2014年8月 1日 宮沢賢治研究会発表

 最近とんとブログの更新ができていませんでしたが、明日8月2日(土)に、東京の「宮沢賢治研究会」の例会で話をするよう言われ、その準備をしていたことも一つの理由でした。
 発表は、「求心的・凝集的な精神と遠心的・浸透的な精神 〜宮沢賢治の心性に関する一考察〜」というタイトルにしたのですが、確かにこれはあまりにも中身がわかりにくい題名なので、名前の付け方に失敗したかなと思っていますw。中身については、同研究会の「8月第276回例会のご案内」のページに、説明を載せていただいています。

 発表を同席させていただくのが、以前に「ヴェッサンタラ王の布施」という記事で、論文を引用させていただいた伊藤雅子氏であるというのは、不思議なご縁であり光栄なことです。お会いするのが楽しみです。

 ということで、明日は仕事をなるべく早く終えて、東京に向かいます。

「求心的・凝集的な精神と遠心的・浸透的な精神」

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2014年7月 3日 千原英喜作曲『永訣の朝』初演コンサート

 来たる7月6日(日)に、大阪のシンフォニーホールにおいて、千原英喜氏の新作合唱曲『永訣の朝』の初演が行われます。(下のチラシ画像はクリックすると別窓で拡大表示されます)

豊中混声合唱団第54回定期演奏会

 この『永訣の朝』は、大阪府豊中市を中心に活動している「豊中混声合唱団」が、本年度定期演奏会のために委嘱した作品だということで、上掲チラシ裏には、曲について下記のような説明が付けられています。

■ 永訣の朝
 豊中混声の本年度委嘱初演作品となります。妹トシの死を悼んだ挽歌として、宮澤賢治の作品の中でも取り分け愛されている「永訣の朝」。
 内省的かつ深い悲しみと愛、祈りに満ちた賢治のことばたちは、千原英喜先生の手腕により、全宇宙的な広がりを持つ音作品へと遷移していきます。ひとりでも多くの方にご拝聴いただきたい、ア・カペラによる心の絶唱。名作の誕生にお立ち会いください。

 千原英喜氏と言えばこれまでにも、『混声合唱とピアノのための組曲 雨ニモマケズ』、『児童・女声合唱組曲 ちゃんがちゃがうまこ』、『混声合唱組曲 月天子』「宮沢賢治の最後の手紙」など、賢治のテクストをもとにして、数々の素晴らしい合唱曲を作ってこられました。私たちが一昨年12月に行った「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都」においても、その中から「雨ニモマケズ」を取り上げさせていただきました。
 何と言っても千原氏の合唱曲は、わかりやすく詩情豊かなメロディーやハーモニーと、現代的で斬新な感覚とが、絶妙に調和しているところが魅力です。賢治に対しても非常に造詣が深くていらっしゃって、詩の奥底まで見通すような視線も感じられます。

 そして今回、豊中混声合唱団の委嘱のおかげで、これら千原氏による賢治作品群の一環に、「永訣の朝」も加わることになったというわけです。どんな作品世界が造型されたのか、千原英喜ファンの私としても、今から楽しみです。
 2007年9月の『混声合唱とピアノのための組曲 雨ニモマケズ』の初演の際には、私もたまたま立ち会うことができて感動したのですが、今回も大阪まで聴きに行く予定にしています。

 下記のように、コンサートのプログラムは他にも盛り沢山で、豊中混声合唱団第54回定期演奏会のページから、メールにてチケットの申し込みや問い合わせができるということです。

豊中混声合唱団 第54回定期演奏会
  〜三善晃先生追悼・千原英喜先生委嘱初演〜

日時: 2014年7月6日(日) 午後3時開場 午後4時開演
場所: ザ・シンフォニーホール

プログラム:
■ 童声・混声合唱とピアノのための
  「葉っぱのフレディ」
  (作詞・作曲:三善晃)
■ 混声合唱曲「嫁ぐ娘に」
  (作詞:高田敏子 作曲:三善晃)
■ 「啄木短歌集」
  (作歌:石川啄木 作曲:高田三郎)
■ 「永訣の朝」(2014年度委嘱作品)
    永訣の朝 I
    永訣の朝 II
  (作詩:宮澤賢治 作曲:千原英喜)

 最後にご参考までに、これまで私が VOCALOID 等を用いて、千原英喜氏作曲の賢治作品を演奏したページを、挙げておきます。
 本物の合唱の歌声には比べるべくもありませんが、千原氏の曲がどのようなものか、とりあえず「試聴」していただくことはできるかと思います。

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2014年6月 8日 鏑木蓮『イーハトーブ探偵』

              
                   大正十一年一月六日金曜日

 映画館を出たとき、また雪が降り出した。すでに積雪は一間は超えていただろう。ただ花陽館の前もそうだけれど、町の大きな通りは雪かきが済み、道端に寄せられていて歩きづらさはない。
 正月休みの夕刻、藤原嘉藤治は、小岩井から帰ったばかりの友人、宮澤賢治と並んで歩いた。ケンジは映画館に入るまでは、小岩井のきらきらする雪の中を移動したことを熱に浮かさているように、一人で喋り続けていた。ところが映画を見終わると今度は急に黙ってしまった。     (「ながれたりげにながれたり」冒頭より)

 上記は、鏑木蓮著『イーハトーブ探偵 賢治の推理手帳 I』の冒頭部です。

イーハトーブ探偵 ながれたりげにながれたり: 賢治の推理手帳I (光文社文庫) イーハトーブ探偵 ながれたりげにながれたり: 賢治の推理手帳I (光文社文庫)
鏑木 蓮

光文社 2014-05-13
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 この本は、宮澤賢治と親友の藤原嘉藤治が、ちょうどホームズとワトソンのように、格好のコンビを組んでいろいろな難事件を解決していくという、痛快な推理短編集です。上記のように表紙絵には、この「ケンジ」と「カトジ」の二人がイギリス海岸を歩く姿が描かれ、賢治ファンとしては中を開く前からワクワクしてしまいます。
 実際に賢治は、広汎な自然科学的・博物学的知識と独特の頭脳を持っていましたから、現場の遺留品の断片からシャーロック・ホームズのように推理を働かせて事件を見通すという役柄には、まさにうってつけの感があります。
 それに、過去の名作において造型された「名探偵」というのは、シャーロック・ホームズにしてもエルキュール・ポアロにしても金田一耕助にしても、どこか一般常識を超越した「変人」のようなところがありましたが、われらが宮澤賢治の、その生前から地元では名高かった「変人」ぶりも、本シリーズの探偵キャラクターに一種のカリスマ性を帯びさせる上で、最高のスパイスとなっています。
 そして、放っておいたらどっかへ飛んでいきそうなこの「ケンジ」探偵を、しっかりとつなぎ止めつつ常識人として気配りをするのが、コンビ相方の親友「カトジ」なのです。

 さて、この一冊には、下の四篇が収められています。

ながれたりげにながれたり
マコトノ草ノ種マケリ
かれ草の雪とけたれば
馬が一疋

 一見していただいたらわかるとおり、これらはいずれも賢治の詩の題名に基づいており、それぞれの賢治作品の世界が、各篇の背景となる雰囲気を形づくっています。
 そして、各篇の舞台となっているのは、冬の大沢温泉であったり、南部藩と伊達藩の藩境にある「南部曲り家」であったり、明治の遺構「旧岩谷堂町役場」であったり、下鍋倉の水車小屋であったり、「イーハトーブ」ならではのスポットが選ばれていますし、それぞれに事件の背景をなしているのは、貧困と「口減らし」、結核による死、密造酒と税務官吏による取締り、農村の困窮と軍馬買い上げなど、当時の岩手県の切実な問題を反映しています。
 また、これらの作品を純粋に推理小説として読むと、各篇ともに、いったいどのようにして犯行が為されたのか、まったくわからないようなミステリーが構築されていて、その仕掛けをケンジが解明していくとともに、想像もつかなかったような大がかりなトリックが姿を現わすという形になっています。
 作者の、並々ならぬ意欲が表れている作品集だと思います。

 それより何より、賢治ファンとしてこの「イーハトーブ探偵」シリーズに限りない魅力を感じるのは、その作品世界の意味深い構成にあります。
 冒頭に引用させていただいた箇所の「大正十一年一月六日金曜日」にも表れているように、各作品にはその年月日が記されています。大正11年1月6日というのは、賢治の詩集『春と修羅』の冒頭および二番目の作品、「屈折率」と「くらかけの雪」がスケッチされた日であり、引用箇所にもあるとおり、この日に賢治は雪の小岩井農場へ出かけてきたのです。

 つまり、この「イーハトーブ探偵」シリーズは、『春と修羅』の世界の開始とともに幕を開け、各ミステリーはそれぞれの時期の賢治の実生活とともに、進行していくのです。
 すなわち、「ながれたりげにながれたり」は大正11年1月6日から10日、「マコトノ草ノ種マケリ」は5月3日から7日、「かれ草の雪とけたれば」は8月15日、「馬が一疋」は11月10日から19日の出来事という設定になっています。 そして、この時期の賢治の身辺において、最も切実な問題となっていたのは、何よりも妹トシの病状の深刻化でした。
 具体的にその内容を見てみましょう。

 最初の「ながれたりげにながれたり」においては、登場人物の一人である花巻高等女学校の生徒に関連して、トシが以前に同校の教師をしていたものの、「体調を壊し」て退職したと、さらりと触れられるだけでした。
 それが「マコトノ草ノ種マケリ」では、ある人物の息子が肺病で夭折したという話題になり、嘉藤治は大変に気をつかいます。

「肺病で亡くなったのか・・・」
 ケンジは遠くを見る目をした。
「あっ僕としたことが、もしゃけね」
 ケンジは肺を病むトシのことを思い浮かべたにちがいなかった。

 次の、8月の「かれ草の雪とけたれば」になると、下のような場面が出てきます。

 しばらくは、花巻から豊沢川を越え移ろい行く車窓に目を遣る。
 ケンジはまばゆい真夏の風景に目をしばたたかせ、奥歯を噛みしめていた。
「トシさんのあんべえは?」
「よくねえ。熱が下がらねえんだ。だば町中にいるよりは涼しいから」
「そうだな」
 いま通過した下根子の桜という場所に、宮澤家の別荘があった。ケンジの妹のトシが少し前から、病気療養している。

