2017年3月20日 萩京子作曲「ケンタウルス 露をふらせ」

 3月9日に、オペラシアターこんにゃく座による公演「想稿・銀河鉄道の夜」を観てから、「ケンタウルス、露をふらせ!」という萩京子さんの曲がずっと頭の中で流れつづけていたので、当日購入したパンフレットに掲載されているその楽譜をもとに、この曲の VOCALOID 版を作成してみました。
 「想稿・銀河鉄道の夜」は、賢治の原作を尊重しながらも北村想さんが「自分の読みを刻ん」だ劇ですが、物語の前半で「ケンタウル祭」の晩に、子どもたちはみんな嬉しさいっぱいで、この歌を唄います。

 それにしても、賢治による「ケンタウルス、露をふらせ」のかけ声に、北村さんが加えた「子どもたちの髪をぬらせ」という一節は、この物語の悲劇的な側面を暗示しているようでもあり、不思議な雰囲気を醸成しています。
 と言うのも、この物語において「ぬれて」いるということは、カムパネルラが「ぬれたやうにまっ黒な上着をきた、せいの高い子供」として登場し、途中から乗車した小さな男の子が「ちぢれてぬれた頭」「ぬれたやうな黒い髪」をしていることに表れているように、水難事故の死者の表徴でもあるのです。
 萩京子さんによる、楽しげだけれど一抹の寂しさも漂う曲想が、その雰囲気にぴったりと寄り添っています。

 下のファイルの歌は、VOCALOID の Mew、初音ミク、Kaito で、二番の冒頭のソロは、Mew です。本番では、伴奏にクラリネットとチェロも加わってさらに色彩豊かな音楽でしたが、ここではパンフレット掲載の楽譜に従って、伴奏はピアノのみになっています。かわりというわけではありませんが、「ケンタウルス!」の部分に、「露」のイメージで「鈴」を入れてみました。

♪ 「ケンタウルス 露をふらせ」(2.57MB)

               詩: 北村 想  曲: 萩 京子
一、星の祭の夜は
   星座表から星が空に帰る
   白鳥は舞い
   琴は奏で
   天秤は揺れ
   かんむり輝く
   ケンタウルス 露をふらせ
   子どもたちの髪をぬらせ

二、星の祭の夜は
   星座表から星が空に帰る
   牛飼いは歩き
   竜はうねり
   鷲は飛び
   蠍は跳ねる
   ケンタウルス 露をふらせ
   子どもたちの髪をぬらせ
   ケンタウルス 露をふらせ
   子どもたちの髪をぬらせ

萩京子「ケンタウルス 露をふらせ」
オペラ「想稿・銀河鉄道の夜」公演パンフレットより

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2017年3月12日 親鸞の夢告の地

 浄土真宗の開祖親鸞は、その生涯の重要な局面において、三度にわたり「夢のお告げ」を受けたとされています。

 その第一は、親鸞が19歳の1191年(建久2年)に、河内国磯長にある聖徳太子廟に参籠した際のもので、夢に聖徳太子が現れ、次のように告げたとされています。

我が三尊、塵沙界を化す
日域は大乗相応の地なり
諦聴せよ、諦聴せよ、我が教令を
汝の命根、応に十余歳なるべし
命終して速やかに清浄土に入らん
善信、善信、真菩薩

 すなわち、阿弥陀・観音・勢至の三尊は、この塵のような世を救おうとしている、日本は大乗仏教にふさわしい地である、私の教えをよく聞け、お前の命はあと十余年である、その命が終わると速やかに清らかな世界に入るであろう、真の菩薩をよく信ぜよ、というのです。

 次の第二の夢告は、1200年(正治2年)、親鸞が比叡山無動寺の大乗院に参籠した際のもので、夢に如意輪観音が現れ、次のように告げたとされています。

善哉、善哉、汝の願、将に満足せんとす
善哉、善哉、我が願、亦満足す

 これは、その時点での親鸞の信仰を強く肯定するものであり、磯長の夢告で「余命10年あまり」と言われていた親鸞の背中を押して、翌年の比叡下山に向かわせた契機とされています。

 そして第三の夢告は、翌1201年(建仁元年)のことで、親鸞は京都の頂法寺六角堂で百日参籠を行い、その95日目の夜の夢に救世観音が現れ、次のように告げたとされています。

行者宿報に設い女犯すとも
我玉女の身と成りて犯せられむ
一生の間、能く荘厳して
臨終に引導して極楽に生せしむ

 これは、行者であるお前(親鸞)が、たとえ前世の因縁によって女性と交わろうとも、私(観音)が女性の身となってその交わりを受け、お前の一生を助けて、臨終には導いて極楽に往生させようというもので、これを受けた親鸞は、京都吉水の法然の門に入ることとなりました。

 上記の三つの夢告のうち、最後の六角堂における夢告は、親鸞の妻の恵信尼が娘の覚信尼にあてた手紙(恵信尼消息)にも出てくるので概ね史実と考えられていますが、前の二つは、後世に生まれた伝説と考える向きが多いようです。
 しかし、親鸞を尊崇する人にとっては、これらはいずれも宗祖の偉大な生涯を特徴づける、貴重なエピソードなのです。

 さて、賢治が1921年(大正10年)に家出をしている最中に、父政次郎が息子を誘って関西地方を旅行した際の旅程を見ると、上の親鸞の夢告の地のうち、二つが入っていたことがわかります。
 まず、第二の夢告の「大乗院」に関しては、小倉豊文「旅に於ける賢治」に、次のように記されています。

 さて、根本中堂や大講堂のある一廓は、東塔と称し、叡山の中心地区ではあるがまだほんの入口にすぎない。なほ奥には西塔の一廓があり、更に遠くはなれて横川塔の一廓があり合せて叡山三塔と言ふ。ことに横川塔は日蓮上人の遺蹟でもある。全山の主峰四明ヶ嶽も西塔の近くである。しかし、この時の父子二人の日程では、それ等何れへも足を運ぶことが許されなかつた。彼等は大講堂から名残を惜しみつゝ歩をかえした。そして、道を大乗院「親鸞上人蕎麦喰木像」にとつた。すでに暮れなずむ春の夕べではあれ、谷や木の間には夕暗が色濃く迫つて来てゐた。

 すなわち、政次郎氏が小倉豊文氏に語ったところによれば、賢治父子は比叡山参詣の最後に大乗院を訪れ、そこから下山の途についたのです。
 そしてこの日は、かなり夜も更けてから京都三条大橋たもとの「布袋館」に投宿し、次の朝は「中外日報」社を訪ねて、大阪の叡福寺への行き方を教えてもらいます。そして二人は叡福寺へと向かうのですが、実はこの「叡福寺」こそ、「磯長の夢告」があった聖徳太子廟に建てられた寺なのです。
 ただ現実には、賢治たち父子は大阪から関西線で叡福寺に向かう途中、柏原駅で下車しなければならないところを乗り過ごしてしまい、残念ながら叡福寺には行きそびれてしまいました(「運命の柏原駅」参照)。
 しかし政次郎氏は、少なくとも旅行の計画においては、「磯長の夢告」と「大乗院の夢告」の地を、訪ねることにしていたのです。

 となると、もう一つの夢告の地、しかも親鸞にとっては最も重要な場所であった「六角堂」には行かなかったのかということが気になりますが、父子が宿泊した「布袋館」と、親鸞が参籠した「頂法寺六角堂」は、下の地図のような位置関係にあります。(マーカーの(布)が布袋館、(六)が六角堂)

 布袋館から六角堂までの距離は1.2kmで、徒歩で15分ほどですから、旅館の朝食前の散歩にもちょうどよい感じですが、二人が六角堂を訪ねたという話は、政次郎氏からこの旅行について聴きとりをした小倉豊文氏も、佐藤隆房氏も、堀尾青史氏も、誰も記録していませんので、実際には行かなかったのでしょう(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)。
 仏典に詳しい政次郎氏のことですから、叡福寺、大乗院と来て、六角堂を意識しなかったはずはないと思いますが、この時は賢治への配慮もあったのでしょうか。大乗院は、純粋に親鸞の旧蹟ですが、叡福寺には賢治の信仰する日蓮も若い頃に参籠しており、こちらは親鸞だけでなく日蓮とも関連した「所縁の地」でした。親鸞と日蓮の共通のルーツを訪ねるという、この旅の趣旨に合致した場所だったのです。

 それから、親鸞は19歳の時に叡福寺の聖徳太子廟で、「お前の余命は十余年」と宣告されたにもかかわらず、実際には90歳まで生きましたが、賢治は22歳になる夏に体調不良で岩手病院を受診して肋膜の疑いと言われ、親友の河本義行に「私の命もあと15年」と書き送り、まさにその15年後に37歳で世を去りました。
 たんに肋膜の「疑い」があったというだけで、岩手病院の医者がそのような「お告げ」をするはずはありませんから、これは賢治自身の何らかの直観による言葉だったのだろうと思われますが、こちらの方は、残念ながらそのとおりになってしまったわけです。

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2017年3月 5日 《願以此功徳 普及於一切》

1.「青森挽歌 三」の位置

 新校本全集で「『春と修羅』補遺」に分類されている「青森挽歌 三」は、『春と修羅』に収録されている「青森挽歌」の、先駆形と考えられる草稿です。このテキストが書かれているのは、「丸善特製 二」というやや変則的な原稿用紙で、一般の原稿用紙が「20字×10行×2」という400字詰めであるのに対して、これは「25字×12行×2」という600字詰めになっているのです。
 実は、『春と修羅』の「詩集印刷用原稿」は、全てがこの「丸善特製 二」の原稿用紙なのですが、その意義について、『校本全集』第二巻校異篇p.11には、次のように書かれています。

