2014年4月17日 4月20日は京都造形芸術大へ

 2週間ほど前から体調を崩してしまって、こりゃあ4月20日の講演はどうなるのだろうとやきもきしていたのですが、今日あたりは何とか回復して胸をなでおろしているところです。(^^;)ゞ
 さて、今度の日曜4月20日に京都造形芸術大学の人間館301号室で行われる「宮沢賢治学会京都セミナー《宮沢賢治 修羅の誕生》」の内容は、以前にもご案内したとおり、下記のようになっています。

  9:30 開場
10:00 挨拶 中路正恒
10:10 講演「宮沢賢治、京都に来る」 浜垣誠司
11:20 朗読と解説「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」 牛崎敏哉
13:40 講演「宮沢賢治とジャータカ」 君野隆久
15:00 講演「宮沢賢治と修羅」 中路正恒
16:10 まとめと挨拶 栗原敦

 個人的にいちばん楽しみなのは、やっぱり牛崎敏哉さんによる賢治の詩のパフォーマンスですが、午後のお二人の講演も、きっと重厚なものになるのではないでしょうか。

 会場はとても大きな教室で、まだ席に余裕はあるそうですから、賢治に関心をお持ちの方は、ぜひお越し下さい。
 kenjikyoto2014@gmail.com までメールをいただければ、参加予約をすることができます。

 私自身のスライドもだいたいできて、ぼちぼちと点検しているところです。「パワーポイントという特殊なソフトウェア」(by 古舘伊知郎さん)を使って…。

「宮沢賢治、京都に来る」1

「宮沢賢治、京都に来る」4

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2014年3月30日 なぜ往き、なぜ還って来たのか(2)

 去る3月2日に「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」が終わった後、出演者や裏方の皆さんと、それに会場を提供して下さった法然院の住職である梶田真章さんもご一緒に、近くの小さなイタリア料理店で、ささやかな「打ち上げ」を行いました。
 その席で、東日本大震災と関連して、「鎮魂」というテーマが話題になっていたのですが、この時に法然院の梶田さんがふとおっしゃった次のような言葉が、とても印象に残りました。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 これこそが、人間の手の届かないところは全て「他力」に託すという、阿弥陀信仰の神髄なのだなあとその時は感じ入ったのですが、その後、これは宮澤賢治が妹トシの死後に、いかにしてその悲しみを乗り越えていったのかという問題とも、通ずるものがあると思いましたので、本日はそのことを少し書いてみます。
 タイトルは、もうはるか昔に書いた「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」という記事の、3年ぶりの続篇という形で、その(2)としました。

◇          ◇

 3年前のテーマは、「双子関係にある」とも言われる賢治の童話「ひかりの素足」と、「銀河鉄道の夜」とは、どこが違うのかということで、前回はこれについて考える途中で終わっていました。
 今回、二つの作品の最も大きな違いとして私が注目するのは、「死者の行方が明らかにされているか否か」、ということです。

 「ひかりの素足」では、一郎は弟の楢夫と一緒に雪山で遭難してしまい、必死で弟を守りつつも、結局は二人もろとも雪に埋まってしまいます。そして次に一郎が気がつくと、そこは「うすあかりの国」でした。一郎と楢夫は、鬼たちに鞭で追い立てられながらひどい道を歩かされますが、ここでも一郎はけなげに弟を守ります。
 そしてついに「ひかりの素足」の人が現れ、その人は楢夫には「お前はもうこゝで学校に入らなければならない」と言ってその世界にとどまらせる一方、一郎には「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」と言って、生の世界に送り返します。
 つまり、一郎はずっと楢夫に付き添って楢夫を守ってやり、その行き先を見届けた上で、帰ってくるのです。

 これに対して「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラと一緒に銀河鉄道に乗りますが、最後の場面でカムパネルラはジョバンニの前から、忽然と姿を消してしまいます。

 「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲玉のやうに立ち上がりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれから咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。

 この時点でジョバンニには、カムパネルラの行方はわからず、彼が死んでしまったのだということさえ知りません。

 この上さらに輪を掛けて、川におけるカムパネルラ捜索の場面で、カムパネルラのお父さんがその打ち切りを宣言する言葉も、印象的です。

「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」

 普通の親の感覚なら、我が子がまだ生きている確率が0.1%でもあるなら、必死で捜索を続けるでしょうし、みんなにもお願いするでしょう。また、たとえ生存は絶望的な状況になったとしても、せめて遺体だけでもこの手に抱いてやりたいと思って、やはり捜索はやめないでしょう。
 以前の私は、この場面のお父さんの態度が不思議でならなかったのですが、今ではこれは、「いとしく思う者の行方がわからない」ということ、それこそがよいのであるという、賢治が苦悩の末にたどり着いた考えによるものだろうと思っています。
 すなわち、「薤露青」における、次の一節に表れている思想の具現化です。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 つまり私としては、「ひかりの素足」において、一郎が弟に必死に同伴し死後の世界での行く末まで見届けたのに対して、「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラの行方を知らず、父親も無理に捜そうとしないという大きな相違がある理由は、この間の賢治自身の「愛する死者」に対する考えの変化を、反映したものだと思うのです。

◇          ◇

 學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』に収められている「ひかりの素足」の解説において、杉浦静さんは、賢治がこの童話を書いた時期について、次のように分析しておられます。

 「ひかりの素足」は、複雑な過程を経て成立している。現存する草稿には三種の原稿用紙が混用されている。これらを仮にA・B・Cとすると、Aは22枚、Bは17枚、Cは7枚の計46枚が使用されている。最初A・Bを用いた第一形態が最後まで書かれ、その後原稿の差し替えやさまざまな筆記具を用いた手入れが行われた後、最終段階で、C原稿用紙を用いた原稿の差し替えが行われ、現存の「ひかりの素足」が成立している。
 これまでの研究でA・Bが併用されたのは、大正11年11月頃まで、Cは大正12年以降に使用されたと推定されている。賢治は「お」の字を書くとき、大正11年以前は点がすべて離れ、11年中につながり始め、12年以降はすべてつながる書体の推移も明らかにされている。「ひかりの素足」草稿では、A・Bに現れる「お」はすべて点が離れているが、Cに一例のみ、つながるものが現れている。これらから、第一形態の成立は大正11年前半頃まで、現存の最終形態の成立は大正12年頃と推定できる。

 トシが死去したのが、1922年(大正11年)11月ですから、第一形態が成立したのは、その死の年の前半だったということになります。以前に、「死ぬことの向ふ側まで」という記事に書いたように、賢治が短篇「イギリス海岸」において、もしも生徒が溺れたら、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と書き記したのは、1922年(大正11年)8月9日のことと推測され、これは「ひかりの素足」の第一形態の成立時期と、だいたい一致します。
 つまり、この頃すでに死期が近づいていた妹のことを思いながら、賢治は「イギリス海岸」を書き、さらにまさしく兄が弟に付き添い「死ぬことの向ふ側まで一緒について行」くという話である、「ひかりの素足」の第一形態を、原稿用紙に記したのです。

 そしてついに11月27日が来て、トシの臨終に立ち会った賢治は、その決死の覚悟にもかかわらず、妹とともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行って」やることはできませんでした。
 一人残された賢治は、深い悲しみに引き裂かれる一方で、死んだトシがいったいどこへ行ってしまったのかということについて、考え続けるのです。

 翌年の1923年(大正12年)夏に、賢治が北海道からサハリンを旅した背景にも、この問題について思索を突き詰めようとうする意図がありました。
 この旅行中の作品群に、賢治の思いは表現されています。

 まず「青森挽歌」では、次のように。

(前略)
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(中略)
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
(後略)

 また「オホーツク挽歌」では、次のように。

わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 さらに「噴火湾(ノクターン)」では、次のように。

駒ヶ岳駒ヶ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
    (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 このように、賢治は旅行中も、トシの行方について思い悩むことを止めることはできなかったのですが、旅行の後、おそらく1923年(大正12年)の後半に書いた「手紙 四」という短い文書において、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と、まるで自らに言い聞かせるかのように、宣言します。

 この一連の賢治の葛藤が、より昇華されて一つの安定を見るのは、さらに翌1924年(大正13年)夏のことでした。
 この年7月の「〔この森を通りぬければ〕」で賢治は、次のように書きました。

鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
   ・・・・・・それはもうさうでなくても
        誰でもおなじことなのだから
        またあたらしく考へ直すこともない・・・・・・

 で、先にも引用した、「薤露青」へと続きます。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 そして、まさにこの年の夏が、おそらく「銀河鉄道の夜」のスタートにあたるのです。入沢康夫さんは『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』(宮沢賢治記念館)において、「銀河鉄道の夜」が最初に書かれた時期について、

 《着想は一九二四年の夏で、着手はその秋》というあたりが、おそらく正しい答ではではないだろうか。

と、書いておられます。

 つまりこの「銀河鉄道の夜」という物語は、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という思想に立って書かれたのであり、それだからこそ、カムパネルラはジョバンニの前から何処へともなく突然姿を消してしまうし、その父親も我が子の捜索にこだわらないのだと思うのです。

◇          ◇

 さて、ここで冒頭に記した、浄土宗の梶田真章和尚の言葉に戻ります。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 ここで梶田さんがおっしゃっていることは、「愛しく思う者がどこへ行ってしまったかわからない」ことをそのまま受け容れて、あとは思い悩まないようにする、という賢治がたどり着いた思想に、そのままつながるものがあります。

 あるいは親鸞は、『歎異抄』の中で、自分は死んだ父母のために念仏を唱えたことは、一度もないと言っています。

     第五条
一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもて世ゝ生ゝの父母兄弟なり、いづれもいづれもこの順次生に、仏になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
                (角川ソフィア文庫『新版 歎異抄』より)

 すなわち、すべての生きとし生けるものは、長い年月の間に生まれかわり死にかわりするうちには皆が互いに父母や兄弟となるのだから、父母を救うということは、実はすべての生き物を救うということであるが、それは普通の人間にはとてもできないことである。ただ自力を捨てて、浄土に生まれ仏となった暁には、父母をはじめ縁のある者を救うこともできるのだ、というわけです。
 『歎異抄』のこの一節は、「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》として登場する命題と、途中までは同じことを言っている点が、非常に興味深いところです。後半において、親鸞は「だから現世では、自分のため以外には祈らない」という結論になるのが、賢治の場合には、たった今から「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という方向に進もうとするところが、違っています。
 しかし、血縁者だからと言って特別に祈ったり供養したりしない、というところは、親鸞の考え方と同じなのです。

 一方、賢治が熱心に信仰していた日蓮の場合には、このあたりはかなり異なっています。
 すなわち、日蓮は「十王讃歎鈔」においては、罪人が死んで閻魔大王の前に連れて来られた時、その子供が現世において「追善をなし逆謗救助の妙法を唱へ懸れば成仏する」と書き、また「上野尼御前御返事」においては、無間地獄に落ちている親のためにその息子が法華経の題目の一字を書いただけで、親が救われたという中国の話を引用して、いずれにおいても亡き親のために追善供養をすることは大切なのだと、強調しています。

 おそらくこのような日蓮の主張にも影響されて、賢治は1918年(大正7年)に親友の保阪嘉内が母親を亡くした際には、「あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい」と書き送りました(書簡75)。

此の度は御母さんをなくされまして何とも何とも御気の毒に存じます
御母さんはこの大なる心の空間の何の方向に御去りになったか私は存じません
あなたも今は御訳りにならない あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう。
あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい。
あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと日蓮大菩薩が云はれました。
あなたのお書きになる一一の経の文字は不可思議の神力を以て母親の苦を救ひもし暗い処を行かれゝば光となり若し火の中に居られゝば(あゝこの仮定は偽に違ひありませんが)水となり、或は金色三十二相を備して説法なさるのです。(後略)

 「あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう」と賢治が親友に書いた4年後に、今度は賢治の方が、自分の妹に関して「どこに行ったか至心に求める」ことになろうとは、まだこの時は思いもよらなかったでしょう。
 妹の死後、おそらく賢治は、妹のためにと念じて法華経の題目を唱え、書き写しもしたはずです。しかしそれでも、賢治の心は安まらなかったのです。

 そのような苦悩の末に賢治が自戒するようになった、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という命題や、「死者の行方を気にしない」という態度は、実は日蓮の教えとはかなり異なっていて、むしろ彼が幼年時代から親しみ、信じ、やがて青年期に捨てることになった、親鸞の教えと一致しているのです。

