2014年12月14日 9月に比叡山でお話ししたこと(1)

 この9月に比叡山延暦寺で行われた賢治忌法要が行われた後、記念講演としてお話をさせていただいた内容を、ここに掲載しておきます。この話は、8月に東京の宮沢賢治研究会で発表させていただいたものと、概ね同じです。
 ちょっと長いので、今回はその前半部です。

0.はじめに

 今日は宮沢賢治さんの命日ですが、賢治さんゆかりの比叡山延暦寺において、この貴重な機会にお話をする機会を与えていただき、大変光栄に存じます。

 私は、普段は精神科の医者をしておりまして、全然宮沢賢治と関係ないことを仕事にしています。ただ、賢治の作品が子供の頃からとても好きでしたので、昔から彼の作品をあれこれ読んだり、また賢治ゆかりの地を訪ね歩いたりしていました。
 これらの趣味的な活動は、仕事とは関係なくやっていたのですが、一方で賢治という人について、彼は普段どんなことを考えていたんだろう、どういう思いでこの作品を書いたんだろう、とかいろいろ考えていくうちに、どうしても自然に精神科医という立場、職業的な視点からも考えてしまうところがありました。今日は、そういう中から出てきたお話をさせていただこうと思います。

 宮沢賢治という人は、一方では本当に努力の人、刻苦勉励の人だったと思います。亡くなる2-3日前にも、農家の人が肥料について相談に来た時に、すでに重篤な病状であったにもかかわらず、また家族が止めたにもかかわらず、長時間その人の相談に乗って、それが死期を早めてしまったのではないか、という話もあります。そういう風に、自分の命さえ省みずに「人の役に立とう」という仕事をした人ですね。とことん自分の力を振りしぼって、多方面の活動に邁進しました。
 しかしその一方で宮沢賢治という人は、ありきたりの言葉ですが、まさに「天才的な感性」を持った人でもありました。どうしてこんな風な言葉が書けるんだろう、どうしてこんな角度から世界を見ることができるんだろうとか、不思議なところが一杯あります。今まで他の人が全く使わなかったような言葉で世界を描写しつつ、またそれが「言われてみれば確かにそうだなあ」という感じの表現でもあって、このあたりになると単なる「努力の人」という範疇を超えて、まあ本当に常人離れした感性としか言いようがない部分が、どうしてもあるように思います。
 賢治ももちろん、私たちと同じように悩み、苦しみつつ生きた人ですが、このように他の人とちょっと違う形で世界が見えたり、物事を感じたりしていた部分もあるのではないか。いろいろな作品を読んでいると、私としてはどうしてもそういう感じがするのです。
 そういう部分について、今日は少し精神科医としての立場もまじえて、考えてみたいと思います。

1. 震災の夜に思ったこと

(1) 「世界ぜんたい幸福にならないうちは…」の本当の意味
 あの震災の夜のことから、話を始めさせていただきます。
 皆さんもいろんなところで3年半前の震災を体験されたと思いますが、私は京都におりました。このスライド(図1)は、震災の夜にNHKテレビで放送されていた映像です。

スライド1
(図1)

 3月11日の20時12分と書いてありますね。自衛隊のヘリコプターから、気仙沼市のあたりを撮影したもので、気仙沼市一帯が、このように津波に襲われ火事が起こって、炎に包まれています。私は震災の夜に、この映像を、まさに茫然として見ていました。
 「いったい何でこんなことが起こるんだろう」という以外に何の言葉も出ず、途方もない衝撃を受けていました。そして、いろんな思いが心の中で渦巻きました。
 一つは、これだけのことが東北地方で起こっているのに、今、自分は安全な場所でテレビを見ている。自分はここでこんな風に傍観していていいんだろうか、という気持ちにとらわれました。今まさに、たくさんの人が、これだけ大変な目に遭っているのに、自分だけがぬくぬくと暖かい部屋にいて許されるんだろうかなど、何か自分が被災者の人々に対して限りなく申しわけないような、一種の「罪悪感」が湧きました。
 それからもう一つは、自分に何かできることがあれば現地に行きたい、でも行くこともできない、今行っても大した役に立つこともできないという、自分に対する空しさを感じました。これだけのことが起こっているのに、自分には何もできないという、底知れない「無力感」です。

 こういう気持ちに渦のようにとらわれながら、私は茫然とテレビを見ていたのですが、この時ふと私の心には、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、浮かびました。これは賢治の「農民芸術概論綱要」という草稿の中にある言葉なんですが、なぜかこれが浮かぶとともに、私はこの言葉の本当の意味が、この時初めてわかったような気がしました。
 この言葉は、宮沢賢治が書き遺したものの中でも有名なもので、いろんなところでしばしば引用されます。これはとても賢治らしく、美しく崇高な言葉ですが、ただそれまで私にとっては、あまりにも自己犠牲的に思えて、ちょっと「しんどい」感じもしていました。
 この言葉は、「全体が幸せにならないうちは、自分個人が幸せになってはいけない、自分はならないんだ」と言っているように聞こえますし、あるいは「個の幸福」よりも「全体の幸福」が優先すると解釈すれば、「全体主義」を思わせるところもあります。ですから以前の私にとっては、これはとても立派ではあるけれども、一方で息苦しくも感じたのです。もしもこれを皆でスローガンのように奉じるとしたら、かなり抵抗感もありました。

 それが、たまたまこの震災の夜にテレビを見ている時に、この言葉の本当の実感というか、今までは分かっていなかったその意味が、ありありと自分に立ちのぼってくるように感じたのです。
 私のその時の感覚を言葉にすると、「この全ての被災地の、全ての被災者にに安寧が訪れないかぎりは、私自身の安寧もあり得ない」、というような感じでした。今思えば何とも力み返ったような考えですが、実際この晩には、そんな感じがしていたのです。そしてこれが、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉への連想に、つながりました。

 そこではたと気づいたのは、宮沢賢治という人は、まさに今の自分のような気持ちを終生にわたって抱えつつ、生きた人だったのではないかということでした。つまり、私のような凡人は、大震災の夜という非常事態に置かれて、そこで初めて普段と違う感覚で、自分と世界との間のこのような特別な関係を感じとり、それはまた時間とともに薄れていってしまうのですが、実は賢治という人は、普段からいつもずっとこういう感覚で、生き続けていたのではないでしょうか。

 そう考えれば、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉の意味するところが、私のような者にも具体的に実感できると思いました。

(2) 震災によって現出した「一体性」

 ではなぜ私は、ほかならぬ震災の夜に、こういう「宮沢賢治的」な仕方で、この「自分と世界との特別な関係」を、感じとることができたのでしょうか。
 私の考えるところでは、この賢治的な感覚が私に現れた原因は、震災や津波という莫大な自然の力が、人間が普段この世界に張りめぐらしている「境界線」というものを、一気に取り払ってしまったからだと思います。

 人間という生き物は、この世界の中に様々な垣根を、あるいは境目を作って生活しています。例えば、野原の中では雨も風もあり、寒かったり暑かったりしますから、人は「家」というものを建てて、屋根や床や壁で外界との間に境界を作り、自分たちが暮らしやすい環境を作って生活をします。しかし今回の震災では、そういう家々が地震で崩れ、津波で流されてしまったために、人は境界のない大自然の中に、いったん裸で投げ出されてしまいました。
 また人間は、海辺や川岸には、海や川の水を防ぐための「堤防」を築いて、人間の生活空間を守ってきました。しかし、これも津波によって押し流されてしまい、海と陸との境界が消滅してしまいました。
 さらに原子炉の圧力容器や格納容器というのは、生物にとって有害な放射能が周囲に漏れ出さないように本来は作られているものですが、これも震災と津波によって破壊され、原子炉の内部と外部の境界が一部で失われたために、今も続く深刻で悲惨な事態が起こりました。

 以上は、物理的な境界線に起こった出来事です。しかし問題は、物理的なものだけにとどまりません。
 震災や津波から避難してきた人々は、かなりの期間にわたって体育館などに設けられた「避難所」で生活することを余儀なくされました。そこでは、普通の住宅にあるようなプライバシーは保てず、全ての人々が分け隔てなく一体となって生活するしかありません。ここでも、普段の社会生活にある「境目」が、消滅したのです。
 また私が、被災地から遠く離れた場所で、見知らぬ人々に対して、「被災した全ての人々に安寧が訪れないかぎり、私自身の安寧もあり得ない」というようなことを思ったりしたのも、普段は物理的な距離や縁の薄さに隔てられている東北地方との間の「境界線」が、いったん心理的には消滅してしまったことによるのでしょう。
 震災と津波が、人間が普段設けている様々な「境界線」を一時的に消滅させてしまったというのは、こういうことです。

 人間が、物理的に自分の生活空間を守るためだけでなく、「プライバシー」という形で自分と他人の領域を分けて暮らしたり、ある程度までは「他人のことは他人のこと」として気にしないようにして生活しているのは、各々の心の安定のためでもあります。「この世の全ての人のことを、我がことのように考えましょう」というのは、建前としてはその通りですが、あまり他人の心配ばかりしていたのでは自分の身が持たないので、普段はみんな自分と他人との間には、一定の線を引いて暮らしています。
 そのような境界線が、震災によって一時的に失われると、人々は非日常的な「一体性」を獲得します。被災地から離れた場所でも、普段は仕事に追われている人が休みをとって被災地にボランティアに行ったり、これまで寄付などしたことない人が義援金を寄せたり、そのような姿が、全国のあちこちで見られました。普段から、事件や事故で人が亡くなったというニュースは数限りなく報道されていても、大震災はそれらとは違い、多くの日本人にとって「他人事」ではなかったのです。「これは皆で何とかしなければならない」という思いが、少なくともある時期までは、日本全体で共有されていたと思います。

 そして、私が先に「賢治的な感覚」と呼んだものの正体が、まさにこれなのだと思います。この感覚の中では、世界は様々な境界によって区切られてはいません。「個を超えた、世界との一体感」があります。
 一般人が、震災のような特別な非日常的状況において獲得するこの感性を、宮沢賢治という人は、いったい何の因果か、いつも常に身にまとい続けていたのではないかと、私は思うのです。その感覚のやむにやまれぬ表現が、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉だったのでしょうし、賢治の他の作品を見ても、彼が常々こういう風に感じていたということが、いろいろな形で表れています。

スライド4
(図2)

(3) 賢治作品に見る「個を超えた一体性」

 先に引用した「農民芸術概論綱領」の中には、「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」という言葉もあります。人間やいろいろな生き物が、別個にばらばらに存在しているのではなくて、一つの生き物になっていくということで、これも「個を超えた一体性」を表していると思います。

 あるいは、「小岩井農場」という詩は、賢治が広大な小岩井農場を訪ねて歩いている時の心象を描写したものですが、その中に、「ちいさな自分を劃ることのできない/この不可思議な大きな心象宙宇のなかで・・・」という一節があります。この宇宙全体に比べて、自分なんて小さなものですが、その宇宙における「自分」という存在は、他からそれだけを区切って取り出せるものではない、と言うのです。この小さな自分は、たとえちっぽけでも孤立しているわけではなくて、実は大宇宙と一体であるということが、「小岩井農場」のこの箇所で描かれていると思います。

 そして私が考えるには、これが大事なところなのですが、賢治にとってはこのような言葉で描かれている事態は、詩的修辞や想像力の産物ではなくて、本当に自分の実体験として、理屈抜きに感じていたことなのだと思うのです。
 賢治は自分の作品のことを「詩」と呼ばれるのを好まず、自ら「心象スケッチ」と呼んで、「ありのままをその通りに書いた」ということをあちこちで述べていますが、上のような感覚こそが、賢治にとって「ありのまま」だったのだと思います。

 結局、冒頭でご紹介した、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉の趣旨は、「個人の幸福よりも全体の幸福が先にあるべきだ」とか、「全体の幸福が実現されるまで個人は幸福になるべきではない」というような「べき論=当為」ではなくて、賢治にとってはまさに「あり得ない」という、不可避の「事実」だったのだと思います。「そうあるべき」とか「理想論」とか「信念」として言っているのではなくて、「望むと望まざるとにかかわらず、世界とはこのようなものだ」という、彼にとっての事実をありのままに述べたにすぎないと思うのです。
 喩えて言えば、人間の体というのは文字通り「一体」ですから、体全体は病気なのに、その中の一本の指だけが幸福であるということはあり得ません。体が全体として健康で平穏であって、初めて一本の指も、安寧でいられます。これと同じ意味で世界は一体のものであるというのが、賢治の基本的な認識だったのだと思います。

 先ほどの賢治忌法要において、延暦寺の横山照泰師の法話をお聞きしましたが、その際に「自他不二」という言葉をお教えいただきました。その意味は、「自己と他者は二つではない、一つである」ということでしたが、これはまさに今ここで申し上げているように、「自己と他者は別個にではなく、一体となって存在している」という宮沢賢治の感覚を、図らずも表現してくれている言葉だと思います。

2.賢治の心性と作品の特異さ

(1) 自己と世界の一体感の由来=自我境界の薄さ

 ということで、宮沢賢治には独特の「自己と世界の一体感」があったのだろうということを申し上げましたが、ではこの「一体感」というのは、いったいどういう性質のものなのでしょうか。私自身、精神科の医師という立場からも、これは関心を引かれる問題でした。

 この「自己と世界の一体化」とは、自分と他者との間の境目が薄らぎ、自分と他者、あるいは自分と世界とが、一体となり融合しているということですが、これと同じ感覚のことを、ロマン・ロランというフランスの文学者は、「大洋感情」という言葉で呼びました。
 ロマン・ロランは、「宗教の本質は何か」という問題について、精神分析学の創始者であるフロイトとの間で書簡を交わして議論をしたことがあるのですが、これはその往復書簡の中に出てくる言葉です。
 ロランよれば「大洋感情」とは、広い海のように「限界がない感覚」だということです。たとえば、自分が海に浮かんでいて、自分と海との間の境目がいつしか溶けてしまい、どこまでが自分でどこからが海という区別もなくなり、自分が広大な海そのもの(あるいは世界全体)に一体化している感覚、と言ってもよいでしょう。ロランはまたこれを、「永遠なるものの感覚」とも表現し、これが全ての宗教の根源にあると考えました。

