れてしまうので、茎にある程度の屈撓性がある方が、災害に強いのです。しかし、あまりにしなやかすぎても、穂の自重によって曲がったままになってしまうので、これもまたよくありません。
 この日の賢治は、朝は県庁へ行って、博覧会への出品のためにお役人との交渉にあたり、大げさなアピールをしたり、外国製品による侵略を防ぐためなどという理屈をこねてみたり、「やゝ心にもなきこと」を弄しました。
 次の精米業者訪問においては、ある所では低姿勢で相手のご機嫌をとり、ある所では一戦を交える覚悟で臨むなど、セールスマンのお手本にもなるような、変幻自在の交渉人を演じています。
 上記の7月3日付書簡365に書かれている、ある店での様子が面白いので、下に一部を引用してみます。

当工場製品ハ白色ノ方モ三春産ノモノニ著シク色彩劣ルトイフ。然レドモ成分ノ点ニ於テ如何トイフニ成分ノ如キ購買者誰カ之ヲ知ラントイフ。コノオヤジ米相場ナドヲナシ頭ニヌレ手拭ヲノセ甚頑固ナリ。(中略)折衝二時間遂ニ当工場製品ニ対シ何等ノ同情ヲ得ズシテ去ル。

 こんな「頑固オヤジ」を相手に2時間も粘り強く交渉して、何の成果も出なかったら、さぞ疲れもひどかったろうと思いますが、それでも賢治はくじけずに、店をまわり続けたのです。
 圧力を受けても折れず、場面によって巧みにスタンスを変えて対応する――これは本当に素晴らしい「屈撓性」 だと思いますが、でも賢治はそのような自分のやり方にも疑問を感じ、心を傷めているようです。
 こんなにまでして、いったい俺は何をやっているんだろうか・・・。

 思えば、賢治が東北砕石工場の技師を引き受けたのは、工場で製造する石灰肥料を広く岩手県の農地に行き届かせることができれば、酸性土壌を改良して農作物の収量を増やし、貧しい農家の暮らしを少しでも豊かにするのに貢献できるのではないかと、考えたためでした。この目的での石灰肥料の使用は、盛岡高等農林学校の恩師であった関豊太郎教授も主張していたところであり、嘱託を引き受けるべきか否かについては、わざわざ関博士に書面で伺いを立てたほどでした(1931年2月25日付書簡301)。
 ですから、「石灰肥料の普及」という仕事は、賢治自身にとって、元々の自分の学問的専攻と、農民救済という理想が合致するという意味において、並々ならぬ意気込みをもって開始したことだったのです。

 しかし、現実の工場の運営というのは、そんな理想の追求だけの作業ではありませんでした。
 肥料というのは、農作物を植える前の時期に使用するものですから、春にはかなり需要があるものの、それを過ぎると売り上げは大幅に落ちてしまいます。しかし工場は一年中稼働させなければなりませんから、その運転資金を捻出するためには、他の季節にも売れる製品の開発が必要となります。
 そのために、工場長鈴木東蔵と賢治がまず考えたのは、石灰岩抹を精米のための「搗粉」として売り込むことでした、玄米を白米にするためには、「米を搗く」という作業により、米粒どうしの摩擦によって、「糠」の部分を削ぎ落とします。この際に、あらかじめ玄米に「搗粉」を配合しておくと、これが一種の研磨剤となって、精米の効率が高められるのです。この目的のために、賢治は科学的所見も盛り込んだ「精白に搗粉を用ふることの可否に就て」という販売促進パンフレットも自ら執筆して、営業活動に用いていきます。
 「精米」というのは、たいてい農家自身がやるよりも米販売店が行うので、「搗粉を販売する」という仕事は、農家に何かの恩恵をもたらすわけではありません。となると、「農民救済」という賢治の理想からは離れてしまうようにも思えますが、まあこれも農家が作った米に関わることですし、良質の米が安く消費者に届けられるのは、農家にとっても間接的にはよいことかもしれません。
 ですから、ここまではまだ、賢治も自分を納得させることができた可能性はあります。

 しかし、次に工場が「建築材料」の製造販売にも取り組むことになった時、これはもう賢治の当初の理想とは、関係のないものになってしまいました。
 石灰岩抹を搗粉として販売するという活動によっても、まだ東北砕石工場の経営状態は、十分に安定したものとはなりませんでした。そこで鈴木東蔵と賢治は、工場の周辺の山で採取できる「赤間石」や「紫雲石」などという色彩の綺麗な鉱石を砕いて固めて、壁材などの建築材料として売り出すという事業に乗り出したのです。
 ここに至って、「農民救済」という最初の目標とのつながりは、完全に途切れます。もちろん、人は自らの理想のためだけに仕事をするわけではなく、工場で働く労働者の給料をきちんと払うのも、非常に大切なことです。それに、綺麗な色の石を貼り合わせたりして「壁材料見本」を作る作業は、子供の頃に「石コ賢さん」と呼ばれた鉱物好きの賢治にとって、きっと楽しいことだったのではないかとも思います。