 ということで、ある時からは一途に法華経と日蓮を信仰していたはずの賢治ですが、その思想の内容には、複雑な重層的な要素も感じられる、というお話でした。

法然院・阿弥陀如来座像
法然院・阿弥陀如来座像

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2014年3月22日 賢治学会京都セミナー「宮沢賢治・修羅の誕生」

 来たる4月20日に、京都市左京区の京都造形芸術大学において、宮沢賢治学会の地方セミナーが、「宮沢賢治―修羅の誕生」と題して開催されます。(下のチラシ画像をクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

 京都セミナー2014・チラシ表

 京都セミナー2014・チラシ裏

宮沢賢治学会・京都セミナー2014
                《宮沢賢治―修羅の誕生》

   日時: 2014年4月20日(日) 午前10時〜午後4時
   場所: 京都造形芸術大学 人間館301教室
   内容
     講演「宮沢賢治、京都に来る」 浜垣誠司
     朗読と解説「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」 牛崎敏哉
     講演「宮沢賢治とジャータカ」 君野隆久
     講演「宮沢賢治と修羅」 中路正恒
   参加費: 500円(小学生以下無料)
   申込: kenjikyoto2014@gmail.com あてメールにて
      または
      〒606-8271 京都市左京区北白川瓜生山2-116
       京都造形芸術大学 永倉気付
       宮沢賢治学会京都セミナー実行委員会あて往復葉書にて

 実は、この2014年4月20日という日は、1924年4月20日に宮沢賢治が処女詩集『春と修羅』を関根書店から刊行してから、図らずもちょうど90周年の記念日に当たります。先月16日、京都造形芸術大学の中路正恒研究室において、京都セミナーの実行委員会のメンバーが初めて集まって打ち合わせをしている最中に、私はふとこの偶然の符合に気がついて、思わず中路さんに告げたのでした。
 今回のセミナーの日程は、当初はいったん4月19日になりかけていたのが、都合で4月20日に変更になったという経緯もあり、この記念すべき日付は、まさに「図らずも」の結果でした。この日の実行委員会では、皆でしばし「不思議なめぐり合わせ」の感慨を味わった後、中路さんの提案で「宮沢賢治―修羅の誕生」というセミナーのタイトルが、決められました。
 そうです、この言葉には、「『春と修羅』の誕生日」という意味が込められているのです。

 当日のプログラムでは、まず私が導入的に、賢治が2度にわたり京都を訪れた時の様子や、立ち寄ったと推測される場所の現状について、報告をいたします。賢治と京都の「縁」を、浮かび上がらせることができたらと思います。
 次に、宮沢賢治記念館副館長の牛崎敏哉さんが、賢治の「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」(『春と修羅 第二集』)を、賢治が聴いていたであろうジャズの響きに乗せて、スイングしながら朗読し、解説をして下さいます。賢治とクラシック音楽の関連については、近年いろいろな人が論じていますが、今回は新たにジャズとのつながりに光が当てられます。

 休憩をはさんで、京都造形芸術大学に所属するお二人の先生、君野隆久さんと中路正恒さんのご講演は、仏教や哲学思想の方面から、賢治にアプローチするものです。京都という場所は、長らく日本における仏教の中心地でもありました。そのような京都において研究を積み重ねてこられた視点から、賢治論が展開されます。

 4月20日というと、もう桜は散ってしまった頃ではありますが、この時期の京都では、「春の特別公開」を行っているお寺も、たくさんあります。
 会場の教室はかなり大きくて余裕はあるそうですので、皆さまどうぞ、春の京都へお越し下さい。

京都造形芸術大学キャンパスより
京都造形芸術大学キャンパスより

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2014年3月 9日 「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」終了

 もう1週間たちましたが、去る3月2日(日)に、「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」(能楽らいぶ『中尊』)が、無事終了いたしました。ご出演、ご協力いただいた方々に、ここに厚く御礼を申し上げます。
 日曜の夜にもかかわらず、多くの方々にお越しいただくことができました。ご参集いただいた皆様にも、心より御礼申し上げます。今回も、参加費から経費を除いた全額は、被災地における復興支援活動に寄付させていただきます。

 さて、法然院というお寺を巡ると、本当にたくさんの花が供えられているのを目にします。

 ご本尊の阿弥陀如来坐像の前には、人間の臨終の際に阿弥陀如来とともに浄土から迎えに来るという「二十五菩薩」を表す二十五輪の生花が、「散華」として毎日供えられています。

法然院・阿弥陀如来坐像と散華

 上の写真で、床の上に幾何学的に配置されている藪椿の花が、それです。この椿以外にも、たくさんの花が生けられています。

 廊下から手水鉢を見ると、ここにも生花が毎日浮かべられています。

法然院の手水鉢

 花がこんなにたくさん供えられているお寺で、しかもそのご本尊の阿弥陀様の前で、「花を奉る」という祈りを中心とした能が舞われるというのですから、こんなにうってつけの舞台が、他にあるでしょうか。
 今回、この場所で『中尊』が演じられるためのお手伝いができたことは、私たちにとっても願ってもない光栄でした。

 公演は、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」で「なめとこ山の熊」などのかたりを聴かせて下さった竹崎利信さんによる、「花を奉る」の朗読で始まりました。
 ここでまず、石牟礼道子さんによる「花を奉る」の祈りが、皆の心の底にくっきりと楷書体で刻まれます。

竹崎利信・朗読「花を奉る」

 そして静かに続けて、能『中尊』が始まりました。

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

かへりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆへにわれら この空しきを礼拝す
然して空しとは云はず

能『中尊』

 シテとワキが徐々に「薄墨にとけ込んでゆくように」(by @flaneur51)退場すると、あらかじめ出演者の要望によって拍手はご遠慮いただくように皆様にお願いしてあったので、暗い本堂は、しばらく深い沈黙に包まれました。

 重く美しい言葉の連なる石牟礼さんの「花を奉る」の中でも、上に引用した「かへりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)/かりそめの姿なれども おろそかならず・・・」という箇所は、本当に痛切に心に沁み入ります。

 「まなうらにあるものの御形」とは、今は亡き、大切な人々の面影ではありませんか。ここで私は、3年前の地震や津波で亡くなった人々のお顔を、それぞれの身内の方々が思い起こしておられる様子が浮かんでしまって、胸が締めつけられました。
 このような面影は、たとえそれがどんなに愛しいものであっても、仏教の正しい教えに従えば、「仮象」にすぎません。しかしまた一方、どんなに教えが尊くても、やはりそれは一人一人の生きている人間にとっては、「おろそかならず」なのです。
 だから人間は、「空し」とわかっていても、その「御形」をまなうらに浮かべて、礼拝します。
 そしてまた、理知の教えによって「空し」とわかっていても、あえて「空しとは云わず」と、石牟礼さんは静かに、はっきりと言うのです。

 「死」という現象にまつわるこの深い葛藤――死に対する理性的な認識と、人間的な感情との間の相克――は、宮澤賢治が「オホーツク挽歌」の旅において、妹トシの死をめぐって抱えていた苦悩に、ちょうどそのまま対応するものでしょう。
 その相克に、賢治と石牟礼さんがそれぞれ対峙した様子は、またかなり異なって感じられます。
 賢治は、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》(「青森挽歌」)と厳しく念じ、最終的には、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」(「薤露青」)という心境へと、浄化されていきました。
 石牟礼さんは上に記したとおり、「ゆへにわれら この空しきを礼拝す/然して空しとは云はず」と、相克は相克のままに肯定しておられるようです。
 宗教的な意味合いはともかく、私個人にとっては、石牟礼さんのスタンスの方が「人間的」な感情を残してくれている分、わかりやすく感情移入しやすいものではあります。

 あらかじめ自分なりに謡本を熟読しておき、昨年9月の演能の一部を動画でも見て、そしてついにこの日、能『中尊』を直に拝見したわけですが、私にはその作品全体は、美しい一篇の詩のように感じられました。
 ・・・「悲しみ」があって、そこに再生の象徴となる「中尊寺蓮」があって、その「花」を、石牟礼道子さんの祈りとともに、「奉る」・・・。

 作中時間と同じ「3年目の春」を迎えようとしている私たちの心に、この作品は震災や原発事故のことを痛切に呼び覚ましましたが、上記のように研ぎ澄まされたシンプルなその「形」は、そのような具体的な文脈を超えて、「古典」のような美しさを静かに放っているように感じられたのです。

 一方、当日はこの「能楽らいぶ」と並行して、鈴木広美(ガハク)さんと恭子さんによる、「花を奉る」をテーマとした作品の展示が、本堂裏の「食堂(じきどう)」で行われました。お二人は、この催しのためにはるばる埼玉から作品を持って駆けつけて下さったのです。
 現在私の手元にはこの展示の様子を写した写真がなく、目に見える形でご紹介できないのがとても残念なのですが、「文殊菩薩像」が祀られている対面には、花の器を持つ「シバの女王」の彫刻が置かれ、イーゼルには7枚の油絵が、机の上には9枚の銅版画が飾られ、大広間全体は、精霊たちが踊るような空間になりました。
 この美術展の画像が入手できましたら、またあらためてご紹介させていただきたいと思っています。
 なお、展示していただいた作品の一部は、ガハクさんご自身のブログ記事「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」にて、ご紹介されています。

 今回も、本当にたくさんの方々のお力添えのおかげで、素晴らしい催しを行うことができました。あらためて、皆様に御礼申し上げます。
 当日いただいた参加費と募金、それからガハクさんたちからは絵の売り上げの20%をご寄付いただきましたので、それらを取りまとめて、また被災地支援の活動に寄付させていただきます。
 寄付先はまだ決まっていないのですが、今回の能では福島に祈りが捧げられ、また岩手の中尊寺蓮もテーマとなっていたことから、何か所縁のあるところにお送りできればと、思っております。


《これまでの歩み》

第1回 2011年4月17日 「アートステージ567」にて
  岩手弁による賢治作品朗読: すがわら・てつお/いいだ・むつみ(フランスシター)
     ⇒京都新聞社会福祉事業団に、15万2610円を寄付

第2回 2011年9月4日 法然院本堂にて
  現代能「光の素足」らいぶ公演: 中所宜夫
     ⇒宮沢賢治学会「イーハトーブ復興支援義援金」に、16万0815円を寄付

第3回 2012年3月4日 京都府庁旧本館正庁にて
  かたり「なめとこ山の熊」他: 竹崎利信/友枝良平(揚琴)
     ⇒大槌町教育委員会および陸前高田市教育委員会に、12万円を寄付

第4回 2012年12月2日 龍谷大学アバンティ響都ホールにて
  歌でつづる宮沢賢治の世界: 大神田頼子(S) 浦恩城利明(Br) 小林美智(Pf)
     ⇒陸前高田市「にじのライブラリー」に、11万0819円を寄付

第5回 2013年7月28日 京都府庁旧本館正庁にて
  ひとり語り「よだかの星」他: 林洋子/梅津三知代(アイリッシュハープ)
     ⇒「福八子どもキャンププロジェクト」に、7万2279円を寄付

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2014年2月23日 よるのしづまの寒天凝膠(アガアゼル)

 もう1週間後に能『中尊』の公演を控えているのですが、今さらながら泥縄式に能のお勉強などをしようと、『能はこんなに面白い!』(小学館)という本を読んでいました。

能はこんなに面白い! 能はこんなに面白い!
内田 樹 観世 清和

小学館 2013-09-13
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 著者の一人、内田樹さんは本職はレヴィナスの研究を専門とする哲学者ですが、ブログ「内田樹の研究室」ではいつも社会に対して鋭い識見を示しておられますし、合気道、居合道などの修行をする武道家でもあります。中所宜夫さんが能『中尊』を創作する源泉の一つとなった「原発の鎮魂」という構想は、内田樹さんの考えに由来していたということは、前回述べました。
 この内田さんが、関西に赴任してきたことをきっかけに能を習うようになったという縁で、上の対談本は生まれています。

