2020年3月22日 心はとにかく形だけで

 先日、「「摂折御文 僧俗御判」の目的」という記事に書いたように、賢治はこの抜き書き集を編むことによって、「折伏」に臨む己の心を鍛え直し、また「家を出る」覚悟を固めようとしたのではないかと考えているのですが、たとえばその具体的な影響は、次のようなところにも表れているのではないかと思います。

 「摂折御文 僧俗御判」の53番目に引用されている「出家功徳御書」は、僧をやめて還俗しようとしている弟子に対し、日蓮が思いとどまるよう戒める内容の書簡ですが、その中に下記のような箇所があります。 (『新校本全集』第14巻本文篇p.319)

所詮心は兎に角も起れ身をば教の如く一期出家にてあらば自ら冥加も有べし。此理に背て還俗せば仏天の御罰を蒙り現世には浅ましくなりはて後生には三悪道に堕ちぬべし。能々思案あるべし 身は無智無行にもあれ形出家にてあらば里にも喜び某も祝著たるべし

〔現代語私訳〕
しょせん心にはどんな考えが起ころうとも、その身を出家として教えのように生涯を送れば、自ずと加護があるはずです。この理に背いて還俗すれば、仏天の罰を受け、現世では悲惨な目にあい、後生では三悪道に堕ちるでしょう。よくよく思案しなさい。たとえ身は学問も修行もしなくても、形が出家であれば、元の家族も喜び、私も満足に思うでしょう。

 つまり「中身の心よりも形が大事だ」と言っているわけですが、保阪嘉内にあてた賢治の書簡に、これと似たような部分があります。
 まずは、1921年1月中旬の書簡181から。

この時あなたの為すべき様は
   まづは心は兎にもあれ
   甲斐の国駒井村のある路に立ち
   数人或は数十人の群の中に
   正しく掌を合せ十度高声に
  南無妙法蓮華経
   と唱へる事です。

 形としては、「まづは心は兎にもあれ」という部分が、日蓮書簡の「所詮心は兎に角も起れ」に似ており、また内容的にも、「心の中身はともかく、形を正しくせよ」ということを、どちらも言っています。

 さらに、家出上京後の同年1月30日付け書簡186では、次のように書いています。

お心持ちはよくわかります。判らぬほどの馬鹿でもありません。それがその儘善いか悪いか私は知りませんよ。けれども、それでは、心はとにかく形だけでそうして下さい。国柱会に入るのはまあ後にして形丈けでいゝのですから、仕方ないのですから
   大聖人御門下といふ事になって下さい。
全体心は決してそうきめたってそう定まりはいたしません。
形こそ却って間違ひないのです。日蓮門下の行動を少しでもいゝですからとって下さい。

 これも、「心はとにかく形だけで」よいから、日蓮の門下ということになってくれと、強く勧誘しているわけです。

 「摂折御文 僧俗御判」の53番目という場所は、在家よりも出家の方が望ましいということを説くテキストを集めた、「僧俗御判」の部分に相当すると考えられますが、賢治はこれも親友に対する「折伏」の方法として、用いているわけです。

 それにしても、日蓮が上の書簡で「心よりも形が大切だ」と言っているのは、宗教的言説としては、ちょっと珍しいものと言えます。普通ならば、古今東西たいていの宗教は、「形式などよりも、信仰の『心』の方が大切だ」と言うでしょうし、日蓮も賢治も、心の底ではそう考えていたはずです。日蓮としては、この状況では弟子をまずとにかく出家の身に留める方がよいと判断し、一種の「方便」として、こう言っているのだとも考えられます。
 そして賢治も、上の書簡186に続く187では、おそらく少し前向きの返事をしてきた嘉内に対して、「この上はもはや「形丈けでも」とは申しません」と畳みかけて、さらに国柱会の信仰に引き入れようと試みます。
 こういった「方便」の使い方も、賢治が日蓮の方法論から学んでいるところのように感じられます。

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項
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2020年3月 8日 「摂折御文 僧俗御判」の目的

1.「摂折御文 僧俗御判」とは何か

 『新校本宮澤賢治全集』第14巻の「雑纂」の項目に、「摂折御文 僧俗御判」と題された賢治作成の「抜き書き集」が収められています。その前半は、田中智学の著書『本化摂折論』の中で智学が経典や日蓮遺文を引用している部分を書き出したものであり、後半は、霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』からの抜粋になっています。
 全集校異篇の《補説》によれば、この抜き書き集の目的は、「あくまで賢治自身の信仰のためのメモであり、〔中略〕教化的発想とは立脚点を全く異にする」ということで、つまり他人に見せるためではなく自分用に作成した覚え書きと考えられるものです。また、賢治がこれを作成したのは、使用されている用紙から、1920年(大正9年)夏頃と推定されるということです。

 何よりまず、この題名の読み方からして難しいですが、全集校異によれば、これは「ショウシャクゴモン・ソウゾクゴハン」と読むのだそうです。そして、前半の『本化摂折論』からの抜き書きが「摂折御文」に、後半の『日蓮聖人御遺文』からの抜き書きが「僧俗御判」に相当するというのが、新校本全集の解釈です。
 前半題名のうち「摂折」とは「摂受しょうじゅ折伏しゃくぶく」の短縮で、仏教(とりわけ日連系教団)において、信者でない人に教えを弘める際の方法論の分類です。「摂受」とは、教化の相手に受容的姿勢で優しく説き諭すようなやり方であり、一方「折伏」とは、対決的姿勢で相手を論破し説き伏せるという方法です。一般的には、時と場合によって双方のやり方を使い分けるべきとされていますが、日蓮はどちらかと言えば折伏的な弘教を重視し、実際に身をもって実践して迫害も受けました。田中智学は、特にこの側面を強調して徹底的な「折伏主義」を唱え、その主張を世に宣言した著書が、『本化摂折論』だったのです。
 つまり「摂折御文」とは、「摂受と折伏のあり方について説いたテキスト集」ということになるでしょう。
 そして、後半の「僧俗御判」は、「僧」と「俗」、すなわち「出家」と「在家」という二つの立場の意義について、日蓮が判じたテキスト集ということになります。

 この「摂折御文 僧俗御判」は、賢治の直筆とは言え、内容は上記のように純粋に宗教的なものであり、さらにそこに書かれた言葉も、賢治自らのものではなく引用文のみで構成されていることから、これまでの賢治研究において、取り上げられることは稀でした。2006年から昨年まで14年分の『宮沢賢治研究Annual』の「索引」を調べても、「摂折御文 僧俗御判」に関する研究や評論としては、2009年掲載の今成元昭「宮沢賢治撰『摂折御文僧俗御判』と摂折問題」(『福神』12号、2008年6月)の一篇があるのみです。
 しかし、賢治がこれを作成した1920年夏というのは、彼が国柱会に加入する直前の疾風怒濤の時期であり、どのような意図と目的で彼がこの抜き書き集を編んだのかという問題は、この頃の彼の心の内面を知る上で、大きな手がかりになるのではないかと思われます。
 そこで今回はその辺の事柄について、少し考えてみたいと思います。


2.先行研究

 まずは先行研究を見てみようと思いますが、前述のように「摂折御文 僧俗御判」に関する研究は少なく、私が目にすることができたのは、とりあえず次のようなものでした。

  1. 小倉豊文「「摂折御文 僧俗御判」解説」(筑摩書房『宮澤賢治研究』、1957)
  2. 斎藤文一「『本化摂折論』と「摂折御文」」(『宮澤賢治―四次元論の展開』所収、1991)
  3. 工藤哲夫「「カイロ団長」小論―摂折問題の観点から」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第5号、1992)
  4. 西勝「宮沢賢治の信仰についてのメモ……『摂折御文・僧俗御判』と、その時代」(明治学院大学言語文化研究所『言語文化』第13号、1996)
  5. 今成元昭講演「宮澤賢治編『摂折御文・僧俗御判』について―『摂折御文』の位相」(法蔵館『法華経・宮澤賢治』所収、2015)

 1.は、筑摩書房の昭和31年版全集別巻の「附録」として、この「摂折御文 僧俗御判」が初めて活字化された際に付けられた解説です。賢治が抜き書きしたテキストについて、その出典を一つ一つ跡づけて文章を校訂し、「たとえ書抜集であるとしても、〔中略〕賢治の精神や生活の探求にはもちろん、詩や童話の作品研究の参考としても、貴重な文献といわねばならないだろう」と評しています。
 実はこの時点では、前半部の底本が田中智学の『本化摂折論』であることはまだ判明しておらず、現在の『新校本全集』校異篇《補説》のように、『本化摂折論』から引用した部分が「摂折御文」で、以下が「僧俗御判」であるという形で、テキストを截然と二分することは不可能でした。そのため、小倉氏は次のように述べています。

 ところでこの書は、その書名では「摂折御文」と「僧俗御判」なる二つの独立した書を合輯したように見えるが、内容の編集は必ずしも判然と分かれておらず、法華信仰の中心課題であるところの折伏・摂受に関する文献が主として始めの方に、出家・在家の信仰精神乃至は態度に関する文献が大体後半にまとめられているだけで、一箇の編纂物となつているのである。

 すなわち、純粋にこの抜き書き集の内容だけに注目すると、小倉氏のように綿密に読み込んでも、「内容の編集は必ずしも判然と分かれておらず」というのが実態なのです。そこで、「摂折御文」と「僧俗御判」の区切りを考える際に、『新校本全集』《補説》のように、テキストの内容は無視して『本化摂折論』との関係のみに基づいて判断してよいのか、という問題が生じてくると思われますが、これについてはまた後で考えたいと思います。

 2.の斎藤文一氏の文章は、賢治の引用文と引用元の『本化摂折論』を丁寧に照らし合わせ、主に田中智学の側から、論旨をたどったものです。智学による日蓮主義の壮大な体系の中に摂折問題を位置づける上では参考になりますが、賢治自身の考えがどうだったのかということは、ここでは検討されていません。

 3.の工藤氏の論文は、童話「カイロ団長」における《作者の意図》を明らかにする上で、「摂受」「折伏」という二つの教化法に着目し、「摂折御文 僧俗御判」にも引用されている「上宮勝鬘義疏」を手がかりに、解釈を行っています。
 工藤氏は、この「上宮勝鬘義疏」の田中智学による解釈については、自らの「折伏主義」に引き付けようとする「我田引水的とも思える特異なもの」と評する一方、賢治による智学からの引用の仕方には、智学の「折伏主義」から少し距離を置こうとする様子も見えるとし、「所詮「折伏主義」は賢治の身丈には合っていなかったのではないか」「折伏が賢治の性に合わなかったということを、逆に証拠立てるのではないだろうか」と指摘しています。

 4.の西氏は、「摂折御文 僧俗御判」における抜き書きの22番目にあたる、日蓮の「兄弟抄」に着目します。この日蓮の書簡は、弟子の池上宗仲・宗長兄弟に宛てられたものですが、兄弟の父は念仏を信仰していたため息子たちの日蓮帰依に怒り、兄を勘当して弟に家督を譲ろうとしました。日蓮は兄弟を励まして法華経信仰を守り抜くよう説き、「一切のことは親に従うべきだが、仏の道だけは、たとえ親に背いても守らなければならない」と述べて、釈迦が出家しようとした時に、父王が多数の兵を配して阻止しようとしたが、結局釈迦は父の命令に従わず家を出たという話を引きます。
 西氏は、この兄弟と父の関係に、賢治が自分と父親の確執を重ね合わせたであろうと推測し、日蓮が親身になって兄弟にかける言葉は、まるで自分に呼びかけるもののように感じて、強く励まされたのではないかと考えます。

 そして西氏は、まさにこの「兄弟抄」を境にして、抜き書き集を編纂する賢治の心境に何らかの変化が起こっていると指摘し、その証拠として、それまでの抜き書きは『本化摂折論』のページに従って整然と行われていたのに、23番目以降は前のページに遡行する形をとりはじめ、さらに一部では田中智学が『本化摂折論』には引用していない部分まで日蓮遺文に戻って付加している等の、編纂方法の変化が現れていることを挙げています。
 そして、この賢治の心の動きの背景には、徴兵検査で第二乙種となって兵役に行けなくなったことのショックがあり、これが後に国柱会に身を投じる結果につながったのではないかと推測し、次のように述べます。