 セールスマンとして、相手に応じて様々なスタンスで交渉にあたり、また工場経営を補佐しながら、柔軟な発想で製品開発や事業展開を行っていく・・・。それは実際、「大なる屈撓性」がなければできないことだと思います。
 しかし時に、仕事でくたくたに疲れ果てた時なんかには、「俺はいったい何の因果で搗粉や建材のセールスなんかやっているんだろう」と、ふと自問することもあったのではないかと思うのです。「余りに大なる屈たう性は/むしろ脆弱といふべきこと/禾本の数に異らず」という自嘲と、この時の心の傷みには、そのような背景があったのではないかというのが、私の感想です。
 ただ、こういう一言にも、専門用語も交えた農業的な比喩が巧みに用いられているところは、いかにも賢治らしいですね。

 さて、もう夕暮れになり、以上のように疲れて心も傷んだ賢治は、「小都のはづれなる/小き駅」にたどり着きます。この駅前で起こった小さなエピソードが、賢治の疲れと心の傷みをすがすがしく癒してくれたというのが、この珠玉のような文語詩の結末です。
 この結末は、賢治だけでなく、読む者をも浄化してくれるような感じです。

 ここでは、袢纏を着て登場する「をのこ」が重要な役割を果たしてくれるのですが、彼の袢纏には特徴的な印が付いていました。この記事では、パソコンの表記上〈通〉と記していますが、実際の賢治の草稿では、下写真の右上端ように、丸の中に「通」の字が書かれています。

「孔雀印手帳」59-60頁
(『新校本全集』第13巻より)

 「丸に通」と言うと、おなじみの「日通」こと「日本通運株式会社」のマークですよね。ではこの若者も日通の作業員なのかと思って、日本通運の社史を調べてみると、下のようになっていました。(日本通運株式会社の沿革・歴史より)

1872年(明治5年)  陸運元会社を設立
1875年(明治8年)  内国通運会社に改称
1928年(昭和3年)  国際通運株式会社として発足
1937年(昭和12年) 国策会社として日本通運株式会社を創設
1950年(昭和25年) 日通株を上場、民間会社として再出発

 つまり、「日本通運」という会社は、1937年に創設されたもので、賢治が東北砕石工場に勤めていた1931年にはまだできておらず、当時は「国際通運株式会社」だったのです。
 となると、この若者の素性は不明かと諦めかけていたのですが、当時の「国際通運株式会社」について調べてみると、その社章というのは下のものでした。

国際通運株式会社社章
(『国際通運株式会社史』より)

 この中心にあるのは、私たちも見慣れた「丸に通」のマークで、ただ両側にEの字が配されているところだけが違っています。「国際通運」の社章の中心部分が、その後身の「日通」にも引き継がれていたというわけですね。実は上の社章は、さらにその前身の「内国通運」時代の社章を受け継いだもので、1875年(明治8年)における内国通運会社の社章制定の趣旨には、「光輝燦然たる日章中に、「通」の一字を白く表はし、其の左右に Express の頭字なる E の字を配し、以て運送の迅速なる日本帝国の通運業者なりとの意を寓したるものにして…」と説明されています(『国際通運株式会社史』より)。
 そしてさらに、この当時に「丸に通」の印の付いた「はんてん」というのがあったのだろうかと、あれこれ調べているうちに、何とネットオークションで、その画像を見つけることができました。

 「国際通運」袢纏
(「mixiオークション」より)

 おそらく、賢治に水を飲ませようとしてくれた好青年は、この袢纏を着ていたのでしょう。
 彼は、疲れ果てて口をすすぎたかった賢治に、親切にもホースを取り上げて水を勧めてくれて、そしてその水が寸前で止まってしまった時には、まるで賢治の気持ちを代弁するかのように、素直に悔しがってくれました。
 その率直で大らかな感情表現は、お役人や米屋の頑固オヤジを相手に、神経をすり減らす折衝を一日中続けてきた賢治にとっては、とても新鮮に感じられたのです。そして賢治は、まるで全身が洗い清められたような気持ちになって、夕暮れの雲が立ち迷う盛岡郊外の青黒い山を、眺めました。
 そしてこの時、賢治はひそかに、「諸仏菩薩」の働きさえも感じていたのです。

