2012年1月15日 「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」のお知らせ

 寒い日々が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 さて、また下記のとおり、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」を開催いたします。震災1周年の、ちょうど1週間前にあたります。

東日本大震災復興支援企画
第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都

日時: 2012年3月4日(日) 午後2時開演(午後1時半会場)
場所: 京都府庁旧本館正庁
内容:
  1. 「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」 構成・出演 竹崎利信
  2. 「宮沢賢治 〜人と思想(その1)〜」 小講演 浜垣誠司
  3. 「なめとこ山の熊」 かたり 竹崎利信 & 音楽 友枝良平

参加費:2000円(義援金とします)
参加のお申し込みは 075-256-3759(アートステージ567)まで(12時-18時、月曜休)

 そして、下がチラシです。クリックすると別窓で拡大表示されます。

「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表

「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏

◇          ◇

 プログラムの最初の「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」は、賢治の生涯や作品を題材としたいわゆる「一人芝居」で、竹崎利信さんが構成し、演じられます。賢治の作品の引用が散りばめられていて、賢治好きにとってはまるで名作カタログのようにも楽しめますが、はたして「わたし」が「あの人」を追い求める旅の行方は、いったいどうなるのでしょうか・・・?
 当日のプログラムのメイン・イベントは、竹崎さんによる「なめとこ山の熊」の「かたり」と、友枝良平さんの揚琴演奏のコラボレーションです。これはお二人のとっておきのレパートリーで、私は今から想像するだけでも涙がこぼれそうになります。
 私のお話は、「幻想旅行記」で浮かび上がる賢治の「人となり」と、「なめとこ山の熊」のバックボーンとなっている彼の生命観とを、つなげるような橋渡しになれば、と思っています。

 今回、会場として使用する「京都府庁旧本館」は、明治37年に竣工され今は国の重要文化財となっている建物です。「正庁」というのはその中でもいちばん立派な部屋で、公式行事や公賓の接遇などに使われていました。大正4年の大正天皇即位の礼および昭和3年の昭和天皇即位の礼の際には、内閣全体が天皇に帯同し京都に来ていたので、この部屋で閣議が行われたということです。
 前回の「法然院本堂」もそうでしたが、この会場も、中に入ってその空間を体験していただくだけでも、価値のあるところだと思います。

京都府庁旧本館正庁

 上の写真は、先月に下見に行った時のものです。シャンデリアや大きな窓とカーテンから私がちょっと連想したのは、賢治が通っていた盛岡高等農林学校の「講堂」でした。ちなみに、盛岡高等農林学校の本館は大正元年の竣工で、やはり重要文化財に指定されています。

◇          ◇

 チラシに使用させていただいた絵(木版画)は、前回に続いて鈴木広美画伯の作品です。
 本来は「なめとこ山の熊」とは全く無関係な作品なのですが、私はこれを見て、小十郎が死んでしまった後で、いつも一緒に猟に出ていたあの犬が、小十郎のことを思いつつ夜空の星を眺めているところに思えてしようがありませんでした。あるいは、視線の先には、熊たちが環になって小十郎の遺体を囲んでいる情景があるのかもしれない、などとも思えました。
 それで無理をお願いして、チラシに使わせていただいた次第です。この場を借りて、鈴木広美さんに感謝申し上げます。

 ついでにご紹介すると、版画のバックの山並みは、私が2004年に実際になめとこ山の周辺で撮ってきた写真をもとにしています。(下写真でなめとこ山は、中央やや右寄りに霧で隠れてうっすらとだけ見えます。)

なめとこ山のあたり

 テキストの区切りに置かれている小さな白い花は、熊の母子が印象的な会話をかわしていた「ひきざくら」(=こぶし、マグノリア)です。

◇          ◇

 参加ご希望の方は、当サイト管理人あてにメールをいただくか、上にも記しましたように  075-256-3759(アートステージ567:12時-18時、月曜休)まで、お電話を下さい。
 早春の京都で、お待ちしています。

written by hamagaki : カテゴリー「賢治イベント
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2012年1月 9日 雲と風の日

 前回、「あのくしゃくしゃの数字」という記事に書いたように、「晴天恣意」(『春と修羅 第二集』)という作品は、賢治が水沢の緯度観測所に出かけて、その年の気候や作況について予測するために、三陸沖の海水温などの最新のデータを調査し分析する作業を行う中での一コマだったのだろうと、私は思っています。
 ちょっと長い作品ですが、まずここに引用しておきます。

一九
  晴天恣意
               一九二四、三、二五、

つめたくうららかな蒼穹のはて
五輪峠の上のあたりに
白く巨きな仏頂体が立ちますと
数字につかれたわたくしの眼は
ひとたびそれを異の空間の
高貴な塔とも愕ろきますが
畢竟あれは水と空気の散乱系
冬には稀な高くまばゆい積雲です
とは云へそれは再考すれば
やはり同じい大塔婆
いたゞき八千尺にも充ちる
光厳浄の構成です
あの天末の青らむま下
きらゝに氷と雪とを鎧ひ
樹や石塚の数をもち
石灰、粘板、砂岩の層と、
花崗斑糲、蛇紋の諸岩、
堅く結んだ準平原は、
まこと地輪の外ならず、
水風輪は云はずもあれ、
白くまばゆい光と熱、
電、磁、その他の勢力は
アレニウスをば俟たずして
たれか火輪をうたがはん
もし空輪を云ふべくば
これら総じて真空の
その顕現を超えませぬ
斯くてひとたびこの構成は
五輪の塔と称すべく
秘奥は更に二義あって
いまはその名もはゞかるべき
高貴の塔でありますので
もしも誰かゞその樹を伐り
あるひは塚をはたけにひらき
乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと
かういふ青く無風の日なか
見掛けはしづかに盛りあげられた
あの玉髄の八雲のなかに
夢幻に人は連れ行かれ
見えない数個の手によって
かゞやくそらにまっさかさまにつるされて
槍でづぶづぶ刺されたり
頭や胸を圧し潰されて
醒めてははげしい病気になると
さうひとびとはいまも信じて恐れます
さてそのことはとにかくに
雲量計の横線を
ひるの十四の星も截り
アンドロメダの連星も
しづかに過ぎるとおもはれる
そんなにもうるほひかゞやく
碧瑠璃の天でありますので
いまやわたくしのまなこも冴え
ふたゝび陰気な扉を排して
あのくしゃくしゃの数字の前に
かゞみ込まうとしますのです

 集中して行っていた作業に一段落を付け、ちょっとひと息ついて、心地よい疲労感とともに空の雲を眺め、空想の翼を広げる・・・。そんな賢治の様子は、2年前の「雲の信号」(『春と修羅』)という作品の時と、ちょうど同じです。もっともこの時は、陰気な室内で数字を相手にするのではなくて、農学校で農具の手入れか何かをしていたようですが。

 ところでどちらの作品にも、雲の下にある「山」が、初めの方に少しだけ登場します。「雲の信号」では、4〜6行目に「山はぼんやり/岩頸だつて岩鐘だつて/みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」と描写されています。岩頸や岩鐘というのは、農学校から西の方向に連なる、奥羽山系の山々のことでしょう。
 一方、「晴天恣意」の方には山の固有名詞が入っていて、まず「下書稿(一)」では2行目に「原体山の右肩あたりに」と書かれますが、それが「下書稿(一)手入れ形」では「種山ヶ原の右肩あたり」に変えられ、さらに「下書稿(二)手入れ形」では、「五輪峠の上あたりに」となります。
 原体山も種山ヶ原も五輪峠も、水沢から見れば東北東の方角にあたり、雲が位置する方向を表すという意味では、山が変わっても大した違いは起こらないのですが、なぜ賢治はこんなに細かく山の名前にこだわったのか、ちょっと不思議なところです。
 ただ、この山々のある方向、すなわち賢治が見ていた雲が浮かんでいた方角が、水沢から見るとちょうど遠野の方角にあたることには、作品の着想の上で意味があるかもしれません。詩の中ほどでは雲に関連して、『遠野物語』を彷彿とさせるような、かなり恐ろしい伝承が語られるのです。
 下の地図で、赤の(M)は水沢緯度観測所、水色の(1)は原体山、(2)は種山ヶ原、(3)は五輪峠の位置を示しています。正式名称が「原体山」という山は今は見あたらないのですが、現在「原体剣舞連」詩碑が建っている「経塚森」がそれではないかととりあえず推測し、その場所にマーカー(1)を立てています。いずれにせよ、緯度観測所からこれらの山に向けて引いた線をさらに延ばしていくと、遠野に至ることがおわかりいただけるでしょう。