本文の書かれ方について特記すべきは、用紙の25字×12行という字詰めが、初版本本文の活字の組み方と合致していることで、原稿用紙の右半・左半が、それぞれ、そのまま初版本の各一頁に相当するように書かれ、紙を二つに折って重ねて綴じれば、詩集の雛形になる仕組みになっている。

 すなわち、賢治はこの「丸善特製 二」原稿用紙に、『春と修羅』の最終段階のテキストを記入して、それによって「詩集の雛形」をイメージしたのです。
 つまり、賢治が『春と修羅』関係の詩の草稿用紙として、この「丸善特製 二」原稿用紙を使用している場合は、それは推敲過程の中でもかなり最後の方の段階に位置していることを意味するわけであり、「青森挽歌 三」という草稿は、そのような段階のテキストだと考えられるのです。(この原稿用紙のことについては、以前の記事「「丸善特製 二」原稿用紙」もご参照下さい。)

 さて、前置きが長くなりましたが、その「青森挽歌 三」の冒頭は、次のように始まります。

   青森挽歌 三

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。
それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき
或ひは青ぞらで溶け残るとき
必ず起る現象です。

 冒頭の「仮睡硅酸」という特徴的な造語は、「青森挽歌」においては中ほどの112行目に出てくるのに対して、5行目の「それはおもては軟玉と銀のモナド」から14行目の「巻積雲にはいるとき」までは、ほとんどそのまま「青森挽歌」の213行目から222行目と同内容です。
 比較のために、下にその「青森挽歌」の213行目から222行目を掲げてみます。

おもては軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいつぱいだ
巻積雲のはらわたまで
月のあかりはしみわたり
それはあやしい蛍光板になつて
いよいよあやしい苹果の匂を発散し
なめらかにつめたい窓硝子さへ越えてくる
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき・・・・・・

 これを上の「青森挽歌 三」の5行目以降と比べていただくと、ほとんど一致することがわかると思います。
 さらに、『新校本全集』第二巻校異篇を見ると、「青森挽歌」の「詩集印刷用原稿」には、上の箇所に続いて、「あるひは青ぞらで溶け残るとき/かならず起る現象です」という字句が書かれていたのが、印刷する前に墨で削除されていますが、これは「青森挽歌 三」の15〜16行目ともほぼ一致するもので、両者の相似はいっそう深まります。
 また同じ校異篇によれば、「青森挽歌」の上に引用した箇所の直前、すなわち213行目の前には、もともと「三行アキ」の空白が挿入されていたということです。印刷された『春と修羅』にはこの「行アキ」はなく、212行目と213行目は切れ目なくつながっているのですが、印刷前の賢治の考えでは、212行目と213行目の間には、形式上の大きな「切れ目」があったのだろうと推測されます。

 さて、ここでまず私が考えてみたいのは、次のような事柄です。
 「青森挽歌 三」が残っているということは、もともとは「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」も存在したのだろうと推測されますし、またひょっとしたら「青森挽歌 四」やそれ以降が存在していた可能性も、否定できません。
 このような、「青森挽歌 一」・・・「青森挽歌 n」が、その後さらに推敲されるうちに、漢数字による区分が消失し、最終的に単一の「青森挽歌」になったと想定できると思いますが、そのもともとの「青森挽歌 一」・・・「青森挽歌 n」というのは、いったいどんな構成だったのでしょうか。

 最初に考えておきたいのは、「青森挽歌 n」というのが、いくつまで存在したのだろうかということですが、「青森挽歌 三」の最後の部分を見ると、次のように終わっています。

「太洋を見はらす巨きな家の中で
仰向けになって寝てゐたら
もしもしもしもしって云って
しきりに巡査が起してゐるんだ。」
その皺くちゃな寛い白服
ゆふべ一晩そんなあなたの電燈の下で
こしかけてやって来た高等学校の先生
青森へ着いたら
苹果をたべると云ふんですか。
海が藍テンに光ってゐる
いまごろまっ赤な苹果はありません。
爽やかな苹果青のその苹果なら
それはもうきっとできてるでせう。

 これを見ると、車窓からは「海」が見えているようですが、花巻発青森行き東北本線で、海が見えるのは陸奥湾しかありませんので、列車はかなり青森に近づいていることがわかります。また、「ゆふべ一晩」という言葉も、時刻がもう朝という言える時間帯になっていることを想像させますし、「青森へ着いたら/苹果をたべると云ふんですか」という言葉も、何となく列車が終点の青森駅に近づいているような雰囲気を漂わせます。
 すなわち、「青森挽歌 三」は、青森駅の手前近くで終わっているわけです。
 ここで推敲後の「青森挽歌」も、青森駅の手前で終わっていると推測されることと考え合わせると、「青森挽歌 三」の後に、「青森挽歌 四」やそれ以降が存在したとは考えにくく、この段階の草稿は、「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」「青森挽歌 三」という、三部構成になっていたのではないかと推測されます。

 となると、「青森挽歌 三」は、「青森挽歌」の「213行目から最後まで」という部分に相当すると、考えることができます。前述のように、もともと「青森挽歌」の印刷用原稿では、213行目の手前に「三行アキ」の空白があったということから、ここに形式的な切れ目があったと思われるからです。
 それでは、「青森挽歌 一」と「青森挽歌 二」は、「青森挽歌」ではそれぞれどの部分に対応するのでしょうか。

 これは、「青森挽歌」の212行目以前の部分を、意味内容の上で二つに区切るとすれば、どこで分けるべきか、という問題に置き換えることができるでしょうが、それの区切りは具体的には、どこに当たるでしょうか。
 以前に、「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事を書いたことがありますが、その時は「青森挽歌」の全体を、次の7つの部分に分けてみました。

I 現実世界からの導入・トシの死について考えることへの躊躇
II 死の認識の困難性
III トシの死の状況の具体的回想
IV 転生の可能性(鳥・天・地獄)
V トシの行方に執着することへの自戒
VI 車窓風景の展望と魔の声
VII 個別救済祈願の禁止

 具体的な区分については、元の記事をご参照いただくとして、今回論じている「青森挽歌 三」は、「青森挽歌」の213行目以降に相当するわけですから、上では VI と VII にあたります。
 そして、I から V までの部分を二つに分けるとすれば、II と III の間で区切るのが妥当だと考えます。I と II は、広い意味で作品全体の導入部にあたる箇所であり、ここで賢治は、トシの死について考えることを躊躇したり、死そのものをとらえることの困難性について記しています。「ギルちゃん」や「ナーガラ」が出てくる部分にも、幼い者が「死」という現実をうまく理解できない様子が、童話的に表現されています。
 これに対して、III・IV・V の部分で、賢治はトシの死の状況を具体的に回想することを通して、その死後の行方について、執拗なまでに考察を展開しています。そもそもこれこそが、「青森挽歌」の中心的な主題でした。

 すなわち、「青森挽歌」の先駆形として、「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」「青森挽歌 三」が存在したとすれば、大まかには「青森挽歌」の1〜85行目が「青森挽歌 一」に、86〜212行目が「青森挽歌 二」に、213行目〜252行目が「青森挽歌 三」に、それぞれ相当すると考えられるのではないでしょうか。

2.「青森挽歌 三」の内容

 「青森挽歌」の213行目以降の主な内容は、トシの行方について考え疲れた賢治が車窓の月を眺めていると、トシの死相について揶揄する「魔」のような存在の声が聴こえ、さらには最後に、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示がもたらされる、というものでした。
 これに対して、「青森挽歌 三」の主な内容となっているのは、「トシの似姿」を見る話です。

 まず賢治には、同じ車両で眠っている乗客の一人が、まるでトシのように見えます。

その右側の中ごろの席
青ざめたあけ方の孔雀のはね
やはらかな草いろの夢をくわらすのは
とし子、おまへのやうに見える。

 次には、父親が出張中に、「まるっきり同じわらす」を見た話です。

「まるっきり肖たものもあるもんだ、
法隆寺の停車場で
すれちがふ汽車の中に
まるっきり同じわらすさ。」
父がいつかの朝さう云ってゐた。

 花巻から遠く古都奈良の、「すれちがふ汽車」の中に子供時代の娘を見るというのは、父親にとって何という切ない体験でしょう。いくら手を伸ばしても届かないという現実が、象徴されているかのようです。

 そして三つめには、トシが亡くなった翌月に、賢治自身がトシの似姿を見た体験が回想されます。

そして私だってさうだ
あいつが死んだ次の十二月に
酵母のやうなこまかな雪
はげしいはげしい吹雪の中を
私は学校から坂を走って降りて来た。
まっ白になった柳沢洋服店のガラスの前
その藍いろの夕方の雪のけむりの中で
黒いマントの女の人に遭った。
帽巾に目はかくれ
白い顎ときれいな歯
私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。
( それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)
私は危なく叫んだのだ。
(何だ、うな、死んだなんて
いゝ位のごと云って
今ごろ此処ら歩てるな。)
又たしかに私はさう叫んだにちがひない。
たゞあんな烈しい吹雪の中だから
その声は風にとられ
私は風の中に分散してかけた。

 ここには、まだトシが死んだと信じ切れない賢治の、悲痛な思いが刻まれています。

 さてこのような、ふと故人の似姿を見て、たとえ一瞬だけにせよ、本当に「あの人」だと思ってしまうという現象は、その人のことをまだ現実世界の中に、無意識のうちに「探しつづけている」からこそ、起こるものです。
 この賢治のサハリンへの旅行は全体として、死んだ人を無意識のうちに探そうとしてしまう「探索行動」として理解することができると、以前から私は思っているのですが(「「探索行動」としてのサハリン行」参照)、ここにも「探索」の一端が、顔をのぞかせているわけです。

