2016年7月17日 秩父の碑を三つ

 この3月に秩父地方に行った際に見学してきた三つの碑、「雨ニモマケズ」詩碑「荒川ぎしの片岩」歌碑「本野上」歌碑を、「石碑の部屋」にアップしました。
 これで、当サイトにアップしている賢治文学碑の数は、139基になりました。

「雨ニモマケズ」詩碑「雨ニモマケズ」詩碑

「荒川ぎしの片岩」歌碑
「荒川ぎしの片岩」歌碑

「本野上」歌碑「本野上」歌碑


 賢治が、秩父地方の地質学研修旅行に行ってこれらの歌を詠んだのは、今からちょうど100年前の1916年ですが、この年20歳になった賢治にとって、この1916年とは、その活動範囲や視野が一挙に広がった、画期となる年でした。
 それまでの賢治にとって、岩手県の外に出た経験と言えば、16歳で中学校の修学旅行において、お隣の宮城県の松島、仙台へ行っただけだったのですが、この1916年には、まず3月に盛岡高等農林学校の修学旅行で京都、大阪、奈良をめぐり、8月には「独逸語夏季講習会」を受講するために上京して約1か月の東京暮らしを行い、そしてそのまま9月の秩父旅行に合流したのです。

 賢治が岩手から飛び出して、コスモポリタンとなっていくために、重要な意味のある一年だったのではないかと思います。

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2016年7月10日 マリヴロンと虹

 「めくらぶだうと虹」と、「マリヴロンと少女」という二つの童話は、登場するキャラクターは異なっていますが、ストーリーは全く同じと言ってもよい内容です。それもそのはずで、後者は、前者の草稿に赤インクで大幅に手入れをするという形で、誕生したのです。 ちなみに下写真が、その「赤インク」が入った1頁目です。

「めくらぶだうと虹」「マリヴロンと少女」草稿
『新校本宮澤賢治全集』第8巻口絵より

 手入れ前の「めくらぶだうと虹」は、地上のめくらぶどうが、天上の虹を讃え敬い、虹に対するかぎりない憧れを述べ、自分を教え導いて下さいと懇願するのに対して、虹の方は、自分もめくらぶどうも価値においては同じである、すべては無常であるとともに「まことのひかり」の中では不滅なのだと説き、すがるめくらぶどうを残して消え去る、というお話です。
 「美のはかなさと永遠性」というようなテーマを、大乗仏教的世界観のもとに、賢治らしい繊細な自然描写によって綴ったもの、とでも言えるでしょうか。

 手入れ後の「マリヴロンと少女」においては、前者における「虹」が有名声楽家の「マリヴロン」に、「めくらぶだう」が「彼女を崇拝する少女」に、それぞれ置き換えられます。配役は変わるものの、物語の構造は同一で、それぞれが述べる台詞も、大まかには共通しているのです。

 「めくらぶだうと虹」が書かれたのは1921年秋頃と推定されており(『宮沢賢治大辞典p.215)、これが「マリヴロンと少女」へと書き換えられたのは、だいたい賢治が羅須地人協会を始めた頃、すなわち1926年あたりと考えられているようです。
 その根拠として、たとえば佐藤泰正氏は、「宮沢賢治――その改稿の問いかけるもの」(『国文学 解釈と鑑賞』平成13年8月号)において、作品中でマリヴロンが述べる「正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです」「鳥はうしろにみなそのあとをもつものです」という言葉と、「農民芸術概論綱要」の思想との共通性を挙げておられますし、また天沢退二郎氏は、『《宮沢賢治》論』所収の「〈読み書き〉の夢魔を求めて」の中で、次のように書いておられます。

 「めくらぶだうと虹」から「マリヴロンと少女」への転位は、こうして、<死との関係>から<限界芸術論>への道すじとして読めること、しかもなお、その道すじは、ひばり=詩人に調子はずれの歌をうたわせることをやめないということが、私たちの足をなおここにとどめさせるのだ。『春と修羅』第一集の詩人を、農民劇や「修学旅行復命書」の限界芸術者へと向かわせるにいたる原点にやはりとし子の死があったことを、「めくらぶだうと虹」→「マリヴロンと少女」は暗示する。

 ここはとても難しい箇所で、全体としては私の理解能力を越えているのですが、最後の部分を読むと、「めくらぶだうと虹」→「マリヴロンと少女」という書き換えには、「とし子の死」が何らかの意味で関係している、ということを天沢氏は考えておられるようです。したがってその書き換えの時期は、やはり妹トシの死よりも後、ということになります。
 そして私としても、(天沢氏の論旨全体は理解できないながらも)上の結論部分に関してはなぜか同感で、すなわち「マリヴロンと少女」には、どこか「トシの死の後の賢治の思想」に通ずるものがあるような気がするのです。
 あまり、きちんと筋道立てて述べられるような根拠はなくて、「何となくそう感じる」という程度の事柄なのですが、それは下記のようなことです。

 前述のように、「めくらぶだうと虹」と「マリヴロンと少女」とは、その基本的な中身はほとんど同じと言ってよいと思うのですが、それでも微妙に違っているところがいくつかあります。
 たとえば、物語の最後の場面で、めくらぶどう/少女の必死の懇願に対して、虹/マリヴロンが答える言葉です。

 まず、「めくらぶだうと虹」。

「私を教へて下さい。私を連れて行って下さい。私はどんなことでもいたします。」
「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考へてゐます。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるといふことはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでせう。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。私はあなたにお別れしなければなりません。」
 停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴りました。
 もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行きました。
 めくらぶだうは高く叫びました。
「虹さん。私をつれて行って下さい。どこへも行かないで下さい。」
(後略)

 次は「マリヴロンと少女」における、上記に相当する場面。

「私を教へて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします。」
「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう。」
 停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴り、もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行く。
「先生。私をつれて行って下さい。どうか私を教へてください。」
(後略)

 ここで私が注目したいのは、虹/マリヴロンの最後の言葉です。大まかには同じなのですが、いくつかの相違点があるので、下記において、それを一文ずつ比較してみます。異なっている部分を、赤字にしておきますので、上と下を見比べてみて下さい。

虹の言葉

  1. いゝえ私はどこへも行きません。
  2. いつでもあなたのことを考へてゐます
  3. すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。
  4. いつまでもほろびるといふことはありません。
  5. けれども、あなたは、もう私を見ないでせう
  6. お日様があまり遠くなりました。
  7. もずが飛び立ちます。
  8. 私はあなたにお別れしなければなりません

マリヴロンの言葉

  1. いゝえ私はどこへも行きません。
  2. いつでもあなたが考へるそこに居ります
  3. すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。
  4. (削除)
  5. けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません
  6. お日様があまり遠くなりました。
  7. もずが飛び立ちます。
  8. では。ごきげんよう