 ◇          ◇

 ところでこの「晴天恣意」の草稿については、「星のおじさん」こと草下英明氏が、「『晴天恣意』への疑問」(『宮澤賢治と星』所収)という文章において、疑問を呈しておられます。
 草下氏がこの「晴天恣意」という作品に親しんでこられたのは、十字屋版全集に掲載されていた形(今で言う「下書稿(一)手入れ形」)だったところ、第二次筑摩書房版全集では一転して「下書稿(二)手入れ形」が本文に採用されたので、違和感を禁じ得ないというのです。
 草下氏は書きます。

・・・にもかかわらず、私はこの改訂に賛成する気にはなれないのである。
 私が問題にするのは、三十行目の「雲量計の横線をひるの十四の星も截り」という部分である。雲量計とは、文字通り解釈すれば、雲の分量を計る測定器、温度計や湿度計、風速計などと同じ気象観測用の器具のように聞える。しかし、私が調べた範囲では、もちろん気象庁へも問合わせた結果、雲の量を計数的に計る装置――つまり雲量計と呼ばれる器具は公式には存在しないのである。(中略)
 私は、これに気が付くと、さっそく宮澤清六さんに手紙を書き、この改訂には疑問がある旨を申上げたところ、すぐ次の御返事をいただいた。返事の内容は次のようなものである。(昭和四十三年三月)
 賢治の『春と修羅』第二、三、四集の詩稿には、定稿のあるもの、第一稿だけのもの、第一稿から第四稿まであるものと、まちまちである。『晴天恣意』には、死の直前清書された定稿はなく、第一稿と第二稿だけがあるだけで、十字屋版全集では編集の時の考えで第一稿が採用された。筑摩版の時には、編集担当の方と再研究検討の上、内容はどうあろうともこの詩は第二稿(賢治自身がのちに手を入れて直したもの)をとろうという方針であった。(中略)
 ここで私共は、いささか困ってしまうのである。この詩には、全く定稿がないのだから、十字屋版にのった第一稿は、賢治の意志によって第二稿の如くに改変され、更に推敲をかさねて、もっと訂正されるべき途上にある作品と見なければならない。「雲量計云々」はおそらく賢治の思い違い、誤記又は訂正不十分の個所であるのだろう。問題は、今後どのように形を変えるか分らない、しかも、もうどうにも変りようもない状態の詩を、私たちは首をひねって読まなければならないということである。ここに賢治の作品を鑑賞する、非常な困難性があるのだ。或はまた、大げさに言えば賢治全集の成立そのものにかかわる重大問題を蔵しているともいえるのだ。

 「賢治全集の成立そのものにかかわる」問題意識は、その後『校本全集』の登場によって一つの発展的な解決を見ることになりますが、この作品に関してはたしかに、「天頂儀の蜘蛛線を/ひるの十四の星も截り」という表現の方に、捨てがたい魅力があります。緯度観測所ならではの「天頂儀」という特殊な装置を小道具として、昼の天頂を静かに人知れず星が移動し、蜘蛛の糸でできた幽かな線を横切っていく・・・。そのイメージには、幻想的な雰囲気も漂います。
 これに比べると「雲量計の横線」というのは、ちょっと具体的な想像もつきにくく、詩的表現として一歩譲る感じがしてしまいます。

 ところが、草下英明氏はその後、上記の文章の「補註」において、この「雲量計」に関する須川力氏の論考を紹介しつつ、自分が上の文を書いた時点の認識について、「赤面せざるを得ない」と率直な筆致で思いを綴っておられます。
 須川力氏は、水沢緯度観測所の技官を務めておられた方で、「宮澤賢治と天文学」という文章の中で、自らの経験をもとに「雲量計」の正体を明らかにしてくれました。
 以下は、草下英明氏の文章からの孫引きです。

 すなわち「雲量計の横線は一寸意味不明だが、恐らく当所構内のピラス子午儀室と変電室との間の芝地に、以前櫛形測雲計が立って居た。その櫛の横線を指したものが想像される」とある。私(=草下氏:引用者注)は早速、須川氏に問合わせて櫛形測雲計という器具について伺ってみたところ、須川氏が緯度観測所に着任した当時(昭和十八年)はすでにこの器具は撤去されていたが、要するに柱の先にテレビのアンテナの様な縦棒と横に何本かの線を組合わせたものが取付けてあり、下からそれを見上げて、雲量を眼視する際の眼視範囲や方向の目安にするだけの器具であるという。つまり雲量を直接測定する計器ではない。しかし賢治は、恐らく「これで雲の量をしらべるのだ」と言われて、雲量計と速断したのではないかということだ。

 すなわち、「雲量計」は正しい名称ではなくて、本当は「櫛形測雲計」と言うらしいのです。しかしそう言われてもまだよくわかりませんので、これがいったいどんな器具だったのか、ちょっと調べてみました。
 'Salem Clock Shop'というオレゴン州の櫛形測雲計時計店のサイトに、'Comb Nephoscope'(櫛形測雲計)の図と説明がありましたので、右に図を引用します。
 名前のとおり、櫛の形をしていますね。この櫛の「背」の部分の長さは2.5-3mほどあって、観測者は下から櫛の歯の間を通して雲を目視し、支柱を回転させて雲が動いて行く方向と櫛の背の棒が平行になるようにします。これによって、雲の動きの方向が同定できます。
 そしてさらに、櫛の歯に相当する横棒の間を雲が通過する時間を測定することによって、雲が動いていく速さがわかります。そして雲の高度がわかれば、実際の雲の速度を計算することもできるわけです。
 わざわざこんな道具で雲が動く方向や速度を調べる目的は、それによって高層の風の向きと強さがわかるわけで、これは気象学的には役に立つデータのようです。
 つまり、この器具で「櫛の歯」にあたる棒が、賢治の言う「雲量計の横線」なのでしょう。実際、この横線は空の雲が通過していくのを観測するための目安ですから、雲のかわりに「ひるの十四の星」が横切っていくさまを想像するというのは、器具本来の趣旨からも見ても妥当なことです。
 ただ、これは雲の「量」を計るわけではありませんから、「雲量計」という呼び方は正しくなかったというわけですね。

◇          ◇

緯度観測所創立五十周年記念切手 さて、右の切手は、緯度観測所創立五十周年を記念して1949年に発行された切手で、描かれている立派な器械が「天頂儀」です。それにしても、草下英明氏が心から残念がっておられたように、この詩のモチーフとして用いるならば、やはり「天頂儀の蜘蛛線」の方が、より魅力的に感じます。なのに、賢治が推敲によってこれを「雲量計の横線」に変えてしまったのは、いったいなぜだったのでしょうか。
 私なりに推測するその理由は、「晴天恣意」という作品全体を貫くテーマが「雲」なので、小道具もそれに合わせて星ではなく「雲量計」を採ったということなのではないかというものです。何ともありきたりの理屈で恐縮ですが・・・。

