2010年2月 7日 吉・吝・凶・悔

 1933年(昭和8年)3月31日、賢治が亡くなる半年ほど前に森佐一に宛てた「書簡467」に、次のような一節があります。

昨夜叔父が来て今日金田一さんの予審の証人に喚ばれたとのことで、何かに談して行きました。花巻では大正五年にちやうど今度の小さいやうなものがあり、すっかり同じ情景をこれで二度見ます。易の

といふ原理面白く思ひます。みんなが「吉」だと思ってゐるときはすでに「吝」へ入ってゐてもう逆行は容易でなく、「凶」を悲しむときすでに「悔」に属し、明日の清楚純情な福徳を約するといふ科学的にとてもいゝと思ひます。希って常に凶悔の間に身を処するものは甚自在であると思ったりします。古風な点お笑ひ下すってかまひません。

 また、『新校本全集』で第十三巻(下)の「作品断章・創作メモ」の章には、次のようなメモが収録されています。

小輩ハ少シク耕稼ノ法ヲ理メタルモノデ、道徳性命ノ学ヲ究メタルモノデハナイ。サリナガラ近年大ナル身辺ノ変遷ニ会フテ、何カ人運ノ順逆ノ法則ヲ肝ニ銘ジタルヤウノ感ジヲナシ居ッタ。遇々或ル人ノ易ノ原理吉凶悔吝ニアリトイフヲ聴イテ、ソノ事数十年来熟知ノ如キ想ヲ生ジ、則チ怱卒ニ紙ヲ求メテ、左ノ図式ヲ録シタ 吉ヲ小輩ハ左ノ如クニ解スル。

生活ノ旺盛ヲ約スル因子ノ勢力ヲVトシ ソノ衰滅ヲ約スル因子ノ勢力ヲFトスレバ ΣV−ΣF>a <b ナル場合 a bハ各固体(人)ニヨッテ異ル恒数デアル。吝ハ ΣV−ΣF>a ΣV−ΣF>b。実線ハ自然任運ノ循環デアッテ人若シ吉位ニアッテ心ノ赴ク所ニ恣ナレバ必ズ吝位ニ至リ凶位ニ達スル。コノ事全ク容易デアッテ大石ヲ急坂ニ懸クルガ如クデアル。凶位ニ於テ愈々吝ナルモノハ絶ズ右二位ノ間ヲ往来シテ遂ニ再ビ吉境ニ達シナイ。然レドモ若シ悔ヲ生ジ吝行ノ反ヲ執ルモノハヤガテ
   序
   図式
   典拠
   四境ノ解釈
   四境ノ移化ノ法則
   応用、
   結

 上の「メモ」の終わり部分は「目次」のようになっていて、賢治がこのテーマについて論文のようなものを構想していた様子もうかがわせます。

 さて、この「吉・吝・凶・悔」という四つの概念の出典は、『易経』を孔子が注釈したと(伝説的に)言われる「伝(十翼)」のうちの、「繋辞伝・上」にあります。次の口語訳は、岩波文庫『易経』によるものです。

 聖人は卦を設けてその形象の示す意味を観察し、その結果を辞(ことば)に書きあらわして吉凶の道理を明らかにした。設けられた卦中の剛爻と柔爻とはたがいに変化を生ずる。してみれば易にいう吉凶とは、事の得失の象徴であり、悔吝(悔とは凶に居ながら後悔憂慮して吉に赴くこと、吝とは吉に居ながら逸楽猶予して凶に陥ること)とは事後に生ずべき憂い虞れの象徴であり、変化とは事の前進・後退の象徴であり、剛柔とは昼夜(動静)の相対の象徴であり、六爻の動きのうちに三極すなわち天地人三才の道が尽くされているのである。

 『新宮澤賢治語彙辞典』では、この「吉→吝→凶→悔→吉→・・・」という状態の循環は、「賢治独自の解釈」とされていますが、上に見るように、『易伝』の中に述べられていることです。ネット上でも、こちらのページにはほとんど同じような図が出てきますし、こちらにもこちらにも、四つの状態の循環について書かれています。
 ただ、ΣV−ΣF>a などと数式を使って表わしているところは、まさに「賢治独自の解釈」なのでしょう。晩年の賢治が、数学を勉強していたという成果の一端が出ていると言えましょうか。

 私は、この図式に出てくる「吝」というのは、「吝嗇」というと「ケチ」のことですから、「吉」で例えばお金持ちになりかえって「ケチ」になるというようなことなのかと、これまで何となく思っていました。しかし、これは全くの間違いでした。
 漢和辞典で「吝」という字を調べると、「おしむ・しぶる」という意味の他に、「むさぼる」という意味も記されています。おごり・たかぶりのために、あやまちをおかしても改めることを「惜しむ」という意味だということです。

 賢治の数式の解釈としては、一般に「Σ」という記号は数値の「総和」を表わしますから、「ΣV」とはその人の生活を旺盛にさせる因子のエネルギーの総和を、「ΣF」とはその人の生活を衰滅させる因子のエネルギーのの総和を表わすことになり、結局「ΣV−ΣF」とは、実際にその人に働く(プラスの)エネルギー量を表わす、ということになるのでしょう。ちなみにこの「V」は、Vitality などの V からきているのでしょうか。「F」は、Fail とか Fall とかの F からきているのでしょうか。

 「吉」の状態では、「ΣV−ΣF>a」かつ「ΣV−ΣF<b」、すなわちその人に働くエネルギーが、a という値と b という値の間、つまりちょうど適切な範囲にあるということが、数式で表現されているのでしょう。
 それが「吝」になると、「ΣV−ΣF>a」かつ「ΣV−ΣF>b」、すなわちその人に働くエネルギーが、「適切な範囲の上限」である b を上回ってしまっているという事態を表わしていることになります。
 ここが私にとっては面白いと感じるところで、「吉」を過ぎて「吝」になったら、もう徐々にエネルギーが低下してきているのではなくて、逆にエネルギーが「吉」の時よりも「過剰に」なっていると、賢治は考えているわけです。後にも述べるように、これは賢治の実際の感覚からも由来しているのかもしれないと思います。「吝」という状態については、だんだん反省したり改めたりすることが面倒になって、惰性に流されていくという(すなわちエネルギーはすでに低下してきているという)解釈もありうると思いますが、ここでは、スピードを出しすぎて暴走していくような状態が想定されているわけです。

 賢治が、上の「メモ」に「近年大ナル身辺ノ変遷ニ会フテ、何カ人運ノ順逆ノ法則ヲ肝ニ銘ジタルヤウノ感ジヲナシ居ッタ」と書いているように、彼がこのようなことを考えるようになったきっかけは、「大ナル身辺ノ変遷」(=大病をしたことでしょう)にあったと思われます。
 賢治は、1930年(昭和5年)の沢里武治あて「書簡260」に、次のようなことを書いていました。

あなたもどうか今の仕事を容易な軽いものに考へないであくまで慎み深く確かにやって行かれることを祈ります。私も農業校の四年間がいちばんやり甲斐のある時でした。但し終りのころわづかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨傲な態度になってしまったこと悔いてももう及びません。しかもその頃はなほ私には生活の頂点でもあったのです。もう一度新らしい進路を開いて幾分でもみなさんのご厚意に酬いたいとばかり考へます。

 ここで、賢治は自分の過去を振り返り、農学校に勤めていた4年間が「いちばんやり甲斐のある時」だったとし、しかしその「終りのころ」には、「わづかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨傲な態度になってしまった」と述べています。その後、学校を飛び出して始めた無理な生活がたたり、大病をして死線をさまようことになり、それをこの手紙では「悔いている」わけです。
 これを、上の「四境」にあてはめれば、

吉: 農学校におけるやり甲斐のある生活
          ↓
吝: 上記の「終りのころわづかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨傲な態
   度になってしまったこと」
          ↓
凶: 結核発病・闘病生活
          ↓
悔: 「悔いてももう及びません」
          ↓
吉: 「もう一度新らしい進路を開いて幾分でもみなさんのご厚意に酬」いる

というようなことになるでしょう。
 このあたりが、賢治が「近年大ナル身辺ノ変遷ニ会フテ、何カ人運ノ順逆ノ法則ヲ肝ニ銘ジタルヤウノ感ジヲナシ居ッタ」と述べていることの内実なのではないかと、私は思います。