 ところで、最初に引用した「同じ車両の乗客」が、「やはらかな草いろの夢をくわらす」と書いてある言葉の意味が、ちょっとわかりません。「夢をくわらす」というのは、いったいどういうことでしょうか。
 「くわらす」という言葉は、『精選版 日本国語大辞典』にも載っていませんし、もちろん「喰らわす」では、意味が通りません。
「夢をくゆらす」 私がちょっと思うのは、これは「くゆらす」のことなのではないか、ということです。「くゆらす」を辞書で引くと、「(煙や匂いなどを)立ちのぼらせる」とあり、「夢をくゆらす」というのも、右図のような感じで、比喩として理解できなくはありません。
 また、ひらがなの「ゆ」と「わ」というのは、書き方によっては形が似ています。

 まあ、これについては確かなところはわかりませんが、賢治はしきりに苹果のことを考えながら、汽車は青森駅に近づいて行きます。

3.《願以此功徳 普及於一切》

 以上のように、「青森挽歌 三」と、「青森挽歌」の213行目以降の内容は、大きく異なるわけですが、何と言っても「青森挽歌」の終結部には、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示が現れるのに、「青森挽歌 三」にはそういった話が全く出てこないところが、最も大きな違いです。この啓示が、後には賢治の亡妹トシに対する態度を大きく規定することになることを思うと、この相違点は重大です。

 では、「青森挽歌 三」の方には、この《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》に類した発想が全く含まれていなかったのかというと、その最終形を見るかぎりではそのようなものは見当たりませんが、推敲過程を見ると、注目すべき箇所があります。
 すなわち、『新校本全集』第二巻校異篇p.199には、「青森挽歌 三」の本文6行目の次に、当初は《 願此功徳 普及於一切》という字句が「三字下ゲ」で書かれていたのが、その後削除されたということが、記されています。
 つまり、当初は「青森挽歌 三」の冒頭部は、次のようになっていたのです。

   青森挽歌 三

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。
それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
   《 願以此功徳 普及於一切》
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。

 「青森挽歌」の213行目以降では、「魔」の嘲笑的な言葉も、例の重要な啓示も、《二重括弧》で括られて記されていましたが、「青森挽歌 三」の最終本文には、二重括弧は使われていませんでした。しかし実は、この《願以此功徳 普及於一切》に、用いられていたのです。
 この言葉は、いったいどういう意味なのでしょうか。

 調べてみると、「願以此功徳 普及於一切」とは、法華経の「化城喩品第七」に出てくる「偈」の一節で、その前後とともに引用すると、次のようになっています。

我等諸宮殿 蒙光故厳飾
今以奉世尊 唯垂哀納受
願以此功徳 普及於一切
我等與衆生 皆共成佛道

(書き下し)
われ等の諸の宮殿は、光を蒙るが故に厳に飾られたり。
今、もって世尊に奉る 唯、哀を垂れて納受したまえ。
願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし
われ等と衆生と 皆、共に仏道を成ぜん。
            (岩波文庫『法華経』中巻p.52)

 これは、「五百万億の諸々の梵天王」が、世尊を讃えて荘厳な宮殿を献上し、その功徳をあまねく一切に及ぼすことによって、我ら梵天王と衆生がともに成仏できるようにと、願う場面です。

 その中の一節が、なぜトシの死を思う「青森挽歌 三」に登場するのか、ということが問題ですが、実はこの「願以此功徳 普及於一切/我等與衆生 皆共成佛道」という言葉は、日蓮宗に限らずさまざまな宗派で「法要」を行う際に、その最後に唱えられ、「回向文」と呼ばれるものなのです。
 下の動画は、真言宗の在家用仏前勤行次第だということですが、クリックしていただければ、「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、われ等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」との言葉を聞くことができます。

 一般に「法要」というのは、故人の縁者たちが集まって、故人の冥福のために、お経を上げ、仏を礼拝し、お布施をする等の、仏教的な善行を成すことです。このような行為そのものを実施するのは生きている人々ですが、それによって得られる「功徳」を、自分たちだけでなく死者にも振り向ける(回向する)ことによって、故人の次生での幸福を、助けようとしているわけです。
 そしてさらに、自分たちの縁者だけでなく全ての生き物の救済を目ざすのが大乗仏教ですから、その法要による功徳も自分たちだけに限定せず、広く回向して「普く一切に及ぼし」、「われ等と衆生と 皆、共に仏道を成ぜん」ために唱えるのが、この回向文なのです。

 ここにおいて、この回向文の趣旨と、賢治のトシに対する思いや行動とのつながりが、明らかになってきます。
 すなわち、賢治が青森へ向かう夜行列車の中で、トシのことをずっと考えつづけたのは「法要」ではありませんが、しかし賢治はこの時トシの次生における幸せを心から願い、きっと「南無妙法蓮華経」の題目も、何度となく唱えたことでしょう。その功徳によって、賢治はトシの冥福を祈ったわけです。
 しかし、大乗仏教を信仰する賢治としては、トシのことばかりを祈ることでこれを済ますわけにはいきません。あるいは賢治には、ここまで自分が延々とトシという一人の肉親のことばかり考えつづけてきたことに対して、何らかの後ろめたさがあったのかもしれません。
 ともかくも賢治にとっては、自らが青森に向かう列車の中でトシに向けた功徳を、あらためて「全ての衆生」に回向するために、《願以此功徳 普及於一切》という祈りが、ここにどうしても必要だったのです。

 つまり、トシに限らず「すべてのいきもののほんたうの幸福」を願うという目的において、「青森挽歌 三」におけるこの《願以此功徳 普及於一切》は、「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉と、まさにつながっているものなのです。
 しかしその内容を見ると、前者では「トシのことを祈った上でそれを衆生に回向する」という形になっているのに対し、後者においては「けつしてひとりをいのつてはいけない」として、そもそも「一人を祈る」こと自体が禁止されているという点において、大きな違いがあります。

 「青森挽歌 三」にいったん書かれていた《願以此功徳 普及於一切》という一節が、その推敲過程において消去されてしまった理由はわかりませんが、想像するに、賢治が本当はトシのことを強く祈りながら、最後に取って付けたように《願以此功徳 普及於一切》の一節を追加することで、自分は全ての衆生のことを思っているのだと正当化するというやり方を、「偽善的」と感じて許せなくなったのではないかと思ったりもします。

 いずれにしても、賢治は最終的に「青森挽歌」において、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という制約を自らに課すことによって、厳しい未知の領域へと、大きな一歩を踏み出したのです。

 しかし、この「青森挽歌 三」が、「丸善特製 二」というかなり最終段階に近い草稿用紙に書かれたものであり、そこにいったんは上記のような意味合いの《願以此功徳 普及於一切》という言葉があったということの深い意味は、あらためて心に留めておく必要があるかと思います。
 私はこれまで何となく、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な思想を賢治が抱くに至ったのは、サハリン旅行中のことだったようにばくぜんと思っていたのですが、それは大きな間違いでした。
 実際に彼がこういう考えを持つようになったのは、おそらく旅行から帰ってからも苦悩をつづけた後のことで、彼が詩集『春と修羅』のために清書を開始してからもかなり経った時期のことだったということを、きちんと押さえておく必要があると感じました。

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2017年2月11日 宮沢賢治イーハトーブ三陸沿岸サミットin大槌

 もう1週間後になりましたが、来たる2月18日(土)に、岩手県大槌町において、「宮沢賢治イーハトーブ三陸沿岸サミットin大槌」という催しが開かれます。

イーハトーブ三陸サミットチラシ表

イーハトーブ三陸サミットチラシ裏

 副題には、「イーハトーブ海岸連携構想」とあり、チラシに描かれた岩手県の地図において、その昔に賢治が旅した三陸の各スポットが、星座のように結ばれています。
 その趣旨について、チラシには次にように記されています。

 宮沢賢治は童話「ポラーノの広場」のなかで三陸海岸を「イーハトーブ海岸」と呼び、その地に暮らす人々がとても親切だったと語っています。
 その「イーハトーブ海岸」の理想を実現するため、三陸沿岸各地に点在している賢治のレガシー(遺産)を「三角標」に見立て、それぞれの地で賢治関連の活動をしている個人や団体が星座のように連携し、三陸沿岸が再び輝く地域になることを目指します。

 当日のプログラムは、下記のようになっています。

プレイベント 13:00-15:00 映画「銀河鉄道の夜」上映会
大槌町 浪板海岸ヴィレッジ にて

第1部 16:00-17:30 パネルディスカッション
三陸沿岸の賢治愛好団体等によるパネルディスカッション
・三陸沿岸における賢治レガシー(遺産)自慢
・連携によって生まれるイーハトーブ海岸の可能性 など
三陸花ホテルはまぎく ジパング にて

第2部 18:00-20:00 交流会
賢治作品の朗読会(フリーアナウンサー畑中美耶子氏)
賢治の音楽会(大久保正人氏)
三陸花ホテルはまぎく ジパング にて

 参加費は無料ながら要予約で、予約・問い合わせは、ベルガーディア鯨山の佐々木さん(0193-44-2544)まで、ということです。
 私は残念ながら参加できないのですが、この催しが実り多いものとなり、三陸沿岸の輝きがいや増すことを、心からお祈りしています。

 次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。
                              (「ポラーノの広場」より)

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2017年1月29日 《ああおらはあど死んでもい》の話者