 というのは、最初に見たように作品の冒頭部分でも、雲の下の山の名を「原体山」→「種山ヶ原」→「五輪峠」という風に推敲過程で変えていましたが、これもやはり作品内容との関係によるのだろうと思うのです。
 上の地図を見ていただいたらわかるとおり、3つの中で最初の「原体山」だけは平野の人里から近くに位置しています。これは「里山」のような小山ですが、作品の中ほどで「古生山地の峯や尾根/盆地やすべての谷々には/おのおのにみな由緒ある樹や石塚があり/めいめいに何か鬼神が棲むと伝へられ・・・」というような箇所との対応では、北上山地のもっと奥深い場所の方が似つかわしいので、まず「原体山」から「種山ヶ原」に改められたのではないでしょうか。
 さらに、「下書稿(二)手入れ形」においては、雲とは結局「地水火風空」の五つの要素が合わさったものであり言わば空中の巨大な五輪塔に他ならないという認識が示されたことにもとづいて、これを地上の五輪塔と対比させるために、「五輪峠」こそがふさわしい山として選ばれたのではないでしょうか。
 後年の推敲によって、最初にスケッチされた時のモチーフは徐々に姿を変えていってしまいますが、内容はより深く思索的になり、全体の統一感というのも増していったように感じます。

◇          ◇

 この「晴天恣意」を読むと、早春の澄み切った青空をバックに、白い巨きな雲が鮮やかにそびえ立っている様子が目に浮かんでくるような気がします。たまたま作品中には「雲量計」も出てくることですので、実際にこの日の水沢の気象条件がどんな具合であったのかということを、調べてみました。
 下図は、前回も引用した「中央氣象臺月報 全國氣象表」から、大正13年3月の水沢の気象記録です。 (クリックすると別窓で拡大表示されます。)

「中央氣象臺月報 全國氣象表」(大正13年3月水沢)

 ところがこれを見ると、ちょっと意外なことに気が付きます。「晴天恣意」が書かれた1924年(大正13年)3月25日、場所も賢治がいたのと完全に同じ水沢緯度観測所で観測された気象なのですが、この日は単純に「晴天」とは言いにくいような、かなり雲の多い日だったのです。
 上表の下段に「雲量」の欄がありますが、この表で3月25日のところを見ると、それぞれ2時、6時、10時、14時、18時、22時の雲の量のは、順にそれぞれ、3、7、9、10、4、2、です。これは、全天が雲に覆われた状態を「10」として、その比率を表す数字ですから、例えば午前10時および午後2時の時点では、それぞれ全天の「10分の9」と「10分の10」にわたって雲が広がっていたわけです。つまり、気象学上の定義によれば、「曇り」だったんですね。
 一方で、さらにその右の欄の「日照時数」を見ると、3月25日は10.2時間もあります。全体的な雲の多さにもかかわらず、日の出から日の入りまでの約12時間のうち、太陽は大部分は雲の隙間から顔を覗かせていたわけです。ちなみに、この年の3月のうちで日照時間が10時間を超えていたのは、あと3月18日の「10.38時間」しかありませんから、この時期のこの地方としては、明るい日差しに恵まれた一日だったと言えます。賢治がタイトルにことさら「晴天」と付けたのも、このあたりに理由があるのでしょう。

 この日の天候についてさらに特徴的な点を挙げると、上段の「風ノ方向及速度」によれば、午前10時に北風が風速12.2m/s、午後2時にやはり北風が9.5m/sで、かなり風の吹き荒れる日だったということです。「ビューフォート風力階級」によれば、風速10.8〜13.8m/sの範囲は「雄風」と呼ばれ、「木の大枝が揺れ、傘がさしにくくなる、電線が唸る」という状況だそうです。下段右端の「記事」の欄には、この日にはという記号が記入されており、「烟霧」「霜」とともに「暴風」があったということですから、瞬間的にはもっと強い風も吹いたのでしょう。

 賢治が水沢緯度観測所で強い風を体験していたとなると、これはひょっとして「風の又三郎」のイメージの中にも少しはまぎれ込んでいるのではないかと、ふと考えてみたくもなりますね。
 下記は、「風野又三郎」の中から、九月五日に「水沢の臨時緯度観測所」の話が出る直前のところで、又三郎が上海の気象台の上空を飛んだ時の様子です。

その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出てゐた。
『こいつはもう本たうの暴風ですね、』 又あの子供の助手が尤らしい顔つきで腕を拱いてさう云ってゐるだらう。博士はやっぱり鼻であしらふといった風で
『だって木が根こぎにならんぢゃないか。』と云ふんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして
『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ。』と云ふんだ。その時僕はもうあとを見なかった。なぜってその日のレコードは八米だからね。

 賢治が水沢緯度観測所を訪ねた日は、又三郎が「どの木もみんなぐらぐら」にさせたレコードの「八米」をも上まわる、風の日でもあったのでした。

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2012年1月 4日 あのくしゃくしゃの数字

 1924年(大正13年)3月24日、賢治は雪の降る五輪峠を歩いて越え、人首(ひとかべ)という集落で一泊して、翌25日は水沢にある緯度観測所を訪ねたようです。この間の様子は、「 〔湧水を呑まうとして〕 」、「五輪峠」、「丘陵地を過ぎる」、「人首町」、「晴天恣意」という連作に描かれています(「五輪峠詩群」参照)。
 「五輪峠」には、「何べんも何べんも降った雪を・・・」という一節が出てきますが、国会図書館近代デジタルライブラリーから、「中央氣象臺月報 全國氣象表」(下図)というのを調べてみると、この年の3月に入ってから24日までの期間のうち、水沢で雪が降らなかったのは7日間だけで、あとは「何べんも何べんも」雪が降りつづく日々だったことがわかります。(下図はクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

「中央氣象臺月報 全國氣象表」(大正13年3月水沢)

 それにしても、賢治はこの日、何のためにわざわざ雪の峠越えをして水沢までやって来たのでしょうか。その目的は明示されてはいませんが、「水沢緯度観測所にて」と副題のある「晴天恣意」の下書稿には、最初の方に「数字につかれたわたくしの眼は・・・」と書かれていますし、最後は次のように終わります。

そんなにもうるほひかゞやく
碧瑠璃の天でありますので
いまやわたくしのまなこも冴え
ふたゝび陰気な扉を排して
あのくしゃくしゃの数字の前に
かゞみ込まうとするのです

 つまり、彼はこの観測所にある何らかの「くしゃくしゃの数字」=数値データを調べるために、ここを訪れたのではないかと思われます。

 水沢緯度観測所というとまず何よりも、当時世界で6ヵ所だけ設置されていたという国際的な緯度観測の最先端施設です。またここは、「土神ときつね」に「水沢の天文台」として登場するように、高性能の天体望遠鏡を有する天文観測所でもありました。
 緯度観測所の機能としてはこの二つが有名ですから、賢治がここに何かを調査しに来たとすれば、まず思い浮かぶのは、こういった領域のデータを見に来たのではないかということです。
 しかし、この頃の賢治は農学校に勤めており、もとより地球物理学にも天文学にも関心は高かったでしょうが、それらを調査するとすれば自分の専門外の「趣味」に属することになります。もちろん趣味も多彩な賢治でしたが、私が想像するのは、この時彼は農作物とりわけ米の作況を予想するために、気象や海水温のデータを調べようとやって来たのではないか、ということです。

◇          ◇

 賢治の恩師である盛岡高等農林学校の関豊太郎教授は、1907年(明治40年)に「東北の凶冷と沿岸潮流との関係に就きて」(『官報』明治40年4月15日−16日)という論文を発表しています。この研究の意義については、1966年に小沢行雄氏が、「低海水温の内陸気温に及ぼす影響について」(防災科学技術総合研究報告 第6号 1966年3月)という論文の冒頭で、次のように高く評価しています。