 これに対してフロイトは、より即物的な自然科学的な立場からこの「大洋感情」を分析し、この感覚は、乳幼児期のまだ自他が未分化な段階への「退行」であると考えました。
 これについてちょっとご説明すると、生まれたばかりの赤ん坊というのは、「自分」と「他人」とを区別する認識を、まだ持っていないのです。まだ目の見えない赤ちゃんは、お腹が空いたら泣いて、すると口のあたりにおっぱいが現れるので、それを口に含んで吸ったら満たされる、ということを日々繰り返していますが、ここに現れるおっぱいというのは母親のもので「自分の一部ではない」とか、この口や自分の泣き声は「自分のものだ」とか、そういう区別はまだできないのです。そのうちに、一般に生後6ヵ月くらいになると、自分が自由に動かせる手足は「自分の一部だ」という感覚を持つようになり、一方で自分の自由にならないおっぱいや、その他のいろいろな外的存在は「自分ではない」ものだと認識するようになります。「自他の区別」ができるようになるのです。

 精神分析学の言葉ではこのことを、自己と他者との間に「自我境界」が形成されていく、と言います。文字通り、自分とそれ以外の存在との間に存在する見えない「境界」のことです。赤ん坊は、成長とともに徐々に「自我境界」を獲得していき、間もなく自分と他人の区別を間違えるなどということはなくなります。
 しかし一方で、大人になってからも時に幼少期の感覚が甦って、まるでその頃の段階に戻ったかのように感じたり振る舞ったりすることがあり、これを「退行」と言います。フロイトは、「大洋感情」を体験している大人は、まだ「自我境界」が形成されず自他が未分化だった乳幼児期へと一時的に「退行」して、自分と自分以外の存在が区別されず一体となっていた、太古の感覚を体験しているのだと考えました。

スライド6
(図3)

 大人においても「自我境界」が曖昧になってしまうような例として、フロイト自身が挙げているのは、恋人同士のような特別に親密な関係です。もちろん恋人のそれぞれも、各自が別の人格であるという自覚はありますから、自我境界が完全に消滅しているわけではありませんが、相手の喜びを自分の喜びと感じ、自分と相手の思いを重ね合わせようとするうちに、どこまでが自分でどこからが相手なのか、自他が渾然一体となる感覚が生まれるのです。ここでは、自我境界が薄くなってしまっています。
 母親と赤ん坊という関係においても、同じようにお互いがお互いの一部であるかのように感じつつ、生きている面があります。これは、子供が小さな赤ん坊である間は正常なことですが、子供が成長してからもこのような関係が続いてしまうと、その自立を阻害することもあります。
 また、大型のトラックなどを運転している時に、人間は気持ちが大きくなるということが言われます。この場合は、運転者の「自我」が自動車の大きさまで拡大しているということなのかもしれませんね。

スライド7
(図4)

 ということで、自己と世界とが一体化しやすかった宮沢賢治という人は、この言葉を用いて表現すれば、「自我境界が薄い人」という風に言うことができます。

(2) 自己の拡大・消滅

 さて、宮沢賢治という人が、普通の人よりも自我境界が薄かったとして、ではそれは彼の世界観に対して、どんな影響をもたらしたのでしょうか。

 「自我境界」というのは、「自己」とその外界との間を隔てている境界面というわけですから、それが「薄い」ということは、「自己と外界との区別が薄い」、ということになります。

スライド8
(図5)

 上のスライドのように表せば、「自己」というのは、この世界に浮かぶ一つの「島」のような存在です。周りを取り囲んでいるのは、自分ではない存在=「非自己」ですから、「自己」というのは、「非自己」という海に浮かんでいる島のようなものだとも言えます。
 上の(図5)では、「自己」と「非自己」との間には実線の境界線があり、両者は赤色と白色ではっきりと区別されています。これに対して下の(図6)では、自己を囲む線が点線になって「稀薄化」しており、その色としても、「自己」と「非自己」との差は、薄くなっています。

図6
(図6)

 次に、この「島」のように「非自己」の海に浮かぶ「自己」を垂直面で切ったと想定して、その断面図を考えてみます。
 下の(図7)が、その断面図です。

図7
(図7)

 これは一種のグラフのようなものと思っていただいたらよいのですが、横軸は、この「世界」の空間的広がりを表しています。縦軸は、右端に小さく書いてあるように、「自我感情の強度」というものを表しています。この「自我感情」という言葉について、少しご説明をしておきます。

 「自我感情」とは、「自我エネルギー」と呼ばれることもありますが、これもフロイトの言葉で、個人が、自分の「自我」に対して供給しているエネルギーのことです。
 と言っても何のことかわかりにくいと思いますが、人間は誰しも自分自身のことを「自分という存在」として自覚し、守り、支え、動かしています。そして、その活動を支えている動力として、何らかの「心的なエネルギー」が働いていると想定してみることができるでしょう。
 もちろん、これは外部から物理的に測定できるようなエネルギーではなくて、一種の比喩的な想定ですが、たとえば「自尊心」というのは、そのエネルギーのわかりやすい表現の一つです。自尊心を感じている時、人は自分で自分に対して、ある種のエネルギーを供給しているのです。このように明白な形だけではなくて、基本的には自分という存在が、この机や椅子や外界とは異なって、自分にとって唯一無二の「自己」として浮き出して感じられるのは、自分という存在に対して特別なエネルギーが供給され、自己としての特性を帯びているからなのです。

 一般に人間の活発さというものが、気分や体調によって高くなったり低くなったりするのと同じく、自我感情も、時により増大したり減少したりします。自我感情が高揚した時には、自分に力がみなぎり、自信にあふれて何でもできそうに感じたりもしますが、逆に自我感情が低下した時には、自分が取るに足りないちっぽけな存在に思えたりします。
 石川啄木の短歌に、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買い来て/妻としたしむ」というものがありますが、これなどは「自我感情の低下」の様子を表現している好例だと思います。もっともこの時の啄木は、妻だけは自分を支えてくれるだろうと思える程度には、まだしも自我感情が保たれていいたことが救いだったわけで、かりにそれがもっと低下しておれば、「妻からも軽蔑される」と感じたかもしれません。
 同じ頃の啄木には、「おほどかの心来れり/あるくにも/腹に力のたまるがごとし」とか、「腕拱みて/このごろ思ふ/大いなる敵目の前に躍り出でよと」という短歌もありますが、こちらの方はかなり自我感情が高揚した時のものでしょう。

 このような「自我感情」というものをグラフにしてみると、(図7)のように、この世界の中で「自己」が存在している箇所では、「これは私である」という自我感情がぐっと高まり、自己から離れると、すぐに低下する、という形になります。
 スライドの中央あたりの赤い水平線を境に、上が「自己」、下が「非自己」と書いてありますが、これが「島」にとっての「海面」のレベルを表しています。海面上に出ている部分が、その十分に強い自我感情によって「自己」と感じられる場所であり、水面下に没しているのは「非自己」です。
 そしてこれは全体として、非常に急峻な岩礁が、海面上に突き出ているような断面図になっています。この急峻さは、「自己」と「非自己」の間には自我感情の大きな落差が存在しているという一般的な事実に対応しているもので、言い換えればこれは、「自我境界が明確である」ということを意味しています。これが、自我境界の明確な、一般成人の「自己」の存在様式です。

 さて、このような「自己」において、「自我感情」が高まるとどのようなことが起こるでしょうか。それを表してみたのが、下の(図8)です。

図8
(図8)

 ここでは「島」が全体として地殻上昇して、より高く海面上に突き出ています。自己の内では高揚感や能力感がかなり高まっているわけですが、(図5-6)のようにこの「島」を上から眺めると、それが海面において占める面積は、さほど大きく変わってはいません。この図では、岩礁の根元の方が太くなっているために、少しだけ面積は大きくなっていますが、それでも高さの変化に比べたら微々たるものです。

 次に、逆に「自我感情」が低下した場合の様子が、次の(図9)です。

図9
(図9)

 「島」は、下の方に沈下して、その高さはかなり減少しています。少し波が高くなると、島の中心部にもしぶきがかかりそうです。
 しかし、この場合も「島」の面積は、さほど変わってはいません。上の場合と逆に、少しだけ小さくなってはいるでしょうが、それでも高さの変化に比べると、さほど大きな違いではありません。

 すなわち、「自我境界」が明確である場合には、「自我感情」が変化しても、「自己」の範囲や大きさは、さほど変化しないのです。これはまあ当然のことで、一般の大人は、心的なエネルギーが増大したり減少したりしたからと言って、自分そのものが大きくなったり小さくなったりしたように感じるわけではありません。

 一方これに対して、「自我境界」が稀薄化し、曖昧になっている場合を図にしたのが、下の(図10)です。

図10
(図10)

 先ほどと何が変わっているのかと言うと、「島」は低く、「海」は浅くなり、その高低差によって表していた「自己」と「非自己」の落差が、狭まっているわけです。
 このように形が変化しただけでも、「島」は波のしぶきをかぶりやすくなっているわけで、これは「自己」の中心部までもが、周囲の環境の影響を、より受けやすくなっていることを表しています。しかし、この種の「自己」の特徴がより顕著に表れるのは、自我感情が変化した時のことです。

 右の(図11)は、「自我境界」が稀薄であるような個体において、「自我感情」が高揚した時の様子です。

図11

 ここでは驚くべきことに、さっきまで「非自己」であった海の部分が消滅してしまい、全てが「自己」の色彩を帯びています。
 これはどういうことかと言うと、「世界」の隅々にまで「自己」が遍く充満して、世界中の全てが「自己」と感じられる状態、言い換えれば「自己」と「世界」が一体化した状態です。
 なかなか常人には、このような状態を実感できる機会は少ないでしょうが、これこそが、先に論じたロマン・ロランの言う「大洋感情」というものに相当するのではないでしょうか。自分が世界全体と溶け合う、「永遠なるものの感覚」です。

 そして、宮沢賢治の作品にも、このような自己と世界との一体感の描写が、いろいろと出てきます。その例を、右の(図12)に挙げてみました。

図12
(図12)

 まず最初のものは『春と修羅 第二集』に収められている「種山ヶ原」という詩の初期形の一部です。賢治が大好きだった高原を一人で歩いた時の描写ですが、「あゝ何もかもみんな透明だ/雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに/風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され/じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で/それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と謳っています。賢治は、高原の自然の中で全く恍惚として、光や風や水とまさに一体となって、溶け合っています。
 二番目の例は、『春と修羅』に収められている「林と思想」という作品です。ここでは自分が世界全体と完全に一体化しているわけではありませんが、「わたしのかんがへ」が、向こうの林へと「流れて行つて」「溶け込んでゐる」という体験が描かれています。賢治の心の活動は、周囲の自然と部分的に融合しています。
 三番目の「まづもろともに…」は、先にもいくつか引用した「農民芸術概論綱要」の一節で、これも有名ないかにも賢治らしい言葉です。「みんな一緒に宇宙の微塵になって、果てしない空に散らばろう」と仲間に呼び掛けているわけですが、あらためて具体的に考えると、いったい何を一緒にしたいのかよくわかりません。もちろん、文字通り自分たちの体を粉砕して撒布しようと言っているわけではないでしょう。
 結局これも、上の「種山ヶ原」のように、「自分自身がそのまま大宇宙と一体化するような、そういう境地へと、ともに至ろう」という呼びかけと解釈するのが、一番自然だろうと思います。もっとも、呼びかけられたからと言って、皆がそうできるわけではないでしょうが…。

 以上、自我境界が稀薄化している場合に自我感情が高まったら、「自己と世界の一体化」が起こるということをご説明しましたが、今度はそのような曖昧な自我境界の人において、自我感情が低下した際にはどうなるかということを、考えてみます。
 その様子が下の(図13)です。

図13

 ご覧のように、ここでは「島」の全体が海面下に水没してしまって、「自己」として表面に顔を出している部分は、なくなってしまいます。
 すなわち、ここにおいて本人にとって「自己」というものは、あたかも「消滅」してしまったかのように感じられるのです。
 これも、一般人にはぴんと来にくい感覚でしょうが、賢治の作品にはやはりこのような体験があれこれ出てきますので、その例を(図14)に挙げてみました。

図14
(図14)

 上の作品は、まだ中学生の頃に作った短歌ですが、自分の脳やからだが、だんだん「うす白く」「消え行く」ような感覚を詠んでいます。どんな感じだったのか想像してみるしかありませんが、とにかくこの時の賢治は、自分が消滅していくような感覚を抱いたのでしょう。
 下の長い文章は、高等農林学校を卒業した23歳の頃に、親友の保阪嘉内にあてた手紙の一節です。「われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。」という言葉が、激しく5回も繰り返されています。一般に宮沢賢治というと、穏やかな人徳者というイメージがあるかもしれませんが、若い頃にはこれほどの実存的な苦悩を抱えていた人でもありました。ここでは、自分という存在を突き詰めた挙げ句に、「われはなし」という心の叫びが綴られます。「すべてはわれにして、われと云はるゝものにしてわれにはあらず」という風に、全てが自己でありながら同時に自己ではないと述べているところは、まさに(図11)と(図13)で起こっている真逆の事態が、実は表裏一体であることを示してくれていると思います。

 以上お示ししたような賢治の作品の一風変わった特徴は、これまでも多くの方が指摘しているところです。
 たとえば下の(図15)は、佐藤通雅氏が、賢治短歌の特徴を分析した労作『賢治短歌へ』(洋々社)という本からの抜き書きです。

図15
(図15)

 佐藤氏が、賢治の短歌において「賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう」「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」と述べておられるところは、まさに私がこれまでご説明してきた「自己と世界の一体化」です。また、賢治の短歌において、「彼の<われ>の多様性は、方法としてでなく、<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる」と述べ、賢治の作品の特異さは、単に文学的な表現としてなされているのではなく、彼独特の<われ>のあり方そのものに関わっていると指摘しておられるところも、これまで述べた私の思いと一致します。
 そして佐藤通雅氏は、通常の一人称を解体していくような賢治のこの特異な<われ>のあり方を、<超一人称>の方向と呼んでおられます。

(3) 外的現実と内的心象の同一視

 さて、自我境界の薄さに由来する賢治の「自己」の独特さは、彼が精力的に展開した「心象スケッチ」という方法論の基礎とも、密接に関係しています。

 賢治が生前に唯一刊行した詩集『春と修羅』の序文には、この世界では様々な現象が生起するように感じられるが、詰まるところは「それらも畢竟こころのひとつの風物です」述べて、自らの『春と修羅』は、その現象を「そのとほり」に記録した「心象スケッチ」であると書いています。すなわちこれらの作品は、作者の「内的世界」の描写なのです。
 一方、やはり唯一刊行した童話集『注文の多い料理店』の序文には、「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」と書かれていて、こちらは逆に外的世界から「もらってきた」というのです。