 そして、最後の「馬が一疋」では、容態はより深刻になっています。

 黒い帽子に黒いインバネス姿のケンジは、うつむき加減で風を受けながら、
「ゆんべ、トシがまた高熱を出したのす」
とぽつりと言った。
「それはことだなっす。側にいてあげてくなんせ、ケンさん」
 カトジは事件に引っ張り出したことを詫びた。
「食も細くなる一方で・・・俺は見てるのも辛い」
「それは・・・辛いな」
言葉がなかった。
「熱に浮かされながらも、兄さんは人の役に立ってけろって」
 ケンジの言葉が詰まる。

 この作品終わりの11月19日には、トシの容態が急変したために、彼女を下根子の別宅から豊沢町の実家に移すことになり、ケンジは事件の最後の現場に立ち会うことができず、カトジは一人で、花巻西郊の草井山に登り、顛末を見届けます。
 そして作品は、次のように締めくくられます。

 カトジは昨夜のケンジの言葉を思い出しながら、坂道の落ち葉を踏みしめる。やがて集落の家々から煮炊きの細い煙が見えてきた。
 ケンさんは多くの人の役に立ったのす。だから仏様はトシさんを見捨てるようなことはしねえ。きっと熱は下がる。必ずよぐなる、と心の中で祈った。

 つまりこの物語集は、トシの病気を見えない背景として、ケンジとカトジの友情を描いたものでもあるのです。

 今回の「賢治の推理手帳 I」が、実際のトシの死の8日前で終わっていることからすると、次の「賢治の推理手帳 II」は、トシの死後から始まるのかもしれません。あるいは何らかの仕方で、永訣の朝を迎えた賢治が描かれるのかもしれません。
 いずれにしても、私としては続篇を心から待ち望む、「賢治の推理手帳」です。 巻末の杉浦静さんによる「解説」も、賢治自身の人柄や作品、当時の岩手県の社会状況に関して要を得た説明をして下さって、この作品の奥行きをさらに広げてくれています。

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2014年6月 1日 福島の獣医千葉喜一郎氏

 1932年(昭和6年)4月19日付けで、病臥中の賢治から東北砕石工場長の鈴木東蔵にあてた書簡412に、次のような一節があります。

次に一昨日福島市畜産家獣医千葉喜一郎氏村松博士のご招介にて御来訪有之、工場産の搗粉と房州砂及三春産のものとにて家畜に飼養試験を農林省委託として大規模に行ひ、工場産のもの殆んど薬用炭酸石灰に劣らざる良成績を挙げ他地産のもの到底及ばざるを確認したるを以て七月中には農林省佐藤博士と共名にて同省報告に工場名を明記して之を発表すべしとのこと御報有之且つ色の黝き点も何等差支なき由申され候。就ては此の際他品との競争最至難なる福島栃木新潟方面の一手販売を引き受け度く貴下に面談致し度とのことなりしも御上京中の由申候処いづれ手紙にて交渉致べくとて盛岡を経て帰県せられ候。同氏の言には販路は充分に有之たゞ、価格の点福島市渡し十三貫四十三銭(房州砂の価格)まで工夫なきやとの事に有之御採算の上御返事願上候。粒径の点は或ひは従来のものより稍々大なるも宜しかるべく且つ牧草地用及水田用のものより微粒風撰採取しても差支無之と存じ候間御考慮願上候。(強調は引用者)

 また、翌1933年(昭和8年)2月15日付けでやはり鈴木東蔵へあてた書簡453aには、次のような一節があります。

拝啓 十四日発の御葉書拝見仕候。
冊子への当座の資料、四五別便にて送上候間、最后の項に福島市獣医の方の氏名御挿入の上、各項適宜御取捨被成下度、今回は本文へは全く手を附けず置き度存候。亦冊子とせず一枚刷ならば、仰せの通り全く従前通りのものも宜敷と存候。冊子印刷に一ヶ月以上間も有之候はゞ、本文全部時宜に適する様書き直し度存候。(強調は引用者)

 1931年(昭和6年)9月、重いカバンを持って東京までセールスに出かけて病に倒れ、その後は花巻で病床に就きながらも、翌年、翌々年と、死の直前まで賢治が東北砕石工場のことを気に懸けて、様々なプランを考え続けていたことを物語る書簡です。

 さて、この書簡412に、突然花巻の宮澤家を来訪し、東北砕石工場産の石灰搗粉について非常に好意的な評価を伝えてくれた人物として、「福島市畜産家獣医千葉喜一郎氏」が登場します。
 そして賢治は、翌年に工場の新たな宣伝パンフレットを作成する過程においても、専門家の立場から搗粉を評価してくれたこの「福島市獣医」の氏名も掲載するよう、鈴木東蔵に勧めています。

 なにせ、東北砕石工場で生産した石灰搗粉を、当時まで搗粉の大半を占めていた「房州砂」や、千葉氏にとっては地元である福島県三春町産の石灰搗粉と比較して、「他地産のもの到底及ばざるを確認し」と報告してくれたのですから、賢治としてはとても嬉しかったに違いありません。
 さらに千葉氏は、単にこの実験を行ったにとどまらず、その結果を農林省の報告に「工場名を明記して」発表してくれる上に、「福島栃木新潟方面の一手販売を引き受け度く…」と申し出てくれたというのです。東北砕石工場としてはまだほとんどセールス展開ができていなかった地域に、一気に強力な足場ができそうな状況になったわけですから、賢治にとっても鈴木東蔵にとっても、こんな有り難い話はなかったでしょう。

 それにしても、福島市で獣医院を営む千葉喜一郎氏は、福島県内にも三春町をはじめ石灰岩の産地はいろいろあったにもかかわらず、そのような地元の利害を離れて、わざわざ岩手県にある東北砕石工場の製品の一手販売を引き受けようと考えたわけです。いったい千葉氏は何のために、このような思い切った申し出をしてこられたのでしょうか。
 その理由として考えられることの一つとしては、とにかく畜産家によりよい製品、科学的効果のある製品を届けたい、そして人々の仕事を実りあるものにしたいという、獣医師としての千葉氏の思いがあったのかもしれません。そうであればこれは、病を押して東北砕石工場の技師になって奔走した賢治の思いにも、通ずるものがあります。
 もう一つ考えられることとしては、千葉氏がはるばる花巻まで賢治を訪ねてきた行動にも表れているのではないかと思うのですが、千葉氏はこの東北砕石工場の技師をしている宮澤賢治という男が、盛岡高等農林学校の先輩であることに、何らかの親近感をい抱いていたからかもしれません。
 東北砕石工場製造の石灰搗粉の販売交渉をしたいのであれば、陸中松川にある工場本社に責任者を訪ねる方が話が早いはずですし、またその方が福島から行くにも距離は近いのです。それなのに、わざわざ花巻まで「嘱託技師」を訪ねて来たのは、まず何よりも賢治という人に会ってみたかったのではないでしょうか。
 宮澤賢治という技師が、盛岡高等農林学校出身であるということを調べる過程では、石灰肥料に関する斬新な広告文を起草して、科学的見地から広報しようとする賢治の仕事ぶりについて知る機会もあったでしょうし、前述のように千葉氏にも農業に対して同様の思いがあったとすれば、そこに賢治の姿勢への共感も、湧いてきたのかもしれません。

千葉喜一郎 千葉喜一郎氏は、1902年(明治35年)に福島に生まれたということですから、賢治の6歳年下ということになります。福島中学から盛岡高等農林学校畜産科に進み、福島市内で家畜医院を開業した後も、旺盛な研究活動を続けました。
 千葉喜一郎氏の右の写真は、菅野俊之著『ふくしまと文豪たち』から引用させていただいたものですが、菅野氏は、宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第38号に掲載されている「福島市の獣医師千葉喜一郎について」という文章や、上記の『ふくしまと文豪たち』において、千葉氏の経歴について詳しく調査した結果を、まとめておられます。
 それによれば、千葉喜一郎氏は福島県獣医師会会長、日本獣医師会副会長も務め、畜産業の振興と公衆衛生の発展に寄与した業績により、1967年(昭和42年)に藍綬褒章を、1974年(昭和49年)に勲四等瑞宝章を受章したということで、その社会的貢献の大きさがうかがえます。

 千葉喜一郎氏の獣医学における研究業績を調べてみると、国会図書館に所蔵されている文献の中で、千葉氏が筆頭著者となっている論文としては、以下のものがありました。

  1. 馬の骨軟症の實驗的研究. 中央獣医会雑誌43(10); 843-868, 1930
  2. 馬の左右睾丸重量の統計的觀察. 中央獣医会雑誌44(4); 269-282, 1931
  3. 馬の骨軟症に關する研究(第二). 中央獣医会雑誌44(12); 947-969, 1931
  4. 昆布ノ「ヴィタミン」ト其能力ニ就テ. 日新醫學1(1); 1584-, 1936
  5. 簗川病に就いて. 日本馬事会雑誌1(2); 22-25, 1942
  6. 本邦に發する馬の所謂骨軟症骨質の組織學的研究. 臨床獣医学新報19(2); 40-44, 1943
  7. 馬の骨軟症の實驗的研究 第四. 盛岡高農同窓会学術彙報7; 1-10, 1943
  8. 馬匹無保定去勢手術に就て. 日本獣医師会学術彙報13; 1-18, 1943
  9. 砒素系化合物の探究と生物化学的研究. 日本獣医師会雑誌4(12); 418-419, 1951

 上記の 6.が、千葉氏の博士論文として北海道帝国大学に提出され、獣医学博士号を授与されたものですが、この論文も含めて、1.3.6.7.は、馬の「骨軟症」というカルシウム代謝障害をテーマとした研究であり、特にこの疾患が、若い頃から千葉氏の専門的研究対象であったことをうかがわせます。
 今やそのことを念頭に置けば、千葉氏が石灰搗粉に特別な関心を示して、わざわざ賢治のところまで訪ねてきた事情も理解できます。
 炭酸石灰=CaCO3 を効率的に家畜に摂取させてカルシウムを補充することができれば、「骨軟症」を治療あるいは予防することができるのです。

