2015年6月15日 「探索行動」としてのサハリン行

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)

 トシの死(1922年11月23日)から半年あまり経った1923年6月4日の、この「白い鳥」という作品において、賢治は自らの喪失感を、悲しげな鳥の啼き声に重ね合わせています。
 賢治自身、鳥に対するこのような感情移入の当否に関して、「それは一応はまちがひだけれども/まつたくまちがひとは言はれない」と保留していますが、はたして実際に鳥は、大切な仲間を求めてこのように啼くということがあるのでしょうか。

 動物行動学者のコンラート・ローレンツは、つがいの相手から引き離されたハイイロガンが示す反応について、次にように書き記しています。

 相手の姿が見えなくなると、これに対する最初の反応として、ハイイロガンは相手を見つけ出そうとして全力を尽くす。ひっきりなしに、文字通り昼夜の別なく三音節の遠なきをして、せかせかと興奮しながら、住みなれたあたりの、ゆくえ不明になった相手といっしょに常日ごろいた場所をかけめぐり、捜索の範囲をだんだん広げ、たえず鳴きながら広く飛び回る。(K.ローレンツ『攻撃』)

 このハイイロガンの様子は、まさに「鋭くかなしく啼きかはしながら」飛ぶ「白い鳥」のようですが、このようにして失った相手を「探索」しようとする行動は、動物に見られるだけではありません。実は人間も、喪失体験の際には同じような行動をとるのです。

 イギリスの精神科医で死別体験の心理とケアを研究するコリン・M・パークスは、その著書『死別』の中で、次のように述べています。

 死別を体験した成人は、死別した人を探し求めることが無意味だということは十分に承知しているが、だからといって、強い探索衝動がおさまるはずがないと、私は断言できる。探すことが不合理だと判っているからこそ、これこそが自分がやりたいことだと思うことに抵抗するのである。もっとも、死別を体験した成人の中には、自分の行動に不合理なところがあるという洞察を既に持っている者もいる。
 「あらゆる所で、亡夫を探さずにおれません。――彼を探してさまよい歩きます。――どこかできっと見つけ出せるという気がするのです」。ロンドン調査の被験者の未亡人は、夫の死後一週目にそう語っている。死んだ夫に会いたい一心で、降霊術者の会合に出るつもりでいたが、結局行かないことに決めた。やはりロンドン調査の被験者である別の未亡人は「私はまさに空虚を無駄に探していたのです」と語り、また別の未亡人は、「私はお墓に行くんです……でもそこにはいませんでした。まるで夫に引き寄せられているようです」と語っている。

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 このように、大切な人を失った後の「悲嘆」の過程にある人は、しばしば亡くした人を懸命に探し求めようとすることがあります。パークスはまた、第二次大戦で息子を亡くしたオーストラリア人の両親が終戦後にイギリスに「息子を探しに」来たり、イギリス人の両親がベルギーに行ったりした話も紹介しています。
 はるばる外国まで死者を探しに行くこれらの人々は、目的地に着いても死者に会えるわけではないことを、本当は知っています。それは本人もよくわかっているのに、それでもやむにやまれぬ気持ちに駆られて、どうしても行かずにはいられないのです。
 このような現象を、パークスらは「探索行動」と呼びました。そしてこれは程度の差はあれ、正常な大人にもかなり広く見られる反応であると述べています。

 また、やはりイギリスの著名な児童精神科医であるジョン・ボウルビイは、次のように書いています。

 この見解をさらに進めて、悲嘆が健全な過程をたどっている死別者においては、失った人を探し求め取り戻そうとする衝動が、初期の数週間そして数か月間にしばしば生じ、その後時がたつにつれて徐々に消えていくこと、そそてその経験の程度は、個人により大きな差があることを私は示唆した。ある人たちは失った人を意識的に探し求めるが、他の人たちはそうではない。ある人たちは進んでそのことに熱中するが、他の人たちはそれが不合理でばかげているとして隠そうとする。自分の衝動に対して、どちらの態度をとるにしろ、死別者はそれでもなお死んでしまった人を探し求め、もしもできることなら、取り戻そうとしている自分を認めないわけにはいかない。

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 死んでこの世にいない人を探し求めるという一見不合理な行動は、別に異常なことでも何でもなく、悲嘆において誰しも経験する「健全な過程」なのです。

 さて、このような観点から見ると、賢治がトシの死後8か月あまり経ってから、妹の行方を追うような気持ちでサハリンに向かったのは、死別体験者における典型的な「探索行動」だったと言えます。
 この旅行において、賢治は単にトシとの「通信」を求めていただけではなくて、「トシのもとへ行こうとしていた」のだろうということについては、以前に「オホーツク行という「実験」」という記事で触れました。賢治がこの時、ある種の超自然的な形でのトシとの遭遇を期待していたと思われるところは、上のパークスの引用で、夫と会うために「降霊術者の会合」に出ようとしたという女性のケースと通じるところがあります。
 またパークスは、降霊術を遺族の関わりについて、次のように記しています。

 降霊術は遺族が亡くした人を探し求めることを助けるのを標榜しており、私が種々の調査で出会った遺族のうちの七人は、降霊会もしくは降霊術者の教会を訪れたことがあった。彼らの反応は様々で、いく人かは故人との何らかの接触が得られたと感じており、これに驚いた人もいた。彼らはこうした経験に満足を感じることはなく、降霊術者の集会の常連になった人はひとりもいなかった。

 それまでの人生において、「降霊術」などというものに関心を持ったことなどなかった英国の婦人が、しばしば死別の後には足を運ぶことがあったことを思えば、以前から「異界」への親和性を持っていた賢治が、何か通常ではない形で、トシと交信したりそのもとへ行けると思ったりしていたとしても、別に不思議はないという気がします。

 このように「探索行動」というものが、洋の東西を問わず、大切な人を亡くした人に広く見られる現象であるということを知れば、死んだ恋人エウリディケを連れ戻しに冥界へ行ったオルフェウスの登場するギリシア神話と、死んだイザナミノミコトを連れ戻しに黄泉の国へ行ったイザナギノミコトの登場する日本神話との間の不思議な共通性も、しっくりと腑に落ちる感じがします。
 そして賢治の旅も、そのような文脈で理解することができるのです。

コロー『冥界からエウリディケを連れ出すオルフェウス』
コロー『冥界からエウリディケを連れ出すオルフェウス』(Wikimedea Commons

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2015年5月24日 千の風になって

 トシの死による悲しみと苦悩を、賢治はどのようにして受容し、昇華したのか・・・。
 このテーマについて考えていくと、深い孤独や迷いに満たされた「オホーツク挽歌」の詩群や、まだ危うい綱渡りをしているような「〔手紙 四〕」を経て、結局は「〔この森を通りぬければ〕」および「薤露青」に至って、ある一つの安定した境地に到達したように、思われます。
 これまでも何度か引用したように、「〔この森を通りぬければ〕」においては、

わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
  ・・・・・・それはもうさうでなくても
       誰でもおなじことなのだから
       またあたらしく考へ直すこともない・・・・・・

という形で、「妹の声」は静かな諦念とともに受けとめられ、「薤露青」においては、

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

として、妹の「不在」は肯定的に評価されます。これがなぜ「いゝこと」として肯定されるのかという理由は、この部分の推敲前の第一形態が下記のようになっていたことを知れば、一応理解することができます。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことから
     ほんたうのさいはひはひとびとにくる・・・・・・

 すなわち、特定の一人への愛に固執し続けることが不可能であるからこそ、人はそこを越えてすべての衆生への愛へと向かい、「ほんたうのさいはひ」を目ざすことができるのだという、あの「銀河鉄道の夜」のテーマです。

 ここまでのところは、これまでもしつこいほどに、何度も考えたとおりです。
 今回考えてみたいのは、上のようにして妹の死に思想的に整理をつけることは、確かに《倫理的には》正しいことかもしれないけれど、賢治自身はこのように考えることによって、《心情的には》本当に楽になったのだろうか、はたして賢治の気持ちは現実にこれで癒されたのだろうか?という問題です。
 もしもこれが、賢治が無理をして理屈で考えたことにすぎず、トシへの肉親としての愛を、ただ一方的に断念しただけだったのならば、それは賢治にとって、あまりにも苛酷で寂しいことに思えてしまいます。

 この問題に対する私の考えは、実は上のような「整理」というのは、賢治が単に理屈の上だけで考えたことではなく、これによって彼は《心情的にも》、かなり気持ちの平安を得られるようになっていったのではないか・・・というものです。

 私がそう考える根拠の一つは、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」における賢治は、まるで何気ない様子で、「妹の声」を聴くことができるようになっていることです。
 その様子は、「〔この森を通りぬければ〕」では次のように記されます。

蛍が一さう乱れて飛べば
鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声
林のはてのはてからきく

 そして「薤露青」では、次のように。

声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声
たしかに二つも入ってゐる
  ・・・・・・あの力いっぱいに
       細い弱いのどからうたふ女の声だ・・・・・・

 思えば賢治は、トシの死後ずっと、この世にいなくなった妹が今いったいどこにいるのか、その手がかりをひたすら探し求め、そして妹からの「通信」を待ち焦がれていました。翌夏には、そのためにはるばるサハリンにまで行ってしまったほどでした。
 しかし結局、賢治が得ることができた「通信」は、「青森挽歌」によれば、ただ1回だけでした(「私のうけとつた通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ」)。これはおそらく、「風林」において、「・・・・・・此処あ日あ永あがくて/一日のうちの何時だがもわがらないで・・・・・・/ただひときれのおまへからの通信が/いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ」と記されているエピソードに対応しているのでしょう。賢治はいつか、汽車に乗っていて眠りに落ちたその夢の中で、このようなトシの言葉を聴いたのでしょう。

 ところが上記のように、1924年(大正13年)7月になって、賢治がもはやトシの行方や通信を追い求めないという心境に達したところ、7月5日(「〔この森を通りぬければ〕」)、7月17日(「薤露青」)と、短い間に2度も、トシの声を耳にすることになったのです。
 あるいはまた、この二つの作品の間の7月15日に書かれた「〔北上川はケイ気をながしィ〕」という作品は、そのほぼ全篇が、賢治とトシ(と一部では弟)を思わせる会話で構成されているのです。そこには、利発で愛嬌のあるトシの魅力が、満ちあふれるようです。
 すなわち、この7月における賢治は、妹トシが亡くなってからの2年弱の歳月の中で、おそらく最も身近にトシを感じとっているのです。

 それでは賢治にとって、この時期におけるトシの「接近」は、果たして偶然のことだったのでしょうか。

 私は、これは偶然ではなくて、賢治がトシのことを「そのまゝどこへ行ってしまったかわからない」という形で、安んじて受容できたことと、表裏一体の関係にある現象なのだと思います。
 それはたとえば、「青い鳥」を必死に探し求めている時は見つからなかったけれど、探すことを諦めたら、「青い鳥」は身近にいたことに気づく、ということにも似ています。
 トシが「何処にいるのか?」、「何を伝えようとしているのか?」という形で、焦点を絞って対象を特定しようとすると、どうしてもそれを捉えることはできませんでした。しかし、賢治がそのような追求をやめてしまい、すべてをありのままに受け容れようというスタンスに変わった時、トシは実はそこかしこに、「あまねく」存在していたのです。さまざまな形でトシの声は賢治を訪れ、トシとの会話もあふれ出しました。

 もちろん賢治は、死んだトシが「リアルにそこに存在している」、とまで作品に書いているわけではありません。
 しかし、1924年(大正13年)7月の「〔この森を通りぬければ〕」、「〔北上川はケイ気をながしィ〕」、「薤露青」というトシの面影がポジティブに漂う三作品、さらには同年8月の日付を持ち、女学生のような「むすめたち」が輝く「」などの作品を見ると、この頃の賢治が、トシをとても近いところに感じながら、日々を送るようになっていたのは確かだろうと、私には思われるのです。

 ここに至って、トシの死によって深い傷みを負った賢治の心は、やっと一定の回復を見せたと言ってよいのではないかと、私は思います。「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないこと」が「いゝこと」であるのは、単に《倫理的に》よいばかりでなく、《心情的に》も、賢治にとって安寧をもたらしてくれるものだったのです。

 ところでこのように、「死者がつねに生者の近くにいてくれている」と想定する「死生観」は、本来は輪廻転生を基本とする仏教的なそれとは、相容れないものです。むしろこれは、「ご先祖様が草葉の陰から見守ってくれている」という考えや、柳田国男の祖霊論に似ており、日本の伝統的な死生観と共通するものがあるように思われます。そしてさらに、賢治がトシの声をひそかに聴いている様子は、それらよりももっと個人的で、親密なな色彩を帯びているような感じもします。
 このような、「身近な・親密な死者」というイメージから私が連想するのは、アメリカ発祥とされる詩を新井満氏が訳し、2006年に秋川雅史氏が歌って広く知られるようになった、「千の風になって」の歌詞です。

  千の風になって
              新井満(訳詩)
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

 ここで歌われているのも、死者はお墓にはいないし、「特定のどこかにいる」というものではない、ということです。言わば、「どこへ行ってしまったかわからない」のです。
 しかし、特定のどこかにはいないからこそ、風となって空をわたり、光となってそそぎ、そしてまた(賢治に対するトシのように)、鳥になって声を聴かせることもできる、というのです。