 ということで、「丸通のはんてん」も見つけられたところで、最後にこのエピソードの舞台となった、「小都のはづれなる小き駅」についてです。
 この心温まる出来事が、いったいどこであったのかというのは気になるところですが、この詩の内容に対応した書簡が残されているおかげで、幸いこれははっきりと確定できます。
 1931年(昭和6年)6月18日付の書簡362の1および362の2を、下に掲載します(『新校本全集』第15巻より)。

362の1 〔六月〕十八日 鈴木東蔵あて 葉書
  《表》 東磐井郡 陸中松川駅前 鈴木藤三様
      十八日午后 仙北町駅ニテ 宮沢賢治

今朝商工課に参り北海道へ出品打合致し候処場処至って狭隘に付 二尺に一尺三寸の建築材料の原品及製品の額面一枚及標本瓶高さ一尺位のものへ肥料搗粉三乃至五種位とせられたしとの事外に広告は何枚にても頒布を引受くべく卅日迄に県庁へ持参あとは県にて運送との事に候。就て御手数乍ら別葉の分至急御調製御送附奉願候


362の2
 〔六月十八日〕 鈴木東蔵あて 葉書
  《表》 東磐井郡 陸中松川駅前 鈴木藤三様
      仙北町駅ニテ 宮沢賢治

続き、
 一、白き石にて製したる搗粉一ポンド
 二、仝  肥料二粍以下一ポンド
 三、仝  仝  一粍以下一ポンド
 (四、赤間は花巻に有之)
 五、紫石にて製したるもの粗細二種位 各三ポンドづつ
 六、青石にて仝上  各三ポンドづつ
尚豊川商会、吉万商会(肥料屋の分家)を歩き吉万より赤間二斗入り十俵或は五俵の注文を得候

 最初に記されている、「今朝商工課に参り北海道へ出品打合致し候処…」という箇所が、今回の「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」の冒頭にまさに一致しているところから、この二通のはがきが、この日の賢治からの業務連絡だったことがわかります。
 そして、表に記されている「仙北町駅ニテ 宮沢賢治」という部分が、この詩の舞台は「仙北町駅」だったことを示しています。

 「仙北町」は、東北本線で盛岡から一つ南にある駅です。

 藩政時代から仙北町の界隈には、盛岡の南の田園地帯で収穫された米を扱う問屋が多く集まっていたということで、その後もこのあたりには米屋が軒を並べていたので、賢治が訪問した精米業者もたくさんあったわけです。賢治が作成した上掲の精米業者のリストでも、「仙北町」「仙北組町」には9軒の名前が見られます。
 さらにここは、米のみならず他の農作物も、北上川の舟運に載せるための中継基地になっていましたから、昭和初期の仙北町も、物流においては重要な地点だったのです。つまり、「丸通」の袢纏を着た業者がいて当然の駅だったというわけですね。

 先日の連休に私は、この「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」の舞台となった場所が見てみたくて、仙北町駅に行ってきました。

仙北町駅

 こんな感じの、木造の小さな駅です。

仙北町駅

 現在は賢治が使った「井戸」はありませんが、上の写真の右端には、水飲み場があります。そして、そのちょっと左手前には、丸くセメントで覆われた箇所があるので、「これはひょっとして、昔の井戸の痕跡?」と一瞬思ったのですが、大きさからしてそうではなさそうです。

 駅の内部は、こんな感じ。

仙北町駅内部

仙北町駅内部

 こういうとてもレトロな感じがいいですね。

仙北町駅跨線橋

 木造の跨線橋のこういう雰囲気も、少し前まではごく普通に見られましたが、最近ではめっきり減ってしまいました。

仙北町駅ホーム

 きれいな花も植えられています。

 と言った感じで、小さいながらもレトロ感の漂う、素敵な雰囲気の駅なのですが、それもそのはずで、駅の正面には下の横断幕が…。

仙北町駅開業100周年横断幕

 ちょうど今年2015年は、1915年(大正4年)にこの仙北町駅が開業してから、100周年にあたるのです。
 駅長さんに、この駅舎も100年前のままなんですか?とお尋ねしたところ、あちこち改修したところはあるにせよ、基本的には開業当時のままだということでした。

 というわけで、この駅舎そのものも、賢治が「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」に書いた心温まる経験をした時と、同じままなのです!!

 盛岡から仙北町まで、東北本線の普通列車で、初乗り運賃の140円です。
 駅開業100周年の記念すべき今年、賢治の「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」を胸に、この「小都のはずれなる小き駅」を訪ねてみるというのはいかがでしょうか?

