2019年3月24日 『宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈』出版

 信時哲郎さんの『宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈』(和泉書店)が、ついに出版されました。

宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈 宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈
信時 哲郎

和泉書院 (2019/2/28)

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 信時さんは、2010年に上梓された『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』によって、翌年に「第21回宮沢賢治賞奨励賞」を受賞されましたが、それから9年の歳月が経ち、その後の厖大で緻密な研究の成果を、こうしてまた私たちの手元で利用できる形にして下さったのです。
 ちなみに、本文は744ページ、本の厚さは4.3cmあります。

 皆様もご存じのように、賢治の文語詩というのは、彼が最晩年に至ってそれまでの人生を回顧し、その生涯における様々な一コマを切りとって、自らの様々な思いとともに凝縮し、最後は単純で美しい珠玉のように「結晶化」させたようなテキストです。そこでは、言葉があまりにも圧縮され切り詰められているために、ちょっと読んだだけでは意味不明で難解なのですが、その奥深い含意や賢治の感情が読み解けてくると、何とも味わい深い感動をもたらしてくれるものです。
 そのように、一見取っつきにくい賢治の文語詩の世界を旅してみる際に、9年前の『五十篇評釈』とともにこの『一百篇評釈』は、最高の導き手になってくれるに違いありません。

 本書の構成は、101篇の各文語詩ごとに、作品「本文」の掲出に続き、「大意」、「モチーフ」、「語注」、「評釈」が記され、最後に「先行研究」の一覧が挙げられています。
 「大意」とありますが、削ぎ落とされた賢治の表現を適宜補いながら、作品内容を簡潔な口語訳にしてくれていますので、何のことを言っているのかわからないような難しい文語詩も、ここを読むだけで「ああそういうことだったのか」と一瞬にしてわかります。
 次の「モチーフ」という項目がまた秀逸で、作品の背景や、賢治の生涯との関連を、コンパクトにまとめてくれていますので、鑑賞のための最小限の土台は、ここで得られるようになっています。
 たとえば、「岩手公園」の「モチーフ」の項目には、

賢治の文語詩は、岩手に生きる様々な人を登場させようとする、いわば「岩手ひとり万葉集」とでもいうものを編もうとする試みだったと思うのだが、定稿を書こうとした段階で、賢治はタッピング一家を思い出したということであったかと思う。

という一節もあって、この「岩手ひとり万葉集」という表現などは、これほどまで綿密に賢治の文語詩を読み込んでこられた信時さんならではの視点から生まれた言葉だと思います。
 さらに続く「語注」では、難解であったり解釈の別れる語句を、先行文献も踏まえて丁寧に説明し、そして本体の「評釈」では、厖大な先行研究や、出版されていないインターネット上の言説までも幅広く参照して、実に精密な作品分析が行われます。
 私事ながら、私のこのブログを参照していただいている箇所も、全部で実に10か所を数え、それぞれ丁寧に引用した上で、賛成であれ反対であれ真摯に評価をして下さっているのが、本当にありがたく存じます。

 「評釈」の例としては、たとえば『文語詩稿 一百篇』の最初の作品「」は、私も大好きな詩の一つなのですが、これについては作品が掲載された『女性岩手』という雑誌の創刊号の巻頭言やそこに掲げられた精神、また当時の社会情勢を論じて、最後は次のように閉じられます。

 だとすれば、まだ母としての自覚、大人としての自覚の薄い母親が、本当は自分の方が大きな声を出して飛びつきたいくらいの瓜を、黙ってわが子に譲るというシーン、すなわち子どもが大人になり、女の子が女になる瞬間の記述として、賢治は興味深いものとして書き留めたかったのではないか、というようにも読めてくる。そしてそれは、大正六年の感動であるに留まらず、昭和七年に至っても、永続していたのではないかと思えるのである。世に欠食児童が増えていた時期であったからこそ、新しい岩手の生活と文化を担う女性たちへの期待を込めて、賢治はこうした作品を書いたのだと考えたい。

 「定稿」になってしまえば、たった4行の小さな作品で、そこには秋空と雲と風と山とススキと、微笑ましい母子の歩く姿が見えますが、そのさらに奥には、こんな世相や女性運動の希望や賢治の思いも込められていることが、じんわりと浮かび上がってきます。

 賢治の文語詩というものが、見かけは小さな美しい「結晶」の中に、実は「一つの世界」を宿しているということを、わかりやすく紐解いて教えてくれる、この本は素晴らしいガイドブックだと思います。

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2019年3月 3日 大槌町に「旅程幻想」詩碑建立

 来たる3月23日に、東日本大震災以来不通になっていたJR山田線の沿岸部(宮古―釜石間)が復旧開通しますが、それとともに同線沿岸部は三陸鉄道に移管され、これによって従来の久慈―宮古の「北リアス線」と、釜石―盛の「南リアス線」がついに「南北統一」され、三陸沿岸を久慈から盛まで一本でつなぐ、「三陸鉄道リアス線」が誕生することになります。
 実際に、久慈から盛までの直通列車が走り始めるのは、翌24日からのようで、すでに発表されている「リアス線列車時刻表」を見ると、直通列車は上りが3本、下りが2本で、全線でだいたい4時間30分かかるようです。

 下のGoogleマップで、青色部分が北リアス線紫色部分が山田線赤色部分が南リアス線ですが、あと2週間で、ここを北から南まで一本の列車で走ることができるわけですね。
 開通したらぜひとも、この直通列車に乗ってみたいものです。

 ということで、リアス線の「南北統一」も画期的なことではありますが、同時に旧JR山田線の沿岸路線部分がやっとのことで復旧し、再びこの路線を列車が走り始めるということは、震災から8年あまりも鉄道がない状況を強いられてきた、旧山田線の磯鶏駅から両石駅までの沿線部の方々にとっては、本当に待ち遠しかったこの3月23日でしょう。

 そして、その祝賀の意味も込めて、賢治の「旅程幻想」を刻んだ詩碑が、8年ぶりに列車を迎える大槌駅において、再開の1週間前にあたる3月16日に、完成除幕されることになったのです。上の地図で、青いマーカーを付けた場所が、その大槌駅です。
 詩碑建立を中心になって準備をされたのは、「大槌宮沢賢治研究会」の会長で、また「風の電話」の活動によって第25回イーハトーブ賞奨励賞を受賞された、佐々木格さんです。

「旅程幻想」詩碑除幕式チラシ表

「旅程幻想」詩碑除幕式チラシ裏

 ところで、「旅程幻想」の作品舞台がどこかということに関しては、まだ確定的なことはわかりませんが、賢治が発動機船を降りたと推定されている宮古と、叔父の家があった釜石との間のどこかだったということまでは、確かでしょう。佐々木格さんの説では、これは大槌町で作られたもので、作品中に出てくる「放牧用の木柵」があるような牧場が、昔は大槌町の北の方にあったということですし、賢治がこの作品でまどろんでいる「河原」とは、大槌町を流れる「小鎚川」ではないかということです。

 残念ながら、私は23日の詩碑除幕式に行くことはできませんが、そのご盛会と、今後の大槌町の発展を、心からお祈りしています。

  旅程幻想
               一九二五、一、八、

さびしい不漁と旱害のあとを
海に沿ふ
いくつもの峠を越えたり
萓の野原を通ったりして
ひとりここまで来たのだけれども
いまこの荒れた河原の砂の、
うす陽のなかにまどろめば、
肩またせなのうら寒く
何か不安なこの感じは
たしかしまひの硅板岩の峠の上で
放牧用の木柵の
楢の扉を開けたまゝ
みちを急いだためらしく
そこの光ってつめたいそらや
やどり木のある栗の木なども眼にうかぶ
その川上の幾重の雲と
つめたい日射しの格子のなかで
何か知らない巨きな鳥が
かすかにごろごろ鳴いてゐる

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2019年2月24日 世界の救済と個人の救済

 この正月明けに亡くなられたある年配の知人の奥様に、先週お会いしてお話をする機会があったのですが、その前夜に知人のことを何となく思い巡らしつつ寝床に入っていると、その方と奥様が出てくる夢を見ました。とても複雑で奇想天外な内容で、わけがわからないような夢だったのですが、早朝に目が覚めると、なぜか不思議に少しほっとしたような気持ちがしました。

シモーヌ・ヴェイユ(Wkimediaコモンズより〕 その知人は、シモーヌ・ヴェイユの思想や生き方に心酔して、まるでヴェイユのごとく自分の身を削るようにして、世の中の虐げられた人々のために尽力奔走する人生を送り、その途中で病に倒れられました。
 病気がいったん小康を得ると、知人はご自身のそれまでの生き方を振り返って、これまでの自分は少し自分自身を追い詰めすぎていたのかもしれないと言い、これからはヴェイユよりも、ブッダやタオの教えを導きにして、残された日々新たな方向を目ざして歩んでいきたいとおっしゃりました。そしてそれから数年は、山を歩いて野草を愛でたり、絵を描いたりして、日々を過ごしておられたのです。
 そのような穏やかな生活を送りながら、私にもよく折々の心境を話して聞かせて下さっていたのですが、そんな私たちの予想もしないある日、突然に帰らぬ人となったのです。

 その知人と奥様が出てくる複雑な夢から目覚めて、私の心にはなぜかふと、「賢治も結局は自分自身のために生きて死んだんだ」という言葉が浮かんで、そしてその時に私はわけもなく、何かほっとしたような気がしたのです。
 夢には賢治のことはまったく出てこなかったのに、目が覚めてみると賢治に関する言葉が残っているとは、何とも不思議なことでした。

 それにこの、「賢治も結局は自分自身のために生きて死んだんだ」という言葉の意味も、私としてはよくわかりません。
 賢治は、自分自身のためではなく、「利他の精神」によって生き、死んだ人の、典型のはずです。賢治を敬愛する方々の中には、彼が自分のために生きて死んだのだなどと聞くと、変なことを言うなと憤る方も多いでしょう。私もそう思いますし、いったいなぜこんな言葉でほっとしたのか、どうも釈然としません。
 しかし戸惑いながらも、まだ外は暗い早朝の寝床の中で、私はぼんやり次のようなことを考えていました。