 文の番号で言えば、1.、6.、7. は、全く同じです。2.、3.、5.、8.がそれぞれ異なっており、4.は、「マリヴロンと少女」では削除されています。
 それでは、2.、3.、5.、8.の違いを、一つ一つ見てみましょう。

 まず、2.では、「めくらぶだう」における「考へてゐます」が、「マリヴロン」では「考へるそこに居ります」となっていて、マリヴロンがそこに「存在している」ことが際立っています。
 また、3.においても、前者の「いつでもいっしょに行くのです」が、後者では「いつでもいっしょにゐるのです」になっていて、ここでも「行く」が「ゐる」に変えられることにより、マリヴロンの「存在」が強調されているように感じられます。
 「めくらぶだう」における「考へてゐます」というのは、そこに一緒にいなくてもできることですし、「まことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」というのも、たとえその身が離れていても(「まことのひかり」を共有しておれば)可能であることに、注目しておきたいと思います。

 4.の文が前者にあったのに後者では削除されたのは、どういう意味があるのでしょうか。前者において、「ほろびるということはありません」と言われているのは、「虹」のことではないですよね。「すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」という、一つの「法」とでも言うべき真実が、「滅びない」のでしょう。「マリヴロンと少女」においてこれが消されているのは、あえてこのことは説く必要なないと作者が考えたのでしょうか。

 5.は、両者で主語の異なった文になっています。前者において「あなたは、もう私を見ないでしょう」とあるのは、対象は本来は滅びることはないのに、それを見るこちら側の問題によって、滅びたように思ってしまうのだということでしょうか。
 後者で、「けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません」とマリヴロンが言うのは、その直前に「そこに居ります」「いつでもいっしょにゐるのです」と言っていたことと一見矛盾するようですが、この矛盾こそが、作品の眼目でもあるのでしょう。

 8.は、前者では「別れ」という言葉が使われていて、本当に「別れてしまう」という感じが強いのですが、後者では「では、ごきげんよう」と、とても気軽な挨拶で、まるで、またいつでも会えるというような雰囲気です。


 以上のような相違点があるわけですが、手入れ前の「めくらぶだうと虹」における虹の言葉から私が感じるのは、たとえお互いは離れていても、「いっしょに行く」=信念を共有して進むことはできるのだ、というような考えです。「存在」よりも、「法」あるいは「道」の不滅を説くという感があり、その不滅性がおびやかされるとすれば、「あなたはもう私を見ない」というような、こちら側の信念の問題だということでしょうか。
 これに対して、手入れ後の「マリヴロンと少女」におけるマリヴロンの言葉から私が感じるのは、「いつでもあなたが考へるそこに居ります」とか「いつでもいっしょにゐるのです」という言葉に象徴されるように、「ずっと対象ともにある」という感覚です。その対象は、「もう帰らなければなりません」とか「では、ごきげんよう」という風に目の前から去ってしまうようではありますが、それでも本当は、「いつでもいっしょにゐる」のです。

 ということで、結論として私が今回の記事で言いたいのは、「めくらぶだうと虹」の方には、ひょっとして保阪嘉内との「別れ」という体験の影響があったのではないか、「マリヴロンと少女」の方には、トシとの死別と悲嘆の影響があったのではないか、ということなのです。
 前者は、1921年の秋に書かれたと推定されているので、この年7月の嘉内との悲しい別れの、少し後です。
 後者は、1926年の手入れであれば、1922年11月のトシの死よりは、後のことです。
 したがって、時期としては、それぞれが嘉内との別れ、トシとの別れと関係したとしても、矛盾はありません。

 「めくらぶだうと虹」が、保阪嘉内と別れを反映しているという前提で読んでみると、2..の「いつでもあなたのことを考えています」とは、嘉内は賢治と離れていても、賢治のことを考えてくれている、という風にも解釈できます。
 3.の、「まことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」が表しているのは、たとえ生身の賢治と嘉内は「物別れ」になって、離ればなれでいたとしても、2人の志は同じであり、同じ道を進んでいるのだ、という風に解釈することもできます。

 「マリヴロンと少女」が、トシとの死別と関係しているとすれば、ここに記されている「いつでもあなたが考へるそこに居ります」とか「いつでもいっしょにゐるのです」という言葉は、以前に「千の風になって」や「そしてみんながカムパネルラだ」という記事に書いたように、賢治がトシの死を乗り越えて、「いつも身近にトシの存在を感じられる」というような心境に至ったのではないか、という私の仮説につながってきます。
 1924年の7月に賢治は、「〔この森を通りぬければ〕」、「〔北上川はケイ気をながしィ〕」、「薤露青」などの作品を書きますが、そこにはトシの「声」やトシとの会話があふれています。この頃に、トシの「不在」を真に受容できるようになったことが、逆説的にその「遍在」の認識への扉を開いてくれたのではないかと、私は思っているのですが、「マリヴロンと少女」における、「いつでもあなたが考へるそこに居ります」等の言葉に、相通ずるものを感じるのです。たとえば、「いつでもいっしょにゐる」と言いながら、「もう帰らなければなりません」「では、ごきげんよう」と言うという「矛盾」は、トシが「不在」かつ「遍在」という「逆説」と似ています。

 「めくらぶだうと虹」と、「マリヴロンと少女」を見比べていて、ばくぜんとそのようなことを思いました。

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2016年7月 3日 こんにゃく座のオペラ「グスコーブドリの伝記」

 先月以降、更新の間隔がだいぶ空いてしまいまして、申しわけありませんでした。しばらくの間、以前に「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」でお話ししたことを、「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」という論文の形にまとめようとしておりました。

 ところで、先日「オペラシアターこんにゃく座」から案内のチラシが届き、賢治生誕120周年を記念して、この9月にこんにゃく座としても久々の宮沢賢治オペラの新作、「グスコーブドリの伝記」の公演が行われるということです。

こんにゃく座「グスコーブドリの伝記」バナー

 作曲の寺嶋陸也さんは、林光さんとのご縁も深かった方なので、何となくこれまでから、こんにゃく座のお仕事も結構なさっているような気がしていたのですが、「書き下ろし」となると今回が初めてなのだそうですね。
 寺嶋陸也さんのオペラと言えば、ちょうど1年前の去年の7月に、室内オペラ「耳なし芳一」を神戸に聴きに行って、大変に感銘を受けました。また、今度の7月18日には、知人の詩に寺嶋さんが作曲された作品の初演ということで、相模原市にも行く予定にしており、いろいろとご縁があります。

 今度の「グスコーブドリの伝記」も、できればぜひ聴きに行きたいと思っているのですが、次の週がいわゆる「賢治ウィーク」で、いろいろと出かける予定があり、体力の配分をどうしたらいいか・・・、と、今から悩んでいるとことです。