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2015年5月 3日 松岡幹夫著『宮沢賢治と法華経』

 松岡幹夫著『宮沢賢治と法華経――日蓮と親鸞の狭間で』(昌平黌出版会)という本を読みました。

宮沢賢治と法華経―日蓮と親鸞の狭間で 宮沢賢治と法華経―日蓮と親鸞の狭間で
松岡 幹夫

昌平黌出版会 2015-03-27
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 著者の松岡幹夫さんという方は、日蓮の思想を専門とする研究者のようですが、宮澤賢治のさまざまな作品や、生涯のエピソードの検討を通して、彼の思想を仏教的な観点から分析しておられます。サブタイトルに「日蓮と親鸞の狭間で」とあるように、これまで多くの人が論じてきた日蓮や法華経との関連のみならず、親鸞の思想とのつながりも注意深く浮き彫りにしていく部分が、私にとっては特に勉強になりました。

 「序文」においては、現実を重視した日蓮や田中智学は「此岸性」の人であったのに対して、賢治が書いたものは結局「彼岸性」の文学であり、これが賢治の人気にもつながっているとともに、むしろ親鸞の思想と親和性に基づいているという点が、まず指摘されます。
 とは言えもちろん、賢治は終生「法華経」に帰依していたわけですが、その賢治の法華経信仰に見られる独自の特徴として著者は、「真宗的」、「体験的」、「寛容的」という、三つの点を挙げておられます。

 まず「真宗的」という側面は、賢治自身が物心ついた時から、浄土真宗の篤い信仰の中で育ったことによるところが大きいわけですが、私自身も最近「なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)」や「けつしてひとりをいのつてはいけない」などという記事において、親鸞および浄土真宗と賢治の考えの関連について書いたばかりでしたから、大変に共感するところでした。

 次の「体験的」というのは、賢治が持って生まれた性向として他者の苦しみへの敏感さがあり、このような独特の感受性が、彼が法華経を理解する上での体験的な基盤となっているということです。法華経に描かれていることは、賢治自身の実感でもあり、それが彼の作品のリアリティを形づくっているのです。
 このような、賢治の生来の精神性と思想の連続については、私も以前に「9月に比叡山でお話ししたこと(1)」などで書いたことであり、これもまったく同感でした。

 最後の「寛容的」というのは、賢治が少なくとも後半生においては、自らが信じる法華経を一方的に人に押しつけることはせず、「銀河鉄道の夜」初期形の「お互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」という言葉に表れているような、宗教的普遍性も目ざしていたというところです。
 ただ、賢治も若い頃には、周囲の人々に激しく改宗を迫る「折伏」を行っていました。これが、上記のように「寛容」な態度に変化していった大きな境目は、1921年(大正10年)頃にあったのでしょう。この家出上京中に賢治は、父とは和解の二人旅を行い、また親友保阪嘉内に対してはおそらく強く改宗を迫った結果、気まずい別れを経験します。そして、東京から自宅に帰ってからは、それまでのように排他的な態度は見せなくなるのです。

 続いて本文に進むと、本書の中で私にとって特に読みごたえがあったのは、「第一章 『銀河鉄道の夜』の言葉と『法華経』の思想」と、「第三章 宮沢賢治における法華経信仰と真宗信仰――共生倫理観をめぐって」という、二つの章でした。

 第一章においては、「銀河鉄道の夜」のテキストに出てくる種々のキーワード、すなわち「銀河」、「地図」「切符」、「みんな」「いっしょ」、「さびしい」「かなしい」「つらい」、「どこまでも」、「ほんたう」という言葉を、文脈に即しつつ仏教的な観点から検討し、各々における法華経的な意味、浄土真宗からの影響、そしてそこに込められた賢治独自の思いが、明らかにされていきます。
 この章は、詳細な作品分析を通して見た、賢治の仏教思想論と言えます。

 第三章は、こんどは賢治の生涯を経時的にたどりながら、その考えの変遷を、浄土真宗と法華経との関連のもとに跡づけていく論考です。そして著者は、彼の思想の最も特徴的な部分を、現代的な意味での「共生倫理観」として取り出します。
 賢治の宗教意識の中には、「自覚的な法華経信仰」と「無自覚的な真宗信仰」が共存していたと著者は見ていますが、これら両者が、単に矛盾的に併存するのではなく、「共生」や「自己犠牲」という主題を通して、相互に交渉・浸透し合い、新たな宗教意識を生み出したとも言えるところが、賢治の独自性であったと、著者は指摘します。
 そのまとめ的な一文を、下記に引用させていただきます。

 さて、以上のごとくみてくると、賢治の共生的倫理観は、彼個人の共感的性格、幼少期に培われた真宗的精神性、『法華経』の大乗的成仏観や捨身思想、大等・智学によって性格づけられた法華経信仰、これらが渾然一体となって相互に浸透しあう中で形成され、さらには近代的知識人としての文学思想的あるいは科学的な教養もそこに加わって展開されたものであった、と結論づけるのが最も穏当であろう。(p.229)