 賢治はこの身体検査に合格する筈であったようである。気負いではなく、当時の高揚する愛国心があった。ところが父の意思に反して、徴兵検査を受けた結果が、乙種合格、それも第二乙種と認定され、たとえ自ら望んで、申し出ても兵役に就くことはない。当の賢治にはショックであったに違いない。
 その頃の封建的な風土の中では、周囲から一人前の人間とは見なされないことを意味する。それが跳ね返って当人に、精神的にどれほどの圧迫を与えたか、これは戦後の我々には分かりにくい部分である。これは戦争を美化するのではない。平和を求める為に、事実を直視することを忘れてはならない、というのである。
 その屈折した感情が当時、国家を強調していた、田中智学の国柱会の主張に身を投じることになった重要な動機になっている、と考えられる。出家にしろ、就職にしろ、賢治の個人的な裁量に任される領域が存在した。しかし、徴兵問題は別である。それを一挙に解決してくれる策が見付かった。それが田中智学であったというのである。

 そして、賢治が自らの国柱会入会を保阪嘉内に知らせる書簡177で、「(田中智学の)御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります。乃至東京で国柱会館の下足番も致します」と書いて、「出征」と「国柱会での奉仕」を同列に扱っていることを挙げ、これは「単なる比喩ではない。現実問題であった」と述べるのです。
 日蓮の「兄弟抄」に着目し、その前後における抜き書き編纂スタイルの変化から賢治の心理に迫る西氏の分析は鋭く示唆に富んでおり、これについてはまた後で考えてみたいと思います。

 5.の今成元昭氏による講演は、『宮沢賢治研究Annual』2009年号の索引に載っていた論文「宮沢賢治撰『摂折御文僧俗御判』と摂折問題」と、同年のものです。田中智学は、法華経の常不軽菩薩があらゆる人に対して合掌礼拝をしたことは、折伏の一つの典型だと論じましたが、今成氏の考えでは、この礼拝行は折伏ではなく摂受に該当するのだということです。
 そして今成氏は、賢治が「摂折御文 僧俗御判」を作成する際に、智学の『本化摂折論』に引用されていながら「摂折御文」には採らなかったテキストに、常不軽菩薩の礼拝行に関するものが多く含まれることや、文語詩「不軽菩薩」に描かれるその姿が「ひたすら敬い拝む」もので智学の言う折伏的態度とは異なることから、「賢治の心をとらえた不軽菩薩とは、田中智学が理想として掲げる折伏者像とは全く異なるものなのである」と述べ、「摂折御文 僧俗御判」作成の時点で、賢治と智学の考えには大きな乖離があったと論じます。


 次に、これらの先行研究に対する現時点での私の感想を記させていただくと、まず1.で小倉豊文氏が、「摂折御文」の部分と「僧俗御判」の部分は、内容的には必ずしも判然と分かれていないと指摘していることは、あらためて十分に考える必要があるのではないかと思います。

 賢治によって抜き書きされたテキストを見ると、その39番目(以下[39]と表記、他も同様)までは、田中智学の『本家摂折論』からの抜粋であり、当然何らかの形で「摂折問題」と関わっていることから、この部分を「摂折御文」と見なすことに、問題はないでしょう。しかし実は、『日蓮聖人御遺文』から引かれた[40]以降の抜き書きも、その後かなりの部分は主に「摂折問題」を扱っているのです。
 [40]の「祈祷経送状」は、弟子の最蓮房という僧から、自分は病弱なため山に籠もって一人静かに信仰をしてもよいかと問われたことに対し、日蓮は本来なら山籠は「末法折伏行」に背くことであるが、病弱のためそう考えるのも無理もないとし、ただ病が平癒したら不惜身命で弘通しなければならないと説くものです。すでに出家している最蓮房に関して僧俗の問題はありえず、ここでは折伏行のあり方が論じられています。
 [41]の「筒御器抄」も、「法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず人を恐れて黙止するならば必ず無間大城に堕つべし」と、激しく折伏を説くものです。
 それに続く[42]も[43]も摂折問題を扱っており、さらに[44]の「松野殿御返事」も「身命を捨てて法を弘むべし」という折伏行を強調しますが、「受けがたき人身を得て適々出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は、法師の皮を着たる畜生なり」とあり、少しだけ「僧俗問題」にも触れています。
 そしてこの後も、摂折問題に関するテキストの抜粋が続いた後、[52]の「祈祷経送状」に至って初めて、「謗法の比丘は持戒なりと雖も無間に堕す。正法の大俗は破戒なりと雖も成仏疑ひ無き故なり」と、「僧俗問題」が主に取り上げられるのです。ただこのテキストでは、「国中の謗法を責めて釈尊の化儀を資け奉る可き者なり」と、折伏の実践を勧める箇所もあります。
 この後は、[53]の「出家功徳御書」から最後まで、専ら僧俗問題が扱われています。

 つまり、[40]から[51]までの『日蓮聖人御遺文』からの抜き書きは、その内容としてはほとんどが「摂折問題」を扱っているわけですが、『新校本全集』校異篇のようにこの部分も「僧俗御判」と呼ぶのが適切かどうか、という問題が生じてきます。私としては、それはちょっと無理があるのではないかと思います。
 では、どうすればよいでしょうか。[44]の「法師の皮を着たる畜生」の例や、[22]「兄弟抄」で釈迦の出家の話が引かれているように、摂折問題を論ずる中にも僧俗問題が顔を出す例もありますし、逆に[52]で僧俗問題を扱いながらも折伏が勧められる例もありますから、小倉氏の言うように、二つの部分の境目は「必ずしも判然としない」と言うこともできます。
 あえて二つに分けるとすれば、その内容から判断すると、[51]までが「摂折御文」であり、[52]以降が「僧俗御判」であるとする方が、まだ自然なように感じられます。ただこの場合、前者は[1]から[51]、後者は[52]から最後の[60]までということになり、量的にはかなりアンバランスになります。

 私としては、賢治はこの抜き書き集を編む際に、最初から「摂折」と「僧俗」という二つの問題を取り上げようとしたわけではなく、最初は『本家摂折論』を題材にして「折伏問題」を究めようとしていたが、途中でいつしか僧俗や出家の問題への関心も強まったために、結果的に最後の方は僧俗問題を主題とするようになったのではないか、と思っています。そして最終的に、賢治がこの草稿に表紙を付ける段階で内容を省みると、実際には二つの問題を扱っているので、「摂折御文 僧俗御判」と題したのではないか、と考えるのです。
 このように考えれば、二つの部分の量的なアンバランスも理解できます。

 次に、3.の工藤哲夫氏による、「所詮「折伏主義」は賢治の身丈には合っていなかったのではないか」「折伏が賢治の性に合わなかったということを、逆に証拠立てるのではないだろうか」という指摘は、賢治という人を全体として考えると、私も本当にそのとおりだろうと感じます。
 賢治が折伏的な強い調子で法華経の教えを人に説いていたのは、せいぜい1918年(大正7年)から1921年(大正10年)の途中までのことでしょうし、それも誰彼なくではなくて、限られた人を対象とするものでした。伝えられているような謙虚で穏やかな彼の人柄からしても、折伏はあまり似合わないように感じられます。
 ただ私としては、彼が国柱会に入ろうとしていた1920年という時期に、すでに田中智学の思想とは別に独自の考えを探っていたとまでは、言えないのではないかと思います。この時期の賢治は、実際に保阪嘉内に対する書簡でも激しい折伏を続けていました。たとえ折伏があまり自分の性に合わないと感じたとしても、ならばなおさらそれを身に付けなければならないと考えて、智学の教えに忠実に『本家摂折論』からの抜き書きを作ったのではないかと、私は思うのです。

 4.の西氏の論で、賢治が日蓮の「兄弟抄」によって心を動かされたのではないかという指摘には、私も強く共感するところです。念仏者の父親の意向に反して兄弟が法華経に帰依するという構図は、父政次郎と賢治・トシの兄妹の組み合わせと同じであり、そのような環境下の兄弟を励ます日蓮の言葉は、賢治の心にもきっと強く響いたことでしょう。そして、賢治にとって徴兵検査で「第二乙種」となり出征の道が閉ざされたことと、その後の国柱会入会が、何らかの形で関係しているのではないかという着眼も、非常に示唆的です。
 ただ、「兵役という形で国に尽くせなくなったから、そのかわりに国家主義を掲げる国柱会に入った」と西氏が考えるほどには、賢治は「国のために尽くさなければならない」という意識を強く持っていなかったのではないかと、私は思います。
 私としては、賢治がある時は兵役に就くことを強く望み、また後には勝手に上京して国柱会の奉仕をしたのは、どちらも「質屋・古着屋という家業から離れて、この家を出てしまいたい」という、この頃抱いていた強い願望によるものだったと思うのです。この点については、また後で詳しく考えてみます。

 5.の今成元昭氏の論も、当時の賢治の考えが田中智学の折伏主義とは異なり、より摂受の方を重んずるものだったと考える点で、3.の工藤氏と共通している部分があります。しかし、智学の『本家摂折論』の引用文のうちで、賢治が「摂折御文 僧俗御判」に取り上げていないのは、何も不軽菩薩について述べた文だけではなく、他にも多くあります。
 したがって、賢治のこの引用文の選択の仕方を根拠にして、「賢治の心をとらえた不軽菩薩とは、田中智学が理想として掲げる折伏者像とは全く異なるものなのである」とまで言うことはできないと、私は思います。


3.「摂折御文 僧俗御判」の目的

 以上、賢治の「摂折御文 僧俗御判」に関する先行研究を、簡単に見てみました。当初から 1.で小倉豊文氏が指摘していたように、この書き抜き集は「賢治の精神や生活の探求」の上で「貴重な文献」だと私も思うのですが、その意味ではまだ十分に吟味されたとは言えないと思います。
 1920年の夏、賢治はこの「摂折御文 僧俗御判」という文書を、いったいどんな心境で、どういう目的で、書き付けていったのでしょうか。

 それを考える上で、まず押さえておくべきと私が思うのは、この1920年夏までの約1年半、賢治は特に父の政次郎と親友の保阪嘉内に対して、法華経を信仰するよう執拗に折伏を行っていたにもかかわらず、両者いずれにおいても望むような結果は得られていなかったということです。おそらく元来の賢治は、工藤氏や今成氏が指摘するように、人とぶつかる折伏的な行動を自ら進んでとるタイプではなかったかもしれませんが、少なくとも当時の賢治は田中智学の教えに忠実に、尊敬する父親や無二の親友に対して、激しく改宗や信仰を迫っていたのです。
 しかし、その努力も空しい日々が年余にわたり、また1920年夏には後述のように「家を出る」問題も賢治にとって切実なものとなってきたため、ここで彼はあらためて父と親友の折伏を成功させるべく、自らを鍛え直そうとしたのではないかと、私は思うのです。そしてそのための具体的方法として、田中智学が『本化摂折論』に引用している諸経や日蓮の有難い言葉を肝に銘ずることで、折伏の神髄を己の血肉にしようと、「摂折御文」の作成に着手したのではないかと考えます。

 この意味で、「摂折御文 僧俗御判」作成の表向きの目的は、当時の懸案だった「折伏問題」の解決にあったのだろうと思うのですが、上述のようにちょうど賢治はこの頃、「何とかして家を出たいがかなわない」という、厄介な問題にも苦しんでいました。彼が「摂折御文」を編んでいた最中、たとえば日蓮の「兄弟抄」に触れることで、この悩みが「出家問題」として噴出してきた結果、文書の後半には出家や在家の意義について扱うテキストが付加されていき、結果として「僧俗御判」が形成されていったのではないかというのが、私の考えです。

 賢治が「家を出たい」と願った理由は、自分には才能も興味もないどころか嫌悪感や罪悪感さえ覚える、質屋・古着屋という家業を継ぎたくなかったからというのが、最大の要因でしょう。早くは1917年のトシあて書簡30でも、「木材の乾溜、製油、製薬の様な就れと云へば工業の様な仕事」をしたいと述べていましたが、しかし長男が家の商売を継ぐべきだという父の考えは、頑として変わりませんでした。
 1918年に入ると、1月の父あて書簡43に、徴兵検査を受けて兵役に就きたいという訴えが出てきます。その理由として賢治はいろいろと並べてはいますが、本音としては「とにかく家から離れたい」からだったのではないかと、私には思えます。
 さらに次の父あて書簡44には、「本来ならすぐにでも出家すべきところ…」という言葉が二度も出てきます。(強調は引用者)