 ある意味では、賢治もシモーヌ・ヴェイユのように自らの健康を犠牲にしてまで世の人々のために働き、その類い稀な才能や創作の種子を、まだたくさん内に秘めたままで、この世を去ってしまいました。その早すぎる死を思うと、心が痛まずにはいられません。
 しかし、あの「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉に従えば、賢治が彼自身の「個人の幸福」を手にするためには、まずはどうしても「世界の幸福」を実現する必要があったのです。そして、その「世界の幸福」をこそ目ざして、彼は文学の創作や宗教や農業や教育に、命を燃やし尽くしました。

 賢治にとっては、それが彼独自の「個人の幸福」へと至る、唯一無二の道だったのでしょうし、また「自分」と「世界」がしばしば合一するという性癖を持っている彼にしてみれば、「世界の幸福」と「個人の幸福」とは、結局は同じことだったのかもしれない……などど考えつつ、またM.T.さんのご冥福を祈りつつ、私はうとうとと、もう一眠りしたのでした。

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2019年2月17日 幻の賢治の白バラ

グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園) 2000年代に、日本のバラ愛好家の間では、「グルス・アン・テプリッツ」という真紅の美しいバラが、「賢治の愛したバラ」として非常に有名になり人気を博す一方、賢治研究者の間でこのバラが話題になることは全くないという、扱われ方の極端な不均衡が見られることが、私にはとても不思議でした。様々な賢治研究書にも、バラに関する記述はほぼ皆無で、いったい何を根拠にグルス・アン・テプリッツが賢治のバラと言われているのかも、私にはわかりませんでした。
 そこで、この「グルス・アン・テプリッツ」がいかにして「賢治が愛したバラ」と呼ばれるようになっていったのかという経緯を、私なりに調べ、またいろいろな方からご教示をいただいて、2006年から以下の一連の記事を書きました。

 このたび、「花巻ばら会」のSさんが、「公益財団法人 日本ばら会」の会報誌に、「「宮沢賢治のバラ」を守った花巻ばら会」という文章を発表され、そのコピーを私のもとに送って下さいました。そこには、「賢治のバラ」がたどった数奇な運命が写真とともに簡潔にまとめられ、そのタイトルのとおり、「花巻ばら会」の皆さんが、これまでいかに真摯にこの「賢治のバラ」を守り育てられたかということが、克明に記録されています。

 この「賢治のバラ」の詳しい経緯については、上のブログ記事を順に全て読んでもらえればおわかりいただけるはずなのですが、しかしそれではあまりに理不尽なご苦労をおかけしますので、ここにあらためて大まかにその内容を整理してみると、事の次第は次のようなものでした。

  1. 1928−1929年頃、賢治は花巻共立病院院長・佐藤隆房氏の邸宅の新築祝いに訪問し、後にバラの苗20種を寄贈した。
    これについて、佐藤隆房著『宮沢賢治―素顔の我が友―』には、「秋になり賢治さんは私に立派な薔薇の苗二十種を届けてくれました。その薔薇は今も大切に培養されていて、年ごとに美しい色を咲かせます。(一九二九年)」との記載がある。
    ただし、賢治によるこのバラの苗の寄贈は、彼が1929年にはずっと病床にある重篤な状態だったことを考えると、前年の1928年だった可能性もある。

  2. 時代は降って1964年、「花巻ばら会」が発足した際に、顧問を佐藤隆房氏に依頼したところ快諾され、さらに佐藤隆房氏は花巻ばら会副会長の佐藤昭三氏に、「今、家の庭にも賢治さんがくれたばらが咲いているよ」と言われ、「一度見に来るように」と勧められたので、昭三氏は隆房氏宅を訪問してそのバラを見せてもらった。
    花巻ばら会としては、まもなく開催される創立記念展示会に、ぜひこの賢治ゆかりのバラを展示したいと考え、佐藤隆房氏に依頼して庭に咲いているバラの20輪ほどを切り花としてもらい受け、当日はフラスコに活けて、「賢治ゆかりのバラ」として展示した。
    これが、「賢治のバラ」の最初の公開展示である。しかし当時は、まだこれらのバラの品種名はわからなかった。

  3. さらに時代が降って、1989年に花巻ばら会は創立25周年を迎え、1990年の日本ばら会第10回全国大会開催を花巻で引き受けることになり、全国から集まるバラ愛好家に、ぜひ賢治ゆかりのバラを見てもらおうということになった。そこで会員数人で佐藤隆房氏宅を訪れ、賢治から贈られたというバラの一つが当時市販されていない品種であることを確認し、これを増殖することにして高橋健三会員が接ぎ木を行い、大会期間中にはその二株を「賢治のバラ」として展示した。

  4. その後、花巻ばら会会員の吉池貞蔵氏が、このバラの品種名を何とかして突き止めようと、当時「日本バラの父」と言われた第一人者の鈴木省三氏にその苗を送り、鑑定を依頼した。

  5. 鈴木氏は自宅でその苗を育て、3年後にバラは開花した。するとその花は、奇しくも鈴木氏が子供の頃に父親が最も大切に育てていて、鈴木氏とバラの出会いを作ったとも言える品種「日光」(グルス・アン・テプリッツ)であることが判明した。
    これについて鈴木省三氏は、「京成バラ会」会報『バラの海 第36号』(1995)に、下のような文章を書いている。

「賢治の薔薇が咲いた」(鈴木省三)
(これがおそらく、グルス・アン・テプリッツが「賢治のバラ」として紹介された文献の初出と思われる。)

  1. この「グルス・アン・テプリッツ」は、日本では一時ほとんど栽培されなくなり市販もされていなかったが、鈴木省三氏によるこの紹介を契機に再び人気を集めるようになり、各種のバラ関係の書籍や図鑑等でも、「賢治が愛したバラ」として必ず紹介されるようになり、現在に至っている。

 賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラの品種が同定され、それを契機にまた日本各地でたくさん栽培されるようになったのも、佐藤隆房氏が自宅の庭で何十年も大切にそのバラを守り、花巻ばら会の方々がその貴重な株を接木によって殖やし、さらに東京の鈴木省三氏にその苗を送って、鈴木氏が3年がかりで苗を育ててくれたという、このバラに関わった多くの方々の努力の結晶だったわけです。
 当時の賢治が「グルス・アン・テプリッツ」の苗を入手したのは、横浜の輸入商「横浜植木」への注文取り寄せによってだったということもわかっていますが、これを「賢治が愛したバラ」とまで呼ぶのは、やや勇み足の感があります。賢治自身は、あくまでこのバラの苗をただカタログから取り寄せて、世話になっている知人に贈っただけであり、それを自ら育てていた可能性は非常に低いと思いますし、その花を実際に見たかどうかも不明です。あくまで「賢治ゆかりのバラ」という表現に留めておくのがよいでしょう。

 ところで、本日こうやって一つの記事を書いた理由は、以上の話に続くちょっとした後日談を、Sさんが教えて下さったのです。
 上にも引用したように、賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラは、元は「20種」もあったはずです。では、グルス・アン・テプリッツ以外の19種?のバラは、その後いったいどうなったのでしょうか。
 賢治の寄贈から何十年の月日が経つうちに、佐藤氏宅の庭には新たなバラも植えられて新旧交代していき、賢治が贈ったバラは次第に姿を消していったというのは、やむをえない時の流れと言えますが、実は最近まで、グルス・アン・テプリッツとは別の賢治ゆかりと思しきバラが、佐藤邸の庭にはまだ2種ほど残っていたというのです。

 そして、花巻ばら会所属のSさんともう一人の方が、そのうちの白バラを譲り受けて、ひそかに「賢治の白バラ」と呼んで大切に育て、ついに開花に成功させたそうなのです。晴れて同定されたその品種は、どちらも「アイスバーグ」というものだったのですが、ところがこれは、賢治の死後20年ほどたってから作出された品種であり、賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラではありえないということがわかりました。

 ということで、赤いグルス・アン・テプリッツに続く「賢治の白バラ」は、残念ながら幻に終わってしまったというお話でした。

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2019年2月10日 エマーソンの「大霊」と賢治

1.エマーソンと賢治

 『新校本全集』第16巻(下)の「年譜篇」には、賢治が盛岡中学3年の「二学期」の部分の記載に、次のようにあります。

 寄宿舎六室に移る。同室した一年藤原文三の記憶によると、同室者は、五年佐藤重次郎、四年矢幅忠太郎、三年賢治という。藤原の記憶によるが、三学期とも考えられる。
 藤原の談話によると、とにかく変っていて汚れ物はかまわず押入につっこみ、教科書は見ず、「中央公論」の読者で、エマーソンの哲学書を読んでいたのに驚いたという。

Ralph Waldo Emerson ラルフ・ウォルド・エマーソン(右写真)は、19世紀アメリカで活躍した思想家・哲学者・詩人ですが、まだ15歳の賢治がこの時読んでいた「エマーソンの哲学書」とは、いったい何だったのでしょうか。
 彼の中学3年は1911年(明治44年)ですから、この年までに日本で翻訳刊行されていたエマーソンの著作を、現在の国会図書館の蔵書から調べてみると、下記がありました。

 上記以外にも、西洋の偉人伝を集めたような本でも、エマーソンの紹介は複数収録されており、明治時代の日本では、彼は相当に注目されていた思想家だったことがわかります。賢治が読んでいたのは、上のうちのどれかであった可能性が高いでしょうが、ただ実際にどの本だったかということまでは、今ある情報からはわかりません。

 一方、賢治の教え子照井謹二郎氏は、「妹トシの落書」(『啄木と賢治』, 昭和51)において、「昭和七年の新春を迎えた、ある日曜日」に、自分が病床の賢治を見舞った際のこととして、次ようなエピソードを記しています。