 たとえば、上記の 7.(下写真は国会図書館近代デジタルライブラリーより)において、千葉氏は中等症から重症の「骨軟症」に罹患した12頭の馬に対して、「石灰藁」(消石灰の懸濁液で稲藁を煮沸したもの)を120日間食べさせるという実験を1929年から1931年にかけて行ったということです。その結果、どの馬においても「骨軟症」の症状はほとんど消失し、顕著な回復を見せたというのです。

馬の骨軟症の実験的研究 第四

 馬の「骨軟症」の治療として、カルシウムを摂取させることが有効であることがわかれば、あとはどのような形でそれを与えればよいか、ということが実際的な問題となります。上の実験で使われた「石灰藁」という家畜用飼料は、当時新たに開発されたもので、その効果の点では大変優れていましたが、消石灰の価格や作成の手間に難点があり、これがもしもより安価な石灰岩抹でも有効だということになれば、畜産農家に広く普及させる上で、かなりのメリットがありえます。
 千葉喜一郎氏が、福島県三春町産や東北砕石工場の石灰搗粉を、家畜に与える比較試験を行ったということの目的は、おそらくここにあるのでしょう。
 そして、当時まだ30歳になるかならないかという少壮の研究者であった千葉氏が、この「飼養試験を農林省委託として大規模に行ひ」ということができたのは、この分野に関しては、若くとも第一人者として農林省からも認められていたからなのでしょう。

 ・・・と、ここまで長々と書いてきましたが、実は今回の記事を書こうとした私の最大の関心は、千葉氏が「七月中には農林省佐藤博士と共名にて同省報告に工場名を明記して之を発表すべし」と、賢治に約束したこの「農林省報告」を、何とかして見つけられないかということにありました。
 戦前の「帝国図書館」として、政府の刊行物の大半を所蔵している国会図書館は、こういう文献を持っている可能性が最も高い場所ですから、その蔵書をWebからあれこれ検索してみたのですが、なかなかそのような文献は見つかりません。
 そうこうするうちに、検索対象を国会図書館に限らず、全国の公共図書館として探していると、ついにそれらしき本にめぐり会いました。

 それは、「農林省獣疫調査所」が1932年(昭和7年)10月に刊行している、『骨軟症の予防に就て』という本で、岩手県立図書館が所蔵していました。
 1932年〜1933年に農林省が刊行した文献627件を通覧した中で、今回のテーマに関わるようなものは他に見当たらず、また千葉氏が家畜に石灰搗粉を給与した目的が「骨軟症」対策であったことは上にも見たとおりですから、おそらくこの本で間違いはないのではないかと思っています。

 というわけで、いずれ盛岡を訪ねる機会があれば、岩手県立図書館に寄って、この『骨軟症の予防に就て』を閲覧してみたいと思います。
 千葉氏が言ったとおり、「東北砕石工場」の工場名は「明記」されているでしょうか。あるいは、1932年4月17日に千葉氏が賢治を訪ねた際に話し合った内容まで触れられていたらスゴいのですが、さすがに政府刊行物にそこまで期待するのは無理でしょうね。
 またこの本が、千葉氏の母校のある岩手県の図書館に全国で唯一所蔵されていたのは、千葉氏が寄贈したなど何かの所縁があるのではないかとも思うのですが、どんなものでしょうか。

 なお余談ながら、今も千葉喜一郎氏のご子孫は獣医をしておられて、福島市内で「千葉小動物クリニック」を開いておられるということです。

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2014年5月26日 近刊『賢治学【第1輯】』

 岩手大学宮澤賢治センターから近く刊行される、『賢治学【第1輯】』が、手元に届きました。発売日は6月10日ということで、アマゾンからも予約注文が可能となっています。

賢治学第1輯: 特集 岩手大学と宮澤賢治 賢治学第1輯: 特集 岩手大学と宮澤賢治
岩手大学宮澤賢治センター

東海大学出版部 2014-06-10
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 目次は、以下のとおりです。

『賢治学』創刊に寄せて (藤井克己)
『賢治学』発刊にあたって (山本昭彦)

特集 岩手大学と宮澤賢治
  賢治学のスタートは賢治さんの「よーさん」と同等 (鈴木幸一)
  『盛岡附近地質調査報文』―宮澤賢治と盛岡附近地質調査
  (亀井 茂)
  旧盛岡高等農林学校本館(現農学部附属農業教育資料館)と
  宮澤賢治 (若尾紀夫)
  盛岡高等農林学校における賢治の文芸的営みのほとんどは
  「短歌」であった―『宮澤賢治全短歌鑑賞』を展望しながら
  (望月善次)
  「アザリアの咲くとき」展をふりかえって (岡田幸助)

コラム それぞれの賢治
  イーハトーブ温泉学拾遺―大沢温泉 (岡村民夫)
  「茶話会」と「賢治と音楽を楽しむ会」を担当して (姉歯武司)
  強さと感謝について (上野火山)
  盛岡高等農林学校のおいしそうなものたち (中野由貴)
  三陸沿岸の賢治詩碑群 (浜垣誠司)

宮澤賢治センター通信より
  尾形亀之助と宮澤賢治 (吉田美和子)
  賢治と震災 (牛崎敏哉)
  草野心平・黄瀛と宮沢賢治 (佐藤竜一)
  宮澤賢治『春と修羅』の恋について、続報 (澤口たまみ)

フォーラム「賢治学」
  羅須地人協会と新しき村―主としてその差違をめぐって
  (吉村悠介)
  『銀河鉄道の夜』の天路歴程とホーソン『天国鉄道』―ジョバンニ
  の「乳の道」
(松元季久代)
  宮澤賢治 影への射程―アンデルセン童話という回路をめぐって
  (木村直弘)
  『賢治とイーハトーブの「豊饒学」』(大河書房) (塩谷昌弘)

編集後記 (編集子一同)


 目次に並ぶ著者の方々のお名前は、これまでのオーソドックスな賢治研究アンソロジーで見慣れたものとは、やや趣が異なっていますね。そしてその中身も、ひと味違った感じです。
 「被災した街の復興には、広場の機能が不可欠だと言われている」という文章に始まる「編集後記」も、心に沁みるものでした。

 この『賢治学』は、そのような「広場」の機能を果たすものとして、これから毎年1冊ずつ刊行される予定だということで、巻末には「投稿規定」も掲載されています。
 大学というものをめぐる昨今の情勢から、岩手大学宮澤賢治センターの運営にもいろいろとご苦労があったということですが、この『賢治学』が、「…そこへ夜行って歌へば、またそこで風を吸へばもう元気がついて…」という広場へと発展していくことを、お祈りしたいと思います。

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2014年5月18日 何をやっても間に合はない

 もう少し前のことですが、現代美術家で「きのこライター」でもある @H_Fukumoto さんが、「賢治にはきのこ栽培に関する詩もある」というツイート(下記)をしておられたので、その詩とはどれのことですか、とお尋ねしました。

 すると @H_Fukumoto さんは、『春と修羅 第三集』の「〔何をやっても間に合はない〕」だと、即座に教えて下さいました。
 作品本文を確認してみましょう。下記が、その全文です。

一〇九〇
               一九二七、八、二〇、

何をやっても間に合はない
そのありふれた仲間のひとり
雑誌を読んで兎を飼って
巣箱もみんなじぶんでこさえ
木小屋ののきに二十ちかくもならべれば
その眼がみんなうるんで赤く
こっちの手からさゝげも喰へば
めじろみたいに啼きもする
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
カタログを見てしるしをつけて
グラヂオラスを郵便でとり
めうがばたけと椿のまへに
名札をつけて植え込めば
大きな花がぎらぎら咲いて
年寄りたちは勿体ながり
通りかゝりのみんなもほめる
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
マッシュルームの胞子を買って
納屋をすっかり片付けて
小麦の藁で堆肥もつくり
寒暖計もぶらさげて
毎日水をそゝいでゐれば
まもなく白いシャムピニオンは
次から次と顔を出す
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
べっかうゴムの長靴もはき
オリーヴいろの縮みのシャツも買って着る
頬もあかるく髪もちゞれてうつくしく
そのかはりには
何をやっても間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
その(約五字空白)仲間のひとり

 私はあまり意識していなかったのですが、確かにここには、マッシュルームの栽培法が具体的に記されていますね。まず胞子を買って、納屋で小麦藁の堆肥にその胞子を播き、寒暖計で温度管理をしながら毎日水を注いでやれば、「まもなく白いシャムピニオンは/次から次と顔を出す」というわけです。これは栽培方法に関して、まさに簡にして要を得た記載です。
 @H_Fukumoto さんによれば、現代ならばマッシュルームの栽培は、「木やおがくずに菌糸を巡らせ済みのものを使うことが多い」とのことで、ここに書かれているように胞子から播くという方法を目にして、「時代を感じた」ということでした。

 そして次に @H_Fukumoto さんは、当時まだ日本で初めて栽培に成功してから間もないマッシュルームが、どのようにして岩手で栽培されるようになったのかということに、思いを馳せられます。

 上記ツイートに見るように、日本で初めてマッシュルーム栽培を行ったのは、森本彦三郎という人だったんですね。「千葉菌類談話会」による「千葉菌類談話会通信No.10」の記事を見ると、森本氏がアメリカでマッシュルーム栽培に成功したのは1912年ということで、上で指摘されているとおり、1927年に賢治が「〔何をやっても間に合はない〕」を書いた時点から15年前になります。さらにこの記事によれば、森本氏が日本で初めてマッシュルーム栽培を行ったのは、1921年(大正10年)に帰国して京都に農場を開いてからということですから、賢治の詩までは、あと6年しかありません。
 これは確かに、6年間の内にいったいどうやって東北岩手まで栽培法が広まったんだろうという疑問が起こります。いろいろ興味が湧いてきたので、調べてみることにしました。