亡祖父様いづれに御出でなされ様やも明かならず実は忽ちに出家をも致すべきの所只今は僧の身にては却て所説も聞かれざるの有様にて先づ一度は衣食の独立を要すと教へられ又斯く思ひて折角働く積りに御座候
〔中略〕
報恩には直ちに出家して自らの出離の道をも明らめ恩を受けたる人をも導き奉る事最大一なりとは就れの宗とて教へられざるなき事に御座候
依て先づ暫く名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強致したく若し願正しければ更に東京なり更に遠くなりへも勉強しに参り得、或は更に国土を明るき世界としインドに御経を送り奉ることも出来得べくと存じ候
依て先づ暫く山中にても海辺にても乃至は市中にても小なる工場にても作り只専に働きたく又勉強致したくと存じ候

 ここで賢治は、自分が出家して僧侶になることなど父親が絶対に認めないということはわかった上で、「仏教の教えの上では、出家するのが家族のためにも一番よい」という理屈を繰り返し述べて、本当は自分としては出家したいのだという願望を、暗にほのめかしているように思えます。そして最後は、「名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強致したく…」とか、「更に東京なり更に遠くなり…」「インドに御経を送り…」などと、家から離れる話はますます拡大していきます。
 また彼の「出家」に対する思いは、この年6月の保阪嘉内あて書簡74でも触れられています。

早く自らの出離の道を明らめ、人をも導き自ら神力をも具へ人をも法楽に入らしめる。それより外に私には私の母に対する道がありません。それですから不孝の事ですが私は妻を貰って母を安心させ又母の劬労を軽くすると云ふ事を致しません。

 「出離」というのは、「仏門に入ること」ですから、賢治は母親のためにも、自分は出家して僧になった方がよいのだと言うのです。
 さらに8月の嘉内あて書簡83aには、不思議なことが書いてあります。

今の夢想によればその三十五迄は少しづゝでも不断に勉強することになってゐます。その三十五から後は私はこの「宮沢賢治」といふ名をやめてしまってどこへ行っても何の符丁もとらない様に上手に勉強して歩きませう。それは丁度流れて、やまない私の心の様に。けれども私は私の心を見習ふのではありません。その様にして偉い和尚様になるのではありません。もとより出家しないのですから和尚様になれ様筈がありません。

 「宮沢賢治」という俗名をやめて勉強して歩くというのですから、出家して戒名を名乗るのかと思いきや、少し後では「もとより出家しない」とも言っているので、話が複雑です。結局は、出家はしないけれども出家と同じような生活をするという願望なのかと思われますが、本心では出家したいのに父親が許してくれないということから来る、心の屈折なのでしょう。

 さらに賢治の「家を出たい」願望は、また別の形でも表れてきます。
 彼は1918年12月の保阪嘉内あて書簡94で、「ベッサンタラ大王」に関するジャータカに触れていますが、その細部の表現から、これはこの年の6月に刊行された『国訳大蔵経』第十三帙からの引用と考えられています(「ヴェッサンタラ王の布施」参照)。
 賢治はこのヴェッサンタラ・ジャータカを、他にも童話「学者アラムハラドが見た着物」や、詩ノート「ドラビダ風」にも引用しており、何かその内容に強く惹かれたのだと思われます。彼がそこまで惹かれた理由として、私が「ヴェッサンタラ王の布施」という記事において考えたのは、この王が自分の妻や子供たちまでも他人に布施として与えてしまったように、自分の父も自分を放逐してほしいと、賢治が無意識的に願っていたからではないか、ということでした。
 これも空想上のものではありますが、当時の賢治が「家を出る」ことを切に願っていた一つの表れなのではないでしょうか。

 さてこの後、1918年の12月に東京で倒れたトシに付き添うために、賢治は母親と上京し、しばらくは妹の看病に明け暮れますが、その病状が一段落した1919年1月末から2月にかけて、また父親に懇願して「このまま東京で事業をやらせてほしい」と訴えます。しかし父は今回も許さず、花巻に戻った賢治は、「私は実はならずもの ごろつき さぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長 ごまのはひの兄弟分、前科無数犯 弱むしのいくぢなし、ずるもの わるもの 偽善会々長」(保阪嘉内あて書簡152a)などと自嘲しながら、辛い店番を続けることになります。
 1920年の2月の嘉内あて書簡159には、自分が置かれている環境について、「古い布団綿、あかがついてひやりとする子供の着物、うすぐろい質物、凍ったのれん、青色のねたみ、乾燥な計算 その他」と書いて、どうしようもない陰鬱な気持ちを吐露しています。
 しかし、この年の春頃から賢治の手紙は少しずつ明るさを取り戻し、6月-7月頃の保阪嘉内あて書簡165では「しっかりやりませう」という語を21回も繰り返しています。
 そして、8月のやはり嘉内あて書簡168には、次のように書きます。

来春は間違なくそちらへ出ます 事業だの、そんなことは私にはだめだ 宿直室でもさがしませう。まづい暮し様をするかもしれませんが前の通りつき合って下さい。今度は東京ではあなたの外には往来はしたくないと思ひます。真剣に勉強に出るのだから。

 つまり、この1920年8月の賢治は、1921年の春には「そちら(東京)」に出るということを、秘かに心に決めていたようなのです。そしてまさにこの夏に彼は、「摂折御文 僧俗御判」を作成したのです。その目的は、父親や保阪嘉内への折伏の力にさらに磨きをかけるとともに、翌春に家を出るであろう自分のために、「出家して仏門に入ることの意義」を説く日蓮の言葉を集め、己を奮い立たせるということだったのではないでしょうか。
 ただ、賢治がこの時考えていた「家を出る」ということの具体的な中身が何だったのかというと、それは通常の意味で「出家する」ということではなくて、「国柱会に身を投じて奉仕活動をする」ということだったのだろうと推測します。
 若い頃の賢治には、潜在的にはずっと「出家願望」があったのではないかと感じるのですが、おそらく父親が許さなかったことから、彼は出家そのものは早々と諦めていたように思われます。そのかわりこの願望は、上の書簡83aにあるように、「出家はしないが出家と同じような生活をする」というような、屈折した形に変化していったのではないかと思われ、これが1920年中頃に至って具体的に、「国柱会での奉仕」という形に煮詰まったのではないかと、私は考えます。
 もちろん国柱会はあくまで「在家」仏教団体で、日蓮宗など「出家」者による既成教団には批判的でしたから、国柱会に身を投ずることと出家することは、現実には両極端ほどの差があります。しかし当時の賢治にとっては、家族も家財も捨てて家業の継承も逃れ、ただ己の身一つで国柱会の信仰と布教に生きるという道は、仏門への出家と同じ意味合いがあったのだろうと思うのです。

 そして12月、ついに保阪嘉内にあてて、次のように書き送ります(書簡177)。

今度私は
 国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は
 日蓮聖人の御物です。従って今や私は
 田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。

 「私は田中智学先生の御命令の中に丈ある」ということは、他の世俗的な責任や義務に、もはや縛られないということです。
 明けて1921年の1月中旬の嘉内あて書簡180では、再び東京での仕事について相談します。

お便り拝見いたしました
あなたは春から東京へ出られますか
お仕事はきまってゐますか
私の出来る様な仕事で何かお心当りがありませんか
学術的な出版物の校正とか云ふ様な事なら大変希望します
今や私は身体一つですから決して冗談ではありません
けれどもあなたにひどく心配して戴く事は願ひません 学校へは頼みたくないのです
勉強したいのです 偉くなるためではありません この外には私は役に立てないからです
おゝ、あなたも私も み心にあるが様にあらしめ給へ

 ここで賢治が自らについて、「今や私は身体一つ」と言っている心境が、まさに出家者のそれに通じるものと言えるでしょう。
 そして1月23日の夕方、店番中に日蓮御書が背中に落ちてきたことを契機に、賢治は家を飛び出して東京の国柱会館を訪ね、「どうか下足番でもビラ張りでも何でも致しますからこちらでお使ひ下さいますまいか」と言ったのです。

 以上のように、1920年夏に賢治が作成した「摂折御文 僧俗御判」は、当時の賢治にとって焦眉の課題だった「折伏問題」と「出家問題」を、何とかして日蓮の教えに基づいて解決したいと願う気持ちの表れだったと、私は考えます。

 そしてさらに、この二つの問題は賢治にとって、たまたま同時期に抱えていたというだけではなく、実は奥の方でつながっているものでもあったのです。というのは、父親への折伏が成功して自分の意が通れば、それは結局それまで自分を縛っていた父の権威からの解放を意味するわけですし、また当時の賢治にとって「家を出る」ことの大きな目的は、「保阪嘉内とともに信仰の道を一緒に歩む」ことでしたから、嘉内への折伏と自分の家出は、一体となる必要があったからです。
 そのような事情もあって、「摂折御文」を編んでいた賢治は、思わず途中から「出家」の問題にも踏み込んで行き、結果的に「僧俗御判」も一緒に作ることにもなったのではないかと、私は考える次第です。

 「摂折」の問題と、「僧俗」の問題という、仏教の理論の上では別個の独立した問題が、「摂折御文 僧俗御判」という形で、賢治によって一体化して編纂されるに至った背景には、これを作った当時の、彼の個人的な事情があったと思われるのです。

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2020年3月 1日 「山川草木悉皆成仏」の由来

 もともとインドの大乗仏教では、成仏できるのは「有情」あるいは「衆生」と呼ばれる「心を持った生き物」、すなわち人間と動物とされていました。それが中国の三論宗や華厳宗において、「草木成仏」という思想が生まれて、植物も成仏できると考えられるようになったのだそうです。
 これがさらに日本に入ると、「草木国土悉皆成仏」という形で、無機物である「国土」までもが成仏できるのだと説かれるようになったということで、このあたりの事情は、岡田真美子氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という論文に記されています。「草木国土悉皆成仏」という言葉は、能の謡曲には経文の一節としてしばしば登場するそうですが、現実の経典中にはこの言葉は見当たらず、末木文美士氏によれば、最初に登場するのは、平安時代の天台僧安然が著した『斟成私記』においてだということです。

 一方、現代において、この「草木国土悉皆成仏」よりもはるかに親しまれているのは、「山川草木悉皆成仏」という言葉です。しかし、上記の岡田氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」によれば、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、仏教関係の文献を歴史的にいくら調査しても見つからず、むしろごく最近になってから、主に仏教者以外の人々によって使用されているというのです。
 「山川草木」という言葉も、仏典に限らず一般の漢文ではあまり用いられないもので、同じ意味の「山河草木」であれば、『大乗玄論巻第三』に登場するということです。すなわち、「古文、漢文の世界では、むしろ「山川草木」より「山河草木」ということばのほうが伝統的である」というのが、岡田氏の見立てです。
 また、宮本正尊氏は1961年に「「草木國土悉皆成佛」の佛性論的意義とその作者」という論文において、「草木国土悉皆成仏」という言葉の由来について綿密な調査を行ない、この言葉も現存する大蔵経中のどの仏教文献にも見出せないことを明らかにしています。そして、驚くべきことにこの論文では、現代でははるかに普及している「山川草木悉皆成仏」という言葉は、一切触れられていないのです。
 これらの所見から岡田氏は、「「山川草木悉皆成仏」は伝統的な仏教用語ではなく、少なくとも1961年以降、現代になってから人口に膾炙するようになった仏教用語らしい」という仮説を立てます。

 これに関連して袴谷憲昭氏によると、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、哲学者の梅原猛氏がさかんに用いて有名になり、さらに1986年に中曽根康弘首相(当時)が施政方針演説中に用いたことがきっかけで、広く世間に知られるようになったのだということです。梅原氏が委員をしていた臨教審の答申が中曽根の演説の前に出されていることから、袴谷氏がその答申内容を調べてみると、予想通りこの思想が盛り込まれていたことを確かめた上で、中曽根は梅原委員から「山川草木悉皆成仏」ということばを教えられたのであろうと推測しています。