 ところでこの本の中の、次の箇所に私はとても興味を惹かれました。内田さんが能を習い始めて、しばらく経った頃のことです。

 社中の発表会のために舞囃子を稽古していた時、地謡と囃子方の玄人たちを入れた「申し合わせ」を能楽堂で行った。何の曲だったかもう覚えていない。『融(とおる)』だったか『養老(ようろう)』だったか。とにかくそのときに、私が目付柱に向かってすり足で進んでいると、左後ろに位置するシテ方たちから舞台上の空気が震えるような地謡が届いた。その地謡は明らかに空間を歪ませていた。舞台上の空間密度が均質ではなくなり、濃淡の違いが生まれた。私自身は何もない能舞台の空間を、教えられた道順通りに歩んでいるのだが、音楽の介入によって空間が歪み、舞台の空気密度に濃淡の差が生じ、粘度の差が生じ、「通れる空間」と「通れない空間」の違いが生じる。立つべきときに、立つべき場所に立つことを能舞台という場そのものが要請している。
(中略)
 その頃、下掛宝生流のワキ方安田登さんとはじめてお会いした。気になっていたので、まずそのことを訊いた。「空間の密度が濃くなって、ゼリーの中を歩いているように感じられることってありませんか?」という私の話に安田さんはつよく反応して、ご流儀では「寒天の中で動く」という比喩を用いることがあると教えてくださった。空間には固有の粘度があり、それが舞のあるべきかたちを導くという私の直観はあながち妄想ではなかったようである。(p.116)

 ここに登場する安田登さんは、来週法然院の能『中尊』において、ワキ方を務めていただくことになっているというのも不思議なご縁ですが、それはともかく私が興味を惹かれたのは、宮澤賢治という人もいくつかの作品において、空気に密度の差が生じるとか、ゼリー状になっているとかいうことを書いているからです。

 たとえば下記は、「東岩手火山」(『春と修羅』)の終わり近くの一節です。

天の海とオーパルの雲
あたたかい空気は
ふつと撚(より)になつて飛ばされて来る
きつと屈折率も低く
濃い蔗糖溶液(しよたうやうえき)に
また水を加へたやうなのだらう

 ここで賢治は、岩手山頂の空気の密度が撚り糸のように不揃いになって流れているのを感じ、これを「濃い蔗糖溶液に水を加えた」という視覚的イメージで捉えています。水溶液に、陽炎のようにうるうると透明の模様が動いている様子ですね。

 次には、「車中」(『春と修羅 第二集』)の全文を載せてみます。

四一〇
  車中
               一九二五、二、一五、

ばしゃばしゃした狸の毛を耳にはめ
黒いしゃっぽもきちんとかぶり
まなこにうつろの影をうかべ
   ……肥った妻と雪の鳥……
凛として
ここらの水底の窓ぎわに腰かけてゐる
ひとりの鉄道工夫である
   ……風が水より稠密で
      水と氷は互に遷る
      稲沼原の二月ころ……
なめらかででこぼこの窓硝子は
しろく澱んだ雪ぞらと
ひょろ長い松とをうつす

 「風が水より稠密で」という部分に、空気の密度が水よりも大きく(濃く)なっているという事態が、表されています。

 次もこれと同じく、風が水よりも「濃い」ということを言っています。「〔水よりも濃いなだれの風や〕」(「春と修羅 第二集補遺」)の、冒頭部分です。

水よりも濃いなだれの風や
縦横な鳥のすだきのなかで
ここらはまるで妖精たちの棲家のやう
つめたい霧のジェリイもあれば
桃いろに飛ぶ雲もある

 そして、「青森挽歌」(『春と修羅』)の冒頭部分。

こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
   (乾いたでんしんばしらの列が
    せはしく遷つてゐるらしい
    きしやは銀河系の玲瓏レンズ
    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
りんごのなかをはしつてゐる
けれどもここはいつたいどこの停車場だ
枕木を焼いてこさえた柵が立ち
   (八月の よるのしづまの 寒天凝膠(アガアゼル))
支手のあるいちれつの柱は
なつかしい陰影だけでできてゐる

 ここでは、夜行列車の窓を水族館に見立てたことをきっかけに、その列車が「寒天凝膠」のように粘性のある静かな夜の空間を、切り裂いて走って行くイメージが生まれています。
 (八月の よるのしづまの 寒天凝膠(アガアゼル))の一行は、これ自体が一つの俳句になっていますが、夏の夜の空気のあのねっとりとした質感を、見事に表現していますね。

 このように、賢治がいくつもの作品において、空気の質感の「稠密さ」や「粘性」を描写しているからには、彼もまた能楽師のように、そういう実感を持つことが現にあったのだろうと思います。
 そして、「空気」の存在をふだんは忘れている我々一般人とは違って、自分たちを包んでいる「媒質」の質感を感覚的に意識していたからこそ、人が生活しているこの地表のあたりのことを、「気圏の底」と表現していたのではないかとも思うのです。


 最後に宣伝ですが、3月2日(日)の法然院の能『中尊』は、まだ残席があります。 
 能に関心をお持ちの方、福島の現実に思いを寄せておられる方、ふだんは拝観できない法然院本堂を一度見てみたいという方、ぜひともお越し下さい。当サイト管理人あてメールで予約できます。

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2014年2月11日 能『中尊』について

 来たる3月2日に法然院で演じられる新作能「中尊」が、福島原発事故を潜在的なテーマとしたものであることについては、前回も触れました。

 この能の作者である中所宜夫さんは、3年前の震災と原発事故を受けて、何とかして能という営みを通して、「原発の鎮魂」を行えないかという思いを、ずっと抱いてこられたのだそうです。
 「原発の鎮魂」とは、何ともまた常識的な論理では理解しにくい言葉ですが、こういうことを言い出したのはレヴィナス研究者の内田樹氏で、その辺の経緯は、3年前に出版された『原発と祈り』という本になっています。(その一端は、内田氏のブログの「原発供養」という記事でも読むことができます。)

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 この本は、内田氏ら3人の論者が、原発事故が起こってまだ3週間という時点で行った鼎談を収録しています。3年が経った現在から見ると、福島原発の行く末に対する当時の切迫感は半端なものではないですし、ちょっと言いすぎかなと思うところもなくはないのですが、しかしここで3人からにじみ出ている独特の高揚感、危機感、真摯さは、私たち日本中の皆が、2011年の3月から4月にかけては、総じて共有していたものです。
 3年後に読んでみると、私たちはある意味で少し冷静になったとも言えますし、原発の再稼働や放射能に対するあの頃の感性を、私たちが明らかに摩耗させて鈍感になっている、その現実をまた思い知らせてくれる文章でもあります。
 ここで内田氏らは、「原発供養」とか「原発の鎮魂」というコンセプトを呈示し、映画の『ゴジラ』ではゴジラの鎮魂のための歌を女子高生が歌う場面が出てくるとか、ウルトラマンというのはなぜか「仏像の顔」をしていて、怪獣の「荒ぶる魂」を「成仏」させているのだ、とかいうネタのような(?)話が展開されています。

 その内容については本そのものを参照していただくとして、いずれにせよ中所宜夫さんは、この「原発の鎮魂」というコンセプトを受け継いで、それが能という形に具現化できないかということを、模索して行かれたのです。
 その「具現化」のプロセスについては、中所さんご自身が、「『花を奉る』について」(能楽雑記帳)という文章に書いておられて、Web上で読むことができます。

 中所さんの「『花を奉る』について」にも記されているとおり、この『中尊』という能作品において、全体の「核」となっているのは、最後にシテによって舞われる石牟礼道子氏の詩、「花を奉る」です。
 この詩は、1984年に石牟礼氏が熊本県の無量山真宗寺における遠忌供養のために寄せた「花を奉るの辞」に由来しています。そして東日本大震災の翌月、作者自身がこれを改作して「花を奉る」とし、「大震災の翌月に」と末尾に記しました。

 下の『なみだふるはな』という本は、2011年6月に行われた石牟礼道子氏と写真家の藤原新也氏の対談を、収録したものです。この本の冒頭に、石牟礼氏は改作した「花を奉る」を掲げ、藤原氏は水俣と福島で撮影してきた花の写真を載せています。

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 対談の中で石牟礼氏が語っているように、水俣と福島という二つの究極の場所において、結局は日本の「国の嘘」が露呈しました。
 この「嘘」の背景にあるのは、潜在的危険性を帯びた化学工場や原子力発電所を、都市から離れた辺境に建設して、その地に住む人々の生命や生活を奪った、この国の差別的な構造です。この意味で、水俣と福島は同型なのです。
 中所さんの能『中尊』においても、シテの女性は「新潟阿賀野に生まれ」、「親を水銀の毒で失い」という設定になっているところに、この同型性が象徴されています。

 一読いただけばわかるとおり、「花を奉る」という詩の言葉は、もの凄く重たく、悲観的で虚無的です。それはまさに、原発事故後3年が経とうとするのに先の灯りも見えない、今の福島の状況に釣り合っています。
 しかし同時にこの詩には、そのような底知れない暗黒をも照射するような、強い希望も秘められています。

 中所さんは石牟礼道子氏のことを、「現代において賢治の精神を受け継ぐ人」と表現しておられますが、その言葉のしなやかさや奥深さにおいて、この二人は通底する詩人だと思います。
 ちなみに、この「花を奉る」のテクストが、まるで誂えたように能の舞にぴったりと当てはまっていった様子は、中所さんの「『花を奉る』について」に感動的に記されていますので、ぜひともご参照下さい。

 一方、中所さんのご友人でもある詩人の和合亮一氏は、震災後まもない福島から、ツイッターを通して詩の連続投稿を開始されました。『詩の礫』と題されたその営みにおいては、「花を奉る」とはまた違った具象的な迫真性を持った言葉が、リアルタイムに紡ぎ出されました。

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 私も震災後の一時期、暗い寝床で息をひそめるようにして、スマートフォンの画面でその投稿を見守っていたものです。それはたとえば、次のような詩句から成っていました。(『詩の礫』より抜粋)

放射能が降っています。静かな夜です。
                         2011年3月16日 4:30

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。
                         2011年3月16日 4:31

この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じれば良いのか。
                         2011年3月16日 4:34

屋外から戻ったら、髪と手と顔を洗いなさいと教えられました。私たちには、それを洗う水など無いのです。
                         2011年3月16日 4:37

明けない夜は無い。
                         2011年3月17日 0:24

あなたはどこに居ますか。私は閉じ込められた部屋で一人で、言葉の前に座っている。あなたの閉じ込められた心と一緒に。
                         2011年3月18日14:11

南相馬市の夏が好きだった。真夏に交わした約束は、いつまでも終わらないと思っていた。原町の野馬の誇らしさを知っていますか?
                         2011年3月18日14:14

福島は私たちです。私たちは福島です。避難するみなさん、身を切る辛さで故郷を離れていくみなさん。必ず戻ってきて下さい。福島を失っちゃいけない。東北を失っちゃいけない。夜の深さに、闇の広さに、未明の冷たさに耐えていること。私は一生忘れません。明けない夜は無い。
                         2011年3月20日 0:20

しーっ、余震だ。何億もの馬が怒りながら、地の下を駆け抜けていく。
                         2011年3月20日22:01

 ここに和合氏の言葉をいくつもわざわざ引用させていただいた理由は、能『中尊』でワキとして登場する「福島浜通りから来た旅の詩人」のモデルは、実はこの和合亮一氏なのだと、中所さんからお聞きしたからです。作中の「旅の詩人」の孤独は、ひょっとしたらこのような陰影を帯びているのかもしれません…。
 さて、中所さんはこの和合亮一氏と、福島県相馬市および岩手県北上市において、能楽らいぶ+詩の朗読というコラボレーション公演を行い、ここで「花を奉る」の謡いと舞いを、和合氏の詩と組み合わせるという試みがなされました。この時点では、まだ全体は能の形をとっていませんでしたが、次に中所さんが遭遇した運命が、この構想を最終的に能作品へと昇華します。
 それは、盛岡市で開かれる「復興の花 中尊寺蓮を愛で感謝と震災を祈る会」に、中所さんが招かれて演能をするというご縁でした。

 1950年、平泉の中尊寺金色堂内に納められている藤原氏の遺体4体が学術調査され、その際に第四代泰衡の首桶から、80粒ほど蓮の種が発見されました。
 1998年に、大賀一郎博士らはこの種を発芽させ開花させることに成功し、800年ぶりに甦ったその花は、「中尊寺蓮」と命名されます。その後この蓮は、岩手県内の各地に株分けされていきますが、2012年には震災復興を願って、平安時代に「前九年の役」で安倍氏が滅んだ地に建つ「一ノ倉邸庭園」に株分けがなされ、以後ここで毎年「中尊寺蓮を愛でる会」が開催されることとなるのです。(「中尊寺蓮」開花の経緯に関しては、世界遺産平泉の「中尊寺ハス」のページもご参照下さい。)