 (なお、明治期にシイタケの人工栽培に成功した田中長嶺という人が、1891年に「新宿御苑での欧州産マッシュルームの栽培を手がけ、大きな成果を上げました」との記載が、愛知県西尾市による紹介ページにあります。これは、上記の森本彦三郎氏の栽培よりも前のことですが、この時点ではまだマッシュルーム栽培を実用化・普及させるまでには至らなかった、ということかと思います。)

 あれこれネットで調べつつ、例によって「国会図書館近代デジタルライブラリー」でマッシュルームの栽培について記した古い本を検索してみると、この当時のものもいくつか見つかりました。
  1927年以前に刊行されていた本としては、下の二つがありました。

『儲かる食用蕈の栽培法』    『莫大の利益ある茸類の栽培法』

 左の『儲かる食用蕈の栽培法』は1922年刊行、右の『莫大の利益ある茸類の栽培法』は1925年刊行ですから、いずれも「〔何をやっても間に合はない〕」より前のものです。そして、どちらの本にも当時の帝国図書館の「蔵書印」(前者には大正11年8月1日付、後者には大正14年10月21日付)が押されています。
 ということは、これらの本は賢治が1926年(大正15年)12月に上京して帝国図書館に通った時に、もしもその気になれば閲覧することが可能だったものです。そして内容的にも、どちらの本においても賢治作品と同じように、マッシュルームを胞子から育てる方法が説明されています。

 つまり、賢治が上京時にこういった本を帝国図書館で閲覧して、マッシュルームの栽培方法を新知識として吸収し、花巻に戻ってそれを農家の人々に伝えたということも、理論的には可能なわけです。しかしここで、これらの本の性格も含めてその内容をもう少し吟味してみると、それはちょっと違うのではないかという感じがしてきました。

 これらの本のタイトルは、『儲かる食用蕈の栽培法』『莫大の利益ある茸類の栽培法』というものであり、その性格は新たな知識や技術を客観的に記述した専門書ではなくて、「何か儲かる事業をやってみたい」と思っている一般農家の人々をターゲットにして、かなり戦略的に出版されたものだと言えます。
 内容を見ても、マッシュルーム栽培が他の仕事の片手間にもできる簡単なものであることを強調しつつ、また欧米ではマッシュルームが非常に多く食べられていて、もし今後日本でもこの食材が普及すれば、少ない労力で相当な利益が得られることが期待されるということを、重点的に宣伝しています。
 1922年や1925年の時点で、このように一般向けの「実利的」な本が出ているということは、このような情報は何も賢治が東京で調べてこなくても、1927年に岩手県の一般農家に普及していたとして、別に不思議はないのではないでしょうか。
 現に作品においては、マッシュルームの前に登場する「兎」に関しては「雑誌を読んで」と、また「グラヂオラス」に関しては「カタログを見て」と、直接の情報源が記されています。

 そう思って、「マッシュルーム + 栽培」というキーワードで国会図書館所蔵の当時の「雑誌」を検索してみると、『農業世界』の1926年1月号、1927年の5月号、8月号、9月号、11月号、1928年の11月号、『婦人之友』の1929年9月号などがヒットします。
 中でも1927年には、年に4号もの『農業世界』誌において、マッシュルーム栽培が取り上げられているわけで、その記事名を順に挙げてみると、「孵化室利用 マツシユルームの作り方」「趣味實用のマツシュルーム栽培法(一)」「趣味實用 マツシュルーム栽培法(二)」「マツシユルームの栽培日誌」という具合です。
 考えてみれば、この1927年とはまさに、「〔何をやっても間に合はない〕」が書かれた年であり、ひょっとしてこの年には全国の農家の間で、何か「マッシュルーム栽培ブーム」というようなものがあったのだろうか、という感じさえしてきます。

 ここでそのうちの一冊、『農業世界』1927年5月号の「目次」を見てみると、それは以下のようなものでした。

『農業世界』22巻6号
  時の流れと農村文化 / 佐藤昌介/18
  農村圖書館の經營 / 坪谷善四郎/20
  自作農創定維持に就て(三) / ?永孝一/23
  現代史上の農民天下(二) / 淺田江村/26
  小農と共同經營 / 草間耕生/31
  青年論壇 / 愛讀者/35
  草苺の繁殖法と定植 //39
  花束の拵へ方 / 宮川紫外/40
  飼育簡易な兎の柵飼法 / 田中正實/44
  牝豚去勢法の研究 / 北村健之助/47
  養蠶撒土箱飼の實際 / 三宅康/51
  果樹病蟲害豫防驅除上の注意 / 本條正直/55
  稻作の改良法と増收法 //60
  芽挿繁殖 皐月苗の作り方 / 宮川紫外/77
  孵化室利用 マツシユルームの作り方 / 坪根吾市/80
  家兎の屠殺から製革までの方法(一) / 山崎光美/84
  趣味副業『カナリヤ』の飼ひ方 / 中村八郎/91
  圖解説明『おもと』栽培一覽(附表) / 大山毅 /
  野鼠の驅除法に就て / 岩山新二/111
  高級園藝の實地經營者へ / 長田傳/117
  食用蛙とその飼ひ方(一) / 森谷吉五郎/121
  日本の温室臺灣を訪ふ(二) / 高園校旅行班/131
  山下博士の養豚法 / 田中鯉二/136
  肥料常識 我輩は過燐酸石灰である / 山川尚農/138
  田園文學の提唱を讀みて / 笠松芙蓉/140
  農業上から觀た 偉人熊澤蕃山 / 今村猛雄/143
  納税常識 どんな場合に相續税がかゝるか / 福田喜代松/148
  土洗ひの日(村を訪ねて) / 山中省二/156
  鐘は響く(田園美談) / 野本守人/160
  本誌廣告料金の改正に就て //110
  農業世界代理部の開設に就て //110
  農業世界代理部々報 //176

 この号の巻頭言を書いているのが、花巻出身で北海道帝国大学の初代総長を務めている佐藤昌介であるというのも、これは何かの縁ですね。賢治はこの3年前に花巻農学校の修学旅行を引率して札幌を訪れ、佐藤昌介総長に面会しています。
 さらに一覧を見ると、44ページに「飼育簡易な兎の柵飼法」が、80ページに「孵化室利用 マツシユルームの作り方」が、84ページに「家兎の屠殺から製革までの方法(一) 」が掲載されていて、「〔何をやっても間に合はない〕」に登場する「兎」と「マッシュルーム」とが、ここに一緒に顔を揃えているのも、単に偶然と思えない組み合わせです。
 そもそも賢治の作品においても、「雑誌を読んで兎を飼って…」と書かれていましたし、この号の発行時期は「〔何をやっても間に合はない〕」の3ヵ月前と時期的にも近く、花巻の大先輩たる佐藤昌介博士の文章も掲載されているとなると、作品に出てくる農家の主は、何らかの縁でこの『農業世界』5月号を読んでいたのではないか…という気さえしてきます。

 ところで、この『農業世界』という雑誌は、明治32年から昭和43年まで刊行された農業関係のメジャーな月刊誌だったのですが、この号の充実した目次の中で、「稲作」あるいは「米」について扱った記事としては、60ページの「稻作の改良法と増收法」ただ一つだけというのは、何か不思議な感じです。私ども一般人というのは、何はともあれ稲作こそが農業の中心であり、農家にとっても主要な関心事なのではないかと思い込んでいる部分があります。
 ところが、この目次に登場する作物や動物といえば、「草苺」「花束」「兎」「豚」「養蠶(蚕)」「果樹」「皐月」「マッシュルーム」「カナリヤ」「おもと」「高級園芸」「食用蛙」・・・であって、これらは軒並みいわゆる農家の「副業」に関する記事ではありませんか。
 これはいったいどういうことなんだろう、当時の農業に何か起こっていたのだろうかと思って、今度はこの頃の農業情勢について、調べてみました。

『農村振興に関する一考察』 大正時代の農村の窮状がどのようなものであったか、たとえば貴族院議員で理化学研究所の第三代所長であった大河内正敏氏が、1924年(大正13年)に刊行した『農村振興に関する一考察』においては、その状況は次のように記されています。

 中産階級の農家に到りては勿論更に悲惨のものであつて、不幸にして段々産を失ひつゝあるものと見るが至當である。即ち自作農の多くは其生活を支ふるに由なく、一部の所有地を賣つて僅かに當面の急に具へ、自作兼小作農となり遂に自己所有の耕地全部を失ひ盡して、純然たる小作となり終るのである。政府が必死となつて自作農の奨励を計画しつゝある一方に、自作農は反つて小作農に落ちて行くのである。例へば内務省の統計によれば明治四十三年には全国農家の総戸数の三割三分四厘が自作農であつたものが、大正六年には、三割一分六厘に減少し、其反対に自作兼小作と小作農とが増へて居る。

 つまり、自作農が経済的に困窮して、どんどん小作農へと転落していく状況にあったのです。
『農村副業講座』 また、1926年(大正15年)刊行の『農村副業講座』の「発刊の趣旨」は、こう書き出されています。

 今や全く農村は疲弊困憊の極に達してゐる、青年男女は争ふて都會へ、都會へと集中して田園に残りて田畑を耕す者は、老人か子供、又は頭のなき馬鹿扱を受くる青年男女のみ、僅に残る相続者の農業を営むものは非常なる結婚難に襲はれ、昔日は農村男女は二十歳前後にて早婚といはれる迄に婚姻は容易なりしも現在は如何、さなきだに虚栄心の強き女は百姓はしたくない、農家の嫁は眞平だ、たとえ九尺二間の裏店に住む男でも都會の人でさえあれば喜んで行く、かくして農村の處女は農村青年の純潔なる手より逃れて、虚偽多き都會の男の胸に抱かれて行くのである。
 確乎たる信念を以つて、農村に働ける青年も三十近くなつても家庭を作る能はず、悶々として日を送りやがては我れも都會へとて農村を捨ててあこがれの都へと進んで行く状態である。
 嗚呼、農村をこのまゝに放任せんか、其の極遂に破滅あるのみ、農村の興廢は国家の興隆に關する重大問題なり。