 このような流れから岡田真美子氏は、「山川草木悉皆成仏」という言葉は梅原猛氏による造語ではないかと考え、梅原氏に質問の手紙を出したということですが、返事が得られずにいました。そんな時、岡田氏の夫君の岡田行弘氏が、たまたま新幹線で梅原氏に遭遇し、「山川草木悉皆成仏」は氏の造語ですかと尋ねたところ、氏はそれを肯定し、「山川草木悉皆成仏 梅原猛」と紙に書いてくれたのだということです。

 以上、ちょっとしたミステリーのようなお話で、一見すると歴史的由緒のありそうな有り難い言葉が、実はごく最近になって作られたものだったという結論は驚きですし、とりわけ「たまたま新幹線で遭遇して…」という展開は、いかにも現代的で面白いです。この謎解きをコンパクトにまとめ、現代の環境問題にもつながる岡田氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」は、知的刺激にもあふれた魅力的な論文です。

 ということで、この論文を読んだ時には「一件落着」と思って頭の片隅にしまい込んでいたのですが、ふと賢治の書簡を見ると、「山川草木悉皆成仏」に非常に似た言葉が、二度も登場するではありませんか。

ねがはくはこの功徳をあまねく一切に及ぼして十界百界もろともに仝じく仏道成就せん。 一人成仏すれば三千大千世界山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ。(保阪嘉内あて書簡63、1918年5月19日)

わが成仏の日は山川草木みな成仏する。山川草木すでに絶対の姿ならば我が対なく不可思儀ならばそれでよささうなものですがそうではありません。(保阪嘉内あて書簡76、1918年6月27日)

 前者には「虫魚禽獣」という語句が余分に入っていますが、それでも意味としては同じですし、後者の「山川草木みな成仏」に至っては、「山川草木悉皆成仏」と、実質的にほぼ同じとも言えるでしょう。岡田真美子氏が指摘するところの「山河草木」ではなく「山川草木」になっている語法も、これが伝統的ではなく新しいものである可能性を示唆しています。
 一方で、これが当時の賢治によるオリジナルな造語であるとも思えず、また「山川草木・・・成仏」という型は二つの書簡に共通していることから、やはり賢治の使用の元となる何らかの出典が、当時存在したのではないかと考えるのが、自然な感じがします。
 賢治が上記の書簡を書いた1918年(大正7年)は、彼が田中智学の思想に入れ込み始めた時期ですから、ひょっとして智学の著書に由来しているのではないかとも思い、『本化摂折論』や『日蓮聖人の教義』や『妙宗式目講義録』の一部をざっと見てみたのですが、見つけることはできませんでした。

 ということで、岡田真美子氏による調査をさらに推し進めるために、賢治の「山川草木みな成仏」の元となる出典があるのならば、それをぜひ知りたいと思っている次第です。
 また、もしも「出典」なるものは存在せず、これが賢治によって初めて使用された言いまわしだったとすると、宮澤賢治にも造詣が深かった梅原猛氏のことですから、当然ながらこれらの賢治の書簡を読んでいて、その潜在的な記憶を意識しないまま、1970年代になって「山川草木悉皆成仏」という言葉を作り出したということになるのでしょう。

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2020年2月23日 賢治は日蓮主義者だったのか(2)

 先日は「賢治は日蓮主義者だったのか(1)」という記事において、賢治はいったい田中智学や日蓮主義の思想のどこに惹かれて、他ならぬ国柱会に入ったのだろうかという疑問について考えようとしました。いちおう考えてはみたのですが、田中智学の独特の主張に賢治が共感していたことを示す証拠はどうしても見つけられず、それは依然として謎のままでしたし、むしろ賢治は、智学の思想内容に感銘を受けて入会したというような、「内的」な動機によったのではなく、たまたま彼が求めていた時にそれが目の前に強力な「乗り物」のように現れたので、是非もなくそれに跳び乗ったというような、「外的」な要因によったのではないか、などと考えてもみました。
 しかしその後、前回の考察にはちょっと見落としがあったのではないかという気が何となくしてきて、今回もう一度取り上げてみようと思います。見落としというのは、次のような事柄です。

 現代の私たちの頭の中には、法華経や日蓮の思想の根幹は、「積極的な行動の重視」にあり、また行動を通じての「現実変革への志向」にあるというような理解があります。それはたとえば、先日「四つの「行ッテ」と地涌の四菩薩」という記事にも書いたように、「法華経を実践すること・行動することへの賢治の強い思いが、「行ッテ」という言葉に込められている」という宮澤和樹さんの言葉や、「地涌の四菩薩の名前に入っている「行」の字は、「行ないこそが大事だ」という法華経の思想を表している」という植木雅俊さんの解釈にも表れています。
 しかしそのような理解は、田中智学が明治中期に日蓮宗の「宗門之維新」を掲げて宗教界に登場した時点では、まだ一般的ではなかったと思われます。

 大谷栄一著『日蓮主義とはなんだったのか』によれば、明治時代の日連系の宗派においては、近世日蓮教学の大成者であり「明治日蓮教学の鼻祖」と呼ばれた、優陀那院日輝の教学が主流を成していました。この日輝の教えは、相手を教化するにあたって、「折伏」(対決的姿勢で相手を論破し説き伏せること)よりも「摂受」(受容的姿勢で優しく相手を説き諭すこと)を重視し、「折退摂進論」と呼ばれていました。
 歴史的に振り返ると、日蓮自身は「邪智謗法の者多き時は折伏を前とす」(「開目抄」)と述べて、末法の時代においては「折伏」を優先すべきだと考えていました。自らも、他宗派には対決的な姿勢で臨み、将軍にも真っ向から意見を述べたことは、周知のとおりです。
 このような非妥協的・原理主義的な信仰態度は、日蓮没後の後継教団でも、ある時期まではかなり維持されていました。最も原則的な姿勢を掲げていた「日蓮宗不受不施派」という一派も、江戸時代の初頭まではそれなりの勢力を保っていたようですが、徳川幕府による苛酷な弾圧によって非合法化された結果、表の世界からは姿を消してしまいます。私は以前、賢治の足跡を訪ねて伊豆大島に行った際に、ふと通りかかったお寺の一角に、江戸初期に流罪にされこの地で亡くなった不受不施派の僧侶たちの墓碑がひっそりと立ち並んでいる様子を見て、強い印象を受けました。
 江戸時代には、こういった厳格な宗教政策によって全ての宗派は牙を抜かれてしまい、さらに明治維新に伴う廃仏毀釈の嵐によって、仏教界は萎縮してしまったわけですから、いくら恐れを知らぬ日連を継承する宗派とは言え、明治のある時期まで穏健路線を取っていたのは、無理からぬことと言えるでしょう。

 そこに、「祖師に還る」というスローガンを掲げて、田中智学が「立正安国会」を設立したのが、1884年(明治17年)でした。智学は、それまでの「摂受」重視の既成日蓮教団に真っ向から異を唱え、「折伏」重視を打ち出します。

 日輝は摂受を重視する「折退摂進」論を採ったのにたいして、智学は「超悉壇[大谷註:悉壇とはサンスクリットのsiddhantaの音訳で、教説の立てかたの意]の折伏」にもとづく「行門の折伏」(実行的折伏)を強調した。折伏が祖師・日蓮の根本的立場であると捉え、それへの復古的な回帰を唱えたのである。この折伏重視の立場性こそが、智学生涯の思想と運動を貫く通奏低音であり、政府にたいする「諌暁」(いわゆる国家諌暁)もこの折伏の精神にもとづく。(大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』より)

 「折伏主義」に象徴されるような、智学の能動的・主体的・積極的・行動的で明確な態度は、高山樗牛をはじめ当時の知識人たちの心を捉え、彼は一躍時代の寵児となっていきます。1914年(大正3年)には、静岡県三保に「最勝閣」と名づけた豪勢な本部を建築し、名称も「国柱会」と改め、1918年(大正7年)には、東京上野の鶯谷に500坪の敷地の「国柱会館」が落成します。

 賢治が国柱会に入会した1920年(大正9年)とは、このような時代だったわけです。浄土真宗の清沢満之が唱えた「精神主義」が、「自家の精神内に充足を求むるものなり」と標榜したのに対し、田中智学および日蓮主義の特徴は、能動的・主体的・積極的な「行動主義」とも言えると思いますが、教義の内容というよりもこのようにアクティブな形態こそが、父親や「イエ」の束縛からの脱出を求めていた賢治を、強く惹きつけたのではないでしょうか。

 戦後に生まれ育った私たちは、たとえば創価学会による「折伏大行進」と名づけられた大規模で精力的な布教・勧誘活動をよく知っていますので、こういうエネルギッシュな体質は、法華経や日蓮の教えにもともと内包されているものだと、何となく思っています。そして、それは確かにそうなのでしょうが、近代において法華経や日蓮のそのような性質に再び光が当てられ、人々が知ることになるためには、田中智学の登場を待たなければなりませんでした。近世から明治中期までの日連系教団の教えは、実はそうではなかったのだということを、ここにあらためて認識しておく必要はあるのかと思います。

 大正時代の賢治にとっては、当時の宗教界において田中智学ほどの力で人を鼓舞し、法華経や日蓮の行動的側面を宣揚してくれた人はなかったわけで、そのような積極性への感銘が、彼を国柱会員にしたのではないでしょうか。
 前回の「賢治は日蓮主義者だったのか(1)」では、田中智学や日蓮主義のオリジナルな思想にばかり注目して検討していたので、今や当たり前と感じてしまうこの側面については意識していませんでしたが、当時の賢治にとっては、また違って見えていたのだろうと思います。

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2020年2月16日 賢治は日蓮主義者だったのか(1)

 お正月に、大谷栄一著『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』を読みました。

日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈 日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈
大谷 栄一

講談社 (2019/8/22)

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 600ページ以上もある大部な本ですが、明治時代の半ばから太平洋戦争突入に至る国家主義の勃興とその暴走のプロセスを、宗教思想の面から鮮やかに跡づける内容で、面白く一気に読み終えました。
 印象に残る記述もいろいろありましたが、内村鑑三と田中智学という同じ年の生まれの二人の宗教者を挙げて、「「ふたつのJ(JesusとJapan)」を愛した内村にならえば、智学は「ふたつのN(NichirenとNippon)」のために生きた」と評した言葉は、言い得て妙だと思いました。
 また、戦前日本の対外侵略のスローガンとされていた「八紘一宇」という言葉は、日本書紀の字句に基づいて田中智学が考え出したものと従来は言われていましたが、著者の最近の調査によれば、この言葉を最初に用いたのは、田中智学・本多日生とともに「日蓮主義の三大家」と呼ばれた清水梁山という宗教家だったということです。 田中智学による最初の用例は1913年(「神武天皇の建国」)であるのに対し、清水梁山は1910年に「日韓合邦と日蓮聖人」と題した講演およびその記録冊子において、「八紘一宇」という言葉を用いていたとのことです。

 そして本書では、宮澤賢治とその宗教思想についても、9ページほどを費やして論じられています。著者大谷氏の賢治に関する見解は、次の箇所に要約されていると言えるでしょう。

 では、賢治の日蓮主義的な法華信仰の特徴はどのようなものだったのだろうか。「日蓮聖人の国体観」と「予言」を中核とする石原(莞爾)の日蓮主義信仰にたいし、賢治の場合は「国土」を重視する。 (p.308)

 大谷氏は、賢治が「この国土を常寂光土にする」という思想を重視していた根拠として、没年である1933年の年賀状に、「我此土安穏/天人常充満」という如来寿量品の自我偈を引用していることや、1918年の父親あて書簡44に、「或は更に国土を明るき世界とし印度に御経を送り奉ることも出来得べくと存じ候」と書いていること、さらに同年の保阪嘉内あて書簡102aに、「しばらくは境遇の為にはなれる日があつても、人の言の不完全故に互に誤る時があつてもやがてこの大地このまゝ常光土と化するとき何のかなしみがありませうか」と書いていることを挙げておられます。
 言われてみれば、賢治にはその名も「国土」と題した文語詩もあり、そこでは見渡す山々の地中に、法華経の文字を一字ずつ記した石が埋められているところを想像しています。