 ところで、賢治の人生を見ると、同じような経過をたどっているのは、この時だけではありません。
 下記のプロセスはどうでしょうか。

吉: 生涯の導きとなる法華経と出会い、全身が震えるほどの感動を覚える
          ↓
吝: その法華経を奉じる国柱会に心酔するあまり家出をして、親友の保阪嘉
   内に対しても強引で一方的な折伏を行う
          ↓
凶: 親友・保阪嘉内との悲しい別れ・失意の帰郷
          ↓
悔: 「毎日学校に出て居ります。何からかにからすっかり下等になりました。
   (中略)それがけれども人間なのなら私はその下等な人間になります
   る。」(保阪嘉内あて「書簡199」)
          ↓
吉: 農学校におけるやり甲斐のある生活

 最後は、上に挙げた方の循環につながっていくわけです。

 このように人生が巡っていく有り様は、さすがに「易」が図式化しているとおりであるとも言えますが、賢治の場合は、とりわけ典型的に現れているように感じられます。
 それは、福島章氏が『宮沢賢治 こころの軌跡』(講談社学術文庫)において、賢治の生涯における精神状態を分析検討し、「周期性性格(チクロチミー)」であると「診断」したことを、別の角度からとらえたものと言えるのではないかと、私は思います。

 賢治は、何かのきっかけで気分が舞い上がり、それは周囲からもちょっと行き過ぎと思える行動までにまで至り、結局は挫折して、しばらく落ち込んでしまう、というサイクルを繰り返す傾向があります。福島章氏は、これを躁的な状態とうつ的な状態の反復としてとらえ、「周期性性格」と考えたわけです。易で言う「吝」の状態とは、賢治の場合は、「躁状態」だというわけですね。
 ですから、賢治が上記の数式で表わしていたように、「吝」の状態を「エネルギー過剰」ととらえるのは、まさに彼の(あとから振り返っての)実感だったのではないかと、私は思うのです。

◇          ◇

 さて、吉→吝→凶→悔の円環の図は、賢治の草稿においてもう一ヵ所書かれていた場所があります。
 それは、童話「貝の火」の原稿用紙で、題名のま上の場所でした。

 「貝の火」のストーリーも、この「四境」にあてはめてみることができます。

吉: ホモイがひばりの子を助け、鳥の王様から「貝の火」を授かる
          ↓
吝: ホモイは大将になったつもりで威張り、弱い者いじめをする
   狐の悪事にも加担してしまう
          ↓
凶: 貝の火は光を失い、ホモイは失明する
          ↓
悔: 狐が捕らえた鳥を解放する
   「こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、
   一番さいはひなのだ。」

 最後の「悔」の部分は、ホモイが行っているわけでなく父親頼みになっているところが、若い頃の賢治自身を見るようで複雑な感じですが、それにしても救いようがないほど悲しいと思っていたこの童話も、お父さんの「それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ」という言葉にあるように、また次には「吉」に循環していくのだと考えると、未来につながっていくようで救いが感じられます。

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2010年1月31日 賢治の誕生日

 賢治は明治二十九年八月二十七日に岩手県花巻町で生まれた。戸籍は八月一日生まれとなっているが、明らかに記載の誤りである。
 これは彼が誤られはじめた第一歩であって、将来も誤り伝えられる運命を暗示しているかのようである。(宮澤清六「兄賢治の生涯」, ちくま文庫『兄のトランク』所収)

 これは、弟清六氏による賢治の伝記の書き出しの部分です。「将来も誤り伝えられる運命」という言葉には、兄の最大の理解者たることを自負し、世の中における賢治受容の実態に対しておそらく悲憤も感じた清六氏の、心の声が現れているようでもあります。
 しかしそれほどまでに賢治は「誤り伝えられ」てきたのか、そしてそれは具体的にはどういう点においてだったのでしょうか。今は亡き清六氏に、あらためて聴いてみたい思いにかられますが、賢治についてのブログなど綴っている私のような者としては、もって自戒の言葉とせねばと感じます。
 ちなみに、上記の清六氏の文章は、「昭和39年、岩崎書店版『宮沢賢治童話全集第七巻』所載「兄、賢治の一生」から取捨して筑摩書房刊『宮沢賢治研究』(1969年8月)に発表し、思潮社刊『現代詩読本12 宮沢賢治』(1979年12月)に収めるに際しさらに加筆したものである」とのことです。

 ところで、上記の引用で「岩手県花巻町に生まれた」と書かれている部分は、多少の問題をはらんでます。もしも賢治が生まれた当時の行政区分名で書くならば「岩手県里川口町で生まれた」となるはずですし、清六氏が伝記を書いた時点の行政区分名で書くならば「岩手県花巻市で生まれた」となるはずなのですが、なぜか「花巻町」という、その中間の一時代に存在した行政区分名で表記している理由は、よくわかりません(「賢治の出生地住所」参照)。
 しかしそれはさておき、今回考えてみたいのは、出生地ではなく「誕生日」の問題についてです。

 清六氏も指摘しておられるように、賢治の誕生日は、戸籍には「八月一日」と記載されているということです。
 下の文書は、賢治が1921年(大正10年)12月に稗貫農学校に就職するにあたって提出した自筆(大正十年分以降は学校当局による加筆)の「履歴書」です。

宮澤賢治履歴書

 これを見ても、生前の賢治自身が、自分は「八月一日生まれ」と考えていたことがわかります。
 賢治の死後も、1934年刊草野心平編『宮沢賢治追悼』巻頭の「宮沢賢治略歴」、1939年十字屋版『宮沢賢治全集』別巻の「宮沢賢治年譜」、1942年冨山房刊『宮沢賢治』(佐藤隆房著)収録の「宮沢賢治年譜」(宮沢清六編)、これらいずれにおいても、賢治の出生日は「8月1日」とされていました。

 そこに、戦後になって新たな見解を提出したのが、小倉豊文氏の「二つの『誕生』」(『四次元』1950年10月号)という文章でした。そこには、次のように書かれています。

 第一は賢治の生れた日である。これは、私もかねがね疑問にしていた所であるが、最近、令弟清六さんから可成確実な推定の結果を承ることができたから紹介しておく。それによると、「八月一日」という誕生日は「八月二十七日」と訂正さるべきであるというのである。
 何故こうした訂正を行わねばならなくなつたかというと、明治二十九年八月三十一日に東北地方に大地震が起つた。この地震は岩手秋田の県境に近い岩手県和賀郡沢内村の真昼嶽の断層からおこつた所謂断層地震で、被害は秋田県の方がひどかつたが、花巻の町でも数軒の家が崩壊した位の激震であつた。この時には賢治はすでに生れていた。ところが、この日は旧七月二十三日で、それから十日乃至一週間前の七月十三日から十五日―即ち旧の盂蘭盆会―には、まだ賢治は生れて居なかつた。これは父君政次郎翁のたしかな記憶なのである。(政次郎氏の仏教篤信と博覧強記は実に驚くべきものである。) この年の盂蘭盆会は太陽暦の八月二十一日から二十三日になる。そこで問題が提起された訳なのである。何年か前、父君からこの事を承つて以来、私の疑問の一つになつていた。ところが、周囲の人々の記憶と清六さんの調査によつて、この疑問が漸く氷解されたのである。

 文中にあるように、政次郎氏の「博覧強記」は大したものだったようですが、自分の息子の誕生日を記憶していなかったという点では、ちょっと減点になるのもやむをえません。ただ、当時の慣習として、人の亡くなった日(命日)は重要なこととして記憶に留められるが、「誕生日」というものはあまり重視されていなかったということは、要因としてあるようです。

 それはさておき、この小倉氏の文章の影響力は大きかったようで、1954年刊の『近代日本文学辞典』(東京堂)の「宮沢賢治」の項には「明治二十九年八月二十七日(戸籍上は八月一日)に出生」と書かれ、1956年-1957年の筑摩書房版『宮沢賢治全集』の年譜でも、「八月二十七日出生」とされました。
 しかし、小倉氏の上記の文章には、出生日を「8月27日」と決める根拠として、具体的には「8月21日-23日の盂蘭盆会の時には生まれておらず、8月31日の大地震の時には生まれていた」ということが書かれているのみで、なぜ「27日」と断定できるのかということは記されていません。したがって当然ながらその後、その点への疑問が出されてきました。