 この歌が、2005年には阪神大震災10周年を機に広まり、2006年にはNHK紅白歌合戦でも歌われるほど愛唱されるようになったのは、その喚起するイメージが、何か現代の日本人の感性に響くところがあったのでしょう。
 ただ、この歌詞の内容自体は、すでに触れたように、一般的な仏教の死生観とは異なったもので、「散骨」などという新たな死のあり方にも関連するような、どこか現代的なイメージを伴っています。松尾剛次氏はこの歌のことを、「われわれの葬礼習俗への挑戦ともいえるものだ」(平凡社新書『葬式仏教の誕生』p.12)とも評しておられます。

 ということで、仏教を篤く信仰していた賢治が、個人的な苦悩の末に、図らずもこの「千の風になって」にも似た、現代的な死生観に接近していたとすれば、これはなかなか興味深いことだと思う次第です。

 最後にもう一つ、やはり同様の死生観を表したものとして、哲学者の森岡正博氏が、2011年3月に朝日新聞に寄せた、「私たちと生き続けていくいのち」という素晴らしい文章を、引用させていただきます。

   私たちと生き続けていくいのち

 2011年3月11日の震災で、多くの方々のいのちが奪われた。
 ある生存者は語る。津波が襲ってきたとき、妻の手を握りしめていたが、強い波の力によって彼女を流されてしまった、と。目の前で愛する者が消えてゆき、自分だけが生き残ってしまったという慟哭は、それを聴く者の心にも突き刺さる。自分は愛する者を守りきることができなかった、最後の瞬間に何もしてあげることができなかったという自責の念は、どんな言葉をかけられたとしても、おそらく消えることはないだろう。
 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。
 たとえばふとした街角の光景が、たわいない日常や、自然の移りゆきのただ中に、私たちは死んでしまった人のいのちの存在をありありと見出すのだ。彼らは言葉を発しないけれども、この世から消え去ったわけではない。
 人生は一度限りであるから、どんな形で終わったにせよ、すべての人生は死によって全うされている。すべての亡くなった方の人生は聖なる者として閉じた。そして彼らのいのちはこれからずっとこの世で私たちと共にいる。私たちは彼らに見守られて生きていくのである。      (森岡正博『生者と死者を繋ぐ』春秋社より)

 トシの死を前に、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」とひそかに考えていた賢治にとって、なすすべなく妹を「ひとりで」逝かせてしまったことは、上の津波生存者の方と同じように、理不尽な「自責の念」を背負いこんでしまうきっかけになっただろうと、私は思います。
 そして、最終的にその深い心の傷は、亡くなったトシの「いのち」を身のまわりに感じ、上で森岡氏が記すように「共にいる」という感覚を持つことによって、やっと癒えはじめたのではなかと、私は思うのです。

 賢治自身は、「みんなのさいはひ」を目ざすという原則的な立場から、もはやこのような個人的な親密な感情を、直接に作品に書きこむことはしなくなりました。ですから、その後の賢治が上のようにトシの存在を感じるようになっていたとしても、私たちはその痕跡を作品の行間から、ふと垣間見るしかありません。
 ちなみに、私がそのような意味で、トシの面影を何となく感じる作品としては、上述の「〔北上川はケイ気をながしィ〕」や「」に加えて、後者が晩年になって「変奏」された「春 変奏曲、」のにぎやかでまぶしい少女たち、「〔ふたりおんなじさういふ奇体な扮装で〕」の「曠原淑女」、「発動機船 一」における「頬のあかるいむすめたち」などがあります。

 これらはいずれも、私たち後世の読者にとっては、ふと街の雑踏ですれ違った姿に故人の面影を重ねるに似た、儚い試みなのかもしれません。しかし私は個人的に、そこに生き続けているトシの「いのち」を見るような気がするのです。
 きっと賢治も、その時何かを感じとっていたのではないかと、私には思えてなりません。

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2015年5月17日 この命題は可逆的にもまた正しく(2)

 以前に私は、「この命題は可逆的にもまた正しく」という記事を書いて、「小岩井農場」の最後近くに出てくるこの一行が、何を意味しているのかということを考えようとしたことがありました。
 そして最近になって、「賢治がトシの死の苦悩をどのように昇華したのか」ということについて考えるうちに、前回とはまた違う解釈の可能性についても思い至るようになったので、今日はそれについて書いてみます。

 まず、「小岩井農場」パート九において、この一行が出てくる前後の箇所を、引用しておきます。この賢治最長の詩が、これからクライマックスに差しかかるところです。

  ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ
すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといつても
それがほんたうならしかたない

 引用部分の下から4行目に、「この命題は可逆的にもまた正しく」が位置しています。
 ここにおいて、「この命題」と呼ばれているのは、その箇所に先立つ部分の内容を指しているわけですが、あえてそれを大ざっぱに単純化すると、この命題は次のようにまとめられるでしょう。

  1. 正しい願いに燃えて、自分と他人と全ての生き物と一緒に至上福祉に至ろうとするのが、本来の「宗教情操」である
  2. 1.を追求しようとして挫折した結果、その代わりに自分がただ一人の人だけとともに、完全に永久にどこまでも一緒に行こうとするのが、「恋愛」である
  3. しかし2.を目ざしても現実には、(完全に永久にどこまでもというような)その本質部分を達成することは不可能なので、無理にごまかして人をそのように動かす傾向が、「性欲」である
  4. 上記1.→2.→3.というモチベーションの系列は、様々な生物の種類に対応している

 「この命題は可逆的にもまた正しく…」という言葉は、(1)まず上記の命題が正しいとともに、(2)その「逆の命題」もまた正しい、という二つのことを主張しているわけですが、ではその「逆の命題」とは、いったいどのようなことなのでしょうか。

 これについて考えてみたのが、前回の記事でした。この時はいろいろと理屈をこねた挙げ句、「人間よりも高次の存在(生物)であっても、場合によっては頽落して人間と同等の存在になったり、さらに人間もより下等な存在に墜ちることもありえる」というのが、ここで言われている「逆命題」であろうと考えました。
 これは、上記の4.において、「モチベーションの系列」→「生物の種類」という対応関係を、「生物の種類」→「モチベーションの系列」という風に、「逆」に入れ換えるという解釈でした。このように理解すれば、「小岩井農場」のこの部分と、同日にスケッチされた「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」という草稿との、内的なつながりがすっきりと腑に落ちる、という事情もありました。

 これに対して、今回考えるのは、1.→2.→3.という「モチベーションの系列の順序」における、「逆」の方向性です。

 賢治が、1922年11月の妹トシの死の苦悩を、自らのうちに受け容れ、昇華していく過程において、一つの大きな画期となったのは、1924年7月に書かれた「薤露青」という作品だったと思います。
 その中でも、終わり近くに現れる次の箇所が、トシの死を賢治が新たに位置づける上で、とくに重要な意味を持っていると、私は考えます。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 これ以前の賢治は、「いとしくおもふもの=トシ」が、「そのまゝどこへ行ってしまったかわからないこと」の苦痛に耐えかねて、あちこちでトシに呼びかけたり、トシとの「通信」を試みたり、翌夏にはその行方を追うようにサハリンまで旅をしたりしました。
 しかし、これらの試みの結果は空しく終わり、賢治の孤独は癒されませんでした。ところが、「薤露青」のこの箇所においては、「どこへ行ってしまったかわからないこと」が、それまでとは逆に、「なんといふいゝことだらう」と認識されるという、価値の転倒が行われているのです。
 この作品以前には、このように明確にトシの死を肯定的に位置づけたものは見当たりませんので、それで私はこの作品のこの箇所を、賢治にとっての一つの重要な里程標と考えるのです。

 ただここで、「いとしくおもふものが/ そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」と言われても、なぜそれが「いゝこと」であるのか、この論理には謎のような部分が残されています。こう言われただけでは、誰もすんなり同意できるものではないでしょう。

 そこで、「薤露青」の草稿を参照してみると、この引用部分は、最初の第一形態においては下記のように書かれていたことがわかります(『新校本全集』第三巻校異篇p.247)

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことから
     ほんたうのさいはひはひとびとにくる・・・・・・

 この形であれば、賢治の「論理」はかなり理解しやすくなっています。
 すなわち、「愛しく思う者がどこへ行ってしまったかわからない」という厳然たる事実があるからこそ、人はそれを諦念とともに受け容れざるをえず、そのおかげで「一人だけ」にいつまでも執着しつづけられなくなり、結果として人はふたたび「みんなの幸い」について考えられるようになる、というわけです。これは、たとえば「銀河鉄道の夜」において、カムパネルラを失った後にジョバンニが目ざすべき方向性として、作者が暗示していることでもあります。
 「どこへ行ってしまったかわからないことから/ほんたうのさいはひはひとびとにくる」という第一形態の方が、意味としては直接的でわかりやすいのは明らかですが、おそらく賢治としては、これではあまりにも教訓的に響いてしまうという懸念から、より抽象化して、「なんといふいゝことだらう」と改めたのではないでしょうか。

 さて、「薤露青」のエッセンスがここにあるとすれば、これは冒頭の「小岩井農場」の「命題」につながります。

 ずっとトシという一人の魂に固執しつづけ、その行方をいつまでも追い求めようとした賢治の行動のモチベーションは、上に1.2.3.として要約した系列の中では、2.「恋愛」に相当します。もっとも、賢治とトシの場合は「兄妹愛」であって、一般的な意味での「恋愛」とは異なりますが、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」という、この箇所の定義には合致しています。(以前、「オホーツク行という「実験」」という記事では、賢治はトシとともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と常々考えていたということについて書きました。)
 ですから、ここでは「恋愛」を広義に解釈して、賢治がトシに示したような「個別的な愛」を含むものと理解しておきましょう。
 さて、小岩井農場の命題によれば、一人の人と「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かう」という方向でいくら努力をしても、そこには避けられない限界が存在します。この限界にぶつかっても、それでも強引に人を衝き進めようとする傾向として現れるのが、3.の「性欲」でした。
 つまり、人間は往々にして、2.→3.の方向へと堕落してしまうというのが、ここでの賢治の考えです。

 これに対して、「薤露青」の草稿第一形態で示されている論理は、逆の方向性を指し示しています。
 すなわち、「いとしくおもふもの」が、その死によって「そのまゝどこへ行ってしまったかわからない」状態になってしまうということは、確かに上記の命題の2.にあるように、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かう」とする願望が、挫折させられることまさにそのものです。もとの命題では、そうなると 3.の方向への頽落が起こったのですが、しかし「薤露青」第一形態では、むしろそのことのおかげで、「ほんたうのさいはひはひとびとにくる」と言うのです。これは、命題における1.「至上福祉」に相当する状態です。
 つまりここでは、2.→1.という方向へと、逆の向きへの進展が起こるというのです。

 私が今回の記事において書いておきたかったのは、「時にはこのようにして、2.→3.ではなく、2.→1.という逆も起こりうる」という事態こそが、賢治が「小岩井農場」パート九に記した「この命題は可逆的にもまた正しく」という字句の意味だったのではないか、ということです。
 その次の行に、「わたくしにはあんまり恐ろしいことだ」と賢治が書いているのは、愛する人の魂が「どこへ行ってしまったかわからない」というのは、彼にとっては本当に心の底から恐ろしいことだからでしょう。それでも、「けれどもいくら恐ろしいといつても/それがほんたうならしかたない」のです。
 そしてこの現実を、「ほんたうならしかたない」と受容するおかげで、人間が「個的な愛」にとどまらず、そこを越えて「至上福祉」へ向かうという可能性も、開けてくるというわけです。

 ただ、このように「小岩井農場」のテキストを解釈することは、賢治の考えの時間的な変遷からして、はたして妥当なのかという問題は残ります。
 「小岩井農場」がスケッチされた1922年5月21日は、トシの死のまだ半年以上も前のことです。この時点では、もちろん賢治の考えが上記のようなものになっていたことはありえませんし、1923年8月の「オホーツク挽歌」の章の時期でさえ、彼はまだトシの死を上のように受けとめるには至っていませんでした。
 先にも述べたように、賢治が今日述べたような考えに到達したのが明らかなのは、「薤露青」の1924年7月を待たなければなりません。

 となると、1922年5月の日付のある「小岩井農場」に、このような思想を読みとろうとするのは、後からの勝手なこじつけなのかもしれません。
 それは、ひょっとしたらそうなのかもしれません。しかし、『春と修羅』に収められている「小岩井農場」にしても他の作品にしても、1924年4月における『春と修羅』出版の直前ぎりぎりまで、かなりの推敲が重ねられつつ思想的にも深化を続けていたということは、たとえば杉浦静氏が『宮沢賢治 明滅する春と修羅』(蒼丘書林)で明らかにしておられるとおりです。
 ですから私としては、1924年7月の「薤露青」から3か月ほど前の『春と修羅』刊行時点までに、すでに賢治の心の中ではトシの死の受容を通した個別的愛の乗り越えへという大きな変化が起こりつつあって、その変化が「小岩井農場」の最終形態に反映されたという可能性も、一概に否定はできないのではないかと思っている次第です。