   国土

青き草山雑木山、     はた松森と岩の鐘、
ありともわかぬ襞ごとに、 白雲よどみかゞやきぬ。

一石一字をろがみて、   そのかみひそにうづめけん、
寿量の品は神さびて、   みねにそのをに鎮まりぬ。

 この文語詩「国土」以外にも、賢治には「国土」という言葉が出てくる作品がいくつもあり(「〔鉄道線路と国道が〕下書稿(一)」、「〔行きすぎる雲の影から〕下書稿(一)」、「葱嶺先生の散歩」、「装景手記」)、彼が「国土」というものに何らかの思いを寄せていたのは確かなようです。
 ただ、その賢治が思う「国土」が、はたして田中智学が言うような意味での「国土」と同じだったのかどうかということについては、あらためて考えてみる必要があるかと思います。

 まず前提として、仏教的な意味で「国土」という場合には、それは「仏国土」のことであり、すなわち「すべてのものが救われる世界として、仏が建設する国」のことです。すなわち、ここにおいて「国」とは、日本とかアメリカとか言う「国家」のことではなくて、もっと普遍的な概念です。
 これに対して田中智学は、『本化妙宗式目講義録』において、次のように述べています。

所謂〔大谷註:『法華経』の〕本門は国土成仏を以てその特色として居る、故に〔大谷註:日蓮〕大士の誓願もまた閻浮統一である、全世界の成仏である、娑婆即寂光土である。

 そして大谷栄一氏は、この部分について次のように説明します。

 智学の現実認識は、個人―国家(国体)―世界の三者関係から成り立つが、個人成仏を国土成仏に包含し、全世界の国土の本国土化を訴えた。その「国土成仏の票本」として、国民国家・日本の本国土化を最優先した。

 つまり、田中智学が描いたプログラムは、まずこの日本という一つの「国家」が法華経に帰依して「本国土化」し、次の段階でその日本が世界を「道義的に統一」して、全人類が法華経を信仰するようになることで、遂にこの地球全体が「仏国土=寂光土」となる、というものだったのです。智学によれば、日本という国がそのような世界的な特別使命を帯びている理由は、神武天皇が太古この地に王統を垂れて以来世界に類のない万世一系の「国体」を有し、また日蓮がこの地に生まれて法華経を正しく解釈し説法を行ったからだ、というわけです。
 すなわち、田中智学が「国土」と言う場合には、最終的には「全世界」のことになりますが、当面はこの日本という国民国家の領土としての「国土」を指しているのです。本来の「仏国土」という意味を最終目標には置きながらも、一般的あるいは政治的な意味での「日本の国土」へと、意味を巧みに引き寄せているわけで、これを「国体」という概念とセットで論じることにより、日本中心的・国家主義的な色彩が、さらに強められる形になっています。
 智学は「本化宗学より見たる日本国体」において、次のように述べています。

予が日本の国体を本国土妙で説くと本国土妙は霊界の問題だ、現実の国家を論ずることはどうだかうだとか言ふ学者がある。けれどもこれはどうする。予より以前に六百何十年前に日蓮といふ人が日本国を法華経の本国土妙の娑婆世界だと言はれた。えらい人だ。

 ここでは、日本国こそが仏の本国土であるという、智学独自の日蓮解釈が述べられています。

 そこで賢治に戻って考えてみると、賢治が作品の中で「国土」という言葉に込めている意味が、「日本という国家の領土」というものだったかというと、そのようなニュアンスは非常に薄いと言わざるをえません。
 上の「国土」という作品で何より印象的なのは、、「寿量の品」を、「一石一字をろがみて、そのかみひそにうづめけん」という、名もなき人の秘やかで切実な法華経信仰の姿であり、国家の権威や天皇の威光を笠に着ようとした田中智学の思想とは、対極にあるように思えます。
 また、「葱嶺先生の散歩」の書き出しの部分は、次のようになっています。

   葱嶺パミール先生の散歩

気圧が高くなったので
昨日固態の水銀ほど
乱れた雲を弾いてゐた
地平の青い膨らみも
徐々に平位を復するらしい
しかも国土の質たるや
それが瑠璃から成るにもせよ
弾性なきを尚ばず
地面行歩に従って
小さい歪みをつくること
あたかもよろしき凝膠なるごとき
これ上代の天竺と
やがては西域諸国に於ける
永い夢でもあったのである

 賢治が見ているのは、日本岩手県の風景ではありますが、彼の想像は天竺や西域へと自由に飛翔し、地上の国境線などに縛られていません。

 このように、少なくとも賢治の作品に表れている「国土」は、田中智学=日蓮主義的な意味での「国土」観を反映しているとは感じられず、そこに大谷氏が指摘するような、「日蓮主義的な法華信仰」を見ることはできないのではないかと思うのです。
 大谷氏が指摘するとおり、賢治が「この国土を常寂光土にしたい」と考えていたのはそのとおりだと思いますし、これは実際いくつかの作品にも表れていますが、この思想は何も日蓮主義に限ったものではなく、もともと「法華経」や日蓮遺文から読みとれるものでしょう。

 あるいは作品以外に、賢治の書簡等に表れている内容を見ても、田中智学が最も力を入れて説いていた「国体」とか、「日本国という国家のあり方」などという問題に対して、賢治はほとんど関心を払っているようには見えません。
 1920年9月、国柱会は念願の日刊新聞『天業民報』を創刊し、賢治ももちろんこれを購読して、多くの人に見てもらうために自宅の道路側に掲示板を作ってそこに貼り出したり、友人たちにも強く勧めたりしました。そもそもこの『天業民報』という名称は、田中智学が上記のような意味で唱える「世界統一の天業」から採られたものであり、この11月からは目玉記事として、智学による「日本国体論」が連載されていたのです。
 賢治と同年に国柱会に入った石原莞爾は、この頃は中国の漢口に赴任していましたが、本国から送られてくる『天業民報』と、そこに掲載されている智学の国体論を「拝見」することを、待ち焦がれていたということです。智学が独自の日蓮遺文の解釈によって、「世界の大戦争」が起こり「日本による世界統一」が達成されると説いた国家主義的なヴィジョンをもとに、石原は「世界最終戦争」を構想し、着々とその戦略を立てていきます。関東軍の謀略に端を発した「満洲国」の建国も、そのための橋頭堡だったのです。

 この石原のような優等生的な日蓮主義者に比べて、賢治は『天業民報』を愛読し宣伝はしていましたが、その具体的内容の何かに感銘を受けたというような様子は、どこにも残されていません。本当に、田中智学の言う「世界統一という天業」を信奉していたのだろうかと、心配にもなってしまいます。これは、賢治が家出をして東京で布教活動に携わっていた期間についても同様です。
 この頃の智学の主張の根幹は、「日本国体」と「法華経」および「日蓮」を国家主義的に関連づけるというところにありましたが、賢治が「国体」という言葉を作品や書簡やメモ等に書いているのは、後の短篇「大礼服の例外的効果」における1回きりで、そこでもこの言葉が意味するところは、明らかにされないままです。

 賢治は、法華経には心底から感銘を受け、生涯の導きとしていましたし、日蓮遺文も座右に置いて味読していました。田中智学が、法華経と日蓮について当代一流の論客だったのは確かでしょうし、日蓮主義は当時の知識人の間で大流行をしていたのも事実です。それはそうだとしても、なぜ賢治は、他にもあった日連系の教団には入らず国柱会を選び、一時は家出までして布教活動をしたのでしょうか。

 本書の「あとがき」に、大谷氏は次のように書いておられます。

 今をさかのぼること、十四年前、二〇〇五年九月のことである。ある研究会の場で「戦前期日本の日蓮仏教にみる戦争観」と題した報告をした。
 田中智学の日蓮主義、石原莞爾の日蓮信仰、妹尾義郎の新興仏教について概説し、三人の戦争観や平和思想について説明した。発表終了後の質疑応答の際、「なぜ宮沢賢治が日蓮主義に魅了されたのか?」という質問を受けた。石原も賢治も同じ大正九年(一九二〇)に入会した国柱会信行員だった(妹尾は智学の影響をうけつつも、本多日生に師事した)。
 この質問には、好戦的で右翼的な傾向があるとみられている日蓮主義に、そうしたイメージとはほど遠い賢治がなぜ影響を受けたのか、という意図があったと思う。けっきょく、このときはきちんとした答えを返すことができずに研究会が終わったことを今でも覚えている。
 日蓮主義とはなんだったのか。なぜ、多くの人びとに影響を与えたのか。
 この問いに答えるために執筆したのが、本書である。

 この大谷栄一氏の著書は、「日蓮主義とはなんだったのか。なぜ、多くの人びとに影響を与えたのか」という問題については、非常に生き生きと詳細に解き明かしてくれています。ただ、その執筆の端緒となったという「なぜ宮沢賢治が?」という疑問に関しては、読後の私にもまだ謎として残っているのが現状です。

 賢治は、智学の全5巻の大著『妙宗式目講義録』を5回も通読したと言われていますし、1920年夏にはやはり智学の『本化摂折論』等からの抜き書きを集めた「摂折御文 僧俗御判」という一種の学習ノートを作成しています。
 ただ、ここに写されたテキスト中に、智学自身が書いた文章は全く含まれておらず、全てが経典や日蓮遺文の抜粋で構成されているのです。これでは、賢治にとって智学という存在は、法華経や日蓮に近づくための単なる「足場」に過ぎず、「踏み台」として利用していただけのようにも見えてしまいます。本当に賢治が、智学自身のオリジナルな思想に共感していたのなら、どこかにその痕跡が残っているはずだと思うのですが、まだ私にはそれはわかりません。
 また、上田哲氏の著書『宮沢賢治 その理想世界への道程』の「I 賢治と国柱会」の章は、国柱会側の資料や文献も詳細に調査したもので、賢治と国柱会の関わりを知る上では非常に重要なものだと思います。ここで上田氏は、国柱会と賢治の関係を様々な側面から明らかにしておられますが、これを読んでも私には、思想としての「日蓮主義」と賢治のつながりというものは、まだ見えてこないのです。

 正直なところ、現時点で私が感じているのは、賢治が国柱会に入ったのは、その具体的な思想内容に魅了されてというような「内的」な事柄によるのではなくて、もっと偶然かつ「外的」な事情によるのではないか、というようなことです。
 賢治がそれ以前から「法華経」に心酔していたことは、もちろん最重要前提ではありますが、その土台に立って、青年期になった彼が父親と対決し「家」の超克を試みるための強力な拠り所として、また賢治より先に国柱会を知っていた親友保阪嘉内を〈みちづれ〉に、一緒に乗り込むための一つの「船」として、賢治がとにかく切実に「何か」を必要としていた時に、たまたま圧倒的な存在感を持って現れたのが、田中智学と国柱会だったのではないか、というようなことを今は思っています。
 しかし、このように考えざるをえないのは、賢治と国柱会の間の「内的」なつながりがまだ私にはよく見えていないからであって、これについては今後も考えていく必要はあるのだと思っています。

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2020年2月 9日 四つの「行ッテ」と地涌の四菩薩

 タイトルの「行ッテ」というのは、「〔雨ニモマケズ〕」のテキストに、畳みかけるように出てくる「行ッテ」という字句のことです。

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

 宮澤清六氏の孫である宮澤和樹さんは、東日本大震災以降、全国各地で「〔雨ニモマケズ〕」について講演をされていますが、その際によく取り上げて話をされるのが、この「行ッテ」に込められた意味です。和樹さんは、たとえば次のように語られます。

祖父は私に「この作品は後半が大事なんだ」と教えてくれました。「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ…」と東西南北に書かれたこの部分の「行ッテ」は、特に大事だと言うのです。
活字になると「行ッテ」は三ヶ所ですが原文だと四ヶ所書かれています。「北ニケンクワヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ」には「行ッテ」が入っていません。ところが原文の手帳を見ると「北ニ…」の前のページに赤鉛筆で「行ッテ」が書かれているのです。おそらく祖父は四ヶ所目に「行ッテ」を入れるのを前ページに書かれていたために躊躇したのではないかと思うのです。
この事とは別にしても、「行ッテ」が何故大事なのかというと、賢治にとって「法華経」をこの世で実践することがなにより大事であり、知恵や知識があっても行動しなければ意味がないからです。行動こそ「行ッテ」なのだと思います。(宮沢賢治記念館における宮沢賢治生誕120年記念「雨ニモマケズ」展パンフレットより)