 すなわち恩田逸夫氏は、「八月二十七日出生説への質問」と題した書簡形式の文章を『四次元』1960年4月号に掲載されました。そこで恩田氏は、上記のように「27日」と特定できる根拠は何か、と尋ねるとともに、そもそもこのような「疑問」が起こってくることの不思議も指摘します。

 一般に、親にとって、子どもの誕生日が何日であったかを疑問に思うなどということがあるでしょうか。よほど特殊な事情でないかぎり、わが子の誕生日は、はっきりと親の心に刻みつけられているはずです。記憶しているわが子の誕生日が、戸籍の記載と違っているのなら、それは明かに戸籍の方がまちがっているのでしょう。賢治の母堂が実家の鍛冶町でお産をしたことが疑いない事実として確信されているのと同じく、確信している誕生日については証明の必要もないことがらです。
 <戸籍の出生日が違うのではないか>と疑問に思ったり、<本当の誕生日がいつであったか>と、いろいろ事例を挙げて推定してみること自体がまことにおかしなことで、一般には問題にするまでもないことと思われます。

 恩田氏が疑問に思われたことは常識的にはもっともで、私たちにとっても不思議なことです。
 『新校本全集』の「年譜篇」によれば、「出生当時父は商用で関西方面へ旅行中であった」とありますから、帰宅して待望のわが子の顔を見るとともに、「いつ生まれたのか?」ということを母親なり周囲の人に尋ねそうなものです。その時、「○日に生まれた!」と聞いたその日付は、父の心にかなり強く刻まれるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。しかし、賢治の死後まで「8月1日出生」という「誤った」認識を、家族ぐるみで共有していたことからすると、父も母も、賢治出生の時点において、その日付を心に留めるということはなかったのだろうと考えざるをえません。
尋常小学校第一学年修業証書 賢治の尋常小学校時代の一学年ごとの「修業証書」(右写真)も残されていますが、そこにもやはり「明治廿九年八月一日生」と記されています。小学校入学の際には、戸籍謄本などを学校に提出する必要があったでしょうし、その時にも親は戸籍の生年月日を見ているはずですが、当時はそれに疑問は抱かれなかったわけです。

 恩田氏が、「小倉豊文先生 机下」と冒頭に記す書簡体で「八月二十七日出生説への質問」を書いた意図は、小倉豊文氏からの返答を強く期待してのことだったのでしょう。しかし、小倉氏は長らくそれに公には答えておられませんでした。やっと1986年になって、「賢治誕生日考」(洋々社『宮沢賢治6』所収)という文章を発表し、「私が恩田氏の質問に対する応答を公表しなかったのは、私の重大な手落ちであったといわねばならない」と率直な反省も記しておられます。ただこの時、恩田氏はすでに1979年に死去された後でした。唯一の救いは、小倉氏の記憶によれば、すでに恩田氏の質問に答える「私信」は出しておられたということです。
 さて、その小倉豊文「賢治誕生日考」の内容ですが、文中に引用されている宮澤清六氏の小倉豊文氏あての書簡が、唯一最大の根拠となっています。この清六氏の書簡全文は、下記のとおりだったということです。

 「四次元」に賢治の生年月日について、恩田氏があなたに手紙のように書いています。母にもたしかめましたが、大地震(八月三十一日)の日は生後五日であり、旧盂蘭盆会十六日がすんで二・三日と思っていると申していますから、八月二十七日で正しいと思います。私からもそのうちに恩田さんに書きます。

 すなわち、「大地震(八月三十一日)の日は生後五日」という母の記憶が、決め手とされたわけです。
 ところで現代の私たちの多くは、「8月31日が生後5日」というと、31から5を引いて、8月26日が誕生日なのではないかと思ってしまいます。26日の1日後が27日、2日後が28日、と数えると、5日後が31日になるのですから。しかし小倉氏によれば、母の言うこの「生後5日」とは、当日を「第1日」として数える「仏教的慣習」による数え方なので、誕生日は8月27日なるのだということです。

 また、賢治の誕生日に父政次郎氏が疑問を抱いたきっかけとしては、花巻農学校の書記に就職した照井七郎氏が、机の引き出しから上に画像を掲載した賢治の「履歴書」を発見し、それが宮澤家に届けられたことにあったということです。小倉氏は書いています。

発見された履歴書を見て翁(政次郎氏)が賢治の役場の誕生日に疑問を発したのは、地震の約1か月前の七月から八月初めにかけて、翁は商用で関西地方に居り、旧盆には帰宅していて、地震に遭った記憶が確かであったからである。

 ただし、ここにはまた一つ新たな問題が現れています。上に『新校本全集』「年譜篇」の記載を引用したように、賢治の「出生当時父は商用で関西方面へ旅行中であった」はずだったのですが、上の引用では、(賢治出生直前の)「旧盆には帰宅していて」とあり、そうならば父は賢治出生の時にも家にいたことになってしまうのです。

 奥田弘氏は、「宮沢賢治についての二つの考察」(『宮沢賢治研究資料探索』所収)という文章を書き、1998年の時点でもう一度、小倉氏と恩田氏のやりとりを整理されました。そして、政次郎氏が賢治出生の時点で花巻にいたか否かという、上記の疑問点についても触れ、結局「この記憶が確かであるならば、弟治三郎の出生届代行は、どのような事情があったのか、宮沢家からは説明されていない。賢治生誕前後について家人の記憶に基づく記述は混乱しているといわざるをえない。」と、まとめておられます。

 さてここでもう一度、冒頭に引用した清六氏の「兄賢治の生涯」に戻ってみると、賢治が出生後の問題の大地震について、次のように書かれています。

 賢治は長子であったので、その頃の風習で母の実家の同じ町内の鍛冶町で生まれた。
 母はそのとき二十歳であったが、産後五日目の朝、前に書いたような地が破れて水が噴き出し、沢山の家屋がつぶれた大地震がおこった。

 ここで気になるのは、大地震の発生が「産後五日目の」と書かれていることです。陸羽地震は、1896年(明治29年)8月31日午後5時6分に起こったということで(「岩手県立博物館だより」「Wikipedia」参照)、「朝」ではなくて「夕方」のことだったのです。奥田弘氏の言われるとおり、「賢治生誕前後について家人の記憶に基づく記述は混乱しているといわざるをえない」のです。
 母親のイチさんとしても、何十年も前の記憶ですから錯誤が起こるのも無理もないことですが、一般的に考えて、「ある出来事が起こったのが朝だったのか夕方だったのか」という記憶の方が、「ある出来事から別のある出来事までに何日が経過していたか」という記憶よりも、思い起こしやすいものだろうと考えられます。皆さんも、何十年か昔の記憶について、この二種類の記憶想起を試してみていただければわかると思います。
 ですから、「朝か夕か」ということにさえ錯誤がある母の地震記憶において、「産後五日目」という数字の方もどこまで正しいかと考えると、残念ながらそれは十分な確度があるとは言えないでしょう。もちろんこれは、当事者からの一次情報として、他に手がかりのない現時点では最大限に重視すべきものではありますが。

 以上、資料の中にはかなり古いものもあったので、私自身が最近になってやっとまとめて目を通すことができた感想を、述べさせていただきました。現在は通説となっている「8月27日出生説」も、根拠はかなり心もとないものであるわけです。
 このような状況からすると、『新校本全集』「年譜篇」の1896年8月1日の項には、「戸籍簿によればこの日、(中略)父政次郎・母イチの長男として誕生。」と記され、8月27日の項には、「戸籍簿には右のように八月一日出生となっており、賢治自筆の履歴書にもそのように認められているが、(中略)前後の事情から二七日出生が正しいとされている。」と記されていることは、客観的で妥当な記述の仕方だと、あらためて感じます。
 上田哲氏は『図説 宮沢賢治』(河出書房新社)の中で、「八月一日出生説」からの変化の経緯を概観した後、