 「本をあげましょう」と云われ、本棚に並んでいる本の中から、先生がおっしゃる二冊の本を頂戴して帰ることにした。(中略)今では、一冊は残念ながら所在不明となっているが、もう一冊は、なんと妹トシ子さんの愛読本“エマーソン論文集、上巻”であったとは。

 ここに挙げられている『エマーソン論文集、上巻』とは、上に挙げた一番下の戸川秋骨訳『エマーソン論文集 上巻』の第5版(1913年刊行)で、表紙裏に「責善寮宮沢敏子」の署名があるということです。つまりこの本は、トシが1915年4月に日本女子大学の責善寮に入ってからいずれかの時期に購入したものと思われ、これを賢治がおそらくトシの没後に譲り受けて、所蔵していたものだったのでしょう。

 あとさらにもう一つ、賢治自身が書いたものにも、エマーソンとの関連を示す所見が残っています。戦災によって今は失われた草稿「農民芸術の興隆」は、「農民芸術概論」や「農民芸術概論綱要」の中の一部分を賢治がより詳しくメモしたものですが、その中に次のような部分がありました。

芸術はいまわれらを離れ多くはわびしく堕落した
〔中略〕
 エマーソン 近代の創意と美の源は涸れ 才気 避難所

ここにはわれらの不断の浄い創造がある
〔中略〕
 →エマーソン 斯ノ如キ人ハ

 ここには「エマーソン」という名前が登場するとともに、大沢正善氏による「宮沢賢治と『エマーソン論文集』」(文芸研究(100), 1982)における調査によれば、上の2行目の部分は戸川訳『エマーソン論文集 上巻』の「芸術論」にある、

 然るに近代の社会に於る創意と美の源は殆んど乾涸し去れり。〔中略〕而して今日の芸術家並に鑑賞家は芸術に於て己の才気を示さんとし若くは人生の害悪よりの避難所をこれに求む。

という箇所の下線部に基づいており、また上の4行目の部分は、同じく「芸術論」の、

 抑も芸術は皮相的の才能たるべきものに非ず、人間の内心に於ける遙かの背後より出でざるべからず。然るに今や人々は自然を以て美なるものと為さず、而して美なるべき立像をつくらんとす。(誤れりと云ふべし)斯の如き人は世間の人々を以て趣味なき遅鈍なる度し難きものとなし、絵具袋と大理石の幾片かを以て自ら慰む。

という箇所の下線部に基づいていると考えられます。すなわち、賢治はおそらくトシから受け継いで後に照井謹二郎に贈ることになる戸川訳『エマーソン論文集 上巻』を、この時期にも熟読していたことが推測されます。

 以上をまとめると、まず賢治は中学3年生(15歳)という早期から、エマーソンの著作を読んでいたという証言があり、これは時期的にはちょうど戸川訳『エマーソン論文集 上巻』が刊行された直後であることから、この本だった可能性もありますが、その他にも候補はあり、どれと断定はできません。しかし、トシの蔵書であった戸川訳『エマーソン論文集 上巻』を賢治が後に所蔵していたことは確実で、さらにその一節を上記のように自らの重要な論考の中に引用していることから、これは彼の思想の根幹に、深い影響を与えていたと言うことができます。

 このようなエマーソンと賢治の関係についての先行研究としては、まず上にも引用したように大沢正善氏が、「宮沢賢治と『エマーソン論文集』」(文芸研究(100); 157-167, 1982)において先駆的な調査と考察を行い、エマーソンの超越的汎神論と法華経の世界観の関連、同論文集所収の「歴史論」「円環論」から賢治の「心象スケッチ」や「四次元」思想への影響、さらに「芸術論」から賢治の「農民芸術概論綱要」への影響等について、明らかにされました。
 それまでは、法華経と中心とした仏教や、アインシュタイン説など自然科学の観点からのみ検討が加えられてきた、賢治の世界観の奥深いところに、エマーソンという西洋的な宗教思想の巨人の影響を読みとった、これは画期的な論考と言えるでしょう。

 これに続いて、信時哲郎氏は「宮沢賢治とエマーソン―詩人の誕生―」(比較文学(34); 139-150, 1992)において、大沢正善氏が『エマーソン論文集 上巻』に収められている諸論から賢治の思想への影響関係を探ったのに対し、同論文集『下巻』に収められている「詩人論」が、賢治の「詩」に関する考え方に及ぼした影響について、詳しく考察しておられます。

 最近では、山根知子氏が「宮沢賢治の文学と浄土真宗信仰―信仰の重層性の基層から―」(白山ふるさと文学賞第22回暁烏敏賞入選論文; 3-18, 2016)において、暁烏敏が『歎異鈔講話』でエマーソンも引きつつ「宇宙の大霊の弥陀如来」と記しており、同書が刊行された1911年に中学生の賢治もまさにエマーソンを読んでいたことから、賢治が暁烏の影響によってエマーソンに親しみ、これが晩年の「宇宙意志」などの思想にもつながっていった可能性を指摘されました。

2.エマーソンの「大霊」と賢治

 以上のように、賢治がエマーソンの思想から受けた影響については、これまで「大々的に研究されてきた」とまでは言えませんが、数人の研究者の方々が、綿密な研究を行っておられます。
 今回私は、これらの知見に対して特に新たに加えるようなことがあるわけではありませんが、ただエマーソンの思想の核心とも言うべき、「大霊(Over-Soul)」という概念と、賢治の世界観との関連について、少し考えてみたいと思います。

(1) 歴史について

 そもそもエマーソンの思想の本質は、大沢氏も述べておられるように、一言でいえば「超越的汎神論」とも呼ぶべきものです。それは具体的にはどういうものかと言うと、例えば戸川訳『エマーソン論文集 上巻』の冒頭に置かれた「歴史論」は、実に単刀直入に、次のように始まります。

 あらゆる個人を通して一貫せる一個の心あり。各個人はみな此の心とその全局に到るの溝渠たるなり。(p.1)

 そしてこの、「あらゆる個人を通して一貫せる一個の心」こそが、エマーソンの言うところの‘Over-Soul’なのです。
 エマーソンの考えでは、この‘Over-Soul’は、現実的な事物の背後に、それらを超えて存在するので「超越的」であり、またこれは全ての人間にも自然にも、遍く行き渡って存在しているものなので、「汎神論」なのです。戸川秋骨氏以来、最近の酒本雅之訳の岩波文庫版に至るまで、この語には「大霊」という日本語訳が定着していますが、‘Over’という語が含む「〜の上を超えて」という意味を強調するならば、これは「超霊」と訳すこともできるでしょう。この霊は、われわれ全ての人間の魂に繋がり、それらを遍く包含している存在なのです。
 ただ戸川秋骨氏の明治の香り高い訳文では、「全局」とか「溝渠」という語がやや堅苦しくて、全体の意味がわかりにくいかもしれません。ここはエマーソンの原文では、次のようになっています。

There is one mind common to all individual men. Every man is an inlet to the same and to all of the same.

 inlet というのは「入口」のことで、各々の人間は「大霊」への「入口」であり、ここで同じ一つの「大霊」に直接繋がっているとともに、さらに‘all of the same’にも、すなわち「(同じ大霊のもとにある)みんな」にも、繋がっているのです。
 私が思うには、これこそが、『春と修羅』の「」の、

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

という箇所の、最もわかりやすい解釈の一つを与えてくれるのではないでしょうか。

 エマーソンの「歴史論」は、上の2文に続けて、さらに次のように展開していきます。

されば人若し一たび理性を用ふるの権を享有せんか、その人はかの心の全領土に於ける自由の民とせられたるなり。その人はプレトオの思索せる処を思索し得べく、古聖の感じたる処を感じ得べく、時の如何を問はず、人の如何を論せず、苟も人間の上に起りし事はこれを了解し得るなり。この普遍共通の心の内に入るを得たるものは、既に今日に至る迄に遂げられ、また今後に於て遂げらるべき事物を知悉せるものなり。何となれば此の普遍共通の心は唯一最高の機能を有するものなればなり。
 歴史は此の心の働きの記録なり。この心の精華は日々の連続に依りて闡明され、人間は又正にその歴史によりて説明せらる。急がず休まず、人間の精神は太初より随時随処の事件の内にその一々の能力、その思索、その感情を体現し行けり。(p.1-2)

 この箇所については、大沢正善氏も、「歴史を論じるのに超越的汎神論から始めるこの部分は、賢治の眼を驚かしたに違いない」と述べておられますが、私も本当にそう思います。エマーソンのこの歴史観は、後々まで賢治に非常に強い印象を残したのではないでしょうか。
 上記におけるエマーソンの考えは、「歴史」とは客観的な物理的な出来事の羅列ではなく、「心の働きの記録なり」と述べているのが特徴で、これはヘーゲルが『精神の現象学』において、歴史というものを「世界精神」にまで至る意識の発展として捉えたことにも似ていますが、ここで私としては何より賢治との関連において、「銀河鉄道の夜」(初期形三)でブルカニロ博士が示した「地理と歴史の辞典」や、「グスコーブドリの伝記」のクーボー大博士による「歴史の歴史といふことの模型」を連想します。

「けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いゝかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、〔後略〕(「銀河鉄道の夜」初期形三)

 エマーソンと同じように賢治も、「歴史」というものは、「紀元前二千二百年のことでな」く、「紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた」こととして、すなわちみんなの「心の働きの記録」として、捉えられているのです。
 このブルカニロ博士の「辞典」については、大沢正善氏も『エマーソン論文集 上巻』所収の「円環論」の中の、「或時代に於ける歴史と世界の記述とは、直接その時代の人心に存在する智力的分類に依るものなり」という言葉を引いて、その影響を示唆しておられます。
 いずれにせよ、賢治独特の歴史観の根底に、エマーソンの影響があった可能性は高いと思われます。