 このように、賢治がとりわけ重要な意味を込めたと思われる「行ッテ」なのですが、和樹さんの言われるように、上に引用した「〔雨ニモマケズ〕」のテキストでは、「行ッテ」が現れるのは「東」「西」「南」の三か所だけで、「北」には出てきません。しかし、手帳に書かれた原文を見ると、もう一つ(幻の?)「行ッテ」が、赤鉛筆で書かれているのです。
 下の画像では、かなり薄くてわかりにくいのですが、左頁の左上の余白に、薄赤い文字で少し右に傾いて、「行ッテ」と書かれています。 目を凝らして見てみて下さい。

「雨ニモマケズ手帳」p55-56
(『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』より)

 いくら薄くても、作者賢治がここに「行ッテ」と書いているわけですから、「〔雨ニモマケズ〕」のテキストを校訂する際には、これをどう扱うかが問題となります。たとえば、賢治が「ヒドリ」と書いたのだから「ヒデリ」と直さず原文どおり「ヒドリ」のままに残すべきだと主張する原典尊重主義の方々にとっては、現行の作品テキストにこの四つめの「行ッテ」が入っていないのは、由々しき問題でしょう。(しかしこれまで、そのような意見を目にしたことはありません。)
 これについて、『新校本全集』第十三巻(上)の「校異篇」p.137には、「《筆記具》鉛筆・赤鉛筆(五六頁7行上部の戯書「行ッテ」の記入のみ)」と記されており、《異文》の項では触れられていません。つまり、この「行ッテ」は、賢治の「戯書」すなわち「戯れに書いたもの」にすぎず、本文の一部ではないと見なして、テキストには採用しなかったということでしょう。
 まあこれが、常識的で妥当な判断だろうと、私も思います。

 ただここで疑問として残るのは、ではこの四つめの「行ッテ」が賢治の「戯書」だったとしても、賢治はいったい何を思って、ここにわざわざ赤鉛筆で「行ッテ」と書き記したのだろうか、ということです。

 この問題に関する考察は、これまであまり多くはないと思うのですが、『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』の著者でもある小倉豊文氏は、「「ド」と「デ」──「雨ニモマケズ」と「雨ニモマケズ手帳」」(『宮沢賢治3』洋々社, 1983)に、次のように書いておられます。

「行ッテ」とだけ後からの朱鉛筆の書き入れのあるのは「シヅカニ」を「行ッテ」と執筆当時直したのを再考したしるしか。

 すなわち、上の引用画像で、「シヅカニ」を棒線で消し「行ッテ」と直している箇所について、後からもう一度再検討した際の名残りではないか、とする説です。ただ、いったん「行ッテ」と直してしまったわけですから、これを再考するとすれば、「シヅカニ」とか他の字句を書いてみるならともかく、既にそこに書かれている「行ッテ」をもう一度書くというのは、ちょっと意図がわかりにくいところです。

 また近年、田中成行氏は「宮沢賢治「雨ニモマケズ」の教材としての本文決定の意義─井伏鱒二『黒い雨』の「雨ニモマケズ」の引用に注目しつつ─」において、次のように書いておられます。

 そこで、「雨ニモマケズ」の書かれた『雨ニモマケズ手帳』と呼ばれる、縦一三センチ横七、五センチの小さな手帳の、その複製本を見ると、「行ッテ」と同じ赤鉛筆で書かれたと思われる文字が、二ページには次のように書かれている。
「…18 十一月十六日
        就全癒…」
 これは「雨ニモマケズ」が書かれたとされる十一月三日の後の十一月十六日に結核の病状が「就全癒」つまり「全治に向かう」と書く程に回復し十八日にその体調のよさの中で「雨ニモマケズ」を読み直して「行ッテ」を同じ赤鉛筆で書き加えたものと考えたい。
 つまり、結核のため病床に伏していた賢治が、体調が回復して歩けるほどになった十六日以後に、「雨ニモマケズ」を読み直し、「東西南」に「行ッテ」と書いて自らその場に「行く」ことを願っていた時に、「北」に「行ッテ」がないことに気づき、「今なら行ける」という実感の元に、かつて石鳥谷などに肥料相談に自ら行って取り組んだように、
「北ニケンクワヤ
     ソショウガ
         アレバ
 ツマラナイカラ
    ヤメロトイヒ」
の「アレバ」の後にも「行ッテ」を入れようと、空白のある前のページに赤鉛筆の大きな字で「行ッテ」と刻みつけた、と考えたい。
 つまり、「就全癒」という、「結核により病床に伏していて実際には行く事ができないと思っていた体」の体調の回復の実感によって、手帳の「十一月三日」の内容を読み直し、「そういう者に私はなりたい」という「願い」が、今なら「行って」実践できるのではないかという、期待と喜びの思いを表した「行ッテ」であると考えたいのである。
 それ故、「北」においても、「喧嘩や訴訟があればその場に自ら訪ねて行かねばならない」という思いを抱いて読み直した時に、「北」に「行ッテ」が抜けている事に気づき、体調が回復しつつある今、赤鉛筆で余白がある前のページに「行ッテ」と丁寧に書き加えて、自ら「行ッテ」自ら行動する賢治自身のあるべき姿を完成させるために推敲した表現であると考えたい。

 すなわち、賢治自身が、実は「北ニケンクワヤソショウガアレバ/行ッテツマラナイカラヤメロトイヒ」へと、推敲し改めていたのではないかとする説です。
 さらに田中氏は、この「雨ニモマケズ手帳」のp.121-124に、同じく赤鉛筆で書きつけられた「不軽菩薩」という草稿メモに着目し、次のように述べられます。

 能を大成した世阿弥が『法華経』観世音菩薩普門品の中の言葉「衆人愛敬」を引用し、あらゆる人に愛される芸を目指して、あらゆる宗派の人々や、様々な身分や立場の人々を思いやり、あらゆる人が感動できる芸を追究したように、観念、宗派を越えたところで、賢治も東西南北あらゆるところへ出かけて行って、一人一人を思いやり自分の出来る事を精一杯やろうとし、それを願ったのではないか。そしてそんな思いを、「就全癒」と体調の回復を実感できた「十一月十六日か十八日」に赤鉛筆で日付も刻みつけ、「十一月三日」の「雨ニモマケズ」を見直して「北」の「行ッテ」を書き加え、『法華経』で意味する「四衆」に限定せず、さらに柔軟に、「東西南北」「四方」の「民衆」と言う意味での「四衆」のところに出かけて行きたいと、この赤鉛筆で「不軽菩薩」の詩の文句も、一気に刻みつけたのではなかったか。

 「不軽菩薩」あるいは「常不軽菩薩」とは、出会う人の皆に対して、「私はあなたを敬います」と言って礼拝していたので、全ての信徒(比丘・比丘尼・優婆夷・優婆塞=四衆)から逆に馬鹿にしていると誤解され、罵倒・排撃されたという人です。「〔雨ニモマケズ〕」の「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」という箇所を連想させることから、そのモデルの一つとも言われます。
 田中成行氏は、「行ッテ」が合わせて四回出てくることが、この「四衆」にも対応しているのではないかと、考えておられるわけです。

 以上、四つめの「行ッテ」に関する議論を、とりあえず振り返ってみました。
 ところで私は最近、植木雅俊著『100分de名著 法華経』(NHK出版)を読んでいて、たまたま次のような文章を目にして、あっと思いました。

 釈尊ゆかりの地を実際に訪ねることよりも、『法華経』を実践していることこそが大事なのだということです。また、釈尊は上記の言葉を地涌の菩薩たちのリーダー四人、すなわち上行、無辺行、浄行、安立行に対して語っています。四人の名前にはすべて「行」という文字が入っています。人間として立派な行ないをすることこそが大事であり、聖地を訪ねることが目的ではない、そんな主張も読みとれるでしょう。

 そもそも『法華経』全28品のうちで、誰が最大のヒーローかと言うと、釈迦如来はもちろん至高の存在ではありますが、現実に向けた「行動」を重んずる経の基本理念を体現しているのは、釈迦滅後における娑婆世界の弘教のために大地を裂いて召喚された、億千万の「地涌(じゆ)の菩薩たち」であり、中でもそのリーダーである、上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩、の四人です。
 賢治ももちろん、彼らの英雄的な行動を強く尊崇していたはずで、「〔北上川はケイ気をながしィ〕」に、「あたらしいクリストは/千人だってきかないから/万人だってきかないから」と書き、また「産業組合青年会」の草稿で、「億の天才ならんで生れ/しかも互ひに相犯さない/あかるい世界はかならず来る」と言っているのは、この「地涌の菩薩」たちを念頭に置いているのではないかと、私は思います。

 地涌の四菩薩の名前は、「上菩薩=卓越した善行をなす者」、「無辺菩薩=際限なき善行をなす者」、「浄菩薩=清らかな善行をなす者」、「安立菩薩=よく確立された善行をなす者」となっています。そして植木氏が指摘するように、全てに「」の字が入っているところに、「行動」を尊ぶ『法華経』の精神が表れているわけです。
 そしてまさにこのことが、宮澤和樹さんの述べておられる、「「行ッテ」が何故大事なのかというと、賢治にとって「法華経」をこの世で実践することがなにより大事であり、知恵や知識があっても行動しなければ意味がないからです。行動こそ「行ッテ」なのだと思います」という言葉に、ぴったり対応するではないでしょうか。
 思えば、「〔雨ニモマケズ〕」が書きつけられた次の頁には、この四菩薩の名前も含んだ「略式曼荼羅」が記されていました。

「雨ニモマケズ手帳」p59-60
(『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』より)

 すなわち、赤鉛筆で書かれたこの四つめの「行ッテ」について、私が思うのは次のようなことです。
 賢治は、この手帳に「〔雨ニモマケズ〕」のテキストを書き、さらに「略式曼荼羅」を記した後、いずれかの時期にもう一度「〔雨ニモマケズ〕」を見直していて、そこに図らずも「行ッテ」という字句が三回現れていることに気づき、「あともう一つあれば、地涌の四菩薩の名前に対応した『四つの行』になるのだがなあ…」と思って、欄外に赤字で「行ッテ」と書きつけたのではないでしょうか。

 この「地涌の四菩薩」を、四つの概念に対応させるということは、既に日蓮もやっていて、『涅槃経』に出てくる「常楽我浄」という「四徳」を、四菩薩に配当し、次のように言っています。

経に四導師有りとは今四徳を表す。上行は我を表し、無辺行は常を表し、浄行は浄を表し、安立行は楽を表す。二死の表に出づるを浄行と名づけ、断常の際を踰ゆるを無辺行と称し、五住の垢累を超ゆるが故に浄行と名づけ、道樹にして徳円かなるが故に安立行と曰ふなり。(『御義口伝』)

 賢治にも、「東西南北」の四方に「行ッテ」為す善行と、行動実践の象徴たる地涌の四菩薩とを、対応させようというアイディアがふと一瞬よぎったのではないかと、私は思うのです。

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2020年2月 2日 1931年上京時に賢治が乗ったSL

 2018年12月に、桃子さんという方から、「1931年の最後の上京の際に、賢治が乗っていたSLはどの型だったのですか?」という質問のメールをいただきました。桃子さんは、これについて調べるために国会図書館へ行き、司書の方にも協力してもらって調べたけれど、わからなかったということです。
 私は鉄道関係のことには全く明るくありませんし、これまで考えてもみなかった問題で、国会図書館で調べてもわからなかったことに何か付け加えるようなことが答えられるはずもありませんでしたが、とりあえず当時の国鉄で使われていたSLの型と各々の製造年、使用されていた路線の記録から、8620型(製造1914-1929)、C50(製造1929-1933)、C51(製造1919-1928)、C54(製造1931)のどれかの可能性が考えられるが、それ以上のことはわからないですとお返事をしました。

 その後、2019年の春にまた桃子さんからメールがあり、埼玉の「鉄道博物館」に行って調査をしたところかなりの進展があり、『全国蒸気機関車配置表』という本によれば、仙台―上野間に関しては、C51形だったことがほぼ判明したということでした。

全国蒸気機関車配置表 全国蒸気機関車配置表
徳永 益男 松本 謙一

イカロス出版 (2018/1/27)