宮澤賢治 『永訣の朝』の授業 トシへの約束 宮澤賢治 『永訣の朝』の授業 トシへの約束
石黒 秀昭

幻冬舎 2016-11-22
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 高校における「永訣の朝」を題材とした国語授業を収めた、石黒秀昭氏の『宮澤賢治『永訣の朝』の授業 トシへの約束』(幻冬舎)は、「風林」に対するとても興味深い解釈を提示しています。
 石黒氏は、まず生徒たちに、プリントで配布した「風林」を読ませます。

   風林

  (かしはのなかには鳥の巣がない
   あんまりがさがさ鳴るためだ)
ここは艸があんまり粗く
とほいそらから空気をすひ
おもひきり倒れるにてきしない
そこに水いろによこたはり
一列生徒らがやすんでゐる
  (かげはよると亜鉛とから合成される)
それをうしろに
わたくしはこの草にからだを投げる
月はいましだいに銀のアトムをうしなひ
かしははせなかをくろくかがめる
柳沢の杉はなつかしくコロイドよりも
ぼうずの沼森のむかふには
騎兵聯隊の灯も澱んでゐる
《ああおらはあど死んでもい》
《おらも死んでもい》
  (それはしよんぼりたつてゐる宮沢か
   さうでなければ小田島国友
      向ふの柏木立のうしろの闇が
      きらきらつといま顫えたのは
      Egmont Overture にちがひない
   たれがそんなことを云つたかは
   わたくしはむしろかんがへないでいい)
《伝さん しやつつ何枚、三枚着たの》
せいの高くひとのいい佐藤伝四郎は
月光の反照のにぶいたそがれのなかに
しやつのぼたんをはめながら
きつと口をまげてわらつてゐる
降つてくるものはよるの微塵や風のかけら
よこに鉛の針になつてながれるものは月光のにぶ
《ほお おら・・・・・・》
言ひかけてなぜ堀田はやめるのか
おしまひの声もさびしく反響してゐるし
さういふことはいへばいい
  (言はないなら手帳へ書くのだ)
とし子とし子
野原へ来れば
また風の中に立てば
きつとおまへをおもひだす
おまへはその巨きな木星のうへに居るのか
鋼青壮麗のそらのむかふ
 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
  ・・・・・・・・・・・・此処あ日あ永あがくて
          一日のうちの何時だがもわがらないで・・・・・・
  ただひときれのおまへからの通信が
  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)
とし子 わたくしは高く呼んでみやうか
 《手凍えだ》
 《手凍えだ?
  俊夫ゆぐ凍えるな
  こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい》
俊夫といふのはどつちだらう 川村だらうか
あの青ざめた喜劇の天才「植物医師」の一役者
わたくしははね起きなければならない
 《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》
 《川村》
やつぱりさうだ
月光は柏のむれをうきたたせ
かしははいちめんさらさらと鳴る

 そして、この詩について、教師の石黒氏は生徒たちに問いかけ、次のような対話か行われます。

教師  この詩の中にトシの(Ora Orade Shitori egumo)の言葉の前に、賢治とトシが交わしたと思われる会話がある。それを抜き出しなさい。

生徒  16行目の《ああおらはあど死んでもい》と17行目の《おらも死んでもい》

教師 そうですね。《ああおらはあど死んでもい》はトシがいった言葉でしょう。《おらも死んでもい》はその言葉を聞いた賢治が言ったのです。そして、その賢治の言葉にトシが答えたらしい言葉がある。何行目ですか?

生徒  32行目の《ほお おら・・・・・・》

教師  そうです。32行目の《ほお おら・・・・・・》の・・・・・・は何かが省略されている。何が省略されているのでしょうか?

生徒  (Ora Orade Shitori egumo)「わたしはわたしひとりでいくもん」とトシは言った!

教師  そうです。32行目のトシの言葉《ほお おら・・・・・・》の・・・・・・で何を言ったのか隠されていますが、実際に言ったのが(Ora Orade Shitori egumo)でしょう。つまり、トシは「私は一人で死ぬもん」と言ったのです。

 石黒氏は、「風林」に出てくる《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という会話は、トシと賢治の間で実際に交わされた言葉を、賢治がここで思い出しているのだと、解釈しておられるわけです。

 この「風林」という作品は、トシの死から約6か月後の1923年6月3日に、賢治が農学校の生徒たちを引率して岩手山に登った際のスケッチであると推定されています。時刻は夕方のたそがれで、生徒たちは草原に一列横になって休憩しています。賢治も、「草にからだを投げ」て、休みながら景色を眺めています。
 するとそこに問題の、《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という言葉が現れるのです。ここで賢治は、妹トシとの会話を回想しているのでしょうか。

 しかし、この言葉の次の行には、「それはしよんぼりたつてゐる宮沢か/さうでなければ小田島国友」とあり、そのつながりを見ると、この二重括弧《 》で囲まれた言葉は、この時賢治が実際に耳にしたものであり、それを言ったのが「宮沢」か「小田島国友」かどちらだろうか?と、賢治が推測していると考えるのが自然ではないでしょうか。数行後に出てくる、「たれがそんなことを云つたかは…」という言葉も、この《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という会話の「話者」のことだと思われます。
 ちなみに、『新校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇のp.116-117に掲載されている「稗貫郡立農蚕講習所・稗貫農学校・花巻農学校在職時指導生徒卒業生名簿」を参照すると、ここに「宮沢」とあるのは、大正14年3月卒業生の「宮沢(臼崎)吉太郎」のことかと推測され、「小田島国友」は、大正13年3月卒業生です。(大正14年卒業生は、この詩が書かれた時点では第1学年、大正13年卒業生は第2学年にあたります。)
 あと、この作品に出てくる生徒名を上記名簿で探すと、「佐藤伝四郎」は大正13年卒業生におり、《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》《川村》と出てくるのは、字が一つ違っていますが、大正13年卒業生の「長坂(川村)俊雄」と推測されます。「どっちの俊夫」とあるのは、同じ学年に「高橋俊雄」もいるためでしょう。「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」という「堀田」は、やはり大正13年卒業生の「堀田昌四郎」と思われます。
 このように、作品中の名前は、すべて現実の生徒と対応しているのです。

 また、作品32行目に出てくる《ほお おら・・・・・・》も、その次の行に「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」とあるところから、堀田伝四郎が実際に言った言葉だと考えられます。石黒氏は、やはりこれはトシの言葉だと解釈し、この「・・・・・・」の部分は賢治が省略したのであって、実際にはここに(Ora Orade Shitori egumo)が続いたのだと考えておられますが、この解釈では次の行の「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」が、意味不明になります。

 石黒氏が、賢治とトシの会話であると解釈しておられる上記の言葉以外にも、この作品には二重括弧《 》で囲まれた会話文が、いくつも出てきます。それは、25行目の《伝さん しやつつ何枚、三枚着たの》、50-53行目の《手凍えだ》《手凍えだ?/俊夫ゆぐ凍えるな/こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい》、57-58行目の《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》《川村》、の三か所です。これらはいずれも、生徒たちが実際にしゃべった言葉と思われます。
 そのような中で、もしも《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》《ほお おら……》に限っては、トシと賢治の会話を賢治が回想しているのならば、他の作品における賢治の表記方法から推測すると、ここは二重括弧ではない別の記号で表すはずだと、私は思います。
 すなわち、すべてが同じ二重括弧で表記されているところからも、《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》《ほお おら・・・・・・》は、それ以外と同じく生徒の言葉だったと考えるのが妥当だろうと、私としては思うのです。

 ただしかし、この《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》《ほお おら・・・・・・》という言葉が、トシの死に臨む賢治の気持ちの一側面を「代弁」するものだったのだろうということは、私も強く感じるところです。
 《ああおらはあど死んでもい》に関しては、「噴火湾(ノクターン)」の中で、実際にトシが述べた言葉として、回想されています。

七月末のそのころに
思ひ余つたやうにとし子が言つた
  《おらあど死んでもいゝはんて
   あの林の中さ行ぐだい
   うごいで熱は高ぐなつても
   あの林の中でだらほんとに死んでもいいはんて》

 トシがこれを言った7月末のある日、これに対して賢治がどう言ったかは記されていません。《おらも死んでもい》と言ったのかもしれませんが、そうでなかったのかもしれません。
 ただし、賢治がそれを口にしていようといまいと、その心の中には、今後どこまでもトシに付き添って行ってやりたい、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という気持ちが強くあっただろうということは、私も以前からいくつかの記事で書いてきたとおりです。
 そして、そのような賢治の気持ちを「否定」したトシの言葉が、「永訣の朝」における(Ora Orade Shitori egumo)だったのです。だからこそ、このトシの言葉は、ここだけローマ字で表記されなければならないほど、賢治にショックを与えたのです。
 石黒氏は、この本の「あとがき」に、次のように書いておられます。

 「先生の解釈は汚らわしい。」
 もう何年も前の話だが、私は同僚の国語教師に『永訣の朝』の(Ora Orade Shitori egumo)の授業を見せた。妹トシが(Ora Orade Shitori egumo)と言ったのは、兄の賢治が自分も死ぬと言ったからだと授業をした。それに対して、同僚はこうコメントしたのである。
 その時ばかりではない。私は国語教師の仲間たちと国語の教材の勉強会を毎月行っていた。私が『永訣の朝』の(Ora Orade Shitori egumo)の解釈を披露したところ、仲間たちが激しく怒り出した。そんな解釈があるはずはない、お前の解釈はオカシイと。だが、彼らの反発は私の解釈のどこがどう間違っているのかを指摘するものではなく、ただ、ただ、感情的にそんなことがあり得るはずがない、賢治がそんなことを妹のトシに言うはずがないという、非論理的な反発だった。