 東北地方・北海道地方など北日本の冷害凶作が夏期の著しい低温によってもたらされることは明らかである。ところでこの夏期低温を誘致する原因については、古く明治40年代から調査研究が進められ、三陸北海道沖の海水温の低さが注目されてきた。すなわち関は岩手県の広田湾及び宮古湾の沿岸水温から明治38年の凶冷の原因を考察し、寒潮面上を吹送してくる北東風又は東風は冷涼で陸地の温度を低下させること、一方太平洋上の温暖な海面からくる風は海岸付近の寒流上の冷気にふれて細霧を生じ雨をもたらすと説き、冷害年における海水温の異常を詳述した。この論文は冷害と海水温とを結びつけた考察の端緒であり、ここに指摘されている冷害年には沿岸海水温が異常に低くなるという事実は今日においても変更の余地はない。

 1915年から1920年まで関教授のもとで学んだ賢治は、この関教授の業績について当然勉強し、その後も冷害について考える際には、「三陸北海道沖の海水温」を意識していたはずです。また実際、この水沢緯度観測所訪問の前年である1923年に書いた「宗谷挽歌」には、

(根室の海温と金華山沖の海温
 大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)

という一節が出てきます。場所は根室と金華山沖、すなわちまさしく「三陸北海道沖」に該当しており、少なくとも賢治はこの水沢訪問の前年には、「三陸北海道沖の海水温」をしっかりと頭に入れていたわけです。
 やはり国会図書館近代デジタルライブラリーで、「農商務統計表」から岩手県の米の収量を調べると、平年は702,480石に対して、大正2年(1913年)は461,405石で、平年を100とした作況指数は66と、極端な凶作でした。賢治が「大正二年の曲線と大へんよく似てゐます」と気にしているのは、この年も凶作にならないかと心配なのでしょう。

 この頃まで、彼はこういった気象データを水沢緯度観測所で調査していたのだろうと私は思うのですが、ちょうどこの年の7月末以降は、彼は「盛岡測候所」で調べるとともに、所長の福井規矩三氏に教えを請うようになったようです。
 後に福井規矩三氏からの口述筆記で作成された「測候所と宮澤君」という文章には、この頃の状況は次のように書かれています(日本図書センター『宮沢賢治研究資料集成 第2巻』より)。

 大正十三年は岩手県はひどい旱害であつたが、その年の七月末頃、あの君に始めてお目にかかつた。土用の入りの日じやつたが、別に紹介状もなしにやつて来られた。服装は背広で、それから屡々お目にかかつたが、いつも洋服であつたやうに思ふ。ごく質素な方で、身の廻りののことなどは頭になかつた方と思ふ。そのときも帰つてからていねいな手紙をくだされたが、なくしてしまつた。大正十三年の旱天は、岩手県では近ごろではなかつた旱害の記録で、以前は何時でも水が余つてゐたので、水不足で作付が出来ないといふことはなかつた。大正七年にもちよいとした小規模な旱天があつたが、大正十三年のは、とてもとてもきつかつた。雨が不足で一般に植付が困難であつたが、ことに胆沢郡永岡附近が水廻りが悪かつた。花巻方面はさほどでもなかつたが、後も雨が不足で作物が困難になつてきをつた。

 この年の旱害は、賢治が4月の時点で予想して、「測候所」という作品に「・・・・・・凶作がたうたう来たな・・・・・・」と書いているものでしょう。今回取り上げている3月25日の水沢緯度観測所訪問から10日あまりで再び「測候所」に赴いているとは、よほど凶作が気になっていたのだろうと思われます。
 盛岡測候所が開所したのは前年の1923年(大正12年)9月のことで、これを受けて翌大正13年7月以降の賢治は、気象データをここで入手するようになったことは福井氏の話によってわかりました。ではそれまではどこで調査をしていたのかとなると、やはり前述のように水沢緯度観測所だと思われます。
 盛岡測候所ができるまでは、岩手県内にはあとは三陸海岸沿いに宮古測候所があっただけですが、花巻から北上山地を越えて宮古まで行くというのは、非常に大変なことです。測候所機能も備えていた水沢緯度観測所に行っていたと考えるのが、自然でしょう。

 ちなみに、金華山沖の海水温については、水沢観測所のお隣の測候所である宮城県石巻測候所が、1916年(大正5年)以降「金華山漁場ノ海水温」として発表しています(下図)。私としては、賢治が上の「宗谷挽歌」で触れたデータの由来は、この冊子のシリーズだろうと思うのです。(下図は国会図書館近代デジタルライブラリーより、「金華山漁場ノ海水温 第1号」(宮城県石巻測候所,1919)のp.19。クリックすると別窓で拡大表示されます。)

『金華山漁場沖ノ海水温』より

 当時、水沢緯度観測所がこの冊子を所蔵していたという証拠はつかめていません。しかし、設立2年後の1888年(明治21年)以降、測候所として毎日6回の気象観測を継続し、全国に設置された測候所の一つとしての役割も果たしていた水沢緯度観測所としては、「お隣の測候所」の刊行物も、当然保有していただろうと考えます。

 すなわち、賢治が1924年3月25日に水沢緯度観測所において「かゞみ込」んでいた「くしゃくしゃの数字」とは、上記のように延々と何枚も続く、このような表のデータだったのだろうと思います。
 「宗谷挽歌」では、「(海温の)曲線」と記されていますが、この冊子にはグラフは掲載されておらず、数字が上のような表になっているだけです。賢治は、自分でこの表からデータをピックアップして、グラフにする作業もしていたのではないかと、私は思うのです。

奥州宇宙遊学館(旧水沢緯度観測所)
奥州宇宙遊学館(旧水沢緯度観測所)

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2011年12月23日 CDブック発売とイベント

 イベントのお知らせをいただきました。

 12月26日に左右社から刊行されるCDブック『春の先の春へ 震災への鎮魂歌 古川日出男、宮澤賢治「春と修羅」をよむ』の出版記念イベントとして、12月24日に東京で「古川日出男+管啓次郎、「春と修羅」「銀河鉄道」をよむ」が行われるということです。

古川日出男+管啓次郎、
「春と修羅」「銀河鉄道」をよむ

2011年12月24日 (土) 12:00 open 13:00 start
場所: SARAVAH 東京
〒150-0046
東京都渋谷区松濤1丁目29-1 渋谷クロスロードビル B1
TEL/FAX 03-6427-8886
contact@saravah.jp

Adv. 3000円(+1drink order)
Door. 3500円(+1drink order)
ペアチケット:4,000円(+2drink order)

 以下は、イベントの紹介文。

 本イベントは12月26日発売予定のCDブック『春の先の春へ 震災への鎮魂歌/古川日出男、宮澤賢治「春と修羅」を読む』(左右社)の刊行記念イベントです。自然のプロセスや時の流れをそのままに体現する「川」を大きなモチーフとして、第1部では今回のCD収録作品を中心に幾人かの現代詩人たちの作品の朗読と歌を、第2部では朗読・音楽劇として再構成された『銀河鉄道の夜』をお届けします。
 企画・出演は古川日出男(小説家)、管啓次郎(詩人)、小島ケイタニーラブ(音楽家)。
 クリスマス・イヴに改めて3月11日以後の日々を思い返し、また必ずやってくる次の春への希望の芽生えを探す。希有の光が生じるにちがいないそんな機会に、ぜひ立ち会ってください。

 それから、このたび発売されるCDブック。

春の先の春へ 震災への鎮魂歌/古川日出男、宮澤賢治「春と修羅」をよむ (宮澤賢治ブックス01)(CDブック) 春の先の春へ 震災への鎮魂歌/古川日出男、宮澤賢治「春と修羅」をよむ (宮澤賢治ブックス01)(CDブック)
宮沢賢治 古川日出男

左右社 2011-12-26
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 いつもは、自分がまだ読んでいない本のことなどは載せていないのですが、「震災への鎮魂」というコンセプトなので、関連イベントともにご紹介させていただきました。