(2) 「脱自エクスタシス」と「神充エントゥシアスモス

 「歴史」についてはこれくらいにして、本題の「大霊」について、もう少し詳しく見てみます。エマーソンは、この大霊を主題としたその名も「大霊論」という論文も著しており、これは戸川訳『エマーソン論文集 上巻』にも収められていますから、賢治も確実に読んでいたはずです。
 その冒頭近くで、エマーソンは「大霊」について、例えば次のように説いています。

吾人は連続の内に、区劃の内に、部分、分子の内に生活す、然るに人間の内部には全局を蔽ふ心霊あり、賢明なる緘黙あり、宇宙的の美ありて、これに対し各部分並に分子は平等の関係を有す、これ即ち永劫不滅の一なるものなり。而してこの深大なる力の内に吾人は存在し、又その力の至福は何人にも得らるべきものなるが、この力は毎時自から足りて完全せるものたるのみならず、この力の内にありては同時に観る働きと観らるゝものと、観者と観覧物と、主観と客観と共に一に帰するなり。吾人は世界を見るに個々の一片を以てす、例へば太陽、月、動物、樹木といふが如し、雖然これ等がみなその輝ける一部を成せるその全体なるものは心霊なり。(p.450)

 ここで、エマーソンが言うところの、一人の人間の内部にある「全局を蔽ふ心霊」、あるいは「永劫不滅の一なるもの」、すなわち超越的で普遍的・絶対的な存在に、一般的な名前を与えるとすれば、それは「神」と言わざるをえません。
 ところでエマーソンは神学校を卒業した敬虔なキリスト教徒であり、25歳から29歳までは教会の牧師も務めていたのですが、しかし彼が考える上記のような汎神論的な「神」は、これまでのご紹介からも明らかなように、伝統的キリスト教における神の概念からは、明らかに逸脱するものになっています。そして、牧師をしつつも次第に従来の教会の教義や礼拝に違和感を覚えるようになったエマーソンは、ある時「聖体拝領」の儀式に関する当局との意見の相違によって、教会を辞職することとなりました。

 エマーソンの「神」すなわち大霊と、個々の人間との関係は、一方では「人間の内部には全局を蔽ふ心霊あり」として、人間が大霊を内に含むとともに、他方では逆に「この深大なる力の内に吾人は存在し」という形で、大霊が人間を内に含むということになっています。すなわち、AがBを含み、かつBがAを含むというわけですから、論理的にこのような事態が成立するためには、A=Bであるほかはありません。つまりこれは、一種の「神人合一」の境地を具現しているわけです。
 一方、伝統的キリスト教においては、イエスの体を象徴するパンと、その血を象徴するワインを、信者が体内に取り入れる「聖体拝領」という儀式によって、「神と人との一体化」が達成されると見なしています。
 大霊との「神人合一」を、もっと霊的で超越的で、しかも何の媒介も要しない出来事と考えていたエマーソンにとって、いかにも物質的に見える伝統的な聖体拝領の儀式は、特に耐え難かったのかもしれません。

 ところでこの「神人合一」という状態については、昨年の賢治学会夏季セミナーにおける発表でもご紹介させていただいたように、井筒俊彦氏が古代ギリシア哲学をもとにして、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」という二つの対照的原理を抽出しています(「「世界合一体験」から「重重無尽」へ」参照)。
 井筒氏の初期の著書『神秘哲学 ギリシアの部』では、それは次のように説明されています。

 古代ギリシアの自然神秘主義は、ディオニュソス神がヘラスの民に教えた「脱自エクスタシス」及び「神充エントゥシアスモス」の体験に基く一の特異なる宇宙的霊覚の現成である。エクスタシスekstasisとは文字通り「外に立ち出ること」即ち通常の状態に於ては肉体と固く結合し、いわば肉体の内部に幽閉され、物質性の原理に緊縛されて本来の霊性を忘逸している霊魂が、一時的に肉体を離脱し、感性的事物の塵雑を絶せる純霊的虚空に出で、かくて豁然として秘妙の霊性に覚醒することを意味する。然して、かくの如く感性的生成界の一切を離却し、質料性の纏縛を一挙に截断しつつ「外に出」た霊魂はもはや旧き人間的自我ではあり得ない。人間的自我が自性を越え、最早いかなる意味に於ても自我と名付けられぬ絶対的他者の境位に棄揚されることがエクスタシスの端的である。言い換えればエクスタシスとは人間的自我が我性に死に切ること、自我が完全に無視されること、自我が一埃も残さず湮滅することを意味する。併し意識の主体としての自我があますところなく湮滅し去れば、その意識の内容として今まで自我の対象をなしていた感性的世界もまた自ら掃蕩されて遺影なきに至るは当然であろう。かくてエクスタシスに於て、人間の自然的相対意識は遺漏なく消融し、内外共に一切の差別対立を絶して蹤跡なく、ただ渾然として言慮の及ぶことなき沈黙の秘境が現証されるのである。この自我意識消滅の肯定的積極的側面をエントゥシアスモスenthousiasmos(神に充たされ、神に充満すること)という。(井筒俊彦『神秘哲学 ギリシアの部』p.19-20)

 つまり、「脱自(エクスタシス)」とは、自我が自我の「外に立ち出ること」によっていつしか「我」ではなくなり、神へと一体化するという「忘我」の状態であるのに対して、「神充(エントゥシアスモス)」とは、神の方から自我の内部に向かって流入し、もとは一個の自我にすぎなかった場所が「神によって充ち溢れる」という状態を指しているのです。
 ちなみに、古代ギリシア語の‘ekstasis’は、・ek-(外に)+stasis(立てる)→「外に出る」という原意から、現代英語の‘ecstasy’(恍惚、忘我)の語源となっており、また古代ギリシア語の‘enthousiasmos’は、en-(中に)+theos(神)+ousia(本質)→「神の本質の流入・憑依」という原意から、現代英語の‘enthusiasm’(熱狂、狂信)の語源となっています。

 井筒氏も書いているように、現実にはこの二つの原理は、しばしば同時に生起することも多いようですが、理屈の上ではこれらは「内から外へ」と「外から内へ」という逆の方向性を持った動きであり、対を成すものです。
 その様子を、昨年の賢治学会夏季セミナーにおいて行ったように、「自我」との関係において図示するならば、下のようなものを描いてみることができます。この図で、「自我」を包む膜=自我境界は、細く赤い点線で示されていますが、これは解離状態としての「自我境界の稀薄化」によって、「内から外へ」あるいは「外から内へ」という流出または流入が、非常に起こりやすくなっていることを示しています。

「脱自」と「神充」

 エマーソンの言う「神人合一」が、上の二つのどちらに相当しているのかというと、「大霊論」では次のように述べられています。

 吾人は心霊の来降、則ち心霊自体の顕現なるものを表はすに啓示なる文字を以てす。この心霊の顕現には必ず崇高の感の伴ふものなり。何となればこの心霊の交会は神の心の吾人の心に流入する事なればなり。〔中略〕個人がこの霊の侵入を感ずるその瞬時は則ち忘るべからざる大事の時なり。(p.466-467)

 すなわちエマーソンによれば、大霊と個人との「交会」は、「神の心の吾人の心に流入する事」によって成し遂げられるというわけでであり、井筒氏による上の二つ原理のうちでは、「神充(エントゥシアスモス)」に相当するのです。
 ちょうどこれとよく似た「自己の内への神の流入」というエピソードを、ウィリアム・ジェイムズがある男性の体験記から、『宗教的経験の諸相』に引用しています。

家に着くとすぐ、私は床についた。そして宗教のことなど少しも気にしなかった。すると五分ほどたってから、私は聖霊によってつぎのように動かされ出した。――「最初、私は自分の心臓がまったく突然に、非常に速く打ち始めたのを感じた。それで私は最初、なにか病気にかかりかけているのだろうと考えたが、別に苦痛は感じなかったので、驚きはしなかった。私の心臓の鼓動はだんだん激しくなった。私はすぐにそれが私に対する聖霊のはたらきであることを悟った。私は非常に幸福と謙虚な気持ちとを感じ始めた。このように自分の無価値を感じたことは今までに一度もないことであった。私はどうしても、大声で語らずにはいられなかった。それで大声を出して言った。主よ、私はこの幸福に値しない人間です、と。あるいは、それと同じ意味の言葉を口にした。そうしている間に、なにか流れのようなもの(感じの上では空気に似ていた)が、ほんとうの飲み物よりももっとはっきり感覚できるようなふうに私の口と心とのなかへ流れこんできて、それが、私の判断ではだいたい五分か、もう少し続いたが、これが私の心臓があのように激しく動悸を打った原因だったように思われた。それは私の魂に完全に取りついてしまった。そしてその真最中にも、確かに私は主に、もうこれ以上の幸福は与えて下さらないように、と切願した。私が受け取ったものを心に入れておくことが私にはできないように思われたからであった。私の心臓は破裂するのではないかと思われたが、私が言葉では言いあらわせないほど神の愛と恩寵とに満たされたかのように感じるまで、打ちつづけた。(岩波文庫版『宗教的経験の諸相』上巻p290-291)

 これはジェイムズが、スティーヴン・H・ブラドリーという平凡な男性の手記から引いたものですが、この時ブラドリー氏は、比較的冷静な意識のもとで「なにか流れのようなもの(感じの上では空気に似ていた)が、ほんとうの飲み物よりももっとはっきり感覚できるようなふうに私の口と心とのなかへ流れこんで」くるのを感じ、そして「言葉では言いあらわせないほど神の愛と恩寵とに満たされたかのように感じる」状態になり、そして上には引用していませんが少し後では、「私の魂が聖霊で一杯になってしまったように感じ」たのです。
 これこそが、「神充(エントゥシアスモス)」の体験と言えるものであり、エマーソンの言う個人と大霊との関係も、まさにこういった形をとっているわけです。

 一方、賢治自身が経験した「神人合一」、すなわち普遍的な存在と自己の一体化の体験がどういうものだったかというと、これまでも何度かご紹介しているように、それは例えば「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態」の、次の箇所に典型的に表れています。