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2015年5月10日 小都のはづれなる小き駅

 『新校本全集』の「補遺詩篇II」に、「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」という仮題で収録されているテキストがあります。
 これは、賢治が東北砕石工場技師時代に、懸命の営業活動のあいまに手帳に書きつけていたもので、「文語体による心象スケッチ」という趣きなのですが、私はこれを読むといつも、胸が熱くなるような思いがします。

朝は北海道の拓植博覧会へ送るとて
標本あまたたづさえ来り
それが硬度のセメントに均しく
色彩宇内に冠たりなど
或はこれがひろがりは
大連蠣殻の移入を防遏すべき点
殊に審査を乞ふなどと
やゝ心にもなきこと書きて
県庁を立ち出でたりけるに
ときに小都を囲みたる
山山に雲低くして
木々泣かまほしき藍なりけるを
出でて次々米搗ける
門低き家また門広く乱れたる
家々を
次より次とわたり来り
おのもにまことのことばもて
或はことばやゝ低く
或は闘ふさまなして
二十二軒を経めぐりて
夕暮小都のはづれなる
小き駅にたどり来れば
駅前の井戸に人あまた集り
黒き煙わづかに吐けるポムプあり
余りに大なる屈たう性は
むしろ脆弱といふべきこと
禾本の数に異らずなど
こゝろあまりに傷みたれば
口うちそゝぎいこはんと
外の面にいづればいつしか
ポムプことこととうごきゐて
児らいぶかしきさまに眉をひそめみる
「この水よく呑むべしや」と戯るゝに
〈通〉のはんてん着たる
肩はゞ広きをのこ立ちありて
「何か苦しからんいざ召たまへ」とて
蛇管の口をとりてこれを揚げるに
水いと烈しく噴きて児ら逃げ去る
すなはち笑みて掬はんとするに
時に水すなはちやめり
をのこ
「こは惜しきことかな
いま少し早く来り給はゞ」
といと之を惜むさまなり
われすなはち
とみに疲れ癒え
全身洗へるこゝちして立ち
雲たち迷ふ青黒き山をば望み見たり
そは諸仏菩薩といはれしもの
つねにあらたなるかたちして
うごきはたらけばなり

 蛇足かとは思いますが、拙い口語訳を付けておきます。

朝には、北海道の拓殖博覧会へ送るために
たくさんの標本を携えて来て、
「これはセメントと同じくらい硬くて、
色彩は天下随一だ」とか、
また「これが普及すれば
大連からの蛎殻の移入を阻止できるという点に
特に留意して、審査をお願いしたい」などと、
あんまり心にもないことを書いて
県庁から出てきたところ・・・
その時、この小都を囲んでいる
山々に雲は低くかかり
木々は泣きたくなるような藍色だったが・・・
また出かけて順々に、精米を行っている
門の低い家や、また門は広く乱れた
家々を、
次から次へと訪問し
自分の顔に正直な言葉でもって
ある所では低姿勢な言い方で
ある所ではけんか腰で
二十二軒をめぐりめぐって・・・
夕暮れに、小都のはずれにある
小さな駅にたどり着いたところ、
駅前の井戸に人がたくさん集まっていて
黒い煙の少し出ているポンプがあった。
「あんまり屈撓性が大きいのは
むしろ脆弱というべきであって
それは多くのイネ科植物と同じことだ」などと自分を省みては
あまりに心が傷んだので、
口をすすいで休憩しようと思い
駅の外に出たら、いつしか
ポンプはコトコト動いていて
子供たちがそのおかしな様子を眉をひそめて見ていた。
「この水は飲めるのかい?」と私が軽い調子できいたら
〈通〉の印の袢纏を着た
肩幅の広いあんちゃんが現れて
「さあ遠慮なくお飲み下さい」と言って
ホースの口を持ち上げたところ
水が烈しく噴き出したので、子供たちは逃げ去った。
そこで私は笑って、手で水をすくおうとしたら
まさにその時、水は止まってしまった。
あんちゃんは、
「これは残念だなあ、
もう少し早く来られてたら・・・orz」
と、とても悔しそうな様子だった。
私はすぐさま
すっかり疲れも癒えて
全身を洗われたような気持ちでそこに立ち
雲が立ち迷う青黒い山を望み見ていた・・・。
それは、諸仏菩薩と呼ばれてきたものが
常に新しい形をして
動き働いているという、まさにその存在を感じたからだ。

 1行目にある「北海道の拓殖博覧会」というのは、1931年(昭和6年)7月12日から8月20日まで、札幌の中島公園を会場に開かれた博覧会で、北海道拓殖博覧会全景全国各地の物産の展示やアトラクションなどが行われ、入場者は65万人という盛況だったということです。(右写真は「扶桑文庫」より)
 賢治がこの時、「あまたの標本」を県庁に持ち込んだのは、この博覧会における岩手県の陳列ブースに、東北砕石工場の製品を並べさせてくれという陳情のためだったのでしょう。
 ここで「色彩宇内に冠たり」と言っている方の製品は、白や淡灰色の石灰岩抹ではなくて、工場で最近製造を始めた「赤間砕石」とか「紫砕石」を用いた、建築材料だったのではないかと思われます。一方、「大連蠣殻」というのは、家畜にカルシウムを与えるための飼料として中国の大連から輸入される蛎殻粉末のことで、賢治と鈴木東蔵は、石灰岩抹を同目的の家畜飼料としても各地に売り込もうと、活動していました。
 これらの製品について、県庁のお役人に説明したり書類に記入したりした後で、「やゝ心にもなきこと書きて…」と自嘲している賢治ですが、有能なセールスマンであるためには、こういう方便も避けては通れない道なのでしょう。
 一仕事を終えて県庁の建物を出ると、目に入った木々の色は、「泣かまほしき藍」でした。

 さて、ゆっくりする暇もなく、次は工場製の石灰岩抹を、米を精米する際の「搗粉」として売り込むために、精米業者のところを一軒一軒まわります。
 今度は、賢治自身その効用を科学的にも説明できるので、セールストークは「心にもなきこと」ではなく、「まことのことば」です。相手の出方を見ながら、ある店では「ことばやゝ低く」、ある店では「闘ふさまなして」、賢治の営業活動は多彩です。
 そして、まわった店の数は、全部で22軒でした。

 下の表は、賢治が足で廻って作成し、1931年7月3日付で鈴木東蔵に送った盛岡市内の精米業者29軒のリストです。個々の業者について、搗粉の月間使用量、その仕入先、摘要が記入されています。もちろん、この作品に描かれた戸別訪問の成果も、ここには組み入れられているはずです。

盛岡市内の精米業者
(『新校本全集』第15巻より切り貼り)

 賢治の汗の結晶とも言うべき一覧表ですが、このような一日の仕事を終えて、賢治は街はずれの小さな駅にたどり着きました。駅前の広場には井戸があって、その汲み上げポンプは調子が悪いのか、黒い煙が出ています。

 さてここで賢治は、今日一日の自分の仕事を振り返って、「余りに大なる屈たう性は/むしろ脆弱といふべきこと/禾本の数に異らず」と、嘆じています。
 「屈撓性」というのは、何かの力が加わったら曲がってたわみ、また力が除かれたら元に戻る、「しなやかさ」のことです。イネなどの植物では、茎が硬いと強い風などでポキンと折れてしまうので、茎にある程度の屈撓性がある方が、災害に強いのです。しかし、あまりにしなやかすぎても、穂の自重によって曲がったままになってしまうので、これもまたよくありません。
 この日の賢治は、朝は県庁へ行って、博覧会への出品のためにお役人との交渉にあたり、大げさなアピールをしたり、外国製品による侵略を防ぐためなどという理屈をこねてみたり、「やゝ心にもなきこと」を弄しました。
 次の精米業者訪問においては、ある所では低姿勢で相手のご機嫌をとり、ある所では一戦を交える覚悟で臨むなど、セールスマンのお手本にもなるような、変幻自在の交渉人を演じています。
 上記の7月3日付書簡365に書かれている、ある店での様子が面白いので、下に一部を引用してみます。

当工場製品ハ白色ノ方モ三春産ノモノニ著シク色彩劣ルトイフ。然レドモ成分ノ点ニ於テ如何トイフニ成分ノ如キ購買者誰カ之ヲ知ラントイフ。コノオヤジ米相場ナドヲナシ頭ニヌレ手拭ヲノセ甚頑固ナリ。(中略)折衝二時間遂ニ当工場製品ニ対シ何等ノ同情ヲ得ズシテ去ル。

 こんな「頑固オヤジ」を相手に2時間も粘り強く交渉して、何の成果も出なかったら、さぞ疲れもひどかったろうと思いますが、それでも賢治はくじけずに、店をまわり続けたのです。
 圧力を受けても折れず、場面によって巧みにスタンスを変えて対応する――これは本当に素晴らしい「屈撓性」 だと思いますが、でも賢治はそのような自分のやり方にも疑問を感じ、心を傷めているようです。
 こんなにまでして、いったい俺は何をやっているんだろうか・・・。

 思えば、賢治が東北砕石工場の技師を引き受けたのは、工場で製造する石灰肥料を広く岩手県の農地に行き届かせることができれば、酸性土壌を改良して農作物の収量を増やし、貧しい農家の暮らしを少しでも豊かにするのに貢献できるのではないかと、考えたためでした。この目的での石灰肥料の使用は、盛岡高等農林学校の恩師であった関豊太郎教授も主張していたところであり、嘱託を引き受けるべきか否かについては、わざわざ関博士に書面で伺いを立てたほどでした(1931年2月25日付書簡301)。
 ですから、「石灰肥料の普及」という仕事は、賢治自身にとって、元々の自分の学問的専攻と、農民救済という理想が合致するという意味において、並々ならぬ意気込みをもって開始したことだったのです。

 しかし、現実の工場の運営というのは、そんな理想の追求だけの作業ではありませんでした。
 肥料というのは、農作物を植える前の時期に使用するものですから、春にはかなり需要があるものの、それを過ぎると売り上げは大幅に落ちてしまいます。しかし工場は一年中稼働させなければなりませんから、その運転資金を捻出するためには、他の季節にも売れる製品の開発が必要となります。
 そのために、工場長鈴木東蔵と賢治がまず考えたのは、石灰岩抹を精米のための「搗粉」として売り込むことでした、玄米を白米にするためには、「米を搗く」という作業により、米粒どうしの摩擦によって、「糠」の部分を削ぎ落とします。この際に、あらかじめ玄米に「搗粉」を配合しておくと、これが一種の研磨剤となって、精米の効率が高められるのです。この目的のために、賢治は科学的所見も盛り込んだ「精白に搗粉を用ふることの可否に就て」という販売促進パンフレットも自ら執筆して、営業活動に用いていきます。
 「精米」というのは、たいてい農家自身がやるよりも米販売店が行うので、「搗粉を販売する」という仕事は、農家に何かの恩恵をもたらすわけではありません。となると、「農民救済」という賢治の理想からは離れてしまうようにも思えますが、まあこれも農家が作った米に関わることですし、良質の米が安く消費者に届けられるのは、農家にとっても間接的にはよいことかもしれません。
 ですから、ここまではまだ、賢治も自分を納得させることができた可能性はあります。

 しかし、次に工場が「建築材料」の製造販売にも取り組むことになった時、これはもう賢治の当初の理想とは、関係のないものになってしまいました。
 石灰岩抹を搗粉として販売するという活動によっても、まだ東北砕石工場の経営状態は、十分に安定したものとはなりませんでした。そこで鈴木東蔵と賢治は、工場の周辺の山で採取できる「赤間石」や「紫雲石」などという色彩の綺麗な鉱石を砕いて固めて、壁材などの建築材料として売り出すという事業に乗り出したのです。
 ここに至って、「農民救済」という最初の目標とのつながりは、完全に途切れます。もちろん、人は自らの理想のためだけに仕事をするわけではなく、工場で働く労働者の給料をきちんと払うのも、非常に大切なことです。それに、綺麗な色の石を貼り合わせたりして「壁材料見本」を作る作業は、子供の頃に「石コ賢さん」と呼ばれた鉱物好きの賢治にとって、きっと楽しいことだったのではないかとも思います。

 セールスマンとして、相手に応じて様々なスタンスで交渉にあたり、また工場経営を補佐しながら、柔軟な発想で製品開発や事業展開を行っていく・・・。それは実際、「大なる屈撓性」がなければできないことだと思います。
 しかし時に、仕事でくたくたに疲れ果てた時なんかには、「俺はいったい何の因果で搗粉や建材のセールスなんかやっているんだろう」と、ふと自問することもあったのではないかと思うのです。「余りに大なる屈たう性は/むしろ脆弱といふべきこと/禾本の数に異らず」という自嘲と、この時の心の傷みには、そのような背景があったのではないかというのが、私の感想です。
 ただ、こういう一言にも、専門用語も交えた農業的な比喩が巧みに用いられているところは、いかにも賢治らしいですね。