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2011年12月18日 正午の太陽微塵

アレニウス 19世紀終わりから今世紀初頭にかけて活躍した、アレニウスというスウェーデンの化学者がいました。(右写真はウィキメディア・コモンズより)
 その業績は、物理学・化学・天文学・免疫化学など多岐にわたり、「物理化学 physical chemistry」という領域の創始者の一人でもあります。今で言うこの「物理化学」という分野のことを、大正初期に東北帝国大学教授であった片山正夫博士は、邦語で「化学本論」と呼ぶことにしてその主著のタイトルともしましたから、同書を座右に置いた宮澤賢治にとっては、アレニウスは自然科学におけるヒーローの一人だったのではないかと思います。

 そのアレニウスの著書の邦訳が出たアレニウス『宇宙発展論』ら、賢治もきっと読んだに違いないと推測したくなりますが、賢治が盛岡高等農林学校に入学する前年の1914年(大正3年)に出版された『宇宙発展論』(一戸直蔵訳)は、まさにそのような一冊です。(右写真は国会図書館・近代デジタルライブラリーより)
 この本には、空気中の放電によって窒素化合物が生成し、それが雨によって降下することで植物を肥やすという記述(p.196-197)や、空気中の炭酸ガスが増加すると温暖化が起こり、作物の収穫の増加につながるとの記述(p.85)があり、これらはいずれも「グスコーブドリの伝記」における未来科学的なアイディアと一致するものです。この二点は、『新宮澤賢治語彙辞典』も「アレニウス」の項目で指摘しているところで、さらに同辞典は「太陽系」の項目において、「賢治がこの本を読んだ可能性は非常に高いと言える」と述べています。
 例えば、下に同書p.85の炭酸ガスによる温暖化に関する記述の部分を引用してみます。火山の爆発は被害も起こすけれども、大気中の炭酸ガスの増加は特に寒冷地において「一層良好なる気候」と「豊饒なる収穫」を与えうると述べています。

 吾等は、地中に貯蔵せる石炭が現今将来に対する何等の念慮なくして漫りに徒消せられつつありとの怨言を耳にすること屡々なり。且つ吾人は火山爆裂によりて蒙むる恐るべき生命財産の破壊によりて震駭せしめらるること屡々なり。されど吾人はここも、他の有らゆる場合に於て然るが如く、善は常に不善と随伴せらるるものなりてふ諺によれて自ら慰めざる可らず。大気中に於ける炭酸瓦斯の割合が増加するに従ひ、其結果として吾人は一層気温分布の平等なる一層良好なる気候(特に寒冷なる地方に於て)の時代を楽しみ得べきなり。而して其時代に至れば地面は現今に於けるよりも遙かに豊饒なる収穫を与ふべく、かくて急速に拡散しつつある人類の生活に資する所多大なるものあるべきなり。

 私も、「賢治がこの本を読んだ可能性は非常に高い」という『新宮澤賢治語彙辞典』の考えに、賛成です。

◇          ◇

 現在はこの『宇宙発展論』は、インターネットを通して国会図書館の「近代デジタルライブラリー」でいつでも読めるようになっているので、今日も私はパラパラと眺めていました。
 すると、賢治の作品に出てくる表現を連想させる記述が上記の他にもいくつか見られたのですが、とりわけ印象的だったのは、同書p.181の、次の記述でした。

蓋し太陽微塵の大部分は正午頃に落下するを以て極光の大部分も亦正午後数時間最も夥しく起るべきことは、恰かも一日中の最高温度に於けると同じかるべき理なり。

 これは、極光(オーロラ)の発生原理を物理学的に説明しようとしている箇所で、「太陽微塵」というのは、太陽から地球に放射されている非常に微小な粒子、現代の用語で言えばプラズマ状態にある「太陽風」のことです。
 それにしても、「太陽微塵の大部分は正午頃に落下する」という言葉は、あの感動的な一節をまさに彷彿とさせるではありませんか!

    春と修羅
            (mental sketch modified)

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
・・・

 例えば「第四梯形」には、「ななめに琥珀の陽も射して・・・」とあるように、賢治は作品中でしばしば太陽の光を「琥珀」に喩えていますから、「正午に太陽微塵が落下する」というのを賢治風に言いかえれば、まさに「正午に琥珀のかけらがそそぐ」にもなろうというものです。

 というわけで、やはり私は、賢治がアレニウス著『宇宙発展論』の邦訳をを読んでいた可能性は高いと思うのです。

20111218c.jpg
アレニウス『宇宙発展論』(一戸直蔵訳,大倉書店)p.181


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2011年12月 8日 三陸の賢治詩碑の現況(2)

 11月下旬に訪ねた、三陸地方南部の賢治の詩碑・歌碑報告の続きです。まず、碑の場所を示す地図を、再掲しておきます。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 今回は、気仙沼市唐桑の (3)「雨ニモマケズ」詩碑 と、陸前高田市の (4)「農民芸術概論綱要」碑 についてご報告します。


 「雨ニモマケズ」詩碑

 気仙沼市も、今回の津波で大きな被害を受けた町でした。3月11日の深夜には、気仙沼の市街が火災で燃える様子を自衛隊のヘリコプターが撮影した映像がテレビでずっと流され、茫然と見続けた記憶があります。
 私は9月23日にも気仙沼を訪ねたことがありますが(「気仙沼の彼岸」参照)、今回は2ヵ月ぶりの再訪でした。

 11月25日に石巻の医療支援を終えた後は新幹線で移動して一関に泊まり、朝早くにJR大船渡線に乗って、気仙沼駅には8時40分に着きました。
 ここから、持参した折りたたみ自転車を使って、沿岸部や鹿折地区をまわりました。港のあたりは、9月に来た時には地盤沈下した道路が冠水して自動車での走行も困難でしたが、今回はやはり石巻と同じように、数十cm底上げした真っさらな舗装がなされていました。
 JR鹿折唐桑駅の前には、9月の時にも見た「第十八共徳丸」が鎮座しています。前回と違って、今回は真新しい道の傍らに。

第十八共徳丸

 市街東部の鹿折川の川べりには、昭和8年3月の「昭和三陸大津波」を記念した石碑が建てられていたのですが、悲しいことに今回の津波で倒されていました。

大震嘯災概碑

 倒れる前のこの日の姿は、「日本の川と災害」の当該ページにあります。現在上になっているのは裏面ですが、表面には、「大震嘯災記念/大地震それ来るぞ大津浪」と刻まれていたようです。

 鹿折川を渡り、その向こうに見えている山を越えると、リアス式の次の湾に面した「舞根」という集落があります。ここも、全てが流されていました。

気仙沼市舞根

 その次の、「浦」という集落。案内標識のゆがみが、津波の到達した高さを教えてくれます。

気仙沼市舞根

 ここから、唐桑半島の付け根のもう一山を越えると、「宿(シュク)」という集落です。余談ですが、柳田国男が明治三陸大津波から25年後に三陸地方を旅した折りに書いた「二十五箇年後」という文章(『雪国の春』所収)は、この「唐桑浜の宿という部落」の話です。
 この地区の、「熊野神社」という神社の裏山に、「雨ニモマケズ」詩碑が建っています。

「雨ニモマケズ」詩碑

 この碑は、小さな山の中腹あたりにあって、津波の被害はありませんでした。しばし荷物を下ろして、「雨ニモマケズ」のテキストに向かい合い、一ノ関駅で買ってきたおにぎりで昼食。