オペラシアターこんにゃく座公演 宮澤賢治生誕120周年記念
グスコーブドリの伝記
2016年9月14日(水)>18日(日)
俳優座劇場
チケット発売日:7月16日午前10時より(申し込みは こちら

 下の動画は、こんにゃく座がこれまで公演した賢治作品をまとめたものです。私にもいくつか、懐かしいものがあります。

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2016年6月 7日 マルカンデパート閉店(付・とらや)

 いよいよ本日6月7日をもって、花巻市上町にある「マルカンデパート」は、いったん閉店となりました。今日は朝10時の開店前から長い行列ができ、午後7時に惜しまれながらシャッターが閉じられたということです。

マルカンデパート貼り紙 右の写真は、この4月に行った時に目にした貼り紙ですが、「43年」というのは今の場所で営業を始めてからの年数で、店そのものの創業は1960年だったということですから、「同い年」の私としては、個人的にも寂しさが身にしみています。

 しかし一方で、本年3月の閉店発表を受けて、このデパートの運営引き継ぎに名乗りを上げた「花巻家守舎」の小友康広代表取締役は、去る5月31日に記者会見を行い、「基本的に存続できるめどは立った」として、運営引き継ぎの準備に入る方針を明らかにしてくれました。
 まだ、耐震工事など大規模改修に必要な資金調達は難航する可能性もあり、事業に着手するかどうかは8月に最終判断をするということですが、計画が順調に進んだ場合には、来年2月の再オープンを目ざすということです。

 現時点では先行きは予断を許さないものの、花巻市の上田東一市長も6月3日に記者会見を開き、「ビルの耐震工事費用の一部を市が負担したり、市の中央地区振興センターを一つのフロアに移転しテナント料を払うなどの形で支援する用意がある」と述べるなど、周りの応援態勢もかなり整ってきている感はあります。
 花巻家守舎では、6億円とされる大規模改修の費用うち、2億円はインターネットを通じたクラウドファンディングの手法で、6月中旬頃から寄付金を募るよう計画しているとのことですので、全国のマルカンファンの方々もぜひご注目下さい。

 私としては、3月上旬にマルカン閉店のニュースを聞いて、6月7日までには訪問できるチャンスはもうないかもしれないと思っていたのですが、その後4月28日に何とか都合が付けられたので、飛行機で行ってまいりました。
 デパートの入口に貼られていた紙は冒頭のとおりですが、エレベーターで6階の食堂に着くと、混雑のために「メニューの制限」も行われているようです。

マルカン食堂メニュー

 少なくとも今の経営形態のもとでは最後になるであろうマルカンの食事として、何を選ぼうかと迷ったのですが、ナポリタンスパゲッティとトンカツとサラダのコンビネーションによる名物メニュー、「ナポリカツ」=660円にしました。
 下の写真が、運ばれてきた「ナポリカツ」です。

ナポリカツ

 メインのナポリタンはたっぷりボリュームがありますし、たくさんのハムやタマネギに甘酸っぱいケチャップは、懐かしい「昭和風味」という感じです。一皿でもうお腹いっぱい。

 そして食後のデザートには、やっぱりお約束の「これ」ですよね。

マルカンソフト

 マルカン名物ソフトクリーム180円。岩波新書と高さを比べるとご覧のとおり。25cm以上ありますが、割り箸で食べていくと、あっという間です。

 ごちそうさまでした。

マルカン大食堂

 さて、お腹も満たされてマルカンデパートを後にすると、それから賢治生家の前を通って、豊沢町で「花巻納豆」を買ったり、盛岡へ移動して「高洞山」を見たりしたのですが、夜は盛岡市南大通にある居酒屋「とらや」に行くことにしました。

居酒屋百名山 (新潮文庫) 居酒屋百名山 (新潮文庫)
太田 和彦

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 ここは、太田和彦氏が全国の呑み屋をめぐる『居酒屋百名山』という本にも登場するお店で、以前からとらや外観一度行ってみたかったのですが、日曜祝日はお休みという営業日の関係で、個人的にはこれまでなかなか都合が合わずにいました。
 今日は幸い平日なので、開店時刻の午後5時に合わせて店に向かいます。
 やがて見えてきた外観は、右写真のような感じで、縄のれんにも年期が入っています。

とらや店内 5時5分頃に入店すると、まだお客さんは誰もおらず、私が一番乗りでした。太田和彦氏の言う「貫禄のあるお母さん」に迎えられて、年月で磨かれぴかぴかのカウンターに腰を下ろします。
 この時点では確かに誰もいなかったのですが、私が腰を下ろすや否や、どんどんお客さんは入ってこられて、5時30分の時点では8割方、5時50分にはもう満員となりました。店内が、あっという間に笑い声の絶えない賑やかな空間に変貌していく様は、このお店の繁盛ぶりを何より示してくれました。

焼き鳥 注文したメニューの一部をご紹介すると・・・。
 まず右は、しっかりとした大きな身の「焼き鳥」ですが、奥に見えるウズラの卵が乗った大根おろしを付けて食べるという趣向が、ユニークです。
 熱燗のお酒は、近くの紺屋町の「菊の司」で、写真のように分厚い硝子のコップで飲むのが素敵です。

豆腐 続いて右は、このお店の名物の一つでもある「豆腐」です。
 このしっかりとした豆腐は、湯豆腐のように温められていて、その上に鰹節、ネギ、海苔がたっぷりと盛られています。豆腐そのものの味にもコクがあって、『居酒屋百名山』においては太田和彦氏も絶賛の一品です。

あみおろし 三つめは、「あみおろし」です。
 これは、「アミタケ」というキノコをゆでて、醤油をたらした大根おろしで和えて食べるものなのですが、アミタケ独特の歯ごたえ、粘り、旨みが最高です。シンプルでありながら、これも素晴らしい酒の肴です。

 というような感じで、6時半くらいまでいくつかのお料理とビールに、お酒を3合ほど楽しんで、バスでホテルに帰ったのでした。


とらや看板

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2016年5月29日 石碑を四つ追加

 「石碑の部屋」に、下記の四つの詩碑を追加しました。

 これで、「石碑の部屋」に掲載している碑の数は、全部で136基となりました。まだ手もとには、写真を撮影してきたもののまだアップできていない詩碑が、6つほどあるのですが、追って掲載していきたいと思っています。

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2016年5月22日 大川小学校の壁画

 今年3月26日、石巻市の亀山紘市長は、津波で被災した大川小学校の校舎全体を、将来にわたって「震災遺構」として保存すると発表しました。ということは、学校の一角に残されている、賢治をテーマにした卒業制作の「壁画」も、今後も保存され続けるということでしょう。
 私は以前から、「三陸の賢治詩碑の現況(1)(2)(3)(4)(5)」などのレポートをしていた際にも、この壁画のことが気になっていたのですが、今回の決定を聞いて、やはりこれを当サイトの「石碑の部屋」に収録させていただくことにしようと思って、去る5月3日に石巻市に向かいました。