八月二十七日説を遺族が言い出したのは敗戦後である。それには遺族たちの強い意向が感じられる。それまで戸籍の生年月日には異をとなえなかった宮沢家の急なこの変化は、そういわなければならない、なんらかの事情が生じたためだろうか。

とまで推測しておられます。確かに不思議な経緯ではあります。

 ただ私は、花巻市で毎年8月27日を中心として「賢治生誕祭」が催されることに関しては、結構で素晴らしいことだと思っています。賢治の出生日に関して「謎」が残っていることは事実としても、とりあえず私たちとしては今の段階での「落としどころ」を持っておいた方が安らぎますし、客観的根拠はともかく「8月27日」というのが直接のご家族の最終的な認識だったからです。少なくとも、2月11日を「建国記念日」とすることよりは、比べられないほどまともな扱いでしょう。
 上田氏の言われるような「なんらかの事情」の有無はともかく、このような事柄に関しては、(もしかして将来何か決定的な証拠が現れるまでは)家族の思いを尊重してあげたい気がします。

 ただし、あの世の賢治は、「俺の誕生日は8月1日じゃなかったのか?」といぶかっているでしょうが。

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2010年1月28日 ベーゼンドルファー・インペリアル

 OSをWindows7にしてから、これまで愛用していた外部MIDI音源が使えなくなって、パソコンできちんとした楽器の音が出せなくなっていました。
 そこで「ソフト音源」というのを使ってみようと思い、このたびまず買ったのが「ベーゼンドルファー・インペリアル」という、私の憧れのピアノからサンプリングしたという音源でした。現代のコンサートピアノと言えばスタインウェイが名実ともにナンバー・ワンですが、ウィーン生まれのベーゼンドルファーの響きを愛するピアニストも多く、フリードリヒ・グルダなどはその代表格です。

 私自身はまだぜんぜん使いこなすには至っていませんが、「習作」として、たけうちゆみえさんの編曲によるピアノ版「星めぐりの歌」の演奏ファイルを作成してみました。まだこんな演奏では「楽器が泣く」と言われそうです。ただ、その「余韻」の豊かさは、やはり独特だと思います。

♪たけうちゆみえ編曲「星めぐりの歌」(MP3: 2.55MB)

Boesendorfer Imperial

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2010年1月24日 ユリとサソリ

 盛岡中学を卒業した後、1914年(大正3年)4月から5月にかけて賢治は鼻の手術のために岩手病院に入院しました。この入院中に看護婦さんに恋をしたことは最近も触れたとおりですが、退院後も賢治はつのる思いに悶々とした日々を送ります。自分の頭がおかしくなってしまったのではないかという思いにもとらわれ、短歌に詠んでいます。(以下、引用は「歌稿〔A〕」に拠る。)

164 わなゝきのあたまのなかに白き空うごかずうごかずさみだれに入る
165 ぼんやりと脳もからだもうす白く消え行くことの近くあるらし
166 あかまなこふしいと多きいきものが藻とむらがりて脳をはねあるく
167 物はみなさかだちをせよそらはかく曇りてわれの脳はいためる
168 この世界空気の代りに水よみて人もゆらゆら泡をはくべく

 賢治独特の、シュールレアリスム的な世界ですね。そして上記の歌に続いて、次の三首が出てきます。

169 南天の蠍よもしなれ魔物ならば後に血はとれまづ力欲し
170 いさゝかの奇蹟を起こす力欲しこの大空に魔はあらざるか
171 げに馬鹿のうぐひすならずや蠍座にいのりさへするいまごろなくは

 これは、かなり怖い「いのり」です。悪魔と取り引きをするファウスト博士さえ、連想してしまいます。
 そしてここで気になるのは、「後に血はとれ」とまで約束して賢治が起こしたいと思っている「奇蹟」とは、いったいどんな内容なのか、ということです。賢治と言えば、後には「世界ぜんたい」の幸せを本心から願うようになりますから、そういう他者救済的な奇蹟なのかという考えも浮かびます。しかし、ここで賢治は魔物と契約してその奇蹟を起こす力を得ようとしているわけですから、そんな宗教的な愛他的な事柄ではないのでしょう。どんな宗教であれ、聖人や救済者が「正しい力ではなく魔物の力を借りて尊い事績を成す」というような話は存在しません。
 魔物に自分の血を捧げるという行為から想像されるのは、賢治は「賢治自身のための」何らかの奇蹟を欲しているのではないかということです。

 さて、上の蠍座の短歌群の次には、実験的な旋頭歌二首があり、これに続いて、初恋の人を思う歌が並びます。

174 思はずもたどりて来しかこの線路高地に立てど目はなぐさまず
175 君がかた見んとて立ちぬこの高地雲のたちまひ雨とならしを
176 城趾のあれ草にねて心むなしのこぎりの音風にまじり来
177 われもまた日雇となりて桑つまん稼がばあたま癒えんとも知れず
178 風ふけば岡の草の穂波立ちて遠き汽車の音もなみだぐましき
179 山上の木にかこまれし神楽殿鳥どよみなきわれはいとかなし
180 はだしにて夜の線路をはせ来り汽車に行き逢へりその窓明く

 この頃の賢治の、恋の苦しみが伝わってきますね。

 そしてさらに「歌稿〔A〕」を見ていくと、この少し後には、童話「ガドルフの百合」のモチーフになった連作短歌が現れます。

192 いなびかりそらに漲ぎりむらさきのひかりのうちに家は立ちたり
193 いなびかりまたむらさきにひらめけばわが白百合は思ひきり咲けり
194 空を這ふ赤き稲妻わが百合の花はうごかずましろく怒れり
195 いなづまにしば照らされてありけるにふと寄宿舎が恋しくなれり
196 夜のひまに花粉が溶けてわが百合は黄色に染みてそのしづく光れり

 ここで童話「ガドルフの百合」の内容は、次のようなものでした。ガドルフという名の旅の若者が、激しい雷雨に遭遇して困っている時、一軒の家を見つけます。短歌192に相当するところです。

 その稲光りのそらぞらしい明りの中で、ガドルフは巨きなまっ黒な家が、道の左側に建ってゐるのを見ました。

 その家の中に入ったガドルフは、「ここは何かの寄宿舎か」といぶかったりしますが、これも短歌195と呼応しています。
 そしてガドルフは家の住人がいないかとしばらく探し歩き、ふと窓の外に百合の花を見つけたのです。

 けれども窓の外では、いっぱいに咲いた白百合が、十本ばかり息もつけない嵐の中に、その稲妻の八分の一秒を、まるでかゞやいてじっと立ってゐたのです。
 それからたちまち闇が戻されて眩しい花の姿は消えましたので、ガドルフはせっかく一枚ぬれずに残ったフランのシャツも、つめたい雨にあらはせながら、窓からそとにからだを出して、ほのかに揺らぐ花の影を、じっとみつめて次の電光を待ってゐました。
 間もなく次の電光は、明るくサッサッと閃いて、庭は幻燈のやうに青く浮び、雨の粒は美しい楕円形の粒になって宙に停まり、そしてガドルフのいとしい花は、まっ白にかっと瞋(いか)って立ちました。
(おれの恋は、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ。)

 ここまでの話の中では、ガドルフが恋をしているとも何とも語られていませんでしたから、「おれの恋は、いまあの百合の花なのだ」という言葉はここで唐突に響き、印象は鮮烈です。
 しかし、ガドルフの願いにもかかわらず、激しい風雨のために、十本ばかりの百合の花のうちいちばん丈の高い一本が、無残にも折れてしまいます。

(おれはいま何をとりたてて考へる力もない。たゞあの百合は折れたのだ。おれの恋は砕けたのだ。)

 ガドルフはこう思って眠りに入り、夢の中で二人の大男が取っ組み合っている様子を見ます。

 そしてガドルフは眼を開いたのです。がたがた寒さにふるへながら立ちあがりました。
 雷はちゃうどいま落ちたらしく、ずうっと遠くで少しの音が思ひ出したやうに鳴ってゐるだけ、雨もやみ電光ばかりが空を亙って、雲の濃淡、空の地形図をはっきりと示し、又只一本を除いて、嵐にかちほこった百合の群を、まっ白に照らしました。