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 ところで、この時の賢治は東京で発熱して、小林六太郎氏に9月27日の夜行二等寝台の切符を買ってもらって花巻に帰りますが、桃子さんが調べた『汽車時刻表 昭和六年九月』という資料によれば、この当時の上野から花巻までの二等寝台料金は、寝台の上段が16円22銭、下段が17円75銭ということでした。
 これがどのくらいの金額なのか、そのままではピンと来ませんが、戦前から現代までの企業物価指数が見られる日本銀行のウェブサイトをもとに、1931年の上記価格をを2018年の貨幣価値に換算すると、それぞれ15,409円、16,863円になります。現在、東北新幹線(はやぶさ)における上野―新花巻間の料金は、普通指定席で13,820円、グリーン車で17,480円ですから、この90年で所要時間は4分の1弱になった一方、値段はだいたい同じくらいというのが面白いです。

 さらに、2019年9月にまた桃子さんからメールをいただき、その後も調査を進めた結果、1931年9月19日の花巻―仙台間はC51形または86形、9月20日の仙台―上野間はC51形、ということが確定したということでした。
 この間の、桃子さんの調査の詳しい報告は、下記のブログ記事に掲載されています。

 最後の方に出てくる、蒸気機関車の型番の厖大な列がすごいですね。こういう地道な作業の結果、1931年上京時に賢治が乗ったSLは、C51形(シゴイチ)か86形(ハチロク)のどちらかだ、というところまでは追い詰めることができたわけです。
 本当に頭が下がる情熱です。

86形蒸気機関車
86形蒸気機関車(ウィキメディア・コモンズより)

C51形蒸気機関車
C51形蒸気機関車(ウィキメディア・コモンズより)

 

 さて、この調査にはさらに続篇があって、なんと桃子さんは昨年末に京都鉄道博物館のシゴイチとハチロクを見るために、横浜から京都まで3930円で、日帰り旅行を敢行したのだそうです。
 「鉄道新聞」に掲載されたその旅行記が、下記です。

 記事は写真も豊富で、お友達と二人まるで修学旅行のような夜行列車の楽しさが伝わってきて、思わずワクワクします。まさに、ジョバンニとカムパネルラの旅のような雰囲気ですね。
 京都鉄道博物館では、C51239号には無事対面できたそうですが、残念ながら8630号はちょうど完全解体されてメンテナンス中で、会えなかったということです。でもそのうち必ず復活して、勇姿を見せてくれることでしょう。

 桃子さんの調査は、賢治の世界へのこういったアプローチもあるのだと、私の目を開かせてくれました。ここにあらためて、御礼を申し上げます。

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2020年1月 3日 宮沢賢治における「倫理」と「美」

 多くの人のいだく宮沢賢治のイメージというと、ストイックで、献身的で、信仰篤く、謙虚な人というようなもので、その人柄や作品からは、「倫理的」な要素を強く感じられるのではないでしょうか。
 現実の賢治の生き方を見ても、自分一人が幸せになるとか楽をするとかいうことは眼中になく、いつも他者のために尽くそうとしていたのは確かだと思われますし、そういうところはまさに「倫理に生きた人」という感じです。
 またその作品に目を転じても、「雨ニモマケズ」はその一つの典型ですし、童話では「グスコーブドリの伝記」とか「貝の火」とか「ひかりの素足」など、読んでいて胸が苦しくなるほどの倫理性を感じます。

 しかし、その一方で賢治という人は、上のような倫理性とは別の側面として、とにかく「美しいもの」には理屈抜きに陶酔してしまうところがあったのも事実だと思います。何かに感動すると、「ほほーっ」と叫んで飛び上がったり踊り出したりしたとか、かなりのお金をかけて浮世絵(春画も含む)やクラシック音楽のSPレコードを蒐集していたとかいうところなどは、彼の倫理とは全く別の問題で、いったん「美」に魅せられると我を忘れてしまう側面もあったということかと思います。

 賢治のこの「美的」あるいは「陶酔的」な側面は、その一部の作品にも表れています。たとえば「大礼服の例外的効果」という一風変わった短篇では、卒業式に臨もうとしている校長と、賢治自身をモデルにしたような「富沢」という卒業生との間の微妙な心理が描かれます。ここで校長は、富沢が式の最中に過激な行動に出ないかと怯えながらも、「卒業証書も生活の保証も命さへも要らないと云ってゐるこの若者の何と美しくしかも扱ひにくいことよ」と嘆息する一方、富沢は校長の大礼服の「こまやかな金彩」が「明るい雪の反射のなかでちらちら顫へ」るのを見て、「恍惚としながら旗をもったまゝ校長を見てゐた」のです。
 ここでは、校長は本来校長としての威厳をもって学生に君臨すべきところ、富沢の心意気に「美」も感じつつ気圧されてしまいますし、また富沢の方も平素は権威だとか「国体」などというものについて何か言いたげな様子なのに、校長の大礼服の美しさに見とれて、ただ恍惚としてしまうのです。
 つまり、両者それぞれが持っているはずの「倫理」が、「美」に圧倒されて消し飛んでしまっているかのようです。

 あるいはまた、「鹿踊りのはじまり」においては、鹿たちが繰り広げる踊りや歌の素晴らしさに感動した嘉十が、「じぶんと鹿とのちがひを忘れて」しまい、「ホウ、やれ、やれい。」と叫びながら、鹿の前に飛び出します。すると当然ながら鹿は一瞬で逃げてしまい、嘉十は一人残されて「にが笑ひ」をするしかありませんでした。
 ここでは、鹿の踊りや歌が孕む「美」のために、人間と動物の間の境界線という「倫理」が、忘れられ破られてしまうという事態が起こっているわけです。

 上のような例に表れているように、「倫理」と「美」というのは、その両方が同時に実現されるということはなかなか難しく、一種の対立関係にあるように見えることもしばしばです。少なくとも上の二つの作品においては、両者は並び立っていません。
 そこで、このような「倫理」と「美」の両立困難性という観点から、賢治の作品を二種類に分類することができるかもしれません。「倫理>美」になっている作品と、「倫理<美」になっている作品の、二種です。

 この分類に当てはめると、最初に挙げた「雨ニモマケズ」「グスコーブドリの伝記」「貝の火」「ひかりの素足」は、「倫理>美」の代表ですし、次に挙げた「大礼服の例外的効果」や「鹿踊りのはじまり」は、「倫理<美」の例と言えるでしょう。
 ただこのように分けてしまうと、賢治は「倫理」と「美」という二つの価値を、両立不可能と見なし、個々の作品によってどちらか一方を表現しようとしていたかのようにも見えてしまいますが、実際にはそうではなく、むしろその逆だったとも言えるでしょう。賢治は、「倫理」と「美」の両方を作品中で同時に達成すべく、本気で追求しつづけていたのだろうと、私は思います。すなわち彼の作品には、この二つの契機が高い緊張感とともに、ギリギリのところでバランスをとろうとしている例も、たくさん見られます。

 たとえば、「なめとこ山の熊」という作品は、上の分類では「倫理>美」の側に属するように、私には思えます。物語の中ほどでは、小十郎が町の旦那の前では卑屈にならざるをえないというこの社会の仕組み(=現実に「倫理」されていること)に対して、作者は別の倫理的な立場から糾弾していますし、また最終的には、厳しい自然の中で人間と熊は対等であるという、小十郎や熊たちが体現している生き方(=現実社会を超越した、より高次の倫理)を、賢治は描いていると感じられるからです。
 このように「なめとこ山の熊」は、「倫理」が骨組みとなっている作品だとは思うのですが、この作品自体がどれほど高度な「美」にあふれているかということは、ここであらためて私がご説明するまでもありません。前半の母熊と子熊の会話や、最後の月明かりの山頂の場面など……。
 あるいは、「銀河鉄道の夜」も、私はまず倫理性(ex.大切な人の死、あるいは「〈みちづれ〉希求」の挫折を、人はどう受けとめるべきか、等)の方が根幹にある物語だと思うのですが、これももちろん、賢治の最も美しい作品の一つです。

 となると結局は、「倫理」と「美」が並々ならぬ高度な均衡を保とうとしている有り様こそが、賢治の作品特有の素晴らしさの秘密なのかもしれません。
 思えば、宮沢賢治という人が、一つの人格の中に、高い倫理的感性と天才的な美的感性を併せ持っていたということは、「稀有な偶然」と言うしかないことでしょう。一般には、前者を持つ人が後者も持ちやすいとか、あるいはその逆の相関も、特にはないからです。
 そしてさらに、賢治がこの二つの独立した契機を、緊密に結晶化させて文学的に表現しえたということも、またさらに稀有なことと言うしかありません。世の中には、ひたすら美を追求した作家や、また他方には倫理性を追求した文学者もいろいろありますし、その両者を盛り込もうとした人もあるでしょうが、賢治のような形でそれを達成した人は、やはり他にあまりいないように私には思えます。

 ただおそらく、賢治自身の考えでは、「倫理」と「美」が同時に完全に充足されるのは、『法華経』に云う「娑婆即寂光土」という状態であり、賢治のほんとうの理想は、そこにあったのでしょう。彼にとっては、そこでこそ究極の倫理と美が実現されているわけであり、自身の創作活動は、何とかしてそこに近づこうとする、一つの試みに過ぎなかったのかもしれません。
 しかし賢治のおかげで、私のような信仰を持たない者でも、彼の作品を読むことによって、「倫理」と「美」というもとは独立した別の契機が、奇跡のような結合をしている様子を、ありありと体感することができるのです。

 このように、賢治の作品の真骨頂は、「倫理」と「美」が織りなす構造にあるのだろうと思うのですが、現実の彼の作品では、両者が対等な扱いを受けているわけではありませんので、上のように「倫理>美」群の作品と、「倫理<美」群の作品があるということになります。
 個々の作品について、どっちに属するのだろうと考えてみることは、作品を普段とは別の角度から見てみることにもなって面白いのではないかと私は思うのですが、たとえば、「虔十公園林」は、どちらに入るでしょうか。

 一般的にはこの作品は、「倫理的」な視点から読まれることが多いのではないでしょうか。今福龍太氏が昨年刊行された、『宮沢賢治 デクノボーの叡智』は、幅広い観点から賢治の作品や思想について考えさせてくれる素晴らしい本ですが、ここでは虔十という主人公を、賢治の言う「デクノボー」の典型としてとらえ、これを一つの「倫理的モデル」と見ます。

 「虔十公園林」でもっとも凝縮した物語として語られた賢治の「デクノボー」とは、どのような内実を持った存在なのでしょう? 私たちが「愚かさ」を否定し、「賢さ」に特権を与える常識的な二分法がまったく的外れであることは、先の「博士」の言葉からもあきらかです。さらに一歩踏み込めば、賢治によるデクノボー的形象は、「愚かさ」そのもののなかにこそ守られているある資質としての「智慧」を信じようとするときの手がかりだとも言えるかもしれません。その考えは、差別される愚者への感情移入という心理的側面がまったくないわけではありませんが、それ以上に、知性というものを本質的に謙虚で慎ましいものとしてとらえる一つの倫理意識の表明でもありました。(同書p.175)

 今福氏は、このような「倫理」的視点から、虔十という主人公を解釈しておられますが、しかし私としてはこの物語は、賢治の作品の中では「倫理<美」のグループの一つの典型のように、思えるのです。
 以前に、「「ほんたうのさいはひ」を求めて(2)」という記事にも書いたことですが、この物語の主人公である虔十という人の本質は、「類い稀な美的感受性を持ち、それにある種の表現を与えた」というところにあると、私は思うのです。彼が知的には「愚か」と言われる状態だったというのは、彼の本質ではなくて、「たまたま」のことにしか過ぎないと思うのです。

 虔十は、物語の冒頭で描かれているように、「雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいて」という様子だったということですが、これは賢治が感動すると、「ほほーっ」と叫んで飛び上がったり踊り出したりしたというのと同じで、美しいものを見ると、我を忘れ自分を抑えられなってしまうのです。賢治の例も考え合わせると、これは当人の知的能力とはまた別の特性です。
 ただこのような特性によって賢治は、虔十のように「ばかにされる」というほどではなかったかもしれませんが、少なくとも周囲から「変わった人」と思われていました。