 さて、もう夕暮れになり、以上のように疲れて心も傷んだ賢治は、「小都のはづれなる/小き駅」にたどり着きます。この駅前で起こった小さなエピソードが、賢治の疲れと心の傷みをすがすがしく癒してくれたというのが、この珠玉のような文語詩の結末です。
 この結末は、賢治だけでなく、読む者をも浄化してくれるような感じです。

 ここでは、袢纏を着て登場する「をのこ」が重要な役割を果たしてくれるのですが、彼の袢纏には特徴的な印が付いていました。この記事では、パソコンの表記上〈通〉と記していますが、実際の賢治の草稿では、下写真の右上端ように、丸の中に「通」の字が書かれています。

「孔雀印手帳」59-60頁
(『新校本全集』第13巻より)

 「丸に通」と言うと、おなじみの「日通」こと「日本通運株式会社」のマークですよね。ではこの若者も日通の作業員なのかと思って、日本通運の社史を調べてみると、下のようになっていました。(日本通運株式会社の沿革・歴史より)

1872年(明治5年)  陸運元会社を設立
1875年(明治8年)  内国通運会社に改称
1928年(昭和3年)  国際通運株式会社として発足
1937年(昭和12年) 国策会社として日本通運株式会社を創設
1950年(昭和25年) 日通株を上場、民間会社として再出発

 つまり、「日本通運」という会社は、1937年に創設されたもので、賢治が東北砕石工場に勤めていた1931年にはまだできておらず、当時は「国際通運株式会社」だったのです。
 となると、この若者の素性は不明かと諦めかけていたのですが、当時の「国際通運株式会社」について調べてみると、その社章というのは下のものでした。

国際通運株式会社社章
(『国際通運株式会社史』より)

 この中心にあるのは、私たちも見慣れた「丸に通」のマークで、ただ両側にEの字が配されているところだけが違っています。「国際通運」の社章の中心部分が、その後身の「日通」にも引き継がれていたというわけですね。実は上の社章は、さらにその前身の「内国通運」時代の社章を受け継いだもので、1875年(明治8年)における内国通運会社の社章制定の趣旨には、「光輝燦然たる日章中に、「通」の一字を白く表はし、其の左右に Express の頭字なる E の字を配し、以て運送の迅速なる日本帝国の通運業者なりとの意を寓したるものにして…」と説明されています(『国際通運株式会社史』より)。
 そしてさらに、この当時に「丸に通」の印の付いた「はんてん」というのがあったのだろうかと、あれこれ調べているうちに、何とネットオークションで、その画像を見つけることができました。

 「国際通運」袢纏
(「mixiオークション」より)

 おそらく、賢治に水を飲ませようとしてくれた好青年は、この袢纏を着ていたのでしょう。
 彼は、疲れ果てて口をすすぎたかった賢治に、親切にもホースを取り上げて水を勧めてくれて、そしてその水が寸前で止まってしまった時には、まるで賢治の気持ちを代弁するかのように、素直に悔しがってくれました。
 その率直で大らかな感情表現は、お役人や米屋の頑固オヤジを相手に、神経をすり減らす折衝を一日中続けてきた賢治にとっては、とても新鮮に感じられたのです。そして賢治は、まるで全身が洗い清められたような気持ちになって、夕暮れの雲が立ち迷う盛岡郊外の青黒い山を、眺めました。
 そしてこの時、賢治はひそかに、「諸仏菩薩」の働きさえも感じていたのです。

 ということで、「丸通のはんてん」も見つけられたところで、最後にこのエピソードの舞台となった、「小都のはづれなる小き駅」についてです。
 この心温まる出来事が、いったいどこであったのかというのは気になるところですが、この詩の内容に対応した書簡が残されているおかげで、幸いこれははっきりと確定できます。
 1931年(昭和6年)6月18日付の書簡362の1および362の2を、下に掲載します(『新校本全集』第15巻より)。

362の1 〔六月〕十八日 鈴木東蔵あて 葉書
  《表》 東磐井郡 陸中松川駅前 鈴木藤三様
      十八日午后 仙北町駅ニテ 宮沢賢治

今朝商工課に参り北海道へ出品打合致し候処場処至って狭隘に付 二尺に一尺三寸の建築材料の原品及製品の額面一枚及標本瓶高さ一尺位のものへ肥料搗粉三乃至五種位とせられたしとの事外に広告は何枚にても頒布を引受くべく卅日迄に県庁へ持参あとは県にて運送との事に候。就て御手数乍ら別葉の分至急御調製御送附奉願候


362の2
 〔六月十八日〕 鈴木東蔵あて 葉書
  《表》 東磐井郡 陸中松川駅前 鈴木藤三様
      仙北町駅ニテ 宮沢賢治

続き、
 一、白き石にて製したる搗粉一ポンド
 二、仝  肥料二粍以下一ポンド
 三、仝  仝  一粍以下一ポンド
 (四、赤間は花巻に有之)
 五、紫石にて製したるもの粗細二種位 各三ポンドづつ
 六、青石にて仝上  各三ポンドづつ
尚豊川商会、吉万商会(肥料屋の分家)を歩き吉万より赤間二斗入り十俵或は五俵の注文を得候

 最初に記されている、「今朝商工課に参り北海道へ出品打合致し候処…」という箇所が、今回の「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」の冒頭にまさに一致しているところから、この二通のはがきが、この日の賢治からの業務連絡だったことがわかります。
 そして、表に記されている「仙北町駅ニテ 宮沢賢治」という部分が、この詩の舞台は「仙北町駅」だったことを示しています。

 「仙北町」は、東北本線で盛岡から一つ南にある駅です。

 藩政時代から仙北町の界隈には、盛岡の南の田園地帯で収穫された米を扱う問屋が多く集まっていたということで、その後もこのあたりには米屋が軒を並べていたので、賢治が訪問した精米業者もたくさんあったわけです。賢治が作成した上掲の精米業者のリストでも、「仙北町」「仙北組町」には9軒の名前が見られます。
 さらにここは、米のみならず他の農作物も、北上川の舟運に載せるための中継基地になっていましたから、昭和初期の仙北町も、物流においては重要な地点だったのです。つまり、「丸通」の袢纏を着た業者がいて当然の駅だったというわけですね。

 先日の連休に私は、この「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」の舞台となった場所が見てみたくて、仙北町駅に行ってきました。

仙北町駅

 こんな感じの、木造の小さな駅です。

仙北町駅

 現在は賢治が使った「井戸」はありませんが、上の写真の右端には、水飲み場があります。そして、そのちょっと左手前には、丸くセメントで覆われた箇所があるので、「これはひょっとして、昔の井戸の痕跡?」と一瞬思ったのですが、大きさからしてそうではなさそうです。

 駅の内部は、こんな感じ。

仙北町駅内部

仙北町駅内部

 こういうとてもレトロな感じがいいですね。

仙北町駅跨線橋

 木造の跨線橋のこういう雰囲気も、少し前まではごく普通に見られましたが、最近ではめっきり減ってしまいました。

仙北町駅ホーム

 きれいな花も植えられています。

 と言った感じで、小さいながらもレトロ感の漂う、素敵な雰囲気の駅なのですが、それもそのはずで、駅の正面には下の横断幕が…。

仙北町駅開業100周年横断幕

 ちょうど今年2015年は、1915年(大正4年)にこの仙北町駅が開業してから、100周年にあたるのです。
 駅長さんに、この駅舎も100年前のままなんですか?とお尋ねしたところ、あちこち改修したところはあるにせよ、基本的には開業当時のままだということでした。

 というわけで、この駅舎そのものも、賢治が「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」に書いた心温まる経験をした時と、同じままなのです!!

 盛岡から仙北町まで、東北本線の普通列車で、初乗り運賃の140円です。
 駅開業100周年の記念すべき今年、賢治の「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」を胸に、この「小都のはずれなる小き駅」を訪ねてみるというのはいかがでしょうか?

written by hamagaki : カテゴリー「作品について
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2015年5月 3日 松岡幹夫著『宮沢賢治と法華経』

 松岡幹夫著『宮沢賢治と法華経――日蓮と親鸞の狭間で』(昌平黌出版会)という本を読みました。

宮沢賢治と法華経―日蓮と親鸞の狭間で 宮沢賢治と法華経―日蓮と親鸞の狭間で
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 著者の松岡幹夫さんという方は、日蓮の思想を専門とする研究者のようですが、宮澤賢治のさまざまな作品や、生涯のエピソードの検討を通して、彼の思想を仏教的な観点から分析しておられます。サブタイトルに「日蓮と親鸞の狭間で」とあるように、これまで多くの人が論じてきた日蓮や法華経との関連のみならず、親鸞の思想とのつながりも注意深く浮き彫りにしていく部分が、私にとっては特に勉強になりました。

 「序文」においては、現実を重視した日蓮や田中智学は「此岸性」の人であったのに対して、賢治が書いたものは結局「彼岸性」の文学であり、これが賢治の人気にもつながっているとともに、むしろ親鸞の思想と親和性に基づいているという点が、まず指摘されます。
 とは言えもちろん、賢治は終生「法華経」に帰依していたわけですが、その賢治の法華経信仰に見られる独自の特徴として著者は、「真宗的」、「体験的」、「寛容的」という、三つの点を挙げておられます。

 まず「真宗的」という側面は、賢治自身が物心ついた時から、浄土真宗の篤い信仰の中で育ったことによるところが大きいわけですが、私自身も最近「なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)」や「けつしてひとりをいのつてはいけない」などという記事において、親鸞および浄土真宗と賢治の考えの関連について書いたばかりでしたから、大変に共感するところでした。

 次の「体験的」というのは、賢治が持って生まれた性向として他者の苦しみへの敏感さがあり、このような独特の感受性が、彼が法華経を理解する上での体験的な基盤となっているということです。法華経に描かれていることは、賢治自身の実感でもあり、それが彼の作品のリアリティを形づくっているのです。
 このような、賢治の生来の精神性と思想の連続については、私も以前に「9月に比叡山でお話ししたこと(1)」などで書いたことであり、これもまったく同感でした。

 最後の「寛容的」というのは、賢治が少なくとも後半生においては、自らが信じる法華経を一方的に人に押しつけることはせず、「銀河鉄道の夜」初期形の「お互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」という言葉に表れているような、宗教的普遍性も目ざしていたというところです。
 ただ、賢治も若い頃には、周囲の人々に激しく改宗を迫る「折伏」を行っていました。これが、上記のように「寛容」な態度に変化していった大きな境目は、1921年(大正10年)頃にあったのでしょう。この家出上京中に賢治は、父とは和解の二人旅を行い、また親友保阪嘉内に対してはおそらく強く改宗を迫った結果、気まずい別れを経験します。そして、東京から自宅に帰ってからは、それまでのように排他的な態度は見せなくなるのです。

 続いて本文に進むと、本書の中で私にとって特に読みごたえがあったのは、「第一章 『銀河鉄道の夜』の言葉と『法華経』の思想」と、「第三章 宮沢賢治における法華経信仰と真宗信仰――共生倫理観をめぐって」という、二つの章でした。

 第一章においては、「銀河鉄道の夜」のテキストに出てくる種々のキーワード、すなわち「銀河」、「地図」「切符」、「みんな」「いっしょ」、「さびしい」「かなしい」「つらい」、「どこまでも」、「ほんたう」という言葉を、文脈に即しつつ仏教的な観点から検討し、各々における法華経的な意味、浄土真宗からの影響、そしてそこに込められた賢治独自の思いが、明らかにされていきます。
 この章は、詳細な作品分析を通して見た、賢治の仏教思想論と言えます。

 第三章は、こんどは賢治の生涯を経時的にたどりながら、その考えの変遷を、浄土真宗と法華経との関連のもとに跡づけていく論考です。そして著者は、彼の思想の最も特徴的な部分を、現代的な意味での「共生倫理観」として取り出します。
 賢治の宗教意識の中には、「自覚的な法華経信仰」と「無自覚的な真宗信仰」が共存していたと著者は見ていますが、これら両者が、単に矛盾的に併存するのではなく、「共生」や「自己犠牲」という主題を通して、相互に交渉・浸透し合い、新たな宗教意識を生み出したとも言えるところが、賢治の独自性であったと、著者は指摘します。
 そのまとめ的な一文を、下記に引用させていただきます。

 さて、以上のごとくみてくると、賢治の共生的倫理観は、彼個人の共感的性格、幼少期に培われた真宗的精神性、『法華経』の大乗的成仏観や捨身思想、大等・智学によって性格づけられた法華経信仰、これらが渾然一体となって相互に浸透しあう中で形成され、さらには近代的知識人としての文学思想的あるいは科学的な教養もそこに加わって展開されたものであった、と結論づけるのが最も穏当であろう。(p.229)

 この結論に至るまでの、作品の綿密な検討や仏教思想的分析に関しては、何よりも本書を読んでいただくのが一番かと思います。

 なお、晩年の「〔雨ニモマケズ〕」に表れている倫理観は、「自力主義と他力主義の両面から共生の実現を目指す」ものであると著者は指摘しておられますが、これは私も以前に、『イーハトーブセンター会報』に「情熱(パッション)から受苦(パッション)へ―イーハトーブ〈災害〉学」という題名で書かせていただいた文章の最後に、日蓮と親鸞という二人の名前を出したことへもつながるものであり、この点も本当に「我が意を得たり」と感じ入りました。