 「かちほこった百合」に力を得て、ふたたび出発しようとするガドルフは、こんどは窓の外の木に一つの雫を見ます。それは、不思議にかすかな薔薇色をしていました。

これは暁方の薔薇色ではない。南の蠍の赤い光がうつったのだ。

 ガドルフは、そう解釈しました。

 この「ガドルフの百合」は、『春と修羅』の編纂時期頃に成立した作品だそうです。「おれの恋」と呼んだ百合が、いったんは折れ、砕け、しかしまた最後に「おれの百合は勝ったのだ」と再認識されて若者が旅立っていくという経過は、賢治が恋愛的な煩悶を乗り越え、「ひとと万象と」ともに「至上福し」を目ざす新たな一歩を踏み出そうとする(「小岩井農場」)『春と修羅』のテーマに重なるという杉浦静氏の指摘(学燈社『宮沢賢治の全童話を読む』)に、私は目を開かれる思いをしました。
 一方、童話「ガドルフの百合」ではなくそのモチーフとなった192-196の連作短歌が書かれた時点では、賢治はまだ看護婦さんをめぐる恋の苦しみの只中にあったわけです。もしも当時の彼が「おれの恋は、いまあの百合の花なのだ」と感じたとすれば、この百合は、当時の恋を表わすものだったでしょう。百合の花言葉は「純潔」「無垢」「威厳」であり、白衣の天使たる看護婦さんの象徴として、白百合ほどうってつけのものはありません。(「歩く姿は百合の花...。」)

 そして、「ガドルフの百合」のラストに、「南の蠍の赤い光」が出てくることにも、私は注目せざるをえません。「おれの百合(=恋)が勝った」ことをまるで祝福するかのように、蠍の赤い星は、一滴の雫を薔薇色に光らせていたのです。
 ここに私は、ガドルフ連作の少し前の169-171の短歌群において、賢治が蠍の星に「奇蹟をいのった」こととの関連を感じてしまうのです。あまりにもありていに言ってしまえば、賢治が蠍に祈った奇蹟とは、その「恋の成就」だったのではないかと・・・。

◇          ◇

 あと、この「蠍へのいのり」の追憶は、賢治のその後の短歌にも現われます。
 上に引用した短歌群を詠んだ2年後の1916年(大正5年)3月、盛岡高等農林学校の修学旅行の帰途に、賢治たちは鳥羽から蒲郡行きの汽船に乗ります。

261 そらはれてくらげはうかびわが船の渥美をさしてうれひ行くかな
262 明滅の海のきらめきしろきゆめ知多のみさきを船はめぐりて
263 青うみのひかりはとはに明滅し船はまひるの知多をはなるゝ
264 日沈みてかなしみしばし凪ぎたるをあかあか燃ゆる富士すその野火

 歌に詠まれているように、この時、賢治は何か「うれひ」「かなしみ」を感じていたようです。そして上記に続いて、次の短歌が現れます。

265 あゝつひにふたゝびわれにおとづれしかの水色のそらのはためき
266 いかでわれふたゝびかくはねがふべきたゞ夢の海しら帆はせ行け
267 さそり座よむかしはさこそいのりしがふたゝびこゝにきらめかんとは

 267に最も直接的に表現されていますが、旅行中の賢治はここで、何か2年前に「さそり座」に(奇蹟を)いのった時と同じような心理状態になってしまったのかと思われます。賢治はそのことに当惑しているようにも感じられます。

 さらに、修学旅行から帰って2年生新学期の授業が始まってからの短歌にも、またこのテーマは出てきます。

283 双子座のあはきひかりはまたわれに告げて顫ひぬ水色のうれひ
284 われはこの夜のうつろも恐れざりみどりのほのほ超えも行くべく
285 伊豆の国三島の駅にいのりたる星にむかひてまたなげくかな

 短歌285から、265-267に詠まれていた体験は、伊豆の三島の駅においてであったことがわかります。「三島の駅にいのりたる星」とは、もちろん蠍の星でしょう。265の「水色のそらのはためき」は、283の「水色のうれひ」につながるのかと思われます。
 この頃の賢治はずっと「うれひ」や「なげき」をかかえていたようですが、その感情は、それからしばらくの間のたくさんの短歌に詠み込まれます。そして賢治の「いのり」は続きます。

291 今日もまた岩にのぼりていのるなり河はるばるとうねり流るを
292 笹燃ゆる音はなりくるかなしみをやめよと野火の音はなりくる
297 弦月の露台にきたりかなしみをすべて去らんとねがひたりしも
298 ことさらに鉛を溶しふくみたる月光のなかにまたいのるなり
299 星群の微光に立ちて甲斐なさをなげくはわれとタンクのやぐら
300 黒雲をちぎりて土にたゝきつけこのかなしみのかもめ落せよ
302 赤き雲いのりの中に湧き立ちてみねをはるかにのぼり行きしか
303 われもまた白樺となりねぢれたるうでをさゝげてひたいのらなん
304 でこぼこの溶岩流をのぼり来てかなしきことをうちいのるかな
325 あをあをと悩める室にたゞひとり加里のほのほの白み燃えたる
326 はややめよかゝるかなしみ朝露はきらめきいでぬ朝露の火は

 この頃の賢治の「かなしみ」「いのり」の内容はわかりませんが、「「文語詩篇」ノート」の「農林第二年 第一学期」(上記短歌の時期に相当)の項には、「Zweite Liebe」(二番目の恋)という語が記入されていることを、ここに付記しておきます。

 いずれにせよ、賢治が結局この「かなしみ」から抜け出せたのは、この頃に出会った保阪嘉内との友情の芽生えのおかげだったでしょう。

山百合の花
山百合の花

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2010年1月17日 震災15年

 今日は15年目の阪神・淡路大震災の日です。関西地区に住む者にとっては、今も忘れられない日です。

 賢治が生まれた頃の東北地方も地震が多かったようで、まず生年の1896年(明治29年)6月15日には、「明治三陸地震」が起こっています。M(マグニチュード)8.5という日本でも最大規模の地震だったと推定されていますが、地震の揺れそのものによる被害はほとんどなかったのに対し、その後の大規模な津波によって、死者が2万1915名という大惨事となりました。津波による犠牲者数としては、これが日本で歴史上判明しているかぎりでは最大です。

 さらに、同年8月31日午後5時6分、賢治の「生後五日目」には、「陸羽地震」が起こります。これはM7.2という、2008年の岩手・宮城内陸地震と並ぶ東北地方最大の直下型地震で、岩手県と秋田県の内陸部で震度6〜7だったと推定されています。阪神・淡路大震災もM7.3の直下型、震度6〜7で、ほぼ同じような規模だったわけです。
 この時の様子は、宮澤清六氏の「兄賢治の生涯」には、

母は嬰児籠(えじこ)の赤子の上に身を伏せて、念仏を称えていたが、やがて婚家の母のきんがまっ青になり、息も絶え絶えに馳せつけたのでやっと人心地がついたのだという。

とあり、森荘已池氏の『宮沢賢治』(1947, 杜陵書院)には、

賢治さんのお母さんは、嬰児籠(エジコと読む。わらでふちを厚くつくって、中にやわらかいわらを敷いた、あかんぼうを入れるかご)の上に、両手を広げてうつぶせになって、賢治さんの上に、何か落ちないやうに守った姿勢のまま、気絶してをりました。

と書かれています。
 母イチによるこの震災の記憶が、賢治の死後まで誕生日とされてきた戸籍上の「8月1日」を、現在の通説である「8月27日」に変更させることになるのですが、そのことについては、またいずれ考えてみたいと思います。
 ちなみに、この年の7月21日と8月1日には大雨による北上川の洪水も起こり、前者では「稗貫郡花巻村附近増水一丈五尺家屋浸水三百落橋大なるもの二」(朝日新聞7月24日付け)という被害の記録があります(奥田弘『宮沢賢治研究資料探索』より)。2回の洪水による役場の混乱が、賢治の出生届の誤りを生んだ要因とも考えられています。

 さらに翌1897年(明治30年)2月20日には、またM7.4の「宮城県沖地震」が起こっていますから、賢治の誕生前後の東北地方には、本当に地震や洪水被害が多かったわけですね。
 まさに、清六氏が「兄賢治の生涯」において、