 この結論に至るまでの、作品の綿密な検討や仏教思想的分析に関しては、何よりも本書を読んでいただくのが一番かと思います。

 なお、晩年の「〔雨ニモマケズ〕」に表れている倫理観は、「自力主義と他力主義の両面から共生の実現を目指す」ものであると著者は指摘しておられますが、これは私も以前に、『イーハトーブセンター会報』に「情熱(パッション)から受苦(パッション)へ―イーハトーブ〈災害〉学」という題名で書かせていただいた文章の最後に、日蓮と親鸞という二人の名前を出したことへもつながるものであり、この点も本当に「我が意を得たり」と感じ入りました。

 というような感じで、思わず私自身が共鳴するところからたくさんのリンクを張ってしまいましたが、この本は、宮澤賢治の思想を仏教的観点から考える上では、多くの方々にとって非常に有益なものなのではないかと思います。
 

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項」「賢治関連本
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2015年4月30日 けつしてひとりをいのつてはいけない

 252行に及ぶ長大な「青森挽歌」の最後は、次にようして終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 これからサハリンへと向かう夜汽車の中、妹トシの死をめぐって延々と苦しい思索を続けてきた賢治が、この時とりあえずたどり着いた結論が、これでした。
 以前「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事で書いたように、この作品において《二重括弧》で印付けられたテキストは、作者がこの時「幻聴」として耳にした言葉だったと考えられます。したがって、ここに現れる《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、それまで思索に沈潜していた賢治にとっては、その意識を破って突然にどこかから降ってきた「メッセージ」として、体験されたことでしょう。そして、その意味深長な内容に鑑みれば、これは当時の賢治にとって、「如来」か誰か超越的な存在から与えられた、一種の「啓示」のように響いたのではないかと思います。

 この言葉を受けとった賢治は、「ああ わたくしはけつしてさうしませんでした」と弁明し、さらに「妹だけが救われるように祈ったことは一度もない」と、付け加えます。
 しかしここで賢治の答えが、「さういのりはしなかつた!」と自信を持って確言するのではなくて、「…とおもひます」と気弱な表現になっていることは、目を引きます。この賢治はまるで、生徒が教室で不意に先生から指名されて、どぎまぎしながら答えているようにも見えます。
 自分がそう祈ったのか祈らなかったのか、本人ならわかっているでしょうに、なぜ彼はこんなにうろたえているのでしょうか。

 そこでこのやり取りをもう少し細かく見てみると、彼が狼狽している理由が、何となくわかってくる感じがします。実はここで幻聴の主は、「けつしてひとりをいのつてはいけない」と言っているのに対して、賢治は、「あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつた…」という風に、ほんの少し焦点をずらして応答しているのです。
 確かに賢治は、「妹だけがいい所に行き、他の人は行かなくてよい」などと祈ったことは、一度たりともなかったでしょう。しかしここで彼に提示された命題は、「ひとりをいのつてはいけない」だったのです。妹が亡くなってからの賢治は、もちろん他の人のことを祈ることもあったでしょうが、おそらくその厖大な時間を、「たつたひとりのみちづれ」である妹の死後の行方について心を悩ませ、その幸いを祈ることに、費やしていたのではないでしょうか。彼が、自分の妹という「特定の一人」のことを祈っていた事実は、否定しようがありません。
 賢治はそれを自覚していたので、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という厳しい指摘によって、まさに己れの痛いところを突かれたのだと思います。そして動揺しながらも咄嗟に、「でも、あいつだけが、とは祈っていないと思う」と返答するしかなかったのだと思うのです。
 これは些細なことのようですが、賢治は信仰においてこういう細部にもこだわる潔癖さを持つ人だったので、彼がこの場でこの答えを返したことで、己れを無罪放免にできたとは、到底思えません。
 以後この問題は、彼の心に深く刺さる棘となって、彼に解決を迫りつづけることになったでしょう。

 私が思うに、トシの死後ずっとその輪廻転生先について心を悩ませていた賢治は、自分が肉親の情にとらわれてひたすら「ひとり」のことばかり考えつづけていることに対して、すでにこの時点までにかなりの葛藤を抱きつつあったのではないでしょうか。
 その葛藤の由来は、「いつまでもそんなことばかり考えていても、どうにもならないじゃないか」とか、「この頃の俺は本当にどうかしている」というような、現実的理性の声でもあったでしょうし、「個人の幸福ではなく、世界ぜんたい、全ての衆生の幸福を追求すべし」という、彼の本分たる大乗仏教的倫理観との齟齬にもあったでしょう。
 そしてまたしても「ひとり」について考える「青森挽歌」の、長く苦しい思索による疲労が極限に達した時、彼はもはやそのような内心の矛盾を、意識下に抑圧しておくことができなくなったのでしょう。そしてその矛盾を破るべく彼の「超自我」からの声は、仏教的な装いをまとい、まさに超越的な「幻聴」として彼を襲ったのだと思います。