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ここにおいて賢治は、自分を取り巻く種山ヶ原の自然と一体化して溶け合ってしまいますが、自らの自我(わたくし)も自らの外に出て拡散するとともに、またその「わたくし」の中にも種山ヶ原の「水や風やそれらの核の一部分」が流入してきているわけですから、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」が同時に起こっていると言えるでしょう。
 また1925年9月21日付けの、宮澤清六あて書簡の次の一節も、ほぼ同じような心境を表しています。さらにここでは、「銀河系全体」が「ひとりのじぶん」と感じられています。

もし風や光のなかに自分を忘れ世界がじぶんの庭になり、あるひは惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるときはたのしいことではありませんか。

 一方、エマーソンやウィリアム・ジェイムズの例のように、専ら「神充(エントゥシアスモス)」が生起している状況としては、賢治の場合には次のような例が当てはまるかもしれません。

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗(らしゃ)や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。(『注文の多い料理店』序)

 ここでは、「虹や月あかり」に潜む自然の神秘が、賢治の中に流入してきています。賢治は、「きれいにすきとほった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の光をのむことができ」て、それらを「きれいなたべもの」と呼んでいますが、これはまさに上記のブラドリー氏が、「ほんとうの飲み物よりももっとはっきり感覚できるようなふうに私の口と心とのなかへ流れこんでき」たと述べたものに、相当しています。
 すなわち、賢治のこの営為も、「神充(エントゥシアスモス)」の一種と言えるものでしょう。

 「脱自(エクスタシス)」であろうと「神充(エントゥシアスモス)」であろうと、このような解離的現象に常日頃から親しんでいる賢治だったからこそ、エマーソンが描いた大霊と個人の一体性という感覚には、直観的に共感するところが大きかったのだろうと、私は想像します。

(3) 予言者であり設計者であること

 以前に私は、「予言者、設計者スールダッタ」という記事において、賢治の「竜と詩人」という短篇の次の箇所について考えてみました。

風がうたひ雲が応じ波がならすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ
星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する
あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる予言者、設計者スールダッタ

 「詩賦の競ひの会」で栄誉を受け、竜に祝福された詩人スールダッタは、星や陸地が未来において「さういふ形をとらうと覚悟する」様子を予め謳うところから「予言者」であり、また「まことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる」ところから「設計者」だというわけです。しかし、私が以前の記事で疑問に思ったのは、本来は「予言者」であることと「設計者」であることとは、論理的に両立しえないのではないか、ということでした。
 なぜなら、ある人が「予言者」であるためには、予言された出来事を自分で意図的に起こしてはならないはずであるのに、他方で「設計者」であるためには、その出来事を自らの意志で実現しなければならないからです。

 たとえばある人が、「明日火事が起こる」と予言して、翌日に実際火事が起こればその言葉は正しかったことになりますが、もしもその火事がこの人によって計画的に仕組まれたものだったら、彼は火事の「設計者」ではあったかもしれないが、「予言者」としては偽者です。逆に、その人の全く関与しないところで起こった火事を言い当てたのなら、彼は「予言者」ではありますが、火事の「設計者」ではありません。
 それではいったい、どのような状況であれば、ある人が予言者であり同時に設計者であるということが可能になるのでしょうか。

 その状況とは、その人がある面では世界の中に単なる一部分として「包含」され、その動きを操ることはできないがそれを見て知ることはできる「予言者」として存在し、また同時にある面では世界全体(あるいは神)と「合一」し、その意志を世界(あるいは神)の意志と同一化することによって、世界を動かす「設計者」として存在する、というような場合です。
 そして、エマーソンの「大霊論」には、まさにこれと同じような、「部分」と「全体」のパラドキシカルな関係が書かれているところがあります。

 それは、上に神(大霊)と人間の「交会」=「神充(エントゥシアスモス)」の説明として引用したp.467の部分に続く、次の箇所です。

斯の如く神の心と交会するに当りてや、見る力は働く意志と分離する事なく、内観は服従より来り、服従は楽しき認知より来る。個人がこの霊の侵入を感ずるその瞬時は則ち忘るべからざる大事の時なり。(p.467)

 ここにある、「見る力は働く意志と分離することなく」という一節がそれで、この「見る力」によって人は神の心を知ることができ、それによって「予言者」たりうる一方、「働く意志」とはこの世をあるべき姿に形づくる神の意志であり、その神と合一した人は、神とともに世界の「設計者」たりうる、ということになります。一人の人間が大霊と一体である時、上の二つの力は分離することなく一つであり、「予言者でありかつ設計者である」という、通常はありえないような状態が実現されるのです。

 このように、賢治が「竜と詩人」において、詩人の営みを「予言者、設計者」と表現した独特の視点は、エマーソンの「大霊論」にも通じるものです。私としては、賢治の「予言者、設計者」という言葉が、エマーソンから直接影響されたものとまでは思いませんが、おそらく若い頃から普遍的存在との合一を体感することがあった賢治にとって、同様の感覚に溢れたエマーソンの思想は、いつしか自らの血肉となり、こういう形で表出されたのではないかと思います。

(4) 解離的心性と無媒介な合一

 以上見てきたように、賢治の思想はその根幹の部分で、エマーソンの思想と通じ合うところが大きいのですが、大沢正善氏は、エマーソンの思想が孕んでいた限界が、賢治の限界ともなってしまった面があるのではないかと考えておられるようで、「宮沢賢治と『エマーソン論文集』」の結び近くでは次のように述べておられます。

 「農民芸術概論綱要」はまた、労働と人生と芸術の融合を説きながら、楽天的理想性と方法論の欠如が指摘されている。それは、エマソンの「天与の精神」たる自恃に支えられているかぎり、むしろ当然のことである。二十六例もの「われら」という言葉には賢治と他者との短絡的な自己同定がうかがわれ、「わたし」の希願は「みんな」の希願であり「われら」の希願であり、「われら」の個々人に有効な方法論の検討は無用ですらある。「われら」の即ち「わたし」の希願を鼓舞すればよいのである。このことは「序」にも「すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの」としてみられたことであり、「この大自然はかの統一若くは大霊にして、その内に人々個々の存在は抱有せられ、個々の人は甲乙共に合一するなり。」(「大霊論」)という考え方が積極的に展開されたものである。
 それは確かに自己と他者の合一の短絡的思考であるが、「心象スケッチ」思想におけるひたすら超越的存在との契合を志向するのと違って、それを前提としながら地上の他者に向って開かれている。そこに「農民芸術概論綱要」の開かれた思想としての意味があり、羅須地人協会の実践活動ともかかわってくる。

 重要な部分ですので引用が長くなり恐縮ですが、この大沢氏の指摘は、確かにそのとおりだと私も思います。賢治の言う「われら」や「みんな」は、自らの思いを一挙に世界へと拡大したもので、まさに「他者との短絡的な自己同定」ですし、「心象スケッチ」においては、彼は「ひたすら超越的存在との契合を志向」しています。

 ただしかし、賢治が他者と容易に一体化してしまい、また超越的存在とも契合してしまうのは、彼の「思想」が育まれる以前に、それこそ賢治がこの世に生まれて以来持っていた「感覚」としか言いようのないものだろうと、私は思うのです。他人の痛みも直接に自分の痛みとして体感し、あるいはふと気がつくと「惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと」感じている人間にとっては、これらの体験は理屈ではなく、勝手に向こうからやってくるもので、それこそ「天与の精神」なのです。
 こういう感覚への親和性、それは精神医学的に言えば「解離的な傾向の高さ」ということだろうと私は思うのですが、なぜか賢治は生まれながらそういう傾向を強く持っていた人であり、おそらくエマーソンもそうだったのでしょう。

 短絡的に、無媒介的に、人々と一体になったり世界や神と合一してしまったりする賢治にとっては、それは「もうどうしてもこんな気がしてしかたない」「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」ことなのですから、それは私たちとしても、そう受けとめておくしかありません。そして、それが思想として世の中の役に立つのかどうか、ちょっと方法論が不十分ではないか、などと問われても、賢治としては、「これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません」と、答えるしかないのでしょう。

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2019年1月20日 映画『愁いの王 -宮澤賢治- 』上映会

 吉田重滿さんが監督・制作された劇映画『愁いの王 -宮澤賢治- 』の、「世界初の一般公開」が、来たる3月9日(土)に、盛岡劇場メインホールにて行われます。

『愁いの王 -宮澤賢治- 』

 この『愁いの王 -宮澤賢治- 』は、吉田重滿さんが企画・構想から40年の歳月をかけて完成された映画で、第一部「業の花びら」と第二部「装景者」を合わせて、上映時間は3時間18分に及びます。
 その制作手法については、公式サイト上映のお知らせのページにて、次のように解説されています。

 賢治の宇宙観・死生観を描き出すために、表現技法にも独特の工夫を凝らし、オフスクリーン手法による全カット固定ショットのモノクローム映像、モンタージュの駆使等、芸術性の高い映像を作り出している。また、出演者は非俳優の一般人で、芝居めいた演技を排し、感情を込めない、登場人物になり切らない等、画期的な試みがなされている。

 私は、吉田重滿さんのご厚意で、この映画をDVDにしたものを一昨年12月にお送りいただいて拝見したのですが、全編に非常に深い精神性が湛えられ、まさに「重厚の極み」とも言うべき作品になっています。音楽は、すべてJ.S.バッハの作品が用いられていますが、これもまたこの映画の性質を象徴しています。
 上にも引用した上映のお知らせのページには、吉田重滿さんご自身が、昨年5月に岩手大学宮澤賢治センター定例研究会で講演された内容が掲載されていて、ここにこの映画の「企画」と「構想」が、まとめて述べられています。私としては、この映画の第二部が「装景者」と題され、吉田さんご自身も、「こういう事をいっては何ですが、私自身も映画を撮ることは、ある意味、装景するつもりで撮っています」と言っておられるところに、この映画の基本的スタンスが示されているように思います。