 石黒氏の解釈は、一般に流布している宮澤賢治という人の、聖人君子的なイメージにはそぐわないので、こういう反発を受けるのでしょう。賢治が実際にトシに向かって、トシが死んだら自分も死ぬと言ったのかどうかについては、私にはわかりませんが、しかし少なくとも心の中では、そのように思いつめていたのだと、私も石黒氏と同じように思います。
 そして、たとえ賢治が口に出して言っていなかったとしても、トシには兄の考えがはっきりとわかっていて、だからこそ彼女は、“Shitori egumo”=「(兄さんと一緒ではなく)一人で行くもん」と言ったのだと、私も思います。
 この点については、私も石黒氏の説に、深く共感する者です。

 さて、「風林」に戻りますが、この岩手山登山において、十代半ばの生徒がふと、《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》などという会話をしたというのは、たしかにちょっと異様なことではあります。
 たとえ若者でも、辛くて苦しくて「死にたい」と言うことはありえますが、この作品における《死んでもい》は、いい意味で、感動して出た言葉でしょう。人間は、何か人生をかけるほどの願いがかなった時、あるいは恍惚として我を忘れた時、ひょっとしたら「ああ俺はもう死んでもいい」とつぶやくことがあるかもしれませんが、まだ人生もこれからという思春期の少年が、「死んでもいい」などと口にする状況は、はたしてどんなものだったのでしょうか。仲間と一緒に岩手山に登り、雄大な景色に心を奪われて、この言葉を発したということでしょうか・・・。

 私にはちょっとどのような状況だったのかはわかりませんが、しかしそれをふと耳にした賢治にとっては、この言葉は心に非常に大きな波紋を引き起こしたことでしょう。これはまさに、前年の7月末にトシが言った言葉に、ぴったりと重なるからです。
 動揺した賢治は、いったい誰がこんなことを言ったのだろうと、一瞬考えようとしますが、しかしすぐに、「たれがそんなことを云つたかは/わたくしはむしろかんがへないでいい」と思い直します。
 その言葉の話者は、生徒の誰かでもあるとともに、賢治にとってはトシでもあるからです。

 《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という会話を耳にした直後、賢治は「向ふの柏木立のうしろの闇が/きらきらつといま顫えた」のを見ますが、それを賢治は、「Egmont Overture にちがひない」と感じます。
 ベートーヴェンの「エグモント序曲」で、「闇がきらきらっと顫える」という感じの箇所としてどこがあるだろうかと考えてみましたが、序奏の冒頭の、どーんと重厚に強奏が響くところは、トシの言葉を思い出した賢治のショックを表すにはいいですが、「きらきらっと」という感じではありません。序奏のもう少し後の木管の掛け合いのところとか、提示部に入って第二主題の後半のやはり木管の奏する部分とかだと、「きらきらっと顫える」感じもします。

 一方、原子朗さんの『定本 宮澤賢治語彙辞典』を見ると、音楽の響きというよりも、「エグモント」というゲーテの戯曲の内容と、この時の賢治の心理の関連性の方が、ここでは重要だったのかと思えてきます。ゲーテの「エグモント」によれば、アルバ公爵という圧制者に対して抵抗したエグモント伯が、公爵に捕えられ、死刑を宣告されます。そして、エグモントの恋人クレールヒェンは、エグモントを救おうとするもかなわず、絶望して自殺してしまいます。その幕切れで、刑場に向かうエグモントは、「最愛の者を救うために、喜んで命を捨てること、我のごとくあれ」と叫ぶというのです。
 死を運命づけられたエグモントよりも、クレールヒェンは先に死んでしまうのですが、しかしここには、トシに対して「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思いつめていた賢治と、相通ずるものがあります。生徒たちの《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という言葉から、賢治が自分とトシを連想した時、このエグモントとクレールヒェンも、一緒に心に現れたのかもしれません。

 ふと私は、ここで賢治はトシの(Ora Orade Shitori egumo)という言葉を思い出して、その語尾の“egumo”から、“Egmont”を連想したのかもしれないということも想像しましたが、さすがにこれはこじつけでしょうね。

 下の、クルト・マズア指揮ライプチヒゲヴァントハウス管弦楽団による演奏は、東ドイツの「平和革命」の20周年を記念したものだそうです。ゲーテとベートーヴェンというこの国を代表する芸術家によって作られた、「圧政からの解放」という主題に基づいた作品は、まさにこの演奏会の趣旨にふさわしいものですね。

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2017年1月 4日 賢治は三浦参玄洞とは会わなかった

 「賢治生誕120周年」の2016年が終わりましたが、今年は「中外日報創刊120周年」にあたるのだそうです。

 『中外日報』は、真渓涙骨が1887年(明治20年)に京都で『教学報知』として創刊した仏教関係の新聞で、1902年(明治35年)に『中外日報』と改題して、現在も「宗教・文化の新聞」として継続されています。「近代日本の宗教ジャーナリズムの礎を築いた」と評されるこの新聞は、宮澤賢治よりも1歳年下だったわけですね。
 さらに、われわれ賢治ファンにとってこの新聞は、賢治の父・政次郎が購読していたことによって、賢治の目にもしばしば触れていたであろうことが推測される上に、1921年(大正10年)4月の父と二人の関西旅行の際には、二人で京都の本社を訪れたことが、父の回想によって記録されています。
 この京都における父子の中外日報社訪問については、以前に「「中外日報社」のあった場所」と「「中外日報社」旧社屋は現存していた!」という記事に書いたことがあり、私にとっても印象深いものがあります。
 そもそも、生前の賢治が確かに見ていた建物が、それなりの改修はされているにせよ当時のままの外形で現在も残っているなどというのは、花巻では「旧菊池邸」や「旧稗貫郡役所」(大迫に移設)、盛岡では「旧盛岡高等農林学校本館」や「岩手銀行」、奥州市の「旧水沢緯度観測所」、東京の「旧帝国図書館」など、全国的にもごく限られているのです。その一つが、なんと岩手から遠く離れた京都にもあったというのですから、それを知った時の喜びは、私にとっては格別でした。
 ちなみに、この「旧中外日報社屋」の状況は、私が上の記事を書いた後にもさらに変化して、現在は建物の前の庭がコインパーキングになってしまって、建物そのものは逆に正面からは見えやすくなっています。しかし、以前の記事をご覧いただいたらわかるように、この前庭もなかなか魅力的なものでしたから、これが消失したのは寂しいことです。
 下の写真が現在の状況で、Googleマップのストリートビューからキャプチャしたものです。

旧中外日報社屋
Googleマップより

 それはさておき、元日付で発行された『中外日報』の新春特別号では、創刊120周年を記念して、「中外日報を彩った文化人」という特集が掲載されていました。ここでは、「新村出と真渓涙骨」、「藤本義一と今東光」、「小笠原登と小笠原秀実」、「司馬遼太郎と青木幸次郎」というコンビとともに、「宮沢賢治と三浦参玄洞」が取り上げられているのです。

 三浦参玄洞は、1884年(明治17年)に奈良県宇陀郡政始村(現・宇陀市)の農家に生まれ、早稲田大学や仏教大学(現・龍谷大学)に学ぶも中途退学し、得度を受けて奈良県南葛城郡掖上村(現・御所市)の誓願寺の住職となりました。三浦は当初から、差別の問題に強い関心を持って運動にも拘わっていましたが、1922年(大正11年)の「全国水平社」設立にあたっては、その中心メンバーの一人だった西光万吉を、強力に支援しました。
 しかし、小作争議で小作人の側に立ち地主の檀家総代と対立したことを契機に、三浦は「出寺」(還俗)して大阪に移り、『中外日報』の記者・主筆として、仏教界や社会問題に対し鋭い筆を揮うようになります。

 この三浦参玄洞が、1935年(昭和10年)1月の『中外日報』に、「第四次元世界への憧憬」と題して、賢治を紹介・顕彰する文章を4日間にわたって連載し、さらに同年3月には「岩手の天才、第二の啄木、宮沢賢治の詩」と題する文章を3日間連載しているのです。
 彼の賢治に対する讃辞は最大級のもので、たとえば次のような文章に表れています。

とにかく此第三巻(引用者注:文圃堂版『宮沢賢治全集』第三巻)に集められた多数の童話を通じて宮澤氏のいかに「人間」を眺め「社会」を考へたかは――それをいま紹介しようとするわたしの胸に不思議なときめきを与へるくらゐ――ずば抜けて高次的なのである。(「第四次元世界への憧憬」1935)

 にも拘わらず、わたしはこの詩や童話から離れる気にはどうしてもなれないのはどういふものかと、そこには確かに他人にはない別な世界からきたにほひが漂ふてゐるからであらう。すなはち第四次元の世界に直接して居られた宮澤さんの特異な人格がわたしを引張りよせて下さるのであらう。ともかくわたしはまだ多くの人々が知らない宮澤さんを、割合にはやく知り得たことを、読み書きして活きる果報の中のいちばん尊いものだと感謝してゐる。(「宮澤さんからうける香ひ」1939)

 宮澤賢治に対して強い執心を抱いてゐるわたしは、彼が三十八年の息を引取るまで何をいつたか、何をこの地上に残しておかうとしたかを知るべくこの数年間彼の作品に親しみつづけて来た。(「善意の探求(手記)」1941)

 この三浦参玄洞が、賢治の父の政次郎氏と文通を行っていたということは、参玄洞自身が書いています。

 これは過日宮澤さんの御父さんに差上げた手紙の中でも申上げたことであるが、今回、草野心平氏の御骨折りで出版された「宮澤賢治研究」を読み行くうち、わたしは佐藤勝治氏の「くわご」に至つて涙とめどもなく落ちて傍人(私は電車以外あまり多く読書の時間を持たぬ)に隠すのに困つたくらゐであつた。(「宮澤さんからうける香ひ」1939)