 そしてこれ以降、トシの死をめぐる賢治の苦悩には、さらにもう一つの要素が追加されることとなりました。それまでもテーマとなっていた、「トシは今どこにいて何をしているのか」という懸案に加えて、そういった疑問に心を悩ませつつ、なおかつ同時に「けつしてひとりをいのつてはいけない」という新たな命題をも顧慮しなければならないという、まさに「ジレンマ」を背負いこんだのです。

 この命題は、その後の賢治の作品においても探求が続けられます。
 賢治がサハリンから帰って書いた「〔手紙 四〕」においては、これは次のように変奏されます。

チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいていゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。

 また、「銀河鉄道の夜」(初期形第三次稿)では、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」が、次のように言いました。

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」

 これは、その後ずっと賢治に課せられつづける宿題となったのです。

 しかしあらためて考えてみると、そもそもなぜ、「ひとりをいのつてはいけない」のでしょうか?

 《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、前半部分に表れている輪廻転生観からしても、明らかに仏教的な命題であると言えるでしょう。しかし、本当に仏教ではそのように考えられているのでしょうか。
 「故人の冥福を祈る」とか、「誰それの供養のためにお経を上げる」とか、特定の誰か一人のために祈りを捧げるという行為は、仏教的にも広く行われている事柄ではないでしょうか。

 これに関して、まずは賢治が深く信仰していた日蓮の教えを見てみましょう。
 すると日蓮自身は、近親者を亡くした遺族が、故人の死後の幸いを祈るのは当然のことであり、またそれは善いことでもあり、大いに行うよう積極的に勧めていたことがわかります。

 例えば次の書簡は、10年前に父を亡くした南条時光という信徒が、身延山にいる日蓮に「かしら芋」を贈ったことに対して、日蓮が書いた礼状です。(『上野殿御返事(阿那律果報由来)』)

〔前略〕
此の身のぶのさわは石なんどはおほく候。されどもかゝるものなし。その上夏のころなれば、民のいとまも候はじ。又御造営と申し、さこそ候らんに、山里の事ををもひやらせ給ひてをくりたびて候。所詮はわがをやのわかれをしさに父の御ために釈迦仏・法華経へまいらせ給ふにや。孝養の御心か。
さる事なくば、梵王・帝釈・日月・四天その人の家をすみかとせんとちかはせ給ひて候は、いふにかひなきものなれども、約束と申す事はたがへぬ事にて候に、さりともこの人々はいかでか仏前の御約束をばたがへさせ給ふべき。もし此事まことになり候はば、わが大事とおもはん人々のせいし(制止)候。又おほきなる難来るべし。その時すでに此の事かなうべきにやとおぼしめして、いよいよ強盛なるべし。
さるほどならば聖霊仏になり給ふべし。成り給ふならば来りてまほ(守)り給ふべし。其の時一切は心にまかせんずるなり、かへすがへす人のせいし(制止)あらば、心にうれしくおぼすべし。恐々謹言。

 すなわち、時光が忙しい中をわざわざ日蓮に贈り物をしたのは、亡き父への別れ惜しさから、父の供養として釈迦仏・法華経に捧げたのであって、その行ないは時光の孝養心の表れであると、日蓮は解釈しています。そして、時光がその心がけで信仰に励むならば、必ずや父の聖霊は成仏するであろうこと、そして成仏したならば息子である時光のところへ来て、時光を守護してくれるだろうと述べ、励ましているわけです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、トシへの供養を贈る先としては、「日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対服従致します」(書簡177)と彼自らが帰依した田中智学に、すなわち国柱会に贈るべきだということになるでしょう。そして実際、賢治がトシの死後まもなく国柱会あてに「金壱百円」を贈ったことが、この年12月23日付け『天業民報』に掲載されています(「●金壱百円也 岩手宮沢賢治殿/(右は令妹登志子遺志ニ依リ)」)。賢治の農学校の月給が80円だった頃のことです。
 日蓮の書簡の言葉を信じれば、このような追善供養をして信仰に励めば、トシは必ず成仏できるはずですし、成仏したら賢治のところへ来て、彼を守護してくれるに違いありません。

 また、次の書簡は、富木常忍という下総の信徒が、母を亡くした翌月にその母の遺骨を首に懸けて、はるばる身延山まで日蓮を訪ねてきたという出来事を受け、その信徒の帰国後に送ったものです。(『忘持経事』)