賢治の生まれた明治二十九年という年は、東北地方に種々の天災の多い年であった。それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の生物の幸福を祈って、善意を燃やしつづけた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった。

と書いているとおりだったわけです。

 そして、賢治が亡くなる1933年(昭和8年)3月3日には、生年の「明治三陸地震」とまるで対をなすように、「昭和三陸地震」が再び岩手県沿岸部を襲いました。
 この時、下閉伊郡支庁に勤めていた(旧姓)高橋ミネさんの夫である伊藤正氏が、不眠不休で救助や復旧活動にあたったという逸話は、以前「ミネさんの結婚」という記事に少し書いたことです。

昭和三陸大津波
昭和三陸大津波(気仙郡末崎村細浦)

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2010年1月14日 神田区仲猿楽町

 図書館で調べもののついでに、1919年(大正8年)刊行の『白秋小唄集』という古い小さな素敵な本を見つけました。
 文庫本ほどの大きさで、ハードカバーの布装。表紙の縁は立体的に丸みを帯びています。

『白秋小唄集』(1)

『白秋小唄集』(2)

『白秋小唄集』

 すべてのページが、ご覧のようにアール・ヌーヴォー調の赤い蔓の図案で囲まれていて、お洒落ですね。装幀は矢部季という人で、北原白秋周辺の詩人だったようです。この人は他にもいろいろな本の装幀をしたり、後には資生堂の意匠部に入ってデザインの仕事をしています。あの資生堂のマークにも、ちょっと似た雰囲気を感じたり。

 「アルス」という出版社は、北原白秋の実弟・北原鐵雄の創業で、昭和初期に白秋の全集も出しています。奥付を見ると、その住所は、「東京市神田區仲猿樂町十五番地」とあって、これは賢治が1916年(大正5年)の夏に通った「東京独逸学院」の住所「神田區仲猿樂町十七番地」の、ほんの近くではありませんか。
 1916年当時はまだ「アルス」ではなく「和蘭陀書房」という名前だったようですが、中学生頃から北原白秋にも興味を持っていた賢治は、独逸学院の帰りなどに、この書房ものぞいてみたりしたでしょうか。

 (なお、「仲猿楽町」は慣用的表記で、正式には「中猿楽町」のようです。)

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2010年1月11日 札幌のミネさん

 賢治の「初恋の人」と言われる高橋ミネさんのご遺族のMさんが、またご親切にも新発見の貴重な資料を、お送り下さいました。

 これまで、ミネさんは若い頃に札幌で仕事をしていた時期があったのかどうかという議論が、研究者の間にありました。
 境忠一氏は、『宮沢賢治の愛』(主婦の友社, 1978)において、

彼女(引用者注:高橋ミネ)は大正3年ごろ岩手病院に勤務、そのあと新設の札幌鉄道病院に派遣され、三年間在職後、ふたたび岩手病院にもどった。

と書いておられますし、佐藤勝治氏は「火のごとくきみをおもへど(その一)」(洋々社『宮沢賢治2』所収, 1982)に、

それに賢治は翌年の春、高農入学後に再び岩手病院を訪ねてもう一度その看護婦さんにそれとなく遭っているのだが、高橋ミネさんは賢治の退院後まもなく、新設の札幌鉄道病院に長期出張していて、再び岩手病院を訪ねたときは既にいなかったのである。

と書いておられます。

 一方、小川達夫氏は、『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』(河出書房新社, 2005)において、「もともとわたしは、札幌鉄道病院への長期出張については、二つの疑問を抱いていた」として、(1)『岩手医大四十年史』の年譜に、岩手病院の他の看護婦の出張・出向の記事はあるのに、高橋ミネに関する記載はない、(2)設立母体がまったく異なる病院に、しかも県内ではなく北海道まではるばる出向させられることがあるのであろうか、という理由を挙げて、慎重な姿勢を示しておられました。

 ミネさんの札幌勤務の有無が問題にされていた一つの理由は、佐藤勝治氏が触れておられるように、賢治は岩手病院に入院した翌年、盛岡高等農林学校に入ってから岩手病院を再び訪ね、その初恋の看護婦さんを「一目見ル」ということがあったらしいことが、「「東京」ノート」、「「文語詩篇」ノート」のメモから推測されているのです(まさに恋していたんですね!)。もしも、高橋ミネさんが1915年(大正4年)の夏前に岩手病院にいなかったのならば、「初恋の人」は高橋ミネさんではなかった可能性も出てくるからです。

 さて、今回Mさんが送って下さった資料の一つは、下のものです。この1月7日に、Mさんの妹さんがお父様の遺品を整理している時に、見つけられたそうです。

高橋ミネ産婆試験合格証書

 ミネさんは、大正5年(1916年)10月に「札幌区」において施行された産婆試験に合格して、産婆の資格を得ておられたのです。
 札幌で試験を受けたということは、少なくともこの頃ミネさんが北海道に在住していたことを示しているでしょう。議論にほぼ決着をつけてくれる証拠が見つかったわけです。

 当時の「産婆試験」の受験資格が気になったので少し調べてみましたが、1899年(明治32年)に出された「産婆規則」第三条には、「1ヶ年以上産婆の学術を修業したる者に非ざれば産婆試験を受くることを得ず」とあります。当時、「産婆学校」「産婆講習所」というものが全国にあったようですから、「1ヶ年以上産婆の学術を修業」という条件を満たすためには、(看護婦資格があっても)こういう学校に通う必要があったのかどうかということが、私の疑問でした。ちなみに、現在の「保健師助産師看護師法」では、看護師免許取得者でも、あらためて6ヶ月以上の専門教育と実習を受けないと、助産師試験を受けることができません。
 しかし、たとえばこちらの看護婦養成所に関する記載を見ると、大正13年に開設された看護婦養成所の卒業生が、「北海道庁の看護婦試験に全員合格し、うち1名は産婆試験にも合格」とありますから、看護婦養成所の卒業者は、すでに「1ヶ年以上産婆の学術を修業」したと見なされて、産婆試験を受けることができたのかと推測します。そうであれば、ミネさんが札幌鉄道病院の開設に合わせて1915年の11月か12月に札幌に行ったとして、それから産婆試験受験の1916年10月までは「1ヶ年」に少し足りませんが、もともと産婆試験の受験資格は持っていたということになります。

 ミネさんの北海道における勤務先が「札幌鉄道病院」だったという確証は、今のところ私の手もとにはありません。しかし、この「札幌鉄道病院」(現在の「JR札幌病院」)は、1915年(大正4年)11月6日に仮診療を開始し、12月に病院庁舎が落成して正式に診療を始めたということです(Wikipediaより)。境忠一氏や佐藤勝治氏が「新設の札幌鉄道病院に派遣(長期出張)」と書いておられるように、この開設に合わせて高橋ミネさんが赴任し、その仕事のかたわら産婆試験に向けた勉強をして、1916年(大正5年)10月に試験を受けたというのは、時間経過としてもぴったりと当てはまる感じです。
 ただ、当時の産婆試験はかなりの難度であったようで、滋賀県のデータですが、明治41年には16名が志願して合格者は9名、42年には37名中15名、43年には36名中11名、44年には43名中15名、という数字があります(「明治期の産婆規則」より)。この間の合格率は38%で、やはりミネさんは優秀だったんですね。
 札幌に出向した時、ミネさんの看護婦経験は2年半ほどだったことになります。遠くの病院に派遣されるのですから、身軽に動ける若手であることも必要でしょうが、新しい医療体制を軌道に乗せるのに一定の役割を果たすことが期待されているわけで、選ばれたミネさんはやっぱり若くても有能な看護婦だったのでしょう。

 以上、ミネさんが若い頃に北海道にいた時期があって、その間に産婆資格も取得したという話でした。
 さて今回、Mさんがお送りいただいたもう一つの資料は、下のものです。

高橋ミネ看護婦試験合格証書

 高橋ミネさんが、大正2年(1913年)4月に、岩手県で行われた看護婦試験を受けて合格したという証書です。
 賢治が岩手病院に入院したのは大正3年(1914年)4月ですから、その時ミネさんはおそらく、看護婦として勤務を始めてちょうど1年という時期だったことになります。業務にも慣れて、若くはつらつと仕事をしていたのでしょうか。