図16
(図16)

 それでは二つの作品集は、正反対の方法論で作られたのかというと、もちろんそうではありません。賢治は、外の世界で起こる現象(外的現実)と、心の中で繰り広げられる現象(内的心象)とは同一のものと考えていたので、どちらを描いても、結局は同じことになるのです。

図17
(図17)

 これを常識的な認識論の立場から理解しようとすると、たとえば現実世界にある白い雲を見ると、心の中にも白い雲のイメージが生まれますから、外的現実と内的心象が「同じ」であるのは当たり前のことのように思われます。
 しかし賢治の認識は、そういうことではありませんでした。外界にある「本物の雲」と、心でイメージしているその「似姿の雲」とが「二重に」存在しているのではなくて、それらは本当は「ただ一つの現象」であるにすぎない、というのです。

 このことを、実際に賢治が書いたものから見てみましょう。

図18
(図18)

 (図18)の最初の例は、親友の保阪嘉内が盛岡高等農林学校を退学になった時に送った手紙ですが、親友が退学になったことと、自分が徴兵されたらシベリアで戦死するかもしれないということを取り上げて、「退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか」「保阪嘉内もシベリアもみんな自分ではないか」と言っています。退学になったとかシベリアで戦死するとかいう、現実世界の出来事は、「自分の中の現象」にすぎないと言うのです。これは退学になった親友を慰めるつもりで書いた手紙だったのですが、この言葉が果たして親友の慰めになったのだろうかというところが、ちょっと気になります。
 二番目の例は、「銀河鉄道の夜」の初期形に出てくるものですが、「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのだから…」と、ここでも同じような世界観が語られます。
 三番目の例は、やはり親友保阪家内あての手紙の一節ですが、上記のように自分の心の中に現れることと、現実の出来事が同一だという理屈で行くと、心でふとイメージしただけのことでも、それは現実に起こってしまうのではないかという、ちょっとオカルト的な事態になってきます。ここでは、椅子に座って「ふと心が高い方へ行」くと、虚空に巨きな人が横たわっているのが見えたが、その姿はちょうどその頃亡くなった盛岡高等農林学校の先生だったのだろう、と言うのです。賢治は先生の死を予知した、というわけですね。

 こういう風に、外的現実と内的心象とを区別せず単一のものとする考え方は、仏教的には「唯識」の思想にも通ずるところがあるでしょう。しかし、賢治は仏教を学んだために知性的にこう考えるようになったのではなくて、それよりも前から、理屈以前の感性として、このように考えていたのではないかと思われます。
 そして、賢治のこの独特な世界観も、先ほどからお話している自我境界の薄さということから、説明することができます。

 通常は、世界の中に自己がいて、世界には自己以外にも、生物・無生物含めていろいろな存在があります。下の(図19)のように、自己は、世界のごく一部にしかすぎません。

図19
(図19)

 しかし、賢治のように自我境界の薄い人は、時に自我感情が高揚すると、自己と世界とが一体化して融合するという境地に至ることがあります。
 その状態が、(図20)です。

図20
(図20)

 ここでは自己がはるかに拡大して、「世界=自己」となっています。そのために、普通は自己の「外部」にあって、自分とは別個に独立した存在であったものたちが、あたかも自己の内部に所属しているかのような状態になっています。
 ここでは、「外的現実」と「内的心象」という区別はもはや意味をなさなくなり、「心象」をスケッチすることが、取りも直さずそのまま「外的現実」を記述することになるのです。
 これこそが、彼が『春と修羅』において打ち立てた、「心象スケッチ」の方法論であると言えます。

(4) 小括

 以上、いろいろとお話してきましたが、いったんここまでのところを簡単にまとめておきます。

図21
(図21)

 宮沢賢治の作品や書簡に表れたその心性の特徴について考えてみると、彼は「自我境界が薄い」というタイプの人だったと思われます。これは、彼が意識的にそうしたとか、勉強してそのような感覚を身に付けたとかいうものではなくて、彼の天性のものだったのではないかと思います。そしてこの特徴が、彼の人間性や作品に、ある種の独特さを与えました。

 一つは、たとえば「種山ヶ原」の初期形に見られるような、自己と世界が一体化してエクスタシーを感じるような体験を彼にさせ、その詩的霊感の源泉となりました。そのような作品は、枚挙にいとまがありません。

 また一つには、この感性によって賢治は常に自己と世界とが不可分の一体であると感じていたために、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉に表現されるような、世界に対する独自の倫理的スタンスをとることとなりました。
 賢治の子供の頃のエピソードとして伝えられている話に、他の子が手押し車に轢かれて指を怪我した時に、思わず駆け寄って「痛かべ、痛かべ」と言いながらその子の指を口に入れて吸ってやったとか、小学校で先生に怒られて水の入った鉢を持って廊下に立たされている子がいると、重いだろうと同情してその水を飲んでしまった、とかいうものがあります。
 このように、理屈以前に「他人の痛みを自分の痛みとして感じてしまう」というところも、自我境界が薄く、自他を一体のものとして感じていたからでしょう。

 このような倫理的姿勢は、彼の宗教的な態度にも、大きな影響を与えたはずです。すなわち、信仰によって自分自身の極楽往生を願うという浄土教的な信仰に飽き足らず、全ての衆生の救済という理想へ向けて、自らを積極的に駆り立てる方向へと、彼を動かしたのではないでしょうか。つまり、このような性向は、青年期に彼を浄土真宗から日蓮宗へと転向させる動因の一つになった可能性があります。

 以上は主に、自我感情が高揚して自己と世界が一体化する傾向にある時に起こったことでしたが、時にエネルギーが低下した時には、賢治は自己が消滅するような感覚にとらわれることもありました。これは彼に苦しみを与えたようですが、これも自我境界の薄さのために起こってしまうことでした。

 また、自我境界の薄さは、外的現実を内的心象を同一視するという、独特の世界観の形成にもつながり、『春と修羅』において開花する「心象スケッチ」という方法論に結実しました。

 以上、震災の夜に感じたことをきっかけに、賢治の心性や作品を包摂的に理解すべく考察を行ってみましたが、次にはこれを精神医学的にもう少し広い視点からとらえてみたいと思います。

(後半に続く)

【参考文献】
ロマン・ロラン: 136ジークムント・フロイトに(1927年12月5日).『ロマン・ロラン全集』第36巻(みすず書房)
ジークムント・フロイト: 文化への不満.『幻想の未来/文化への不満』(光文社古典新訳文庫)
佐藤通雅: 『賢治短歌へ』(洋々社)

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2014年11月16日 悲劇として→喜劇として

 ナポレオン・ボナパルトがクーデターによりフランス第一共和政を葬り去った半世紀後に、その甥のルイ・ナポレオンがやはりクーデターによって、第二共和制を崩壊させたという「歴史の繰り返し」を評して、マルクスが著書『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の冒頭で述べた次の言葉は、広く知られています。

 世界史上の大事件と大人物は二度現れると、かつてヘーゲルは書いた。だがヘーゲルは、次の言葉を付け加える事を忘れていた。その一度目は悲劇として、二度目は喜劇として、ということである。

 これを最近の日本の政治で見ると、いえ無論それは「世界史上の大事件」などでは到底ありませんが、まず第一次安倍内閣の時にも閣僚の不祥事が相次いで、佐田特命大臣の辞任に続き、松岡農林水産大臣は政治資金問題を追及された結果、議員宿舎において自殺するという「悲劇」に至りました。これに続き、久間防衛大臣、赤城農林水産大臣、遠藤農林水産大臣も辞職する事態に及び、安倍首相自身も、まもなく辞任に追い込まれたのです。
 一方今年の秋、第二次安倍内閣でも改造後に閣僚の不祥事が続き、2人の大臣が同時に辞任する運びとなりました。しかし今回の事態は、「これは“うちわ”か否か」などという珍妙な論争が国会で行われた挙げ句の結末であり、こちらは「喜劇」としか言いようがありません。
 ということで、「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という歴史の繰り返しは、やはり実際にあるものですね。

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 …と、話がえらく下世話な感じになってしまいましたが、実のところ本日述べたかったのは、もう少し神妙な事柄です。
 喜劇王チャーリー・チャップリンが述べたとされる言葉として、次のようなものがあります。

 人生とは、クローズアップで見ると悲劇だが、遠景で見ると喜劇である。
 (Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.)

 この含蓄のある言葉の出典がどこにあるのか、ネットであれこれ検索してみてもはっきりとはしないのですが、すでにこれはチャップリンの遺した箴言として、世界的に広く浸透しています。
 生粋の映画人であったチャップリンらしく、ここでは人生というものへの視点が、'close-up'と'long-shot'という映画の撮影手法に喩えて表現されています。これは、ドタバタ喜劇の中でも、つねに庶民の悲哀とペーソスを描きつづけた、いかにも彼らしい言葉と感じられます。
 先に挙げたマルクスの言葉が、時間的な順序に従って「悲劇」と「喜劇」が生じると言っているのに対して、こちらの言葉は、空間的な距離に伴って、「悲劇」となったり「喜劇」となったりしているというわけですね。

 ここでチャップリンのこんな言葉をご紹介した理由は、これがまさに、宮澤賢治の口語詩と文語詩との関係にも当てはまるように、私には思われるからです。
 『春と修羅』に始まる賢治の口語詩においては、激しいパッションをもって人間存在の修羅性や死の痛切な悲しみを描いた作品が、何と言っても印象的です。
 これに対して、晩年に書かれた文語詩においては、人生における何気ないような各場面を、「三人称的に」「客観的に」「無私の視点から」、淡々とそしてしばしばユーモアをまじえつつ叙述しているのが特徴です。そこでは、当事者たちに渦巻く生々しい感情は稀薄となって、「自然の風景」と「人間の営み」とが、微笑みを誘うようにまるで一幅の絵のごとく溶け合っているのです。

 賢治の創作態度がこのように変化した理由は、いろいろあるでしょう。私が思うところのその一つの大きな要因は、口語詩を書いていた頃の賢治は、身をもって人生や現世の苦難に直面していたのに対して、文語詩を書くに至った頃の賢治は、社会生活からは離れほとんど病床で過ごしつつ、昔の自分の詩稿に想を得たり、自らの人生をノートに整理して回顧したりしながら、自分や他の人々の人生を、観想的に眺めていたというところにあるのではないでしょうか。
 上のチャップリンの言葉に倣えば、前者においては賢治は人生を「クローズアップ」で目にしていたのに対して、後者においては、遠くから「ロングショット」で眺めていた、ということになります。
 それが、あるものを「悲劇」として表現するか、「喜劇」として表現するか、という違いを生んでいるのではないかと思うのです。

 具体的な例を挙げてみましょう。
 たとえば、『春と修羅 第三集』に属する「〔何をやっても間に合はない〕」という口語詩は、後に改作されて、「副業」という文語詩になります。
 「〔何をやっても間に合はない〕」は、まず「詩ノート」に書き付けられた後、黄罫詩稿用紙に改稿されているのですが、ここではより臨場感をもって「クローズアップ」された姿を見ていただくために、その「詩ノート」上の形態を下に掲げます。

 一〇九〇

何をやっても間に合はない
世界ぜんたい間に合はない
その親愛な仲間のひとり
    また稲びかり
雑誌を読んで兎を飼って
その兎の眼が赤くうるんで
草もたべれば小鳥みたいに啼きもする
    何といふ北の暗さだ
    また一ぺんに叩くのだらう
さうしてそれも間に合はない
貧しい小屋の軒下に
自分で作った巣箱に入れて
兎が十もならんでゐた
    もうここまででも
    みちは倒れた稲の中だの
    陰気なひばやすぎの影だの
    まがってまがって来たのだが
    あっちもこっちも気狂みたいに
    ごろごろまはる水車の中を
    まがってまがって来たのだが
外套のかたちした
オリーブいろの縮のシャツに
長靴をはき
頬のあかるいその青年が
裏の方から走って来て
はげしい雨にぬれながら
わたくしの訪ねる家を教へた
わたくしが訪ねるその人と
縮れた髪も眼も物云ひもそっくりな
その人が
わたくしを知ってるやうにわらひながら
詳しくみちを教へてくれた
ああ家の中は暗くて藁を打つ気持にもなれず
雨のなかを表に出れば兎はなかず
所在ない所在ないそのひとよ
きっとわたくしの訪ねる者が
笑っていふにちがひない
「あゝ 従兄すか。
さっぱり仕事稼がなぃで
のらくらもので。」
世界ぜんたい何をやっても間に合はない
その親愛な近代文明と新な文化の過渡期のひとよ。

 この作品が書かれたのは、豪雨によって賢治が肥料設計した稲に甚大な被害が出た1927年8月20日のことで、その様子はやはり同日の「〔もうはたらくな〕」にも描かれています。人の力ではどうしようもない天災に直面して、賢治は必死の思いで、とある農家を訪ねようとしています。
 途中たまた道を尋ねた農家では、副業として兎を飼っていました。激しい雷雨と、つつましい兎の巣箱の様子が、対照的です。しかしこの日の豪雨は、個々の農家によるこういう健気な工夫と努力をも、根こそぎ台無しにしてしまうほどの被害を、まさに引き起こしつつあるのです。
 「何をやっても間に合はない」「世界ぜんたい間に合はない」と繰り返される言葉には、この現実に打ちひしがれた賢治の焦燥感や絶望感がこめられており、ここに描かれている情景は、まさに「悲劇」と言わざるをえません。

 一方、この口語詩を賢治が晩年に文語詩化した「副業」では、情景は次のようになっています。

  副業

雨降りしぶくひるすぎを、  青きさゝげの籠とりて、
巨利を獲るてふ副業の、  銀毛兎に餌すなり。

兎はついにつくのはね、   ひとは頬あかく美しければ、
べっ甲ゴムの長靴や、    緑のシャツも着くるなり。

 作品の舞台装置は、激しい雨、副業の兎、長靴、緑のシャツと、先の口語詩と共通しています。しかしここには、前作にあったような深刻な悲劇性はうかがえません。
 「兎はついにつくのはね」(「つくのはね」は、償わない=採算が合わないこと)とやはり書かれていて、この副業が生活の「間に合はない」ことに変わりはないのですが、賢治はこの兎を飼い主の思惑を、「巨利を獲るてふ副業」と表現することで、あたかも「一攫千金を夢見るお人好し」のように造型しています。
 さらにその飼い主は、「頬あかく美し」き人で、当時流行の「べっ甲ゴムの長靴」や「緑のシャツ」を身につけるという、なかなかのお洒落もしているのです。
 すなわち、この文語詩の作品世界では、農家の厳しい境遇や運命の悲惨さなどではなく、一人の紅顔の農民の魅力、ユーモラスでもあるその無垢な純真さが、まるでミレーの絵のように、描かれているのです。
 これは「喜劇」というほどではないにしても、読む者をふっと微笑ませてくれるものでしょう。