 仙台空港からJRで石巻へ行き、駅前の花屋さんで花束を買って、そこからタクシーに乗りました。震災の年の11月に、石巻市河北地区の支援で巡回途中に手を合わせてから、ここは2回目の訪問です。
 30分あまりタクシーに揺られた後、もとの校門のあたりで降りると、前には慰霊碑、献花台が設けられて、花壇やプランターも並び、たくさんの花が咲いていました。この場所が、ずっと心をこめて手入れされ続けているのがわかります。
 ここに私も、持参した花束を献花させていただきました。

大川小学校慰霊碑1

 奥に入っていくと、亡くなった皆さんの名前を刻んだ慰霊碑や、"Angel of Hope"と名づけられたモニュメントが並ぶ、下のような一角があります。

大川小学校慰霊碑2

 小学校の校舎は、今は下のような感じで残っています。小ぢんまりとしていますが、とてもモダンで魅力的な形です。
 震災の日には、校舎の向こうにある北上川の方から、屋根をはるかに越えて津波が押し寄せたということです。

大川小学校校舎

 そして、今回「石碑の部屋」に収録させていただいた壁画は、上の写真から右の方を向いた場所にあります。

大川小学校壁画1

 壁画の右端には、「〔雨ニ〕モマケズ/〔風〕ニモマケズ」とあり、「平成十三年卒業制作」と書かれています。震災からちょうど10年前の卒業生が、残していってくれたわけです。

 そして、左の方には銀河鉄道と、星座や星雲が描かれ、賢治らしいシルエットもあります。
 さらに、「世界が全体に幸福にならない/うちは、個人の幸福は/ありえない・・・・・」と、「農民芸術概論綱要」の一節を少しモディファイした言葉が書かれています。

大川小学校壁画2

 小学校を卒業するにあたって、卒業生たちがこのように賢治の作品にもとづいたモニュメントを作ろうと団結したというのは、きっと学年全体として、何かそういう雰囲気があったのでしょう。一つの学年が十数人という少人数だったからこそ、こういう突っ込んだ取り組みができたのかもしれません。
 ところで上の写真を見ていただいたらわかるとおり、壁画の右端に書かれている「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」という部分のうち、「雨」「風」という文字のあった箇所は、津波の際の衝撃で砕けてしまっています。いま私たちが読めるのは、「モマケズ/ニモマケズ」という文字だけで、その様子がまた痛ましさを誘います。
 しかし、逆にそのおかげで、この壁画を見る人は、「雨」「風」の代わりに、自分が負けないようにと願っている何か別の言葉を、思い思いにここに入れて、自分なりの読み方ができるようにもなっています。たとえば生き残った私たちを、「地震ニモマケズ/津波ニモマケズ・・・」と勇気づけてくれているようにも感じとることもできます。

 この壁画は、「宮澤賢治の文学碑」と呼ぶにはちょっと違うかもしれませんが、以前から当サイトの「石碑の部屋」には、「賢治観音」とか「風の又三郎」群像とか、賢治にまつわるモニュメントを収めていたり、「雨ニモマケズ」卒業記念碑なんていうのもあったりするくらいですので、この大川小学校の素晴らしい卒業制作壁画も、収録させていただこうと思った次第です。
 「石碑の部屋」における大川小学校壁画のページは、こちらです。

◇          ◇

 ただ、この壁画を紹介させていただくからには、大川小学校を襲った悲劇のことにも、ここで触れておかないわけにはいきません。

  震災の当時、石巻市立大川小学校の児童は全部で108人、そのうち震災当日に欠席していたり、地震後に保護者が迎えに来て帰宅した子供を除くと、津波が来た時点で78人の児童が、学校にいました。教職員は全部で13名でしたが、そのうち当日は不在だった2名を除いて、11人の先生が学校にいました。
 津波が小学校を襲った3月11日の午後3時37分頃、教職員と児童は避難しようと列になって移動中だったということですが、児童78人のうち74人が犠牲になり、教職員11人のうち10人が亡くなったのです。

 あれほど甚大な被害をもたらした東日本大震災ですが、「学校管理下」の状況にある児童や生徒が亡くなったという事例は、実は全国でこの大川小学校の74名と、あとはお隣の南三陸町にある戸倉中学校の生徒1名だけなのです。
 このことからも、大川小学校における出来事が、被災地全体の中でもいかに突出した惨事だったのかということがわかります。

 さらに、当事者の大半が犠牲になってしまったために、当日の事実経過も当初は不明確でしたが、生存者の証言などによって徐々に経緯が明らかになるにつれて、学校の避難行動に関していくつかの大きな「謎」が、クローズアップされてきました。

 遺族や市教委の調査によって判明したところによれば、大川小学校の児童たちは、本震がおさまると全員がいったん校庭に集められて、点呼が行われました。そして、保護者が迎えに来た一部の子供はそのまま帰宅し、残った児童は、全員が校庭で待機を続けました。
 地震発生は午後2時46分、大川小学校周辺への津波到達は午後3時37分と推定されていますから、この間に51分の時間があったわけですが、実際に津波が襲ってきた時、子供たちが避難を開始してからはまだ1分も経っていなかったことがわかっています。ほぼ全員が津波に呑まれた場所は、学校の目と鼻の先でした。
 校庭に集合してから、避難開始までの約50分間、この間には「大津波警報」も発令されていますが、先生と子供たちは、寒い校庭で、いったい何をしていたのでしょうか。
 また小学校の校庭からは、上の写真にも写っている「裏山」に直接登ることができるようになっているのですが、教職員と児童は津波に備えてこの山に登るという行動はとらず、わざわざ危険な北上川の堤防の方に向かって、避難をしようとしていたこともわかっています。もし仮に、避難をもっと早く開始して、目的地としていた堤防近くの通称「三角地帯」に到着していたとしても、そこもやはり津波によって洗い流されてしまう運命にあったのです。
 一方、皆が校庭に集合していた段階では、「山さ逃げよう」と訴える児童がいたという証言があり、1人だけ生き残った教諭も、「山へ逃げますか?」と他の教諭に意見を言ったということです。決して裏山に避難することを思いつかなかったわけではなくて、その選択肢も当初からはっきりと意識されていたのです。
 それなのに、結局裏山ではなくて堤防の上が避難場所として選ばれた理由は、いったい何だったのでしょうか。

 このような「謎」が浮かび上がる中で、わが子を亡くした遺族の方々としては、いったい当日の大川小学校において何があったのか、地震発生から津波がやって来るまで、事態はどのように推移したのか、知りたいと思われるのは当然のことでしょう。