 一方、私はミネさんが東京で藤山家という超上流家庭のお抱え看護婦をしていた時期もあったというMさんのお話から、東京に遊学して看護学校を卒業し、そのまま上流家庭への「派出看護婦」をしていたのかもしれないと推測してみたこともあったのですが、これは間違っていたことになります。
 岩手県で看護婦試験を受験したということは、学校も岩手だったと思われ、そうなるとミネさんの出身学校は、岩手病院の付設学校である「岩手産婆看護婦学校」と考えるのが自然です。

 結局、これまでにわかったことと、境忠一氏による記述、それに蓋然性の高そうな推測を合わせると、若い頃のミネさんの経歴は、次のようなものだったと思われます。括弧内の年齢は、満年齢です。

  • 1913年(大正2年)3月、岩手産婆看護婦学校?を卒業(19歳)。
                 4月、看護婦試験に合格。岩手病院に勤務。
  • 1914年(大正3年)4月、入院患者・宮澤賢治と出会う(20歳)。
  • 1915年(大正4年)夏前?、賢治が岩手病院を再訪・再会。
                 11月?、札幌鉄道病院に出向(22歳)。
  • 1916年(大正5年)10月、札幌で産婆試験に合格(23歳)。
  • 1918年(大正7年)?、岩手病院勤務に戻る(25歳?)。

 そして、上の期間の前や途中に「東京で藤山家のお抱え看護婦」という時期を挿入するのは困難ですから、ミネさんが東京へ出たのは、上記よりも後の時期ということになるでしょう。
 どのような経緯があって、岩手県の一看護婦が東京で超上流階級の家庭に入ることになったのか、それは不思議な謎です。以前にかぐら川さんがコメントでお寄せいただいたように、岩手病院の創設者である三田俊次郎氏の実兄・三田義正氏が貴族院議員になったのが1921年、藤山雷太氏が貴族院議員になったのが1923年ということで、ここに三田家―藤山家のつながりがあったのかもしれません。
 ちなみに、ちょっと本題からそれますが、三田義正氏は教育事業にも熱心で、氏が創設した旧制・岩手中学校の初代校長に就任したのが、賢治の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」(『春と修羅 第二集』)に「鈴木卓内先生」として登場する、鈴木卓苗氏でした。花巻農学校で賢治の教え子だった桜羽場寛の叔父にあたる方だそうです(「イーハトーブセンター掲示板」も参照)。

 いずれにしても、高橋ミネさんの波瀾万丈の生涯の一部が、また少しだけはっきりとしてきた感じです。

 末筆ながら、今回もご親切に貴重なお知らせをいただき、さらに拙ブログへの画像掲載を快く了承して下さったMさんのご厚意に、心から感謝申し上げます。

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ミネさんは賢治入院を憶えていた
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2010年1月 7日 少し幅広

 京都の街にも昼間から雪が舞ったりして、今まで穏やかだったのに、いかにも「冬」という感じになってきました。

 数日前から、右側のカラムを少し幅広にしました。ちょっとゆとりができて、タイトルなどが折り返されずにすみます。数年前に、最初に拙ブログのデザインを決めた頃には、「Web サイトというのは小さな画面の環境でも見られるように幅をあまり広くしないように」というようなことが本に書いてあったものですが、最近は一般に当時よりもディスプレイが高精細になってきたので、まあいいかと思って広げてみました。
 それから、「賢治関連ブログ」欄に signaless さんの「りんご通信」を追加させていただくなど、いくつか修正点もあります。

 あと一つの変化は、右カラムの下の方に、twitter が表示されるようにしてみたことです。これは今後も載せつづけるかどうかわかりませんが、今は試しにとりあえず。
 twitter は半年ほど前からちまちまとやっていたのを、新年を機に、新しいアカウントで名前やURLも公開する形で、再スタートしてみたところです。
 だいたい賢治とは関係のないつぶやきの方が多いと思いますが、よろしければどうぞ、follow して下さい! アカウントは ihatov_cc です。

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2010年1月 3日 「北辰館」と「雲台館」

 年末は忙しくて記事にするひまがなかったのですが、去る12月20日に、賢治学会の用事があって、東京に行ってきました。
 その日の午前中に、賢治の足跡を訪ねて少し都内を徘徊してきましたので、遅くなりましたがご報告です。

 まずは1916年(大正5年)、賢治が盛岡高等農林学校2年の夏に、「独逸語夏季講習会」を受講するために宿泊していた旅館「北辰館」です。
「北辰館」地図(奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」より) 奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」(小沢俊郎編『賢治地理』所収)は、昭和42年の時点で明らかになっていた資料に基づいて、賢治の東京での行動を詳細に位置づけた古典的労作ですが、その中に右のような地図が付いています。
 旅館の名前は、奥田氏の文献では「北宸館」という文字になっていますが、その理由については私はわかりません。当時発見されていた唯一の資料だった、高橋秀松あて「書簡18」の住所記載の文字がそのように読めたのでしょうか。現在では、『新校本全集』の第十五巻を見ると、「北辰館」と記されています。
 あと、この地図における方角もちょっと不思議で、奥田氏は上がほぼ北であるように方位記号を書いておられますが、実際にはこの地図では上が東、北は左になります。

 ところで奥田氏の上記論文内では、北辰館について次のように述べられています。

 さて、この時の宿泊先となったの「北宸館」は、略図(6)のとおりである。都電停留所、麹町二丁目から、四谷より一つ目の道を右折すると、鈴木コーヒー店というところが、そうである。近くの古老の話によると、「北宸館」は、比較的大きい旅館で、下宿兼用の旅館でなかったという。当時は、附近に下宿専用の小規模の旅館や「素人下宿」の旅館が多かったそうだ。

 しかし現在は、奥田氏の同定された「鈴木コーヒー店」という店もなくなっていて、2004年7月に現地を訪れたかぐら川さんは、「賢治 in 麹町1916 (2)」という記事において、その場所が「麹町鈴木ビル」というビジネスビルになっていることを確認されました。「鈴木」さんというおそらくこの地所のオーナーと思われる方の名前が、由緒を留めていますね。

 2009年12月20日の朝にこの場所に来てみると、黄色っぽい色をした「麹町鈴木ビル」が、真っ先に私の目にも入りました。この時ちょうど、東隣の家(上の地図では「鈴木コーヒー」の上隣)の住宅で高齢の女性が玄関まで出てきておられたので、「昔ここに‘鈴木コーヒー’という店がありましたか?」と尋ねてみると、「鈴木コーヒーはこのお隣でしたよ」と教えて下さいました。
 調子に乗って、「さらにその昔には‘北辰館’という旅館がありませんでしたか?」とお聞きしましたが、「それはわかりません」とのお答えでした。さすがに、奥田氏の文献に出てくる「古老」とは、時代が変わってしまっているようです。
 で、下の写真が現在の「麹町鈴木ビル」です。北西の方向から写しています。

麹町鈴木ビル

 賢治はここにしばらく滞在して「東京独逸学院」に通い、途中からは同じ麹町三丁目(当時)の「栄屋旅館」というところに移っています。すぐ近くなのでしょうが、この「栄屋旅館」の方の詳しい位置はまだわかりません。

 さて、ここから東南東の方角に行くと、すぐに皇居の「半蔵門」(下写真)があります。半蔵門

 江戸時代に城の警護を担当していた服部家(代々「服部半蔵」を襲名)の屋敷がこの門の前にあったことから、こう呼ばれたそうです。この門を起点として、甲州街道(現在の国道20号線)が始まりますが、これは江戸城有事の際は、将軍がこの門から出て西へ向かい、幕府天領である甲府に避難するという目的を秘めた道路整備だったのだといいます。

 ところで賢治は、この1916年の上京中に、甲斐に住む保阪嘉内のことを思って次の短歌を書き送りました。

甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな。

 東京独逸学院のあった神田からほど近くには、当時の中央本線の始発駅である万世橋駅があり、そこが大正時代には「甲斐への起点」を象徴していました。
 つまり、この夏の賢治は、たまたま甲斐へ向かう「道路」の起点近くで寝泊まりしながら、甲斐へ向かう「鉄道」の起点近くへと通っていたというわけです。賢治と嘉内を結ぶ「見えない糸」ですね。