 同じ題材を扱いながら、口語詩と文語詩とのこのような相違は、「出来事」と「書き手」との間に存在ある、時間的な距離が生み出しているのではないでしょうか。すなわち、豪雨災害の危機感の只中で書かれた口語詩と、それから遙か何年も経って賢治にもいろいろあって、病床の中で多少とも懐かみつつ回想しながら書かれた文語詩との間の違いです。

 ついでにもう一つ、例を挙げておきます。
 まずは、やはり『春と修羅 第三集』の、「〔同心町の夜あけがた〕」です。

 一〇四二
               一九二七、四、二一、
同心町の夜あけがた
一列の淡い電燈
春めいた浅葱いろしたもやのなかから
ぼんやりけぶる東のそらの
海泡石のこっちの方を
馬をひいてわたくしにならび
町をさしてあるきながら
程吉はまた横眼でみる
わたくしのレアカーのなかの
青い雪菜が原因ならば
それは一種の嫉視であるが
乾いて軽く明日は消える
切りとってきた六本の
ヒアシンスの穂が原因ならば
それもなかばは嫉視であって
わたくしはそれを作らなければそれで済む
どんな奇怪な考が
わたくしにあるかをはかりかねて
さういふふうに見るならば
それは懼れて見るといふ
わたくしはもっと明らかに物を云ひ
あたり前にしばらく行動すれば
間もなくそれは消えるであらう
われわれ学校を出て来たもの
われわれ町に育ったもの
われわれ月給をとったことのあるもの
それ全体への疑ひや
漠然とした反感ならば
容易にこれは抜き得ない
  向ふの坂の下り口で
  犬が三疋じゃれてゐる
  子供が一人ぽろっと出る
  あすこまで行けば
  あのこどもが
  わたくしのヒアシンスの花を
  呉れ呉れといって叫ぶのは
  いつもの朝の恒例である
見給へ新らしい伯林青を
じぶんでこてこて塗りあげて
置きすてられたその屋台店の主人は
あの胡桃の木の枝をひろげる
裏の小さな石屋根の下で
これからねむるのでないか

 賢治は、自分で作った野菜や花をリヤカーに積んで町へ売りに行くところですが、近所の農民(程吉)の冷たい視線に遭います。それが、作物に対する「嫉視」であるのならまだ根は浅いが、町に育ち、学校を出て、月給をとったことのあるものへの疑いや反感ならば、もっと根は深いと嘆じています。
 道中の情景には心温まる部分もありますが、賢治の心の中は、苦々しく重たいものです。

 一方、これが後に文語詩に改作された、「短夜」という作品を次に掲げます。

  短夜

屋台を引きて帰りくる、      目あかし町の夜なかすぎ、
うつは数ふるそのひまに、    もやは浅葱とかはりけり。

みづから塗れる伯林青の、    むらをさびしく苦笑ひ、
胡桃覆へる石屋根に、       いまぞねむれと入り行きぬ。

 ここでは、作者の心に当時あった重苦しい思いは消し去られ、ロングショットのカメラが代わりにとらえるのは、口語詩では最後に登場していた「屋台店の主人」です。
 屋台に自分で施した塗装のその塗りむらに苦笑しつつ、仕事を終えてさあ寝ようと家に入るその主人…。ここにもやはり人生のペーソスが、ふと垣間見えています。
 賢治は詩稿用紙の上で文語詩を推敲しつつ、当時の自分の個人的な思いよりも、こういった人間のふとした仕草を思い出しつつ愛おしみつつ、書き付けていったのだろうと思います。

 チャップリンが、映像表現において「クローズアップ」と「ロングショット」で対比したのは、カメラと被写体との間の「空間的な距離」でしたが、賢治にそのような視点を与えてくれたのは、対象との「時間的な距離」だったと言えるでしょう。

チャップリン

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2014年11月 9日 秀明大学の「宮沢賢治展」

 今日は、千葉県八千代市にある秀明大学で行われた「宮沢賢治展」に行ってきました。
 朝9時前に家を出て、新幹線で東京へ行き、地下鉄東西線から東葉高速鉄道に入って八千代緑が丘という駅で降りて、さらにバスで15分ほど走り、大学に着くと午後1時前でした。

 ちょうど大学では「飛翔祭」という大学祭が行われているところで、賢治展もこの企画の一環だったんですね。

秀明大学「飛翔祭」

 学生さんたちはみんな親切でフレンドリーで、アットホームな雰囲気のキャンパスです。

 午後1時からは、宮澤和樹さんの講演「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」が予定されていたのですが、何とかぎりぎりで間に合うことができました。会場の大きな教室は、ざっと200名以上の老若男女でぎっしり埋まり、熱気にあふれています。

宮澤和樹氏講演「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」

 ユーモアとともに、人間味あふれる賢治の一面を伝えてくれる和樹さんの講演に、会場からは熱心な質問が相次ぎました。
 そして、講演が終わってあたりを見まわすと、賢治研究者や愛好家の懐かしいお顔がいっぱい…。これほどたくさんの方々に一度にお会いできるのは、9月の花巻以外では珍しい。

 講演会場を2時すぎに後にすると、期待に胸を躍らせて「宮沢賢治展」会場の教室に向かいました。
秀明大学《宮沢賢治展》 こちらの教室では、ガラスケースに入れられた様々な貴重な資料を間近で見られ、さらに「写真撮影自由」というありがたいご配慮です!
 みんな、食い入るように賢治の書簡や写真を見つめ、あちこちから感嘆の声が上がります。一つ一つ、すべての資料を丹念に写真に収めている方も結構おられ、本当に熱心な賢治好きの方々が、この郊外の大学まで集まられたのだなという感じです。
 今回の厖大な資料は、すべて秀明大学学長の川島幸希先生の個人所蔵ということで、会場では川島先生が忙しくあちこちに出向いては、懇切に説明をしておられる姿が印象的でした。

 さて、今回の「宮沢賢治展」の大きな意義は、次のような点にありました。

  1. 新発見の賢治の書簡を一挙に9通公開
     賢治ほど調査研究が進んだ作家に関して、これほどのまとまった数の新発見自筆資料が一度に出てくるというのは、今後もそうそうないことでしょう。
     またこれに加えて、「新発見」ではないものの、全集において「所在不明」「現存しない」とされていた書簡も、3通「再発見」されて出展されていました。
  2. 賢治の写っている新たな写真を公開
     これも、賢治ファンにとっては快哉を叫びたくなるようなことですよね。
     これは、盛岡高等農林学校の卒業アルバムが新たに発見されたことによるもので、そのアルバムの中に学生の風景を記録した未公開の写真があったのです。これまで全集等に収められていた盛岡高等農林学校時代の写真は、宮澤家と佐々木又治遺族所有のアルバムから採られたものでしたが、収録写真はアルバムごとに少しずつ違うものだった可能性があります。
  3. 『春と修羅』背表紙の「詩集」の文字をブロンズで消した本を公開
     賢治の意思に反して入れられてしまった『春と修羅』の背表紙の「詩集」の文字を、賢治が後でブロンズで消していたということは、森佐一あて書簡には書かれていましたが、実際にそのような処置が行われた本は、これまで見つかっていませんでした。それが、今回確認されたわけです。
     賢治が、自らの「心象スケッチ」という営みと、世間一般の「詩」との間にはっきり一線を画そうとした、思いが見てとれます。

『成瀬金太郎小伝』 今回発見された上記 1. 2. の資料は、いずれも盛岡高等農林学校における賢治の親友であった成瀬金太郎氏が所有していたものが、最近になって何らかの経路で古書の市場に現れたというものです。しかし、その出現がどのような事情によるものだったのか、経緯はわかっていません。
 『成瀬金太郎小伝』(右写真)という書物には、第二次大戦中の成瀬氏のエピソードとして、次のようなことが書かれています。

将来を考えて盛岡の書籍、家具等使用しない物は出来るだけ安全な所に疎開せねばと思い鉄道便で四国神山の生家へ送ったものの内、梱包一ヶ高徳線造田駅内において盗難にあい無くなったことは、残念でならない。この紛失物の中には宮沢賢治君から贈られた法華経の本、学生時代の記録、南洋拓殖工業株式会社当時の貴重な記録が一杯詰って居たので損害は甚大であった。
(『成瀬金太郎小伝』p.61-62)

 この事実を知っていた一部の方からは、今回発見されたのは、ひょっとしてこの四国で盗難に遭った品物の一部だったのではないかという推測も出さていたのですが、実態は違ったようです。今回「再発見」された資料は、ある時期までは東京の成瀬家に保管されていたものなのだそうです。

 さてここで、今回発見された賢治の新しい写真を、掲載させていただきましょう。

宮澤賢治新発見写真

 前列の右から2人目、分厚い本を広げて静かに読んでいる姿が、我らが賢治君ですね。
 この写真の賢治の部分を、拡大してみます。

宮澤賢治新発見写真(部分拡大)

 うーん、これはなかなか、白皙の美青年ですよね…。賢治の青春時代への想像の翼が、また一つ増えたという感じです。

 それにしても、秀明大学の川島幸希学長におかれましては、このたびは貴重なコレクションを惜しげもなく公開し、見学者には写真撮影まで許可していただき、超多忙な中を奔走して、私どもの質問にも優しく答えて下さいました。
 このような機会を与えていただいた川島幸希学長と大学関係者の方々に、ここにあらためて御礼を申し上げます。

 ただ惜しむらくは、公開期間が2日間限定ということで、全国には今回来られなかった賢治ファンもたくさんおられることと思います。またいずれの日にか、多くの方々がこの貴重な資料に対面できる機会が実現することを、お祈りしています。

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2014年11月 3日 オフィス3○○『天使猫―宮澤賢治の生き方―』

『天使猫―宮澤賢治の生き方―』

 ちょうど82年前の今日、賢治が手帳に「〔雨ニモマケズ〕」を書き付けたという縁のある日に、渡辺えりさんの率いる「オフィス3○○」の公演『天使猫―宮澤賢治の生き方―』を見てきました。東日本大震災を受けて、渡辺さんが2011年に書き下ろしたという作品を、やはり震災に遭った西宮市にある兵庫県立芸術文化センターで体験するという、これもめぐり合わせ。
 トシを演じた大和田美帆さんは、昨年11月にやはりこの兵庫県立芸術文化センターで、井上ひさし『イーハトーボの劇列車』でトシを演じておられましたので、ちょうど1年ぶりの再会です。

 全篇を堪能して、やはり今さらながら、宮澤賢治という人の稀有な「生き方」に対して胸が詰まるような思いがこみあげてくるとともに、作中にたくさん散りばめられた賢治の「言葉」の力を、ひしひしと感じました。
 渡辺えりさんの、賢治に対する深い造詣と共感とに裏打ちされたドラマでした。

 今後の公演予定は、下記のようになっています。もしも時間とお席がありましたら、足を運んでみられてはいかがでしょうか。

11月 5日(水)19時 金沢市 北國新聞赤羽ホール
11月 8日(土)14時 山口市 山口情報芸術センター スタジオA
11月 9日(日)14時 同上
11月11日(火)19時 宮崎県三股町 三股町立文化会館
11月24日(月)18時 愛知県長久手市 文化の家 森のホール
11月27日(木)19時 福島県南相馬市 市民文化会館
11月28日(金)19時 仙台市 日立システムズホール仙台
11月30日(日)13時 山形市 シベールアリーナ
           17時 同上

 11月1日には石巻市に特設された屋外テントで公演されたということですが、11月27日のトシの命日には福島県の南相馬市、そして30日の千秋楽は、渡辺えりさんの出身地である山形公演で打ち上げなんですね。

 会場で販売していたパンフレットには、まだ来日して間もないロジャー・パルバースさんが、1971年に比叡山延暦寺の賢治歌碑前で、宮澤清六さんや賢治研究者の堀尾青史さん、歌碑建立の中心となった延暦寺長?の葉上照澄さんらと一緒に撮影した記念写真が「世界初公開」として載せられていて、これも個人的には嬉しかったです。

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2014年10月26日 花巻ばら会創立50周年記念誌

 以前に「賢治が愛したバラ」のシリーズ((1), (2), (3), (4), (5), (6))を記事にした際に、「花巻ばら会」の佐香厚子さんからは、いろいろと貴重なご教示をいただいたのですが、このたび、「花巻ばら会」が創立50周年を迎えたということで、佐香さんからその創立50周年記念誌をお贈りいただきました。
 下写真が、その立派な記念誌の表紙です。

花巻ばら会50周年記念誌

 表紙に描かれているのは、花巻ばら会の象徴とも言える、「賢治のばら」こと「グルス・アン・テプリッツ」ですが、このイラストも佐香さんが描かれたのだそうです。
 「50年」と言うと、私の人生ともほとんど重なり合う期間ですが、今から50年前には東海道新幹線が開業して東京オリンピックが開かれ、また花巻では岩手県の空の玄関口・花巻空港が開港したということで、戦後の経済成長を体現するような時期だったわけですね。

 『花巻ばら会創立50周年記念誌』の中身を拝見すると、この50年の歴史を彩ったさまざまな貴重なバラの写真が紹介されていますが、私として特に興味を引かれるのは、やはり何と言っても「賢治ゆかりのばら」のエピソードです。
 花巻ばら会名誉会長の佐藤昭三さんは、当時の経緯を回顧する文章を寄せておられるのですが、ここには私が7年前に「賢治が愛したバラ」シリーズを書いた時点ではわからなかった、より詳しい情報が記されているのでした。
 以下に、佐藤昭三さんによる「賢治ゆかりのばら」という文章より、一部を引用させていただきます。