 ところで、今度の上映会が開かれる「盛岡劇場」は、その昔1913年に東北地方初の近代的演劇専用劇場として開館したもので、賢治自身も一時は足繁く通い、ここでチャップリンの映画や少女歌劇を見たと言われています(Wikipedia「盛岡劇場」より)。
 現在の盛岡劇場は、いったん昔の建物が取り壊された後、1990年に新築されて再オープンしたものですが、その場所は賢治の当時と同じで、この映画を「世界初の一般公開」するには、まさにふさわしい場所だと思います。

 映画の予告編は、公式サイトから3種類を見ることができます。下にはその1分半のものを貼っておきますので、まずはとにかく一度、ご覧になってみて下さい。現代にあふれる商業的な映画とは、手法の点でも全く一線を画するものですが、賢治の精神性や宗教的側面に関心のある方には、お薦めさせていただきます。

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2018年12月30日 「岩頸体験」の形式と内容

1.賢治の「岩頸」意識に関する鈴木健司氏の指摘

 鈴木健司さんの著書『宮沢賢治文学における地学的想像力』では、賢治の様々な作品が、地質学や鉱物学の視点から読み解かれていきますが、その全篇を貫いているのは、「地学的想像力」という鈴木さん独自のキーワードです。副題の「〈心象〉と〈現実〉の谷をわたる」という言葉が示してくれているように、賢治の作品においては、私たちがふだん親しんでいる〈現実〉と、テキストに記された彼の〈心象〉との間に、深い「谷」が横たわっているように見えることがしばしばありますが、その両岸を架橋してくれる要素の一つとして鈴木さんが想定しておられるのが、賢治のこの「地学的想像力」です。

宮沢賢治文学における地学的想像力―〈心象〉と〈現実〉の谷をわたる 宮沢賢治文学における地学的想像力―〈心象〉と〈現実〉の谷をわたる
鈴木 健司

蒼丘書林 (2011/06)

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 この本の第7章は、「「岩頸」意識について 〈現実〉と〈心象〉」と題され、賢治が若い頃からずっと不思議なこだわりを示していた「岩頸」という火山の一型について検討を行うのですが、この章の副題が全体の副題に共通する「〈現実〉と〈心象〉」となっていることや、本の表紙には南昌山や毒ヶ森など賢治の言う「岩頸列」の写真が用いられていることに表れているように、 これは本書全体のテーマを凝縮した章とも言えるでしょう。

 本日は、鈴木さんの言われるところの賢治の「岩頸」意識、あるいはこれは賢治の「岩頸体験」と言いかえてもいいように私は思いますが、これについて考えてみたいと思います。
 そこでまず、そもそも「岩頸」とは何であるのか、賢治の童話「楢ノ木大学士の野宿」における、大学士自身の「講義」を聴いてみましょう。

「諸君、手っ取り早く云ふならば、岩頸といふのは、地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒である。その頸がすなわち一つの山である。えゝ。一つの山である。ふん。どうしてそんな変なものができるかといふなら、そいつは蓋し簡単だ。えゝ、こゝに一つの火山がある。熔岩を流す。その熔岩は地殻の深いところから太い棒になってのぼって来る。火山がだんだん衰へて、その腹の中まで冷えてしまふ。熔岩の棒もかたまってしまふ。それから火山は永い間に空気や水のために、だんだん崩れる。たうたう削られてへらされて、しまひには上の方がすっかり無くなって、前のかたまった熔岩の棒だけが、やっと残るといふあんばいだ。この棒は大抵頸だけを出して、一つの山になってゐる。それが岩頸だ。〔後略〕」

 下の写真はWikipediaより、世界各地に見られる典型的な岩頸で、左から伊豆諸島の孀婦岩、アリゾナ州のアガスラピーク、オレゴン州のスタインズピラーです。

世界の岩頸

 右端のスタインズピラーなどは、まさに「太い岩石の棒」ですね。賢治が言及している南昌山などは、ここまで極端な形ではありませんが、それでもこんもりと盛り上がった姿は、どこかユーモラスで印象的です。

 さて賢治は、大学士が述べるような地質学の知識を持って、故郷岩手県の山野を歩きまわったわけですが、その過程において、岩頸と推定される様々な山に出会いました。
 鈴木健司さんが注目するのは、その際に賢治は「岩頸」という存在に対して、何か独特の意識を抱いているようで、その「出会い」の場面では、しばしば不思議な体験が描写されるのです。

 鈴木さんがまず取り上げる作品は、「歌稿〔B〕」240の、次の短歌です。

毒ヶ森
南昌山の一つらは
ふとおどりたちてわがぬかに来る。

 鈴木さんは、毒ヶ森や南昌山など賢治が「岩頸」と考えていた山々が、彼に対して「突然踊り立ち、伸びるようにして、遠く離れた自分の額に向かってくる」という様相を呈することL.キャロル『不思議の国のアリス』よりに注目し、これを「〈伸びるもの〉としての「岩頸」」ととらえます。そしてこの描写について、「実際に賢治の目にはそのように見えたのだ、と判断することがもっとも自然である」とし、これを外界の物体が大きく見えたり(=大視)小さく見えたり(=小視)する「不思議の国のアリス症候群」として紹介した、精神科医福島章氏の著書『不思議の国の宮沢賢治』にも触れています。ちなみに「不思議の国のアリス症候群」とは、このL.キャロルの寓話において、アリスが外界や自分の身体の様々な変容感を体験する(右図)ことから取られており、これは実際に一部の精神疾患において体験される症状です。

 この次に鈴木さんが取り上げる作品は、上にも引用した童話「楢ノ木大学士の野宿」です。ここでは岩頸の四兄弟の末っ子が、大学士の額を「べろりと嘗め」るという行為に出ます。

するとラクシャン第四子が
ずるさうに一寸笑ってかう云った。
「そんなら僕一つおどかしてやらう。」
兄のラクシャン第三子が
「よせよせいたづらするなよ」
と止めたが
いたづらの弟はそれを聞かずに
光る大きな長い舌を出して
大学士の額をべろりと嘗めた。
大学士はひどくびっくりして
それでも笑ひながら眼をさまし
寒さにがたっと顫へたのだ。
いつか空がすっかり晴れて
まるで一面星が瞬き
まっ黒な四つの岩頸が
たゞしくもとの形になり
じっとならんで立ってゐた。

 ここでは岩頸は、伸びてきてこちらの額に近づくだけでなく、それを「なめる」という直接的接触にまで至っているわけですが、やはりこれも短歌240における「伸びる・接近する」という方向性の延長上にある体験として、理解することができます。

 さらに鈴木さんは、文語詩「岩頸列」を取り上げます。

   岩頸列

西は箱ヶとドグヶ森、     椀コ、南昌、東根の、
古き岩頸ネックの一列に、     氷霧あえかのまひるかな。

からくみやこにたどりける、 芝雀は旅をものがたり、
「その小屋掛けのうしろには、寒げなる山にょきにょきと、
立ちし」とばかり口つぐみ、 とみにわらひにまぎらして、
渋茶をしげにのみしてふ、  そのことまことうべなれや。

山よほのぼのひらめきて、  わびしき雲をふりはらへ、
その雪尾根をかゞやかし、  野面のうれひを燃しおほせ。

 ここでも、岩頸たちは「にょきにょきと、立ちし」という様子を示していて、鈴木さんはこれもやはり「楢ノ木大学士の野宿」において岩頸が、「だんだん地面からせり上がって来た」あるいは「丁度胸までせり出した」と描写されていたのと同様の表現と、とらえておられます。そして、岩頸のこのような異様な挙動は、何か背後にある〈禍々しき事〉を暗示しているのではないかとも、推測しておられます。

 さらに続いて鈴木さんは、「初期短篇綴」の中の「沼森」を取り上げます。

 沼森がすぐ前に立ってゐる。やっぱりこれも岩頸だ。どうせ石英安山岩、いやに響くなこいつめは。いやにカンカン云ひやがる。とにかくこれは石ヶ森とは血統が非常に近いものなのだ。
 それはいゝがさ沼森めなぜ一体坊主なんぞになったのだ。えいぞっとする 気味の悪いやつだ。この草はな、この草はな、こぬかぐさ。風に吹かれて穂を出して烟って実に憐れに見えるぢゃないか。
 なぜさうこっちをにらむのだ、うしろから。
 何も悪いことしないぢゃないか。まだにらむのか、勝手にしろ。
柏はざらざら雲の波、早くも黄びかりうすあかり、その丘のいかりはわれも知りたれどさあらぬさまに草むしり行く、もう夕方だ、はて、この沼はまさか地図にもある筈だ。もしなかったら大へんぞ。全く別の世界だぞ、

 ここでは、賢治が岩頸と考える「沼森」という小山が扱われていますが、賢治はこの丘に対して、「えいぞっとする 気味の悪いやつだ」とか、「なぜさうこっちをにらむのだ、うしろから」という不快な感情を向けるとともに、「その丘のいかりはわれも知りたれど…」という自らの短歌(「歌稿〔A〕」337)を引用し、丘の側でも「いかり」を抱いていると感じています。

 そして最後に鈴木さんは、『春と修羅』の詩「風景とオルゴール」を取り上げます。下記に、その後半部分を引用します。

なんといふこのなつかしさの湧あがり
水はおとなしい膠朧体だし
わたくしはこんな過透明くわとうめいな景色のなかに
松倉山や五間森ごけんもり荒つぽい石英安山岩デサイトの岩頸から
放たれた剽悍な刺客に
暗殺されてもいいのです
  (たしかにわたくしがその木をきつたのだから)
   (杉のいただきは黒くそらの椀を刺し)
風が口笛をはんぶんちぎつて持つてくれば
  (気の毒な二重感覚の機関)
わたくしは古い印度の青草をみる
崖にぶつつかるそのへんの水は
葱のやうに横にれてゐる
そんなに風はうまく吹き
半月の表面はきれいに吹きはらはれた
だからわたくしの洋傘は
しばらくぱたぱた言つてから
ぬれた橋板に倒れたのだ
松倉山松倉山尖つてまつ暗な悪魔蒼鉛の空に立ち
電燈はよほど熟してゐる
風がもうこれつきり吹けば
まさしく吹いて来るカルパのはじめの風
ひときれそらにうかぶ暁のモテイーフ
電線と恐ろしい玉髄キヤルセドニの雲のきれ
そこから見当のつかない大きな青い星がうかぶ
   (何べんの恋の償ひだ)
そんな恐ろしいがまいろの雲と
わたくしの上着はひるがへり
   (オルゴールをかけろかけろ)
月はいきなり二つになり
盲ひた黒い暈をつくつて光面を過ぎる雲の一群
   (しづまれしづまれ五間森
    木をきられてもしづまるのだ)