 虔十は、上のような振る舞いのために、子供たちにもばかにされ笑われていましたが、ある時思い立って、規則的に配列された小さな杉林の空間を造成することにより、自分をばかにしていた子供たちに、自分と同じような感動を教えるのです。
 虔十の創作物であるその杉林に遊びに来た子供たちは、思わず「みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐる」という状態に陥ってしまうのですが、これはそれまで自分たちがばかにしていた、虔十の「口を大きくあいてはあはあ笑」っていた気持ちに、知らずに同化してしまったわけです。

 ところで、虔十がやったような「風景をデザインする」という試みのことを、賢治は「装景」という独自の概念で呼び、文学的表現と並んで自らの美的表現手段の一つと考えていました。すなわち、虔十も賢治と同じく「装景者」だったわけです。
 ただ、類い稀な美的感受性を持ち、それを何らかの形で表現していたとしても、なかなか他人はその価値をわからずに、道楽者とかデクノボーとか言ったりもするでしょう。しかし、いったんそれが何らかの権威によって芸術として評価されるようになると、とたんに掌を返したように、ちやほやしたりもするのです。
 虔十の場合も、世間からはばかにされたまま忘れられかけていましたが、偶然アメリカ帰りの博士という「権威」がその杉林を認めてからは、急に石碑が建ったりお金が集まったりするようになるのです。これも賢治が死後に浴びることになる賞賛と同じです。
 そして、そのように世間に認められるまでの間、ただ家族がその「作品」を大切に守っていたというところまで賢治の場合と同じで、ちょっと胸が熱くなります。

 それやこれやの意味で、やはり確かに虔十は賢治の分身だと思うのですが、その共通する本質は、すぐれた美的感受性をもった「装景者」であるが、世間からは理解されていなかった、というところにあると私は思います。虔十が知的に愚かであったという設定は、物語を寓話的に構成する上での一つの工夫にすぎず、作者としては「愚かさ」に対して何か積極的で特別な意味づけをしようとわけではなかったのではないかと、私は思うのです。
 「雨ニモマケズ」でも、描かれている「デクノボー」は、「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ 」というすぐれた能力があり、実際には決して「愚か」な人間ではありませんでした。

 ということで、私としては「虔十公園林」という物語は、「倫理<美」という側に属すると思う次第です。美的感受性やその表現物は、理解されずばかにされていたかと思えば、権威によって箔が付けられたりもするという、「倫理」とは別のアイロニーが描かれるとともに、それでもやはり「雨の中の青い藪」や「青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹」の美しさは、変わらず輝いているのです。

 ただ、この『宮沢賢治 デクノボーの叡智』という本そのものは、私が最近読んだ賢治関連の本の中ではとても面白く、新たな見方もいろいろと教えてくれるものだったということを申し添えておきます。

宮沢賢治 デクノボーの叡知 宮沢賢治 デクノボーの叡知
今福 龍太 (著)

新潮社 (2019/9/26)

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2019年12月29日 おお朋だちよ 君は行くべく…

 「農民芸術概論綱要」の、「農民芸術の綜合」という節の最後に、次の言葉があります。

おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

 この言葉の意味がちょっと気になったのですが、これは具体的には、どういうことを言っているのでしょうか。
 ごく普通に考えれば、「農民芸術」という企画について論じ、それを一緒に実践していこうと、農村の若者たちに呼びかけるこの「概論綱要」の主旨からすると、ここに出てくる「行く」というのは、農民芸術の活動を進めて行く、ということかと思われます。そして、「朋だち」である「君」がまず農民芸術を実践して行けば、やがては全ての農民もそれに続いて「行く」であろう、という風に解釈することができます。

 前後の文脈からしても、この解釈でまあ特に問題はないようにも思えるのですが、ただ少し気になる点が一つ残ります。「農民芸術概論綱要」全体の基調としては、主語は基本的に「われら」であり、「われら」はこうあるべきである、だから一緒にこうして行こう、と皆に呼びかける形になっているのに対して、どうしてここでだけは、「君」ひとりが先に行き、それ以外はなぜか遅れて、「やがて」になっているのか?という点です。
 また別の角度から具体的に言えば、「この『君』とは、どういう人のことを想定しているのか?」という問題です。

 この「農民芸術概論綱要」は、農村の若者を対象として1926年1月末から3月にかけて行われた、「国民高等学校」という連続講座の講義内容をもとにしたものですが、誰かその生徒の中に、ここで言う「君」として先に行く者があったとは、考えにくい感じがします。生徒には、各農村から優秀な人材が集まっていたということですが、賢治の講義は難しく、皆なかなか理解しづらかったと言われています。
 となるとこの「君」は、教室で目の前にしている生徒の誰かではなくて、賢治自身の「朋だち」なのではないかとも思われるのですが、そこで私としてどうしても思い浮かんでしまうのは、あの保阪嘉内です。

 保阪嘉内と賢治は、1921年7月に東京で会い、この時賢治は嘉内に対して、一緒に国柱会で法華経の教えを世の中に広める活動をしようと、強く誘ったのだと思われます。しかし嘉内は、故郷に帰って農村の改革発展に努めたいという目標があり、結局は賢治の誘いを断って、二人はそれぞれに寂しさを抱えたまま、別々の道へと踏み出したのだろうと思われます。
 その後の保阪嘉内は、電力会社の依頼で山梨県の地質調査をしたり、山梨日日新聞の記者をしたりした後、1925年5月に新聞社を退職して、故郷の駒井村で農業を始めます。
 おそらく当時の嘉内は、そのことを賢治に手紙で知らせたのでしょう。1925年6月25日付けの、賢治から嘉内への「残された最後の」書簡207には、次のように書かれています。

お手紙ありがたうございました。
来春は私も教師をやめて本統の百姓になって働らきます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します
〔後略〕

 先に営農生活に入った嘉内に続き、「来春には私も教師をやめて本統の百姓になって働らきます」と告げているわけです。
 そして、賢治が国民高等学校で「農民芸術」の講義を行った1926年3月は、賢治がその「百姓」になる直前でした。賢治が、「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう」と書いたのは、このような流れの中のことでした。
 やがては「すべて」の農村において、このような農民芸術が興隆して、農民の暮らしが精神的に豊かになっていってほしいというのが、当時の賢治の夢でした。農村発展に尽くす嘉内と同じ道を、「やがてはすべて行くであらう」というわけです。
 こういう意味で、「おお朋だちよ 君は行くべく…」という言葉は、あの別れから5年を隔てた保阪嘉内への、賢治からの遠い呼びかけのように、私には感じられたのです。

 一方、この「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう」という言葉を、もっと大局的に、賢治の「〈みちづれ〉希求」という心理の転帰に重ねて考えてみることもできるでしょう。

 賢治が1921年7月に嘉内に対して、ともに〈みちづれ〉となって仏道を歩もうと請い求めた時、嘉内は別の道を選んで去って行きました。ここで賢治の「〈みちづれ〉希求」は挫折したわけですが、しかしやがて彼は、個人を〈みちづれ〉とするのではなく、一切衆生を〈みちづれ〉として至上福祉を目ざさなければならないのだと、新たに自覚するに至ります(cf.「小岩井農場」)。「〈みちづれ〉希求」は昇華され、普遍化されたのです。
 この一連の経過と考え合わせると、「おお朋だちよ 君は行くべく」という部分は、嘉内が個人的な〈みちづれ〉とならずに去って行ったことに対応するように思えますし、「やがてはすべて行く」という部分は、「すべての衆生を〈みちづれ〉として進む」ことを指しているように感じられます。

 「国民高等学校」における賢治の「農民芸術」の講義を、生徒の伊藤清一書き取った「講演筆記帖」(『新校本全集』第十六巻(下)補遺・資料篇)によれば、「世界が全体真実に幸福にならないうち一人の幸福はあり得ない」「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」との記載に続いて、(仏教では法界成仏と云ひ自分独りで仏になると云ふことが無いのである)との言葉があります。
 この「法界成仏」とは、日蓮の書簡「船守弥三郎許御書」にある、「一念三千の仏と申すは法界の成仏と云ふ事にて候ぞ」に由来し、「十界」のうち「仏界」を除いた、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の「九界」に属するすべての衆生が成仏するということを意味します。
 すなわち、これは一切衆生を〈みちづれ〉とした成仏であり、やはり「やがてはすべて行く」ことになるのです。

 またもう一方で、以前に「トシの「願以此功徳 普及於一切」」という記事に書いたように、「個人的(利己的・排他的)な愛を超克して、普遍的な(凡ての人人に平等な無私な)愛に至らねばならない」という命題は、賢治が「小岩井農場」や「青森挽歌」で定式化するより数年前の1920年に、既にトシが「自省録」に書き付けていたものでした。

 或特殊な人と人との間に特殊な親密の生ずる時、多くの場合にはそれが排他的の傾向を帯びて来易い。彼等の場合にも亦そうではなかったか? 他の人人に対する不親密と疎遠とを以て彼等相互の親密さを証明する様な傾きはなかったか?
〔中略〕
 彼女が凡ての人人に平等な無私な愛を持ちたい、と云ふ願ひは、たとへ、まだみすぼらしい、芽ばえたばかりのおぼつかないものであるとは云へ、偽りとは思はれない。
 「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に──」と云ふ境地に偽りのない渇仰を捧げる事は彼女に許されない事とは思へないのである。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)

 上に引用されている、「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」という『法華経』の「化城喩品第七」の「偈」は、もちろん賢治がトシに教えたもののはずですし、その内容について理屈の上では、賢治の方がトシよりも先に理解していたわけです。
 しかし、女学校時代の教師とのスキャンダルという重い心の痛手から立ち直ろうとする中で、トシは21歳にしてこの法華経の言葉の神髄を、体感的に具体的につかみとり、それを「自省録」に書き記したのです。

 賢治がトシの「自省録」を読んでいたかどうかはわかりませんが、たとえ読んでいなかったとしても、上のようなトシの考えについては、彼女自身の口から聞く機会があったはずです。そして、賢治自身が保阪嘉内やトシや堀籠文之進との間の喪失体験において、このトシの考えをあらためて真に具体的に感じとり、「小岩井農場」や「青森挽歌」の推敲過程に盛り込んでいったのではないかと、私は思っています。
 その意味で、賢治よりも先に「逝って」しまったトシの心を賢治が受け継ぐことによって、結局「やがてはすべて行く」(皆共成仏道)ことになるのだと考えてみれば、これもこの言葉の、勝手な一つの解釈になるのではないでしょうか。

 賢治がトシの遺志も継ぐ形で、一切衆生を〈みちづれ〉とする道を歩む決心をしたとすれば、これこそ私がかねてから抱いている仮説のように、彼が「いつもトシとともにいる」と感じるようになった、大きな根拠のようにも思われます。トシの心は、賢治の中でずっと生きつづけていることになるからです。

 ということで、「農民芸術概論綱要」の一節に込められた含意について、思いつくままに考えてみました。
 1921年7月に、賢治が帝国図書館の一室で、保阪嘉内から「君と一緒に行くことはできない、僕は故郷に帰ってやらねばならないことがあるから」と告げられた時、5年後の「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう」という言葉をもって、嘉内にはなむけの言葉とすることができたなら、それはとても格好よかっただろうな、などと想像したりもしています。

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2019年12月15日 宮沢賢治作品の幻想性の由来

 先週12月8日に、「日本イメージ心理学会」のシンポジウム「宮沢賢治の持つイメージの世界をどう読み解くか」でお話をさせていただいた際の配付資料を、下記にアップしました。嵩高いタイトルでちょっと気恥ずかしいですが、ご興味がおありの方にお読みいただけましたら幸いです。

「宮沢賢治作品の幻想性の由来――その方法論と体験特性」(配付資料)

 ところで今回の発表では、賢治のモチーフをあしらった縦書きのパワーポイントテンプレートを作成して、初めて使ってみました。作品テキストを引用する際には、「月夜のでんしんばしら」やはり縦書きの方がしっくり来るので、従来は横書きと縦書きが混在するスライドになっていたのですが、これで全体が縦書きで統一できました。
 タイトル行の区切り線の上端には、賢治が描いた「月夜のでんしんばしら」を入れています。

 スライドの中から、アニメーションを用いた数枚を、GIFにして下に貼っておきます。

気配過敏・被注察感

離人症

体外離脱体験

(部分的)体外離脱体験

部分憑依

解離性幻覚

世界合一体験

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