 この碑のある場所から少し登ると、広田湾が見えます。左下に見えている石板が、詩碑の背面です。

「雨ニモマケズ」詩碑と広田湾

 それにしてもこの場所は、一人静かに「雨ニモマケズ」に向かい合ったり、海を眺めたりできる、素晴らしい「穴場」です。また来たいものです。

「雨ニモマケズ」詩碑

 腹ごしらえと十分な休憩をすると、詩碑にさよならを言って、次の目的地を目ざしました。

 また自転車に乗って、今度は北の方に向かいます。地図で見るとほぼ海岸線を走っていても、リアス式海岸に沿った道路というのは、集落の境ごとに存在する小さな峠と、海面の高さの間のアップダウンを幾度も繰り返すことになり、自転車にとっては結構ハード。
 岩手県交通の、一関から大船渡までを1日2往復するバスの時刻を調べてあったので、「堂角」から「陸前高田市役所前」まで、自転車をたたんでバスを利用・・・。


 「農民芸術概論綱要」碑

 そこからもいくつもの峠を越えて、バスは陸前高田市内に入りました。しかしそこで私は車窓からの景色を見て、「自分はここに来てもよかったのだろうか」という思いに一瞬とらわれてしまいました。それでも、バスはどんどん進みます。
 「陸前高田市役所前」で降りるつもりにしていたのですが、私の目算が浅はかで、元の市役所の建物は3階天井までもが津波で破壊されたわけですから、臨時のバス停があるのは、その2kmほど山手にプレハブで建てられた「市役所仮設庁舎」の前でした。

 持っていた2万5千分の1の地図は当てにならず、およその方角を頼りに山を下り、元の市街地のあたりに出てきました。
 この道をずっと西に行けば、高田高校です。

陸前高田市街地

 そして高田高校。

高田高校

 この校庭に、賢治の「農民芸術概論綱要」碑があったのです。下の写真は、2000年8月7日に撮影したものです。

「農民芸術概論綱要」碑(高田高校)

 この碑は、東北砕石工場の鈴木東蔵氏の長男・鈴木實氏が高田高校の校長だった昭和47年に建てられました。その「建立趣意書」には、次のように書かれていたということです。

 宮沢賢治御令弟清六氏より、賢治の喜ぶように使って欲しいと金十五万円余の御寄付を高田高校に頂きましたので、この使途につき有志相集い協議いたしましたところ生徒達への教訓のため詩碑建設が最善ではないかと考えました。
 碑文は丁度一昨年高田高校創立四十周年記念の折、谷川徹三氏が御講演後、「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と農民芸術概論の一節を色紙に御記号なさいましたので、それを銅板に鋳直して石に彫むことにいたしました。

 そして、除幕式では森荘已池氏が講演を行ったということです。

 さて、高田高校にたどり着くと、何とかして上の場所とおぼしきあたりを探そうとしたのですが、瓦礫や土砂も多く、碑を見つけることはどうしてもできませんでした。

高田高校

高田高校

捜索終了

 ということで、「捜索終了」。

陸前高田市街

 自転車で西に向かい、気仙川を越え、また気仙沼市との境あたりにある「ホテル三陽」という宿に泊まりました。

 今回、11月下旬に訪れた南三陸の賢治詩碑は、前回と今回ご報告した4つです。
 残りの北三陸の詩碑も、来年の5月頃までには訪ねたいと思っています。

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2011年12月 1日 三陸の賢治詩碑の現況(1)

 下の地図のように、三陸海岸沿いにはかなり多くの賢治の詩碑や歌碑が建てられています(建てられていました)。その中には、「津波ニモマケズ 宮沢賢治の詩碑 耐えた」という東京新聞の記事のような感動的な報道によって、その消息を知ることができたものもありますが、他の碑がどうなっているのか、あまり情報はありませんでした。
 未曾有の津波被害を受けた地域の賢治詩碑は、今どのような状況にあるのか・・・。石碑フリークの私としては、このことが以前から心に引っかかっていたのです。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 私は去る11月25日26日に、宮城県石巻市の医療支援に行っていたのですが、その前後に個人的に時間をとって、津波を受けた三陸地方の賢治詩碑の状態を、一部見てきました。
 今回は、塩竃と石巻の詩碑、上の地図では(1)および(2)の碑のご報告です。


 「ポラーノの広場」碑

 昨年3月に、宮城県塩竃市港町の岸壁沿いに「シオーモの小径」という散策路が作られました。塩竃は、日本三景・松島観光の拠点でもあり、明治以来たくさんの文人が訪れて作品に詠みこんでいますが、ここはそれら数多の文学碑を美しく配列した、情緒あふれるスポットでした。正岡子規、北原白秋、若山牧水、与謝野晶子、斎藤茂吉、田山花袋など綺羅星のような石碑群の中の一つとして、賢治の「ポラーノの広場」の一節を刻んだ碑も建てられました。
 私は、昨年3月この一角が整備されて間もない頃に、ここを訪ねてみたことがあり、その時の様子は「シオーモの小径」というブログ記事にも書きました。当時の「シオーモの小径」の入口は、下の写真のようでした。

「シオーモの小径」2010年3月21日

 この散策路が「シオーモの小径」と名付けられたのは、もちろん賢治の「ポラーノの広場」において、塩竃をモデルにした街がエスペラント風の「シオーモ」という名前を冠されて登場することに基づいています。この道の名付け親とも言える賢治の碑は、他の誰にも負けぬ意匠と工夫を凝らされた、見事なものでした。 その姿は、「ポラーノの広場」碑のページでご覧いただくことができます。

 そして、今回11月23日に訪ねた「シオーモの小径」の入口は、下のようになっていました。

「シオーモの小径」2011年11月23日

 地震によって、地盤が大きく沈下してしまったために、歩道が波打っています。左の石垣の外側には、以前は岸壁があったのですが、これも地盤沈下によって海面下になってしまっていました。

 そして、賢治の「ポラーノの広場」碑は、下のようになっていました。

「ポラーノの広場」碑

 後ろから見ると下のようになっていて、根元に通されている太さ2cmほどの鉄芯が、津波の圧力によってぐにゃりと曲がってしまっているのがわかります。

「ポラーノの広場」碑の根元

  しかし、「小径」に並ぶ碑には完全に倒れてしまったものもいくつか見られる中で、約40°の角度を保ちしっかりと立つ姿は、何かとてもけなげに思えたりもしました。また、碑の周囲に散乱している敷石は、初代・塩釜駅に敷かれていたもので、賢治の同級生たちもおそらく踏みしめていたものです。

 この「ポラーノの広場」碑文に引用されている部分の少し前では、三陸海岸のことは「イーハトーヴォ海岸」と呼ばれていて、レオーノキューストがその海岸地方を旅した時の喜びは、次のように描かれていました。

 海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれ ました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞり をたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。

 ここには、賢治が三陸地方を旅した時の経験、そこで触れあった「海岸の人たち」の心根も、反映しているのかもしれません。


 「われらひとしく丘に立ち」詩碑

 石巻市の日和山は、この町の歴史的中心に位置する山です。延喜式の式内社として由緒ある「鹿島御児神社」が平安時代から鎮座し、鎌倉時代には石巻城が築かれました。「日和山」という名称は、海運の盛んなこの町において、海に近いその頂きが船の運航に重要な天候を観察するスポットであったことによります。
 Wikipedia には、

日和山から日和大橋越しに見る旧北上川河口と太平洋、また、旧北上川の中洲であり、内海五郎兵衛が私財を投じて東内海橋と西内海橋を架けた「中瀬」(なかぜ)の見える風景は、そのまま石巻の成り立ちと市民のアイデンティティを示すものである。

との記述もあります。また春には、桜の名所としてたくさんの市民が訪れます。
 日和山とは、石巻においてそういう場所なのです。

 15歳の賢治は、盛岡中学の修学旅行において、この山から生まれて初めて海を見るという体験をしました。
 この折りに賢治が詠んだ短歌に、

まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。

があり、これを後年になって文語詩化した「〔われらひとしく丘に立ち〕」のテキストを刻んだ詩碑が、この日和山公園に建てられたわけです。

 私が前回この日和山公園に来たのは、2000年の8月6日でした。11年ぶりに訪れた公園は、以前よりも立派に整備されていました。そして、さすがに海抜56mほどの丘の上だけあって、津波の被害は皆無でした。
 下写真が、今回の「われらひとしく丘に立ち」詩碑です。