 ここで賢治は、松倉山と五間森を岩頸と呼び、そこから「放たれた剽悍な刺客に/暗殺されてもいいのです」と言っています。先の沼森は、「いかり」を向けるだけでしたが、賢治はこちらの岩頸からは、「殺意」まで感じているようで、いずれにせよ彼は岩頸というものに対して、何かとにかく不吉な感覚を抱いていたように思えます。

 以上、鈴木健司さんは、「岩頸」が登場するこれらの作品を検討して、賢治にとっての「岩頸」とは、〈伸びる〉もの、〈いかり〉を持つもの、というイメージをまとって現れてくる存在であることを明らかにし、時にこのようなイメージが先行してしまうと、実際には岩頸ではない山のことまで岩頸と書いたり、岩石の種類を異なって書いたりするという〈テキストの揺れ〉が起こっている場合もあると指摘しています。思わず感情が先走ってしまうようなのです。

2.「岩頸体験」に関する精神医学的検討

 以上は、鈴木健司さんが『宮沢賢治文学における地学的想像力』の第7章「「岩頸」意識について 〈現実〉と〈心象〉」の内容を、私が勝手に要約したものでした。
 次いでここからは、このような賢治の「岩頸」に対する特別な体験の形式や内容について、私なりに少し精神医学的に考えてみたいと思います。

(1) 「岩頸体験」の形式――解離症状としての「近接化」
 精神科医で、特に「解離」という病理の専門家である柴山雅俊氏は、著書『解離の構造』において、「近接化」という解離症状について記載しています。

解離の構造―私の変容と〈むすび〉の治療論 解離の構造―私の変容と〈むすび〉の治療論
柴山 雅俊

岩崎学術出版社 (2010/10/5)

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 この本の第2章で、柴山氏は解離性意識変容を頻回に呈する女性の症例を挙げていますが、彼女は次のような体験を述べています。

 「ものが目の中に飛び込んで来る体験は高校生から大学生にかけてあった。手がばーっと飛び込んできて恐ろしい怪物みたい。ものが迫ってくる。うしろに目がついているようで……。誰かがうしろにいるようで恐い。人の気配がする。」

 そして柴山氏は、解離性意識変容における主観的体験を、対象が自分から遠ざかっていく方向性の「遠隔化」と、上記のように近くに迫ってくる方向性の「近接化」とに分類し、後者について次のように整理しています。

近接化
 近接化は普段注意をあまり向けることのない意識の周辺に位置している外界の知覚、表象(記憶表象を含む)、体感などが過剰なイメージや実感を伴って主体に迫ってくる体験である。対象性をもつものがすべて自分を圧倒するものとして迫ってくるため、不安、恐怖、緊張、困惑を強く感じる。周囲の物が自分に向かって圧迫してくるとか、壁が自分に迫って来て部屋が小さくなったと感じることもある。また物が大きく見える大視症(macropsia)、物が近くに見える近接視(pelopsia)、床や壁が盛り上がったりするなど物体が歪んだり、変形して見える変形視(metamorphopsia)もある。

 すなわち、先に触れた「不思議の国のアリス症候群」も、解離症状の一種であるこの「近接化」やその逆の「遠隔化」と考えることができるわけです。
 たとえば、『春と修羅』冒頭の「屈折率」で、「七つ森のこつちのひとつが/水の中よりもつと明るく/そしてたいへん巨きいのに……」と賢治に見えているところも、この意味で「近接化」と言うことができるでしょうし、「岩頸体験」において、岩頸が「ふとおどりたちてわがぬかに来る」という切迫感や、「光る大きな長い舌を出して/大学士の額をべろりと嘗めた」という直接的接触は、やはりこの「近接化」の一種と考えられます。
 「沼森」では、「なぜさうこっちをにらむのだ、うしろから」と賢治は書いていますが、これは柴山氏の挙げている症例が、「誰かがうしろにいるようで恐い。人の気配がする」と述べている事態と似ています。
 また、「風景とオルゴール」において、賢治が松倉山や五間森を眺めると「水はおとなしい膠朧体だし/わたくしはこんな過透明な景色のなかに…」と見えているところは、「屈折率」の情景描写ととても似通っており、ここでもこれらの山々が彼には「近接化」して見えている可能性が想定されます。そして、自分が岩頸から放たれた刺客に暗殺されるのではないかという思いを述べているところは、柴山氏が「近接化」には「不安、恐怖、緊張、困惑」が伴うとしていることに相当するでしょう。

 賢治が作品に記している様々な不思議な体験が、「解離」という精神現象の表れとして理解できるということは、本年夏の賢治学会夏季セミナーでもお話ししたことですが(「「おかしな感じやう」の心理学」参照)、この「岩頸体験」も、やはりその一種と言えるでしょう。
 すなわち、賢治が「岩頸」に接した時、それらが伸びてこちらに迫ってくるように見えたり、こちらに対して何かの侵襲を与えてくるような不安や恐怖を感じたりしているのは、解離症状としての「近接化」という現象に相当するわけです。
 夏季セミナーでは、様々な解離症状の表れ方を、「自我境界の変容」という観点から図式化してご説明しましたが、この「近接化」を同じように模式化するならば、下図のようなものを考えることができます。

「近接化」

 上図で「自我境界」は、自我を取り囲む赤い線の部分ですが、ここで自我と外界を区分している境界の一部が稀薄化していることを、点線で表しています。ほんらい自我境界は、細胞を包んでいる細胞膜のように、自我の周囲(外的環境や内部の無意識)から意識の領域へと入ってくる様々な刺激を取捨選択して統制することにより、自我を安定して保つ役割を果たしていると想定されるわけですが、上の場合は自我境界の一部分が薄くなり機能不全に陥ってしまっていることによって、この部分からは外界の刺激が自我の内部に過剰に流入してしまうので、その知覚の強度は増大し、自分の方に向けて迫ってくるという感覚を生むことになるのです。

 以上のように考えれば、賢治が岩頸を題材とした作品に書いているような異様な出来事が、単なる誇張や創作ではなくて、実際に人間の体験としてありうるのだということはわかりますし、その体験の「形式」をとりあえず理解することはできます。
 ただ、それでは「なぜ賢治が他ならぬ岩頸に対して、このような特異な感覚を持ったのか」という問題、すなわちこの体験の「意味」あるいは「内容」については、これだけでは何とも言えません。
 これを明らかにしようとするならば、岩頸体験の意味内容の「解釈」が必要になってきます。

(2) 「岩頸体験」の内容――それは何を象徴しているのか
 一般に人間の心には、ふと脈絡のない考えが浮かんだり、理由はわからないけれども何となく気になっていたり、思いがけず夢に見たりするなどの形で、自分がふだん明確に意識している事柄とは一見無関係な内容が、出現することがあります。20世紀前半にフロイトは、こういった現象の背後には、人間が知らずに抱え持っている「無意識」の領域があり、その無意識の中で繰り広げられる力動に従って、内容の一部が象徴化されて「意識」の中へと顔を出すのだと考えました。そしてフロイトは、無意識の中でとくに強く働いている力として、自我によって平素は抑圧されている性的な衝動を重視しました。
 「精神分析」として定式化されるこのフロイトの理論には、当初から賛否両論がありましたが、少なくとも一部の精神疾患の症状形成を理解し治療する助けにはなり、また人間一般の心理を説明する上でもかなりの威力を発揮しましたから、当時から現在に至るまで、一定の影響力を持ち続けているのは事実です。

 ただ、性的な欲動を根本に据えたフロイトの精神分析的な解釈が、それなりに成功を収めた理由は、彼が活躍した19世紀後半から20世紀初頭にかけて、当時のイギリス女王の名前から「ヴィクトリア朝期」と称される時代の西欧では、「性」に対する社会的抑圧が非常に強く働いていたために、人間の持つ性的な欲動が、無意識の領域に押し込められてしまう傾向が、他の時代よりも特に大きかったからではないかと、私は考えています。このため、抑圧された性的衝動が、ヒステリーなどの形で自我に対する反乱を企てるという症例が、当時は実際に多く見られたわけですが、その後は時代の変化によって性は「解放」されていき、当時のような典型的なヒステリーの症例は、徐々に減少していきます。それとともに、性以外にも人間を動かす様々な欲動も注目されるようになり、無意識に対するフロイト的な性欲一辺倒の解釈は、一時ほどの勢いは失っていくのです。
 私自身にとっても、精神現象のフロイト流の性欲論的な解釈というのは、古典として一応は学んでおくべきものではあっても、実際の臨床で用いることはほとんどないものなのですが、ただこの賢治の「岩頸体験」に関しては、フロイト的な解釈を、どうしても適用してみたくなる気持ちがあります。

 それは一つには、賢治という人が実際に性欲を人一倍抑制しながら生きたことは確かで、そこからフロイト的な派生効果が起こっても不思議はないと思われるからであり、もう一つには、賢治が「太い岩石の棒」と描写し、鈴木健司さんがその特徴を〈伸びる〉もの、〈いかる〉ものとして提示する「岩頸」という存在が、あまりにもフロイト的な象徴となっているからです。
 すなわち、「伸びて侵襲的に迫ってくる太い棒」とは、〈勃起する男根〉をいかにもイメージさせるものと言わざるをえません。