 そういう遺族の要望を受けて、石巻市教育委員会が「第1回保護者説明会」を開いたのは、2011年4月9日でした。通常ならば、まずは学校当局が説明の主体になるのでしょうが、学校組織自体がほぼ消滅してしまった状況下で、教育委員会が当初から表に立つことになりました。
 しかしこの後、教育委員会の対応は、どんどん迷走していくのです。その説明の内容は、重要な部分で二転三転して遺族の不信感を煽り、6月4日の「第2回保護者説明会」では、1時間で一方的に会を打ち切った上に、「今後は説明会はしない」と言って、さらに強い反発を招きました。5月には、教育委員会として児童の聴き取り調査を行ったのですが、遺族がその内容を確認しようとすると、委員からは「メモは破棄しました」という信じられない回答が返ってきて、また問題を紛糾させました。
 このような対応を受けた遺族の側には、市教委は学校側の責任を回避するために、わざと真相を隠蔽しようとしているのではないかという、持ちたくもないような不信感も生まれていったのです。
 「先生がいない方が、うちの子は助かった」。遺族からは、そのような声も上がりました。

 このようにして、遺族と市教委の間に深い溝ができてしまう中、両者の間を取り持つような形で、2013年2月に文部科学省が主導して、全国的な有識者を集めた「大川小学校事故検証委員会」が立ち上げられました。これは、石巻市が予算5700万円をつぎ込み、市や教育行政からも独立した第三者機関として設置したものだったのですが、結局この検証委員会も、将来に向けた「提言」をまとめることを主要な目的としており、上記のような「謎」に関する「真相の究明」を果たすことにはつながりませんでした。
 遺族の方々の思いは宙に浮いたままで、2014年1月に最終報告書を提出した委員会は、解散してしまうのです。

 どこにもやり場のない気持ちを抱えた遺族は、2014年3月10日、宮城県と石巻市に対して損害賠償を求める民事訴訟を、仙台地方裁判所に起こしました。真相究明に向けた遺族の願いは、法廷という場に託されて、現在も審理が続いています。

◇          ◇

 それにしても、大川小学校の教職員と児童たちは、なぜ地震発生後に50分間も避難せずに校庭に留まっていたのか。なぜ避難先として裏山を選ばずに、北上川の堤防近くに向かったのか・・・。
 その「謎」の答えの一部は、当日の教職員には、学校まで津波が来るという危機感が、ほとんど存在していなかったということでしょう。地震50分後に避難を開始するまで、校庭の寒さ対策として「たき火」をする準備が行われていたという証言もあり、津波来襲の直前まで多くの先生は、このまま校庭で待機しておれば、事態は収束すると楽観していたふしがあります。
 しかし、それでもなお不思議なのは、尋常ではない規模の地震を体験した後で、津波に備えて「念のために」という意識が、どうして働かなかったのか、ということです。先生たちとしては、職務に熱心か怠慢かという以前に、自分たちの生命も懸かっている状況だったのです。
 少なくとも自分の命を守るためにも、「裏山に避難する」という選択肢は教職員の中にあったはずですが、その方法がとられなかった理由として私が特に気になるのは、大川小学校遺族の1人であり、ご自身も中学校教諭である佐藤敏郎さんによる、次のような指摘です。

教員間では、(裏山に避難させて)汚れたり、転んで怪我をすることで、責められるかもしれないという雰囲気が支配していた。(『石巻市立大沢小学校「事故検証委員会」を検証する』p.22)

職員集団に、余計なことをして失敗したり、めんどうになることが責められる雰囲気があり、このような局面においてもそれが優先し、組織としての判断基準になってしまったのです。(同上p.27)

 震災当時の大川小学校に、このような「雰囲気」があったのだとすれば、それは文字どおり「死に至る病」であったわけです。そしてふとあたりを見まわしてみれば、その「病」は今回の事故にかぎらず、今の日本に暮らす残りの私たちをも、知らないうちに侵しているのかもしれないとも感じる、今日この頃ます。

 今回の記事を書くにあたっては、下記の資料を参考とさせていただきました。

 次の2冊の書籍は、上の「ダイヤモンド・オンライン」の連載が単行本化されたものです。遺族の視線からの、粘り強い取材が印象的です。

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2016年5月 8日 高洞山の上を翔ける

 盛岡市の北東校外、JR山田線の「上米内」駅前にある「高洞山」歌碑を、「石碑の部屋」にアップしました。4年前に撮影してきたものですが、遅くなってしまいました。

「高洞山」歌碑

燃えそめし
アークライトは
黒雲の
高洞山を
むかひ立ちたり
            宮沢賢治

 この短歌は、「歌稿〔B〕」の「大正七年五月より」という章の、「公園。」という見出しの付けられた部分に収められています。
 下記が、「公園。」としてまとめられている短歌群です。

      公園。
        ※
652 青黝み 流るゝ雲の淵に立ちて
    ぶなの木
    薄明の六月に入る。
        ※
653 暮れざるに
    けはしき雲のしたに立ち
    いらだち燃ゆる
    アーク燈あり
        ※
   653a654 ニッケルの雲のましたにいらだちて
           しらしら燃ゆる
           アーク燈あり
        ※
654 黒みねを
    はげしき雲の往くときは
    こゝろ
    はやくもみねを越えつつ。
        ※
655 燃えそめし
    アークライトの下に来て
    黒雲翔ける夏山を見る
        ※
   655a656 燃えそめし
           アークライトは
           黒雲の
           高洞山を
           むかひ立ちたり
        ※
656 黒みねを
    わが飛び行けば銀雲の
    ひかりけはしくながれ寄るかな。

 短歌652に「六月」と出てきますから、これらの短歌が詠まれたのは、大正7年(1918年)6月ということでしょう。
 時に賢治は23歳、盛岡高等農林学校の研究生となり、稗貫郡地質調査で忙しく、実験室ではミスばかりしていると、父あての書簡71に綴っています。賢治の悩みは、職業も含めた自分の行く末が全く見えず、このままでは何を勉強しようとも、結局は父の質屋を継ぐしかないのではないか、という将来の問題でした。またこの6月30日には、岩手病院で診察を受けて「肋膜の疑い」と言われています。

 総じて、賢治にとっては悩み多い時期で、短歌653に出てくる「いらだち燃ゆる/アーク燈」というのは、そんな賢治自身を象徴しているかのようです。
 しかしその一方で、654にあるように「こゝろ/はやくもみねを越えつつ」とか、656のように「黒みねを/わが飛び行けば…」のように、地上で悩む小さな自分の体を離れて、心は軽々と空を飛んで行き、夕暮れの山々の上を翔けていくというのも、いかにもまた賢治らしいところです。
 大正3年には、宇宙空間にまで飛び出して「なつかしき/地球はいづこ…」(歌稿〔B〕159)とも歌った賢治ですから、大気圏内の空を飛ぶくらい、たやすいことだったでしょう。