 上の文章を読むと、「さなきだに虚栄心の強き女は…」とか「かくして農村の處女は農村青年の純潔なる手より逃れて、虚偽多き都會の男の胸に抱かれて行く…」というところなど、あまりに描写が具体的すぎて、ひょっとしてここには何だか著者の個人的な思い入れが込められているのではないかと感じられるほどですが、いずれにせよ、大正期の農村は、非常な窮状にあったのです。

 このような農村の危機に対して、当時の政府は、農家の「副業」を奨励して収入を得させることで、何とか打開を図ろうとします。
 上の『農村副業講座』によれば、それは次のように説明されています。

 近時農村に對し副業を奨励せらるゝことが盛んとなり、政府は大正十四年度に於て農村振興の経費として三十四萬円を此の方面に仕向け農林省に於ても農務局に副業課を再興して、専ら副業の奨励に當らしむることとなつて來た。

 すなわち政府は、1925年(大正14年)に「副業奨励金交付ニ關スル規則」を公布し、農家が副業を興すために様々な形で奨励金を交付することとし、例えば「副業ニ關スル参考品並副業用種苗及器具機械ノ購入及配付」に際しても、産業組合あるいは法人は、国から奨励金を受け取ることができるようになったのです。
 このような政策誘導によって、農家の副業となるような物を扱う業界に、かなりのお金が流れ込んでくることになったのは、想像に難くありません。
 ここでご紹介した『農村副業講座』という本からして、下のように養蜂業者や球根販売業者の広告が入っていて、何かよい副業はないかと探している農家や関係者に、誘いをかけています。

 養蜂広告   球根広告

 そして、この本の目次を見ると、コンニャク、輸出向け生姜、球根花卉、テッポウユリ、除虫菊、養鯉など21種もの副業が並べられているのですが、その冒頭を飾っているのが「シャンピニオンの栽培」、13番目に登場するのが「養兎の副業経営法」なのです。
 また、「有利有望なる球根花卉栽培法に付いて」の章を見ると、栽培を推奨する花の種類については、次のように書かれています。

 農家の副業として栽培し易く且つ蕃殖率の強く然も世人の嗜好に適し需要多大にして目下我が國の園藝界に最も多く取引せらるゝもの左の如し。
 チユリツプ、ヒヤシンス、アネモネ、ナーツシサス、クロツカス、イキシヤ、花百合、グラジオラス、アイリス、フリージヤ、斑入カラ、アマリリス、スバラキシス、ダリヤ、リウゴンシス、水仙、シクラメン等。
 以上の中最も多く取引せらるゝものはダーリヤ、チユリツプ、グラジオラスを第一とす。(強調は引用者)

 すなわち、この頃に「グラジオラス」は、農家の副業として有望とされる球根花卉の、三大品種の一つだったわけです。

 これでやっと、賢治の「〔何をやっても間に合はない〕」に登場する、兎、グラヂオラス、マッシュルームの三者が、出揃いました。
 すなわち、賢治がこの詩を書いた当時において、この三つの品目は、生活の苦しい農家が少しでも収入を増やそうと取り組んでいた副業の、典型的な対象だったわけです。賢治が言うところの「ありふれた仲間」は、何とか暮らしを楽にできないかという望みを託し、これら農村副業の典型的事業に、手を出してみたというわけです。

 しかし賢治は、作品の中でこれらを一つ一つ具体的に描写しては、そのどれに対しても、「さうしてそれも間に合はない」「何をやっても間に合はない」と、絶望的な答を出します。
 賢治の目に映っていた農村の状況は、いったいどんなものだったのでしょうか。

 その現実は、賢治自身の作品や、その他の様々な資料によって推し量ることができるでしょうが、とくに「農家副業」という分野の実情について、その一端を垣間見せてくれると思われる資料が目に付きました。
 1930年(昭和5年)11月29日付「大阪朝日新聞」の論説の一部を、下に引用してみます。

儲からぬ農家副業  (財界六感)

農村疲弊の対策として、盛んに副業が奨励されたものだ。そして今度の米繭の暴落に際會しても、他の副業収入によつてその苦痛を緩和し得たものがないではない。
                    ◇
しかし全國的にこれを通視すれば、當局の熱心なる奨励指導に拘らず、副業に失敗して却って苦しんでゐるものゝ方が遙かに多い。これは要するに、その指導奨励なるものが技術的方面にのみ限られ、副業品の販路すなわち市場関係の研究に缺くるところがあつたからである。
                    ◇
何々が有利だとなると、吾れも吾れもと同じ副業に手を伸ばす、そして當局者は、たゞ統計報告書において、その産額の殖えたことを無上の誇りとし、その製品が賣れやうと賣れまいと殆ど風馬牛の感がある。だから無謀な販賣競争が始まり、結局共倒れとなつて、注ぎ込んだ金の回収すら出來ずに借金の上塗りをするのが落ちである。
                    ◇
大體において、副業品の價格は、商人殊に仲買人の言ひなり次第だといつてよい。従つて仲買人の口銭なるものは、常に農民の肥料代、原料代、手間賃等を侵蝕することによつて高められてゐる。生産費を割つた副業の永續せぬのは当然すぎるほどの当然ではないか。
                    ◇
しかしそれといふのも、元を質せば、農家の資力が薄弱で、仲買人の付け値に對し、頑張り通し得ないことゝ、さらに農民が市場の情勢に盲目で、副業を有利に傾向づけるポイントを摘み得ないことゝが、その主因をなしてゐる。だからドゞの詰りは、矢張り農民自身が財的にも智的にもその地位を高めることに成功するより外に途はなく、さもなくば副業が却つて農家の重荷であるという状態から、容易に脱することは出來まいと思はれる。
                    ◇
共同販賣や共同調査等の組織が漸次改善されつゝあるとはいふものゝ、全体を通じて見れば、まだ遺憾の点が夥しくある。殊に資力に薄い農民が、蔬菜類や果實類を市街地に売歩いてゐるのをよく見受けるが、彼等は、帰りがけには必ず賣れ残りを殆ど只同様に捨賣りするのが例である。そのために、その次ぎからは、その捨賣値でなければ売れず、自ら好んで墓穴を掘るの愚を敢てしてゐる。
(以下略)

 厳しく悲観的な指摘ですが、実際にはこれが、政府の副業奨励策の結果だったのかもしれません。最後の部分などは、羅須地人協会時代の賢治が、球根花卉をリヤカーに積んで町へ売りに行き、売れ残った花を無料で配っていたというエピソードも、連想させます。
 賢治自身、何とかして農民の暮らしを改善しようといろいろ考えたでしょうし、自らも試行錯誤を行いました。そして、「ポラーノの広場」の終章では、ファゼーロたちの産業組合が、ハムや皮製品や醋酸やオートミール製造などの副業経営において、成功している様子が描かれています。

 しかし現実の賢治が、近所の農家が懸命に兎やグラジオラスやマッシュルームを育てている様子を見た上で、結局その口から漏れた言葉が「何をやっても間に合はない」だったとすれば、それはとても辛いことです。
 賢治もさぞ、辛かったことでしょう。

大阪朝日新聞1930年11月29日「財界六感」
「大阪朝日新聞」1930年11月29日「財界六感」

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
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2014年4月24日 ヴェッサンタラ王の布施

 去る4月20日に行われた「宮沢賢治学会京都セミナー2014」は、この種の地方セミナーとしてはかなり多い113名もの方々がご参集下さり、熱気にあふれた会となりました。
 はるばる遠方から、あるいは地元京都からお越しいただいた皆様に、あらためて御礼申し上げます。

◇          ◇

 セミナーの演目中、君野隆久さんは「宮沢賢治とジャータカ」と題した講演において、「ジャータカ(本生譚)」と称される一群の仏教説話が、いかに賢治の作品に影響を与えたかということを、具体的な例を挙げながらわかりやすく説き明かして下さいました。

君野隆久氏講演「宮沢賢治とジャータカ」

 「宮沢賢治とジャータカ」などというタイトルを見ると、何となく超マニアックなお話なのかなと思って、はたして私自身の興味がついて行けるかと事前に心配していたのですが、実際にお聴きしてみると、これはある一つの角度から賢治の精神性の本質にも迫る非常に面白いお話で、君野さんの賢治に対する思いも、そこここに垣間見えました。

 「ジャータカ」とは、釈迦の前世(過去世)における様々な伝説を集めた説話集、あるいはその個々の説話のことだそうですが、賢治は「手紙 一」や「学者アラムハラドの見た着物」においては有名なジャータカを再話あるいは引用し、「オツベルと象」や「四又の百合」においてはジャータカの中のモチーフ(白象、供花など)を作品に生かし、さらに「二十六夜」においては、新たなジャータカを創作しようとしたのだということです。

 様々なジャータカを読んでいたと推測される賢治ですが、中でも特に強い関心を抱いていたと思われるのが、「ヴェッサンタラ王」という特異な人物が登場する説話です。賢治はこの「ヴェッサンタラ・ジャータカ」の一部を、1918年(大正7年)12月の保阪嘉内あて書簡94において引用し、1923年(大正12年)頃の執筆とされる童話「学者アラムハラドの見た着物」においても引用し、1927年の日付を持つ詩「ドラビダ風」においても引用しているのです。

 賢治がどのようにしてこの「ヴェッサンタラ・ジャータカ」を知ったのかという問題について、伊藤雅子氏は、1918年(大正7年)6月15日に発行された『国訳大蔵経』第十三帙に収められている「ヱ゛ッサンタラ所行品」で読んだのではないかと推定しておられますが(宮沢賢治研究Annual Vol.14所収「ベッサンタラ王渉典」,2004)、その原典の伊藤雅子氏による要約は、以下のとおりです。