 賢治は、宗教的あるいはその他の理由によって、性的な禁欲を己に課していたと思われるわけですが、それでも生物として男性である彼の内部には、性的な衝動が働いていたと考えるのが自然ですし、現実にそのような煩悶をうかがわせる作品も種々あります。
 自分の内側から突き上げてくる衝動を無意識の領域へと抑圧しつづけている場合に、いつしかその衝動がトポロジー的に反転して、まるで自分の外部から襲ってくるような形で姿を現すということは、精神の力動としてはしばしばあることです。(たとえば「青森挽歌」の後半で、《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》などという「魔」の声が、まるで外部からのように賢治に聞こえてくる箇所がありますが、これは元を質せば、トシの臨終時の様子から彼女は天界に往生できなかったのではないかという疑念が賢治の心の底に湧き起こったものの、彼はそのような忌まわしい考えは奥深く抑圧しようとしてきたために、逆に外部から出現することになったのだと思われます。)

 すなわち、賢治は自らの性的な欲動をあまりにも強く抑圧してきたために、その葛藤を心の中で感じるのみならず、そそり立つ岩頸に思わず〈男根〉のイメージを投影してしまう形で、外部から迫り来る衝動として体験することがあったのではないかと、私は考えてみるのです。そしてその際に、その体験の形式としては、解離症状の一種である「近接化」という機制が働いていたのだろうと、想定するわけです。

 賢治の「岩頸体験」に、とりわけそのような性的な葛藤が内在しているのではないかと感じさせてくれる作品は、「風景とオルゴール」です。
 『春と修羅』所収の作品を創作していた頃の賢治の実生活を、その内容から推測してみると、前半には「恋と病熱」や「春光呪詛」や「竹と楢」などの作品に見られるように、彼は何らかの恋愛感情に悩んでいたのではないかと思われます。しかし、その最後の章である「風景とオルゴール」の諸作品に至ると、彼はついに人間に対する恋愛感情を、超克していったかのように見えます。「宗教風の恋」では、彼はまだそのような感情に悩みながらも何とかして昇華しようと努めていますが、「一本木野」に至ると、野原を歩く恩恵を恋人との逢瀬とも取り替えると彼は言い、「わたくしは森やのはらのこひびと」と宣言するのです。伝記的事項を参照しても、この後の賢治はもう『春と修羅』前半のような恋愛的煩悶に苦しむことはなく、敢然として禁欲的人生を歩んでいったと思われます。
 つまり、「風景とオルゴール」の章は、彼にとっては性欲を「乗り越えてしまう」という意味では、まさに鍵となる時期に対応していると思われるのです。

 さらにその際の重要なポイントとなるのが、「風景とオルゴール」だと私は思うのですが、この作品における、(たしかにわたくしがその木をきつたのだから)という箇所や、(しづまれしづまれ五間森/木をきられてもしづまるのだ)という記述を見ると、賢治はこの日に五間森において「木を伐る」という行動をしたと推測されます。そしてこの「木を伐る」という行為は、これもフロイト的に見れば、〈去勢する〉ということの象徴的な隠喩と考えることができます。
 すなわち、賢治はこの日、彼が「岩頸的」と見なす、すなわち男性的な性衝動を表すと考える五間森に登って、そこにある〈男根の象徴〉を伐り倒すという行動に出たわけです。もちろん現実には、彼のこの行為には実際的な目的があったのかもしれませんが、フロイト派ならばその背後に象徴的な意味を読みとるところです。
 そしてその結果として、彼はやはり「岩頸的」な存在である松倉山や五間森によって、自分が報復的に抹殺されてしまうのではないかという恐怖にとらわれることになるのです。
 つまり、この「風景とオルゴール」という作品の深奥では、自らの内なる性的衝動の抑圧や廃絶を行おうとする彼の自我と、それに反抗して逆に自我を脅かそうとする性的衝動とが、互いに争っていると考えることができるのです。

 この抗争の決着は、作品内ではまだついていませんが、翌月の「過去情炎」においては、彼の「情炎」はすでに「水いろの過去」となっており、また上記のように「一本木野」では、人間ではなく野原こそが彼の恋人になるのです。
 この後の賢治にも、「岩頸」が登場する作品はやはりいくつかあるのですが、そこではもう岩頸は、伸びて迫ってきたり、〈いかり〉を湛えていたりするものではなくなります。『春と修羅 第二集』の「郊外(下書稿(二)」では、「江釣子森の岩頸ばかり黒々として沈んでしまふ」という風に〈萎えて〉いたり、「詩ノート」の「〔芽をだしたために〕」では、松倉山のことを「これを岩頸だなんて誰が云ふのか」と言って、以前の自分の考えを否定するようなことも述べるのです。

 以上、賢治の作品にフロイト的な解釈を適用することには、平素は私としても何となく躊躇する気持ちもあるのですが、下のように彼自身もこのような考え方をすることもあったということですから、まあ時には許されるかとも思う次第です。
 下記は、森荘已池『宮沢賢治の肖像』より、「「春谷仰臥」の書かれた日」の一節です。

 ――春になって、蛙は冬眠から覚め、蛙のいる穴へ、ステッキをつきさせば、穴から冷めたい空気が出る、ほの暖かい桃いろの春の空気に……
 私が、そのような詩を、その春に作ったことを宮沢さんに話した。すると、宮沢さんは、にわかに活発な口調になって、
 ≪あ、それはいい、よい詩です……≫
と、言った。ほめられたのだなと喜ぶと、つづけて言った。
 ≪実にいい。それは性欲ですよ。はっきり表われた性欲ですナ≫
 私は、詩をほめられたのではなかった。
 ≪フロイド学派の精神分析の、好材料になるような詩です……≫
 その話をくわしくしてくれた。突き出たものは男性で、へこんだものは女性、などということを、こまやかに話した。フロイドの翻訳の本が出たか出ないかのころであった。英語も独逸語も読めるのだから、原書で読んだのだったろう。

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2018年12月23日 千原英喜の合唱組曲「雨ニモマケズ」演奏会

 兵庫県三田市の「女声合唱団Stella」から、演奏会の案内をいただきましたので、ご紹介させていただきます。
 来たる1月4日(金)の午後に、三田市総合文化センターにおいて、同合唱団の第7回定期演奏会「Happy New Year Concert」を開催されるのですが、その中で千原英喜作曲の「女声合唱とピアノのための組曲「雨ニモマケズ」」が、取り上げられます。
 全体のプログラムは、次のようになっています。

I シューベルトの合唱曲
   野ばら、子守歌、菩提樹、詩篇23

II 女声合唱のための「トンカ・ジョン」より
   2.泣きにしは、3.爪紅の花、5.なつめ、6.夕焼けとんぼ
   7.月夜の家、8.二重虹、9.言葉
      詩:北原白秋 曲:寺嶋陸也 構成:しままなぶ

III 混声合唱のステージ 信長貴富作品
   「こころようたえ」 詩:一倉宏、「夕焼け」 詩:高田敏子
   「楽譜を開けば野原に風が吹く」 詩:和合亮一

IV 女声合唱とピアノのための組曲「雨ニモマケズ」より
   I.告別(1)、II 告別(2)、IV 雨ニモマケズ
      詩・宮沢賢治 曲:千原英喜

日時: 2019年1月4日(金) 14:30開場 15:00開演
場所: 三田市総合文化センター 郷の音ホール 小ホール
入場料: 1000円

 チケットをご希望の方は、「女声合唱団Stella」のWebサイトに、申し込み用のフォームがあります。

女声合唱団Stella第7回定期演奏会(表)

女声合唱団Stella第7回定期演奏会(裏)

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2018年12月 9日 「農民芸術概論綱要」墓碑

 「石碑の部屋」に、「農民芸術概論綱要」墓碑をアップしました。

「農民芸術概論綱要」墓碑

『新訂/全国編 宮沢賢治の碑』 私が、「石碑の部屋」に掲載している全国各地の賢治関連文学碑を巡るにあたって、ページがすり切れるほどにお世話になってきたのが、吉田精美編著『新訂/全国編 宮沢賢治の碑』という本(右写真)でした。
 賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉を刻んだ上の碑は、その吉田精美さんの墓碑です。全国にある賢治の碑を綿密に調査して、素晴らしい写真によってたくさんの人に伝えて下さった吉田さんに、まさにふさわしいモニュメントだと思います。

 ところで、上の吉田さんの著書の表紙になっている平塚市の「農民芸術概論綱要」碑と、この吉田さんの墓碑とは、円い形が共通している上に、同じ碑文でテキストの改行の位置も全く同じなんですね。
 吉田さんがご自身の墓碑を考えるにあたって、この平塚市の碑を意識されたのかどうかはわかりませんが、少なくともこの「農民芸術概論綱要」の一節は、吉田さんにとってとりわけ大切な賢治の言葉だったのだろうと思います。

 私は今年のお盆に、一関市千厩町の山あいにある洞雲寺というお寺に行って、吉田さんのお墓にお参りし、これまでのご恩のお礼を申し上げてきました。

洞雲寺本堂

 

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2018年12月 2日 追悼 入沢康夫先生

 一昨日に訃報をお聞きして、今も悲しい気持ちでいっぱいです。私のような者にも、優しく様々なご教示や励ましの言葉をかけて下さる方でした。
 宮沢賢治学会イーハトーブセンターでは、たしか初代代表理事だった入沢さんの提案で、お互いに「〇〇先生」と呼ぶことはやめましょうというマナーができて、これは現在も受け継がれているのですが、入沢さんは私にとっては、本当に心から尊敬する「先生」でした。
 ご冥福をお祈りしつつ、恐縮ながら先生の『アルボラーダ』所収「擬川柳・笹長根」から、最後の句を引用させていただきます。

 

   照明
電球はなくとも 光 世に満つる        複霊

 

入沢康夫さん(2015年6月宮沢賢治研究会)
宮沢賢治研究会第281回例会(2015年6月6日)にて

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