 となると、最初に触れたように父と賢治の関西旅行の折りに、「叡福寺への道順を尋ねる」という目的のために、わざわざ中外日報社を訪問した背景には、政次郎氏にとって中外日報社には誰か知人がいたのではないか、それはひょっとして三浦参玄洞ではなかったろうかという推測を、どうしてもしたくなってしまうのです。(たんに「寺への道順を尋ねる」だけなら、回り道をして新聞社を訪ねなくても、途中のどこかの駅で聞くなど、他にいくらでも時間を節約する方法はあります。)

 それに、『「雨ニモマケズ」の根本思想』(龍門寺文蔵著, 大蔵出版)という本の冒頭は、次のように始まっています。

賢治と『中外日報』社
 宮沢賢治が京都の宗教新聞『中外日報』社を訪ねたのは大正十年四月上旬のことである。この年は比叡山伝教大師第一千一百年遠忌が、三月十六日から四月四日まで行われた。東塔根本中堂の前で賢治は、
   ねがはくは妙法如来正遍知
      大師のみ旨成らしめたまへ
と詠み、その日は日暮れて京都三条橋畔に投宿。翌日、厳父政治郎(ママ)と賢治の二人は七条大橋東詰下ルの中外日報社を訪ねている。
 賢治の父、政治郎(ママ)は『中外日報』の愛読者であり、主筆の三浦参玄洞(大我)と面会した。二十五歳の賢治は紺カスリの羽織ハカマ姿で初対面の挨拶をした。
 三浦参玄洞は、後に熱心な賢治ファンになり、「関西宮沢賢治友の会」をつくった。昭和十年一月五日から八日まで、同氏が『中外日報』に連載した「第四次元世界への憧憬」は、賢治文学を紹介した名文で、彼は関西における最古の賢治礼賛者として有名である。
 『雨ニモマケズ手帳研究』『雨ニモマケズ手帳新考』の著者、小倉豊文は、『中外』紙上に三浦参玄洞の紹介する賢治に深く感動して、一生を捧げて賢治研究に没頭したのだから、賢治と中外日報社の縁は深い。

 ここには、三浦参玄洞に対して「二十五歳の賢治は紺カスリの羽織ハカマ姿で初対面の挨拶をした」と、見てきたような具体的な様子が書いてありますので、賢治がこの時三浦参玄洞に会っていたという根拠が、何か実際にあるのだろうかと思ってしまいます。

 しかし、今回の『中外日報』120周年記念新春特別企画の「宮沢賢治と三浦参玄洞」を見ますと、三浦参玄洞が『中外日報』入社は1921年(大正10年)6月で、同年4月に賢治父子が訪問した時にはまだ入社していなかったのだということです。それに、上にも引用した「善意の探求(手記)」をあらためて確認すると、次のような一節があります。

しかし考へることは考へてみても生前彼と一回も会うたことのないわたしには、どうも作品だけでは真実彼が考へたところを的確につきとめることの困難にしばしば直面してゐる。

 ということで、三浦参玄洞自身が、「生前彼と一回も会うたことのないわたし」と書いているのです。もちろん、賢治父子の『中外日報』社訪問の時点では、賢治は無名の青年ですから、たとえ参玄洞が会っていても、その時の記憶と、後年の読書から知った「宮澤賢治」がつながらなかったということは、可能性としてはありえます。しかしもしそうだったとしても、後に父政次郎と参玄洞は手紙のやり取りをしていたわけですから、その中でそのつながりは判明したはずです。

 ということで、やはり生前の賢治と三浦参玄洞が顔を会わることはなかったのだと考えておくべきでしょう。
 下の画像は、今回の『中外日報』120周年記念新春特別企画「宮沢賢治と三浦参玄洞」の一部で、やはり「父子と接した可能性は低い」と記してある部分です。私も、以前に『中外日報』社の社屋について触れていた上記の記事のご縁で、今回の企画に際しては、同社の記者さんとお話をする機会があったのでした。

『中外日報』2017年新春特別号より
『中外日報』2017年新春特別号より

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2016年12月30日 まがつたてつぽうだまのやうに

 「永訣の朝」は、次のように始まります。

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)

 ここに出てくる「まがつたてつぽうだまのやうに」とはどういう意味か、という問題は、国語の教科書にこの詩が載っている場合には、しばしば授業で取り上げられるようで、「Yahoo!知恵袋」などネット上の質問サイトでも、定番の質問の一つのようです。
 石黒秀昭氏による感動的な授業、『宮澤賢治「永訣の朝」の授業 トシへの約束』(幻冬舎)では、この部分については次のように教師と生徒の会話が進行します。

教師  家の構造を想像して。〈簡単な図を書く〉

生徒  賢治は急いではいるものの、まっすぐに飛び出すわけに
    はいかない。廊下や部屋の角を曲がって飛び出して行っ
    たはずだ。だから、「まがつた」と表現したんだ。

教師  そうです。部屋や廊下には壁がありますから、直線で外
    には飛び出せない。急ぎながらもぶつからないように曲が
    って飛び出したのでしょう。軌道が曲がっている。そのよう
    に読めます。
     いかに賢治が急いでいたのか。それがこの比喩で表現
    されています。

宮澤賢治 『永訣の朝』の授業 トシへの約束 宮澤賢治 『永訣の朝』の授業 トシへの約束
石黒 秀昭

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 つまり、「まがつたてつぽうだまのやうに」とは、発射された「鉄砲玉」の軌道が、「曲がっている」ということを表しているのだというわけですね。

 しかし、落ち着いて考えてみると、これは結構わかりにくい比喩です。先入観を取り払って、虚心に思いをめぐらせれば、この表現の解釈としては、少なくとも次の三つがありえるでしょう。

(1) 鉄砲玉そのものが曲がっている
 これは、図示すると、下のような状態ですね。

「まがつたてつぽうだまのやうに」(1)

 「まがつたてつぽうだま」とあるのですから、字句どおり最も素直に解釈すると、こうなるのではないでしょうか。
 しかし、このように銃弾が曲がっていたら、それを鉄砲に込めることはできませんし、すると当然発射も無理ですから、この解釈は現実的ではありません。

(2) 発射後の銃弾の軌道が曲がっている
 これも図示すると、下のようになります。

「まがつたてつぽうだまのやうに」(2)

 これも、現実にはなかなかありそうにもない状態です。ただ、銃弾の速度がいくら速いと言っても、重力の影響で軌道は非常に平坦に近い放物線を描きますから、厳密には「曲がって」いるのは事実です。
 しかし、上記の「永訣の朝」の解釈で言われているように、賢治が「廊下や部屋の角を曲がって飛び出して行った」様子の比喩となるような、かくっかくっと折れ曲がるような軌道を銃弾が描くということは、やはり現実にはありえません。
 ご存じのように、銃身の内側には「施条」あるいは「腔綫」と呼ばれる螺旋状の溝が刻まれていて、発射された弾丸は旋回運動をしながら進むため、ジャイロ効果のおかげで、軌道がカーブすることはほぼ皆無なのです。
 しかし、「まがつたてつぽうだまのやうに」の国語授業的な解釈としては、これが「正解」ということになるのだろうと、長らく私は思っていました。

(3) 銃身が曲がっている
 これは、最近になってある動画を見てから考えるようになったのですが、図示すると下のようになります。

 「まがつたてつぽうだまのやうに」(3)

 つまり、「まがつたてつぽう」です(笑)。
 実際にこんな銃があったら、発射した瞬間に銃身が破裂してしまいそうな気がして、これもまた現実的な解釈とは言えないと私は思っていたのですが、最近たまたま下のような動画を目にしました。

 2か所で直角に曲がった鉄パイプの中に打ち込んだ弾丸が、ちゃんと反対の端から出てくるのかという実験をしているところです。2分10秒すぎから実際に発射されますが、弾丸はちゃんと鉄パイプの反対側から出てきて、牛乳の入った容器を貫くんですね。
 これをきっかけに調べてみると、歴史的には「曲射銃」というものがあって、物陰などから敵を撃つために、銃身が最初から90度曲げられた銃などが作られていたのだそうです。たとえば、こちらのツイートをご参照下さい。ガスの制御が難しく、銃身の摩耗が激しいなどの難点があるため、現代ではもう作られなくなったそうですが、第二次大戦中にドイツ軍は実戦でも使用していたということです。

 すなわち、上の三つの解釈のうちで、唯一現実的なのは、意外なことに (3) なのです。

 そう思ってあらためて考えてみると、トシの言葉(あめゆじゆとてちてけんじや)を聞いた賢治が「廊下や部屋の角を曲がって飛び出して行った」際に、賢治という「鉄砲玉」が通った廊下も部屋も、実はまだ鉄砲の「銃身の中」であり、屋外に出た瞬間に、この弾は「発射」されたのだと想定することができます。
 つまり、鉄砲の「銃身が曲がっていた」と考えるのが、最も現実的であり、また意味内容としても妥当に思えてくるのです。

 とは言え、賢治自身もこう考えて「まがつたてつぽうだまのやうに」という比喩を用いたのだ、などと主張するつもりは、毛頭ありません(笑)。

 年の瀬の慌ただしい時期に、恐縮でした。

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2016年12月25日 佐藤泰平さんにお聞きしたこと

 一昨日に行われた、宮沢賢治学会地方セミナーin神戸「宮沢賢治と音楽」は、素晴らしい会場にたくさんの方々にお越しいただいて、印象に残る催しとなりました。
 下の写真はリハーサル時のものですが、プログラムの最後ではこの見事なパイプオルガンで、映画「風の又三郎」のテーマ音楽や、「星めぐりの歌」が演奏されました。何メートルもある巨大なパイプが「どっどど どどうど・・・」と振動する様子は、まさにこれは「風の楽器」であることを実感させてくれました。