 ヱ゛ッサンタラの父母はヂェーツッタラの都で結ばれた。母が布施のための巡行を終えて、吠舎種の街路の中央に来た時に出産したためヱ゛ッサンタラと名づけられた。八才のとき乞う者の願いに従って何物をも、たとえ我が身であろうとも、求められれば与えようと考えた。彼が自分の身体に思いをいたしたとき大地が震え動いた。月に三回布施した。
 あるときカーリンガ国の婆羅門が来て、雨が降らず大飢饉になったので吉徳ある白象を下さいと願った。あえて布施行を貫くために与えた。そのとき大地が震えた。シヰ゛国民は怒ってワ゛ンカの山へ入れと言った。都を去るときシヰ゛人に耳鼓を打たせて大施を行い、象・馬・車・奴・婢・牛・財を施した。大地が震えた。
 赤蓮・白蓮のようにマッヂー妃は娘カンハーヂナー(妹)を抱き、ヱ゛ッサンタラは息子ヂャーリー(兄)を金像のように携えた。森林を通りかかったとき子らが高い木になる果実を見て泣くと、その木が自ら曲がって近づくという不可思議が起きた。
 ワ゛ンカ山の林中で茅舎に住み果実を拾って暮らした。旅の婆羅門が二子を与えよと乞うたので、喜んで与えたところ、大地が震えた。次に帝釈天が婆羅門に姿を変えて妃を求めたので喜んで与えた。大地が震えた。ひたすら一切智を求めるために愛する妻子をも与えたのであった。
 のちにヱ゛ッサンタラが父母と再会したとき大地が震えた。親族とともに林を去りヂェーツッタラに戻ったとき、天より七宝が降り大雨が注ぎ大地が震えた。ヱ゛ッサンタラの施与の力によって計七回大地が震えた。(伊藤雅子「ベッサンタラ王渉典」より)

 そして以下には、賢治によるこのジャータカの引用を、順に挙げてみます。
 まず、1918年(大正7年)12月の、保阪嘉内あて書簡94より。

ベッサンタラ王が施しをした為に民の怒りを買ひ王宮を逐はれ二人の子をつれて妃と山へ入りました。密林の中には多くの果実が実り子等はこれを求めて泣き叫びました。
木は自ら枝を垂れ下して果実を与へました。身毛為に堅つべきこの現象よ。これは王の過去に積んだ徳行によるのでせう。

 次に、「学者アラムハラドの見た着物」より。アラムハラドが子供たちに教え聞かせているところです。

 「あの木は高くてとゞかない。私どもはその実をとることができないのだ。けれどもおまへたちは名高いヴェーッサンタラ大王のはなしを知ってゐるだらう。ヴェーッサンタラ大王は檀波羅蜜の行と云ってほしいと云はれるものは何でもやった。宝石でも着物でも喰べ物でもそのほか家でもけらいでも何でもみんな乞はれるまゝに施された。そしておしまひたうたう国の宝の白い象をもお与へなされたのだ。けらいや人民ははじめは堪えてゐたけれどもついには国も亡びさうになったので大王を山へ追ひ申したのだ。大王はお后と王子王女とただ四人で山へ行かれた。大きな林にはいったとき王子立ちは林の中の高い樹の実を見てああほしいなあと云はれたのだ。そのとき大王の徳には林の樹も又感じてゐた。樹の枝はみは生物のやうに垂れてその美しい果物を王子たちに奉った。
 これを見たものみな身の毛もよだち大地も感じて三べんふるえたと云ふのだ。いま私らはこの実をとることができない。けれどももしヴェッサンタラ大王のやうに大へんに徳のある人ならばそしてその人がひどく飢えてゐるならば木の枝はやっぱりひとりでに垂れて来るにちがひない。それどころでない、その人は樹をちょっと見あげてよろこんだだけでもう食べたとおんなじことになるのだ。」

 そして、「ドラビダ風」(詩ノート)より。

(前略)
風は白い砂を吹く吹く
もういくつの小さな砂丘が
畑のなかにできたことか
汗と戦慄
牛糞に集るものは
迦須弥から来た緑青いろの蠅である
   ヴェッサンタラ王婆羅門に王子を施したとき
   紺いろをした山の稜さへふるえたのだ
右へまはれ
左へまはれ
汗も酸えて風が吹く吹く
   もし摩尼の珠を得たらば
   まづすべての耕者と工作者から
   日に二時間の負ひ目を買はう

 伊藤雅子氏が挙げた『国訳大蔵経』第十三帙は、1918年(大正7年)6月15日に刊行されているので、時期的に見ても、1918年(大正7年)12月の保阪嘉内あて書簡94には間に合います。また、賢治が書簡中で「身毛為に堅つべき」と表現している箇所が、『国訳大蔵経』では「身毛ために堅起すべき哉」と記されているなど、その表現の類似からも、賢治がこれを読んでいた可能性は高そうです。
 ただ、賢治は「ベッサンタラ王」「ヴェーッサンタラ大王」「ヴェッサンタラ王」と、いずれの引用においても「王」または「大王」の称号を付けているのに、上に引用したように『国訳大蔵経』第十三帙においては、このような称号はなく「ヱ゛ッサンタラ」とのみ記されているのが、両者の大きな違いです。
 これについて伊藤雅子氏は、賢治はさらに1918年(大正7年)2月28日に発行された『国訳大蔵経』第十二帙に収められている「国訳弥蘭陀(ミリンダ)王問経」の記述が念頭にあったのだろうと推測しておられます。すなわち、この経典中では、「吠三多羅(ヱ゛ーツサンタラ)大王」「吠三多羅(ヱ゛ーツサンタラ)王」として、「大王」や「王」の称号を伴って登場するのです。
 ところで、この「国訳弥蘭陀(ミリンダ)王問経」の中の「吠三多羅(ヱ゛ーツサンタラ)王の布施に就て」という文章において、王が二人の子供を布施してしまう箇所の記述があまりに印象的ですので、伊藤雅子氏の要約を下記に引用させていただきます。

 菩薩(=ヴェッサンタラ王:引用者注)はあえて最愛の子らを婆羅門に奴僕として布施した。子らは縄で黒あざができるほどきつく縛られてひきずられていった。子が縄を解いて戻ってきたとき、再び縛って婆羅門に与えた。子らが泣いて「お父さま、此鬼が私共を喰ひに連れ去ります」と叫んだのを、「怖はがりなさるな」と言って慰めた。王子闇梨(ヂャーリ)が父の足下に打ち倒れ「お父さま、〔我が妹〕カンハーギナーだけは許して下さい、私が彼の鬼と一緒に参ります、私は彼に喰べられませう」と嘆願しても、婆羅門の求めが二子であったために許すことができなかった。(伊藤雅子「ベッサンタラ王渉典」より)

 ここで、「〔我が妹〕カンハーギナーだけは許して下さい、私が彼の鬼と一緒に参ります」と兄のヂャーリが言うところを読むと、賢治の童話「ひかりの素足」において、鬼の鞭に打たれる弟をかばって兄の一郎が言った、「楢夫は許して下さい、楢夫は許して下さい」という言葉を、私は思い起こさずにはいられません。

◇          ◇

君野隆久氏講演「宮沢賢治とジャータカ」

 さて、君野隆久氏はこの講演において、(1)なぜ賢治はヴェッサンタラ・ジャータカに惹かれたのか、(2)どんな資料によって、このジャータカを知り得たのか、という二つの疑問を提出されました。
 このうち(2)については、上に引用させていただいたように、伊藤雅子氏が一つの(かなり確からしそうな)説を提唱しておられます。
 今日はここで(1)について、すなわち「なぜ賢治はヴェッサンタラ・ジャータカに惹かれたのか」という問題に関して、私なりの考えを記してみたいと思います。

 このヴェッサンタラ王の話において、読む者に最も強い印象を与えるのは、やはり王が最愛の子供2人と妻を、人の求めに応じて「布施」してしまうところです。王が様々な財宝を人に施したという話など、たとえそれが国の宝と言われる白象であったとしても、「肉親を捨てる」というこの衝撃的な布施の前では、全くかすんでしまいます。
 一方、様々なジャータカの中には、いわゆる「捨身」=自己犠牲の説話も、たくさん出てきます。自分の皮を猟師に与え、自分の肉を虫たちに与えたという竜の話もそうですし、あの「捨身飼虎」の話もそうです。賢治は、もちろんこの種の自己犠牲の話にも偏愛を示し、上記の竜のジャータカは「手紙 一」として翻案していますし、「我が身を犠牲にして人を助ける」という話は、種々の童話に登場します。
 これらに比してヴェッサンタラ王の話の特異性は、「我が身」ではなく、ある意味で「我が身以上に大切な」子供や妻を、他人のために与えてしまうところです。ある人々は、これを「冷酷非情な行い」と感じるでしょうが、真の家族の情愛を知る者にとっては、これは恐ろしいほどに深く強靱な、「喜捨の心」とも受け取れます。

 そして、家族愛の深い家庭に育った賢治にとっても、やはりこれは我が身を捧げる布施以上に、衝撃的な話だったのではないでしょうか。
 父母+兄+妹という家族構成は、ある時期までの宮澤家と同じであり、父は自ら病気になってまで息子を看病するほどの人であり、母もまたこの上なく優しい人であったと言われています。そして、兄と妹の仲の良さも、皆様ご存じのとおりです。
 賢治にとっての「家族」がこのようなものであってみれば、その父親が自分たちいたいけない子供を、他人の求めに応じて、奴婢として与えてしまうという行動が意味するところは、身を切るほどに痛く、ありありと感じられたことでしょう。
 これは確かに、賢治がヴェッサンタラ・ジャータカに強い感銘を受けた理由の一部を構成しているでしょう。

 しかし、賢治が生涯にわたってこの説話を三度も引用した理由について、このように解釈してみただけでは、何かとても皮相にとどまっている感を禁じ得ません。
 賢治がヴェッサンタラ王の行いに惹かれた背景には、何かもっと深いものが潜んでいるのではないでしょうか。

 これについてより深く考えてみるためには、上記のように賢治がもう一方では、「捨身=自己犠牲」というテーマにも非常に強く惹かれていた、その背景にある要因を見てみることが、参考になるでしょう。
 賢治が、「自己犠牲」をモチーフとして様々な作品を書いた理由は、「我が身を捨ててまで他者を助ける」という行為が、それだけ強固な利他心を、直截に表現しているからでもあるでしょう。しかし、このような単純な見方にとどまらず、その奥にある心理を想定してみることもできます。
 それは、「賢治は、(他者を助けるという)その行為自体の目的とは別に、とにかく我が身を捨てたいという衝動を、心の奥底に抱えていた」という、深層心理学的解釈です。