 花巻ばら会が昭和三十九年六月四日に設立され、その総会で佐藤隆房先生を会の顧問に推挙することが決まり、その就任の承諾を得る役を副会長の私が指名されたのであった。
 当時の私のメモによれば、「六月五日午後花巻病院顧問」とあり、私が直接院長にお目にかかっている。顧問就任は問題なく快諾されて、市内のばら事情の会話の中で、「今、家の庭にも賢治さんがくれたばらが咲いているよ」という先生のお話に初耳のことなのでその経緯を尋ねた所「住まいを桜に移したときにばらの苗二十本をお祝いにくれた」のが咲いているから一度見に来るようにとのお誘いをいただいたのだった。
 その時に、ばら会創立記念の第一回ばら展を八、九日の両日開催予定していることを報告して、「賢治ゆかりのばら」として会場に特別展示することになり、お庭の貴重な花を採取することをお許しいただいた。その後展示会前日、ばら会員数名で桜町のお宅に伺った。すでに開花が進んでいたがお庭の管理人の案内で「賢治ゆかり」のばらを拝見した。品種名を記した名札が皆無で、同行した会員の知識では判別ができず、よく咲いていると思しき中から数種の二十輪ほどを切り花として頂戴し、フラスコに活けて、八日からばら展会場に特別出品「賢治ゆかりのばら」として市民や入場者に初めて公開してご覧いただいた。

 つまり、生前の賢治が佐藤隆房氏にばらを贈っていたという話を、佐藤昭三氏が初めて知ったのが1964年6月5日、そしてそれらのばらの花が初めて一般公開されたのが、同年6月8日だったのです。
 すなわち今年は、「賢治のばら」の話が世に知られ、その花が実際に公開されてからも、ちょうど50周年にあたるわけなんですね。

 また、この「賢治のばら」のエピソードは、花巻ばら会が佐藤隆房氏に顧問就任を依頼した縁から、ふとした雑談の折りに偶然にも判明したことだったというのも、「不思議なめぐり合わせ」を感じるところです。
 ちなみに下写真は、この1964年6月8日・9日に開催された「花巻ばら会・第一回ばら展」に「宮沢賢治ゆかりのバラ」が特別出品された時のものです。
 これこそが、その後有名になる「賢治のばら」が初めて世に出た機会であり、まさに貴重な記録と思います。

宮沢賢治ゆかりのバラ

 さて、しかしまだこの時点では、「賢治のばら」の品種が何であるのか、その名前はわかっていませんでした。その品種特定をめぐる次の動きは、花巻ばら会の「25周年」という節目を契機として、訪れたのです。

 以下は、再び記念誌掲載の佐藤昭三さんの文章から、「賢治ゆかりのばらの品種判明」より引用させていただきます。

 花巻ばら会設立後二十五年を経過した平成二年、日本ばら会の要請により第十回の全国大会を主催することになったが、地方の小都市での開催は初めてのこと、全国から参加するばら愛好家に何かばらにまつわる花巻の話題を提供できないかと検討したときに、賢治が佐藤隆房先生に贈ったばらをお見せすることはどうかという事になった。そこで会員数人で隆房先生宅に伺いその中の一株が明白な特徴があり、市販されている品種でないことを確認した上でこれを増殖することにし、同行した高橋健三会員に要請して接木によって複数の新苗が育てられた。
 大会開催中、見事に開花した二鉢に「賢治のばら」の解説をつけて展示公開することができた。このように新苗が育てられたが、品種名が不明のまま「ゆかりのばら」では納得ができず、吉池貞蔵会員(現会長)は「ミスターローズ」と呼ばれた国際的なばらの育種家鈴木省三氏に相談し、苗を贈り、氏はその苗を自ら自宅の庭で育てられた。三年後、見事に咲いた真紅の花はビロードの花弁で甘い芳香が高くて花の女王にふさわしい気品があり、強い印象を与えた。
 このばらの名称は和名は「日光」、正式には「グルズ・アン・テプリッツ」という花名であることが分かった。鈴木氏が少年の頃、自宅の庭にあった父が最も大事にしていたばらで、名前も知らずに親しんだ少年時代のばらと運命的な再会だったことを知った。

 品種名判定を依頼した鈴木省三氏が、自らの少年時代の思い出のばらと「再会」することになったという逸話は、これまでもご紹介してきたことですが、これもまた「不思議なめぐり合わせ」を感じてしまうところですね。
 上の内容から推測すると、「賢治ゆかりのばら」の品種が判明した時期は、「日本ばら会第十回大会」が1990年なわけですから、それから鈴木省三氏のもとに贈られたばらが3年後に開花したとすれば、1993年あたりということになります。
 一方、「賢治が愛したバラ(3)」では、京成ばら園で鈴木省三氏の秘書をしていた野村和子氏からの情報として、「賢治のバラが初めて開花した時の写真の日付は1987年だった」という話をご紹介しましたが、この情報とは矛盾してしまうことになります。
 どちらが正しいかということは、現時点でははっきりわかりません。ただ、「賢治が愛したバラ(4)」でご紹介した、佐藤昭三氏の文章「宮沢賢治とばら」は、「第10回日本ばら会全国大会記念」としてまとめられたもので、1990年か1991年に書かれたものと思われますが、この文中には「グルス・アン・テプリッツ」という品種名は登場しないことから、この時点ではまだ品種名は判明していなかったのではないかと思われます。したがってそれが判明した時期は、今回の佐藤氏の文章のように、1993年頃だったという可能性が高いのではないかと、個人的には感じています。

 それにしても、今回の記念誌を拝見して、「花巻ばら会」がまさに「賢治のばら」と深い縁で結ばれつつ、50年の歴史を歩んでこられたのだなあと、あらためて実感させていただきました。

 記念誌をお贈り下さった佐香厚子さんに、ここにあらためて御礼申し上げるとともに、花巻ばら会の益々のご発展をお祈り申し上げます。

【関連記事】
・「賢治が愛したバラ(1)
・「賢治が愛したバラ(2)
・「賢治が愛したバラ(3)
・「賢治が愛したバラ(4)
・「賢治が愛したバラ(5)
・「賢治が愛したバラ(6)

グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園)
グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園にて)

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2014年10月 2日 「青森挽歌」の構造について(1)

 8月の東京および先月の比叡山で発表させていただいた話の中では、「青森挽歌」を例にして、賢治の体験様式について説明を試みた部分があったのですが、その時の内容に少し加筆しつつ、下に文章化してみます。

 まず、「青森挽歌」の本文(初版本)を下に掲げます。種々の記号のようなものについては、図の下で説明します。テキストのルビは、省略させていただきました。

 「青森挽歌」の構造

 本文右側に並ぶ数字は、行番号です。「青森挽歌」の本文は、全部で252行あります。
 本文の背景の一部に、水色または桃色で色が付けてありますが、水色の部分は「一重括弧」で囲まれていることを、桃色の部分は「二重括弧」で囲まれていることを、示しています。
 本文左側にある橙色の数字は、「字下げ」を表しています。例えば「-4」なら、その部分が行頭から「4字下げられている」ことを表しています。

 今回は、本文全体を大きく5つの部分(I〜V)に分けてみました。上の図では、細い二重線で区切っています。
 以下、最初の〈I〉から順に見ていきます。

 冒頭から54行目までの〈I〉には、「現実世界からの導入・トシの死について考えることへの躊躇」という見出しを付けました。
 ここでは、作者が夜行列車に乗りつつ、窓の景色を見たり、昼間のことを回想したりするなど、現実的な描写が主体です。しかしその底には、「考へださなければならないことを/わたくしはいたみやつかれから/なるべくおもひださうとしない」(37-38行)との言葉に示されているように、妹トシの死について考えようと思いつつも実行できない、「躊躇」もあります。
 この〈I)には、一重括弧でくくられた言葉が、いくつも出てきます。その言葉の内容は、汽車の媒体として「巨きな水素のりんご」を想像したり、乗客の一人を勝手に「大学の昆虫学の助手」に見立てたり、かなりファンタジックな傾向が認められます。「地の文」が主に、実際に目で見たものなどを記している「顕在的な意識」であるのに対して、この一重括弧は、作者の心のより奥深くから湧いてくる言葉なのでしょう。

 つまり、一重括弧で囲まれた部分は、作者の顕在意識からはやや相対的に独立して、自身の心に自ずと湧いてくる言葉=「内言」を表していると考えられます。卑近な例を挙げれば、「今日のお昼に何を食べようか…」と「顕在意識」で思った時に、「カレーがいいなあ」、「いや、ラーメンが食べたい」などという風に、自然に心の奥から生まれ出てくるような、「思考・言葉」に相当するものです。
 とくにこの作品における作者の内言の特徴の一つは、その出所が上にも述べたように、賢治の内奥のファンタジックな部分とつながっていると思われるところです。

 さて、物憂い眠気とともに淡々と進行する〈I〉の流れに、一つの不吉な変化が生じるのは、28行目の「水いろ川の水いろ駅」に続き、29行目の内言に(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)という言葉が出てくるところです。
 ここに現れる、「おそろしいあの水いろの空虚」という言葉から私が連想するのは、賢治の若い頃の連作短歌「青びとのながれ」から、後の文語詩「〔ながれたり〕」に至る、死者の世界です。
 後者に出てくる「水いろなせる川の水」とか、「水いろの水と屍 数もしら」などの言葉は、直接この箇所の語彙につながっていますし、(そもこれはいづちの川のけしきぞも)は、「青森挽歌」8行目の「けれどもここはいつたいどこの停車場だ」と響き合っているかのようです。また、「〔ながれたり〕」の作品世界の時刻は、「地平わづかに赤らむは/あかつきとこそ覚ゆなれ」とあるように夜明け前ですが、「青森挽歌」でも、「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱をよどませ」(24-25行)という景色が広がり、同じく地平に曙光が現れようとしているところです。
 すなわち、作者は〈?〉の途中までは、何とかして「死」の想念を抑圧しようとしていたのですが、ここに至って窓外の景色までもが死者の世界として迫ってくるようになり、ついに賢治は、「死」について考えることから逃れられなくなったのです。

 そこで作者は観念して、「こんなさびしい幻想から/わたくしははやく浮びあがらなければならない」と自覚します。そして実際に、右横の橙色の数字が示しているように、最初は行頭から「4文字下げ-4」であった内言は、この直前から「3文字下げ-3」に変わり、さらに2つの3文字下げ内言を経て、〈II〉の60行目で「2文字下げ-2」となるまで、徐々に「浮かびあが」っていくのです。
 すなわち、この「文字配置の上昇」は、彼の心の深いところにあった意識が、段々と心の表層近くまで「浮上」してきている様子を、視覚的に表現しているのだと思います。

 この後、37-38行目において作者の内言は、「考へださなければならないことを/わたくしはいたみやつかれから/なるべくおもひださうとしない」と述べて、トシの死について考えようとしない顕在意識(地の文)の姿勢に対して、批判的です。しかしなお顕在意識の方は、「今日の昼すぎ」から重労働をしたことを理由に、「だから睡いのはしかたない」と自己正当化し、抵抗を続けます(40-45行)。

 すると、ここに至って唐突に、作者の内言に、「おゝおまへ せわしいみちづれよ(オー ヅウ アイリーガー ゲゼルレ)/どうかここから急いで去らないでくれ(アイレドツホ ニヒト フォン デヤ ステルレ)」というドイツ語の詩句が、闖入してきます(46-47行)。
 これは、当時の旧制高校等で使われていた『独文読本』に収められている ‘Des Wassers Rundreise’ という作者未詳の詩の一節です(「水めぐりの歌」参照)。ここで賢治の内奥の意識は、暗黙のうちにトシを「せわしいみちづれ」と見立てて、「どうかここから急いで去らないでくれ」と、痛切にも呼びかけるのです。
 すなわちここにおいて、それまで抑圧されていた死んだ妹のイメージが、象徴的な置き換えを受けた形ながらも、初めて現れたのです。

 そして次の48行目に、これも作品中で初めて、「二重括弧」でくくられた言葉が登場します。
 この二重括弧の内容は、先ほど内言で現れたドイツ語の詩句を揶揄するもので、《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》と、まるでいじめっ子がはやし立てるような言い方をしています。
 ここまで作品を読んできた者も、この子供じみた物言いはいったい何なんだと思うでしょうが、やはり内言も、「いきなりそんな悪い叫びを/投げつけるのはいつたいたれだ」と憤慨しています。
 それにしても、この言葉を発した者は、実のところ「いつたいたれ」だったのでしょうか?

 まず、その言葉がわざわざ《 》という二重括弧でくくられていることは、これが「地の文」を成している作者の顕在意識とも、一重括弧で囲まれた「内言」とも、異なった「出所」を持つことを示しています。
 それでは、これは「一重括弧」とはまた別の所から来た「内言」なのでしょうか。
 否、これは「内言」ではありません。これが内言の一種でないことは、一重括弧の内言がその正体を知らずに、「いつたいたれだ」と言っていることによって示されています。
 例えば昼食のメニューを迷っている時に、「いや、ラーメンが食べたい」という言葉が不意に心に出現したとしても、その言葉の出所が「自分の心の一部」であることは、本人は常に分かっています。「内言」というものは、その人が「自己」と感じる領域の内部から、つまり「自我境界」の内側から、やって来るのです。
 これに対して、一重括弧の内言は、《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》という言葉がどこから発せられたのか、その出所を知りませんでした。つまり二重括弧の言葉は、「自己」と感じられる領域の外側から、やって来ているのです。
 自己の外側から、つまり自己にとっては「他者」に由来するものとして、何らかの「言葉」が到来する時、それは主体にとっては、「幻聴」として体験されます。
 すなわち、この作品において、二重括弧内の言葉は、「幻聴」を表しているのです。

 これを図示してみると、次のようになります。
 まず下の図は、「自己」の内部で対話が行われている、通常の「内言」を表しています。

通常の内言

 「顕在意識」も「潜在意識A」も「潜在意識B」も、いずれも「自我境界」の内側にあって、それぞれが「自分」であることを自覚しつつ、相互にコミュニケーションを行っています。これは例えば先に挙げた例で、昼食のメニューをめぐって、「カレーがいい」「ラーメンが食べたい」などと、自分の中で相互に会話をしている時の様子です。

 これに対して「青森挽歌」における、「地の文」と、一重括弧と、二重括弧との関係は、下図のようになっています。

「青森挽歌」における内言と幻聴

 「地の文」を成す「顕在意識」と、一重括弧を成すファンタジックな潜在意識は、「自我境界」の内側にあります。このため、一重括弧の主体も、自らを「顕在意識」と同じ「わたくし」として自覚しています(38行目)。
 これに対して、二重括弧を成す潜在意識は、上図のように「自我境界」の外側に位置しています。これは実際には、自分の脳内の神経活動の一部なのですが、自我境界の外であるために、顕在意識にとっては、あたかも「自己の外」から来たように感じてしまうのです。
 したがって、二重括弧の言葉を受けた一重括弧の主体は、それがどこから出現したのかが分からずに、「いきなりそんな悪い叫びを/投げつけるのはいつたいたれだ」と驚いたのです。そして、このような「正体不明」の言葉の到来を、主体は「幻聴」として体験するのです。