甲南女子大学芦原講堂のパイプオルガン

 私にとって今回のイベントは、長年『新校本宮澤賢治全集』の歌曲の部分の校訂や、著書『宮沢賢治の音楽』によってその研究成果を学ばせていただいた、佐藤泰平さんに直接お会いしてお話をうかがうことができたことが、何よりも嬉しいことでした。
 個人的に、『新校本全集』の歌曲の校訂に関して疑問に思っていた点がいくつかありましたので、セミナー終了後の懇親会の際に、佐藤さんに質問をさせていtだきました。
 以下、そのご報告です。

【質問1】
 『新校本全集』における歌曲「〔私は五聯隊の古参の軍曹〕」の歌詞は、『十字屋版全集別巻』巻末に付された「全集第六巻並に別巻解説」(森惣一)に、「当時の生徒」の証言として掲載されていた内容に基づいて、下記のようにされている。

一、私は五聯隊の古参の軍曹
   六月の九日に演習から帰り
   班中を整理して眠りました
   そのおしまひのあたりで夢を見ました。

二、大将の勲章を部下が食ふなんて
   割合に適格なことでもありませんが
   まる二日食事を取らなかったので
   恐らくはこの変てこな夢をみたのです。

 一方その旋律は、当時の流行歌「チッペラリー」を忠実に反映した下記のようなもので、これに従うと歌詞の「一番」と「二番」の旋律は別のものになる。
tippe[1].gif

 しかし、賢治が「飢餓陣営」を上演した際には、「一番」も「二番」も上の楽譜で言えば5段目の"CHORUS"と書かれている以降の部分の旋律で歌っていたと推測するのが、妥当ではないか?

 私が上のように推測した理由の一つは、一般的に歌の「一番」と「二番」とは、同じ旋律で歌うものであり、賢治の他の歌曲でも、「一」「二」と番号が付いているものはそうなっているという、ごく当たり前のことでした。
 そして、そのもう一つの理由は、賢治の教え子の小原忠の証言です。小原は、「この歌(チッペラリー)は大正十二年、賢治が英語で教えて全校で歌われた。初めの方だけうろ覚えで云うと、イッチヤロングウェーチッペラリーイッチャロングウェーツーゴー・・・」と回想しているのですが(佐藤泰平『宮沢賢治の音楽』p.84)、この英語の歌詞に対応するのはやはり上の楽譜の"CHORUS"以降の部分なのです。その部分を、小原が「初めの方」と呼んでいるということは、それ以前の部分、すなわち上の楽譜で第1段から第4段の旋律や歌詞は、賢治は生徒に教えなかったのではないか、と考えられるのです。
 この"CHORUS"以降の旋律、いわゆる「サビ」の部分で、「一番」「二番」の両方を歌うこともできることは、佐藤さんご自身も『新校本全集』の校異篇に、「一般には曲の後半がよく知られているので、後半のふしだけを用いて一・二節を歌うのも可能である。」と述べておられることで、佐藤さんも想定済みのことです。
 私のこの質問に対する 佐藤さんのお答えは、「確かにそのとおりだと思う、でも一番と二番を別の旋律にした方が面白い」というものでした。
 実際、上の楽譜で歌った方が、歌としては面白いのは確かです。しかし、全集の校訂方針としては、「面白さ」よりも「賢治がどう歌っていたか」ということを優先すべきと思いますので、私としては「後半のふしだけを用いて一・二節を歌う」方を取りたいと考えています。
 ちなみに、当サイトの「歌曲の部屋」に載せている「〔私は五聯隊の古参の軍曹〕」の旋律は、佐藤さんによる『新校本全集』の楽譜どおりにしていますが、今回の神戸セミナーにおいて、「後半のふしだけを用いて一・二節を歌う」という演奏をご紹介しました。下記をクリックして、聴き比べてみて下さい。

新校本全集版「〔私は五聯隊の古参の軍曹〕」

神戸版「〔私は五聯隊の古参の軍曹〕」

【質問2】
「飢餓陣営」より 『新校本全集』において「「飢餓陣営」の歌(五)」には、「〔いさをかゞやく バナナ 軍〕」という形で、作者が題名を付けていない場合の扱いとして「作品一行目を〔 〕で括った仮の題」が付けられているが、「飢餓陣営」のテキストにはこの歌詞の前に、「バナナ大将の行進歌」として「題名」と思われる言葉が記入されているので、この「バナナ大将の行進歌」を、歌曲の題名とするべきではないか?

 右の画像は、『新校本宮澤賢治全集』第十二巻本文篇から、「飢餓陣営」の終わりの方の部分です。合唱が「いさをかゞやく バナナ軍…」と歌い出す前に、「バナナ大将の行進歌」という言葉があるのです。
 これに対する佐藤泰平さんのお答えは、「そのとおり、この歌曲の題名は、「バナナ大将の行進歌」とするのがよいだろう」、ということでした。

【質問3】
 『新校本全集』には、全く同じ旋律による「〔つめくさの花の 咲く晩に〕」と、「〔つめくさのはなの 終わる夜は〕」という2曲が別の歌曲として掲載されているが、これらは全体として一つの歌曲と考え、前者が「一番」「二番」、後者が「三番」「四番」ととらえるべきではないか?

 これに対する佐藤さんのお答えは、「それでよいと思うが、『校本全集』までの全集では、「〔つめくさのはなの 終わる夜は〕」の方は見落とされていて収録されていなかったので、あえて別項を立てた」ということでした。
 この2曲を1曲にまとめてしまうと、賢治の歌曲の総数は、『新校本全集』における27曲から1曲減って「26曲」ということになります。何か少し寂しい感じもしますが、内容的には何も減るわけではありません。

【質問4】
 「剣舞の歌」と「大菩薩峠の歌」は、『新校本全集』には「宮沢賢治・作詞作曲」と記されているが、『昭和四二年版全集』の第十二巻の「後記」には、「「大菩薩峠を読みて」と「剣舞の歌」の二つは、この地方に伝わっている古い郷土芸能の旋律に賢治が詞をつけて自己流に口ずさんだものを、各々藤原嘉藤治と宮沢清六が口唱したものである」と記されているので(『新校本全集』第六巻校異篇p.229)、現時点では「原曲未詳」または「作曲者未詳」としておく方が適切ではないか?

 『昭和四二年版全集』の言う「この地方に伝わっている古い郷土芸能の旋律」については、佐藤さんご自身も調査をされた結果、「私が調べた範囲で賢治のふし全体と似ているものはなかった」(『宮沢賢治の音楽』p.34)と記しておられます。したがって、本当に「剣舞の歌」と「大菩薩峠の歌」が郷土芸能の旋律に基づいているのかどうか、確定はできませんし、「宮沢賢治作曲」であるという可能性も、まだ否定できるものではありません。
 しかし、上のように「宮沢賢治作曲ではない」とする説も存在する以上、現時点では「宮沢賢治作曲」とは断定せず、「原曲未詳」または「作曲者未詳」としておく方がよいのではないかと、私としては考えた次第です。
 この質問に対する佐藤さんのお答えは、「それでよいと思います」とのことでした。
 ちなみに『新校本全集』では、「〔飢餓陣営のたそがれの中〕」は(原曲 未詳)とされ、「青い槍の葉」は(作曲者 未詳)とされています。

【質問5】
 ある歌曲が「替え歌」である場合、その楽譜を作成する上では、替え歌の「原曲」にできるだけ忠実であるのと、それとも賢治の周囲の人々の「口唱」をできるだけ忠実に再現するのと、どちらが望ましいか?

 これは、かなり以前に「「【新】校本全集」の歌曲の校訂について」という記事に書いた問題です。
 一般に、賢治が何かの原曲をもとに「替え歌」を作って歌っていたとすると、
   (1)原曲
      ↓
   (2)賢治による作詞と口唱
      ↓
   (3)周囲の人も一緒に口唱
というプロセスになるでしょう。
 賢治はほとんど楽譜を残していませんでしたから、賢治によるその「替え歌」がどんな歌だったのかということを、賢治の死後に究明しようとすると、(1)の原曲の旋律に歌詞を当てはめて再現しようとするか、(3)の「周囲の人」の口唱を採譜するか、どちらかの方法を取ることになります。
 『校本全集』までの従来の全集では、(3)に基づいて関係者の口唱を採譜する方法がとられていましたが、『新校本全集』では佐藤さんによって(1)の原曲を重視する方針に変更され、これによってかなりの曲の楽譜が、それまでとは変わりました。たとえば、「〔つめくさの花の 咲く晩に〕」(『校本全集』までの題名は「ポランの広場」)などは、最も大幅に変わった結果、ちょっと聴くと別の曲かと思うほどになりました。
 この問題について、私としては『校本全集』までの方針の方が妥当ではないかと考え、そのことを「「【新】校本全集」の歌曲の校訂について」にも書いていたのですが、これを佐藤さんに直接お聞きしてみたかったのです。
 結果としては、時間もあまりなかったのと、私の説明も拙かったために、きちんとかみ合った質問と回答という形にはなりませんでした。
 ただ、「ポランの広場」の原曲である"In the good old summer time"は3拍子であるのに、『校本全集』までの「ポランの広場」は2拍子になっていることについて、佐藤さんは「当時の日本人は3拍子にあまり馴染みがなかったので、2拍子になってしまったのだろう」とおっしゃっていました。
 また、では実際に賢治自身や劇を演じた生徒は3拍子か2拍子かどちらで歌っていたんでしょう、という私の質問に対しては、「時によって2拍子だったり3拍子だったりしたのではないか」とおっしゃったのが印象的でした。
 思えば「花巻農学校精神歌」も、沢里武治の記憶に基づくという8分の6拍子の楽譜と、藤原嘉藤治の採譜によるという4分の4拍子の楽譜の2種が残されており、時によって別の歌われ方をしていたと推測されるのです。