〔前略〕
離別忍び難きの間、舎利を頸に懸け足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉して山野に盗賊充満し、宿々粮米乏少なり。我身は羸弱にして所従亡きが若く、牛馬も期に合せず。峨々たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭を天にウち、幽谷に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼は眩き足は冷ゆ。羅什三蔵の葱嶺・役の優婆塞の大峰も只今なりと云云。
然る後、深洞に尋ね入りて一庵室を見る。法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五躰を地に投じて合掌し、両眼を開き尊容を拝するに、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む。我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば、種子と菓子(このみ)と、身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道なり。吉占師子・青提女・目ケン尊者は同時の成仏なり。是の如く観ずる時無始の業障忽ち消え、心性の妙蓮は忽ちに開き給ふか。然して後に随分仏事を為し、事故無く還り給ふ云云。恐々謹言。

 すなわち富木常忍は、母との離別に耐えかねて、母の遺骨を首に懸け、困難な道を足に任せて下総から身延まで馳せ参じ、日蓮と感動の再会を果たします。そして遺骨を釈尊の宝前に安置し五体投地をして合掌し、目を開いて釈尊の像を拝むと、歓喜が身に余り心の苦しみも消えて、「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり」という、亡き父母との一体感に打たれたというのです。そして日蓮の記述は、「親子の同時成仏」という事柄にまで至ります。
 常忍はこの法悦的体験の後、「随分仏事を為し」とありますが、その中には苦労して持参した母の遺骨を、身延山に埋骨するという手続きも含まれていたはずです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、富木常忍の身延山行きは、「トシの遺骨を国柱会まで持参して納骨する」ということに相当するでしょう。ちなみに、国柱会から授けられたトシの戒名は、死の翌年1月9日付けになっていますから、この時に納骨が行われたと考えるのが、まずは自然です。
 実際、ちょうど1月11日まで賢治は弟清六とともに東京に出てきていて、その間一時的に賢治は姿をくらましていたと清六は回想していますから、『新校本全集』年譜篇は、「この時の(賢治の)行動は明確ではないが、静岡県三保の国柱会本部へ行ったと推定される」としています(p.252)。ただし、国柱会への納骨については、同年の春に父政次郎と妹シゲが行ったというシゲの回想もありますので、「賢治は東京で納骨の手続きのみを行ない、遺骨は父とシゲが持参した」という堀尾青史氏の見解も、年譜篇には併記されています。
 どちらにしても、トシの遺骨が翌年春までに、遺族の手によって国柱会本部に納骨されたことは確かです。

 日蓮が死者の供養について説いた遺文は他にもありますが、管見のかぎりで典型的と思われた二つの例を挙げてみました。いずれにおいても日蓮は、特定の故人を思う遺族が供養の品を日蓮に贈ったり、あるいは遺族が納骨に来たりすることを賞賛し、そのような行ないは故人にとっても遺族にとっても価値あるものだということを、力説しています。「ひとりをいのる」ことを、積極的に肯定しているのです。
 そして、現に賢治はトシの死を受けて、当代における日蓮の代理とも考えた田中智学=国柱会のもとへ、日蓮が書いたように追善供養を贈り、また納骨も行いました。
 賢治が日蓮の言葉を本当に信じていたならば、これだけのことをしたからにはもう、トシの成仏を確信して何も思い悩む必要はないはずですし、自分がこうやってトシという「ひとり」の肉親のことを切に祈っていることに対して、何ら後ろめたい思いを抱くこともないはずです。

 それなのに、いったい賢治はなぜ、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などと考えたのでしょうか。

 ここで日蓮から目を転じて、賢治もある時期まで深く信仰していた、浄土真宗の教えを見てみましょう。
 親鸞の言葉を弟子が書き記した『歎異抄』の「第五条」には、次のように書かれています。

一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、佛になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

【現代語訳】 この親鸞は、亡き父や母の孝行のために追善供養のお念仏を申したことは一度もありません。
 そのわけは、すべてのいのちあるものは、遠いむかしから今まで、いくたびとなく生まれかわり死にかわりするあいだに、あるいは父母となり、または兄弟姉妹となってきました。したがって、この世のいのちがおわって、浄土に生まれて仏になったうえで、すべてのいのちあるものを助けなければなりません。
 この念仏が、もしわたしが善い行ないをつみ重ねた上で得たのであれば、その念仏の功徳を父や母にさしあげて、お助けすることもできましょう。しかし、この念仏はわたしの力で得たものではありません。
 そういうことですから、自力の思いをすてて、すみやかに浄土に生まれてさとりを開いたならば、父母や兄弟姉妹たちが、迷いの世界に生まれて、どのような苦しみの中にあろうとも、仏の持つ不思議な力によって、まずこの世で縁のあったものから救ってさしあげます。
 このように、聖人は仰せになりました。
                   (角川ソフィア文庫『歎異抄』より)