「われらひとしく丘に立ち」詩碑

 この日和山には、他にもいろいろな石碑があるのですが、下写真は、「チリ地震津波碑」です。

チリ地震津波碑

 碑面には、次のような言葉が刻まれています。

     チリ地震津波碑

ほら こんなに
まるで慈母のように穏やかな海も
ひと度荒れ狂うと
恐ろしい残忍な形相となる
海難・ 津波・ 海難と
こゝ 三陸一帯に
無常な海の惨禍が絶えることがない
(後略)

 さて、上記 Wikipedia にあったように、日和山からの眺望は石巻市民にとってアイデンティティの一部ともなっているということですが、先の大津波においては、ここからの景観は凄絶なものでした。
 下の動画は、市民の方が日和山から南の方角を撮影したものです。

 結局、この山より南の市街地は、すべてが津波で流されてしまったのです・・・。

 ところで、上の動画のような情景を見ていると、

まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。

という賢治の短歌が、まるで悪い夢になって襲ってきたかのような錯覚にとらわれそうになります。これは果たして「まぼろし」か「うつゝ」か、誰しも我が目を疑う景色であり、波頭は非常な勢いで寄せて来ます。
 そのような海(わだつみ)が、3月11日に確かに出現しました。

 今、賢治の詩碑の横から南を見ると、下のような景色が広がっています。

日和山から南を望む

 震災から8ヵ月後ともなると、津波に流された跡も瓦礫は撤去されて、茶色い地面が広がっています。まるで埋め立て地のように見えますが、震災前はここはすべて住宅地だったのです。中央あたりに残っている比較的大きな白いビルは石巻市立病院で、しっかりと立っているように見えますが、1階は津波に打ち抜かれています。

 日和山から下へ降りると、家の土台も撤去された曠野に、真新しいアスファルトの道が通っていました。地盤が沈下しているので、道路は数十cm以上の盛り土をして底上げされています。奥に見える建物は、門脇小学校です。

門脇町

 日曜日のお昼頃、市民の方々は日和山の展望台から、かつて街並みのあった場所を、静かに眺めておられました。

日和山展望台から

【この項つづく・・・】

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2011年11月 6日 千原英喜作曲「ちゃんがちゃがうまこ」

 千原英喜作曲の児童・女声合唱組曲「ちゃんがちゃがうまこ」の中から、第2曲「ちゃんがちゃがうまこ」の演奏を作成してみました。
 千原英喜氏によるこの組曲は、次のような構成になっています。

1.烏百態
2.ちゃんがちゃがうまこ
3.青い槍の葉
4.祭日
5.敗れし少年の歌へる(第2番)
6.黒い影法師のうた

 今回作ってみた「ちゃんがちゃがうまこ」は、賢治が盛岡高等農林学校在学中に詠んだ方言短歌を歌詞にしたもので、賢治が大好きな馬へ寄せる気持ちが、親しみやすいメロディーに乗せて歌われます。
 冒頭や最後のピアノには、「チャグチャグ」と形容される馬の鈴の音も響きます。

「ちゃんがちゃがうまこ」 3.77 MB(MP3)

夜明げには
まだ間あるのに
下の橋
ちゃんがちゃがうまこ見さ出はた人

ほんのぴゃこ
夜明げががった雲のいろ
ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て来る

いっしょけめに
ちゃがちゃがうまこはせでげば
夜明げの為が
泣くだぁぃよな気もす

下のはし
ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
みんなのながさ
おどともまざり


 歌は、VOCALOID の Meiko、初音ミク、Mew、ピアノは、Steinway Virtual Concert Grand Basic です。

児童・女声合唱組曲 ちゃんがちゃがうまこ 詩:宮沢賢治児童・女声合唱組曲 ちゃんがちゃがうまこ 詩:宮沢賢治
千原 英喜

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2011年10月23日 賢治と嘉内の東京

 宮澤賢治と保阪嘉内が、1916年(大正5年)から1921年(大正10年)の間で、東京に滞在していた期間を図にしてみました。
 赤色が賢治の東京滞在、青色が嘉内の東京滞在です。

賢治と嘉内の東京

 とりあえず今はこれだけですが、やはり賢治が書簡166(1920年7月22日)の中で、「東京デオ目ニカヽッタコロハ…」と書いているが一体いつのことだったのかということが、気になるのです・・・。

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2011年10月16日 「神様 (2011)」と活断層露頭

 川上弘美『神様 2011』を、読みました。

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川上 弘美

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 たった45ページの、新書版と変わらないほど小さな本ですが、ハードカバーで繊細な装幀。表紙には、やさしく目を閉じたような「くま」が描かれています。
 内容は、川上弘美氏が1993年に書いたという初めての短篇「神様」と、2011年3月末に書いた「神様 2011」と、「あとがき」。

 いずれも、淡々とした静かな筆致です。

 「神様」という短篇は、現代の「なめとこ山の熊」であるかのように、ふと思いました。
 「わたし」と「くま」は、まるであたりまえのように対等です。命のやりとりをするような状況とは正反対にいますが、「小十郎」と「熊」のように、ふたりの間には心のかよい合いがあります。
 最後に「くま」は、「熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように。」と、「わたし」のために祈ってくれました。「なめとこ山の熊」は、死んだ「小十郎」のために、月と星の光の下で、熊の神様に祈りました。

 ところで、この単行本で、「神様」と「神様 2011」の間には、下のような見開きの挿絵のページがはさまれています。

『神様 2011』挿絵

  前景は野菊と鉄条線、背景は川のようです。これは、「わたし」と「くま」がピクニックに行った川原なのかもしれません。

  「神様 2011」の中で、原発事故は「あのこと」と呼ばれていますが、事故そのものについては、何も述べられているわけではありません。すでに起こってしまったこととして、ひっそりと日常の中にあります。それでも「あのこと」のために私たちが失ってしまったもの、取り返しのつかないものは、淡々とした筆致によって、逆に鮮明に浮かび上がってきます。
 そういうものへの哀惜の念がこみ上げてくるのを、読みながら私は、おさえることができませんでした。
 たった45ページの、新書版と変わらないほど小さな本ですが、なんと強い力を持っているものかと思いました。

 高橋源一郎氏の小説「恋する原発」によれば、川上弘美氏はその後、「神様」と「神様 2011」のテキストを重ね合わせて、「神様 2011」という一つの作品にしたのだそうです。二つの作品を一つにするとは、いったいどういうことか?
 ここに、高橋源一郎氏が「恋する原発」(『群像』11月号)に引用した「神様 2011」を、再引用してみます。冒頭部分です。

 くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。春先に、鴫を見るために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうしてふつうの服を着て肌をだし、弁当まで持っていくのは、「あのこと」以来、初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。
 くまは、雄の成熟したくまで、だからとても大きい。三つ隣の305号室に、つい最近越してきた。ちかごろの引越しには珍しく、このマンションに残っている三世帯の住人全員に引越し蕎麦を同じ階の住人にふるまい、葉書を十枚ずつ渡してまわっていた。ずいぶんな気の遣いようだと思ったが、くまであるから、やはりいろいろとまわりに対する配慮が必要なのだろう。
[中略]
 川原までの道は元水田だった地帯)〔水田に沿っている。土壌の除染のために、ほとんどの水田は掘り返され、つやつやとした土かもりあがっている。作業をしている人たちは、この暑いのに防護服に防塵マスク、腰まである長靴に身をかためている。「あのこと」の後の数年間は、いっさいの立ち入りができなくて、震災による地割れがいつまでも残っていた水田沿いの道だが、少し前に完全に舗装がほどこされた。「あのこと」のゼロ地点にずいぶん近いこのあたりでも、車は存外走っている。)〔舗装された道で、時おり車が通る。どの車もわたしたちの手前でスピードを落とし、徐行しなから大きくよけていく。すれちがう人影はない。たいへん暑い。田で働く人も見えない。〕(「防護服を着てないから、よけていくのかな」
 と言うと、くまはあいまいにうなずいた。
 「でも、今年前半の被曝量はがんばっておさえたから累積被曝量貯金の残高はあるし、おまけに今日の SPEEDI の予想ではこのあたりに風は来ないはずだし」
 言い訳のように言うと、くまはまた、あいまいにうなずいた。くまの足がアスファルトを踏む、かすかなしゃりしゃりという音だけが規則正しく響く。
[後略]