 慌ただしい中で、以上のような会話をさせていただいたのですが、不躾にたくさんの質問を浴びせかけてしまった私に対して、終始優しく丁寧にお答え下さった佐藤泰平さんに、あらためて感謝申し上げます。

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2016年12月18日 賢治セミナー「宮沢賢治と音楽」まであと5日

 来たる12月23日(金・祝)に神戸市の甲南女子大学で開かれる、「宮沢賢治学会地方セミナーin神戸『宮沢賢治と音楽』」まで、あと5日になりました。

宮沢賢治学会地方セミナーin神戸「宮沢賢治と音楽」

 会場は、見事なパイプオルガンもあって1,800名も入る大きな講堂で、まだ甲南女子大学のサイトでは参加の受付を行っていますので、ご興味のおありの方は、ぜひお越し下さい。
 当日のプログラムでは、『新校本宮澤賢治全集』の「歌曲」の項目を監修された佐藤泰平さんのご講演と、「西日本一」とも言われるパイプオルガンの響きが、何と言っても聞きものだと思います。

 私も今月に入ってからは、もっぱらこの準備の方をやっていて、こちらのブログの更新がほとんどできずに心苦しい思いをしていましたが、やっと当日のスライドがだいたいできてきたところです。

 下に、そのスライドの中の1枚と、当日用に少し演奏を変えた「ポラーノの広場のうた」を、ご紹介しておきます。スライドの画像をクリックすると、歌が再生されます。
 会場のものにはとても及びませんが、二番はパイプオルガンの伴奏にしてみました。

「ポラーノの広場のうた」

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2016年12月 4日 賢治と現代日本の死生観

 以前に「千の風になって」という記事において、賢治がトシとの死別の苦悩から救われていったのは、1924年7月頃になって、「死んだトシの存在を身近に感じられる」という心境に至ったことによるのではないか、ということを書いてみました。
 この記事では、当時の賢治が到達した心境が、現代日本の死生観にも共通するものがあるという例として、ひと頃流行した「千の風になって」という歌の歌詞や、哲学者の森岡正博氏が東日本大震災後に書いた「私たちと生き続けていくいのち」という文章を引用しました。森岡氏の文章の一部を再び引用させていただくと、「死者」についての氏の考えは、下の部分に最も象徴されています。

 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。

 この中で、死者が「私たちの外側にもリアルに生き続ける」というところが、何より特徴的で印象的です。「死者が生き続ける」という表現が、単なる「比喩」ではないということを明らかにするために、わざわざ「リアルに」という言葉が用いられていますが、同じような事柄を、死者の側から歌っているのが、「千の風になって」だったわけです。

 最近、さまざまな形でこのような死生観――死者がこの世で私たちと一緒にいるという意識――に触れることが多いように感じるのですが、とりわけ現代の葬送儀礼の変化に、それは典型的に表れていると思います。

 日本では、江戸時代に幕府によって「檀家制度」が整えられて以来、葬式はそれぞれの「家」が所属する「檀那寺」が執り行い、遺骨は定まった墓地に埋葬するという方式が、昭和の時代までほぼ一貫していました。しかし最近になって、そのような枠組みにとらわれないさまざまな形の葬儀や遺骨の扱いが、行われるようになっています。

 たとえば、「手元供養」という方法は、遺骨(遺灰)の一部または全部を墓に納骨せずに遺族が手元にとどめ置いて、亡き人を偲ぶよすがにするというもので、納骨容器に入れて自宅の居間や仏間に安置するという方法もあれば、遺骨を入れたペンダントや、遺骨の一部を七宝焼きのように焼成したアクセサリーを身につけるというものもあります。たとえば「おこつ供養舎」という会社の「手元供養品」というページを見ていただくと、さまざまな種類の「遺骨アクセサリー」が掲載されています。
 いずれも、故人を「遠くに葬り去る」ということに抵抗感があったり、「いつも故人と身近にいたい」という気持ちが強い場合に、その思いを具現化する方法として行われているようです。
 こうすれば、折々に「墓参」をする時だけではなく、年中つねに「手元」で故人を感じていられるというわけですね。

 あるいは、最近は遺骨を墓地に埋葬せずに粉砕して散布する「散骨」という方法も、かなり一般的に行われるようになっています。海に撒く「海洋散骨」というのもあれば、ロケットに乗せて宇宙空間に打ち上げるという「宇宙葬」というものまであって、「小さなお葬式」という会社の「海洋散骨」のページでは、全国各地の海域に散骨するプランが提供されていますし、「銀河ステージ」という会社のサイトを見ると、「宇宙飛行プラン」「人工衛星プラン」「月旅行プラン」「宇宙探険プラン」などという各プランと、その料金も書かれています。

 ところで一見すると、遺骨をつねに見える身近な場所に置く「手元供養」と、遺骨を広大な場所に散布してしまってどこに行ったかわからなくする「散骨」とでは、全く正反対の方向を目ざしているように思えますが、実はこの二つが心の奥底ではつながり合っていることが、「千の風になって」の歌詞に表れています。

  千の風になって
              新井満(訳詩)
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

 歌詞の一番は、死んだ人はお墓にはおらず、「大きな空を吹きわたって」いるということを言っていて、これはまさに「散骨」のイメージですが、二番になると、そのように空間全体に行き渡っているからこそ、雪や、鳥や、星になって、「いつも生者のすぐ傍らに」いることができるのだ、ということが歌われています。
 「特定のどこにもいない」からこそ、「どこにでもいる」のです。

 これはちょうど賢治が、「トシの行方」を必死になって探しても何も得られず、結局「薤露青」において、「どこへ行ってしまったかわからない」ということを受け容れるとともに、トシの「声」をあちこちから聞くことができるようになったことと対応しているようで、興味深いところです。

 「手元供養」「散骨」「千の風になって」に表れている現代日本の死生観は、死後はまた六道のいずれかの世界において輪廻転生を繰り返していくという伝統的な仏教のそれとは、大きく異なっています。まあ、現代日本で仏教色が薄れているのは無理もないところかと思いますが、しかし、仏教を篤く信仰していたはずの賢治が、亡きトシに対して抱いていたであろうイメージが、仏教ではなくこの現代日本の死生観に近いというのは、とても不思議なことです。
 それはいったい何故なのだろうと考えたりしていましたが、その理由として最近一つ思うのは、どちらも「彼岸における故人の生」について、あまり考えようとしないところが共通しているのではないか、ということです。

 まず現代日本では、今も葬式の大半は「仏式」で行われており、故人が亡くなってまもない頃には、「今ごろはあの世でお父さんに会って思い出話をしてるかな」などと、「あの世」について話題にすることもあります。
 しかし、本当に「地獄」や「極楽浄土」や「天界」などというものがあって、人間が死んだらそのどこかで新たな生を送るのだと心から信じている人は、今やごく少数になっているのが現状でしょう。多くの現代人が「死後」について抱いているイメージとしては、せいぜい「安らかに眠っている」というくらいで、「彼岸」や「あの世」の存在と、そこで死者が送っている「生」を、具体的に思い描いている人は、はたしてどれくらいいるでしょうか。

 そもそも、仏教にかぎらずキリスト教でもイスラム教でも、その他ほとんどの宗教では、生きているうちに良いことをした人は死後に「天国」のような素晴らしい場所に行ける一方、悪いことをした人は「地獄」のようなひどい場所で苦しい目に遭う、という教えがあります。このような教えが果たしている役割の一つは、「だから悪いことはせず、良いことをしましょう」と、生きている人に倫理を説くということがあるでしょう。そして、良いことをしていると自覚している人にとっては、この教えは「死の恐怖」を軽減してくれる効用もあります。
 それに加えてもう一つ、宗教がこのように死後の世界を想定することの効用としては、「遺された人の悲しみを和らげる」ということもあるように思います。大切な人を亡くしてしまって、遺族や親しかった人たちは悲しくて仕方がないけれども、故人はきっと天国に行って新たに安らかな生を送っているに違いないと信じることができれば、遺された人としては、「それならば自分は辛くてもこの人の死を受け容れよう」と思うことができるわけです。「別世界における死者の幸福」という救いによって、喪失の苦しみを緩和するのです。
 ところが、前述のように現代日本では、たとえ遺族であっても、「故人があの世で幸福に暮らしている」ということを、昔ほどには実感をもって信じることができなくなっているでしょう。このため、昔の人のように「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の悲しみに耐えるということができません。
 そこで現代人はその代わりに、「別世界」ではなく「この世界」に死者がとどまって、自分たちと一緒にいると想定することによって、死別の寂しさを乗り越えようとしているのではないでしょうか。

 翻って、宮澤賢治の場合も、トシの死後しばらくはその喪失の苦しみに打ちひしがれ、サハリンまで旅行をしたこともありましたが、その途上の「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という考えに思い到ます。そしてこれ以後は、トシが天界に往生するように祈ったり、トシの次生における幸福を願ったりすることを、自らに禁じてしまったのです。この思想は、「〔手紙 四〕」のテーマとして引き継がれ、「銀河鉄道の夜」の底にも流れています。
 すなわち、ここで賢治もまた、「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の苦しみを和らげるということができなくなったわけです。そして、このために彼もまた、「別世界」ではなく「この世界」にトシの存在を感じることによって、最終的には救われていったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治としては、何もそのように意図したわけではなかったのでしょうが。

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