 というような感じで、思わず私自身が共鳴するところからたくさんのリンクを張ってしまいましたが、この本は、宮澤賢治の思想を仏教的観点から考える上では、多くの方々にとって非常に有益なものなのではないかと思います。
 

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項」「賢治関連本
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2015年4月30日 けつしてひとりをいのつてはいけない

 252行に及ぶ長大な「青森挽歌」の最後は、次にようして終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 これからサハリンへと向かう夜汽車の中、妹トシの死をめぐって延々と苦しい思索を続けてきた賢治が、この時とりあえずたどり着いた結論が、これでした。
 以前「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事で書いたように、この作品において《二重括弧》で印付けられたテキストは、作者がこの時「幻聴」として耳にした言葉だったと考えられます。したがって、ここに現れる《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、それまで思索に沈潜していた賢治にとっては、その意識を破って突然にどこかから降ってきた「メッセージ」として、体験されたことでしょう。そして、その意味深長な内容に鑑みれば、これは当時の賢治にとって、「如来」か誰か超越的な存在から与えられた、一種の「啓示」のように響いたのではないかと思います。

 この言葉を受けとった賢治は、「ああ わたくしはけつしてさうしませんでした」と弁明し、さらに「妹だけが救われるように祈ったことは一度もない」と、付け加えます。
 しかしここで賢治の答えが、「さういのりはしなかつた!」と自信を持って確言するのではなくて、「…とおもひます」と気弱な表現になっていることは、目を引きます。この賢治はまるで、生徒が教室で不意に先生から指名されて、どぎまぎしながら答えているようにも見えます。
 自分がそう祈ったのか祈らなかったのか、本人ならわかっているでしょうに、なぜ彼はこんなにうろたえているのでしょうか。

 そこでこのやり取りをもう少し細かく見てみると、彼が狼狽している理由が、何となくわかってくる感じがします。実はここで幻聴の主は、「けつしてひとりをいのつてはいけない」と言っているのに対して、賢治は、「あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつた…」という風に、ほんの少し焦点をずらして応答しているのです。
 確かに賢治は、「妹だけがいい所に行き、他の人は行かなくてよい」などと祈ったことは、一度たりともなかったでしょう。しかしここで彼に提示された命題は、「ひとりをいのつてはいけない」だったのです。妹が亡くなってからの賢治は、もちろん他の人のことを祈ることもあったでしょうが、おそらくその厖大な時間を、「たつたひとりのみちづれ」である妹の死後の行方について心を悩ませ、その幸いを祈ることに、費やしていたのではないでしょうか。彼が、自分の妹という「特定の一人」のことを祈っていた事実は、否定しようがありません。
 賢治はそれを自覚していたので、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という厳しい指摘によって、まさに己れの痛いところを突かれたのだと思います。そして動揺しながらも咄嗟に、「でも、あいつだけが、とは祈っていないと思う」と返答するしかなかったのだと思うのです。
 これは些細なことのようですが、賢治は信仰においてこういう細部にもこだわる潔癖さを持つ人だったので、彼がこの場でこの答えを返したことで、己れを無罪放免にできたとは、到底思えません。
 以後この問題は、彼の心に深く刺さる棘となって、彼に解決を迫りつづけることになったでしょう。

 私が思うに、トシの死後ずっとその輪廻転生先について心を悩ませていた賢治は、自分が肉親の情にとらわれてひたすら「ひとり」のことばかり考えつづけていることに対して、すでにこの時点までにかなりの葛藤を抱きつつあったのではないでしょうか。
 その葛藤の由来は、「いつまでもそんなことばかり考えていても、どうにもならないじゃないか」とか、「この頃の俺は本当にどうかしている」というような、現実的理性の声でもあったでしょうし、「個人の幸福ではなく、世界ぜんたい、全ての衆生の幸福を追求すべし」という、彼の本分たる大乗仏教的倫理観との齟齬にもあったでしょう。
 そしてまたしても「ひとり」について考える「青森挽歌」の、長く苦しい思索による疲労が極限に達した時、彼はもはやそのような内心の矛盾を、意識下に抑圧しておくことができなくなったのでしょう。そしてその矛盾を破るべく彼の「超自我」からの声は、仏教的な装いをまとい、まさに超越的な「幻聴」として彼を襲ったのだと思います。

 そしてこれ以降、トシの死をめぐる賢治の苦悩には、さらにもう一つの要素が追加されることとなりました。それまでもテーマとなっていた、「トシは今どこにいて何をしているのか」という懸案に加えて、そういった疑問に心を悩ませつつ、なおかつ同時に「けつしてひとりをいのつてはいけない」という新たな命題をも顧慮しなければならないという、まさに「ジレンマ」を背負いこんだのです。

 この命題は、その後の賢治の作品においても探求が続けられます。
 賢治がサハリンから帰って書いた「〔手紙 四〕」においては、これは次のように変奏されます。

チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいていゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。

 また、「銀河鉄道の夜」(初期形第三次稿)では、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」が、次のように言いました。

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」

 これは、その後ずっと賢治に課せられつづける宿題となったのです。

 しかしあらためて考えてみると、そもそもなぜ、「ひとりをいのつてはいけない」のでしょうか?

 《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、前半部分に表れている輪廻転生観からしても、明らかに仏教的な命題であると言えるでしょう。しかし、本当に仏教ではそのように考えられているのでしょうか。
 「故人の冥福を祈る」とか、「誰それの供養のためにお経を上げる」とか、特定の誰か一人のために祈りを捧げるという行為は、仏教的にも広く行われている事柄ではないでしょうか。

 これに関して、まずは賢治が深く信仰していた日蓮の教えを見てみましょう。
 すると日蓮自身は、近親者を亡くした遺族が、故人の死後の幸いを祈るのは当然のことであり、またそれは善いことでもあり、大いに行うよう積極的に勧めていたことがわかります。

 例えば次の書簡は、10年前に父を亡くした南条時光という信徒が、身延山にいる日蓮に「かしら芋」を贈ったことに対して、日蓮が書いた礼状です。(『上野殿御返事(阿那律果報由来)』)

〔前略〕
此の身のぶのさわは石なんどはおほく候。されどもかゝるものなし。その上夏のころなれば、民のいとまも候はじ。又御造営と申し、さこそ候らんに、山里の事ををもひやらせ給ひてをくりたびて候。所詮はわがをやのわかれをしさに父の御ために釈迦仏・法華経へまいらせ給ふにや。孝養の御心か。
さる事なくば、梵王・帝釈・日月・四天その人の家をすみかとせんとちかはせ給ひて候は、いふにかひなきものなれども、約束と申す事はたがへぬ事にて候に、さりともこの人々はいかでか仏前の御約束をばたがへさせ給ふべき。もし此事まことになり候はば、わが大事とおもはん人々のせいし(制止)候。又おほきなる難来るべし。その時すでに此の事かなうべきにやとおぼしめして、いよいよ強盛なるべし。
さるほどならば聖霊仏になり給ふべし。成り給ふならば来りてまほ(守)り給ふべし。其の時一切は心にまかせんずるなり、かへすがへす人のせいし(制止)あらば、心にうれしくおぼすべし。恐々謹言。

 すなわち、時光が忙しい中をわざわざ日蓮に贈り物をしたのは、亡き父への別れ惜しさから、父の供養として釈迦仏・法華経に捧げたのであって、その行ないは時光の孝養心の表れであると、日蓮は解釈しています。そして、時光がその心がけで信仰に励むならば、必ずや父の聖霊は成仏するであろうこと、そして成仏したならば息子である時光のところへ来て、時光を守護してくれるだろうと述べ、励ましているわけです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、トシへの供養を贈る先としては、「日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対服従致します」(書簡177)と彼自らが帰依した田中智学に、すなわち国柱会に贈るべきだということになるでしょう。そして実際、賢治がトシの死後まもなく国柱会あてに「金壱百円」を贈ったことが、この年12月23日付け『天業民報』に掲載されています(「●金壱百円也 岩手宮沢賢治殿/(右は令妹登志子遺志ニ依リ)」)。賢治の農学校の月給が80円だった頃のことです。
 日蓮の書簡の言葉を信じれば、このような追善供養をして信仰に励めば、トシは必ず成仏できるはずですし、成仏したら賢治のところへ来て、彼を守護してくれるに違いありません。

 また、次の書簡は、富木常忍という下総の信徒が、母を亡くした翌月にその母の遺骨を首に懸けて、はるばる身延山まで日蓮を訪ねてきたという出来事を受け、その信徒の帰国後に送ったものです。(『忘持経事』)

〔前略〕
離別忍び難きの間、舎利を頸に懸け足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉して山野に盗賊充満し、宿々粮米乏少なり。我身は羸弱にして所従亡きが若く、牛馬も期に合せず。峨々たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭を天にウち、幽谷に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼は眩き足は冷ゆ。羅什三蔵の葱嶺・役の優婆塞の大峰も只今なりと云云。
然る後、深洞に尋ね入りて一庵室を見る。法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五躰を地に投じて合掌し、両眼を開き尊容を拝するに、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む。我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば、種子と菓子(このみ)と、身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道なり。吉占師子・青提女・目ケン尊者は同時の成仏なり。是の如く観ずる時無始の業障忽ち消え、心性の妙蓮は忽ちに開き給ふか。然して後に随分仏事を為し、事故無く還り給ふ云云。恐々謹言。

 すなわち富木常忍は、母との離別に耐えかねて、母の遺骨を首に懸け、困難な道を足に任せて下総から身延まで馳せ参じ、日蓮と感動の再会を果たします。そして遺骨を釈尊の宝前に安置し五体投地をして合掌し、目を開いて釈尊の像を拝むと、歓喜が身に余り心の苦しみも消えて、「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり」という、亡き父母との一体感に打たれたというのです。そして日蓮の記述は、「親子の同時成仏」という事柄にまで至ります。
 常忍はこの法悦的体験の後、「随分仏事を為し」とありますが、その中には苦労して持参した母の遺骨を、身延山に埋骨するという手続きも含まれていたはずです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、富木常忍の身延山行きは、「トシの遺骨を国柱会まで持参して納骨する」ということに相当するでしょう。ちなみに、国柱会から授けられたトシの戒名は、死の翌年1月9日付けになっていますから、この時に納骨が行われたと考えるのが、まずは自然です。
 実際、ちょうど1月11日まで賢治は弟清六とともに東京に出てきていて、その間一時的に賢治は姿をくらましていたと清六は回想していますから、『新校本全集』年譜篇は、「この時の(賢治の)行動は明確ではないが、静岡県三保の国柱会本部へ行ったと推定される」としています(p.252)。ただし、国柱会への納骨については、同年の春に父政次郎と妹シゲが行ったというシゲの回想もありますので、「賢治は東京で納骨の手続きのみを行ない、遺骨は父とシゲが持参した」という堀尾青史氏の見解も、年譜篇には併記されています。
 どちらにしても、トシの遺骨が翌年春までに、遺族の手によって国柱会本部に納骨されたことは確かです。

 日蓮が死者の供養について説いた遺文は他にもありますが、管見のかぎりで典型的と思われた二つの例を挙げてみました。いずれにおいても日蓮は、特定の故人を思う遺族が供養の品を日蓮に贈ったり、あるいは遺族が納骨に来たりすることを賞賛し、そのような行ないは故人にとっても遺族にとっても価値あるものだということを、力説しています。「ひとりをいのる」ことを、積極的に肯定しているのです。
 そして、現に賢治はトシの死を受けて、当代における日蓮の代理とも考えた田中智学=国柱会のもとへ、日蓮が書いたように追善供養を贈り、また納骨も行いました。
 賢治が日蓮の言葉を本当に信じていたならば、これだけのことをしたからにはもう、トシの成仏を確信して何も思い悩む必要はないはずですし、自分がこうやってトシという「ひとり」の肉親のことを切に祈っていることに対して、何ら後ろめたい思いを抱くこともないはずです。

 それなのに、いったい賢治はなぜ、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などと考えたのでしょうか。

 ここで日蓮から目を転じて、賢治もある時期まで深く信仰していた、浄土真宗の教えを見てみましょう。
 親鸞の言葉を弟子が書き記した『歎異抄』の「第五条」には、次のように書かれています。

一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、佛になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

【現代語訳】 この親鸞は、亡き父や母の孝行のために追善供養のお念仏を申したことは一度もありません。
 そのわけは、すべてのいのちあるものは、遠いむかしから今まで、いくたびとなく生まれかわり死にかわりするあいだに、あるいは父母となり、または兄弟姉妹となってきました。したがって、この世のいのちがおわって、浄土に生まれて仏になったうえで、すべてのいのちあるものを助けなければなりません。
 この念仏が、もしわたしが善い行ないをつみ重ねた上で得たのであれば、その念仏の功徳を父や母にさしあげて、お助けすることもできましょう。しかし、この念仏はわたしの力で得たものではありません。
 そういうことですから、自力の思いをすてて、すみやかに浄土に生まれてさとりを開いたならば、父母や兄弟姉妹たちが、迷いの世界に生まれて、どのような苦しみの中にあろうとも、仏の持つ不思議な力によって、まずこの世で縁のあったものから救ってさしあげます。
 このように、聖人は仰せになりました。
                   (角川ソフィア文庫『歎異抄』より)