 親鸞は、自分の父母のために祈ったことは一度もないと言い、その理由として、(1)限りない時間をかけて輪廻転生を繰り返すうちに、全ての生物が一度は自分の父母兄弟となったことがあるのだから、かりに今生だけの肉親を救ったとしても、そのことに本質的な意味はない、(2)自力で父母を救おうなどというのは思い上がりにすぎず、我々はただ他力による浄土往生を願うほかはない、という二点を挙げています。
 だから我々が目ざすべきことは、まずは「いそぎ(浄土の)さとりをひらき」、その後に、「神通方便をもて、まづ有縁を度すべき」だとしているのです。先日の「なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)」という記事に出てきた言葉にすれば、まずさっさと「往相」を遂げて、その後「還相」によって皆を救済せよ、ということですね。

 この親鸞の言葉を見ると、「一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり」という部分は、明らかに賢治の命題の中の「みんなむかしからのきやうだいなのだから」というところに、対応しています。
 そして、親鸞は「ひとりをいのつてはいけない」などと、表面上は禁止の言葉までは述べていませんが、自分の力で「祈る」などという行いは、親鸞の立場からすれば「本願他力の意趣にそむく」ことになるでしょう。すなわち、親鸞からすれば、「ひとりを」であろうと「一切の有情を」であろうと、いずれのために「祈る」ことも、煩悩具足の我らにとっては、身の程知らずの愚行にすぎないのです。

 ということで、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、「青森挽歌」に現れてその後しばらく賢治の課題となった言葉は、親鸞の思想に由来しているのではないかと、私は考えるのです。
 賢治は、親鸞には幼い頃から親しんでいましたから、その考えや言葉がふと心の底から湧き出してくるということは、可能性としてはありえることかもしれません。しかしそれにしても、上に引用したような日蓮の考えをしっかりと胸に刻んでおれば、何も己れの針路を、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などという方向に定めることはなかったのではないかとも思うのです。

 いったいなぜ当時の賢治は、まるで日蓮の教えから離れるかのようにして、むかし信じた親鸞的な思想に回帰するに至ったのでしょうか。

 この疑問への答えとして、私が考える一つの仮説は、トシの死後しばらくの間の賢治は、かなり深刻な信仰上の迷いに陥っていたのではないか、というものです。
 それは例えば、「宗谷挽歌」における、「私たちの行かうとするみちが/ほんたうのものでないならば…」とか、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」という箇所にも、表れているのではないかと思います。

 そして、それにも増して私がどうしても考えずにいられないのは、トシの死後の宮澤家の状況です。
 もちろん、家族全員がトシの死を深く悲しんでいたことでしょう。しかし、浄土真宗に深く帰依する父や母や妹たちは、トシの死後の「行方」などについて思い悩むこともせず、そんなことは他力に任せ、ただ阿弥陀如来の回向だけを信じて、家族一緒に静かに仏壇に向かい、南無阿弥陀仏を唱えていたことでしょう。
 これに対して、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」を失ってしまった賢治には、もはや家庭内に「同じ立場で」悲しみを共有できる同志はありませんでした。たった一人、二階の自室の「御本尊」の前で、南無妙法蓮華経を唱えるしかなかったのです。そして、悲しめば悲しむほど、賢治の孤立は深まり、苦悩も大きくなっていったでしょう。

 そもそも、深い心の傷を負った人間に、回復の希望を与えうるものがあるとすれば、それは周囲の人々との「つながり」です。逆に言えば、深く傷ついた人にとって、最も恐るべき事態は、「孤立」です。
 トシの死後の宮澤家において、これは家族の誰の悪意によるものでもなかったのですが、賢治は自ずと宗教的孤立に追い込まれざるをえませんでした。唯一人でトシを悼むしかない賢治の目から見ると、自分以外の家族は皆、ともに悲しみを分かち合い、おそらく真宗的な諦観も漂わせながら、淡々と日常を送っていたことでしょう。
 その状況が生まれた原因は、法華経や日蓮の教義にあるわけではなく、ただ賢治の中で、深い悲しみと孤立が悪循環を形成していただけなのですが、賢治にとっては、この己れの苦しみは自らの信仰に由来する問題なのかと、ふと感じることもあったでしょう。そのような迷いが、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」というような言葉を生じさせる要因にもなったのではないかと、私は思うのです。

 そして、トシの死の前後の賢治を襲ったそのような宗教的苦悩が、前回に書いた「往相」と「還相」という真宗的な物語の構造や、今回述べたような親鸞的思想への揺り戻しを、彼にもたらしたのではないかと、そんな風に私は考えてみるのです。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について
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