 さて、これらの短歌が詠まれた場所は、見出しに「公園」とあって「アークライト」が出てくるところから、盛岡市内の「岩手公園」と思われます。そして、賢治が眺めている「黒みね」とか「黒雲翔ける夏山」とは、655a656に「高洞山」が出てくるところから、盛岡市北東郊外にある高洞山を中心とした峰々と思われます。
 岩手公園と高洞山との位置関係は、下の地図のようになっています。(カシミール3Dより)

高洞山地図

 マーカーを立ててあるところが岩手公園で、赤線を引いた高洞山は、北東の方角に見えるわけです。
 ちなみに下の写真は、盛岡駅裏のビル「マリオス」の20階にある「展望室」から見た、高洞山です。

マリオス展望室から見た高洞山

 中央の少し左、NTT東日本の赤と白の電波塔の向こうの、小さな三角に出っ張った山頂が、「高洞山」です。右端の方の、もう少し近くの平たい丘は、「岩山」です。
 賢治は、夕暮れの岩手公園からこのような「黒みね」を眺めつつ、風になったように峰々の上を飛翔する自分自身を、想像していたのです。

◇          ◇

 ところで、賢治が23歳の時に夢想した、「高洞山の上を飛ぶ」というイメージは、後に童話「風野又三郎」にも、生かされています。

   ドッドド ドドウド ドドウド ドドウ、
   甘いざくろも吹き飛ばせ
   酸っぱいざくろも吹き飛ばせ
 ほらね、ざくろの実がばたばた落ちた。大工はあわてたやうな変なかたちをしてるんだ。僕はもう笑って笑って走った。
 電信ばしらの針金を一本切ったぜ、それからその晩、夜どほし馳けてここまで来たんだ。
 ここを通ったのは丁度あけがただった。その時僕は、あの高洞山のまっ黒な蛇紋岩に、一つかみの雲を叩きつけて行ったんだ。そしてその日の晩方にはもう僕は海の上にゐたんだ。

 風野又三郎の旅は、北極、南極、タスカロラ海床、ボルネオ、グリーンランドなど、地球規模であらゆる場所を駆け巡るものですが、わざわざここに「高洞山」などという岩手県内でも目立たない山が登場するのは、やはり賢治自身が、青年時代にこの山の上を飛ぶイメージを抱いていたからに違いありません。

 この他に、「高洞山」が登場する作品としては、やはり「歌稿〔B〕」の「大正六年五月」に、

496 夕ひ降る
    高洞山のやけ痕を
    誰かひそかに
    哂ふものあり

との短歌があり、また文語詩「岩手公園」の推敲過程で、その「下書稿(一)」などに、

起伏の丘はゆるやかに
青きりんごの色に暮れ
高洞山の焼け痕は
蓴菜にこそ似たりけり

として出てきます。
 おそらく、賢治にとっての「高洞山」とは、岩手公園など盛岡市街側から見たイメージが主だったのではないかと思いますが、記事の冒頭に書いたように、「高洞山」の歌碑が建てられたのは、北東郊外の上米内駅の前でした。
 上の地図をご覧いただいたらわかるように、この高洞山そのものは、上米内駅の「裏山」とも言える場所にあり、米内地区の方々にとっては、この山は地元のシンボル的な存在なのだそうです。たとえば、米内小学校の校歌には、「望みは高く 高洞の」という一節があり、米内中学校の校歌には、「春秋薫る 高洞山の」という一節があり、この二つの事実を見るだけでも、この山が米納地区の人々にどれほど親しまれているかがわかります。

 最後に、上米内側から見た高洞山の写真を載せておきます。上米内の浄水場から撮った写真です。

高洞山(上米内浄水場より)

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2016年5月 1日 大内金助と「花巻納豆」

 花巻市豊沢町の賢治生家から少し南に行くと、納豆の製造販売をしている「有限会社 大内商店」があります。

(有)大内商店

 この会社の現在の社長さんは、大内俊祐さんとおっしゃいますが、先代の大内金助さんは、実は稗貫農学校における、宮澤賢治の教え子の一人だったのです。
 まず、稗貫農学校の大正12年卒業生名簿をご覧下さい(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)「補遺・伝記資料篇」p.116より)。

稗貫農学校大正12年卒業生

 賢治が農学校の教師に着任したのが1921年(大正10年)12月ですから、翌年の3月にも、4か月だけ教えた卒業生を送り出しているわけですが、じっくりと一年を通じて教えた生徒としては、上に掲げた彼ら30名が最初だったわけです。
 下段には、「福田パン」の創業者として先日ご紹介した福田(及川)留吉がいますから、くしくもこの学年は、「食品会社の社長を2名も輩出した」ということにもなります。

 今日は、大内商店と大内金助氏の略歴について、「平成版 花巻の名人・達人 第17回大内俊祐」(高橋進氏の「花巻このごろ」より)や、若尾紀夫氏による論文「同窓生が語る宮澤賢治」などを参考に、以下に簡単にまとめてみます。

 大内氏の先祖は、豊沢町で「肝煎」(町名主)を務めていたということで、この地域の名家だったようですが、「大内商店」の歴史は、金助氏の祖母にあたる大内シマ氏が、1887年(明治20年)にこの地で豆腐の販売を始めたことを端緒とするということです。
 その息子の大内栄助氏は、取り扱い品目を増やして、藁苞納豆や、当時としては珍しいサイダーやラムネも売るようになり、このサイダーは、近所の宮澤賢治も買いに来たということです。後に賢治が「やぶや」で、蕎麦とサイダーを注文するようになる原点は、この大内商店のサイダーにあったのかもしれませんね。
 その後大内商店では、大正の初め頃から納豆の製造も開始しますが、まだ当時は藁苞に付着している納豆菌以外の雑菌のために、製造に失敗することもあったのだということです。

 栄助氏の長男の金助が稗貫農学校に入学するのは、こういう状況においてでした。大内家の家業は、農業ではなくこのように納豆製造販売でしたから、農学校と言っても田畑の耕作ではなく、発酵・醸造の方面を勉強することが、当初からの目的だったと思われます。
 農学校在学中の大内金助については、同級生の及川(福田)留吉が、次のようなエピソードを書き残しています。

 今追憶して面白いことは、(宮沢)先生は、授業は初めてだったらしく、お馴れになれなかったでしょう。最初の頃は、早口で、私ども生徒にはなかなかその講義に追っつけないのです。「ちっともわからん、ちっともわからん」と連発して口うるさい隣席の大内金助君や、前席の小田島治衛君、そのほかの連中もわいわい騒ぐものですから、おそらく隣室の職員室にも聞こえたのでしょう。あるいは廊下を通りすがりの校長先生がこの様子を知ったのかもしれません。二、三日してから校長先生は、宮沢先生の授業を見に来られ、三〇分ばかり見てから教室を出られました。
 その後の先生の授業は、かなり緩やかになり、回を重ねるにつれてだんだん丁寧さを増し、どの授業も非常にわかりやすくなりました。それに該博な知識にしばしば面白いユーモアが加わり、それに我々の稚拙な質問にも嫌味、億劫さのない親切な説明をされるものですから、本当に先生の授業は愉快なものになりました。(佐藤成編『証言 宮澤賢治先生』より)