 親鸞は、自分の父母のために祈ったことは一度もないと言い、その理由として、(1)限りない時間をかけて輪廻転生を繰り返すうちに、全ての生物が一度は自分の父母兄弟となったことがあるのだから、かりに今生だけの肉親を救ったとしても、そのことに本質的な意味はない、(2)自力で父母を救おうなどというのは思い上がりにすぎず、我々はただ他力による浄土往生を願うほかはない、という二点を挙げています。
 だから我々が目ざすべきことは、まずは「いそぎ(浄土の)さとりをひらき」、その後に、「神通方便をもて、まづ有縁を度すべき」だとしているのです。先日の「なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)」という記事に出てきた言葉にすれば、まずさっさと「往相」を遂げて、その後「還相」によって皆を救済せよ、ということですね。

 この親鸞の言葉を見ると、「一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり」という部分は、明らかに賢治の命題の中の「みんなむかしからのきやうだいなのだから」というところに、対応しています。
 そして、親鸞は「ひとりをいのつてはいけない」などと、表面上は禁止の言葉までは述べていませんが、自分の力で「祈る」などという行いは、親鸞の立場からすれば「本願他力の意趣にそむく」ことになるでしょう。すなわち、親鸞からすれば、「ひとりを」であろうと「一切の有情を」であろうと、いずれのために「祈る」ことも、煩悩具足の我らにとっては、身の程知らずの愚行にすぎないのです。

 ということで、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、「青森挽歌」に現れてその後しばらく賢治の課題となった言葉は、親鸞の思想に由来しているのではないかと、私は考えるのです。
 賢治は、親鸞には幼い頃から親しんでいましたから、その考えや言葉がふと心の底から湧き出してくるということは、可能性としてはありえることかもしれません。しかしそれにしても、上に引用したような日蓮の考えをしっかりと胸に刻んでおれば、何も己れの針路を、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などという方向に定めることはなかったのではないかとも思うのです。

 いったいなぜ当時の賢治は、まるで日蓮の教えから離れるかのようにして、むかし信じた親鸞的な思想に回帰するに至ったのでしょうか。

 この疑問への答えとして、私が考える一つの仮説は、トシの死後しばらくの間の賢治は、かなり深刻な信仰上の迷いに陥っていたのではないか、というものです。
 それは例えば、「宗谷挽歌」における、「私たちの行かうとするみちが/ほんたうのものでないならば…」とか、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」という箇所にも、表れているのではないかと思います。

 そして、それにも増して私がどうしても考えずにいられないのは、トシの死後の宮澤家の状況です。
 もちろん、家族全員がトシの死を深く悲しんでいたことでしょう。しかし、浄土真宗に深く帰依する父や母や妹たちは、トシの死後の「行方」などについて思い悩むこともせず、そんなことは他力に任せ、ただ阿弥陀如来の回向だけを信じて、家族一緒に静かに仏壇に向かい、南無阿弥陀仏を唱えていたことでしょう。
 これに対して、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」を失ってしまった賢治には、もはや家庭内に「同じ立場で」悲しみを共有できる同志はありませんでした。たった一人、二階の自室の「御本尊」の前で、南無妙法蓮華経を唱えるしかなかったのです。そして、悲しめば悲しむほど、賢治の孤立は深まり、苦悩も大きくなっていったでしょう。

 そもそも、深い心の傷を負った人間に、回復の希望を与えうるものがあるとすれば、それは周囲の人々との「つながり」です。逆に言えば、深く傷ついた人にとって、最も恐るべき事態は、「孤立」です。
 トシの死後の宮澤家において、これは家族の誰の悪意によるものでもなかったのですが、賢治は自ずと宗教的孤立に追い込まれざるをえませんでした。唯一人でトシを悼むしかない賢治の目から見ると、自分以外の家族は皆、ともに悲しみを分かち合い、おそらく真宗的な諦観も漂わせながら、淡々と日常を送っていたことでしょう。
 その状況が生まれた原因は、法華経や日蓮の教義にあるわけではなく、ただ賢治の中で、深い悲しみと孤立が悪循環を形成していただけなのですが、賢治にとっては、この己れの苦しみは自らの信仰に由来する問題なのかと、ふと感じることもあったでしょう。そのような迷いが、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」というような言葉を生じさせる要因にもなったのではないかと、私は思うのです。

 そして、トシの死の前後の賢治を襲ったそのような宗教的苦悩が、前回に書いた「往相」と「還相」という真宗的な物語の構造や、今回述べたような親鸞的思想への揺り戻しを、彼にもたらしたのではないかと、そんな風に私は考えてみるのです。

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2015年4月26日 なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)

 4年前に「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」として、そして昨年に「なぜ往き、なぜ還って来たのか(2)」として、双子のような構造を持った作品、すなわち「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」について、その時々に思ったことを書きました。
 (2)においては、「銀河鉄道の夜」に表れている死者への思いには、賢治が傾倒していた日蓮の死者観よりも、法然や親鸞の浄土教との共通点が認められるのではないかということを述べましたが、今回もまた、浄土信仰と関連したお話です。

 ご存じのように、賢治の生家は浄土真宗の篤信家で、彼は物心ついた時から親鸞の教えに囲まれて育ち、3歳頃には「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していたという逸話もあります。16歳で父にあてた手紙には、「小生はすでに道を得侯。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し侯」と書き送りました。
 そのように、いったんは浄土真宗に深く帰依していた賢治でしたが、18歳の頃に法華経と運命的な出会いを遂げるとその信仰心は大きく転換し、今度は法華経および日蓮の熱烈な信者となりました。
 このような経過から、青年期以降に書かれた賢治の作品は、基本的には法華経の思想や世界観に基づいているのですが、その一方で、幼少期から血となり肉となっていたであろう浄土真宗との関連性が認められたとしても、別に不思議なことではないはずです。

 ということで、ここでまず親鸞の『教行信証』を開いてみると、その本文は次の文章で始まります。

 謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。一には往相(おうそう)、二には還相(げんそう)なり。

【現代語訳】 つつしんで浄土の真実の心(浄土真宗)を考えてみるに、それには如来の与えられる二種の恵み(回向)がある。一つには、浄土に生まれるすがた(往相)であり、二つには、ふたたびこの世に帰ってくるすがた(還相)である。(石田瑞麿『教行信証入門』講談社現代文庫)

 私のような素人にとっては、浄土信仰というと、「死んだら極楽浄土に往生できることを、ひたすら願う」というイメージがありますが、この「極楽往生」は上の言葉でいえば「往相」にあたります。そして実は浄土の教えには、これに加えてもう一つ大事な、「還相」という段階があるわけです。
 この「還相」というのは、「往相」によっていったん浄土に生まれた後、そこにそのまま留まらず、浄土を離れて再びこの現世に戻り、現世の全ての迷える衆生を教え導いて、一緒に仏のさとりに向かわせる、という働きのことです。
 一般に知られた「往相」とともに、この「還相」を合わせた「二種の回向」こそが親鸞にとっては何より重要であり、そのためこれを「浄土の教えの真髄」として、自らの主著の冒頭にも掲げたわけです。

 「往相」の浄土往生については、各種の浄土経典に様々な形で説明されていますが、「還相」の方は、『無量寿経』における「阿弥陀の四十八願」の中の、「第二十二願」で述べられています。
 ちなみにこの「四十八願」というのは、後に阿弥陀如来になる法蔵菩薩が、「もしAという条件が満たされなければ、私は決して成仏しない」「もしBという条件が満たされなければ、私は決して成仏しない」「もしCという条件が・・・」というような形で、「48の条件が全て達成されなければ私は成仏しない」ということを誓い願ったものです。そして、現実に法蔵菩薩は阿弥陀如来として仏に成った(とされている)わけですから、A、B、C・・・という48の誓願は、全て既に成就されているのだ、という理屈になるわけですね。
 そのような中で、「還相」が規定されている「第二十二願」というのは、次のようなものです。

 たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。

【現代語訳】 わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。(本願寺出版社『浄土三部経』より)

 上の現代語訳の中で、3行目の「ただし、・・・」より後が、「還相」について述べているところです。
 法蔵菩薩はこの誓願の冒頭で、浄土に生まれ来る全ての者を「一生補処」の位(=次の生で必ず仏に成ることが約束された菩薩の最上位)にしようと誓うのですが、ただし例外的に、その位に甘んじることなくさらに各々の国に帰って修行し、そこで数多くの人々を導いて悟りを得させようとする者については、その限りではない、というわけですね。

 ということで、「現世」から見たこの「第二十二願」の内容を単純化すれば、下のようになるでしょう。

往相と還相

 現世から浄土に往生した者のうち、「願に応じて」再び現世に戻った者は、この世でさらに修行をしつつ、人々を救うのです。

 そしてこの往還は、宮澤賢治の作品「ひかりの素足」や「銀河鉄道の夜」と、同型の構造を持っています。
 まず下図は、「ひかりの素足」。

「ひかりの素足」の構造

 吹雪で遭難した一郎と楢夫の兄弟は「うすあかりの国」に至り、そこで「白くひかる大きなすあし」の人と出会います。楢夫はそのまま死の世界にとどまりましたが、一郎は「ひかりの素足の人」から、「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」と言われ、「今の心持ちを決して離れるな。お前の国にはこゝから沢山の人たちが行ってゐる。よく探してほんたうの道を習へ」と教えられます。

 一方、「銀河鉄道の夜」の場合は、下図のようになっています。

「銀河鉄道の夜」の構造

 ジョバンニとカムパネルラは一緒に銀河鉄道に乗りましたが、カムパネルラは死んで、ジョバンニだけが帰ってきます。
 最終の「第四次稿」においては、これはジョバンニが一人で見た夢だったことになっていて、作者がそこに込めた「意味」は明かされませんが、「第三次稿」までは、これはブルカニロ博士による「実験」の間に起こった体験とされていました。実験による夢の中でジョバンニは、「さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ」と決心し、さらに博士に、「お前は夢の中で決心したとほりまっすぐ進んで行くがいゝ」と励まされます。

 さて、「ひかりの素足」の一郎や「銀河鉄道の夜」のジョバンニが、『無量寿経』における「還相の菩薩」と共通している一つの点は、いずれも「現世」に戻ってから、さらなる修行や人々の救済などの活動を期待されているところです。一郎は「ひかりの素足の人」から、ジョバンニはブルカニロ博士から、その期待を託されました。これらの期待された活動こそが、それぞれの帰還への意味づけだったとも言えます。

 さらにもう一つ、これらの物語に共通する点として、「帰還させた力の超越性」ということがあります。
 『無量寿経』において、「還相の菩薩」がその道を選ぶのは、「願に応じて…」と現代語訳にありますから、一見するとその行動は各自の主体的な判断に依っているかのように思えますが、これは実はそうではありません。この「願」とは、法蔵菩薩=阿弥陀如来の誓願のことであり、還相に入ること自体も、阿弥陀の力のおかげであるというのが、中国の曇鸞以降の浄土教の解釈です。親鸞がことさら、「還相の《回向》」ということを強調する所以もそこにあって、それは、阿弥陀の功徳が《回し向けられたもの》なのです。
 一方、「ひかりの素足」の一郎が現世に帰ってこられたのも、全く以て「ひかりの素足の人」のおかげでした。一郎は、健気に弟を守ろうとはしましたが、現世に帰ろうと努力をしたわけでは全くなく、それは一郎にとっては、自らを超越した力がなせるわざでした。
 さらに、「銀河鉄道の夜」初期形で、ジョバンニが異界からこの世に帰還するという体験をしたのも、ブルカニロ博士が行った心霊的な実験のためでした。それは、ジョバンニの意識が与り知らないうちに行われたことだったのです。

 このように、賢治の二つの重要な作品の骨格には、浄土真宗の教義の本質的な部分との共通点が、認めらます。その同型性は、「異界へ往き、還る」という物語の大枠にとどまらず、帰還に込められた「意味」や、往還を駆動する「力動」にまで及んでいるところを見ると、これはもはや単なる偶然の産物とは思えません。
 図らずもここに示されているのは、賢治の心の奥底に刻まれていた浄土真宗的な想念の、無意識のうちの発露なのではないでしょうか。青年期以降の賢治は、法華経を熱烈に信じながらも、その内心には実はこういった複雑な宗教的重層性が存在したのだろうと、私には思えるのです。

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2015年4月19日 オホーツク行という「実験」

 賢治が1923年(大正12年)夏にサハリンに旅した目的は、表向きは農学校の教え子の就職斡旋のためということでしたが、この間に書かれた「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」など長大な挽歌群を見ると、この旅が妹の死と深く関連したものであったことは、明らかです。
 その「関連」の中身について、『新校本全集』年譜篇は(堀尾青史氏による『旧校本全集』の年譜を引き継ぎ)、この旅の意味を「亡くなった妹トシとの交信を求める傷心旅行」と表現し、鈴木健司氏は「《亡妹とし子との通信》という隠された目的のあったことも確かなことだ」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』p.175)と記しておられます。