 震災以来ずっと東北のことを思い、「花を奉る」というテーマを温め続けてこられた中所さんが、1000年の東北の哀史が凝縮された特別の地で、その苦難を象徴する花とも言える「中尊寺蓮」を前に能を舞うことになったのですから、これを運命の巡り合わせと言わずして何と言いましょう。図らずもここにおいて、作品を構成すべき様々なピースが、すべて揃いました。
 能『中尊』の誕生です。

 この辺のプロセスについて、中所さんから話をお聴きしていると、この作品は中所さんという一人の人が「創作」したというよりも、何かもともと存在していたものが、中所さんという「器」を借りて、自分の方から姿を現わしてきたような感覚を、私は禁じ得ないのです。

 なお下の動画は、2013年9月7日にこの一ノ倉邸において、能『中尊』が初演された模様を編集したものです。シテは中所宜夫さん、ワキは安田登さんという、今回の法然院公演と同じ演者です。

 思えば「能」という芸能は、観阿弥・世阿弥によって完成されて以来、様々な事情で亡くなった人々の魂を鎮めるという役割を、色濃く担ってきました。
 たとえば、世阿弥の『敦盛』においては、一ノ谷の合戦においてまだうら若い平敦盛の首を刎ねた熊谷直実が、心痛に堪えかねて出家して蓮生と名乗り、敦盛の菩提を弔うために、須磨を訪れます。そこで笛の音とともに蓮生の前に現れた草刈男の一人が、実は敦盛の化身だったのですが、後場でその敦盛の霊は、蓮生の前で平家の栄枯盛衰を語り舞を舞った後、いったんは自分の敵である蓮生を討とうとします。
 しかし結局は、「終には共に。生るべき同じ蓮の蓮生法師」と悟って、蓮生に自らの回向を頼んで、去って行くのです。

 この一連の物語によって、まずは無念の思いを抱いたまま死んだ敦盛の魂が、仇敵を許す境地に至ることによって、浄化されます。またそれとともに、年若い少年を殺してしまった罪責感を抱える蓮生の苦しみが、相手から許されることによって、浄化されます。
 これに加えて、当時この能の観客であった南北朝時代の武士たち――彼らもまた各々が戦いをくぐり抜け、他人を殺したり自分が殺されそうになったりした――にとっては、舞台の上で繰り広げられる鎮魂のドラマを「共に体験する」ことは、各々が戦場PTSDとして心に抱えるトラウマを、浄化してくれる役割も果たすことでしょう。
 すなわち、能が演じられる時、そこではシテにとって、ワキにとって、そして見所(観客)にとって、という三つのレベルにおいて、魂の浄化が行われるのです。

 このような重層構造は、『中尊』にも織り込まれています。
 シテの「女性」は、親を水銀の毒で亡くし、第二の故郷となった福島でも被災し、その後また息子に去られます。差別や疎外によって傷ついた女性は、詩人の前で東北の地霊と一体化し、祈りの徴に古代の蓮を奉られることによって、何らかの変容を遂げます。
 ワキの「旅の詩人」は、おそらくこの度の災厄の現状をつぶさに観察しながら、その過酷な有り様を、詩として言葉に刻む旅をしています。この時期に詩人が一人、「福島浜通り」から、「いいはとおぶ日高見の国」へと抜けるという道行きをしている目的としては、それ以外に考えられません。
 このような役割を担う者は、惨状を目撃し感情移入をすればするほど、自らの心をも大きなストレスに曝すことになります(=代理受傷)。そのような詩人にとって、東北の地霊の供養を務めることは、自らが被災地で共に震えつつ抱えこんだ苦しみを、ともに癒してくれることにもなるでしょう。

 このようにして、シテもワキも、「花を奉る」という行為によって、それぞれに浄化されるのです。
 さらに上にも触れたように、この仕儀は、女性に憑依した東北の「地霊」に対して捧げられるという形をとっています。そこでは、古代蝦夷のアテルイや奥州藤原氏に象徴される東北の豊饒さと、中央政府によるその収奪という構造が浮き彫りにされ、そしてこのたび東北を襲った震災や原発事故、そしてその後に再び露呈した中央政府との歪んだ関係も、自ずとそこに重なり合います。
 この歴史の同型性を貫通するのが、奥州藤原氏滅亡の時に藤原泰衡の首桶の中に入れられた蓮の花から、800年ぶりに現代に甦って花を咲かせた、「中尊寺蓮」なのです。

 詩人によって地霊の前に「中尊寺蓮」が捧げられることによって、傷ついた「東北」の回復には、一点の希望が灯されます。
 しかし、この希望が果たして日本という国全体の救いになりうるかどうかは、観客である私たちの行動の如何に懸っていることでしょう。
 水俣と福島に象徴されるこの国の構造を、今なお支えているのは、私たち自身だからです。


 ということで、私がこの能『中尊』について自分なりにあれこれ思いめぐらせたところを、徒然なるままに書かせていただきました。もちろん、『中尊』は多面的な深い作品ですから、もっと様々な別の解釈がありうるのは当然で、これはあくまで私個人の見方にすぎないことを、ご了承下さい。

 それでは最後に、私の勝手な要約による能『中尊』のあらすじと、石牟礼道子「花を奉る」のテキストを、下に掲載しておきます。

※ 

能『中尊』(あらすじ)

 福島浜通りからやって来た旅の詩人が、日高見の地で一人の女性に出会った。
 この女性は新潟阿賀野に生まれ、親を水銀の毒で亡くしたが、縁あって福島飯坂に嫁ぎ、子を成したという。しかし後に、親の病気を夫に告げていなかったことを責められ、その子と一緒に家を出て、文知摺観音のもとで二人暮らしていた。そこにまた《この度の災厄》があり、彼女は我が子を守りたい一心で幼い手を引き、日高見へと逃げた。

 それから三年目の春を迎え、いつしか大人びた子は、母に暇を乞うて言った。福島に戻って父とともに、生まれ故郷のために働きたい、と。母は、我が子の成長を喜びつつ、かつ涙をこらえつつ、寂しい笑顔で見送った。
 それ以来、日高見に一人残された女性は、立ち枯れの松のように、孤独の日々を送っているという。

 そう言うと女性は、中尊寺蓮を見るようにと、詩人を池の端に迎え入れた。美しい蓮に感嘆した詩人がその由来を尋ねると、女性はまるで何ものかに憑かれたかのように、東北の悲しみの歴史を、滔々と語り始めた。
 古来数多の血が流されたこの地に、奥州藤原初代清衡は、輝く浄土を築こうとした。都の圧政を離れ百年の安寧が謳歌されたが、四代泰衡に至り、また時の覇者により滅ぼされた。この中尊寺蓮の種は、泰衡の首桶の中で、浄土の夢とともに一度滅びたものである。しかし如何なる縁の賜物か、八百年の時を経て、この花は再び今の世に蘇り咲いた…。
 いつしか女性には、この地の霊が憑依していたのである。驚く詩人に対して、今やその霊は本性を明かし、自らに蓮の花を捧げるよう促した。詩人がその一本を手折って渡すと、女性は白い衣を纏った神々しい姿となって、花を持ち舞いながら、一篇の祈りの詩を詩人に謡い聞かせた。

春風萌(きざ)すといえども われら人類の劫塵(ごうじん)
いまや累なりて 三界いわん方なく昏し
まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに なにに誘わるるにや
虚空はるかに 一連の花 まさに咲(ひら)かんとするを聴く
ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視(み)れば
常世(とこよ)なる仄明りを 花その懐に抱けり
常世の仄明りとは あかつきの蓮沼にゆるる蕾のごとくして
世々の悲願をあらわせり
かの一輪を拝受して 寄る辺なき今日の魂に奉らんとす
花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて 咲きいずるなり
花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに
声に出(いだ)せぬ胸底の想いあり
そをとりて花となし み灯りにせんとや願う
灯らんとして消ゆる言の葉といえども
いづれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの
花あかりなるを
この世のえにしといい 無縁ともいう
その境界にありて ただ夢のごとくなるも 花
かえりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆえにわれら この空しきを礼拝す
然して空しとは云わず
現世はいよいよ 地獄とやいわん
虚無とやいわん
ただ滅亡の世せまるを待つのみか
ここにおいて われらなお
地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す
                              (石牟礼道子「花を奉る」)

 このように謡って舞い終えると、女性はその花を恭しく奉った。

ガハク『800年の夢』
ガハク『800年の夢』

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2014年2月 2日 「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」案内

 3年前の東日本大震災以来、宮澤賢治をテーマとして京都で行ってきたチャリティ企画「イーハトーブ・プロジェクトin京都」の第6回を、来たる3月2日(日)に、京都市左京区にある法然院本堂で開催いたします。
 今回は、第2回でも「光の素足」を演じていただいた能楽師の中所宜夫さんが、福島の原発事故を潜在的テーマとして書き下ろされた新作能「中尊」を、<能楽らいぶ>という形式で演じていただきます。

第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都
  中所宜夫「中尊」(能楽らいぶ)
    シテ: 中所宜夫
    ワキ: 安田登

日時: 2014年3月2日(日)午後6時開演(午後5時半開場)
場所: 法然院 本堂(京都市左京区鹿ヶ谷)
参加費: 2000円(必要経費を除き被災地の活動に寄付します)

 下記チラシは、クリックするとPDFで拡大表示されます。

「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ

 これまでの企画とは違って、今回は賢治の作品は採り上げていないのですが、その内容には、賢治の精神が息づいています。
 この「中尊」という能のクライマックスの部分では、石牟礼道子氏の詩「花を奉る」が謡い舞われます。ここにおいて中所宜夫さんは、「賢治の精神を受け継ぐ石牟礼道子」という視点も持ちながら、"東北の今"を描こうとされました。また、ワキ(旅の詩人)の語りの中には、「いいはとおぶとも呼ばれし日高見の地…」という言葉さえ登場します。
 このような能「中尊」は、「イーハトーブ・プロジェクト」という私たちの催しの趣旨にもぴったりとかなうものでしたので、是非ともと中所宜夫さんにお願いした結果、チャリティ企画へのご協力を快諾いただいたのです。

 この能は、遠く阿弖流為(アテルイ)の時代から、奥州藤原氏の滅亡を経てはるか現代まで、東北がずっと背負ってきた重い歴史を、私たちに垣間見せてくれます。そして、彼の地において「救い」を模索した人々の系譜に、宮澤賢治その人も連なっていることを、あらためて浮かび上がらせてくれるものです。

 当日は、まず能が始まる前に、私どもの第3回公演で賢治作品の「かたり」をしていただいた竹崎利信さんに、石牟礼道子の詩「花を奉る」を朗読していただいて、導入とします。
 それから、「中尊」の<能楽らいぶ>が始まります。シテ(=福島で原発事故に遭い幼子とともに岩手へ逃げてきた女性)を中所宜夫さんが、ワキ(=福島浜通りから来てその女性と出会う旅の詩人)を安田登さんが、それぞれ務められます。

 終了後には、中所さんと私とで、簡単な対談をさせていただきます。中所さんがこの能に込められた思いや、石牟礼道子や宮澤賢治との関わりについても、お聞きしたいと思います。

 思えば、南北朝の戦乱が続いた観阿弥・世阿弥の時代から受け継がれてきた能という芸能は、亡くなった人々、失われたものへの「鎮魂」という役割を、色濃く帯びていました。現代の能「中尊」は、そのような伝統の力を受け継ぎ、今なお福島の現実によって胸を突き刺されたままの私たちに、何かを示唆してくれるのではないかと思います。

 あとそれから、この3月2日の能公演には、もう一つ素晴らしい企画も連動しているのです。
 当日は法然院において、上のチラシの原画も描いて下さった画家・鈴木広美(ガハク)さんによる「蓮の花」の連作の展示も行われるのです!
 上のチラシ原画は、縦1mほどの作品だということですが、これよりさらに大きな作品も含め、当日は数枚の油絵や版画が、法然院の古式ゆかしい空間に並べられます。そして、輝かしくも神秘的な「ガハク・ワールド」が出現する予定なのです。私も今からワクワクしているところですが、皆様もどうかご期待下さい。
 ということで、遠く埼玉から私どもの催しのために、素晴らしい作品群をお寄せ下さるガハクこと鈴木広美さんには、この場を借りてあらためて厚く御礼申し上げます。