 見田宗介氏は、『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』において、賢治には「存在の罪」というようなやむにやまれぬ意識があって、この「罪」を消滅させるために、「我が身を焼き尽くす」という「焼身幻想」を抱いていたと、分析しています。そしてこの「焼身幻想」が「自己犠牲」と結びつくことによって、一つの「合理化」がなされ、「捨身」は単に自己満足のためになされるのではなく、「他者のために」なされるという意味が付与されるのです。
 この立場から見れば、「よだかの星」も、「蠍の火」の話も、あるいは「グスコーブドリの伝記」も、そのような形で「合理化された焼身幻想」であるという側面を持ちます。

 これを同様に敷衍すれば、ヴェッサンタラ王が我が子を布施してしまうという話に賢治が惹かれているその背後の闇には、「実は賢治は、父親から放逐されたいという無意識的な願望を抱いていた」という仮定を、置いてみることができます。
 私がこういうことを考えてみる理由は、1918年(大正7年)当時の賢治という若者は、家父長たる父親が、その人格的・社会的偉大さと、「イエ」の論理と、家族に対する深い愛情によって、完璧に作り上げた「牢獄」の中に、まさに囚われの身になっていたと感じるからです。

 もともと商人には学問は必要ないということで、中学までしか行かせてもらえなかったところを、父親の特別の「慈悲」によって高等農林学校に進学させてもらい、晴れてその学校を卒業したからには、長男として家業を継ぐという宿命からは、もはや何をやっても逃れることはできず、しかしどうしてもその家業には嫌悪感しか抱けないという状況に、当時の賢治はありました。
 それまでの賢治は、東京で起業をしたいとか、アメリカに行きたいとか、いろいろなことを言って逃げ道を模索してきましたが、どれも父親によって、赤子の手をひねるように却下されてしまいます。

 そして1918年(大正7年)2月になると賢治は、自分は徴兵検査を受けてシベリアに行くのだと言い出します。当時、第一次世界大戦は終結していましたが、ちょうどロシア革命の混乱に乗じて日本もシベリア出兵を準備している時期で、そうなると東北地方の第八師団などは、出征する可能性も高かったのです。
 父親は息子の身を案じて、高等農林学校の研究生ということにして徴兵検査を延期するよう強く勧めますが、賢治は言うことを聞きません。父の勧めに反抗して、徴兵を忌避することは「放縦なる心」「懈怠の心」を生むと主張したり、愛国心の大切さを述べたりもしますが、なぜ今すぐに検査を受けなければならないのか、賢治が持ち出す理屈には、あまり説得力はありません。

 結局さすがの父も、息子のあまりの強引さに押し切られ、賢治は1918年(大正7年)4月に、晴れて徴兵検査を受けました。しかし結果は、「体格や能力が劣る」という「第二乙種」となり、当面は賢治が徴兵される可能性は消滅します。
 つまり、「兵役によって家業から逃れる」という賢治の作戦は、失敗に終わったのです。きっと彼にとって、我が身が囚われている牢獄の塀は、一段と高くなったように感じられたことでしょう。

 そこに1918年(大正7年)6月、『国訳大蔵経』第十三帙が出版され、おそらく賢治はその中で、仲の良い家族の絆を断ち切り、愛する我が子を他人のもとへ「布施」してしまうという、衝撃的なヴェッサンタラ王の話を読んだのです。
 賢治から見れば、もしも自分の父親がヴェッサンタラ王と同じ行為をしてくれたならば、それは三者それぞれにとって、「一石三鳥」の結果を生みます。
 その「鳥」の一羽目は、布施をされる相手にとっての直接的利益。二羽目は、そのような尊い犠牲を払うことが父親にとっての善根となるという功徳。そして三羽目は、賢治にとって家という牢獄から解放されるという運命の転換。

 賢治は、このヴェッサンタラ王の行跡を読んだ時に、あのお気に入りの「捨身」の説話が醸し出す、一種の甘美さにも似た言い知れぬ魅力を、どこかに一抹感じたのではないかと、私は秘かに思っているのです。

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2014年4月17日 4月20日は京都造形芸術大へ

 2週間ほど前から体調を崩してしまって、こりゃあ4月20日の講演はどうなるのだろうとやきもきしていたのですが、今日あたりは何とか回復して胸をなでおろしているところです。(^^;)ゞ
 さて、今度の日曜4月20日に京都造形芸術大学の人間館301号室で行われる「宮沢賢治学会京都セミナー《宮沢賢治 修羅の誕生》」の内容は、以前にもご案内したとおり、下記のようになっています。

  9:30 開場
10:00 挨拶 中路正恒
10:10 講演「宮沢賢治、京都に来る」 浜垣誠司
11:20 朗読と解説「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」 牛崎敏哉
13:40 講演「宮沢賢治とジャータカ」 君野隆久
15:00 講演「宮沢賢治と修羅」 中路正恒
16:10 まとめと挨拶 栗原敦

 個人的にいちばん楽しみなのは、やっぱり牛崎敏哉さんによる賢治の詩のパフォーマンスですが、午後のお二人の講演も、きっと重厚なものになるのではないでしょうか。

 会場はとても大きな教室で、まだ席に余裕はあるそうですから、賢治に関心をお持ちの方は、ぜひお越し下さい。
 kenjikyoto2014@gmail.com までメールをいただければ、参加予約をすることができます。

 私自身のスライドもだいたいできて、ぼちぼちと点検しているところです。「パワーポイントという特殊なソフトウェア」(by 古舘伊知郎さん)を使って…。

「宮沢賢治、京都に来る」1

「宮沢賢治、京都に来る」4

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2014年3月30日 なぜ往き、なぜ還って来たのか(2)

 去る3月2日に「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」が終わった後、出演者や裏方の皆さんと、それに会場を提供して下さった法然院の住職である梶田真章さんもご一緒に、近くの小さなイタリア料理店で、ささやかな「打ち上げ」を行いました。
 その席で、東日本大震災と関連して、「鎮魂」というテーマが話題になっていたのですが、この時に法然院の梶田さんがふとおっしゃった次のような言葉が、とても印象に残りました。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 これこそが、「他力」を心から信じ、全てをその「他力」に委ねるという、阿弥陀信仰の神髄なのだなあとその時は感じ入ったのですが、その後、これは宮澤賢治が妹トシの死後に、いかにしてその悲しみを乗り越えていったのかという問題とも、通ずるものがあると思いましたので、本日はそのことを少し書いてみます。
 タイトルは、もうはるか昔に書いた「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」という記事の、3年ぶりの続篇という形で、その(2)としました。

◇          ◇

 3年前のテーマは、「双子関係にある」とも言われる賢治の童話「ひかりの素足」と、「銀河鉄道の夜」とは、どこが違うのかということで、前回はこれについて考える途中で終わっていました。
 今回、二つの作品の最も大きな違いとして私が注目するのは、「死者の行方が明らかにされているか否か」、ということです。

 「ひかりの素足」では、一郎は弟の楢夫と一緒に雪山で遭難してしまい、必死で弟を守りつつも、結局は二人もろとも雪に埋まってしまいます。そして次に一郎が気がつくと、そこは「うすあかりの国」でした。一郎と楢夫は、鬼たちに鞭で追い立てられながらひどい道を歩かされますが、ここでも一郎はけなげに弟を守ります。
 そしてついに「ひかりの素足」の人が現れ、その人は弟の楢夫には「お前はもうこゝで学校に入らなければならない」と言ってその世界にとどまらせる一方、兄の一郎には「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」と言って、生の世界に送り返します。
 つまり、一郎はずっと楢夫に付き添って楢夫を守ってやり、その行き先をしっかりと見届けた上で、帰ってくるのです。

 これに対して「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラと一緒に銀河鉄道に乗りますが、最後の場面でカムパネルラはジョバンニの前から、忽然と姿を消してしまいます。

 「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲玉のやうに立ち上がりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれから咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。

 この時点でジョバンニには、カムパネルラの行方はわからず、彼が死んでしまったのだということさえ知りません。

 この上さらに輪を掛けて、川におけるカムパネルラ捜索の場面で、カムパネルラのお父さんがその打ち切りを宣言する言葉も、印象的です。

「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」

 普通の親の感覚なら、我が子がまだ生きている確率が0.1%でもあるなら、必死で捜索を続けるでしょうし、みんなにもお願いするでしょう。また、たとえ生存は絶望的な状況になったとしても、せめて遺体だけでもこの手に抱いてやりたいと思って、やはり捜索はやめないでしょう。
 以前の私は、この場面のお父さんの態度が不思議でならなかったのですが、今ではこれは、「いとしく思う者の行方がわからない」ということ、それこそがよいのであるという、賢治が苦悩の末にたどり着いた考えによるものだろうと思っています。
 すなわち、「薤露青」における、次の一節に表れている思想の具現化です。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 つまり私としては、「ひかりの素足」において、一郎が弟に必死に同伴し死後の世界での行く末まで見届けたのに対して、「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラの行方を知らず、父親も無理に捜そうとしないという大きな相違がある理由は、この間の賢治自身の「愛する死者」に対する考えの変化を、反映したものだと思うのです。

◇          ◇

 學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』に収められている「ひかりの素足」の解説において、杉浦静さんは、賢治がこの童話を書いた時期について、次のように分析しておられます。

 「ひかりの素足」は、複雑な過程を経て成立している。現存する草稿には三種の原稿用紙が混用されている。これらを仮にA・B・Cとすると、Aは22枚、Bは17枚、Cは7枚の計46枚が使用されている。最初A・Bを用いた第一形態が最後まで書かれ、その後原稿の差し替えやさまざまな筆記具を用いた手入れが行われた後、最終段階で、C原稿用紙を用いた原稿の差し替えが行われ、現存の「ひかりの素足」が成立している。
 これまでの研究でA・Bが併用されたのは、大正11年11月頃まで、Cは大正12年以降に使用されたと推定されている。賢治は「お」の字を書くとき、大正11年以前は点がすべて離れ、11年中につながり始め、12年以降はすべてつながる書体の推移も明らかにされている。「ひかりの素足」草稿では、A・Bに現れる「お」はすべて点が離れているが、Cに一例のみ、つながるものが現れている。これらから、第一形態の成立は大正11年前半頃まで、現存の最終形態の成立は大正12年頃と推定できる。