 上の3-4行目に出てくるように、及川留吉の隣席だった大内金助は、賢治の授業中に「ちっともわからん、ちっともわからん」と連発して口うるさかったということですね。ちょっとやんちゃな雰囲気とともに、「町の子」らしい開けっぴろげな感じも漂います。

村松舜祐教授 1923年(大正12年)3月に農学校を卒業した大内金助は、賢治の斡旋によって、盛岡高等農林学校の「助手」に採用されます。そしてここで、当時納豆の研究によって「納豆博士」とまで称されていた、村松舜祐教授(右写真)のもとで、学生実習を補佐するかたわら、納豆菌の純粋培養などの実験にも携わることになるのです。
 まさに、「納豆屋の跡継ぎ」としては当時期待できる最高の環境に入ることができたわけで、このあたりには、卒業後の進路について本人の希望をかなえてやるために、賢治が人脈を駆使して骨を折った成果が、表れているのでしょう。

 賢治が盛岡高等農林学校に入学した1915年(大正4年)時点では、村松教授はアメリカ留学中だったので、直接に教授の指導を受けたのは3年生の1年間だけでしたが、賢治との関係は良かったようです。賢治の教え子の小原忠によれば、村松教授はふだんは「厳格でニコリともされない方」だったのに、研究室を訪れた賢治とは、「終始機嫌良く話され、お二人は気が合っておられたようであった」いうことです。
 また賢治は、後に東北砕石工場の技師となってからも、炭酸石灰を搗粉として使用することについて村松教授に助言を求めるなど、その後も交流は長く続きました。

 さらに、大内金助が盛岡高等農林学校に就職したちょうどこの頃、賢治の元同級生で親友でもあった成瀬金太郎が、村松教授の下の助教授として在任していました。
 成瀬金太郎は、盛岡高等農林で村松教授の納豆研究を継承する役割を担い、退職後は「成瀬醗酵化学研究所」を創設しますが、現在も続くこの研究所が製造する納豆菌は「成瀬菌」として、「三大納豆菌」の一つに数えられています(あとの二つは、仙台の「宮城野菌」と山形の「高橋菌」)。
 村松舜祐教授と、成瀬金太郎助教授、そして大内金助助手の3人は、納豆研究室においてかわるがわる顕微鏡をのぞき込んでは、小さな桿菌を観察する日々を過ごしたことでしょう。

 村松教授は、すでに1912年(明治45年)に納豆菌の純粋分離培養に成功し、その後1929年(昭和4年)には、その「1号菌」(納豆粘性物質の生成と蛋白質分解活性が強い)と「5号菌」(澱粉分解活性が比較的強い)を混合接種することによって、品質の良い納豆を製造できることを発表しています。このようなすぐれた納豆菌が、一方は成瀬醗酵化学研究所に、もう一方は花巻の「大内商店」に継承されて、現代まで生きているというのは、そしてみんながそれぞれ賢治と個別の関わりを持っていたという事実は、賢治を巡る人脈の不思議さを感じさせてくれます。
 大内金助が、盛岡高等農林学校の研究室に在職したのは1年間だけだったということですが、彼が村松教授から現社長の俊祐氏に引き継いだのは、納豆菌だけではなかったかもしれません。村松舜祐という恩師の名前も、一字を変えながらその息子に受け渡したのではないでしょうか。

 さて、大内商店の「花巻納豆」は、地元のスーパーなどでも買うことはできるのでしょうが、どうせなら賢治生家に近くて、生前の賢治もサイダーを買いに来たという、大内商店の店頭で買うのが一番でしょう。
 冒頭写真の右の方にあるサッシの扉を開けて入ると、中は歴史を感じさせる作りになっていました。入って左手には、納豆の製造所があって、何となく神秘的な雰囲気も漂っています。
 奥に向かって声をかけると、女性の社員さんが出てきて下さって、大内商店製造のたくさんの納豆の品名と写真が並ぶパネルを出して、どれにしますか、と聞いてくれました。
 「大粒納豆」や「黒豆納豆」や「ひきわり納豆」など、たくさんの種類がありますが、ここはまず最もオーソドックスな「花巻納豆」を購入しました。1パック100gで、60円でした。

花巻納豆

 これを、翌朝のホテルの朝食の時にいただきました。

花巻納豆2

 パッケージには「中粒」と書いてありますが、蓋を開けると、けっこう大きめの粒がぎっしりと入っています。そして、醤油をたらしてからかき混ぜて食べると、一粒一粒がやわらかくて、とても優しい味でした。最近よくスーパーで買う納豆は、小粒のものが多くなっている感がありますが、これは「豆の味」というものがしっかりと堪能できる感じで、とても美味しかったです。

 これから花巻に行く時には、いつもこれを買ってホテルでいただこうかなどと、ひそかに考えているところです。

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2016年4月21日 大槌町で講演「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」

 来たる5月4日(祝)に、岩手県の大槌町で、「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」と題した講演をさせていただくことになりました。下記が、そのチラシです。

大槌宮沢賢治研究会講演会チラシ

大槌宮沢賢治研究会 講演会(参加費無料・予約不要)
「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」
   ―最愛の妹トシを亡くした後の心の軌跡を作品でたどる―
日時: 平成28年5月4日(水・祝日) 14時―16時

主催: 大槌宮沢賢治研究会 ベルガーディア鯨山
後援: 大槌町 大槌町教育委員会 NPO法人心の架け橋いわて

 場所は、大槌町吉里吉里にこの4月にできたばかりの「Remenber HOPE 浪板海岸ヴィレッジ」というところです。地図では下のマーカーの場所で、「三陸花ホテルはまぎく」のすぐ北隣の浜辺にあります。

 今回のお話は、大槌で「風の電話」を運営しておられる佐々木格さんからお受けしたもので、たまたま私が今度の連休に三陸方面に行くので、また佐々木さんのところにお邪魔してもよいかとお聞きしたところ、「それならついでに講演も」というご依頼を頂戴しました。
 内容としては、昨年11月に「第7回 イーハトーブ・プロジェクトin京都」で、竹崎利信さんの「かたり」とともにお届けしたものを、今度は私一人の「講演」という形式で行います。

 佐々木格さんが、先の震災・津波で大切な人を亡くした方々のために、「風の電話」によって提供しておられる活動も、一つの「グリーフ・ワーク」であると言えますが、一人の人間としての宮沢賢治が、かつてどんな「グリーフ・ワーク」の道を歩んだのかということを、大槌の皆さんと一緒にたどってみたいと思います。
 私自身が、直接的に地元の方々の力になる、ということまではなかなかできないと思いますが、宮沢賢治という「先達」が、経験し、苦しみ、考えたことの中に、少しでも参考としてお役に立つことがあれば・・・と思っています。