 会場となる法然院本堂は、ふだんは一般公開されておらず、なかなか中を拝見することはできないのですが、そういう意味でも、今回は貴重な機会となります。
 この3月2日の法然院公演にご来場ご希望の方は、075-256-3759(アートステージ567: 12時ー18時, 月曜休)にお電話いただくか、または当サイト管理人あてメールにお名前と人数を明記して、あらかじめご予約下さい。

 能「中尊」の内容については、近日中にもう少し詳しくご紹介をさせていただこうと思っています。

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2014年1月19日 カツコウドリ、トホルベカラズ

 1月1日の「(大)正月」に対して、1月15日を「小正月」と言います。
 古代の日本では、満月が月の初めとされていたそうですが、中国から太陰太陽暦が導入されるとともに新月が月初とされて、「正月」も半月早くなりました。
 これに伴い、歳神や祖霊を迎えるなどの公式の行事は、新たな1日の大正月に行われるようになりましたが、元服の儀式や様々な農耕儀礼など、どちらかというと私的な行事は、古式に則ってそのまま15日の満月の日に残されたということです。
 もとは一つの正月が、二つに分かれたわけですね。

 さらに平成に入って、小正月に由来していた「成人の日」が、「ハッピーマンデー」なる制度の導入により日付が不定となったことを受けて、小正月行事はさらなる分散を余儀なくされます。
 すなわち、1月の第二月曜となった新たな「成人の日」に行われるもの、そのまま1月15日に行われるもの、15日の次の日曜に行われるものなど、地域によって、また行事によって、さらに煩瑣に分かれる事態になったのです。

 うちの近所の公園では、今日19日の午前中に、「どんど焼き」というのをやっていました。地域の消防団の人が火を起こして、そこに町の人々がお正月の注連飾りや門松の青竹や、書き初めをした半紙などを持ち寄り、積み重ねて燃やすのです。「どんど焼き」とか「とんど」とか呼ばれるこの小正月の行事は、それまで来訪していた「歳神様」あるいは「祖霊」を、祝祭期間の終了とともに火によって送り返すという趣旨なのだそうで、また「左義長」と呼ぶ地域も多いでしょう。

どんど焼き2014

 ビルの谷間にあるような小さな公園ですから、火も上写真のようにほんとにかわいいものですが、近所の子供たちはけっこう集まって、無料で配られるぜんざいを食べていました。このぜんざいも、「小正月には小豆粥を食べる」という風習に由来するものなのでしょう。

◇          ◇

 一方、村の境や神社などに「勧請縄」という長い縄を張って、ケガレや悪霊の侵入を防ぐという風習がありますが、この縄を綯って吊すという「勧請吊り」の儀式が行われるのも、多くは小正月です。
 最近私は、この勧請縄に「トリクグラズ」という奇妙な名前のまじない物を取り付ける風習があることを知り、この怪しげな名前には、かなり興味をそそられました。これは近畿地方を中心に、とくに滋賀県の琵琶湖東岸地域にはたくさん分布しているということでしたので、今日はちょっと電車に乗って、東近江市まで見に行ってきました。

 京都も昨夜は雪が降って、朝はうっすらと残っていたのですが、電車が滋賀県に入ると、一面の雪景色でした。

近江鉄道の車窓

 近江八幡駅でJR東海道線から近江鉄道に乗り換え、さらに八日市で乗り換えて「長谷野」という駅で降り、雪の中を少し歩くと、「長緒神社」という神社に着きました。
 この神社の鳥居の脇に、青竹が渡されて、その下に真新しい太い縄が張られていました。これが、「勧請縄」です。この神社では、先週この勧請吊りが行われたようです。

勧請縄

 そして、この縄の中央部に、杉の葉で作られたクリスマスの「リース」のような大きな輪が吊り下げられていますが、これこそが、「トリクグラズ」というものです。
 下に、その拡大した写真を載せます。

トリクグラズ

 それにしてもまあこの「トリクグラズ」は、西洋のクリスマス飾りに似ていますね。冬でも青い葉であることや、形が円であることには、洋の東西を問わず聖なる意味があるために、同じようなものになったのでしょうか。滋賀県でも他の地区のトリクグラズには、円の中に十字の印とか、陰陽師の紋のような五芒星や、ダビデの星のような六芒星もあるそうなのですが、残念ながら思わぬ雪のために、他を見てまわることはできませんでした。
 上の写真で、トリクグラズの上に付けられたお札には、ここは神社なのに「神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 廣済衆厄難」という「無量寿経」の一節が書かれていて、神仏習合の様子が今に伝えられています。

 さて、「トリクグラズ」とは、漢字で書けば「鳥潜らず」ということなのでしょう。ここに張り渡された「結界」を越えて鳥が侵入しないように防ぐ、という意味合いなのかと思われますが、「大きな円形の作り物を吊るす」というところは、現代も鳥除けのためにぶら下げる大目玉のような風船に、どこか通ずるところもありますね(笑)。

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 しかし、なぜほとんど鳥など飛んでいない冬のさなかである小正月に、鳥除けのまじない物を吊るすのかというのが不思議なところで、これはやはり小正月に行われる「鳥追い」という行事と、内容的には関連したものと思われます。
 「鳥追い」とは、田畑に害をなす鳥を追い払うことによって豊作を祈願する、農耕儀礼の一種です。鳥のいない小正月にわざわざ行うのは、一年のうちで重要な日に儀式を行っておけば、一年中にわたってその効果があるという考えに基づくもので、これを「予祝儀礼」と言います。あらかじめ済ませておけば、忙しい収穫期に害鳥対策に追われる心配もないというわけですね。
 ただし現実の鳥を追うわけではないので、次第に形式化・遊戯化していき、一連の儀式はおもに子供たちの役割となりました。東北地方では、子供たちが小屋がけをして、各戸からもらい集めた正月の注連飾りや松飾りで屋根を葺き、正月14日または15日の夜に小屋に火をつけて燃やし、大声で「鳥追い歌」を唄うのだということです。

◇          ◇

 ところで、神聖な「結界」に、「トリクグラズ」というまじないを懸けるということから、私がどうしても連想するのは、「グスコーブドリの伝記」の冒頭部です。

 お母さんが、家の前の小さな畑に麦を播いてゐるときは、二人はみちにむしろをしいて座つて、ブリキ缶で花を煮たりしました。するとこんどは、もういろいろの鳥が、二人のぱさぱさした頭の上をまるで挨拶するやうに啼きながらざあざあざあざあ通りすぎるのでした。
 ブドリが学校へ行くやうになりますと、森はひるの間大へんさびしくなりました。そのかはりひるすぎには、ブドリはネリといつしよに、森ぢゆうの樹の幹に、赤い粘土や消し炭で、樹の名を書いてあるいたり、高く歌つたりしました。
 ホツプの蔓が、両方からのびて、門のやうになつてゐる白樺の樹には、
「カツコウドリ、トホルベカラズ」と書いたりもしました。

 まさに「トリクグラズ」のように、ブドリとネリは「カツコウドリ、トホルベカラズ」という結界を張りわたしたのです。
 しかしここで、なぜ「いろいろの鳥」がブドリとネリに挨拶をしていた中で、特に「カッコウドリ」だけが、排斥されなければならなかっったのでしょうか。その理由は、カッコウがかの悪名高い「托卵」という習性を持っているからかもしれません。
 カッコウの母鳥は、モズやホオジロなど他の鳥の巣に勝手に卵を産みつけて、自分の卵をその親鳥に暖めさせるという行動をとります。そしてやがて孵化したカッコウのヒナは、巣の持ち主が産んだ卵を巣の外に放り出してしまい、自分だけが居候先の親鳥から餌をもらって、成長するのです。
 すなわち、カッコウという鳥は、本来ならば他の鳥が持てたはずのスイート・ホームを、無情にも破壊してしまうという性質を持っているのです。イーハトーブの森の奥で、親子水入らずの幸せな暮らしをしていた幼い兄妹としては、「家族」を引き裂くようなこんな不吉な鳥は、自分たちの世界に入れてはならなかったのではないでしょうか。

 つまり、ブドリとネリがホップの蔓と白樺の樹に張りわたした「結界」は、遊戯化された形をとってはいますが、自分たちの家族を守護するための呪禁だった可能性があります。これによって二人は、父母とともにまだ何の悲しみも知らないで暮らしていた、自分たちの輝かしい無垢の幼年時代を、何とかして守ろうとしたのではないでしょうか。
 しかし、やがてイーハトーブを襲った災厄によって、この「結界」は破られてしまいます。父と母は去り、ネリは誘拐され、残されたブドリも森を後にしたのでした。

◇          ◇

 最後に、幼い賢治とトシの有名な写真を貼っておきます。この一枚は、兄妹二人の祝福された幼年時代が、永遠に封入されたものです。
 撮影したのは賢治の叔父の治三郎でしたが、彼はこの翌年に27歳の若さで亡くなってしまいました。彼の死は、父政次郎をより深く仏教信仰へと駆り立てることになりますが、その意味でもこの写真は、宮澤家の誰もがまだ悲しみを知らなかった時代の、記念碑なのです。
 ちなみに、トシの後ろに写っているお飾りは「繭玉」と言って、柳やミズキなどの枝に、蚕の繭の形にした餅や団子を付けて、その年の繭の豊収を祈願するという、小正月の行事です。これも「予祝儀礼」の一種ですね。
 後ろの繭玉の存在によって、この写真には無垢の二人の輝きと、小正月の祝祭の雰囲気とが、ともにしっかりと刻印されることとなったのです。
 

賢治とトシ(明治35年小正月)
(『新校本全集』第16巻(下)より
 

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
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2014年1月13日 岡田式静座法と賢治の催眠感受性

 現代もまた、「健康」が多くの人々の関心事となっている時代です。毎日テレビショッピングには、入れ替わり立ち替わり新たな「健康食品」や「健康器具」が登場してその効能が喧伝されますが、今からおよそ100年前の大正時代にも、雨後の筍のように様々な「健康法」が現れては、それぞれがブームを巻き起こしていたのです。
 たとえば、この時期に流行していた「健康法」には、以下のようなものがありました。

岡田式静座法 (岡田虎二郎)
藤田式息心調和道 (藤田霊斎)
二木式腹式呼吸法 (二木謙三)
浅野式曖気療法 (浅野秋蔵)
石塚式食養法 (石塚左玄)
岩佐式強健法 (岩佐珍儀)
江間式心身鍛練法 (江間俊一)
大泉式一分間健康法 (大泉三朗)
銀月式実用強健法 (伊藤銀月)
弦斉式日本人標準食 (村井弦斎)
坂本屈伸道 (坂本謹吾)
自彊術 (中井房五郎)
足心道 (柴田通和)
綜統医学 (多田政一)
高野式抵抗養生法 (高野太吉)
西式健康法 (西勝造)
肥田式強健術 (肥田春充)

 これ以外にもマイナーなものは種々あったようで、現代日本で行われている様々な「健康法」も、元をたどればほとんどがこの時代にルーツがあると言われるほどです。中でも太字にした上の三つは、とりわけ多くの人々にもてはやされ、当時の「三大健康法」と呼ばれていたものです。
二木謙三 ちなみに、上から三人めの二木謙三氏(右写真:ウィキメディア・コモンズより)は、賢治の妹トシが永楽病院に入院した時の主治医だった人で、賢治も妹の病状説明を直に何度も聞くなど、浅からぬ縁がありました。この人は後に文化勲章も受章した東大医学部教授で、「鼠咬症スピロヘータ」を発見するなどして一時はノーベル医学・生理学賞の候補になったという噂もあります。一方で、今では皆が知っている「腹式呼吸」という言葉を初めて世に広め、玄米食を提唱するなどの活動もした、多面的な人物でした。

 さて、このような健康ブームの時代に思春期を迎えた賢治も、否応なくその洗礼を受けることになります。とくに彼は中学校では体操を苦手としていて、「強健な身体」というものには一種のコンプレックスを抱いていた節がありますから、こういう「健康法」に憧れるところは、人一倍あったのかもしれません。
 ということで、賢治が盛岡中学4年の1912年(大正元年)11月3日付けの父親あて手紙(書簡6)に、次のような一節が現れます。