 私もこれらの説のとおり、この旅における賢治がトシとの通信あるいは交信を切望し、妹が今どこでどうしているのか、何としても知りたいと願う気持ちがあったのは確かだろうと思います。しかし、私が思うところはそれにとどまらず、賢治がここで本当に求めていたのは、トシとの通信だけではなく、「トシの後を追って自分も妹と一緒に行く」ということだったのではないかと、ひそかに思っているのです。
 今日は、私がそのように考える理由について、トシの死の前、当日、死の後、という順に賢治の作品を追って、整理してみたいと思います。

 その前に確認しておきたいのは、ここで私が言いたいのは、「賢治は妹の後追い自殺をしようと企てていた」ということではありません。ひょっとしたら、この世に残された者から見ると自殺と映るような結果になったのかもしれませんが、賢治の本来の意図は、そうではなかったのです。
 たとえば北方のどこかに、「異空間への接続ステーション」があって、死ぬことなく「死後の世界」に行ける可能性があるかもしれません。実際、「ひかりの素足」でも「銀河鉄道の夜」でも、主人公は大切な人とともに死後の世界へ往って、また還ってきています。
 などと言うと、いい大人が旅行を計画した動機としては、かなり荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、しばしば異界と「交信」し、異空間の実在を信じていた賢治にとっては、これはそんなに無茶な話ではなかったろうと思うのです。少なくとも、「ある種の事を行えば、それに応じた結果が期待される」という意味において、この旅は賢治の意識の中で、宗教的には一つの「儀式」と言えるものだったでしょうし、自然科学的には一つの「実験」と言えるものだったのではないかと、私は思うのです。

1.トシの死の前

 以前の記事にも書いたことですが、賢治は1922年11月のトシの死の少なくとも数ヶ月前から、もしも妹が臨終を迎える時が来たら、自分もともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と考えていたのではないかと、私は思っています。

 ところでこの、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉は、1922年8月に書かれたと推定される「イギリス海岸」の中に、登場するものです。生徒を引率してイギリス海岸に来た賢治は、もしも泳いでいる生徒が溺れた時に自分が取る行動として、次のように思っていたというのです。

もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 生徒に対する賢治のこのありあまるほどの責任感に、もちろん嘘はなかったのでしょう。しかし、あまりにも大仰なこのような言葉が、ふと彼の口をついて出てきた背景には、当時下根子桜の別宅で着実に死へと近づきつつあった妹の存在があったはずだと、私は思うのです。
 賢治は、実はトシに対してこそ、常々このように思い詰めていたのではなかったでしょうか。

 また、童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて、天空から海の底に落とされてしまう箇所には、次のような言葉があります。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 「双子の星」のテキストには、吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』と共通した表現が見られることから、その現存稿が書かれたのは、1922年9月の同書刊行以後だろうという説があります(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の中地文氏による「双子の星」解説)。そうであれば、この作品の完成も、トシの死のほんの少し前のことになります。
 そして、この作品における「双子」という存在が、賢治とトシという兄妹をモチーフの一つとしていることは多くの人の認めるところであり、その二人が「どこ迄でも一諸に落ちやうとした」と賢治が記していることの意味は、やはり見逃すことができません。
 ここでも賢治は、トシが死ぬ時にはその肱をしっかりとつかみ、「どこ迄でも一諸に落ちやう」と、考えていたのではないでしょうか。

 さらに賢治には、もっと直接的に、一緒に死後の世界に至る「兄弟」をテーマとした作品もあります。吹雪における兄弟の遭難を描いた童話「ひかりの素足」では、兄の一郎は弟の楢夫にぴったりと寄り添い、弟を献身的に守りながら、二人一緒に「あの世」にたどり着きますが、この作品の第一形態が成立したのは、1922年前半頃までと推定されています(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の杉浦静氏による「光の素足」解説)。
 やはりトシの死が近づきつつあった年に書き始められたこのお話も、その構想そのものが、「妹に付き添って死後の世界へも同行し、その身を守ってやりたい」という賢治の願望を、反映したものだったのではないでしょうか。

 じりじりと死の影に迫られつつある妹を見守りながら、1922年という年の賢治は、ずっと一人でこういうことを思い詰めていたのではないかと、私は思うのです。
 しかしいずれにせよ、愛する妹の最期の日は、否応なくやってきました。 

2.当日 

 1922年11月27日、トシの臨終の床で、何が起こったでしょうか。賢治は心のどこかでは、たとえば妹と一緒に兄も仏に導かれて別の世界に至るような、何かそんな超自然的な出来事を期待していたのかもしれません。
 しかし現実には、そのようなことは起こりませんでした。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」に記録されいるような会話がおそらく行われ、その後トシは一人で旅立って行ったのです。

 しかしここで、「松の針」に出てくる次のような部分には注目しておくべきだろうと、私は思います。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、妹が「けふのうちにとほくへさらうとする」こと自体は不問にする一方で、「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか」ということを、問いつめているのです。
 思えば「永訣の朝」の冒頭も、「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」でした。このような場合、普通ならば「死なないでくれ」と訴えるのがお決まりのパターンでしょうが、賢治はその日のうちに妹が死んでしまうそのこと自体は、じたばたせずに受け容れていたのです。
 そしてその一方で賢治は、妹が「ひとりでいかうとする」ことには、異議を唱えるのです。「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ/泣いてわたくしにさう言つてくれ」と懇願し、自分が妹の死に同行する可能性を、何とかして引き出そうとするのでした。

 このような賢治のスタンスは、次の「無声慟哭」でも同様です。

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

 上で太字にしてみたように、ここでも賢治は、妹が「ひとり」行こうとすることを、どうしても認めようとしません。

 つまり、賢治は妹の「死」は認めつつも、「ひとりで」を認めないのです。
 これこそ、賢治がトシの死のかなり前から、「妹が死ぬ時には同行しよう」とずっと思い詰めていたことの表れだろうと、私は思うのです。 

3.死の後 

 しかし、トシは結局、「ひとりで」行ってしまいました。残された賢治の喪失感ははかりしれないものだったでしょう。悶々として一篇の詩も生まれない日々が、半年あまりも続きました。
 そのような月日の果てに企画されたのが、翌年夏のサハリン旅行でした。トシの死の当日まで抱えていた上のような賢治の思いは、この時どうなっていたでしょうか。

 サハリン行への途上で書かれた作品のうち、その賢治の気持ちを最もはっきりと表しているのは、「宗谷挽歌」です。「妹の死に同行する」ことをその死の当日までずっと願いつづけていた賢治の思いは、その死後8ヵ月あまりを経てもなお綿々と続いていたことが、ここで明らかになります。
 その冒頭部分を、下に引用します。

   宗谷挽歌

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。 

 宗谷海峡を渡る船の甲板にいる賢治は、もしも妹が自分を呼んだなら、「私はもちろん落ちて行く」と決意しています。
 また、上の最後の引用行においても、「どうして私が一諸に行ってやらないだらう」と書いています。
 まさに賢治はここでも、トシと一緒に「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っているのです。
 さらに、上記のしばらく後の部分には、次のような箇所もあります。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「われわれが信じわれわれの行かうとするみち」とは、法華経信仰に違いありませんが、もしもそれが「まちがひであったなら」自分に知らせに来てくれと、賢治はトシに頼んでいます。もし賢治がそれを聞いたなら、「私はもちろん落ちて行く」という決意を実行に移すでしょうが、そのまま「まっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。
 このような行動は、第三者から見れば「自殺」以外の何ものでもありませんが、賢治もそれは意識しているので、「宗谷挽歌」の文中には、自分が船員から自殺者と疑われているのではないかと、気にする箇所も出てくるわけです。

 このようにして、妹のもとへ行けるなら死んでもよいという決意のもと、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という心構えを持って、賢治は宗谷海峡に臨んだわけです。
 さかのぼれば、前日の「青森挽歌」において、すでに賢治は次のように書いていました。

(宗谷海峡を越える晩は
 わたくしは夜どほし甲板に立ち
 あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
 からだはけがれたねがひにみたし
 そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 この言葉のとおり、賢治は宗谷海峡を越える晩に「夜どほし甲板に立ち」、何かが起こることを期待したのです。この「挑戦」こそ、賢治にとっては一つの「儀式」であり、「実験」だったのだと思います。
 しかし結局、賢治が期待したような出来事は、この海上では起こりませんでした。海を渡った賢治は、サハリンに到着します。

 そして、サハリンの玄関口である大泊(ロシア名コルサコフ)の港から、彼はまた鉄道に乗って、一路北を目ざします。そして、当時の「樺太東線」の終着駅である、栄浜(ロシア名スタルドブスコエ)の駅に降り立ちました。
 下の地図で、マーカーを立ててある場所が栄浜です。

 私が推測するには、賢治がこの旅行において、宗谷海峡に続いてもう1ヵ所「何か」を期待して臨んだ地が、この栄浜だったのではないかと思うのです。
 この場所は、当時の日本において、鉄道で行くことのできる最北の地点でしたが、この「最果ての浜辺」というロケーションにも、何らかの思い入れがなされていたではないでしょうか。

 賢治はその浜辺に出て、オホーツク海と向かい合い、「オホーツク挽歌」を書くのですが、このテキスト中に出てくる「仮眠」に対して、香取直一氏と鈴木健司は、「《亡妹トシとの通信》を求めた意志的な行為」と解釈しておられます(香取直一「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」および鈴木健司「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」)。私もこの着眼に、同感です。
 最果ての浜辺で、貝殻を口に含んで行った「仮眠」は、賢治によってなされた次なる「儀式=実験」だったのだろうと、私は思うのです。

 「オホーツク挽歌」という作品は、本文中の二つの空白行によって、三つの部分に分かたれていますが、その二番目の部分を、下に引用します。

白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
それにだいいちいまわたくしの心象は
つかれのためにすつかり青ざめて
眩ゆい緑金にさへなつてゐるのだ
日射しや幾重の暗いそらからは
あやしい鑵鼓の蕩音さへする

 この18行は、「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」という自らの行為への、注釈になっています。その仮眠の理由を、賢治はエネルギーの恢復のためとか、心象がつかれているからなどと説明していますが、しかしその本当の目的は、眠っている間にトシのもとへと行ってくることだったのではないかと、私は思うのです。
 それはちょうど「銀河鉄道の夜」において、ジョバンニが天気輪の丘で「仮眠」に入り、その間に死んだカムパネルラとともに異界を旅してきたことに相当します。この時のオホーツクの浜辺における賢治の仮眠は、「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニのそれの、原型とも呼べるものだったのではないでしょうか。

 「オホーツク挽歌」における賢治のこの仮眠が持つ意味について考えるには、この作品と童話「サガレンと八月」との関係に注目する必要があるでしょう。
 鈴木健司氏は、「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」の二つが「ネガとポジの関係」にあると指摘し、さらに踏み込んで「オホーツク挽歌」の仮眠において賢治が体験した内容が、「サガレンと八月」として作品化されたと論じておられます。
 両作品における舞台設定の共通性を見ても、これは非常に説得力のある仮説であると、私も思います。しかし、鈴木氏が栄浜における賢治の「仮眠」についてここまで鋭く論じられながら、その仮眠の目的が、《亡妹トシとの通信》を行うことだったと結論づけておられるところは、私としてはやや物足りなく感じてしまうのです。
 「サガレンと八月」が、<異界へ行く物語>であることに鑑みれば、ここにおいて賢治が期待していたことも、単なる「通信」にとどまらず、「身をもって異界へ行く」ことだったと解釈すべきではないでしょうか。
 それは、「サガレンと八月」において海の底に連れ去られたタネリの運命について考えることによっても、浮き彫りにされます。

 「サガレンと八月」で少年タネリは、母親の与えた禁忌を破った結果、恐ろしい犬神によって海の底に連れて行かれ、蟹の姿にされて「チョウザメの下男」として幽閉されます。
 ところでサハリンという島の形は、日本では「鮭」の姿に喩えられますが、ロシアにおいては、「チョウザメ」の形と言われているのです。下記は、チェーホフの『サハリン島』からの引用です。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 サハリンを蝶鮫にたとへることは、南部の場合は殊にふさはしく、全く魚の尾鰭にそつくりである。尾の左端はクリリオン岬、右は――アニーワ(亜庭)岬と呼ばれ、その間の半円形をなした入江を――アニーワ湾といふ。(岩波文庫版上巻p.248)

サハリンとチョウザメ  このチョウザメの喩えは、右の図をみていただければ一目瞭然です。島全体のスリムさは、鮭よりもチョウザメの方がぴったりきますし、南端の尾びれの形といい、東に突き出た北知床半島(テルペニア半島)が背びれに対応するところといい、比喩の迫真性に関しては、鮭よりもチョウザメの方に軍配を上げざるをえません。
 賢治は、文語詩「宗谷〔二〕」において、中知床岬(アニーワ岬)のことを、「サガレン島の東尾」と表現していますから、サハリン島の形が「魚」に喩えられることを知っていたのは確かです。これが鮭だったのかチョウザメだったのかはわかりませんが、「サガレンと八月」というサハリンを舞台とした童話に、「チョウザメ」が出てくるのですから、これはサハリンという土地を象徴するものと解釈するのが自然でしょう。