 賢治という人は、しばしば幻聴を体験したようです。多くの人はあまり経験しないようなこのような現象を、賢治がしばしば体験した理由は、おそらく賢治の「自我境界」が、伸縮自在の柔軟な性質を持っていたからだと、私は考えています。だから賢治は一方で、自己が世界と一体化するような感覚を持ったり、逆に自己が消滅するような感じに襲われたりすることがあったのです。
 賢治がよく幻聴を耳にしたのは、上の図のように、「自我境界」が通常よりも収縮したために、自分の内部で起こっている精神活動が、まるで外部にあるかのように定位されてしまったからだと、解釈することができます。

 あともう一つ、この《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》というフレーズの周辺の構造に関して、注目しておくべきことがあります。
 それは、ここで二重括弧の字句は、一重括弧の中に包み込まれる形で、「入れ子」となって現れているということです。
 この「入れ子構造」が意味するところは、「二重括弧の言葉は、(直接的には)一重括弧の意識によって体験された」ということでしょう。このことが、上の図において「幻聴」は、「二重括弧一重括弧という二者の間の矢印」で表現されていることに対応しています。
 図示されているように、二重括弧の主体は表層からかなり深いところに位置しているために、「地の文」を成している顕在意識は、この時点では直接二重括弧にコンタクトをとることができなかったということかと思われます。

 この二重括弧の意識は、「地の文」を成す顕在意識に対して、とにかく反抗的・挑戦的であり、作品の後半でも、揶揄的・嘲笑的な態度を取りつづけます。
 この登場場面においても、幻聴の形で《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》などと、からかうような文句をぶつけてきたので、一重括弧の意識はいったんは憮然として「いつたいたれだ」と言い返します。
 しかし次の瞬間には、なぜか素直に「けれども尋常一年生だ」と受け容れました。

 この、あっさりとした態度変化の理由は何でしょうか。理屈としては、この時点で日本においては未明の時刻でも、-8時間の時差のあるドイツではまだ宵の口なので、尋常一年生だってぱっちりと起きているということなのでしょう。
 しかし、ここでより本質的なことは、作者はこの〈I〉の終結部分においては、自分の「潜在意識」に対して、とても素直で受容的な態度になっているという特徴だと思います。これが、〈I〉の初めと終わりにおける、注目すべき作者の変化です。
 54行葛藤の末に、ひとまずたどり着いたこの「素直さ」「率直さ」を以て、いよいよ作者は〈II〉以降における、トシの死への思索へと入っていきます・・・。

 以上、「青森挽歌」の〈I〉の部分を順に見てきましたが、もうかなり長くなってしまいましたので、〈II〉以降の続きは、また稿をを改めたいと思います。

 それにしても、様々な精神活動を記述し分けるために、「地の文」と「一重括弧」と「二重括弧」を使い分けるという方法、そして意識が深層から徐々に「浮かびあが」っていく様子を表すために、「字下げ」を徐々に少なくして視覚的にも「浮かびあが」らせるという方法など、賢治がこの作品で行っている細やかな表現には、感嘆させられます。
 このような独自の精緻な「工夫」こそ、後に彼が岩波茂雄あて書簡において「わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました」と書いたところの、「科学的」という言葉の意味だったのかと思います。

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2014年9月15日 延暦寺賢治忌法要と講演会

 今年も宮澤賢治の命日、9月21日が近づいてきました。

 この日、花巻では賢治詩碑前で毎年「賢治祭」が行われますが、関西では比叡山にある賢治歌碑の前で、延暦寺の高僧の方々による「賢治忌法要」が営まれます。
 当日の法要およびその関連行事の予定は、下記のとおりです。

受付開始: 10:30 (比叡山延暦寺根本中堂 宮沢賢治歌碑前)
法要: 11:15ー12:00
記念講演会: 13:00ー14:30 (延暦寺会館)
  演者: 浜垣 誠司
  演題: 統合し制御する精神と解離し浸透する精神
          ― 宮沢賢治の心性の特徴について ―

 賢治の命日に、このような大切な場所でお話をさせていただくことになるとは、私としてもまたとない光栄です。
 実は、「関西宮澤賢治の会」の会長さんからは、5年ほど前に講演のお話をいただいていたのですが、9月21日が休日になる日でないと参加が難しい個人的事情があり、急いでカレンダーを調べた結果、2014年は日曜になっているということで、この年にお願いしていました。
 まだまだ先のことと思っていたのですが、ついに今年になってしまいました。

 当日は、概ね下記のようなお話をさせていただく予定にしております。

統合し制御する精神と解離し浸透する精神
             ― 宮沢賢治の心性の特徴について ―
1.震災の夜に思ったこと
   「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福は
    あり得ない」の本当の意味とは
   その本質は、自己と世界との直接的な一体感
     = ロマン・ロランの言う「大洋感情」
     ← フロイトは「自我境界の消滅」と解釈
2.賢治の心性の特徴 ― 稀薄・曖昧な自我境界
   詩的霊感の源泉として
   倫理的・宗教的基盤として
   自己の消滅
   外的現実と内的心象の同一視
3.解離という視点
   解離とは:
   自我境界の稀薄化・曖昧化も、解離の一形態である
   賢治の作品・書簡に見る種々の解離症状
   「青森挽歌」に見る解離性幻聴と複数の主体
4.賢治の解離傾性の高さ
   「静座法」エピソードに見る「催眠感受性」の高さ
   それはおそらく天性の素質
5.二方向の精神
     統合的 ⇔ 解離的
     動物的 ⇔ 植物的
     能動的 ⇔ 受動的
     支配的 ⇔ 適応的
     対象変革的 ⇔ 自己変容的
     自力的 ⇔ 他力的
     指示的 ⇔ 受容的
     教化的 ⇔ 共感的
     一元的 ⇔ 多元的
     求心的 ⇔ 遠心的
     凝集的 ⇔ 浸透的
     中央集権的 ⇔ 地方分権的
     自己保存的 ⇔ 自己裂開的
     即自的 ⇔ 脱自的

「根本中堂」歌碑

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2014年8月31日 線路脇の豆畑

 『春と修羅』所収の「電車」は、まるでミュージカルか何かのように、「豆ばたけ」の中を疾走します。列車に揺られるうちに思わず舞い上がって、ほとんど歌い出すかのようなその調子には、「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」や、「岩手軽便鉄道の一月」にも通じるようなノリがあります。

    電車

トンネルヘはいるのでつけた電燈ぢやないのです
車掌がほんのおもしろまぎれにつけたのです
こんな豆ばたけの風のなかで

 なあに、山火事でござんせう
 なあに、山火事でござんせう
 あんまり大きござんすから
 はてな、向ふの光るあれは雲ですな
 木きつてゐますな
 いゝえ、やつぱり山火事でござんせう

おい、きさま
日本の萓の野原をゆくビクトルカランザの配下
帽子が風にとられるぞ
こんどは青い稗(ひえ)を行く貧弱カランザの末輩
きさまの馬はもう汗でぬれてゐる

 3行目に「こんな豆ばたけの風のなかで」として周囲の景色が出てきますが、最後から2行目には、「今度は青い稗を行く…」との言葉があり、電車は豆の次には稗の畑に差しかかったようです。

 また、同じく『春と修羅』所収の「」でも、8行目に「山を下る電車の奔り」とあるように、作者賢治は電車に乗っています。

    昴

沈んだ月夜の楊の木の梢に
二つの星が逆さまにかかる
  (昴がそらでさう云つてゐる)
オリオンの幻怪と青い電燈
また農婦のよろこびの
たくましくも赤い頬
風は吹く吹く、松は一本立ち
山を下る電車の奔り
もし車の外に立つたらはねとばされる
山へ行つて木をきつたものは
どうしても帰るときは肩身がせまい
  (ああもろもろの徳は善逝(スガタ)から来て
   そしてスガタにいたるのです)
腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ
この籠で今朝鶏を持つて行つたのに
それが売れてこんどは持つて戻らないのか
そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
市民諸君よ
おおきやうだい、これはおまへの感情だな
市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
見たまへこの電車だつて
軌道から青い火花をあげ
もう蝎かドラゴかもわからず
一心に走つてゐるのだ
  (豆ばたけのその喪神のあざやかさ)
どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝(スガタ)から来て善逝(スガタ)に至る

 中ほどに出てくる「東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ」との言葉は、半月前の関東大震災を指していて、こちらの作品にはどことなく死の予感が漂っています。
 周囲の情景に注目すると、17行目には「そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ」とあるように「そば畑」を通った後、27行目には「(豆ばたけのその喪神のあざやかさ)」という一節があり、ここで電車は再び「豆ばたけ」を走っているのです。

 「電車」のスケッチ日付は1922年8月17日、「」は1923年9月16日ですから、この時期に花巻で「電車」と言えば、1915年に西公園―松原間で開業し、1918年には志度平温泉まで延伸した、花巻電鉄「軌道線」のことです。町から花巻温泉の方へ行く「鉄道線」の開業は1925年のことですから、この時はまだできていません。
 「」には、「貨物電車」という言葉も出てきて、いったいどんなものだったんだろうと興味が湧きますが、「花巻電鉄の貨車」(地方私鉄 1960年代の回想)というページを見ると、花巻電鉄で走っていた様々な貨車の写真を目にすることができます。JRの大きな貨車のイメージからすると、おもちゃのように小さくて可愛い「箱」で、これが電車の後ろに繋がれて走っていく様には、何か「けなげ」さも感じてしまいます。
 そもそも、この電車(と馬車軌道)が結ぶ鉛温泉の奥には、硫黄を産出する鶯沢鉱山などがあったので、当時は貨物輸送もかなりの需要があったのだということです。

 『定本 宮澤賢治語彙辞典』によれば、賢治の作品中で「豆と出てきたら大豆のことと考えてよい」(p.683)ということですので、この「豆ばたけ」は、大豆の畑のことなのでしょう。「電車」が書かれた8月中旬は大豆の開花時期、「」が書かれた9月中旬は、枝豆としての収穫時期に当たります。
 どちらの作品も、大豆の葉や莢の青々と繁る色彩を感じさせ、とりわけ「」では、夜の闇の中で電燈に照らされる鮮やかさが印象的です。

 さて、賢治が電車に乗りつつ、その車窓から眺めた「豆ばたけ」というのは、はたしてどのあたりにあったのだろうとぼんやりと考えていましたら、91年前の今日、1923年8月31日に書かれた「雲とはんのき」という作品にも、「豆畑」が出てくることに気づきました。

    雲とはんのき

雲は羊毛とちぢれ
黒緑赤楊(はん)のモザイツク
またなかぞらには氷片の雲がうかび
すすきはきらつと光つて過ぎる
  《北ぞらのちぢれ羊から
   おれの崇敬は照り返され
   天の海と窓の日おほひ
   おれの崇敬は照り返され》
沼はきれいに鉋をかけられ
朧ろな秋の水ゾルと
つめたくぬるぬるした蓴菜とから組成され
ゆふべ一晩の雨でできた
陶庵だか東庵だかの蒔絵の
精製された水銀の川です
アマルガムにさへならなかつたら
銀の水車でもまはしていい
無細工な銀の水車でもまはしていい
   (赤紙をはられた火薬車だ
    あたまの奥ではもうまつ白に爆発してゐる)
無細工の銀の水車でもまはすがいい
カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの
感官のさびしい盈虚のなかで
貨物車輪の裏の秋の明るさ
  (ひのきのひらめく六月に
   おまへが刻んだその線は
   やがてどんな重荷になつて
   おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
 手宮文字です 手宮文字です
こんなにそらがくもつて来て
山も大へん尖つて青くくらくなり
豆畑だつてほんたうにかなしいのに
わづかにその山稜と雲との間には
あやしい光の微塵にみちた
幻惑の天がのぞき
またそのなかにはかがやきまばゆい積雲の一列が
こころも遠くならんでゐる
これら葬送行進曲の層雲の底
鳥もわたらない清澄(せいたう)な空間を
わたくしはたつたひとり
つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら
一挺のかなづちを持つて
南の方へ石灰岩のいい層を
さがしに行かなければなりません

 これは、「オホーツク挽歌」の旅から帰ってきてまだ間もない頃の作品で、最後の方の「これら葬送行進曲の層雲の底/鳥もわたらない清澄な空間を…」というあたりは、まさに挽歌の残照を感じさせます。作品全体に、透明な孤独感が漂っていますね。そしてこの作品の最後から13行目に、「豆畑だつてほんたうにかなしいのに…」という言葉が出てくるのです。
 それでもう少し気をつけてテキストを追ってみると、その「豆畑」の8行上に、「貨物車輪」という言葉があるのに気がつきます。これは、どこの鉄道の貨物車輪なのでしょうか。
 そしてまた「貨物車」があるとなると、さらにその5行上にある「赤紙をはられた火薬車だ」という言葉の意味が、明確になります。きっとこの貨物車は火薬を積んでいるので、危険物を載せていることを表示するために、当時の「火薬類鉄道運送規程(『銃砲火薬類取締法令通義』p.246)」に従って、「赤紙」が貼られているのです。

○火藥類鐵道運送規程(1915年改正)
第十六條 火藥類積載ノ貨車ノ兩側面ニハ見易キ位置ニ白地ニ火藥ト朱記シタル標札ヲ附スヘシ

 この「白地ニ火藥ト朱記シタル標札」のことを、賢治は「赤紙」と呼んでいるのでしょう。
 となると、この貨車は先に見たような、花巻電鉄軌道線のものだった可能性が、がぜん高まります。既に述べたように、この軌道線の奥には鶯沢鉱山があり、採鉱のためには大量の火薬を必要としたはずだからです。

 つまり、この「雲とはんのき」において作者は花巻電鉄の車両には乗っておらず、外から貨車の通過を眺めているようですが、そこはやはり「豆畑」のある場所だというところが、「電車」「」と共通しているのです。
 となると、この作品舞台がどこだったのか、ますます何としても知りたくなってしまいます。