 又今夜佐々木電眼氏をとひ明日より一円を出して静座法指導の約束を得て帰り申し候 佐々木氏は島津(ママ)大等師あたりとも交際致しずいぶん確実なる人物にて候。静座と称するものゝ極妙は仏教の最後の目的とも一致するものなりと説かれ小生も聞き囓り読みかじりの仏教を以て大に横やりを入れ申し候へどもいかにも真理なるやう存じ申し候。(御笑ひ下さるな)もし今日実見候やうの静座を小生が今度の冬休み迄になし得るやうになり候はゞ必ずや皆様を益する一円二円のことにてはこれなしと存じ候 小生の筋骨もし鉄よりも堅く疾病もなく煩悶もなく候はゞ下手くさく体操などをするよりよっぽどの親孝行と存じ申し候

 まだ賢治は16歳ですが、「小生の筋骨もし鉄よりも堅く疾病もなく煩悶もなく候はゞ…」という願望を述べている部分は、その後の彼の生涯を知る者の胸には、何か痛切に迫ってくるものがあります。晩年に、「〔雨ニモマケズ〕」に結晶する彼の思いの萌芽は、すでにここにあったのかとも感じます。
 いずれにせよ、この日賢治は「静座法指導の約束」を得て、意気揚々と帰ったのでした。

 そして、次の日の葉書で、その「指導」の結果を父に報告します(書簡7)。

謹啓 昨日の手紙の通り本日電眼氏の指導の下に静座仕り候ところ四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し今後二ヶ月もたゝば充分卒業冬休みに御指導申す決して難事ならずと存じ候 まづは御報知まで  草々 敬具

 何よりも、「電眼」という名前がいかにも怪しげでそそるものがありますが(笑)、ここで賢治は、その怪しさからの期待そのままに、「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という、得体の知れない状態に陥ったというわけです。

 そして約束どおりその冬休みには、賢治は電眼氏を花巻の自宅に連れて来て、妹と父に「静座法」の指導を受けさせました。次の文章は、その時の様子を弟清六氏が記したものです。(宮沢清六『兄のトランク』所収「十一月三日の手紙」より)

 静座法の佐々木電眼という人は中学校寄宿舎附近に住居して、独特の方法で静座法を教えていた人で、島地氏や色々の人々とも昵懇であったようである。眼光炯々とした、あまり背の高くない精力的な一種の催眠術師であったと私は思っている。
 賢治は前の手紙とこの葉書にも書いたようにこの佐々木氏の指導で静座法を何ヵ月か習った。そして冬休みにこの人を連れて家に帰ったが、父や姉にも静座法をすすめたことを私は思い出すのである。
 電眼の暗示に誘導されて、姉のとしは見るまに催眠状態になったが、父は電眼が長い時間汗を流して懸命に努力したのであったが、いつまで経っても平気で笑っていたので、遂に電眼はあきらめて、雑煮餅を十数杯平らげて、山猫博士のように退散したのであった。

・・・という落ちがついているのでした(笑)。
 ここには、賢治の妹のトシも「催眠状態」になったと書いてありますが、いったいこの「静座法」なるものの正体がどういうものなのか、私としてはすこぶる興味があります。

 「静座法」という言葉からは、上のリストの中では「岡田式静座法」が当てはまるように思われ、現に上田哲氏は著書『宮沢賢治 その理想世界への道程』の中で、これは岡田式静座法であったと推測しています。
 一方、岡澤敏男氏は、「賢治と「静座法」」(盛岡タイムス連載<賢治の置土産>)において、「晩年の昭和7年6月1日に森佐一宛の書簡で「曾て教を得たる西式の一部こゝに残存し」と述べていることから西式健康法だったと推察される」として、これは「西式健康法」だったと考えておられます。
 しかし、この「西式健康法」が創始された時期を調べてみると、「西式健康法西会本部」のWebサイトによれば、「西式健康法は、昭和二年に東京地下鉄銀座線の機械技師だった西勝造によって創立されました」(西式の歴史と西勝造先生)とあり、また「西式健康法・断食道場」のサイトには、「西勝造教授によって、大正11年(1922年)に創始され、昭和2年(1927年)に公表された健康医学です」(入寮案内)とあります。
 つまり、賢治が佐々木電眼に静座法を習った1912年(大正元年)の時点では、まだ西式健康法は誕生していなかったわけです。となると、彼が指導を受けたのは、西式とは別のものだったと考えざるをえません。

 一方、岡田虎二郎氏が東京で「静座法」の指導を始めたのは、1904年(明治37年)ということですから、こちらは賢治が指導を受けた時期との関連では問題ありません。
 何よりも私が、この賢治の習った静座法は「岡田式」だったろうと考える理由は、岡田式静座法のユニークな特徴として、静座をしている人が、意図せずに「動揺」あるいは「振動」と呼ばれるような、独特の身体の動きを呈し始めるという点があります。これこそが、賢治が「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」と描写したところの現象だったのだろうと思うのです。

岸本能武太『岡田式静座三年』 たとえば、岸本能武太という人が1915年(大正4年)に著した『岡田式静坐三年』という本では、この「動揺」について、次のように述べられています。


第四章 身體の動揺

  第一節 静坐法と身體の動揺
   ▲動揺に関しての誤解と疑惑

 岡田式静坐法が、予の郷里なる岡山地方に輸入せられたのは、數年前の事であるさうだが、初めてこれを傅へた人が間違へて居たものか、或は彼れに習つた人々が、彼れを誤解したものか、岡田式静坐法の要領は、身體の動揺にあると考へられたものと見えて、今日に至るまでも同地方の人々は、静坐法と云へば身體の動揺を聯想して、身體さへ動揺すれば、それで静坐法を了解し得たかの如くに誤解し、「私は岡田式にかゝつた」とか、「あの人はまだかゝらぬ」とか云ふ時は、単にその人の身體の動揺如何を、意味することゝなつて居ると云ふ話である。
 一方には斯く動揺を欲する人々のあるに反し、今一方には動揺に関して疑惑を以つて居る人々が決して少なくない。實際静坐會などに於て、多くの人々が頭を振つたり手を動かしたり、色々様々に身體を動揺して居るのを見ると、如何にも狐つきの寄り合ひの如く、氣違ひの集會の如く思はれる。

 「狐つきの寄り合ひの如く、氣違ひの集會の如く」とは、相当に異様な雰囲気だったのでしょう。
 この少し後の箇所では、その「動揺」の様子が、さらに具体的に描写されます。

   ▲動揺の種々

 此の身體の動揺には、色々種類がある。手を動かす人もあれば、頭を動かす人もある。肩を動かす人もあれば、腰を動かす人もある。頭の運動にも、或は前後に或は左右に、種々の運動がある。手の運動にも、その通りで、縦に振るものもあれば、横に振るものもあるが、握り合せた儘の兩の手で、下腹をポンポンと打つのが、最も普通の形である。或は端座の儘で、にじり廻る人もあれば、ピョンピョンと飛び廻る人もある。懸け聲を懸けて叫ぶ人もあれば、又妙な聲を出して唸る人もある。其れも三十分なり一時間の間、同じ運動を反復する人もあれば、運動を種々様々に變更する人もある。忽ち静かに、忽ち騒がしく、いまは石地蔵の如く、次には夜叉の如く、千態萬状の動揺を演ずるは、是れ實に静坐會の實況である。

 ということで、「静坐会」という名前とは裏腹に、これはもう「大騒ぎ」ですね。思えば20年ほど前に、とあるカルト宗教の創始者が、胡座をかいた姿勢で跳び上がっている写真を見せて、「超能力による空中浮遊だ」とか言っていたことがありましたが、大正時代には一度にたくさんの人々が正座をしたままであたりをピョンピョン飛び廻っていたというのですから、これはもう壮観の一語に尽きます。
 賢治の場合の「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」というのも、まさにこの「動揺」なのでしょうし、佐々木電眼という人も、きっとこの「岡田式静座法」の流れを汲んでいたのだろうと、私は思います。

 賢治が、一時的にであれこんな怪しげなものに熱中したことについて、上田哲氏は『宮沢賢治 その理想世界への道程』の中で、「わずか十六歳の少年が、疑似宗教的でシャーマニズム的傾向をもつ静座法などに関心をもち健康法の指導者というより行者的性格をもつ怪しげな施療師のところを進んで訪ね入門するなどということはいくら時代が違うといっても異様な感じがする」と述べており、確かに現代から見れば、そういう印象も受けてしまいます。
岡田虎二郎 しかし当時は、この創始者の岡田虎二郎という人は、独特の風格で人間的にも広く尊敬を集め、あの田中正造翁をして、「今度こそは我国にも聖人が生まれました」と評せしめ、また「岡田先生は福徳円満の御相で、奈良新薬師寺の本尊のよう」とも言われたということです。(右写真は『岡田式静坐三年』より)
 新宿中村屋を創業した相馬黒光女史は、明治44年から大正9年まで一日も休まずに静座会の道場に通ったということですが、その回顧録『黙移』の中では、

この道場にはおよそ社会の各層各階級の人が集まっていました。徳川慶久公、水戸様、二荒伯、相馬の殿様をはじめとして、有爵の方々、実業界の錚々たる人々、学者、芸術家、教育家、基督教徒、僧侶、芸人、相撲取、学生等々いちいち挙げるには限りもないほどでした。

と、その盛況ぶりを記しています。
 最盛期には、東京の百数十箇所で「静座会」が開かれ、会員は2万人にも及んだということですから、賢治は決して異端のカルト的な集団に身を投じたわけはないのです。
 当時の社会流行の波に、一時的に染まってみたにすぎなかった、ということだと思います。

 ただ、この創始者の岡田虎二郎は、静座法が隆盛を極めている真最中の1920年(大正9年)に、48歳の若さで急死してしまいます。死因は尿毒症で、長年の無理がたたったのだと言われましたが、「健康法」のカリスマ的な指導者が、自らあっけなく死んでしまったとなると、その「効果」に疑念の目が向けられるのも無理はありません。その後はまるで熱が冷めたかのように、ブームもあっけなく去ってしまったということです。

◇          ◇

 さて、ここで賢治が「静座」において呈した「全身の筋肉の自動的活動」、すなわちその信奉者の表現では「動揺」あるいは「振動」という現象について、ここで私はもう少し考えておきたく思います。

 この現象に対して宮沢清六氏は、トシの状態を「催眠状態」と表現し、佐々木電眼のことも「一種の催眠術師」と考えています。
 当時、心霊現象を研究していた心理学者の福来友吉博士も、この身体の「動揺」の原因を「意識統一の欠乏」にあるとして、これは「舞踏病、精神病、催眠術等における『自動作用』すなわち Automatic action と同一のもの」と断じました。
岸本能武太『岡田式静坐の新研究』 しかし、岡田式の信奉者側は、これを「催眠」と解釈されることに対しては強い反発があったようです。上にも登場した岸本能武太氏は、福来博士が「彼らはまず触覚を失い、視覚を失い、聴覚を失い、遂に全く無意識になる」と述べていることに対し、1921年(大正10年)の著書『岡田式静坐の新研究』において、次のように反論します。

併しながら少しでも静坐法を正式に練習した人々は、何人でも直ちに、此説明が如何に事實に正反對であり、同時に福來博士が、静坐法に關して無知で、又學者として如何に無責任であるかを感ぜぬものは無いであらう。若し萬一にも所謂静坐法を實行する者にして、福來博士の云はれる如く、全く無意識になることがあるならば、そは決して『岡田式静坐法』ではなく、何か全く別の物であると云はねばならない。岡田式静坐法では、静坐中と雖も、我等は徹頭徹尾有意識であつて、決して無意識ではない。

 そして、この静座中の「動揺」は、「無意識ではないが、無意志である」ということを強調して、さらに次のように説明します。

 茲で私の先づ第一に極めて置きたいのは、此の動揺が、故意でなく自然であると云ふことである。自分が意志の力で、勝手に身體を動揺させるのではなく、意志に關係なくして、身體が自然に振動するので、これは静坐法實行者の大多数の等しく經験する所である。
 又斯く身體が振動して居る時に、静坐者自身は、自分の身體が振動して居ると云ふことを知つて居るか居ないかと云ふに、前にも一寸述べた様に、我等は決して無意識に振動して居るのではなく、振動して居ると云ふことをよく知つて居るのである。自分が振動して居ることを知つて居るのみならず、隣に坐って居る人が振動して居ると云ふことも分つて居る。たとへば岡田先生が『今から始めます』と云はれて静坐を始め、三十分なり一時間の後に、『ソロソロ目を開けて』と云はれる時に、一同が目を開けて静坐を止めると云ふ一事から考へて見ても、岡田式に於ける身體の動揺は無意ではあるが、無意では無いと云ふことが分らう。此の無意(Unconscious)と無意(Involuntary)とは、必ず明白に區別せねばならない。