 すなわち、「サガレンと八月」の主人公が、他ならぬ「チョウザメ」の下男として海の底に閉じ込められるという物語は、実は作者である賢治が、サハリンという土地に囚われ、その海底に沈められるという事態を、象徴していると解釈すべきでしょう。
 そうなると、賢治が栄浜での「仮眠」において期待していたのは、やはりトシとの「通信」にとどまらず、自らがトシの居場所へと赴くことだったと考えるべきと思います。
 自ら宗谷海峡を渡る船の甲板から飛び込むことによってか、あるいは栄浜の海岸からタネリのように拉致されることによってか、いずれにしても賢治が亡き妹のもとへ行きたいという願望とともに、ひそかに心に期していた「異界への旅」は、「サガレンと八月」におけるタネリと同じ運命を、招き寄せるおそれがあったのです。

 それでは、「オホーツク挽歌」において栄浜の海岸で仮眠をとった賢治は、ジョバンニとカムパネルラのように、その夢の中でトシに会うことができたのでしょうか。
 これについて考えるためには、「オホーツク挽歌」の作品中のどこで「仮眠」が行われたのかということを、同定しておく必要があります。この問題に関して鈴木健司氏は、二つの空白行によって三つに分かたれた作品の「パート2」(=上の引用部分)と「パート3」の間で賢治は仮眠をとり、この際に「サガレンと八月」に結実する《幻想体験》が現れたと推定しておられます。「パート1」「パート2」はまだ朝方の時間であるのに対して、「パート3」には「(十一時十五分 その蒼じろく光る盤面)」という詩句があり、その間に時間的断絶があると思われることを、その根拠として挙げておられます。
 私も、鈴木氏の考えに賛成です。作者は、「パート2」では「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」と述べていることからまだ眠っていないわけですが、「パート3」には「わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき…」という詩句があって、この時点ではすでに「睡つたりしてゐる」からです。
 そうすると、「パート3」を読めば「仮眠」後の賢治の様子がわかるということになります。ということで、その内容を見てみると、まず目に入るのは、「とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」という言葉です。つまり、仮眠の後にも、賢治はトシに関する具体的な情報を持っていないのです。
 あるいはまた、「いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる/あんなにかなしく啼きだした/なにかしらせをもつてきたのか」という、鳥に対する思い入れも書きとめられています。これは、旅行前の6月の「白い鳥」の流れを引いて、鳥の鳴声の中にトシからのメッセージを読みとろうとする姿勢で、もしもその直前にトシと会えたり通信が得られたりしていたのならば、こんな風に鳥の声を頼りなく聴くこともなかったでしょう。
 すなわち、このオホーツクの海岸における仮眠という「実験」によっても、賢治は期待したようにトシのもとへ行くことは、できなかったのです。
 その意味で、未完に終わっている「サガレンと八月」という童話は、賢治の実験が成功しなかったということにおいても、結末に至ることなく放置されたということにおいても、二重の意味で「流産させられた」作品だったと言うことができるでしょう。

 では、「オホーツク挽歌」におけるこのような体験は、結局のところ賢治に何を与えたのでしょうか。
 香取直一氏は次のように述べて、賢治はこれを契機に、トシの「行方」について思い悩まなくてよい心境に到達したのだと、考えておられます。

玉随の雲に漂って行ったあの一羽の鳥は、《とし子》が蒼空の彼方へ行ったこと、そこから《通信》はこないが、《通信》をよこす必要のない処・眼前に望まれる樺太のような花のきれいな光あふれる浄らかなところへ行ったことをものがたっているのだ。賢治にはこう信じられていたのであろう。(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)が記されたのも、やはり必然であったと思われるのである。(「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」より)

 一方、鈴木健司氏は次のように述べ、賢治はこの時、香取氏の言うようにトシの往生の地を《浄土》と信じたというわけではないのではないかとしておられます。

 香取のいう「必然」とはどのようなことか。賢治にとって、妹とし子の往生の地が「光りあふれる浄らかなところ(浄土)」に違いないと確信することと、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやくことが、どのような必然の糸で結ばれているというのだろうか。おそらく私の解釈は香取の主張するところとは異なっている。賢治が「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやいたのは、妹とし子の往生の地が《浄土》と信ぜられた結果としてではなく、《浄土》であり続けるためにつぶやいたのである。なぜなら、妹とし子の浄土往生を支えうるのは、己れの信仰の正しさの確認以外になく、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という語には、この場合、破地獄としての陀羅尼(呪文)の作用が託されていると考えられるからである。(「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」より)

 そして鈴木氏は、「オホーツク挽歌」の終結部に出てくる「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という梵語による唱題の意味について、次のように述べます。

「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやかれたことは、賢治が妹とし子のいない現実世界を受容したことを意味するのであり、それは取りも直さず、《亡妹とし子との通信》の断念の表白でもあるのだ。

 この鈴木氏の見解について、私は半分は賛成です。
 すなわち、鈴木氏が上の後半で述べているように、「オホーツク挽歌」以後の賢治は、もうそれまでのようにトシとの「通信」に執着することはなくなります。その後の作品には、「通信」というテーマは出てこなくなるのです。
 一方、前半部の「賢治が妹とし子のいない現実世界を受容した」という点については、この時点の賢治はまだ「受容」にまでは至っていないと、私は考えざるをえません。
 たとえば、サハリンからの帰途の「噴火湾(ノクターン)」では、トシに関して次のような思いが綴られています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 ここに描かれている賢治にとっては、「何べん理智が教へても」、やはりさびしさは癒えません。そして彼が、「どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」理由は、「妹とし子のいない現実世界」を、まだ受容しきれていないからに他なりません。
 あるいはまた、サハリン旅行から帰ってから書いた「〔手紙 四〕」の冒頭には、次のように記されています。

 わたくしはあるひとから云ひつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つているかたはありませんか。 

 ここでも、チュンセの死んだ妹ポーセが「ほんたうにどうなつたか」を知りたいという賢治の願望は、まだ強く持続しているのです。妹の行方を知る手段として、トシ本人からの「通信」を求めるという以前のやり方は用いられず、「手紙に託して探す」という方法がとられますが、それでもやはり賢治は、まだ「妹とし子のいない現実世界」を受容しているとは言えません。

 サハリン行から後の作品を順に追って見ていくと、賢治が本当の意味でトシの死を受容できるようになったのは、さらに翌年の「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」、そしてその頃に書き始められた「銀河鉄道の夜」に至ってのことだったろうと、私は考えます。
 賢治がその境地まで至った道筋は、崇高な「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」の一例とも言えるものであり、またそのうちに記事にしてみたいと思っています。

 では、賢治が結局オホーツク行という企図によって得た最大の収穫は何だったのかとあらためて考えてみると、私としては、「青森挽歌」の終わり近くに出てくる次の一言の啓示だったと思います。

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

 この認識が、「〔手紙 四〕」の重要なテーマとなり、「〔この森を通りぬければ〕」と「薤露青」を支え、さらには後の「銀河鉄道の夜」にも引き継がれることになっていきます。

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2015年4月 9日 酒井俊のライブとCD『花巻農学校精神歌』

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Shun Sakai & The Long Goodbye

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 酒井俊さんという歌手がおられて、ジャンルは何と言えばいいのか、私ごときにはよくわかりませんが、1970年代にジャズヴォーカルとしてセンセーショナルにデビューし、その後マンハッタンで生活していた時期などをはさんで、ある時点からはもっぱら日本語で歌う道を選び、1995年の阪神淡路大震災以降は被災者への鎮魂歌とも言うべき「満月の夕」を歌い続けて2003年日本レコード大賞企画賞を受賞し、現在はベトナムで暮らしながら、日本でも音楽活動をしているという、そんな方です。
 一般的な音楽ジャンルの境界など超越しておられる感じですが、しいてその歌を位置づけるならば、「日本の魂のあふれたジャズ」ということになるんでしょうか? その歌声は、温かくやさしく、それでいて力強く、初めて聴いても不思議な懐かしさを感じます。

 その酒井俊さんは、宮澤賢治を深く敬愛しておられるということで、このたび4月20日に、その名も『花巻農学校精神歌』というアルバム(上のジャケット)を発売されます。この日はくしくも、賢治が『春と修羅』を出版した記念の日ですね。
 そしてその発売に合わせ、4月14日から5月26日まで、日本各地29ヵ所でライブ「怒濤の全国ツアー」を開くということで、その京都公演を企画しておられる方から、お知らせをいただきました。
 京都では、4月16日(木)の夜に、鞍馬口の「」というレストランで開かれます。私は、開演には遅れてしまいそうなのですが、それでもぜひ聴きに行きたいと思っています。

『花巻農学校精神歌』新譜アルバム発売記念ライブツアー
京都公演
  日時: 4月16日(木)18:30 開場/19:30 開演
  場所: カジュアルレストラン 陽 (地下鉄「鞍馬口」駅徒歩3分)
  料金: 3500円(ドリンク代別途)
  予約: 075-414-0056(陽)

酒井俊『花巻農学校精神歌』発売記念ライブツアー京都公演

 さらに、全国ツアーの予定は下記のとおりだということで、これはまさに「怒濤のツアー」ですね!

中京関西山陽ツアー
4月14日(火): 名古屋「得三」
4月15日(水): 大阪「ラグタイム大阪」
4月16日(木): 京都「レストラン 陽」
4月17日(金): 神戸「James Blues Land」
4月19日(日): 広島「行者山太光寺」
4月20日(月): 広島「オリエンタルホテル広島 3Fチャペル」
九州ツアー
4月22日(水): 福岡「ニューコンボ」
4月23日(木): 久留米「ルーレット」
4月24日(金): 熊本「Restaurant & Live Bar CIB」
4月25日(土): 熊本「リハビリテーション病院」
4月28日(火): 喜界島「SABANI」
4月29日(水): 鹿児島「明日の地図」
TOKYO公演
5月 1日(金): 下北沢「ザ・スズナリ」
東北中越北関東ツアー
5月 7日(木): 宇都宮「悠日カフェ」
5月 8日(金): 二戸「蔵元南部美人」
5月 9日(土): 八戸「茶屋東門」
5月10日(日): 気仙沼「ヴァンガード」
5月12日(火): 仙台「カーボ」
5月13日(水): 新潟「Jazz FLASH」
5月14日(木): いわき「Bar QUEEN」
北海道ツアー
5月18日(月): 札幌「JERICHO」
5月19日(火): 小樽「GROOVY」
5月20日(水): 伊達「チロル」
5月21日(木): 函館「Ji-no」
5月23日(土): 釧路「ジスイズEST」
5月24日(日): 三石「蓬莱音楽館」
5月25日(月): 東川「叢舎」
5月26日(火): 札幌「くう」
横浜公演
5月28日(木): 新横浜「エアジン"ラントラクト1F」

 詳しくは、酒井俊さんのオフィシャルサイトの「4月のスケジュール」および「5月のスケジュール」のページからご覧いただくことができます。

 最後に、下のYouTubeからは、CD『花巻農学校精神歌』の一部を視聴することができます。

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2015年4月 5日 コンサート「千原英喜と宮沢賢治」

 これまで宮澤賢治の詩にもとづいた多くの合唱曲を作曲・初演してきた、千原英喜氏と大阪コレギウム・ムジクムのコンビが、東京と大阪で公演を行います。
 大阪コレギウム・ムジクム創立40周年記念にあたり、「千原英喜と宮沢賢治〜その魅力の音世界〜」と題して、5月24日(日)に東京・浜離宮朝日ホールで、6月28日(日)に大阪・いずみホールで、それぞれコンサートが行われます。
 当日は音楽だけでなく、照明と演出が付いた「シアターピース舞台作品」として演じられるのだということです。また演奏に先立って、作曲の千原英喜氏と、大阪コレギウム・ムジクム主宰の当間修一氏のお二人による、「プレトーク」があるのも楽しみですね。
 プログラムは、下記の4曲です。

種山ヶ原の夜の歌 ―異伝・原体剣舞連

文語詩稿<祭日>
混声合唱とチェロ、ピアノ、パーカッションのために

児童・女声合唱組曲
ちゃんがちゃがうまこ

混声合唱とピアノのための組曲
わたくしという現象は

 「種山ヶ原の夜の歌」および「祭日」は、いずれも2007年大阪コレギウム・ムジクム委嘱作品です。
 出演は、下記のとおり。

指揮・演出: 当間 修一
ピアノ: 木下 亜子
チェロ: 大木 愛一
打楽器: 高鍋 歩 奥田 有紀
笛: 礒田 純子
合唱: 大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団
     大阪コレギウム・ムジクム合唱団

 千原英喜氏による宮澤賢治作品のコンサートには、2007年9月10月2010年12月2014年7月にも行ったのですが、いずれも印象に残る素晴らしい体験となりました。
 賢治ファンには、お勧めのコンサートだと思います。

大阪コレギウム・ムジクム「千原英喜と宮沢賢治」

【参考】
 ちなみに下記は、これまでに私が VOCALOID で演奏してみた千原英喜作品(の真似事)です。

・「雨ニモマケズ
・「ちゃんがちゃがうまこ
・「宮沢賢治の最後の手紙

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