 半蔵門を後にして、内堀通りを北へ行くと、すぐに左手にはイギリス大使館が見えてきます。下写真で左側の塀が大使館、その前に続く木々が、有名な桜並木です。

イギリス大使館前桜並木

 北辰館のあった場所から神田方面へ行くなら、この通りよりも西方で、たとえば現在は地下鉄半蔵門線が下を走っている大妻通りなどを、靖国通りまで北上するという経路もあるのですが、私なら景色もきれいなこのイギリス大使館横を通る内堀通りの方を通学路にするでしょう。もう少し行くと、右手に皇居のお堀も見えてきて、さらによい雰囲気です。
 賢治がこの道を毎日通っていたのなら、上京中の賢治の短歌、

大使館低き練瓦の塀に降る並木桜の朝のわくらば

に出てくる「大使館」を、道沿いに長く続く「イギリス大使館」と考えるのも自然です(詳しくは、以前の記事「大使館の桜」参照)。
 大使館の正面玄関は下のような感じ。

イギリス大使館正面玄関

 そして、大使館に沿って北に歩いて行くと、右下写真のようなモニュメントが建てられていました。金属板には、次のような言葉が記されています。

桜植樹記念碑1898年、当時の英国公使 サー・アーネスト・サトウが、この地に初めて桜を植えました。植樹100周年を記念して、1998年春、ここに駐日英国大使館は新たに桜を植え、日英両国の友好の証とします。

この記念碑は、紀宮清子内親王殿下によって除幕されました。
1998年4月3日

シルビア・オーウェンズ作 1963年 英国生まれ

 さらに北に進むと、千鳥ヶ淵の交差点のところに「千鳥ヶ淵周辺のご案内」と題された千代田区が立てた案内板がありました。そこには、「明治34年(1901)に代官町通りが内堀通りまで整備されたときに、新たに土橋が築かれ、半蔵濠と分かれて今の形になりました。」と記してありました。
 すなわち、「代官町通り」が整備されたのは1901年ということですから、当時の賢治の通学路としては、千鳥ヶ淵交差点からこの代官町通りを抜けて神田方面へ出たという可能性も否定はできず、当時のフランス大使館前を通ることもできなくはありません。しかし総合的に考えると、やはり賢治の短歌に出てくる「大使館」は、イギリス大使館だろうと私としては思います。
 下写真が、当時フランス大使館があったあたりです。現在は、東京法務局や九段合同庁舎などがあります。

フランス大使館があった場所

 以上で、1916年夏の賢治の東京滞在関連地めぐりはひとまず終えて、今度は1918年末〜1919年3月の、トシ看病のための滞在地の方へ向かいました。

 九段下駅から地下鉄東西線に乗り、飯田橋で有楽町線に乗り換えて、護国寺駅で降ります。音羽通りを少し南に行って、大塚警察署の角を西に曲がると、「三丁目坂」という坂道です。この坂を上って首都高速の高架をくぐり、最初に左(南)へ入る細い路地を折れると、そこが昔「雲台館」があったという場所です。
 下図は、やはり奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」(小沢俊郎編『賢治地理』所収)より引用した地図です。

「雲台館」等地図(奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」より)

 奥田氏が訪ねた昭和41年の時点では、そこには賢治の頃の「雲台館」の建物がそのまま残っていて、「東京鉄道管理局音羽寮」として使われていたということですが、現在はもうその建物はなくなって、民家になっています。
 下の写真は、路地を南から北へ向かって写したもので、右手の民家の場所が、昔「雲台館」があったというあたりです。

「雲台館」のあった場所

 「三丁目坂」案内板賢治と母イチは、毎朝この路地を抜けて、「三丁目坂」を上り、「永楽病院(東大病院小石川分院)」に通っていたわけですね。「三丁目坂」と呼ばれた由縁は、「旧音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂だったから」という即物的な説明が、右の案内板に書かれていました。

 「雲台館」のあった場所からは、歩いて数分で「永楽病院」のあった場所まで行くことができます。
 しかし知らない土地で、一時は生命まで危ぶまれたトシの病状を心配しながら行き来する坂道は、賢治や母にとって心細いものだったに違いありません。

 そして下の写真が、昔「永楽病院」のあった跡地です。現在は取り壊しを待つだけの無人の建物ですが、2001年6月まではやはり「東大病院分院」として、一線の診療を行っていました。

東大病院分院

 私はここを訪ねたのは今回が初めてなのですが、ちょっとした感慨がありました。1960〜70年代にはこの病院で、安永浩氏とか中井久夫氏とか、著名な精神医学者が仕事をしておられたということで、個人的にはこの「東大分院」という名前には、独特のオーラを感じていた頃がありました。たまたま賢治の縁でその地に来ることになるとは、不思議な巡り合わせです。
東京大学(目白台)診療棟他解体工事のお知らせ ただ、塀には右のような「解体工事のお知らせ」が貼ってあって、「工事予定期間」の欄を見ると、「平成21年4月15日から」「平成21年12月18日まで」となっています。何かの都合で工事が遅れているのかもしれませんが、もしも予定通り12月18日に解体が終わっていたら、12月20日に私がここに来た時には、建物はなくなっていたわけです。
 解体後は、ここには外国人研究者・留学生向けの宿舎や文系の研究所を建設する計画があるとのことで、私が「東大分院」の建物を最後に見られたのは、ちょっとした幸運のおかげでした。
 お正月をはさんで、現時点ではまだこの建物は存在しているのだろうと思いますが、近いうちには姿を消すでしょう。

 これでお昼近くになりましたので、トシがいた「責善寮」の跡なども見てみたかったのですがそれはあきらめて、護国寺駅に戻って地下鉄に乗り、麹町駅で降りて「かわかみ」でラーメンを食べ、午後から会議がある大妻女子大学へと向かいました。

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2010年1月 1日 謹賀新年

 あけましておめでとうございます。大晦日から元日にかけて、全国的にかなり冷え込んで、大雪の降ったところもあるようですが、皆様いかがおすごしでしょうか。

 当サイトは、途中で模様替えなどもしましたが、最初にアップロードしたのは、1999年の11月でした。ということで、発足から満10年を迎え、11年目に入った新年です。
 10年になったからどうというわけではありませんが、作りはじめた当初は、将来どうするなどと意識もしていませんでしたから、10年たってもまだやっているのかと思うと、ちょっと不思議な感じがします。

 これからもいつどうなるかわかりませんが、私としてはできるかぎり長く続けていきたいなと思っています。
 本年も、どうかよろしくお願い申し上げます。

◇          ◇

 個人的には、12月30日から本日まで、両親が住んでいる四国の田舎に帰省していました。
 私の父方の祖父という人は、私が生まれる前に亡くなっていたので、もちろん私はまったく知りませんし、その人となりについて親から聴くことも少なかったのですが、昨年に斎藤茂吉について少し触れた時に、この祖父が長崎医学専門学校の出身だったようなことを思い出し、帰省した時に父に尋ねてみようと思ったことがありました。
 それは、ひょっとして斎藤茂吉が長崎医専に教授として赴任していた時期(1917年4月〜1921年10月)と、祖父の在学期間が重なっていたなどという、旨い話はないか、ということでした。

 あまり期待はしていなかったのですが、驚いたことに答えは YES でした。その昔、祖父がお酒に酔った時などには、「斎藤茂吉のまね」などと言って、舌で唇を時々ぺちゃぺちゃなめながらしゃべるような様子を、父に見せてくれたりしたものだというのです。
 おまけに、それまで私は祖父の生年など知らなかったのですが、年齢を勘定する際に、1896年(明治29年)生まれだったらしいと聞かされました。何と、祖父は宮澤賢治と同年だったのです。
 空間的には遠く離れた場所ではありますが、賢治が盛岡高等農林で関豊太郎教授に学んでいた頃、私の祖父は長崎医専で斎藤茂吉教授に学んでいたのです。

 というようなことを初めて知って、私にとってはこれまでは遠くにかすんだままの人だった祖父が、何かちょっと身近になったような正月でした。

正月の風景(岡山)
元日の夕方(岡山県あたりで、列車の窓から)

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