 つまり、静座中にピョンピョン飛び廻ったり、お腹を叩いたり、叫び声や唸り声を上げたり、人々がいくら奇妙な動きをしていようとも、それは通常の「催眠」下の現象とは異なって、あくまで自分で「意識している」状態だというのです。一方で、その際の身体の動きは、本人にとって「故意の」ものではなくて、「自然な」「無意志の」ものである、というのです。

 となると、これは果たしてどういう現象なのでしょうか。この「動揺」を心理学的あるいは医学的に位置づけてみると、これは19世紀末にピエール・ジャネが著書『心理学的自動症』(1889)の中で定式化したところの、「部分自動症」というものに、該当すると思われます。
 すなわち、この「部分自動症」においては、確かに本人に「意識」はあって、他人と会話したりすることもできるのですが、身体はその「意志」とは別に、何か「勝手に動く」ような現象を呈するのです。その例としては、「自動書記」という現象が有名ですが、「コックリさん」という遊びで現れる動きも、それに該当します。

 そうであれば、これはやはり広い意味での催眠現象の一種だということになります。ただその際には、通常の催眠状態のように外界の刺激に反応しないような「無意識」には陥らないものの、やはり意識の覚醒水準は多少なりとも低下して、随意的な身体の統御能力が、若干減弱していることになります。
 「岡田式静座法」では、静座の最中は目を閉じて下腹部の「丹田」に力を集中しつづけるという方法をとりますから、これをしばらく続けるうちに、意識は保ちながらも軽度の自己催眠状態に入り、身体が意志から離れて「動揺」を始めるものと思われます。

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 さて、次に私として興味があるのは、賢治が「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態になったのは、岡田式静座法を行っていた他の一般の人々に比べて、早い方なのかどうなのか、ということです。

荒井倉三郎『實験 岡田式静坐法』 荒井倉三郎という医学士が1917年(大正6年)に著わした『實験 岡田式静坐法』には、静座に伴って起こる身体の動揺について、次にように記されています。

 元來、身體の動揺は静坐の目的ではない。静坐中人によつて自然的に伴生する現象である。故に、動揺が起つても、喜嬉するにも當らなければ、又た動揺が起らないからといつて、必ずしも心配する必要もない。動揺の起る起らぬは全然意に介しないが可い。
 現に親しく岡田氏の指導を受けて、熱心に静坐を行つて居る人々の中にも、身體動揺の現象は、二三日にして起つた人もあれば、既に三年餘も熱心に行つて居ても些しも起らない人もある。故を以て早く動揺の起つた人は早く堂奥に入り、數年後の今日も未だ動揺の起らない人は未だ静坐の堂奥に入つて居ないのかといふと、必ずしも然うではない。二三日にして動揺の現象があつても、未だ堂に入つて居ないものもあれば、三年五年經つても動揺しなくても妙境に達して居るものもある。

 すなわち、「親しく岡田氏の指導を受けて、熱心に静坐を行つて居る人々の中にも、身體動揺の現象は、二三日にして起つた人もあれば…」ということで、ここでは「動揺」が早く起こる例として、「二三日」という所要期間が挙げられているわけです。
 これはもちろん、動揺を起こすまでの「最も早い記録」というわけではないでしょうが、こういう箇所で例として挙げられているからには、「二三日」で動揺が起こるというのは、一般的には「早い方」だと考えてよいでしょう。
 すると、賢治が指導を受けたその初日に、開始わずか「四十分」で、「全身の筋肉の自動的活動」に入ったというのは、これは「かなり早い方」なのではないでしょうか。

 一般に、ある人がどのくらい催眠術にかかりやすいかという程度のことを、「催眠感受性 hypnotizability」と呼びます。
 この言葉を用いて上記を言いかえると、賢治が静座法を始めると一般人よりもかなり早くに軽催眠状態としての「身体動揺」に入ったという事実が示唆するのは、「賢治は普通よりもかなり催眠感受性が高い人だった」ということになります。
 もちろん、妹のトシも「見るまに催眠状態になった」と清六氏は記していますので、やはり催眠感受性は高かったということになります。一般に男性よりも女性の方が催眠感受性は高いものであり、また兄妹ですから、生得的な素質も似ていたのでしょう。

 ということで、今回長々と静座法などというものについて調べてきた目的は、結局このことを確認したかったのです。
 すなわち、「宮澤賢治の催眠感受性の高さ」です。

◇          ◇

 さて私は、宮澤賢治の作品のみならず、このちょっと変わった人の「人となり」にも興味がありますので、彼の作品を読んだり、その伝記的なエピソードを調べたりして、彼がどんな性格の人だったのか、どんな「心性」を持った人だったのかと、いろいろと間接的に推測してみたりします。
 現代ならば、さまざまな「心理テスト」と呼ばれるものがあって、これもまた間接的な手段ではありますが、書いたものから想像するのとはまた別の角度から、その人の心理的な特徴について、多少は客観的な傾向を抽出できる可能性もあります。
 しかしもちろん、すでに亡くなってしまった人に対しては、「心理テスト」を施行することはできません。

 そのような制約の中で、ここで得られた「催眠感受性が高い」という所見は、その人の心理的傾向に関して、それなりにまとまった情報を、私たちに与えてくれます。

 まずこれが示唆するのは、その人が催眠という特殊な方法のみならず、さまざまな周囲全般からの刺激に対して、人一倍強い感受性を持ち、それに影響されやすい傾向があるのではないか、ということです。
 賢治という人が、自分の周囲の世界から、視覚的にも、聴覚的にも、嗅覚的にも、あるいは皮膚感覚的にも、様々な事柄を敏感に感じとって、それに触発されてまた多彩なイメージを紡ぎ出したということは、この傾向の一つの表れと考えることができます。童話や詩に表現された、あの絢爛たる世界です。

 また「催眠感受性の高さ」は、周りの人の感情状態に対して、より共感しやすく、共鳴・共振しやすいという傾向とも関連しています。
 賢治が子供の頃から、周囲の人の痛みを自分の痛み以上に鋭く感じてしまい、たとえば怪我した子の指を口に入れて血を吸ってやったとか、学校で罰として水の入った椀を持って立たされている子に同情して水を飲んでしまったとかいうようなエピソードにも、それは表れているように思います。大人になってからも、自分を犠牲にしてまで他人の幸せのために尽くそうとするところなどもそうです。

 また、ふと何事かに心を奪われてしまって、周囲の状況も忘れて「心ここにあらず」という状態になることを、「没入 absorption」と言いますが、催眠感受性の高い人は、この「没入」状態になりやすい傾向もあります。
 多くの人が回想しているように、賢治は何かに感動すると、目の前にいる人のことも忘れて「ホッホー!」などと叫んで走り出すということがしばしばあったということですが、これも一つの「没入」状態でしょう。これ以外にも、「心ここにあらず」という様子になることは、よくあったようです。

 事あるごとに、自分の中でどんどん空想を膨らませていって、気がつくとお話の世界に浸りきっている、というような状態になりやすい人のことを、「空想傾性 fantasy proneness」が高い、と言いますが、催眠感受性はこの空想傾性の高さとも、相関していると言われています。
 賢治の作品世界の、あのファンタジーの豊かさを思うと、彼は人一倍「空想傾性」が高かったのではないか、という気もします。

 さらに、賢治の作品とりわけ詩を読んでいると、彼は時に本当に「幻覚」を体験していたのではないかと思わせる箇所に、しばしば遭遇します。賢治の作品に出てくる幻覚的描写は、たいてい疲れた時やぼーっとしている時など少し覚醒水準が下がっている状態で現れ、自分に呼びかけられたり自分もそれに答えて会話をするような形をとります。そして、賢治自身には最初から、それが現実の知覚ではなくて幻覚であることがわかってします。
 人間が体験する「幻覚」にもいろいろな種類があるのですが、今挙げたような特徴は、「解離性幻覚」と呼ばれているタイプに合致します。
 そして催眠感受性は、この「解離性幻覚」を起こす心理機制としての「解離」という現象とも、関連しているという説があります。そうであればこれは、賢治が実生活において解離性幻覚を体験をしやすかったということと、関連づけることができるでしょう。


 とまあ、このようにいろいろ推測を重ねたからと言って、何がどうなるわけでもないのですが、宮澤賢治という「変わった人」の心性を、少しでも解き明かせないかと思い、彼にはこの世界がいったいどんな風に見えていたのだろうと思い、私としてはあれこれ考えてみている次第です。

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2013年12月23日 春日明神さんの帯(メモ)

 童話「風の又三郎」において、三郎は谷川の岸の小さな村に、地元の子どもたちが知らないようなさまざまな話を、外部の世界からもたらします。みんなは、三郎が帯びている「異界」の雰囲気に一方で畏れをいだきながらも、だんだんと親しみを覚えていきます。
 下記の箇所でも子どもたちは、三郎のとっぴな形容に興味を引かれます。その意味するところについて、みんな本当は三郎にあれこれ質問をしたかったでしょうが、彼我の間に横たわる見えない距離を計りかねて、結局は黙ってしまいます。こういう何気ない子どもの雰囲気描写も、賢治らしく素敵にユーモラスな箇所です。

 四人は林の裾の藪の間を行ったり岩かけの小さく崩れる所を何べんも通ったりしてもう上の原の入口に近くなりました。
 みんなはそこまで来ると来た方からまた西の方をながめました。光ったり陰ったり幾通りにも重なったたくさんの丘の向ふに川に沿ったほんたうの野原がぼんやり碧くひろがってゐるのでした。
「ありゃ、あいづ川だぞ。」
「春日明神さんの帯のやうだな。」又三郎が云ひました。
「何のやうだど。」一郎がききました。
「春日明神さんの帯のやうだ。」
「うな神さんの帯見だことあるが。」
「ぼく北海道で見たよ。」
 みんなは何のことだかわからずだまってしまひました。

 子どもたちは、三郎が実は風の精霊だろうと半分信じているのですから、それならどこか異界において、その目で「神さんの帯」を見ていてもおかしくはないと思い、しかし次にはそれが「北海道で見た」などと現実的な話に接続してしまうものですから、いったいその話をどのレベルで受けとめたらよいのか、わからなくなっているんですね。
 しかし、作者によるこの物語世界の設定においては、三郎は(ちょっと変わったところはあるけれど)あくまでも普通の人間の子どもです。妙に科学的な説明を述べる場面はあっても、その逆に神様の姿を直に見るなどという、超自然的体験を期待されている役柄ではありません。
 ですから、この「春日明神さんの帯」というのは、何か現実世界の中で一般人も見ることができる、「物」のはずです。

 ではいったいこれは何なんだろうというのは、誰しも気になるところだとは思いますが、ここで例によって『定本 宮澤賢治語彙辞典』を繙いてみると、この言葉は次のように説明されています。

 春日明神の帯 かすがみょうじんのおび 【文】【レ】 文語詩[岩手山巓]や童[風の又三郎]等に出てくる「帯」や「おん帯」は、春日神社(春日大明神、春日権現とも)の社殿正面の礼拝所に梁から吊り下げられている銅製の鰐口(金口とも)をガランガランと鳴らすのに、太い布で編んだ綱(たいてい紅白の)と一緒に垂らしてある布(たいてい二本)を、和服にしめる兵児帯に診立てた呼称と思われる。あるいは賢治の機知の命名か。

 つまり、神社で参拝する時に、「鈴」や「鰐口」(銅鑼を二枚合わせたような形の扁平な鈴)を鳴らすために下げられている「綱」または「紐」、あるいはそれと一緒に垂らしてある「布」だというわけですね。ちょっと調べてみると、この索状物の名前は、「鈴の緒」というのだそうです。
 なるほど、確かにこれも一つの解釈だとは思うのですが、しかし私としては、何となく違和感が残るところはあります。

 たとえば、三郎は高いところから川の流れる様子を見て「春日明神さんの帯のやうだ」と言っていますが、紅白だったり茶色だったりするこの太い「鈴の緒」の、一体どういうところが、「川」に似ているのでしょうか。
 また、私も行って確認してきたのですが、少なくとも奈良の「春日大社」正面の参拝所には、「鈴」や「鈴の緒」は存在しないのです。そのことは、ネット上ではたとえばこちらの画像を見ていただければわかります。そもそも、神社で鈴をガラガラと鳴らして拝むようになったのはおもに戦後のことで、それ以前には正面の「鈴」は、現在ほど一般的ではなかったということです。