 そこで今度は、上の作品中に出てくる「沼」に着目してみましょう。「沼はきれいに鉋をかけられ/朧ろな秋の水ゾルと/つめたくぬるぬるした蓴菜とから組成され…」という箇所です。
 この沼は、水面が「鉋をかけられ」たように滑らかで、蓴菜もあるようですから水は澄んでいるのでしょう。

 ここで、「水銀」「沼」という言葉からふと連想したのが、『春と修羅 第二集』の「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」という作品です。

一〇六
                    一九二四、五、一八、
日はトパースのかけらをそゝぎ
雲は酸敗してつめたくこごえ
ひばりの群はそらいちめんに浮沈する
    (おまへはなぜ立ってゐるか
     立ってゐてはいけない
     沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる)
一本の緑天蚕絨の杉の古木が
南の風にこごった枝をゆすぶれば
ほのかに白い昼の蛾は
そのたよリない気岸の線を
さびしくぐらぐら漂流する
    (水は水銀で
     風はかむばしいかほりを持ってくると
     さういふ型の考へ方も
     やっぱり鬼神の範疇である)
アイヌはいつか向ふへうつり
蛾はいま岸の水ばせうの芽をわたってゐる

 この作品でも、12行目で「沼」の水が「水銀」に喩えられているところが、「雲とはんのき」と共通しているのです。「下書稿(二)」では、水面は「鏡の面」と表現されており、やはりとても滑らかだったのでしょう。

 さて、こちらの作品の舞台に関しては、木村東吉氏が『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』の中で、次のように推定しておられます。

作品の舞台は花巻の西の郊外、才ノ神・熊堂付近が想定される。下書稿(一)にも「花巻一方里のあひだに云々」とあり、手入形に「沼はむかしのアイヌのもので/岸では鏃も石斧もとれる」とある。熊堂付近のアイヌ塚の存在は早くから知られており、出土品の一部は今も魔王塚に近い熊野神社の展示室に飾られている。下書稿(一)にある赤い石の塚についても、才ノ神部落の平賀静男氏宅裏の祠に赤煉瓦色の石塚がまつられているものが確認される。したがって作者は、北海道白老のアイヌ・コタンを訪ねる旅に出ることを考えながらアイヌ塚付近を歩いていて、豊沢川に沿って多数あったという沼の水面に、アイヌの幻を捉えたわけである。(p.180-181)

 上記の、「作者は、北海道白老のアイヌ・コタンを訪ねる旅に出ることを考えながらアイヌ塚付近を歩いていて…」という箇所の意味は、この「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」がスケッチされた1924年5月18日の午後10時に、賢治は花巻農学校の生徒を引率して北海道修学旅行に出発したことを指しています。
 木村氏の言う「豊沢川に沿って多数あったという沼」のいずれかが、作品の舞台だったというわけですね。

 実は私は、2009年にこの熊堂古墳群のある熊野神社を訪ね、そこに今は一つだけある「沼」を見てきました。
 Googleマップではこの沼は、熊野神社の南に「ひょうたん」のような形で見ることができます。

 下の写真が、私が訪ねた時の「沼」の様子です。

熊堂古墳の沼

 作品から何となく想像していたのよりは小さな沼でしたが、水はきれいに透きとおっていました。右下には鯉もいます。
 ここのあたりで、江戸時代後半、明治30年代、さらに大正年間に、たくさんの副葬品が発見されて、「蝦夷塚」「アイヌ塚」と呼ばれるようになりました。1986年から行われた発掘調査では、熊野神社境内に7基、神社西側に9基の古墳が確認され、現在は下のような形で保存されています。

熊堂古墳群

 境内には上のような墳丘があちこちにあり、各々直径10m、高さ1m程度の土饅頭になっていて、一部には写真のように小さな川原石で築かれた石室もあります。それにしても、こんなに身近に、直接触れることさえできる形で「古墳」を体験できるとは、関西ではちょっとないことで、この「熊堂古墳群」というのは、観光的にもお勧めのスポットではないかと思います。
 木村東吉氏が指摘するように、賢治ももちろんこの遺跡については知っていたはずですし、それが「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」の中に、幻の「アイヌ」の姿を登場させることにもつながっているのでしょう。

 そこで、この古墳群のある熊野神社の場所を、あらためて考え直してみると、実はここはまさに、花巻電鉄軌道線の「熊野」の停車場があったところなのです。
 下の写真は、熊野神社を東から見たところですが、右端奥へと続く広い道路が県道12号線で、その昔にはこの道に敷設された軌道を、電車が走っていたのです。

熊野神社と県道12号線

 つまり、「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」に登場する沼と、「雲とはんのき」に登場する沼とは、どちらも「花巻電鉄沿線の水銀のような沼」ということで、実は同一の場所だったのではないでしょうか。

 こう考えてみることによって、何となく腑に落ちる点が二つあります。

 一つは、「雲とはんのき」の中に出てくる、「手宮文字です 手宮文字です」という一節の背景です。
 「手宮文字」というのは、1866年に小樽の手宮洞窟で発見された彫刻で、明治から大正時代にかけては古代の文字と考えられ、「アイヌ文字」とも呼ばれていました。その後、これは「陰刻画」であって、「文字」として意味を伝えるものではなかったというのが定説となりましたが、賢治が「雲とはんのき」において「アイヌ塚」に来ていたとすれば、当時はアイヌの文字とも考えられていた「手宮文字」がそこに登場するのも、ごく自然なことになります。

 もう一つは、賢治が1924年の北海道修学旅行直前にこの場所に来て「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」を書いたことと、1923年の「オホーツク挽歌」の北海道旅行の後にもこの場所に来て「雲とはんのき」を書いていたこととの対応です。
 1923年8月11日、賢治は「噴火湾(ノクターン)」の中ほどで、妹トシへの'Funeral march'(=葬送行進曲)を耳にしましたが、その20日後の「雲とはんのき」においても、やはり「葬送行進曲」を感じています。北海道から帰った賢治が、この時「アイヌ塚」を訪れたのは意図的ではなかったのかもしれませんが、ここで彼は、自らの北海道における体験を、不思議にも甦らせてくれるものを感じたのではないでしょうか。
 そして翌1924年5月18日、北海道へ旅立つ当日の昼間に、おそらく慌ただしい合間を縫って、賢治は再びこの場所を訪れるのです。各所でしばしば「地霊」の声を聴くことのあった彼ですから、北海道へ行く直前にわざわざ「アイヌ塚」に来たことに関しては、意図的な何かを感じざるをえません。
 たとえば、はるか昔にはこの地にも居住していたアイヌの神に、北海道における生徒たちの無事を祈ったのではないか・・・、などということも想像します。


 というわけで、はっきりとした証拠がある話ではありませんが、『春と修羅』から『春と修羅 第二集』にかけて、電車、豆畑、沼、という舞台装置を持つ4つの作品を辿っていくと、何かが浮かび上がってくるような気がしたのでした。

熊堂古墳の沼

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2014年8月24日 かなしみはちからに…

書簡165
保阪嘉内あて書簡165
(山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』より)

かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは
智慧にみちびかるべし。

 この言葉は、1920年(大正9年)6月〜7月頃の投函と推定されている保阪嘉内あて書簡165の上欄外に、90度方向を変えて書かれているものです。
 この時、嘉内は志願兵として東京で入営中、賢治は5月に盛岡高等農林学校の研究生を修了して、なすすべもなく花巻の実家で質屋の店番をする毎日でした。

 書簡そのものの内容としては、下記のように最近の自分は「毎日ブリブリ憤ってばかり」いるということを書き連ねていて、この「いかり」をどう扱ったらよいのかということから、欄外の言葉へと関連してくるのでしょう。本文の進行とパラレルに、上部にもう一つの想念が配置されてポリフォニーを奏でているところは、後の「習作」という作品の構造も連想させます。

(前略)突然ですが、私なんかこのごろは毎日ブリブリ憤ってばかりゐます。何もしやくにさわる筈がさっぱりないのですがどうした訳やら人のぼんやりした顔を見ると、「えゝぐづぐづするない。」いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふのを思ひ出しながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります。いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。(後略)

 このような精神状態に対して、「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」という命題が提示されるわけですが、それにしてもこれは、非常に意味深く感じられ、また端正な響きのある言葉ですね。
 以前からある程度は注目されていた言葉なのでしょうが、2011年の大震災の直後に、齋藤孝さんがその一部をタイトルにして、『かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば』という本を出されてから、また一段と多くの人々に知られるようになったと思います。
 このあたりの拡散力は、『声に出して読みたい日本語』シリーズ以来際立っている齋藤孝さんの「ことば」に対するセンスや、その人気にも支えられている部分が大きいのでしょう。

かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば
齋藤 孝

朝日新聞出版 2011-06-17
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 しかしこの「かなしみはちからに…」の広まり具合を少し詳しく見てみると、宮澤賢治の童話や詩が好きで読んできたという従来の一般的読者にとっては、書簡の片隅にあるこの言葉は、作品テキストほどには親しまれておらず、むしろ賢治にかぎらず「名言集」というものを好んでおられるような層の間で、これはよりポピュラーになっているのかとも思います。
 ネット検索から垣間見た、この言葉の流通状況から受ける印象として、そんな感じを持ちました。

 ところで、この言葉に関して一つ気になるのは、これははたして賢治のオリジナルなのか、それとも経典か何かにその元となる語句があるのかどうか、ということです。
 当時満23歳だった賢治は、仏典やその他古今東西の書籍には広く親しんでいたとは言え、まだ社会で仕事をした経験はありませんでした。賢治の才能をもってしても、こういう成熟した人間性の表現を独力でなしえたとすれば、それは驚嘆すべきことに思えます。これは一見して思慮深そうな言葉ですが、後に述べるように、その深さはとても一筋縄でとらえられるものではありません。
 「かなしみ」「欲(ほ)り」「いかり」という問題選択や、その「導き方」という設定は、どこかに出典があるのでしょうか。

 すぐに連想するのは、仏教で「三毒」と呼ばれている、「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」という根本的な「三つの煩悩」です。これを問題の言葉と対応させてみると、「欲(ほ)り」が「貪」に、「いかり」が「瞋」に、とこの二つはきちんと当てはまるのですが、「かなしみ」と「癡」とは明らかに別のものですので、単純にこれが由来とは言えません。
 しかし、「〔雨ニモマケズ〕」のテキストと「三毒」との関連を見てみると、「慾ハナク」が「貪」の否定、「決シテ瞋ラズ」が「瞋」の否定、「ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」が「癡」の否定、とこれは登場する順序も含めて、正確にぴたりと対応しますから、「〔雨ニモマケズ〕」を書く際に賢治が「三毒」を意識していたことは明らかです。
 「かなしみ」「欲り」「いかり」という三つの主題を取り上げるにあたり、三つのうち二つを含む「三毒」という概念は、多少ともその発想に影響をあたえていた可能性はあるのでしょうが、それ以上のことは私にはわかりません。
 この言葉の出典について、何かご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示をいただければ幸いです。

 さて、ここで主題となっている「かなしみ」「欲(ほ)り」「いかり」は、いずれも人間にとって「陰性」の感情です。普通は「抱えていると苦しい」これらの情動を、人間はいかに取り扱うべきかということが、この言葉の眼目なのでしょう。
 ここで私としてとても興味深く思うのは、これら陰性の感情にそれぞれ対置されているものが、各々の「対義語」ではない、ということです。

 一般的には、何かが「行き過ぎた」状態にある時に、それをその逆の性質のものによって「中和する」ということは、一つの対処法として有効です。風呂のお湯が熱すぎるので冷たい水を入れて温度を下げるとか、岩手の土壌は酸性に傾いているのでアルカリ性の石灰岩抹を播いて中和する、とかいう方法ですね。
 しかし、「かなしみはちからに・・・」という言葉で示されているのは、このような対処法ではありません。すなわち、「かなしみ」と「ちから」は対義語ではないし、「欲り」と「いつくしみ」も、「いかり」と「智慧」も、それぞれ対立する概念ではありません。

 この言葉によって示されているのは、何か苦しいもの、厄介なものがある場合に、それを「和らげる」とか「鎮める」とかいう形で解決しようとするのではなくて、その苦難自体を、本当の意味で「乗り越える」、あるいは「そこを通り抜けて、新たなより高次の段階へ至ろうとする」という方向性です。
 「悲しみ」の対義語は「喜び」ですが、何か「悲しいこと」がある時に、自分を喜ばせてくれるような「楽しいこと」によって心をまぎらせて、とりあえず苦痛を緩和するというのは、人間が誰しもすることです。多くの場合、苦しみを軽くする方法としてそれが一番手っ取り早いので、好んで採用されますが、しかしその一時的な「喜び」が過ぎ去ると、元の「悲しみ」は、何の変わりもなくそこに存在し続けています。これは、真の意味での解決にはなっていないのです。
 一方、賢治が「かなしみはちからに・・・」という言葉によって示した道筋、すなわち「かなしみ」に対して「ちから」を処方するという方向性は、そうではありません。「かなしみ」から、本当の意味で抜け出そうとするものです。

 私が、この言葉が単に美しく響くだけでなく、一筋縄ではとらえきれない「奥深さ」を持っていると思うのは、まさにこの点によります。それはきれい事ではなくて、人間という存在への十分な理解に基づいた、実践的な叡智です。このように含蓄のある言葉を、学生を終えたばかりで社会人経験もない23歳の「家業見習い」の若者が、ふと友達への手紙に書いたのだとすれば、まさにこいつは「ただ者ではない」と思うのです。
 その「含蓄」の中身にはどのようなものがあるのか、現時点で私が想像する事柄について、以下に順に記してみます。

1.「かなしみ」と「ちから」

 上にも書いたように、「かなしみ」を抱えている人に、その反対物である「よろこび」を与えるという方法は、問題の根本的な解決にはなりません。しかしそれでも、悲しみに沈んでいる人に喜ばせるような贈り物をするとか、被災地の避難所にお笑い芸人が慰問に行って公演をするとかいうことは、それなりに行われますし、無意味とは感じられません。そのことによって、「かなしみ」の原因が取り除かれるということはありませんが、受けとった側も、大抵はそうしてもらってよかったと思うでしょう。
 このような場合、受けとった贈り物や娯楽それ自体によって「かなしみ」が減殺されているのではなくて、「今の自分に対して、こんな優しさや善意を示してくれる人が存在する」というそのことが、かなしみを抱えた人を「力づけて」くれるのではないでしょうか。
 だからこの場合、「かなしみ」に拮抗したのは「よろこび」ではなくて、一緒に与えられた「ちから」だったのではないかと思うのです。