 文中に出てくる( )〔 〕などの記号が謎ですが、以下はそれに関する高橋源一郎氏の説明。

 この「神様 2011」は三つの「層」でできている。「神様」と「神様 2011」で、変更が加えられていない部分はそのまま印刷されている。( )でくくられた部分は、「神様」にはなく「神様 2011」に新たに書き加えられた部分だ。そして〔 〕でくくられた部分は、「神様」にはあったのに「神様 2011」で削除された部分である。

 つまり「神様 2011」においては、「神様」と「神様 2011」との間でどこが変わったのかということを、はっきりと意識しながら読み進められるようになっているのです。この( )〔 〕を用いた表記ルールを知れば、「神様」と「神様 2011」を重ね合わせた作品の題名が、なぜ( )の付いた「神様 2011」になっているのかということも、腑に落ちますね。
 高橋源一郎氏は、つづけます。

 「あの日」の前と後で、世界はすっかり変わってしまった。簡単にいうなら、「あの日」の後、世界には( )でくくられた部分が出現し、世界から〔 〕の部分は消失したのである。
 だから、わたしたちは、この「神様 2011」を、掘り出された地層の断面のように読むことができる。そして、この「地層の断面」こそが、わたしたちが生きている世界の構造なのである。

 過去の地表と、現在の地表とを、それぞれ別々に見るのでなくて、それらが立体的に重なり合っている様子を、高橋氏は「地層」と呼んでいるわけです。
 記号によって分節されたテキストは、ふつうに読むには煩雑ですが、三次元の立体を二次元の紙に印刷した「展開図」を眺める時のように、少しイメージを働かせれば、不思議な「奥行き」が見えてきます。

 ところで私は、ほかにもちょうどこんな風に、テキストに〔 〕とか( )などの記号が付けられた「作品」があったことを、思い出します。 

 一つにそれは、入沢康夫氏の詩「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」です。
 その中の、「第三のエスキス」は、次のように始まります。

かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩
第三のエスキス

〔(ナシ2かつて座亜謙什〔(ナシ2と→を名乗つた人→3と/名乗つた人→4と名乗つた人への〔(ナシ3〕〔一四→1連の散文詩〔(ナシ3エスキス4第二のエスキス)〕

        一、

あなたの〔(ナシ2あとを追つて→2逆にたどつて→3辿つてしばしばは逆に辿つて)〕私たちは長い→2しばらく→3長い旅をして来たのだが〔(ナシ3それでゐて私たちはまだ〔(一字アキ3あなたの本当の→2真実の名前を知らない〔(一字アキ3ただわづかに〔(一字アキ紙の余白に→3)〕〔(一字アキ3あなたが戯れのやうに〔(ナシ3、砂に書き遺して行つた座亜謙什の名でもつて〔(一字アキ3)〕私たちはあなたを〔(ナシ3、あなたの幻を呼ぶ〔(一字アキ2一字アキ私たちが村境の土手に並んで→3。私たちが、国境の土手に一列に並んで、二たび三たび〔(一字アキ3)〕西に向つて声をあげれ→3放て〔(一字アキ3暮春の月が私たちの〔(ナシ→頭上に〔(一字アキ3)〕黒い→3茶けた光を落してよこす一字アキ3幾本となく吊り下げる。
[後略]

 これは、さっきのよりももっと複雑です。「神様 2011」には、原発事故前と事故後の二つの地層が含まれていましたが、この入沢氏の詩には、もっとたくさんの何層ものレイヤーが積み重なっています。
 上記で、123・・・という「上付き数字」は、本来は「丸数字」なのですが、パソコンの機種依存文字を避けるため、ここでは便宜上こうしました。引用部分では1から4までの数字が出てきますが、これは、4回の推敲のそれぞれの段階で、字句がどのように書き換えられたかということを表しているようです。

 この作品において、「あなた」あるいは「かつて座亜謙什と名乗つた人」と呼ばれている人物は誰なのか。それは本来は、「詩」という構築された空間における出来事でしょうが、私たちとしてはひそかに「あの人」のことを考えて読んだとしても、とがめられることはないでしょう。
 「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」が書かれた1977年、筑摩書房から刊行されていた『校本宮澤賢治全集』が完結し、その編集委員であった入沢康夫氏は、まさに「あなたの足あとを辿つて(しばしばは逆に辿つて)」厖大な草稿をめぐる長い旅を、終えたところだったのです。
 なによりも、上の作品で使われている複雑な記号は、その『校本宮澤賢治全集』の編集過程において、作者によるすべての推敲プロセスを表記するために、入沢氏らによって考案されたものでした。

 たとえば下記は、『春と修羅』所収「風の偏倚」における手入れの過程です。「詩集印刷用原稿」における推敲は1として、「菊池本」における推敲は2として、あわせて表示しました。

[前略]
〔(ナシ2杉の列には山鳥がいっぱいに潜み→んで
ペガススのあたりに立ってゐた→2る)〕〔のだが→1)〕
いま雲は一せいに散兵をしき
極めて堅実にすすんで行く
おゝ私のうしろの松倉山には
用意された一万の硅化流紋凝灰岩〔(ナシ1の弾塊があり
〔《(ナシ1(》明治廿九年→1)〕川尻〔(ナシ2断層〔(ナシ→地震のとき以来→1から→2以来/息を殺してま1)〕ってゐる。1
私が→2)〕〔(ナシ→巻時計を光らし過ぎれば落ちてくる
空気の透明度は水よりも強く→)〕
松倉→2ところが→しかも》〕山から生えた木は
敬虔に天に祈ってゐる
〔(ナシ2空気の透明度が→は水よりも強く
辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ→2
[後略]

 宮澤賢治のテキストの「地層」は、『新校本全集』において、たとえばこんな方法で記されています。
 賢治自身が稗貫郡の地層を調査するために山野を歩きまわったように、入沢康夫氏や天沢退二郎氏は、賢治の草稿に何層にも積み重なったレイヤーを調べあげたわけです。

 ところで、上の作品に出てくる「川尻断層」とは、『新宮澤賢治語彙辞典』によれば、「陸羽地震(川尻断層地震とも。賢治誕生4日後の1896(明治29)年8月31日)で生じた断層」とのことです。(ちなみに私は、この作品に出てくる「川尻断層」というのは「川舟断層」の誤記ではないかと個人的に思うのですが、ここでは措いておきます。)
 いずれにせよ、内陸を震源とした大きな地震の際には、活断層の露頭が地上に出現することがあります。最近では、阪神淡路大震災における「野島断層」が有名です。北淡町の小倉地区では、高さ50cm、横ずれ1.5mの地震断層が、長さ140mにわたって地表に現れたということです。

 「あのこと」の前と後で、世界の相貌はどのように変わったのか。それによって、私たちは何を失い、何に侵入されたのか・・・。
 川上弘美氏の「神様 2011」は、原発事故によって日常の中に忽然と(活断層露頭のように)出現した「地層の断面」を、静かに、しかし白日のもとにはっきりと、示してくれています。

written by hamagaki : カテゴリー「雑記
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