 ということで、この言葉について何となく釈然としないまま日々をすごしていたところ、たまたま先週12月17日には、春日大社の祭礼である「春日若宮おん祭」が、奈良で盛大に執り行われました。これに合わせて、今ちょうど奈良国立博物館において、「おん祭と春日信仰の美術」という特別陳列が開催中であることを知り、何か少しでも「春日明神さん」について参考になることはないかと思って、昨日は冬至の奈良へ出かけてきたのです。

◇          ◇

特別展図録『おん祭と春日信仰の美術』 その特別陳列の内容に行く前に、そもそも「春日明神」とはどういう神様なのかということについて、まずは知識の整理をしておきましょう。調べてみると、これがけっこう複雑なのです。

 奈良の「春日大社」は、摂関家藤原氏の氏神として尊崇され発展していきますが、そのルーツをたどると、奈良盆地の東に位置する春日山・別名御蓋山(みかさやま)が、古代から「神奈備の山」として人々から受けてきた、素朴な信仰に行きつくようです。
 遣唐使の阿倍仲麻呂が、遠い異国の地で故郷を懐かしんで詠んだ歌、

天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に いでし月かも

にこめられているように、古くから春日の山は、この奈良の地で暮らす人々にとって、心のよすがだったのでしょう。
 この春日のあたりに、藤原氏も何らかのゆかりを持っていたと推測されていますが、その後着実に朝廷における地位を高めた藤原氏は、768年に常陸国の鹿島神宮から武甕槌命(たけみかづちのみこと)を、下総国の香取神宮から経津主命(ふつぬしのみこと)をそれぞれ勧請し、この地に自らの氏神として、「春日社」を創建します。
 『古社記』によれば、御蓋山には古くから老神が住んでいたが、鹿島大神が南大和の安倍山に着いた際、老神は御蓋山を譲って自らは安倍山に退去したものの、その後安倍山の閉居は堪えられなくなり、御蓋山に帰還を請うて許され、春日社の片隅の榎本神社で、地主神として祀られるようになったということです。

 その後、都は平安京に遷り、南都は全体としては寂れていきますが、栄華を極める藤原氏の氏神である春日社は、篤い保護を受けつつ威厳を保ちつづけました。そして伊勢神宮、石清水八幡宮とともに、日本の「三社」と並び称されるようになっていきます。
 しかしその一方で、同じ藤原氏の氏寺であり、隣に広大な敷地を構える興福寺との関係が、徐々に微妙になっていったのです。
 平安時代には、人々の神と仏に対する信仰が混じり合っていく「神仏習合」が広く進展しましたが、この一体化は、「仏」こそが超越的存在の本質であって、日本固有の「神」はその仏が仮の姿をとって現れたものにすぎないという、「本地垂迹説」に基づくものでした。すなわちこれは、「神」よりも「仏」を上位に置く思想で、当時は仏教の方が、国家権力と密接な関係にあったことを反映しています。

 仏教と権力との結びつきを梃子にして、大規模な石清水八幡宮や八坂祇園社においても、その祭祀の実質的な権限は、神宮寺の僧侶が行うようになっていましたが、興福寺の僧侶も、何とかして由緒ある春日社の祭祀権を握ろうと、摂関家に対してさまざまな働きかけを行います。しかし春日社側も、それを何とか食い止めていました。
 ところが平安末期になって、ついに一線が越えられます。すでに1003年に、春日社第四殿に小さな蛇が現れ、これを機に小さな祠が設けられていましたが、その後旱魃や疫病が流行したのは、この時顕現した春日神の御子=若宮を正しく祀っていないからだと、興福寺の大衆(僧侶集団)が主張しはじめます。そして興福寺側は、春日社の中に「若宮」を正式に祭祀することを発願し、それは摂関家を通して官から認められ、1135年に春日社に「若宮」が鎮座することとなりました。そして翌年からは、現在まで盛大に続く「若宮おん祭」が毎年挙行されることとなったのです。

 それまでの春日社の信仰は、藤原摂関家や朝廷など最上流階級に限られたものであったのに対して、「若宮お若宮おん祭の「風流傘」ん祭」の基盤には興福寺三千衆徒のエネルギーがありました。またこの祭の背景には、京都の祇園祭のように疫病や災害を鎮めるために「神様をもてなし喜ばせる」という目的があったので、様々な趣向を凝らした「風流行列」や、競馬、流鏑馬、舞楽、田楽、猿楽、相撲など、一般庶民にとっても見ていて楽しい催し物が尽くされます。右写真は、頭に豪華な「風流傘」を載せて歩く、田楽座の人です。(上田正昭編『春日明神』筑摩書房より)

 このようにして祭りの人気が人々の間に浸透するにつれ、「春日明神」に対する信仰も、各地に広まっていきました。もとは一貴族が自らの氏神として、一門の繁栄を祈三社託宣掛物願する対象であった神が、一般庶民も様々な思いを託して祈る神となったのです。それとともに、奈良以外のあちこちに「春日神社」ができていくこととなり、現在「神社ポータルサイト日本神社」というサイトで検索すると、全国で「春日神社」という神社は、58社あります。ちなみに三郎は、北海道で「春日明神さんの帯」を見たと言っていましたが、北海道には「春日神社」は存在しないようです。
 右図は、室町時代から近代に至るまで、庶民の家に掛けて拝まれた「三社託宣掛物」というもので、先に述べた日本の「三社」、すなわち伊勢神宮、石清水八幡宮、春日大社の三つの祭神である天照皇太神宮、八幡大菩薩、春日大明神を並べ、それぞれの神徳である、「正直」(伊勢)、「清浄」(八幡)、「慈悲」(春日)というモラルについて説明を加えたものです。(上田正昭編『春日明神』より)
 このようなところにも、「春日明神」に対する信仰が、全国津々浦々の民衆にまで広がっていたことが、表れています。

 というわけで、かなり繁雑な話になってしまいましたが、春日の神様は奈良にかぎらず、広汎に信仰を集めており、しかも単に「春日明神」と言っても、一柱の神様だけを指しているわけではないのです。
 最初に春日社が創建された時には、これは「春日四所大神」と呼ばれ、鹿島から勧請された武甕槌命(たけみかづちのみこと)、香取から勧請された経津主命(ふつぬしのみこと)、それに(おそらく中臣氏→藤原氏のルーツである)枚岡から勧請された天児屋根命(あめのこやねのみこと)、そしてその妃神である比売神、という四柱の神々を指していました。
 それに加えて、上述のように平安末期に新たに鎮座した、「若宮」=天押雲根命(あめおしくものみこと)を合わせ、その後は「春日五所大神」と呼ばれるようになっています。
 つまり「春日明神」の実体は、この五柱の神々の総称ということになるわけです。

◇          ◇

 ということで、ようやく奈良国立博物館の「おん祭と春日信仰の美術」の話に移ります。
 「春日明神さんの帯」という言葉を文字どおり解釈すると、童話の中で一郎がストレートに質問したごとく、「神様が締めている帯」ということになります。ただここで私たちとしては、「仏様」ならばさまざまな仏像を見慣れていますから、その身なりについても馴染みがありますが、神道の「神様」がどんな帯を締めているのかと言われても、ちょっとピンときません。
 はたして春日明神の衣装について、具体的に知ることはできるのでしょうか。

「鹿島立神影図」(春日大社蔵) これに関しては、今回の特別陳列で展示されていた「鹿島立神影図(かしまだちしんえいず)」というものが、五所大神のうちで第一殿にに祀らていれる、武甕槌命の姿(神影)を描いています。(右図は、『おん祭と春日信仰の美術』図録より)
 これは、武甕槌命が常陸の鹿島神宮から御蓋山にやって来たという伝承を絵にしたもので、神様は、当時の貴人の衣装である「束帯」を身に付けています。そして乗っているのは馬ではなくて、鹿島と奈良との縁を象徴する動物=鹿であるところが特徴です。後ろの金色の円は御神体の鏡で、ここではほとんど見えませんが、その中には春日の「五神」の各々の本地仏とされる、釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩、観音菩薩、文殊菩薩が描かれています。
 画面一番上に描かれた山は御蓋山で、一番下に控える二人の随身は、後の春日社司の祖先とされる人々です。

 さて、この絵ではあまり大きくは見えませんが、赤い「」と呼ばれる上衣の腰のあたりとお腹のあたりに、少しだけ黒い部分が覗いています。これが、「石帯」と呼ばれる帯で、当時の束帯装束で用いられたベルトなのです。材質は黒皮製で、背中の方には瑪瑙やサイの角などの飾り石を縫い付けてあるため、この名前があります。黒い色は、漆を塗ってある鹿島立神影図ためで、かなり硬いものだったようですね。「石帯」の画像検索結果を見ていただくと、大体どんなものかおわかりいただけるでしょう。

 ということで、まずはこれこそが、文字どおりの意味で、「春日明神さんの帯」であるわけです。
 しかしこんな黒色の単なるベルトでは、「高所から眺めた川の流れ」の比喩としては、全くピンときません。『語彙辞典』における「鈴の緒」と、五十歩百歩と言ったところでしょうか。
 念のために右に春日明神さん部分の拡大図を載せておきます。帯の背中の方の部分には、飾り石が見えているかもしれません。
 ただいずれにせよ、この春日明神の図像における「帯」を、「風の又三郎」で使われた比喩に結び付けるのはむずかしいようですね。

「春日赤童子像」(植槻八幡神社蔵) 次に、春日明神の中でも最も遅く登場し、「おん祭」の主人公として大活躍するところの、「若宮」の図像です。
 これは、「春日赤童子像」というものですが、こちらの神様はさっきの絵の神様の上品さとはかなり違って、さすがに災害や疫病などの祟りをなす暴れん坊の神様だけあります。手には棒杖を持ち、顔は忿怒相です。(右図は、『おん祭と春日信仰の美術』図録より)
 上半身は裸で裳を巻き、ストールのような腰布を付け、これは不動明王の侍者である「制多迦童子」の姿に基づいていると考えられています。
もとはインドの衣装なのでしょう。
 そしてここには、何か一風変わった装飾を伴う腰帯が描かれているのですが、はたして具体的にどんな帯なのか、これだけでははっきりしません。

 ということで、こちらの「春日明神さんの帯」は、デザイン的にはかなり興味深いものの、詳しい形状は不明です。それに、これを「川の流れ」の比喩として用いるには、やはり疑問が残ります。

 以上の二点が、今回の特別陳列に出されていた品々の中で、「神様の帯」という表現に、直接当てはまるものでした。
 しかしこれ以外にも、「若宮おん祭」には様々な豪華絢爛な装束を着た人々が大勢行列をなして出てくるわけですから、そこにはまた多彩な「帯」が登場します。
 それらは、厳密には「神様の帯」ではありませんが、「春日明神のお祭りで見られる帯」ではあります。この種のものまで範囲を広げて調べるとなるとかなり大変になってきますね。
 ただ、今回の特別陳列においては、現物の「帯」としては一つだけ、展示されていた品がありました。

 それは、若宮が遷幸した先の「御旅所祭」で行われる舞楽の一つ、「納曾利」という舞いで使われる装束に巻く「銀帯」です。(下図は、『おん祭と春日信仰の美術』図録より)

納曾利装束銀帯

 これは、腰のあたりで背中側に見えるように巻く帯だそうで、安土桃山時代に作られたものということですが、今も鈍く輝く銀色が、とても印象的でした。その形が、はたして「川の流れ」の比喩として適切かどうかはわかりませんが、この色だけは、遠くから眺めた川面の輝きの形容として、悪くないかなと思いました。

◇          ◇

 以上、いろいろと見てみましたが、結局のところ「春日明神さんの帯」という比喩が何を表しているのか、春日大社や若宮おん祭に関連した品々をざっと見るだけでは、よくわかりませんでした。
 お読みいただいて、何かますますこんがらがってしまったというお叱りを受けるような感じもしますが、これもひょっとしたらどなたかの参考になるかもしれないと思い、今回調べたことをここにそのまま記しておきます。

【参考文献】
・上田正昭編『春日明神 氏神の展開』(筑摩書房,1987)
・奈良国立博物館特別陳列『おん祭と春日信仰の美術』図録(2013)

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