 トシが死去したのが、1922年(大正11年)11月ですから、第一形態が成立したのは、その死の年の前半だったということになります。以前に、「死ぬことの向ふ側まで」という記事に書いたように、賢治が短篇「イギリス海岸」において、もしも生徒が溺れたら、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と書き記したのは、1922年(大正11年)8月9日のことと推測され、これは「ひかりの素足」の第一形態の成立時期と、だいたい一致します。
 つまり、この頃すでに死期が近づいていた妹のことを思いながら、賢治は「イギリス海岸」を書き、さらにまさしく兄が弟に付き添い「死ぬことの向ふ側まで一緒について行」くという話である、「ひかりの素足」の第一形態を、原稿用紙に記したのです。

 そしてついに11月27日が来て、トシの臨終に立ち会った賢治は、その決死の覚悟にもかかわらず、妹とともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行って」やることはできませんでした。
 一人残された賢治は、深い悲しみに引き裂かれる一方で、死んだトシがいったいどこへ行ってしまったのかということについて、考え続けるのです。

 翌年の1923年(大正12年)夏に、賢治が北海道からサハリンを旅した背景にも、この問題について思索を突き詰めようとうする意図がありました。
 この旅行中の作品群に、賢治の思いは表現されています。

 まず「青森挽歌」では、次のように。

(前略)
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(中略)
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
(後略)

 また「オホーツク挽歌」では、次のように。

わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 さらに「噴火湾(ノクターン)」では、次のように。

駒ヶ岳駒ヶ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
    (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 このように、賢治は旅行中も、トシの行方について思い悩むことを止めることはできなかったのですが、旅行の後、おそらく1923年(大正12年)の後半に書いた「手紙 四」という短い文書において、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と、まるで自らに言い聞かせるかのように、宣言します。

 この一連の賢治の葛藤が、より昇華されて一つの安定を見るのは、さらに翌1924年(大正13年)夏のことでした。
 この年7月の「〔この森を通りぬければ〕」で賢治は、次のように書きました。

鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
   ・・・・・・それはもうさうでなくても
        誰でもおなじことなのだから
        またあたらしく考へ直すこともない・・・・・・

 で、先にも引用した、「薤露青」へと続きます。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 そして、まさにこの年の夏が、おそらく「銀河鉄道の夜」のスタートにあたるのです。入沢康夫さんは『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』(宮沢賢治記念館)において、「銀河鉄道の夜」が最初に書かれた時期について、

 《着想は一九二四年の夏で、着手はその秋》というあたりが、おそらく正しい答ではではないだろうか。

と、書いておられます。

 つまりこの「銀河鉄道の夜」という物語は、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という思想に立って書かれたのであり、それだからこそ、カムパネルラはジョバンニの前から何処へともなく突然姿を消してしまうし、その父親も我が子の捜索にこだわらないのだと思うのです。

◇          ◇

 さて、ここで冒頭に記した、浄土宗の梶田真章和尚の言葉に戻ります。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 ここで梶田さんがおっしゃっていることは、「愛しく思う者がどこへ行ってしまったかわからない」ことをそのまま受け容れて、あとは思い悩まないようにする、という賢治がたどり着いた思想に、そのままつながるものがあります。

 あるいは親鸞は、『歎異抄』の中で、自分は死んだ父母のために念仏を唱えたことは、一度もないと言っています。

     第五条
一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもて世ゝ生ゝの父母兄弟なり、いづれもいづれもこの順次生に、仏になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
                (角川ソフィア文庫『新版 歎異抄』より)

 すなわち、すべての生きとし生けるものは、長い年月の間に生まれかわり死にかわりするうちには皆が互いに父母や兄弟となるのだから、父母を救うということは、実はすべての生き物を救うということであるが、それは普通の人間にはとてもできないことである。ただ自力を捨てて、浄土に生まれ仏となった暁には、父母をはじめ縁のある者を救うこともできるのだ、というわけです。
 『歎異抄』のこの一節は、「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》として登場する命題と、途中までは同じことを言っている点が、非常に興味深いところです。後半において、親鸞は「だから現世では、自分のため以外には祈らない」という結論になるのが、賢治の場合には、たった今から「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という方向に進もうとするところが、違っています。
 しかし、血縁者だからと言って特別に祈ったり供養したりしない、というところは、親鸞の考え方と同じなのです。

 一方、賢治が熱心に信仰していた日蓮の場合には、このあたりはかなり異なっています。
 すなわち、日蓮は「十王讃歎鈔」においては、罪人が死んで閻魔大王の前に連れて来られた時、その子供が現世において「追善をなし逆謗救助の妙法を唱へ懸れば成仏する」と書き、また「上野尼御前御返事」においては、無間地獄に落ちている親のためにその息子が法華経の題目の一字を書いただけで、親が救われたという中国の話を引用して、いずれにおいても亡き親のために追善供養をすることは大切なのだと、強調しています。

 おそらくこのような日蓮の主張にも影響されて、賢治は1918年(大正7年)に親友の保阪嘉内が母親を亡くした際には、「あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい」と書き送りました(書簡75)。

此の度は御母さんをなくされまして何とも何とも御気の毒に存じます
御母さんはこの大なる心の空間の何の方向に御去りになったか私は存じません
あなたも今は御訳りにならない あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう。
あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい。
あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと日蓮大菩薩が云はれました。
あなたのお書きになる一一の経の文字は不可思議の神力を以て母親の苦を救ひもし暗い処を行かれゝば光となり若し火の中に居られゝば(あゝこの仮定は偽に違ひありませんが)水となり、或は金色三十二相を備して説法なさるのです。(後略)

 「あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう」と賢治が親友に書いた4年後に、今度は賢治の方が、自分の妹に関して「どこに行ったか至心に求める」ことになろうとは、まだこの時は思いもよらなかったでしょう。
 妹の死後、おそらく賢治は、妹のためにと念じて法華経の題目を唱え、書き写しもしたはずです。しかしそれでも、賢治の心は安まらなかったのです。

 そのような苦悩の末に賢治が自戒するようになった、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という命題や、「死者の行方を気にしない」という態度は、実は日蓮の教えとはかなり異なっていて、むしろ彼が幼年時代から親しみ、信じ、やがて青年期に捨てることになった、親鸞の教えと一致しているのです。

 ということで、ある時からは一途に法華経と日蓮を信仰していたはずの賢治ですが、その思想の内容には、複雑な重層的な要素も感じられる、というお話でした。

法然院・阿弥陀如来座像
法然院・阿弥陀如来座像

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2014年3月22日 賢治学会京都セミナー「宮沢賢治・修羅の誕生」

 来たる4月20日に、京都市左京区の京都造形芸術大学において、宮沢賢治学会の地方セミナーが、「宮沢賢治―修羅の誕生」と題して開催されます。(下のチラシ画像をクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

 京都セミナー2014・チラシ表

 京都セミナー2014・チラシ裏

宮沢賢治学会・京都セミナー2014
                《宮沢賢治―修羅の誕生》

   日時: 2014年4月20日(日) 午前10時〜午後4時
   場所: 京都造形芸術大学 人間館301教室
   内容
     講演「宮沢賢治、京都に来る」 浜垣誠司
     朗読と解説「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」 牛崎敏哉
     講演「宮沢賢治とジャータカ」 君野隆久
     講演「宮沢賢治と修羅」 中路正恒
   参加費: 500円(小学生以下無料)
   申込: kenjikyoto2014@gmail.com あてメールにて
      または
      〒606-8271 京都市左京区北白川瓜生山2-116
       京都造形芸術大学 永倉気付
       宮沢賢治学会京都セミナー実行委員会あて往復葉書にて

 実は、この2014年4月20日という日は、1924年4月20日に宮沢賢治が処女詩集『春と修羅』を関根書店から刊行してから、図らずもちょうど90周年の記念日に当たります。先月16日、京都造形芸術大学の中路正恒研究室において、京都セミナーの実行委員会のメンバーが初めて集まって打ち合わせをしている最中に、私はふとこの偶然の符合に気がついて、思わず中路さんに告げたのでした。
 今回のセミナーの日程は、当初はいったん4月19日になりかけていたのが、都合で4月20日に変更になったという経緯もあり、この記念すべき日付は、まさに「図らずも」の結果でした。この日の実行委員会では、皆でしばし「不思議なめぐり合わせ」の感慨を味わった後、中路さんの提案で「宮沢賢治―修羅の誕生」というセミナーのタイトルが、決められました。
 そうです、この言葉には、「『春と修羅』の誕生日」という意味が込められているのです。

 当日のプログラムでは、まず私が導入的に、賢治が2度にわたり京都を訪れた時の様子や、立ち寄ったと推測される場所の現状について、報告をいたします。賢治と京都の「縁」を、浮かび上がらせることができたらと思います。
 次に、宮沢賢治記念館副館長の牛崎敏哉さんが、賢治の「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」(『春と修羅 第二集』)を、賢治が聴いていたであろうジャズの響きに乗せて、スイングしながら朗読し、解説をして下さいます。賢治とクラシック音楽の関連については、近年いろいろな人が論じていますが、今回は新たにジャズとのつながりに光が当てられます。

 休憩をはさんで、京都造形芸術大学に所属するお二人の先生、君野隆久さんと中路正恒さんのご講演は、仏教や哲学思想の方面から、賢治にアプローチするものです。京都という場所は、長らく日本における仏教の中心地でもありました。そのような京都において研究を積み重ねてこられた視点から、賢治論が展開されます。

 4月20日というと、もう桜は散ってしまった頃ではありますが、この時期の京都では、「春の特別公開」を行っているお寺も、たくさんあります。
 会場の教室はかなり大きくて余裕はあるそうですので、皆さまどうぞ、春の京都へお越し下さい。

京都造形芸術大学キャンパスより
京都造形芸術大学キャンパスより

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