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2016年4月10日 足利市宝福寺の「雨ニモマケズ」詩碑

 今日は、栃木県足利市の宝福寺というお寺にある、「雨ニモマケズ」詩碑を、拝見してきました。経緯は以下のとおりです。

 私はこの3月末に、一通のメールをいただきました。

・・・私も宮澤賢治様のファンですが、郷里の栃木県足利市に嘗て賢治様の熱烈な崇拝者が居りまして、彼の家の菩提寺に「雨ニモマケズ」の立派な石造りの詩碑を建て、賢治様と彼の祖先の供養をしております。・・・

 そして、その「雨ニモマケズ」詩碑を、当サイトの「石碑の部屋」に加えるというのはいかがですか?とのご提案をいただいたのです。
 実は、この詩碑を建立されたのは、メールを下さった橋本和民さんのご令兄の、故・橋本哲夫氏だということでした。

 「賢治の詩碑」と聞くと、いつもながらじっとしておれなくなる性分の私は、地図で場所を確認するとともに時刻表検索をして、4月10日(日)であれば何とか現地往復ができそうだと思いましたので、橋本さんにメールでその旨をお知らせしました。
 すると、ふだんは東京都内にお住まいであるにもかかわらず、当日は足利市にて私を詩碑まで案内して下さるというご親切なお返事を橋本さんからいただき、本日の行程と相成ったわけです。

 京都を朝早く「のぞみ」で発って、東京からJR上野東京ラインで北千住へ、そして北千住から東武線に乗り換えました。
 菜の花が咲くのどかな北関東の平原を、電車は北に向かいます。

東武線車窓から

 そして、「足利市」駅の一つ手前の、「東武和泉」という駅で降りました。

東武和泉駅

 駅前で橋本さんがお出迎え下さって、詩碑のある宝福寺まで、タクシーでお連れいただきました。徒歩でも10分ほどのようです。
 地図で言うと、下記の場所ですね。

 下写真が、宝福寺の正面です。

宝福寺正面

 ちょうど、桜吹雪の舞う頃でした。

 そもそもこの宝福寺は、鎌倉時代から続く武士の家系である橋本家のご先祖が、菩提寺として建立したお寺で、境内の墓地には、橋本家代々の広大な墓所があります。そして、その墓所の一角に、第20代当主であった故・橋本哲夫氏が、1978年(昭和53年)に、賢治の「〔雨ニモマケズ〕」を刻んだ碑を建てられたのです。
 下写真が、その詩碑です。

宝福寺「雨ニモマケズ」詩碑

 碑は、縦長の黒御影石に、哲夫氏の義兄にあたられる書道家が書かれた「雨ニモマケズ」のテキストが、端正に刻まれています。
 真摯で、かつ活き活きとした力を感じました。

 橋本家の始祖・橋本求馬(もとめ)は、上州館林城の家老で、鎌倉時代の末には主君赤木氏に従って、新田義貞の鎌倉攻めに参加したという逸話も残されています。その後の子孫は、三河武士になったり、江戸で醸造業を営んだりしていた時期もあったそうですが、はるか時代が下って明治になると、橋本さんの曾祖父、祖父の時代には、農民救済のために足尾鉱毒事件と闘う田中正造翁を、この足利において物心両面で支える役割も果たしていたということです。
 橋本さんのご令兄・哲夫氏は、1925年(大正14年)生まれで、戦争中は海軍に従軍しておられたということですが、早くから宮澤賢治に親しみ尊崇していたとのことです。終戦とともに郷里へ帰ると、この宝福寺の境内にある集会所で宮澤賢治の研究会を開いたり、村の青年たちを集めて劇団を組織し、自ら脚本を書き演出を行って、「石川啄木の生涯」などという劇を行ったりもしたということです。

 ところで、敗戦とともに世の中の価値観が180度変わるという激動にさらされた時、新たな方向を模索する青年たちが、宮澤賢治の思想を拠り所にしようとするという現象は、全国のいくつかの場所で見られたことだったように思います。
 現在は一関市となった長坂村の青年たちが、紙不足の中で苦労して、「雨ニモマケズ」「農民芸術概論綱要」「ポラーノの広場」などのテキストを手に入れて勉強する中で、谷川徹三揮毫の「農民芸術概論綱要」碑を村に建立していくエピソードや、また北海道の穂別村で、戦後最初の公選村長となった横山正明が、賢治の精神を村に根付かせようと、「賢治観音」なる仏像を発願して建立する経緯などが、私には連想されます。
 賢治の「〔雨ニモマケズ〕」は、大政翼賛会文化部によって、「滅私奉公」など戦争遂行のための思想宣伝に利用され、そのおかげで国民に広く知られるようになった面もありました。そして敗戦とともに、戦前のイデオロギーが一挙に否定され、それまでもてはやされていた多くのものが地に落ちましたが、ただ宮澤賢治の思想には、それでも変わらぬ何かが含まれていることを、当時の若者たちは感じとっていったわけです。
 上の二つの例のいずれも、「農民芸術概論綱要」碑あるいは「賢治観音」というモニュメントとなって、戦後まもない時期から現在まで残されているのがもう一つの共通する特徴ですが、ここ栃木県足利市で終戦後に賢治の研究会を行ったという橋本哲夫氏の思いも、この「雨ニモマケズ」詩碑となって、やはり今もしっかりと刻まれています。

 さて、戦前は大地主だった橋本家も、戦後の農地改革で農地の大部分を手放さざるをえなくなりますが、哲夫氏は賢治の「羅須地人協会」を理想として、農業に身を捧げていったそうです。
 現在、栃木県はイチゴの生産量では日本一ですが、この「栃木のいちご」の栽培・改良に力を注ぎ、現在の栃木県産イチゴの先鞭をつけた一人が、橋本哲夫氏だったということです。

 そして、晩年になってからも哲夫氏の賢治への敬慕の念はますますつのり、ついに青年時代からの念願だった賢治の詩碑を、橋本家の墓所に建立したのが、昭和53年秋でした。

 下の写真は、詩碑の両脇にある地蔵菩薩の石像と、石灯籠も一緒に写したところです。この二つも、橋本哲夫氏が詩碑と一緒に建立されました。
 この宝福寺には、子供の健やかな成長を守ってくれるという「子育地蔵尊」があり、古くから近隣の信仰を集めてきたということですが、その縁にちなんで、ここにもお地蔵さんが立っておられます。

宝福寺「雨ニモマケズ」詩碑

【謝辞】 ご親切な案内およびご説明に加え、様々なご厚情を賜りました 橋本和民様に、心より感謝申し上げます。

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