 別の角度から考えてみましょう。
 一般に、人間が「悲しみ」を抱く典型的な場面とは、「身近な人を亡くした」とか、「失恋した」とか、「大切にしていた物が壊れた」とか、何であれ重要な対象の「喪失」という状況です。
 失った対象を、もはや取り戻すことはできません。しかしそれはわかっていても、対象をなおも求め続けようとする欲求を断念し、新たな状況を受け入れて歩み始めるというのは、これもまた容易なことではありません。人はそこで悩み、苦しみますが、このように人間が喪失に直面し、それに対処していくプロセスのことを、フロイトは「悲哀の仕事(Trauerarbeit)」と名づけました(『悲哀とメランコリー』)。
 この「悲哀の仕事」の過程においては、当初は失った対象への断ちがたい思いが渦巻き、恨みや自責の念も錯綜します。しかし人間は、このような感情もあらためて一つ一つ体験し、受けとめ、理解していくことによって、対象と自らの関係について捉え直し、対象が存在しない世界と自分との間に、新たな関わりを築いていくことができるのです。
 「かなしみ」という状態を、避けたりまぎらせたりするべきものとしてでなく、積極的な意味を持った「心の仕事」として遂行するよう位置づけたのが、フロイトの功績の一つでした。そして人間は、たとえどんなに深刻な喪失でも、その「悲哀の仕事」を行うための「ちから」さえ持っていたならば、それをやり遂げることができるのです。

 ですから、「かなしみ」を抱えた人に対して、人がしてあげることができるのは、「ちからづける」ということです。この営みのことを、心理や福祉の領域では、'empowerment'と言います。
 そして、この'empowerment'において実際に起こっている現象は、外から「ちから」を与えるということよりも、そのような人との関わりによって、むしろその人が「自分の中ににあった『ちから』を、あらためて再発見する」ということなのです。

 賢治の、「かなしみはちからにみちびかるべし」という言葉の底には、このような人間の理解があるのだろうと、私は思います。


2.「欲(ほ)り」と「いつくしみ」

 「貪欲」の対義語は、「無欲」です。先ほどの、「過剰な状態を、逆の性質のものによって中和する」という戦略でいくならば、欲が深すぎる人に対しては、そのような煩悩を離れて「無欲」になることを説いたり、「禁欲」や「我慢」を勧めるということになるかと思います。
 しかしこれは、やらないよりは少しましかもしれませんが、やはり誰しも予想ができるように、さほど画期的な効果は期待できないでしょう。
 それではどうしたらよいのでしょうか。

 欲望の対象には様々なものがありえますが、そのあまりにも過剰な状態=ひりひりと灼けつくような渇望に常に苛まれている状態において問題なのは、個々の欲望の対象ではなくて、その人の中でどうしても埋めようのない、深刻な空虚感・欠落感なのだとも言えます。
 この空虚・欠落を、人は何とかして物質的に満たそうと、その代わりとなる物を飽くことなく求め続けますが、結局は代替物で埋めることはできません。目の前の欲望を達成した瞬間に、また渇きは始まります。
 しかし本当に重要なのは、その人の奥底にある空虚感・欠落感なのです。

 たとえば、食べることへの欲求が抑えられず非常に大量のものを食べずにはいられないような状態として、「過食症」という病気があります。過食症の原因には、ケースバイケースで様々な要因が関与しているので、一概に単純化して議論することはできないのですが、一つの説として、その人の中の「愛情飢餓」という問題が関与しているという考えがあります(例えば、黒川昭登・上田三枝子著『摂食障害の心理治療―愛情飢餓の克服』)。
 このような場合には、自分が尊重されていると感じられる対人関係、心から信頼できると思える人とのつながりを体験することが、過食からの回復のために、大きな作用を果たすと言われています。
 ここにおいて力となっているのが、人と人との間で受けとる「いつくしみ」の体験なのではないかと思うのです。

 また、アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症など種々の依存症も、対象への欲求を断ち切れないことに苦悩の根源がありますが、これらの内奥にも、深い空虚感があることがしばしばです。そして、これら依存症の回復においても本質的な力となるのが、断酒会、AA、ダルク、マック、NA、GAなどの「自助グループ」との関わりです。やはりここでも、同じ苦しみを抱えた仲間との間で、真に肯定的な人間関係を経験することが、目に見えない働きをしてくれるのだと思われます。
 ここにおいても、その人間関係の本質を言葉に表せば、「いつくしみ」ということになるのではないかと思います。

 すなわち私としては、賢治が「欲(ほ)りはいつくしみにみちびかるべし」と言っていることの本当の意味は、ここにあるのではないかと思うのです。


3.「いかり」と「智慧」

 「怒り」の対義語は何でしょうか。辞書やネット検索で調べてみても、わかりません。
 ただ、生物学には、'Fight or Flight response'という言葉があり、動物は危険な相手に遭遇した時、極度の緊張下で、「闘うか、逃げるか」という両極端の判断を迫られます。「闘う」に対応する情動が「怒り」で、「逃げる」に対応した情動が「恐れ」ですから、「怒り」の対義語は「恐れ」であると言うこともできるでしょう。
 しかし、「怒り」も「恐れ」も、どちらも陰性の感情ですから、「対義語」とするにはもう一つしっくりきません。
 適切な対義語であるためには、それは陽性の感情で、緊張の反対に弛緩した状態であるべきでしょうから、「怒り」の対義語は「安らぎ」であると考えるのがよいのかもしれません。

 ということで、例によって「過剰な状態を、逆の性質のものによって中和する」という戦略でいくならば、「いかり」を抱えている人に対しては、何とかして「やすらぎ」を提供して、頭に上った血を沈めてもらうというのが、一つの対処法だということになるでしょう。
 そして、これは確かに一般的に行われていることではあります。カッカしている人に、「まあ、まあ、まあ・・・」と穏やかに声をかけて、なるべく静かに話を聞く。そして、あまり感情的になるのも「大人げない」ということで、何とか矛先を収めさせようとする・・・。

 しかし、このような対応が時にどこか胡散臭さを含んでいるのは、「いかり」は大抵は真っ当な理由に基づいたものであり、それをただ単に鎮静化して、「なかったこと」にしてしまったのでは、何ら建設的な対策にはならないからです。社会においては、「怒りを抑える」ことこそが善いことのように言われがちですが、それでは本人には鬱憤が溜まりますし、全体としても進歩がありません。

 ちなみに、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、「怒り」について次のように述べています。

然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ怒る人は、賞賛される。(岩波文庫版上巻p.155)

 つまり、「適切に怒る」ことが、倫理的に賞賛されるべきことだというのです。アリストテレスによれば、いつも怒りを抑えてばかりいるのは「意気地なし」で、上に述べたような「適切な怒り」こそが、彼が推奨した「中庸」にあたるというのです。
 となると、ここで最も重要になるのが、「然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ」という、怒りの表現の「適切さ」の判断です。
 そしてここで、その大切な「判断」の役割を担うのが、「智慧」だということになるでしょう。

 すなわち、「いかりは智慧にみちびかるべし」という賢治の言葉の真意は、ここにあるのだと私は思います。

 ということで、「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」という、宮澤賢治のものと思われる言葉の中には、少なくとも上記のような含意があるのではないかと、私には思えるのです。
 これは、響きとしても美しいので、「名言集」などに収めるにはぴったりですが、いわゆる「美辞麗句」にはとても収まるものではなく、すぐれて「実践的」な言葉だと感じます。
 机上の思弁のみからひねり出せるものではないと思いますので、ですから「学生を終えたばかりで社会人経験もない23歳の家業見習いの若者」のペン先からふと生まれたとすれば、やはりその若者はただ者ではなかったのだな、と思う次第です。

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2014年8月21日 東山地区のポラーノの広場

 前回の記事「産業組合のトラウマ?」では、「昭和前期の農村地域における<共同体>の編成とその機能)―産業組合の事例を中心に―」という論文をご紹介し、その中には1935年(昭和10年)に刊行された本に、岩手県の産業組合青年組織が「『演劇部を設け』農村劇を演じることで『農村文化運動』を行った」という記述があることに触れました。
 すなわち、賢治が花巻農学校で実践し、本当は羅須地人協会でもやりたかっただろう「農村演劇」を、彼の没後まだ間もない時期に、岩手県内で実際に行った若者たちがいたというわけです。これは非常に興味を惹かれる話でしたので、今日は国会図書館関西館でちょっと調べてみました。

 この記述の出典は、西尾愛治編『産青聯の活動事例』(成美堂書店,1935)という本で、国会図書館ではすでにデジタルデータ化されているのですが、「館内限定閲覧」になっているのでインターネットで見ることはできず、図書館まで足を運ぶ必要があったわけです。

 で、下の写真が、『産青聯の活動事例』の中で「岩手県における演劇活動」について紹介している箇所です。

『産青聯の活動事例』

 内容を書き起こすと、以下のとおり。

     二、岩手縣産青聯田河津支部の演劇部設置
              依・岩手の盟友第二七號

 最近岩手縣東磐井に於ける田河津支部の活動は最も目覺ましいものがあり、組合員の教育活動も次第に組合員の覺醒を促し其の姿は最近支部の事業に當つて積極的援助となつて現はれ、組合員は着々産業組合に對する認識を高め、かへつて組合員から部落座談會の提唱が擧げられる等、次第に理想の産業組合組織形態に進みつゝあるが、同支部ではこれに力を得、更に支部の陣容を整備刷新する事になり、兼て計畫中の女子部を設置消費經濟を中心として活發な婦人運動を展開する筈であるが又同時に演劇部を設け各部員をそれぞれ決定、農村文化運動の達成に向つて一大烽火を擧げる事となつたが、岩手縣産青聯の中堅として根強い青年運動を續けて行く東磐井各支部の活動に強豪田河津を中心として今や活發な實践の繪卷を展開して來た。

 ということで、岩手県内で演劇活動を始めたという産業組合青年連盟は、東磐井郡の「田河津支部」だったのです。
 この『産青聯の活動事例』という本には、他の産青連で「演劇」を行っているという報告は見当たりませんでしたので、この田河津村では、全国的に見てもかなり早期に、「農民劇」が発足したということでしょう。

 「田河津村(たこうづむら)」は、岩手県南部にあった村で、現在は一関市東山町の一部になっています。

旧東山町

 田河津村の合併の歴史をたどると、1955年(昭和30年)に長坂村と合併して「東山村」に、さらに1958年(昭和33年)にはその東山村と松川村が合併して「東山町」となり、長らくこの状態が続いていましたが、2005年(平成17年)に一関市に吸収合併されました。
 上の地図で水色を付けた部分が、旧「東山町」に属した三つの村です。このあたりは、花巻からはかなり遠く離れていますが、しかし松川村は「東北砕石工場」があった場所、長坂村はその工場長の鈴木東蔵の出身地ということで、賢治との縁は、かなり深い地区です。

 賢治は1931年(昭和6年)に、このあたりに足繁く通ったわけですが、その際に賢治と田河津村の青年との間に何らかの接触があって、それがもしかして後にこの地区に、全国でも先駆的な演劇活動を始めさせる要因になったとすれば、とても胸が躍ることです。
 たとえば、田河津村出身で東北砕石工場の工員となっている青年がいて、たまたま休憩の時などに、賢治が農学校で上演した劇の話や、農民劇を通した農村文化振興の意義について、お茶を飲みながら話を聞いていたとしたら・・・、そして青年がその後、あの先生の言っていた農民劇を村でやってみたいと一念発起したら・・・ということなどを、私はつい想像してみたくなります。
 賢治は、東北砕石工場に来るたびに、タオルや、「唇がくっつくような」上等の米や、小さな布袋に入ったお菓子などのお土産を工員たちのために持参し、工員と一緒にお茶を飲みつついろんな話をしたということです。
 鈴木東蔵の長男の鈴木實氏は、賢治と工員たちの関係について、次のように回想しています。

賢治の帰った後の工場には、賢治を思慕する異様な空気が残っていて、その不思議な存在を私は肌で感じていた。(中略)
賢治が来訪しますと、数日はきまって賢治のまねなどをしながらその話が続きました。賢治と東蔵両者の関係も良好なスタートでしたが、賢治はさらにあのような工員たちにふれ、この人達のためにもと、努力の決意を固めたのではないでしょうか。貞治(引用者注:東蔵の叔父)がよく命をうけて花巻に行きますと、賢治は「工場が困るから、工場が困るから」といつも工場のことを心配していたと語っていました。これがまた工員たちに伝わり、賢治と工員たちの心は一体となっていきました。(鈴木實『宮澤賢治と東山』より)

 ひょっとして、このような賢治と工員たちとの暖かい交流によって偶然にも播かれた種が、賢治の没後に芽を吹いていたのだったら、どんなに素晴らしいことでしょうか。

 まあ、こんな勝手な空想の真偽については、今となっては確かめようもありませんが、元来この東山町というところは、青年の文化的活動は昔から盛んな土地だったようです。
 鈴木東蔵が長坂村役場の書記時代には、青年たちを集めて「演芸発表会」を行っていたということですし、その著書『理想郷の創造』には次のような一節があり、「音楽や演劇」を若者に推奨しています。

娯楽と教化を同時に与えるような音楽や演劇は楽しんでいるうちに、知識を広め、趣味を高め、品性を陶冶する効果は計り知れない。(中略)精神的に娯楽を得ている住民は、終日の労働で疲労している身体も、別天地に遊べれば、翌日また元気が回復して大いに働けるようになる。(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』より)

 一方、その長男の鈴木實氏は戦後まもない時期に、青年たちとともに賢治の作品を読む学習会を長坂村で行い、この青年の集まりが発展する形で、1948年に賢治の「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ碑が、村に建てられることになりました。
 これが、谷川徹三揮毫による、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」の碑です。賢治の碑としては、その元祖たる花巻の「雨ニモマケズ」詩碑に次いで、全国で二番目にできたものでした。
 鈴木實氏と青年たちが、賢治の作品の中で最も深い共感を寄せたのが「ポラーノの広場」であったというのも、産業組合的な青年組織を象徴するものとして、示唆的です。

 結局、田河津村と賢治との間の、具体的なつながりの有無はわからないのですが、賢治の死後もこのあたりの土地には、その縁がずっと息づいていたことだけは確かです。

賢治碑除幕式記念撮影
賢治碑除幕式記念撮影
(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』より)

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